――料理処「はーでんべるぎあ」

 テーブル席が二つとカウンターだけのこじんまりとした店内を通って表に出ると、八月の空気は夕方になってもまだ熱気を帯びていた。
 桶に汲んだ水を撒いてから、「本日貸し切り」の張り紙を入口に張り付ける。
 開店した当初はこんなことしなくても毎日貸し切り状態だったけど、最近はありがたいことに常連として数日に一度は顔を出してくれる人も増えてきた。
 都心から外れて奥まったところにあるこの店に来てくれる人たちには申し訳ないけど、今日は大切な予約が入っている。お店の前が綺麗なことを確認して店内に戻り、料理の仕込みを始める。
  大切な予約、といってもやることはいつもと変わらない。一つ一つの料理がおいしくなるように、丁寧に想いを込めて準備していく。
 高校時代、毎日お弁当を作っていながら手際はあまりよくなかったけど、今でも料理のスピードという意味ではそんなに変わっていないと思う。料理と向き合っていると時間がたつのを忘れてしまう。
 一通り仕込みが終わって時計を見ると、十九時前になっていた。もう間もなく予約の時間だ。料理を出すのが少し遅れたくらいで今更何か言うようなお客さんではないけれど、危ないところだった。
 ほっと一息つくと、見計らっていたかのようにガラリと入口の硝子戸が開き、夏の熱気が店内に入り込んできた。

「やっほー。まだちょっと早いけど大丈夫?」
「いらっしゃいませ。もう大丈夫ですよ」

 パタパタと手を振っていた円香は私の言葉にポカンとした顔になってから、怪訝そうに店内に入ってきた。真っすぐカウンター席に腰掛けると、服の胸元を掴んでバタバタと手で仰ぐ。

「いやあ、暑いねー。この暑さはインドア派には辛いわー」
「先に軽く始めておきますか?」
「……むー、ま、いっか。雪音が時間通りに来れるか微妙だし、水分補給しとこっか」

 円香は一瞬何か言いたそうな顔で私を見たけど、いったん置いておくことにしたのか腕時計に視線を降ろして、今度はニッと笑みを浮かべて顔を上げた。
 水分補給、ね。冷やしたグラスにビールを注いで円香の前に置き、お通しとしてナスとカボチャの夏野菜のおひたしを隣に並べる。

「わっ、おいしそう! あれ、里菜は飲まないの?」
「仕事中ですから」
「……ふーん、そんな感じね。じゃあ、遠慮なく」

 相当暑かったのか、円香がぐいっとグラスをあおる。あっという間に半分くらい飲み干すと、その勢いで夏野菜のおひたしを口に運ぶ。

「んー! しみしみヒヤヒヤでおいしー! 夏はこれって感じ!」

 円香はギュッと目を閉じて、頬に手を当てておひたしを味わっている。いつ見ても美味しそうに食べてくれるから、自分で作っているのに味が気になってしまう。
 円香のグラスにビールを注ぎ足してから、ナスとカボチャのおひたしの切れ端をつまんでみる。出汁に漬ける前に揚げ焼きしたおかげか、ナスのしゃきしゃきとカボチャのほくりとした食感が残っていて、噛みしめるとナスからじゅわりと出汁が溢れだす。うん、これはビールが合う。

「雪音はやっぱり仕事忙しいのかなー」

 円香は再びグラスに口を付けながら、入口の方を見る。既に時間は十九時を過ぎていた。元々十八時から予約だったところ、雪音の仕事の具合を考慮して一時間後ろ倒ししたのだけど、それでも見込みが甘かったかもしれない。
 雪音は大手商社の総合職として働いていて、最近は首が痛くなるような高さのビル街に夜遅くまで残っているらしい。

「まあ、夜は長いしチビチビやってますかー」

 円香がグラスの残りをくぴりと飲み干す。お酒に強い円香だけど、ちょっとペースが早い気がする。まあ、それも想定しての貸し切りでもあるのだけど。
 その時、お店の外からカッカッという音が聞こえてきた。初めは微かに聞こえる程度だったのが徐々に音が近づいてくる。そしてガラリと硝子戸が開き、肩で息をするスーツ姿の雪音が姿を現した。キッチリ整えられていたであろう長めの髪が乱れている。

