第二仕合の日がやって来た。
(清一郎……)
あの日から、彼のことがもやもやと頭に纏いついている。
審判が仕合開始の合図の旗を上げたことにも、光乃は気づいていなかった。
「ヤアァッ!」
はっと目を上げると、対戦相手が掛け声とともに打ちかかって来ている。
(集中!)
光乃は一歩足を引き、その一撃をいなす。
「ヤアッ! ヤアッ!」
今日の対戦相手も、構えはまだまだ初心者だった。しかし元々身体能力が高いのか、動きが素早く足運びも悪くない。竹刀を振り下ろしてから次の動きに移るまでの間隔が短い。
(ぼうっとしてる場合じゃない!)
次々と攻撃を繰り出してくる相手に、光乃は気を引き締めた。
(まずはこの仕合、取る!)
善戦した相手だったが、本気を出した光乃を前になすすべもなかった。
「やぁ、光乃くん。今日も美しかったよ」
仕合を終えた光乃に真っ先に駆け付けて来たのは、朔哉だった。
「え? わ、はい」
「君の動きは実に美しい。滑空する燕のように無駄がないのがいい」
高貴なるお方からの真っ直ぐな誉め言葉に光乃は戸惑い、口の中でもしょもしょと礼を返す。
「あっ」
そしてあることを思い出し、慌てて頭を下げた。
「どうしたんだい?」
「あの時は失礼しました」
「あの時?」
「大会の説明の日の、短冊を渡す時……」
朔哉がおかしそうに笑う。
「あぁ、私の妻の座を辞退したいと言ったことだね」
「辞退したいと言うか、その……」
「光乃くんにとって私は、魅力的な男ではないかな?」
「違います! ただ私は侯爵夫人などと、大それた立場に相応しい人間じゃないので」
光乃の返事に、朔哉はふんわりと目を細めた。
「君はずいぶんと謙虚なのだね。こんなに愛らしいのに」
「あ、愛らしい?」
朔哉の唇が、そっと光乃の耳元へ寄せられた。
「そんなところも、素敵だよ」
(ひぇっ!)
ゾクゾクと体の奥から湧き上がる甘い刺激に戸惑い、光乃は囁かれた耳を抑えて飛び退る。
だが、その瞬間にぐらりと足元が揺れた。
「地震だ!」
会場に悲鳴が上がる。足元がおろそかになっていた光乃の体が傾いだ。
「危ない!」
朔哉が光乃の腕を掴み、ぐいと引き寄せた。光乃は朔哉の胸の中に飛び込む形となる。
(あ、あわ……)
目を白黒させる光乃に、朔哉は再び甘い声で囁く。
「大丈夫かい?」
「は、はい……」
二人の様子に気付いた場内の参加者からどよめきが漏れる。彼から身を離すべきか、それは失礼にあたるのかが判断できず身を固くしていた光乃の元へ、正宗がやって来た。
「おい! うちの光乃に手を出してるふてぇ野郎は……、朔哉殿ぉ!?」
正宗の登場に、朔哉は光乃からそっと手を離す。
「光乃くん、君が勝ち上がるのを待っているよ」
「は、はぁ……」
朔哉は光乃の三つ編みをするりと撫でると、にこやかに去っていく。
だがその際に彼が「……間に合ってくれ」と呟いたことに、気付いた者はいなかった。
「なんだ、あいつ」
朔哉が去った途端、正宗は彼への敬称をはずし、面白くなさそうにぼやいた。
「大丈夫か、光乃」
言いながら雅宗は、朔哉が触れていた部分を埃でも払うように軽くはたく。
「だ、大丈夫。朔哉様は、地震で転びそうになった私を支えてくれただけ」
「……ならいいけどよぉ」
ちっともよくない風情でむくれる正宗に気付けないほど、光乃の頭の中は先ほどの抱擁で沸騰していた。
(なんだったの? 一体なんだったの?)
素敵だの愛らしいだの耳慣れない言葉を甘い声で立て続けにくらい、さすがの光乃も動揺を抑えきれない。
(勘違いするな、光乃!)
光乃は自身の頬を、パンと叩く。
(相手は侯爵様だ。あの言葉もきっと、華族様の間では普通に交わす社交辞令の一つだよ)
「おい、光乃。周り見ろ」
「え?」
正宗に言われて光乃は目を上げた。
(うぎゃ!)
