ハバナイスデイズ!!~きっと完璧には勝てない~

 オコイエとの一悶着から数日、未だ癒えぬ傷を湿布と鎮痛剤で誤魔化すナギヨシの姿が岩戸屋にあった。動きはあからさまにぎこちなく、見兼ねたケンスケが方を貸してやっと動けるといった様子だ。
 かくいうケンスケも頬の腫れは治まりきっていない。
 ナギヨシはヒリヒリと痺れる火傷跡に顔を(しか)めながら、とある待ち人を待っていた。
 呼び鈴がなり、岩戸屋の戸が開かれる。

「来たか……具合は?」

 ナギヨシの目の前には、美しい銀髪を携えた褐色の少女、ニィナが立っていた。

「ニィナちゃん退院おめでとう」
「ありがとう。私が倒れてる間、ケンスケが守ってくれたって聞いた」
「いや、僕なんてほんとただのサンドバックで……」
「顔面全体を蜂に刺されたみたいな面してたもんな。マンガでしか見たことねーよ」
「ふふっ、私も見たかったな」

 ニィナは柔らかい笑みを見せる。その笑顔のために体を張ったのだと、ケンスケは改めて思った。

「で、ニィナ。お前、これからどうしたい。アイツらのことだ。なんとでも理由を付けて、また連れ戻そうとしてくるぞ?」

 あの後、オコイエの姿は駅の中から消えていた。本人が目覚め、身を隠したのか。はたまた協力者がいたのかは沙汰科では無い。
 しかし大きな野望を持つ者があの程度で引き下がるとは到底思えない。
 ナギヨシの懸念は当然のものだった。

「私は目が届かないうちに天逆町から出ていこうと思う」
「ニィナちゃん……ほんとにそれでいいの?」
「うん。2人にも迷惑をかけた。この後、オウカにも挨拶してくる」
「アテはあんのか?」
「無い。でも、それなりに上手くやる……つもり」

 ニィナの選択は孤独だった。ここから立ち去り、誰にも迷惑をかけず1人で生きていく。それは10代の娘が選ぶにはとても苦しく重いものである。
 それが彼女の強い覚悟であり、意思だった。
 寂しげに『サヨナラ』と告げると、ニィナは背を向け岩戸屋の出口に歩み出した。
 口を紡ぐケンスケは引き止めて良いものか未だ決めきれずにいる。
 気まずい沈黙。時を刻む音だけが岩戸屋に響く。

「待ちやがれ」

 ナギヨシは椅子を2、3度軋ませ、眉間に皺を寄せそう言った。
 ニィナはビクッと一瞬驚き、目を向ける。ナギヨシは真剣な眼差しで彼女を見ていた。

「俺はな、決めてたんだよ。お前の目が覚めたら真っ先に何するかを」
「な、何するの?」
 
 ニィナは不安そうに答えた。誰だって身構えてしまう状況である。次に何を言われるドキドキと心臓の音が身体中を駆け巡っている。

「説教だ!!」
「え?」
「だから説教だよ。説教」

 ナギヨシの口からは意外な言葉が出た。引き止めるでも、見送るでもなく自己満足の塊、エゴの象徴、善意の押しつけ。使い方次第ではパワハラ(刃物)に該当する説教をこれからしようというのだ。
 
「俺ァ説教されるのは嫌いなんだけどよぉ、するのは大好きでね」
「マジで終わってんなこの人」

 間髪入れずにケンスケはツッコミをする。だが、ナギヨシの耳には届かない。

「ニィナ。単刀直入に言うぞ……お前はもっと人を頼れ!!」
「でも……皆の迷惑になる」
「うるせー!そんなのはなぁ、誰かを守る立場になってから言いやがれ。ケンスケ、テメーもだ」
「僕ゥ!?」

 突然の飛び火に焦るケンスケは、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。

「お前らはな、まだガキンチョなんだよ。大人に迷惑かけんのは当たり前なの。そりゃ、できる範囲の責任は取るべきだよ、ウン。でもな、命とか意地とか、しんどい時とかはな。大人をもっと頼りやがれ」

 ナギヨシは真剣な目で2人を見つめた。
 しかし、1人には思うところがあるようですぐさま反論の声が上がる。
 
「ていうか!そもそもナギヨシさんがやらないから僕がニィナちゃんの依頼引き受けたんでしょーが!」
「そいつが助けてって言ったか?」
「え?」
「ニィナ、どうなんだ」

 ニィナはバツが悪そうに頷いた。彼女もまた反省をしている。もし、最初から助けを求めていたら何か変わっていた筈だ。それこそ、3人とも大きな怪我を追わずにすんだかもしれない。

「結果は何とかなったけどな、もしかしたらお前ら2人とも死んでたかもしれないんだぞ。テメーら早死にしたいのか?」

 2人はハッと気付き、首を横に振った。上手くいったから今こうして居られる当たり前のことを忘れていたのだ。眼前に迫った危機というものは、去ってからその脅威が分かるものである。
 ナギヨシの言葉にようやく自覚を覚えたのだ。

「まーなんだ。俺も捻くれて素直に助けてやらなかったのは反省してる。保護者としては失格だ。でもな、ババァも俺も関わったガキを見捨てる真似は絶対にしない」

 ナギヨシは照れくさそうに頭をかいた。

「だからな、あれだ。ニィナ、テメーがちゃんと蹴りつけられるまでババァに面倒見てもらう様約束を取り付けた」
「えっ?」
「だからな。今帰ったら歓迎ムードだ。もう別れの挨拶なんざ出来る空気じゃねーよ。残念だったな。お前にゃ断る権利すら与えねぇ」

 ナギヨシは意地悪そうな顔でニィナに笑いかけた。勝手な行動は彼女にとっては迷惑なことだろうか。
 それは彼女の目から零れた大粒の涙が否定していた。

「私……1人で生きていこうって!皆の迷惑にならないよう、隠れて生きていくって決めたのにッ……!!」
「悪いな。大人はみーんな意地悪するために必死になるんだよ」
「ほんとに、ずるい……私の覚悟全部踏みにじるなんて……ほんと大人ってサイテー……!!」
「サイテーになってでもテメーを助けたい物好きが沢山いたってこった。……気の済むまでこの町にいりゃあいい。ここにいる限りはテメーは岩戸屋が責任もって守ってやる。だろ?ケンスケ」
「はいっ!一度受けた依頼は最後まで守る!それが岩戸屋のモットーですから!!」

 目を何度擦ってもニィナの涙は収まる気配が無かった。止まっていた栓が決壊し、溜め込んだ弱さを全てさらけ出す。
 だが、その弱さは決して悪いものでは無い。ニィナはそれに気付いたのだ。

「私、ほんとに迷惑かけるからね……」
「安心しな。テメーの迷惑なんざ、少年スクワッドの打ち切り打率に比べたら可愛いもんだ」
「嫌な打率だなオイ。ニィナちゃん、僕も迷惑かけてばっかだし、多分ニィナちゃんにも迷惑かけると思う。だかさ、いっそお互いに掛け合っていこうよ。そうしたらお互い支えられるんだから。そっちのが絶対丈夫になるよ!!」

 ケンスケもつられて涙を流し、諭すようにそう言った。
 同じ年頃の彼らにだからこそ分かち合える物もある。
 分かち合いの出来る者同士こそ、友達と言うのだろう。
 
「……うん、うん!ケンスケ、ナギヨシ。本当にありがとう。少し羽を休めるよ。また飛べるように……!」

 今まで溜め込んでいた孤独と、苦しみを全て流すかの様に溢れる涙は、美しく清らかなものだった。
 ならば、それを流しながら満面の笑みを浮かべる彼女は、世界で1番綺麗な姿をしているだろう。
 逃げ、隠れ、苦しみ抜いた日々は少しばかりの終わりを告げる。
 そして、心の奥底でずっと望んでいた彼女の素敵な日々が今始まろうとしていた。
 ナギヨシくんにサインを書いた日。彼は飛び跳ねて喜んだことを覚えている。
 私の拙い文章にそれほどの価値があるのかは分からない。でも彼にとってそれは、高価な物より価値があるのだろう。
 意外だったのはそれからだ。
 サインに満足して、もう来ることも無いだろうと思っていた私の店に、いまだナギヨシくんは足繁く通っている。
 私との雑談が大半を占めるが、たまに本を買っては、店の前に置いてあるベンチで日が暮れるまで読み耽る。
 本を読むことが楽しいのは分かるが、何が面白くてこんな女の相手をしているのかそれだけはさっぱりだった。

「雨降ってきちゃった」

 そんなことを出先で考えていると、予想外の雨に当たってしまった。案の定、傘は持ってきていない。
 たまには濡れて帰るかとも一瞬考えたが、生憎私は身体が弱い。少し冷やしただけでも風邪を拗らせる軟弱者だ。

「仕方ない。落ち着くまで少し待つか」

 雨避けに身を寄せ、雨粒の奏でるオーケストラに耳を傾ける。
 土砂降りの喝采の合間に聴こえるパラリ、パラリと落ちる水滴の音が好きだ。何処か落ち着くこのアンバランスなリズムは、天気とは真逆に私の心を晴れやかにする。
 ナギヨシくんもこの雨を見ているだろうか。そう思うと不思議と、彼に今の状況を話したくなる。
 『あの雨が降った日、君は何をしていたの?私は出先で足踏みくっちゃって』なんてたわいもない話でも、彼は聞いてくれるんだろう。
 もしかしたら彼も同じ様に雨宿りをしているかもしれない。なんてことの無い共通点を探したくなる程に、私とナギヨシくんの関係は出来上がっていることに気付き、少しばかり恥ずかしくなった。

「顔あっつ!……私は何考えてんだか。彼は友達、お客さん。雨が降るとよくないわ。おセンチな気分になるもの」
「どんな気分になるって?」
「何って……え!?」

 私は驚いてギョッと目を開いた。そこに居たのは傘を差すナギヨシくんだったのだから。

「どうしてナギヨシくんがここにいるの?もしかしてストーカー?」

 私は照れ隠しに冗談で煮詰めた暴言を吐いた。
 彼はすぐさま否定する。
 
「ちげーよ!頼まれごと済ませてたまたま通ってただけだっての」
「そっか、ごめんね。ていうか傘、なんで傘持ってるの?予報も何も無かったのに」
「今日は髪の毛が嫌に跳ねてた。だから雨が降るって思った」

