もふもふ猫又警察官は愛する彼女を守りたい

 真夏のお寺の境内は照りつける日差しで灼けるように暑い。ミーンミーンと鳴く蝉がうるさいほどに夏を強調し、湿度を帯びた熱気は地上のすべてを蒸している。

 玖世花楓(くぜかえで)が緑の葉を茂らせたイチョウの樹上を見上げると、後ろで一つに束ねられた髪が一緒に揺れた。花の描かれたTシャツには汗がしみ、デニムのウェストも汗でびっしょりと濡れている。

 樹上には白黒の子猫が怯えながらすくみ、下には警察官の猫上陽之真(ねこがみはるのしん)が網を持って立っていた。
 彼は『子猫が木の上に登って降りられなくなっている』という通報を受けて自転車で駆け付けたのだが、助けようとした子猫は怯えてさらに登ってしまっていた。

「猫語で話しかけるから、花楓さんは周囲を見張っててくれない?」
 陽乃真の言葉に、花楓は軽く眉を上げた。

「ハルさん、そんなことできるんだ?」
「俺、猫又だし」
 彼は苦笑する。

「わかった、見張っておくからお願いね」
 ふたりで周囲を見回し、誰もいないのを確認して頷き合う。
 陽乃真は猫に向かって話しかけた。

「にゃにゃにゃ」
 その声は猫そのもの。
 樹上の子猫はぴくっと耳を動かした。
「にゃー、にゃにゃ」
 陽乃真が言って網を掲げると、子猫はおずおずと立ち上がる。

「にゃー」
 子猫が鳴くと、にゃ! と陽乃真が答える。
 子猫はしばらく網を見つめていたが、決心したようにぴょんと網の中に飛び込む。
 ぐっと重みがかかるその網の棒をしっかりとささえ、陽乃真はゆっくりと下に降ろした。

「良かった」
 花楓はほっと息をついた。
 子猫は陽乃真を見ると、にゃあにゃあとなにかを言うように鳴いた。

「そうだよ、俺が陽乃真だよ」
 彼が答えると、さらに子猫がにゃあにゃあと喋る。

「君は珠子さんのお使いだったのか。でもこっちに来たいって話は断ったんだよ」
 言ってから、陽乃真は花楓の視線に気がついて猫語に切り替えて喋る。
 にゃあにゃあと二者で話したあと、子猫はしょんぼりとうなだれて網を出る。
 とぼとぼと歩き、一度振り返る。

「気を付けて帰るんだよ。ここらにはカラスもいるからね」
 陽乃真に言われ、子猫はため息をつくような仕草を見せたあと、またとぼとぼと歩き出した。

「今の、なに?」
 花楓がたずねると、彼は困ったように笑った。
「あやかしの話だから、内緒」
 そう言われると、花楓にはもうそれ以上は聞けない。

 子猫が歩いて行ったほうを見ると、子猫はもう境内からいなくなっていた。
 陽乃真との出会いは平凡で、なのに衝撃的だった。
 彼は去年、花楓が高校三年生のときに駐在所に赴任してきた警察官だ。

 この村は山の麓にへばりつくようにして存在していて、のどかで平和だ。
 反面、スーパーもないような田舎であり、不便でもある。
 小学校はあるが中学から西の隣町にバスで三十分かけて行かなくてはならない。
 夜は真っ暗で、強盗や痴漢よりも獣に遭遇する確率の方が高い。

 花楓はこの村で生まれ育った。
 みながみな知り合いのようなこの村では、外から来た人は珍しい。
 この警官もいっきに村中に知れ渡り、だけど花楓は名前だけを聞いて彼をきちんと見たことはなかった。興味がなかったから、村のほかの子どものようにいちいち交番まで見に行く気にはなれなかった。
 それよりも大学受験のほうが大事であり、北側の山を挟んだ隣の市の大学に行くにもひとり暮らしが必須になるから、そのことで親となんども話し合いを重ねている最中だった。

 高三の夏休みのある日、花楓は母に用事を頼まれ、田んぼを区切るように伸びる道を自転車で走っていた。
田んぼの水面に日差しが反射してきらきらと輝く。
 テレビでは連日熱中症への警戒が呼びかけられ、この日も太陽はじりじりと人も地も灼いて、汗はかいたそばから乾いていく。
 ペダルをこぐたびに風がするりと髪を撫でる。かといってさらなる風を求めて漕げば体は熱を帯びる一方だ。

 ふと、ゆらゆらと逃げ水で揺れるアスファルトに黒いものを見つける。
 黒いものは財布だった。
 迷わず拾い、そのまま駐在所に持って行く。
 駐在さんにきちんと会うのは初めてだな、と思いながら駐在所の前に自転車を止めて引き戸の前に立つ。ガラス越しに、机にうつぶせている警察官が見えた。

 倒れてる!? 熱中症!?
 花楓は慌ててガラス戸を開ける。
 直後、エアコンの涼しい風が流れて来た。
 戸を閉めて机に拾った財布を置いて、違和に気付いた。

 警察官は、妙に毛深かった。いや、毛深いを通り越している。黒髪と思ったものはぶち模様のようで、茶色の毛ものぞいている。顔は白い短毛に覆われていてひげも白。うつぶせた顔を支える手もまたふわふわと白い毛に覆われている。

