昔々、ある村外れの一軒家にとても美しい娘が父親と二人で暮らしていました。
ある十月の夜、恐ろしい姿をした犬神が、どこからか家に入り込んできました。娘は逃げ出そうとしましたが、あまりの恐ろしさに腰が抜け、立ち上がることもできませんでした。父親は娘を守ろうと犬神の前に立ちはだかりましたが、無残にも犬神に食い殺されてしまいました。
その後、犬神の禍々しい目は、父親の死を前にしても声すら出ない娘の方に向けられました。そして犬神は娘に向かって、それは恐ろしい言葉を口にしました。
「ほう、中々に美しい娘だな。ただ、食ってしまうのはもったにないな」
犬神は欲に駆られた目をして娘に迫ると、その体を汚してしまいました。
犬神に体を汚されている間、娘は恐ろしくて仕方がありませんでした。いっそ早く時が過ぎて、犬神に食い殺されてしまいたいと思いました。
しかし、ことを済ませると、犬神は更に恐ろしい言葉を娘に投げかけてきました。
「気に入ったぞ。お前は、もう俺の妻だ。お前には俺の子を産んでもらおう。逃げようとしたり、助けを呼ぼうとしても無駄だ。この家には既に結界を張った。お前の体にも、既に呪いをかけてあるからな」
そう言い捨てると、犬神は去っていきました。
その後、犬神は夜ごと娘を求めてやってきました。
娘は、その度に抗いましたが、犬神の力に敵う訳もありませんでした。犬神はむしろ、嫌がる娘と無理に契りを結ぶことを楽しんでいるようでした。
犬神に体を汚されている間、娘は泣きながら、恐ろしい時が早く過ぎるのを待つしかありませんでした。
もちろん、娘は何度も逃げ出そうとしました。しかし、犬神の言ったように家には結界が張られていて、外に続くどの戸も岩のように重く、決して開きませんでした。
大声で助けを呼んでも、誰も応えませんでした。前の道を行く人の足音も、犬神が来た夜を境に絶えていました。
娘は、苦しみから逃れようと何度も死のうとしました。しかし、娘の体にかかった犬神の呪いのせいで、包丁で喉を突こうと思っても、舌を噛もうと思っても、娘の体は言うことを聞いてくれませんでした。
それならばと、娘は食を断ってみましたが、お腹が空くと、どれほど我慢しても、最後は犬神が持ってくる怪しげな食べ物に手を出してしまうのでした。
やがて娘は、すっかり気落ちしてしまい、とうとう犬神の求めに抗うことも止めてしまいました。
そうこうしているうちに、娘の体は変わり始めてゆきました。ある朝気がつくと、娘の足首から下は獣のような毛が生えていました。
その夜、娘の足を見た犬神はたいそう嬉しそうでした。
「うむ。お前もだいぶ俺の妻らしくなってきたな。俺の妻に相応しい姿になるのも、もう遠くあるまい」
その言葉を聞いて、娘はそうなる前に誰かに助けてほしい、あるいは殺して欲しいと思いました。そして、その日から娘は天に祈るようになりました。
そんな気持ちとは裏腹に、娘の体は夜が近づくと犬神を待ち望むようになりました。恐ろしいという思いは一向に消えないのに、交わりの最中、娘の体は、この上ない悦びに満たされるようになってしまいました。
娘はそれが嫌でたまりませんでした。娘は、もう誰かに助けてほしいとは思わなくなりました。そして、早く殺して欲しいとだけ、祈るようになりました。
しかし、どれほど祈っても娘の願いは叶いませんでした。
それどころか、娘はとうとう犬神の子を身ごもってしまいました。
そして、犬神の子は、信じられない程の速さで育ってゆきました。それにつれて、娘の体は更に獣に近づき、すでに膝の所まで変わり果てた姿になっていました。
そうして、身ごもってから十日も経たないうちに、娘は子犬を産み落としました。
生まれた子犬を見て、犬神は満足そうでした。
「良いか、この子にはお前の乳を与えて大事に育てるのだ。もし、粗末に扱ったら、死ぬよりもひどい目に合わせるからな」
娘は言われた通り自分の乳を与えて子犬を大切に育てました。しかしそれは、決して犬神に脅されたからではありませんでした。
たとえ父親が恐ろしい獣であったとしても、子犬が娘の子であることには変わりはありませんでした。だから、娘は、どれほど父親である犬神を憎んでいたとしても、自分の子でもある子犬に怒りをぶつける気にはなれませんでした。
