電車で二駅のアートスペースに着いたとき、時刻は四時半を指していた。想像していたより小さな建物だったが、那智くんによると、毎年、全国各地から選ばれた五人の美大生の作品たちがここで展示されているということだった。
「全国でたった五人しか選ばれないの?」
「今年は多い方だよ。去年は三人だった」
 受付で案内のチラシをもらい、奥へ進む。作品の保護のためにスペース内の照明が暗めだったことと、出入口付近が混雑していたこともあり、僕はチラシの表をぱっと眺めただけで、折り畳んだ。それよりも那智くんを見失わないよう後ろをついて行くことの方に僕は気を取られていた。来場者はいかにも美大生といった若い人か、芸術関係に身を置いていそうな大人ばかりで、僕は早々に自分が場違いであることを認識した。
「知り合いが会場に来てるかどうか確認してくるから、悪いんだけどちょっと一人で回っててくれる?用が済んだらメッセージを送るから」
 受付を抜けたところでなぜか少し焦った様子の那智くんにそう云われ、僕は了承して彼と別れた。
 展示作品は絵画だけでなく版画や彫刻もあり、どうやら壁二枚分が一人の作家に割り振られた展示スペースのようだった。
 僕は水彩画を眺め、次に銅版画を眺めた。写実性を重んじるものも、幻想性の高いものも、緻密なものも、大胆なものも、僕は好きだ。僕は芸術をつくり出せないが、それを愛せる人間で良かったと思う。こういったものを眺めることで癒される人種で良かったと思う。
 美しいものは強い。社会的な成功も、屈強な精神も肉体も、美しいものには敵わない。人間だけが美を崇め、美に囚われる。人間は汚いから、美に憧れる。美しいものに反応するのは人間であるあかし。
 佐伯さんはそう語った。
 那智くんには云えなかったが、僕は佐伯さんのアトリエに僕は数えきれないほど通った。あの人の絵は何枚も見てきた。
『佐伯さんの内面はきれいだよ。こんなにきれいな絵が描けるんだもん』
 あのとき佐伯さんが描いていたのは、自画像だったと思う。佐伯さんは自分も含め、できれば人間は描きたくないのだが、課題である以上そうもいかないと愚痴を零していた。まったく、と僕は笑った。
『でも、人間じゃないと美はつくり出せないんじゃない?』
『そうだな。より多くの人間から美しいと思われるような絵を描くよ。美を追求しているうちは、俺も人間らしくいられる気がする』
 絵に戻ろうとしていた佐伯さんは、ふと思い出したように、僕の方を振り返った。
『渚はきれいだよ』
『ありがとう。そう云い続けてもらえるよう頑張る。憶えておくよ。美が最強なんだね』
 照れ隠しから、僕は軽口を叩くように云って帰り支度をはじめた。そのとき、佐伯さんは確かに一言呟いた。
『そうだな。もし、美しさに勝てるものがあるとしたら』
 その続きを思い出そうとしながら、粘土の彫刻を見ている最中、もう会場の半分を過ぎていることにふと気づいた。一つ一つを見るのに、うっかり時間をかけすぎてしまったかもしれない。
 那智くんから連絡が来ていないかと、携帯電話を確認しようとしたとき、少し離れたところから、僕を見ている一人の男性に気づいた。那智くんではない。
 驚いたことにそれは佐伯さんだった。
 どうしてここに?