 ナギヨシくんの髪の毛に目をやると、確かに普段より跳ねている。まるで猫のヒゲの様だ。

「アッハッハッ!何それ迷信?」

 私は素っ頓狂な回答に笑い声を上げてしまう。おばあちゃんの知恵袋でも今日日言わない事をアテに、傘を持って晴天の中歩いてる彼を想像すると、どうにも面白かった。

「うるせーやい。百発百中なんだよ俺の髪の毛は。もういい。入れてやんねー。風邪ひくまで雨が止むの待ってな」
「ごめんごめん。ナギヨシくんにお菓子あげるから、その傘に入れてくださいな」
「俺は子供かっ!」

 そうは言いつつ、ナギヨシくんはスっと身を逸らし、私のスペースを確保する。
 私も素直に彼に身を寄せ、雨の大合奏の中、岩戸屋に歩みを進めた。

「ナギヨシくん、ありがとうね。私、このまま雨が降り止まなかったらどうしようかなって思ってた」
「ったく、貸し1だ。チョコでも飴でも奢ってくれ」
「なんだよー。食べたかったなら最初から言ってよー」
「それじゃ格好がつかないだろうが」

 ナギヨシくんはやれやれと言った顔を見せる。そして、雨に濡れない様に私の肩に手を添え、より近くに引き寄せた。
 なんだ紳士じゃん。子供っぽいかと思えば、大人らしい所が彼の魅力なのかもしれない。
 私たちが岩戸屋に着くと、雲間から太陽が顔を出した。
 水溜まりに反射した日差し妙に眩しい。青々とした空には虹がかかっていた。

「ナギヨシくん!ほら見てよ!虹!!」
「おーそうだな」
「すごい微妙な反応だ」
「虹程度じゃそんなもんだろ」
「女の子が喜んでるんだぞ。もっとはしゃげよーう」
「女の『子』ではねーだろ」
「いやまぁ、その通りだけど」

 口ではそう言ってても、ナギヨシくんの目はキラキラと輝いていた。
 よかった。彼も私と同じなんだ。

「素直じゃないなー()()()()は」
「なんだその呼び方」
「私のことも()()()()()って呼んでいいんだゾ」

 彼は少しばかり考え込んだ。私は何か迷わせてしまったのだろうか。
 普段の彼なら一蹴するような冗談なのに。

「ミコちゃん……ほら呼んだ!もう終わり!!なんか恥ずかしい」
「……!!」

 ダメだ。これは非常に良くない。ナギくんの真剣な眼差しで名前を呼ばれるのはこう、恥ずかしさと()()()()()()()
 麻薬の様な響きがこれ以上耳に入るときっと中毒患者になってしまうだろう。

「そ、そうだね。うん。いやーなかなか良かったけどなぁ」
「俺ばっかり恥ずかしい思いをした気がする」
「そんなことないよー!ミコちゃんうれしかったなぁ?」
「やめてー?思い出して全身掻きむしりたくなるからやめてー?」
「すごいカッコつけてたもんね」
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!!俺を殺してくれぇぇぇぇぇ!磔にして市中を引きずり回してくれぇぇぇぇ!!」

 悶え狂うナギくんに私は笑いが止まらなかった。これからもこういう彼を見るんだろう。どこかそんな確信が私にはあった。
 2人のバイトを雇いはじめた1ヶ月間は嘘のように依頼が舞い込んできた。岩戸屋はより一層の騒々しくなっており、特にニィナが雇われてからというもの、色気の無い岩戸屋には花が咲き、彼女目当ての客も少なく無い。
 しかし大きな依頼は無く、やれウチのラウンドガールをやってくれだの、1日看板娘をやってくれだの、下心甚だしい依頼が殆どだった。
 だが人間生きるためには金が必要である。稼げる時に稼ぐナギヨシの方針としては、『セクハラ厳禁』『コンパニオン依頼料金割増』を掲げそれらに着手した。
 当のニィナは特に気にせず、むしろ彼女に手を出そうものなら3倍返しのお仕置が返ってくる。
 知る限りでも2、3人は病院送りにされたらしい。
 ケンスケもまた、書類仕事や依頼の整理など雑務に追われ、忙しなく働いている。彼のおかげで、ナギヨシが今までどれだけ雑な後処理をしていたのかも明るみになった。
 それもそのはず。訴訟を起こされた十中八九負ける過去の案件が見つかったのだ。要するに資金繰りも含め、岩戸屋店主はギリギリの綱渡りでこれまで生きていたのである。
 つまるところ岩戸屋3人衆は、懐に余裕は生まれど、心に余裕は無い。そんな日々を各々が過ごしていた。
 激動の1ヶ月が過ぎ、美しい少女新加入バフも収まったそんなある日、ケンスケが1つの疑問を呈した。

「ナギさんって何で『何でも屋』を始めたんですか?」

 確かに最もな疑問である。雇われの身としては、己が成している仕事のルーツは気になる物。ニィナもスマホを触る手を止め、そわそわと聞き耳を立て始める。

「何でかってそりゃあ……人の為に働きたいと思ったから」
「はいダウト」
「否定がはえーよ」
「あの雑っぷりを見てれば、流石に分かりますよ。ナギさんのことだ。もっと短絡的な理由でしょ」

 ケンスケに同調する様にニィナは首を縦に振る。
 そして渋い顔をするナギヨシに畳み掛ける様に追求した。
 
「私も気になる。ナギがこの仕事してる理由。私が居なかったら多分今もカツカツな生活してる。だいたいケンスケを雇えてたのが不思議」
「ニィナちゃん聞いてよ。僕最初この人のせいで前のバイトクビになったんだから」
「それは酷い。ナギは2人の人生を変えちゃったんだね。罪な人」
「言い方に悪意があンだよテメーらはっ!……ったくよぉ、自己弁護の為にもここは1つ話してやるか。『ゆりかごから墓場まで。なんでもござれの岩戸屋』創設エピソードを」

 ゴホンッとひとつ咳払いをし、仰々しい面持ちでナギヨシは2人を見つめた。
 なんとも言えない緊張感が部屋を包む。これから一体何が明かされるのか。ミステリーが解明される手前のCM、または最終回1話前の高揚感を2人は抱いていた。

「それはな……」

 全貌が明かされる1秒前。オーディエンスのムードは最高潮に達していた。

「俺が愛して止まない『少年スクワット』で、万事屋漫画が始まったからだ」

 先程までとは違った静まり方をしている室内。サッと波が引くように、高揚感は消え去っていた。

「は?」
「いやだから……俺が愛して止まない『少年スクワット』で、万事屋漫画が始まったから」
「聞こえてない訳ではないです。ほんとにそんな理由なんですか?漫画に触発されたからなんですか?」
「ウン」
「じゃあそれが教師だったら教師仕事にしてたの?」
「ウン」

 ケンスケとニィナは顔を見合わせる。その気持ちはさながらミステリーの解明は次週への先延ばし、最終回は打ち切りエンドと言ったところだ。

「しょーもな」
「期待して損した」
「お前らが聞いてきたんだろーが!え、コレ俺が悪いの?期待に寄り添えなかった俺がいけないの?」

 期待に目を輝かせていたあの時とは打って変わって、2人は濁った目を向ける。
 『残念』という単語を検索したら、きっとこの2人の顔写真が出てくるだろう。
 
「もっと何かある雰囲気してたじゃないですか。師匠的な人がいて、その人の代わりに店主やってるとか」
「それだったら『帰ってきた師匠編』とか出来るのに」
「そんな都合の良い師匠はいねーよ?」
「『闇堕ち師匠』からの『サイボーグ化師匠』とかの話も拡げられるのに……勿体ないですよナギヨシさん!」
「うーん……イマドキ復活系は流行らない。どうせなら師匠は殺しておいて『師匠の過去編』スピンオフで同時連載が熱いかもしれない」
「ニィナちゃんそれ採用!!」
「勝手に作り上げた師匠を勝手に殺すなよッ!お前らは俺の人生の編集者かッ!!」

 パチンッと指を鳴らすケンスケにナギヨシは怒りをぶつける。コイツらは俺にどんな過去があれば満足するのか。ナギヨシは2人を雇ったことに少しばかりの不安を覚える。

「俺は根っからの()()()()()なの!人生で必要なことは全部スクワットから学んで来たからいいの!!」
「ならもっとドラマッチックな仕事してくださいよ」
「いっそ異世界転生とか追放とかされてて欲しい」
「お前ら救った時はだいぶドラマチックだったと思うけどなぁ僕ァ!?」

 難癖が止まらない2人にナギヨシはタジタジになっていた。誰か俺を救ってくれ。いやいっそころしてくれ。今から異世界転生させてくれ。そんな思いがナギヨシを駆け巡る。
 たった一言の『漫画に憧れた』発言は徐々に体内から燃え上がるような、嫌な気恥ずかしさを呼び起こした。

「私、実は起きてた」
「え?」
「ナギヨシがオコイエと戦ってた時、実は起きてた。身体が痛すぎて起き上がれなかったけど」

 ここに来て更なる爆弾が投下される。ニィナがあの戦いを見ていたということは、取ってつけた()()()()()も耳に入っていたということだ。
 ナギヨシの額に一筋の汗が滲み出る。脳裏に浮かぶのはオコイエとの掛け合いだった。
 古今東西掛け合いという文化は素晴らしい。ゲームしかり漫画しかり小説しかり関係値が分かり、熱狂するポイントである。
 だが現実はどうだろうか。対面している者同士ならその熱さも心地良かろう。
 それを傍から見る者にとっては如何だろうか。
 結論は1つ『なんか冷める』だ。
 例えば体育で行うバスケットボールの授業。相手のボールをカットする際に『甘いッ!』やら『そこだッ!』やら、漫画さながらの熱演をしていた男子がいたとしよう。おそらくその男子は、授業が終わった途端にいじられキャラへと変貌してしまう。ことある事に発言を咎められ、なんなら手を上げただけで背後から「ここだッ!」なんて声が聞こえてくるだろう。
 要するに()()()()()案件なのある。

