「レイラ・スピネル。お前との婚約を破棄する」

 ウィリアムはこの上なく晴れ晴れとした表情で言った。瞳にだけレイラへの蔑みと憐憫を残して、平民からもうつくしいと噂されるそのかんばせを明るく歪める。

「俺は真実の愛を見つけたのだ。お前はもう要らぬ」

 この国で自由恋愛による結婚が流行り始めたのは数年前だ。伯爵家の男が婚約者である有力貴族の令嬢の悪行に愛想を尽かし、婚約を破棄。恋仲にあった下級貴族の娘と正式に結婚した。令嬢の悪行は下級貴族の娘がでっち上げた嘘だということが後に発覚するのだが、結婚は個人の自由を尊重するべきである、いくら家のためと言えどそのために個人が蔑ろにされることはない、という風潮は残った。それ以来貴族の間で許嫁との婚約を解消したり、恋人との縁を選ぶために婚約者を切り捨てたりといった、無秩序な婚約破棄が流行している。

 レイラもウィリアムが他に恋人を作っていたことは知っていた。どうやらそれが彼が見初めた平民の女らしいというということは分かっていたが、さりとて気に留めてもいなかった。
 スピネル家は領地が豊かだ。まず土地が恵まれており、農作物を研究する者たちのおかげもあり穀物や野菜、果物といった作物は常に安定して作られている。領地の端に位置する森もまた多くのいきものが住み、腕利きの狩人が踏み入っては鹿や猪を狩り、その肉を領民で分け合う他、皮や毛皮は加工して服飾品や日用品に仕立てている。特に毛皮のコートは毛皮独特の匂いを最大限落とせるように職人が工夫を凝らしており、貴族からの人気が高い。街が潤えば人も潤う。スピネル家の領地は飢えに苦しむ者がこの国で最も少なく、街は常に賑わっている。つまりスピネル家の人間と縁を作るということは非常に旨味があることなのだ。

「ローザミスティカの第三王子ともあろう方が、まあ」

 まさか平民を選ぶだなんて、という言葉を飲み込む。いくら愛を選ぶのが流行していると言えど、王子ならば自分の立場を弁えているでしょうと、そう思ったわたくしが間違っていたのでしょうか。

「人と結ばれるのに愛は必要でしょうか」
「それが分からぬからお前は要らぬと言っている」

 尋ねればそっけなく返される。憐憫と軽蔑が籠った目。これがウィリアムがいつもレイラに向けるものだ。
 悲しいとか、苦しいとか、そういったことを思うべきなのだろうけれど、不思議とレイラの心には何も浮かんでこなかった。幼い頃からウィリアムがこんな目をし続けていたから、慣れてしまったのかもしれなかったし、心が疲れているのかもしれなかった。

「これは家同士の結婚です。わたくしの一存でお答えは出来かねます」
「ならば家に帰って話してくるんだな」

 ウィリアムが話は終わりだと言うように席を立つ。レイラはその姿をほんの少し目で追って、ひとつ息を吐いた。



「婚約破棄、だって、嘘でしょう、どうして」

 スピネル家の屋敷に着くと、両親はまだ勤めから帰っておらず義弟だけが屋敷にいた。何事かと聞き耳を立てる使用人からレイラを隠すように彼は自分の部屋にレイラを連れ込んで、そっと扉を閉める。

「お義姉様は王子の伴侶に相応しい人間であろうといつも努力して」
「落ち着いて、ルイ」
「落ち着けるわけないじゃないですか」

 彼の肩に手を置いて、ベッドに座らせる。レイラも疲れてその横に座ると、存外自分の身体が重たいことに気が付いた。
 ルイは元々は孤児だ。行くあてもないと言うからスピネル家で住み込みの使用人の扱いにして食事を摂らせてあげていたところ、父が気に入ってしまったのだ。レイラには学問の話はよく分からなかったが、「優秀」らしい。レイラによく懐いていたこともあって、今ではレイラの義弟となっている。

「わたくしね、馬車に乗りながら考えたの」

 どうやら自分には「愛」が分からないらしい。家族に対する愛情は分かるが、恋となると分からなくなる。ウィリアムに対してもそうだった。胸がときめく気持ちも会いたいという気持ちも分からず、淡々と接してしまうから、愛想を尽かされたのかもしれなかった。

「自由恋愛が流行っている以上、恋や愛を知る努力をするべきだったのだわ。それに、王子に愛してもらえるように努力すべきだった」

 呟けば、ルイは目を伏せた。

「それでも、王子ならお義姉様を選ぶべきです。お義姉様ほど王家の妃に相応しい人はいません」
「あなたがそう言ってくれれば十分よ」
「だったらもう、そんな相手お義姉様から捨ててやればいいのですよ。もっと良い相手と結ばれれば王子も悔しがります」
「あのね、ルイ。それは出来ないの」

 ルイの淡い青色の目が驚いたように開いて、今度はレイラが目を伏せる番になった。

 これからどうすればいいのだろう。そう考えると、婚約破棄を言い渡された時に何も思わなかったのに、突然足元が暗くなるように思えてしまう。

「わたくしね、もう純潔を奪われているの」

 ぽかんとした表情で、ルイがこちらを見る。その様子にどうしたらいいのかが分からなくなって、レイラは曖昧に笑った。
 何ヵ月か前にいつものようにウィリアムに呼び出されて王宮に行った時だった。「愛がなければ婚約を維持し続ける理由はない」と彼に言われたのだ。困り果ててどうしたらいいのか尋ねたところ、衣服に手を掛けられて、成すすべもなく抱かれてしまった。その後にレイラの衣服を直したメイドは泣きだしそうな顔をしていて、でもその後から見なくなった。
 婚前交渉はこの国では大問題である。貞操観念に厳しいことを尊ばれる貴族にとって、それは隠さねばならない事実であって、だからレイラも隠していた。たった一人で泣いた夜に、どうしたのかと尋ねてくれたルイだけが、ちいさな救いだった。

「もしかして、あの日」
「そう。わたくし、どうしたらいいのか分からないの。こういう時って修道院に入ったらいいのかしら。修道院って清らかな人でないとだめだったかしら」

 突然、ルイがレイラの肩を掴んだ。あまりにも強い力に戸惑っていると、「ぼくは」と小さな声が零れる。

「ぼく、ほんとうはおねえさまを守る騎士になりたかった」
「もう十分守ってくれているわ」
「学問の選択を与えてくれたお義父様には感謝しています。でも僕は、お義姉様の苦しい時に駆けつける騎士になりたかったのです」
「でもあの時、あなたを呼べる状況ではなかった。気に病むことはないわ」

 ぼく、おねえさまがすきなのです。まもってあげたかったのです。彼の呟いたそれはレイラの知る愛と少し違う愛で、レイラの胸を打つ。

「お義父様は僕を跡継ぎにするつもりです。僕がもっと立派な大人になったら、お義姉様を伴侶に迎えても良いでしょうか」
「それって」
「お慕いしている、ということです」

 いきなりそう言われても気持ち悪いですよね、すみません。はっとした彼が青くなって逃げ出そうとして、レイラは慌ててその手を掴んだ。貴族の娘としての価値を失ったのに関わらず、温かい気持ちを注いでくれることが、嬉しかった。

「わたくし、まだ恋とかわからないけれど。あなたのことは嫌ではないわ」
「じゃあ」
「素敵な大人になってみせてね」

 ふっと微笑んでみせる。するとレイラの手を彼がそっと握り返して、柔らかな唇が触れた。
 温かくて、泣きだしそうになった。