「ごめん、遅くなった」
「まさか雪音、その格好で走ってきたの?」

 呼吸を整えてから店内に入ってきた雪音に、目を丸くした円香が問いかける。
 まさかと思って足元を見るとヒールが高めのパンプスだった。

「走ったっていっても、駅からだから」

 何でもないように雪音は髪を手櫛で整えながら円香の隣に腰を下ろす。駅からっていっても、ここまで走って五分くらいはかかる。それに、日が落ちてきたとはいえ外はまだまだ暑いはずだ。流石、大学まで陸上をやってた人間は鍛え方が違うのかもしれない。
 グラスにビールではなく水を注いで雪音の前に置くと、雪音は私に小さく頭を下げてからグイっと一気に飲み干した。ふっと一息つくと、その顔を小さく綻ばせて円香の方を向く。

「それに、円香の失恋記念日だからね。できるだけ急がなきゃって」
「し、失恋じゃないし!」

 ニヤリと笑う雪音に円香がバタバタと腕を振る。

「似たようなものでしょ。今日はそのために来たんだし」
「似て非なるものっ!」

 二人が昔といつもとやり取りをしている間に、雪音の前にビールと夏野菜のおひたしを並べ、円香のグラスにも三杯目のビールを注ぐ。

「里菜は?」
「仕事中なんだって」
「ふうん」
 
 一瞬探るような顔を浮かべた雪音だったけど、円香の一言で納得したらしく、グラスを掲げる。

「じゃあ、円香の失恋を祝して」
「だーからっ! あー、もう、カンパイっ!」

 円香はやけくそ気味に雪音が掲げたグラスに自分のグラスを重ねる。高校、大学と同級生だった二人の息はぴったりで、殆ど同時にグラスを空にした。二人のグラスにビールを注ぎ足し、その隣にチェイサーとして水のグラスも並べる。二人とも大学生の頃と変わらないように見えてもう三十歳なのだし、あまり飛ばし過ぎてしまうと明日に響くだろう。
 それと、肴。鯛とマグロの細切りを和えた小鉢を差し出すと、二人の手がすぐに伸びる。

「へえ、旨辛でおいしい。これ、なんていうの?」

 雪音の手が小鉢とビールの間を慌ただしく行き交っている。

「『フェ』っていう韓国風のお刺身です。コチュジャンと豆板醤でつくった酢みそで和えるっていう」
「流石、料理処。里菜の手にかかればなんでもござれ、だねー」

 円香の言葉ににんまりとしてしまいそうになるのを必死に堪える。お店のスタイルやレイアウトは居酒屋だけど、名前を考える時は「料理処」と冠することにした。
 居酒屋でもバーでも、それっぽい料理を思い浮かべてしまうから、そういった固定観念なしで料理とお酒を味わってもらえるように。なにより、ここが「料理」を軸に据えたお店であるように。

「それで、円香。『三十歳になるまでお互い独身だったら結婚するか』って言ってた相手とはどうなったの?」

 二人ともすぐに小鉢を食べきってしまいそうなので次の料理に取り掛かっていると、背中側から雪音の声が聞こえてきた。さっきまでのからかう調子から、真面目に話を聞くモードになっている。

「どうもこうも、三十歳の誕生日目前に、私から逃げ切るみたいに付き合って一ヶ月の相手と婚約したって。あーあ、もうちょっとだったのになー」
「婚約ならまだ独身の範疇じゃない?」
「いやあ、流石にそんな揚げ足とってもしょうがないでしょー」

 冷蔵庫から下拵えした材料を持ってカウンターに戻ってみると、円香が不貞腐れるようにカウンターに突っ伏していた。二人が今日この店を貸し切って集まったのは、自称結婚目前だった円香がその目論見を外したことを祝う――いや、慰めるため、ということになっている。
 といっても、雪音から慰める気配はゼロだし、円香も傷ついてる雰囲気はないのだけれど。

「高橋君、だっけ。そんなによかったの?」
「よかったっていうか、楽っていうか。小学校から高校まで一緒だったから、勝手知ったる、って感じだったし」

 ゆっくりと身を起こした円香が頬杖をつく。
 すでに小鉢は空いていた。会話に耳を傾けながら溶いて出汁と合わせた卵をフライパンに流し入れ、ほぐしておいた明太子とクリームチーズをのせていく。