「その時……叫んでたの」
「な、何を?」
 
 ケンスケはゴクリと唾を飲み、ニィナに言葉の先を促す。
 俯き、顔に影が落ちるナギヨシを他所に、ニィナは続ける。

「『星爆発流乱斬(せいばくはつりゅうらんざん)』って叫んでた」
「え、何?」
「『星爆発流乱斬』……ひ、必殺技だって、ぷくく、きっと……ぷっはっはっはっ!!」

 耐えきれずニィナは吹き出してしまう。ケンスケも一瞬考えた後、すぐさま理解し大声で笑いだした。
 更に酷いことに、物真似までし始めたのである。
 ナギヨシは反論の余地など無く、ただただ沸騰する血液にふるふると震え赤面するだけだった。
 刮目せよ。これがテンションに身を任せた者の末路である。この瞬間こそ、いじめと学内カースト制度が始まるワンシーンなのだ。

「コラコラ、ナギさんをそんなに虐めちゃダメじゃない。大人だからこそ、童心に帰りたいのよ」

 その時現れた一筋の光。言い換えるなら蜘蛛の糸。カンダタさながら、必死に掴み取ろうと顔を上げたナギヨシの前に立っていたのは、ケンスケの姉、武市ソラである。

「ソ、ソラァァァァァ!!」
「お邪魔しますね、ナギさん。いつもの差し入れ持ってきました。ほらほら2人とも謝りましょ。ナギさんったら目を腫らしてますよ」

 今のナギヨシにはソラの姿が聖人君子に見えた。ドキツイ油の塊(からあげ)を毎度の如く差し入れに来る彼女の到来に、今ばかりは心底感謝する。

「話は聞いてました。ケンちゃんも戦隊ヒーローに憧れてた時期があるでしょ?それと一緒なのよ。卒業するのが遅いか早いかの違いなの」
「ウッ……!!」

 突然のダメージに胸を抑えるケンスケ。思い当たる節は誰にだってあるものなのだ。
 一方のニィナはピンと来ていないといった顔をしている。
 
「ソラ。私、そういうの分からない」
「そうねぇ。ニィナちゃんで言えば……『実は亡国のお姫様である自分に特別感を感じていた』とか?」
「ウッ……!!」

 またもや被弾。ソラの見立ては百発百中である。
 いくら気にしない素振りをしていても、誰かと違う特別な物を持っていれば浸りたい。それが人なのだ。

「でもね、そう言った経験を経て1歩1歩大人になっていくんだよ。だから安心してね」
「ソ、()()()()〜!!」

 ニィナはソラのフォローに一瞬で虜になる。心の弱った時、誰かに縋りたくなるのもまた人である。あんどしたのか、ケンスケとニィナは差し出された唐揚げに手を付け、一服しはじめた。

「アッハッハッ!人の事言えねぇじゃねぇかテメーらも!!」
「もうっ!ナギさんったらすぐ調子に乗るんだから……」
「じゃあ何だ?ソラもなんかに憧れてた時期はあるのか?」
「そりゃあありますよ。ただし、皆と違ってもう恥ずかしさを感じる時期は過ぎましたけど。私22ですよ?いい歳して恥ずかしがってるナギさんのが恥ずかしいです」
「ウッ……!!」

 3人目の被害者を生みながら、ソラは話始めた。

「私もナギさんと一緒で漫画のキャラクターには憧れたわ。私、根っからの『月刊少女シュシュ』の愛読者だったんですもの。確かに少女漫画だと『ガーターベルト』とか『生と胸』とか大人向けのが流行ってたけど、私はピュア一辺倒だったから」

 月刊少女シュシュとは高学年女児向けの少女漫画である。青臭い10代特有の青春模様や、敵国同士の許されざる禁断の恋と言った、女の子の理想が描かれた漫画雑誌である。男子が『スクアット』や『バカチン』に憧れるなら、女子の目指す姿勢はこれに描かれているだろう。

「だから私、少しニィナちゃんが羨ましかったのよ?だって本物のお姫様なんだもの」
「フフン」
「ちょっと得意げな顔するの止めろ」
「だからかな。理想が行動にはんえいされたのかしら。私、学生時代は周りから『お姫様』扱いされてたの」

 ナギヨシに嫌な直感が走る。
 この()()()の意味とは何なのだろうか。世間知らずと馬鹿にされてのものだろうか。それならば、そうと素直に教えてやるべきなのだろう。だが、彼女がそれを良い思い出として捉えていたら、きっと傷付けることになる。だからこそフォローせねばなるまい。
 わずか0.3秒の間に身の振り方を考えたナギヨシは、ソラの次の言葉に備えた。

「私が登校するとね、皆が私にひざまづいたの」
「は?」
「私をかつぎ上げて、教室まで連れて行ってくれたのよ。まるで毎日お祭りみたいだったな」
「いやいやいや!!どこのお姫様!?」
「だから言ったじゃない。お姫様扱いされてたって」
「そう言えば、姉さんの脚を疲れさせたくないって理由で、柔道部の部長が毎朝担ぎに来てたよね。あの人優しかったな」
「ケンスケは何で順応してんの!?」
「ほ、本物のお姫様だ……!?それに比べたら私の特別感なんてノミの心臓より小さかった……!!」
「ニィナの方がお姫様エピソード強いだろうが!?何がそこまでの敗北感を味あわせてんだよ!!」

 2人の反応に狼狽えるナギヨシは、自分の認識を疑った。一体何が現実的なのだろうか。己だけがアウェーなこの空間で途端に不安に駆られる。

「ていうか何したらそうなったんだよ」
「うーん。思い当たる節があるとすれば……そう、丁度連載してたのよ!『中毒姫(ホリック・プリンセス)』!!」
「何その少女漫画じゃ絶対お目にかかれない作品は」
「あれは悲しいお話だったな……」

 ソラが語るに『中毒姫』とは、敵国に家臣と民を食事に混ぜられた毒物で皆殺しにされた若い姫がいた。
 天涯孤独の身となった姫は、復讐のため敵国に食事係として勤める。
 そこで出会う男との恋。復讐との葛藤。全て抱き抱えた姫のとった行動は食事に、霊薬を混ぜて振る舞う事だった。
 その効果は絶大で、国の誰しもが彼女の食事の虜となり、彼女に従った。
 勿論、恋した男さえも。
 ラストシーンは、作り上げた恋人を侍らせ、己の手料理を前にほくそ笑む姫の姿で終わる。

「怖ッ!?お前はそれの何処に惹かれたの!?」
「成り上がる強いお姫様像かしら?」
「成り上がり方に問題があるだろ!!」
 
 当時からしても、その作品は賛否両論だった。はたして、女児向けの少女漫画で連載してよい作品だったのだろうか。倫理観が問われる問題作としての世間の認知とは裏腹に、確固たる自身を貫く強さを語ったメッセージ性は、今尚少女漫画界隈では伝説となっている。

「だからね。私も振舞っちゃったの……当時好きだった男の子に」
「な、何を?」
「霊薬入りの唐揚げ」

 ナギヨシは困惑していた。フィクションであるはずの霊薬を唐揚げに混ぜたこの女の行動に。

「へ、へぇー……き、聞くまでも無いけど、け、結果は?」
「次の日からその人が私に(かしず)いたわ」
「誰かァァァ!誰か逮捕してェェェェ!!この女と中毒姫の作者逮捕してェェェ!!」
「大袈裟ですよ、ナギさん。きっと皆私のことからかってたのよ。世間知らずって」
「嘘つきも大概にしないと本当になるって習わなかったァ!?」
「3年間も私のお姫様ごっこに付き合うなんて、随分熱心に嘘をついていたのね」
「お前の神経も大概おかしいよ!!」

 あらあらと笑う目の前の女に、ナギヨシは改めて恐怖を覚えた。悪意の無い悪意ほど怖い物はこの世に存在しない。
 先程までの聖人君子は、もはや無差別に人を捌く神に変わっていた。

「だからね。それを確かめるために私、今日の差し入れ頑張ったのよ」
「ま、まさか……」
「フフッ、趣向を凝らしてみました。本日の差し入れは『中毒姫再現唐揚げ』です!」

 ナギヨシの背筋をゾクゾクとした悪寒が走る。自分はまだ食べていない。だが、バイト共はどうだろうか。
 彼の記憶が正しければヤツらは……()()()()()()()()()()

「ソラ姉様。なんなりと弟の背に脚を乗せてください」
「ソラ姉様。私めの様な偽物の姫にどうかお慈悲を。臀部を背にお乗せ下さい。我ら2人が貴女様を運ぶ車となります。いや、ならせてください」
「やっぱりだあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!!」

 案の定の様である。ケンスケとニィナはソラの前に傅き、身を捧げている。ナギヨシはその光景に、大きく口を開け、発狂するしかなかった。

「ケンちゃんもニィナちゃんもお馬さんごっこ?流石に私も恥ずかしいわよ」
「いえ、恥ずかしさなど微塵もありません。私めにとってこれこそが至極の喜びであります」
「ソラ姉様は疲れない。我々は喜びを感じることが出来る。故に、この行為には意味があり、利益が生じます」

 2人は四つん這いになり、今か今かとソラの搭乗を待ち望んでいる。
 人はこうも変貌するのだろうか。もはやナギヨシの疑問に答えられる者はこの場にはいなかった。
 
「なら、お言葉に甘えちゃおうかしら。ナギさん、私これから買い出しに行きますけど、2人を借りて行ってもいいかしら?」
「ドウゾ」
「ありがとうございます。ナギさんも唐揚げ食べてくださいね?」
「ハイ」
「では今日はお暇させて頂きます。さようなら」
「サヨウナラ」

 ソラを乗せた2人は、四足で軽快に岩戸屋の外に出て行った。もはや彼らを表すために『人』という単語を使うことは、間違っているのかもしれない。
 1人取り残されたナギヨシの目はただ濁っていた。自分の享受していた世界は、実は間違っていたのかもしれない。狂気に触れた彼は、もはや放心せざるえなかった。
 そして部屋の隅に無造作に置いてある少年スクワットをおもむろに手に取った。

「卒業するか。スクワッ子……」

 今週号。読み進めてまだ半ページ。彼はそっとゴミ箱に捨てた。
 茹だる暑さに気が遠くなりそうな季節が今年もやって来た。
 古いエアコンが壊れてしまい、買いに行かねばと思うものの、溶けて蒸発してしまいそうな直射日光を浴びてまで外出する気は起きない。
 だがしかし扇風機と風鈴で誤魔化すには、既に手遅れな現状。懐は涼しくなるが、快適を得るためだ。
 私は諦めて外出の支度を始める。

