朝、いつもの時間にいつもの改札口を通りぬけて出ようとしたところ、いきなり見知らぬ男子高校生に声をかけられた。
顔を真っ赤にして気をつけの姿勢のまま、うわずった声を出してくる。
この制服は近所の波並高校だよな。
「ひと目ぼれなんです。つき合って下さい!」
直球だな。
「高校に入学してから、電車で見かけてなんて可愛いんだろうって、ずっと片思いしていました。今日、やっと勇気を出してこの気持ちを伝えようって決心したんです」
またか。
朝の爽やかな気分がふっとぶ。
周囲がこちらに注目し始めた。ちらちらと視線を感じる。
とにかくこいつを早く止めなきゃ。
「あー、無理。つきあえない。可愛いなんていわれても全然嬉しくないし」
そいつはかわいそうなくらいに動揺していた。
「きれいの方が良かったとか?どっちも思ったんだけど。そういえば初めて聞いたけど、声は以外とハスキーなんですね。いや、そのギャップも魅力的……」
だめだ。我慢できない。
「いい加減にしろ!おれは男だ!つきあうわけねえだろ!」
「ええっうそだろう?まさか」
しまった。
怒鳴ったせいで、よけい周囲の注目を集めてしまった。
告ってきたやつだけじゃなく、回りのやじ馬まで「うそでしょ?」「えっ女の子……じゃないの?」なんてひそひそ話している。
無遠慮な視線にさらされ、もう一度切れそうになるがなんとか押さえる。
ちくしょー。なんでおれがこんな目に。
「ほらっ行くぞ」
後ろから大きな手がおれの肩をつかんだ。
あっけにとられている告白相手と野次馬を残して、おれは拉致されるようにその場を離れた。
「ちょっと、離せよ。うっとおしいだろ」
もがくようにして、おれはその手をふりほどいた。
「せっかく助けてやったのに。これで今月3回目か?男に告られるのは。あいかわらず仁海《ひとみ》はもてるなあ」
「お前がいうな!貴史!」
広瀬貴史《ひろせたかし》は、切れ長の目に鼻筋の通った品のある顔立ちで、クールビューティーと賞賛され、女子から絶大な人気を誇っている。
そんなクールなイメージを裏切る、いたずらっ子のようなまなざしで貴史はおれを見つめる、
「先に振られた身としては、俺を超える相手じゃないと、仁海を渡すわけにはいかないからな」
そうだ。
もとはといえばこいつが始まりだ。
一年前の高校の入学式の後、同じD組の教室に入ったとたん、貴史はおれの手をとって
「松浦仁海《まつうらひとみ》さん。俺とつきあってほしい」
といってきたんだ。
「振るもなにも、女と間違えて告ってくるんじゃねーよ」
「いやあ、だって大きな澄んだ瞳、上向きカールした長いまつ毛、意外と肉厚なピンクのくちびる、極めつけにきめの細かいきれいな白い肌ときたら、男だなんて思わないだろう」
「わーっ!その寒くなる形容詞の数々をやめろ!」
「あ、思わず触れたくなるつやのある茶色のさらさらストレートヘアと、抱きしめたくなる華奢な体つきも追加だな」
頭をなでようとしてきた貴史の手をはねのけて、おれは学校に向かって走り出した。
おれたちの通う私立陽聖高等学校は、私立でありながら制服はない。生徒の自主性にまかせるという、かなり自由な校風だ。
そういう自由を安心して与えられるレベルの生徒を集めているってことで、偏差値は結構高め。おれは中三の時にはかなり頑張って勉強して、なんとか入学を果たした。
制服がないのが、やっぱり良くなかったかなあ。パーカーにジーンズだと、女に間違えられてばっかりだ。
でも制服も嫌なんだよなあ。
ネクタイも詰め襟もうっとうしい。おれが着ると、なんだか仮装大会みたいになるしな。
中学の時のように、制服を着ているのに「なんで男装しているんですか?」なんて真顔で何人にも質問されるよりはましだ。
「……おはよう。ずいぶん息が切れているが」
二年C組の教室に入ると、無表情でアンパンと牛乳をぱくついたまま、隣の席の九条薫子がおれを見た。
「……めずらしいな。一人か?」
「いや、一緒だ」
おれが何かいうより先に、後ろから現われた貴史が答えた。
涼しい顔をして、息ひとつ切らしていない。
「ふふん。毎日、剣道部の練習で鍛えている俺を、仁海がふりきれるわけないだろう」
身長186センチ、おれより26センチ上から見下ろして、得意げにいう貴史のどこがクールビューティーだ?
女子の皆さん、騙されてますよーって大声でいいたい。
「……仲がいいな。朝も待ち合わせてきているなんて」
「そんなもんしてない!」
おれは思いっきり否定した。
「そんなんしているわけないだろ。こいつは剣道部の朝練があるし、だいたい使っている電車の路線だって別なんだから」
「……それにしては毎朝一緒に教室に入ってくるな」
アンパンを食べ終えて、メロンパンの袋を開けながら薫子が指摘する。
しかしよく食べるな。しかもこれは朝食じゃない。
「……出てくる前に、家で朝ごはんはちゃんと食べている。菓子パンばかりじゃ体に悪いじゃないか。私は体のことをきちんと考えている」って前に聞いた時いっていたからな。
でも食べ過ぎってあきらかに体に悪いと思うんだが……太らないのが不思議だな。どんな体してんだ。薫子は。
スレンダーで高身長だから、全部縦に栄養がいっちゃってんのかな。
「答えは簡単。朝練が終わったあと、俺が駅まで、仁海を迎えに行っているからな」
貴史に後ろから抱きかかえられて、おれの薫子に対する考察はふっとんだ。
「変だろう!わざわざ迎えにくんなよ!」
「そんなこといって、今日もまた男に告られて、窮地に落ちていたくせに」
「窮地になんて落ちていない!」
「そうだな。今日のやつは男だっていわれても、証拠を見せろといって脱がそうとなんてしないし、男でもかまわないなんてせまってきたりしなかったもんなあ」
「っぐっ」
そうなんだ。ただ告ってくるだけならいいが(いや、本当は男が男に告ってくるなんて全然よくないが)、たまに強引で変なやつがいる場合がある。
ちびで非力なおれは、それこそ窮地にたたされることになる。
「まあ弟みたいなもんだしな。波奈《なな》さんにも頼まれているし、仁海の面倒は俺がみてやんないと」
「……波奈さん……?ああ、広瀬と松浦の姉さんはつきあっているんだったな。……まあ面倒見のいいことだ」
薫子はパック牛乳の最後を、チューと勢いよく音をたてて飲み干すと、ごみ箱に向かって立ち上がった。
それを合図に、貴史もおれの斜め後ろの自分の席についた。
波奈ねえ、おれのこと貴史に頼んでいるのか。……だから貴史はおれの面倒みているのか……。なんか分からないけど急に面白くない気分になってしまい、椅子を乱暴にひいて席についた。
「……昼だ……」
午前中の授業が終わり昼休みをつげるチャイムがなった。
同時に薫子がにんまりと笑う。
三段重ねの特製弁当を抱えると、いそいそと、もう一人の女子と一緒に食堂に移動して行った。
「あれ?九条は?」
おれの席に寄せて、空いている机と椅子を移動させながら、貴史が聞いてきた。
「ああ、最近やっと女子の友達ができたみたいだよ。坂本愛梨っていかにも女の子って感じの子」
九条薫子は、一言で表現するのなら、影のある美少女といえよう。
だがその美しさは、まっすぐな黒髪、青白い肌に赤い唇、モデル並みの170センチを超える長身に加えて、折れそうに華奢な手足って感じで、ホラーにでてきそうな、ちょっとこわい系の美しさだ。
本人が微笑んでいるつもりが、なにかたくらんでいるような笑みに見え、ひとりごとをいうと呪術の言葉を唱えているように見えるという魔女的な美しさ。
そのため一般的な女子からは、距離をおかれてしまっていた。
本当は大食らいの単なるアホなんだけどなあ。
たしかあれは四月の中旬頃だったかな。
おれは授業中、地面から響くような、獣のうなり声のような妙な音を耳にした。
それが席替えで隣になったばかりのホラー美少女から発信されていると気づいた時、思わずなにか呪いでもかけられているのではないかとあせって冷や汗が出てきた。
「……おなか、すいた……」
そうつぶやき、遠い目をしている薫子を見た時、これは腹の音だったのかと気づいたのだ。
「これ、食べるか?」
一時間目の授業が終わったあと、おにぎりとマフィンを見せると、薫子の目がらんらんと輝いた。
「……いいのか?食べても」
おれがうなづくと同時に、薫子は右手におにぎり、左手にマフィンを持ち、大きくほおばった。
ものの数秒で、おにぎりとマフィンは姿を消してしまった。
「……すごくうまいな。松浦が作ったのか?」
「ちげーよ。ねえちゃんが作って持たせてくれたんだよ」
それ以来、薫子はおれになつき、昼休みもおれ達と一緒だった。
その薫子と最近よく一緒にいる坂本愛梨は、ふわふわの髪に小動物をイメージさせる黒目がちの童顔、いかにも女の子って感じで、薫子と真逆のイメージだ。
「氷の女王と赤ずきんちゃんって感じかな」
二人を見て、貴史が感想を述べた。
どっちがどっちかは、説明するまでもないだろう。
「まあ同性の友達ができたのは、薫子にとっても良かったよ」
「いや、仁海だったら女の子同士にしか見えないし」
「たしかにそうだよな」
貴史と、やつの言葉にうなづく回りのクラスの男子たちも、一緒にどついてやった。
放課後、化学部でビーカーを洗っていたら、薫子が現われた。
「……かるめやき……」
「そのうらめしや~みたいなテンションやめろよ」
化学部は火が使えるので、実験と称して簡単な菓子を作ることもできる。
去年の担任がこの部の顧問なんだけど、化学は好きな科目だったこともあり、わりと親しくしゃべったりしていた。
なるべく家に早く帰りたかったので、二学期まで帰宅部を決めこんでいたのだが、そこに目をつけられたらしい。
「頼む。部員が足りなくて。入りたい部が特にないなら入部してくれ」
と泣きつかれた。
押しに負けて入った割には、自由がきいてなかなか居心地がいい。
「幽霊部員が多くて自由がきく。菓子も作れるし」
と何の気なしに部活の現状を話したら、今までどこの部にも入っていなかった薫子が即入部してきた。
それでもって放課後になると、部活にかこつけておれに菓子をねだることが多い。
「まだか……苦しい」
「もうちょっと待てよ。ここでぐるぐるっとかき混ぜて……っと。ほら、ふくらんだ」
おれはできたばかりのかるめやきを、薫子に渡した。
まわりからは「魔女の微笑」といわれている表情を浮かべて、かるめやきをパクつく薫子におれは尋ねた。
「最近、坂本とよく一緒だな。仲いいのか?」
「……向こうからよく話しかけてくる。パンやスイーツの話題で盛り上がる……」
薫子の口調で盛り上がるってのは想像しにくいが、まあ甘いもの好きってことじゃこいつも女子だよな。食べる量が半端じゃないだけだ。
「……来たぞ……」
何が、と聞く間もなく、化学室のドアがいきおいよく開いた。
「待たせたな。さあ、帰ろう」
「待ってねーよ!」
そこには部活を終えた貴史が立っていた。
おれは近寄ってやつをじっと見てみる。
部活終えたばっかなのに、涼しげな顔だよなあ。
汗臭さもないし。
クールビューティーって体も冷やすのか?
「ん?なに見とれているんだ?」
「ばっばか。そんなんじゃねえよ。何で汗かかねーんだろって不思議だっただけだよ。お前、汗腺ねーんじゃないのか」
確かに見とれていたので、焦ったおれはごまかそうとしゃべりまくった。
貴史は笑いながら「ほら、行くぞ」とカバンを持った。
「今日は波奈さんと約束してるから。仁海んちに寄るよ。夕飯、ご馳走になるから」
「……いいな……」
食べ物の話に反応した薫子がつぶやいた。
「お前も来るか?一人分くらい増えても大丈夫だぞ」
共働きのわが家では、おれとひとつ違いの波奈ねえちゃんが小学校六年生から食事係を担当している。
ベテラン主婦並みの腕前の上に、人に食べさせることが大好きときているから一人分増えるぐらいすぐ用意してくれる。
あ、でも薫子は一人分じゃないな。
「すごく心惹かれるが……今日は婚約者と食事をしなければならない」
「そうか。予定があるなら残念だな。……って婚約者?そんなもんがいるのか」
驚いたおれとは反対に、貴史は訳知り顔でうなずいた。
「九条ってなにげにお嬢様だもんな。この学校の土地だって、九条の親から学校に貸しているんだろう?」
この学校の広さって、けっこうあるよな。この辺地価もけっこう高かったんじゃね?
「土地の広さは約千五百坪。坪単価の相場は三百万ぐらいって聞いてるぞ」
貴史の言葉におれはぶっとんだ。それってそれって、
「うわあ、0がいくつあるんだよ!」
「……土地は祖父のものだ。理事長が祖父と友人なので、格安で貸しているらしい」
二人は、驚きで顎が外れそうな顔をしているおれを見て、声をそろえていった。
「まさか知らなかったのか?」
首を縦にぶんぶんふる。
「……松浦らしい」と薫子は口元を歪めた。じゃなくて微笑んだ。
「……はっきりいって、私の学力ではこの高校に入学するのは無理だった。祖父の力を借りて、推薦入学でねじこんでもらったようなものだ」
「そんなにこの高校に来たかったのか?」 おそるおそる聞くと
「……だってこの学校の学食と購買は、他の高校と比べるのが恐れ多いくらい、ハイレベルなんだ!私が充実した高校生活を送るなら、ここしかない!」
すごく薫子らしい理由だな。
でも三段重ね弁当を持参している上に、学食も利用するってすごすぎないか?
本人は「栄養学的にも朝、昼をしっかり食べるのは良いことだ」とすましているが、夜控えめにしているとは考えられない。
「……しかし、祖父に借りを作ってしまった。その為、祖父のおめがねにかなった殿方と婚約しなければならなくなってしまったのだ……」
「薫子、お前いいのか。高校生なのに、もう婚約者なんて決められて。嫌じゃないのか」
うつむいた薫子を思わず心配すると、でも昔からの知り合いでもあるし、会うたびに美味いものを食べさせてくれるからな、という返事だった。
「でもいかにも仁海よなあ。校内でも有名な九条の家のことを全然知らなかったなんて」
貴史が話題を変える。
「……みんなに遠巻きにされていたので、松浦が普通にかまってくれて嬉しかった」
そうか。なかなかクラスになじめなかったのは、ホラー美少女の外見だけじゃなく、家のこともあったのか。
それに普通にかまうっていうより、おれとしては餌付けしている感覚だったんだけどさ。
「仁海はそのまま、まっすぐ育ってほしい」
貴史の言葉に薫子もうなづく。
「二人して、おれのこと子供扱いすんなよ!」
おれはガチャガチャ音を立てて、使用した器具を片付け始めた。
「ただいまー」
貴史と二人で家に着くと、美河《みか》と亜湖《あこ》が駆け寄ってきた。
「おかえりなさーい!仁海ちゃん」
「あっ貴史君も一緒だあ。今日もかっこいいねえ!」
「おい、仁海ちゃんじゃなくてお兄ちゃんと呼びなさいと、何度もいっているだろう」
貴史の右と左にしがみつく二人に怒っても、知らん顔だ。
双子の妹の美河と亜湖は、貴史がお気に入りだ。小学二年生といえども、女はイケメンには目がないらしい。
「ありがとう。二人とも、今日もとっても可愛らしい」
キャーと歓声を上げて、美河と亜湖は奥に走り去った。
「お前、そういうことをさらっというよね」
「だって本当のことだろ?仁海に似てるしな。おれの知っている女の子の中で、仁海に波奈さんの次に、二人は可愛いよ」
「おれは女じゃないし、順番が間違っているだろう!」
叫ぶおれを無視して、貴史はおじゃましますといいながら、靴を脱いで部屋に入る。
「なあに、にぎやかね。ご飯出来ているわよ」
波奈ねえが食卓に料理を並べていた。
「わあ、美味しそうだな。おっ!やった!れんこんのはさみ揚げがある!」
それはお前の好物だから、波奈ねえが用意したんだろうよ。
「じゃあご飯にしましょうか。仁海、配膳手伝ってくれる?」
「はーい」
もちろんいわれなくても動きますよ。海外ばかり行っていてほとんど不在のカメラマンの父親と、大手出版社の編集者という超忙しい共働き夫婦の松浦家では、奈海ねえがほとんど母親代わりだ。おれはそんな奈海ねえに、いっつもまとわりついてまねしていたせいで、家事全般はわりと得意だ。
「いただきます」
れんこんのはさみ揚げの他、肉じゃが、きんぴらごぼう、うの花に大根の味噌汁が並んだ食卓を皆で囲む。
「なーんか和風だよねえ」
「コロッケが食べたーい」
双子は文句をいいながらも、パクパクとよく食べる。
「今日は貴史君向けのメニューだからね。和食の方が好きだもの」
「いや、奈海さんの作るものなら、何でも好きですよ。うまいもの」
にっこり微笑み合う恋人同士、か。人前でいちゃつくなよ。
「貴史お兄ちゃん、おかわりは?美河がよそってあげる」
「ずるーい!亜湖がよそうんだもん。貴史お兄ちゃん、こっちにお茶碗ちょうだい」
「もう、二人とも。まだ食べ始めたばかりよ。おかわりは早いでしょう。貴史君が困っているじゃない」
「おかわり!」
おれは空になった茶碗を、双子に向かって突き出した。
「仁海、ずいぶん食べるペース早いな。体によくないぞ」
「そうよ。もともと仁海は胃腸が弱いんだし。もっとゆっくりよく噛んで食べなさい」
二人に言われて、おれはもっとやけくそになって、ひたすら飯をかっこんだ。
「痛てえ。痛ててててて……」
「しょうがないな。仁海は。食べ過ぎだろう」
腹痛を起こしたおれは、二階の自分の部屋のベッドで横になったまま、貴史から薬を受けとった。
「それを飲めば、少し楽になるから」
そういわれて、コップの水も受け取る。面倒なので、少しだけ体を起こして薬を飲もうとしたら、バランスをくずしてしまった。
「あっ無精するな。ほら、水がこぼれている」
貴史はおれの口からこぼれた水を自分の指でぬぐうと、そのままペロリとなめた。
「そういうのやめろよ……」
「大丈夫か?顔が赤くなっているぞ。腹が痛いだけじゃなくて、熱もあるのか」
そのままおでこをくっつけようとしてきたので、おれはあわてて大声を出す。
「だからそういうのやめろって。そもそもお前は、波奈ねえのところに来たんだろ。おれの部屋に居座るなよ」
「ん、そうだな。今日は大事な話があるんだった」
そういって立ち上がった貴史は、急にかがむと、おでこをくっつけてきた。
「熱はないようだな」
不意打ちだ!油断していた。全くこいつは。
「じゃあ、波奈さんとこに行くよ」
おれの枕投げ攻撃を軽くかわすと、貴史は部屋から出て行った。
「ったく、あいつは何考えてんだか」
寝っ転がりながら、おれは自分の心臓がばくばくいっているのを感じた。
まったく困るんだよ。こういうの。
お前は波奈ねえと付き合っているんだろうが。
一年前の入学式の日、告ってきた同じクラスになったばかりの男をもう一度眺めて、おれはびっくりした。
女に間違えられて告られることは、めずらしくもないが(いや、これはこれで問題だな)相手の外見レベルがとてつもなく高かったからだ。
185センチを超すであろう長身。細身だが肩幅はがっしりしている。そして黒髪と切れ長の目に高い鼻梁を持ち、全体的な雰囲気
は日本的な凛とした美しさだ。
「かっこいいな……」
思わずつぶやいてしまった。
「じゃあOKってこと?」
そいつはおれに微笑みかけてきた。
「ちっちげーよ!おれは男だし、OKじゃねーし!」
思わず大声で叫んでしまったおれは、またおなじみの
「うそっ」
「女の子じゃないの?」
のひそひそ声に囲まれる羽目になった。
しばらく言葉を失った様子だったが、もう一度微笑むとそいつはいった。