子犬が産まれてからしばらくの間、犬神は娘の体を求めてきませんでした。
子犬を育てるには、気を使うこともありましたが、犬神に求められて恐ろしい思いをすることがない暮らしに、娘が僅かながら気を楽に持てるなった頃のことでした。
犬神は、部屋の隅に置かれた籠の中で眠る子犬の成長ぶりを満足げに眺めた後、娘に言いました。
「さて、そろそろ、お前には次の子を産んでもらおうか」
その言葉に娘は凍り付きました。
また、あの恐ろしい夜が繰り返されるのかと思うと、娘は目の前が真っ暗になりました。そして娘は、今までにないほどの強い気持ちで天に祈りました。
『どうか、今すぐ私を殺してください』と。
すると、娘の前に目も眩むほどの真っ白な光が現れました。光が収まると、そこには白い衣に身を包み、腰に太刀を構えた凛々しい若者が立っていました。
「娘よ。済まぬことをした。神無月ゆえ、留守をしておったのだ」
若者は娘に笑顔を見せた後、振り向いて犬神を睨みつけました。
「私の治める地で、このような悪行を行うとはけしからん。成敗してくれよう」
「貴様、何者だ?」
犬神は唸るように言いました。
「お前などに名乗る名前などないわ」
若者は、そう応えるなり、太刀を抜くと、その勢いのまま犬神の首をはねてしまいました。首が床に落ちる間もなく、犬神の体は霧散して消えてしまいました。
娘が驚いて何も言えないでいると、若者は太刀を握り替えて部屋の隅の子犬の方に歩き出しました。
「さて、こいつも、この先、禍の元となるかもしれぬな」
若者が子犬を一刺しにしようとした時、娘はその前に割って入りました。子犬を背にして庇う娘を、若者は不思議そうな目で見ました。
「お前を汚したあんな邪悪な獣の子を、なぜ庇うのだ?」
若者は娘に尋ねました。
「父親が誰であれ、この子は私の子でございます。どうかお助け下さいませ」
「何を言うか。そいつも父親と同じように、いつか禍をなすに違いない」
「いいえ、そうならないように、私が立派に育ててみせます」
「ならぬ、禍の芽は摘んでおかないとな」
「ならば、私もこの子と一緒に天に送ってくださいませ」
娘の真剣な眼差しに若者の心が揺れました。そして、若者は改めて娘の様子に気を配りました。すると、着物からはみ出た女の足が、獣のように変わり果てているのに気がつきました。
「健気な。そんな体にされてもなお、あいつの子供を庇うとは。どうやらお前は、体は汚れても、心は一向に汚れておらぬようだな」
言いながら、若者は太刀を収めました。それを見て娘は大きく息をつきました。
「さて、娘よ。言い遅れたが、私はこの地を治める者だ。近くに神社があるのを知っているだろう」
「もしや、あそこに祀られておいでの龍神様でいらっしゃいますか?」
娘は驚いて尋ねました。そうして、慌てて姿勢を正しました。
「そうだ。お前の願いを聞いてやってきたのだが、遅くなって済まなかったな。改めて詫びを言わせてもらおう」
「いいえ、滅相もございません。お助けいただきありがとうございました」
娘は深々と頭を下げました。娘が顔を上げると、龍神はとても優しい目で娘を見つめていました。
「さて、お前は本当に清い心の持ち主だな。そして、獣でも我が子と思える程の自愛に満ちている。私はお前のような者を探していたのだ。どうだ、私の妻にならないか?」
娘は驚いて首を振りました。
「とんでもございません。私のような汚れた者が、どうして龍神様と夫婦になることなどできましょう」
「体の汚れなど、私が直してやろう。だから、心配することはない」
「いいえ、それに、私にはこの子がおりますし」
娘は背にした子犬の方に目をやりました。
「お前が私の妻になれば、その子は私の子でもある。一緒に連れてくるが良い」
「何という優しいお言葉。本当におすがりしてもよろしいのでしょうか?」
「構わぬ。では、行こうか。その子を連れてまいれ」
龍神はそう言って両腕を大きく広げました。
娘は子犬を抱き上げると、龍神の懐に身を預けました。龍神が娘の肩を抱くと、真っ白な光が全てを包みました。
光が収まっとき、娘の目の前には龍神の館が建っていました。