「コンニチワー!アンタぁ勇魚ミコトさん?」

 出鼻をくじくように来店客が現れた。
 いや、おそらく客では無い。黒い革ジャンに派手な柄シャツ、そして極めつけはサングラス。絵に書いたようなガラの悪い男がドシドシと敷居を跨いできたのだ。

「そう……ですけど、何か用ですか」
「いやぁねぇ?ミコトさぁん。アンタんトコに()()()()が入り浸ってるって聞いて来たんだけどォどこに隠してんのォ?」
「あの野郎……?誰のことですか?」

 男はニヤリと金歯を見せつけた後、突如豹変する。

「しらばっくれンじゃねぇよ(アマ)ァ!テメェがナギヨシの()()ってんのは割れてんだよッ!!さっさと吐かねぇとどうなるか分かってんのか?」
「し、知らない……!早く出ていって!!」
「テメェこの状況でよくそんな態度が出来るな。アイツはなぁ?俺たちの態度が悪ぃって店から無理矢理追い出したんだよォ!俺たちのバックに誰がいるか分かるか?あの金城組だぞ?」

 金城組と言えば、天逆町に根を張るヤクザだ。街の治安活動が主な仕事だと聞いていたけど、コイツらはその真逆だ。
 私にはすぐ分かった。名前を語るだけのチンピラだと。おおよそ余所者が、幅を効かせるための嘘だろう。怖いことに変わりは無いけれど。

「いいから出て行きなさい。今なら警察にも言わない」
「あ?立場わかってんのか?テメェが指図出来るわきゃねぇだろうが!……オイ、入ってこいや」

 男が声をかけると3人の男たちがゾロゾロと岩戸屋に入り込んでくる。手に入るバールや、バットといった露骨な鈍器が握られている。三者三葉のその姿は、悪のバーゲンセールと言ったところだ。
 強気に出たものの、私の内心は恐怖で支配されている。膝は笑っており、これから起こる最悪の1つ1つが脳裏にうかびあがる。

「お前ら、店のモンぶっ壊せ。俺は先にこの女で楽しんどくわ」
「えー、アニキずりぃっすよぉ。ていうか、兄貴が使った穴使うとか嫌っすよ。変な病気貰いそう」
「清潔だわ!清潔すぎてむしろか弱いくらいだわ!」
「ちっさいっすもんねぇ」
「お前らがデカすぎるんじゃい」

 私の事など気にせず下世話な会話をするこの男たちから、どうすれば逃げ切れるだろうか。
 出口はひとつしかない。それも塞がれてしまってる。それよりも、本屋はどうなるのだろうか。このまま燃やされてしまえば、自分の身よりも価値のある物さえ無くなってしまう。

「……けて」
「あん?」
「助けて……ナギくん……」
「……ぶわっはっはっはっはっ!!おい、聞いたか?『助けてナギくん』だってよォ!!いいねぇ!気丈な女、それに人の女ってのがたまんねぇなぁ!!」

 しまった。やってしまった。
 私の恐怖と混乱に支配された脳は、ついぞ無意識に彼に救いを求めてしまった。
 案の定、下卑た笑いに押し潰される。こんなところをこんなヤツらに見せたくは無かった。
 悔しい。悲しい。チクショウ。涙まで出てきた。私は最後の抵抗にキツく睨みつける。
 ヤツらにとってはそれすらも状況を楽しむ一材料になってしまうだろう。それでもするしかないのだ。

「ザァーンネェン!!テメェのナギくんは来ねぇよぉ?きっと今頃コンクリ詰めで海に沈められてるぜぇ?あーあ、見たかったぜぇ。ヤツの命乞いをよォ!」

 男はそう言って私の口元を無理矢理押さえつける。薄目で外を見ても、誰も歩いていない。
 男は力任せに服に手をかけ、無理矢理脱がそうとしてくる。決死の抵抗をするにも、勝ち目が無いことは明白だった。
 諦めの色が私のキャンパスを黒く染め上げていく。こんなことになるなら、もっと早く色々すべきだったのかもしれない。

「テメーら、その人に何してやがる」
 
 後悔に溺れそうになったその時、聞き馴染んだ声が聞こえる。

「ひ、平坂ナギヨシッ!?テメェなんで生きて――ボフェァ!?」

 男の声は空気を裂く音にかき消された。男の顎と鼻はひしゃげ、それを顔と呼ぶにはあまりにも醜く変貌していた。

「ヒィィィィッ!!」
「逃げんな」
「ごぼぶぉっ!?」

 身体が危険信号を察知したのか、反射の如く逃げかけた男の襟元を掴み、膝蹴りを食らわせる。男から発せられた鈍い音は、おそらく骨が割れる音だ。

「いい加減にしやがれっ!!」
「……」

 大振りに振り回されたバットは軽くいなされる。
 そして避けた動作の勢いのまま、遠心力の乗った強烈な後ろ回し蹴りが男の側頭部を捉える。
 袈裟斬りめいたカカト落としは、そのまま男の意識を飛ばした。
 彼はわずか数十秒の間に3人の男を蹴散らす。前髪の隙間から見える彼の瞳は背筋の凍る冷たさを放っていた。
 私は彼に初めての感情を覚えた。
 それは恐怖だった。

「その人を離せ」
「テ、テメェ調子乗りやがって!テメェのせいでこうなったんだからなぁ!?」
「知らねーよ。俺は仕事しただけだ。テメーがワダツミで女に手ェ出した結果だよバカタレが」
「おおおお俺のバックには金城組が……」
「テメーみたいな小物、かねしろ金城(あちらさん)からも願い下げだろうよ」

 男は明らかに焦っていた。目が泳ぎ、手と口元も震えている。それほどまでに彼の圧力は凄まじいものだった。守られる私でさえ、鳥肌が立ってしまう。

「でもな……俺がそれ以上に怒ってんのは、テメーがその人に汚ぇ手で触れたからだ」

 より強烈な威圧感が私の身を包んだ。真夏だと言うのに肌に突き刺さるような凍てつきを感じる。
 恐怖という身が縮む寒さに耐え切れなくなったのか、狂った様に男が動いた。
 
「ひぃらぁさぁかぁナァギィヨォシィィ!!――ゴエェッ!?」

 彼は男の首もノータイムで掴み、呼吸を遮る。そして無言でただ殴り付け始めた。男は声も発せず、抵抗も出来ない。ただ鈍い骨の擦れる打撃音がゴツリ、ゴツリと聞こえる。
 躊躇いという文字が彼の辞書には無いのか、作業の様に行われる暴力。それは私の生きる現実とは、あまりにも乖離した光景だった。
 放心状態の私は、それが異質ということを認識しようやく正気に戻る。

「ナギくんダメっ!!その人死んじゃう!!」
「……」

 冷たい目をしたナギくんが私の方を見る。彼は目が合ったことを数秒おくれで認識し、その瞳には徐々に温かみが戻ってきた。

「ごめんなさい」

 彼の第一声は暗いトーンの謝罪だった。

「俺のせいで……ミコトが……」
「ナギくん……大丈夫。私は何もされてないよ。それより、手を止めてくれてよかった。さっきまでのナギくんすごい、怖かった」
「……悪い」

 ナギくんは脅えていた。それが人を殺めることに対する恐怖じゃないことくらい私にも分る。
 彼が恐れているのは、本性をさらけ出したことにより、人が離れて行くことだ。
 私はナギくんを抱きしめた。それは決して私自身を守るためでも、一過性の感情に身を落とすためでもない。
 心の底から、本気で彼の恐怖を振り払いたいと思っての行動だった。

「ナギくん大丈夫。大丈夫だよ。私は何処にも行かないから。今のナギくんは怖くないよ。本当に。助けてくれてありがとうね」
「ミコト……俺は……お前を失うのが怖くて……」
「馬鹿だなぁナギくんは。私はちゃんと生きてるから。どんだけ私のこと好きなんだよぉ」

 何を言ってるんだ私は。この言い方だと私が気があるみたいじゃないか。
 そもそも聞き方がずるいだろ。それじゃ好きって答えろと言ってる様なものじゃないか。
 だいたい状況を考えろ勇魚ミコト。
 変な輩に襲われかけた後だし、それに血飛沫だって壁についてる。なんなら、死にかけの男たちが4人も転がってるんだ。抱き合ってないで警察を呼べ。
 私の中の冷静な私が、猛烈に指摘を始めだした。それ以上に、ロマンチックな私がナギくんの反応を気にしてしまっている。

「ミコト……」
「は、はいっ!?」
「俺、お前のことが好きだ。何処にも行って欲しくない」

 お父さん、お母さん。私はズルく酷い常識知らずな女です。こんな目にあった直後なら、怖くて全てを拒絶するのが普通の感性でしょう。
 でも私は、彼を試すようなことをしました。はしたない女だとも思います。
 でも、けれど、どうやら、そんなものが吹っ飛ぶくらい彼の好意がたまらなく、とんでもなく、果てしなく嬉しいのです。
 結論をまとめます。私も大概イかれた女でした。

「私も好きだよ」
「……ほんとか?」
「うん」
「ほんとに?」
「本当だよ」
「あんな俺を見てもか?」
「どんだけ確認すんよぉ。女々しすぎ。確かにさっきのナギくんは怖かった。でも私を守るために必死になったんでしょ?」
「あぁ……」
「なら怖くないよ。それに私がナギくんをちゃんと止めるよ。今日みたいなことがあっても、今日みたいにね」

 シュンと雨に濡れた子犬の様に、頭を垂れるナギくんは純粋に愛おしかった。
 恋愛というのは、こうも脳みそをピンクの花畑に書き換え、メルヘンにしてしまうのか。二十歳半ばの女が、こうなってしまうのだ。もう誰かの恋愛を見て、痛々しいなんて口が裂けても私は言えないだろう。

「ミコト愛してる」

 どうやらナギくんも馬鹿になるタチらしい。両者共に馬鹿になるならお似合いだ。ならいっそ2人でとことん楽しむしかない。

「私も愛してるよナギくん」

 警察も、説明も、掃除も全部後回しにしよう。今ばかりは、私たちが世界でいちばん幸せだ。
 だから、あとほんの少しだけ、2人の体温を混ぜ合わせて馬鹿になっていたい。
 その後はちゃんとするからさ。
「ニィナちゃん、買い物付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ。ソラ姉が誘ってくれて嬉しかった。ナギもケンスケもオシャレしないから」
「あらあら。そういうところに疎いからモテないのに。ニィナちゃんが良ければまた行きましょう?」
「ほんとっ!?」