「じゃあお友達からで」
「つーか、からでじゃなくて、友達しかありえねえから」
おれはしかめっ面をしながら、そいつが差し出してきた右手を握った。
そればおれと貴史との出会いだ。
そんな訳で、貴史との交流が始まったのだが、まあやつはすごかった。
見かけだけの男ではなかったのだ。
入学してすぐの実力テストで、総合二位をとって皆を驚かせた後、中学の県大会で剣道個人優勝をしていた経歴が明らかになった。
校長から直々に呼び出されて、何事かと思ったら、学校の近くに住むお年寄りが、ケガをした際に病院まで送り届けてくれて、名前もいわずに去っていった生徒さんにお礼を伝えたいと現れ、全生徒の顔写真から貴史のことだと分かった為だった。
他にも川で溺れていた子どもを助けただの、電車内で女子高生に痴漢していた男を退治しただの、その手のすごいやつエピソードが山盛りだった。
思わずおれは「お前は出来杉君か」と突っ込みを入れてしまった。
「何だ。それ」
と不思議そう顔をしていたので、さすがの出来杉・貴史君も漫画やアニメーションにまでは精通していなかったらしい。
国民的人気漫画なのにな。
しかしやつがあんまり素晴らしい人材だったので、おれは決心した。
「お前、おれの姉ちゃんと会ってみないか」
「なんだ。いきなり」
「いや、お前おれの外見が気に入ったんだろう?おれ、姉ちゃんがいるんだけど、回りからもよく似ているっていわれるんだ。弟のおれがいうのもなんだけど、すごく素敵な姉ちゃんなんだ」
じっと見つめてくる切れ長の目に、おれは落ち着かなくなってまくしたてた、
「一こ上の高二。華丘女子高に通っているんだ。あそこ制服が可愛くて有名だけど、波奈姉ちゃんほど似合う子はいないよ。成績も学年五番から落ちたことないし、人望もあるから生徒会で副会長もやっているんだ。そのうえ、料理がうまくて、和・洋・中何でも来いってレベルなんだ。それでもって……」
「分かった、分かった」
「あ、会ってみる気になった?」
「とりあえず仁海がお姉さんのこと大好きだっていうのは、よく分かったよ」
図星をさされて、おれは顔が熱くなった。
「うっそうだよ。おれは姉ちゃん大好きなんだよ。そんな姉ちゃんとお前なら、お似合いなんじゃないかと思ったんだよ。変なやつには、大切な波奈姉ちゃんをまかせたくないから」
貴史は、困ったような笑っているような変な表情で
「じゃあ一度会ってみようか」
といった。
「そうか?じゃあ善は急げだ!」
おれはさっそく二人を引き合わせる準備を始めた。
「波奈ねえ、姉ちゃん!」
「おかえり仁海。何をそんなに慌てているのよ」
洗濯物をたたんでいる波奈ねえの前に勢いよく座り、気持ちを落ち着けるために咳ばらいをひとつしてから話を始めた。
「波奈ねえは今、彼氏いないんだよね?」
「なあに、いきなりどうしたの。まあいないけど。だって前の彼も、その前の彼も、ラブレターくれた人も、その他もろもろみんな仁海が追い払っちゃったんじゃない」
波奈ねえは、あーあ、私ってば過保護な弟に守られて、彼氏も作れないんだわあと、わざとらしく嘆いてみせる。
「だってみんな、波奈ねえにはふさわしくないやつばっかりだっただろ」
「そうね。仁海を見たとたん顔を赤らめたり、妹さん可愛いねーなんてのりかえようとする、ろくでもないやつらだったわよね」
「う?」
思わず涙目になったおれを、波奈ねえは抱きしめた。
「うそうそ。私だって、あんな男たちなんかより、仁海の方がうんと大事だからいいのよ」
……うーん。おれに告ってきた男を紹介するってのはやっぱり問題かな。
ふつう嫌だよな。弟を見初めた男なんて。でも貴史ほどレベルの高い男なんてそうはいないし。
勝手に波奈ねえに近寄ってきた男はろくでもないやつばっかりだったし。
黙りこんでしまったおれの顔を、波奈ねえは覗き込んできた。
「実は……」
おれは正直に話すことにした。女子と間違えておれに告白してきたこと、でもすごくいいやつだから、波奈ねえにふさわしいと思っていること、だから一度貴史と会ってほしいことを伝えた。
「ふうん。面白いじゃない。いいわよ。会ってみても」
「本当?きっと波奈ねえも気にいるよ。外見も中身もすっごくいいやつだから」
そんな訳で二人を引き合わせると、予想通りお互いに気に入ったようで、付き合いが始まった。
でも家事で忙しい波奈ねえに合わせて、今日のようなお家デートがほとんどだ。
「たまには外でデートすればいいのに」
食事が終わった後に、並んで洗い物をしている時に波奈ねえに提案したことがある。
その時リビングでは、双子がつけっぱなしにしていたテレビから、若い子向けの情報番組が流れていた。
「ほら、今番組でやっているデートの人気スポット。ここからそんな遠くないじゃん。ああいうところに二人で行けばいいのに」
えー、人ごみ嫌―い、面倒くさーいと波奈ねえが顔をしかめる、
「おれ、今の方がいいや」
リビングにいないと思ったら、子ども部屋にぬいぐるみをとりにいっていたらしい。クマとウサギのぬいぐるみを抱えた貴史が、右肩に美河、左肩に亜湖をのっけたままで話に加わる。女子とはいえ小二だぞ。すごい筋力だよな。そんでもってうちの双子は、本当に貴史にべったりだよなあ。
「ここに来れば、美人4人に囲まれて過ごせるし」
「えー、貴史お兄ちゃん、美河美人?」
「亜湖も美人?」
きゃっきゃっはしゃいでいる双子を無視して、おれはどなった。
「4人ってなんだよ。おれは男だろ」
訂正しろと訴えるおれをよそに、貴史はそのまま双子の遊び相手をこなしていた。
そんな日々が日常になりつつあったのだが、ある日変化が訪れた。
「今日、また家でめし食っていくだろ?ついでにこないだ見たいっていっていた、親父の持っているDVD見ていくか?」
「あー、いやちょっと今日は用があって……」
貴史からは、歯切れの悪い返事が返ってきた。
「そうか?じゃあまた今度な」
家に帰ると、先日買ったばかりのワンピースを着た波奈ねえが、ちょうど家から出てくるところだった。
「仁海、おかえり。お姉ちゃん用があって出かけるから。夕食はシチューを作ってあるから、温めて食べてね」
「あ、ああ。分かった。帰りが遅くなるなら、迎えに行くから駅からでも連絡してよ」
波奈ねえが微笑んだ。ピンク色の唇の広角がキュッと上に上がる。
珍しい。波奈ねえが化粧までしているなんて。
「大丈夫。送ってもらうから」
それに仁海に迎えに来てもらったら、そっちの方が無事かどうか心配になっちゃうしね、と余計な一言をつけ加えた後、波奈ねえは行ってきますと手を振り、出かけて行った。
おれは自分の部屋に入って、カバンを置くと、ベッドの上に寝転んだ。
これって、きっと二人でデートなんだろうなあ。なんだ。うまくいってるんじゃないか。おれが心配なんかしなくても大丈夫じゃん。
「あーあ、安心した」
わざと声に出してみたが、すっきりしない。なんだ。これは。
しかめっ面をしているとお腹が盛大に「ぐーっ」となった。
「そうか。おれ腹ペコだから、なんかもやもやするんだな」
リビングに行くと、双子もお腹を空かせているらしく「ぐーっ」が三合唱となった。
「ごはんまあだー?」
「今日はなあにー?」
「波奈ねえがシチュー作っといてくれたから、温めればすぐ食べられるよ。ちょっとだけ待ってな」
その日、もやもやは腹ペコのせいだと結論を出したおれは、解消の為にごはんもシチューも三杯食べた。が、もやもやはちっとも晴れず、その夜、またおれは食べ過ぎによる胸やけと腹痛に苦しむはめになった。
次の朝、家を出る直前にスマホを見ると、貴史からメッセージが入っていた。
「悪い。試合が近くて今朝は迎えに行けない。電車で目をつけられないよう気をつけろ。念の為マスクでもしてこい」
よけーなお世話だ。即レスする。
「一人で学校くらい行ける!お前は剣道に集中していろ!」
ったくかまいすぎだろ。自分の彼女の弟だからって。
そう。おれは貴史にとって、自分の彼女の弟で同級生。
「悪い、波奈ねえ。昨日食い過ぎたから、朝めしパスね。行ってきまーす」
大声で叫ぶと、カバンを持って家を飛び出した。
電車の中で、おれは妙な視線を感じていた。
これは気のせい、考えすぎ。自分に言い聞かせて、回りを見回したい気持ちを抑えた。
振り向いて、顔をはっきり見られてしまったり、目が合ったりしたら、今までの経験上かえって大事になりやすい。
今日だけは男に告られたくない。
たまたま自分がいない日にそんなことがあったら、貴史の過保護がどこまでエスカレートするか、分かったもんじゃない。
電車を降りて、誰からも声をかけられなかったことに、ほっとした矢先のことだ。
「あの、ちょっといいかな?」
話しかけられて、おれはギクッとした。
声がした方に顔を向けると、背の高い明るい髪の男が、にこにこ微笑んでいる。
「えっと、おれ男だけど……?」
先手必勝とばかりにいってのけたおれに対して、そいつはちょっとびっくりしたようだ。
「えっ?ああ、そうなの?でも君は陽聖学園の生徒だよね?」
「うん、そうだけど」
「僕、転校生なんだよ。職員室まで案内してもらえたら嬉しいんだけど、お願いできるかな」
げっ!おれってばとんでもない早とちりしてしまった。恥ずかしー!
「悪い!おれ勘違いして、変なこといっちゃった。感じ悪かったな。すまない!」
「?ああ、そういえばいきなり自分は男だっていってきたね。もしかして、君のことを女の子と間違えて声をかけてきた、ナンパ野郎とでも思ったのかな?」
「あー、いや、その……」
その通りとはっきりいうこともできず、いいよどんでいると「きっとそういうことがよくあるんだね?大変だね」と転校生が微笑んだ。
お、なんか感じいいやつじゃん。ほっとして、おれも思わず笑顔になった。
「まあ僕だって、どうせ案内してもらうなら君がいいって思って声をかけたんだしね。僕は二年C組に入るんだけど、君は何年生?」
「なんだ。同じクラスだよ。おれは松浦仁海」
なんか一瞬気になるセリフがあったが、クラスが同じことに気をとられて、何が引っかかってたのか、忘れてしまった。
「本当?同じクラスなんだ。嬉しいな。僕は佐原和佳《さはらかずよし》。親の転勤で転校してきたんだ。これからもよろしくお願いするね」
「ああ、よろしくな」
おれが笑顔を向けると、佐原はすごく嬉しそうな顔をした。
「じゃあまた後で。教室でな」
職員室まで佐原を案内すると、おれは教室へ向かった。
「……浮気?」
階段を昇っているところを、後ろから耳元でささやかれて、危うくこけそうになった。
あわてて手すりにつかまると、薫子がクロワッサンを口にしたまま、じっとこっちを見ている。
「……かなり動揺しているな」
「何いってんだよ!いきなり声かけてくるから、びっくりしたんだよ!ってか薫子、行儀悪いぞ。せめて席についてから食べろよ」
「……焼き立てはすぐ味わうのが一番正しい……」
学校のすぐそばのパン屋で、購入してきたんだな。まったく、薫子の食にかける情熱には尊敬さえ抱くよ。
「……さっきの人、誰?見たことない顔」
「ああ、転校生だってさ。同じクラスに入るそうだ。駅で道案内を頼まれた」
「……転校早々仁海に目をつけたのか。広瀬のガードはどうしたんだ?」
「何だよ、それ。貴史だったら、試合が近いから、朝練強化で忙しいんだよ」
「……そうか。ナイト不在で、絶好のチャンス。転校生はうまくやったな」
「あのなあ。そんなんじゃないから、変なこというなよ。佐原にも失礼だろ」
教室に入りながら、薫子の勘違いを訂正していると、目の前に剣道着のままの貴史が現れた。
「ふーん。さっきのチャラそうな男は、佐原というのか」
面だけは外しているが、朝練姿のまんまだろ。これ。
「あっぶねーな。ただでさえでかいんだから、防具なんかつけて目の前に立ちはだかんなよ。通行の邪魔になるだろうが」
「邪魔になる俺がついていなかったら、さっそく変なやつを連れてきたな。あれほど気をつけろと注意したのに」
「はあ?佐原のことか?転校生だっていうから、職員室まで案内しただけだよ」
貴史、お前右手に竹刀持ったまんまだぞ。
ちゃんと着替えてから戻って来いよ。おっかねーだろが。
「やあ、もう名前を覚えてくれたんだ。嬉しいな。でもどうせなら、和佳って下の名前で呼んでくれると嬉しいな。仁海君」
今度は後ろから障害物が現れた。
ちびなおれを挟んで、貴史と佐原が真正面から向き合っている。
「やあ、佐原和佳君。転校早々ナンパはよくないな。特に仁海は男子だしね」
爽やかな笑顔を浮かべると、貴史は右手を差し出した。
「ああ、さっき聞いたよ。でもどちらでも僕は構わないよ。気になる子がいたら、声をかけたくなるのは、自然なことでしょう?」
優しげに微笑むと、佐原は貴史の右手をとって、握手をした。
ただならぬ雰囲気の二人を見て、クラスメート達が
「三角関係?」
「転校早々すごいわー」
とざわめきたつ。
ああ、もういいかげんにしてくれ。
しかめっ面のまま、おれは二人にはかまわず、とっとと自分の席に着くことにした。
「今日からみんなの仲間になる佐原和佳君だ。お父さんの仕事の都合で、転校することになったそうだ。じゃあ佐原君。自己紹介をして」
担任が短い説明を終えると、佐原は教壇に立って自己紹介を始めた。
「どうも。佐原和佳です。中途半端な時期に転校することになっちゃったんで、ちょっと心細いんですが……。まだ何も分からないんで、いろいろ教えてもらえたら嬉しいな」
ちょっとはにかみながら自己紹介をする姿を見て、女子がいっせいに色めきたった。
「かわいい!もういろいろ教えまくっちゃう」
「いいわ!広瀬君のクールビューティーとは違うわんこみたいなとこがたまんなーい!」
キャーキャー女子が騒ぎまくる中、佐原はおれの方を見て手を振ってきた。
反射的に小さく手を振り返す。
「……いいのか?松浦」
「何が?」
薫子が指さす方を見ると、見たこともない仏頂面をした貴史がいた。
「ねえねえ。校内案内してあげる」
「前の学校では、クラブとか入っていたの?」
「お昼どうする予定?一緒に学食行きましょ」
昼休みは、予想通り佐原の回りが女子でいっぱいになった。
「貴史、今日は天気いいから、外で食べね?」
「ん、いいな」
弁当を二つ抱えて、貴史と教室を出ようとしたら、肩をつかまれた。
「お昼どこで食べるの?僕も一緒にいい?」
佐原だった。
「やだよ。女子に恨まれるだろ。みんな親切に案内してくれるっていってるんだから、学食行ってこいよ」
「んー、でも僕こう見えて、人見知り激しいんだよねえ。やっぱり馴染みのある、仁海君と一緒がいいんだよねえ」
「何いってんだよ。おれだって、今朝会ったばかりだろ」
「インプリンティングって聞いたことあるでしょ?雛が一番初めに見たものになついちゃうやつ。今、僕あの状態なんだよねー」
冷たい目で佐原を見ている貴史が、どんな対応をするかとおれはあせった。しかし貴史は大きくため息をつくといった。
「しょうがない。おれ達は中庭で食べるつもりなんだ。お前は弁当なのか?」
「ううん。じゃあ購買で買って、すぐ行くね」
後から追いつくから、とダッシュした佐原を見送ると、なんだか急に背後から寒気を感じる。
「ずーるーい。広瀬君のことだって、独り占めしているのに、そのうえ佐原君までなんてどういうこと?」
「両手にイケメンはべらせるなんて、許せない」
やばい。またしても、女子の恨みをかってしまった。ちくしょー。佐原のやつ。もう早く教室から出よう。
女子のうらみのこもった視線を浴びつつ、おれは小走りで中庭に向かった。
「でも意外だったな」
中庭のベンチに腰かけてから、弁当を貴史に渡しつつ、さっき思ったことを伝える。
「何がだ?おっ今日はチンジャオロースに焼売か。中華弁当だな。うまそうだ」
「いや、おまえは佐原のことすごい目で見ていたし、昼飯一緒に食べんの嫌がるかと思ったよ」
「ああ、もちろん気に食わないよ。仁海に馴れ馴れしくしすぎだ。でも俺はクラス委員だし、転校生の面倒をみないわけにもいかないしな」
そうか。そういえば貴史はクラス委員だったっけ。
「それに近くで監視した方が、仁海にちょっかいを出すのを阻止できるしな」
「おまえ、また変なこといっている。いい加減にしろよ。焼売落っことしそうになっただろうが」
貴史の言動に呆れていると、息を切らした状態で佐原が現れた。
「購買ってすっごく混んでいるんだねえ。びっくりしちゃったよ」
「ああ、チャイム鳴ったら、すぐ行かないと人気のパンは買えないんだよ。って佐原、おまえ一番人気の焼きそばパンと二番人気のたまごサンド。特製キャラメルプリンって、あの時間でなぜそんな品揃えを、手に入れられたんだ?」
「うん。僕が行った時は、もうジャムパンとコッペパンしかなかったんだけど、クラスの女の子たちが、差し入れしてくれたんだ。この学校の子はみんな親切だねえ」
にこにこしている佐原を見て、女子が我先にと争って差し入れしている光景が、ありありと目に浮かんだ。
「うちは親が共働きで、お弁当は作ってくれないんだよねえ。二人はいいね。お弁当なんだ。んっ?」
佐原は、おれと貴史の広げた弁当を、交互に見る。
「あれ?何で同じおかずで、同じ柄の包みなの?……まさか仁海君が広瀬君の分も、作ってきているとか……?」
「っちげーよ!これはおれの姉ちゃんが作ってるんだよ!貴史とうちの姉ちゃんは、付き合ってるんだよ!」
むせそうになりながら、おれは佐原に説明した。
「えっ?そうなの?広瀬君は、仁海君のお姉さんと付き合っているんだ」
「ああ、そうだよ。だから俺はこいつの保護者なの。兄貴みたいなもんだからな。変なことすんなよ」
貴史は、出し巻き玉子を口にしながら、佐原を睨みつける。
「ん、うまい。やっぱりこの上品な味付けは、絶品だな」なんてつぶやきながら。
「なんだあ。そうなんだ。僕はてっきり……良かった。安心したよ」
佐原のおれにとっては安心できないセリフは、出し巻き玉子にうっとりしていた貴史の目を、再びするどく豹変させた、
その日の授業が全て終わると、佐原はまた女子に囲まれた。
「佐原君、前の学校では、何かクラブに入っていたの?見学に行くなら案内するから」
「私、野球部のマネージャーをやっているの。佐原君が入ってくれたら、もう専属マネージャーになってお世話しちゃう!」
「ねえ、映画研究会に入らない?これから撮りたい作品の主役に、佐原君がピッタリなの。感動青春ラブストーリーものよ。監督兼相手役ヒロインは私で!」
佐原、すっごい人気だなあ。
ややおびえて固まった笑顔となっている佐原は、どうやら助けを求めているらしい。
必死にこっちに向かって手を振ってくる。だがこれ以上女子にうらまれたくないおれは、手を振り返して、貴史と一緒に教室を出ようとした。
その途端、佐原を囲んでいる女子の数に負けないくらい大勢の女子が、おれ達の回りを囲んだ。
「私達は貴史君一筋だから!」
「やっぱり一番かっこいいのは貴史君よ!」
「転校生なんかに、すぐ押し変する子達とは違うから!」
貴史に熱い視線を向けながら、口々に声を張り上げている。
うーん。やっぱり貴史も相変わらず、人気だな。
感心していると、別のグループが駆け寄ってきた。
「私達は、貴史君と仁海君、ペアで見守っているから」
「ベストカップルよね。応援しているから!」
きゃっきゃとはしゃぐ女子達に向かっておれは大声で叫んだ。
「そこ違うから!ベストカップルじゃないから!」
こいつら何考えてるんだ!
