その翌日、僕と那智くんは店がある駅の改札口で待ち合わせをした。梅雨晴れの陽射しの強い日だった。混雑しているにも関わらず、改札を出たところで那智くんはすぐに僕を見つけてくれた。
「時丘くん」
振り向くと制服の上着を脱いで、白いシャツの袖を折っている那智くんがいた。
「あ……ごめん、もしかして、待たせた?」
「大丈夫。俺もさっき着いたとこだよ。今日ちょっと暑いねえ、行こっか」
混雑する駅舎を出るまで、僕は那智くんの後ろをついて行くかたちになった。
クロッキー帳のメモをもらった昨日の夜、僕は店から家に帰る道すがら、那智くんにメッセージを送った。どういう文章を打つか迷ったけれど、連絡するなら早い方がいいと思い、駅で電車を待つあいだに極力シンプルな一文を送信した。
【こんばんは。メモを見ました。今日は声をかけてくれてありがとう。 時丘】
那智くんからの返事は電車を降りる直前に送られてきた。
【こちらこそメッセージありがとう!忙しいのにごめん】
もう家に帰っているのかと訊かれて、ちょうど帰り道だと返すと、
【それなら家に着くまで、少し話さない?その方が早いし】
と云われた。僕は通話が嫌いではないので、二つ返事で了承する。数秒後に那智くんの方から電話がかかってきた。
そして、最寄り駅から自宅までの約十分の道のりのなかで、僕はすっかり那智くんのペースに巻き込まれてしまった。初めは店員としての対応が抜けきらなくて敬語を交えていたが、そのうち僕も学校にいるときのように喋るようになった。那智くんも画塾からの帰宅途中だという。
僕の働く店と那智くんが通う画塾があるS駅は、二本の路線が乗り入れている。路線図を見ると僕の使う路線と那智くんの使うそれは、ちょうどS駅で交差するかたちになっていた。
「S駅からいくつめの駅で降りるの?」
「二つ目。そこから歩いて十分くらいだよ。那智くんは?」
「へえ、俺も同じ。じゃあ大体一緒の時間帯に家に着くかな。ねえ、この時間になると腹減らない?喫茶店だとまかないとか出るの?」
「たまにね。でもうち、食事はサンドイッチぐらいしかやってないから、滅多にないよ。だから大抵は家まで我慢」
「へえ、偉い。俺なんか、ついついコンビニ寄っちゃうんだよね。ホットスナック大好きだし。あとたまに冷凍チャーハンとかも買う」
「へえ、そうなんだ。僕、あんまり食べたことない……」
「えー寄り道したりしないの?」
「うん」
最寄り駅から自宅までの距離は徒歩十分程度なので、途中にコンビニはあるけれどあまり利用することはない。僕の母はコンビニ嫌いで、幼い頃から出先でお腹が空いたと云っても決してコンビニには立ち寄ってくれなかった。スーパーの惣菜やファストフードは、許容範囲なのだからそのあたりの基準はよく分からない。その影響とは思いたくないけれど、今現在僕自身の生活はコンビニに行かなくても確立している。意識的に母の云いつけを守ろうとしているわけではなく、特に困らないのだ。朝晩は家に何かしら食事が用意されているし、昼は学食がある。更に、おやつを含めた軽食や文具の購入なども学内の購買部でコンビニより安価に済ませられるので、特に不便を感じたことはない。寄り道もしないつまらない奴と思われたかな、と少し後悔した。
「時丘くんて、学校どこなの?」
「近いよ。藤咲学園」
「えっ、藤咲に通ってるの?名門じゃん」
「そんな、そんなことないよ」
「いやいや、俺、学校祭に行ったことあるけど敷地内すごいきれいだったもん。電車内でも藤咲の生徒と乗り合わせることあるけど、何かもう雰囲気違うっていうか、上品だよね」
「美化しすぎ。わりとみんな普通だよ。お昼にカップ麺食べたりとか、僕みたいにバイトしたりしてる人もいるし。うちなんかより那智くんの学校の方が有名だよ」
「ありがとう。けど、うち校舎は古いし、教師は無駄にあれこれうるさいし……何より共学とは名ばかりで校舎が男子部と女子部で分かれてるんだよ。残念すぎる」
「わあ、それはひどい」
僕は心底共感するふりをした。こういうことには慣れている。
「でもさ、誰でも入れる学校じゃないもん。受験のとき、すごく勉強したでしょう」
「うーん……まあね」
那智くんの声のトーンが少し翳りを帯びたのが分かった。あとから考えると恐らく、これが彼の内包する夜の気配を感じた初めてのことだったと思う。それ以上那智くんは自分の学校の話を広げようとしなかったので、僕は話題を変えることにした。僕はもう大分家に近いところまで来ていたので、そろそろ本題に入らなければならなかった。
「そういえばさ、メモにあった佐伯さんの話って……何だったの?」
「うん……ねえ、時丘くんさ、明日バイト入ってる?」
「えっ?ううん、明日は休みだけど」
「じゃあ、ちょっと一緒に寄り道しない?」
佐伯さんに関する話は、少し長くなるから明日どこかで会って話したいということだった。僕はアルバイトがない日の予定はといえば、一人で映画を観に行ったりすることもあるけれど、たいていは家に帰って宿題をするほかは、携帯やパソコンで動画を見たり、漫画を読んだりするだけなので問題なかった。
そうして、今に至る。
有名チェーンのカフェに入り、飲み物を注文すると、那智くんは専用のプリペイドカードで僕の分の支払いも済ませてくれた。
「だめだよ、払うよ」
「いいから、今日は俺が誘ったんだから」
レジの順番がくる寸前まで注文を決めきれなかった僕は、何を飲むかと那智くんに訊かれて、咄嗟にメニューの中で一番目立っていた期間限定の冷たいメロン味のフラペチーノを選んでいた。せっかく今時の人気カフェに誘ってくれたのだから、こういう店ならではのメニューを頼まなければと思い込んでいたのだ。那智くんが払うつもりだと知っていたら、もっとシンプルなメニューにしたのに。できあがった飲み物を受け取り、僕たちは空いていた二人掛けの席に向かい合って座った。
「那智くんはこのカフェ、よく来るの?」
「たまにね。友達といるときなんかに。この系列の店はどこにでもあるから待ち合わせ場所に便利だし。渚くんは?」
「僕も、たまに」
そう云ったが本当のところ、フラペチーノなんて数えるほどしか飲んだことがない。初めはものすごく甘く感じられてどうしようかと思ったが、飲んでいるうちに慣れてきた。那智くんは定番メニューのキャラメルフラペチーノを飲んでいる。
「そういえば時丘くんて、下の名前何ていうの?」
「名前?あ……渚だよ」
「渚くん?いい名前じゃん。え、名前で呼んじゃだめ?」
僕は一瞬躊躇ったが、面と向かってだめとも云えず、
「うん、いいよ」
と、笑顔をつくって答えた。それに対し、那智くんがしんから嬉しそうに、やった、と呟いたので、許可して良かったかなと思った。
「ええと、那智くんは、下の名前って……」
「俺の方は今のまま呼んでくれれば」
「えっ、ずるい」
「ずるくないよ。だって、もう渚くんには下の名前で呼んでもらってるから」
「え?」
「だから、那智が俺の下の名前なの。苗字は碧川っていうんだよ」
「ええっ、何それ……初めて知った」
「うん、云ってない」
びっくりした。騙された。初めて聞いたとき、ちょっと珍しい苗字だなとは思ったけれど、苗字として充分あり得そうだったから特に何とも思わなかった。
「だって、碧川ってちょっと長いし。それに呼び方が苗字で定着しちゃうと、あとから名前呼びに変えるのって難しいじゃん?」
「那智くんは僕のこと、苗字で呼んでたじゃない」
「俺はすぐ切り替えられるもん。切り替えの早さだけが取り柄」
「もう……」
そう呟いたものの、結局は二人でくすくすと笑ってしまった。決して僕の気分は悪くなかった。初めて会ったときから思っていたが、那智くんの笑顔には、人の心を囲っている警戒心をとろかす力がある。きっと学校でも友達が多いんだろうな、と思う。
「ねえ、さっき気づいたんだけど、渚くんて首の後ろにほくろあるよね?生まれつき?」
「あ、これ?目立つかな?」
「ちょっとだけ。もしかして、気にしてた?」
「ううん、大丈夫。生まれつきかどうかは分かんないんだけど……自分で気づいたのも最近で」
「ああ、後ろじゃ見えないもんね」
「そう。しかもこれ、実は下に向かって三つあるんだよ。全部同じ大きさ、等間隔で」
「えっ、ほんとに?すごい珍しいね」
「うん、最初鏡に映して見たときはびっくりしたよ」
「なんかそれって、星座みたいだね」
その一言が、僕の佐伯さんとの幸福な記憶を明滅させた。
「知ってる?首の後ろのほくろってモテるんだって。どっかの占いで読んだ」
「えっ?全然そんなことないよ……」
「そんなことあるでしょう。渚くん、優しそうな顔立ちしてるもん」
僕はちょっとどぎまぎしながら俯く。顔が紅潮しそうになる。
「でも、そんな珍しい特徴があるなら、後ろ向いてても渚くんだって分かるね。服を脱いでればね」
「えーっ、それで判別する状況ってなくない?」
僕たちはまた笑い合った。
那智くんは現在、月、水、土の週に三回画塾に通っていて、学校が退ける時間と画塾の講義が始まる時間に間があるので、うちの店へ立ち寄っているのだという。佐伯さんとまったく同じ理由だ。
「夏休み以降はもう少し通う曜日を増やすけどね。夏期講習も申し込んだから、渚くんのバイト先に行く回数も増えると思う。こういうカフェは万人受けするけど、俺が一番好きなのは、渚くんがバイトしてるようなあんな感じの喫茶店だよ」
後半の方は少し小声になって那智くんは云った。
「ちょっとレトロっぽい雰囲気がいいよね。特にあの入口に置いてある猫、可愛い」
「あ、僕もあの猫が好きで、それで何となく店に入って……それでバイト始めた感じ」
「へえ、そうなんだ」
僕が初めてあの店を訪れた日。高等部の入学式だったあの日は、帰り道で久しぶりに兄に会う約束をしていた。数日前に父から電話があり、高等部入学祝いを兄に持って行かせるから、S駅で待ち合わせをして受け取るようにと云われた。
『二人とも入学式と始業式で帰りが早いんだし、どこかで一緒に昼を食べて来るといい』
父が昼食代をいくらか兄に渡しておくと云うので、僕はすっかりそのつもりでいた。
晴れて高校生になったというのにさほど感慨が湧かない。そんなつまらない愚痴を兄に聞いてもらいたいと思っていた。けれど、駅で顔を合わせた兄は、その場で父から預かった入学祝いを僕に手渡しただけで、すぐに帰ると云った。
『夕方から塾があるんだよ。その前に予習復習をしておきたいから』
確かに父から受けた電話で、兄は現在通っている系列の大学ではなく、他大学を受験するという話は聞いていた。だから勉強に忙しいのは分かる。けれど受験勉強に忙殺されていた時期を含むとここ数年、兄弟でまともに話していない。
しばらく会わないあいだに兄はすごく大人っぽくなっていた。何だか知らない人のようだった。
兄は五千円札を僕に手渡すと、
『これで何か食って帰れよ』
そう云って風のようにいなくなってしまった。
五千円札をポケットに入れ、兄と別れたあとも何となくS駅周辺をぶらぶらしていた。商業施設が建ち並ぶ駅周辺の人通りが多い界隈から少し外れたところに、あの店はあった。
初め、眼に入ってきたのは入口に置かれた陶器の猫だった。小さなアイアンのテーブルに背筋を伸ばして鎮座し、青い瞳で凛と顔を上げている。
ああ、あれを見ているのか。
視線の先には軒に吊るされた同じく陶器の鳥たちがいた。その隣のスタンドに固定されているメニュー表で、そこが喫茶店であることを知る。
あのころの僕は、まだまともに珈琲を飲んだことがなかった。それなのに、どうして店に足を踏み入れようと思ったのか。子供のころ、父の飲みかけの冷たい珈琲をコーラだと思い込んで飲んだときの、あの苦みを思い出すと、これまでどうしても飲もうという気にはなれなかったのに。
招き猫に誘われて、などと云えば何かの物語のようだが、今考えるとあれは一種の逃避行動だったのだと思う。兄はそれほど弟である自分に興味はない。うすうす勘づいてはいたけれど、それをこの日、改めて思い知らされて心が虚ろになっていた。普段にはない刺激を受けることで空虚感が薄まるならその方がいいと無意識に自分は考えていたのかもしれない。
「いいなあ、あんなおしゃれな喫茶店で働けて」
那智くんの明るい声で、僕は今へ引き戻された。
「落ち着いてて渚くんのイメージに合ってるよ」
「そうかな?ありがと」
「バイト先の人たちとも仲良いの?」
「う、うん……まあ」
「そうそう。渚くんに云われるまで気づかなかったんだけどさ」
那智くんはテーブルに置いていた財布を開き、例の珈琲チケットのつづりを取り出した。
「あれ一枚だけじゃなくて、裏面に全部に絵の具の青い線が入ってたんだよね。たぶん、佐伯さんが絵の具つけちゃったんだと思うけど……これ、大丈夫?」
「うん、気にしないで」
平常心を装ってそう答える。
実はこの青い線は僕がつけたものだったが、このことについてはあまり追及してほしくなかった。何か他に話題になるものを探していると、那智くんが財布をしまうために開いたリュックから、スケッチブックの角が覗いているのが見えた。
「ねえ、それってスケッチブック?」
「え?」
「あ、ごめん……荷物、覗くつもりじゃなかったんだけど」
「いや、いいよ。これでしょ?そう、部活で使ってたやつなんだけどね、もうこれは使い切ってるから持ち帰ろうと思って」
那智くんはスケッチブックを取り出し、ぱらぱらと自分で眺めた。
「そっか、佐伯さんと同じ部活ってことは、那智くんも美術部、なんだよね?」