 残暑も去り肌寒くなった秋晴れのある日、ニィナとソラは買い物に訪れていた。
 女子特有の話にも花が咲き、男性陣抜きだからこそ楽しめる時間は大切なものであり、息抜きとしては最適だった。
 その姿は、傍から見ても可憐なものであり、見てくれは良い2人は自然と人々の視線を捉える。
 その中の1人に彼女はいたのだ。

「ちょっとあなた達ッ!」
「あら?」
「ん?」

 彼女は長い金髪を靡かせ2人に声をかけた。
 ニィナ、ソラは互いの知り合いかと顔を見合うが、どちらも違うと言った表情をした。それもそのはず、無論初対面である。

「アタシの会社でモデルをしなさい!!」

 それはあまりにも突然の申し出だった。驚く2人に反し、その女性の笑顔は力強い意志を持っていた。


 ⬛︎


「そういうわけで連れてきた」
「貴方が彼女たちのスポンサーね!」

 結局、即決することも断ることも出来ず、2人は彼女を岩戸屋に連れてきた。
 店主のナギヨシは、また変な奴が来たなと奇怪な目で自信満々な彼女を見る。

「挨拶が遅れたわ!アタシの名前は物主(ふつぬし)テンコ。しがないプロデューサーよ」
「物主……フツヌシって言やぁ、あの『物主重工』だがまさか」
「えぇその通り。私はその跡取り娘。このまま素直に会社が成り立てば4代目になる予定ね」

 物主重工とは、国内最大の工業メーカーである。工業とはいえ、幅広い分野に手を出しており、ネジ1本から超大型機械に至るまでその名は多く知られている。
 その始まりは戦時中における軍備の製造であり、戦後も様々な物で国を支え巨万の富を得た成金であった。
 太平の世である今は、過去の軍事産業は負の側面として見られているものの2代目、3代目当主共に手を引くことはなく、今なお武器の輸出入で多額の利益を得ている。

「で、その4代目さんがしがない何でも屋さんにどんな御用で」
「悪いけど貴方に用は無いの。必要なのは貴方の許可だけ。ニィナとソラ……彼女たちに『ギャルパンブラティン』のモデルをやってもらいたいの!」

 その瞬間、ナギヨシは吹き出し、ケンスケは湯呑みを盛大に落とした。

「待て待て待て、今()()()()()()()()()()って言ったか!?」
「ナ、ナギさん……ギャルパンブラティンってあのギャルパンブラティンですか!?」
「あぁケンスケ。あの『一度は彼女に着せたい下着ランキングNo.1』のギャルパンブラティンだ!ていうか、物主の系列だったのか……」
「元々は軍用の下着だったんだけど、出来の良さが買われて一般販売になったのよ。それで作られたアパレル部門を、アタシの訓練も兼ねて担うことになったの」

 ギャルパンブラティン。それは男のロマンである。
 カラーは灰色1色。シンプルながら、洗練されたデザインは、着心地も相まって女性たちの間で常に話題の下着だ。
 だが、それはあくまでも女性目線での魅力である。その本質は男の欲望をザワザワと掻き立てるエロスにあった。
 スポーツブラの枠組みではあるものの、大きく逸脱した激しく強調された胸元。派手な下着にはない清楚さ。それらが絶妙なマリアージュを醸し出す。
 所謂「こういうのでいいんだよ」と首を縦に振りたくなるビジュアルが男ウケの良さに繋がっている。

「今の反応を見るに、やっぱり()()()()目線で人気なのね?」
「人気なのはいいことだろ?」
「売れ筋はいいんだけど、イメージを損なうのよ。私はもっと着け心地の良さ、蒸れにくさとか、機能美を売り出したいのよね」
「そこは職人気質なのか。で、なんでコイツらなんだ。(ツラ)は置いといて、スタイルもへったくれもねーだろ。よく見てみろ。2人とも発展途上国のガキみたいな体型だぞ。貧相オブ貧相、ガリ、ガリター、ガリテストじゃん」
『そこまでじゃねーわ!!』

 ニィナとソラは声を重ね、ナギヨシの頭部を叩いた。ナギヨシは大きなたんこぶを作り、机に顔をめり込ませる。

「ほんと失礼しちゃうわ。私だってまだ成長期です」
「ナギはそういう目で私の事見てたんだ。屈辱」
「貴女たち、やっぱり最高ね!アタシの見立てに狂いは無かったわ!!力強い女性像が欲しかったのよ」
「それ内面的な話ですよね。物理的な話になってるんですけど……」

 ケンスケのツッコミは当然テンコの耳に届かない。
 理想のモデルを見つけた彼女は、お菓子売り場で目を輝かせる子供の様にはしゃいでいる。

「そもそも、し、下着だけ着用なんて恥ずかしいんです!」
「確かに。露出の多い服と下着は違う。そもそも、し、下着は見せるものじゃない」
「恥ずかしがるから恥ずかしいのよ。堂々としてたらカッコイイわ!!」
「堂々としててもえっちな目で見られているじゃないですかぁ!」

 ソラは下着のみの自分の広告が世に出回ることを想像する。道行く人々に、自分の素肌が目に晒されることは、よく考えなくても、当の本人からしたら異常な事態である。
 見られることが仕事の人々にとっては、当たり前の事なのだろうが、彼女は一般人に過ぎない。ただの定食屋なのだ。
 そうこうしていると意識が戻ったのか、机にめり込ませた頭を上げ、ナギヨシはひとつ咳払いをした。

「悪いが……ウチも商売でね。岩戸屋の看板娘と従業員の身内をそう易々と売ることは出来ねぇんだ。こんなんでもコイツらは役に立つんでね」
「ナギ……」
「ナギさんなら泊めてくれると信じてたわ!!」

 ニィナとソラは信じていたと言わんばかりの表情を向ける。やはりこの男は最後には頼りになる。それを頼りにして、2人とも助けられたのだ。
 テンコは顎に手を当て考え込む。この逸材たちを、どうすれば引き抜けるかを。
 
「……そうね、とりあえずこのくらいでどう?」

 テンコがどこからともなく取り出した書類に、ナギヨシは目を通す。2人はヒソヒソと何かを話している。
 数十秒の会談の後、ナギヨシはぐるりと振り向きこう言った。

「2人とも一肌脱いでこいっ!!」
『結局金かいィィィィ!!』

 見せたことの無い爽やかな笑顔とガッツポーズ。その表情にソラとニィナの堪忍袋の緒が遂に切れた。
 2人のドロップキックによって、ナギヨシは岩戸屋の壁にめり込んだ。
 ケンスケが埋まったナギヨシの身体を引っ張る度に、壁越しから呻き声が聞こえる。

「そこまで嫌なの?」
「モデルって仕事はかっこいいですけど、私人に見せられる身体してませんし……」
「私も、流石に1人じゃ恥ずかしい」
「ならアタシも一緒にモデルをやるわ!それならどう?」

 渋る2人をなんとか説得するための切り札。それはテンコ自身がギャルパンブラティンのモデルになることだった。

「アタシはどうしてもこのプロジェクトを成功させたい。悪魔と契約してもね。お金だって払えるだけ払うわ。貴女たちの安全も保証する。貴女たちが適任だってことを絶対に証明してみせる!!だからお願いします!!」

 テンコは深々と2人に頭を下げる。プライドもへったくれも無いその行為は、物主重工という大企業の次期当主としては、まず有り得ない姿だった。
 そのような人物に頭を下げさせるほどの価値がニィナとソラにはあったのだ。

「そこまで言われたら……ねぇ、ニィナちゃん?」
「うん。私も岩戸屋に助けられた1人。今度は私が助けたい」
「ニィナ、ソラ……!!」

 テンコの必死な想いが2人に通じた。一時の恥など些細なものと思わせる程、彼女の熱意たと情熱は凄まじかった。
 話が決まってさえしまえば、乗り気なもので生きてる上でまず無いであろう経験に、ニィナとソラはワクワクしていた。結局最後の壁は女としてのプライドであり、如何にそのプライドを持ち上げてもらえるかが重要だったのだ。

「じゃあ早速スタジオに……」
「――待ちな!その話聞き捨てならないね」

 いざ撮影と言ったその時、突如岩戸屋に怒声が響いた。
 声の主、それは……

「何故アタシを呼ばないんだい?天逆の女王雛オウカを!!」
 
 御歳68歳。キャバクラ『ワダツミ』を経営する女傑、雛オウカその人であった。

「い、いやアタシは若い子の……」
「今どきそれだけじゃやってけないよ!多様性の時代さね。魅力的な熟女も必要さね」
「熟女というか、老婆というか……」
「あ゙?何か言ったかい?」

 その眼圧は有無を言わせぬ力を持っていた。

「それもそうね!オウカさんがモデルになってくれたら私、心強いわ!」
「確かに。オウカもまだいける。悔しいけど私たちに無い悩殺ボディも必要」
「あらヤダ、アンタたち。人を乗せるのが上手いじゃない!確かに、アタシゃこの身体で数多の男を虜にしたもんさ。でも……アンタたちも負けてないわよ」

 何がそうさせるのか、ニィナもソラもオウカの参戦にノリノリである。
 一方テンコは、顔が青ざめ、冷や汗をダラダラとかいている。その内心は先程とは一変、大荒れであった。
 
「そ、そうかもしれなないけど、こ、今回は若い子をメインに……」
「いいから行くよ!撮影するんだろ!?アンタが居なきゃ始まんないんだ。しっかりおし!」
「あ、あははは……デ、デスヨネー……。な、ナギヨシィ!?助けなさいナギヨシィィ!!」
「すみません。テンカさん。ナギさんまだ埋まってます」
「そんなァァァァァァァ!!」

 オウカはズルズルと引き摺られ連れ去られていく。その目には大粒の涙を浮かべ、見えなくなるその時まで懇願に塗れた悲痛な叫びを上げていた。

「ナ、ナギさん……行っちゃいましたけど」
「……イ」
「え?」
「ヤバいぞ!ケンスケェ!!このままじゃババァの下着姿が広告を飾っちまう!!」
「いや、まぁ、そうですけど……」
「下着のモデルってのはなぁ、未成年のガキにとっちゃ最高のエロスなんだよ!それにババァが載ってるのを想像してみろ」