部活に向かう貴史と別れて、化学室に浮かうおれの後ろから、足音が聞こえてきた。
「仁海君、待って!」
息をはずませながら、佐原が近づいてくる。
「はあっ。女の子達から逃げるのに時間がかかってしまったよ。みんな親切なんだけど、ちょっと強引なところあるよねえ」
「佐原相手だから、親切なんだよ。お前もてるなあ。ところでクラブは決めたのか?」
「ずっとバスケやっていたから、この学校でも続けたいんだけど。仁海君は何部?バスケ部じゃないの?」
「お前何いってんだ。おれみたいなちびがバスケ部のわけないだろ。おれは化学部。とはいっても、部員は実質おれと薫子だけ。あとは名前だけの幽霊部員が4人。おかげで好き勝手にやらせてもらっているけどな」
「そうなんだ。ねえ、この学校ってクラブ活動、掛け持ちもOKなんだよね?」
「ああ、そうだな。たまにいるよ。そういうやつ」
「よし、じゃあ決めた。バスケ部と化学部。両方に入るよ」
「おい、うちのバスケ部はけっこうハードだぞ。掛け持ちきついんじゃないか?」
「化学部は活動きつくなさそうだよね。合宿とか、イベントの時だけ顔出すのとか駄目かな?」
佐原がおれの顔を、のぞきこんでくる。
「いや、実際4人は幽霊部員だし。ま、部員が増えるのは、ありがたいしな。バスケ部優先で掛け持ちするのは別にかまわない。じゃあ明日、入部届を渡すから提出してくれ」
「ありがとう」
佐原が手を振って去っていくと同時に、背後から人の気配がした。
「……佐原が入部するのか」
「薫子、その心臓に悪い登場のしかたはやめてくれ」
「……そんなことをいわれても、現れる前に人魂を飛ばしたり、ラップ音を鳴らしたりなんてできないし……」
「よけい心臓に悪いわ!」
よく見ると、薫子はたまごと小麦粉とバターを抱えている。
「……今日の実験は、仁海特製のホットケーキにしようではないか」
おれはため息をついた。
「あのなあ。おれ達は化学部。料理研究部なら、別にあるだろう」
「……実験してくれないのか……」
しょぼくれた薫子に、おれは慌てて「いいよ。作るよ」と声をかけた。
「……しかし、いいのか?」
「何が?」
「佐原が化学部に入ると、きっと広瀬が荒れるぞ」
「何か問題があるのか?好きなクラブ活動するのは、個人の自由だろ?」
「……まあな。部員が増えるのはいいか。あと二人増えても、私の学校用ジノリのティーセットはまだ足りるし……」
薫子は何やらぶつぶつつぶやいていたけど、おれはたまごを落としそうになったのに気をとられ、あまり聞いていなかった。
「薫子ちゃん!これから部活?」
ふわふわの髪を揺らしながら、レースのフリルのついた可愛らしいエプロンをつけた姿で、坂本愛梨が現れた。
「……ああ、そっちも部活か?」
「そうよ。今日はマカロンを作るの。初挑戦だから、ちょっと不安なんだけど」
そういって、「てへ」という文字が横につきそうな、小さく舌をだした坂本愛梨の表情は、いかにもザ・女の子って感じだ。
「そうか。坂本さん、料理研究部だっけ。イメージにぴったりだね」
「えー。そんなことないわ。フリルのエプロンとか、かわいいお菓子って、松浦君の方がぴったりだもの。うらやましいわ」
いや、坂本さん。褒めてくれてるつもりかもしれないけど、それ全然嬉しくないから。
苦笑いしていると、彼女は可愛くラッピングされた小さな包みを、おれと薫子にくれた。
「昨日の部活で作ったクッキーなの。良かったら、食べてね」
坂本さんにお礼をいって、おれと薫子は化学室に向かった。
「坂本さん、料理研究部に入っているんだな。ならおれじゃなくて、あの子に菓子作ってもらえばいいじゃん」
「……いや、私は仁海のお菓子がいい。さっきのクッキーを食べてみろ」
理由が分かるから、という薫子にうながされ、包みを開いた。
色とりどりのアイシングを施された、可愛らしい花や動物の形をしたクッキーが現れる。
「へー。可愛いじゃん」
さっそく、うさぎの形をしたクッキーをかじってみようとした。
固い。なんだこれ。固すぎる。思いっきり力をこめて齧ると「ばきっ」という音と、苦い味が口中に広がった。
「うえー、何だこれ。すっごく固くて、おまけに苦いぞ」
「……愛梨の通るお菓子は、見た目はすごくいいんだが、味は……食べ物とは思えない。あの子は可愛くするのは得意だが、料理は壊滅的なんだ」
「なるほど。分かった。ホットケーキは作ってやるから、そこにある自動販売機でココアをおごってくれ!」
口中苦くてしょうがない。おれは一刻も早く、口直しがしたかった。
次の日、クラスの、いや学校中の女子が大騒ぎだった。
バスケ部に入部手続きをした佐原が、力だめしに練習試合に参加したら、シュートは決めまくるわ、回りを意識した的確なパスで点につなげるわ、誰からも文句が出ないレギュラー入り確実という活躍ぶりだったらしい。
「へえ、すごいなあ。うちのバスケ部、全国大会でベスト8入っているじゃなかったっけ」
おれの言葉に、佐原はすごく嬉しそうな顔をした。
「僕、バスケ大好きなんだ」
「だったら、掛け持ちなんかしないで、バスケ部だけにすればいいのに」
「好きなものは、ひとつじゃないんだ」
そういうと、またにっこり笑っている。変なやつだ。
佐原の化学部への入部届を、顧問に提出する為、記入漏れがないかチェックしていると、スッと用紙が手もとから抜き取られた。
「あっ貴史。返せよ。これから提出するんだから」
「ふーん。化学部への入部届け?あいつはバスケ部に入るんじゃないのか?」
奪った用紙を見つめて、冷たい口調で貴史はいった。
「バスケ部メインで、こっちには時々顔を出すつもりらしいよ。まあ部員多い方が、予算取りやすくなるから、化学部としてはありがたいけどね」
「そうかそうか。では喜べ。俺も化学部へ貢献してやろう。入部届けを、もう一部用意してくれ」
「へ?だれがどこに入部?」
「俺が、化学部に、だ」
「だって貴史、剣道部に入っているじゃん」
「佐原だって掛け持ちだろう?おれが同じことをしたって問題ない。あいつがお前の回りをうろちょろするのはよくない。俺としては、波奈さんとの約束もあるし、仁海に悪い虫がつかないよう、見張る義務がある」
「いいよ!そんなの。お前はお前で、やりたいことやってろよ」
おれと貴史がもめていると、横から薫子が、スッと申し込み用紙を差し出してきた。
「……こうなることは、分かっていたからな。用意しておいた」
「サンキュー。九条って意外と気がきくんだな」
「……大丈夫。ティーセットは、二人分増えてもOKだ」
貴史はさっさと記入すると、佐原の申し込み用紙の上に自分の分を置いて、提出頼むなと告げると去っていった。
いつの間にか、二人の入部が決まってしまったようだ。
部活が終わると、いつも通り貴史が迎えにきたが、帰宅中の道のりの口数は少なく、むっつりした顔をしている。
「お前、何を怒ってんだよ」
「別に怒ってなんかいない」
「うそつけ。そんな顔して、だんまり決め込むなっつーの。うっとうしくてたまんないよ」
「うっとうしいのは、俺じゃない。佐原だ。しつこく仁海の回りをうろちょろしやがって。お前ももう少し、警戒心を持てよ」
「大丈夫だろ。あいつはもともとナンパしてきたわけじゃないんだし。それにあんなに女子にもてているんだから、お前が心配するようなことないよ」
「……まあ、おれもそう願ってはいるんだけどな」
家に着くなり、貴史は「お帰りなさーい」「今日もかっこいい!」と、いつも通りの双子の大歓迎を受けている、
「こらこら。実のお兄ちゃんにも、もうちょっと温かいお迎えをして欲しいなあ」
すねながら靴を脱ごうとしたら、ハイヒールと男物の革靴があるのに気づいた。
「めずらしい。母さんもう帰っているのか?」
ドアを開けると、母さんと母さんの同僚の森安さんが、波奈ねえといっしょに食卓についていた。
「こんばんは。おじゃましています」
森安さんは、気弱そうな微笑みをうかべて、挨拶する。
「ども。また母さんにこき使われているんじゃないですか?森安さんやさしーから。母さんの横暴許しちゃダメですよ」
「こら、人聞きの悪い。私は編集の先輩として、いろいろ教えているだけよ」
「限定品のブランド物のバッグを買いに行かせたり、家でバーベキューやるからって肉担当を任命して調達させるのは、編集と関係ないんじゃない?」
「世の中の理不尽なことを教えるのも、先輩の仕事よ」
すました顔の母さんの横で、困ったような顔で森安さんが座っている。
気が弱く、そのくせ神経が細やかで気がきくので、母さんにいいように使われている。
そして、森安さんはどうやら母さんに憧れているらしい。
自分の母親のことを褒めるみたいでなんだが、今年四十五歳にはとても見えない若々しさだ。大学時代はミス・キャンパスでもてはやされ、自社の雑誌の美魔女特集では、ぜひ出てくれと懇願されている。
「私は裏方に撤したいからやあよ」と逃げているらしいが。
見た目の可憐さとは違い、男勝りの気の強さと、徹夜の二日や三日平気でこなす体力の持ち主で、頭の回転も早く仕事もかなりできる。
売れない写真家だった父さんの才能を発掘し、写真集を出して「流浪の写真家 松浦飛沫《まつうらひまつ》」を世にしらしめしたのは母さんの手腕だ。
才能だけではなく、本人にも惚れ込んだ若き日の母さんは、押しかけ女房となり、おれ達が生まれ、いまに至るって訳だ。
父さんは未だに世界中流浪しているし、母さんは忙しいしで、波奈ねえとおれでほとんど家事をやっているという状況。
親は無くとも子は育つ、だな。
「相変わらず、皆さんお綺麗ですね」
森安さんは、少し顔を赤らめながら、おれ達を眺めた。この人、見かけによらず、こういう褒め言葉をストレートにいうんだよなあ。
お世辞とかいえない人だから、ちょっと天然入っているというか。
「あたり前でしょう?私と私の産んだ子どもたちなんだから」
そうですよねーと、母さんの言葉に真顔でうなづく森安さんだった。
その時、シューベルトの「魔王」が、大きく鳴り響いた。
森安さんが、慌てて携帯電話に出る。
「はい、はい。僕です。えっ今ですか?」
なんかトラブルかな?大至急とか今すぐとかの単語が飛び交った会話の後、彼はおれ達に向かって頭を下げた。
「おじゃましました。今日は急で申し訳ないのですが、緊急の用事が入ってしまったので、これで失礼致します」
鞄を手にすると、そそくさと玄関から出て行ってしまった。
「仕事?プライベート?」
母さんに聞いてみたら
「うーん。たぶん両方ね。岸谷潤よ。きっと」
と回答がきた。
「まだ縁切れていないの?」
「無理よ。離婚したっていっても、相手はうちの売れっ子コラムニストよ。向こうの指名で、担当からも外せてもらえないし」
波奈ねえと母さんが森安さんについて話している横で話を聞いていたおれの肩を、貴史がちょんちょんとつついた。
「あの人、離婚歴あるの?というか、結婚していたのが意外」
「だろ?しかも相手が、コラムニストの岸谷潤だったんだから、よけいびっくりだよ。人間のタイプが違いすぎ」
「ああ、TVや雑誌にもよく出てくる……機関銃のように、しゃべりまくる人?美人だけど気が強そうなイメージだよな」
「そう。担当になった森安さんのことを、なぜか気に入って、あの勢いで結婚に持ち込んだんだけど、半年で彼女から三下り半をつきつけられて離婚したという、二十八歳にしてなかなかハードな経験の持ち主なんだよ。森安さんは」
「ねーえ。今日は、お母さんも貴史君も一緒にごはんー?」
ほっとかれるのにしびれを切らした双子達が、貴史の両隣に座ってまとわりつく。
「そうね。もう夕飯の時間ね。私お腹空いちゃったあ!ねえねえ波奈、今日のご飯はなあに?」
母親の娘に対するセリフとは思えないな。
「今日は鯵フライと切干大根の煮物よ。お味噌汁の具はしじみ」
「あら、森安君の好物ばかりじゃない。まったくあの子は、ついていないわね」
よっこいしょ、と実年齢にふさわしいかけ声をかけて立ち上がった母さんは、波奈ねえと一緒に食事の準備に取りかかった。
「おはよう!今日も朝から、仁海君に会えて嬉しいよ」
「何をいっているんだ。偶然みたいな風にいうな。駅で待ち伏せしていたら、嫌でも会うだろうが」
貴史が佐原に反論する。
「ははっ。そうだね。広瀬君はついでだけど、まあ会えて嬉しいよ」
「……佐原、お前本当は、結構嫌なやつなんじゃないか?」
「クールビューティーと呼ばれながら、実は粘着質で嫉妬深い性格の広瀬君と同じくらいには、二面性があると思っているよ」
「お前なー」
「あーもう二人ともうるさい!」
右と左、おれの頭の上で飛び交う言い争いに、いいかげん耐え切れなくなり叫んだ。
教室に入るとガヤガヤと騒がしい。
「お化け屋敷と喫茶店は定番だよなー」
「うちのクラスの女子は水準高いから、メイド喫茶やコスプレ喫茶にしたら、絶対受けるぞお」
「レベル高いっていったら、ミスター・ミス陽聖、両方ともうちのクラスから出ちゃうんじゃね?」
「二年からじゃないと参加できないんだもんな。うちの学校。何でだろう?」
「まだ一年生は入学したばかりで、お互いのことがよく分かってないからってことになっているらしいよ。でも本当は昔一年生で選ばれた子が、上級生のいじめにあったんで、二年生以上にルール変更したらしい」
「最近はルッキズム批判があるから、ミスコン系は禁止したり、やり方変えた学校も多いよね。実際うちも審査基準も変わってきているし。写真以外に自己アピールが重視されるようになってきたもんね。ま、自己アピールは希望者のみだけど、あれで点入る人けっこういるよね。筋肉自慢の先輩やダンスの腕前がプロ級の先輩とか。男女二人で漫才コンビ組んで入賞した年もあったしね。ま、どっちにしても人気投票に近いから」
「へー。でもあの去年の噂聞いた?無効票で公には出来なかったらしいけど、一年生で出場者にエントリーされていないのに、広瀬と松浦がかなり票集めてしまって、文化祭実行委員を悩ませたらしいよね。こっちは完全に見た目の魅力で表が入っちゃったんだろうけどさ」
「松浦、ミスターとミス、どっちで票集めたんだ?」
おれは最後のセリフを口にしたクラスメートの背中をどついた。グッといううなり声を上げて「本当に顔と違って乱暴なんだから」とうめいている。うるせえ。
「そうか。文化祭だな」
貴史がつぶやいた。おい、クラス委員。そこ忘れるなよ。
陽聖高等学校での文化祭はGW中の2日間を選んで開催される。
秋にやるより受験に有利ってことらしいが、いくつかの進学校では、やはり同じような理由でこの時期にやるところがあると聞いている。
まだクラスがまとまりきっていないこの時期、親睦を深めるきっかけにもなるようだ。
「僕、いい時期に転校してきたなあ。仁海君と一緒に、青春の思い出を彩ることができるなんて、幸せだよ」
「……やめろ。佐原。隣のクールビューティーが、凍えるような冷たい目でお前を見ているぞ」
二人のバトルに、薫子がちょっかいを入れてくれたので助かった。こいつら二人、おれ一人じゃ面倒みてらんねーよ。
「ところで、ミスター・ミス陽聖って何なのかな?」
貴史を無視して、おれの隣に来た佐原が聞いてきた。
「ああ、生徒の中で一番イケてる男子と女子を投票で選ぶコンテスト。全校生徒の他、文化祭に来た一般客の一部に投票権がある」
「一般客は一部だけなの?」
「入場の時、ランダムに一定数を一般客に配るらしいんだけど、どうも係が私情に走って美男美女を選んで配っているらしいという噂もある」
おれは説明を続けた。
「ジンクスもあるんだよな。ミスターとミスに選ばれた二人は、必ず付き合うっていわれているんだよ。もともと人気トップの男女が選ばれているんだから、不思議じゃないけど。選ばれた後のパレードや写真撮影会で、組んでいるうちにその気になっちゃうらしいよ」
「そうかあ。じゃあ今年は、僕と仁海君で選ばれたいなあ」
「はあっ?何ほざいてるんだ。お前おれの説明、ちゃんと聞いてる?ミスター・ミスターじゃねえぞ。ミスター・ミス陽聖だぞ!」
「そうだな。佐原は間違っている」
貴史が割って入ってきた。いいぞ。このふざけた転校生にばしっといってやれ。
「選ばれるのはおれと仁海だ。パレードの時のドレスは、きっと仁海に似合うだろう。写真撮影会では、定番のお姫様抱っこでサービスしてやるからな」
「それも違うだろー!何で男のおれがドレス着なくちゃなんねーんだよ!」
怒りまくるおれをスルーして、貴史は佐原の正面に回った。
「勘違いはほどほどにしておけ」
「へえー。パレードではドレスを着るんだね。見たいなあ。仁海君のドレス姿」
佐原はちょっと頬を染めながら、おれに微笑みかける。
貴史は青筋を立ててそんな佐原を睨みつけている。
「……ところで松浦、化学部は文化祭に参加するのか?」
薫子が、全く違う方向から会話に参加してきた。ありがたい。貴史達二人の会話は不毛すぎる。
「そうだな。本当は三年の飯倉先輩がまだ部長なんだけど、あの人幽霊部長だしな。おれ、君の好きにやっていいからって丸投げされてんだよなあ」
「……お菓子の家の展示会とかどうだ?私が魔女の役をやろう。なかなか似合うと思うのだが」
確かに薫子にその役はぴったりだろう。
「そんなもの展示したら、薫子が全部食っちまうんじゃないか?」
「大丈夫。文化祭は他にも模擬店がある。そっちも食べるから、食いつくすまではいかないだろう。安心しろ」
なんだよそれ。ちっとも安心できないだろ。
「でも化学部なんだからさ。もっとこう、実験的な発表もいれたいよな」
「いいわね。魔女のマジックショーみたいな感じで取り入れてみたら、盛り上がりそうじゃないかなあ?」
ふわんとした声。坂本愛梨だ。
「お菓子の家なんて素敵!私も一緒にやりたいくらい。でも残念。料理研究部で、洋食屋さんやるから手伝えそうもなくって……親友の薫子ちゃんの役に立ちたいのに」
「気にするな!愛梨の気持ちだけで充分だ!」
「そうだ!坂本さんは、自分のクラブ活動を大事にしろ!」
薫子とおれは、間伐入れずに叫んだ。
おれ、薫子の頭に「……」がつかないしゃべりは初めて聞いた気がする。
「私、当日はウエィトレスをやるの。お料理作るのが好きだから、厨房やりたかったんだけど、みんなからウエイトレスの制服が一番似合うのは愛梨だからぜひって、説得されちゃって」
「……そうだな。愛梨のエプロン姿目当ての客が、たくさん押しかけるだろう」
きゃーやだ、お世辞なんていわれても何も出ないよおと坂本は体をくねらせながら、薫子の肩を叩く。
うん。料理研究部のみんなの気持ち、分かるぞ。あのクッキーで彼女の腕前が分かるけど、坂本さんに厨房は任せたくないよな。
結局その日のホームルームで、クラスの出し物を決めることにした。
「お化け屋敷かメイド喫茶だな」
「他でもやるだろ?つまんないよ。巨大迷路なんてどうだ?」
「教室しか使えないのに、巨大になんてならないだろ」
「メイド喫茶より、イケメン執事喫茶の方がいいよお」
「そうよね。なんたってうちのクラスには、広瀬君も佐原君もいるんだし」
「ものまねは?」
「エアーバンド大会!」
みんな無責任に思いつきを発言するだけで、意見が全然まとまらない。
「喫茶店みたいな、火を使って食べ物を出すのは、許可されるクラス数がかぎられているんだ。くじ引きで決めることになるから、出来れば運に左右されない催し物で最初から決められると、やりやすいと思っている」
クラス委員兼議事進行役の貴史が提案すると「私もそう思う」とか「さすが貴史君。よく考えてるわ」だの女子から賛同の意見が上がってきた。
「メイクやネイルアートとかどうかな?」
女子のクラス委員の、水名瀬《みなせ》ゆいの発言だ。
「うちのクラス、オシャレな子が多いでしょう?ネイルやメイク上手な子多いのよね。ネイルアート+メイク+ヘアメイクで、希望者には記念撮影をするの」
「でもそれって、男にはつまんないじゃん」
そーだよ、と男子からブーイングがとぶ。
「そう?男子だってナチュラルメイクぐらいたまにはいいと思うけどなあ。メイクに抵抗あるんだったら、髪型ちょっとセットするとか眉毛整えるとか。それだけでもだいぶ垢抜けるよ。そんでもってオシャレしたうちのクラスの女子とツーショットで記念撮影ってどう?新しくおしゃれに目覚めちゃうかも」
「それ、女子にも適用できない?おめかしした後、指名制でお気に入りの男子とツーショット写真」
みんなはしゃいで、それいいかも!と盛り上がっている。
「じゃあ、決を採っていいかな」
盛り上がる女子たちに、主導権を奪われた形になった貴史が、なんとかまとめようとする。
そんなわけで、うちのクラスはメイクアップ&記念撮影をやることになった。
「意見まとまって、出し物決まってよかったよな」
「うん。そうだな」
いまいち晴れない顔で貴史は同意した。
まあそうだろうなあ。あんな出し物だったら、ツーショットの指名は貴史に集中するのは間違いなしだ。
「水名瀬があんな提案するとは、思わなかったよ。なんか真面目ってイメージがあるから、メイクとか意外だった」
「一緒に委員やっているから、知っているんだけど、水名瀬の親は有名なメーキャップアーティストらしい。本人も同じ道を目指しているんだそうだ」
「へえ、肌が綺麗な真面目そうな子ってイメージしかないや」
「実はすっぴんに見えるようメイクしているらしいぞ。いかにもやってますってメイクより、素顔に見えるようなメイクの方が難しいんだからって自慢していたからな」
「メイクしているなんて、全然分からなかったよ!」
女子すげーな。本当の顔が分かんないじゃん。
家に寄った貴史と居間で話していると、波奈ねえがお茶とお茶菓子を持ってきてくれた。
「なあに?仁海。人の顔をじろじろみて」
「いや。波奈ねえはすっぴんだなあと思って」
「やあだ。私だってたまにはメイクするけど?家の中ではしないけど」
「しなくても綺麗だからいいよ」
ありがと、と笑みを浮かべる波奈ねえを見て、メイクして貴史とのデートに出かけていた姿を思い出した。
「波奈ねえ。GWは文化祭来てくれよな。招待券渡すから」
「私たちも!私たちの分は?」
双子が騒ぎ出す。
「何いってんだ。お前達は、友達と一緒に泊りがけでTDLに行くって、はしゃいでいたじゃないか」
「うー。だってえ」
「連れてってくれる友達の父さんに感謝だな」
「でもチケットは、お母さんのコネでうちが手に入れたんだもん」
「こら、そんなこといわない。連れて行ってくれる人に、素直に感謝しなさい」
貴史がたしなめると「はーい」と二人は声をそろえた。ほんと貴史のいう事なら、よく聞くんだから。
次の日曜日、おれは信じがたいものを見てしまった。
「仁海ちゃん。おなかすいたあ」
波奈ねえが、昨日の夜から友達の家に泊まりで遊びに行っているので、今日の朝食係はおれだ。
「ちょっと待ってな。すぐパンケーキ作ってやるから」
「わあい!パンケーキ♪パンケーキ♪」
双子の二重奏を聞きながら、おれは冷蔵庫を開けて、失敗したことに気づいた。
「悪い。たまごを買い忘れてた。ビザトーストでもいいか?」
「やだー!パンケーキがいいの!」
一度盛り上がった気分は、切り替えがきかないらしい。二人してパンケーキを連呼する。
しょうがない。買いに行くか。
最寄りのスーパーで切らしてしまったたまごを買ってから家に戻る途中、サングラスをかけた女性が、止まっている車の助手席から降りてきた。
「あれ?あの恰好は、母さんじゃん。若向きかなあって悩んでいたツーピースと、お気に入りのハイヒール。仕事だっていっていたけど、気合入ってんなあ」
そんなことを考えていると、森安さんが運転席から現れた。
ああ、やっぱり仕事なんだな。
声をかけようとしたら、おれに後ろ姿を見せていた母さんが、森安さんに抱きついた。
森安さんはちょっと躊躇した後に、思い切ったように強く抱きしめ返した。
「ええ!何これ!どういうこと?」
パニックになったが、とりあえず二人に見つかってはいけないと思い、一本奥に入った道に逃げ込んだ。
うそだろ。おれは今何を見たんだ。母さんが森安さんと……。
浮気?そんなまさか。
あれだけ周囲に何を言われても「私は飛沫さんしか見えないの」って堂々と惚気ていたのに。
母さん、いったいどうしちゃったんだよ!
動揺したまますぐ帰るわけにもいかず、何とか落ち着きを取り戻して帰ると、ふくれっ面をした美海と亜湖が、仁王立ちして待ちかまえていた。
「おっそーい!」
「おなか空きすぎて、もう倒れそうだよ」
そういうわりには元気に走り回りながら、早くパンケーキ作ってよおと催促してくる。
「なあ、母さん帰って来ていないか……?」
双子はきょとんとして答えた。
「何いってるの。仁海ちゃん。お母さんはお仕事だって、いってたじゃない」
「ああ。うん。そうだよな」
これ以上考えてもしょうがない。とりあえず今は、双子の朝ごはんのパンケーキを作ろう。
「パンケーキの上には、何をのっける?苺にバナナ、生クリームとチョコクリーム。アイスクリームもあるぞ」
「全部!」
二人は揃って声を上げた。
「全部のっけね。お前らデブるぞお」
双子をからかいながら、波奈ねえが帰ってきたら、相談しようと考えていた。
しかし結局おれは、その日帰ってきた波奈ねえに、相談することができなかった。
昼ごろ帰ってきた波奈ねえが、貴史と一緒だったからだ。
「ちょうど家の近くで、貴史君に会ったから」
「仁海パンケーキ作ったんだって?美河ちゃんと亜湖ちゃんから、食べに来てって電話が来たんだ」
なぜ一緒に?波奈ねえ、友達の家に泊まるっていっていたけど、それって本当は貴史のとこに泊まった……?