「そうそう」
僕はそこで気になっていたことを訊いてしまおうと思った。
「あ、ねえ、佐伯さんて、第一志望に受かったん……だよね?国立の……」
「うん、そうだよ。え、本人から聞いてないの?」
「う、うん……」
「何だ、それ。佐伯さん、薄情だなあ」
「いいよ、受かったんならおめでたいことだよ。だって、あそこ現役で合格できる人って少ないんでしょ?」
「うん、毎年倍率二〇倍以上。千人受験して、合格するのは五十人。えぐいよねー」
僕は絶句した。難しいとは聞いていたけれど、きちんと数字を出されるといかに佐伯さんが高い壁を乗り越えたのかが分かる。
「佐伯さんは天才だもん。ひょっとしたらいけるんじゃないかって俺も思ってたけど、まさかその通りになるなんて。職員室じゃ先生たちも大騒ぎだったよ」
「もしかして那智くんも……?」
「ないない。俺は私立」
「そっか……」
「すごいよねえ、佐伯さん」
そのとき、那智くんと眼が合った。僕の様子を窺っているような、言葉以上の何かがそこにあるような意味ありげな眼差し。なんだか、佐伯さんに対する感情を見透かされている気がした。まさか、と僕は思う。
那智くんは手にしていたスケッチブックを僕に差し出した。
「はい、良かったら見てみる?」
「えっ、見せてくれるの?」
「うん、どうぞ」
那智くんが手渡したのは、佐伯さんが使っていたものと同じ表紙のスケッチブックだった。一口に画用紙といっても、様々な種類があることを教えてくれたのは佐伯さんだ。自分は白象紙が好きなんだ、とあの人は云っていたっけ。
ありがとう、と云って、なるべく丁寧に表紙を開く。
最初のページの眼を落としたとき、僕は息を呑んだ。
巧い、と思った。それ以外の言葉が見つからなかった。繊細な線と陰影で表された対象物は、どれも本当にそこにあるかのようだった。僕はほとんど無心で次のページをめくった。あまりの巧さに正直、今眼の前にいる那智くんと、絵が結びつかなかった。初めて佐伯さんの絵を見たときも、その美しさと緻密さに度肝を抜かれたけれど、那智くんは僕が出会ったときの佐伯さんよりも年下なのに。
「きれいだね」
僕はほとんど感動してそう呟いた。
「ほんと?」
「うん、僕、絵に詳しいわけじゃないけど……見るのは好きなんだ」
そう、僕には絵のことなんか分からない。だから作品を褒めるときには常に謙虚であろうと意識してきた。僕が、きれい、とか、美しい、と云うと、佐伯さんはいつも少しだけ笑ってくれた。
「那智くんも、油絵やってるの?」
「うーん、これまではずっと油絵が好きで描いてたけど……就職を考えて今はビジュアルデザインもいいかなって思ってる。だから大学はそういう学科があるところにしようと思って」
「ビジュアルデザイン?」
「そうだな、いろいろあるけど俺がやりたいのは、たとえば雑誌やカタログの表紙とか、チラシやポスターとか、商品のパッケージとか……そういうのをデザインする感じかな。Webデザインもいいけど。まあ、将来はそっちの方の仕事ができたらなって思ってる」
「そうなんだ……すごいね」
それは本音だった。ちゃんと将来の方向性を見据えて、確実に努力している。なんだか眩しかった。でも普通の高校二年生と云えば、そろそろ将来やりたい仕事を何となくでも見据えて、それに近い進路を考える時期といえばそうだった。考える時間があるのは今だけだ。三年生になったら、ひたすら受験勉強に勤しまなければならない。
僕の周りに那智くんのような同級生はいない。みんな、このまま内部進学で大学に上がる想定で会話をしているし、将来についても漠然としている。塾に行ったり、家庭教師をつけたりしている友達もいるけれど、全体的に彼らからは必死さのようなものを感じないのだ。公務員試験でも受けようかなあ、とか、最悪の場合は親や親戚がやっている会社に入るしかない、などと笑いながら云っている。だから僕も将来については、大学に入ってから考えればいいと思っていた。
那智くんは佐伯さんと同じで小学生のときに学校内外でいくつか賞をもらっているとのことだった。いつから絵を描いているのかという質問に対しては、
「分かんない。ずっと昔から描いてるよ」
という。同い年の那智くんの話を聞いていて、僕は自分が大分出遅れていることに気づいた。十代という貴重な時間を無駄にしてきたのかもしれないという焦燥感が体じゅうを駆け巡る。もし、学校のみんなが僕に打ち明けてくれていないだけで、那智くんのようにいろいろ考えていたとしたら。そう考えると眩暈がする。
僕といえば漫然と日々を過ごすばかりで、夢のかけらを見つけるどころか、終わった恋を忘れることさえできていなくて。
那智くんはビジュアルデザインを学んで、広告、印刷、出版のいずれかの業界に就職することを考えていると云った。
「ねえ、でも、油絵好きだったんでしょ?いいの?」
「うん、今でも好きなんだけどね」
その答えはちょっと悲しげだった。僕は自分の無神経さを呪う。那智くんは僕以上にいろいろ考えた上で、進路を決めているに違いないのに。
那智くんはフラペチーノを揺すって軽く混ぜた。
「正直、油絵は佐伯さんには敵わないなってどこかで思っちゃってるんだよね。あの人の絵が好きでずっと見てたから分かる」
那智くんは明るい声のままそう云っていたが、彼の顔の半分には陰りが射したような気がした。
「渚くんは佐伯さんの絵、見たことある?」
「うん、毎回すごいなって思ったよ。何かもう、うまく言葉で表現できないけど……きれいだな、どうしてこんな絵が描けるんだろう、って何度も思った」
「分かるよ。俺さ。中等部一年のときに学祭で佐伯さんの絵を見て、それで憧れて美術部に入ったんだよね。もともと絵は好きでよく描いてたし」
「そうなんだ」
「でもうちの学校の部活動って、さほど力入ってないんだよ。どの部も学生時代の思い出づくりみたいな感じで。だから佐伯さんの絵に対するストイックさに、周りはみんなびびっちゃって。集中してるときに話しかけると怖いから、俺、ほぼ佐伯さん宛の窓口みたいになってたよ。同級生や後輩から、しょっちゅう佐伯さんにこの配布物渡しといてだの、これ伝えといてだの頼まれてさー」
「あはは。ほんとに?」
「うん。まあ……あと先輩たちの中には、入る学校間違えてる、とか、芸術家気取りだとか、佐伯さんに対して嫌味云う人たちもいたけど……」
「何それ、ひどい」
「うん、人にはいろいろな事情があるんだから、そういうこと考えてものを云えないのってどうなのかなって思ったね」
僕は佐伯さんが指弾されている姿を想像して少し悲しくなったものの、それはあの人は周囲から妬まれるほどの才能があったからだとすぐに思い直した。
「……でも、佐伯さんは、もし、そういう声が聞こえてきたとしても気にしなさそう」
「だね。あの人、ちょっと見た目素っ気ない感じがするし、気難しいとこもえるけど……でも、不器用なだけなんだよ。話せばちゃんと笑うし、良い人だもん」
「そうだよね。良かった、那智くんみたいに分かってくれる人がいて」
僕は久しぶりに気持ちが和らいだ。良かった。佐伯さんにはちゃんと味方がいたんだ。
そのとき、口許では相変わらず笑っていたが、何か引っかかったというような表情を那智くんは眼に浮かべた。
「渚くんて、佐伯さんとはバイト先のあの喫茶店で知り合ったんだよね?」
「うん、そうだよ」
佐伯さんが通ってきていた去年のことは、昨日のことのように思い出せる。
「僕は高校に入ってすぐ今のバイトを始めたんだけど、佐伯さんはそれよりずっと前からの常連さんで……第一印象はちょっと怖そうなお客さんだなって。でも、一度向こうから話しかけてもらったことがあって、それ以来ちょくちょく話すようになったんだ」
「佐伯さんの方から話しかけてきたの?」
意外だというふうに那智くんの眼は云っていた。それに対し僕は、たまたま近くにいた店員が自分だったから話しかけられただけのことだと答えた。
「さっき、絵を見たって云ってたよね。佐伯さん、展覧会に呼んでくれた?」
「うん、見に行ったことある。あとはね、仲良くなってから家に行ったときに、敷地内にあるアトリエに入れてもらって、そこで……」
「えっ、佐伯さんのアトリエに行ったことあるの?」
那智くんはとても驚いた様子を見せた。
「あ、うん……何回か」
佐伯さんの自宅の敷地は広く、母屋とは別にもう一軒平屋があった。かつては父親が田舎から呼び寄せた祖父母がそこに住んでいたということだったが、二人とも佐伯さんが高校に上がる前に亡くなったため、佐伯さんのアトリエにしたのだという。僕がそこを訪れるようになったときには既に、誰かが暮らしていたような生活の痕跡は消え、油絵の匂いが部屋の隅々にまでしみついていた。
「何回か、って……あの人は絶対にあそこに他人を呼ばないんだよ。俺もわりと佐伯さんとは仲良い方だとは思ってたけど、あそこに入れてもらったのは一回きりだよ。しかも……そんなに長居はさせてもらえなかった」
そんなことは知らなかった。佐伯さんの性格を鑑みるに、他人が訪ねてくること自体少ないのだろうとは思っていたけれど、僕一人しか入れないとも思っていなかった。
「そうだったんだ、知らなかった。えー……もしかしたら僕、佐伯さんが出てって欲しいオーラ出してたのに、空気読まずに居座ってたのかな」
僕は笑いながらそう云ったが、だが那智くんは少しも笑わず、信じられないという様子で僕を見つめ、それから考え込むように視線を手許に落とした。
「……びっくりした。佐伯さんと渚くんて、ほんとの友達だったんだね。佐伯さん、友達はいらない、なんて云ってぐらいだから」
僕は何と応えていいか分からず、小さく、そうなんだ、としか云えなかった。
友達ではなく、恋人だったといったら那智くんはどんな顔をするだろう。
しかし、恋人だったとは云っても、佐伯さんとの付き合いには常に不安がつきまとっていた。出会ってから別れるまでの八か月半のあいだに、二人でどこかへ出かけたことなど数えるほどしかない。二、三回、佐伯さんの方から美術館に誘ってもらったことはあるが、彼はそれが済むと、
『絵を描くから』
と云って帰ってしまう。遊園地やゲームセンターなど騒がしいところは嫌いで、映画や食事には誘えば了承してはくれるが、丸一日一緒にいてくれたことはなかった。忙しいのだろうと僕の方から誘うのを遠慮していたら一か月以上デートがお預け状態になったこともある。受験までの最後の三か月間は、佐伯さんの自宅敷地内にあるアトリエに、僕が訪ねて行くだけになっていた。
「でも、僕も仲良かったのは本当に一時期だけだから」
「それでもそのとき、佐伯さんは、渚くんのことを気に入って信頼してたんだと思う」
那智くんは柔らかく微笑んでいたが、その言葉は先ほどまでのように明るくはなかった。もしかして、僕と較べて、尊敬する佐伯さんとの仲の良さに自信を失くしてしまっているのだろうかと居心地が悪くなった。
「それは……単に僕が絵の素人で、那智くんがライバルになるような後輩だから、対応が違っただけじゃないかな」
僕は苦し紛れにそう云った。那智くんが佐伯さんを慕っているのなら、そのままでいてほしかったし、彼は僕とはまた違った部分で佐伯さんと深く繋がっているはずだった。
「僕、さっき佐伯さんの絵、すごいって云ったけど、那智くんの絵だって負けないぐらいきれいだと思ったもん。佐伯さんだって、那智くんを認めてたはずだよ。それに、ちょっと脅威にも感じてたと思う。いくら仲が良くても、自分と同じぐらい実力のある後輩ってちょっと怖いと思うんじゃないかな。だから、アトリエに入れるのは、なんか手の内を見られるような気がして落ち着かなかったのかも……」
那智くんの視線がちょっとふるえた。
「ありがとう。渚くんて優しいね」
「そんな、僕は勝手に想像したことを喋っただけだよ」
那智くんはただ優秀なだけじゃなく、勘も良いんだなと、僕は悟った。こういう相手に下手な気遣いをしても、すぐにばれてしまう。
「渚くんはよく佐伯さんと仲良くなれたね。あの人、あんま喋らないし、分かりづらいでしょ」
「そうだね。でも、僕の兄が佐伯さんと似たタイプで……だからかな。ああいう素っ気ない雰囲気の人には慣れてるっていうか」
とはいえ、まったく気後れせずに佐伯さんと接することができるほど、僕は図太くはない。那智くんの云う通り、佐伯さんは分かりづらい人だった。初めの頃は、感情を表に出すと絵に何かしらの支障でも来すのかと思うほど、表情が乏しく口数も少なかった。単なる店員の立場だったとき、佐伯さんはつっけんどんで、氷のような人だと本当に思っていたのだ。
「へえ、渚くんお兄さんいるんだ?」
「うん、学校は違うけどね。佐伯さんと同じで二つ上」
「じゃあ、大学生なんだ。いいなあ、勉強教えてもらえるじゃん」
「あ……ううん、僕、兄とは別々に暮らしてるから」
「えっ、そうなの?」
「僕が小学校五年生のときから。両親が別居してそれぞれについてったって感じ」
正確に云うと僕は母についていったわけではなく、父と兄に置いて行かれただけだが、最も端的で他人に理解してもらいやすい説明はこれだった。僕はフラペチーノを飲み、そのカップの中身から視線を上げた。そこで、僕を見つめている那智くんと眼が合った。
「そうか。ごめん、話してくれてありがとう」
僕はにっこりして、軽く首を振った。
「気にしないで。那智くんは?兄弟いるの?」
「いない、一人っ子。だから親からの期待がすごくて」
