「ニーナさ、」
「……なに、」
「覚えてる? 小六の時」
「覚えてない」
「いや、だから即答すんなって」
「なに」
「夢を見たんだよ、お前。夢を見たらしいよ。覚えてないなら、思い出せよ。ラジオ体操の帰りにさ、ニーナ、すごい夢を見たって自慢してきた。人類がいちばんはじめに見つけた変光星がわたしの首にあるんだって。小学生のくせに生意気だなって、俺も小学生のくせに思った。変光星って何かわからなくて、あとで調べたら、変な星だった。鯨座の首のところに位置する星が自分の首にもあるから、私は鯨座なんだって俺に自慢してきたんだ。俺、受験のときに勉強したことなんて、今だいたい忘れてるし、小中の記憶とかほとんどないけど、お前のその夢だけはたぶん一生忘れないっすよ」
変光星。鯨座のミラ。
一年ほどの周期で二等星から十等星まで明るさを変える星。はっきり見えるときと、まったく見えない時がある。ミラは「不思議な」っていう意味らしい。
年老いて、太陽の何百倍以上にも膨れ上がって、風船みたいに膨れたり縮んだりしながら、最期のときを待っているいつも不安定な星。
覚えていた。幼い私のくだらない夢の話だ。
はっきりと全てを記憶に留めているわけではない。だけど、確かその前日に星の図鑑を読んで眠って、宇宙を駆ける夢をみた。
私の首にはちょっと目立つホクロがあって、ずっとそれが幼いながらにコンプレックだったあの頃。
その夢を見た次の日から、首元の黒い星を少しだけ愛せるようになった。これはニーナだけのミラという特別な変光星なんだってポセイドンを名乗るおじさんに告げられた。
確かそう言ったのだ。見た夢を誇張して、ラジオ体操の帰りにオータにだけ自慢した。私は、鯨座だって。
馬鹿だ。確かに、私は昔からまともじゃなかったじゃないか。忘れていた。オータが今でもそんなくだらないことを覚えているなんて、とてつもなく恥ずかしい。
何にでもなれると思っていた私へ、オマエは何にもなれずに、自分の生活さえ守れない無力な存在です、私より。追伸、生きている価値はないけど、生きたいって思ってるだけで、いや、その前にそもそもいま、生きてるってだけで、オータはいいらしいです。追追伸、オマエは、天秤座です。
「お前、覚えてる?」
オータにもう一度聞かれて、迷った末に首を縦に振る。
所詮、子供の戯れ言だ。覚えているから何なんだ、と心の中で返事をする。
「ニーナが自分のこと鯨座って言ってきた時から、こいつはたぶん頭がおかしいやつで、だけど、鯨座だから大丈夫だって思った」
「……何だよ、それ」
「でもさ、」
常夜灯で、濡れた前髪からのぞくオータの瞳が仄かに照らされる。いつの間にか、至近距離でじっと互いを見ていた。健やかさとは遠く離れた場所で、抱きしめられたまま。
世界は湿ってる。だから傾いて、こぼれ落ちた場所はいつも濡れている。その正体が、アサヒスーパードライのビールなんて。私とオータだけが知っている、くだらない地球の神秘みたいだなと思った。
「大丈夫だって思う反面、占いの十二位にもなれないようなお前のことは、ずっと近くで見ていないといけないって思ったのかもしれない」
「……なにそれ」
「だから、ずっと、お前が手を伸ばせる場所に、俺はいるみたいだ」
納豆の糸よりもネバネバしている腐れ縁は、どうやらラジオ体操の日の朝にはじまっていたらしかった。
なに格好をつけているんだよ、と思う。ビールをかぶって人を抱きしめる英雄なんてこの世界にはどこにもいない。たいした事件もないのに引きこもったまま、途方に暮れている人間を助けてくれるお人よしのヒーローだってそうそういない。
もしもいるなら、オマエが助けたそいつは世の中舐めてますけど? 助ける相手は選んでくれないと頑張って生きてるこちらとしては萎えますけど? なんて酷評とともに低評価のオンパレードだ。
「………この状況、地球で五百番目くらいにかっこ悪いよ」
「うん」
「手なんて伸ばしてないのに、オータが勝手に掴んできたんだ」
「うん」
「……鯨座じゃ、ない」
「ううん」
「オータ、」
ん? と、喉仏をふるわせてオータは首を傾げた。
「……どうすればいいのか、分からない」
「うん」
結局、着地するのはそこだった。私はどうすればいいのか分からない。
頷いたオータが突然抱擁を解いて、立ち上がる。私は思わず見上げてしまった。
「そんなの、俺も分からないことばっかだ」
