『46億年の記憶』 ~命、それは奇跡の旅路~

「単細胞の微生物よ」

 なんの感情も交えないで事実だけを告げると、「それが生命の始まりなのか……」と新は首を傾げて顎に左手を当てた。
 単細胞の微生物と聞いて細菌のことが頭に浮かんでいたのだ。
 しかし、人間が細菌から進化してきたというのはすぐには受け入れがたかったし、かなり複雑な心境になった。
 それでも、そんなことを知る由もない考子は淡々と説明を続けた。
 
「そこから進化の歴史が始まったの。簡単に言うと、単細胞生物が多細胞生物になり、それが無脊椎動物になり、そして脊椎動物になり、哺乳類になり、霊長類になり、類人猿になり、ヒトが生まれたのだけど、その進化には38億年という途轍もない時間が必要だったの」

 すると、悠久という言葉が新の頭の中に浮かんだ。
 と同時にお腹が鳴った。
 時計は夜の7時を回っていた。
 
「あらあら」

 笑いをこらえた考子はキッチンに向かい、食後に話す内容を考えながら鼻歌交じりで食材を切り始めた。

「乾杯♪」

 テーブルに座った二人はグラスを合わせた。
 新はビール、考子はノンアルコールビールだった。
 
「妊娠中はアルコールを我慢しなくちゃね」

 自らに言い聞かすように呟いた考子が、缶に印刷されているアルコール0.00パーセントという表示を見つめた。

「僕だけお酒飲んでごめんね」と謝った新は、思い詰めたような声で「君の妊娠期間中は僕もお酒を止めようか」と考子の顔を窺った。

「いいわよ、そんなことしなくても。大丈夫、我慢できるから。その代わり出産して授乳期間が終わったら、素敵なレストランでおいしいお酒を飲ませてね」

「うん、わかった。約束する」

 ほっとした表情で新がビールを飲み干した。

「もう一つ約束するよ。夕食後の片付けは僕がすることにする。食器を洗って拭くことを毎日の日課にするよ」

 あらまあ、と大きく目を見開いた考子に新がウインクをした。

 食後、ソファに移った考子は後片付けを済ませて新が戻ってくるのを今か今かと待ちわびていた。
 話したいことがいっぱいあるのだ。
 大好物の地球科学について、話したくて話したくてウズウズしているのだ。
 
「お待たせ」

 エプロン姿の新が考子の横に座った。

「似合うだろ」

 エプロンの胸の部分を両手の親指で前に突き出した。
 そこには地球のイラストが描かれていた。
 そして、Save the Earthの文字も。
 
「地球を救え、か……」

 ウキウキしていた気持ちが一瞬にして萎んでしまった考子は、大きなため息をついた。
 そして、「こんな状態になるとは地球さんもびっくりしているわよね」とエプロンのイラストに向けて同情の言葉を投げた。
 
 新は無言でエプロンの紐を解いて、それを畳んでテーブルの上に置いたが、Save the Earthの文字を隠すように畳んだので、地球のイラストしか見えないようになった。

「ありがとう」

 心情を汲んでくれた新の優しさが嬉しかった。
 この人が夫で良かったと思った。
 
「さあ、地球誕生の話を聞かせておくれ」

 父親が娘に話すような口調で促すと、考子はニッコリ笑って新を見つめた。

「むかしむかし、あるところに」

「コラ! それは日本昔話だろ」

 新がゲンコツで頭を叩くふりをしたので、考子はペロッと舌を出した。

「んん、大変失礼いたしました。それでは、」

 考子はテーブルの上の地球のイラストを見つめて深呼吸をした。

 誰も知らないはるか昔、ビッグバンによって宇宙が誕生しました。
 そして、約135億年前には銀河が存在していたようです。
 それから90億年近い時を経て、約46億年前に太陽が誕生しました。
 その成り立ちは、宇宙に漂うガスや塵でした。
 それが集まって徐々に密度が高くなり、それが分子雲になり、自らの重力で収縮して原始星になり、外側にあるガスや塵を取り込んで高密度化し、遂には核融合反応をするようになったのです。
 そして、1千万度以上の高温になり、明るく輝き始めました。
 太陽という恒星が出現したのです。
 
 生まれたばかりの太陽はガスや塵で出来た円盤に囲まれていたと考えられています。
 その塵が集まって数キロメートル程度の微惑星が誕生し、その微惑星同士が衝突・合体を繰り返して原始惑星となりました。
 更に、原始惑星同士が衝突・合体を繰り返し、遂には惑星になりました。
 そして1千万年くらいかけて太陽系が出来上がりました。

「ねえ、135億年前とか46億年前とか具体的な数字を君は言ってたけど、どうしてそんなことがわかるんだい?」

 その質問を待ってましたとばかりに考子は自慢げに説明を始めた。

「天体観測と隕石分析でわかるのよ」

「ふ~ん」

「世界中の宇宙研究者たちが世界各地の高性能な天体望遠鏡を使って宇宙最古の光を観測しているの。その研究から東京大学宇宙線研究所などのチームが年老いた銀河を発見したの」

「年老いた銀河?」

「そう。それは既に星を作らなくなった銀河のことをいうのよ。観測データを分析した結果、銀河の誕生が135億年ほど前と推測されたの。もちろん推測なので断定はできないから、彼らは更に精度の高いデータを取得しようとしているの。2021年にNASAが打ち上げる予定の次世代宇宙望遠鏡で観測して、宇宙最初期の星形成の全容を解明したいと意気込んでいるの」