 ケンスケは過去の自分を思い出す。河原に落ちているエロ本を拾うことさえ躊躇った自分が何を助けにしていたか。
 それは、CMや雑誌に映る下着姿の女性だった。今でこそ、簡単にエロスを摂取できるご時世だが、かつての自分の様な子供がいるのもまた事実である。
 ケンスケはようやくナギヨシの言葉の意味を理解した。

「ヤバいですよナギヨシさん!!はやくオウカさんを止めないと!!」
「あぁ。ババァがギャルパンクラインの表紙を飾った日にゃァ、エロじゃなくてテロだ!!だから、早く引っこ抜いてくれぇ!!」

 今ここに健全な男子を守る2人の勇者が誕生した。魔王オウカから、この世のエロスを守り抜く。
 その崇高なる目的のため2人は剣を抜き、走り出したのだ。

 
 ⬛︎


 テンコは頭を抱えていた。それもギャルパンブラティンの下着姿で。
 ニィナとソラの下着姿は良い。見立て通りだし、何より華がある。女であるテンコから見ても、変な欲を掻き立てられる。
 だが、隣はどうだ。隣の老婆は如何なものか。
 同じ女性にこの言葉は使いたくない。しかし使わざるを得ない。
 醜悪だった。

「ニィナちゃん似合ってる!!スタイルいいわね……」
「ソラ姉もいい感じ。私は筋肉質だから」
 
 だれかアタシを救ってくれ。テンコが心の底から神に願ったその時、ヤツらは舞い降りた。

「ババァ!いい加減にしやがれ!!」
「オウカさん!少年の心を穢さないでください!」

 勇む物の名の通り、覇気のある相手に億さず2人は食ってかかった。

「なんだい!?この姿に不服かい!!」

 オウカの堂々たる立ち振る舞いは、目に猛毒を直接注入されることを意味していた。
 それは如何にギャルパンブラティン着用とはいえ、その破壊力は核爆弾にも匹敵していた。
 老婆の肢体を目にした2人は、強烈な嗚咽と吐き気を催す。

「うぷッ……だめです!ナギさん、僕もう限界ですぅ……!!」
「た、耐えるんだ勇者ケンスケェ!ここで吐いたら多様性厨に処されるぞォ!思い出せ、思い出すんだ!!あれほど憎み、俺たちを阻んできたアイツのことをッ!!」

 勇者と言えど、優秀な装備が無ければ意味が無い。故に彼らは秘策を用意していた。
 それは過去、幾度となく目の前に現れ、道を阻み続けていた存在のことを。

「あの憎き『モザイク』をイメージしろォォォ!!」

 アイツ、それ即ちモザイクである。男ならば1度は挑み、破れた強敵を無理矢理にでも己の眼に宿そうとしていたのだ。
 本来敵であるモザイクを、より強大な悪を倒すために使用する。
 その様はまさに、主人公とライバルの共闘であった。互いに

「行けてる……行けてますよナギさん!オウカさんの身体をモヤモヤが邪魔して見えてます!!」
「まだ少し薄いが……これなら行けるぞっ!!」

 1歩、また1歩と着実に禍々しいオーラの嵐を突き進む。モザイクの効果は絶大で、先程の様な吐き気もだいぶ和らいできた。
 バッドステータスもくらい続ければ耐性がつく。2人に一筋の希望が見えてきた。
 しかし、それを嘲笑うかの如くオウカが動き始める。

「うっふん♡」

 それは古典的かつ時代錯誤、更に言えば漫画やアニメでしか見ることの無い典型的なセクシポーズと投げキッスだった。
 たが、ナギヨシとケンスケに、その動作はあまりにも凶悪な一撃だ。今までとは比べ物にならない不快感が脳天からつま先へ、臓腑を犯しながら駆け巡る。
 いくら最強装備のモザイクを装備していようと、決して行動を阻害できるものではない。2人は早くも作戦の弱点を突かれてしまった。

「ナ、ナギさん……僕呼吸が……!」
「クソッ!このままだとエロス不足でケンスケが死んでしまう。……ハッ、そうだ!!ニィナ、ソラお前らもセクシーポーズをしてくれぇぇ!!」
『えぇ……』

 傍から見ればシュールな光景にソラとニィナは訝しむ。この2人はエッチなことが目的で、最速を促しているんじゃないかと。
 だが鬼気迫る表情に気圧され、嫌々と引き受けた。

「こ、こうかしら?」
「こんな感じ?」

 ソラはおずおずと腰に手を当て、胸を前に突き出す。背筋を伸ばしたことで体のラインが強調され、より下着が下着として意味を持っていた。
 一方のニィナは猫が伸びるように、頭の上で手を組み全身を伸ばす。引き締まった筋肉が光に晒され、よりくっきりと姿を現した。
 スレンダーな体型を持つ2人だからこそ放つ魅力は、見る者によっては堪らないだろう。

「ほら見ろケンスケ!!意外とイケるぞ!!」
「ちょっ!?ナギさん!?『意外と』ってなんなの!?」

 ナギヨシのデリカシーの無い発言に、すぐさまソラは抗議した。当然のことである。
 
「ダメです……!」
「なにっ!?」
「ダメです……!姉の下着姿は見慣れすぎていて……全然エロくありませんッ!!」

 弟という存在。それは常日頃姉の存在を感じる者である。故に、どんな美人であろうと姉という存在は、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまうのだ。悲しいかな、弟に産まれるということは、生を受けたその日から姉萌えという文化は無価値な物になってしまう。

「ならニィナだ!!ニィナを見ろぉ!!」
「そうだ!ニィナちゃんなら……ダメです!!」
「なんでだッ!?」
「腹筋がバキバキ過ぎて、なんか、こう、男としてのプライドが傷つきますッ!!」
「めんどくせぇ奴ッ!」

 ニィナはここぞとばかりに自身の腹筋を強調するため、マッスルポーズをとった。煌びやかな汗、そして浮き出た血管は力強さと美しさを両立している。
 確かにバランスの整ったこの芸術的な肉体をまじまじと見せつけられると、筋肉量で勝る男としては敗北感を覚えてしまっても無理は無い。

「かくなる上は……テンコッ!テメーのエロスを見せつけやがれェ!!」
「ア、アタシィ!?いや、そもそもギャルパンブラティンの新戦略として色気や欲望とかけ離れた清楚を目指していて……」
「――御託はいいんです!僕にッ!どうかッ!!エロスをッ!!」
「あ゙ーもう分かったわよッ!!どうにでもなれぇッ!!」

 テンコは遂にその肉感的な身体を解放する。
 胸を持ち上げるブラジャーは、サイズが合っているものの肉を寄せた結果、大きな谷間を作っており、その2つの果実は今にも零れ落ちそうだ。
 下半身は上半身よりも肉付きが良く、パンツに食いこんだ太ももがより女性の魅力を引き出していた。両太腿の間に生まれる黄金の三角形の頂点は、エロス・エロス・エロスの3点で構成されており、もはや何がエロくて何がエロく無いのか、それさえもゲシュタルト崩壊させる程のエロスを帯びていた。
 そして彼女の魅力は勿論身体だけでは無い。
 先程まで自分もモデルをやると意気込んでいた彼女だが、誰よりも恥じらいを感じてる。ケンスケの熱視線を浴びた彼女の頬は紅く染まり、暴力的なまでの色気を放っていた。その熱情的な表情は一国を傾城させても決して不思議ではない。
 顔、身体、ポーズ。その全てが揃うと何が起こるか。

「ブゥゥゥゥゥゥッ!!」
「ダメだッ!鼻血の勢いでケンスケが後方3メートルくらい吹っ飛びやがった……!やはり、童貞には荷が重かったか……!!」

 つまり童貞は死ぬ。この一言に限る。見慣れない女性の肌はあまりに抜き身の刀であり、それが肉感的な美女であれば尚更だ。
 直視することさえ失礼だと感じた健介の男の行動は、ただ鼻血を出し、これ以上視界に入れないよう意識を飛ばすことだけだった。

「ケンスケ、お前の仇は俺がとってやる!ババァ覚悟しやがれぇ!!」

 ナギヨシはオウカに飛びかかる。まるで怪盗が美女の横たわるベッドに突撃する様な勢いだが、そこにいるのは美女ではない。カラカラに乾いた老婆だ。
 この身が朽ち果てようと、この先を生きる健全な少年たちのために今ここで魔王には退場願わなければならなかった。

「くらいやがれぇぇ!!」

 ナギヨシは手に持った大きく黒い布をオウカにかけた。
 魔王の姿は布に包まれ、見えなくなる。

「ちょっ!?ナギヨシ!アンタ何すんのさ!!」
「はっちゃけ過ぎだババァ……これ以上醜い姿を晒すと、PTAが黙っちゃくれねーぞ」
「そりゃまぁ悩殺ボディだから当たり前だけれど……」
「違うよ!?悩殺っていうか菩薩になっちまうんだよ!色を知る前に賢者モードになったら男はおしまいなんだよっ!!ほら、帰るぞ!!」

 ナギヨシは布に包まれながら暴れるオウカを抱え、出口に向かった。

「テンコ……口座に振込むの忘れんなよ。後、良い写真撮ってくれよな」
「……!!えぇ、任せてちょうだい!!ギャルパンブラティンで彼女たちの魅力をもっと引き出すわ!!」
 
 煩悩と羅刹を同時に味わいながらも、苦しい旅を終えた勇者の顔はどこか清々しいものがあった。
 その思いに応えるべく、テンコは恥じらいを捨て写真撮影に望むのだった。


 ⬛︎


 数週間後、岩戸屋に物主重工から荷物が届いた。それはソラ、ニィナ、そしてテンコが表紙を飾る雑誌であった。
 特集の組まれた袋とじを開くと、様々なポーズを写した3人が載っている。
 素人ながらも堂々とし立ち姿は、エロスの前に美しさを感じさせた。
 男であるナギヨシがそう思うということは、テンコの望女性像のイメージ戦略も上手くいったのだろう。