「そうなんだ。あー……でも今、うちも同じ感じかも。兄さんがいなくなって、その分僕にきてる感じはある」
「なんか常にあれこれ云ってくるけどさ、こっちの気持ちなんか度外視だから」
「親ってどこも一緒なのかもね。僕も今の学校受験するときだって、有無を云わさずって感じだったもん。勝手に塾申し込まれてて、放り込まれて」
「えー俺もまったく同じなんだけど」
「それで何かあると、高い学費払ってるんだからとか云い出すんだよね」
「分かる」
家の不満に話が逸れたあたりから、僕たちのあいだに友情のはじまりといっても差し支えないような、対等で平明な空気が流れはじめた。
那智くんと話すのは面白かった。同じ学校の友人たちより、ずっと視野が広くて柔軟性に長けていた。絵を描く人種でも那智くんは佐伯さんとまったく違う。話題が豊富で、人に気を遣えて、開放的で、よく笑う。話を聞いていると、小学校のときは絵も好きだったが、スポーツばかりしていたという。それで運動部員のような快活さがあるのかと納得した。
フラペチーノが空になりかけたとき、
「ねえ、渚くんて今、付き合ってる人いる?」
と那智くんが出し抜けに訊いてきた。一瞬、佐伯さんの存在が頭をよぎったが、僕はそんな自分を笑うつもりで笑顔を浮かべた。
「ううん」
「好きな人も?」
「いない。那智くんは?」
「俺は付き合ってる人はいないけど、好きな人はできたかな」
「へえ、どんな人か訊いてもいい?」
「とても優しい同い年の人。まだ知り合ったばかりなんだけどね」
そう云って僕を見つめる視線に、僕はどうしてだかどきどきしてしまった。
静まれ、心臓。
反射的に自分の内面に向かって呼びかける。
別に僕を好きだと云っているわけじゃない。今までどれだけの勘違いをしてきたのか忘れたのか。何度、自分の自惚れを恥じて、穴に入りたいと思ったことか。
だからそのあとすぐ、
「もし良かったら、今度は休みの日に遊びに行かない?」
と那智くんから誘われたときも、僕は有頂天になるのをこらえて、落ち着いて喜びを表現することができた。
「うん、行こう行こう。いつがいい?」
那智くんとは、翌週の日曜日に会う約束をした。期末テストの少し前だが、那智くんはさほど気にしていないようだったので僕もそれに合わせた。
友達とどこかへ遊びに行くなんて久しぶりだな、と思いながら僕はホームであれこれ考えを巡らせたながら電車を待っていた。
そうだ、友達だ。だから何も心配ない。
さっきは突然の恋の予感に、揺さぶられてしまったけれど、僕のなかに巣喰う絶望がうまくブレーキをかけてくれた。
僕は佐伯さんに恋をしていた。同性を好きになることを何のためらいもなく受け入れてくれたのは、佐伯さんが初めてだった。女の子を好きになれないことに対して、思い悩まなくていいと云ってくれたのは、佐伯さんだけだった。十六年間報われることのなかった恋心が、許しを受けて、佐伯さんに向かって一気に解放されていった。
『人を好きになるのに性別なんて関係ないよ』
恐らく、佐伯さんは本気でそう思っていたのだろう。そのときはそれが嘘偽りないあの人の本音だったのだ。人間というのは、自分の内面を誰よりも分かっているのは自分自身だと信じている。だから、いざ眼の前に容赦のない現実がやってきたとき、その破壊力に打ちのめされてしまうのだ。
現実を目の当たりにした途端、佐伯さんは僕を突き放し、そのあとは徹底して僕を避けつづけた。裏切りじゃない。仕方のないことなんだと僕は自分に云い聞かせた。
決して佐伯さんを恨まないと僕は心に決めていたが、半年に渡る恋の代償は重く、それから三か月のあいだ、僕は碌に眠れず、碌に食べられず、何も楽しいと思えなかった。特に、感情が鈍化していた。
失恋の痛手から立ち直るために新しい恋を探す、という人もいるというが、僕はもう当分、誰にも恋するつもりはない。いつかはするだろうが、それは今ではない。
やってきた電車に乗り、たまたま空いていた出入口に近い席に座る。
向かいの扉の入口に立っていた、黒い服の女の子に眼が奪われた。彼女はレースがふんだんにあしらわれた黒いワンピース、というよりドレスを着ていて、髪には大きなリボンをつけていた。ハート型の、恐らく携帯電話ぐらいしか入らない大きさのバッグや、足の甲が痛くなりそうな黒い靴にも、レースやリボンがこれでもかというほどついている。
流行だけがすべてじゃない人もいるんだなあ。
そんな感想を抱きながら、その夢のような服装に見入っていると、彼女が携帯電話から顔を上げて僕の方を見た。色素を薄く見せるためか、眼にはグレーのカラーコンタクトが入っていて、肌は砂糖菓子のように仕上がっていた。僕は咄嗟に俯いて、鞄の中を整理するふりをする。だが、しばらく経ってもその子の視線が離れる気配がないので、僕は違和感を覚えながらも一度も顔を上げなかった。結局、そのまま電車を降りた。何だったろうとは思ったが、そのことはすぐに別の思考に紛れて消えていった。
そうだ、服だ。何を着ていこう。服なんてここ最近、一枚も買っていない。せっかくいい友達ができそうなのに、外見も中身もぼろは出したくない。僕は携帯電話を取り出し、同世代がどんな服を着ているのか検索しはじめた。
つまらない奴だと思われないように、いくつか話題を用意しておこう。とりあえず映画に行こうということになっているが、そのあとお茶ぐらいはするだろうし、カラオケやボウリングに行く可能性もある。あとはやはり、今日、おごってもらったフラペチーノのお礼をしておきたい。
楽しみだけど、やっぱり少し緊張もするな、と思ったところで僕は頭を抱えた。
だめだ、だいぶ浮かれている。
「時丘くん、今週の日曜日出れないかな?」
そう店長に訊かれたのは翌週の水曜日のことだった。
「ほら、日曜日、もともとシフト希望入れてくれてたじゃん。前日の土曜日に勤務してくれてるから外したんだけど、やっぱり入ってほしいなと思って」
どきりとしながらも、
「すみません、期末試験が近いもので」
とやんわり伝える。云ったあとでふと気づいた。もしかして、店長の頼みを断るのって初めてじゃないかな。残念そうな顔をされたらどうしよう、と思っておずおずと顔色を窺うと、
「そっかあ、いいんだ。訊いただけだから」
と店長はあっさり引き下がって行った。
あのあとの那智くんとの連絡で、日曜は映画を観に行こうという予定になっていた。
確か今週の日曜日は、日雇いの派遣アルバイトが来ることになっていたはずだが、と僕は思い出す。
これまで店長は、奥さんがいない二か月間だけ頑張ればいいのだからと、新たにアルバイトを募集しなかった。
『夏のあいだだけ、平日の日中と土日どちらか来てくれる派遣の人をお願いしたら?』
そう奥さんにも云われていたが、店長は、
『どんな人が来るか分からないから、あまり使いたくないんだよね』
と、一人で頑張っていた。しかし、先々週、そうもいっていられない事態が起きた。
その日は平日でいつも通り店長は一人で店を回していたのだが、そこへ保育園から、上のお子さんが突然熱を出した、という内容の電話が入った。熱がどんどん上がっているのでなるべく早く迎えに来て欲しいと云われたものの、僕たちが出勤する時刻までには三時間以上あったため、仕方なく店長は一旦店を閉めて、子供たちを迎えに行くことにした。その際、既に店内にいるお客さんたちに事情を話して退店を促すかたちになり、かなり大変だったらしい。それで、翌日には大手人材派遣所に事業者登録したのだということだった。だがその日雇いの派遣について訊ねると、
「日曜日にも来てもらおうと思ったけどね、断ったんだ。実はもう何回か、平日の日中に人を派遣してもらってたんだけど……来る人来る人、全然だめ。いらっしゃいませも云わなけりゃ、愛想もない。おまけに電話もとれない。みんな最初の二時間で帰ってもらったよ。やっぱり面接もなしに人を使うものじゃないね。運が良ければ良い人が来るんだろうけど、あの派遣所はもう利用しないよ」
という答えが返ってきた。
「そうだったんですか……」
「ああ、でも日曜のことは気にしないで。僕の友達に手伝い頼めないか当たってみるから」
困っている店長の役に立ちたいのはやまやまだったが、今回はごめんなさい、と心のなかで謝ってその日の仕事に精を出した。
そのあとで、いつも通りの時間帯に那智くんがやってきた。彼はカウンターの中にいた僕に向かって手を振り、案内を待たずにいつもと同じ洗い場近くの席に座った。僕は棚からカップを選び、珈琲を注ぐ。運が味方してくれたのか、そのとき理央は別のお客さんと談笑中だったので、今度は那智くんのところへ珈琲を持って行くことができた。
「明後日だね」
僕が珈琲をテーブルに置いたあと、那智くんはにこっと笑って云った。
「うん」
「予報では晴れるみたいだね。体調気をつけてね。楽しみにしてるから」
「ありがとう、那智くんもね」
けれど伝票を置き、トレイを抱えたあとも僕はその場を立ち去ることができなかった。那智くんの視線が、僕を放さなかったのだ。
那智くんの瞳は、チョコレートのような茶色をしていて、光が当たると、瞳孔との色の差がよりはっきりした。
一体、何秒間見つめあっていただろう。
片付けられていないテーブル、洗い場にたまっているカップや皿、補充しなければならないストローや紙ナプキン。一瞬、そういったすべてのものが、ずっとずっと遠くにあるように感じられた。こんな眼で見られたのはすごく久しぶりのことだった。
「時丘さん、レジお願いします」
理央の声が飛んできて、一気に現実が僕の上に降りかかってきた。途端に、顔から火が出るほどの恥ずかしさが襲ってきて、僕はその場を離れた。
その日の閉店後、レジの金額合わせをしていると、理央が話しかけてきた。
「珍しいじゃないですか。時丘さんが店長の頼み断るなんて」
「え?」
「来週の日曜のことですよ」
「ああ、うん……期末試験が近いからね」
「本当は?」
僕はほんの一瞬だけ考えを巡らせて、嘘をひねり出した。
「実は友達と塾の体験授業に行くんだ。もう申し込んじゃったから断れなくて」
「何だ、つまんね。デートとか、そういうのだったら面白かったのに」
僕は、んー、と適当に唸ってその話題を流そうとした。何でこの子は大して興味もない僕について詮索してくるのだろう。
「ていうか、時丘さんてデートとかしたことあるんですか?付き合ってる人います?」
「うーん、まあ……」
「絶対無理でしょ。こんだけバイト入っててそんな暇あるわけないじゃないですか」
何なんだ、この子は。
「でもでも、もしほんとにデートするときは教えて下さいね。俺、場所とか服とか、その他もろもろアドバイスしてあげますから。ほっといたら時丘さん、あらゆる面で事故りそうなんだもん」
「ご心配ありがとう」
余計なお世話だ、と云いたいのを何とか喉の奥で留め、僕は精一杯微笑んだ。顔面の皮一枚下までこみ上げてきている苛立ちを、うまく隠せていればいいのだが。
「時丘さん、藤咲学園に通ってるのにマジでもったいないですよ。あすこ、美人やイケメンが多くて評判なのに。男も女もどっちも選び放題じゃないですか」
確かに那智くんからも、藤咲の生徒は上品だと云われていたっけ。でも実際に中にいる生徒としてはあまり実感がない。それより、僕を驚かせたのは理央の後半の言葉だった。思わず仕事中だということも忘れて訊いた。
「……えぇ?何それ、付き合うのに男は選ばないでしょう?」
なるべく軽い調子に聞こえるように、ほんの少し途惑ったような笑いを混ぜた。
「ああ、女じゃないと嫌な人ですか、時丘さんって」
「え……だって、みんなそうじゃないの?」
「何勝手に決めつけてるんですか。まあ、割合として多いことは認めますよ。でも俺の場合、今は彼女がいるけど、別に機会があれば男とも付き合うし」
「えっ、嘘でしょ?」
「うるさ、声抑えてください」
「ごめん……ちょっとびっくりして」
「ガチで驚いてるんですか?時丘さんて何時代の人?」
笑われたが、それはどうでも良かった。信じられなかった。理央は本気で云っているのだろうか。本当に、ただ僕が時代遅れなことを云っているだけなのだろうか。
「でも……ほら、男同士だと、周りの眼とか気になるものなんじゃないの?」
「別にそんなこともないけど。今時珍しくもないし」
「だって、友達とはしないことをするわけでしょ?」
当たり前じゃないかというような顔で理央は僕を見た。
「そんなに知りたいなら試してみます?」
「えっ?」
「もちろん、ごっこ遊びで、ってことですけど。キスまでなら大丈夫ですよ。それより先は流石に彼女に悪いからできないけど」
まったく思いがけないことを云われて僕は動揺し、レジカウンターの上にあったコインケースをばらばらと落としてしまった。
「うろたえすぎでしょ」
理央はあきれたようにそう呟き、使っていたほうきを掃除用具入れに戻しに行った。
「ていうか、今日来てた、あの東林大高校の人。あれ、彼氏じゃなかったんですか?最近よく来てるし」
「はっ?違うよ。あの人は友達だって云ったじゃない」
「はいはい、友達ね。てか、やばっ。もう九時じゃん。じゃ、お先でーす」
理央は例によってごみをそのままにし、バックヤードに消えていった。僕は呆気にとられたまま、しばらく動けなかったが、やがて足許に落ちたコインケースを拾いはじめた。
もし世界が、理央の云う通り、そこまで偏狭なものでないとしたら僕を苦しめているものは何なのだろう。昔から抱えているこの罪の意識は、いらないものだったというのか。それならどうして佐伯さんは、あのとき、まるで恐れるように僕から離れていったのだろう。
