翌週の水曜日。

 朝から朝希は私服の袖に腕を通し、鏡の前で襟元を正していた。洗面所の鏡に映る己の顔は仏頂面で、相変わらず眉間には皴がある。朝の八時に眞郷は車で迎えに来ると話していたので、あと十五分ほどだと、久しぶりに身につけた腕時計を見て確認する。

 隣の仙鳥市までは、車で一時間半ほどだ。仙鳥市には、新幹線も停車する。そのため近年ニュータウンが開発され、大都市へ通勤する者が家を建てる事も増えた。高速道路のインターもあり、各方面への交通の便が良い立地だが、元々が田舎の一都市であるので、少し離れた緋茅町などまで足を運べばその大半が山と農地だ。ぴったり十分前に朝希が家を出ると、坂道の下に見慣れぬ車が停まっていた。そのそばに眞郷が立っているのを確認し、朝希は道を下りていく。

「おはよう、朝希くん」
「おう。おはようございます」

 気怠げな声音で朝希が答える。農家をしているから規則正しい生活リズムを身につけてはいるものの、元々は朝が得意な方ではなく、まだ少し眠気がある。

「乗ってくれ。早速行こう」

 頷いた朝希は、助手席へと乗り込んだ。運転席へと座った眞郷は、それからすぐに車を発進させる。良い匂いがする車内で、シートベルトをしめた朝希は、何気なく問う。

「いつも車で来てるのか?」
「ああ。それでこの町の温泉に数日間は泊まるようにしているんだ。この一帯は、俺の担当だからな」
「ふぅん。あんた、代表なんだろ? なのにわざわざ、自分で営業してるって聞いた」
「新部門の設立に合わせて代表になったんだ。ただ会社の社長は父だし、グループ全体の会長は祖父だ。兄や弟も、別の部門の代表をしている。とはいえ、祖父も父も手厳しいから、成果を残さなければすぐに降ろされるし、一族経営というわけでもないんだ。朝希くんは、ご家族は? 農家にしては、若いよな」

 その言葉に、朝希は車の外を流れていく風景を見ながら、ポツリと答えた。

「両親と兄貴は、仙鳥に住んでるよ。腰を悪くして、そっちの病院に通ってる」
「悪い事を聞いてしまったかな、申し訳ない」
「気にしなくていい」
「朝希くんは、次男?」
「ああ。弟もいる」
「そう。俺も次男だから一緒だな」

 和やかな眞郷の声を聞きつつ、朝希は気になっていた事を尋ねた。

「あんたは、家族にもゲイだって言ってんのか?」
「勿論」
「どんな反応をされた?」
「別にこれといって特別な反応は無かったな。誰を好きになるかは自由だというのが、俺の家族の見解だし、俺もそう思う。寧ろ俺は古いとさえ言われた。俺の父はバイで、好きになったら性別は関係ないと言うんだ。そこは俺は同じではなくて、俺は男しかダメなんだけどな」

 僅かに苦笑した眞郷を、朝希は窺うように見た。嘘をついているようには見えない。本当に、いっさい隠す様子がない。それが凄い事のように、朝希には感じられた。

「しかし意外と食いついてくるな、朝希くん」
「え?」
「多くの場合、触れないようにされる事が多い。ゲイだと話すと、仕事の上では」
「そ、そうか」
「同性愛者の世界が気になる?」
「なっ、ち、違う!」
「過剰反応するのは、図星の証拠だというけどな?」

 どこか楽しげな声で言われ、思わず唇を引き結び、朝希はギュッと両手を握った。拳を膝の上に置き、姿勢を正す。

「朝希くんに偏見がないというのは、俺としては嬉しいな」
「なんでだよ」
「ひかれる事が多いからな。それに俺は、ビジネスをする相手の個性を知りたいけど、信頼関係を構築する上では自分の事も知って欲しいと思う方だ」
「本当にそれ、仕事に必要なのか?」
「俺はそう思うよ」

 三歳しか違わないというのに、朝希には眞郷が大人びて思えた。それは自分が農業の世界しか知らないからなのだろうかとも考える。だが知らない以上、答えも出てこない。

 その後二人の乗る車は仙鳥市へと入った。そして車線が増えた道路を通り、目的地のレストランへと到着したのは、十時手前の事だった。

「今日は午前中を貸し切りにしておいたから、じっくり見てくれ」

 車から降りて、朝希は頷く。眞郷に促されて扉をくぐると、中にいたシェフが振り返った。夏目という名札をつけている。眞郷に紹介され挨拶をしてから、朝希はまず店内を見渡した。様々なところに野菜のオブジェや絵画が飾ってある。これだけでは何料理の店なのかは判断がつかない。それから席へと案内されたので、朝希は眞郷と共に、白いテーブルクロスがかけられた丸いテーブルの前に座った。そこへ夏目が水とおしぼり、ナイフやフォークと箸が入ったカゴを運んできた。そして夏目が下がっていく。テーブルの上に、メニューは無い。