娘が龍神の館に来てしばらくすると、龍神の力で娘の体は清まり、すっかり元通りになりました。犬神に捕らわれていた頃とは打って変わった穏やかな日々が過ぎ、やがて娘は龍神と祝言を挙げました。
しかし、娘は初夜を迎えることができませんでした。犬神に汚されていた頃のことが頭をよぎると体がこわばり、龍神を受け入れることができなかったのです。
「気にすることはない」
竜神は優しく言ってくれましたが、娘は申し訳ない思いでいっぱいになりました。
次の日も、その次の日も、娘は龍神と契りを交わすことができませんでした。龍神がどれだけ優しくしても、どうにもなりませんでした。
そして、ある夜、娘はとうとう竜神に自分の考えを伝えました。
「竜神様、どうか私と離縁していただけませんでしょうか。汚れ切った私は、やはり、龍神様の妻にはふさわしくなかったのでございます」
「何を言うか。お前はもはや一点も汚れておらぬ。私の妻はお前しかおらぬ。時が経てば、契りを結べる日も来ることだろう。焦ることはない」
竜神は娘の申し出を優しく拒みました。
「いいえ、私の心に染みついた黒い影が消えるとは思えません。いつか、龍神様の子を産むことができたとしても、いつもふさぎ込んだ顔をしていては、龍神様も心穏やかではいられないことでしょう。どうか、離縁してくださいませ」
健気な言葉に龍神は、益々娘への思いを強くしました。そしてまた、自分が身勝手だったのでは思い至りました。
『私は自分のことだけ考えていたのか?このままでは、この娘はいつまでも幸せにはなれない。何か別の道を探さねばなるまい』
そう思った竜神は取り合えずその場を収めることにしました。
「お前の気持ちは分かった。それでも、私はお前を離縁するつもりはない。少し考えたいから、明日まで時をくれぬか?」
「はい。もちろんでございます」
娘はぎごちない笑顔でそう答えました。
次の夜、大事な話があるからと、龍神は布団の上で娘と向き合って座りました。そして竜神は話を切り出しました。
「さて、私とお前が、共に幸せに暮らして行ける道を考えてみた」
「恐れ多いことでございます」
娘は気を張った様子で答えました。
その様を見て、龍神は笑顔で娘に語り掛けました。
「良いか。これからお前に何が起きたとしても。お前は何も心配することはないのだ。私は、いつもお前の傍にいる。そして、お前が私の妻であることは決して変わらないのだ」
「もったいないお言葉でございます」
娘は深く頭を下げました。
「では、今夜はゆっくりと休むが良い。目が覚めた時には、全てが上手くいっているはずだ」
「承知いたしました」
それでも少し不安げな顔をした娘を、竜神は優しく抱き寄せました。そして、娘に口づけをしました。
とろけるような口づけの甘さが少しずつ朧げになると、娘は深い眠りに落ちていきました。
*
色づいた銀杏の木を見上げながら、『あれから七年が経ったのか』と女は思いました。
七年前、龍神を祀る神社の境内で行き倒れていた女が、神社の中で目を覚ました時、女は自分の名前はおろか、生まれた場所も、どこへ行くつもりだったのかも覚えていませんでした。
しかし、女は不思議と心が落ち着いていました。いつも誰かが自分を見守っていてくれるような気がしたからです。
女を見つけ、介抱した若い神主は、『行く当てがないのなら』と女に巫女として神社で働くことを勧め、女もその言葉に甘えました。
神主は、『気晴らしになるだろうから』と女に子犬を与え、育てように勧めました。その子犬はひどく気性が荒く、女は育てるのに苦労しました。
しかし、女が母親のような愛を持って接するうちに、子犬は次第に女になつき、いつの間にか、どこにでもいそうな犬に育っていました。
そうして、女が神社に来てから一年が過ぎた頃、神主は女に妻になって欲しいと言ってきました。女は喜んでその申し出を受けました。そして、その翌年にはかわいい男の子が生まれました。
銀杏の木の下で、四歳になった男の子と、女が育てた犬は、まるで本当の兄弟のように仲良くじゃれ合っていました。
その様子を微笑ましく見つめながら、女は自分のお腹に手をやりました。そこには女にとって三つ目の命が宿っていました。