そう言ってオータは部屋を出て行ったけれど、何かを持ってすぐに戻ってきた。
仄暗い中で、微かに発光する銀色。缶ビール。スカ、とプルタブを開ける軽やかな音がして、先ほどのこともあり本能的に身構えた次の瞬間に、案の定なことが起きた。
「っ、は?」
「どうよ、気持ちよくない? 意外に」
突然、雨みたいに、降ってくる。まるで、スコールのようだった。
信じられない。この男は、また、正気から遠ざかる気らしい。虹にもならない常夜灯の光の下でビールの飛沫を振りかけられれば、シャワーでもあびている気分になる。
「ちょっと、ほんとにオータなにしてんの」
「お前がお風呂はいれないらしいので、ビールシャワー、ビールナイト、祝おうぜ、全部に祝福、全部っていうのは不幸、地獄、苦しみも含めたすべてのことな」
「は?」
「この際、全部のビール缶開けて浴びるんだよ。俺も、もう一回浴びる」
「なに言ってんの」
缶を思いっきり振り回すものだから、私だけではなく床までも濡れていく。止めようとして立ち上がったら、オータは躱すように私と距離をとって、再び冷蔵庫のほうへ向かった。
唖然としてしまう。
非社会で、どうしようもない人間の順位がたった今入れ替わってしまったような気がした。これじゃあ、ミイラ取りがミイラになるだ。私に合わせて、私よりまともじゃなくなるなんてどうかしている。
オータは私のことをずっとやばいやつだと思っていたらしいけれど、私はオータがこんなことをするやつだなんて全く知らなかった。
まだ開けていないビールを三缶抱えて、陽気な笑顔を浮かべながらオータは再び私の前に戻ってきた。私が買ったものなのに、「あげる」と偉そうなことを平然とした態度で言う。差し出された一缶を仕方なく受け取ってプルタブを開ける。オータもそれに続く。
「もう、今日くらい、この世で一番やばいやつになればいい」
そう言って、オータはまたビールを逆さまにして振り回した。銀色の飛沫が顔に直撃したから、その瞬間、プツン、と自分を辛うじて繋ぎ止めていた理性のようなものが切れる。
怒りの作用じゃない。なんだろうな。やったことはないけれど、富士山の頂で全財産を山の下めがけてばらまいてもいいやって、そういう諦めに近かった。
私もオータめがけてビールをかける。そうやって、私たちはビールの空き缶が散乱した埃だらけの部屋で、暫くアサヒスーパードライをかけあっていた。
どこかの神様、世界新聞に載せてくれてもいいよ。祝うべきことの一切ない場所での盛大な祝福、限界部屋でアサヒスーパードライをかけあった奴ら、日本人、二十代前半の男女、みたいな言葉で大いに結構である。
全ての缶ビールの中身がなくなって濡れた床に腰を下ろしたら、オータは中腰になって湿りに湿った私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるかのように撫でた。
「はは、お前、きったない」
「オマエも、人のこと言えない」
「うん、でも、なんか、全然世界でいちばんやばいやつになれてる気はせんね。まあ、俺、ニーナちゃんに言わせてみればまともですしね」
「うん、人、誰も殺してないし」
「きたねー床でひっそり生きてた細菌類は、アルコールでめちゃくちゃ死んだかもだけど」
「……てか、これ、浸水したらどうする気」
「そしたら、下の階の部屋の人にサッポロエビスのギフトセット贈って謝るしかないのでは」
「……ちょっと高いやつじゃん」
「うん、ちょっと高いやつ」
はは、とオータが笑う。
あれ、もしかすると、この男。昔から、こんなやつだったのかもしれない。突拍子もない何かに出会うとオータはいつもそうやって気の抜けた顔で口角をあげて目を細める。私が鯨座だと言い張った朝もこんな風に笑っていたのだろうか。
「ニーナ、」といつも通りのトーンで名前を呼ばれて、もう一度わしゃわしゃと犬にするような手つきで髪を撫でられる。
それから、ごん、と頭突きをされた。幼稚園児みたいな攻撃だ。皮膚からアルコールが沁みて、とうとうこの男は酔っ払ってしまったのかと思った。
こちらも、それじゃあ、酔ったふりをしてやろう。世界一やばいやつにはなれないけれど、世界一くだらない忖度ならできそうだ。頭突きを返す。そうしたら、オータは歯を見せて笑って、おでこをあわせてきた。
性的な触れ合いではない。理由がなくても、人は額をくっつける。時には、それが許されるらしい。