頭が白くなってしまい、貴史のパンケーキに生ハムとチョコソースとあんこをのっけて出してしまった。
「えーと、仁海。今日はパンケーキの新しい可能性に挑戦しているのか?」
「っああ。そうか。ごめん。まだごはんですよを乗っけていなかったか」
「いや、いい。これで充分だ。これ以上俺のパンケーキに、何も追加するな」
覚悟を決めた様子で、貴史はパンケーキを食べ始めた。
「うん。パンケーキはうまい。生ハムもチョコソースもあんこもいい。ただし別々に食べれば、の話だがな」
そういいながら、貴史はパンケーキを食べ続けている。
その横では、なんだかいつもより艶っぽい雰囲気の波奈ねえが、いつもよりテンション高くはしゃいでいたので、よけいおれの平常心がどこかにいってしまった。
「……仁海。聞いているか?」
「いや、聞いていない」
「……私はあまりすぐ怒る方じゃないが、今の返事にはちょっと切れそうだぞ……」
「悪い悪い。薫子。ちょっと気になることがあって、今までの話が聞けていなかった。これからはちゃんと聞くから」
放課後、化学部の文化祭に向けた活動のため薫子と打ち合わせをしている最中も、波奈ねえと貴史のことが気になって、薫子を怒らせてしまった。それに母さんと森安さんのことも気になる。
あれ、どっちの方が気にかかっているんだ。おれ。
波奈ねえと貴史は付き合っているんだし、母さんと安森さんの不倫になってしまう場合と違って問題ないのに。ないはずなのにおれの中では、一番問題として心を占めていて……うー。やっぱりおれってかなりシスコンなのかな。
波奈ねえには、結婚までそういうことして欲しくないっていうか。でも貴史だったら、軽い気持ちでそんなことするやつじゃないし……ってことは、やっぱり貴史の一番は波奈ねえなのか……ってそんなの当たりまえじゃんか!
「……仁海。大丈夫か?」
「何がだ?」
「……さっきから赤くなったり、泣きそうになったり、歯を食いしばったり、一人百面相を繰り返しているぞ」
「えっおれそんなことしてた?」
「……かなり派手に」
大きくうなづく薫子を前に、おれは恥ずかしくなった。おれはいったいどうしちゃったんだ。
その時、部室のドアが開いて、佐原が現れた。
「化学部の文化祭の出し物の相談をしているんだよね?僕も参加していいかな」
「……ありがたい。松浦が使い物にならないから、話し合いに参加してくれる部員が増えると、とても助かる」
「仁海君、体調でも悪いの?」
「いや。大丈夫。続けようぜ」
おれは薫子の説明を、きちんと聞こうと努力した。
「……お菓子の家を提案したが、この方向で進めていいのか?」
「そうだな。たぶん化学の実験的なことだけじゃ、人目をひかないからな。ショー的な要素として取り入れれば、その方が人は来てくれるんじゃないかな」
「……確かに。去年のような展示のみはつまらないな。通りすがりに中を覗いたが、見る気がしなかった」
去年、一年生でまだ入ったばかりのおれは、先輩に意見することなんて、とても出来なかった。
指示されるまま手伝っていたら、出来上がったものは、大きな模造紙に化学式や実験結果をのせた、なんとも地味でつまらない展示物たちだった。
「椅子と机置いておいたから、足が疲れた人の休憩所になったけど、それだけだものな」
おれと薫子の暗い表情を見て、笑っていた佐原が質問してきた。
「ショー的な要素って、どんな感じのものを考えているの?」
「液体窒素を使って、薔薇とか割ったら魔女っぽいかなと思うんだけど。ただ液体窒素使うと、金かかるかな」
「……そこは心配しなくていい」
経済力の後ろ盾がある薫子からの力強い一言があった。
「……液体窒素は、金魚が生き返る実験もあったな。人間にも適用できるだろうか。仁海や佐原で実験したら観客に受けそうだな。せっかく美形揃いなんだし」
「却下!」
おれと佐原は身を乗り出して叫ぶ。
冗談じゃない。金魚と一緒にしないでくれ。
「この学校の文化祭は、文科系のクラブの活躍場所なんだねえ。バスケ部は、クラスの行事で忙しい人も多いから、クラブ行事としては参加しないんだって。おかげで化学部に顔出しやすいから、ありがたいけどね」
人体実験の対象とならないよう、佐原がさりげなく話題を変える。
「……そういう運動部も多いな。強くて実績があるクラブほど、文化祭への参加はしていない」
と、いうことは。
三人で入り口の方を見た瞬間、戸が勢いよく音をたてて開いた。
「練習終わった。おれも参加するぞ」
貴史の声に、薫子が「……やっぱりそうなるのか」とつぶやいた。
「出し物は決まったのか?」
「ああ、まだ途中。液体窒素を使おうかって話が出たとこ」
貴史と目を合わせられないまま、おれは答えた。
「液体窒素使うなら、取り扱いに注意しなくちゃいけないな。ガラスに入れると割れるし、換気も必要だ」
貴史が参加したことにより、話し合いが具体的かつスムーズになった。
「ウッド金属の合成なんてどう?お湯で融ける金属。僕、あれ色々な形にするの、やってみたいんだよねえ」
「……体験学習みたいなのはどうだ?定番だがスライム作成とか」
「いいね。触り心地が気味悪いところが、魔女っていうのと似合うし。べっこうあめも型を魔女のコンセプトに合わせれば、統一感出るな」
みんなで意見を出し合って、液体窒素とウッド金属の合成の実験ショー、体験学習としてスライムとべっこうあめ作成をやることに決まった。
「お菓子の家は、どうする?」
おれが聞くと、三人ともじっとこちらを見つめる。
「えーと、おれ以外で菓子とか作ったことあるやつ、いる?」
三人とも、ぶんぶんと首を横にふる。
「さすがに本物の菓子で、実寸大の家を作るわけにはいかないしなあ」
「……床とか踏んで、食べられない部分ができるのは、もったいないしな」
いや、薫子。問題にしているのは、そこじゃないから。おれ一人でそんな大きなもの作れないし、材料費半端ないから。
「小さな家、デコレーションケーキの少し大きいくらいのお菓子の家だったら、仁海作れるか?」
「ああ、それくらいなら、前日に用意できる」
「じゃあお菓子の家のデザインは、お前に任せる。デザイン図に基づいて、張りぼてで家を作成しよう。本物は展示すればいい」
「そうだな!それなら可能だ!」
意見を出してくれた貴史の方を見ると、今日初めて目があった。
優しい眼差しで微笑んでくる。お前、やっぱり全然クールビューティじゃないじゃん。
おれは心の中でつぶやいた。
「腹減ったなあ」
「波奈ねえに連絡したよ。今日はメンチカツ用意してあるってさ」
「美味そう。早く食いたいな」
「仁海君の家にお邪魔できるの、嬉しいなあ」
「……私が食べても、お家の人の分は無くならないのか?」
貴史がおれの耳元に口を寄せて、小声で聞いてきた。
「薫子はともかく、なんで佐原も夕飯に誘うんだよ」
「いいじゃん。二人は掛け持ちだから、なかなか四人で揃うことないんだし。おれの家が一番近いし、波奈ねえはOK出してくれたし、みんな腹ペコなんだし」
貴史と二人きりで帰るのがなんだか落ち着かないから、佐原と薫子も誘ったなんて本当のことをいえるわけがない。
「おかえりなさーい。貴史君も一緒?」
玄関を開けると、美河と亜湖が駆け寄ってきた。
とうとうおれより、貴史の方が先に呼ばれることになったか。
貴史の後ろから現れた佐原を見て、双子が一瞬固まった。しかしすぐに騒ぎ出した。
「ええ!こっちのお兄ちゃんもすごくかっこいい!ハーフ?髪の色も目の色も茶色だあ」
イケメン二人を前にして、テンションが上がった双子が、きゃあきゃあはしゃぎ出した。
「二人とも玄関で騒ぎ過ぎ。お客様に失礼でしょ」
波奈ねえが現れた。
「……こんばんは。今日は仁海さんのお言葉に甘えて、急にお邪魔させていただくことになりました。クラスメートの九条薫子です」
真っ先に薫子が挨拶をする。やっぱりこいつは、きちんと躾されたいいとこの娘なんだな。
「いらっしゃい。私は仁海の姉の波奈よ。こっちは双子の妹の美河と亜湖。遠慮しないでどうぞ上がって」
お邪魔しますといいながら、薫子達が靴を脱いだ。
「広瀬君が、この家に入り浸る気持ちがよく分かるよ。こんなにご飯が美味しくて、美人ばっかりに囲まれて」
「ハーフのお兄ちゃんもしょっちゅう来てくれればいいのに。大歓迎よ」
「ハーフじゃないけど、たくさん来ていい?」
「もちろん!」
佐原と双子のやり取りを、貴史がひきつった顔で見ている。
そんな貴史に気づくと
「貴史お兄ちゃんやきもちやいちゃ駄目よ?もちろん貴史お兄ちゃんのことも大好きなんだからね」と双子は甘い声を出した。
「あ、お姉さん。おかわりする?」
亜湖が空になった薫子の茶碗に気づき、ご飯をよそう。
「……ありがとう」
五杯目のおかわりを受け取ると、薫子は微笑んだ。
あれ?いつもの表情と違う。魔女っぽくない。優しい可愛らしい笑顔だ。
「薫子。お前そんなに腹減っていたのか?すごくいい顔で笑っているぞ」
「……仁海のお姉さんのご飯がすごく美味しいからな」
なんだか恥ずかしそうに、うつむいている。
文化祭の準備は着々と進んでいる。クラスの出し物も役割分担が決まった。
女子はお互いメイク道具やネイルを持ち寄って、あれが可愛いだのこれはいくらに設定するかだの、盛り上がっている。
「仁海君も写真パネル出すからね」
水名瀬に声をかけられた。客の指名で、ツーショット写真を受けるやつか。
「なーんかホストクラブかキャバクラみたいだな。でもクラスの行事だから仕方ないか」
「化学部の出し物もあるんだよねえ。でも二日間、一日三時間はクラスの為にあけといてね」
「あれ?おれの写真撮影は、拘束時間二時間じゃなかったっけ?」
「あはは。忘れたの?うちのクラスはメーキャップも売りなのよ。手をかけて、より可愛くなった仁海君に広告塔になってもらう予定なの」
「やだよ!そんなの」
水名瀬はまなじりをつり上げて、どすの効いた声でいった。
「やりなさい。ただでさえ仁海君は、女子の恨みを買っているのよ。広瀬くんも佐原君も独占しちゃって」
「その言い方やめろよ!」
「男の子のくせに可愛すぎるのがいけないのよ!こういう時ぐらい、その可愛さでクラスの役にたちなさい!さもなければ、女子全員を敵にまわすことになるわよ」
クラス中の女子からの「分かってんでしょうね?」の視線に負け、おれはおとなしくうなづいてしまった。
文化祭当日は、よく晴れた気持ちのいい日だった。
「今日私は生徒会の用事で行けないけど、明日は行くからね」
「明日は最終日で、コンテストもあるから華やかだよ」
「ふふ。仁海も貴史君もエントリーされているのよね。楽しみだわ」
双子はあれだけ騒いだのに、友達のお父さんが車で迎えに来ると、大はしゃぎでTDLに行ってしまった。泊りがけで行くのは初めてだから、無理もないか。
明日も双子はいないから、波奈ねえも気楽に見学できるだろう。
結局波奈ねえに、土曜日どこに泊まったのかを聞くことも、母さんの浮気疑惑のことを相談することもできなかった。なんかどういったらいいのか分からないし、両方心配したことが事実だったりしたら、こわい。おれって自分で思っていた以上に、本当はへたれみたいだ。
学校の最寄りの駅に着くと、貴史と佐原が待っていた。
最近、朝は二人して待っているし、帰りは化学部のみんなでうちに寄っていくので、ほとんど貴史と二人では話をしていない。
もちろん波奈ねえとどうなっているのかなんて、聞けていない。
「もう一通り準備は終えているんだけど、最終の飾りとチェックをしておきたいから、まずは化学部の魔女のお菓子の家を見ておきたいな」
おれがいうと二人がうなづいた。
おれが先頭に立って、目的地に向かう。
するとすでに薫子がいて、ミニ版の本物のお菓子の家を見つめていた。
「薫子。おれの渾身の作だぞ。本番前に食べたりするなよ。文化祭終わったら、好きにしていいから」
「……家本体はチョコレートスポンジ。回りの柵には、3種類のクッキーを使っているんだな。屋根瓦はミルクとホワイトの2種類のチョコレート。壁が崩れないよう、長方形型のマカロンで囲い、庭の花は飴細工。美しい。……つくづくこれが、実物大でないのが、悔やまれる……!」
「お前はおれを殺す気か!このサイズだって、日持ちするものを部分ごとに作成して、何日もかかって出来上がっているんだぞ!」
薫子かは渋々、ミニチュア版お菓子の家から離れ、魔女の衣装に着替える為、女子更衣室に指定された教室に向かった。
「薫子は朝から魔女の衣装でいいのか?クラス行事の写真撮影会で指名されたら、どうするんだ」
「本人曰く、指名するもの好きな人は少ないだろうし、自分を指名するマニアックな人ならこの衣装の方が喜ぶだろう、とのことだったぞ」
「本当は美少女なのに、なんでああなっちゃうのかなあ」
おれ達男三人は、ため息をついた。
「これでよし、と」
食用の花で庭を彩り、お菓子の家の完成だ。
チェックを終えてから教室に行くと、張りきった様子の水名瀬が、皆に指示を出していた。
「メイク道具は揃っている?写真撮影の予約時間はしっかりね。広瀬君、佐原君、仁海君あたりはツーショットじゃなくダブルとかみんなでっていう希望が多いだろうけど、一人ずつに分けて。そうすれば別々の申し込みになって、売上多くなるから」
「さすが水名瀬、しっかりしてんなあ」
「ぼくは仁海君とツーショットの方が、いいんだけどね」
佐原はまたよけいな一言を口にして、貴史からにらまれていた。
「ああ、売れっ子さん達、おはよ。スケジュールは確認した?絶対この時間は、クラスに戻ってくること!約束してね」
はいはい、とうなづきながら、おれ達はスケジュールの確認をする。
「あれ、これ間違っていない?聞いていた時間より、二日とも一時間ずつ増えているんだけど」
「事前調査で人気予測してみたらね。やっぱりあなた達三人が、ぶっちぎりで人気だったの。もとの時間じゃ足りないから、一時間ずつ追加したの」
自由時間ないじゃないか。
「あなた達が入っている化学部とミス・ミスターコンテストのことも考えて、3人は別々のスケジュールにしてあるから。あ、でも宣伝効果も考えて一緒に行動して欲しい時間帯も設けたの。ここまで気をつかったんだもの。やってくれるわよね」
目が全然笑っていない笑顔を向けられ、おれ達はうなづくしかなかった。
「じゃあ、仁海君は支度に入ってちょうだい」
「あれ?おれのスケジュール、十一時からの一時間と三時からの二時間じゃなかった?」
「広告塔になってもらうって伝えたでしょう?メイク後文化祭に参加してもらうから」
「えー!やだやだ!姉ちゃんも来るのに、そんな恰好できるかよ!」
「文化祭だもん。のりで大丈夫よ」
必死で逃げようとするおれは、水名瀬を先頭とした女子の集団に拉致られ、仕切りの向こうに運ばれた。
おれの叫びを耳にしながら、貴史は女子相手になす術もなく戸惑った様子のまま。
佐原は「いってらっしゃーい」と軽く手をふってきた。
おれは仏頂面で、足音をどしどし鳴らしながら、化学部の展示室へ向かう。
「おいおい。広告塔なんだから、もうちょっといい表情しろよ」
「でもすごいよねえ。いつもの仁海君も可愛いけど、普段とはまた違う魅力だね。思わず僕もメイク試してみたくなるよ。ああ、でも仁海君だからここまで可愛くなるんだよね」
「うるさい!」
後ろからついてくる貴史と佐原にやつあたりだ。
支度が終わった後、仕切りから出てきたおれを見て、クラス中がどよめいた。
「すごっ。なにこれ。可愛すぎ!」
「天使?人形?うわー。おれも写真撮りてえ」
そんな様子を見て、水名瀬は満足そうな笑みを浮かべている。
「もとがいいのもあるけどね。その良さを壊さないよう、あくまで自然なメイクにしたわ。
はかなげで上品な、ガラス細工のような女の子をイメージしたの。爪もそのイメージに合うよう、淡いピンクの二色を使ったつけ爪に、ストーンをつけてあるから。髪の毛はウィッグで、天然のウエーブがついている印象にしたわ。服は上下白にしたの。デザインはシンプルだけど、素材に気を使ったものよ。いいものってんじゃなくて、仁海君が雑に扱っても汚れにくいようにね。本当はスカートもはかせたかったんだけど、仁海君が抵抗するから幅広のパンツで一見スカートに見えるものにしたの。靴は、ヒールで歩くのは履き慣れない子には無理だから、ぺったんこのバレエシューズ。妹とサイズ同じで、ほんと良かった」
うんうんうなづきながら、おれの全身をチェックする。
「あーうっとうしい!全部はがしてえー!」
おれは絶叫し、足を踏み鳴らした。
「この天使、がら悪いぞ」
「イメージが……しゃべるな。動くな」
好き勝手なこというな!