「私の生活ってこんなんだから普通の人は付き合えっこないし。そもそも一人の方が気楽だし、今更恋愛ってのもなんかもう面倒でねー」

 ため息交じりにビールを一口。
 円香は大学を卒業して間もなく、大きな文藝賞で賞を獲ってあれよあれよと売れっ子の作家となった。専業作家というのが一般にどういう暮らしぶりなのかはしらないけど、円香はとにかく旅に出る。ふらりと旅に出かけては、旅先で半月とかそれ以上滞在して作品を書いて、またふらりと戻ってくる。

「お母さんは結婚しろってうるさいし、お父さんは安定した相手を探せって言ってくるし。実家に帰る度に誰々が結婚したとか子供生まれたとか、当てつけみたいに言われるのも面倒だし」

 円香の言葉には思い当たる節があって、首をすくめたくなるのを我慢してフライパンと菜箸を握る。こういうのは姿勢一つとっても馬鹿にできない。
 卵に軽く火が通ったところで明太子とチーズが芯になるようにくるくると巻き、空いたスペースに残った卵液を薄く流し入れる。あとは油断なくこの作業を繰り返していく。

「だから、恋愛すっ飛ばして結婚できて、結婚した後もお互い干渉しないで生きてけるなら、願ってもないことだって思ってんだけど。まあ、そう上手くはいかないかー」
「その辺が見透かされたから、高橋君に逃げられたんじゃないの」

 間合いが分かっているからこそ、雪音の言葉は容赦ない。一撃で核心をついてくる感じに、円香は両肘をカウンターにつくと手のひらに顎を乗せ、軽く頬を膨らませながら唇を尖らせる。

「ぐうの音も出ないよ。ぐう」

 どうやら円香が劣勢のようだ。別にケンカになることはないと知っているけど、助け船もかねて出来立ての明太チーズだし巻き卵を平皿に盛って二人の間に置く。不貞腐れてた円香の瞳がキラッと光ると、すかさず箸が伸びた。

「んーっ! とろふわじゅわじゅわ! 明太子のアクセントに出汁とチーズの相性がたまらんですよ!」
「どうしたらこんなフワフワになるのかしら。私が作ると黒くてカチカチになるのに」

 それは、焦げるを通り越して炭になってる気がするけど大丈夫だろうか。
 円香の言葉に綻んだ顔が雪音の言葉で固くなったのが自分でもわかる。勉強もスポーツも抜群な雪音だけど、家事――その中でも料理は苦手だった。意外にも、直感型の円香の方が独創的だけど美味しい料理をつくったりする。
 まあ、家事が苦手っていうのも雪音の場合は欠点というより、「人間誰しも苦手な事ってあるよね」なんていう愛嬌になってしまうんだけど。

「別にいいもんねー。結婚なんてしなくても、あちこち旅して、帰ってきたら里菜の料理を食べる生活が幸せだもーん」
「まあ、円香にはその生活が一番似合ってるかもね」

 雪音の顔はちょっと苦笑気味だけど、その言葉は本心からのものだし、皮肉でも何でもない素直な感想みたいだった。私も内心その言葉に頷く。円香が誰かの為に自分を縛るようなことをはじめたら、それはきっと円香の魅力までも縛ってしまう。
 渡り鳥のように遠く遠く旅をして、ふと戻ってきた時にこの店で羽を休めてくれるのなら、そっちの方が嬉しく思う。

「そういう雪音はどうなのさ。一流商社マンなエリート男子を選り取り見取りじゃないの?」
「自由に生きたいっていう割に、価値観が古くない?」
「だって、私には想像もつかない世界だし。今後の為に勉強させてよー」
「円香が勉強っていうと、数年後に小説になってそうで怖いのよね」

 雪音は小さく肩をすくめると、ジトっとした目で円香を見ながらだし巻き卵を頬張り、続けざまにビールをグイっと煽って息をつく。

「別に商社だからってそんな特別なことないわよ。結婚とか子どもに関心があるタイプはとっくに家庭を築いているし、とにかく仕事が好きなタイプは一緒にいてときめくというより、もはや戦友みたいな感じだし」
「雪音先生、戦場で育まれる恋心みたいなのはないのでしょうか」
「先生はどっちかっていうと円香の方でしょ。で、たまにプロジェクトで意気投合して結婚までいっちゃうペアもいるけど、あんまり長続きしたって話聞かないのよね。あ、私、次、ハイボールで」
「私も私もー」
 
