その翌日、僕と那智くんは店がある駅の改札口で待ち合わせをした。梅雨晴れの陽射しの強い日だった。混雑しているにも関わらず、改札を出たところで那智くんはすぐに僕を見つけてくれた。
「時丘くん」
 振り向くと制服の上着を脱いで、白いシャツの袖を折っている那智くんがいた。
「あ……ごめん、もしかして、待たせた?」
「大丈夫。俺もさっき着いたとこだよ。今日ちょっと暑いねえ、行こっか」
 混雑する駅舎を出るまで、僕は那智くんの後ろをついて行くかたちになった。

 クロッキー帳のメモをもらった昨日の夜、僕は店から家に帰る道すがら、那智くんにメッセージを送った。どういう文章を打つか迷ったけれど、連絡するなら早い方がいいと思い、駅で電車を待つあいだに極力シンプルな一文を送信した。
【こんばんは。メモを見ました。今日は声をかけてくれてありがとう。 時丘】
 那智くんからの返事は電車を降りる直前に送られてきた。
【こちらこそメッセージありがとう!忙しいのにごめん】
 もう家に帰っているのかと訊かれて、ちょうど帰り道だと返すと、
【それなら家に着くまで、少し話さない?その方が早いし】
 と云われた。僕は通話が嫌いではないので、二つ返事で了承する。数秒後に那智くんの方から電話がかかってきた。
 そして、最寄り駅から自宅までの約十分の道のりのなかで、僕はすっかり那智くんのペースに巻き込まれてしまった。初めは店員としての対応が抜けきらなくて敬語を交えていたが、そのうち僕も学校にいるときのように喋るようになった。那智くんも画塾からの帰宅途中だという。
 僕の働く店と那智くんが通う画塾があるS駅は、二本の路線が乗り入れている。路線図を見ると僕の使う路線と那智くんの使うそれは、ちょうどS駅で交差するかたちになっていた。
「S駅からいくつめの駅で降りるの?」
「二つ目。そこから歩いて十分くらいだよ。那智くんは?」
「へえ、俺も同じ。じゃあ大体一緒の時間帯に家に着くかな。ねえ、この時間になると腹減らない?喫茶店だとまかないとか出るの?」
「たまにね。でもうち、食事はサンドイッチぐらいしかやってないから、滅多にないよ。だから大抵は家まで我慢」
「へえ、偉い。俺なんか、ついついコンビニ寄っちゃうんだよね。ホットスナック大好きだし。あとたまに冷凍チャーハンとかも買う」
「へえ、そうなんだ。僕、あんまり食べたことない……」
「えー寄り道したりしないの?」
「うん」
 最寄り駅から自宅までの距離は徒歩十分程度なので、途中にコンビニはあるけれどあまり利用することはない。僕の母はコンビニ嫌いで、幼い頃から出先でお腹が空いたと云っても決してコンビニには立ち寄ってくれなかった。スーパーの惣菜やファストフードは、許容範囲なのだからそのあたりの基準はよく分からない。その影響とは思いたくないけれど、今現在僕自身の生活はコンビニに行かなくても確立している。意識的に母の云いつけを守ろうとしているわけではなく、特に困らないのだ。朝晩は家に何かしら食事が用意されているし、昼は学食がある。更に、おやつを含めた軽食や文具の購入なども学内の購買部でコンビニより安価に済ませられるので、特に不便を感じたことはない。寄り道もしないつまらない奴と思われたかな、と少し後悔した。
「時丘くんて、学校どこなの?」
「近いよ。藤咲学園」
「えっ、藤咲に通ってるの?名門じゃん」
「そんな、そんなことないよ」
「いやいや、俺、学校祭に行ったことあるけど敷地内すごいきれいだったもん。電車内でも藤咲の生徒と乗り合わせることあるけど、何かもう雰囲気違うっていうか、上品だよね」
