ああ、とうとう夢に終止符を打つ時が来たのか。
スパムだらけのメールを閉じると、椅子に凭れて天井を仰いだ。シミのある薄汚れた天井に溜息がこぼれる。
1LDKで月額四万のアパートともこれでさよならか。
古くて狭いけど、駅近くでそれなりに都市部に建っているにしては、破格の安さの小さな私の城。
誰にも邪魔されず、鬱陶しい家族とも切り離されたこの家が嫌いじゃなかった。
二十四歳の時に小説の新人賞を受賞し、親に敷かれたレールを降りた。だけど結局、また引き戻されるのか。
こんなはずじゃなかったのに。
もうすぐ三十二歳の誕生日。仕事もない、お金もない、友達も恋人もいない。何も手元に残っていないという事実にゾッとする。
机の上でスマホが音を立てて震えた。
どうでもいいニュースのお知らせか。それとも、単発バイトの依頼だろうか。
通帳の残高はとうとう五ケタに近づいている。
今は売れない小説の執筆よりもバイトをしなくては。
高額バイトの知らせでありますように、と願いながらスマホを手に取る。
意外なことにラインの通知だった。
発信者は清水まりえ。昔、小説の仕事でお世話になった小さな出版社の編集者だ。
『忙しかったらゴメンね~。依頼したい仕事があって、よかったら会えないかな?』
半年ぶりぐらいのメッセージ、学生のような気安いノリは相変わらずだ。
駆け出し作家の頃に出会った彼女とは同い年ということもあって、編集担当者と作家の枠を越えて、フランクで親密な関係を築いた。私にとってまりえは社会人になってからできた唯一の友人だが、ここ一、二年はバイトと執筆の忙しさにかまけて疎遠だった。
まりえからの連絡に私は飛びついた。仕事の依頼となればなおのことだ。
『今、たまたま手が空いているの、いつでも大丈夫よ』
『よかった~、じゃあ明日の十二時にアタシの会社近くで。場所はまた連絡するね』
久しぶりのバイトと買い物以外での外出に、胸が高鳴った。
まりえが指定してきたのは、ステンドグラスがお洒落な純喫茶『黒猫の家』だ。
ここには何度か来たことがある。看板猫の美しい黒猫。赤いベルベットのソファやシャンデリアがお洒落な店内。コーヒーはもちろんのこと、デザートや料理も本格的な隠れた名店だ。どのメニューもファミレスや定食屋より値段が張る。
財布の中身は心許ないが、たぶん大丈夫。
まりえが誘ってきたのだし、今回は友達としてではなく仕事で会うのだから、代金は向こう持ちのはずだ。
十一時五十分。まりえはまだ来ていない。少し早かったか。
隣の店のガラスに姿を映し、自分の格好を確認する。
ずっと袖を通していなかった黒と白の上品な長袖のワンピース。松葉色のトレンチコート。胸元にはデビュー作の印税で奮発して買ったルビーのネックレス。美容院に行くお金はなかったけど、自慢のストレートロングヘアは入念に手入れしてきた。普段はほとんどしないメイクもばっちりだ。
軽やかな足取りで黒猫の家に入った。
まりえは約束の十二時を十分過ぎてやって来た。
ミルクティ色に染めてばっちりと巻いたセミロングの髪、長いつけ睫毛、ピンクのアイシャドウと唇。華やかさと愛らしさを演出した髪型やメイクは相変わらずだけど、服装は前より洗練されて高級そうだ。
ちり、と胸が焦げつく感覚がした。
「お待たせ~、編集会議が長引いちゃって」
「平気よ、今日は時間に余裕があるから」
「小夜子と会うの、久しぶりだね。あ、サヤ先生って呼ばなきゃダメだよね」
「いいの、まりえは友達だから。今日は作家の四森サヤはお休みよ」
「そうしてくれると助かる~。さっきまで東条先生と作品について打ち合わせしてて、緊張しっぱなしだったんだもん」
「東条先生って、あの怪奇小説の大御所の?」
「そう、小夜子ファンだったよね」
まりえが勤める弱小出版社から、あの東条先生が本を出すなんて。
驚きを隠し、私は「すごいわね」とまりえを褒めた。
彼女はまんざらでもなさそうな笑顔で「アタシじゃなくて会社がすごいんだよ」と笑った。
三年前は仕事を辞めようかとまで悩んでいたまりえの変貌ぶりに驚いた。
受賞作がヒットしたばかりのころ、まっさきに仕事の依頼をくれたのは、まりえの勤める夢見出版だった。
夢見出版は弱小出版社で、月刊のオカルト誌『レム』以外はあまり目立った出版はなかった。
休みが少なく給料や待遇も悪いと、まりえはしょっちゅう嘆いていた。
それなのに、しばらく会っていないあいだに何があったのだろうか。
気になるけど、自慢話を聞かされたくない。
ドリンクとデザート付きのレディースランチを食べながら、無難な話題や昔話に終始した。
食後のコーヒーを飲みながら、まりえの呼び出しに応じてしまったことを後悔しはじめたころ、やっとまりえが本題を口にした。
「脱線しちゃったけど、そろそろ仕事の話をするね」
