よく晴れた日の午後、閑古鳥が鳴く私の店の前を学校帰りの少年少女たちが風を切って走っていく。あの頃に戻りたいとは思わないけど、少し羨ましく感じてしまう。
それもそのはずだ。客の来ない古びた書店『岩戸屋』に数日前から足繁く通う立ち読み野郎を前にしていれば。数時間居続けて、物も買わずに去ってしまうこの男。今までは黙って見過ごしていたが、こうも続くと流石の私も腹が立つ。
「あのぉーいい加減にしてくれません?貴方ずっと立ち読みしてるでしょ。買わないならさっさと出てってよ」
意を決して私は声をかけた。男は読む手を止める。チラリとこちらを見る目は、邪魔されたことに不満を抱いていた。私にはそんな不満など知ったことじゃない。
男はポリポリと頭を掻きながらこう言った。
「俺の楽しみなんだよ。ここで立ち読みするの」
男は寂しげな声色でそう言うとまた漫画に目を戻した。
そうか。こんな寂れた書店を楽しみにしてくれる客が居たのか。私はそんな彼の楽しみを私は邪魔してしまったのか。
「ンなわけねーだろーがぁ!」
「あだァ!?」
私は思い切り六法全書の角で男の頭を打ち付けた。躊躇いなど無い。
「何が楽しみじゃい!!金払わねーで本読む奴なんざ客でも何でもねーんだよォ!テメーの手垢で本も泣いとるわい!!」
「えぇ、そこは目をつぶってくれる流れじゃ……」
「許すわけないでしょ?こんな寂れた書店の店長でも本好きの端くれよ。ただでさえ電子書籍の波に溺れかけてるのに、金払わない奴なんて重りよ、重り。飲まれるどころか沈む一方だっての」
男は頭を擦りながら、バツの悪い顔をした。その表情はどこか叱られた子供の様なあどけなさがある。
不思議なことに、私にはさっき通りを走っていた子供たちと同じ様に思えたのだ。
「……ぷっ!あははははっ!!」
「なんだよ」
「いや、ごめんね?何だか君が子供に見えて。思わず笑っちゃった」
「大人だっての。ンな歳変わんねーだろうが。良いとこだったのによぉ」
そう言う彼の持っていた雑誌はオトナの雑誌、所謂『エロ本』だった。そんなのにいい展開もクソもあるかコノヤロー。
「で、買うの?買わないの?」
「……買う」
「素直でよろしい。全く、やることまで子供っぽいんだから」
男はジャラジャラと音を立ててポケットを弄る。財布はどうした財布は。呆れながらもその様子を見ていると、彼が机に小銭を置いた。
100円が1枚に10円が2枚。そして5枚の1円。
「全然足りないんですけど」
「持ち合わせがこれしか無い」
「……ハァー。呆れた。ていうか売る気も失せた」
「面目ない……」
私は頭を抱える。この男は所謂ニートなのだろうか?やることも無く、ただ時間を浪費するために足繁くこの店に通っていたのか?関わるのも億劫になってきた。
「明日また買いに来る。金が入るんだ。あと、その本も」
「えっ?」
私は彼の指す本に思わず驚いた。それは、私が執筆した小説『夜に囁いて』だったのだ。私が趣味で書いていた物がたまたま書籍化した作品で、正直売上には繋がっていない。世間からしたらドマイナーな作品だろう。
「出来ればサイン付きで頼むよ。先生」
「は?先生?サイン?え?き、君もしかして私の事こと知ってんの!?」
「確信は無かったんだが、露希で書店を営んでるって記事を見たことがある。それで、もしかしたらって」
「えぇーそれだけでぇ?ストーカーの才能あるよ君?」
「ち、違わい!別に話しかけられたくて立ち読み続けたワケじゃないやい!!……飽きずに最後まで楽しめた作品だったから、どうしても感想を伝えたくて」
「それでまごまごしてたと」
「……ソウデスネ」
正直私は嬉しかった。見向きもされない作品だと思っていたから、ストーカーだろうが何だろうが直接の感想は心に来るものがある。
「面白かった?」
「あぁ、とても」
「……そ。なら私も嬉しい。な、なんか照れるね!!あんまり褒められ慣れてないからかなーアハハハ」
気恥しさに思わずふざけてしまう。心の準備が出来ていないと私という人間は、こうも受け取り方が下手くそになってしまうとは。つまるところ、今の私は悪くない気分なのだ。
「君、名前は?」
「ナギヨシ、平坂ナギヨシ。歓楽街でボディーガードしてる。先生がストーカー被害にあった時は助けに行くぜぃ」
「それ君のことでしょ。なるほど、ナギヨシくんね。明日ちゃんと買いに来てね?……恥ずかしけど、サインも書いたげるから」
「安心してくれよぅ。俺は女とした約束はちゃんと守る派だ。何より先生に願われちゃ守らなきゃ損だろう?」
本当にこの男、もといナギヨシくんは子供のような顔をする。人の気持ちがあまり分からない私でも、褒められて得意げなのがすぐに分かる。
「……あと恥ずかしいから先生禁止」
「じゃあ何て呼べば?」
「勇魚ミコト。ミコトでいいよ」
「ミコト……ミコト……」
「何回もブツブツ名前呼ぶのは気持ち悪いよ?」
「そーいうんじゃねーからぁ!?……ミコトさんね。じゃあまた明日来るから、サイン頼んだ」
「はいはい。また明日ねナギヨシくん」
彼はそう言って岩戸屋を後にした。先程まで寂しそうな彼が、満足気な足取りで帰ったことを私は見逃さなかった。
「なんだ、可愛いヤツじゃん」
私もまた、満足気な表情をしていたことに気付く。
そして、自分の著書に描き慣れていないサインを施した。明日の彼が喜ぶ表情はどんなものだろうか。きっと忘れられない素敵な1日になるだろうから、それはもう笑顔に決まってる。
それを想像すると私もまた、クツクツと笑いが込み上げてくる。どうにも明日は私にとっても素敵な日になりそうだ。
夜の天逆町は違った一面を持つ。昼には下ろされていたシャッター街がこぞって舞台の幕を開く。露希市最大の歓楽街としてその顔を輝かせるのだ。
数日前までは、金城グループの店が大手を振って営業していたが今は姿も見えない。逆に彼らに邪険に扱われていたもの達が活気づいている。故に、金城グループの崩壊前と後を比べても、さして賑わいに変わりはなかった。
だが悪質な客と薬物の横行は著しく減り、歓楽街を素直に楽しむ者にとっては良い環境になったと言えるだろう。
しかしながら、金城グループが幅を効かせていたことで寄り付かなかった者たちも押し寄せている。日が浅く、まだ問題は起こっていないが、新しいトラブルが露見するのもまた必然だろう。
それでも今宵も飽きずに欲望の七変化は始まる。威勢よく客を呼び込む黒服に、恰幅の良い男を見送るホステス。下は1万、上は10万超えと格差の激しい風俗店。往来する人々はまるで灯りに魅せられた蛾の様である。
岩戸屋店主、平坂ナギヨシもまたその1匹であった。
「だーかーらー、謝ったじゃん!バイクが壊れたのは俺のせいじゃないんだって!バイトくんのせいなんだよ!てか店にもお金落としてんじゃん!」
「謝罪で済んだら警察はいらないんだよバカヤロー!それにテメェが頼む酒なんざ、安酒オブ安酒。キングオブ安酒じゃないのさ!ほんとに謝罪の意思があるならドンペリ10本頼まんかいっ!!」
「てーめ、ババァコラァ!こっちが下に出たら足元見やがって!」
蛾の止まった灯りはキャバクラ『ワタツミ』。数人のキャバ嬢と、それを従えるママ『雛オウカ』が切り盛りする小規模なキャバクラだ。