 本当に二人とも水のようにすいすい飲み進める。予め漬け込んでいた鶏むね肉をごま油とともに火にかけてから、氷を入れたグラスにウィスキーと炭酸水を注ぎ、マドラーでひと混ぜして差し出す。雪音はゆっくりと飲み進めてから、今度はさっきより大きく息をついた。

「結局、燃料がないと燃え上がらないようなカップルは、燃料がなくなった瞬間燃え尽きるのよ。だから、職場で恋愛するつもりはないの。そもそも私だって今の生活に満足してるし」
「でもさ、雪音は私と違って休みはちゃんと決まってるんだよね。一人だと暇だなーとか思ったりしないの?」
「別に。休日は蒼乃翠先生の作品を読むので忙しいから」

 にっと笑った雪音の言葉に円香がむぐっと息を詰まらせる。蒼乃翠というのは円香が小説を出すときのペンネームだ。円香の顔がほんのりと赤くなっているのは、お酒のせいだけではないと思う。その手元は照れ隠しのようにハイボールのグラスを忙しなく揺らしている。

「平日はやりがいのある仕事に精を出して、休日は優雅に本を読む。そうするとついでに友人の懐がほんのり潤う。悪くない人生だと思わない?」
「わかった、わかったからっ! あー、もう。そんな雪音の人生の潤いの為に、次の次の企画の恋愛小説は、元陸上部で商社でバリバリ働く女子を主人公にするからっ!」
「アンチ恋愛の円香が書く恋愛小説ね。面白そうじゃない」

 全く動じることのない雪音の様子に円香はむくれるように頬を膨らませて息をつく。実際、円香――蒼乃翠の代表ジャンルはライトミステリや友情をメインとした青春物語で、恋愛要素は副次的な扱いだ。だから、円香が書く恋愛小説というのは興味があるし、そのモデルが雪音ならなおさらだった。

「そこで他人事みたいにしてる里菜も、主人公の恋敵役で登場させるから覚悟しててねっ!」

 雪音に対しては分が悪いと考えたのか、円香は立ち上がってバシッと私の方を指さした。
 私が雪音の恋敵。現実ではそんなことはなかったし、これからだってそんな風にはならないと思う。だけど、そんな人生があったらどうなっていたかとても気になる。

「楽しみにしてますね」
「あー、もう、里菜までそんなこと言うー……」

 へろへろとカウンターに突っ伏す円香の様子にくすりと笑みがこぼれるのを感じながら、料理の仕上げに入る。
 軽く焦げ目のついた鶏むね肉に豆板醤とケチャップをベースにしたソースを加えて炒めながら絡めていく。ふわりと抜けるような香りが立ち上ったところで、水溶きかたくりこでとろみをつけたら、器に盛って山椒を散らす。

「どうぞ、鶏むね肉の山椒チリソースです」
「これは……お酒が止まらなくなる罪な料理な予感がっ……!」
「間違いないわね」

 二人の目が料理にくぎ付けになっている間に、空っぽになっていたグラスを回収して新しいハイボールを作って並べる。
 だけど、二人はグラスにも料理にも手を付けずに、顔を見合わせてから私の方を見た。

「それで、里菜はいつまでそんな他人行儀なの?」
「小料理屋の女将さんみたいなキャラ、里菜にはあんまり合ってないと思うなー」

 雪音の言葉に円香が続く。
 あれ、おかしいな。私的には完璧な立ち居振る舞いのはずだったんだけど。
 若女将が営む町外れの隠れ家的な小料理屋、そこは夜ごと不思議な賑わいに包まれていた――みたいな雰囲気に憧れてるし、今なら少しくらい滲み出せると目論んでいた。

