リーサル・エジュケーション

きっと実家で布団じゃなかったら、もう少しマシな寝相になっていた。

ドゴッ、とにぶい音。それから馬鹿みたいにでっかい激痛。
「おぉ、おっ、ぉ……っ」
トツカは左肩を押さえて悶絶する。
背中の下でフローリングがキュキュッと鳴った。そうやってぐるぐると回ること数度。どうにか痛みが耐えられる程度に引いてきた。
あまりに痛すぎると悲鳴も上がらないことは初めて知った。ここ数日、人生初ばっかりだ。
着けたままの腕時計がカチカチと時を刻む。
時刻は午前六時だった。起きるにはちょうどいい、と言っても良いだろう。

部屋に入ったときにはとっぷり疲れていたから、着衣は入学式そのままだった。学ランみたいな制服にやたら硬い制帽。胸にはご丁寧に紙のコサージュまで挿してある。
医務室で処方された痛み止めをばりばりと噛み砕きながら、トツカは勝手の悪い左肩を回した。
三日が経って、傷はそれなりに癒えた。
あちこち絆創膏やら包帯やらでミイラみたいになっているものの、動けないというほどじゃない。それこそ試合の翌日と同じくらいの、慣れた痛みだった。
ベッドに腰かけて考える。
こういった寝具で横になったのもたぶん人生初だ。
自慢じゃないが、寝相の悪さには定評がある。起きたら廊下に出ているのはまだ良い方で、和室で寝ていたはずなのに納戸の隅っこで目を覚ましたこともある。

「オレ、右に転がるんだよな……逆に寝ればいいのか?」
うんうんと枕を置き直していると、床に散らばった教科書が目についた。
入学式後のオリエンテーションは、大きな学校のわりに手短に終わった。授業開始は九時。単位の登録は希望兵科に合わせること。身代わり出席代筆禁止、関係ないからって基本五教科はサボるな――などなど。

最悪なことに、ホームルームの担任はハバキ教官だった。
「わたくし、実績では差別しませんのー」
と新聞を振っていた。
見出しは『ムラクモ学校の生徒、棄械(スロウン)を倒す』というものだった。トツカの名前は上がってなかったから、クラスメイトの大半は上級生の手柄だと思っただろう。
「わたくしの前でお天狗サマになる方がいらしたら、そのお高い鼻をねじ切りますからね?」
みんな笑っていたな――とトツカはげんなりと思う。
スーツ姿のハバキ教官は、ちょっとした美人だった。かつては募兵ポスターのモデルもやっていたらしい。仲良くなった同級生に見せてもらった写真には見覚えがあった。
同じポスターを姉弟子も「この人、すッッごく綺麗だよね!」とかワケが分からないくらい褒めちぎって、台所の壁に貼っていた気がする。まあキツそうなモデルの目が苦手で一週間で剥がしたが。

「……あいつら、みんなデコピンされちまえばいいんだ」
洗面台で顔を洗ってぼやく。
何がバラ色の青春だ。バラ色って、ピンクともう半分は灰色じゃねえか。

「おはようございます、旦那様(マスター)
横からタオルが差し出された。
「ン、悪ィ……」
「キョウカが起きたよ。食堂、行く?」
「あー。ここの献立、美味い?」
「給養員は勤続十四年だった。特に苦情は上がってないと思う」
「そっか……」
タオルを返したところで、トツカはぱちぱちと目を(しばた)いた。
もう一度、顔を洗って鏡を見る。
不景気なツラをした細面の男が映っているが、今はそんなのどうでもいい。
間違いない。後ろにタオルを持って控える女がいる。
「あの……どなた様?」
「お忘れだった? スティーリアだけど」
顔立ちからすると歳はトツカより少し上、だろうか。
氷のように青みがかった銀髪に、真っ青な瞳。服装は黒いシャツとプリーツスカートを合わせているが、使用感よりも埃が目立つ。タンスにでも長いこと仕舞っていたのだろうか。

「きみ。部屋、間違えてない?」
「いいえ」
ゆっくりとした口調で女は言う。
「ベッドひとつだけど……だってオレ、男だぞ?」
「はい。私は女性です?」
「そうじゃなくてさ――ああ、そうか、オレ……」
覚えてないが、新入生歓迎会みたいなものがあったのかもしれない。
未成年飲酒。一気コール。酔った女と男が部屋にふたり。何も起こらないわけがなく。
「ごめん」
トツカは髪をかきむしった。酔った勢いで最悪だ。
「いいよ。私も会いたかった」
スティーリアは胸に手を置いて、微笑む。
「部屋って住人がいて機能するものだから。それは私も同じ。苦節八年、この倉庫もようやくレゾンデートルを満たせて……」
「待て」
倉庫とは。

トツカが部屋のドアを開けると、カメラのフラッシュが焚かれた。
「おわっ」
「ハロー、ハロー」
もう一発、パシャリと撮られる。
真っ白になった視界が戻ると、目の前に眼鏡をかけた女がでっかいカメラを担いでいた。
「やっと見つけた! ほい、ピース!」
「は――?」
あれよあれよと三面図みたいに色んな角度から連射を食らう。
撮り終った女は、面倒くさそうにカチカチと写真の出来栄えを眺めていく。手あたり次第に色んな設定を試したらしく、ピンボケしてるものも多かった。

「表情がカタいなー。ま、強者のカオってこんなもんかね」
「あの!」
分かってる、と女は笑った。
「ナゴシ・ナルメ。三年、新聞部。あんた、トツカだろ?」
女に指差されて、トツカは思わずうなずいた。ナゴシは満足げにウインクをかます。
「シズ・カゲキのORBS(よろい)を着た?」
「まあ」
シズ――あの女の子も英雄と同じ名前をしていた。
「強かった?」
「いや。そんなの考える間も」
「さよーか。今の気分は?」
「しばらく、うるさい女とは話したくないですね」
ナゴシはにやりと笑った。
「『ゆうべはおたのしみでしたね』?」

後ろからスティーリアが出てくる気配があって、トツカはドアを蹴って閉めた。
ばくばくと心臓が鳴っていた。こんなに早くバレるとは。
どっかりと座り込み、うなだれる。
「オレ、たぶんどうかしてたんだ。自制心は一応あるつもりだったのに……」
「そーか」
「これ、何に当たるんですか。刑法? 民事? まだ校則は見てねえんですけど、一夜の過ちって風紀を乱す的な? オレ、もうちょっと人間って本能に素直になっていいと思うんですよね」
「そーか、そーか」
ナゴシがとうとう噴き出す。とんとん、と部屋の表札をたたいていた。
「ここね、ずっと空き部屋だったんだよ」
六号室だった。この寮は一番小さくて、ここが角部屋だ。
「それは、どういった?」
「壊れた擬人機械(ガイノイド)が棲みついてるから。あんたも会っただろ?」
「あ、あれ。ガイノイドか……」
ロボットの中でも、棄械と違って人間が造ったまともなやつだ。
そういえばさっきの女、服が汚れているわりに使用感はなかった。汗をかかないロボットなら納得がいく。

ずるずると力が抜けた。すかさずナゴシがシャッターを切る。
「あー……いいね。そのポーズ、すっごい自然体……」
「今から部屋を替えることってできますかね?」
「いいじゃないか、美人だったろう」
「これでも田舎じゃ硬派で通ってたんだよ! 変な噂を立てたくない」
オレってこんなに情けない声をしていただろうか――と思う。
「『人間ってもうちょっと同居人に素直になっていいと思うんですよ』ってね」
ナゴシはトツカの口調を真似して言った。そのまま唇をひん曲げて笑い、トツカの手を取って立たせる。腐っても軍学校の先輩らしく、予想外に力が強い。

「まずは飯を食おうじゃないか。ここの飯は美味いよ?」
「……らしいっすね」
ドアを開けると、まだスティーリアは玄関に立っていた。
トツカを見ると手を振ってきた。壊れているという話だったが、この外見だけでは故障しているようには見えない。
「行ってくる。たぶん戻ってこないけど、気にすんなよ?」
「はい、お待ちしてます」
前言撤回。やはり壊れているようだ。
「かわいいよねー」
と、隣でのたまうナゴシ。背中から撃たれちまえ、とそっと思う。
朝食はビュッフェスタイルだった。
まだ朝も早いというのに、食堂では既に寮生がちらほらと見られた。メニューはどうやら学食から配達されてくるようで、特に厨房のようなものは見当たらなかった。

「士官以外も食べ放題なのはここだけね?」
トツカがぼけっと突っ立っていると、ナゴシが「ほら」とトレーを押し付けてきた。
「オレ、あんま腹は減ってないんですが」
「じゃあ無理して食べて。士官たるもの、部下に遠慮させない食いっぷりが肝要なのだよ」
いつの間に取ったのか、ナゴシのトレーにはこんもりとパンが乗っていた。
トツカもしぶしぶカゴからバゲットパンとチーズスプレッドを取った。

そのままトツカが壁際にぽつんと置かれた椅子に座ると、ナゴシは物足りなさそうな顔をして離れていった。どうやら同席は諦めてくれたらしい。それでいい。豊かな食事というのは誰にも邪魔されず、静かであるべきなのだ。

この寮は昔からある兵舎を改装したようで、壁のところどころに鉄骨が見えていた。
そういえばトツカの部屋にも二段ベッドの脚の跡がくっきりと付いていた。壁紙は流石に替えてあるようだが、ふと注意を向けると、あっちこっちに軍隊の色が浮かびあがってくる。

ねっとりとチーズを塗りたくったバゲットをかじっているうちに、反対側の壁際で、同じように独りで食事を取る女学生を見つけた。
向こうも傷は癒えたらしい。
相変わらず赤ペンまみれの地形図を広げながら、シズは身じろぎひとつせずに考え込んでいる。今朝のメニューはスクランブルエッグにしたようだ。まだ皿に手を付けた形跡はなかった。

「シズ・キョウカ、か……」
入学式では総代をやっていた。ああいったものを選ぶ基準は成績か血筋か知らないが、壇上に立った彼女は演説慣れしているように見えた。

『あの英雄、シズ・カゲキの妹さんです』
学長が誇らしげに紹介したときでさえ、彼女は無表情だった。無心と言ってもいい。ガラス細工みたいな指でマイクを握ると、舌を湿らせ、ほう、と空気で胸を膨らませた。

まあ、そこからがちょっとばかし不味かった。

『先の戦闘で、私たち陸軍が喪失した兵員は全体の〇・二パーセントでした。私は、彼ら英霊に名を連ねるつもりはありません』
というのが、彼女の総代挨拶の始まり。

胸に赤いコサージュを付けたシズは、マイク越しに遠くを見つめていた。
『勝利とは生きた兵士たちの不断の努力により掴み取られたものであり、(まつ)られる数人の犠牲で成し遂げられるものでは決してありえないからです。
私は戦死者に価値を見出したことはありません。
いかなる事情があろうと、彼らは自らの落伍(らくご)によって、戦友たちの負担を増やし、戦線にコンマ数秒の間隙(かんげき)を作り、敵に数センチメートルの前進を許しました。彼らの死は大いなる損失ですが、同時に我々が切に反省すべき汚点でもあります。

私は戦場に栄誉を求めません。
私の望みは一戦で死する英雄ではなく、生きて千の任務を完遂する士官です。
私は英雄を否定します。
しかし私が務めを果たし続けることで、未だ名も知らぬ戦友がいつかの安息を得られるのなら、進んでこの身を捧げましょう。私たちは死すべき愛国者ではありません。思い出してください。あなた方は、どこかで待つ誰かの笑顔を求めて止まぬ、ひとりの父であり、母であり、恋人であり、あるいは息子であり娘だったはずです――』

拍手はほとんど無かった覚えがある。

誰かが適当に手を打ち合わせて、ややあってまばらな音が続いたくらいだった。
『英雄の妹が、英雄になりたくない。それどころか死ぬやつは役立たずとまで言った』
教官たちは苦笑していたが、上級生は半分ほど殺気立っていたように思う。一席ぶったあとにシズがやった敬礼もほとんど会釈のようなもので、明らかに挑発していた。
「どんだけ()れ枯らしてんだか……」
彼女と同じ士官コースを希望したことに、今さら後悔の念がふつふつと湧いてきた。



初めての授業は戦史だった。
「こいつが諸君らの敵であああァる!」
担当の教官はやたらめったら暑苦しい中年男で、何か言うたびスライドを映したスクリーンを指揮棒でばんばん叩いていた。
「動力・材質ともに不明、技術も由来も解析不能ッ!我々にできるのは頭を出してきたモグラや出た杭をブッ叩いて引っ込ませることだけだ分かったかオラッ!」

