『46億年の記憶』 ~命、それは奇跡の旅路~

 2日後、メール便が届いた。
 2枚入っているDVDのうち、1枚を手に取った。
『妊婦のためのエクササイズ』

 動きやすい服に着替えて、DVDプレーヤーにセットして、再生ボタンを押すと、トレーナーとモデルの2名が映し出された。
 トレーナーはすらっとした長身の美人で、モデルは妊婦だった。
 妊娠中期だと紹介された。
 自分と一緒だと思った考子は親近感を覚えて、俄然やる気になった。
 
 股関節を柔らかくする運動が始まった。
(がっ)せきのポーズ〉というらしい。
 座った状態で足の裏を合わせて、両膝の外側を床につけた状態から股間に引き寄せる動作を繰り返した。
 分娩に備えて股関節を柔らかくしておくことは大切だ、とトレーナーがコメントした。

 次は肩や背中の凝りほぐしだ。
 大きくなったバストやお腹を支えている肩や背中には負担がかかっているから、その凝りをほぐすための運動らしい。
 肩をぐるぐる回したあと、両手をギュッと上に伸ばしたり、後ろ手に組んだ両手を下にぐっと伸ばしたりした。
 
 その次は腰痛対策体操。
 考子は腰痛持ちではなかったが、妊娠してからだるく(・・・)重い感じが続いており、その症状に効きそうだ。
 椅子に腰かけて上半身を左右に捻じるだけでいいらしい。
 これなら簡単だ。
 お腹に負担をかけないようにゆっくりと時間をかけて捻じった。

 その次は手足のむくみ対策。
 妊娠中は血液と水分のバランスが崩れやすいので、むくみやすくなるとトレーナーが解説していた。
 確かに朝起きた時、手足がむくんでいることが時々ある。
 モデルが仰向けになって手足をバタバタさせていたので、考子も床に寝そべって同じ動作を真似した。
 すると、良さそうな感じがした。
 手足の先から水が下りてきて効果がありそうに思えたので、寝る前に毎晩やってみることにした。
 
 その後、いくつかのエクササイズが紹介されたあと、最後はウォーキングについての指導が始まった。
 トレーナーとモデルが公園の中を歩く画面になり、「外の新鮮な空気を吸うとリラックスできますよ」とモデルが大きく深呼吸をした。
 考子も公園を思い浮かべて深呼吸をした。
 確かにリラックスできそうだ。
「30分くらいを目安にゆっくり歩きましょう」とトレーナーが見本の歩き方を示した。
 顎を引いて、背筋を伸ばして、視線を真っすぐにして、踵着地で歩いていた。
「肩の力を抜いて腕を大きく振ってください」と言って、また見本を示した。
「うっすらと汗をかくくらいが丁度良い運動量です。汗がポタポタしたたり落ちるような運動はやり過ぎですので注意してください。それから、水分補給も忘れないようにしてくださいね」とペットボトルから水を口に含んだ。

 そこでDVDが終わったので、考子はふ~と息を吐いた。
 結構疲れたので、「今日はおしまい」と独り言ちた。
 そして、もう1枚のDVDを手に取り、「これは今度ね」とまた独り言ちた。

 いつもより早く帰宅した新が念入りに手洗いとうがいをしたあと、リビングのテーブルに置かれた2枚のDVDを見つけた。
 1枚は『妊婦のためのエクササイズ』。
 もう1枚は『安産のためのエクササイズ』だった。
 
「これどうしたの?」

 ただいまのキスのあと、2枚を考子にかざした。

「別に」

 体重増加抑制という説明をするわけにはいかなかった。

「スタイルを気にしているのかな?」

 新が悪戯っぽく迫ってきた。

「別に」

 そんなことには関心がない、というような声で返した。

「本当かな?」

 意地悪そうな笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。

「もう、忙しいんだから邪魔しないの!」

 考子は台所へ行って、料理を始めた。

「ふ~ん」

 新はDVDを見つめてニヤニヤと笑った。

 夕食が終わって片付けを済ませた新が「見てもいい?」と許可を求めたので、「どうぞ」と考子はなんの感情も込めずに返答した。
 断る理由はなかった。
 新は〈どっちにしようかな〉というように2枚を見比べ、「これにしよう」と呟いたあと、そのDVDをプレーヤーにセットして、再生ボタンを押した。
『安産のためのエクササイズ』が始まった。

「出産に備えて筋力をつけておきましょう」という男性の声が聞こえた。
 新と同年代のトレーナーだった。
 そして、モデルの紹介をした。
 彼の妻だという。
「妊娠中の妻と一緒に安産のためのエクササイズをしますから、皆さんもご一緒にどうぞ。できればご主人も一緒にやってみてください」