 むにゃ、と警察官が動いて制帽がずるりと落ちた。
 直後、猫のような耳がピンと立つ。

 花楓は一歩をあとじさった。
 なにこれ、猫のコスプレ? 警察官が?
 混乱しながら様子を窺っていると、耳がぴくぴくっと動いてもぞもぞと体が動いた。

「んにゃ……寝ちゃった」
 ひとりごとを言いながら、猫の警察官が、んー! と大きく伸びをする。

 どこからどう見ても、警察官の服を着た短毛種の三毛猫だった。片耳が黒、もう片耳が茶色にハチワレのようになっている。肉球と鼻は桜色で、つんつんと触りたくなるようなかわいらしさがあった。

 彼は花楓に気が付くと恥ずかしそうに手で頭の後ろをかいた。
「あれ、すみません、つい寝ちゃって。内緒にしてくださいね」
 猫の声は若い男性のもので、花楓は目をぱちくりさせた。
 視線に気付いた猫の警察官は、金色の瞳で自分の手を見てハッとした。

「え、あれ、あ!」
 動揺した彼の口から慌てた声が漏れる。
 彼はしゅるしゅると人間の姿になり、花楓はあごが落ちそうなほどあんぐりと口を開けた。

「あ、あはは……もう遅いか」
 彼は恥ずかしそうに頭を掻く。
「あの……これも内緒にしていただけませんか」
 花楓はなにも言えずにただ彼を見つめる。
 優しそうな顔をした青年だった。噂で二十五歳だと聞いた。照れた顔は赤くなり、なんだかかわいらしい。

「えと……財布を拾ったので」
 花楓はようやくそれだけを言った。
「はい、拾得物の手続きをしますね。どうぞおかけください」
 花楓は机をはさんで置かれている丸椅子に座った。

 彼はなにごともなかったかのように制帽を拾ってかぶり、書類を取り出して花楓の前に差し出す。『習得物件預かり書』と題され、拾った日や場所などを書く欄が細切れに区切られている。
 指示されるとおりに書き、その間、ちらちらと彼を見る。

 まったく普通の人間に見えた。すべすべした肌に黒い髪、茶色の瞳。しゅっとした鼻筋に薄い唇、のどぼとけ。水色の半袖から伸びる腕は節ばっていて男らしく、どきっとして目を逸らした。

「花楓さん、良い名前ですね」
 書かれた名前を見て彼が言った。
「ありがとうございます」
「夏の青い楓もいいですが、秋は紅くなった葉が地面に落ちるでしょう? あの中に寝転ぶのもなかなかいいんですよね」
 彼はそう言ってからはっとしてまた手続きを続ける。
 書類を書きながら財布の中身を一緒に確認する。村の住民の財布だった。すぐに持ち主に連絡が行くだろう。

「……はい、では受付は完了です。ありがとうございました」
 彼はにっこり笑って花楓を見る。

「猫」
 花楓が言うと、彼はびくっとした。
「好きですか?」
「す、好きです」
 彼はうろたえながら答えた。

「猫」
 また花楓が言い、彼はびくっとした。
「——柳ってかわいいですよね」
「ああ、ついじゃれたくなりますね」
 彼は答え、はっとして口をつぐむ。

「猫」
 びく!
「に小判とか」
「もうやめてください」
 彼は顔を両手で覆った。
 花楓はまじまじと彼を見た。
「猫、なんですか?」
 質問に、彼はもじもじしてから花楓をそっと見る。

「……猫又って知ってます?」
「猫が長生きするとなるっていう?」
「そうです。俺は両親が猫又で、生粋の猫又なんですけどね。それなんです」
「はあ……」
 花楓は驚き過ぎて二の句が告げなかった。

 猫又を自称するいい歳した大人。しかも警察官。
 ふざけているようには見えなかった。そもそも、目の前で猫から人間に変化(へんげ)する姿を見ている。

「猫又って警察官になれるんですか?」
 自分でもとんちんかんなことを聞いている気がするのだが、ほかに頭に浮かばなかった。

「ちゃんと試験を受けて合格して、警察学校にも通いましたよ。ずるはしてません」
「へえ、すごいですね」
 戸籍とかどうしたんだろう、と思うが、なんとなくそれを聞く気にはなれなかった。

「どうして警察官に?」
「人間の刑事ドラマを見て警察官に憧れたんです」
「猫でも刑事に憧れることあるんですね」
「猫でもってやめてください。猫のあやかし、猫又です」
 彼はちょっとムッとしたように言う。
「村の人は知ってるんですか?」
「知りません、内緒にしてください。バレたら警察官を続けられなくなります」
「どうせ言っても誰も信じないから大丈夫ですよ」
「そ、それもそうですね」
 彼はようやく安堵した笑顔を見せた。

「人間をとって食ったりしないんですよね」
「もちろんです! 何百年も昔はそういう猫又もいたそうですが、人間はまずいらしいですし、それよりおいしいものはいっぱいあります。特に半液状のおやつ、あれはすばらしい!!」
 彼は目をきらきらさせて言い、それからはっとして空咳をしてごまかす。

「人間は食べません。人間だって昔は犬を食べていたけど、全員じゃないですし、今は食べないでしょう?」
犬食(いぬしょく)……聞いたことはありますけど、食べたいとは思わないですね」
「おいしそうな猫缶があっても人前では我慢してるんですよ、だから大丈夫です!」
 どのへんが大丈夫なのかわからなくなるが、花楓は頷いた。

「猫上陽乃真です。みんなにはハルって呼ばれてます。きちんと警察官として勤務しますから、よろしくお願いします!」
 頭を下げると制帽が落ちて、彼は慌てて拾いあげてかぶりなおす。
「よろしくお願いします」
 花楓はくすっと笑って頭を下げた。



 彼から花楓の家に連絡があったのは翌日だった。
 財布の持ち主に無事に財布を返すことができた、という連絡で、律儀だな、と花楓は思った。