茹だる暑さに気が遠くなりそうな季節が今年もやって来た。
 古いエアコンが壊れてしまい、買いに行かねばと思うものの、溶けて蒸発してしまいそうな直射日光を浴びてまで外出する気は起きない。
 だがしかし扇風機と風鈴で誤魔化すには、既に手遅れな現状。懐は涼しくなるが、快適を得るためだ。
 私は諦めて外出の支度を始める。

「コンニチワー!アンタぁ勇魚ミコトさん?」

 出鼻をくじくように来店客が現れた。
 いや、おそらく客では無い。黒い革ジャンに派手な柄シャツ、そして極めつけはサングラス。絵に書いたようなガラの悪い男がドシドシと敷居を跨いできたのだ。

「そう……ですけど、何か用ですか」
「いやぁねぇ?ミコトさぁん。アンタんトコに()()()()が入り浸ってるって聞いて来たんだけどォどこに隠してんのォ?」
「あの野郎……?誰のことですか?」

 男はニヤリと金歯を見せつけた後、突如豹変する。

「しらばっくれンじゃねぇよ(アマ)ァ!テメェがナギヨシの()()ってんのは割れてんだよッ!!さっさと吐かねぇとどうなるか分かってんのか?」
「し、知らない……!早く出ていって!!」
「テメェこの状況でよくそんな態度が出来るな。アイツはなぁ?俺たちの態度が悪ぃって店から無理矢理追い出したんだよォ!俺たちのバックに誰がいるか分かるか?あの金城組だぞ?」

 金城組と言えば、天逆町に根を張るヤクザだ。街の治安活動が主な仕事だと聞いていたけど、コイツらはその真逆だ。
 私にはすぐ分かった。名前を語るだけのチンピラだと。おおよそ余所者が、幅を効かせるための嘘だろう。怖いことに変わりは無いけれど。

「いいから出て行きなさい。今なら警察にも言わない」
「あ?立場わかってんのか?テメェが指図出来るわきゃねぇだろうが!……オイ、入ってこいや」

 男が声をかけると3人の男たちがゾロゾロと岩戸屋に入り込んでくる。手に入るバールや、バットといった露骨な鈍器が握られている。三者三葉のその姿は、悪のバーゲンセールと言ったところだ。
 強気に出たものの、私の内心は恐怖で支配されている。膝は笑っており、これから起こる最悪の1つ1つが脳裏にうかびあがる。

「お前ら、店のモンぶっ壊せ。俺は先にこの女で楽しんどくわ」
「えー、アニキずりぃっすよぉ。ていうか、兄貴が使った穴使うとか嫌っすよ。変な病気貰いそう」
「清潔だわ!清潔すぎてむしろか弱いくらいだわ!」
「ちっさいっすもんねぇ」
「お前らがデカすぎるんじゃい」

 私の事など気にせず下世話な会話をするこの男たちから、どうすれば逃げ切れるだろうか。
 出口はひとつしかない。それも塞がれてしまってる。それよりも、本屋はどうなるのだろうか。このまま燃やされてしまえば、自分の身よりも価値のある物さえ無くなってしまう。

「……けて」
「あん?」
「助けて……ナギくん……」
「……ぶわっはっはっはっはっ!!おい、聞いたか?『助けてナギくん』だってよォ!!いいねぇ!気丈な女、それに人の女ってのがたまんねぇなぁ!!」

 しまった。やってしまった。
 私の恐怖と混乱に支配された脳は、ついぞ無意識に彼に救いを求めてしまった。
 案の定、下卑た笑いに押し潰される。こんなところをこんなヤツらに見せたくは無かった。
 悔しい。悲しい。チクショウ。涙まで出てきた。私は最後の抵抗にキツく睨みつける。
 ヤツらにとってはそれすらも状況を楽しむ一材料になってしまうだろう。それでもするしかないのだ。

「ザァーンネェン!!テメェのナギくんは来ねぇよぉ?きっと今頃コンクリ詰めで海に沈められてるぜぇ?あーあ、見たかったぜぇ。ヤツの命乞いをよォ!」

 男はそう言って私の口元を無理矢理押さえつける。薄目で外を見ても、誰も歩いていない。
 男は力任せに服に手をかけ、無理矢理脱がそうとしてくる。決死の抵抗をするにも、勝ち目が無いことは明白だった。
 諦めの色が私のキャンパスを黒く染め上げていく。こんなことになるなら、もっと早く色々すべきだったのかもしれない。

「テメーら、その人に何してやがる」
 
 後悔に溺れそうになったその時、聞き馴染んだ声が聞こえる。

「ひ、平坂ナギヨシッ!?テメェなんで生きて――ボフェァ!?」

 男の声は空気を裂く音にかき消された。男の顎と鼻はひしゃげ、それを顔と呼ぶにはあまりにも醜く変貌していた。

「ヒィィィィッ!!」
「逃げんな」
「ごぼぶぉっ!?」

 身体が危険信号を察知したのか、反射の如く逃げかけた男の襟元を掴み、膝蹴りを食らわせる。男から発せられた鈍い音は、おそらく骨が割れる音だ。

「いい加減にしやがれっ!!」
「……」

 大振りに振り回されたバットは軽くいなされる。
 そして避けた動作の勢いのまま、遠心力の乗った強烈な後ろ回し蹴りが男の側頭部を捉える。
 袈裟斬りめいたカカト落としは、そのまま男の意識を飛ばした。
 彼はわずか数十秒の間に3人の男を蹴散らす。前髪の隙間から見える彼の瞳は背筋の凍る冷たさを放っていた。
 私は彼に初めての感情を覚えた。
 それは恐怖だった。