先程からナギヨシとアグレッシブに言い争っている老婆こそオウカその人である。
「人殺す前にさっさと免許返納しやがれ。もう80だろうが」
「サバ読みすぎじゃボケェ。まだ68だわ」
「悪ィな。小ジワと小言多すぎて高く見えたわ」
「ならお前は小学生だね。そんなに髪伸ばして!バリカンあるからスポーツ刈りにしてやる。男に1番人気の髪型さね」
「ちょ!?まっ!?いつの時代の話してんだババァ!手を離しやがれェェェ!!」
生意気な口を聞くナギヨシの頭部を掴み、オウカはバリカンを押し当てようとする。ナギヨシは慌てふためいて抵抗した。
「ご注文の酒。ドーゾごゆっくり」
2人に割って入る様に1人の少女が酒を置いた。その少女は、褐色の肌に目を引く白髪。さらに宝石の様に美しく青い瞳を持っていた。絵から飛び出してきたと言われても嘘に聞こえないその容姿は、嫌でも目を惹く。
ナギヨシには高く見積っても10代後半にしか見えなかった。
「ババァ、アレ誰?」
「あぁ、紹介してなかったね。ウチの新入りだよ。店の前で倒れてたの拾ったんだ。そしたら懐いちまって」
「その顔面に?有り得ねぇだろ」
「テメーの顔面もそうしてやろうか?」
『ニィナ』とオウカが呼ぶと、少女は振り向き、無愛想な顔でナギヨシの前に立った。
「常連のナギヨシだ。今後も顔合わせるだろうから紹介しとくよ。ほれ、挨拶しな」
「『雛ニィナ』。よろしく」
ニィナと呼ばれた少女はペコリと頭を下げる。
「なぁババァ。法律って知ってる?」
「年齢かい?バレなきゃ犯罪じゃないんだよ。それに、やらせてるのは給餌だけだ。男の相手はさせてないさ。アタシにも倫理観はある」
「……オウカ、もういい?」
「あぁ、いいよ。客足も落ち着いてきた頃だ。アンタも裏で休んどきな」
「こりゃまた随分とクールでいらっしゃる」
ニィナは言われるままに裏に下がって行く。動く度に靡く白髪は、光が当たることでより美しく輝いていた。
「愛想の無い子でねぇ。誰に似たんだか」
「少なくともテメーの股からは産まれてねぇからテメーじゃねぇ。……また自分の苗字名乗らせて、相変わらず行き倒れの女拾ってんのか」
「そうさね。あの子らの過去は知らないけど、この店に居るうちは娘として扱ってやらんとね」
ここワダツミの従業員は、皆オウカに拾われた身である。元犯罪者、元ヤク中、元詐欺師……洗えばいくらでも錆が出てくるだろう。
しかし破滅は誰にでも訪れる。結果、立場も金も親さえ頼ることが出来ず、自死さえ考えていた彼女たちを救ったのはオウカだった。
店主として、親として『雛』の姓と仕事を与え、最低限生きてくのに困らぬよう面倒を見ている。まさに蜘蛛の糸。当然ながら、彼女たちもオウカのことを親として慕っている。
「アタシゃ随分と身勝手な女だろう?」
「んにゃ、それがババァのやりたいことなら一客の俺はなにも言わんさ。アンタ責任が取れる大人なんだから」
ナギヨシは運ばれた酒を飲み少し寂しげな顔をする。オウカは紫煙を燻らせながら、棚に飾られた1枚の写真を眺めていた。
写真の中で今は亡き勇魚ミコトが微笑んでいる。
「……アンタは吹っ切れたのかい?」
「吹っ切れたら死にたいなんぞ思ってないさ。あの3年間は俺の人生で最もかけがえの無い素敵な日々だったから」
「アンタさえよければ、ウチの娘なんざいくらでもくれてやるのに。惚れてんの気付かないフリしてるだろ。悪い男だね」
「なら尚更やれんでしょうが。こんな悪い男にテメーの娘渡せねぇだろ。俺が親父だったらぶん殴ってでも別れさせるね」
「ククク、よく分かってるこった」
2人はクツクツと笑い、身体に毒素を流し込む。たまには悪い物を取り込こまねば生きていていけない。夜の天逆町は毒を毒で制し成り立っていた。
「全員手を後ろに回せ!!」
それは突然の出来事だった。夜を楽しむワダツミの店内に、銃を構えた者たちが押しかけてきたのだ。目出し帽を被り、如何にも強盗と言った雰囲気を醸し出している。
「ババァの知り合いか?」
「いんや、アンタ以上に無作法なヤツは知らないよ」
「そいつは光栄なこって」
ナギヨシは残りの酒をのみながら様子を伺う。店内の人々は目出し帽たちに従い、手を挙げ店の隅に固められた。
「おい、オマエらも早く動け!!」
目出し帽の1人が、酒を飲むナギヨシと煙草を吸うオウカに詰め寄る。脅しているはずなのだが、当の2人は依然変わらぬ態度を取っていた。
「立場わかってんのかァ!!」
カウンターに思い切り銃を打ち付ける行為は、脅しを超え恐喝になった。
店内の空気が緊張に包まれる。
「立場も何も、ここは酒飲んでおっぱい揉む店だぞコノヤロー」
「お触り禁止だよ」
「禁止だそーだコノヤロー」
「何をふざけてっ!」
「ふざけてねーよ。場違いなのはテメーらだって言ってんだよッ!」
ナギヨシはほぼ予備動作の無い流れる様な回し蹴り放った。目出し帽の男は攻撃されたことにさえ気付かず、地面に大穴を開けめりこんだ。
「ナギヨシ、器物破損だよ。ちゃんと金払いな」
「残念ながら請求する相手を間違えてるぜ。領収書はコイツらに切ってれや」
「な、何しやがるんだ!!人質がいるって分からねーのかっ!!」
残りの目出し帽たちもナギヨシ目掛け銃を構える。彼らの目は血走り、今すぐにでも発砲しそうだった。
身構えるナギヨシの横をフッと何かが通り過ぎる。視界の隅を一度見たら忘れない白髪がチラついた。
「な、なんだァ!?」
裏から飛び出してきたニィナが、銃を構える目出し帽に組み付く。彼女は右腕を目出し帽の首に回し、左手で下顎に掌底を当てた。体勢が崩れた男の脇腹にすかさず膝蹴りを入れる。一瞬にして力なく男は倒れた。
「まだやる?」
ニィナが他の目出し帽に問うと、彼らは圧に負けバダバタと逃げ帰っていった。
すぐにキャバ嬢たちがニィナに駆け寄り、店内は歓声の渦に包まれる。ニィナは鬱陶しいそうにしていたが満更でも無さそうだった。
「まさかあの娘にあんな特技があったなんてね」
「ありゃ『ルア』だな。カプ・クイアルアっていう『禁じられた2度打つ技』。初めて見たが、2手で相手を沈めるってのは嘘じゃねーみたいだ」
「じゃあ、元はハワイに住んでたってことかい?」
「さーね?もしかしたら滅んだ王国のお姫様とかなんじゃね?」
「そうだ」
ゲラゲラと笑う2人に、ニィナが声をかける。
「え?」
「私は姫だ。日本に亡命したんだ。さっきのヤツらは雇われた追っ手だろう」
「えぇぇぇぇぇぇぇ!?」
驚愕の事実に酔いも醒める。どこぞの姫が働くキャバクラがあってたまるか。何より国際問題で全員指名手配になるのではないかと、ナギヨシとオウカの頭はぐるぐると最悪を考える。
「ど、どこの国のお姫様なんだい?」
「ハワイ島の隣。地図から消された小さな島国。ドウェイン・ジョン島の姫」
「なにその島民全員ムキムキそうな名前の島」
「通過の代わりに筋肉量で支払うの」
「それでどうやって成り立ってんの?てか筋肉量で支払うって何!?」
オウカは力こぶを作り、自身の力を示す。ナギヨシは、それがどれくらいの価値になるのかを推し量ることは出来なかった。
「オウカに迷惑をかけるつもりは無かったけど、バレたなら仕方ない。これ以上ここには居られない。迷惑をかけた。ごめんなさい」