「里菜は艶やかな魅力の若女将っていうより、ほんわか天然可愛い看板娘って感じだよ」

 何故か円香が得意げな様子でにっと笑って私を見る。
 ほんわか天然、かあ。もう三十歳なんだし、そういう感じは卒業したいんだけどなあ。

「なんか面白いから放っておいたけどさ。いい加減こっち来て一緒に飲みなよ」

 雪音がハイボールのグラスを掲げて揺らす。カラカラと氷が奏でる音に思わず喉が鳴る。
 正直、二人があまりに美味しそうに飲むから、途中から飲みたくて仕方なかった。急いで自分の分のハイボールを作ってカウンターを出て、円香の隣に座る。
 雪音、円香、私。
 高校時代、陸上部と文芸部と帰宅部だった私たちが仲良くなったのは、入学した時に隣の席だったから。
 十五歳の時に出会って、気がついたら十五年が過ぎていた。

「じゃあ、改めてっ!」
「円香の失恋を祝して、乾杯」
「ええっ、まだそれ引っ張る!?」
「そりゃあ、『お祝い事』だしね」

 二人のやり取りに思わず吹き出してしまいながら、ハイボールのグラスを重ねる。ぐっと煽ると強めの炭酸が心地いい。それから、鶏むね肉のチリソースをつまむ。旨味と辛みのバランスが良くてコクがあるけど、山椒の爽やかな香りがしつこさを感じさせない。これは我ながら、お酒が進む。

「懐かしいなあ。高校の時もこうやって三人並んでご飯とか食べてたよね」

 鶏むね肉を次々口に運びながら円香が懐かしそうに零す。あの頃の日常は今でも鮮明に思い出すことができる。私は弟たちの面倒みなきゃいけなかったから部活はしてなかったけど、二人のおかげで青春はしてたと思う。
 昼休みの何気ない会話とか、テスト期間中に息抜きと言いながら夜までファミレスで語り合ったこととか。漠然とした未来に不安を覚えながらも、毎日が青く、鮮やかだった。

「確かに、円香っていつも忘れ物してたから、私か里菜の教科書見るためにいつも机くっつけてたしね」
「違いますー。あれは雪音と里菜が寂しくないようにっていう私の優しさですー」
「あんまり毎回教科書忘れるから、先生に『やる気がないなら帰れ!』って怒られて涙目になってたのに?」
「うっ。その記憶力はもっと有意義なことに使ってよー」
「一番有意義な使い方じゃない」

 二人のやりとりを聞きながら、ハイボールを一口。
 ああ、変わってないな。いつの間にか私たちは大人になって、お酒が飲めるようになった。円香は売れっ子の作家になって、雪音は私が想像もつかないような大きな会社で働いている。あの頃と違ってみんな何かしら背負っていて、その種類も大きさもバラバラだ。
 だけど、こうやって集まると私たちの間には時間なんて流れていなかったみたいに、あの頃のように会話が弾む。

「どしたの、里菜。私達のことじっと見ちゃって」

 こちらを振り返って首を傾げる円香に、私は静かに首を振る。

「高校入った時、一番最初が円香と雪音と同じクラスでよかったなあって」

 うちは今では珍しいくらいに大家族で、私は長女だった。だから、気がついた時には弟や妹の面倒を見るのが当たり前になっていた。それが自然なことだったから嫌だとか面倒って気持ちはあまりなかったけど、人並みの学生生活を過ごしてきたかというと、ちょっと違うと思う。

「二人と出会ってなかったら、自分がやりたいことって何だろうとか、自分が何をするのが好きかとか、意識しないまま過ごしてたかもしれないから」

 円香は当時から作家になることが夢で文芸部の活動に一生懸命だったし、雪音は陸上部で活躍しながら勉強もピカイチだった。そんな二人はキラキラしていて、憧れで、私にも夢中になれるものってあるのかなって考えて。

「あのさ。私が二人のお弁当作ったこと、覚えてる?」
「あ、もしかして、円香が屋上でお昼食べたいって言った時の」

 雪音はすぐにピンと来たようだった。続けて円香も思い出したようだったけど、すぐにその表情が渋くなる。苦みを押し流すように円香がハイボールを飲むけど、表情は全く変わらなかった。

「一年生の夏でしょ。先生、あんなに怒らなくてもよかったじゃんねー」

 円香がどこからか入手してきた鍵で昼休みに屋上に登り、夏の蒼空を満喫しながらお弁当を食べたのだけど、それがすぐにばれて放課後に呼び出されてしこたま怒られた。鍵を調達してきたりと主犯だった円香は特に。