スライドが切り替わり、このあいだトツカが倒したのと同じ、銀色の石ころが現れる。

飛び飛びのアニメーションが始まった。
そいつがトゲを出した瞬間、すみやかに銃弾がぶち込まれていく。弾丸の口径はどんどん大きくなっていって、17ミリ弾でようやく貫徹に至った。
「幸いに国内で確認される数は多くない。諸君らには少数精鋭として、ORBSを用いた制圧を期待するものである!」
ホワイトボードがバシッと叩かれてスライドがぼやけたスナップ写真に切り替わった。
重厚な鎧に身を包んだ男が、巨大な銃器を担いでいた。戦闘の直後に撮影したらしく、まだ銃口からは細い煙が上がっていた。顔の造作はうかがえないが、ガレキになった街並みを見ながら途方に暮れているようにも見えた。

ORBS(オーブス)――マッハの機動力とメガジュールの火力を併せ持つ最強の兵器。
トツカは斜め前の席を見た。シズは前屈みになって、やっぱり広げた地形図と格闘している。
教官もそれに気付いて口を開きかけたが、どこか申し訳なさそうに肩をすくめると、教壇のパソコンをいじって次のスライドに移った。

シズの兄は、二年前に棄械(スロウン)と戦って死亡している。
試作型のORBSで戦線を維持した、真の意味での英雄だ。
初対面のときの、シズの素っ気ない態度を思い出しながら、トツカは手に持ったシャープペンシルを回した。あんな演説までしたのに同情されるのだから、そりゃ人間嫌いにもなる。たぶん友達もまだいないだろう。

午前の授業が終わると、生徒たちはカフェテリアの案内を受けた。午後三時まで開いているからお気軽にどうぞ、ということだった。
こちらの施設は小ぎれいに整っていて、各所のスピーカーからは古臭いボサノバミュージックがループ再生されていた。
トツカが券売機で一番安い蕎麦を買っていると、追加の小銭が投げ入れられた。

「それ、たぬきにしなよ」
「あ?」
横に立っていたのは遊んでそうなツンツンの金髪の男だった。愉快そうな顔をして、手に持ったガマ口財布をぱちりと閉じる。
「ただでさえ安い学食で、ざる蕎麦なんてみみっちいよ」
「悪かったな。それに三十円くらい、オレだって持ってる」
「じゃあこうしよう。小銭を崩したいんだ。手数料ってことにしてくれ」
トツカはしぶしぶ揚げ玉のボタンを押した。
出てきたハッカ色の食券を引っこ抜いて、じゃらじゃらと吐き出された釣り銭を金髪男に手渡す。
「ありがとう」
金髪はチャーシュー麺を選んでいた。こいつも面倒くさい金持ちらしい。

トツカが席についたときも、やはり男は隣に座ってきた。
「その髪、注意されねえのか?」
追い払うのも面倒になって、トツカは麺をすすった。奢ってもらうのは(しゃく)だが、めんつゆの染みた揚げ玉はふんわりとして美味い。しっかりと栄養の味がする。
「整備科はルーズでね」
「ああ。ロボットだろ、教官?」
「すぐ怒るけど素晴らしい人だよ。今日もさっそくホンモノを触らせてくれた」
ほら、とタブレット端末で写真を見せてくる。

右腕が焼け焦げたORBSのグリーンウェアだった。腹のあたりにも損傷が多い。
ぽとり、と箸から麺がこぼれた。

「へえ、これ、あー……すげえ派手にぶっ壊れてんな。へへー……」
「先週のアレで損傷した機体だそうだ」
「ああ。そんな感じする。なんだか壊れ方に風情があるよな。うん」
金髪はにこりともせずに箸を置いた。
「君だろ?」
「……はい、そうです」
静かに暮らすには、世間はときどき狭すぎると思う。

「二択だったんだ。シズ・キョウカかトツカ・レイギか」
金髪はチャーシューをつまんでみせた。「これ、食べるかい?」
「蕎麦には合わねえよ。で、あんたはオレを選んだと」
「そう。おかげで賭けに勝った。そのたぬき蕎麦も、配当ってやつ」
儲けは八百円ね、と付け加える。何人と賭けをしているのやら。
「オレ、そんなに話題になる要素とかあるか?」
「もちろん。推薦枠は九人だけで、しかも特機小隊の身内は二人だけだから」
フム、とトツカはうなる。
自分がそこまでレアな存在だとは思わなかった。

二年前に投入された特機小隊は三個。整備や補給といった後方任務に就いていた連中を除いても、二十五人ほどがORBSに関わっていたことになる。
「上級生もいるだろ」
「彼らはダメだ」
金髪はかぶりを振った。
「戦場に出なかった予備役ばっかりで、ほとんどは頭でっかちの出涸(でが)らし。残りも戦うような無鉄砲さはないよ」
「で、オレはその無鉄砲だったって言うわけか」
金髪は笑うばかりだった。
てっきり質問攻めにしてくると思っていたが、あのナゴシとかいう新聞部と比べるとちょっとは人間が出来ているらしい。

トツカは少し考えて、名前は、と尋ねた。
「ヒシダテ」と金髪は言った。菱形のヒシに立つ、と無駄に良い声で言い添える。
「なるほど。よろしくな」
またな、と食い終わった食器を丸ごと食洗器にぶち込んで別れる。
ヒシダテが見えなくなったあとも、トツカはカフェテリアに残って、次の授業の教本を広げた。
午後は国語。それから訓練場のオリエンテーション。
どちらも大したイベントじゃない。
軍事の名門とは聞いていたが、いざ入学してみると、基礎教科ばっかりだった。

「こんなので銃弾が避けられるかっての……」
こんな調子で続くようなら整備科に転向するという選択肢も見えてくる。向こうでもORBSは扱えるし、今の話だとなかなか楽しそうな授業をするらしい。ツナギは着たことがないが、まあ道着と似たようなものだろう。

「トツカくん」
今日やる文法の予習を進めていると、後ろから声がかかった。女の声だった。しかも同じくらいの年ごろの。トツカはため息をついた。
隣を空けてやる。
重い音がして、チャーシュー麺の載ったトレーが置かれた。
やけに高カロリーだな、と思っていると、ずずずとトレーがトツカの方に寄ってきた。

「これ。あげる」
シズは指先でトレーをこつこつと叩いて言った。
「……は?」
「さっき、羨ましそうだったから」
シズは仏頂面で、「ほら」と言って、やっぱりトンビみたいにじっと見つめてくる。
「さっき?」
「あの金髪の人」と、シズはいらいらと髪をかき上げる。「早くして。時間ないの」
「いや……今、蕎麦食ったの見ただろ?」
「だから?」
きょとんとされた。
「だからって……あー。もしかして不器用さんか?」
食洗器を探ると、ちょうどハーフサイズのどんぶりがあった。
半分だけチャーシューをよそって、残りをシズに寄越す。彼女は憮然とした顔で箸を取った。

「ラーメン、そこまで好きじゃないんだ」
シズはチャーシューをもぐもぐとしながら、卓上の胡椒を振った。
「好きじゃないって珍しいな。ニッポン人のソウルフードだ」
まあね、とシズはうなずく。
「兄も好きって言ってた。でも友達と食べてばっかりだったから……男の人のああいうのって携帯電話とか手紙の代わりなんでしょ?」
「で、あんたもラーメンでオレに電話か」
「ん」
シズは空っぽになった胡椒の瓶を置いた。「悔しかったの」
「何が」
「私だけ動けなかった」
シズは胡椒で真っ黒になった麺をすすり、顔をしかめた。
トツカも少し考えて、理解した。先日の戦いのことだ。ちらっとシズの脚を見る。腿には真っ白な包帯が巻いてあった。トツカが止めなかったらこんな細い身体で戦うつもりだったのか。

「あのときはあんた、脚をやってただろ。逃げるのも必要な判断じゃねえの?」
「でも脚のケガは絶対に必要なものじゃなかった」
ふん、とシズは鼻を鳴らす。こういう拗ねた顔はハバキ教官に似ている。この表情が出来るやつが都会だと美少女に分類されてるのかもな、とトツカはぼんやりと思う。

「ホントむかつく。なんでヘマしちゃったんだろなって……」
「それこそ運だろ。ラッキーの問題だ」
「ん。私、昔から運が悪いんだ。だから、やっぱり悔しい」
半分こにしたチャーシュー麺は、どうにか休み時間のうちに食べきれた。

トツカがいい加減きつくなってきた腹を押さえていると、シズが身体を向けてきた。オレンジに輝く視線が真っ直ぐに突き刺さってくる。
「トツカくん。私を鍛えて欲しい」
トツカはじっと見つめ返す。不思議な瞳だった。不気味なくらいに澄んでいる。

冗談を言ってるようには思えなかった。
演説のときも同じ目をしていたのを思い出す。あるいは喫茶店で初めて会ったときも、よく見れば同じ目をしていたと分かったかもしれない。
この人、本気だ――トツカは理解した瞬間、乾いた笑いを漏らした。

「どうしたの?」
「いや。何でもない。思ったよりやるなと」
「やっぱり高いよね、チャーシュー麵」
ほら、とシズはぼろぼろの財布を振った。どこかの安ブランド品だった。十年は同じものを使っているように見えた。こだわる性質(タチ)なのだろう。
「そうだな。じゃ、放課後に武道場で集合な。道具とかはオレが頼んどくから」
「え?」
「分かったと言ったんだよ。オレでよけりゃ鍛えてやる」
「ああ、ありがと。武道場ね。放課後……」
シズはメモを取ると、そのまま教室に帰って行った。
胡椒まみれの食器はそのままだった。トツカは苦笑したまま、自分のどんぶりと一緒に食洗器に持って行った。

あの手の変人は道場にもいたから、よく分かる。
一度気になったら、地稽古(じげいこ)も打ち込みもすっ飛ばして何万回と素振りばっかりやってるようなタイプだ。あいつの打つ速さには、最後まで追い付けなかった。
「ありゃ秀才になるわけだよ」
スピーカーから予鈴の音が鳴り、トツカも荷物をかき集める。

結局、予習は全くできなかった。なのに、既に放課後が楽しみになっている自分がいる。
体育倉庫の鍵は、宿直の教官に頼むと簡単に貸してくれた。
「どうせ明日から授業でやるんだが……」

教官は体育教師そのものといった堅太(かたぶと)りの男で、トツカが倉庫からタイヤ台を引っ張り出すのを、ごましお頭をさすりつつ眺めていた。耳が押し付けられてぺたりと潰れているから、柔道もやっているのだろう。
「指導を頼まれたんです。オレ、推薦で入ったんで」
「ああ、二組のやつか?」
「シズですよ。ほら、こないだ演説でやらかした……」
ほう、と教官は手を止めた。

「あれも、剣道を?」
「鍛えてくれって言われたんです。なんか棄械(スロウン)と戦えなかったのを気にしてるみたいで」
それを聞いて教官は腕を組むと、ぶつぶつと呟きながら、難しそうな顔をして倉庫に入っていった。
しばらくすると、柄がすっかり青くなった竹刀を何本か抱えて持ってきた。
億劫そうに屈んで、ぱらぱらとトツカの前に並べていく。だいたい同じ銘の安物ばかりだったが、高いカーボン製のやつも何本か混じっている。

「今使えるのはこんだけだ。長いって言うなら奥の方にサブナナの竹刀もあるが」
「やっぱ持ってこない連中、多いんですか?」
授業とは別に剣道部があるとは聞くが、ただの貸出し用にしては多い気がする。
「替えだ。なにぶん初めて握る奴ばっかりだからな、店もヘボいやつを買わせやがって」
「はあ、需要ってやつですか。ボロい商売するもんだ……」
トツカは試しに一本握って、振ってみた。
古い竹刀というのは()いが緩くなって、ばちばちと(はじ)く音がするからすぐ分かる。ここのはしっかり整備されていた。カーボン以外もささくれが無いから、こまめに買い足しているらしい。
「この手のカーボンって打ちが重くて苦手なんだよな……」
ジャージに着替えて適当な竹刀を選ぶ。しばらく素振りして待つことにした。



それから三十分待った。シズはまだ来ない。
トツカはタイヤに打ち込んだ。埃がぱっと舞い、上げた切っ先の周りにぱらりとこぼれる。剣道に限らず、スポーツや芸能というのは一日サボると三日分後退するとよく言われる。三日サボって九日分後退したツケは、今のところは感じられない。