ニィナはそう言うと踵を返し、ワダツミから立ち去ろうとする。彼女がどれだけ追われていたのか。なぜ追われているのか。日本に来る前にも他の国を転々としていたのだろうか。その苦労は彼女本人にしか分からない。ただ、立ち去るのが当たり前の様に動いている。
だが、その背には寂しさを背負っていた。
「待ちな。ニィナ、勝手に出ていくじゃないよ」
「でもここに居ても迷惑をかける。オウカも怪我する」
「自分の仕事ほっぽる馬鹿が何処にいるかってんだ。アタシたちにはアンタの手が必要なんだよ」
「でも……」
「でももヘチマも無い。手前の娘に何もしないで追い出す親がいるかね。安心しな、ウチにゃたぁーぷりツケがあるアホがいる。そいつの仕事は何でも屋だ。」
オウカはソロりと店から出ようとするナギヨシに声をかける。ナギヨシは冷や汗を垂らし、オウカと視線を合わせた。
「ニィナのこと頼んだよ。ナギヨシ」
ニンマリと笑うその顔が、ナギヨシには悪魔に見えた。
僕の新しいバイト先、何でも屋の岩戸屋の朝は早い。
実家から通う僕の始めの仕事は、ナギさんを起こすことだ。
どうせ昨日もワダツミで飲んでいたのだろう。僕は酒の味を知らないけど、そんなにいい物なのだろうか。だとしても、バイトに毎朝起こされるのは如何なものだと思う。
「ナギさん、おはようございます。仕事の時間ですよー」
インターホン程度で起きないことはここ数日で分かっている。合鍵を使い中へ入る。いつも通り来客室のソファーで寝てるはずだ。
「全く、いい加減起きて……」
僕は目を疑った。くたびれた三十路の男がいると思われたそこには、銀髪褐色の美しい少女が寝ている。
「エ゙エ゙エ゙エ゙エ゙エ゙エ゙エ゙ァ!?」
は?何やってんのあの人?そりゃいい歳した男だもん。女性の1人や2人連れ込んでいたっておかしくない。でも幼いじゃん。明らかに未成年じゃん。犯罪じゃん。どーすんのコレ。どーなんのコレ。僕は通報した方がいいの?でも僕も何か言われるんじゃないの?疑われるんじゃないの?なんなら顔とか全国に乗って一生ネットの宝物扱いなんじゃないの?
「うるさい。起こすな」
「どぅぐぅらぁぁぁ!?」
僕の思考はどうやら口から漏れていたようだ。
だが、そんなことはどうでもいい。ナギさんの起こした問題から目を背けられるなら、僕は笑顔で少女の御御足から放たれた一撃を受け入れよう。
ここで僕の意識は幕切れた。
⬛︎
「つまりニィナちゃんはお姫様なんだね?」
「うん」
「いや『うん』で納得できるかい!?」
「厳密に言えばドウェイン・ジョン島のロック族の姫」
「なにその島民全員ムキムキそうな名前の島!?」
「ケンスケ、そのツッコミはナギヨシがもうやってる」
昏倒から目覚めた僕は、ナギさんの未成年淫行が誤解だったことを伝えたられた。
だがそれ以上に、目の前の少女が異国のお姫様である事実の方が強烈だった。
「……私の国は戦争で滅んだ。だけど王族の血族である私が見つかって、王国復権派の連中が躍起になって探してる。中でも復権派のリーダー『オコイエ』は武力知力共に秀でてる。アイツが本格的に動き出したら逃げきれないかもしれない」
憂鬱な顔をして俯くニィナちゃんに、僕はかける言葉浮かばなかった。
本や映画のお姫さまと言えば、優雅で幸せな生活を送っている。なんなら白馬のハンサムな王子様付きだ。言わば、女の子の憧れの存在なのだ。
だが、現実はどうだろうか。少なくとも目の前の彼女は幸せには見えない。隣の芝生が青く見えるのは、芝生の青さを知らないからなのでは無いだろうか。
「もしお前が捕まったらどうなる?」
「始めにオコイエと無理やり結婚させられる。次にオコイエはドウェイン・ジョン島を国家として認める様に世間に訴える。もし無理でも私を担ぎあげて、武力と政治で伸し上がるかな」
「そうなりゃ戦争もやむを得ないってか?」
「そうだね」
「……」
僕らが取り扱ってる案件は所謂国際問題だ。下手をしたら全世界を巻き込むことになるかもしれない。
僕は下手をこいた後の未来を想像し、思わず生唾を飲み込んだ。
「私は護ってくれとは言わない」
「え?」
「そもそも私の問題をオウカが無理矢理、ナギヨシに頼んだだけ。断られてもまた1人で逃げ続ける。今までと何も変わらない」
「そんな……。ナ、ナギさんどうするんですか?」
個人とお姫様。2つの立場を持つ彼女のどちらを受け入れればいいのか、僕は分からなかった。
ここでお姫様のニィナちゃんを選べば、僕らは危険な目にも合わず岩戸屋としての日々を過ごすだろう。
個人のニィナちゃんを取れば、僕らの立場は一気に危うくなり、酷ければ殺される。
ナギさんは一体どうするのだろうか?僕は彼の動向を見守る。
「じゃあ勝手にしろ。お前1人でも何とかなるんだろ」
ナギさんはただ一言そう言った。僕は思わず耳を疑った。
「え……ナ、ナギさん?」
「ンだよ。本人が頼むつもりがねーんだろ?だったら、俺も受けない。ソイツの言う通り、ババアが世話焼いただけだ」
僕はてっきりナギさんは二つ返事で請け負う気がしていた。だが、彼の返答はその真逆だったのだ。僕はおもわず声にしてしまう。
「……見損ないましたよ!ナギさんッ!!」
「見損なうも何も勝手に期待したのはテメーだろうが。俺は人を守れる自信なんて最初からねー んだよ。そもそも岩戸屋の方針は『依頼を守る』だ。無い依頼をどうやって守るんだよ」
「うん。それでいい。話を聞いてくれただけでもうれしかった。ありがとう」
「ニィナちゃん!?」
ニィナちゃんはぺこりと頭を下げた。ソファから立ち上がり、彼女は出口に向かって歩き出す。本当に、本当にこれで良いのだろうか。彼女をこのまま見送っていいのだろうか。
僕は、姉さんが捕まった時の事がフラッシュバックした。あの時、僕はすぐに動けなかった。それでも立ち向かえたのはナギさんの存在があったからだ。
だが、ナギさんにその面影は無い。
「ニィナちゃん!僕が依頼を受ける!!」
「え?」
「せめてニィナちゃんが安全にこの街から出られる様に、僕が力になるよ!!」
「いい、の?」
「力不足かもしれないけど……困った人は見過ごせないんだ」
「ケンスケ……」
「ナギさんもそれでいいですよね!!」
僕は上司であるナギさんに、岩戸屋の意向で無いことは承知した上で理不尽な怒りをぶつけた。
けれど、僕の心に僕自身が嘘がつけなかった。ナギさんと決別しても、僕は彼女を救いたいと心からそうおもったのだ。
「あぁ。だがこれだけは忘れるな。依頼を受ける責任を負うってのは楽じゃねーぞ」
「責任から逃げるよりかはマシです……!」
「……じゃあテメーも勝手にしろ。俺は漫画でも読んどくわ。今週の少年スクワットまだ開いてねーんだ」
ナギさんは僕らに目もくれず、雑誌を開き読み始めた。僕はその様に呆れることさえ忘れ、ニィナちゃんの手を取った。
「行こう!ニィナちゃん!!」
「でもナギヨシが」
「ナギさんは漫画読むので忙しいらしいよ。いいから行こう」
「う、うん……」
せめて、彼女を危険を遠ざけるための手段を見つけなくては。航路か、それとも空路か。何処まで連れていけばいいのかプランは未だ決まっていない。