四方八方から、嫉妬に満ちた鋭い視線が飛んできていることに今更気付く。間違いなく、先ほどの朔哉の抱擁が原因だろう。中には一言言ってやらんと、こちらへ向かって来ようとしている者もいる。
「急いでここから出んぞ」
「わかった」
会場から外へ出ようとした時だった。見覚えのある後姿を、その先に認めた。
「清一郎!」
光乃の声に、件の人物はぎくりと足を止める。そろそろと肩越しに振り返ったその顔は、心許ない表情をしていた。しかし光乃と視線が合うと、普段通りの不遜な態度に戻る。
「なんだ平民。気安くこの僕に声を掛けるな」
「清一郎、どうしてお皿を割った犯人があんたになってるのよ!」
前置きもなしに真っ直ぐ問いただした光乃に、清一郎は顔を強張らせる。
「何のことだ」
「誤魔化さないで。家宝のお皿を割ったの、清一郎のせいになってるって聞いたよ。そのせいで、家から追い出されそうになってるとも。どうして私がやったって言わなかったの?」
光乃の言葉に、正宗がぎょっとなる。
「光乃! お前、八条家の家宝の皿割ったって……!」
「清一郎!」
今は正宗に構っている余裕はない。光乃は清一郎に駆け寄り、その服を掴んだ。
「触るな、日吉光乃!」
「どうして、私を庇ったりしたのよ!」
清一郎は光乃を睨みつけていたが、やがてその視線をふいと外す。
「……あの女は、本気でいかれてる。もしも、皿を割ったのが貴様と知れば、両手を斬り落とされるだろうよ」
「さ、さすがにそこまでする人はいないと思うけど」
「いや、する。あの女なら」
清一郎は唇を噛みしめ、自分の服を掴む光乃の手を払いのける。
「その上で、お前の知り合いである僕に責任を負わせるはずだ。結果が同じなら、貴様のことをわざわざ伝える必要はない」
「だけど、私のせいで清一郎が家を追い出されるなんておかしいよ! 私にも責任が……」
「そうだな」
清一郎は光乃に向き直った。
「あぁ、そうだ。貴様のせいで僕は全てを失う。どうしてくれる」
「……清一郎?」
(清一郎……)
あの日から、彼のことがもやもやと頭に纏いついている。
審判が仕合開始の合図の旗を上げたことにも、光乃は気づいていなかった。
「ヤアァッ!」
はっと目を上げると、対戦相手が掛け声とともに打ちかかって来ている。
(集中!)
光乃は一歩足を引き、その一撃をいなす。
「ヤアッ! ヤアッ!」
今日の対戦相手も、構えはまだまだ初心者だった。しかし元々身体能力が高いのか、動きが素早く足運びも悪くない。竹刀を振り下ろしてから次の動きに移るまでの間隔が短い。
(ぼうっとしてる場合じゃない!)
次々と攻撃を繰り出してくる相手に、光乃は気を引き締めた。
(まずはこの仕合、取る!)
善戦した相手だったが、本気を出した光乃を前になすすべもなかった。
「やぁ、光乃くん。今日も美しかったよ」
仕合を終えた光乃に真っ先に駆け付けて来たのは、朔哉だった。
「え? わ、はい」
「君の動きは実に美しい。滑空する燕のように無駄がないのがいい」
高貴なるお方からの真っ直ぐな誉め言葉に光乃は戸惑い、口の中でもしょもしょと礼を返す。
「あっ」
そしてあることを思い出し、慌てて頭を下げた。
「どうしたんだい?」
「あの時は失礼しました」
「あの時?」
「大会の説明の日の、短冊を渡す時……」
朔哉がおかしそうに笑う。
「あぁ、私の妻の座を辞退したいと言ったことだね」
「辞退したいと言うか、その……」
「光乃くんにとって私は、魅力的な男ではないかな?」
「違います! ただ私は侯爵夫人などと、大それた立場に相応しい人間じゃないので」
光乃の返事に、朔哉はふんわりと目を細めた。
「君はずいぶんと謙虚なのだね。こんなに愛らしいのに」
「あ、愛らしい?」
朔哉の唇が、そっと光乃の耳元へ寄せられた。
「そんなところも、素敵だよ」
(ひぇっ!)