だが、分かる。打ちが軽い。
なまっている。
まだ見えるほど現れていないだけだ。

「戦いが待ち切れない感じ?」
タイヤ相手に抜き胴を練習していると、後ろからヒシダテが話しかけてきた。
整備の実習を終えたところらしく、自慢の金髪がオイルで汚れていた。士官コースと比べると、やはり整備科は座学より実習の比率が高いようだ。
「まさか。戦いをやりたいなら鉄砲に行ってる」
「じゃあ日課?」
「ああ。三日ぶりのな」
片手でぱん、とタイヤを打つ。思った通り打突の伸びが悪くなっていて、やっとブランクを実感できた。ほお、とヒシダテが間抜けな声を出す。つくづく戦いとは無縁の男だ。
「きみ、『グラム』で棄械(スロウン)に勝ったんだよね」
「昼飯のとき知ってるって言ったじゃねえか」
ぱん、ともう一度。まだ狂った分を補正できない。
「どうだった?その、気分って意味で」
「べつに。当たり前のことしか感じなかったぞ」
ぱん、ぱん。まだ粗い。動作ごとの(チャンク)を意識してさらに打つ。痛めた肩が引きつった。

「当たり前?」
「高揚感とか、疲労とか、そんな感じの。コンバット・ハイってやつか?」
「ああ。聞いたことがある」
「でも本当の戦いって痛いばっかりだった。全然良いもんじゃねえわ、アレ」
ヒシダテはじっと見つめてきた。兵士らしくない、とでも思ってるのだろう。
構わずトツカがタイヤを痛めつけると、やがて彼も飽きたらしく黙って去って行った。

それから数分経って、やっとシズが現れた。
「ごめん」
やって来るなりせかせかと言って、むんずとカーボンの竹刀を握る。素材が竹じゃないことに驚いたようで、珍しそうに弦を(はじ)いた。
「遅かったな。何かあったのか?」
「クラスみんなの連絡先、聞いてたの。一番のアカザキくんから、二番のアザミくん……」
シズの手が止まる。「ウチのホームルーム、何人だっけ?」
「三十九人のはずだ。明日じゃダメだったのかよ」
「あれ?一人足りない……」
がちゃりと竹刀を落として、シズはタブレット端末をいじり始める。ひい、ふう、と数えるうちに首をかしげた。トツカは肩を落として、バッグから自分の端末を取り出す。

「どうせオレの番号だろ」
「あ、本当……」
仕方ないのでアドレスを二次元コードで送ってやった。
登録し終えるとシズはにっこりと笑って、さっきの竹刀を拾い上げた。初手からカーボン製は変な癖がつきそうだが、こういう手合いは好きにやらせても上達するものだ。
「ジャージはどうした?」
「だってぜんぶ用意してくれるって……」
また、きょとんとされた。そういえば言い忘れていた。
トツカはうなずいて、タイヤ台を指した。
「これ、打つから見ててな」
タイヤの前に立ち、中段に構えて呼気を吐く。
人型の的でないから正眼とはいかないが、自然と切っ先は目線の高さで止まった。

改めて見ると、さっきはずいぶん間合いを遠く取っていたらしい。打つ前に一歩だけ詰めた。す、と足に勢いが乗った瞬間、剣気が高まったのを感じた。
もう打てる。今だ。

()エェェェ――――ャッッ!」
一声、()り上げた竹刀で打突する。
足が床を打つと同時に、竹刀の先がタイヤの上面をはじいた。
上がった剣先はすぐには下ろさず、ゆっくりと残心を取って、トツカは竹刀を納めた。しっくりと来る、心地よい重さが手首に残っていた。思うように打てた証拠だ。

シズもしばらく何も言わなかった。
例の無表情を浮かべたまま何秒か考えたあと、ようやく口を開く。
「……打つとき何て言ったの?」
「そこ!?」
「気になるもの」
じっと見つめてきた。
「ま、まあ、知らんけど『めーん』のつもりで……」
「ほんとに?」
「マジでつもりなんだよ。一応、口の形は『めん』に開いてる……のか?」
めーん、とシズは口を真似して、かぶりを振った。
「全然違うじゃない」
「もういい、動きの話をしよう。ちょっと打ってみなって」

トツカが退くと、シズもタイヤ台の前で竹刀を構えた。
ただ立っただけだが、背を伸ばしたままなのに肩の力が抜けていた。生来のバランスが良いのだろう。重心も偏っておらず、それでいて踏み込みに充分な程度の重さが、ひかがみに載っている。
だが次に繋がらない。剣先をタイヤ台に向けたまま、固まってしまった。

「どした?」
「えっと、手を先に上げるの?」
「あー……どうだろな」
トツカの場合、跳べば手首がスナップし、勝手に敵の頭をはたきに行く。意識するのは跳ぶタイミングだけだ。あとは身体が習慣で勝手に動く。
だが初心者のシズはどうだ。手首の角度、跳ぶ距離、間合い。注意点を箇条書きにすれば二十行はゆうに超える。しかもすべて同じくらい重要と来た。

素振りをさせるか、とも思った。
しかしシズの「鍛えろ」と言うのは棄械(スロウン)に勝つ鍛錬であって、剣道に強くなることではない。普通じゃいけないのだろう。この人は頭が良いから、もっと、広いところから入っても良いのかもしれない。

「……三殺っていうのがあるんだ」
トツカは腰を下ろした。シズの竹刀を受け取って、同じように座らせる。
「さんさつ」
シズがおうむ返しに言った。トツカはうなずく。
「相手の要素をみっつ殺す。剣、技、心。オレは戦いぜんぶの基本だと思ってる」
「あ、突破・包囲・攻撃みたいな?」
「知らねぇけどたぶんそうだ。こいつらが死ぬと、どんなやつでも動けなくなる」
普通の道場ではちょっと習うだけのことだが、姉弟子は口癖のように言っていた。
「それで?」
「だから……」
次を考えてなかった。うーんとうなって舌を動かす。

「……まあ、まず相手を見ろってこと。何を武器にして、どう使って、どこに気を入れてるかってやつ。ひとつずつ潰していけば、分かんねえけどどうにかなるんじゃねぇの?」
「それ、トツカくんは剣道で覚えたの?」
「剣道っていうか義姉さんに仕込まれた。剣振ってるか本を読んでるかって変人でよ」
シズは変わらずトツカを見つめていた。頭蓋骨の奥でも透視しようとするみたいに視線が動いていなくて、どうも騙しているような気がしてくる。

やがてシズはまばたきをして、言った。
「ウツリさん、元気?」

「は――」
心臓が飛び出すかと思った。シズが、姉弟子の名前を知ってるなんて。
「あ……ああ。うん」
「そ」
シズが立ち上がる。そこで初めて存在に気が付いたようにタイヤ台を見て、打ち込まれた跡をなぞるのを見ながら、トツカも床の竹刀を集めた。
今日は終わりだ。どうせ授業でもやるのだから、動きはそのあとで教えればいい。

用具を片付け終えて倉庫の鍵を返しに行くと、教官は職員室で黒々としたインスタントコーヒーを不味そうにすすっていた。
「遅かったな」
「すいませんでした。すぐ帰ります」
「ン、色々危ないご時世だから気を付けてな」
机の上には写真立てがあって、すぐ横にマグカップの輪染みが残っていた。
この人はこうやっていつも飲みながら写真を眺めているらしい。写真の中では同じ部隊章の男女が思い思いのポーズを取って並んでいる。
この人もただの教師ではなく、やはり前線に立っていた兵士なんだな、と思う。

武道場に戻ってみるとシズの隣に人影があった。
「調子どう?そろそろ行けそう?」
「うん、だんだん分かってきたみたい。もうすぐ――」
白い武道場のライトに照らされて、人間にしては滑らかな肌が浮かび上がっている。髪も鮮やかな銀色に光っていた。遠くからでも、ここでは珍しい黒い服が見て取れる。
「やっべ、部屋のこと言い忘れてた」
あのガイノイド、ここまで追いかけてきたのか。
トツカが歩いていくと、スティーリアはいちはやく気付いて手を振ってきた。

「遅かったから迎えに来ちゃった!」
彼女が長身のシズと並んでいると、視線がちょうど一列に並んで落ち着かない。
「オレ、戻ってこないけど気にするなって言った覚えがあるんだよなぁ」
「じゃあヒマだったからってことで」
青い瞳が細くなった。このガイノイド、ずっと笑っている。
「あんた、待ってるって言ってなかったか?」
「自分に出した命令なんて守るわけないじゃん」
「いや知らねぇし……昨日まで他人だったヤツだし……」
シズまで横で笑っていた。

「スティーリアも、ここに居るって言ってくれたら迎えに来たのに」
「命令の実行中だったから、ごめんね」
このふたりは顔見知りらしい。
そういえば、朝もスティーリアは『キョウカ』とシズの名前を言っていたように思う。
「それじゃ、帰ろ!」
スティーリアはひとり勝手に盛り上がって帰って行く。トツカが追いかけると、シズも隣に並んできた。ちょっぴり申し訳なさそうにこっちを見てくる。

「もしかしてスティーリア、トツカくんに迷惑かけちゃった?」
「いやそこまでは……超うるさい座敷わらしみたいなもんだろ、アレ?」
数メートル先でスティーリアは鼻歌を口ずさんでいる。古いポップスのサビだった。
「ウチの家事代行(ハウスキーパー)ロボットだったの」
「中古か。先輩にも壊れてるとか言われてたな」
「壊れてるっていうか」
さらに声量を落として、シズは言った。

「あの子、人を殺しちゃって……」

鼻歌が途中で止まる。
数秒の間をおいて、スティーリアはサビの最初からリピートを始めた。コツコツと彼女のローファーが地面を叩く音が、虚空に響いた。

「……殺した?」
トツカはねばつく唾を飲み込んだ。
事件は八年前に起こった。

通報は詞子(シズ)家の固定電話からだった。救急より先に警官隊に連絡が行ったというから、ひと目でそれと分かるような事切れ方だったのだろう。
死亡したのは母親。
通報したのは当家で稼働していたロボット――スティーリアだった。

母親はいつものように長女のキョウカを寝かしつけた直後、喀血(かっけつ)して果てたらしい。吐き出された血を頭から浴びたキョウカはショック状態で、様子を見にきたスティーリアの腕を掴んで離さなかったそうだ。

「はい。私が殺しました」

通報したとき、スティーリアは自ら警官隊のオペレータに告げたという。
「仕方なかった。この手で殺したんです。私の責任です」
その場で破壊措置を受けたのち、スティーリアは解析に回されたが、外皮(コーテックス)に記載されたメーカーや製造番号はデタラメだった。母親も以前から結核の病態がみられ、寝室に処方箋も残っていたところから事件性は無いものとして処理された。

「破損した筐体(ボディ)は兄のカゲキが引き取ったみたいだね」
食堂の机に、ナゴシは手製のファイルから抜いた記事をぺたぺたと並べていく。
「たった半月で修理を完了させて、以降は寮の個室に置いてる。例の六号室さね。メディアがうるさいから流石に外には出さなかったらしいけど」
「よく細かい記事が残ってるな……」
「残したんだよ。面白かったから」
ナゴシは言って、ハムエッグを乗せたパンにかぶりついた。
トツカも同じようにして、脂の甘さに目を見張る。ナゴシはニヤリと笑って、「ハムエッグだけはウチの提供でね。合成肉じゃないんだ」と言った。

「な、『うるさいブルジョワ』もたまには良いものだろ?」
「それでも根に持つ人間は苦手っすね」
トツカが顔をしかめると、ナゴシはケタケタと笑い返してきた。
「実際、あの事件は面白かったんだよ。詞子(シズ)家っていえば地方の名家だったから、得体の知れないガイノイドは話題になって。でも結局、メーカーも流通ルートも見つかんなくて、気が付いたら話題ごと自然消滅してた」
「どこかのワンオフなんですか、アレ」
さあ、とナゴシは目をぐるりと回す。
「お手製かもね。天才シズ・カゲキのことだから、ロボ作りくらいできたかもしれない」

もしゃもしゃとハムエッグを噛むナゴシのはるか後ろの席で、当事者のシズはまた地形図を広げていた。
きっと、シズは母が死んだときも無表情だったろう。
身体をいっぱいに震わせて、隣に立ったガイノイドに爪が割れるほど強く(すが)る少女。パジャマは鮮やかな朱に染まり、血でべったりとひたいに張り付いた黒髪を、ガイノイドの細い指が優しく()く。ふたりの隣で電話機から(わた)のようにぶら下がった受話器のコードまで、トツカには簡単に想像できた。