おしまい
ある十月の夜、恐ろしい姿をした犬神が、どこからか家に入り込んできました。娘は逃げ出そうとしましたが、あまりの恐ろしさに腰が抜け、立ち上がることもできませんでした。父親は娘を守ろうと犬神の前に立ちはだかりましたが、無残にも犬神に食い殺されてしまいました。
その後、犬神の禍々しい目は、父親の死を前にしても声すら出ない娘の方に向けられました。そして犬神は娘に向かって、それは恐ろしい言葉を口にしました。
「ほう、中々に美しい娘だな。ただ、食ってしまうのはもったにないな」
犬神は欲に駆られた目をして娘に迫ると、その体を汚してしまいました。
犬神に体を汚されている間、娘は恐ろしくて仕方がありませんでした。いっそ早く時が過ぎて、犬神に食い殺されてしまいたいと思いました。
しかし、ことを済ませると、犬神は更に恐ろしい言葉を娘に投げかけてきました。
「気に入ったぞ。お前は、もう俺の妻だ。お前には俺の子を産んでもらおう。逃げようとしたり、助けを呼ぼうとしても無駄だ。この家には既に結界を張った。お前の体にも、既に呪いをかけてあるからな」
そう言い捨てると、犬神は去っていきました。
その後、犬神は夜ごと娘を求めてやってきました。
娘は、その度に抗いましたが、犬神の力に敵う訳もありませんでした。犬神はむしろ、嫌がる娘と無理に契りを結ぶことを楽しんでいるようでした。
犬神に体を汚されている間、娘は泣きながら、恐ろしい時が早く過ぎるのを待つしかありませんでした。
もちろん、娘は何度も逃げ出そうとしました。しかし、犬神の言ったように家には結界が張られていて、外に続くどの戸も岩のように重く、決して開きませんでした。
大声で助けを呼んでも、誰も応えませんでした。前の道を行く人の足音も、犬神が来た夜を境に絶えていました。
娘は、苦しみから逃れようと何度も死のうとしました。しかし、娘の体にかかった犬神の呪いのせいで、包丁で喉を突こうと思っても、舌を噛もうと思っても、娘の体は言うことを聞いてくれませんでした。
それならばと、娘は食を断ってみましたが、お腹が空くと、どれほど我慢しても、最後は犬神が持ってくる怪しげな食べ物に手を出してしまうのでした。
やがて娘は、すっかり気落ちしてしまい、とうとう犬神の求めに抗うことも止めてしまいました。
そうこうしているうちに、娘の体は変わり始めてゆきました。ある朝気がつくと、娘の足首から下は獣のような毛が生えていました。
その夜、娘の足を見た犬神はたいそう嬉しそうでした。
「うむ。お前もだいぶ俺の妻らしくなってきたな。俺の妻に相応しい姿になるのも、もう遠くあるまい」
その言葉を聞いて、娘はそうなる前に誰かに助けてほしい、あるいは殺して欲しいと思いました。そして、その日から娘は天に祈るようになりました。
そんな気持ちとは裏腹に、娘の体は夜が近づくと犬神を待ち望むようになりました。恐ろしいという思いは一向に消えないのに、交わりの最中、娘の体は、この上ない悦びに満たされるようになってしまいました。
娘はそれが嫌でたまりませんでした。娘は、もう誰かに助けてほしいとは思わなくなりました。そして、早く殺して欲しいとだけ、祈るようになりました。
しかし、どれほど祈っても娘の願いは叶いませんでした。
それどころか、娘はとうとう犬神の子を身ごもってしまいました。
そして、犬神の子は、信じられない程の速さで育ってゆきました。それにつれて、娘の体は更に獣に近づき、すでに膝の所まで変わり果てた姿になっていました。
そうして、身ごもってから十日も経たないうちに、娘は子犬を産み落としました。
生まれた子犬を見て、犬神は満足そうでした。
「良いか、この子にはお前の乳を与えて大事に育てるのだ。もし、粗末に扱ったら、死ぬよりもひどい目に合わせるからな」
娘は言われた通り自分の乳を与えて子犬を大切に育てました。しかしそれは、決して犬神に脅されたからではありませんでした。
たとえ父親が恐ろしい獣であったとしても、子犬が娘の子であることには変わりはありませんでした。だから、娘は、どれほど父親である犬神を憎んでいたとしても、自分の子でもある子犬に怒りをぶつける気にはなれませんでした。