「なあ、」
「なに」
至近距離、前髪から一滴のビールが落ちる。オータが唇を震わせる。
「俺と一緒に住む?」
「……は、」
言われた言葉を咀嚼できずに、聞き返す。目を見開いた先で、また髪の毛先から銀色の雫がぽとりと落ちた。
「オータ君と、ニーナちゃん、一緒に住むか?」
「なんだ、アホになったのオマエ」
「ううん、真剣」
「……急に、何だよ」
「うん、急にそれがこの世で一番な気がしてしまった。知らない星がひとつなくなってもあんまり俺たちはダメージ受けないけどさ。水金地火木土天海、がなくなってみろよ。やばいよそれは。それと同じで、鯨座のミラがなくなったら俺はやばいんだよ」
「………」
「自滅、してほしくない。他人事だけど、何気にさ、鯨座は俺の人生の目印のような気もするんだよな。だから、監視する。学生だからとか、どっちのマンションに住むんだとか、その他諸々は後でいい。とにかく、俺は、お前が自滅しないように監視したい」
「………」
「ニーナ」
見上げた先で、オータの瞳が震えていた。
私にはその瞳が、何故か輝線星雲に見えた。星と星の間にあって自らで光るもの。
頭に「ないものねだり」の七文字が過ぎる。それからオータは額をゆっくりと離して、「一緒に住もう」と、お尻の疑問符を殺して丁寧に言い直した。
突然の提案に、こんなはずではなかったとか、一体どういう魂胆だとか、思うことが次々と出てくる。一緒に住むとは文字通りであり、しかしそこにはたくさんのあれこれが付き纏う。そんなに簡単なことではなく、限りなくファンタジーな提案だ。
だけど、ビール塗れになった私は、まともという概念から本気の勘当をされたようで、軽率に頷いてしまった。
「じゃあ、準備するか」
「なに」
「掃除。自分たちとこのくそみたいな部屋を何とかするぞ。俺がいたらお前はできると思うから」
「……うん」
頷いたら、オータが照明スイッチに手を伸ばした。カチ、と音がして部屋は白い明るさに支配される。
やっぱり光は、私を救わない。
部屋の状況は、思っていたよりもビールのせいで散々だった。深まった夜の中、私たちはお互いの姿を見合って大声で笑った。途中で、ゴン、と薄い壁の向こうからお叱りを受けて、非社会のくせ社会の一部であることを実感させられる。
どうしよう、どうしよう、と思いながらもずっとできないでいたことを「ここからやろう」とオータに提案してもらえれば、私はようやく一つずつ片付けることができた。
ビールで濡れた床をバスタオルで拭いて、そのまま床の埃を取る。空になって散乱していた缶ビールと煙草のゴミをゴミ袋に押し込んで、食器や調理器具も洗う。オータはビールで濡れた外見のまま、溜まりに溜まったゴミを捨てに行くのに部屋とゴミ捨て場を何往復もした。
仕上げに私たちは交互にシャワーを浴び、この部屋のとりあえずが完了したときには、朝の五時を過ぎていた。
「朝焼け見るの一億年ぶりくらいだ、俺」
煙草の煙を吐き出す私の隣で、オータが遠くで昇る朝日に目をやりながら欠伸をする。なるほど一億年ぶりなんだ、と私は適当に相づちを打った。
私の、社会再デビューはこのベランダからはじまるらしかった。肺に沈み込んでくる煙草の感じは、朝だと別格だ。知らなかったけれど、気に入ってしまう。
「でも、俺は煙草まじで嫌いだから、これからは俺がいるところでは遠慮して」と、オータが文句を言ったので、私たちって本当に一緒に住むのか、と他人事のように思った。それは実のところ一番重要なことかもしれないけれど、今の私にとっては取るに足らない問題だった。
夜明けの真ん中に二人で立っている気がしていた。
ベランダのコンクリートの地面は冷たくて、足の裏が少し痛い。社会はやはり厳しさしかくれないけれど、目に沁みるような朝日のグラデーションだけは、何故か包み込んでくれるような温かさがあった。
「朝が来たから、呪文だけ唱えておく」
灰皿に煙草の先をなすりつけたところで、オータの分厚い掌がぽん、と私の頭にのる。
魔法も使えないまともな人間のくせによく言う、と思いながら見上げたら、オータの瞳は乾いているのに輝線星雲のようにまた震えていた。
風が吹く。はは、ドラマ。だけど、リアル。どうしてもこれはリアルだから、痛くて冷たくて、清潔になった前髪は揺れる。首にあるほくろだけ発光したような気がした。
ミラ。私のミラ。私だけのミラだ。