「美化しすぎ。わりとみんな普通だよ。お昼にカップ麺食べたりとか、僕みたいにバイトしたりしてる人もいるし。うちなんかより那智くんの学校の方が有名だよ」
「ありがとう。けど、うち校舎は古いし、教師は無駄にあれこれうるさいし……何より共学とは名ばかりで校舎が男子部と女子部で分かれてるんだよ。残念すぎる」
「わあ、それはひどい」
 僕は心底共感するふりをした。こういうことには慣れている。
「でもさ、誰でも入れる学校じゃないもん。受験のとき、すごく勉強したでしょう」
「うーん……まあね」
 那智くんの声のトーンが少し翳りを帯びたのが分かった。あとから考えると恐らく、これが彼の内包する夜の気配を感じた初めてのことだったと思う。それ以上那智くんは自分の学校の話を広げようとしなかったので、僕は話題を変えることにした。僕はもう大分家に近いところまで来ていたので、そろそろ本題に入らなければならなかった。
「そういえばさ、メモにあった佐伯さんの話って……何だったの?」
「うん……ねえ、時丘くんさ、明日バイト入ってる?」
「えっ?ううん、明日は休みだけど」
「じゃあ、ちょっと一緒に寄り道しない?」
 佐伯さんに関する話は、少し長くなるから明日どこかで会って話したいということだった。僕はアルバイトがない日の予定はといえば、一人で映画を観に行ったりすることもあるけれど、たいていは家に帰って宿題をするほかは、携帯やパソコンで動画を見たり、漫画を読んだりするだけなので問題なかった。
 そうして、今に至る。
 有名チェーンのカフェに入り、飲み物を注文すると、那智くんは専用のプリペイドカードで僕の分の支払いも済ませてくれた。
「だめだよ、払うよ」
「いいから、今日は俺が誘ったんだから」
 レジの順番がくる寸前まで注文を決めきれなかった僕は、何を飲むかと那智くんに訊かれて、咄嗟にメニューの中で一番目立っていた期間限定の冷たいメロン味のフラペチーノを選んでいた。せっかく今時の人気カフェに誘ってくれたのだから、こういう店ならではのメニューを頼まなければと思い込んでいたのだ。那智くんが払うつもりだと知っていたら、もっとシンプルなメニューにしたのに。できあがった飲み物を受け取り、僕たちは空いていた二人掛けの席に向かい合って座った。
「那智くんはこのカフェ、よく来るの?」
「たまにね。友達といるときなんかに。この系列の店はどこにでもあるから待ち合わせ場所に便利だし。渚くんは?」
「僕も、たまに」
 そう云ったが本当のところ、フラペチーノなんて数えるほどしか飲んだことがない。初めはものすごく甘く感じられてどうしようかと思ったが、飲んでいるうちに慣れてきた。那智くんは定番メニューのキャラメルフラペチーノを飲んでいる。
「そういえば時丘くんて、下の名前何ていうの?」
「名前?あ……渚だよ」
「渚くん?いい名前じゃん。え、名前で呼んじゃだめ?」
 僕は一瞬躊躇ったが、面と向かってだめとも云えず、
「うん、いいよ」
 と、笑顔をつくって答えた。それに対し、那智くんがしんから嬉しそうに、やった、と呟いたので、許可して良かったかなと思った。
「ええと、那智くんは、下の名前って……」
「俺の方は今のまま呼んでくれれば」
「えっ、ずるい」
「ずるくないよ。だって、もう渚くんには下の名前で呼んでもらってるから」
「え?」
「だから、那智が俺の下の名前なの。苗字は碧川(みどりかわ)っていうんだよ」
「ええっ、何それ……初めて知った」
「うん、云ってない」
 びっくりした。騙された。初めて聞いたとき、ちょっと珍しい苗字だなとは思ったけれど、苗字として充分あり得そうだったから特に何とも思わなかった。