すべてを受け入れてくれた佐伯さんと別れるのは、僕にとって体の一部をもぎ取られるようにつらいことだった。別れの言葉すらもらえなかった僕は何故連絡をくれないのかと、何度も電話かけ、メッセージを送信し、手紙まで出した。それに対し、一切何の返答もないことがひどく堪えた。もう佐伯さんとは終わりなのだと理解したとき、僕の眼からは意思とは関係なく涙が流れ出し、それは一週間近く止まらなかった。僕は風邪をひいたと云って学校を欠席し、同じ理由で店にも迷惑をかけてしまった。何を食べても味がせず、体が重く、漫画を読もうと思っても、まるで字が頭に入ってこず、絵は分解された記号のように見えた。もう一度あんな思いをしたら、きっと僕は生きていられないと思う。
那智くんが非常にいい人であることに間違いはなく、はっきり云えば彼は僕のタイプであり、自制を働かせなければあっという間に恋に落ちてしまうことは経験上分かっていた。特に、今日のような、あんな眼で見つめられつづけたら、いつか僕の心には火が点いてしまうだろう。
那智くんの優しさや明るさに触れるたびに、かつて佐伯さんに抱いたのと同じような感情を呼び起こされそうになる。けれど僕は、恋の病の深さを、人を愛することが天国にも地獄にも繋がっていることを、もう知っている。佐伯さんから受けた完璧な拒絶は今も僕の内面に暗い影を落としている。もうあんなふうに誰かを好きになることは怖い。
もし、那智くんが女の子しか好きにならない男であれば、すぐに諦めもつくのだけれど。
そして日曜日がやってきた。今度は僕の方が先に駅に着いて待っていた。休日の駅前は先週、学校帰りに那智くんと待ち合わせをしたときよりも人でごった返している。すんなりと那智くんを見つけることはできず、結局、携帯電話で連絡を取り合った。
「お待たせー。混んでるねえ。とりあえずあっち行こう」
お互いの声も聞こえにくいなか、那智くんが示す駅舎の外に連れ立って向かおうとしたところ、僕は前から歩いて来た通行人にぶつかられてよろめいた。そのとき、本当にかすかにだが、那智くんが庇うように伸ばした手が、僕の肩に触れた。
「大丈夫?後ろついてきて」
「うん……」
僕は俯き加減のまま礼を云い、云われた通りに那智くんの後ろをついて行く。実は那智くんの顔を見た瞬間、
『彼氏じゃなかったんですか?』
という理央の言葉が脳内再生されて、あのときと同じ恥ずかしさが蒸し返されていた。
七月最初の週末だった。先月に引き続き、雨の気配は微塵もなく、日々、気温ばかりが上がっていく。駅舎を出ると、貫くような陽射しが眼を灼いた。
「映画までまだ時間あるから、近くで何か食べようか」
那智くんはライトブルーのデニムにポップアートのプリントが描かれたシャツを着ていて、制服姿のときより印象が明るく見えた。さりげなくブランドのロゴが入ったキャップをかぶり、シルバーのネックレスが胸元に光っている。
一方、僕はといえば、那智くんみたいに帽子やアクセサリーなんかの細部のおしゃれになんてとても気が回らなかった。服装に無頓着なつもりはないけれど、もともと流行りに疎いのとセンスがないのとで、とりあえず人から見て変に見えない恰好をするのが精一杯だ。今日は出発直前までいろいろ考えていたもののタイムリミットが迫ってくるにつれ、色合いもシルエットも何だかもうよく分からなくなり、結局無難に無地の白シャツと黒いパンツで家を出た。
やっぱり服を買いに行けば良かったなあ、などと後悔していると、那智くんが映画館の近くにある、ベーカリー&カフェの店に行こうかと提案してきた。
「今日、映画のあとさ、絵の展覧会に付き合ってくれないかな?」
サンドイッチとアイスカフェラテで腹ごしらえをしているとき、那智くんはそう訊いてきた。
「展覧会?」
「うん、ここから電車で二駅のところにある、アートスペースでやってるんだけど、今日が最終日でさ」
「ふうん、いいよ。どんなの?」
「美大生のグループ展だと思ってくれれば。知り合いが一人出してるから、一応行かなきゃと思って。でも、いきなりだし、もし興味なかったら一人で行くから無理しないで」
「ううん、行く。そういうの好きだし。そっかあ、やっぱり美大生目指すなら、そういうのしっかり見とかなきゃいけないんだね」
あとになって僕は、那智くんのこの話をもう少し詳しく訊くべきだったと後悔する羽目になる。そのとき、僕は食べているパンから、アボカドが落ちそうになることばかり気にしていた。
「ねえ、渚くんは、バイトがない日は普段何してるの?」
「えっ」
「部活とか入ってる?それとも何か習い事してるとか」
僕は黙り込んだ。自分には那智くんや佐伯さんのように得意なことはないし、兄のように一心不乱になったこともない。そういう人たちの背中を見てきたのに。
「どうかした?」
「ごめんね、あの、正直云うと僕ってつまんない奴でさ」
ぼろは出したくないと思っていたが、早々に僕は白状することにした。那智くん相手にありもしない夢や目標を語れるほど僕は器用ではない。それに、那智くんに対してはできるだけ嘘を吐きたくないという気持ちもあった。
「実はね、僕、将来どうしたいかっていうのが全然決まってなくて……だから大学で何を学んだらいいのかも決められない。もう高二だから、付属の大学に進学するにしても、一応試験もあるわけだし、そろそろ勉強に本腰入れなきゃいけないとは思うんだけど、まだ学部も決められなくて。そこから逃げるみたいに、バイトをたくさん入れちゃったりして」
「そうなんだ。バイトをしてるときは楽しいの?」
「うん、わりと。でも……仕事そのものっていうより、あの空間が好きなのかも。一呼吸ついて、少し考えごとをして、次の場所へ向かっていくための準備をする、あの場所が」
この世界はあまりにも賑やかすぎて眩しすぎるから、佐伯さんのように頑張っているけれど、不器用でこの世界に馴染めない人がときどき休みに来られるような、静かな場所。そういう場所を守りたい。そんなかすかな理想は持っているといえば持っている。でもそれが我武者羅な衝動を生むのかと云えばそういうところまでは持っていけない。こんな気持ちはあまりに漠然としすぎている。
「親にも、塾行かないならせめて学校の放課後授業受けろとか云われてるんだけど、あんまり気分が乗らなくて。……ごめんね、こんなどうでもいい話。云い訳せずに勉強しろって話だよね」
弱音を吐いたみたいで恥ずかしかったが、那智くんは僕と視線を合わせると穏やかに云った。
「考え事をしてる渚くんは絵になるね」
「えっ、何急に」
「いや、ほんとに。あとで描かせてほしいな」
「誰を?僕を?」
「ほかにいないよ」
思わずパンを喉に詰まらせそうになる。那智くんは一足先にサンドイッチを食べ終わって包み紙をトレイの上で丸めた。
「渚くんてさ、自己中になったことなさそうだよね」
「え?」
「渚くんは優しいし、誠実で、真面目な性格なんだと思う。どうすれば周りに迷惑がかからないか、人を傷つけないか、この場ではどう振る舞うべきか、そういうことをいつも考えて、他人の意見にちゃんと耳を傾けてきたって感じ」
「それは……そんなに特別なことじゃないと思うよ」
「でもさ、周りは渚くんのことなんか考えてくれないよ」
ふいに芯のある強い声で、那智くんはそう云った。
「渚くんのことを本当に分かってるのは、渚くんだけだよ。結局、周りの人だって自分のことで精いっぱいだもん。周りの人の声は渚くんの声じゃないよ。自分の声は自分にしか聞こえないんだから。一度耳を塞いで、自分の声だけをちゃんと聞いた方がいいと思う。人生の大事なことに関しては自分中心になっていいんだよ。ていうか、ならないとだめ」
僕はどんな返事をしたらいいか分からず、小さく、うん、とだけ呟いた。
ごめんすごくお節介なこと云ってるよね、と那智くんはいつもの声に戻って笑った。
「ねえ、渚くんて腕時計してるんだね。俺、あんまりつけないなあ」
「ああ、うん。携帯で時間の確認できないときに便利だよ」
「確かに。ちょっと見せてくれる?」
そう云って那智くんは腕時計を嵌めた僕の左腕を自分の方へ引き寄せた。誰かに肌を触れられたのはすごく久しぶりで、僕の心臓は一瞬ふるえた。
「上映二十分前かあ。そろそろ行く?」
「あ、うん……」
「そういうシンプルな盤面が一番見やすいよね。その時計、自分で買ったの?」
「う、ううん、高等部に上がったときに父親からもらって……」
「へえ、渚くんのお父さんセンスいいね」
体のなかでまた恥ずかしさがぶり返してきた。このぐらいのことでうろたえていたら、とても今日一日を一緒に過ごせないじゃないかと、深呼吸する。
映画館に着くと那智くんはスタッフのいるカウンターではなく、自動発券機の方へ僕を誘った。事前にインターネットで二人分のチケットを予約しておいてくれたという。
「勝手に席決めちゃったんだけど……でも、シアタールーム七番なら、この列が見やすいはずだから」
「ありがとう。詳しいんだね」
「うん、この映画館、よく来てるから」
「……あ、もしかして、前の彼女と?」
僕はわざと自分から傷つきにいった。
「そうだね、そういうときもあったね。でもほかの人ともよく来たよ」
そう答えたあとで那智くんは、ポップコーンとドリンクを買ってくるからここにいて、と云い残してその場を離れた。
ほら見ろ。そういうときもあった、ということは彼女がいたということだ。那智くんは女の子が好きな男なんだ、同じ男なんかお呼びじゃないんだ、と僕は自分に云い聞かせた。別に友達としてても充分だ。那智くんはとても魅力的だし、話していて楽しいし……。
「渚くん、ごめん。アイスティー売り切れでさ、ウーロン茶にしちゃったんだけど」
「えっ?あっ、そう、そうだったんだ」
「コーラにする?俺はどっちでも」
「ううん、ありがとう。ウーロン茶大好き」
僕はウーロン茶を手に取り、一気に半分近く飲んだ。那智くんがトレーを持ったままだと気づき、すぐに後悔する。
「ごめん、買ってきてもらっておいて……僕持つよ」
「いいよ全然。のど渇いてたんだね。このままシアタールーム行こ」
那智くんのおおらかな態度に、僕はまた心臓を掴まれてしまう。いやいやと首を振る。
「ねえ、那智くんの付き合った女の子って何人ぐらいいるの?」
「どうしたの、いきなり」
「那智くんなら、きっともてるんだろうなと思ってさ」
「そんなことないよ」
「でも、何人ぐらいと付き合ったの?」
僕はしつこく人数を訊き出そうとした。
「ええと、三人、かな」
「三、人」
「あ、でも、みんなそんなに長く付き合わなかったし。もう、過ぎたことはいいじゃない」
決まりだ。どう考えても那智くんはノンケの男に違いない。まあ、覚悟はしていたけれど、どう見ても彼は女の子と付き合う方が合っている。
はあ、とため息が出た。一瞬でも期待してしまった自分を殴りたい。
だって、あのときの那智くんの視線は、佐伯さんから受けていたそれとすごく似ていたから。
もちろん、理央のように男女両方と付き合うというケースもあるのだろうけど、そんな限りなくゼロに近い可能性に賭けようと思うほど、僕は夢見がちではない。
勝手に諦めの境地に浸っていると、シアタールームの座席についたところで、今度は反対に那智くんから質問された。
「渚くんは、今までどんな人と付き合ったの?」
「え?」
「渚くんのことも教えてよ」
「う、うん……僕は、その、付き合ったのは一人だけで……」
「ふうん」
「あの、でも半年ぐらい前に別れちゃって」
「半年前?……そう、半年前っていうと一月か二月、とか?」
「そうだね、二月……だったかな」
「同い年の人?」
「ううん、年上……」
誤算だった。まさか自分に水を向けられることになるとは。しかし同じ質問には礼儀としてこちらも答えなければならない。
でも、お願いだからまだそこには触れないでほしい。まだ傷口は塞がっていない。
勝手だと思いながらも僕はそう願わずにはいられなかった。
「俺もさ、ちょうどその頃、好きだった人に振られちゃったんだよね。その人は、男だったんだけど」
「えっ?」
「まあとにかく、お互い今はフリーなんだね。今日は楽しもう」
那智くんはそう云って微笑んだ。その直後、アナウンスが入り、場内は闇に包まれた。だがそれとは反対に、僕は自分の気持ちが明転するのを感じた。
映画の内容は予告通りといった感じで、途中から先が読めてしまったが、つまらないとは微塵も思わなかった。
まだ恋をするのは怖いと思っていたのに、那智くんが男に恋心を抱いた経験があると聞いて、すっかり気を良くしている僕がいた。那智くんとここにいられることが嬉しい。那智くんといるだけで、何だか自分の存在を肯定してもらえている気になれる。その満足感のおかげで映画に対する評価はひどく甘くなった。映画が終わり、場内が明るくなってから、
「面白かったね」
と僕が云ったところ、那智くんは、
「そうだね」
と返してくれたが、あとから振り返ってみると、そうでもなかったように思う。でも僕が面白いと云ったからだろう、那智くんは、売店も見てみようか、と云って、そこでパンフレットを購入し僕にプレゼントしてくれた。
「いいの?パンフレット買ってもらっちゃって」
「いいんだよ。その代わり、ちょっと付き合って」