 そうだなと思った新が〈一緒にやろうよ〉という合図を送ると、〈いいわよ〉というふうに考子が頷いた。

「先ずは腹筋からです」

 いきむ時に必要な筋肉だから、鍛えておいた方がいいという説明があった。
 
「なるほど」

 新が納得顔で頷くと同時にモデルの妊婦が足上げ体操を始めた。
 仰向けに寝て足を腰幅に開き、両膝を立てて掌を下にした状態で、片足ずつゆっくりと直角に上げた。
 そして10まで数えて反対の足を上げた。
 それを3回繰り返した。
 それが終わると立ち上がり、腰の前後運動を始めた。
 立った状態で膝を軽く曲げて、息を吸いながら骨盤を後ろに引き、息を吐きながら骨盤を前に突き出した。
 それを3回繰り返した。
 その次は、骨盤を左右に揺らす運動だった。
 「骨盤を左右に引き上げるようにするのがコツです」とトレーナーがやって見せた。
 それを5回繰り返したあと、「ちょっと休憩しましょう。大きく深呼吸してください」と言って、ラジオ体操のような動きをした。
 そこで新は一時停止ボタンを押した。

「大丈夫? 息上がってない? しんどくない?」

「大丈夫。まだ汗もかいていないから続けてやりましょう」

 考子は余裕の表情を見せた。
 
「では、再開」

 新が再生ボタンを押した。

「次は骨盤底筋(こつばんていきん)を鍛える運動です」

 子宮や膀胱を下から支えているだけでなく、赤ちゃんが通る産道を取り巻いている筋肉だから鍛えておいた方がいい、という説明がなされた。
 
「なるほど」

 新がまた納得顔で頷くと、すぐに腰上げ運動が始まった。
 仰向けに寝て、足の裏を床にピッタリと張り付けた姿勢で、両膝を軽く立てた。
「はい、ここで息を吸いながら肛門を引き締めます。できましたか? では、息を吐きながら腰を上げてください。そこで止めて、息を吸ってください。今度は息を吐きながら腰を下ろします。そうです、上手ですね。それでいいですよ。そこでリラックスしてひと呼吸置きましょう」

 乗せるのが上手なトレーナーだなと思いながらも、乗せられている自分がおかしくなって、考子は思わず笑ってしまった。
 
「はい、次は膣の周りを柔らかくする運動ですよ。寝そべったままの状態でお尻の筋肉と肛門をギュッと締めましょう。そして緩めます。ギュッ、フ~、ギュッ、フ~、ギュッ、フ~と10回繰り返してください」

 くしゃオジサンのような顔をして肛門を締めている新を見て考子は笑いそうになったが、ぐっと堪えて次の運動に備えた。
 
「はい、今度はしゃがみ込み運動です。座って膝を立てた状態で足を開いてください。そうです、その姿勢です。顔の前で両手を合わせて、両肘を両膝に当てるようにして、両肘で膝を押し広げてください。そうです、いいですね。それを3回繰り返します」

 すべてやり終えると、考子の額と首にうっすらと汗が浮かんできた。
 
「はい、お疲れさまでした。皆さん上手ですね。初めてとは思えない動きでびっくりしちゃいました。これからも毎日続けてくださいね」

 本当に見られているような気がして、考子は思わず辺りを見回してしまった。そんなわけはないのだが。
 
「最後にリラックスのポーズをとりましょう。横向きに寝て、足を軽く曲げて、腕は自分が楽だと思う場所に置いてください。お腹の赤ちゃんを感じながらゆっくりとしたタイミングで、息を吐いて~、吸って~、吐いて~、吸って~、吐いて~、吸って~、吐いて~、吸って~、フワ~~~」

 トレーナーのあくびに誘われるように考子も大きなあくびをした。

 新は? 
 
 隣で同じポーズをしていた彼は、とろんとした表情で寝息を立てていた。

 翌日、考子が夕飯の支度をしている時、スマホの着信音が鳴った。
 母親からだった。
 
「イヌの日はどうするの?」

「犬の日? うちはペットは飼っていないけど」

「なにバカなことを言ってるのよ。イヌはイヌでも十二支に出てくる戌のことよ」

「戌?」

 そこまで言われても、なんのことか、さっぱりわからなかった。

「安産を祈る習わしのことを知らないの?」

 そんなこと言われても知らないものは知らないのだ……と小さな声でブツブツ言っていると、「とにかく、今度の土曜日が戌の日だから予定しておいてね。新さんも一緒にね」

 それだけ言うと、勝手に電話を切ってしまった。

「もう、お母さんはいつもこうなんだから」

 ふくれっ面をした考子がスマホを睨んで、アッカンベーをした。

「戌の日か~」

「知ってた?」

「もちろん、知ってるよ」

「へ~、そうなんだ。私全然知らなかった」

 帰宅した新が戌の日のことを詳しく教えてくれた。

 妊娠5か月目にする安産祈願のことで、12日おきに巡ってくること、その日に腹帯を巻いて神社で安産を祈願すること、祈祷(きとう)をしてもらうためには初穂料(はつほりょう)が必要で相場は5千円から1万円くらいだということ、お守り一式がセットになったものが別途売っていること、服装は特に決まりはなく、カジュアルなものでいいこと等々、すべて考子が初めて聞くことばかりだった。
 