「だって、碧川ってちょっと長いし。それに呼び方が苗字で定着しちゃうと、あとから名前呼びに変えるのって難しいじゃん?」
「那智くんは僕のこと、苗字で呼んでたじゃない」
「俺はすぐ切り替えられるもん。切り替えの早さだけが取り柄」
「もう……」
 そう呟いたものの、結局は二人でくすくすと笑ってしまった。決して僕の気分は悪くなかった。初めて会ったときから思っていたが、那智くんの笑顔には、人の心を囲っている警戒心をとろかす力がある。きっと学校でも友達が多いんだろうな、と思う。
「ねえ、さっき気づいたんだけど、渚くんて首の後ろにほくろあるよね?生まれつき?」
「あ、これ?目立つかな?」
「ちょっとだけ。もしかして、気にしてた?」
「ううん、大丈夫。生まれつきかどうかは分かんないんだけど……自分で気づいたのも最近で」
「ああ、後ろじゃ見えないもんね」
「そう。しかもこれ、実は下に向かって三つあるんだよ。全部同じ大きさ、等間隔で」
「えっ、ほんとに?すごい珍しいね」
「うん、最初鏡に映して見たときはびっくりしたよ」
「なんかそれって、星座みたいだね」
 その一言が、僕の佐伯さんとの幸福な記憶を明滅させた。
「知ってる?首の後ろのほくろってモテるんだって。どっかの占いで読んだ」
「えっ?全然そんなことないよ……」
「そんなことあるでしょう。渚くん、優しそうな顔立ちしてるもん」
 僕はちょっとどぎまぎしながら俯く。顔が紅潮しそうになる。
「でも、そんな珍しい特徴があるなら、後ろ向いてても渚くんだって分かるね。服を脱いでればね」
「えーっ、それで判別する状況ってなくない?」
 僕たちはまた笑い合った。
 那智くんは現在、月、水、土の週に三回画塾に通っていて、学校が退ける時間と画塾の講義が始まる時間に間があるので、うちの店へ立ち寄っているのだという。佐伯さんとまったく同じ理由だ。
「夏休み以降はもう少し通う曜日を増やすけどね。夏期講習も申し込んだから、渚くんのバイト先に行く回数も増えると思う。こういうカフェは万人受けするけど、俺が一番好きなのは、渚くんがバイトしてるようなあんな感じの喫茶店だよ」
 後半の方は少し小声になって那智くんは云った。
「ちょっとレトロっぽい雰囲気がいいよね。特にあの入口に置いてある猫、可愛い」
「あ、僕もあの猫が好きで、それで何となく店に入って……それでバイト始めた感じ」
「へえ、そうなんだ」
 僕が初めてあの店を訪れた日。高等部の入学式だったあの日は、帰り道で久しぶりに兄に会う約束をしていた。数日前に父から電話があり、高等部入学祝いを兄に持って行かせるから、S駅で待ち合わせをして受け取るようにと云われた。
『二人とも入学式と始業式で帰りが早いんだし、どこかで一緒に昼を食べて来るといい』
 父が昼食代をいくらか兄に渡しておくと云うので、僕はすっかりそのつもりでいた。
 晴れて高校生になったというのにさほど感慨が湧かない。そんなつまらない愚痴を兄に聞いてもらいたいと思っていた。けれど、駅で顔を合わせた兄は、その場で父から預かった入学祝いを僕に手渡しただけで、すぐに帰ると云った。
『夕方から塾があるんだよ。その前に予習復習をしておきたいから』
 確かに父から受けた電話で、兄は現在通っている系列の大学ではなく、他大学を受験するという話は聞いていた。だから勉強に忙しいのは分かる。けれど受験勉強に忙殺されていた時期を含むとここ数年、兄弟でまともに話していない。
 しばらく会わないあいだに兄はすごく大人っぽくなっていた。何だか知らない人のようだった。
 兄は五千円札を僕に手渡すと、
『これで何か食って帰れよ』
 そう云って風のようにいなくなってしまった。