那智くんはそう云うと、映画館を出て少し歩いたところにある小さな公園に僕を誘った。行きも通りかかったが、土台がスプリングになっている遊具二台と滑り台しかない、幼児向けの公園だ。公園の中央にはそこそこ大きな樹があり、その根本にベンチが設置されていた。ベンチの半分は陽射しが照りつけていたが、もう半分は樹の幹が陰を落としてくれている。那智くんは僕をその木陰に連れて行った。
「描いてもいい?」
「えっ?」
「映画の前にお願いしたでしょ?渚くんを描いてみたいんだ」
そういえば映画の前にそんなことを云っていたなと思い出す。描いてみたいと云われるのは、正直悪い気はしなかった。
「でも、どうしたらいいの?」
「楽な姿勢でいいよ。でもなるべく動かないで」
そう云いながら那智くんはスケッチブックと、芯を長く削った鉛筆が何本か入った筆箱を取り出した。
「それ、いつも持ってるの?」
「というわけでもないけど、今日はどうしても渚くんを描かせてもらいたくて持ってきたんだ。これも勉強だから、お願い。俺を助けると思って」
僕は那智くんのこういう強引さは嫌いじゃないな、と思い、僕は分かったと云って、ベンチに座った。しばらく姿勢を検討した結果、僕は今観てきたばかりの映画のパンフレットを読む体勢をとった。
「ありがとう」
その一言を境に、那智くんは自分の世界へと入り込んでいった。彼が鉛筆を走らせる音が、初夏の風にさらわれて消えていく。
一分ほど経ったとき、そっと那智くんの様子を伺うと、彼は先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で、絵と向かい合っていた。その静かな変わりように、僕は心を掴まれた。青い炎のようなエネルギーが、彼のなかで燃えているのを感じる。惚れ惚れするのと同時に、怖いな、とも思った。真剣な人はみんな怖い。兄や佐伯さんのように。僕はいつも後ろから彼らの炎を見つめていた。那智くんも今、そんな背中をしているのだろうか。
「渚くんは優しい顔立ちだから、描いてて気持ちが和らぐよ」
「えー?」
その言葉に僕は照れるしかなかった。
「ほんとだよ。いつまでも描いていたくなる」
そう云ったあとで那智くんは、ふと手を止めた。
「そういえば佐伯さんに描いてもらったことって、ある?」
「うん、何回か。でも、僕をモデルにするといつも『うまくいかない』って云ってたっけなあ。別に一枚ぐらいくれたっていいじゃん?なのにあの人、自分が納得いかないと描いたものを見せてもくれなかったんだから」
「あの人は完璧主義だからね」
那智くんは苦笑した。
「じゃあ、これ描き終わったらあげるよ」
「ほんと?」
「うん。あ、でもせっかくあげるなら着彩したい気もするけど……でもそうすると今日は渡せないしなあ」
「いいよ、那智くんに任せる」
「でも、あんまり時間をかけると手放せなくなっちゃいそうな気がする」
「いつもそうなの?」
「ううん、渚くんを描いてるからだと思う」
憂いを帯びたような眼で那智くんは僕を見つめる。僕の胸はしめつけられるように切なくなる。
「那智くんはどうしてちゃんと思ったことを言葉にできるの?それってすごく勇気のいることだと思うけど」
「俺が母親から学んだことが二つあってね、そのうち一つは、伝えたいと思った言葉はそのときに云うってことなんだ。いつも次があるとは限らないから」
「もう一つは?」
「自分の心の声は自分にしか聞こえない。さっき渚くんに伝えたことだよ」
「そうか。素敵なお母さんだね」
「ありがとう。伝えてやれないのが残念だよ。俺が小六のときに亡くなったから」
「えっ」
「ごめんね、動かないでね」
僕は慌てて元の姿勢に戻ったが、突然のショックに思考が停止してしまった。
それからも那智くんはしばらくのあいだ鉛筆を走らせつづけていた。そのまま十分が過ぎた頃だろうか。あるところで彼は、ふと手を止めて云った。
「俺、本当は今の学校、入る気なかったんだよ」
「そうだったの?」
「うん、勉強なんか全然好きじゃなかった。でも、俺が勉強しないと母親が責められるから仕方なく」
「責められる、って」
「親父にね。俺を責めるなら分かるけど、何で母親を責めるのか理解できなかった。あんまりにも暴言がひどいから、黙っていられなくて何度か喧嘩したこともあったけど、あの人は俺の意見なんて聞かないから。あんな奴が卒業した学校、行ってやるもんかって思ってたよ。母親のために一応塾には行ってたけど、勉強の方はする気も起きなかった」
那智くんの母親は、交通事故で亡くなったという。十二歳の夏、夏期講習のために毎日のように塾に通い詰めていたある日のことだった。いつもは夜八時に車で迎えにくるはずの母親が、その夜はいつまで経っても現れなかった。不審に思った塾の事務員が仕事中の那智くんの父親に連絡をとってみたが、基本、送迎は母親に任せているという。そのうち来るのではないかと云われ、電話を切った直後のことだった。電話が鳴り、出てみると最寄りの警察からで、那智くんの母親の乗った車が事故に巻き込まれたと告げられたのだった。那智くんが事故の詳細を知ったのは、しばらく経ってからのことだ。横合いから信号無視をして突っ込んできた物流トラックに、那智くんの母親が運転する自動車は激突された。トラックの運転手は事故当時、持病で意識を失っていたものとみられ、病院で死亡が確認された。
「母親は可哀相な人だったよ。ずっと親父には責められて、俺には騙されて」
「騙されて、って」
「母親は俺がちゃんと勉強してるって信じてたんだよ。毎日テキストを見せて、今日はここまで進んだ、なんて報告してたけど……でも本当はテキストの答えを丸写ししてただけ。でも、それじゃ最後まで応援してくれてた母親に申し訳ないから。それからは心を入れ替えて、体調を崩しても、吐きながらでもとにかく勉強した」
僕はしばらく言葉が出なかった。
「それで……受かったんだ。すごいね。誰にでもできることじゃないよ」
「母親への償い、っていうか、供養みたいなものだよ。でもそれも高校まででおしまい。父親からは、美大なんて行って何になる、って今でも反対されてるけど、それならどこの大学にも行かないって云ったら、美術予備校の費用は出してくれたよ。周囲に対しては、息子のわがままを許す寛容な父親を演じてるってのが腹立つけど」
僕は那智くんの精神的な強さにただただ脱帽した。それからよく壊れずに生きていてくれたと思った。それまで僕は那智くんの聡明さや明るさ、そして絵の才能はすべて持って生まれたものだと、愚かにも思い込み、それを密かに羨んでいた。本当は、初めてスケッチブックを開いたときに感じていたはずなのに。優美で細やかな線のなかに潜む、何ともいえない哀愁と孤独の気配を。あの佐伯さんに見劣りしないほどの絵を描けるのは、喪失と痛みが彼の魂にしみついているからだ。与えられたんじゃない。傷ついて、乗り越えて、抗って、今も求め続けて、母に捧げる深い祈りを、祈りのまま保ちつづけて、彼は今僕の前にいるんだ。
「えっ、どうしたの?」
那智くんに云われ、僕は涙を拭うために袖を伸ばした。ハンカチを持っていなかったことを後悔したのは久しぶりだった。息苦しくて言葉を発することができないでいる僕に、那智くんはさっとポケットティッシュを差し出してきた。
「ごめん、同情を買おうと思ったわけじゃないんだよ」
「分かってる。何て云ったらいいんだろう」
突然母親を失った十二歳の那智くんを想像すると、確かに痛ましさを感じる。でも伝えたいことはそれじゃない。
「うまく云えないけど、那智くんを尊敬してる」
この言葉に那智くんは眼を見開いて、尊敬なんて、と呟いた。けれどほかにどう云えばいいのか僕には分からなかった。
それからふと、那智くんが傍らに置いたスケッチブックに気づいた。僕がいた。あの短時間で、ここまで描いたのかと僕は感心した。那智くんから見ると、僕はこんなふうに見えているのか、と思った。
「すごくきれいに描いてくれたんだね」
「あ……まだ途中だよ」
「僕、那智くんの絵好きだな。スケッチブックを見せてもらったときからそう思ってたんだよ」
僕はなんとか笑顔をつくった。
「何年か経ったら那智くんのお父さんに、那智くんの絵を見てもらいたいな。那智くんの絵はとてもきれいだから」
『美しいものは何よりも強い』
と教えてくれたのは佐伯さんだ。
『美しいものは刺さるんだ。しめつけるんだ。だから心に痕が残るんだ。美しさが痛みを与えて、痛みこそが美を生むんだ』
那智くんのお父さんのような人に話を聞いてもらうのはとても難しいことだと思うけれど、もしかしたらもうお父さんと那智くんの言葉が通じ合うことはないのかもしれないけれど、那智くんの生みだした美が、彼のお父さんのような人の足を止めることがあるかもしれない。
もしそうなったら、僕はとても嬉しい。
気がつくと隣に座った那智くんが僕をじっと見つめていた。
「何だか、渚くんてすごく……」
「うん?」
一昨日と同じ。あのときの眼だ、と僕は気づく。
「ねえ、渚くんが前に付き合ってた人ってどんな人だったの?」
「えっ、何……どうしたの、急に」
「知りたいと思ったから訊いてる」
今までにない真剣な空気に僕は若干身が竦んだ。
「半年前に別れたばかりって云ってたよね。それって、どうして別れちゃったの?」
「……どうして、いきなりそんなこと訊くの?」
「渚くんにすごく興味がある。何でも知りたいんだよ」
きみには分からない。その真っすぐな眼が、僕の体を、かたちを、すべてを刺すように見つめるとき、僕がどんな思いに駆られているか。
佐伯さんと付き合っていた。
そう打ち明けるべきだったのに、僕は声が出なかった。男を好きになってふられた経験があると那智くんは先に教えてくれていたのに、偏見を持つような人ではないともう分かっていたのに、あとちょっとのところで沈黙を破れなかった。
云えない。自分はこれまで女の子を好きになったことがないなんて、気がついたときにはいつも同性を眼で追っていて、それが恋にならないうちにいつも諦めてきたなんて、そして今このときもきみに惹かれているなんて、そんなことを云う勇気はどうしても出なかった。そして、佐伯さんの名前を僕が勝手に出していいのかというためらいもないわけではなかった。
「……僕のことを訊くんだったら、先に那智くんのことを教えて」
一瞬、那智くんは表情を曇らせたが、すぐに仕方ないという様子で微笑んだ。
「そうだね。でも、俺の恋愛話なんてひどいもんだよ」
「ひどい?」
「映画館で好きだった男の人にふられたって話をしたよね。長いあいだ、ずっと憧れてた人だったんだ。少しずつ近づいて、信用してもらえるように頑張った。ずっとその人を見てきた。でもあるとき、その人に好きな人がいるって分かって……それで、諦めるためにいろんな相手と付き合ったんだ。結局、誰のことも好きになれなかったけど」
那智くんは足許に視線を落とした。
「でもあるとき、その好きな人に俺の気持ちを受け入れてもらえたことがあって、本当に突然で、それが何でなのかは分からなかったけど……嬉しかった。ずっと思い続けていれば願いは叶うんだって思ったよ。でも違った。その人は俺と付き合おうなんて気は、さらさらなかったんだ。自分が都合よく扱われてたんだって知ったときはつらかった。体は繋がってても、心は通じ合ってなかった」
その言葉の意味を理解したとき、僕は気まずさに、自分の手を見つめるしかなかった。
「渚くんの番だよ」
僕はごくりと唾を呑み込み、手にしていたパンフレットの端をぎゅっと掴んだ。
「……僕はね、那智くんとは反対で……体すら繋がれなかった」
「どういう意味?」
「直前で拒否られちゃった、って感じかな。その人には目標があって、それを達成するまで僕には絶対触らないって約束だったんだ。でも……あるとき、その人がひどく追い詰められてたときがあって、突然その人に服を脱ぐよう云われたんだよ。びっくりした。ちょっと自暴自棄になってたみたいで。それが初めてだった」
「けどそれって……約束が違うんじゃないの?」
「そうなんだけど……僕の方はいつしても良かったから、嫌じゃなかった。むしろ嬉しかったよ。やっと本当に恋人同士になれるんだって気がした。それにその人、ちょっと頑張りすぎてたから、気持ちが落ち着くなら何でもしてあげたいと思って。……でも、僕の体を見た瞬間、その人は突然眼が覚めたみたいな顔をして、僕から離れていったんだ。まるで怖がってるみたいだった。最初はわけが分からなかったよ。何の説明もなく、帰ってほしい、って云われて。それきり、その人は僕に会おうともしなくなって、連絡がとれなくなった。たぶん、失望したんだと思う」
「失望?何でそんなこと云うの?」
佐伯さんは好きになったら性別なんか関係ない、きみはきれいだと云ってくれた。けれど、あの瞬間、佐伯さんは現実を見たのだろう。僕の体を見て、まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように、茫然とその場に立ち尽くしていた、あの佐伯さんの眼を僕は忘れられない。触れてはいけないものに危うく触るところだったというように、あの人は僕に背を向けた。
「意味が分からないよ、その人」
「でも、体だけ繋がったとしてもつらいこともあるんだって今、那智くんが教えてくれたから……だから」
あそこで何も起きなくて良かったんじゃないかって、今は思える、そう云おうと思っていた。
「ごめん、でもそれでも、那智くんが羨ましいって思っちゃう。一度でも、体だけでも、繋がれて羨ましいなって。馬鹿だよね」