「ふ~ん、凄いね。日本人研究者も頑張っているじゃないか。なんか嬉しくなってきたな」

 新は顔を綻ばせた。

「ところで、隕石の分析って何を調べるの?」

「ウランよ。ウランの壊変を調べるの」

「かいへん? 何それ?」

「原子核が不安定な状態から放射線を出して別の原子核に変わったり安定な状態の原子核に変わる現象なんだけど、それによってウランの半減期がわかるの。半減期とは半数の個体が壊れることよ。で、ね、隕石の中には太陽から放出されたウランなどが含まれていて、その半減期を調べることによって太陽の誕生時期がわかるの。具体的に言うとね、ウラン238という放射性物質があって、それが安定した状態の鉛206に変わるまでには45億年かかるのがわかっていて、それを基に推測したのよ」

「ふ~ん」

 よくわからないけど、まっいいか、というような顔をした新に、「この続きはまた明日にしましょう」と考子が微笑んだ。

「おはよう」

 目覚めた時、新の声がしたので手を伸ばしたが、そこに彼はいなかった。
 ベッドサイドの椅子に腰かけて、本を読んでいた。
 
「何を読んでいるの?」

 新は表紙を考子に向けた。
『太陽系の神秘』という本だった。
 考子の蔵書であるその本を朝から熱心に読んでいたのだ。
 
「君の話についていきたいからね」

 新は軽くウインクをした。
 そして、「食事の用意ができているよ」とダイニングの方に顎を向けた。
 
「まあ~💗」

 考子が上半身を起こすと、「そのまま、そのまま」と言って新の両手が伸びてきた。
 キョトンとしていると、左手で上半身を、右手で下半身を同時に持って抱き上げられた。
 
 えっ、
 これって、お姫様抱っこ? 

 考子は思わず両手を新の首に回した。
 すると、「愛してるよ」と新が考子のおでこにキスをした。
 幸せな気分になった考子が「もっと?」と甘えたような声を出すと、新の唇が考子の唇を覆った。
 考子は幸せ過ぎてとろけそうになった。

 テーブルの上には、クロワッサンと一口サイズに切ったバナナが別々の皿に盛られていた。
 そして、二つのコップには牛乳が並々と注がれていた。
 
 台所に立った新は「すぐにできるからね」と言って、フライパンに卵を二つ割った。
「目玉焼きを半分こでいい?」と言ったが、考子の同意は求めなかった。
 冷蔵庫の中の卵は二つしか残っていなかったのだ。
 
 焼き加減は考子の好みに仕上がっていた。
 黄身が固すぎず、柔らかすぎず、トロっとして口の中に広がった。
 その瞬間、顔が恵比寿さんになった。
 
 食べ終わったあと新が皿を片付けて、コーヒーメーカーにカプセルを入れた。
 そして、「外は寒そうだから、今日は一日家でのんびりしようよ」と言って、一体型オーディオコンポにCDをセットした。
 
 曲が流れてきた。
 考子の大好きな曲『KARI』だった。
 アメリカのジャズピアニスト『ボブ・ジェームス』と、ジャズギタリスト『アール・クルー』が共演した素敵なアルバムの1曲目。
 ミステリアスなイントロからナイロンギターが奏でるメインメロディーになり、エレキピアノの軽やかな音に繋がっていく。
 たおやかに穏やかに包み込むように流れるメロディーとリズムに考子が身を委ねていると、カプチーノが運ばれてきた。
 考子は香りを楽しんだあとで口に含んだ。
 
 ん~、この音楽にピッタリ。
 
 考子はまた恵比須さん顔になった。
 
「40年前の録音とは思えないよね」

 新が感心した様子でアルバムジャケットを見た。
 元々の録音が素晴らしい上に、新しい技術でリマスタリングされ、更に音が良くなっている。
 その上、世界的スピーカーメーカーが開発した一体型オーディオだけあって、低音から高音まで全域でクリアな音が再生されている。
 更に、独特のシステムによる臨場感が半端ない。
 
「賞を獲っただけあって素晴らしい曲ばかりだしね」

 二人はしばらくグラミー賞受賞アルバム『ONE ON ONE』の調べに身を委ねた。

 アルバムを聞き終わったあと着替えを済ませた考子は、ソファに座ったが、落ち着かなかった。
 昨夜の続きが話したくてうずうずしていたのだ。
 
「いつでも伺いますよ」

『太陽系の神秘』を膝に置いた新がにこやかに微笑んだ。

「では、お言葉に甘えて」

 考子が居ずまいを正した。

 太陽系の微惑星が衝突・合体を繰り返して原始の地球が出来上がりました。
 それが46億年前のことです。
 原始の地球は今の半分くらいの大きさでしたが、そこに次々と微惑星が衝突してきました。
 そのエネルギーは凄まじく、地表が高温になってドロドロに溶けたマグマの海が出来上がりました。
 この時、鉄やニッケルなどの重い物質は地球の中心へと沈んでいき、それが核になりました。
 そして、軽い物質はマントルや地殻になったと考えられています。
 その後、衝突する微惑星が減っていきました。
 すると地球の表面は冷えていき、地表が出来上がりました。
 それと共に大気中に存在していた水蒸気が雨となって降り注ぎ、それが海になりました。
 海ができたのは約44億年前と考えられています。
 しかし、海ができたからといってすぐに生命は誕生しませんでした。
 その後も微惑星の衝突が続いたからです。
 そのエネルギーによって海の水は何度も蒸発したと考えられています。
 やっと安定的に海が存在できるようになったのは約38億年前になってからです。