 五千円札をポケットに入れ、兄と別れたあとも何となくS駅周辺をぶらぶらしていた。商業施設が建ち並ぶ駅周辺の人通りが多い界隈から少し外れたところに、あの店はあった。
 初め、眼に入ってきたのは入口に置かれた陶器の猫だった。小さなアイアンのテーブルに背筋を伸ばして鎮座し、青い瞳で凛と顔を上げている。
 ああ、あれを見ているのか。
 視線の先には軒に吊るされた同じく陶器の鳥たちがいた。その隣のスタンドに固定されているメニュー表で、そこが喫茶店であることを知る。
 あのころの僕は、まだまともに珈琲を飲んだことがなかった。それなのに、どうして店に足を踏み入れようと思ったのか。子供のころ、父の飲みかけの冷たい珈琲をコーラだと思い込んで飲んだときの、あの苦みを思い出すと、これまでどうしても飲もうという気にはなれなかったのに。
 招き猫に誘われて、などと云えば何かの物語のようだが、今考えるとあれは一種の逃避行動だったのだと思う。兄はそれほど弟である自分に興味はない。うすうす勘づいてはいたけれど、それをこの日、改めて思い知らされて心が虚ろになっていた。普段にはない刺激を受けることで空虚感が薄まるならその方がいいと無意識に自分は考えていたのかもしれない。
「いいなあ、あんなおしゃれな喫茶店で働けて」
 那智くんの明るい声で、僕は今へ引き戻された。
「落ち着いてて渚くんのイメージに合ってるよ」
「そうかな?ありがと」
「バイト先の人たちとも仲良いの?」
「う、うん……まあ」
「そうそう。渚くんに云われるまで気づかなかったんだけどさ」
 那智くんはテーブルに置いていた財布を開き、例の珈琲チケットのつづりを取り出した。
「あれ一枚だけじゃなくて、裏面に全部に絵の具の青い線が入ってたんだよね。たぶん、佐伯さんが絵の具つけちゃったんだと思うけど……これ、大丈夫?」
「うん、気にしないで」
 平常心を装ってそう答える。
 実はこの青い線は僕がつけたものだったが、このことについてはあまり追及してほしくなかった。何か他に話題になるものを探していると、那智くんが財布をしまうために開いたリュックから、スケッチブックの角が覗いているのが見えた。
「ねえ、それってスケッチブック?」
「え?」
「あ、ごめん……荷物、覗くつもりじゃなかったんだけど」
「いや、いいよ。これでしょ?そう、部活で使ってたやつなんだけどね、もうこれは使い切ってるから持ち帰ろうと思って」
 那智くんはスケッチブックを取り出し、ぱらぱらと自分で眺めた。
「そっか、佐伯さんと同じ部活ってことは、那智くんも美術部、なんだよね?」
「そうそう」
 僕はそこで気になっていたことを訊いてしまおうと思った。
「あ、ねえ、佐伯さんて、第一志望に受かったん……だよね?国立の……」
「うん、そうだよ。え、本人から聞いてないの?」
「う、うん……」
「何だ、それ。佐伯さん、薄情だなあ」
「いいよ、受かったんならおめでたいことだよ。だって、あそこ現役で合格できる人って少ないんでしょ?」
「うん、毎年倍率二〇倍以上。千人受験して、合格するのは五十人。えぐいよねー」
 僕は絶句した。難しいとは聞いていたけれど、きちんと数字を出されるといかに佐伯さんが高い壁を乗り越えたのかが分かる。
「佐伯さんは天才だもん。ひょっとしたらいけるんじゃないかって俺も思ってたけど、まさかその通りになるなんて。職員室じゃ先生たちも大騒ぎだったよ」
「もしかして那智くんも……?」
「ないない。俺は私立」
「そっか……」
「すごいよねえ、佐伯さん」