僕の言葉に那智くんは、若干我に返った様子を見せた。
「ごめん……俺、無神経だった。急に自分のこと喋りすぎたし、渚くんにも立ち入りすぎたよね。どうかしてた」
「いいんだよ」
僕は涙を拭ききって、残りのティッシュを那智くんに返した。
「那智くんにならどんどん立ち入ってほしいもん。僕のこと知りたいって云ってくれたのは嬉しかった。ただ、準備が必要なだけ」
展覧会に向かう前、何故か那智くんは、
「やっぱりやめようか。ゆっくり夕飯でも食べて、早めに帰ろうか」
と云い出した。ただ、映画が始まる前に展覧会は今日が最終日だということを聞いていたので、それなら行った方がいいと僕は勧めた。
ホームで電車を待つあいだ、那智くんは、先ほど描いた絵を確認しながら、
「持ち帰って色をつけたら、渚くんに渡すからね」
と云った。楽しみにしてる、と答えたとき、電車の到着を伝えるアナウンスが鳴りはじめた。
電車で二駅のアートスペースに着いたとき、時刻は四時半を指していた。想像していたより小さな建物だったが、那智くんによると、毎年、全国各地から選ばれた五人の美大生の作品たちがここで展示されているということだった。
「全国でたった五人しか選ばれないの?」
「今年は多い方だよ。去年は三人だった」
受付で案内のチラシをもらい、奥へ進む。作品の保護のためにスペース内の照明が暗めだったことと、出入口付近が混雑していたこともあり、僕はチラシの表をぱっと眺めただけで、折り畳んだ。それよりも那智くんを見失わないよう後ろをついて行くことの方に僕は気を取られていた。来場者はいかにも美大生といった若い人か、芸術関係に身を置いていそうな大人ばかりで、僕は早々に自分が場違いであることを認識した。
「知り合いが会場に来てるかどうか確認してくるから、悪いんだけどちょっと一人で回っててくれる?用が済んだらメッセージを送るから」
受付を抜けたところでなぜか少し焦った様子の那智くんにそう云われ、僕は了承して彼と別れた。
展示作品は絵画だけでなく版画や彫刻もあり、どうやら壁二枚分が一人の作家に割り振られた展示スペースのようだった。
僕は水彩画を眺め、次に銅版画を眺めた。写実性を重んじるものも、幻想性の高いものも、緻密なものも、大胆なものも、僕は好きだ。僕は芸術をつくり出せないが、それを愛せる人間で良かったと思う。こういったものを眺めることで癒される人種で良かったと思う。
美しいものは強い。社会的な成功も、屈強な精神も肉体も、美しいものには敵わない。人間だけが美を崇め、美に囚われる。人間は汚いから、美に憧れる。美しいものに反応するのは人間であるあかし。
佐伯さんはそう語った。
那智くんには云えなかったが、僕は佐伯さんのアトリエに僕は数えきれないほど通った。あの人の絵は何枚も見てきた。
『佐伯さんの内面はきれいだよ。こんなにきれいな絵が描けるんだもん』
あのとき佐伯さんが描いていたのは、自画像だったと思う。佐伯さんは自分も含め、できれば人間は描きたくないのだが、課題である以上そうもいかないと愚痴を零していた。まったく、と僕は笑った。
『でも、人間じゃないと美はつくり出せないんじゃない?』
『そうだな。より多くの人間から美しいと思われるような絵を描くよ。美を追求しているうちは、俺も人間らしくいられる気がする』
絵に戻ろうとしていた佐伯さんは、ふと思い出したように、僕の方を振り返った。
『渚はきれいだよ』
『ありがとう。そう云い続けてもらえるよう頑張る。憶えておくよ。美が最強なんだね』
照れ隠しから、僕は軽口を叩くように云って帰り支度をはじめた。そのとき、佐伯さんは確かに一言呟いた。
『そうだな。もし、美しさに勝てるものがあるとしたら』
その続きを思い出そうとしながら、粘土の彫刻を見ている最中、もう会場の半分を過ぎていることにふと気づいた。一つ一つを見るのに、うっかり時間をかけすぎてしまったかもしれない。
那智くんから連絡が来ていないかと、携帯電話を確認しようとしたとき、少し離れたところから、僕を見ている一人の男性に気づいた。那智くんではない。
驚いたことにそれは佐伯さんだった。
どうしてここに?
見間違いかと思ったが、そうではないと本能が囁いていた。かつてと同じ、彼が放つ黒く真っすぐな視線に僕は射抜かれ、途端に僕は金縛りにあったようにそこから動けなくなってしまった。
どうしよう。知らないふりをすべきか、それとも挨拶をしに行くべきだろうか。でも一体、どんな顔をして、何を話せばいいのか。
もし、あのときのように突き放されたらと思うと恐ろしくて仕方がない。
佐伯さんがこちらへやって来るような素振りを見せたので、僕は息を呑んだ。だがちょうど同じタイミングで、佐伯さんに親しげに声をかける人たちが現れた。同じ大学の学生たちかもしれない。佐伯さんの視線がその人たちに向けられた瞬間、僕は動けるようになったので、その場を離れた。
会場全体がどういうふうになっているのか、そして再入場が可能かどうかを把握するため、受付でもらったチラシを開いてみる。そこで裏面の製作者の欄に佐伯さんの名前が載っていることに、今更ながらに気づいた。
どうしてこのことを那智くんは教えてくれなかったのだろうという思いが駆け巡る。那智くんの知り合いというのは、佐伯さんのことだったのだろうか。
佐伯さんと再度顔を合わせたときの気まずさを考え、僕は携帯電話で那智くんに、
【外へ出ているね】
と一言メッセージを送り、会場をあとにした。息苦しくてここにはいられなかった。
腕時計は午後五時を指している。外はようやっと夕方の気配が漂いはじめていたが、まだ充分に明るかった。
那智くんからの返信がなかったので、喉の渇きを覚えた僕は自販機を探すために歩き出した。そうして外の空気を吸って辺りの景色を眺めているうちに、若干冷静な思考が戻ってきた。
僕と佐伯さんの本当の関係を知らない那智くんが、気を遣わなかったからといって責めることはできない。むしろ一時期親しかった僕たちを、この機会にもう一度会わせてあげたいと彼は考えていたのかもしれない。
ようやく見つけた自販機で僕は小さなボトルの紅茶を買い、口をつけた。喉の渇きが癒されると、混乱していた気持ちが落ち着いてきた。
そういえば佐伯さんの展示を見ないまま、会場を出てしまったな、と気づく。
あの人は今どんな絵を描いているのだろう。果てしない闇と、まばゆい光が、一つの絵のなかに棲んでいるのがあの人の絵だった。孤独と懊悩を溶き混ぜた絵の具に、あの人のため息がかかる。いくつも眠れぬ夜を閉じ込めた黒曜石の瞳で、描く対象を見つめる。あの人は闇のなかで、光を生み出して描いていた。神々しい光を絵のなかに描き出すたびに、少しずつ少しずつ自分の心を削っていたのかもしれない。
アートスペースのすぐ近くまで戻ってきたとき、手前の細い路地から佐伯さんの声が聞こえたような気がして、僕は足を止めた。
「どうして帰れなんて云うんです?俺は絵を見にきただけなのに」
「だったら一人で来ればいい。どうして渚を連れてきた?」
自分の名前が聞こえてきてどきりとする。隣の建物の陰からそっと覗いてみると、那智くんと佐伯さんが向かい合って話をしている最中だった。
「あの喫茶店に通ってるんです。仲良くしてもらってるんですよ。佐伯さんと同じように」
佐伯さんは一度視線を逸らし、もう一度那智くんを見た。苛立っているときの眼つきだった。反対に那智くんは僕と対面しているときのように微笑んでいた。
「チケットを持って行ったな」
「はい。どうせあなたはもう行く気なかったでしょう。あんな心のこもった手紙をもらっておいて無視するなんて、最低ですね」
那智くんがこんな喋り方をすることにも驚いたが、手紙という言葉に僕はより衝撃を受けた。
那智くんはあの手紙を読んだのか。
僕は佐伯さんと連絡がとれなくなってから、一通の手紙を出していた。電話には出てもらえず、メッセージも無視されていたので、最後の手段としてとった方法だった。僕は店の珈琲チケットを自分で購入し、青いインクでしるしをつけてから封筒に入れた。僕がいないときでも佐伯さんがチケットを使ったら、店のレジを検めるときに、来たかどうかを確認することができる。つまらない未練がそんなことをさせた。これで何の反応もなければ本当に最後だと思った。そして事実、それが最後になった。
手紙には、この前あったことは気にしていない、それより一言だけでも連絡がほしい、という旨を書いた気がする。
「さっき佐伯さんの絵を見ました。どれも素晴らしかったです。特に最後の絵。あの絵だけ、人が描かれていましたね」
「だったら何だ」
「あれ、渚くんでしょう?」
佐伯さんはぎょっとした様子で那智くんの顔を見た。
「やっぱり渚くんがあなたのミューズだったんですね」
「渚のことをお前と話す気はない。関係ないだろう」
「関係ありますよ。俺はあなたにされたことで傷ついてる。俺が忘れると思いますか?渚くんもですよ。もしかしたら彼の方が傷が深いかもしれない。分かるでしょ」
ざりっという音がして、那智くんが佐伯さんに詰め寄っていった。
「どうして渚くんを抱かなかったんですか?」
佐伯さんは信じられないというような眼で那智くんを見た。
「渚くんはあなたの名前は出しませんでしたよ。でも半年前にそれまで付き合ってた年上の人に振られたっていうのは聞きました。その人、セックスする直前で渚くんを放り出したそうです」
那智くんはもう笑っていなかった。
「渚くんと付き合ってたんでしょう?」
僕は那智くんが佐伯さんに暴力をふるうのではないかと心配しながら様子を見ていた。出て行くべきなのかもしれなかったが、余計にこの場がこじれそうな気もしていた。
「誰か大切な人ができたんだなってことは、あなたや、あなたの絵を見ていて気づきましたから。ショックだったけど、あなたが幸せなら構わないと思った。同時に、あなたみたいな人の心を掴んだのがどんな相手なのか、それはすごく気になってました。でもまさか行きつけの喫茶店の店員だったっていうのは、驚きでしたけど」
佐伯さんは沈黙を続け、そのあとで低い声で絞り出すように那智くんに云った。
「お前には悪かったと思ってる」
「あなたが渚くんを突き放したのと、俺と寝たのとどっちが先なんですか?」
「お前とのことの方があとだよ」
やっぱりそうかというような表情で、那智くんは眼を伏せた。
「俺があなたを好きだったこと、知ってたでしょう?あなたはそれを利用したんだ。俺はその理由が知りたいんです。どうして恋人の渚くんを拒んで、俺と寝たのか。渚くんと最後までしていたら、俺は必要なかったんじゃないですか?」
僕は胸が潰れそうになった。僕が佐伯さんのことを知るずっと前から、那智くんは佐伯さんに恋をしていたのだ。
「云い訳する気はない。俺は気が動転してたんだよ。実技の試験日が差し迫ってたのに、何を描いても気に入らなくて、普段なら気にならない周りの声がやたらプレッシャーになって。精神的に参ってたんだ」
「それは渚くんを抱こうとした理由ですよね。でもできなかった。どうしてですか?」
それに答えるには、恐らく多大な痛みを伴うのだ。そう云いたげに佐伯さんは那智くんから視線を逸らした。
「お前なら分かるだろう。お前は俺と同じだから」
「何ですか、それ」
「渚を見ていてどう思った」
一瞬ためらうような間があった。
「いい人ですよ。律儀で真面目で優しくて、いつも誰かを気遣ってる。それに」
「それに?」
「彼は俺のことで泣いてくれた。そんな人はいなかったから……すごく純粋なんだなって思いました」
「それだよ。俺が触っていいものじゃない、と思った。美しいだけなら直視できる。でも無垢なものは、俺は数十秒と見ていられない」
佐伯さんは苦しげに深く息を吸った。
「俺が最も敗北感を覚えるのがどんな絵か分かるか?幼稚園や保育園で子供たちが描くような絵だよ。ルーブルやオルセーでどれだけ完璧な美を目の当たりにしても、あれほどの敗北感は受けなかった。でも、子供の絵画展の会場に放り出されたら、俺は胸が痛くて立っていられない。それと同じ痛みを、あいつを見たときに感じたんだ。俺を一ミリも疑わずに、全部を明け渡そうとしてくる眼。そんな無傷で、柔らかい心を犯せないと思った」
話しているのがほかの誰かだったなら、僕はこんな理由を信じなかっただろう。けれど、これが真実だと僕は直感的に思った。あの冬の日には汲みきれなかった佐伯さんの絶望を感じた。
「あなたらしい理由ですね。たぶん、普通の人間には理解できないと思います」
「お前一人が分かってくれればいい」
「それで、俺にしたことはどう償ってくれるんです?」
那智くんの言葉に対し、佐伯さんは掌を上にして那智くんに両手を差し出した。
「俺が持っているもののなかで、大事なのはこれだけだ。指を折るなり、爪を剥ぐなり好きにしたらいい。何なら場所を変えよう」
「そんなことしたら、しばらく絵が描けなくなりますよ」
「お前が俺にしてくれたことに較べたら、大したことじゃない」
僕はぞっとして、その光景を注視した。まさか、そんなことを那智くんができるわけない。
那智くんは佐伯さんの右手を握り、指を絡ませている。
「あとで訴えないでくださいね」
「証拠を残しておくか?」
僕はもう少しで出ていって彼らの手と手を引き離すところだった。
僕は純粋だったわけじゃない。傲慢だっただけだ。
試験前日、僕は差し入れを持って佐伯さんのアトリエを訪れた。