「あんたは殺したと思ってるんですか?」
「プロが『違う』と判断してるから、どうだろうね」
ナゴシは口を拭いたナプキンを畳み終えると、ファイルをかばんにしまった。
「でも毒って、要するに試薬の反応で調べるわけじゃない? 化学物質ってそれこそ星の数くらいあるから、警察の試薬が対応してない毒ってのはわりかし簡単に見つかると思う」
「それをスティーリアが?」
「分からないぞー。でも普通のロボットって沈黙はあっても嘘はつかないからね」
「あれですか、どうたら三原則とかいう」
いンや、とナゴシは片目をつむった。
「あそこまで役立たずじゃないさ。今のロボットはもうちょいマシな基幹部品(カーネル)がどいつの頭にも入ってる。それこそ、きっと棄械(スロウン)にだってね」
始業ベルが鳴る前にナゴシは士官候補生の座学へと行った。
トツカも同じように授業を受けていたが、少し考える時間ができると、昨日のことばかり思い出してしまった。

シズはスティーリアと会話していた。それも楽しそうに。
ひと口に『殺した』といっても色々ある。
もしかすると家庭でトラブルがあったのかもしれない。シズは年端(としは)も行かない子供だった。保護者代わりだったスティーリアが、シズや自分を守るために母親を毒殺した――とか。
あり得る話だった。カゲキも同情したからスティーリアを持ち帰って直したのだ。

「あのガイノイドのこと、どう思ってるんだ?」
教室移動のどさくさに、トツカはシズに尋ねた。
シズと話していた女学生が迷惑そうに見てきたので、トツカも苦笑で受け流す。
「悪い、寮で色々あって……」
「きよっぺの寮、男女一緒なの!?」
女学生の目が丸くなる。
「ん……トツカくんと一緒。あっ、部屋は別だけど」
「うっそ、マジありえん」
何か汚らしいものでも見るように睨まれてしまった。
シズは首をかしげていた。気にすんな、とトツカは呟いた。

「あ、スティーリアのことだよね」
「まあな……忙しいならまた」
「あの子、本当はすごく寂しいんだと思う。トツカくんには本当にゴメンなんだけど」
いよいよ女学生が白目をむき始める。
「おい、言っとくけど違うからな?」
「え、でも寂しいって、そういうことじゃ……」
「スティーリアのこと、捨てないであげて。トツカくんだけが頼りなの!」
シズが手を握ってきた。もう言い逃れできない。
「……あー、オレ、一応、まだドーテーだから…………だからその」
「行こっ、きよっぺ!」
シズが女学生に連られて去っていく。
バイバイと手を振ってきたのでトツカも応じたが、まったく力が入らなかった。
ボケーと突っ立っていると、ガラガラと周りで何かが崩れていく音がした。たぶん、今回崩れたのはバラ色の青春とかそんなものだった気がする。

きっと、その欠片(かけら)はピンク色だった。
明日から残るものはもう半分の灰色ばっかりだ。

結論から言うと、人の噂は半日で千里を走った。

「あーもうやだやだやだやだやだ……」
トツカは寮の床へとバッグを投げ出す。
急いで帰ったせいで、閉じ忘れた口からどさどさと教本やノートが散乱していった。
そいつらを片付けるのも面倒になってきて、そのままバフッとベッドに顔から突っ込む。ちくちくと粗い毛布で頬がこすれたが、今はそれ以上に心が痛い。
「どしたの?」
スティーリアがのぞき込んできた。やっと服を洗濯したのか、柔軟剤の香りがした。

「だいたいあんたのせいなんだよなぁ……」
「相談なら乗ろっか?吐き出したらラクになれるかも」
目を上げると、女は変わらない微笑みを浮かべていた。
これが、こいつのデフォルト顔だ。なるほど大した基幹部品(カーネル)を積んでやがる。
「……昔からロボットって嫌いなんだよ。シブヤの乗り換えでもオレの(なま)りで駅のインフォが反応しなくてよ、コンビニで案内を買う羽目になって。ああいうのは人のぬくもりが一番だろ、何考えてんだジェーアールだか区だか知らねえけどさ……」
「おおマスター、なーんて可哀想によーしよしよし……」
細い指がしゃくしゃくと髪を撫ぜてくる。意外と頭のツボを選んで押してきていて、だんだん眠たくなってきた。
その気持ちよさすら、なんだか無性に泣けてきて、トツカは毛布を顔に当てた。
「そもそも何だよ、マスターって。オレ、あんたをいじった覚えは()ェぞー!」
「命令だったの」
スティーリアは片目を閉じた。「次に来た人の命令を聞けって」
またシズの兄か。会ったこともないのに振り回されてばかりだ。

「だーもー!」
ぐるぐると毛布にくるまって転がる。もう退学でいい。一生分の恥をかいちまった。
「すっかり他人を連れ込んでしっぽりやってるヘンタイだよ……どう出歩けってんだ」
「え。マスター、しっぽりやってるの?」
「あんたとって設定な?ああくそ、燃えるゴミの日に出されちまえばいいのに……」
「いいじゃない、女の子を連れ込める顔に見られてるってことでしょ」
「じゃあオレ、イケメン?硬派に見える?」
「うん。イケメンイケメン。知らないけど」
手がそっと離れていく。
少しすると、部屋に申し訳程度に設置されたコンロを点火する音が聞こえてきた。
さくさくと何かの袋が開封されて、食器棚から出した器がテーブルに乗る。

「……何やってんだ」
「ロイヤルミルクティー」
スティーリアは紅茶の缶を揺らした。
「ここ、倉庫に使われてたから。疲れてるんでしょ?」
「牛乳なんてあったか?」
「粉ミルクを使うことにする。どうせ安舌(やすじた)してるから分かんないだろうし」
スティーリアは手慣れた手つきで鍋に放り込んだ茶葉を蒸らしていく。
トツカがデスクの前に座ると、すぐにマグカップ一杯の紅茶が出てきた。ミルクと一緒にハーブも入れたのか、鼻を近付けると良い香りがした。
「ママも好きだったんだ」
スティーリアは向かいに立って言った。
「ママ?」
「うん、キョウカの。私が淹れたお茶を、いつも飲んでくれてさ」

トツカは手の中でマグカップを回す。白と小麦色の水面がくるくると渦を巻く。
「シズは六歳だっけか」
「そう。私じゃ全然寝かせられないから、いつもママにおやすみをしてもらってて」
「殺したんだろ」
「うん」
スティーリアの表情は崩れない。
「分からねえんだ。正当防衛だったのか?ずっと考えてたんだが、どうもシズの態度が腑に落ちねえ」
旦那様(マスター)
と言って、彼女はまばたきをひとつした。
ひと呼吸分だけ、間があった。
青い瞳がほのかに燃え、細い咽喉(のど)に空気が吸い込まれる。
「誰かが意図的に人を死なせたら、それって殺人に問われると思う?」
沈黙が続いた。

そっとトツカが見つめると、スティーリアも見つめ返してきた。瞳の深いところに青い炎が見える。うつろな穴の奥底で燃え盛って、ゆらゆらと揺れている。
「意図的って、そりゃ……そうだろ」
「私もそう思った。だから、殺したって言ったの」
唇が機械的に動く。
スティーリアは目を閉じた。青い炎が消えて、淡い色のまぶたが合わさる。

「マスターは、どうして人を殺しちゃいけないんだと思う?」
泥のような沈黙が続き、蛍光灯のじりじりという音だけが耳に響いた。
じっくりと考えたあとで、トツカはマグカップを下ろした。
ハーブの名前を思い出した。シナモンだ。たくさん入っていて紅茶の香りが強い。意図的に強くしてある。
ちょっとくらい毒が入っていても、誰も気付かないくらいに。

「当たり前だろ。まともな人間だったら良心がある」
トツカが眠ったときも、スティーリアはデスクの正面に立ったままだった。
紅茶の湯気が立ち昇って彼女の口もとを白く隠す。
もしかするとその一瞬、彼女は笑みを消していたかもしれないし、泣きそうに唇を引き結んでいたかもしれない。
どちらにせよ紅茶が冷めたとき、彼女はまた例の微笑み顔に戻っていた。マグカップの中身を流しに捨てるときも、眠るトツカの顔をのぞき込むときも。

「ごめんね」
ベッドで眠る少年に、彼女はそっと言った。
昼飯どきのカフェテリアには珍しく、雑誌スペースには新聞が残っていた。
ざる蕎麦を置いてトツカが取りに行くと、ヒシダテが取り出すところだった。向こうもトツカに気付いて、手に持った新聞と見比べる。

「君も、これ?」
「別にいらん。ニュースだったら夜に寮のテレビでも見る……」
「いいよ。一緒に読もう」
彼はまたチャーシュー麺を頼んでいた。新聞を挟んでトツカの隣に座り、興味なさげにスポーツ欄をめくる。

「また、そのみみっちぃのかい?」
トツカがトレーを置くと、彼は目も上げずに言った。
「うるせえ。これでもニッポン伝統の完全食だぞ」
「兵隊にはカロリーが足りないよ。胃だって細くなる」
「おまえこそラーメンばっかりで舌がバカになるんじゃねぇか?」
「それが何か。ソムリエになる予定はないから」
午前は座学だったらしく、ヒシダテの金髪はまだ景気よくツンツンと尖っていた。
整備科というと生傷が絶えないものだが、特別なケア用品でもあるのか、ラーメンをすする彼の指に傷は見られない。やはり実家が太いのだろう。

「眠れてないみたいだね」
「分かるのか」
「夜は寝かせてもらえない、の方が正しいのかな」
ヒシダテは喉の奥で笑った。トツカがぺしりと頭をたたいてもまだ笑っている。
「冗談だって。真に受けるなよ」
「こっちは命の危険なんだぞ……」
「聞いたよ。シズ・カゲキが(のこ)した殺人ガイノイド。大変だよね」
「まったくだ。ふざけてやがる」
さっそく部屋の変更願を学生課に出したが、未だに回答が来ない。
あるいは手違いでもあったのかとハバキ教官に直談判したが、「まだ実害は無いのでしょう?」の一点ばりだった。腕の一本でも折られてから来い、ということなのだろう。

「それはそうとしてヨーロッパの方は大変、と」
ヒシダテが新聞をめくる。
政治面では戦線のことが記事になっていた。ドイツは棄械(スロウン)たちに突破されて、フランスに決死部隊を展開させたとか、ロシアでは水際の遅滞戦術が続いている――とか。
「仕方ねえよ。向こうは大陸で地続きだ。国境のどこか一ヶ所がダメになったら、そこからぞろぞろと流れ込んできやがる」
「島国はのどかなもんだね」
「この国の場合、一度は撃退したからな。余裕があるんだろ」
これと比べたらスティーリアの件は些事(さじ)なのだろう、とは思う。
戦争の始まりは名賀野(ナガノ)だった。
またたく間に北陸全体に広がった棄械(スロウン)どもに、新設のORBS部隊をぶつけたのは政府の数少ない英断だったと言える。シズの兄たちが食い止めるあいだに、後方にありったけの火力を集めることができた。

「でもドイツにもORBSはあったんだろう?」
「あるにはあっても、動かす人員が足りてねえんだろうな」
トツカは蕎麦をすすって言った。
「今さら間に合うわけねえよ。専用のオペレータと整備班の育成、生産ラインの確保、補給プランの立案と十年単位の配備計画。ただの戦車を増やす方がよっぽど能率的だ」
「……きみもツルマキ教官の戦史講義、受けてたんだ」
ヒシダテが苦笑する。
「ん……あの人、どのクラスでも話してんの?」
「うん、一言一句まるっきり同じ。ORBSと比べたら戦車のがマシって」
いくら強くてもカテゴリの違う新兵器は導入が難しい。

かつてのニッポンでも、ろくにORBSを修理できなかったと聞く。
先の戦争での未帰還率は七割を超えた。推進器が大破し、ほとんどの装甲が剥がれたゾンビのような特機歩兵たちが、地を這いずりまわってようやく得た勝利だった。
「ニッポンから兵隊を派遣してあげればいいのに」
「まさか。激戦してるところに島送りなんて、世論サマが許しちゃくれねぇって」
「なんとまあ対岸の火事だねぇ」
「対岸どころか地球の(うら)っかわだしな」
ヒシダテはつまらなそうに新聞を閉じて、折り目を押さえた。
「まあいいや。士官コースは、次の授業でやっと『飛ぶ』んだっけ?」
「ああ」
トツカはにやりと笑った。
「やっとCGのシミュレータとはおさらばだ」
「壊さないでおくれよ。そっちでやられた機体はこっちに回ってくるんだから」
「OK、検討しとく」