子犬が産まれてからしばらくの間、犬神は娘の体を求めてきませんでした。
子犬を育てるには、気を使うこともありましたが、犬神に求められて恐ろしい思いをすることがない暮らしに、娘が僅かながら気を楽に持てるなった頃のことでした。
犬神は、部屋の隅に置かれた籠の中で眠る子犬の成長ぶりを満足げに眺めた後、娘に言いました。
「さて、そろそろ、お前には次の子を産んでもらおうか」
その言葉に娘は凍り付きました。
また、あの恐ろしい夜が繰り返されるのかと思うと、娘は目の前が真っ暗になりました。そして娘は、今までにないほどの強い気持ちで天に祈りました。
『どうか、今すぐ私を殺してください』と。
すると、娘の前に目も眩むほどの真っ白な光が現れました。光が収まると、そこには白い衣に身を包み、腰に太刀を構えた凛々しい若者が立っていました。
「娘よ。済まぬことをした。神無月ゆえ、留守をしておったのだ」
若者は娘に笑顔を見せた後、振り向いて犬神を睨みつけました。
「私の治める地で、このような悪行を行うとはけしからん。成敗してくれよう」
「貴様、何者だ?」
犬神は唸るように言いました。
「お前などに名乗る名前などないわ」
若者は、そう応えるなり、太刀を抜くと、その勢いのまま犬神の首をはねてしまいました。首が床に落ちる間もなく、犬神の体は霧散して消えてしまいました。
娘が驚いて何も言えないでいると、若者は太刀を握り替えて部屋の隅の子犬の方に歩き出しました。
「さて、こいつも、この先、禍の元となるかもしれぬな」
若者が子犬を一刺しにしようとした時、娘はその前に割って入りました。子犬を背にして庇う娘を、若者は不思議そうな目で見ました。
「お前を汚したあんな邪悪な獣の子を、なぜ庇うのだ?」
若者は娘に尋ねました。
「父親が誰であれ、この子は私の子でございます。どうかお助け下さいませ」
「何を言うか。そいつも父親と同じように、いつか禍をなすに違いない」
「いいえ、そうならないように、私が立派に育ててみせます」
「ならぬ、禍の芽は摘んでおかないとな」
「ならば、私もこの子と一緒に天に送ってくださいませ」
娘の真剣な眼差しに若者の心が揺れました。そして、若者は改めて娘の様子に気を配りました。すると、着物からはみ出た女の足が、獣のように変わり果てているのに気がつきました。
「健気な。そんな体にされてもなお、あいつの子供を庇うとは。どうやらお前は、体は汚れても、心は一向に汚れておらぬようだな」
言いながら、若者は太刀を収めました。それを見て娘は大きく息をつきました。
「さて、娘よ。言い遅れたが、私はこの地を治める者だ。近くに神社があるのを知っているだろう」
「もしや、あそこに祀られておいでの龍神様でいらっしゃいますか?」
娘は驚いて尋ねました。そうして、慌てて姿勢を正しました。
「そうだ。お前の願いを聞いてやってきたのだが、遅くなって済まなかったな。改めて詫びを言わせてもらおう」
「いいえ、滅相もございません。お助けいただきありがとうございました」
娘は深々と頭を下げました。娘が顔を上げると、龍神はとても優しい目で娘を見つめていました。
「さて、お前は本当に清い心の持ち主だな。そして、獣でも我が子と思える程の自愛に満ちている。私はお前のような者を探していたのだ。どうだ、私の妻にならないか?」
娘は驚いて首を振りました。
「とんでもございません。私のような汚れた者が、どうして龍神様と夫婦になることなどできましょう」
「体の汚れなど、私が直してやろう。だから、心配することはない」
「いいえ、それに、私にはこの子がおりますし」
娘は背にした子犬の方に目をやりました。
「お前が私の妻になれば、その子は私の子でもある。一緒に連れてくるが良い」
「何という優しいお言葉。本当におすがりしてもよろしいのでしょうか?」
「構わぬ。では、行こうか。その子を連れてまいれ」
龍神はそう言って両腕を大きく広げました。
娘は子犬を抱き上げると、龍神の懐に身を預けました。龍神が娘の肩を抱くと、真っ白な光が全てを包みました。
光が収まっとき、娘の目の前には龍神の館が建っていました。