「行った方がいい?」

「そうだね、せっかくお義母さんが心配して電話してくれたんだから、行ってみようよ」

「あなたがそう言うなら」

 まだはっきりと呑み込めていない考子は、頬杖をついて神社のある方角に目を向けた。

 当日になった。

「まあ、新さん素敵ね」

 会うなり、考子の母親が口に手を当てた。
 いつもはジーパン姿の新がスーツにネクタイという出で立ちで現れたからだ。
 
「考子も素敵よ」

 娘の晴れ着姿を見て、母親はホッと胸を撫で下ろした。

 実は、前日まで母娘で意見が分かれていたのだ。
 着物を着るべきだと言う母とカジュアルな服で行きたいと言う考子の意見は平行線のままだった。
 そのことを病院から戻ってきた新に話すと、「これも親孝行だと思って、お義母さんの言う通りにしたらどう?」と意外なことを言われたので、「あなたはどっちの味方なの?」と食ってかかったが、冷静になって考えてみると、今まで親孝行らしいことはほとんどしてこなかったので、たまにはいいか、という気持ちになって、母親の意見を受け入れたのだ。
 
 しかし、一人では着物を着ることはできない。
 もちろん、新ではなんの役にも立たない。
 そこで、行きつけの美容院に頼んで、今朝早い時間に着付けてもらったのだ。
 
「着慣れないから窮屈なのよね」

 ただでさえお腹が張っている上に帯で締め付けているから、〈なんか変な感じ〉というのが拭えなかった。
 それでも、出かける時に新が「とっても綺麗だよ」と褒めてくれたので、満更でもない気持ちになったのも確かだった。

「さあ、行きましょう」

 母親は自分のことのように仕切っていた。
 父親はおとなしく従っていた。
 それを見た考子は、〈いつもこうなの〉という視線を新に送った。
 すると、〈いいじゃないか〉という視線が返ってきた。
〈まあね〉と送り返した。
 
 受付で申込用紙に必要事項を記入し、初穂料とお守り一式セットの代金を支払った。
 待合室に案内されたのでそこで待っていると、名前を呼ばれたので4人で昇殿し、用意された椅子に座った。
 すぐにマスク姿の神主さんが現れて、祈祷が始まった。
 厳かな気持ちになって首を垂れると、大幣(おおぬさ)がシャンシャンと振られた。
 考子は「元気に生まれてきますように。安産でありますように」と心の中で祈った。
 
 祈祷は30分ほどで終了した。
 考子にとってこういう習わしはまったくの関心外だったが、今は、来て良かったと心底から思っていた。
 気持ちが厳かになり、今まで以上にお腹の赤ちゃんに真摯に向き合う覚悟ができていた。
 そのせいか、思わず感謝の言葉が口をついた。
 
「お母さん、勧めてくれてありがとう」

「なんだこれ?」

 4月21日の夕刊を読んでいた新が素っ頓狂な声を上げた。
 考子がそれを覗き込むと、原油価格に関する記事が目に入った。
 ニューヨークの原油先物市場で史上初めて価格がマイナスになったと書いてあった。
『5月物に投げ売り殺到!』の強調文字が踊っていた。

「マイナスってどういうこと?」
 考子は書いていることが理解できなかった。

「僕にもよくわからないけど、1バレルがマイナス37.63ドルになったということは……、原油を1バレル買ったら37.63ドル貰えるということになるのかな?」

「えっ、それって、お金を付けて原油を売るってこと?」

 考子はガソリンスタンドで灯油を買う場面を思い浮かべた。
 1円も払わずに灯油を受け取って、その上更に店員から千円札を貰っている場面だった。
 頭がこんがらがってしまった。
 
「ありえない話だけど、そうなんだろうね」

 新は狐につままれたような顔をしたが、それでもなんとか理解しようと、新聞の記事を読み上げ始めた。

「新型コロナウイルスの影響で世界中の経済活動が停滞した結果、原油需要の激減を招き、その影響で在庫が急増した。それにより保管スペースが枯渇して買い手が付かなくなった。それを見たファンドが投げ売りを始めた。すると、1分で10ドル以上下落する場面もあり、午後2時過ぎには0ドルを割った。そして2時30分には一気にマイナス37.63ドルまで崩れた」

 読み終わって状況が把握できた新が何度も頭を振った。

「大変なことが起こるかもしれない……」

 頭の中には世界恐慌という文字がグルグル回っていた。