 見間違いかと思ったが、そうではないと本能が囁いていた。かつてと同じ、彼が放つ黒く真っすぐな視線に僕は射抜かれ、途端に僕は金縛りにあったようにそこから動けなくなってしまった。
 どうしよう。知らないふりをすべきか、それとも挨拶をしに行くべきだろうか。でも一体、どんな顔をして、何を話せばいいのか。
 もし、あのときのように突き放されたらと思うと恐ろしくて仕方がない。
 佐伯さんがこちらへやって来るような素振りを見せたので、僕は息を呑んだ。だがちょうど同じタイミングで、佐伯さんに親しげに声をかける人たちが現れた。同じ大学の学生たちかもしれない。佐伯さんの視線がその人たちに向けられた瞬間、僕は動けるようになったので、その場を離れた。
 会場全体がどういうふうになっているのか、そして再入場が可能かどうかを把握するため、受付でもらったチラシを開いてみる。そこで裏面の製作者の欄に佐伯さんの名前が載っていることに、今更ながらに気づいた。
 どうしてこのことを那智くんは教えてくれなかったのだろうという思いが駆け巡る。那智くんの知り合いというのは、佐伯さんのことだったのだろうか。
 佐伯さんと再度顔を合わせたときの気まずさを考え、僕は携帯電話で那智くんに、
【外へ出ているね】
 と一言メッセージを送り、会場をあとにした。息苦しくてここにはいられなかった。
 腕時計は午後五時を指している。外はようやっと夕方の気配が漂いはじめていたが、まだ充分に明るかった。
 那智くんからの返信がなかったので、喉の渇きを覚えた僕は自販機を探すために歩き出した。そうして外の空気を吸って辺りの景色を眺めているうちに、若干冷静な思考が戻ってきた。
 僕と佐伯さんの本当の関係を知らない那智くんが、気を遣わなかったからといって責めることはできない。むしろ一時期親しかった僕たちを、この機会にもう一度会わせてあげたいと彼は考えていたのかもしれない。
 ようやく見つけた自販機で僕は小さなボトルの紅茶を買い、口をつけた。喉の渇きが癒されると、混乱していた気持ちが落ち着いてきた。
 そういえば佐伯さんの展示を見ないまま、会場を出てしまったな、と気づく。
 あの人は今どんな絵を描いているのだろう。果てしない闇と、まばゆい光が、一つの絵のなかに棲んでいるのがあの人の絵だった。孤独と懊悩を溶き混ぜた絵の具に、あの人のため息がかかる。いくつも眠れぬ夜を閉じ込めた黒曜石の瞳で、描く対象を見つめる。あの人は闇のなかで、光を生み出して描いていた。神々しい光を絵のなかに描き出すたびに、少しずつ少しずつ自分の心を削っていたのかもしれない。
 アートスペースのすぐ近くまで戻ってきたとき、手前の細い路地から佐伯さんの声が聞こえたような気がして、僕は足を止めた。
「どうして帰れなんて云うんです?俺は絵を見にきただけなのに」
「だったら一人で来ればいい。どうして渚を連れてきた?」
 自分の名前が聞こえてきてどきりとする。隣の建物の陰からそっと覗いてみると、那智くんと佐伯さんが向かい合って話をしている最中だった。
「あの喫茶店に通ってるんです。仲良くしてもらってるんですよ。佐伯さんと同じように」
 佐伯さんは一度視線を逸らし、もう一度那智くんを見た。苛立っているときの眼つきだった。反対に那智くんは僕と対面しているときのように微笑んでいた。
「チケットを持って行ったな」
「はい。どうせあなたはもう行く気なかったでしょう。あんな心のこもった手紙をもらっておいて無視するなんて、最低ですね」
 那智くんがこんな喋り方をすることにも驚いたが、手紙という言葉に僕はより衝撃を受けた。
 那智くんはあの手紙を読んだのか。