ゾクゾクと体の奥から湧き上がる甘い刺激に戸惑い、光乃は囁かれた耳を抑えて飛び退る。
だが、その瞬間にぐらりと足元が揺れた。
「地震だ!」
会場に悲鳴が上がる。足元がおろそかになっていた光乃の体が傾いだ。
「危ない!」
朔哉が光乃の腕を掴み、ぐいと引き寄せた。光乃は朔哉の胸の中に飛び込む形となる。
(あ、あわ……)
目を白黒させる光乃に、朔哉は再び甘い声で囁く。
「大丈夫かい?」
「は、はい……」
二人の様子に気付いた場内の参加者からどよめきが漏れる。彼から身を離すべきか、それは失礼にあたるのかが判断できず身を固くしていた光乃の元へ、正宗がやって来た。
「おい! うちの光乃に手を出してるふてぇ野郎は……、朔哉殿ぉ!?」
正宗の登場に、朔哉は光乃からそっと手を離す。
「光乃くん、君が勝ち上がるのを待っているよ」
「は、はぁ……」
朔哉は光乃の三つ編みをするりと撫でると、にこやかに去っていく。
だがその際に彼が「……間に合ってくれ」と呟いたことに、気付いた者はいなかった。
「なんだ、あいつ」
朔哉が去った途端、正宗は彼への敬称をはずし、面白くなさそうにぼやいた。
「大丈夫か、光乃」
言いながら雅宗は、朔哉が触れていた部分を埃でも払うように軽くはたく。
「だ、大丈夫。朔哉様は、地震で転びそうになった私を支えてくれただけ」
「……ならいいけどよぉ」
ちっともよくない風情でむくれる正宗に気付けないほど、光乃の頭の中は先ほどの抱擁で沸騰していた。
(なんだったの? 一体なんだったの?)
素敵だの愛らしいだの耳慣れない言葉を甘い声で立て続けにくらい、さすがの光乃も動揺を抑えきれない。
(勘違いするな、光乃!)
光乃は自身の頬を、パンと叩く。
(相手は侯爵様だ。あの言葉もきっと、華族様の間では普通に交わす社交辞令の一つだよ)
「おい、光乃。周り見ろ」
「え?」
正宗に言われて光乃は目を上げた。
(うぎゃ!)
四方八方から、嫉妬に満ちた鋭い視線が飛んできていることに今更気付く。間違いなく、先ほどの朔哉の抱擁が原因だろう。中には一言言ってやらんと、こちらへ向かって来ようとしている者もいる。
「急いでここから出んぞ」
「わかった」
会場から外へ出ようとした時だった。見覚えのある後姿を、その先に認めた。
「清一郎!」
光乃の声に、件の人物はぎくりと足を止める。そろそろと肩越しに振り返ったその顔は、心許ない表情をしていた。しかし光乃と視線が合うと、普段通りの不遜な態度に戻る。
「なんだ平民。気安くこの僕に声を掛けるな」
「清一郎、どうしてお皿を割った犯人があんたになってるのよ!」
前置きもなしに真っ直ぐ問いただした光乃に、清一郎は顔を強張らせる。
「何のことだ」
「誤魔化さないで。家宝のお皿を割ったの、清一郎のせいになってるって聞いたよ。そのせいで、家から追い出されそうになってるとも。どうして私がやったって言わなかったの?」
光乃の言葉に、正宗がぎょっとなる。
「光乃! お前、八条家の家宝の皿割ったって……!」
「清一郎!」
今は正宗に構っている余裕はない。光乃は清一郎に駆け寄り、その服を掴んだ。
「触るな、日吉光乃!」
「どうして、私を庇ったりしたのよ!」
清一郎は光乃を睨みつけていたが、やがてその視線をふいと外す。
「……あの女は、本気でいかれてる。もしも、皿を割ったのが貴様と知れば、両手を斬り落とされるだろうよ」
「さ、さすがにそこまでする人はいないと思うけど」
「いや、する。あの女なら」
清一郎は唇を噛みしめ、自分の服を掴む光乃の手を払いのける。
「その上で、お前の知り合いである僕に責任を負わせるはずだ。結果が同じなら、貴様のことをわざわざ伝える必要はない」
「だけど、私のせいで清一郎が家を追い出されるなんておかしいよ! 私にも責任が……」
「そうだな」
清一郎は光乃に向き直った。
「あぁ、そうだ。貴様のせいで僕は全てを失う。どうしてくれる」
「……清一郎?」