「私の会心の作だわ」
満足げな水名瀬の言葉の後に「いつもの方がいいな」とつぶやく貴史の声が聞こえた。
「……ほほう。これはこれは」
薫子はおれを上から下までじっと見た。
「……水名瀬はセンスいいな。よく仕上がっている」
おれも薫子をじっと見た。
「お前、黒を基調にした帽子とその衣装は、いかにも魔女の恰好でいいけど、そのわし鼻をつけるのはやめろ!」
「……けっこう気にいってるんだが……」
「駄目!薫子だって、写真撮影の希望者いるだろうから、せっかくの美貌をおかしくするな!」
薫子は、せっかくこの日の為に購入したのに、とぶつぶつつぶやきながらも、おれの勢いにおされて、渋々とつけ鼻を取り外した。
文化祭開始すぐは、おれと薫子と佐原が魔女の家の当番だ。
「じゃあ写真撮影、頑張ってこいよ」
クラスに戻る貴史に声をかけると、「いけね」といいながらおれの方に来た。
おれの正面に向かって、腰に手を回す。
な、なんだよ。何するつもりなんだ。
「よし、できた」
ポンポンとはたかれたそこには、メイク&ヘア&ネイル二年C組」と書かれた札が、安全ピンでつけてあった。
「水名瀬にいわれたんだ。これがなくちゃ広告塔の意味がないってね」
なんだ。驚かすなよ。
「あと宣伝の為、なるべく校内を練り歩けって指示も出てるからな。自由時間が重なるところは、一緒に行動しよう」
「う、うん。分かった」
そこへ佐原が入ってきた。
「広瀬君だけじゃなくて、僕もそれいわれているから。っていうかいわれてなくても迎えに来るから僕とも回ろうね。さあ、広瀬君は早く戻って。時間になっちゃうよ」
一瞬眉間にしわを寄せた貴史だが、時計を見るとあわてて教室へ戻って行った。
「……ではこの薔薇を、パキンと割ってみせよう」
薫子の魔女の実験ショーはなかなか盛況だ。
お菓子の家が効いたのか特に子どもが多い。
「ねえ、あれって本当の魔女?」
「なんか怖いよ。体が動かなくなっちゃう」
別の意味で薫子のショーに、釘付けになっているようだ。
拍手喝采でショーが終わると、貴史がやってきた。交代の時間だ。
「……疲れた。写真に魂吸い取られた気分だ」
「指名どれだけきたんだよ」
「確認はしてないけど、二階の教室の入り口から、下駄箱まで人が並んでいたらしい」
さすが貴史。すごい人気だな。
「お前だって……いや、きっともっと多いと思うぞ。メイクしたお前の顔と普段の顔が、両方宣伝に大きく飾られているからな。女子だけの俺と違って、男子も女子も指名してくるはずだ」
げーっ。やめてくれ。
「早くお勤めすましてくるわ」
教室に向かおうとして、廊下に出たら回り中を囲まれてしまった。
「可愛い!何年生?」
「二年C組?ああ、写真撮影会やっているとこだよね。おれ行くよ!」
「メイクもここでやってもらったら、こんな風になれるの?試してみたーい」
おれは身動きがとれなくなってしまった。
「ほら、行くぞ」
大きな手がおれの肩をつかみ、抱きかかえるようにして、人ごみから連れ去る。
「かっこいい!」
「なんて絵になる二人なの!」
「私、絶対一緒に写真とってもらう!」
後ろからきゃあきゃあ騒ぐ声が聞こえる。
「貴史。午後の部は、靴箱までの行列じゃ足りないんじゃないか?」
「宣伝効果ばっちりだから、クラスには貢献しているだろ」
おれを無事教室まで送り届けると、貴史は化学部のコーナーへ戻っていった。
疲れた。とにかく疲れた。
引きつりそうな顔を無理やり笑顔にし、べたべた触ってくる男を殴り倒したいのを我慢して、ひたすら指名の列が終わるのを待った。
「さすが仁海君。午後はもっと来客が増えるから、この調子で頼むね」
写真撮影代の五百円が山となった箱の前で、水名瀬がほくほくしている。
「もーやだ。勘弁して。せめていつも通りの恰好にさせて」
「何いっているの。それじゃあメイクの宣伝ができないでしょ!」
あっけなくおれのお願いは却下され、そのままの恰好で化学部に戻ることになった。
「お迎えに来たよ」
今度は佐原が教室まで来ている。
一人で行ける!といいたいとこだが、さっきの身動きできない恐怖を思い出して、素直に従うことにした。
「今は体験実験の時間だよな。上手くいっているか?」
「うまくも何も……もうびっくり」
「何が?」
「とにかく仁海君も見てよ。実際に見るのが一番」
わけが分からないまま、化学部のコーナーに着いた。
「……こっちをこう持って。そうそう。とっても上手」
初めは目を疑った。
聖母マリアのような、慈悲深く美しい微笑みをたたえた黒髪の美少女がいる。
「薫子……似てるけど違うよな?あいつあんな笑い方できたのか?」
子どもにべっこうあめを手渡す薫子は、あめより本人の方が甘いんじゃないかという、とろけそうな笑顔を浮かべている。
その顔をじっと見ていると、似た表情を見た時のことを思い出した。
「……仁海。仁海も体験実験を手伝ってくれ」
こちらを見た薫子に近寄り、聞いてみる。
「あのさ。もしかして薫子って子ども好き?」
とたんに薫子の頬は、ポッとピンク色に染まった。
「……悪いか。イメージと違うだろうが、私は子どもには優しくしたいと思っている。優しい大人がいて、自分は守られていると感じさせてあげたいんだ」
そうか。だから家にきた時、双子を見て優しい表情になっていたのか。
「……私が子供の頃、寂しかった時優しくしてくれた人がいたから……」
薫子はそっと目を伏せた。
「悪いわけないよ。薫子とってもいい表情しているし。みんな見とれているよ」
おれのいう通り、子どもを連れたきた父親が薫子を見て頬を赤らめていたり、薫子目当てに体験実験に申し込もうとしている若い男性の数が増えて来ている。
薫子の写真を撮ろうとしていた男子四人グループに、おれはストップをかけた。
「申し訳ないけど写真撮影禁止。この子の写真が欲しかったら、二年C組の撮影会で指名して下さい」
そして薫子の方を向いてニッと笑う。
「薫子、お前の拘束時間、午後3時からだったよな。きっと忙しくなるぞお」
それを聞いた薫子はうえーとつぶやいて、聖母マリアの微笑から、魔女の憂い顔に変化してしまった。
午後3時からの撮影会は、ちょっとした騒ぎになった。
子ども相手にいい表情を見せていた薫子への指名が予想外に多かったのと、薫子の婚約者という男が現れたからだ。
「……びっくりした。秀一《しゅういち》さんが来るとは思っていなかった」
「文化祭あることを、僕にも教えて欲しかったな。いとこから聞かなかったら、知らないままだったよ」
「……悪かった。仕事で忙しいだろうと思ったので」
拘束時間が薫子と重なっていたおれは、二人の会話を聞きながら、その男の姿をじっと見た。天然パーマのふわふわした髪で、色白の柔和な面立ち……。だれか思い出すなあ。
「秀一お兄ちゃん!」
駆け込んできた顔を見て分かった。
そうだ。坂本愛梨になんとなく似ているんだ。
「……秀一お兄ちゃん?」
「薫子ちゃん。黙っててごめんね。私と秀ちゃんはいとこなの。秀ちゃんの婚約者が薫子ちゃんだって知って、友達になりたかったの」
そういえば薫子は「愛梨からよく話しかけてくる」っていっていたもんなあ。
そういう理由だったのか・
「あとね。もう一つ理由があるの。あれだけ食べるのに、全然太らないのはどんな秘密があるのかしらって不思議だったの。近くにいたら分かるかと思ったけど、全然分からなかったわ」
坂本さんも、やはり疑問に思っていたのか。そうだよな。あれだけ食べてあんな細いなんて、誰がどう考えても、おかしいよな。
「薫子ちゃんが自由時間になったら、三人で一緒に模擬店巡りしましょ」
「愛梨、僕は薫子さんと二人で回るつもりなんだけど」
「ずるーい!薫子ちゃんを独り占めするつもり?」
二人はもめ始めたけど、薫子は苦悩したような表情になっている。
あ、これは絶対模擬店どこから回るか、効率的な攻略を考えている顔だな。
「はい。仁海君。ボーっとしない!カメラ目線で笑いなさい!」
水名瀬の声だ。いけね。撮影会の最中だった。
あわてて引きつりそうな笑みを浮かべる。早く終わらないかなあ。これ終わったら、おれも自由時間は、模擬店見て回りたいなあ。
「終わったあ!よーし。模擬店回るぞう」
「僕も一緒に回りたい……」
「何いってるの。佐原君も予約たくさん入っているんだから。とっとと教室へ行く!」
おれと交代で拘束時間の佐原は「一人じゃ危ないから」と化学部のコーナーまで送ってくれた水名瀬に、襟元をつかまれたまま、連れていかれた。
「……二人とも、せっかくの自由時間だから、模擬店に行くといい。秀一さんが手伝ってくれているから、ここは大丈夫だ」
薫子の申し出に、おれと貴史は顔を見合わせた。
「いや、そんな部外者に手伝わせるなんて申し訳ないよ」
秀一さんがこちらを振り返り
「大丈夫ですよ。僕も学生に戻ったみたいで楽しんでますから」
と優しい微笑みを浮かべている。
でもやはり、と遠慮しようとすると
「僕らは年が離れていますからね。なかなか共通の行事に参加することができないんですよ。でもここで薫子さんのお手伝いをしていると、一緒に学生生活を送っているような気分を味わえます」
と上気した顔を向けられると、残る方がお邪魔なようだと気づいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて二人で模擬店巡りしてくるよ」
貴史がいう。
久しぶりに貴史と二人きりだ。どうしよう。
横を見ると、貴史が腕を差し出している。
「貴史。何してんだ?」
おれがきょとんとしていると、苦笑した。
「そんな格好だし、腕組んだ方が自然だろ?」
「男同士で腕組むのは自然じゃないから!」
おれが慌てて否定すると、貴史の腕が背中と膝に回された、と思ったとたんにおれの身体はふわっと浮いた。
「ひゃあ!何すんだよ!」
「この恰好なら、腕を組むのが駄目なら、お姫様抱っこしかないかと思って」
「降ろせ?降ろして?わかった。腕組むから」
このままでも構わないのに、とつぶやきながら貴史はおれを降ろした。
「……一年D組の焼きそばと、二年A組のクレープは食べておいた方がいいぞ」
「了解」
薫子のアドバイスに返事をして、おれは貴史の腕に自分の腕をくぐらせた。
おれと貴史は大量の食べ物を前に首をひねっていた。
「これが薫子のお勧めかな」
「さあ。クレープだけで六種類もあるからな。焼きそばは三パックあるけど、一種類だけだから一年D組のだろうな」
他にたこ焼き、焼きとうもろこし、サンドイッチにシュークリームと、ありとあらゆる食べ物がおれ達を囲む。
「これはもしかしたら、模擬店全種類分あるんじゃないか?」
「うん。おれもそう思う……」
おれと貴史が模擬店をのぞきに行ったとたん、そこら中大騒ぎになった。
「きゃー!貴史君だあ」
「松浦?やっぱりお前は女子だったのか!」
「これどうぞ!お金いらないから、持って行って下さい!」
集まってくる貢物攻撃に、おれ達はあわてた。
「ちょっと待ってよ。嬉しいけど、こんなに二人で食べきんないよ」
「売り物が足りなくなるぞ」
おれと貴史は、売り物を差し出してくる売り子達を止めようとした。
「もう、二人とも奥ゆかしいんだから。遠慮なんてしないで。大丈夫。ちゃんと持ち帰れるようにしてあげる」
あっという間に、風呂敷と紙袋で持ちやすいようにした食べ物が、おれ達の横に積まれた。
「とてもじゃないが、食べきれないな。九条達に持って帰ろう」
おれは貴史の案にうなづいた。
戻ってきたおれ達の両手を見て、薫子の目が輝いた。
「……予想通りだ。さすがに仁海と広瀬のペアだな」
「あー!薫子、お前はこれ目当てで、わざとおれ達二人で行かせたんだな!」
「……これが一番効率よく、全店制覇できるからな」
ふっふっと笑いながら、薫子はどれから食べようかと物色している。
薫子は何で食い物が絡む時だけ、頭が働くんだよ!
お前はやっぱり聖女マリアじゃなくて、ずる賢い魔女の方が似合っているぞ!
しかしふと気づくと、そんな薫子をとてつもなく優しい眼差しで見つめている男がいる。
秀一さんだ。
「そんなことしなくても、僕が全部買ってあげるのに。ああ、でも食べ物を前にした薫子さんは、本当に魅力的だなあ。小さい頃と変わらないなあ」
薫子、お前の婚約者すっげーいい人だな。
そう思って見ていると、なんか嫌な空気を感じた。なに。この禍々しいオーラ……。
回りをきょろきょろしてみると、ウェイトレス姿の坂本さんが、普段とは全然違う凶悪な人相で薫子を睨んでいる。
こわっ。何これ。
そう思った瞬間に、目が合った。
「もう、薫子ちゃんたらずるーい。こんなにたくさん食べても太らないなんて。ちょっと憎たらしいぐらいよ」
いつも通り、ふわふわした雰囲気の愛梨に戻っている。
「……愛梨。来てくれたのか」
「ええ。今は休憩時間なの。私なんて食べ過ぎたらすぐ太っちゃう。本当にうらやましいな。薫子ちゃんの体質」
そっか。それで睨んでいたのか。女子の多くは、ダイエットで苦労しているっていうもんな。
そこへ佐原が現れた。
「広瀬君交代だよ。写真撮影会、さっきより順番待ちの列が増えたらしいから、頑張ってね」
うんざりした顔で、貴史が出て行った。
「さあ、仁海君。一緒に回ろう」
「でもずっと薫子達に任せっきりだから、こっちも手伝わないと」
「……大丈夫だ。心配せず回って来い。仁海と佐原のペアも、かなりの貢物が期待できる」
「ってまだ食うつもりかよ!」
思わず叫ぶと、薫子は力強くうなづいた。
一日目が終わり、水名瀬はほくほく顔だ。
「うーん。みんな頑張ってくれて嬉しい!目標の三倍の売上だよ!仁海君と広瀬君、佐原君の活躍は期待通りだったけど、そのうえ九条さんがこんなに売り上げ伸ばしてくれるなんて。嬉しい誤算!」
終わるなり、とっととウィッグをとり、服を着替えたおれは「それよりメイクとネイルを早く落としてくれ」と叫んだ。
「うーん。ちょっとお疲れかな」
おれのメイクを落としながら、水名瀬はつぶやく。
「はい。これ」
「何だよ。これ」
「パックよ。とっても効くんだから。明日に備えて今日の夜はこれを使ってちょうだい」
おれはげんなりしながら、小さな包みを受け取った。
次の朝、おれは波奈ねえに頬をつままれた。
「わあ、気持ちいい。昨日のパック、効果あるみたいね。私も購入しようかな」
さすが水名瀬。セレクトに間違いはないようだ。
「今日は必ず行くからね。友達も一緒に行くから、私のことは気にしないで。適当に文化祭楽しんでいるわ」
「そんなこといっても、貴史だって待ち合わせしないと捕まえらんないよ。あいつも拘束時間長いんだから」
「大丈夫大丈夫。ほら、いってらっしゃい」
学校に着くと、また昨日の通りメイクから始まる。
しかも女子たちみんなして「わあ気持ちいい」「お肌プルプル」なんて撫でまくるから、くすぐったくてしょうがない。
「今日は午後からコンテストだから、昨日ほど写真撮影会に時間を割けないのが残念よねー。まだまだ稼げるのに。まあパレードの時、ドレスに負けないよう、今日は昨日より少し華やかなメイクにしてみようかな」
「ちょっと待て。なんでおれが、ドレスでパレードすること前提になっているんだ」
騒ぎながらも準備終了。
午前中が忙しく過ぎていく。
「さあ、午後は待ちに待ったミスター&ミス聖陽コンテストだ!」
司会の生徒のかけ声に合わせて、みんなの「おーっ」という叫び声があがる。
出場者による任意のパフォーマンスアピールは、昨日披露済だ。おれたち化学部の4人にも要請が来たが「クラスの出し物の手伝いでとても無理」と断った。
エントリーだって文化祭実行委員やクラスからの圧で仕方なくOKしたのに、そこまでやってられるか。
「みんな投票は済んだかな?二年生三年生のみんなはどきどきですね!一年生はまだ参加資格ないけど、ここでしっかり憧れの先輩の名前をチェックだ!」
司会はテンション高くい放つ。
「では十位から発表だ!」
「男性は三年A組木下保君!女性は二年B組阿部こずえさん!」
みんなキャーキャー大騒ぎだ。
そんな調子で第五位まで発表された。受賞者は名前を呼ばれると壇上に上がり、コメントを求められる。
「男性四位は二年E組星野孝彦さん!女性四位は二年C組坂本愛梨さん!」
おー!うちのクラスから受賞者が出た。
「やったじゃん。坂本さん!」
すぐ近くにいたので声をかけると、坂本さんからチッと小さな音が聞えた
えっ!今のおれ以外だれも気付かなかったみたいだけど、舌打ちしたよね?
壇上に上がった坂本さんは、いかにも女の子って感じの笑顔でコメントしている。
「すごくびっくりです。私みたいな目立たない子が四位をもらえるなんて、思ってもいなかったんで。ありがとうございます!」
「愛梨ちゃーん可愛い!」
「お菓子作りパフォーマンス良かったよ!」
「エプロン姿最高!」
野太い声があちこちから上がった。
彼女はパフォーマンスアピールに参加したのか。
それで票が入ったってことは出来上がりの試食はなかったってことだろうなと推測する。
でもなんだろう。坂本さんって時々イメージとギャップがあるような気が……。
見つめすぎていただろうか。可愛くお辞儀をして振り返った坂本さんとばっちり目があう。
やばい。おれの表情は犯人のアリバイを崩そうとする刑事のようにでもなっていたはずだ。
一瞬すごく冷たい目をした坂本さんは、おれがいたのとは反対側に向かって、そのまま壇上から去って行った。
続いて三位の発表が終わり、残すはパレード参加資格のある、準グランプリとグランプリのみだ。
「ではミスター部門は……今年は非常に厳しい戦いでした。僅差、わずか一票差で、準グランプリが二年C組佐原和佳さん!栄光のグランプリは同じく二年C組広瀬貴史さんです!」
一段と大きな「キャー!」という女子の声が上がった。
「続いてミス部門……」
読み上げようとした司会者が止まった。文化祭実行委員が数名、投票箱を持ってきて何かささやいている。
「えっと……すみません。こんなことは初めてなんですが、ちょっと揉めてまして……」
実行委員達は小さな声でしゃべっているつもりらしいが、司会のマイクが音を拾ってしまい全部筒抜け状態だ。
「女性枠男性枠しっかり決めておかないから、こんなことになるんだろうが」
「でも男子生徒なんだよね」
「男性枠で入れているやつなんて、いないだろ。特に今回あんな恰好なんだし」
「でも一部では可愛すぎる男の子ってことで女子からも人気あるよ」
みんなの目がおれの方を向く。えっ。おれのせいなの?まだ名前も出てないし、おれじゃないかも知れないよね。
「お前しかありえないな」
横で貴史がつぶやき、佐原がうなづく。
そこへサングラスをかけた、スーツ姿の女性が現れた。
「あれ?母さん?今海外じゃなかったっけ……」と声をかけようとして途中でやめた。
違う。あれは母さんじゃない。
「ごめんなさい。遅れてしまって。まだ投票間に合うかしら」
突然現れた大人の女性に見とれ、ボーッとしていた司会は、実行委員の女子に突っつかれ、慌てて投票用紙を受け取った。
しかし開くと、今までよりもっと慌てた様子で
「少々お待ち下さい」
といい残して、舞台裏に引っ込んでしまった。
「いつまでかかってんだよ」
「一番盛り上がるところなのに」
みんなが文句をいい始めた頃に、やっと司会者が現れた。
「えー、大変お待たせ致しました。仕切り直してもう一度。先ほどお伝えした通り、男性グランプリは広瀬貴史さん!準グランプリは佐原和佳さん!……そして女性グランプリは二年C組九条薫子さん!」
「おおー!」
と大きなどよめきの声がした。
「おれ九条にいれたぜ。今日のあいつ可愛かったもん」
「おれもおれも」
「でもそれじゃおかしいよ。絶対高得点の人が入ってないじゃない!」
それらの声をかき分けるように、司会者がマイクの音量を上げた。
「皆さん。お静かに!今回は特別な賞があります。ミス・ミスターの両方で票を集めた松浦仁海さん!総合優勝です!」
ものすごい歓声が上がる。
「えー。松浦さんの票はちょっと揉めたんですね。ミスで投票が多かったんですが、本人男子生徒ですし。でも最後の投票でミスター枠で投票が入りまして。ここまで人気がある方なら、もう特例にしましょうと実行委員会で決定致しました!そんな訳で今年のミスター・ミス陽聖のパレードは、松浦さん、九条さん、広瀬さん、佐原さんの四名に参加していただきます」
さっきを上回る大歓声が上がった。
「総合優勝ってなんだよそれ。スポーツかなんかと違うんだし」
あっけにとられているおれに向かって、スーツの女性が近づいてくる。
おれの目の前に来ると、彼女はサングラスを外した。
「波奈ねえ!なんでそんな恰好しているんだ」
「今日は必ず来るって約束したじゃない。良かった。投票に間に合って」
いつもよりメイクで鮮やかになった唇を上げて、波奈ねえが微笑む。いや、そんなことをいってるんじゃなくて。
「なんで母さんのスーツなんて、着ているんだよ。母さんかと思ったじゃん」
「やあね。お母さんなら、お父さんに会いたくなったっていって、貴重な有給使ってジャマイカまで旅立っちゃったじゃない。ほんとラブラブなんだから」
そこへおずおずと、誰かが近づいてきた。
「あれ?森安さん?どうしてここにいるの」
波奈ねえと森安さんが並んだ時、はっと気づいた。
「もしかしておれが見たのは、母さんと森安さんじゃなくて、波奈ねえと森安さん?」
「やだ。仁海見ていたの?家の近くだったから、もっと気をつけなきゃいけなかったかな」
どういうこと?森安さんと抱き合っていたなんて。それじゃ貴史はどうなるんだよ!
いろいろ聞こうとした矢先、実行委員達が現れて「さあパレードの準備をお願いします」と無理やり移動させられてしまった。
「おれ、総合優勝だとかで、ミスじゃないんだよな?」
「そう。今年初めてだから、まさに仁海君の為の賞よね」
「じゃあなんでこんな純白のひらひらしたドレスなんて着せられなきゃいけないんだ!」
メイクの腕をかわれて、パレードでも支度を手伝うことになった水名瀬相手に、おれはぶち切れた。
「そりゃミスターが二人は決まっているもの。あと二人はミス役じゃなきゃ盛り上がらないし、衣装も足りないでしょうよ」
水名瀬は冷静に返事をしてくる。
薫子は何か写真を見ながら、微笑んでいる。
「水名瀬、お前何を薫子に渡したんだ?」
「ん?私の五歳の妹と六歳の弟の写真。うち兄弟多いの。九条さんにはあの表情でいてもらわないと。二人とも今日は遊びに来ているから、パレードの時は一緒に手をつながせることにしたわ」
確かにそれなら、薫子はパレード中、ずっといい表情でいるだろう。
「薫子ちゃん、おめでとう。私も薫子ちゃんに一票入れたんだ」
甘い声、坂本さんだ。さっきの冷たい目とは大違いのあどけない笑顔を浮かべている。
「……私は愛梨にいれた。愛梨はとても可愛いらしい」
薫子が真顔でつぶやくと、みるみるうちに坂本さんの頬がバラ色に染まる。
なんだろう。さっきの裏のありそうな態度は、薫子に対する嫉妬のたぐいではないようだ。坂本さんはおれの視線を感じたらしい。
「すごーい。松浦君よく似合ってるよお」
おれのことを睨みながら近づいてくる。
な、なんだ。おれが何かしたか?
壁際に突っ立っていたおれの側にはちょうど人がいなかったので、いつもと違う坂本さんの表情を目にしているのはおれだけだ。
「やだなあ。総合優勝おめでとうっていいにきただけなのに、なんでそんな強ばった顔をしているのかなあ」
それはあなたの甘い口調と鋭い視線が一致していないからです。
こわいからです。
「ねえ、なんか私のこと疑ってるでしょ」
小声で聞いてくる。
「いやあ、そんな」
冷や汗が出てくる。でもこれだけは確かめたい。
「ただ坂本さんが、薫子の本当の友達かどうかだけが気になって」
どういう意味?と眉間にしわを寄せられてしまった。
「薫子って近づきにくくて、女子には遠巻きにされていたけど、坂本さんは自分から声をかけてきたんだろう?なんか魂胆……理由があったんじゃないかなあって気になっていたんだ」
坂本さんはフッと笑った。
「大丈夫よ。薫子ちゃんとは、今は本当に仲良くしたいと思っているもの」
え、今は?前は違ったのか?
「いつも優しい従兄弟の秀一お兄ちゃんに婚約者ができたって聞いて驚いたわ。しかもうちの学校の生徒だっていうじゃない。そうなったらもうお兄ちゃんは他の人のもの。今までと同じじゃない……」
坂本さんは従兄弟の秀一さんに恋心を抱いていたのか……。
「今までのように買い物につきあってもらったり、食事をご馳走してくれたりができなくなるじゃない!そんなの悔しくて」
ん?恋心と何か違うな。
「どんな女か見てみようと思ったら、大食いなのに太らないなんて私が欲しくてたまらない体質なんだもの。薫子ちゃんだったらお兄ちゃんがどれだけ美味しいものを食べに連れていっても、私のようにダイエットで苦労するなんてことないんだわ!ずるい!」
「え?でも坂本さん全然太ってないじゃん」
「だから!努力しているの!美味しいもの食べたい!でも太りたくない!家じゃ腹筋にダンベル運動、スクワットを毎日欠かしていないわ」
そういって袖をまくって出した二の腕は、引き締まって筋肉質だ。
「こんなに私は頑張っているのに、薫子ちゃんはずるい!その上私がなりたかった憂いを秘めた美人なのよ?そんでもって私が毎日嫌がらせで長電話してもつきあってくれるし、お兄ちゃんと食事したら、そのお店でお土産のお菓子を買ってきてくれるのよ?コンテストだって、私がパフォーマンスで頑張っても4位、そんなことしなくても準ミス。どうせなら一緒にパレード回りたかったのに。ずるい、ずるい」
なんかよく分からなくなってきたけど。
「えーと。つまり坂本さんは、薫子のことが大好きなんだね?」
坂本さんの顔が真っ赤になる。
「すっすっ好きとか簡単にいわないで!薫子ちゃんと親戚になるのは嬉しいけど、薫子ちゃんがたとえお兄ちゃんでも結婚なんてするのは嫌なんだから!本当は松浦君のことだって嫌なんだから!一応男の子なのに、女の子同士の親友みたいに薫子ちゃんと仲良くしているし!」
これ、どうしろっていうんだ?