 そのとき、那智くんと眼が合った。僕の様子を窺っているような、言葉以上の何かがそこにあるような意味ありげな眼差し。なんだか、佐伯さんに対する感情を見透かされている気がした。まさか、と僕は思う。
 那智くんは手にしていたスケッチブックを僕に差し出した。
「はい、良かったら見てみる?」
「えっ、見せてくれるの?」
「うん、どうぞ」
 那智くんが手渡したのは、佐伯さんが使っていたものと同じ表紙のスケッチブックだった。一口に画用紙といっても、様々な種類があることを教えてくれたのは佐伯さんだ。自分は白象紙が好きなんだ、とあの人は云っていたっけ。
 ありがとう、と云って、なるべく丁寧に表紙を開く。
 最初のページの眼を落としたとき、僕は息を呑んだ。
 巧い、と思った。それ以外の言葉が見つからなかった。繊細な線と陰影で表された対象物は、どれも本当にそこにあるかのようだった。僕はほとんど無心で次のページをめくった。あまりの巧さに正直、今眼の前にいる那智くんと、絵が結びつかなかった。初めて佐伯さんの絵を見たときも、その美しさと緻密さに度肝を抜かれたけれど、那智くんは僕が出会ったときの佐伯さんよりも年下なのに。
「きれいだね」
 僕はほとんど感動してそう呟いた。
「ほんと?」
「うん、僕、絵に詳しいわけじゃないけど……見るのは好きなんだ」
 そう、僕には絵のことなんか分からない。だから作品を褒めるときには常に謙虚であろうと意識してきた。僕が、きれい、とか、美しい、と云うと、佐伯さんはいつも少しだけ笑ってくれた。
「那智くんも、油絵やってるの?」
「うーん、これまではずっと油絵が好きで描いてたけど……就職を考えて今はビジュアルデザインもいいかなって思ってる。だから大学はそういう学科があるところにしようと思って」
「ビジュアルデザイン?」
「そうだな、いろいろあるけど俺がやりたいのは、たとえば雑誌やカタログの表紙とか、チラシやポスターとか、商品のパッケージとか……そういうのをデザインする感じかな。Webデザインもいいけど。まあ、将来はそっちの方の仕事ができたらなって思ってる」
「そうなんだ……すごいね」
 それは本音だった。ちゃんと将来の方向性を見据えて、確実に努力している。なんだか眩しかった。でも普通の高校二年生と云えば、そろそろ将来やりたい仕事を何となくでも見据えて、それに近い進路を考える時期といえばそうだった。考える時間があるのは今だけだ。三年生になったら、ひたすら受験勉強に勤しまなければならない。
 僕の周りに那智くんのような同級生はいない。みんな、このまま内部進学で大学に上がる想定で会話をしているし、将来についても漠然としている。塾に行ったり、家庭教師をつけたりしている友達もいるけれど、全体的に彼らからは必死さのようなものを感じないのだ。公務員試験でも受けようかなあ、とか、最悪の場合は親や親戚がやっている会社に入るしかない、などと笑いながら云っている。だから僕も将来については、大学に入ってから考えればいいと思っていた。
 那智くんは佐伯さんと同じで小学生のときに学校内外でいくつか賞をもらっているとのことだった。いつから絵を描いているのかという質問に対しては、
「分かんない。ずっと昔から描いてるよ」
 という。同い年の那智くんの話を聞いていて、僕は自分が大分出遅れていることに気づいた。十代という貴重な時間を無駄にしてきたのかもしれないという焦燥感が体じゅうを駆け巡る。もし、学校のみんなが僕に打ち明けてくれていないだけで、那智くんのようにいろいろ考えていたとしたら。そう考えると眩暈がする。
 僕といえば漫然と日々を過ごすばかりで、夢のかけらを見つけるどころか、終わった恋を忘れることさえできていなくて。