「文句言いたいのは円香に巻き込まれた私達なんだけどね。まあ、あのおかげで里菜のお弁当食べられたし、悪いことばっかりじゃなかったけど」
「あの頃の雪音、食生活が単調だったしねー」

 あの頃は雪音のお昼は購買のパンやおにぎりだったから、いつも自分のお弁当を作っていた私が雪音の分も用意することとなった。そして、二つも三つもそんなに変わらないからと円香の分も用意したのだけど。
 ハイボールをちびりと舐めるように飲んで目を閉じる。
 屋上を吹き抜ける濃紺の夏の風に髪を揺らしながら、円香と雪音がお弁当箱を開く。わあっという感嘆の声が耳元をくすぐる。だけど、とにかく緊張してドキドキで胸がいっぱいいっぱいだった。

「あの頃は、食事なんてただの栄養補給だと思ってたから」
「うわあ、めっちゃ人生損してる。里菜に感謝しなきゃじゃん」

 その時まで、料理を作るのはただの日常で、誰かが喜んでくれるようなものではなかった。
 今でもはっきりと覚えている。円香が大きく目を見開いたまま固まって、雪音がポロリと箸を落とした瞬間を。
 最初は口に合わなかったのかと冷や冷やしたけど、それが間違いだったことはあっという間に空になったお弁当箱が証明してくれた。
 あの時から少しずつ、私にとって料理を作ることは日常から特別の色を帯び始めた。

「二人が美味しそうにお弁当食べてるの見て。そっか、私は料理が好きなんだなって」

 さすがに懲りて屋上でお弁当を食べることはなくなったけど、定期テストが終わった後とか、雪音が陸上の大会で入賞したり円香の作品がコンテストでいい結果を残した時とかは、ちょっとした「お祝い事」として、昼休みに教室を抜け出してお弁当を食べた。
 何でもない話をしながら三人でお弁当を食べるそんな時間が大好きで、いつまでもそんな日々が続けばいいなと思っていた。

「二人のおかげで夢を持てたし、夢が叶った」
「里菜の夢?」

 鶏肉を頬張る雪音の問いに頷く。今この瞬間も夢が叶い続けている。
 高校を卒業して一度はバラバラになってしまったけど、どうしてもあの頃の時間を忘れられなかった。
 だから、一生懸命料理を勉強して、あの頃みたいに一緒にいられる場所を作った。

「大人になっても、三人で一緒に美味しいごはんを食べたいなって」

 私の言葉に円香と雪音が顔を見合わせて、くすぐったさそうな笑みを浮かべる。
 最後に残った鶏むね肉のチリソースを二人が残さず頬張って、おいしそうに顔を綻ばせる光景がじんわりと胸の中に浸み込んでくる。
 あの時、私にとって料理を作るということが特別になって本当によかった。
 この店は私の夢を叶える場所であって、私に特別をくれた二人への感謝のしるしでもあった。

「まったくもう。結婚しなくていいかって思うようになったの、真面目に里菜のこのお店のせいだかんねー」

 くいっとハイボールを飲み干した円香がカウンターの上に腕を組んで頭を乗せる。私を見上げるようにしてニイっと笑った円香は氷だけになったグラスをカラカラと揺らす。

「いつ来ても里菜が美味しい料理と一緒に待っててくれて、仕事が忙しくても雪音が駆けつけてくれる。里菜の料理が私にとっての家庭の味って感じになっちゃったし、こんな幸せな場所、私じゃどうやったってつくれないもん」
「燃料注いでバチバチ燃え上がるよりも、ゆっくりいつまでもじんわり温かい方が幸せっての、分かる気がする」
「雪音さん。そういう文学的な表現は私のお株を奪うのですが」

 円香の拗ねたような声に三人で顔を見合わせて、それからプッと吹き出した。
 温かな空気と、お酒で少し火照った感じが心地いい。優しい時間と穏やかな場所。
 それが私のお店だということが、今でも時々夢のように感じる時がある。