それでも僕がナギさんに助けてもらった様に、今度は僕がナギさんの代わりになってニィナちゃんの力になるんだ。
僕は腹を括り、ニィナちゃんの手を取って外へ駆け出した。
手を引かれてる間、私は不思議だった。
異国の地から亡命した私にとって孤独は当たり前だった。数日は親切でも、私の身の上を知ると途端に皆が掌を返す。別にそれは当たり前のことだ。私だって、面倒事に進んで首を突っ込みたくはない。
だが、オウカといいケンスケといい何故こうも自分を危険に晒すのか。それで言うならナギヨシもそうだ。
アイツは多分、私に選択肢を与えたのだろう。もしあの場で、依頼をしていたのなら彼も力になっていたかもしれない。
この町の人々は、形はどうであれ私の運命に寄り添おうとしている。
だからこそ不自然で不可思議で理解し難いのだ。
「ニィナちゃん。次に行く場所はもう決めた?」
「静かな所がいい」
「ははは、確かに!天逆町はちょっと元気過ぎるもんね。だったら、まずは駅に行こうか。そこから空港までいけるよ」
勢いのままなのだろう。ケンスケは未だ私の手を握っている。恐らく本人でさえ気付いていない。
「ケンスケ、手」
「ん?……ってあぁ!?ずっと握ってたごめん!!手汗とか嫌だったよね!?」
「いや別に」
「もしかして許可なく、姫の手を握ったら殺される文化とかある!?」
「無いけど」
「あぁぁぁ!僕、このまま打首で野晒にされるんだ!!姉さん……馬鹿な弟でごめん」
「だから何も無いって言ってる」
余りにも話を聞かないため、思わず蹴りを見舞った。別に手を握られていたことに不快感は無い。
ただ、人と肌で触れ合うことが久しぶりだった。ケンスケの手の温かさは残っている。私の体温をあちらも覚えているのだろうか。
ふと、死んだ母から言われた言葉を思い出す。彼女によると、私の手はどうやら普通より冷たいらしい。だから、優しい娘なのだと。
極端な思考を持つ者を足蹴にしてる私を見ても、まだ母は優しいと言ってくれるのだろうか。それを想像すると、私は面白くなり、クツクツと自然に笑い声が漏れる。
「なんだ、ニィナちゃんも笑うんだ」
「私が笑うことがそんなに不思議?」
「あんまり表情が変わらない人だと思ってたから。でも、笑顔の方がいいよ。そっちのが似合ってる」
「……それセクハラだから」
「僕はただ褒めただけなんですけど!?」
そうか、笑顔が似合うなんて初めて言われた。つい照れ隠しでキツイ言葉を送ってしまったが、内心喜んでいた。
それと同時に、この場所を手放すことがとても残念にも思える。
オウカに拾われて2週間と少し、今までとは比べ物にならないくらい親切にしてもらえたのだ。出来るならこの町で生きていきたい。
しかし、身体に流れる血がそれを許してくれない。思い出を振り返る度にきっと私は悔やむのだろう。
だが、それも何れは風化する。もしかしたら、公開の途中で死ぬかもしれない。
どちらにせよ私には重荷なのだ。旅立ちの荷物は軽い方がいい。苦しい思いもその分少なくなる。
「着いたよニィナちゃん」
「……ケンスケ、ありがとう。ここまで連れて来てくれて」
「僕が勝手に依頼扱いして受けただけだからさ。気にしないでよ。それに君を安全に送り届けることが僕の役目だから」
私たちは切符を買い、駅のホームに向かう。行き先は空港だ。
けれど、無難にたどり着くとは私には思えない。既にオコイエたちが先回りしている可能性もある。移動手段を潰すのは定石だ。
それでも、私が好きになった天逆町では何も起こらないことを願いたい。笑顔でサヨナラをしたいのだ。
「見つけたぞニィナ」
けれど、願いは往々にして叶わないものなのだ。
「オコイエ……!!」
私とケンスケの目の前には2メートルを超える褐色の巨漢が仁王立ちしている。
タンクトップ故にはっきりと分かる隆起した筋肉。浮き上がる血管。深く刻まれた数多の傷。
つまるところ、私の宿命が人の形で現れたのだ。
「ニィナちゃんに関わるな!」
「君は何者だ?」
「ケンスケ。ゆりかごから墓場まで。なんでもござれの岩戸屋のバイトだ!!」
オコイエはじっくりとケンスケを見た後、突然吹き出す。
大きな笑い声がホームに響き渡り、周囲の人々もこちらに注目し始めた。
「な、何が可笑しい!?」
「いや、すまんね。とっても面白い冗談だと思って」
「なんだと?」
「ニィナより弱い男が彼女を守るなんて言うんだからそりゃ冗談に聞こえてしまうよ。ニィナ、君もヤキが回った様だね。こんな男を頼みの綱にするなんて」
私はオコイエを睨みつける。そもそもロック族は筋肉の密度が常人の倍以上ある。力だけで言えば、勝てるはずが無い。
それをわかった上でこの男はケンスケを挑発しているのだ。
「ケンスケ逃げて。貴方が殺される」
「ニィナちゃん。僕はね、あんな無責任な男ですけどナギさんに憧れてるんです。だから、依頼は守らないと行けないんです!!」
ケンスケが私の身体を押す。
思わず尻もちをついて倒れると、そこは電車の中だった。帳尻合わせたかの様に扉が閉まる。
「ケンスケ!お前なにやってる!?」
「ニィナちゃん!そのまま逃げて!!」
「ケンスケ!ケンスケ!!」
私の嘆きを気にせず、電車は発車のメロディーを奏で始める。ケンスケはこちらを見て、笑うとオコイエにむきなおった。
私はこれから起こる出来事を想像してしまう。
それは暴力による支配。オコイエの場合、もはや惨殺に近い。ヤツに従わなかった者は皆総じて力の前に沈む。同じロック族でさえ歯が立たないというのに、ただの日本人に何が出来るというのだ。
相手の力量さえ分からないケンスケが暴の化身に挑もうと言うのだ。私は彼の名を叫び続ける。けれど覚悟の決まっているケンスケはこちらを見ようとしなかった。
ケンスケを死なせたくない。絶対に止めなければ。
故に私は行動する。
「話を聞けぇぇぇぇ!!」
私電車のドアを力任せにこじ開けた。両腕には血管が浮き上がり、ドアはミシミシと軋む。
きっとケンスケは忘れているのだ。私もドウェイン・ジョン島のロック族であることを。
私もまた、常人とはかけ離れた肉体の持ち主であることを。
ニィナは扉をひしゃげながら、無理矢理電車から降りる。彼女の行動に、覚悟を決めたケンスケの顔もついでにひしゃげた。
「えぇぇぇぇ!?」
「ふぅ……存外硬いんだな。電車のドアって」
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ!?何降りてきちゃってんの!?僕が決死の覚悟で乗せたのに何降りてきちゃってんの!?」
ケンスケは対峙する緊張感など忘れ、熱烈な講義をした。それもそのはず、彼からすれば一世一代の格好をつけるチャンスだったのだ。
男なら誰でも憧れるシチュエーション。それは女の子の為にその身を犠牲にしてでも守り抜くこと。
「勢い任せの無謀」とも言えるその行為はロマンティックの塊だ。
けれどいつの時代もリアリストに邪魔をされてしまう。今回に限っては、現実を超越した筋肉少女が、文字通りの力任せでロマンに割り込んんできたという稀有なケースなのだが。
だとしても格好をつけた側はたまったもんじゃない。全身の体毛の片側だけ剃り落とし、俗世を捨て山に籠らねば生きていけぬほど、恥ずかしいのだ。