「料理は予約しているのか?」
「いいや」
「じゃあメニューは? 何を頼むかは決まっているのか? 俺に食べさせたいと言っていたし」

 朝希が首を傾げながら聞くと、眞郷が唇の両端を持ち上げた。瞳には楽しそうな色が宿っている。

「ここは、メニューの無いレストランなんだ」
「え?」
「メニューは無いんだ」
「どういう事だ? おまかせという事か?」
「近いが、少し違う。このレストランは、その日に届いた規格外野菜を主体にした料理を提供しているんだ。日によって食材は変わるし予測できない事もある。だから、メニューが無いんだよ」

 眞郷はそう述べると、両手を組んでテーブルの上に肘をつき、顎を手の上にのせた。
 そしてまじまじと朝希を見据え、柔らかな声音で続ける。

「朝希くんにも、この店にトマトを提供してほしいんだ。だから、収穫量は問わない。出来た分だけで構わないんだ。規格外品を無理に作る必要もない」
「……なるほど」
「さらにこのレストランは、すぐ隣に動物と触れあえる小さなコーナーがある。規格外野菜から出た皮をはじめとした廃棄品は、そこにいるヤギやウサギの餌にもしているんだ。可能な限り、ロスを出さないようにしている」

 そのように朝希が眞郷から説明を受けていると、夏目が料理を運んできた。

 じゃがいもの冷製ポタージュ、キャロットライス、小さなラザニア、レタスとコーンとチーズのサラダ、スパニッシュオムレツ、イチゴのムース、緑色のジュース。無秩序なメニューにも思えたが、色彩豊かな料理は、綺麗に盛り付けられていて、不協和には思えなかったし、どれも美味しそうに見える。

「どうぞ、召し上がれ」

 夏目が下がってから、眞郷が言った。頷き、朝希は手を合わせる。

「いただきます」

 そう口にしてから、まずジュースのグラスを傾けた。すっきりとした甘さが口の中に広がってくる。

「それはね、この前の朝希くんの言葉から着想を得て開発した、水分量が多いキュウリを再利用したジュースなんだよ。夜にはキュウリのカクテルも提供している」
「俺の……」
「ラザニアのトマトは、それこそ緋茅町から直送してもらっている品だ」
「……そうか」

 一つ一つ食べながら、朝希は説明を受けた。いずれも美味で、規格外野菜の集まりだとは思えない。だが、改めて思う事もある。

「規格品を使ったら、もっと美味しく出来るんじゃないのか?」
「いいや? 味に遜色が無い事は確かめている。自信をもって提供しているんだ」

 眞郷の力強い声に、朝希は頷くしかなかった。味に間違いがないのは、食べて理解せざるを得ない。本当に、無駄が出ない、利用する事が出来る、それを目の当たりにした。

「まだ、考えを変えてもらう事は出来ない?」

 眞郷がゆっくりとした声音で諭すように言った。フォークを置いた朝希は、視線を下ろして瞳を揺らす。実際、嫌というほど分かってはいた。周囲は朝希が古風な考えをしているからだと誤解しているが――本当は自分に自信がないだけだ。自身を規格外だと思っていて、それを野菜に重ねているだけだ。それを朝希自身が誰よりも理解していた。だが野菜は、己とは違う。手塩にかけて我が子のように育てたトマト達が、本当に活用できるならば、それは望ましい事だ。自分には、きっと今後も使い道は生まれないだろうけれど……野菜には、そうではない未来がある。いいや、野菜だけではない。自分にも、眞郷のように自己開示をする事が出来たならば、あるいは目の前には道が広がっているのかもしれない。

「規格外でも、活躍の場はここにあるんだ」

 そう述べる眞郷の声は本当に力強い。まるで己にも価値があると言われているように感じ、朝希は俯いたままで手を握りしめる。しかし不安もつきまとう。この言葉が真実だと、まだ確信する事は出来ない。それは自分自身に対する不安が原因なのだろうと、もう分ってはいたが、決断が出来ない。

「少し……考えさせてもらえねぇか?」
「ああ。勿論だ。だいぶ前進したな。ここへ連れてきてよかった」

 眞郷の声音は明るいままだった。

「焦らなくていい。ただ、しっかりと野菜の魅力を見つめて、トマトの可能性を見い出して欲しい。朝希くんの良い返事を、期待しているからな」

 その言葉に安堵しつつ、朝希は頷いた。