「して、里菜さん。そろそろ甘いものが食べたいのですが」

 急に真面目っぽい表情で小さく私に詰め寄る円香に対して胸を張ってみせる。

「任せて、デザート作ってあるよ」

 一度キッチンの方に戻って、冷蔵庫で冷やしていたカップを三つ取り出し、カウンターに運ぶ。
 ゼラチンと牛乳と砂糖を温めてから、冷やして固めただけのシンプルなミルクプリン。
 本当は片栗粉やくず粉を足すとなめらかで濃厚になるのだけど、今日はあえて素朴に仕上げた。
 三人で並んで、ミルクプリンを口に運ぶ。つるり、とろり、ほんのりあまい。
 優しい味わいが口いっぱいに広がった。

「んー! おいしい! それと、懐かしい!」
「購買で売ってたミルクプリンを思い出すわね」

 何の変哲もないミルクプリンのはずなのに、どれだけ手間暇かけた料理よりもおいしい気がする。
 きっとこれは思い出補正というものなのだろうけど。裏返せば、どんな料理にも負けないくらい私たちの思い出は眩しくて、鮮やかで。
 そんな思い出が溶けていってしまわぬように、味わいながらミルクプリンを掬っていく。
 カラン、と空になった器とスプーンが重なる音を奏でるのは三人同時だった。

「おいしかった! これであと三年は戦える!」
「蒼乃翠先生は三年も戦ってないで、早く次のお祝いができるように頑張りなさい」

 雪音の言葉に円香は得意げに笑い、グッと親指を立ててみせる。

「今書いてるのは自信作だからね。期待してくれていいよ」
「へえ、どんな話なの?」
「趣味も性格も全然違う三人の女子高生が、めちゃめちゃぶつかったりするんだけど、文化祭をきっかけに少しずつ仲良くなりながら最高の演劇を創り上げていく話」

 それは少し、思い当たる節がある。その作品のモデルがどんな人たちなのか、聞くまでもない。
 ちょっと恥ずかしい気がするけど、あの頃の思い出がどんなふうに描かれるのか楽しみだった。

「タイトルはね、『ハーデンベルギアの花をともに』」
「それって――」

 ハーデンベルギア。それはこのお店の名前の由来となった花。

「出会えてよかった。運命の出会い。幸せが舞い込む。思いやり」

 ハーデンベルギアの花言葉を唱えながら、一つずつ指を折っていった円香がパチリと私にウインクをする。

「全部詰め込んでみせるから、楽しみにしてて」

 ぎゅっと、胸が熱くなる。
 こんなときなんて言えばいいのか、全く言葉が出てこなかった。
 二人への思いを店名に込めた。気恥しくて、店名の意味を直接伝えたことはなかったけれど、円香はとっくに気づいていたのだろうし、何かと鋭い雪音も同じだろう。
 そんな二人とこのお店で昔みたいに一緒に食べて、笑えることが幸せで、温かくて。

「じゃあ、次のお祝いに向けて今日はそろそろお暇しようかしら。円香がコケたときに備えて私も頑張らないと」
「雪音サン、年々口悪くなってない?」
「そりゃあ、どこかの誰かが私をモデルにしたっぽい登場人物の小説を好き勝手に書いてくれるから?」

 頬を膨らませてむくれる円香を置いて雪音が立ち上がる。あれだけ飲んだのに、全くふらつく気配もないのはさすがだった。一方の円香は立ち上がろうとしたときに少しバランスを崩して、すかさず雪音がその身体を支える。てへへと照れ隠しのように小さく舌を出した円香が私の方を向く。
 三人で一緒にいるのは楽しいけれど、見送る瞬間はいつも少し寂しい。そんな気配が出ないように、私は二人に頭を下げる。

「またのお越しをお待ちしております」

 最後にバッチリ決めたつもりだったけど、聞こえてきたのは二人が吹き出した笑い声だった。

「里菜、残念だけどやっぱりその感じ似合ってない」
「そうだよ。私たちにはいつもの挨拶があるじゃん!」

 円香がニカッと笑って片手をあげる。雪音もふわりと微笑みながら同じように手をあげて、私も二人の真似をする。
 あの頃の私達はいつもこうやって別れていた。何気ない言葉を、毎日積み重ねるようにして。

『また明日』

 その言葉をこれからもずっとずっと重ねることができるよう、私はハーデンベルギアで待っている。