「ニーナはニーナだよ」
オータの声に、私は心の中で仕方なく頷いた。
ニーナはニーナ。私は私か。一秒後も、私のまま。どう足掻いても、そうなのか。嫌だ。それでも、受け入れるしかないみたいだ。
大人になったら、インスタグラムのフォロワーが一万人を超えるような人間になれないことは置いておいて。それなりに毎日幸せで、人にちょっと憧れてもらえるような丁寧な生活を送ることもできそうにない。
それでも、どうしても、私は私らしい。
「……ニーナはニーナ」
言葉にして唱えてみる。呪文じゃない、ただの現実だ。だけど、心に降りていた重たい帳が静かに消えていくような気がした。
「……ニーナは、ニーナ」
「そう、お前はお前」
「私は、私」
「うん」
何度も口に出して、確かめる。オータはそのたびに相槌をしつこく打ってきた。
鯨座の首のところに位置するミラは膨らんだり縮んだりしている。光ったり光らなかったり、とても不安定な星である。
何度も何度も、私が私であることを受け入れるために言葉にして確かめていたら、次第に歌でも歌っているような気分になった。
奇妙な心地。日日是好日とは対極にある私の理想とはかけはなれた日々。それでも、もう、どうしても、仕方がないらしかった。
そうして、ベランダは、少しずつ不完全体の朝に染まっていく。
青山永子です。読んでくださり、本当にありがとうございました。
普段、短編にあとがきをつけることはないのですが、この作品については、今、物語の外で言葉にしたいことがあったので、こうして書いております。完全に蛇足なので、読んでいただかなくても問題ないですが、読んでいただけると嬉しいなあと思います。
鯨座のニーナは数年前に違う筆名で書いた小説です。ずっと非公開にしていたのですが、最近(二〇二四・十一月上旬)読み返して、この小説はいいなと思えたので、再公開することにしました。
物語に救いばかりを求めている時期がありました。自分の物語がだれかを救えたらと思っていたし、そのために書こうとも思っていました。今は、そんな傲慢なことはあまり考えていないし、直接的な救済よりも物語自体の面白さの方が大切だと考えています。メッセージ性なんて、物語自体の面白さがあれば今の私には必要ない。
でも、救いばかりを求めていた時期だって振り返ればいとおしいです。ニーナは、だれかではなく、ただ、他でもない「自分」を救うために生まれた小説でした。
別の筆名で書いていたにも関わらず仲良くしていただいている作家さんが見つけてくださったり、何人かの読者さまが感想をくださったりしたのですが、ニーナはほとんど「自分」だったから、見つけていただいたことも読んでくださったこともありがたいと思う以上に恥ずかしくて、怖くて、私ではないとくだらない嘘を吐いて、すぐに非公開にしました。
ニーナと同じように私も、小さく思えるような物事、自分をケアするための些細なこと、そういったことがどうしてもできないことがありました。
今も、何もかもできなくなることが時々あります。年を重ねても、頭の中はよく散らかるし、優先順位をつけられないし、これが怠惰なのか特性なのかはっきりしない。理想通りに生きられたためしはなく、自分を嫌い憎みながら歪な自己愛だけを膨らませています。
そういう私みたいな、だけど、私ではないだれかが、この世界のどこかにはいる気がしています。
あなた、かもしれません。しっかりしている方のあなたなら、そういう人もいるのかと呆れてさくっと許してほしいです。
私やニーナのようなあなたに、大丈夫ですよ、と簡単に言うことはできないけれど、でも、ニーナがいて、私もいて、あなたもいて、どの部屋にもあかりはついているから、今はそのあかりが消えているかもしれないけれど、そのあかりは生きている限り、ときどき、必ずつくのかなと思います。
ニーナにしかオータはいないから、ニーナが羨ましいなとは思うけど。私の中にはニーナとオータの両方が一緒の部屋に住んでいます。
私は私、ニーナはニーナ、あなたはあなた。たとえば、部屋のベランダに素足で立って、きれいな夜明けを眺めるみたいに、ちいさな再生を何度もくりかえしながら、別々の世界で、それでも一緒に、生きていけたらいいよね、と思っています。それが言いたくて、このあとがきを書きました。
それでは、このあたりにしておきます。
また、別の物語でもお会いできたら嬉しいです。
青山永子