そこは薫子が婚約者の秀一さんと一緒にやってきた。
「……愛梨、今日帰りに秀一さんが食事に連れて行ってくれるそうだ。一緒に行こう」
「そんな。婚約者二人にくっついていくなんて、お邪魔虫でしかないでしょう」
坂本さんは、ちょっと拗ねた表情だ。
それを聞いて薫子が肩を落とす。
「……そうか。今日は愛梨が好きな近江牛で有名なお店だから、一緒に行きたいと思ったんだが」
「じゃあ薫子さん。二人で行きましょう」
その途端、愛梨が薫子の腕に寄り添い大声で叫ぶ。
「行くわ!私も一緒に行きます!」
料理に惹かれたのかな。
二人きりにさせたくなかったのかな。
微妙なところではあるが、薫子と坂本さんは食いしん坊というところでは、真の友となれそうだな。
ひとまず安心してこの場を去ろうとすると、薫子が駆け寄ってきた。
「……松浦、ありがとう」
いきなり礼をいわれて面食らった。
「え?何が?おれ、何かありがとうなんていわれるようなことしたっけ?」
「……松浦が友人になってくれなかったら、私の今の高校生活はなかった。だから感謝している」
まだおれの頭の中はクエスチョンマークだらけだったが、薫子が訥々と語った内容をまとめるとこんな感じだった。
薫子にはとても優秀な3歳上の兄が一人いる。
勉強が得意で、朗らかな性格でクラスの人気者。できのいい長男にこれからの期待も含めて、両親は溺愛した。
それに比べて、お世辞にも学業が得意とはいえず、また感情が顔に表れにくい薫子は、女の子なのに愛嬌がないといわれ、両親の関心も薄かった。
祖父母はそんな薫子のことも可愛がってくれたが、どうしても兄と自分を比べてしまう。
兄は良い子。薫子は駄目な子。
兄は愛される子。薫子は愛されない子。
心の中で、自分はできそこないだと感じてしまうことが多く、そんな性格だから、学校でもうちとけることができず、友人はできにくかった。
同い年の子達が、一緒に誘い合って遊びに行くのをうらやましく思いながら、友達もいない薫子は暇を持て余すと、近所にある祖父母の家に寄ることが多かった。
祖父母の家は大きく、庭も広かった。
「使ってくれるならその方がいいだろう」
と庭の一部を、近所の子供たちが自由に遊べる場所にしていた。
その子供たちとも距離を置いて、薫子は祖父の書斎で本を眺めていることが多かったという。
庭で遊ぶ子供たちには、世話役のような役目の近所の大学生も来ていた。
これは後で分かったのだが、この大学生こそ秀一さんだったらしい。
たくさんの子供たちの世話をしながら、一人書斎に閉じこもる薫子のことも気にかけてくれたという。
はじめは知らない人だということで警戒していた薫子だが、さりげなく声をかけておしゃべりしてくる彼に、だんだん慣れてきたらしい。
薫子が読んでいる本を見て、次に読む本を薦めてくれたり、自分が昔読んだ時どう感じたか話してくれるうちに、いい人だと感じるようになった。
いろいろなことを話せるようになってきた時、ついポロリと「私はお兄ちゃんと比べて駄目な子だから」と心のうちをこぼしてしまった。
「薫子ちゃんはいいこだよ。駄目な子なんかじゃないよ」
そういってもらっても納得できない。
「……だって勉強だってできないし、みんなと仲良くだってできない」
そうつぶやくと
「誰だってその人が得意なことはあるんだよ。お兄ちゃんは勉強が得意かもしれないけど、薫子ちゃんは別のことがお兄ちゃん以上に得意なのかもしれない。自分の好きなこと、得意なことを伸ばせばいいんだよ」
と秀一さんは教えてくれた。
そして「このお店にマドレーヌ、僕好きなんだ」とおやつをくれた。
食べてごらんとすすめられて、マドレーヌを口にした薫子は
「……おいしい」
と思わず笑顔になった。
すると秀一さんは
「ほら、その笑顔だって、とってもステキだよ。薫子ちゃんはたくさんいいところがあるんだよ」
と褒めてくれた。
幼い薫子は嬉しくなった。
「……そうか。これが私の得意なことなんだ」
そう気づいたからだ。
自分の得意なもの、いいところを伸ばそう。
「……だから私はたくさんおいしいものを食べるようになったんだ」
「ちょっと待った!」
薫子の話を聞き終わったおれは、まず叫んだ。
「秀一さんが褒めたのは、笑顔であって大食いのことじゃないだろう?」
「……食べた結果の笑顔だし、私ほど健康的に大食いができる者もいないから、あながち間違ってはいないと思うのだが」
納得しかねるような顔で反論してくる。
「……だから仁海には感謝している。友人になってくれただけではなく、私の大食いという才能を伸ばしてもくれた。おかげで愛梨という親しい友人もできたし、秀一さんにも子供の頃のアドバイスを活かせている自分を見せることができている。とても嬉しい」
「そ、そうか。うん。薫子にとっていいことなら、おれも嬉しいよ」
なんかいろいろ違うんじゃないかなーっていう気もするが、本人は満足しているし、婚約者の秀一さんも薫子の食べっぷりには満足している様子だったし。
みんな幸せそうだから、まあよしとしておこう。
薫子もパレードの準備の為に別の場所に行ってしまった。
「支度できたのか?」
一人残されたおれが、動きにくいドレス姿に腹をたてて裾をまくり上げていると、貴史と広瀬が入ってきた。
「なんだ。二人のその恰好は」
映画に出てくる、何とかの騎士みたいな恰好の上、仮面舞踏会みたいなマスクを被っている。
「俺の趣味じゃない。勝手に着替えさせられたんだ」
「パレード中はこれで歩いて、最後の写真撮影会の会場でマスクを外す趣向らしいよ」
ふーん。そんなものない方が貴史はかっこいいのにな。っておれは何を考えてるんだ!
顔が赤くなったと感じた時、誰かに手を捕まれ、ついたての陰に引き込まれた。
驚いて大声をあげかけたおれは、そのとたん口を誰かの手でふさがれた。
「静かにして。私よ。仁海」
「波奈ねえちゃん。どうやってここへ」
「説明は後で。私と服を交換して。パレードは私と森安さんが代わりをするから。仁海は貴史君と二人で、話し合った方がいいわ」
そういうとおれのドレスを、脱がしにかかった。
「長時間は無理だけど、パレード中くらいはごまかせるでしょう。もともと似てるし」
今度は貴史君ね、とつぶやくと同じ手法で森安さんと貴史の入れ替えを行った。
「僕は自信ないなあ。貴史君みたいなイケメンの代理だなんて」
「マスクしているし、大丈夫。身長は似たようなもんなんだから」
波奈ねえにいわれて、森安さんは複雑な表情のまま、うーんと唸っている。
なんとか貴史と森安さんの服の交換が終わった。
マスクをつけて遠目に見れば、貴史といわれればそう見えないこともない。
「パレードを始めます。参加者の人は早く集まって」
実行委員が呼びに来た。
ギリギリのタイミングだ。
森安さんを引っ張って、波奈ねえが出ていこうとする。
「代理はパレードだけよ。その後マスク外したらばれちゃうからね。貴史君、仁海への説明はお願いね」
そういって「これは補足」とおれに封筒を渡した。
部屋に残されたおれ達は、何となく気まずいまま、しばらく黙っていた。
「貴史。波奈ねえがいっていた説明って、何のことだ」
「ああ。俺と波奈さんが付き合っているって件だけど……」
「別れたのか?森安さんに波奈ねえを、奪われちゃったのか?」
おれが詰め寄ると、眉間にしわを寄せた。
「いや。そうじゃなくって。別れるも何も俺と波奈さんは、もとから付き合っていないから」
「へ?」
おれは間抜けな声を出した。こいつ何をいっているんだ。
「仁海が熱心に頼んでくるから、波奈さんには会ったけど、もともと仁海をあきらめるつもりなんてなかったんだよ。外見だけ気にいったわけじゃないし」
会ったその日、はっきりそのことを波奈ねえに伝えたそうだ。
「わあ。ひどい。だったら会う必要なかったんじゃない?」
気にする様子もなく、からかうような口調の波奈ねえに、つい本心を漏らしてしまったという。
「家に行ったりお姉さんと会ったりしていたら、家族ぐるみで親しくしていたら、いつか仁海がこっちを向く時が来るんじゃないかと思って……。情けないですね。利用するようなことして申し訳ない」
謝る貴史に、波奈ねえは意外な申し出をしたらしい。
「いいわよ。利用して。その代わり私にも協力してくれる?」
波奈ねえは交換条件の内容を伝えた。
自分には離婚歴のある、年上の片思いの相手がいる。恋愛関係ではないが、定期的に会う関係にはなっている。
でも親にばれると猛反対される可能性が高いので、彼が自分に振り向くまでは、動きをとりやすいよう付き合っていることにしておいて欲しい……。
「それでおれと波奈さんは、付き合っているという嘘をついたんだ」
「波奈ねえが片思い……しかも相手はあの森安さん……」
おれはあまりに意外だったので、すぐには信じられなかった。
「今日の様子を見ると、波奈さんは片思いじゃなくなったみたいだな」
貴史がおれの顔に手をかけて、自分の方に向けた。
「おれの方はどうなのかな。片思いのままなのか」
「なっ何をいってるんだ」
おれは思わず顔を下に向けた。
だって顔が熱くて、貴史の視線を受け止めることなんてできない
「波奈さんは、ずっとおれを励ましていてくれたんだ。仁海は一番好きなものを自分にゆずろうとする。子供の頃からそうだったって。絶対仁海はおれのことを好きだから、あきらめちゃ駄目って。おれはその言葉を信じていいのかな」
「波奈ねえってば、何いってんだ」
恥ずかしくなってきて横にずれようとしたら、波奈ねえが渡してきた封筒が、ポトリと落ちた。
「そういえば補足っていっていたけど、なんのことだろう」
封筒を開けると、綺麗な字で書かれた手紙が入っている。
「もう貴史君から聞いたかな?お姉ちゃんは貴史君とは付き合っていませんからね。だってお姉ちゃんの好きな人は、森安さんだからです。嘘ついていてごめんね。でも仁海も嘘ついているから、おあいこかな。貴史君のこと、本当は大好きなんでしょう?」
ここまで読んで、おれは顔から火が出そうになった。
「何が書いてあるんだ?」
「駄目!絶対見ちゃ駄目!おれ宛の手紙だから!」
急いで貴史の目から隠して、続きを読む。
「昔から仁海は一番好きなものを、お姉ちゃんにくれるよね。チョコレートケーキもハンバーグもお姉ちゃんにあげるって。自分が欲しくてたまらないくせに、涙をためて差し出してくるの」
やっていたな。おれ。大好きな波奈ねえに、自分の大好きなものをあげたくて。
「そんな仁海が可愛くて、もらっていたのが良くなかったかな。本当はお姉ちゃんはケーキより大福が好きだし。ハンバーグよりお芋のにっころがしの方が好きなの」
波奈ねえの手紙は、まだ続く。
「大好きなものは、あげちゃ駄目よ。欲しいものはきちんと欲しいっていわないと。お姉ちゃんからのアドバイス。可愛い私の弟の仁海へ」
波奈ねえの手紙を全部読み終わって、おれはまっすぐ貴史の目を見た。
「何が書いてあったんだ?」
「うん……。波奈ねえには全部ばれていた」
「何が?」
おれは一瞬躊躇したが、波奈ねえの手紙を思い出した。
いわなきゃ。ちゃんと本当の気持ちを。
「おれが貴史のこと好きだってこと」
早口で一気にいった後、恥たまらなく恥ずかしくなって、その場を逃げ出したくなった。
「よく聞こえなかった……仁海、もう一回いって」
「だから……好きだって」
「誰が誰を?」
おれは思わず立ち上がった。
「もう!お前絶対分かっていっているだろ!何度もこんなこと言わせるな!」
貴史は微笑みながら立ち上がり、おれの頭を撫でた。
「何度でもいわせたいよ。何度でも聞きたいから」
おれを柔らかく抱きしめると、そっと唇を合わせてきた。
柔らかくてあたたかい。
「……やっぱり貴史はクールじゃなくて、ホットだな」
おれのつぶやきに「何だ。それ」と貴史は笑った。
貴史に抱きしめられて、床に座り込んだ姿勢のまま、俺たちはしばらくおしゃべりをした。
「いつから俺のこと好きだった?」
「別にいいだろ。そんなの」
「良くない。俺はずーっと待たされたんだから。これぐらい聞く権利あるだろう?」
こめかみや耳元にやさしくキスをしながら、貴史はいう。
「教えてくれないなら、目立つところにキスマークつけようかな」
「やめろ!そんなことされたら、恥ずかし過ぎて死ぬ!」
「だったら教えて?」
根負けしたおれは正直にバラした。
「初めてあった時からだよ。でもその時は、えーと、その……好きになるなんて初めてだから自分でも分かってなかった。途中からだよ。自覚したのは」
「それにしちゃあ、ずいぶん長い間、冷たい態度だったんじゃないか?今まで」
貴史が不満そうな顔をする。
だって……。不安だったんだ。
男同士だろう。今は女の子みたいなんていわれるおれだって、成長していけば段々ごつくなっていく。
髭が濃くなって、男っぽくなっていくおれに幻滅されたら。
好きなやつに、貴史に幻滅されるなんて、そんなの耐えられない。
「仁海はそんな心配しなくていい」
「無理だよ。だっておれ可愛いとかいわれても、実際は男だし。貴史はいいよ。男としてかっこいいんだから」
拗ねたような口調になってしまった。
貴史はやれやれといった表情を浮かべる。
俺の話、聞いて。耳元でささやかれた。
「おれ父方のじいちゃんに似てるって、よくいわれるんだよ」
ん?いきなり何?何の話?
「外見だけじゃなくて、性格もよく似ているっていわれるんだ。その奥さん、つまりおれのばあちゃんだけどね。畑仕事が趣味だから、しみは多いわしわくちゃだわ、そのうえ気が強くって、子供がいたずらすると大声で怒鳴るし、拳固がとんでくる。孫のおれ達は鬼ババアなんて、ひどいこといっていたんだよ。でもじいちゃんは、そんなばあちゃんのことを、しょっちゅう可愛い可愛いっていうんだよ」
なぜ今貴史の祖父母の話になるのか?
家族のルーツでも語り出すのか?
「俺、不思議でさ。子供の頃にじいちゃんに聞いたことあるんだよ。しわくちゃだし、鬼ババアだしなんであれが可愛いの?って」
それは失礼すぎるぞ。貴史。
「そしたらじいちゃんは教えてくれた。とにかく可愛い。じいちゃんの目には、いつでも娘の頃のばあちゃんが見える。お前にはしわくちゃに見えても、自分の目には、はにかむような笑顔の娘が見えているんだよってね」
まだよく分からない。
見上げるおれの顔を、じっと見つめたまま、貴史の話は続けられた。
「だからさ。おれは絶対じいちゃんと一緒だよ。髭面になっても、女の子みたいじゃなくなっても、いつまでもおれには可愛い仁海のまんまだよ」
うう。顔が熱い。胸がどきどきする。
「それにもう一つつけ加えたい。仁海は俺がルックスで好きになったと思ってるみたいだけど、教室で告白した時には、ちゃんと男子だって分かっていたよ。だってもっと前に出会っていたから」
え?出会っていた?
いつだよ?おれの記憶にはないぞ。
「俺について噂がいろいろあるみたいだけど、その中の一つ。痴漢退治しただのいわれてるのがあるけど、あれ仁海が関わっているから」
「何だそれ。そんな覚えないけど」
「中学生の時だったな。中央線で新宿に向かっていたら、同じ車両で騒ぎが起きていたんだよ。中学校の制服を着た子が、でかいおっさんに向かって怒鳴っていた」
「中央線……痴漢?あっもしかして」
思い出した。
中三の春、受験に向けて気を引き締めて勉強しよう、その為にはまず参考書を購入しようと思い、都内の大型書店に行こうとしていた時だ。
中学生ではそれほど乗る機会のない電車は、なかなか混んでいて、人混みも揺れも慣れないおれは、必死に吊り革につかまっていた。
特に隣の高校生のお姉さんが、こっちに寄っかかってきたり、身体をねじったりして体重がこちらにかかってきてつらくてしょうがない。
なんでこんなに変な動きをするんだ?
不思議に思ってお姉さんの方を見ると、目に涙をためている。
向きを変えたせいで、後ろに立っている薄汚れた格好をした中年男が、お姉さんのお尻に手をあててなで回しているのが分かった。
身体をずらしても執拗に追いかけているので、これは偶然なんかじゃあり得ない。
「おい。おじさん。やめろよ」
おれがはっきりいうと、男は一瞬動きを止めた。
「いい年してみっともないよ。迷惑だろ」
注意してきたのが、ちびで弱っちいおれだったので、見くびられたようだ。
中年男は馬鹿にしたような口調で
「何のことだよ」
とふてぶてしい態度をとった。
「しらばっくれんなよ。今痴漢していただろうが」
「あー?オレが誰に痴漢したって?」
そういっておれとお姉さんを睨みつけた。
「そうです。この人痴漢です!私の身体に触ってきて……」
泣きそうになっていたお姉さんが、中年男を指さす。
「あー?何いってんだ。お前みたいなブス、誰が触るかよ」
ヘラヘラした態度で中年男は続けた。
「どうせ触るなら、こっちのお嬢ちゃんにするよ。お前なんかよりうんと可愛いじゃん」
おれはぶち切れた・
「バカヤロー!お姉さんは可愛いだろうが!お前みたいな節穴の目の持ち主に、そんなこといわれてたまるか!」
「な、なんだよ。何を根拠にオレの目が節穴だなんて決めつけてんだよ」
「おれは男だ!」
中年男だけではなく、回りの乗客も「え?嘘。男の子なの?」と驚いている。
そのうえ「女の子なのになんで男子の制服着ているんだろうと思った」なんて声まで聞こえてくる。
あー、またこんなところで注目を集めてしまった。
男だってことで注目を集めてしまうのは、とっても嫌なんだけど、でもこいつがお姉さんにしたことの方が許せない。
「おれのことが男と分からなかったお前のいうことなんて、間違っているに決まっている!そんでもって世界中のどの女性も、お前なんかに触れられたかないんだよ!」
怒鳴りすぎて息があがった。
「てめえ、ガキだと思って手加減してやってんのに、ふざけんなよ」
男が手をあげてきそうになったところで、「これ、証拠になりますよね?」と若い男の声が聞こえた。
おれ達に差し出された携帯には、お姉さんに痴漢している男の姿がくっきり写っていた。
「うっいてえ!」
そのうえ、男の腕をいとも簡単にひねって身動きがとれないようにしてしまった。
「証人お願いできますか」
お姉さんは声をかけてきた背の高い男性にうなづくと、おれに向かって「ありがとう」といって電車を降りていったんだ。
「え?あの痴漢騒ぎの中で、どこに貴史がいたっていうんだ?」
「証拠写真を見せて、痴漢を引きずっていったのが俺」
「えー!あれが貴史?だってそしたらお前だって中学生だよな?全然そんな感じじゃなかったぞ。もっと大人って感じだったぞ」
「昔から老け顔なんだよ。しかもあの日は会社員の兄貴の服を借りていたから、よけい年相応には見えなかったんだ」
一緒に降りた女子高生にも、痴漢を突き出した駅員にも、中学生っていったら驚かれたしな、と不機嫌そうにいう。
そうか。写真を見せられた時は、そっちしか見ていなかったし、その後は後ろ姿しか見ていなかったから、顔がちゃんとわからなかったんだ。
「あれは貴史だったのか」
驚いて呆然としてしまう。
「そう。あれが一回目の出会い。で、俺は仁海に惚れた」
「なっなんだよ!それ!どこに惚れる要素があるんだよ!」
「だって、小さくて弱そうなのに、大声出して年上の女子高生を痴漢から守ろうとしてる。男だなんて宣言したしたせいで、好奇心の目にさらされて傷ついているくせに、あの男の暴言で女子高生が傷つくのは許せないってんで頑張っている。そんな正義感の強い、いいやつを見たら惚れちゃうだろう?」
そういっておれを見つめた。
「でも、でも告白の後、男だっていったら、おれの外見だったら女の子と間違えてもしょうがないっていった!寒くなるような形容詞の数々を並べて!男だって分かっているなら、あんなこといわなくていいだろう?」
おれが文句をいうと
「それはしょうがない。俺は運命の出会いだと思ったのに、あの電車での出会いを仁海は全く覚えていなかったんだから。傷ついた俺が小さな嘘をついてしまうぐらいは、多めに見て欲しいな」
だから、あの時はお前の顔さえよく見えていなかったんだってば!
見えていたら、おれだって絶対覚えていたよ。うん。だって貴史はすごくいい男だし。
痴漢事件の時の出会いを思い出せなかったことは、責められても仕方ないので、心の中でゴニョゴニョ言い訳してしまう。
「俺の話ちゃんと聞いた?だから何も心配なんかいらないよ」
貴史の顔が近づいている。
二度目のキスは、もっと深くて、貴史の熱さを感じさせるものだった。
「もう焦ったわよ。このままばれるかと思ったあ」
予定より遅れてパレードの終点地、撮影会の会場に着いたおれと貴史は、波奈ねえと森安さんに向かってごめんを連呼しながら、急いで衣装を取り替えた。
「波奈さんはともかく、僕はどうやってもごまかせないからね。本当に生きた心地がしなかったよ」
気弱そうな笑顔の森安さんに、波奈ねえは手伝ってくれてありがとうと、優しい笑顔を向ける。
ケーキより大福。
ハンバーグよりお芋の煮っころがしか。
「ん?仁海君。僕の顔になにかついてる?」
「いえいえ。何でもないです」
いけね。じろじろ見過ぎた。
「貴史君ときちんと話せたの?」
「うん。大丈夫」
たぶんおれの顔は真っ赤だったろう。
恥ずかしくて、わざと話題を変えた。
「でもまだ分かんないことあるよ。なんで波奈ねえはスーツなんて着て、森安さんに会っていたんだよ」
「森安さんには、恋人としてではなく、編集者として会ってもらっていたのよ」
よく話を聞くと、姉は投稿サイトで小説をペンネームで発表しているという。
人気が出てきたので、書籍化の話を持ち込んだのが、森安さんだったらしい。
「びっくりしましたよ。SFとバイオレンスを組み合わせた、血生臭い小説で大人気の武奪《ぶっだ》が、まさか波奈さんだなんて」
波奈ねえがそんな小説を?