食事が終わり、ヒシダテと別れたあとでトツカが食器を洗っていると、反対の壁際の席でシズがまた地形図を開いているのが見えた。
地形図の隣にはハンバーグの皿が置いてあるが、やはり手を付けた様子はなかった。
「おい、昼メシ終わるぞ」
トツカがすぐ後ろに立っても、彼女は気付いた素振りもない。
開いてあるのは古い地形図のコピーだった。稜線(りょうせん)に沿って兵科記号がびっしりと書き込まれている。山がちな地形だから、たぶんニッポンだろう。
「ナガノか」
「……トツカくん?」
初めてシズの顔が上がった。脇に置いたタブレットが、六回目のアラームを鳴らす。

「次の授業だ。さっさと食ったらどうだ」
「あ、うん。またやっちゃった」
昼食に誰も同席していないのは、たぶん彼女の方から断っているのだろうと思う。
シズがハンバーグをかき込むあいだに、トツカは地形図を畳んでやった。
やはり名賀野(ナガノ)の地形図だった。兄の参加した作戦をなぞっているらしい。勉強熱心なことだ。
「宿題なの」
食べ終わると、シズは人差し指を口に当てて言った。
「秘密ね?」
「普通の人は、秘密を授業中におっ(ぴろ)げない」
「私は普通じゃないから良いでしょ」
「タチ悪いな。自覚してたのかよ」
ふふ、とシズは笑う。こいつ、完全に開き直ってやがる。
トツカは目を逸らして「いいから行くぞ」と言った。



グラウンドの端の飛行場では、すでに生徒たちが整列していた。
「あーらあら。よく噛んで召し上がってらしたのねー?」
青筋を立てたハバキ教官が、駆けてくるトツカたちを睨む。
一歩、シズが進み出た。
「私のおしゃべりに付き合ってもらってました!」
「わたくしの授業よりお大事な?」
「はい!」
生徒たちが何人か噴き出す。トツカが肩をすくめて列に加わると、両脇から小突かれた。

「マジで度胸あるよな」
横の連中がささやいた。美人は何をしても好意的に見られるから得なものだと思う。
「前からあんな感じだろ、あいつ……」
「いや、おめーだよ。重役出勤しやがってよ!」
軽く後ろから脛(すね)を蹴られた。履いているのがブーツだからかなり痛い。
「そこの殿方たち、いい加減になさい」
ハバキ教官がため息をついて後ろを向く。
飛行場には背丈の二倍ほどもあるORBSの外縁装甲(アウトフィット)が、すでに三体分用意してあった。

『グラム』タイプとは違うらしい。迷彩パターンは森林を意識した茶色と緑で、翼の形状も六角形のクリップドデルタになっている。装甲もステルス性を重視したのか丸っこい。
「最新鋭の『カリバーン』モデルです。お美しいでしょう」
紹介するハバキは何故か浮かない顔だった。
「訓練機の準備が間に合わず、今回はこちらのORBSを使っていただく運びとなりました」
「武装はあるんですか!」
誰かが声を上げた。
「いえ。しかし出力も調整しておりませんので、正式配備機とまったく同じ速さ、挙動、そして危険性を体験していただくことになりましょう」
ちらりとトツカと目を合わせてくる。

「……まあ、遅れてきた御仁がいらっしゃいますし、まずはお手本となってもらいます」
トツカは自分を指差した。
「……オレ?」
「ええ。『慣れて』らっしゃるでしょう?」
あっという間に列から押し出された。シズも追って並んできて、ハバキは何か言いたそうだったが、諦めて他を見渡した。
「もうひとり枠がございます。どなたか?」
女子がひとり挙手した。よく覚えていないが、ホームルームの副委員長だったはずだ。

ハバキが脇のコンテナからケーブルをぐるぐると巻いたグリーンウェアを取り出してくる。
「あ、どうも」
トツカは手をかざす。
だが何も起こらない。
しかめ面になって手を振る。やっぱりグリーンウェアはぴくりともしなかった。
「……トツカ、何をなさっているの?」
「いや、こうしたら自動で装着できるんじゃねえかなって……」
後ろで笑いが起こった。トツカは舌打ちして、上着を脱いで袖に手を通した。
『グラム』のときは勝手に動いていた。やはり量産型だから色々と安っぽくなってる。

残りのふたりも装着が終わり、外縁装甲(アウトフィット)のブースターユニットに足を通す。かちりと足首と太ももにロックがかかると、胸の高さに固定具が下りてきた。
そちらも義装のソケットに接続し、最後にヘルメットの丸いバイザーを下ろす。
「あー、あー、本日は晴天なり、本日は晴天なり」
ヘルメット内のスピーカーから、ハバキの高い声が飛び出した。
「曇ってますよ、空」
「こう言う決まりですの。無線の講義は?」
「テストがまだで復習もしてないです……あ、上官殿(マム)
上品な悪態が聞こえてきた。
ひとつ咳払いを挟んで、ハバキは続ける。

「操作は視線と音声で行いますの。まずは『起動、ファーストフェイズ』と(おっしゃ)って」
「起動、ファーストフェイズ」
その瞬間、ぐさぐさとグリーンウェアから針が飛び出した。
トツカがうめく横で、シズたちが悲鳴を上げる。他の生徒たちもザッと足を引いた。
「あ。検針(スチレット)がお肌を刺しますのでお覚悟を」
ハバキがひたいを押さえて言った。本当に、この人は。
「教官、わざとですよね?」
「忘れておりました。それだけです」
ハバキは嫌味たっぷりに笑って、続ける。

「では二次電源を始動しまして、まずは各部の点検を――」
「すみません」
細い声が割って入ってきた。例の副委員長だ。もぞもぞと身体を動かしている。
「あ、あの」
「あら。お花摘み?」
「いえ!その、止まらないんです!」
胸の固定具をつかんで、ガチャガチャと揺らす。ヘルメットのバイザーに何かの警告が表示されていた。トツカたちが見ているあいだにも、どんどん赤い表示が増えていく。
ハバキの笑みが消えた。

「動かないでくださいまし。今、外から停止措置を」
「何が起こってるの?た、助けて教官!見えない。見えないの!教官!誰か――」
次の瞬間、『カリバーン』のブースターユニットが爆炎を上げた。
ほとんど爆発と言ってもよかった。

膨れあがった赤い閃光が、周囲の空気を押し流す。球状に広がった衝撃波が地面を叩き割り、その反作用で『カリバーン』の巨躯が空高く吹き飛んでいく。

トツカがまばたきした視界に、『2』と印字された肩と、白っぽく輝く残像がわずかに映った。

「なにが――」
エンジンが起動したのは分かる。9Gはかかっているような急加速だった。
あの女学生が何かを弄った様子は無かった。
安全装置が外れていたのか。それともマシントラブルによる誤作動か。
「トツカくん」
ヘルメットにシズの声が響いた。
「あ、ああ。こいつ脱がないと……」
「今の、『銀色』に光ってなかった?」
シズがバイザーを跳ね上げる。蒼白になった顔が震えていた。
銀色。棄械(スロウン)の色だ。

「……冗談だろ?」
「追いかけなきゃ」
シズはハバキ教官を向いて、声を張り上げた。
「エンジンスタータとアビオニクスの起動スイッチはどこ!」
「それでしたら右のアイコンから――」
ハバキ教官はもろに泥を引っかぶってひどい有様だった。途中まで言いかけたところで、はっと気が付き、大慌てでシズに駆け寄ろうとする。
「嘘。今の嘘です!シズさん、おやめなさい!無茶です!いけません!」

だが既にシズは酸素マスクを着けていた。
背面のベクタードスラスターが左右に首を振り、脚のブースターからも光が迸る。
もうひとつ爆発が起こり、シズの姿も空に消える。
「オレ、止めてきます」
トツカも視線操作でエンジンを始動しようとした。

バイザーの向こうで、ハバキ教官が通信機を耳に当てたのが見えた。
「ああもう。ウルミさんの二番機は南南西に向かっております。森林地帯ですわ」
「……オレは止めないんスか」
「だって、あなただけはお話を聞いてくださいますもの!」
「嫌な信頼ですね、それ……」
プリフライトは最低限に済ませた。シズの機体が飛べたなら、こちらも行ける。

装着した酸素マスクからは強いゴムのにおいがした。
計器を見るに、脚部に充填された燃料はほぼ満タンのようだった。移送ポンプを動かして、エンジンにケロシン燃料を飲み込ませる。間もなくブレードが回転を始めて、出力計の数字が跳ね上がる。
「離陸出力でブン回します。五分なら続くんですよね!」
「え、ええ」
火器管制システムが、空っぽのウェポンベイを知らせてきた。追い付いたら、体当たりしかない。

「本当に三機とも非武装なんですか、ハバキさん」
「ええ。そのはず……」
弱々しい声だった。この人も怖気づいてる。
「はずじゃ困るんだよ。教官なら決めつけてください!」
「……非武装ですわ」
「その言葉、信じますよ」
回転数をさらに上げたところで、アフターバーナーを起動した。
地面が一瞬で離れていく。

関節が自動でロックされ、装甲が身体を覆うようにスライドした。
すぐに音の壁に衝突する感覚があって、風の音が消える。外部カメラからの映像が出力されると、シズの機体が遠くに見えた。
シズは先行する二番機の周りをバレルロールで旋回していた。
あの機動なら出力を落とさずに速度だけ合わせられる。アフターバーナーも点けっぱなしだった。

向こうの搭乗者は、離陸時のショックで気絶したらしい。
迷彩柄の装甲の隙間から、ケーブルに覆われた腕がだらりと下がっていた。
そして腕が抜けた隙間を縫うように、銀色のかたまりがせり出しているのが見て取れる。
「ターゲット、高度(FL)0600、加速度ゼロで巡航中。こちらからの呼びかけに応答なし。一番機、ターゲットに接触します」
シズが通信してきた。
棄械(スロウン)か?」
「うん。もう駆動部をやられてる」
トツカも暴走機に近付いて、さっきより銀色が侵食する部分が広がっているのを見た。
シズの機体が急制動をかけ、腕部マニピュレータを展開させる。
「一番機、相対速度(RV)ゼロ……取り付きました。教官、次の指示を!」
「脚を払ってくださいまし」
ハバキの声がした。自動車で追いかけているのか、通信にエンジン音が混じっている。

「推進ベクトルを発散させて、まずは速度を落とすのです」
「脚部へ衝撃、一番機コピー。攻撃に移ります」
「三番機、コピー。こちらも仕掛けます!」
トツカは機体姿勢を『巡航(クルーズ)』から『戦闘(コンバット)』に遷移させた。
装甲が跳ね上がり、関節のロックが外れる。機体が一回転すると、遠心力で四肢を構成するマニピュレータが広がった。
機体が安定を取り戻した瞬間、外部カメラからの映像が消え、照準システムがレーダー追尾から肉眼の視線追従(アイリンク)に切り替わる。
表示された照準円が暴走機を捉えた。フレンドリーファイアの警告表示が視界に躍る。

「三番トツカ機、ターゲットロック!いつでも合わせられるぞ」
「一番機、了解!ファイヴカウントで行くよ。四、三、二……」
ベクタードスラスターが横に振れ、機体が横滑りしていく。
暴走機の脚部が目と鼻の先まで近付いた。マニピュレータを引いて、握りこぶしを作る。いくら正式採用された量産機でも、精密機器の推進器だけは変わらず脆い。ただ壊すだけなら簡単だ。
「今!」
ほぼ同タイミングでこぶしを繰り出した。風音が響き、マニピュレータが迫っていく。

あと数センチ、というところで急に手応えが消えた。
暴走機の姿が無くなっていた。目で探す間もなく、銀のニードルが下方から飛んでくる。
「くっ」
ブレイク。蹴り出した脚の反動でロール機動をかけ、すんでのところで回避する。
ぐるぐると回る視界に、森を背にした機体が映った。
茶色と緑だった機体はすっかり棄械(スロウン)に侵食されて、もはや銀色の部分の方が多い。
バイザーを覆った金属塊がごぼごぼと泡立ち、巨大な一つ目を形成する。湿り気を帯びた赤い瞳孔が開くと同時に、暴走機は大きく右手を振り上げた。

光線が目の前に迫った。
とっさにトツカが上げたマニピュレータが、火花を散らして切断される。
チェーンソーを思わせる甲高い切削音が聞こえた。
その音と共に伸びてきた光線がゆらめき、長大な刀身の姿を現す。
蛇腹状に繋がった刃が鈍く光り、(むち)のように空中を縦横に切り裂いていった。残心を取った暴走機が腕をひと振りすると、刃先がヨーヨーのように右腕へと収納されていく。