きた。
胸が期待に高鳴るのを堪えて、冷静に「どうぞ」とまりえを促す。
「忙しい小説家のサヤ先生に頼むのもどうかと思うんだけど、ライターの仕事をやって欲しくて」
「え、ライターの仕事―…」
小説の仕事じゃないのか。
急速に期待が萎んでいく。顔に出さないようにしたつもりだったが、鈍感そうに見えて鋭いまりえは、困ったように眉を八の字に寄せた。
「やっぱりイヤだよね~、小夜子は小説家だもんね」
チェーン店の厨房やスーパー、配達員のバイトを思い出す。バイトだからと正社員にはぞんざいに扱われ、目が回るほど忙しいのに給料は安く、社会保障もない。
そんな仕事よりは、まだスキルを活かして文章を書く方がぜんぜんマシだ。
「嫌じゃない、驚いただけよ。ライターの仕事なんてできるかしら」
「大丈夫だよ~、文章力はばっちりだもん」
「どんな仕事なの?」
「ある書物があるんだけどね。それを読んで、その書物について真偽を検証して一冊のノンフィクション本にまとめて欲しいの」
「どんな書物を読めばいいの?」
「これなんだけど」
まりえがブランド物のバッグから一冊の本を取り出した。
和綴じのボロボロの本だ。ダークレッドの表紙には墨で『伝染鬼』と書いてある。
「なによ、これ。ずいぶんと古い本ね」
「東条先生からの預かり物なの。一点しかないから、注意して扱ってね」
「伝染鬼、小説かしら。作者は誰?」
「わからないの。東条先生の友人のオカルトマニアの持ち物で、この世に一冊しかない呪われた書物なんだって」
「胡散臭いわね」
「でしょ~。なんでも、この本を読むと恐ろしい目に遭うんだって。それが本当か、読んだら何があるのか、東条先生は知りたがってるの。でも自分では読む勇気がないからってウチに持ち込んできたんだよ。これを読んで、その内容と読んで何が起きたかを一冊の本にしてみたらどうかって言うの」
「それで、どうして私なのよ。夢見出版にはお抱えのオカルトライターがいるでしょ。月刊誌のレムを刊行しているわけだし」
「ダメダメ、みんな受けてくんないの。雑誌記事ばっか書いてる連中だから、長い文章は書きたくないんだって。それも東条先生の案件でしょ、プレッシャーが半端ないからお断りだってさ」
「私だってプレッシャーよ」
「そこをなんとか。小夜子は小説家だから文章力が高いし、オカルト分野にも詳しいから、いいノンフィクションが書けるよ。ね、ね」
拝みながら頼んでくるまりえに悪い気はしなかった。
「しょうがないわね。本当に出版させてくれるんでしょうね?」
「モチロンだよ~。原稿料はそんなに高くないけど、印税は八パーセント、あと依頼を受けてくれたら前受金を五万支払うから」
前受金五万。この業界で前受金なんて聞いたことがない。
書いたものですら、没ならばお金にならないというのに。
怪しい、何か裏があるに違いない。
でも、まだ何も書いていないうちから五万ももらえるなんて、今の私にとっては非常にありがたい。
これで来月の家賃に困らずに済む。
どうしよう。引き受けるべきか、断るべきか。
「あ、言い忘れた。前受金は東条先生が個人的に支払ってくれるお小遣いみたいなものだから。先生はね、それぐらいこの『伝染鬼』の内容が気になってるんだって」
「そうなのね。いいわ、その依頼受けてみる」
「ありがと小夜子、助かる~。ここはアタシがおごるね。仕上げまでに三カ月ぐらいでいけそうだとありがたいかな。進捗状況は週一回にメールで知らせてね」
「もう帰るの?」
「仕事、立て込んじゃってて。じゃあね~」
まりえは残ったコーヒーを一気に飲み干し、伝票を手にして帰ってしまった。前受金五万をもらっていないのに。
テーブルに残された赤い本を見て、私は溜息を吐く。
「こんな仕事しかないなんてね」
思わず自嘲気味な笑いが漏れた。
家に帰ると、服を洗濯してネックレスを乾いた柔らかい布で拭いて片付け、赤い本をとりあえず本棚に立てて、シャワーを浴びた。
モコモコとして肌触りのいいルームウェアに着替えると、スマホを弄ったり、テレビを点けたりしながらダラダラとした時間を過ごした。
本棚にチラリと目を遣る。
一冊だけ和綴じの古めかしい背表紙が見えると、何故だか呼吸が浅くなった。
本は好きだ。でも、今は何故だかすぐに読む気が起きない。
仕事の資料だからか、それともあの本に何か怨念みたいなのが染みついているのか。
私は持て余している時間を無意味に浪費し、夕食を食べ、片付けをしてから、ようやく読書をすべく動きだした。
コーヒー片手に、赤い本『伝染鬼』を開く。
この世に一冊しかない、呪われた書物か。
汚したりしたら大変だ、扱いに気をつけないと。
大好きなクッキーを食べながら読むのは、やめたほうがよさそうだ。
私は緊張しながら本を開いた。