おれだって信じられない。
ちょっと編集部に電話入れて来ます、と森安さんが外すと、波奈ねえは続けた。
「小説でもエッセイでも良かったんだけどね。とにかく売れっ子になって、もうあんな女にでかい顔はさせないって思っていたから」
えーと今の話の流れだと、あの女って。
「もちろん森安さんのもと妻、岸谷潤よ」
やっぱりそうか。波奈ねえの、思いがけず激しい面を知った。
「ふん、いつまでもあんな女に森安さんを好きにさせないわ」
どうやら森安さんって、強い女に好かれやすいみたいだな。
波奈ねえは話を続けた。
「武奪が女子高生ってのも、隠していたしね。仕事で会う時はスーツにしていたのは、子供扱いされたくなかったの」
波奈ねえの説明でおれの疑問は氷塊した。
「やめてくれよ。おれ母さんが浮気していたらどうしようって、すごく悩んだんだから」
「ごめんごめん」
波奈ねえは大笑いした。
「……結局落ち着くとこに、落ち着いたということか」
文化祭後、無事お菓子の家を自分の物にした薫子は、屋根のチョコレートをかじりながら、おれと貴史を交互に見る。
「まあそういうことだ」
にっこり笑う貴史の横で、おれは知らん顔をした。
貴史のことを好きだというのは認めるが、むやみやたらと人前で言いふらす気はないというか……。
「……仁海。なんとか隠そうとしているところを申し訳ないが、お前のその赤面状態は全てにイエスと答えているのと、同じだぞ」
薫子があきれているようだ。
えーい。うるさい!男心は複雑なんだよ!
「……しかしなぜ佐原は、相変わらず仁海達にひっついているんだ?」
今日も佐原は、駅でおれを待っていた。
「昨日はひどいな。二人で消えちゃうし」
おれ達のことを察しているらしいのに、今までと変わらない態度のままだ。
しっしっと追い払おうとする貴史を無視している。
「……まだ仁海のことをあきらめないのか」
「うん。何で?あきらめる必要ないでしょう。僕は気が長い方なんだ。二人がずっと続くなんて保証はどこにもないし」
あっけらかんといってのける。
「気が長いんなら、仁海をあきらめないんじゃなくて、双子が大人になるのを待てばいいだろう。あれだけ気に入られているんだからな」
「あはは。それもいいかもね。その時になってみないと分からないけど、とりあえず今は仁海君のことをあきらめる気ないから、僕を仁海君から遠ざけようとするのは、あきらめてよ」
どこまで本気なんだろう。
貴史のいらついた顔と、佐原のお気楽な表情を見て、おれは深くため息をついた。
「これが仁海の父さんか。仁海は母親似なのかと思っていたけど、実は父親似だったんだな」
母さんから送られてきたジャマイカからのハガキは、久しぶりに髭をそった父さんとの、ツーショット写真だった。
直立不動で立つ父さんの頬に、母さんがキスをしている。
「写真集の著者紹介は見たことあったんだけど、髭に長い髪に帽子を深く被っていたから、ほとんど顔が分からなかったんだよな」
「基本父さんは髭生やしているから、今回は貴重な一枚と言えるよ」
「そうか。父親似だから、髭もじゃになったらどうしようって心配してたのか」
「うるさいな」
くすくす笑う貴史から、ハガキを取り上げた。
気持ちを打ち明けあった後も、朝は駅で待ち合わせ、帰りはほぼ一緒にうちに来るって生活は、波奈ねえと付き合っていることになっていた頃と変わらない。朝はあいかわらず佐原もいるけどさ。
昼の弁当も今まで通り。
文化祭が終わってからの昼休み、貴史は購買に向かおうとした。
「あれ?弁当あるよ」
「え?だってもう波奈さんからの弁当は、もうないだろう?」
「えーと、実はなんだけど……」
今まで波奈ねえが作っていることになっていたけど、本当は八割ぐらいおれが作っていたんだ。
「だから今まで通り」
おれの告白に、貴史はすごく感動していた。
いろいろ今まで通りだな。
夕食が終わると、おれの部屋に来るのも前からだし。
この日も学校が終わった後、おれの部屋で貴史と二人いつも通りくつろいでいた。
「仁海」
「何?あっそうだ。明日の物理の小テスト、範囲どこまで……」
貴史の唇が、おれのおしゃべりを止める。
「ん……ふう」
キスが終わった後、思わず吐息が漏れる。
「仁海、キスに慣れてきたな」
「……ばーか。何いってるんだ」
貴史は嬉しそうに、おれの髪をなでる。
ああ、これは今までと違う。
でもこれが当たり前になりつつある。
そしてこれから先、もっといろんな事が二人の間で当たり前になりそうで……そんなことを考えると鼓動が早くなって、全身が心臓になったかと思うぐらいどきどきしてしまう。
「そういえば、ミスター・ミス陽聖のジンクス、おれ達で破っちゃったんじゃない?ジンクスからいうと、ミスター聖陽と付き合うのは、薫子のはずじゃん」
ちょっとだけ気になっていたので、貴史に伝えてみた。
「ジンクスは破ってないんじゃないかな」
貴史がおれの頬をなでる。
「好きなもの同士が付き合うことになるってのが、文化祭のジンクスだよ」
お前って本当にそういうことさらっというよな、と軽くどつくと、貴史はこういうとこいいだろうといって笑ったので、返事の代わりに、今度はおれからそっと唇を寄せてみた。
そのとたん
「なあ。そういえば仁海はミスターの投票、誰に入れたの?」
と貴史が聞いてきた。
おい。せっかくおれが雰囲気出してやっているのに、今そんなこと聞くか?
「だって気になるし。俺はもちろん仁海に入れたけどさ。男女枠関係なしで」
そういうことするから、実行委員たちが苦労するんだろうが。
いつまでも貴史が回答待ちの顔をするので、おれは観念した。
「お前が一票差で優勝できたのは、おれのおかげだからな」
早口で伝える。
恥ずかしくなって顔を反対に向けたおれを、貴史は嬉しそうに抱きしめてきた。
「続きをしよう。仁海から来てよ」
「もうやだ!絶対しない!」
騒いでいると、一階でお気に入りのテレビアニメを見ている双子から
「うるさーい!聞こえないでしょ。静かにしなさーい」
と怒られてしまった。
思わず
「はい!ごめんなさい!」
と二人の声がそろってしまう。
声を出さずに笑いをこらえた顔で、お互い見つめ合う。
「静かに……だな」とささやく貴史に、もう一度そっと唇を寄せた。
顔を真っ赤にして気をつけの姿勢のまま、うわずった声を出してくる。
この制服は近所の波並高校だよな。
「ひと目ぼれなんです。つき合って下さい!」
直球だな。
「高校に入学してから、電車で見かけてなんて可愛いんだろうって、ずっと片思いしていました。今日、やっと勇気を出してこの気持ちを伝えようって決心したんです」
またか。
朝の爽やかな気分がふっとぶ。
周囲がこちらに注目し始めた。ちらちらと視線を感じる。
とにかくこいつを早く止めなきゃ。
「あー、無理。つきあえない。可愛いなんていわれても全然嬉しくないし」
そいつはかわいそうなくらいに動揺していた。
「きれいの方が良かったとか?どっちも思ったんだけど。そういえば初めて聞いたけど、声は以外とハスキーなんですね。いや、そのギャップも魅力的……」
だめだ。我慢できない。
「いい加減にしろ!おれは男だ!つきあうわけねえだろ!」
「ええっうそだろう?まさか」
しまった。
怒鳴ったせいで、よけい周囲の注目を集めてしまった。
告ってきたやつだけじゃなく、回りのやじ馬まで「うそでしょ?」「えっ女の子……じゃないの?」なんてひそひそ話している。
無遠慮な視線にさらされ、もう一度切れそうになるがなんとか押さえる。
ちくしょー。なんでおれがこんな目に。
「ほらっ行くぞ」
後ろから大きな手がおれの肩をつかんだ。
あっけにとられている告白相手と野次馬を残して、おれは拉致されるようにその場を離れた。
「ちょっと、離せよ。うっとおしいだろ」
もがくようにして、おれはその手をふりほどいた。
「せっかく助けてやったのに。これで今月3回目か?男に告られるのは。あいかわらず仁海《ひとみ》はもてるなあ」
「お前がいうな!貴史!」
広瀬貴史《ひろせたかし》は、切れ長の目に鼻筋の通った品のある顔立ちで、クールビューティーと賞賛され、女子から絶大な人気を誇っている。
そんなクールなイメージを裏切る、いたずらっ子のようなまなざしで貴史はおれを見つめる、
「先に振られた身としては、俺を超える相手じゃないと、仁海を渡すわけにはいかないからな」
そうだ。
もとはといえばこいつが始まりだ。
一年前の高校の入学式の後、同じD組の教室に入ったとたん、貴史はおれの手をとって
「松浦仁海《まつうらひとみ》さん。俺とつきあってほしい」
といってきたんだ。
「振るもなにも、女と間違えて告ってくるんじゃねーよ」
「いやあ、だって大きな澄んだ瞳、上向きカールした長いまつ毛、意外と肉厚なピンクのくちびる、極めつけにきめの細かいきれいな白い肌ときたら、男だなんて思わないだろう」
「わーっ!その寒くなる形容詞の数々をやめろ!」
「あ、思わず触れたくなるつやのある茶色のさらさらストレートヘアと、抱きしめたくなる華奢な体つきも追加だな」
頭をなでようとしてきた貴史の手をはねのけて、おれは学校に向かって走り出した。
おれたちの通う私立陽聖高等学校は、私立でありながら制服はない。生徒の自主性にまかせるという、かなり自由な校風だ。
そういう自由を安心して与えられるレベルの生徒を集めているってことで、偏差値は結構高め。おれは中三の時にはかなり頑張って勉強して、なんとか入学を果たした。
制服がないのが、やっぱり良くなかったかなあ。パーカーにジーンズだと、女に間違えられてばっかりだ。
でも制服も嫌なんだよなあ。
ネクタイも詰め襟もうっとうしい。おれが着ると、なんだか仮装大会みたいになるしな。
中学の時のように、制服を着ているのに「なんで男装しているんですか?」なんて真顔で何人にも質問されるよりはましだ。
「……おはよう。ずいぶん息が切れているが」
二年C組の教室に入ると、無表情でアンパンと牛乳をぱくついたまま、隣の席の九条薫子がおれを見た。
「……めずらしいな。一人か?」
「いや、一緒だ」
おれが何かいうより先に、後ろから現われた貴史が答えた。
涼しい顔をして、息ひとつ切らしていない。
「ふふん。毎日、剣道部の練習で鍛えている俺を、仁海がふりきれるわけないだろう」
身長186センチ、おれより26センチ上から見下ろして、得意げにいう貴史のどこがクールビューティーだ?
女子の皆さん、騙されてますよーって大声でいいたい。
「……仲がいいな。朝も待ち合わせてきているなんて」
「そんなもんしてない!」
おれは思いっきり否定した。
「そんなんしているわけないだろ。こいつは剣道部の朝練があるし、だいたい使っている電車の路線だって別なんだから」
「……それにしては毎朝一緒に教室に入ってくるな」
アンパンを食べ終えて、メロンパンの袋を開けながら薫子が指摘する。
しかしよく食べるな。しかもこれは朝食じゃない。
「……出てくる前に、家で朝ごはんはちゃんと食べている。菓子パンばかりじゃ体に悪いじゃないか。私は体のことをきちんと考えている」って前に聞いた時いっていたからな。
でも食べ過ぎってあきらかに体に悪いと思うんだが……太らないのが不思議だな。どんな体してんだ。薫子は。
スレンダーで高身長だから、全部縦に栄養がいっちゃってんのかな。
「答えは簡単。朝練が終わったあと、俺が駅まで、仁海を迎えに行っているからな」
貴史に後ろから抱きかかえられて、おれの薫子に対する考察はふっとんだ。
「変だろう!わざわざ迎えにくんなよ!」
「そんなこといって、今日もまた男に告られて、窮地に落ちていたくせに」
「窮地になんて落ちていない!」
「そうだな。今日のやつは男だっていわれても、証拠を見せろといって脱がそうとなんてしないし、男でもかまわないなんてせまってきたりしなかったもんなあ」
「っぐっ」
そうなんだ。ただ告ってくるだけならいいが(いや、本当は男が男に告ってくるなんて全然よくないが)、たまに強引で変なやつがいる場合がある。
ちびで非力なおれは、それこそ窮地にたたされることになる。
「まあ弟みたいなもんだしな。波奈《なな》さんにも頼まれているし、仁海の面倒は俺がみてやんないと」
「……波奈さん……?ああ、広瀬と松浦の姉さんはつきあっているんだったな。……まあ面倒見のいいことだ」
薫子はパック牛乳の最後を、チューと勢いよく音をたてて飲み干すと、ごみ箱に向かって立ち上がった。
それを合図に、貴史もおれの斜め後ろの自分の席についた。
波奈ねえ、おれのこと貴史に頼んでいるのか。……だから貴史はおれの面倒みているのか……。なんか分からないけど急に面白くない気分になってしまい、椅子を乱暴にひいて席についた。
「……昼だ……」
午前中の授業が終わり昼休みをつげるチャイムがなった。
同時に薫子がにんまりと笑う。
三段重ねの特製弁当を抱えると、いそいそと、もう一人の女子と一緒に食堂に移動して行った。
「あれ?九条は?」
おれの席に寄せて、空いている机と椅子を移動させながら、貴史が聞いてきた。
「ああ、最近やっと女子の友達ができたみたいだよ。坂本愛梨っていかにも女の子って感じの子」
九条薫子は、一言で表現するのなら、影のある美少女といえよう。
だがその美しさは、まっすぐな黒髪、青白い肌に赤い唇、モデル並みの170センチを超える長身に加えて、折れそうに華奢な手足って感じで、ホラーにでてきそうな、ちょっとこわい系の美しさだ。
本人が微笑んでいるつもりが、なにかたくらんでいるような笑みに見え、ひとりごとをいうと呪術の言葉を唱えているように見えるという魔女的な美しさ。
そのため一般的な女子からは、距離をおかれてしまっていた。
本当は大食らいの単なるアホなんだけどなあ。
たしかあれは四月の中旬頃だったかな。
おれは授業中、地面から響くような、獣のうなり声のような妙な音を耳にした。
それが席替えで隣になったばかりのホラー美少女から発信されていると気づいた時、思わずなにか呪いでもかけられているのではないかとあせって冷や汗が出てきた。
「……おなか、すいた……」
そうつぶやき、遠い目をしている薫子を見た時、これは腹の音だったのかと気づいたのだ。
「これ、食べるか?」
一時間目の授業が終わったあと、おにぎりとマフィンを見せると、薫子の目がらんらんと輝いた。
「……いいのか?食べても」
おれがうなづくと同時に、薫子は右手におにぎり、左手にマフィンを持ち、大きくほおばった。
ものの数秒で、おにぎりとマフィンは姿を消してしまった。
「……すごくうまいな。松浦が作ったのか?」
「ちげーよ。ねえちゃんが作って持たせてくれたんだよ」
それ以来、薫子はおれになつき、昼休みもおれ達と一緒だった。
その薫子と最近よく一緒にいる坂本愛梨は、ふわふわの髪に小動物をイメージさせる黒目がちの童顔、いかにも女の子って感じで、薫子と真逆のイメージだ。
「氷の女王と赤ずきんちゃんって感じかな」
二人を見て、貴史が感想を述べた。
どっちがどっちかは、説明するまでもないだろう。
「まあ同性の友達ができたのは、薫子にとっても良かったよ」
「いや、仁海だったら女の子同士にしか見えないし」
「たしかにそうだよな」
貴史と、やつの言葉にうなづく回りのクラスの男子たちも、一緒にどついてやった。
放課後、化学部でビーカーを洗っていたら、薫子が現われた。
「……かるめやき……」
「そのうらめしや~みたいなテンションやめろよ」
化学部は火が使えるので、実験と称して簡単な菓子を作ることもできる。
去年の担任がこの部の顧問なんだけど、化学は好きな科目だったこともあり、わりと親しくしゃべったりしていた。
なるべく家に早く帰りたかったので、二学期まで帰宅部を決めこんでいたのだが、そこに目をつけられたらしい。
「頼む。部員が足りなくて。入りたい部が特にないなら入部してくれ」
と泣きつかれた。
押しに負けて入った割には、自由がきいてなかなか居心地がいい。
「幽霊部員が多くて自由がきく。菓子も作れるし」
と何の気なしに部活の現状を話したら、今までどこの部にも入っていなかった薫子が即入部してきた。
それでもって放課後になると、部活にかこつけておれに菓子をねだることが多い。
「まだか……苦しい」
「もうちょっと待てよ。ここでぐるぐるっとかき混ぜて……っと。ほら、ふくらんだ」
おれはできたばかりのかるめやきを、薫子に渡した。
まわりからは「魔女の微笑」といわれている表情を浮かべて、かるめやきをパクつく薫子におれは尋ねた。
「最近、坂本とよく一緒だな。仲いいのか?」
「……向こうからよく話しかけてくる。パンやスイーツの話題で盛り上がる……」
薫子の口調で盛り上がるってのは想像しにくいが、まあ甘いもの好きってことじゃこいつも女子だよな。食べる量が半端じゃないだけだ。
「……来たぞ……」
何が、と聞く間もなく、化学室のドアがいきおいよく開いた。
「待たせたな。さあ、帰ろう」
「待ってねーよ!」
そこには部活を終えた貴史が立っていた。
おれは近寄ってやつをじっと見てみる。
部活終えたばっかなのに、涼しげな顔だよなあ。
汗臭さもないし。
クールビューティーって体も冷やすのか?
「ん?なに見とれているんだ?」
「ばっばか。そんなんじゃねえよ。何で汗かかねーんだろって不思議だっただけだよ。お前、汗腺ねーんじゃないのか」
確かに見とれていたので、焦ったおれはごまかそうとしゃべりまくった。
貴史は笑いながら「ほら、行くぞ」とカバンを持った。
「今日は波奈さんと約束してるから。仁海んちに寄るよ。夕飯、ご馳走になるから」
「……いいな……」
食べ物の話に反応した薫子がつぶやいた。
「お前も来るか?一人分くらい増えても大丈夫だぞ」
共働きのわが家では、おれとひとつ違いの波奈ねえちゃんが小学校六年生から食事係を担当している。
ベテラン主婦並みの腕前の上に、人に食べさせることが大好きときているから一人分増えるぐらいすぐ用意してくれる。
あ、でも薫子は一人分じゃないな。
「すごく心惹かれるが……今日は婚約者と食事をしなければならない」
「そうか。予定があるなら残念だな。……って婚約者?そんなもんがいるのか」
驚いたおれとは反対に、貴史は訳知り顔でうなずいた。
「九条ってなにげにお嬢様だもんな。この学校の土地だって、九条の親から学校に貸しているんだろう?」
この学校の広さって、けっこうあるよな。この辺地価もけっこう高かったんじゃね?
「土地の広さは約千五百坪。坪単価の相場は三百万ぐらいって聞いてるぞ」
貴史の言葉におれはぶっとんだ。それってそれって、
「うわあ、0がいくつあるんだよ!」
「……土地は祖父のものだ。理事長が祖父と友人なので、格安で貸しているらしい」
二人は、驚きで顎が外れそうな顔をしているおれを見て、声をそろえていった。
「まさか知らなかったのか?」
首を縦にぶんぶんふる。
「……松浦らしい」と薫子は口元を歪めた。じゃなくて微笑んだ。
「……はっきりいって、私の学力ではこの高校に入学するのは無理だった。祖父の力を借りて、推薦入学でねじこんでもらったようなものだ」
「そんなにこの高校に来たかったのか?」 おそるおそる聞くと
「……だってこの学校の学食と購買は、他の高校と比べるのが恐れ多いくらい、ハイレベルなんだ!私が充実した高校生活を送るなら、ここしかない!」
すごく薫子らしい理由だな。
でも三段重ね弁当を持参している上に、学食も利用するってすごすぎないか?