娘が龍神の館に来てしばらくすると、龍神の力で娘の体は清まり、すっかり元通りになりました。犬神に捕らわれていた頃とは打って変わった穏やかな日々が過ぎ、やがて娘は龍神と祝言を挙げました。
しかし、娘は初夜を迎えることができませんでした。犬神に汚されていた頃のことが頭をよぎると体がこわばり、龍神を受け入れることができなかったのです。
「気にすることはない」
竜神は優しく言ってくれましたが、娘は申し訳ない思いでいっぱいになりました。
次の日も、その次の日も、娘は龍神と契りを交わすことができませんでした。龍神がどれだけ優しくしても、どうにもなりませんでした。
そして、ある夜、娘はとうとう竜神に自分の考えを伝えました。
「竜神様、どうか私と離縁していただけませんでしょうか。汚れ切った私は、やはり、龍神様の妻にはふさわしくなかったのでございます」
「何を言うか。お前はもはや一点も汚れておらぬ。私の妻はお前しかおらぬ。時が経てば、契りを結べる日も来ることだろう。焦ることはない」
竜神は娘の申し出を優しく拒みました。
「いいえ、私の心に染みついた黒い影が消えるとは思えません。いつか、龍神様の子を産むことができたとしても、いつもふさぎ込んだ顔をしていては、龍神様も心穏やかではいられないことでしょう。どうか、離縁してくださいませ」
健気な言葉に龍神は、益々娘への思いを強くしました。そしてまた、自分が身勝手だったのでは思い至りました。
『私は自分のことだけ考えていたのか?このままでは、この娘はいつまでも幸せにはなれない。何か別の道を探さねばなるまい』
そう思った竜神は取り合えずその場を収めることにしました。
「お前の気持ちは分かった。それでも、私はお前を離縁するつもりはない。少し考えたいから、明日まで時をくれぬか?」
「はい。もちろんでございます」
娘はぎごちない笑顔でそう答えました。
次の夜、大事な話があるからと、龍神は布団の上で娘と向き合って座りました。そして竜神は話を切り出しました。
「さて、私とお前が、共に幸せに暮らして行ける道を考えてみた」
「恐れ多いことでございます」
娘は気を張った様子で答えました。
その様を見て、龍神は笑顔で娘に語り掛けました。
「良いか。これからお前に何が起きたとしても。お前は何も心配することはないのだ。私は、いつもお前の傍にいる。そして、お前が私の妻であることは決して変わらないのだ」
「もったいないお言葉でございます」
娘は深く頭を下げました。
「では、今夜はゆっくりと休むが良い。目が覚めた時には、全てが上手くいっているはずだ」
「承知いたしました」
それでも少し不安げな顔をした娘を、竜神は優しく抱き寄せました。そして、娘に口づけをしました。
とろけるような口づけの甘さが少しずつ朧げになると、娘は深い眠りに落ちていきました。
*
色づいた銀杏の木を見上げながら、『あれから七年が経ったのか』と女は思いました。
七年前、龍神を祀る神社の境内で行き倒れていた女が、神社の中で目を覚ました時、女は自分の名前はおろか、生まれた場所も、どこへ行くつもりだったのかも覚えていませんでした。
しかし、女は不思議と心が落ち着いていました。いつも誰かが自分を見守っていてくれるような気がしたからです。
女を見つけ、介抱した若い神主は、『行く当てがないのなら』と女に巫女として神社で働くことを勧め、女もその言葉に甘えました。
神主は、『気晴らしになるだろうから』と女に子犬を与え、育てように勧めました。その子犬はひどく気性が荒く、女は育てるのに苦労しました。
しかし、女が母親のような愛を持って接するうちに、子犬は次第に女になつき、いつの間にか、どこにでもいそうな犬に育っていました。
そうして、女が神社に来てから一年が過ぎた頃、神主は女に妻になって欲しいと言ってきました。女は喜んでその申し出を受けました。そして、その翌年にはかわいい男の子が生まれました。
銀杏の木の下で、四歳になった男の子と、女が育てた犬は、まるで本当の兄弟のように仲良くじゃれ合っていました。
その様子を微笑ましく見つめながら、女は自分のお腹に手をやりました。そこには女にとって三つ目の命が宿っていました。
おしまい