 那智くんはビジュアルデザインを学んで、広告、印刷、出版のいずれかの業界に就職することを考えていると云った。
「ねえ、でも、油絵好きだったんでしょ?いいの?」
「うん、今でも好きなんだけどね」
 その答えはちょっと悲しげだった。僕は自分の無神経さを呪う。那智くんは僕以上にいろいろ考えた上で、進路を決めているに違いないのに。
 那智くんはフラペチーノを揺すって軽く混ぜた。
「正直、油絵は佐伯さんには敵わないなってどこかで思っちゃってるんだよね。あの人の絵が好きでずっと見てたから分かる」
 那智くんは明るい声のままそう云っていたが、彼の顔の半分には陰りが射したような気がした。
「渚くんは佐伯さんの絵、見たことある?」
「うん、毎回すごいなって思ったよ。何かもう、うまく言葉で表現できないけど……きれいだな、どうしてこんな絵が描けるんだろう、って何度も思った」
「分かるよ。俺さ。中等部一年のときに学祭で佐伯さんの絵を見て、それで憧れて美術部に入ったんだよね。もともと絵は好きでよく描いてたし」
「そうなんだ」
「でもうちの学校の部活動って、さほど力入ってないんだよ。どの部も学生時代の思い出づくりみたいな感じで。だから佐伯さんの絵に対するストイックさに、周りはみんなびびっちゃって。集中してるときに話しかけると怖いから、俺、ほぼ佐伯さん宛の窓口みたいになってたよ。同級生や後輩から、しょっちゅう佐伯さんにこの配布物渡しといてだの、これ伝えといてだの頼まれてさー」
「あはは。ほんとに?」
「うん。まあ……あと先輩たちの中には、入る学校間違えてる、とか、芸術家気取りだとか、佐伯さんに対して嫌味云う人たちもいたけど……」
「何それ、ひどい」
「うん、人にはいろいろな事情があるんだから、そういうこと考えてものを云えないのってどうなのかなって思ったね」
 僕は佐伯さんが指弾されている姿を想像して少し悲しくなったものの、それはあの人は周囲から妬まれるほどの才能があったからだとすぐに思い直した。
「……でも、佐伯さんは、もし、そういう声が聞こえてきたとしても気にしなさそう」
「だね。あの人、ちょっと見た目素っ気ない感じがするし、気難しいとこもえるけど……でも、不器用なだけなんだよ。話せばちゃんと笑うし、良い人だもん」
「そうだよね。良かった、那智くんみたいに分かってくれる人がいて」
 僕は久しぶりに気持ちが和らいだ。良かった。佐伯さんにはちゃんと味方がいたんだ。
 そのとき、口許では相変わらず笑っていたが、何か引っかかったというような表情を那智くんは眼に浮かべた。
「渚くんて、佐伯さんとはバイト先のあの喫茶店で知り合ったんだよね?」
「うん、そうだよ」
 佐伯さんが通ってきていた去年のことは、昨日のことのように思い出せる。
「僕は高校に入ってすぐ今のバイトを始めたんだけど、佐伯さんはそれよりずっと前からの常連さんで……第一印象はちょっと怖そうなお客さんだなって。でも、一度向こうから話しかけてもらったことがあって、それ以来ちょくちょく話すようになったんだ」
「佐伯さんの方から話しかけてきたの?」
 意外だというふうに那智くんの眼は云っていた。それに対し僕は、たまたま近くにいた店員が自分だったから話しかけられただけのことだと答えた。
「さっき、絵を見たって云ってたよね。佐伯さん、展覧会に呼んでくれた?」
「うん、見に行ったことある。あとはね、仲良くなってから家に行ったときに、敷地内にあるアトリエに入れてもらって、そこで……」
「えっ、佐伯さんのアトリエに行ったことあるの?」
 那智くんはとても驚いた様子を見せた。
「あ、うん……何回か」