「ケンスケ格好つけすぎ。私が戻らなきゃ殺されてるから」
あろう事かこの女は、1番触れては行けない場所をノータイムで逆撫でする。ケンスケは身の毛がよだつ気恥しさに、全身を掻き毟りたい衝動に駆られた。事実、現在進行形で発狂しながら身体を悶えさせ、掻き毟っている。
「ち、ちげーし!そんな格好つけたいとかじゃねーし!たまたま電車が来て、たまたま押したら、たまたま助けた形になっただけだしぃ?」
「あんな必死な顔して?」
「やめてぇぇぇ!?これ以上、僕の繊細な心を踏みにじらないでぇぇ!?」
「その気持ちは嬉しかった。ありがとう」
ニィナは悶えるケンスケに感謝を述べ、オコイエに向き直った。
「短い別れだったようだね。だが、悲しいかな。感動の再開も短いようだ。私が君をこの手に収めるのだから」
「私は物じゃない。お前の策略のこともどうでもいい。私も戦う決心がついた。逃げることにも飽きたんだ」
「ロック族最強の私に歯向かうと?」
「同族同士が争うなら国際問題にもならない。ただの内輪もめだ」
「私としても有難い。追求される様な泥は今のうちに跳ね除けたいですから」
オコイエが身構えた途端、空気が変わる。その場に居るだけで、彼の目の前から逃げ出したくなる様な威圧感が肌で分かった。
身体が芯から凍りつくことがケンスケには分かった。
「僕……あんなのと戦おうとしてたの?」
「ようやく気付いたか鈍感ケンスケ。少し離れてろ。私が相手をする」
ニィナも身構える。すると彼女からも威圧感が放たれた。
目には見えないはずの互いの威圧感がぶつかり合い、まるで結界の様に2人を囲った。
まるでその空間は格闘家が戦う神聖なリングだった。
「なんだこれ、近づけない……」
「前言撤回。ケンスケは感度がいい。これはロック族同士が互いの優劣を付ける時に行う儀式。1対1で己の肉体をぶつけ合う、所謂『タイマン』だ」
オコイエは大きく拍手をし、高笑いをした。
「素晴らしい!!私と張り合える程の気を放つとは。そこのボンクラボーイに教えてあげよう。ロック族は互いが放つ気をぶつけ合い、他の者に干渉を禁ずる絶対領域を作り出す。そこで行われる行為にジャッジは不要。どちらかが負けを認めるか、死ぬか。シンプルかつ最も分かりやすい私好みの儀式だよ」
「そんな!?」
「ボンクラボーイ、君はニィナを守るんじゃない。ニィナに守られているんだ」
始めに仕掛けたのはニィナだった。ケンスケとの会話に意識を割いたオコイエに強烈な前蹴りを放つ。
彼は両腕で攻撃をガードする。しかし、 衝撃までは抑え切れず、その巨体は少しばかり後方に押し込まれた。
「おや?その技はルアでは無さそうですね」
「技術だけが戦いじゃない」
ニィナは間髪入れずに距離を詰め、密着状況を作り出す。右腕による肘打ちをかますが、オコイエは左腕を使い綺麗に防ぐ。
ニィナは肘打ちをガードされたことを気にせず、オコイエに瞬時に左フックを叩き込んだ。ルア特有の二度打ちである。
オコイエも彼女の攻撃パターンを理解し、カウンターを狙う。その為の左片腕だけでの防御だったのだ。両腕を使い隙が生じた脇腹目掛け、右腕で強烈な一撃を与えようとする。
だが不思議なことが起こった。
ニィナの身体は目にも止まらぬスピードでオコイエの顎を蹴りあげた。それは予備動作など全く無く、コンピューターの様に一連の流れが組み込まれていたのでは無いかと思うほどに瞬間的に起こっていた。
「がぁっ!?」
掟破りの3発目をモロに食らったオコイエは思わず顔が歪む。ニィナがそれを見逃すわけでもなく、すぐさま宙に飛び上がり、体重と落下速度を乗せたかかと落としをくらわした。
「ま、まるで格闘ゲームのコンボだ……!!」
ケンスケは思わず拳を握る。彼の言う通り、ニィナの攻撃は、後に生じる隙を無視し、更なる攻撃へと転換するものだった。
その不可解かつ不可能な行動を可能にしているのは、ロック族の超人的な肉体だからこそだ。常人倍の筋肉密度を持つロック族はそのバネを使い、行動の隙を無視し、連撃《コンボ》を生み出す。
つまり連撃に割り込もうとしたオコイエが、ニィナの攻撃に当たってしまうのは必然だったのだ。
「ロック族秘伝の荒業『動作解除』。入れ込み安定の技の出し切り。私対策出来てないんじゃない?」
倒れ込むオコイエに、ニィナは無表情ながら得意気に言い放った。
煽る為なら、起き攻めなど捨て置いて構わない。傲慢ささえ滲み出るその行為は、的確にオコイエの心理に怒りの種を撒き散らした。
ゆらりとオコイエが立ち上がる。首をコキコキと鳴らし、大きく深く危機を吐いた。余裕さえ感じるその態度が示す様、彼の体にこれといった外傷は見当たらない。
「いやぁー流石お姫様と言った所か。してやられたよ。君が、行動解除まで理解しているとは。だが、この空間に発生する『力場』を使いこなせるかな?」
「力場?」
「例えばこれだ」
オコイエは両腕をグッと引き、気合いを溜める。すると腕の周りに赤い火花が散り始めた。それはバチバチと音を立て、腕に赤いオーラを纏わせる。
「ヘキリ・ペレェ!!」
溜めた気を解放するかの如く、両腕を前に突き出すと、赤い閃光が轟音で放たれた。
ニィナはガードを固めようとする。だが、瞬時に受けては行けないことを悟り、ギリギリで身を翻した。
閃光は気の結界に当たると爆発し、周囲の空気を感電させ、焼け焦げた匂いを漂わせた。
「これが高密度のエネルギーで埋め尽くされた結界内だからこそ使える人知を超えた力『ヘキリ・ペレ』だ。気を圧縮し、電気に変換する私の力。いかがかな?」
ニィナは自分の呼吸が予想以上に乱れていること気付く。予想外の攻撃を避けることに大幅な脳のリソースを使ったのだろう。
高水準な近接格闘。それに加えて遠距離をカバーする飛び道具。
その存在は密着して戦うことを主とするニィナにとって、この上なく厄介極まりないことだった。
「我が雷光に為す術なく焼かれたまえよニィナ」
「……近付けば関係ない」
ニィナは距離を詰めるため、一思いに駆け出した。それを黙って見過ごす程オコイエは甘くない。赤い閃光がニィナに向けて容赦なく襲いかかる。
全身のバネを使い前方に跳び、閃光を掻い潜る。じわりじわりと距離は縮まり、オコイエまであと一跳びの所まで漕ぎ着けた。
閃光を撃つか、はたまた密着しての攻防に持ち込むか。瞬間的な読み合いが発生する。
「ここだッ!」
ニィナは跳び上がる。それは今までのジャンプとは違っていた。
彼女はへキリ・ペレが発生してから跳んだのではなく、撃つことを見越した上で跳んだのだ。ニィナは空中でオコイエの動きを確認する。否、確認ではなくヘキリ・ペレを撃つ確信があったのだ。
空中からの急襲を仕掛けようとする彼女の目に映ったのは、彼女を見るオコイエだった。
彼はただニヤリと笑った。
「マヌ・ストライクゥ!!」
オコイエは空中から仕掛けたニィナに向け、両腕を額の前で交差し、そのままミサイルの様に突っ込んだ。
そして強力なクロスチョップがニィナの喉元に突き刺さった。
「ガァァァッ!?」
「予想に違わぬ行動をありがとう姫様」
落下点を目掛け飛んで降りたニィナ自身の体重に、オコイエの攻撃力が加算される。彼女の身に訪れた破壊力は想像するのも容易いだろう。