いつもは整然としている佐伯さんの聖域が、その日はひどく散らかっていた。カンヴァスやイーゼルが倒れ、スケッチブックやクロッキー帳、絵筆、鉛筆、その他画材道具があちこちに散乱している。その日はとても寒かったのに、佐伯さんは暖房もつけずに、床にうずくまっていた。
『明日はだめだ。俺には才能なんかないんだよ。頭の中が重くて何も描けないんだ』
何云ってるの、とは呟いたものの、言葉が通じるような状態ではないとすぐに僕は悟った。少しでも気分が落ち着くようにと、僕は佐伯さんの手を握り、それから背中をさすった。
いつも祈るように絵を描く佐伯さんの背中が、僕は好きだった。けれど、祈りの深さは呪いの深さにも通じているから。兄の背中がいつからか呪いに満ちて、自らを蝕んでしまったのを僕は見ていたから。佐伯さんが兄のように壊れることを恐れて、ふるえる背中をさすった。それがそもそものきっかけだったのだ。
服を脱ぐように云われたとき、僕はそれでこの人が救われるなら構わないと思った。今、僕が手を差し伸べなければこの人は明日を乗り越えられない。そうなったら、この人は絵を描くことに、美を追求することに自信を失ってしまうのではないか。いや、佐伯さんのような人は描くこと自体をやめてしまうのではないか。
愚かにも僕はそう恐れていたのだ。佐伯さんの強さを信じなかった。
『あなたなら、できる』
そう云うべきだったのに。
那智くんは佐伯さんの中指を掴んでいた。折られる、と思ったとき、
「俺があなたにしてほしいことは一つです。渚くんとちゃんと話をしてください」
という声が聞こえた。
「さっき、俺に対して、悪かった、って云いましたよね。そう思うなら、もう一度渚くんを捕まえて、話をしてください。そして今度こそ、彼の望みを叶えてあげてください。今のあなたならできますよね?」
次に眼を向けたとき、那智くんは佐伯さんの手を放していた。
僕は握りしめた拳に汗が滲むのを感じながら、その光景を見つめていた。
その場を立ち去ろうとする那智くんに向かって、佐伯さんが名前を呼びかけた。
「お前、渚と付き合ってるのか?」
那智くんは首を振った。そして、別の出入口から建物のなかへ戻ってしまった。
那智くんはしばらく店にやって来なかった。
あの日、那智くんは僕の携帯電話に、
【体調が悪くなってしまったので、申し訳ないけれど先に帰ります】
というメッセージを送ってきたきり、姿を見せなかった。
数日経ってから僕は勇気を出して那智くんに体調はどうかとメッセージを送ってみたのだが、返信がきたのは二日経ってからだった。先日の詫びとこの前は楽しかったこと、今後は秋にかけて画塾の課題が忙しくなるからとの旨が書かれていた。僕は、もしかすると那智くんとの繋がりがこれきり絶たれてしまうのではと不安を感じていた。
那智くんは、僕の傷の方が深いと佐伯さんに話していたけれど、僕には那智くんの方が僕なんかよりずっと苦しみが深いように思う。
僕はまだ体だけで繋がる痛みも虚しさも知らない。知らないことより、知っていることの方がつらい。経験がないより、あることの方が悩みは深いと思うのだ。
そしてメッセージから三日後、僕のもとへ一通の手紙が届いた。夕食の前に、
「あんた宛てよ」
と、母に差し出された水色の封筒の裏面を見たとき、僕は心臓がはね上がった。差出人は那智くんだった。
母に詮索されないよう落ち着いて食事を済ませ、二階に上がってから僕はそっと封筒を開けた。
中には携帯のメッセージとは違う、改まった文体の三枚の手紙が入っていた。
【時丘渚様
この前はメッセージをありがとう。
どうしてきみの住所を知っているか、不思議に思うと思いますが、その事情も含めてここの記します。
実は、渚くんに謝らなければいけないことがあります。
僕が店で使っていた珈琲チケットは、本当は佐伯さんのアトリエから勝手に持って行ったもので、佐伯さんが僕にくれたと云ったのは嘘なのです。
それともう一つ。珈琲チケットと共に、渚くんが佐伯さんに宛てた手紙を僕は読んでしまいました。
佐伯さんは試験日を終えたあとも卒業式までの数日間、ずっと学校を欠席していました。三月の卒業式前日、どうしても心配で訪ねて行ったときに、アトリエであの手紙を読んだのです。あの日、僕と佐伯さんのあいだに何があったのかは、佐伯さんから聞いてください(渚くんに連絡をするよう、佐伯さんには僕から話してあります)。
あの手紙を読んで、僕は渚くんの存在を知りました。
正直に書きます。僕はずっと佐伯さんのことが好きでした。忘れもしない中学一年生の五月、初めての学校祭で、僕は佐伯さんの絵を見ました。母親を失ったばかりの僕の心に、どんな慰めの言葉よりも深くしみ込んでいったのは、ほかでもない、あの人の絵でした。今思うと、その絵を見た瞬間から、佐伯さん本人に出会う前から、僕はきっとこの絵を描いた人を好きになると分かっていた気がします。
あの人と同じものを見たくて、美術部に入り、以来僕はずっと佐伯さんの傍にいました。あの人がいなかったら僕は、絵が好きだった気持ちを思い出すことはなかったと思います。母の名誉のために入った学校ではあったけれど、この先何を目標に生きていけばいいのか分からなかった僕に、あの人は道を示してくれました。佐伯さんも僕もあの学校では異端者で、でも、僕は彼と同じ異端者であることを誇りに思っていました。
そんな僕だから、佐伯さんの変化にはわりと早い段階で気づいていたことも、分かってもらえると思います。
渚くんは自分のことをつまらないなんて云っていたけれど、絶対にそんなことはありません。
人間嫌いだった佐伯さんが、裏表のない善意や見返りを求めない優しさを信じるようになったのは、きみがいたからに違いないのだから。
僕はきみに出会う前の佐伯さんの絵と、出会ったあとの彼の絵の両方をよく知っています。
あの人の描き出す美には突き刺さるような孤高の雰囲気があって今もそれは失われてはいないけれど、いつからかそこに柔らかい光が宿るようになったのです。
初めはそれがどうしてなのか分からなかった。それが誰かとの出会いによるものだと気づいたとき、僕は寂しさと、その以上の嬉しさを感じました。佐伯さんがよりよい絵を描くこと、この息苦しい世の中を捨てないでいてくれることが、僕は嬉しかった。
詮索や干渉を嫌う佐伯さんですから、僕は何も訊かないでいましたが、彼のような頑なな人の心を変えた人がどんな人なのか、僕はずっと会ってみたいと思っていました。
思っていた通り、いやそれ以上にきみは美しい魂の持ち主でした。あんなにきれいな涙を僕は見たことがない。渚くんの眼差しや微笑みは、それだけで人を癒す力があります。でもどうか分かって下さい。人によっては、そういった清らかなものを前にしてどう振る舞えばいいか分からなくなってしまうことがあるのです。温かみを覚え、癒されるのと同時に、圧倒的な敗北感も与えるのが、きみの清廉さなのです。
佐伯さんが崩れたとき、あの人の支えになれたと思った直後に、僕は渚くんの手紙を見つけて、すべてを知りました。僕はきみの代わりにされたのかと傷つき、長く好きだった分深い憎しみに陥って、手紙とチケットを盗みました。すぐに罪悪感に駆られたけれど、結局返すこともしないでいたのです。
僕が渚くんを傷つけようとか、騙そうなどと思って会いに行ったわけではないことは信じてください。
店に行ったのは、時丘渚という佐伯さんの秘密に会ってみたかったから。それは純粋な好奇心でした。佐伯さんの名前を出したとき、きみの眼に悲しみの色が広がっていくのを見て、ああ、僕たちは同じ傷を共有しているんだ、と気づきました。
そしてもっと話をしたい、この人を知りたい、と思っているうちに、いつのまにかきみと友達になってしまったんです。そして今は、もう少し踏み込んだ気持ちできみを想っています。
展覧会でのことはうまく説明できません。僕はあの会場で佐伯さんと渚くんを引き合わせるつもりでいました。どうしてだろう、きみを傷つけたいなんて、これっぽっちも思っていなかったのに。
僕がきみの傷を知っているように、きみにも僕の傷を知ってほしかったのかもしれない。崇拝していた佐伯さんという天才の後悔する顔を見たかったのかもしれない。そして本当はただ、三人で会ってみたかっただけのような気もします。
でもきみの涙を見たときに、自分の考えていることの浅はかさと愚かさに気づいて、僕は結局会場で一人、佐伯さんと対面しました。
僕の方の問題はそのときに片付いています。渚くんも佐伯さんとどうか話をしてみて下さい。
そしてそのあと、きみがもう一度、僕と会いたいと思ってくれたら、それがどんな理由からであっても僕は嬉しいです。
今は毎年九月に開かれている画塾の展覧会のために、作品をつくっています。この世は既に数えきれないほどの美に溢れているから、自信を失うこともあるけれど、やっぱりそれでも表現する側でいたいと思うのです。目途がついたら必ず連絡を入れます。碧川那智】
七月の期末試験が終わると、もう夏休みだった。僕と理央が夏休みに入ったことでようやく店長は日中のワンオペ勤務から解放された。八月の後半には奥さんが帰ってきた。
あの手紙をもらったことで、いくら絶望しなかったといっても、那智くんに会えるものなら会いたいと、僕は願っていた。なるべく夕方に差しかかるようにシフトを入れて、那智くんが店にやって来やしないかと、夏休みのあいだじゅう待っていた。だがよく考えてみれば夏休みのあいだは、時間を潰すために店へ立ち寄る必要がないのだから来ないのも仕方のないことだった。せめて店の前を通りかかりはしないかとも思ったが、とうとう那智くんを見つけることはできなかった。
那智くん以外のことについて云えば、夏休みに入ってすぐ、僕は兄と電話をした。云いたかったことを云うためだった。
「僕のことを嫌っていないのなら。もっと話がしたい」
それが僕の願いだった。
「いきなり何だ」
「いきなりでも何でもいいから答えてよ」
僕の詰め寄りに対し兄からは、嫌ってなんかいない、という答えが返ってきた。それから、ためらいがちにこうつづけた。
「けど、俺が話せることなんて何もないんだよ。これまで勉強しかしてこなかった。ほかの奴等が小学校や中学校のときに楽しんでやってきたことを俺は何一つ知らない。今だって大学で英文学を学んでるけど、これが楽しいなんて思ったこと一度もないんだ。そもそも、楽しいとか面白いとか、そういう感情が俺は鈍いんだ。だからお前と話しても、楽しませてなんかやれないと思う」
「別にいいよ。そういうふうに、今みたいに話してくれるだけで充分だよ」
兄は、そうか、と云ってかすかに笑みを漏らした。兄が笑うのを聞くのは何年ぶりだろうと思った。それから話題は両親のことに移った。
「父さんと母さん、離婚すると思う?」
僕は訊いた。
「たぶんな。お前が高校を卒業したら、そうなると思う」
「今でも母さんを許せない?」
「うん、会いたいとは一ミリも思わないな」
兄は静かに云った。怒りと憎しみの境地はとっくに過ぎ去っていて、もちろん親を嫌う罪悪感などにも駆られてはいなかった。兄にとってはもうどうでもいいことなのかもしれない。
「血が繋がってたって、人間、それだけで分かり合えるわけないんだ。けど、ほんの少し、分かろうとしてくれるだけで大分違うんだよ。そうすれば違う未来があったかもしれない」
兄と電話をしたその数日後に、信じられないことが起きた。母が新たにどこからかもらってきた英会話塾や進学塾のパンフレットのなかに、『珈琲アカデミースクール』や『スイーツ&カフェ専門学校』のそれがまぎれ込んでいたのである。
母にどんな心積もりがあるのかは知らない。進路については電話で兄に悩みを話していたが、今でも母を嫌っている兄がわざわざ電話をするとは思えないし、母は自分を省みるような人間ではない。一番考えられるのは、兄が父に僕のことを話し、父が母に電話をしたという流れだが、本当のところは僕には分からない。母は何も云わないし、僕も何も聞いていない。それに兄には喫茶店でのバイトは楽しいと伝えたけれど、別にカフェのオーナーに憧れているとか、自分の店を持ちたいなどと云ったわけではない。だから見当違いといえば見当違いなのだが、それでも少し、僕のことを分かろうとしてくれた証拠なのだろうかとは思っている。
夏休み中の一番衝撃的だった出来事といえば理央のことだ。
あれは八月の半ばに学校の友達三人と、ボウリングに出かけた帰りのことだ。本当はボウリングなどさほど興味はないのだが、きっと来年はもっと忙しくなるのだろうし、そうなればなかなか出かけることもなくなるだろうと、友人からきた誘いに応じた。四十日間ある休みのうち一日ぐらいは、気心知れた、退屈な仲間と会うのもいい。
ボウリング場を出て、近くのカフェのテラス席で友人たちと会話をしていたところ、なんとなく僕は視線を感じた。さりげなく辺りを見渡してみると、少し離れたところから黒い服、いや、黒いドレスを着た女の子二人がこちらを見ている。そのうちの一人は、何だか見覚えがあるような気がした。いつだったか、電車で見かけたゴスロリの子にも、こんなふうに見られていたな、と思い出したそのとき、彼女がつかつかと僕たちの方へ近づいてきた。
「時丘さんじゃないですか。こんちは」
その声を聞いて僕はぎょっとして立ち上がった。
「理央?えっ……理央なの?何、そのカッコ」
「あー時丘さんなら絶対そういう反応すると思った」
「いや、何で……何でそんな服着てるの?」