 佐伯さんの自宅の敷地は広く、母屋とは別にもう一軒平屋があった。かつては父親が田舎から呼び寄せた祖父母がそこに住んでいたということだったが、二人とも佐伯さんが高校に上がる前に亡くなったため、佐伯さんのアトリエにしたのだという。僕がそこを訪れるようになったときには既に、誰かが暮らしていたような生活の痕跡は消え、油絵の匂いが部屋の隅々にまでしみついていた。
「何回か、って……あの人は絶対にあそこに他人を呼ばないんだよ。俺もわりと佐伯さんとは仲良い方だとは思ってたけど、あそこに入れてもらったのは一回きりだよ。しかも……そんなに長居はさせてもらえなかった」
 そんなことは知らなかった。佐伯さんの性格を鑑みるに、他人が訪ねてくること自体少ないのだろうとは思っていたけれど、僕一人しか入れないとも思っていなかった。
「そうだったんだ、知らなかった。えー……もしかしたら僕、佐伯さんが出てって欲しいオーラ出してたのに、空気読まずに居座ってたのかな」
 僕は笑いながらそう云ったが、だが那智くんは少しも笑わず、信じられないという様子で僕を見つめ、それから考え込むように視線を手許に落とした。
「……びっくりした。佐伯さんと渚くんて、ほんとの友達だったんだね。佐伯さん、友達はいらない、なんて云ってぐらいだから」
 僕は何と応えていいか分からず、小さく、そうなんだ、としか云えなかった。
 友達ではなく、恋人だったといったら那智くんはどんな顔をするだろう。
 しかし、恋人だったとは云っても、佐伯さんとの付き合いには常に不安がつきまとっていた。出会ってから別れるまでの八か月半のあいだに、二人でどこかへ出かけたことなど数えるほどしかない。二、三回、佐伯さんの方から美術館に誘ってもらったことはあるが、彼はそれが済むと、
『絵を描くから』
 と云って帰ってしまう。遊園地やゲームセンターなど騒がしいところは嫌いで、映画や食事には誘えば了承してはくれるが、丸一日一緒にいてくれたことはなかった。忙しいのだろうと僕の方から誘うのを遠慮していたら一か月以上デートがお預け状態になったこともある。受験までの最後の三か月間は、佐伯さんの自宅敷地内にあるアトリエに、僕が訪ねて行くだけになっていた。
「でも、僕も仲良かったのは本当に一時期だけだから」
「それでもそのとき、佐伯さんは、渚くんのことを気に入って信頼してたんだと思う」
 那智くんは柔らかく微笑んでいたが、その言葉は先ほどまでのように明るくはなかった。もしかして、僕と較べて、尊敬する佐伯さんとの仲の良さに自信を失くしてしまっているのだろうかと居心地が悪くなった。
「それは……単に僕が絵の素人で、那智くんがライバルになるような後輩だから、対応が違っただけじゃないかな」
 僕は苦し紛れにそう云った。那智くんが佐伯さんを慕っているのなら、そのままでいてほしかったし、彼は僕とはまた違った部分で佐伯さんと深く繋がっているはずだった。
「僕、さっき佐伯さんの絵、すごいって云ったけど、那智くんの絵だって負けないぐらいきれいだと思ったもん。佐伯さんだって、那智くんを認めてたはずだよ。それに、ちょっと脅威にも感じてたと思う。いくら仲が良くても、自分と同じぐらい実力のある後輩ってちょっと怖いと思うんじゃないかな。だから、アトリエに入れるのは、なんか手の内を見られるような気がして落ち着かなかったのかも……」
 那智くんの視線がちょっとふるえた。
「ありがとう。渚くんて優しいね」
「そんな、僕は勝手に想像したことを喋っただけだよ」
 那智くんはただ優秀なだけじゃなく、勘も良いんだなと、僕は悟った。こういう相手に下手な気遣いをしても、すぐにばれてしまう。