ニィナは重力に任せて翼を失った鳥の様に自由落下する。片方が意識を失ったのか、気で作られた領域も消失し、倒れ落ちた彼女の元にケンスケが駆け寄った。
「ニィナちゃん!ニィナちゃん起きて!!」
「……」
ニィナの身体はピクリとも動かない。ケンスケは急いで脈を調べる。
「生きてはいる……!よかった……」
「はたしてそれはどうだろう」
「なんだとっ!?」
「敵を前に意識を失うことは死と同義。彼女の負けだ。ロック族の仕来りに従い、彼女の身は勝者である私が頂こう」
1歩、また1歩とオコイエが2人に近付く。明確な危機に、ケンスケの身体はガタガタと震え始める。ニィナを連れ、一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。だが振動するばかりで芯に力が入らなかった。自分の身体のはずが、微塵も言うことを聞かない。
「クソっ!動け……動けよ僕っ!!」
身体中の汗が吹き出し、カラカラと乾いた喉。ケンスケの口から掠れた空気の漏れる音が一定間隔で聞こえる。自分はなんて愚かなのだ。あまりにも大きな力を前にした事実が、今更彼の脳を恐怖で支配する。もはやここまでなのか。ケンスケに『諦め』の2文字が突きつけられる。
しかし極限の緊張感の中、彼は気付く。己の腕の中の温かみに。目覚める気配の無い少女を護れるのは誰か。
ケンスケは、ニィナから手を離し彼女を護る様に前に立った。
「しっかりしろ僕!」
武市ケンスケは己を奮い立たせる為、両頬を叩いた。
ニィナを救い、脅威を退けるのは自分自身しかないのだと心に、脳に、身体に痛みで伝える。
「ニィナちゃん、絶対に護るからゆっくり休んでて」
「君は相当愚かだね。ロック族のニィナでさえ敵わないこの私に歯向かうのだから」
「愚かでもなんでもいいっ!僕はニィナちゃんから依頼を受けた。それを、彼女を護るためならお前なんか怖くも何ともない!!」
ケンスケの身体に震えは無かった。奮い立ったのは彼の心だ。
気の持ちようで絶対的な実力差が覆ることは、戦いの世界では起こりえない。オコイエの言う通り、ケンスケは愚者であり蛮勇を晒している。
だが、ケンスケに迷いはなかった。己が生命と引き換えても、護りたい者のために彼はただ駆け出した。
肉と肉がぶつかる重く鈍い音。それは時折骨を軋ませ、臓腑を震えさせた。
ケンスケの身体は至る所に痣を作り、瞼は酷く腫れ上がり、擦り切れた口内から絶え間なく血を流し続けている。
それでも彼は、決してニィナの前から退くことはしなかった。
「いい加減にしてくれないか?私はサンドバックでストレスを発散しに来たわけじゃないんだ。時間も有限じゃない。仕事の邪魔をしないでくれないか?」
オコイエはほとほと呆れ果てていた。目の前のゴミ虫は何故こうも敵わない自分に歯向かうのか。自分の身を犠牲にしてまで、出会って数日の女を守るのか。
ケンスケの合理性の欠片も無い行動に、オコイエはただ頭を抱えた。
「ハァー……ハァー……!僕が、僕が守るんだ……」
「あーもういいよ。殺さないように加減していたが、どうやら君には必要ないようだ。弱さを悔いて死んでゆけ」
オコイエは高く拳を上げた。
ケンスケはもはや無いような意識をギリギリ保ち、強くその様を睨みつける。彼はこれが最期だとしても目を離す気は無かった。
自分が倒れてもきっとナギヨシがニィナを救うと確信していた。後悔があるとすれば、姉を1人にしてしまうことだが、その後悔ももう遅い。
そして、処刑台のギロチンの如くオコイエの拳が振り下ろされた。
「なんだよ。まだこんな所でまごついてたのか?依頼はデートじゃねぇんだぞ」
オコイエは自分の拳に走る感触に違和感を覚えた。
硬い。けれど人の頭蓋の硬さでは無い。
次の瞬間オコイエの目に映ったものは、デッキブラシを抱えた黒髪の怪しい男の姿だった。
「ッ!?」
その姿に突如悪寒が走る。思わずその巨体を後退させた。それは捕食者を前にした非捕食者であるかの様な感覚。今までオコイエの感じたことの無い弱者の感覚だった。
「ナギさん……!」
「全くよぅ、テメーもニィナも勝手にするんなら俺に迷惑かけんな。結局俺が出ずっぱらにゃならんじゃねーか」
「すみませんでした……」
「だがまぁ……岩戸屋の社訓、『依頼は守る』ってのは身についたみたいだな」
「でもニィナちゃんが……」
「いいんだよ。コイツも多少痛い目に合えば人を頼るってのも分かんだろ」
「……それ、依頼主相手に言うことじゃないです」
「大人としての説教だバカタレ。テメーもおねんね時間だ。よくやったよ。後は任せとけ」
「ありがとう……ございます………」
酷く腫れた顔でふわりと笑いケンスケは力なく倒れ込む。ナギヨシはそっと彼を抱え、優しく地面に下ろした。ナギヨシは満足気な表情をして眠るケンスケを呆れたように笑い、オコイエに向き合った。
「よぉ。ウチのバイトと依頼主が随分世話になったみたいだな」
その言葉にオコイエはようやくハッとした。自分は今まで何をしていたのかと自問自答する。
あれだけ隙のあった時間を何故有効に使えなかったのか。否、答えなど問わずともオコイエには分かっていた。
ただ恐れていたのだ。
誰もが畏怖する力も持つ己が、たった1人の存在により認識から書き換えられた事実。
時間にして数十秒の硬直。オコイエがそれを受け入れる為の時間は、彼にとってとても長い年月の様に思えた。
「君がボンクラボーイの雇い主かい?躾はちゃんとしてくれないと困るなぁ」
「躾なんて時間はねーよ。こちとら事務所の掃除するための買い出しで忙しいんだ」
「躾は大事だぞ?自分の駒としてより良く使うためには教育あってこそだ。ところでどうかね?」
オコイエはわざと大袈裟なジェスチャーを用いた。敵意は無いことを示すために、両腕をひらひらと見せる。
「君は金のためにニィナを守るんだろう?だったらその倍額、いや2倍どころか3倍出してもいい。彼女をこちらに渡してくれないか?」
「オイオイ……ンな映画の悪役みたい台詞言うやつがいるかぁ?」
「僕も初めてだよ。だが、建設的な話をするには随分とこの台詞は都合がいい」
「なんならワインでも用意しようか?マフィアのボス役ならお似合いだぞ」
「私は酒が飲めない口でね。トマトジュースなら大歓迎だ」
ナギヨシとオコイエは互いに笑い合う。高揚を隠さない2人の声が駅のホームに響き渡った。
都合よく人はいない。まるで西部劇のワンシーンの様に、一陣の乾いた風が2人の頬を撫でた。
「お断りじゃボケェェ!!」
「だと思ったよぉ!獣がぁぁ!!」
突如2人は激突した。その強烈な衝撃に空気は震え、小規模な暴風を引き起こす。
ナギヨシは手に持ったデッキブラシで、間髪入れず大胆に攻める。オコイエも場を荒らす動きに慣れているのか、釣られずに冷静に一つ一つを対処する。
傍から見れば防戦一方だが、心理的優位に立っているのはオコイエだ。
そして不思議なことに、ロック族同士でしか起こりえない領域が2人の周りを取り囲んでいた。本来有り得ない現象にオコイエは距離をとる。そして気付いた。