一つ目がトツカを見て、細くなった。
笑った――こいつ、遊びで戦ってやがる。
「トツカくん!」
「あの野郎、即席でカタナを作りやがった……」
マニピュレータの切り口は赤く融解していた。切れ味は悪いようだが、斬撃がそれ以上に速い。まともに受ければ摩擦熱で溶断されてしまう。

シズが高度を取った。トツカも急加速で距離を置く。
敵は残心を取ったまま動かない。追ってこないのは、得物の間合いを悟らせないためだ。
ゆるくサークルをかけながら、トツカは舌打ちした。
あの刃の連なったワイヤー、どこまで届くか全く読めない。さっきは目測で五十メートルだった。そこが限界射程かもしれないし、やろうと思えば何キロメートルでも届くかもしれない。

「ハバキ教官」
トツカは回線を開いた。
「『カリバーン』のパワーユニットはどこに」
「主電源はグリーンウェアからの直流ですわ……今の音は?」
「腕をやられたんです。グリーンウェアさえ外せば良いんですよね」
「え、いま腕と申されました?」
「メカの方です。サバイバルパックはまだ無事です!」
「パックって、あなたまさかナイフを――」
通信を切って、深呼吸する。

装着者さえORBSから引き離せば、なんとでもなる。
グリーンウェアと外装はハーネス三本で繋がっているだけだ。そこを切れば動力の供給も断たれる。
トツカは計器を確かめた。現在高度、800。空戦機動における加速は、落ちるときの運動エネルギーを利用する。損傷した機体でマッハは出せないが、取り付く速度くらいなら出せる。

「シズ、たぶん痛いぞ」
「何するの」
上空でシズは旋回を続けている。
位置エネルギーを考えると、彼女の方が早く接敵できるだろう。
「二分の一だ。同時に仕掛けて、先に取り付いた方がハーネスを切って、助ける」
「でも武器が……」
「あるんだよ、一本だけ」
トツカは後ろに手を回した。思った通り、厚みのあるサバイバルナイフが差してあった。
本来はパラシュートの絡まったストラップを切るためのものだが、握り手が絶縁してあるから大電力のハーネスもきっと切り離せる。
シズもナイフを取り出していた。互いにハンドサインを交わし、三秒を数える。

「行くぞ!」
同時にアフターバーナーを起動して下降する。
見る間に地表が迫った。ソニックブームで森がなぎ倒され、散った木の葉が排熱で燃えていく。パワーダイヴで運動エネルギーを稼いだところで、動翼(エレベータ)を一気に引き起こす。
「ぐ……ッ」
視界が一瞬だけ真っ黒になった。
ふたたび視力が戻ってくると、目の前に銀色の刃が連なっていた。敵が腕からワイヤーを射出しながら上昇を始める。引っ張られた刃がトツカの胸に当たって、ざりざりと装甲を裂いてきた。
ゆうに百メートルは離れているのに、届かせてきた。やはり奥の手を隠していた。

「まだ……!」
構わず垂直上昇を続ける。
曇り空をバックに、二機のORBSが駆け上がっていく。
ふたたび襲ってきたワイヤーが、大きくトツカの装甲をえぐった。
回避しなければ――脚を動かしかけて、すんでのところで思いとどまる。
既に両機とも超過上昇(ズームクライム)の姿勢に入っている。ここで回避マニューバを取れば上昇するために必要な運動エネルギーが失われ、敵の離脱に付いていけなくなる。
最後の装甲板も()かれ、グリーンウェアのケーブルが弾け飛んだ。チタン装甲の破片がバイザーに当たって視界に亀裂が入る。無数のダメージ報告がポップアップし、電源が予備系統に切り替わる。

だが、もう敵はすぐそこに見えた。手が届くまであと数メートル。
雲に突っ込んだ瞬間、胸から刃が離れた。
「お願い!トツカくん!」
雲を抜けた先の青空では、シズがマニピュレータでワイヤーの刃を握っていた。ワイヤーが伸びた先では、敵が機首を倒した姿勢に入っていて、今にも地面へと落ちそうになっている。

シズは、奇襲のために先回りしていた。体当たりは紙一重で回避されたようだが、もはや敵に上昇できるだけのエネルギーは残されていない。
敵が腕を引いた。
シズ機のマニピュレータが切断され、ばらばらと落ちていく。だがシズも装甲任せに胴体に巻き付けて離さない。装甲と刃がかち合い、派手なオレンジの火花が咲き乱れた。

「了解!」
トツカはエンジンを叩き起こした。
ほとんど吸気できずにあえぐチャンバーが、最後の空気を潰して吐き出す。
ぶつかった瞬間は、ほぼ交通事故のようなものだった。ワイヤーを掴まれてもがく敵を、横合いから限界出力で突き上げる。傷ついたバイザーが外れ、数センチの距離に棄械(スロウン)の一つ目が炯々(けいけい)と輝く。
マシンとケーブルにまみれてもつれ合いながら、トツカは右手のナイフを握り直した。

女学生は装甲と推進器に守られて無事だった。紫色になった唇が動き、何かを呟く。
「オレだ、助けに来た!動けるならアウトフィットを外せ!」
女学生はわずかに身じろぎしたが、それだけだった。
酸素マスク無しで対流圏をひと息に上昇したのだ。低酸素と減圧症のせいで血中の窒素が沸騰してしまっている。
「くそっ」
暴れる敵のマニピュレータを殴り飛ばし、背中にナイフを挟み入れる。手当たり次第に切り刻んでやると、ある瞬間に重さが消えた。

「あ……」

ORBSの音が静かになる。
女学生の、白い顔がゆっくりと下方へとスライドしていく。
抱き留めていたはずのトツカの腕から、彼女の痩せた身体だけがすり抜けていった。
あとには、さあっと血が引いていく感覚だけが残った。
彼女のヘルメットからは、耐Gフラットケーブルがへその緒のように機体へと繋がっていた。伝達ハーネスを切られ、機能を失った『カリバーン』が重力に引かれて落ちていく――女学生の身体を接続したまま。
ぱっと銀色の破片が散らばった。落ちるにつれて流星のようにみるみる小さくなって消えていく。動力を失ったフレームがゆらゆらと光を反射した。
自壊する『カリバーン』から棄械(スロウン)の欠片が次々と剥がれていく。むき出しになった矮躯(わいく)を風が包み込むと、ひゅうひゅうと笛のような音が鳴った。

それを空から追うものがあった。

まっすぐ地面へと直撃コースを取って、刀傷だらけのORBSが噴射炎を棚引かせる。
硬いものが割れる音が、数秒遅れて機体から飛び出した。
何が起こっているか理解した瞬間、トツカは叫んだ。
「シズ、やめろ!」

音速に達した瞬間、風防装甲が吹き飛んだ。むき出しになったブースターユニットが次々に分解し、翼の前縁が赤熱しながらひしゃげて、わずかに残ったアクチュエータが動翼をばたつかせる。
落下するORBSに抱き着くと、シズは逆噴射をかけた。
それでも半壊した推進器では二機分の重量は支えられず、バランスを失ったきりもみ飛行が始まる。緊急用の制動傘(ドラグシュート)が展開したが、もう遅い。
土煙があがった。

殺しきれなかった衝撃で、木々が重なり合って倒れていく。のたうつように地面がめくれ、気化した燃料があちこちで爆炎を上げた。爆風はトツカの高度まで及び、鼓膜が裏返るような痛みが走った。
終わってみると森には一文字の道が出来ていた。
道の続く先で、真っ黒に焦げた鎧がふたつくすぶっている。女学生の方はまだ原型を残していたが、かばったシズはグリーンウェアまで裂けていた。

「……シズが墜落した」
トツカは酸素マスクを脱ぎ捨てた。凍えるような風が頬を撫ぜていく。
「二人分の担架をお願いします。生きてるか分かんねえけど……とにかく、お願いします」
ハバキがどう答えたか、覚えていない。
救護班がやってきたとき、トツカはシズの手を握っていた。血まみれになった指にはまだ握り返すだけの力があって、ひとまず安堵できた。
「私……」
彼女が口を開く。
「なんでだよ!馬鹿なことしやがって!」
耳が聞こえていないらしく、彼女は安堵したように微笑んだ。
「よかった。あのね……」
すぐに救急車両にかつぎ込まれて最後まで聞くことはできなかったが、シズが言いたいことはトツカにも理解できた。

演説で彼女は語っていた。
――『私が務めを果たすことで、未だ名も知らぬ戦友がいつかの安息を得られるのなら、進んでこの身を捧げましょう』――
この人は、躊躇(ちゅうちょ)なく実行した。総毛だった腕を、トツカはこする。
兄も同じようにやっていたのかもしれない。遺伝か、それとも学んだのか。
どっちでもいい。
彼女は自分の命を簡単に捨てられる。もはや化け物だ。英雄の妹というだけで、この人は意思ひとつであそこまでやってみせるのだ。
曇り空は翌日には雨に変わった。

昨日の事故は調査中らしく、誓約書にサインだけしたら、さっさと解放された。
「他言無用だぞ」と最後に白シャツのおっさんに言われたのだけ覚えている。
上京した日の戦闘も、後処理は憲兵隊にちょっと質問されただけで終わった。今の時代、珍しいことでは無かったのだろう。ほとんど世間に公表されていないだけで。

しとしとと滴る雨だれを避けるように、トツカは体育館と教室棟のあいだを駆ける。
春先の雨といっても暖かくなる時分はまだ遠く、濡れて歩くには(こた)えるものがあった。
雨が降ると、実家では姉弟子のウツリが道場から家まで送ってくれた。そういうときの彼女は穴の開いたコウモリ傘を片手に、長々とした帰り道を歩くあいだずっとトツカに昔話をしてくれたものだった。

ウツリは誰よりも早く出征して、戦争が終わる前に帰ってきた。
……半分死んだような身体に、退役証明書と名誉除隊勲章を提げて。

退役したあとも、やはり彼女は雨の日になると道場まで迎えに来てくれたが、今度はトツカが傘を差していた。
「ほとんどの怪我は耐えられると思ってたのに」
トツカが町を出る一週間前、ウツリは歩きながら装具を撫でて言った。
奨学金の申請の関係で、トツカが正式に養子に入った直後だった。

彼女の細いうなじからはサクラの香りがした。他の道場から師範代が研修に来た、という日で、久しぶりに香水を振ったそうだ。
昔から姉弟子は男みたいなところがあって、雪駄に黒い着流しという格好をよく好んだ。アルミニウムの装具で半身をがんじがらめにされていても、細い身体に和装はよく似合っていた。
「罪悪感っていうの?心の痛みだけは慣れないのよね。私が欠けたらみんな迷惑するって分かっちゃうもの」

かつて、あんなに速足で歩いていた彼女が、今は足を引きずるしかない。
トツカは見ないふりをしてうなずいた。
「惜しいよな。義姉(ねえ)さんは天才剣士だったし」
「でも時代は鉄砲だったのよねーって……」
ウツリは左の指で鉄砲をつくり、ばーんと虚空を撃つ。
「レイギもムラクモ学校なんて。あそこ、そんなに良いものでもないのに」
「兵隊になるなら学のある士官って言ったのはウツリ義姉さんじゃねぇか」
「うん。仕官は徴兵まで待つとかほざいたら、お醤油を一升瓶で飲ませるつもりだった」
こういう物騒な話のとき、彼女はいつも真顔だ。トツカは肩を落とす。

「ニッポンじゃ向こう数年は戦いなんて起こらねえんだろ?」
「そうね。そうだと良いけど」
ウツリは細い目を開く。形の良い紅色の瞳が、宝石のように光った。
「なのに、オレには軍隊に入れってうるさくしやがるんだから。義姉さんたちが棄械(スロウン)どもを全部やっつけたんじゃねえのかよ」
「そうだけど……時代は繰り返すものだと思うから。遅かれ早かれ」
と小さく言ってから、彼女は「ごめん」とかぶりを振った。
雨が強くなる。トツカが傘を傾けてやると、ウツリはばちばちと雨をはじく生地を見上げた。()けた頬に濃い影が差していた。

「私たちのこと、人身御供(ひとみごくう)だって言われてたでしょう?」
「……ああ」
英雄に手を合わせる人間は多くても、どいつも「自分じゃなくてよかった」という顔をしていた。正直、あんな顔をするなら見舞いになんて来てほしくなかった。
「彼らのこと、あんまり怒っちゃダメよ。人間って、知らないことは悪くしか見られないんだもの」
「それ、馬鹿みたいじゃねえか」
「私たちだって知らないことは多いもの。そういうものは、すごく馬鹿みたいに見える。でも、そこで考えが止まっちゃダメなのよ」
その日初めて、ウツリは笑った。