「可愛いでしょ?今、彼女とデート中なんです、時丘さんは?皆さん、友達?」
「う、うん……」
ちらりと友達三人の方に視線を向けると、全員呆気にとられた様子で固まっている。突然現れたゴスロリ女装男子にどう反応していいのか分からないようだった。そこへあとからやって来たもう一人の子が理央の後ろから顔を出した。
「こんにちは、この人がりおちーの先輩?ここなです、宜しく」
意外にもきちんと挨拶をしてきた理央の彼女は、僕の手を両手で掴んだ。どの爪にも十字架やハート、天使の羽などのモチーフ隙なくデコレーションされていて、すごいなと思う。
「あ、はあ、どうも……」
「彼女、ゴスロリ好きなんですよ。で、俺にも同じカッコしてほしいって云うから」
「りおちーなら絶対似合うと思ってたんだよねー。あ、良かったら写真見てくださーい。この前のプリ画像かなり盛れたからめっちゃ気に入っててー」
理央の彼女はうさぎの耳がついた携帯電話を僕に見せてきた。画面のなかでは、今日とはまた別のドレスを着た理央と彼女がカメラ目線で抱き合っている。つまり、理央の彼女はゴスロリを着た女の子同士のカップルに見られたい願望があり、理央はそれに何の抵抗もなく応じているということか。
「これ、何か……眼大きくない?」
「え、ふつーじゃない?で、こっちがチュープリでー」
次々と見せられた数枚のカップル写真に僕はあまりの衝撃に絶句した。すごい世界を見てしまったと思った。
「まあ、でも実はこのカッコで時丘さんと会うの初めてじゃないですよ」
「えっ?」
「五月か六月ぐらいに、俺一回、時丘さんのこと電車のなかで見かけてるんですよ。まったく気づかれなかったけど」
僕はあっと思った。さっき、どこかで見たように感じたのは、やはり気のせいではなかったのだ。
「それだけりおちーが完成度高かったってことじゃない?」
「それな。じゃ、俺らこれからイベントなんでー。お疲れっす」
「あ、うん、気をつけてね……」
「ばいばーい」
去って行く二人の後ろ姿は、どう見ても女の子同士にしか見えなかった。
以前店で、僕が男と付き合うことについてあれこれ質問したとき、それなら試してみるかと理央には訊かれたが、あれに応じていたらどうなっていたのだろうと、今でもたまに考えることがある。
理央たちが去ったあと、友達の一人が、
「渚ってどんな喫茶店でバイトしてるんだっけ?」
と訊ねてきたのも無理からぬことだと思った。
そして佐伯さん。そう、僕は七月の終わりに佐伯さんに会った。
「久しぶり」
と云うと、先に来ていた佐伯さんは、うん、と答えた。呼び出されたのは都内にあるホテルのラウンジカフェで、落ち着いて話ができそうだったが、高校生が入るようなところではない。
「大学生になると、みんなこんなところでお茶するんですか?」
「たまにだよ。静かだから、気に入ってる」
値段が高いのは仕方ないと諦めて、僕は佐伯さんと共に珈琲を注文した。
「この前の展覧会で声をかけられたときは、びっくりしました」
「あのときはゆっくり話せなくて悪かった」
「それはいいんです。元気そうで安心しました」
僕はあの日の那智くんと佐伯さんの会話を聞いてしまったことを、どう話すべきか考えていた。
「そうだ、この前の展覧会の絵、とても素敵でした」
「そうか」
あの日、どうしても佐伯さんの絵が見たいと思い、僕はもう一度、あの彫刻の前まで戻ってきた。佐伯さんの作品は会場の一番奥に展示されていた。
僕はやはり佐伯さんの絵を美しいと思った。
最後に見た絵の中には、誰かの後ろ姿が描かれていた。首から背中に向かう三つ星。
あれは自分なのかと今、佐伯さんに訊いてみたかった。でも訊かなかった。あれは僕だと信じていたかったから。佐伯さんが初めて僕を最後まで描いてくれたのだと思いたかったから。
会場で絵を眺めていたとき、佐伯さんが僕を呼び止めた。さっきよりもずっと近くで。
『お前にしたことを謝りたいんだ』
挨拶もなしに、いきなり本題に入るところが佐伯さんらしいといえばそうだった。僕は途惑いながらも、もう昔のことだから気にしないでと云った。しかし佐伯さんは、
『どうしても時間をつくって話したい』
という。そうでないと那智くんとの約束を果たしたことにはならないと考えているのだろう。だが忙しい佐伯さんと予定が合うのは、ひと月後だったというわけだ。
給仕係がやってきて、珈琲と共にサンドイッチやケーキが乗ったアフタヌーンティースタンドを置いていった。頼んでないのに、と僕が驚いていると、
「予約しておいた。昼、まだだろ」
と佐伯さんが云う。
「美味しそう」
そう云って僕はまず珈琲を口に運んだ。それを見届けた佐伯さんが、
「あのときは悪かった」
とふいに呟いた。
「連絡をくれてたのに、ずっと返事もしていなくて。勝手だったと思う」
僕は笑った。
「いいんです。あのときはショックだったけど、僕が男だから拒絶したわけじゃないんでしょう?」
「当たり前だろう」
「それが聞けただけで充分です」
それから僕と佐伯さんは過去のこと、そして現在のことを、少しずつ話していった。僕は出会ったころのようにあくまで敬語を保った。僕たちは別れた今、初めてデートらしいデートをしていた。
佐伯さんも現在、九月下旬に行われる学祭で展示する作品の製作中ということだった。
「じゃあ今はとても忙しいんじゃないんですか?」
「うん、まあ大事なことが済んだから、完成に向けてより集中できそうだよ」
僕と会うことを、大事なこと、と云ってくれたことが僕は嬉しかった。
「そう云えば進路、もう決めたのか?」
「はい、今通ってる藤咲の大学へ進むつもりです。経営学を学ぼうと思って」
「渚が経営学?なんか想像つかないな」
「実は今、喫茶店の経営にすごく興味があるんです。だから専門学校に進むことも考えたんですけど」
母親がテーブルの上に置いていたあのパンフレットは、じわじわと僕にその道を意識させた。
僕は誰かが休める場所をつくりたい。誰かが寄る辺なさを感じたとき、思い出してもらえるような。
「もし本当に店を出すことになったら、開店祝いに絵を贈るよ」
「え、嬉しい。今の言葉の証文をとっておこうかな。あなたは近い将来、すごく有名になるだろうから、忘れられたら困りますもん」
「忘れないよ」
その約束がどんなに僕をやる気にさせるか、この人はまるで意識していないのだ。この約束を守るためだけに店を開いてもいいんじゃないかという気さえしてくる。
帰る間際になって、実は最近那智くんと会えていないということを漏らした。
「九月に画塾の展覧会があるって聞いているんですけど、それって僕が見に行ってもいいと思いますか?」
「問題ないよ。去年だって、来ただろう。関係者じゃなくても入場できる」
「いえ……那智くんから来てくれと云われたわけではないので、迷惑にならないかなと」
「お前、那智のつくったもの、見たくないのか?」
「それは……見たいです」
「那智に会いたいと思ってるだろ」
「はい」
「だったら行けばいい。去年もそうだった。行っても迷惑じゃないか、ってお前が訊くから俺は、来たいなら来い、って云っただろう。どうして迷惑がられると思うんだ。相手の方は、お前が行きたいって云うのを待ってるかもしれないのに」
ほんの少し怒ったような声に、僕はちょっと驚いていた。
駅で別れるとき、僕は佐伯さんを呼び止めて、
「今度は三人で会いたいです」
と告げた。佐伯さんは分かったというふうに頷いた。そのときの表情が少し笑みを浮かべているように僕には見えた。
「そうだ、那智に会ったらチケットはやるって伝えておいてくれないか。そう云えば分かるから」
新学期がはじまって夏休み気分が抜けたころ、那智くんの画塾の展覧会があった。
九月の中旬だというのに、その日の気温は真夏とさほど変わらなかった。僕は汗を押さえながら会場に向かった。
会場は夕方の五時まで開いているということだったが、誰よりも早く那智くんの絵を見たいという気持ちから、午前中に家を出た。
そこまで混むとは思わずに来たが、既に数人会場前に並んでいる人がいる。どこかに入って待つほどでもないので、僕はそのまま待つことにした。屋根があるところで助かったと思う。
僕の前には二人組の男の子が並んでいて、いろいろな美術予備校の展覧会を見て回っているという会話をしていた。会話の内容からしてまだ中学生のようだった。彼らの口からは画家の名前がするすると出てくる。彼らはお互いに向かってというより、周囲に向かって自分たちの会話を見せている感があった。自分たちはほかとは違うんだという、痛々しいほどのいびつな自我。何者をも恐れぬ傲慢さ。好きだというだけで、全速力で走れるバイタリティと純真さ。
頑張れ、と思ったあとで、僕は視線を日陰に向ける。
どうかひたむきに夢を見つめてほしいと思う。でも同時に大きく傷ついてほしいとも思う。
その考えに、自分は少し変わったのかな、と思う。
会場の扉の脇に佇み、午前中の陽の光に照らされる窓の外の景色を見ながら、僕は那智くんの孤独と息苦しさについて思いを馳せた。
一番近しい人の死と、同じぐらい近しいはずの人の無理解。
そういうものがもし那智くんに降りかからなかったら、と思う。
そうしたら那智くんは、今より幸せだっただろう。でも、もしそうなら那智くんは絵を描いていなかったんじゃないだろうか。
向かいの店の脇に咲く彼岸花の赤が眼に入る。灼熱の陽の下で、必死に秋を呼んでいる。
「渚くん」
ふいに声がかかり、途端に僕は自分の渇きが癒されるのを感じた。その声はまぎれもなく、那智くんのものだった。
「……那智くん」
「来てくれたんだね。三階から入口を見下ろしたら、すぐに分かったよ」
那智くんが僕を見つめてくれることで、僕に変わらない笑顔を向けてくれることで、体のなかに何物にも代えがたいエネルギーが注ぎ込まれていく。
那智くんはごく自然に僕の手を取って、こっち、と云って歩き出した。そうして建物の裏口から僕を中に入れ、階段で展示室まで案内してくれた。
「いいの?入って」
「大丈夫。身内だって云うよ。渚くんが一番に見てくれたら、すごく嬉しい」
那智くんは階段を上りつづける。この背中を見ていたら、どこまででも一緒に行けそうな気がしてくる。
「那智くん、手紙をありがとう」
那智くんはちょっと足を止めて、僕を振り返った。
「手紙なんて初めて書いたよ。ほとんど一日かかっちゃった」
「そうなの?」
「うん、途中で便箋切らして買いに行ったもん」
那智くんは苦笑した。
「でも、ラブレターを書くときは誰だって緊張するでしょう」
「えっ」
「着いた。三階だよ」
階段の向かいの大きな部屋が那智くんの作品が置いてある展示室だった。展示室の入口には『油絵科コース』という貼り紙がしてある。室内には、画塾の生徒たちがいて、受付でおしゃべりをしていた。
「那智くん、ここって……」
「あそこ。奥の三枚。見てきて」
那智くんは絵の具の匂いに満ちた部屋の奥を指差すと、仲間がいる受付の方へ行ってしまった。
この部屋にある作品はすべて油絵だった。立体作品やそのほかのものは一切置いていない。
ああ、那智くんは自分の愛した油絵に戻ったのだ、と僕は理解した。
そして那智くんの展示作品の前に来たとき、僕は呼吸が止まりそうになった。
眼に飛び込んできた絵の色彩が、鮮やかにゆっくりと僕の心臓を締めつけていく。美の生命力に魅せられる。これでもかというほどの色彩の花びらのなかに、光の波のなかに、僕は引き込まれた。舐めるように、胸に沁みつけるように、一枚一枚の絵を眺めて歩く。ふと眼にした、碧川那智、という名前が、僕の胸を軋ませる。
僕は色彩の洪水と、四文字の名前に満たされて、もう少しであふれてしまうところだった。
「笑ってよ。そのために描いたんだよ」
那智くんが隣にやってきて、眼のなかに涙を溜めている僕を見つめた。
ふいに僕は理解した。
僕たちはいつでも、何をしても、何を手に入れても、完璧に満たされることはないのだと思う。不幸はやってくる。終わらない恋なんてない。決して理解し合えない人に出会う。望まない変化に晒される。自分を疑う。
この世界にある何もかもが不確かだからこそ、きみは何かをつくり出そうと思えるのだろう。自分の内側にある美しいものをすくい取って、描く。
だからこそ、僕はきみの傍にいたいと思う。
きみが孤独にふるえるとき、その手を握ってあげられるように、きみが涙をこらえるとき、共に涙を流してあげられるように、きみが傷ついたとき、その血を舐めてあげられるように。
この世界はきっと、今の僕が知る以上に、不安定で不条理で不幸だからこそ、恐れないために、生き抜くために、愛し合う必要がある。
僕は涙を呑み込んで、唇をかみしめて、笑顔をつくった。
いつのまにか、ほかの来場者たちがぞくぞくと会場内に入ってきていた。
「渚くんを描いた絵も、ちゃんと仕上げてあるんだよ」
「ほんと?嬉しい」
「今度、会おう。持ってくるから」
それから、那智くんは僕の指をそっと握った。
「今度は渚くんの背中の星を描きたいな」
僕は照れて顔をくしゃくしゃにして笑う。
その尊い瞬間、僕はもしいつか本当に、自分が喫茶店を開いたら、と想像していた。
もし許されるなら、佐伯さんの絵と那智くんの絵を一緒に飾ることができたら、と思う。
店を開くなんて、今は現実味のない、本当に小さな思いつき。
けれど、
「将来の夢は?」
と云われてもぴんとこない僕の、それが唯一、望みに近いもの。
それが今の僕のなかで一番夢に似ている光景。