「さては貴様……『異排聖戦』経験者だな?日本人である貴様が身につけられる気じゃない。その気はロック族と多く対峙せねば身につかないはずだ。……貴様、何人の同胞を手にかけた!!」
オコイエから余裕の表情が消えている。怒りに顔を歪め、燃え盛る炎に包まれたと錯覚するほどの、強烈な闘気が漏れ出している。
「だから受けたくなかったんだよ。ニィナがロック族って聞いた時から悪い予感がしてたンだ。ロック族めんどくせぇからな」
ナギヨシの黒く濁った瞳に、赤みがかった光が写る。それは紛うことなき狂気を孕んでいる。血塗られた過去を持つ者特有の光は、煌々と獲物を逃さんと捉えて離さなかった。
20年前。かつて異排聖戦と呼ばれる戦いがあった。
それは歴史における英雄と称された者を影で支えた人物や、中世に行われた魔女狩りの生き残り、その他の異端者と扱われ、人ならざる者として世界に淘汰されかけた者たちの子孫たちが発起した戦いである。
つまるところ彼らの先祖は間違いなく異能力を持っていたのだ。
その子孫たちが求めたものは過去の精算。そして受け継いだ異能による権利と地位の向上。異人類として、現人類より尊い存在だということを事を確固たるものとして世間に認めさせようとした。
そして、この戦いにロック族も参加していたのだ。
「私の祖父がよく語っていたよ。酷い戦争だったと」
「そうか?俺には戦争の善し悪しなんざ分からねーよ。ただ生き残るのに必死だったね」
異能者に対し人類が取った行動は、歴史に塵すら残さないことだった。
異排聖戦自体の完全秘匿。故に世間はこの戦争そのものを知らないし、今後も明かされることは無いだろう。
人類は、異能者たちが集結したドウェン・ジョン島に先制攻撃を仕掛けた。世界の意志により行われたこの行動に参加する部隊は各国の軍隊ではなく、口封じの効く傭兵や、彼らの元で育てられた少年兵が主だった。
「私は先祖の誇りを国諸共汚された。第一次開戦時のことだ。私は若く、族長に島民を連れハワイに逃げ込んだ。そこで異様な光景を見たよ。我らが必死に戦争をしている中、テレビではノリの良い音楽とともにバラエティが流れ、人々は生を楽しんでいた。戦争の『せ』の字さえなかったよ」
無論、異能者たちも有り余る才と能力を使い抵抗をした。使い捨ての兵による人海戦術で攻め込む人類を迎撃し、異能者側優勢で戦いは進行していた。
だが、使い捨てには理由があった。それは大規模な部隊を投入して行う陽動作戦。大軍に対し、少数精鋭である異能者が優勢に事を進めたことで何が起こるのか。
それは慢心だった。故に政府は、最初からそれを狙っていた。
「核……貴様らは我が祖国に戦術核を使ったッ!やっては、行けないことをッ!!……島は消滅し、戦争さえ無かったことになっている。私はそれが許せない。だからこそニィナを祭り上げ、異排聖戦を歴史の明るみにするのだ!!そして、今度こそ我々異能者を優勢とし、世界を作り替えるッ!!」
オコイエは高らかに宣言する。祖国、文化、社会さえ失ったこの男の目的はただ1つ。
異排聖戦の再来、第二次異排聖戦を引き起こすことだった。
「長い」
「……は?」
雄弁なオコイエに対し、ナギヨシはそんな一言を放り投げた。
「話が長いんだよ。校長先生の話かってんだ」
「いや、こういうのって流れがあってだね?私の熱い意志を過去の怒りと共に明かす重要な場面じゃないか」
「長いと聞く気が失せるんだよ。15文字以内にしろ。ちなみに俺にはできる」
突然の制約にオコイエは頭を悩ませる。根本的真面目さがここに来て彼の頭を苦しめる。
額に手を当て考えること十数秒。オコイエはハッと閃き答えた。
「戦で歴史に誇りを刻むゥ!」
オコイエはキメ顔でポーズを取り、強く宣言した。きっかり15文字。靄がかった思考が晴天の如く晴れる。我ながら分かりやすい。オコイエは心の中で自画自賛をした。
対するナギヨシは、フッと笑みを浮かべ返答する。
「そうかい。でもなぁ、人をテメーのエゴに巻き込むんじゃねぇ。ニィナは自由に生きたいと願っていた。もう滅んだ国のお姫様なんだ。今更関わらせるなよ。過去の精算なんざ、誰だってしたいさ。失敗したこと、上手くいかなったことなんざ数えれば数えるだけあるんだ。俺だって何度も失敗した。あの時はまだ屁で済むと思っていたんだ。だが、俺は目測を誤った。ちょっと出ちゃったんだよ。実が。成人してから漏らすことなんざないと思っていたがな。パンツが、少し、黄ばんでたんだ。あの何とも虚しい気持ちを今でも昨日の様に思い出す。分かるか?パンツについたウン……」
ナギヨシの語りを遮るって、オコイエが襲いかかった。赤い閃光を纏った拳を、ナギヨシは瞬時にデッキブラシで防ぐ。赤い閃光は周囲の空気を感電させ、バチバチとその凄まじさを物語った。
青筋の立ったオコイエ。涼し気なナギヨシ。対称的な両者が今、戦いの火蓋を切った。
「出来てないじゃないかァ!10文字以内の説明がァ!!」
「良かったな。俺の気持ちが分かったろ?」
ナギヨシは得意の棒術でオコイエと間合いを取る。2人の距離は約10メートルと言ったところだ。だが、その間合いはオコイエの得意とする距離でもあった。
オコイエはロック族の領域内でのみ使える秘技、ヘキリ・ペレを撃ち込む。至近距離から放たれた2発の閃光は時速約90キロ。わずか10メートルという距離を考えると、体感速度は言わずもがな速くなる。
しかし過去に積み重ねた経験で、ナギヨシの勘は冴え渡っていた。得物を使い、1歩踏み込んで器用に受け流す。
あえてのこの1歩こそ値千金だった。踏み込みによって少なからず慣性の乗った身体は、コンマ数秒と言えど素早く動く。
つまり、オコイエのヘキリ・ペレの予備動作の隙を与えず、攻撃することが出来たのだ。
「これが最適な解じゃんねぇ……」
ナギヨシはデッキブラシの柄を長く持ち、遠心力を乗せ、フルスイングする。勢いのままにデッキブラシの角がオコイエの顬にクリーンヒットした。
「まちゃぼッ!?」
ヘキリ・ペレを撃つことに意識を多く割くことによって、防衛本能が薄くなった瞬間を捉えた強烈な一撃は、身構えている時の倍以上のダメージを体感するだろう。
格闘技のカウンターヒットに相当する攻撃は、いくら鋼の肉体を持つロック族と言えど、甚大な被害は免れない。
無理矢理引き起こされた脳震盪にオコイエの視界が細かくブレた。
彼のチカチカと小刻みに発光する視界は、更に驚くべき事実を目の当たりにする。
それはナギヨシが既に次の予備動作に入っていたことだった。
本来『フルスイング』という大きな動作には、それ相応の後隙がある。次に行動しようにも、咄嗟に対軸を戻さなければ気の抜けた一撃となり、下手をすれば防がれ手痛い仕返しを受けてしまう。
だが、ナギヨシの予備動作はそれを感じさせない。それどころか、先程よりも強く深く踏み込み、大きく腰を捻っている。ゴルフスイングの要領で、前のめりに倒れかけたオコイエの顎を搗ち上げる。
同時にデッキブラシはついに耐久力を失い、べキリッと軋む音を立て雑に割れたのだった。
後隙を無くし、次の動作へ繋げる一連の流れをナギヨシはやってのけたのだ。それはまさにロック族秘伝の技術『動作解除』だったのだ。
「オイオイ、新品だってのに。こりゃ職務妨害の罰金込み込みでテメーに要求しなきゃだなァ!」