「……なんだよ。カッコイイじゃねぇか。まぁ、金もガッポリ入ったし、ソラとニィナには臨時ボーナスでも出そうかね。……ん、なんだこれ」

 ナギヨシが手に取った物。それは付録のブロマイドだった。おもむろに裏返すとそこに醜悪な老婆のセクシーポーズが写っていた。
 突然の精神攻撃。それを誤魔化す心のモザイクの準備など、ナギヨシは到底出来ていなかった。

「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!!!」
 
 この世のものとは思えない絶叫は、岩戸屋を大きく揺らし、澄み渡る青空に響きわたっていった。
「まさか、アンタがこんな別嬪さん連れてくるなんてね。意外だったわ」
「俺にだっていい人の1人や2人は居らァ」
「へー……私以外にも居るんだ」
「ちがっ!ミコちゃん、それは言葉の綾であってだね!?」

 私に会わせたい人がいる。そう言ったナギくんが連れてきたのは、キャバクラだった。
 流石のデリカシーの無さにひっぱたこうかと思ったが、私も無差別暴力主義者ではない。話を聞いてみると、ここが彼の職場であり、オーナーが親同然の方だと言うのだ。
 夜のお店とは無縁の私は、最初こそ雰囲気に圧倒され緊張に固まってしまったが、オーナーの雛オウカさんは気さくな方で、そんな私を気にかけてくれていた。

「第一、こんなとこにミコトさんみたい子を連れてくんじゃないわよ」
「うるせーな。ババァ、言わなきゃ一生根掘り葉掘り聞いてくるだろうが!バレる前に会わせた方が後々楽なんだよ!」
「ナギくんお母さんにそんなこと言っちゃダメだよー?ナギくん、オウカさんのこと親同然って私に紹介したんですよ?」
「あれま、反抗期が終わらない子だね全く。ミコトさん、こいつはね。最初に会った時眉間にシワがすっごい寄ってたのよ」

 オウカさんはお酒を作りながら、過去を懐かしむ。その顔は、困った様な呆れた様な、でも愛がある母親の表情をしている。

「まだ14歳くらいだったかしら。この世のモン全部敵だーみたいな怖い顔してアタシの財布奪ってどっか行っちまったのさ」
「えっ!?」

 私は思わずナギくんの方を見る。ナギくんはバツが悪そうに顔を逸らした。あ、これ、ほんとにやったことだ。
 
「その頃天逆町の治安もあんまり良くなくてね、強盗、ひったくり、殺しなんて日常茶飯事だったよ。だからアタシは財布だけで済んで良かった。そんなことを考えていたさ。でもねぇ、その日は運の悪いことに此処(ワダツミ)に強盗が入ってきたのさ」
「そんなことがあったんですか……」
「何処で手に入れたのか知らないけど、銃なんて取り出してね。アタシらに向けてぶっぱなそうとしてきたのさ。そしたら急に昼間のガキンチョが鉄パイプ片手に大立ち回りしたのよ」
「その子供っていうのが……」
「そこのバカさね」

 ナギくんは過去の話を恥ずかしがってそっぽを向いている。ナギくんの過去を全く知らない私には新鮮な話だ。
 表の人じゃないことは知ってたけど、小さい頃から苦労している彼は、ある意味私とは住んでいる世界が違うことに改めて気付かされる。
 ナギくんは刺激も何も無い私を選んで本当に良かったのだろうか。いっそのことスパイとか彼女にしていた方がまだ納得できる。

「そしたらね、ナギヨシが言ったんだよ。『ばーさん、依頼料くらいは働いたろ?だから警察には言うな』ってさ。アタシゃ笑っちまったよ。自分で盗んでおいて依頼料ってなんてガキだってね。だから言ったのさ。『全然足らないよ。飯と寝床はツケとくから、ウチで稼ぎな』ってね。それ以来の付き合いよ」
「そんなことがあったんだ……ナギくん、全然教えてくれないから」
「男ってそんなモンよ。ミコトさん、この馬鹿はきっとこれからも迷惑たくさんかけると思うけど、どうかよろしく頼みます」
「そんな、顔を上げてくださいよっ!!こちらこそ、ナギくんを今まで育ててくれてありがとうございます」

 私とオウカさんは共に頭を深々と下げあった。彼女の深い愛を感じる。
 愛が不変なものでは無いことは承知している。それでも私は私なりにナギくんを愛していこう。
 オウカさんの姿勢を見て、私は素直にそう思えた。

「あーもう、小っ恥ずかしいんだよ!ミコちゃん、もうどーにでもなれだ!踊ろう!!」
「は、え、ちょっ!?私そんな経験ないんだけどっ!」
「アッハッハッ!!いいじゃないか!恋人同士仲の良い所を見せておくれ!ほら、曲変えなぁ!」
「ちょっ!?オウカさんも悪ノリしないでください!!」

 動揺する私など意に介さず、ナギくんは私の手を取り、お立ち台の方へ駆けだした。

「ちょっと恥ずかしいって!」
「俺にも恥ずかしい思いをさせたんだ。これくらい悪くないだろう?」

 ナギくんは意地悪な笑みを向け、型無しのダンスで私をリードする。店内に流れる曲はアップテンポな物に代わり、酒に寄ったお客さんが手拍子を始めた。

「ほんっと君はっ!こんなことばかり巻き込むんだから!!」
「そういう割には顔が笑ってるぜマイハニー」

 正直、ロマンチストに片足を突っ込んでいる私はこういう展開がやぶさかでは無い。
 少し入ったお酒の性もあり、思考が喜と楽に飲まれていく。もうどうにでもなれだ。
 私はぎこちないながらも、ナギくんのリードを受け入れる。
 右へ、左へ、軽やかに回り、ステップを踏む。靴が地面を跳ねる度、リズムに乗った小気味良い音がビートを刻む。
 ベタな洋画のワンシーンを、こんなベタなシチュエーションで自分が体験することになるとは正直思ってもみなかった。
 私は呆れながらナギくんに話しかける。

「サプライズが好きなダーリンだなぁ」
「今日くらいはバカになっても誰も責めんさ。ほら、ステップ踏んで、そこでくるっとターンッ!」

 ナギくんの手を離さず、くるりと一回転する。脳に反して冷静な視界が人々を捉える。皆、楽しそうに笑っていた。
 オウカさんは満足気に煙草をふかしている。彼女にも幸せなナギくんを見せられているだろうか。
 音楽と酒、そして観客の熱狂に身体が火照る。
 私は熱に浮かされただ踊る。
 目の前の恋人の幸せな表情が、足取りを導いてくれるのだから。

「ミコちゃん、愛してる」
「ナギくんは素直すぎるくらいだね」
「愛が重い自負はある」
「私は素直に伝えるの苦手だから、ナギくんがそれくらい情熱的な方がいいのかもね」
「なら離れない様にもっと伝えなきゃだな」

 そう言うとナギくんは『ミコちゃん愛してるぅぅぅぅ』と大きな声で宣言した。
 その瞬間、店内を黄色い歓声がドッと包み込んだ。
 流石に恥ずかしいから勘弁して頂きたい。テーマパークでサプライズ婚約するバカップルみたいじゃないか。
 自分の顔がより紅くなるのを自覚する。
 でも、まぁ、今日くらいは許してあげよう。
 そう思えるくらい、私はこの人を愛しているんだろう。その瞬間、恥ずかしながら、私もバカップルの仲間入りを果たしたのだ。
 月の輝きが失われた宵闇の晩、男は路地裏を息を切らしなが走っていた。
 荒い呼吸はただ走っているだけでは無い。不規則かつ過呼吸気味なその息遣いは、まるで何かに脅えている様だった。

「はっ、はっ、はっ、な、なんで俺なんだ!俺はお前に何かしたかよっ!!」

 男は吸い込まれそうな背後の闇に、必死に言葉を投げかける。
 返事は無い。だが、返答の代わりに足音がカツカツと音を立て迫ってくる。
 どれだけ、路地を曲がろうと一定の間隔で聞こえてくる足音は、まさに死神の囁き。
 そして更なる絶望が遂に男の脚を止めた。辿り着いた底は袋小路。飛び越えることは困難を極めるそり立つ壁が彼をの行く末を阻んだのだ。

「なんで……なんで俺を狙うんだ…!」

 力なくへたり込む男の背後には、既に足音の主が立っていた。
 その主は全身を黒いコートで包んでおり、ガスマスクを被っていた。闇夜も相まってその全貌を捉えることは難しい。
 唯一分かることは、ガスマスクの奥にある2つの目が爛々と紅い光を放っていることだけだった。
 
「……その質問はナンセンスだ」
「……へ?」
「別に誰でも良いのだよ。そう、誰でも。この町で私が起こす事象の引き金になれば誰でも構わなかった。理由をつけるなら……そうだな。()()()()()()()()()て《・》()()君が俺にとって都合が良かっただけのことに過ぎない。納得してくれたかな?」

 男はガスマスクの言っていることが何一つ分からなかった。
 否、言葉は確かに認識できた。だがしかし、意味を理解することを脳が全力で拒んだ。
 まるで子供にいたずらに踏み潰される蟻の如く心境を、人である自分がどう理解しようというのだ。

「誰か……誰かァ!助けてくれぇ!!」

 男の魂の懇願は無情にも闇の奥深くへ吸い込まれていく。
 ガスマスクは泣き喚く男の首筋に手を掛けた。

「嫌だ……死にたくない、止めてくれ……頼む……!」
「安心しろ。俺は殺しはしない。俺はな」

 ガスマスクは腕を伸ばし、男の首を掴む。喉元をしっかりと掴む手は酷く爛れており、その醜悪さは生理的嫌悪感を催す程だ。
 驚くべきことに、男の掴まれた喉もその手同様に、赤く染まり醜く爛れていく。
 口元から漏れる息は掠れ始め、隙間風の様に細いものになっていった。

「あがっ……ぎっ……!!」
「苦しみは程なくして無くなる。光栄に思うがいい。俺の実験対象になるのだから」

 喉から始まった爛れは、男の全身をじわりじわりと蝕んでいく。それはたった数十秒の間に輪郭を大きく変え、顔の原型を留められなくなっていった。
 ぐずり、ぐずりと腐敗が進行する様に、皮膚が剥がれ落ちる。
 腐敗の進行は顔だけに収まらず、足、腕、腰と言った具合にぼとぼとと身体は崩れ落ち、最後には頭部さえただの肉塊となる。