怪我で除隊してから、彼女は控えめに感情を出すようになった。色々とストイックになったのかもしれない。
「『直観(ちょっかん)』よ、レイギ」
微笑んだまま、ウツリはいつもの言葉を口にする。
「賢くなりたいなら、思い込みと経験を切り離して、物事を(すなお)()る目を持ちなさい」
家に着くと、ウツリは袖を絞りながら、不自由な右手で戸を開けた。
食卓につくなり、出世祝いしないとね、と言って炊けたばかりの赤飯を用意する。
トツカが酒を用意してやると、ウツリはだらしなく笑って(さかずき)(あお)った。
「おいしい」
こういうときだけは、彼女も思うことを素直に顔に出してくれる。

トツカが戦場で何があったか尋ねても、ウツリは何も教えてくれない。ただ、砕けた首の骨と一緒に動かなくなった右半身だけが、激しい戦いを物語っていた。
間違いなく義姉はあの戦場で何かを失った。
身体の半分と、それ以上に大事なものを一緒に。
「次のニュースです。来週の戦勝パレードに向けて――」
「レイギ、テレビを消して」

はっとして、トツカは急いでリモコンに手を伸ばす。にこやかに語るニュースキャスターの顔がぷっつりと消え、黒いディスプレイの下地に切り替わる。
テレビのガラス面にウツリの顔が反射していた。
能面のような無表情の真ん中で、暗い色をした紅色の双眸だけが石炭のように光っている。
「誰も、そのままを見ようとしないで……」
ウツリが低く言うのが聞こえた。
トツカは知らないふりをして、空になった盃に酒を注いだ。



見舞いには菓子か花が良いと聞いている。
シズはきっと、どちらでも喜ぶだろう。だがあんまり変なものを選んでも仕方がないので、買い物には同伴者を付けることにした。
「お菓子はやめた方がいいかな。キョウカはたぶん食べない」
スティーリアはさっさと菓子コーナーを通り過ぎた。

日曜の半舷休日ということで、土産を見繕おうと売店に来たが、ここは一般にも開放しているそうで一般の客も多い。商品を見るとORBSのステッカーやら、教官たちの写真が載ったカレンダーなんてものもあった。もしかするとここの収入は学費よりこっちの売り上げがメインなのかもしれない。
先日の事故は、まだ発表されていない。たぶん今後も秘密のままだろう。
「じゃあどうすんだ。あいつ、お花ってガラじゃねえだろ」
「服とか?」
「はぁ、服ね……ギフトショップで?」
レディースのシャツは学生のブラウスと変なロゴシャツしか無かった。
『特機小隊』と大書されたTシャツ――たぶん彼女は迷いなく着るだろう。そうなるとこちらの腹筋が危ないし、そもそもクラスの連中が許してくれそうにない。

「もう、これでいいんじゃねえか?」
トツカはレジの横のマグカップを拾い上げて、隣に置いてあった赤ペンとセットにして会計を済ませた。ふたつ合わせて千五百円。値は張るが、無難な落としどころだ。
「ねえ私、必要だった?」
「ダメ押しするやつがいねえと、男の買い物ってのはタラタラ続くモンなんだよ」
売店の前のベンチで買い物袋をいちど開く。
マグカップは一番地味なやつを選んだが、印刷された『グラム』の長いシルエットのせいで無駄にデカく、牛乳が半パックくらい入りそうだった。赤ペンもそこらの百均で売ってそうだ。

「ミスったな……」
「ほら言わんこっちゃない」
スティーリアは立ち上がると、自販機のところで炭酸飲料を買ってきた。
「どうぞ、マスター」
「ああ。悪い」
トツカは渡された缶を回した。ここに来た初日、駅の自販機に入っていたものと同じだった。二度目か、と呟いた。
「炭酸ならコーラの方がよかったな。義姉さんの教育方針で飲ましてくれなくて……金は?」
「あの自販機、私のオトモダチだから」
無料だったらしい。何をやったか知らないが、人に見られてなくてよかった。

「それにしても、あんまりシズを心配してねえよな、あんた」
トツカが飲むあいだ、スティーリアはずっと立ちっぱなしだった。
独りだけ座っているというのは居心地が悪いが、ロボット相手に気を(つか)って下手に噂されるのも困るので、今は気にしないことにした。
「命に別状はないんでしょ?」
「肋骨が一本折れて、内臓もぱんぱんに腫れてる。クソ痛くて起き上がることもできねぇ」
「でも(なお)るから良いじゃない」

へっと鼻を鳴らしてトツカは空になった缶を投げた。
きれいな放物線を描いて、自販機の横で口を開けたゴミ箱に吸い込まれていく。
からん、といい音がした。
スティーリアの青い瞳の奥で、絞りが開いた。

「……人間は、壊れたら(なお)せねえんだよ」
「知ってるよ」
トツカは彼女を見つめる。
光を反射するカメラアイのなかに、血まみれになったシズと、倒れた彼女の母親が見えた気がした。本当に壊れた人間を知ってる目だ、と思う。
トツカは炭酸飲料の冷たさが残った手をズボンで拭いた。

何故殺さないのか、と以前、スティーリアは言っていた。
そのときの顔を思い出すと、嫌な想像をしてしまった。
だからシズを遠ざけようとしているのかもしれない。棄械(スロウン)に仲間が襲われたら、彼女は絶対に見捨てない。それこそ、再起不能になるまで戦うだろう。
死なせず、殺さず。
戦争で死ぬよりはマシだから、いま傷つける。
この手のガイノイドのことはよく分からない。まして壊れた中古品ともなると、どこまで誤作動でどこから仕様なのかも把握しきれない。

トツカはひとつため息を吐いて、医療棟へと歩き出した。
「行くぞ。授業まであと一時間しかねえ」
今はとにかく、血の通った誰かとまともに会話したかった。
医療棟でシズとの面会を求めると、二階の病室に案内された。
スタッフの足音が響き、空の食器を載せた配膳車ががらがらと通っていく。
衛生科の研修生がどやされている声を聞きながら、真っ白なドアをスライドさせる。洗剤とエタノールの混ざったにおいがつんと鼻をついた。

「あ、ノック忘れちまった。おいシズ……」
呼びかけると、ペンを走らせる音が返ってきた。
振り向くとスティーリアが「どうぞ」とあごをしゃくってみせた。どうせ気にしないだろう、ということらしい。
シズは窓際のベッドにいた。横向きに寝転んで、プラスチックの下敷きに載せた地形図を読んでいる。脇にはサイコロと兵棋が散らばり、床にはすでに五枚ほど反故紙(ほごし)が積まれていた。

「隣、座るぞ」
トツカはパイプ椅子を引いて、ベッドサイドテーブルに肘を置く。
シズの腕には点滴が刺してあった。点滴台からぶら下がったバッグにはビーフリードと書いてある。B溶液、だろうか。副作用のひどい薬とかじゃなければ良いが。
「ちょっと散らかってんな。片付けるけど、良いよな?」
応えは無かった。
床の地形図を拾い集めると、すべて同じ地図ということに気が付いた。
やはり名賀野(ナガノ)だった。配置こそ違うが、展開された部隊も同じ名前だった。
トツカは指を当てて、棄械(スロウン)を示す符号を指した。それから特機歩兵、車両、砲兵、航空隊、工兵隊、本部――と順繰りになぞっていく。

展開した部隊は小隊か、分隊ばかりだった。
観測班のいない自走砲。随伴が消えた戦車。銃手の死んだ高機動車。航空隊のヘリも最後の一機だ。末期の戦線であることはひと目で分かった。
まるで歯の欠けた櫛のような軍隊――特機歩兵ですら、消耗してほとんど使い物にならない。

二枚目はまだマシに見えた。
こっちは砲兵隊が増強されており、装備も良好だ。
しかし紙には大きな赤いバツの印が引いてあった。部隊の動きを見ると、先行した特機歩兵が大破していた。五番機。馴染みのある番号だ。日付にも見覚えがある。
「ウツリ義姉さん……?」

反故紙を揃えてテーブルに置いてしばらくすると、シズが地形図を置いた。
「お疲れ様、か」
「トツカくん!?」
シズは大慌てで筆記具を仕舞おうとした。ぱらぱらと兵棋がベッドから転げ落ち、それを拾いに手を伸ばして「うっ」と凄まじい声でうめく。ぐらついた身体をスティーリアが支えた。
「オレが拾う。脇腹、ヤバいんだろ?」
「うぅ、ごめん……」
トツカが兵棋を手渡すと、彼女はひとつずつ丁寧に紙箱に収めた。ずいぶんと使い込んでいるようで、表紙が白く破れていた。今拾った兵棋も、角が取れていたような気がする。

「これ、シズの兄ちゃんか?」
トツカは反故紙の『01』と記された特機歩兵を指さした。
たった一機で五体の棄械(スロウン)を相手にするエース。ありったけの武器を背負い、補給も受けていない。三時間は戦い続けているだろう。燃料はとっくに切れて、移動は徒歩だった。
「そう」
シズはそう言って、少し頬を赤くした。
「手紙をいつもくれて。よく読むと暗号が隠れてるんだけど、それを解くと次の作戦の配置が分かるようになってたの。これ全部が、それで再現した戦場」
「よく検閲されなかったな。バレたら銃殺モンだ」
「総務課に親切な人がいたらしくて、その人が助けてくれたって書いてあった」
シズはため息をついて、たった今終えた地形図を反故紙に加えた。

「にぃ……兄は天才だったんだと思う」
「強かったんだろ」
「それだけじゃなくて。この作戦、立案したのは兄だったの。でも何度やっても、私じゃ上手く勝てなくて」
大きな赤いバツ印が、めくれた紙の隙間にいくつも見えた。
シズ・カゲキが何のつもりで暗号を送ったのか、トツカには見当もつかない。どの地形図でもカゲキの一番機だけがひどく突出していた。普通なら自殺行為だ。そんな彼が妹に伝えるものがあるとは思えなかった。

「こいつ、本当に独りで戦場を……?」
じきに看護師がやってきて点滴を確かめた。トツカは一礼して病室を出た。
廊下に出ると、いくらか洗剤のにおいが薄まった気がした。病室はカーテンからベッドまでみんな白色だった。こういう色の無い建物というやつは、どうにも慣れない。
「渡しそびれたな……」
トツカは左手の買い物袋を見て、大きく息を吐く。
すっかり見舞いの品物を忘れていた。シズのことを笑えない。

「あの部屋は狭すぎるよ。キョウカ、走るのが好きだったのに」
スティーリアが小さな声でぼやく。
「だな。ずっと寝たきりじゃ姿勢も悪くなっちまう」
「そうそう。立ってるときの背、ぴーんってしてるもん」
「運動神経が良いよな。あいつ、剣道もすぐ覚えやがったし」
「たぶんあの子は否定するけど、きっと同じ年ごろの旦那様(マスター)より……」
あっ、とスティーリアは口を押さえた。
こういうときの彼女は、なんだか寂しそうに見える。
今の"マスター"は、きっとトツカ以外の誰かを指していた。もっと優秀で、きっと世界一シズを理解してやれた人間。

「……ああ。あいつは最強だ」
だからおまえが変なことをするまでも無いんだぞ、と言うほどの勇気は出せなかった。
医療棟を出ようとしたとき、事務室の前に立っている女学生を見つけた。
向こうもこちらを見るなりトットッと小走りに駆けてくる。あまり運動はしない人間らしく、軍人特有のコンベで測ったような歩幅よりずっとデタラメだった。
彼女はトツカの前まで来ると、肩を上下させて言った。
「ね、トツカくんで良かったよね!」
その声で、トツカも思い出した。暴走したORBSを装着していた副委員長だ。

「まあな……そっちは退院?」
「ちょっとハズレ。もともと経過観察だったから、今日はただの確認」
間近で見ると、ずいぶん明るい顔をしていた。ショートヘアがよく似合っている。
「そっちの人は?」
スティーリアが前に出ようとするのを、トツカは遮った。
「寮の『備品』だ。その……アメニティで転がってた」
副委員長はくすくすと笑う。見ちゃった、とでも言いたげだった。
「ああ、そういうことね?」
スティーリアとの関係がどんな噂になってるか、怖くてもう聞けない。
「それで、君の方はお見舞い?」
「まあな。終わって、これから教室に行くところ」
「じゃ、ちょうど良かった。クラスのメイにノートの件言ってくれない?たぶん出られないから」