あのヘキリ・ペレを2度受け、ようやく折れたのだから、このデッキブラシはむしろ頑丈な方だろう。
一方、高く宙に舞い上がったオコイエの脳裏は解を求め脳に酸素を多く集めていた。
何故一般人が動作解除を使えるのか。一般人の人体にかかる不可は。それよりも私は何故こうも顎に攻撃を食らうのか。
濁流の様に流れ込む情報が彼を冷静にする。受身を取り、猫のような軽やかな着地を魅せ、すぐさま構えを取る。
己を律し、即座に状況を把握する。そして気付く。
相対するて敵の息は大きく上がっていた。
「さては貴様……だいぶ無理して動作解除をしたな?肩で息をするようじゃ、所詮猿真似ってところか。だが、身体の作りまでは真似出来ないようだな」
察しの通り、ナギヨシは相当な無理をしていた。大きな動作に大きな動作を繋げることは、本来不可能な領域にある。
それを肉体に狂れた負荷をかけ、動作解除を行うことはロック族だからこそ出来ことだ。
そんなことをただの人間がするとどうなるか。それは火を見るより明らかで、ナギヨシの今の姿が物語っていた。
初速計算、肉体の反応速度、物理干渉、その他諸々を無理やり再現するためにかかる情報の猛火に脳は焼かれ、鼻と目からは血を流している。
筋肉は断裂し、骨は骨折とまではいかないが、ヒビが入り軋んでいる。
「まともな感性じゃテメーら戦闘民族にゃ勝てねーんだよ。ったく、嫌なこと思い出させやがる」
ナギヨシの言葉に強がりは見えなかった。実際、不意をついたこの攻撃で倒し切りたかったのだ。
長引けば長引くほど、肉体の差が如実に現れる。だからこそ仕留めるなら1回で。それが対異能者の心だった。
「ならもっと味わって貰おうか」
「グゥッ!?」
当然オコイエがこの期を見逃す訳がない。話を長引かせ、回復を測るナギヨシに打撃の嵐を浴びせる。ナギヨシは折れたデッキブラシを二刀流に見立て、必死に凌ぐも徐々に領域の端に追いやられていく。
針に糸を通す様に、隙を見つけては仕掛けるも、オコイエの間合管理と緩急のいやらしさにペースを掴むことが出来ない。
「っ!?」
「貴様が画面端ィ!!」
ナギヨシは遂に隅に追い込まれてしまった。領域の作用により、これ以上下がることは出来ない。
脳裏に浮かぶ択の数々。打撃、グラップ、様子見、ヘキリ・ペレ。パッと思いつくだけでも4つの手段をオコイエは持っている。1つ1つを枝分かれにすれば、その倍以上はあるだろう。
「いい加減に……しやがれッ!」
「フッ……!」
ナギヨシの選択は上段への薙ぎ払いだった。
オコイエの選択は……無情に下段へのタックル。
結果ナギヨシの攻撃は空を切り、オコイエの突進を食らってしまう。体重の乗った重い一撃をくらい地面に叩きつけられてしまった。圧倒的優位のマウントポジションを築き上げたオコイエは好機を逃すまいと、両腕に強烈に迸る赤い光を溜める。
必死にもがくも、ナギヨシは熊のような威圧感と重さに身動きが取れなかった。
「ヘキリ・ペレ・ラパウィラァァァァァァ!!」
最大火力を両拳に纏わせ、零距離から相手に叩き付ける非情の大技。オコイエの全てを用いた必殺技は、赤い稲妻を轟音とともに走らせ、2度大きな爆発を起こした。
オコイエは爆風に身を委ね、反動を殺すようにくるくると地面で回転し、華麗なる受身を取った。
爆発の後は黒煙を上げ、大気を赤い雷光がバチバチと瞬いている。
「肉体ごと消し飛んだか……私の両腕も当分使い物にならないがね。罪なヤツめ。あの世で先祖に詫び続けろ。……ッ!?」
勝ちを確信したオコイエに、突如稲妻の様な悪寒が走った。同時に黒煙を引き裂き、1人の獣が飛び出してくる。
「な、何ィィィィィィ!?」
体は黒く焦げ、焼け落ちた服の隙間から、無数の火傷跡が垣間見える。見るからに痛々しい姿だ。だが獣は痛みなど度外視した動きでオコイエを狩りに向かった。
「ぬぐぅぅぅ!?あの一撃を受け、なぜまだ動ける!?」
間一髪攻撃を受け止めるも余裕はない。一方ナギヨシは狂気じみた笑みを浮かべ、より強く得物に力を込めた。
「俺ァ、掃除する道具を買いに来たんだよォ!懐に入れたゴム手袋のおかげでギリギリ助かったぜぇ!!」
「ンな馬鹿な話があるかァ!!」
事実馬鹿な話である。いくらゴムで出来ていようと不可思議パワーの雷が防げるはずは無い。
つまるところ根性である。
では何故、生きていたのか。それは、ニィナとの1戦が起因していた。
オコイエは彼女の強烈な蹴りを腕で防いでいた。たとえ致命傷にはならずとも、蓄積されたダメージはいずれ可視化される。それがヘキリ・ペレ・ラパウィラの威力減衰に繋がったのだ。
気づかぬ間に掛けた負荷が、ここに来て悪魔のほほ笑みを見せたのだ。
いずれにせよオコイエがそれに気付くことは無いだろう。格下と舐めてかかった相手が、牙を突き立てたのだから。
「死に損ないがァァァ!!」
「勝手に決めつけんじゃねェ!このかりん糖ハゲがァ!!」
ナギヨシは思い切りオコイエの顎を蹴りあげた。本日3度目の脳震盪が彼を襲った。
流石に膝に来たのか、ガクガクとその場で痙攣する。だが、目だけはナギヨシから離さず、恐ろしい眼力で睨みつけている。その眼から感じる凄まじい執念を吹き飛ばす様に、ナギヨシは両腕の折れたデッキブラシを構える。
「俺も必殺技……見せねぇとなァ!?」
デッキブラシの切っ先を向け、オコイエに狙いを定める。そして天高く響く大きな声で叫んだ。
「星……爆発流乱斬ンンンンンンッッ!!!」
ナギヨシは思うまま気の向くままにオコイエの体を得物で殴る、もとい斬りつける。
胴を、脚を、腰を、首を呼吸を止めひたすらに斬る。斬る。斬る。
星が瞬く一瞬の如く素早く、流れる様な連撃は爆発的な威力を生み出し、オコイエに反撃の暇を与えない。
「これでェ終わりィィ!!」
最後の一振は両刀からなる袈裟斬り。『X』の文字を描いた一撃に、オコイエは遂に膝を着いた。
「な、何故そんなにダサい必殺技名なのだ……?せめて英語に……」
辛うじて意識を保つオコイエの疑問にナギヨシは答える。
「『なんたら斬』ってのは日本男児の憧れなんだよ。それに……英語だと色々まずい」
「ンな……アホな……」
オコイエの巨体が大きな音を立て、地に伏した。領域も消失し、ナギヨシはリングから降りることを許された。
「過去の遺恨、それも異排戦争の被害者とはな。俺も嫌な役回りしたもんだ。ほんと、過去ってヤツは嫌いだ。忘れたくても忘れさせてくれねぇ」
オコイエに目を向けながら、悔いるような顔でナギヨシはボヤいた。
「全くもって呪いだよ、ホント。俺も死人に縛られ続けられてるんだから。いや、好きで縛られてんだろうな」
オコイエの企てが、亡き婚約者を思うことに通じたのか、ナギヨシは自嘲した。彼はまだ悲しみに浸り、水面の見えない過去に沈んでいる。前に進むどころか、振り切ることは出来ていないのだ。
そして上がらない脚を無理矢理引き摺りながら、未だ意識の無い2人の方へ向かった。
「たくよぉ……俺が一番重症だってのによォ……なんで荷物持ちまでやんなきゃいけねぇンだコノヤロー」
寝込む2人をかつぎ上げ、ナギヨシは脚を引きずりながら文句を言う。
起きたら説教と心に決め、駅を後にするのだった。