「長時間触れると病魔の進行も早まるか。それも昔とは比べ物にならない速度……。だが感染源自体が消失してしまうため、その分感染力は下がると。病の媒介生物として扱うには、生かさず殺さずの匙加減が必要か。ふむ、次に活かす良い反省点だ」

 ガスマスクは手帳につらつらと検証結果を書き出す。辺りは静寂を取り戻し、ペンを走らせる音だけが響いた。
 しばらくするとガスマスクは納得したのか、手帳をパタンと閉じた。それと同時に雲にか隠れた月が顔を出す。
 男はくぐもった息を1度吐いた後、ガスマスクを外す。
 月に照らされたその顔は、右半分に大きな火傷跡が広がっており、瞼を失った瞳がギョロリと蠢いていた。

「良い夜だ。やはり天は俺を祝福している。ずっと見ていたいところだが、如何せんドライアイだ。瞼の無い俺にあの輝きは眩しすぎる」

 クツクツと笑い声を上げ、再びガスマスクを装着する。コートを翻し、ガスマスクは闇夜に消える。痕跡である肉塊は既に地面のシミへと変貌していた。
 残暑も終わり、カサカサと音を立て枯葉が舞う寒空の下、天逆町ではマスクを付ける人々が急増していた。
 急激に変化する寒暖差にやられ、体調を崩す季節ではある。だが、皆一様に掠れた嫌な咳をしており、酷いと高熱に(うな)される症状で、病院は連日急患で埋まっていた。
 未知のウィルスかと思われたが、如何せん天逆町でしか流行っていない。ウィルスの形も他との変化が見られないため、確かな目を持つ医者も頭を抱え、喉風邪用の薬を処方することしか出来ないでいた。

「ったく、商売上がったりだよ。手洗い、うがいを徹底してりゃ風邪なんてかかりゃしないのに」
「そりゃババアの身体の中にゃウィルスだって入りたくないだろうよ」
「バカの身体にも入りたくないってさ」

 案の定ワダツミもその痛手を受けており、客は当然ながらキャバ嬢も体調不良を訴えて暇を貰っている。
 店内はナギヨシとオウカの2人きりで、いつもの喧騒を失っていた。
 付き合いの長い2人だからだろうか、ナギヨシはいつもより多量にアルコールを摂取している。顔は既に赤く染まっており、近くに寄れば思わず鼻を摘んでしまう程の酒気を纏っていた。

「……この時期は嫌だねぇ。あの子を思い出しちまう。もう3年になるかい?」
「そうだな……もう、冬になるもんな」
「可哀想に。死因が()()()()の病気だなんて。何のために医者が居るのか分かったもんじゃないよ」

 オウカは棚に飾られた写真に目を向けながら煙草を深く吸い、ゆっくりと吐き出した。
 
「そういやアンタ、墓にはもう行ったのかい?」
「いや……」
「……アタシが言うことじゃないかもしれないけど、死人とはちゃんと決別しなきゃ生きてけないよ」
「うるせぇ。それが、俺には出来ねぇから、葬式も墓もババァに任せたんだろうが……」

 ナギヨシはグラスに注がれた酒を胃に流し込む。オウカに八つ当たりをしても意味が無いことは重々承知していた。
 だが、環境が変わろうとも、月日が流れようともナギヨシの胸にぽっかりと空いた穴は埋まらなかった。いくら喜びを注がれようと、気付けば全て零れてしまう。頭で理解はしていても、今は亡き勇魚ミコトを求めてしまうのだ。
 そんな悪癖に苛まれながら生きることがナギヨシには、とてつもない苦しみだった。

「ナギヨシ、アンタまだ死にたいとか思ってんじゃないだろうね」
「止める権利がテメーにあんのか?」
「昔なら止めなかったさ。アンタもガキじゃない。どうしようが勝手さね。でもね今は違うよ。ニィナもケンスケも居るんだ。あの子たち食いっぱぐれさせちゃ、地獄行きだ。大人としての責任はちゃんと果たさなきゃならない」

 オウカは眉間に皺を寄せ、俯くナギヨシを睨みつけた。刺すような視線を感じるも、ナギヨシは目を合わせるつもりは無かった。
 それは自分が酷い顔をしている自覚があったからだ。取り繕う為に、後十数秒の猶予が欲しい。そうでもしなきゃ、子供みたいにどうにもならない駄々をこね、オウカに甘えてしまいそうだった。

「死にはしねぇよ、まだな」
「アタシより先に死ぬんじゃないよ。順番は守りな」
「何度もうるせぇな、分かってるよ………」

 ナギヨシは財布から無造作に金を取り出し、机に置いて席を立った。

「ナギヨシ、時間はいくらかけたっていい。だからちゃんと『生』と向き合いな」
「……あぁ」

 ナギヨシはフラフラとワダツミを後にする。明らかに飲み過ぎな後ろ姿を、オウカは溜息をついて見送った。

「ミコトさん……アンタに怨みは無いけど、このままじゃ息子(ナギヨシ)が死んじまうよ。アンタさえ生きていたら、アイツはちゃんと現実と向き合ってるだろうに」

 ナギヨシとミコトの写った写真立てを手に取り、どうしようもない恨み言をオウカは呟いた。
 そして、ハッとする。

「今のアタシ、すごい嫌な小姑っぽさが出ていなかったかい!?あー、嫌だ嫌だ。これだから冬は嫌いなんだ」

 オウカは店内の静寂さを誤魔化すように、喉を大きく鳴らし、うがいをするのだった。
 
 もう何度の夜を共にしただろうか。ナギくんと岩戸屋で同棲を初め早数ヶ月。今日も今日とて私たちは、若い大学生の様に、自堕落にベットの上で浮ついた身体を互いに求め合っている。
 愛は心で感じると言うが、存外人は肌の体温で確かめあってるのかもしれない。
 カーテンの隙間から月の明かりが私たちを照らす。荒い息を整え、大人らしく頭を冷やせと説教をしているみたいだ。

「……疲れた。流石に」
「そりゃそうでしょうに。こんだけ酷くしたんだから」

 私はナギくんの罪悪感を煽るように、肩に薄らと浮き出た噛み跡を見せつける。
 ナギくんの癖だろうか。彼は玩具を取られてたくない子供の様に痛いくらい抱きしめ、大切な物に名前を書くように私に歯を立てる。
 おかげで身体は歯型塗れだ。先程付けられた跡は、まだ薄紅を残しており、ジンジンと柔らかい熱を持っている

「……ごめんなさい」
「無意識なのがタチ悪いよね君。……また()()になってる。悪いと思ってないでしょ」
「それは、ほら、ねぇ?」

 どんだけ元気なんだコイツは。悲しいかな。睨んだら睨んだで彼は興奮するのだ。

「水、とってよ」
「ん」

 私はナギくんに渡された水で喉を湿らせ、残りを彼に渡した。どれだけ乾いていたのか、ゴクリと喉を大きく鳴らしながら彼は3分の1程を飲み干した。
 私はナギくんの身体にある一際大きな傷跡に触れる。何があったのかは聞くつもりは無い。ただこれだけ酷い怪我を負ったのに、生きて私と出逢ってくれたこと。それに感謝を込めながら、存在を確かめる様に触れる。
 ナギくんはくすぐったそうに眉をひそめ、目で私を追った。

「そうだミコちゃん」

 ナギくんは立ち上がり、ゴソゴソと脱ぎ捨てられたコートのポケットを漁る。

「ほれっ」
「おっとっと……何この箱?」
「開けてみて」

 包みを取って姿を現したのは黒い箱。その中には装飾の付いてない指輪が入っていた。

「ミコちゃん結婚しよう」

 正直な所私は頭を抱えた。プロポーズというのは、本来適切な場所、適切なムードで行うものとばかり思っていた。
 それが今はどうだ。乱れたベットに濡れたシーツ。果ては互いに裸ときた。
 私がロマンチストなのは勿論認める。とは言え、この状況でサラッと言うのは些か……些か()()ではないだろうか。

「ナギくんさぁ……このタイミングでするかな普通ゥ」
「えぇ!ダメだった!?」
「ダメっていうかムードがさぁ……デリカシーの欠片も無いよねほんと」
「いや、その、このままエッチなことばっかやっててもさぁ、不安にさせるというかさぁ、誠意というか、カタチというか、覚悟を見せたかったんだけど……」
「それにしてもでしょ、コレは」

 ナギくんはオロオロと私の機嫌を伺ってくる。
 一世一代のプロポーズをその場で指摘されたのだ。誰だって狼狽える。

「でも分かってた。ナギくんのことだろうし、こうなるんだろなって」
「えと、その、つまり……?」
「……うん、結婚しよっか。」

 私の言葉を聞いた途端彼は歓喜の雄叫びを上げる。近所迷惑だから、なんて思いつつ私は喜ぶナギくんをニヤニヤしながら見つめていた。
 惚れた弱みかな。悪態をついたところで仕方が無いのだ。
 正直、私も、死んでもいいくらいに嬉しかったのだから。
 だが股の暴れん坊をブンブンと狂喜乱舞させるのだけは辞めてくれないだろうか。流石に見ていて恥ずかしい。

「ミコちゃん、結婚しよう!」
「はいはい、しますします」
「ハニー愛してるぅ!」
「はいはい、私も愛してますよダーリン」

 雑に扱ってるというのにこの恋人と来たら、犬の様に尻尾を振ってまとわりついてくる。

「ほんと馬鹿みたいに私のことが好きだなぁ君は」
「俺ァみこちゃんにゾッコンだから仕方ないじゃんねぇ」
「……ナギくんがズルいのはそういうとこだぞ」

 この男は真剣な眼差しで痒くなることをサラッと言ってしまう。それにやられてしまっているのだから、私も大概馬鹿なのだろう。
 ムードもデリカシーも衣服も無いプロポーズで心から幸せになってるのだから。

「ナギくん」
「ん?」
「好きだよ、好き。大好き」

 ナギくんの目がパッと見開かれる。分かりやすく表情が緩み、その目には普段見ることの無い輝きを孕んでいた。
 私たちに高尚で凝った言葉はきっと不要なのだ。
 脳のネジを弛めて、馬鹿になって、最小限かつ最大の愛を伝えれば互いに満たされる。
 そうすれば、ほら、またこの通り。私たちはベットに吸い込まれ、肌を重ねて溶け合うのだ。