「渚くんはよく佐伯さんと仲良くなれたね。あの人、あんま喋らないし、分かりづらいでしょ」
「そうだね。でも、僕の兄が佐伯さんと似たタイプで……だからかな。ああいう素っ気ない雰囲気の人には慣れてるっていうか」
 とはいえ、まったく気後れせずに佐伯さんと接することができるほど、僕は図太くはない。那智くんの云う通り、佐伯さんは分かりづらい人だった。初めの頃は、感情を表に出すと絵に何かしらの支障でも来すのかと思うほど、表情が乏しく口数も少なかった。単なる店員の立場だったとき、佐伯さんはつっけんどんで、氷のような人だと本当に思っていたのだ。
「へえ、渚くんお兄さんいるんだ?」
「うん、学校は違うけどね。佐伯さんと同じで二つ上」
「じゃあ、大学生なんだ。いいなあ、勉強教えてもらえるじゃん」
「あ……ううん、僕、兄とは別々に暮らしてるから」
「えっ、そうなの?」
「僕が小学校五年生のときから。両親が別居してそれぞれについてったって感じ」
 正確に云うと僕は母についていったわけではなく、父と兄に置いて行かれただけだが、最も端的で他人に理解してもらいやすい説明はこれだった。僕はフラペチーノを飲み、そのカップの中身から視線を上げた。そこで、僕を見つめている那智くんと眼が合った。
「そうか。ごめん、話してくれてありがとう」
 僕はにっこりして、軽く首を振った。
「気にしないで。那智くんは?兄弟いるの?」
「いない、一人っ子。だから親からの期待がすごくて」
「そうなんだ。あー……でも今、うちも同じ感じかも。兄さんがいなくなって、その分僕にきてる感じはある」
「なんか常にあれこれ云ってくるけどさ、こっちの気持ちなんか度外視だから」
「親ってどこも一緒なのかもね。僕も今の学校受験するときだって、有無を云わさずって感じだったもん。勝手に塾申し込まれてて、放り込まれて」
「えー俺もまったく同じなんだけど」
「それで何かあると、高い学費払ってるんだからとか云い出すんだよね」
「分かる」
 家の不満に話が逸れたあたりから、僕たちのあいだに友情のはじまりといっても差し支えないような、対等で平明な空気が流れはじめた。
 那智くんと話すのは面白かった。同じ学校の友人たちより、ずっと視野が広くて柔軟性に長けていた。絵を描く人種でも那智くんは佐伯さんとまったく違う。話題が豊富で、人に気を遣えて、開放的で、よく笑う。話を聞いていると、小学校のときは絵も好きだったが、スポーツばかりしていたという。それで運動部員のような快活さがあるのかと納得した。
 フラペチーノが空になりかけたとき、
「ねえ、渚くんて今、付き合ってる人いる?」
 と那智くんが出し抜けに訊いてきた。一瞬、佐伯さんの存在が頭をよぎったが、僕はそんな自分を笑うつもりで笑顔を浮かべた。
「ううん」 
「好きな人も?」
「いない。那智くんは?」
「俺は付き合ってる人はいないけど、好きな人はできたかな」
「へえ、どんな人か訊いてもいい?」
「とても優しい同い年の人。まだ知り合ったばかりなんだけどね」
 そう云って僕を見つめる視線に、僕はどうしてだかどきどきしてしまった。
 静まれ、心臓。
 反射的に自分の内面に向かって呼びかける。
 別に僕を好きだと云っているわけじゃない。今までどれだけの勘違いをしてきたのか忘れたのか。何度、自分の自惚れを恥じて、穴に入りたいと思ったことか。
 だからそのあとすぐ、
「もし良かったら、今度は休みの日に遊びに行かない?」
 と那智くんから誘われたときも、僕は有頂天になるのをこらえて、落ち着いて喜びを表現することができた。
「うん、行こう行こう。いつがいい?」