急に申し訳なさそうに頼み込んでくる。スティーリアもシズも表情のバリエーションが少ないから、人間の顔とはここまで動くのかと感心してしまった。
「分かった……あ、こっちも頼んでいいか?」
「なに?」
トツカは買い物袋を持ち上げた。
「シズのお見舞い。つい渡しそびれちまった」
副委員長は受け取って、重さに驚いたようだった。
「これなに。バケツ?」
「マグカップのつもり。ほら、あいつ何時間もじっとしてるから、たくさん入るやつの方が良いだろ。使えねえなら赤ペンも買ったから放り込んでペン立てにでもすりゃいいし……」
「わかった、わかった!」
副委員長は手で止めた。
そうして笑いながら「このあいだはありがとね」と言ってエレベータに向かっていく。

トツカは口を開いたまま固まった。
やがてがっくりとうなだれて、「まあな」と呟く。
つい長々と。硬派で通すつもりが、これじゃまるでナンパ野郎だ。
「今の。ウルミ・ノイさんだったね」
スティーリアも苦笑気味だった。
「副委員長か?」
「うん。潤海(ウルミ)家は陸軍の航空隊」
あの砕けた態度で、軍人の家というのは意外だった。
スティーリアは笑みを消して、じっと見つめてくる。ただならないものを感じて、トツカは後ずさった。
「う、浮気しねえよ!だいたい、シズともそういう関係じゃねぇだろ?」
詞子(シズ)家は文官の一族だけど、マスターは特機歩兵だった」
スティーリアは言った。
「それだけじゃないよ。砥握(トツカ)家は御所門前の警護をしてきた。請朽(こいぐち)巾旗(はばき)、みんな何かしら軍に関係してて、たぶん探せばみんなここにいる」
それからもスティーリアはいくつか名前を挙げた。中にはクラスメイトと同じ苗字もあった。彼女が言おうとしていることが、トツカにも分かってきた。

「ここには軍関係者しか入学してねえって言いたいのか?」
「かもね」
スティーリアはまた微笑んだ。調べろ、ということか。
副委員長のノイはまだ戻ってこない。時計を見ると授業開始まであと五分だった。
「図書館で絵本でも読んで待ってろ。オレが行くまで騒ぎを起こすなよ」
「命令ですか?」
「皮肉だ。勝手にやってくれ」
トツカは外へと走り出す。
このあいだの棄械(スロウン)の次は学園の成り立ちと来た。何かとんでもないことに巻き込まれつつあるのを、ひしひしと感じる。
図書館は入学後のレクリエーションで一度来たきりだった。
トツカに本を読む習慣は無いが、素人なりに、ここの蔵書は多い方じゃないかと感じている。

「学生証を拝見いたします」
ゲートをくぐるなり、受付のガイノイドが学生証を確かめにやって来た。
眼鏡を掛けたオールドファッションな少女型――法人向けの古い機種らしく、スティーリアと比べると、球状になった関節がずいぶん目立つ。アクチュエータも安いものを使っているのか、学生証のICチップをスキャンする手つきが(いささ)かぎこちない。
「失礼しました、トツカ様。お通りください」
「オレより先に家政婦(ハウスキーパー)型が来たと思うが、知らないか?」
エントランスにスティーリアはいなかった。学生証無しでもどうにか入れたらしい。
「スティーリア様ですね。談話室でお待ちです」
「ロボにも様を付けるのかよ」
「はい」
ガイノイドは首を傾げた。ぱちぱちとまぶたが開閉する。
「先輩には敬意を持てと、申しつけられたもので。申し訳ありません」

談話室はカーペットに沿って書庫を歩いた先にあった。
会議室ほどの室内には読書台の付いたデスクが並んでおり、壁際にはソファと応接机が置いてある。大きなヒーターがあるから、冬になったらこの小部屋も賑わうのだろう。
今はソファにスティーリアが座っているだけだった。ちょっとデスクに手を置くと、読書台に積もった埃が指に触れた。舞ったカビと埃できらきらと光る空気に咳き込みながら、トツカはソファに歩いていく。

「悪い。待たせた」
ソファの前にある応接机には、本が三冊ほど載っていた。武鑑と人名年鑑のようだ。
スティーリアは本から目を上げた。
「ううん、私も今来たところ――って言うんだっけ?」
「流石に無理があるだろ」
スティーリアは既にメモを取っていた。受付のガイノイドに頼んで生徒名簿を写したらしく、名前の横にそれぞれの家の官位や、どこの分家かが記してある。
「全員じゃなかった」
スティーリアはもう一枚の、百人ほどの名前を写したメモを振る。
「それでも千人以上いるうちのほとんどが軍の関係者なのか」
「軍学校なら普通だと思うけどね」
「本当かよ?」
戦後の不景気で、安定した職を求めて軍学校を希望する学生は多かったはずだ。
ニュースでも、他の学校に受かった農家の次男坊や下町の女の子がよく出ていた。名簿をなぞって、トツカは眉をひそめる。このムラクモ学校だけ、明らかに貴族くずれや軍人の割合が高い。

「増えたのはいつからだ?」
「まだ四年しか追えてないけど、二年前からだね。そこからはほぼ百パーセント」
「なんだそれ……」
「さあ考えて。私も気付いただけで、その意味までは分かんないから」
スティーリアが本を置く。ずいぶんと可愛らしい児童書だった。背表紙だけ日に焼けている。たぶんわざわざ探さないと出てこないようなマイナーな本なのだろう。
表紙では彼女によく似た銀髪の女性が、雪の降りしきる家の前で微笑んでいた。

「キョウカが好きだった本なの。懐かしくなっちゃって」
スティーリアは表紙の女性をなぞって、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「ああ……似合わないと思った」
「いい本だよ?翻訳がちょっぴりヘタクソだけど」
「オレ、活字アレルギーなんだよ。そのくせに身内が難しい本ばっかり読ませやがるもんだから……」
「『直観(ちょっかん)』しなさいって?」
トツカは穴が空くくらいスティーリアを見つめた。
彼女は頭を掻いて、ぼそぼそと言った。
「トツカ・ウツリさんのことは知ってる。たぶん、あなたと同じくらいに」
スティーリアは急に立ち上がり、談話室の外に出て行った。しばらくして分厚い本を抱えて戻ってくる。手作り感にあふれる表紙には、七年前の卒業アルバムとあった。
「ほら」
彼女が数枚めくると、剣道部のページが現れた。
誰かのいたずらで写真は切り抜かれていたが、名簿のところには『砥握映理(トツカ・ウツリ)』と『詞子戓隙(シズ・カゲキ)』の名前が並んで記されていた。
「あの……ウツリ義姉さんとシズの兄ちゃん、そういう関係だったのか?」
「まあ、えっと」
スティーリアはごほん、と空咳をうった。
「知らないってことにしておく。その方が良いでしょ?」
「オレ、おまえのマスターだよな?」
「臨時ね」
スティーリアの目がぱちりとまばたきをして、トツカの姿をはっきりと映した。

「正直、あなたには期待半分と不安半分ってところ」
「どういう意味だ?」
「私はバグってるって言ってるの。気にしないで」
スティーリアは本を返しに戻って行った。
バグってる――トツカは自分の手を見た。一緒に寝起きしてて毒を盛られたことも無ければ、手足もくっついてる。今のところは。
彼女の何が壊れているのか、たまに考える。そのバグはヒトを殺すほどなのだろうか。

トツカはかぶりを振って、名簿を開き直した。
一年生で軍と無関係なのは四人だけ。輸送科や整備科といった大して戦闘のスキルが必要ない学科ばかりで、意識しなければ不自然には見えない。
共通点も無いようだ。役人の家、会社員、農家。努力して入学試験を突破したマジメな人間ばかり。
「スティーリアのやつ、考えすぎじゃねえのか……」
まだ分からない。あれが本当に壊れているのかも、やはり分からない。

「おっ、奇遇じゃないかい!」
どばーんといきなり談話室のドアが開いた。
からからと景気のいい笑い声が響き、でっかいカメラを担いだナゴシが入ってきた。芝居がかった歩き方でトツカの隣に腰を下ろして、肩をばんばんと叩いてくる。
「なっ……」
「窓からガイノイドが見えたんでね、『まさか』と思ったら、果たして『よもや』だよ。今日は図書館デートかな?きみもなかなか隅に置けないもん――」
「あんた、まさか記事にしてねえだろうな!」
ナゴシは背中に手を回した。尻ポケットに差した学生新聞を渡してくる。
一面記事は『墜落事故の真相!?棄械(スロウン)に立ち向かった英雄の系譜』というものだった。すべて読まなくても、このあいだの事件のことだと分かる。
「よく書けてるだろ?」
「世の中には静かに暮らしたい人間も相当数いるって理解してくれませんかね?」
「知らんね。マスコミには『真実』を語る口だけあればいいのさ」
ナゴシは皮肉満面に笑った。

「というわけで耳と目は大して要らんと思っている」
「くそブン屋がよ……」
ンで、とナゴシは真顔に戻って、トツカから新聞をひったくった。
「まあこれ、没になっちゃったのだよね」
「あ、そっすか」
「事故が無かったことにされたからね。さしもの第四の権力も、本物の権力サマには勝てないわけだ」
「剣より強いんじゃねえでしたっけ、ペンって」
「まあ、イマドキたかが剣より強いことが何だってんだって話だわな」
「時代は銃ってやつですか」
ナゴシのくせになんだか義姉みたいなことを言うものだから、思わず苦笑が漏れた。

「おたくは?今さら文学少年に目覚めたり?」
「シズの兄ちゃんについて調べてたんです。どうも気になるもんで」
「シズ・カゲキか」
ナゴシはちらりと積み上がった年鑑に目をやった。
「そっちには無かっただろ、名前」
「そうなんですか?」
「文官と言っても詞子は一代限りの蔵人(くろうど)職だった。元は血筋も何もない地方の地主上がりでね。年鑑から見つけるのもひと苦労なんだよ」
「親父さんが叩き上げだったってことですか」
「まあ、そうとも言えるけど……」
ナゴシは言葉を切って、少し考え込んだ。
そのときスティーリアが戻ってきて、ナゴシの隣に腰かけた。ナゴシも彼女の頭に手を置く。優しく撫ぜられて、スティーリアは気持ちよさそうに目を閉じた。

「トツカくんは、血筋を信じるかな」
「いえ」
「DNAの話じゃない。財力とか、教育の話を言ってるんだ」
ナゴシはスティーリアの髪を整えて言った。
「残酷な話だが、トンビがタカを生む例は滅多に起こらない。私の家は偶然のたまものの戦争成金だった。おかげで二代目の私は文字も読めるし、社交上の教養も身に着けることができた」
「それが何か……」
「シズ・カゲキは不自然なほどに強すぎたんだよ」
スティーリアは変わらず微笑んでいる。
「辻褄が、彼だけ合わない。まるで宇宙人だ。独りだけ戦果がおかしい」
トツカも感じていたことだった。

学習の必要性は、道場で身に染みて理解してきた。勝負の場では才能にあぐらをかく半端な一流よりも、毎日コツコツと継続してきた二流の方が圧倒的に強い。
シズが取り組んでいる過去の戦場。英雄は単騎で敵を圧倒していた。
ただの男が努力だけで出来る芸当ではない。物理法則から狂っているとしか思えない。
そっと、目の前に一枚の紙が差し出された。
「行ってくれないか?」

外泊届だった。二日分の日程が記してある。目を上げると、ナゴシは真剣な顔だった。
「シズ家を調査して、秘密を見つけてほしい。私では目立ちすぎる」
カメラは置かれていた。こっちが本命の用事だったようだ。
「……今日、半舷(はんげん)もらったばかりです。担任か生徒会の推薦が要る」
「ああ、そうだったね」
ナゴシが手を出すと、スティーリアがペンを渡した。
きゅぽんとキャップが外れてさらさらと紙に書き込まれていく。南越成萌(ナゴシ・ナルメ)と流暢なサインが記されて、今度はトツカの手にペンが回ってきた。
「……ん?」
「だから、生徒会長のサインだよ。今できた」
ナゴシは自分を指して言った。「私。生徒会長のナゴシ・ナルメ。知らなかった?」

トツカは手元の紙とナゴシの顔を見比べる。
なかなかイメージが繋がらないのを、強いて理解する。
生徒会長。この成金娘が。なるほど。
「納得行かねぇ………………」
「こうして生徒会長が頼み込んでるんだから、当然キミの方も応えてくれるね?」
ナゴシはちょっぴり尊大な口調を作る。この瞬間が楽しみなんだ、という感じだった。

生徒会長が『第四の権力(マスコミ)』兼任とは。癒着よりひどい。
「……了解っす」
トツカはうなだれて、ナゴシの名前の下にサインを記した。

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