「その人を離せ」
「テ、テメェ調子乗りやがって!テメェのせいでこうなったんだからなぁ!?」
「知らねーよ。俺は仕事しただけだ。テメーがワダツミで女に手ェ出した結果だよバカタレが」
「おおおお俺のバックには金城組が……」
「テメーみたいな小物、かねしろ金城(あちらさん)からも願い下げだろうよ」

 男は明らかに焦っていた。目が泳ぎ、手と口元も震えている。それほどまでに彼の圧力は凄まじいものだった。守られる私でさえ、鳥肌が立ってしまう。

「でもな……俺がそれ以上に怒ってんのは、テメーがその人に汚ぇ手で触れたからだ」

 より強烈な威圧感が私の身を包んだ。真夏だと言うのに肌に突き刺さるような凍てつきを感じる。
 恐怖という身が縮む寒さに耐え切れなくなったのか、狂った様に男が動いた。
 
「ひぃらぁさぁかぁナァギィヨォシィィ!!――ゴエェッ!?」

 彼は男の首もノータイムで掴み、呼吸を遮る。そして無言でただ殴り付け始めた。男は声も発せず、抵抗も出来ない。ただ鈍い骨の擦れる打撃音がゴツリ、ゴツリと聞こえる。
 躊躇いという文字が彼の辞書には無いのか、作業の様に行われる暴力。それは私の生きる現実とは、あまりにも乖離した光景だった。
 放心状態の私は、それが異質ということを認識しようやく正気に戻る。

「ナギくんダメっ!!その人死んじゃう!!」
「……」

 冷たい目をしたナギくんが私の方を見る。彼は目が合ったことを数秒おくれで認識し、その瞳には徐々に温かみが戻ってきた。

「ごめんなさい」

 彼の第一声は暗いトーンの謝罪だった。

「俺のせいで……ミコトが……」
「ナギくん……大丈夫。私は何もされてないよ。それより、手を止めてくれてよかった。さっきまでのナギくんすごい、怖かった」
「……悪い」

 ナギくんは脅えていた。それが人を殺めることに対する恐怖じゃないことくらい私にも分る。
 彼が恐れているのは、本性をさらけ出したことにより、人が離れて行くことだ。
 私はナギくんを抱きしめた。それは決して私自身を守るためでも、一過性の感情に身を落とすためでもない。
 心の底から、本気で彼の恐怖を振り払いたいと思っての行動だった。

「ナギくん大丈夫。大丈夫だよ。私は何処にも行かないから。今のナギくんは怖くないよ。本当に。助けてくれてありがとうね」
「ミコト……俺は……お前を失うのが怖くて……」
「馬鹿だなぁナギくんは。私はちゃんと生きてるから。どんだけ私のこと好きなんだよぉ」

 何を言ってるんだ私は。この言い方だと私が気があるみたいじゃないか。
 そもそも聞き方がずるいだろ。それじゃ好きって答えろと言ってる様なものじゃないか。
 だいたい状況を考えろ勇魚ミコト。
 変な輩に襲われかけた後だし、それに血飛沫だって壁についてる。なんなら、死にかけの男たちが4人も転がってるんだ。抱き合ってないで警察を呼べ。
 私の中の冷静な私が、猛烈に指摘を始めだした。それ以上に、ロマンチックな私がナギくんの反応を気にしてしまっている。

「ミコト……」
「は、はいっ!?」
「俺、お前のことが好きだ。何処にも行って欲しくない」

 お父さん、お母さん。私はズルく酷い常識知らずな女です。こんな目にあった直後なら、怖くて全てを拒絶するのが普通の感性でしょう。
 でも私は、彼を試すようなことをしました。はしたない女だとも思います。
 でも、けれど、どうやら、そんなものが吹っ飛ぶくらい彼の好意がたまらなく、とんでもなく、果てしなく嬉しいのです。
 結論をまとめます。私も大概イかれた女でした。

「私も好きだよ」
「……ほんとか?」
「うん」
「ほんとに?」
「本当だよ」
「あんな俺を見てもか?」
「どんだけ確認すんよぉ。女々しすぎ。確かにさっきのナギくんは怖かった。でも私を守るために必死になったんでしょ?」
「あぁ……」
「なら怖くないよ。それに私がナギくんをちゃんと止めるよ。今日みたいなことがあっても、今日みたいにね」

 シュンと雨に濡れた子犬の様に、頭を垂れるナギくんは純粋に愛おしかった。
 恋愛というのは、こうも脳みそをピンクの花畑に書き換え、メルヘンにしてしまうのか。二十歳半ばの女が、こうなってしまうのだ。もう誰かの恋愛を見て、痛々しいなんて口が裂けても私は言えないだろう。

「ミコト愛してる」

 どうやらナギくんも馬鹿になるタチらしい。両者共に馬鹿になるならお似合いだ。ならいっそ2人でとことん楽しむしかない。

「私も愛してるよナギくん」

 警察も、説明も、掃除も全部後回しにしよう。今ばかりは、私たちが世界でいちばん幸せだ。
 だから、あとほんの少しだけ、2人の体温を混ぜ合わせて馬鹿になっていたい。
 その後はちゃんとするからさ。