 僕は佐伯さんと連絡がとれなくなってから、一通の手紙を出していた。電話には出てもらえず、メッセージも無視されていたので、最後の手段としてとった方法だった。僕は店の珈琲チケットを自分で購入し、青いインクでしるしをつけてから封筒に入れた。僕がいないときでも佐伯さんがチケットを使ったら、店のレジを検めるときに、来たかどうかを確認することができる。つまらない未練がそんなことをさせた。これで何の反応もなければ本当に最後だと思った。そして事実、それが最後になった。
 手紙には、この前あったことは気にしていない、それより一言だけでも連絡がほしい、という旨を書いた気がする。
「さっき佐伯さんの絵を見ました。どれも素晴らしかったです。特に最後の絵。あの絵だけ、人が描かれていましたね」
「だったら何だ」
「あれ、渚くんでしょう?」
 佐伯さんはぎょっとした様子で那智くんの顔を見た。
「やっぱり渚くんがあなたのミューズだったんですね」
「渚のことをお前と話す気はない。関係ないだろう」
「関係ありますよ。俺はあなたにされたことで傷ついてる。俺が忘れると思いますか?渚くんもですよ。もしかしたら彼の方が傷が深いかもしれない。分かるでしょ」
 ざりっという音がして、那智くんが佐伯さんに詰め寄っていった。
「どうして渚くんを抱かなかったんですか?」
 佐伯さんは信じられないというような眼で那智くんを見た。
「渚くんはあなたの名前は出しませんでしたよ。でも半年前にそれまで付き合ってた年上の人に振られたっていうのは聞きました。その人、セックスする直前で渚くんを放り出したそうです」
 那智くんはもう笑っていなかった。
「渚くんと付き合ってたんでしょう?」
 僕は那智くんが佐伯さんに暴力をふるうのではないかと心配しながら様子を見ていた。出て行くべきなのかもしれなかったが、余計にこの場がこじれそうな気もしていた。
「誰か大切な人ができたんだなってことは、あなたや、あなたの絵を見ていて気づきましたから。ショックだったけど、あなたが幸せなら構わないと思った。同時に、あなたみたいな人の心を掴んだのがどんな相手なのか、それはすごく気になってました。でもまさか行きつけの喫茶店の店員だったっていうのは、驚きでしたけど」
 佐伯さんは沈黙を続け、そのあとで低い声で絞り出すように那智くんに云った。
「お前には悪かったと思ってる」
「あなたが渚くんを突き放したのと、俺と寝たのとどっちが先なんですか?」
「お前とのことの方があとだよ」
 やっぱりそうかというような表情で、那智くんは眼を伏せた。
「俺があなたを好きだったこと、知ってたでしょう?あなたはそれを利用したんだ。俺はその理由が知りたいんです。どうして恋人の渚くんを拒んで、俺と寝たのか。渚くんと最後までしていたら、俺は必要なかったんじゃないですか?」
 僕は胸が潰れそうになった。僕が佐伯さんのことを知るずっと前から、那智くんは佐伯さんに恋をしていたのだ。
「云い訳する気はない。俺は気が動転してたんだよ。実技の試験日が差し迫ってたのに、何を描いても気に入らなくて、普段なら気にならない周りの声がやたらプレッシャーになって。精神的に参ってたんだ」
「それは渚くんを抱こうとした理由ですよね。でもできなかった。どうしてですか?」
 それに答えるには、恐らく多大な痛みを伴うのだ。そう云いたげに佐伯さんは那智くんから視線を逸らした。
「お前なら分かるだろう。お前は俺と同じだから」
「何ですか、それ」
「渚を見ていてどう思った」
 一瞬ためらうような間があった。
「いい人ですよ。律儀で真面目で優しくて、いつも誰かを気遣ってる。それに」
「それに?」
「彼は俺のことで泣いてくれた。そんな人はいなかったから……すごく純粋なんだなって思いました」
「それだよ。俺が触っていいものじゃない、と思った。美しいだけなら直視できる。でも無垢なものは、俺は数十秒と見ていられない」
 佐伯さんは苦しげに深く息を吸った。
「俺が最も敗北感を覚えるのがどんな絵か分かるか?幼稚園や保育園で子供たちが描くような絵だよ。ルーブルやオルセーでどれだけ完璧な美を目の当たりにしても、あれほどの敗北感は受けなかった。でも、子供の絵画展の会場に放り出されたら、俺は胸が痛くて立っていられない。それと同じ痛みを、あいつを見たときに感じたんだ。俺を一ミリも疑わずに、全部を明け渡そうとしてくる眼。そんな無傷で、柔らかい心を犯せないと思った」
 話しているのがほかの誰かだったなら、僕はこんな理由を信じなかっただろう。けれど、これが真実だと僕は直感的に思った。あの冬の日には汲みきれなかった佐伯さんの絶望を感じた。
「あなたらしい理由ですね。たぶん、普通の人間には理解できないと思います」
「お前一人が分かってくれればいい」
「それで、俺にしたことはどう償ってくれるんです?」
 那智くんの言葉に対し、佐伯さんは掌を上にして那智くんに両手を差し出した。
「俺が持っているもののなかで、大事なのはこれだけだ。指を折るなり、爪を剥ぐなり好きにしたらいい。何なら場所を変えよう」
「そんなことしたら、しばらく絵が描けなくなりますよ」
「お前が俺にしてくれたことに較べたら、大したことじゃない」
 僕はぞっとして、その光景を注視した。まさか、そんなことを那智くんができるわけない。
 那智くんは佐伯さんの右手を握り、指を絡ませている。
「あとで訴えないでくださいね」
「証拠を残しておくか?」
 僕はもう少しで出ていって彼らの手と手を引き離すところだった。
 僕は純粋だったわけじゃない。傲慢だっただけだ。
 試験前日、僕は差し入れを持って佐伯さんのアトリエを訪れた。
 いつもは整然としている佐伯さんの聖域が、その日はひどく散らかっていた。カンヴァスやイーゼルが倒れ、スケッチブックやクロッキー帳、絵筆、鉛筆、その他画材道具があちこちに散乱している。その日はとても寒かったのに、佐伯さんは暖房もつけずに、床にうずくまっていた。
『明日はだめだ。俺には才能なんかないんだよ。頭の中が重くて何も描けないんだ』
 何云ってるの、とは呟いたものの、言葉が通じるような状態ではないとすぐに僕は悟った。少しでも気分が落ち着くようにと、僕は佐伯さんの手を握り、それから背中をさすった。
 いつも祈るように絵を描く佐伯さんの背中が、僕は好きだった。けれど、祈りの深さは呪いの深さにも通じているから。兄の背中がいつからか呪いに満ちて、自らを蝕んでしまったのを僕は見ていたから。佐伯さんが兄のように壊れることを恐れて、ふるえる背中をさすった。それがそもそものきっかけだったのだ。
 服を脱ぐように云われたとき、僕はそれでこの人が救われるなら構わないと思った。今、僕が手を差し伸べなければこの人は明日を乗り越えられない。そうなったら、この人は絵を描くことに、美を追求することに自信を失ってしまうのではないか。いや、佐伯さんのような人は描くこと自体をやめてしまうのではないか。
 愚かにも僕はそう恐れていたのだ。佐伯さんの強さを信じなかった。
『あなたなら、できる』
 そう云うべきだったのに。

 那智くんは佐伯さんの中指を掴んでいた。折られる、と思ったとき、
「俺があなたにしてほしいことは一つです。渚くんとちゃんと話をしてください」
 という声が聞こえた。
「さっき、俺に対して、悪かった、って云いましたよね。そう思うなら、もう一度渚くんを捕まえて、話をしてください。そして今度こそ、彼の望みを叶えてあげてください。今のあなたならできますよね?」
 次に眼を向けたとき、那智くんは佐伯さんの手を放していた。
 僕は握りしめた拳に汗が滲むのを感じながら、その光景を見つめていた。
 その場を立ち去ろうとする那智くんに向かって、佐伯さんが名前を呼びかけた。
「お前、渚と付き合ってるのか?」
 那智くんは首を振った。そして、別の出入口から建物のなかへ戻ってしまった。