本人は「栄養学的にも朝、昼をしっかり食べるのは良いことだ」とすましているが、夜控えめにしているとは考えられない。
「……しかし、祖父に借りを作ってしまった。その為、祖父のおめがねにかなった殿方と婚約しなければならなくなってしまったのだ……」
「薫子、お前いいのか。高校生なのに、もう婚約者なんて決められて。嫌じゃないのか」
うつむいた薫子を思わず心配すると、でも昔からの知り合いでもあるし、会うたびに美味いものを食べさせてくれるからな、という返事だった。
「でもいかにも仁海よなあ。校内でも有名な九条の家のことを全然知らなかったなんて」
貴史が話題を変える。
「……みんなに遠巻きにされていたので、松浦が普通にかまってくれて嬉しかった」
そうか。なかなかクラスになじめなかったのは、ホラー美少女の外見だけじゃなく、家のこともあったのか。
それに普通にかまうっていうより、おれとしては餌付けしている感覚だったんだけどさ。
「仁海はそのまま、まっすぐ育ってほしい」
貴史の言葉に薫子もうなづく。
「二人して、おれのこと子供扱いすんなよ!」
おれはガチャガチャ音を立てて、使用した器具を片付け始めた。
「ただいまー」
貴史と二人で家に着くと、美河《みか》と亜湖《あこ》が駆け寄ってきた。
「おかえりなさーい!仁海ちゃん」
「あっ貴史君も一緒だあ。今日もかっこいいねえ!」
「おい、仁海ちゃんじゃなくてお兄ちゃんと呼びなさいと、何度もいっているだろう」
貴史の右と左にしがみつく二人に怒っても、知らん顔だ。
双子の妹の美河と亜湖は、貴史がお気に入りだ。小学二年生といえども、女はイケメンには目がないらしい。
「ありがとう。二人とも、今日もとっても可愛らしい」
キャーと歓声を上げて、美河と亜湖は奥に走り去った。
「お前、そういうことをさらっというよね」
「だって本当のことだろ?仁海に似てるしな。おれの知っている女の子の中で、仁海に波奈さんの次に、二人は可愛いよ」
「おれは女じゃないし、順番が間違っているだろう!」
叫ぶおれを無視して、貴史はおじゃましますといいながら、靴を脱いで部屋に入る。
「なあに、にぎやかね。ご飯出来ているわよ」
波奈ねえが食卓に料理を並べていた。
「わあ、美味しそうだな。おっ!やった!れんこんのはさみ揚げがある!」
それはお前の好物だから、波奈ねえが用意したんだろうよ。
「じゃあご飯にしましょうか。仁海、配膳手伝ってくれる?」
「はーい」
もちろんいわれなくても動きますよ。海外ばかり行っていてほとんど不在のカメラマンの父親と、大手出版社の編集者という超忙しい共働き夫婦の松浦家では、奈海ねえがほとんど母親代わりだ。おれはそんな奈海ねえに、いっつもまとわりついてまねしていたせいで、家事全般はわりと得意だ。
「いただきます」
れんこんのはさみ揚げの他、肉じゃが、きんぴらごぼう、うの花に大根の味噌汁が並んだ食卓を皆で囲む。
「なーんか和風だよねえ」
「コロッケが食べたーい」
双子は文句をいいながらも、パクパクとよく食べる。
「今日は貴史君向けのメニューだからね。和食の方が好きだもの」
「いや、奈海さんの作るものなら、何でも好きですよ。うまいもの」
にっこり微笑み合う恋人同士、か。人前でいちゃつくなよ。
「貴史お兄ちゃん、おかわりは?美河がよそってあげる」
「ずるーい!亜湖がよそうんだもん。貴史お兄ちゃん、こっちにお茶碗ちょうだい」
「もう、二人とも。まだ食べ始めたばかりよ。おかわりは早いでしょう。貴史君が困っているじゃない」
「おかわり!」
おれは空になった茶碗を、双子に向かって突き出した。
「仁海、ずいぶん食べるペース早いな。体によくないぞ」
「そうよ。もともと仁海は胃腸が弱いんだし。もっとゆっくりよく噛んで食べなさい」
二人に言われて、おれはもっとやけくそになって、ひたすら飯をかっこんだ。
「痛てえ。痛ててててて……」
「しょうがないな。仁海は。食べ過ぎだろう」
腹痛を起こしたおれは、二階の自分の部屋のベッドで横になったまま、貴史から薬を受けとった。
「それを飲めば、少し楽になるから」
そういわれて、コップの水も受け取る。面倒なので、少しだけ体を起こして薬を飲もうとしたら、バランスをくずしてしまった。
「あっ無精するな。ほら、水がこぼれている」
貴史はおれの口からこぼれた水を自分の指でぬぐうと、そのままペロリとなめた。
「そういうのやめろよ……」
「大丈夫か?顔が赤くなっているぞ。腹が痛いだけじゃなくて、熱もあるのか」
そのままおでこをくっつけようとしてきたので、おれはあわてて大声を出す。
「だからそういうのやめろって。そもそもお前は、波奈ねえのところに来たんだろ。おれの部屋に居座るなよ」
「ん、そうだな。今日は大事な話があるんだった」
そういって立ち上がった貴史は、急にかがむと、おでこをくっつけてきた。
「熱はないようだな」
不意打ちだ!油断していた。全くこいつは。
「じゃあ、波奈さんとこに行くよ」
おれの枕投げ攻撃を軽くかわすと、貴史は部屋から出て行った。
「ったく、あいつは何考えてんだか」
寝っ転がりながら、おれは自分の心臓がばくばくいっているのを感じた。
まったく困るんだよ。こういうの。
お前は波奈ねえと付き合っているんだろうが。
一年前の入学式の日、告ってきた同じクラスになったばかりの男をもう一度眺めて、おれはびっくりした。
女に間違えられて告られることは、めずらしくもないが(いや、これはこれで問題だな)相手の外見レベルがとてつもなく高かったからだ。
185センチを超すであろう長身。細身だが肩幅はがっしりしている。そして黒髪と切れ長の目に高い鼻梁を持ち、全体的な雰囲気
は日本的な凛とした美しさだ。
「かっこいいな……」
思わずつぶやいてしまった。
「じゃあOKってこと?」
そいつはおれに微笑みかけてきた。
「ちっちげーよ!おれは男だし、OKじゃねーし!」
思わず大声で叫んでしまったおれは、またおなじみの
「うそっ」
「女の子じゃないの?」
のひそひそ声に囲まれる羽目になった。
しばらく言葉を失った様子だったが、もう一度微笑むとそいつはいった。
「じゃあお友達からで」
「つーか、からでじゃなくて、友達しかありえねえから」
おれはしかめっ面をしながら、そいつが差し出してきた右手を握った。
そればおれと貴史との出会いだ。
そんな訳で、貴史との交流が始まったのだが、まあやつはすごかった。
見かけだけの男ではなかったのだ。
入学してすぐの実力テストで、総合二位をとって皆を驚かせた後、中学の県大会で剣道個人優勝をしていた経歴が明らかになった。
校長から直々に呼び出されて、何事かと思ったら、学校の近くに住むお年寄りが、ケガをした際に病院まで送り届けてくれて、名前もいわずに去っていった生徒さんにお礼を伝えたいと現れ、全生徒の顔写真から貴史のことだと分かった為だった。
他にも川で溺れていた子どもを助けただの、電車内で女子高生に痴漢していた男を退治しただの、その手のすごいやつエピソードが山盛りだった。
思わずおれは「お前は出来杉君か」と突っ込みを入れてしまった。
「何だ。それ」
と不思議そう顔をしていたので、さすがの出来杉・貴史君も漫画やアニメーションにまでは精通していなかったらしい。
国民的人気漫画なのにな。
しかしやつがあんまり素晴らしい人材だったので、おれは決心した。
「お前、おれの姉ちゃんと会ってみないか」
「なんだ。いきなり」
「いや、お前おれの外見が気に入ったんだろう?おれ、姉ちゃんがいるんだけど、回りからもよく似ているっていわれるんだ。弟のおれがいうのもなんだけど、すごく素敵な姉ちゃんなんだ」
じっと見つめてくる切れ長の目に、おれは落ち着かなくなってまくしたてた、
「一こ上の高二。華丘女子高に通っているんだ。あそこ制服が可愛くて有名だけど、波奈姉ちゃんほど似合う子はいないよ。成績も学年五番から落ちたことないし、人望もあるから生徒会で副会長もやっているんだ。そのうえ、料理がうまくて、和・洋・中何でも来いってレベルなんだ。それでもって……」
「分かった、分かった」
「あ、会ってみる気になった?」
「とりあえず仁海がお姉さんのこと大好きだっていうのは、よく分かったよ」
図星をさされて、おれは顔が熱くなった。
「うっそうだよ。おれは姉ちゃん大好きなんだよ。そんな姉ちゃんとお前なら、お似合いなんじゃないかと思ったんだよ。変なやつには、大切な波奈姉ちゃんをまかせたくないから」
貴史は、困ったような笑っているような変な表情で
「じゃあ一度会ってみようか」
といった。
「そうか?じゃあ善は急げだ!」
おれはさっそく二人を引き合わせる準備を始めた。
「波奈ねえ、姉ちゃん!」
「おかえり仁海。何をそんなに慌てているのよ」
洗濯物をたたんでいる波奈ねえの前に勢いよく座り、気持ちを落ち着けるために咳ばらいをひとつしてから話を始めた。
「波奈ねえは今、彼氏いないんだよね?」
「なあに、いきなりどうしたの。まあいないけど。だって前の彼も、その前の彼も、ラブレターくれた人も、その他もろもろみんな仁海が追い払っちゃったんじゃない」
波奈ねえは、あーあ、私ってば過保護な弟に守られて、彼氏も作れないんだわあと、わざとらしく嘆いてみせる。
「だってみんな、波奈ねえにはふさわしくないやつばっかりだっただろ」
「そうね。仁海を見たとたん顔を赤らめたり、妹さん可愛いねーなんてのりかえようとする、ろくでもないやつらだったわよね」
「う?」
思わず涙目になったおれを、波奈ねえは抱きしめた。
「うそうそ。私だって、あんな男たちなんかより、仁海の方がうんと大事だからいいのよ」
……うーん。おれに告ってきた男を紹介するってのはやっぱり問題かな。
ふつう嫌だよな。弟を見初めた男なんて。でも貴史ほどレベルの高い男なんてそうはいないし。
勝手に波奈ねえに近寄ってきた男はろくでもないやつばっかりだったし。
黙りこんでしまったおれの顔を、波奈ねえは覗き込んできた。
「実は……」
おれは正直に話すことにした。女子と間違えておれに告白してきたこと、でもすごくいいやつだから、波奈ねえにふさわしいと思っていること、だから一度貴史と会ってほしいことを伝えた。
「ふうん。面白いじゃない。いいわよ。会ってみても」
「本当?きっと波奈ねえも気にいるよ。外見も中身もすっごくいいやつだから」
そんな訳で二人を引き合わせると、予想通りお互いに気に入ったようで、付き合いが始まった。
でも家事で忙しい波奈ねえに合わせて、今日のようなお家デートがほとんどだ。
「たまには外でデートすればいいのに」
食事が終わった後に、並んで洗い物をしている時に波奈ねえに提案したことがある。
その時リビングでは、双子がつけっぱなしにしていたテレビから、若い子向けの情報番組が流れていた。
「ほら、今番組でやっているデートの人気スポット。ここからそんな遠くないじゃん。ああいうところに二人で行けばいいのに」
えー、人ごみ嫌―い、面倒くさーいと波奈ねえが顔をしかめる、
「おれ、今の方がいいや」
リビングにいないと思ったら、子ども部屋にぬいぐるみをとりにいっていたらしい。クマとウサギのぬいぐるみを抱えた貴史が、右肩に美河、左肩に亜湖をのっけたままで話に加わる。女子とはいえ小二だぞ。すごい筋力だよな。そんでもってうちの双子は、本当に貴史にべったりだよなあ。
「ここに来れば、美人4人に囲まれて過ごせるし」
「えー、貴史お兄ちゃん、美河美人?」
「亜湖も美人?」
きゃっきゃっはしゃいでいる双子を無視して、おれはどなった。
「4人ってなんだよ。おれは男だろ」
訂正しろと訴えるおれをよそに、貴史はそのまま双子の遊び相手をこなしていた。
そんな日々が日常になりつつあったのだが、ある日変化が訪れた。
「今日、また家でめし食っていくだろ?ついでにこないだ見たいっていっていた、親父の持っているDVD見ていくか?」
「あー、いやちょっと今日は用があって……」
貴史からは、歯切れの悪い返事が返ってきた。
「そうか?じゃあまた今度な」
家に帰ると、先日買ったばかりのワンピースを着た波奈ねえが、ちょうど家から出てくるところだった。
「仁海、おかえり。お姉ちゃん用があって出かけるから。夕食はシチューを作ってあるから、温めて食べてね」
「あ、ああ。分かった。帰りが遅くなるなら、迎えに行くから駅からでも連絡してよ」
波奈ねえが微笑んだ。ピンク色の唇の広角がキュッと上に上がる。
珍しい。波奈ねえが化粧までしているなんて。
「大丈夫。送ってもらうから」
それに仁海に迎えに来てもらったら、そっちの方が無事かどうか心配になっちゃうしね、と余計な一言をつけ加えた後、波奈ねえは行ってきますと手を振り、出かけて行った。
おれは自分の部屋に入って、カバンを置くと、ベッドの上に寝転んだ。
これって、きっと二人でデートなんだろうなあ。なんだ。うまくいってるんじゃないか。おれが心配なんかしなくても大丈夫じゃん。
「あーあ、安心した」
わざと声に出してみたが、すっきりしない。なんだ。これは。
しかめっ面をしているとお腹が盛大に「ぐーっ」となった。
「そうか。おれ腹ペコだから、なんかもやもやするんだな」
リビングに行くと、双子もお腹を空かせているらしく「ぐーっ」が三合唱となった。
「ごはんまあだー?」
「今日はなあにー?」
「波奈ねえがシチュー作っといてくれたから、温めればすぐ食べられるよ。ちょっとだけ待ってな」
その日、もやもやは腹ペコのせいだと結論を出したおれは、解消の為にごはんもシチューも三杯食べた。が、もやもやはちっとも晴れず、その夜、またおれは食べ過ぎによる胸やけと腹痛に苦しむはめになった。
次の朝、家を出る直前にスマホを見ると、貴史からメッセージが入っていた。
「悪い。試合が近くて今朝は迎えに行けない。電車で目をつけられないよう気をつけろ。念の為マスクでもしてこい」
よけーなお世話だ。即レスする。
「一人で学校くらい行ける!お前は剣道に集中していろ!」
ったくかまいすぎだろ。自分の彼女の弟だからって。
そう。おれは貴史にとって、自分の彼女の弟で同級生。
「悪い、波奈ねえ。昨日食い過ぎたから、朝めしパスね。行ってきまーす」
大声で叫ぶと、カバンを持って家を飛び出した。
電車の中で、おれは妙な視線を感じていた。
これは気のせい、考えすぎ。自分に言い聞かせて、回りを見回したい気持ちを抑えた。
振り向いて、顔をはっきり見られてしまったり、目が合ったりしたら、今までの経験上かえって大事になりやすい。
今日だけは男に告られたくない。
たまたま自分がいない日にそんなことがあったら、貴史の過保護がどこまでエスカレートするか、分かったもんじゃない。
電車を降りて、誰からも声をかけられなかったことに、ほっとした矢先のことだ。
「あの、ちょっといいかな?」
話しかけられて、おれはギクッとした。
声がした方に顔を向けると、背の高い明るい髪の男が、にこにこ微笑んでいる。
「えっと、おれ男だけど……?」
先手必勝とばかりにいってのけたおれに対して、そいつはちょっとびっくりしたようだ。
「えっ?ああ、そうなの?でも君は陽聖学園の生徒だよね?」
「うん、そうだけど」
「僕、転校生なんだよ。職員室まで案内してもらえたら嬉しいんだけど、お願いできるかな」
げっ!おれってばとんでもない早とちりしてしまった。恥ずかしー!
「悪い!おれ勘違いして、変なこといっちゃった。感じ悪かったな。すまない!」
「?ああ、そういえばいきなり自分は男だっていってきたね。もしかして、君のことを女の子と間違えて声をかけてきた、ナンパ野郎とでも思ったのかな?」
「あー、いや、その……」
その通りとはっきりいうこともできず、いいよどんでいると「きっとそういうことがよくあるんだね?大変だね」と転校生が微笑んだ。
お、なんか感じいいやつじゃん。ほっとして、おれも思わず笑顔になった。
「まあ僕だって、どうせ案内してもらうなら君がいいって思って声をかけたんだしね。僕は二年C組に入るんだけど、君は何年生?」
「なんだ。同じクラスだよ。おれは松浦仁海」
なんか一瞬気になるセリフがあったが、クラスが同じことに気をとられて、何が引っかかってたのか、忘れてしまった。
「本当?同じクラスなんだ。嬉しいな。僕は佐原和佳《さはらかずよし》。親の転勤で転校してきたんだ。これからもよろしくお願いするね」
「ああ、よろしくな」
おれが笑顔を向けると、佐原はすごく嬉しそうな顔をした。
「じゃあまた後で。教室でな」
職員室まで佐原を案内すると、おれは教室へ向かった。
「……浮気?」
階段を昇っているところを、後ろから耳元でささやかれて、危うくこけそうになった。
あわてて手すりにつかまると、薫子がクロワッサンを口にしたまま、じっとこっちを見ている。
「……かなり動揺しているな」
「何いってんだよ!いきなり声かけてくるから、びっくりしたんだよ!ってか薫子、行儀悪いぞ。せめて席についてから食べろよ」
「……焼き立てはすぐ味わうのが一番正しい……」
学校のすぐそばのパン屋で、購入してきたんだな。まったく、薫子の食にかける情熱には尊敬さえ抱くよ。
「……さっきの人、誰?見たことない顔」
「ああ、転校生だってさ。同じクラスに入るそうだ。駅で道案内を頼まれた」
「……転校早々仁海に目をつけたのか。広瀬のガードはどうしたんだ?」
「何だよ、それ。貴史だったら、試合が近いから、朝練強化で忙しいんだよ」
「……そうか。ナイト不在で、絶好のチャンス。転校生はうまくやったな」
「あのなあ。そんなんじゃないから、変なこというなよ。佐原にも失礼だろ」
教室に入りながら、薫子の勘違いを訂正していると、目の前に剣道着のままの貴史が現れた。
「ふーん。さっきのチャラそうな男は、佐原というのか」
面だけは外しているが、朝練姿のまんまだろ。これ。
「あっぶねーな。ただでさえでかいんだから、防具なんかつけて目の前に立ちはだかんなよ。通行の邪魔になるだろうが」
「邪魔になる俺がついていなかったら、さっそく変なやつを連れてきたな。あれほど気をつけろと注意したのに」
「はあ?佐原のことか?転校生だっていうから、職員室まで案内しただけだよ」
貴史、お前右手に竹刀持ったまんまだぞ。
ちゃんと着替えてから戻って来いよ。おっかねーだろが。
「やあ、もう名前を覚えてくれたんだ。嬉しいな。でもどうせなら、和佳って下の名前で呼んでくれると嬉しいな。仁海君」
今度は後ろから障害物が現れた。
ちびなおれを挟んで、貴史と佐原が真正面から向き合っている。
「やあ、佐原和佳君。転校早々ナンパはよくないな。特に仁海は男子だしね」
爽やかな笑顔を浮かべると、貴史は右手を差し出した。
「ああ、さっき聞いたよ。でもどちらでも僕は構わないよ。気になる子がいたら、声をかけたくなるのは、自然なことでしょう?」
優しげに微笑むと、佐原は貴史の右手をとって、握手をした。
ただならぬ雰囲気の二人を見て、クラスメート達が
「三角関係?」
「転校早々すごいわー」
とざわめきたつ。
ああ、もういいかげんにしてくれ。
しかめっ面のまま、おれは二人にはかまわず、とっとと自分の席に着くことにした。
「今日からみんなの仲間になる佐原和佳君だ。お父さんの仕事の都合で、転校することになったそうだ。じゃあ佐原君。自己紹介をして」
担任が短い説明を終えると、佐原は教壇に立って自己紹介を始めた。
「どうも。佐原和佳です。中途半端な時期に転校することになっちゃったんで、ちょっと心細いんですが……。まだ何も分からないんで、いろいろ教えてもらえたら嬉しいな」
ちょっとはにかみながら自己紹介をする姿を見て、女子がいっせいに色めきたった。
「かわいい!もういろいろ教えまくっちゃう」
「いいわ!広瀬君のクールビューティーとは違うわんこみたいなとこがたまんなーい!」
キャーキャー女子が騒ぎまくる中、佐原はおれの方を見て手を振ってきた。
反射的に小さく手を振り返す。
「……いいのか?松浦」
「何が?」
薫子が指さす方を見ると、見たこともない仏頂面をした貴史がいた。
「ねえねえ。校内案内してあげる」
「前の学校では、クラブとか入っていたの?」
「お昼どうする予定?一緒に学食行きましょ」
昼休みは、予想通り佐原の回りが女子でいっぱいになった。
「貴史、今日は天気いいから、外で食べね?」
「ん、いいな」
弁当を二つ抱えて、貴史と教室を出ようとしたら、肩をつかまれた。
「お昼どこで食べるの?僕も一緒にいい?」
佐原だった。
「やだよ。女子に恨まれるだろ。みんな親切に案内してくれるっていってるんだから、学食行ってこいよ」
「んー、でも僕こう見えて、人見知り激しいんだよねえ。やっぱり馴染みのある、仁海君と一緒がいいんだよねえ」
「何いってんだよ。おれだって、今朝会ったばかりだろ」
「インプリンティングって聞いたことあるでしょ?雛が一番初めに見たものになついちゃうやつ。今、僕あの状態なんだよねー」
冷たい目で佐原を見ている貴史が、どんな対応をするかとおれはあせった。しかし貴史は大きくため息をつくといった。
「しょうがない。おれ達は中庭で食べるつもりなんだ。お前は弁当なのか?」
「ううん。じゃあ購買で買って、すぐ行くね」
後から追いつくから、とダッシュした佐原を見送ると、なんだか急に背後から寒気を感じる。
「ずーるーい。広瀬君のことだって、独り占めしているのに、そのうえ佐原君までなんてどういうこと?」
「両手にイケメンはべらせるなんて、許せない」
やばい。またしても、女子の恨みをかってしまった。ちくしょー。佐原のやつ。もう早く教室から出よう。
女子のうらみのこもった視線を浴びつつ、おれは小走りで中庭に向かった。
「でも意外だったな」
中庭のベンチに腰かけてから、弁当を貴史に渡しつつ、さっき思ったことを伝える。
「何がだ?おっ今日はチンジャオロースに焼売か。中華弁当だな。うまそうだ」
「いや、おまえは佐原のことすごい目で見ていたし、昼飯一緒に食べんの嫌がるかと思ったよ」
「ああ、もちろん気に食わないよ。仁海に馴れ馴れしくしすぎだ。でも俺はクラス委員だし、転校生の面倒をみないわけにもいかないしな」
そうか。そういえば貴史はクラス委員だったっけ。
「それに近くで監視した方が、仁海にちょっかいを出すのを阻止できるしな」
「おまえ、また変なこといっている。いい加減にしろよ。焼売落っことしそうになっただろうが」
貴史の言動に呆れていると、息を切らした状態で佐原が現れた。
「購買ってすっごく混んでいるんだねえ。びっくりしちゃったよ」
「ああ、チャイム鳴ったら、すぐ行かないと人気のパンは買えないんだよ。って佐原、おまえ一番人気の焼きそばパンと二番人気のたまごサンド。特製キャラメルプリンって、あの時間でなぜそんな品揃えを、手に入れられたんだ?」
「うん。僕が行った時は、もうジャムパンとコッペパンしかなかったんだけど、クラスの女の子たちが、差し入れしてくれたんだ。この学校の子はみんな親切だねえ」
にこにこしている佐原を見て、女子が我先にと争って差し入れしている光景が、ありありと目に浮かんだ。
「うちは親が共働きで、お弁当は作ってくれないんだよねえ。二人はいいね。お弁当なんだ。んっ?」
佐原は、おれと貴史の広げた弁当を、交互に見る。
「あれ?何で同じおかずで、同じ柄の包みなの?……まさか仁海君が広瀬君の分も、作ってきているとか……?」
「っちげーよ!これはおれの姉ちゃんが作ってるんだよ!貴史とうちの姉ちゃんは、付き合ってるんだよ!」
むせそうになりながら、おれは佐原に説明した。
「えっ?そうなの?広瀬君は、仁海君のお姉さんと付き合っているんだ」
「ああ、そうだよ。だから俺はこいつの保護者なの。兄貴みたいなもんだからな。変なことすんなよ」
貴史は、出し巻き玉子を口にしながら、佐原を睨みつける。
「ん、うまい。やっぱりこの上品な味付けは、絶品だな」なんてつぶやきながら。
「なんだあ。そうなんだ。僕はてっきり……良かった。安心したよ」
佐原のおれにとっては安心できないセリフは、出し巻き玉子にうっとりしていた貴史の目を、再びするどく豹変させた、
その日の授業が全て終わると、佐原はまた女子に囲まれた。
「佐原君、前の学校では、何かクラブに入っていたの?見学に行くなら案内するから」
「私、野球部のマネージャーをやっているの。佐原君が入ってくれたら、もう専属マネージャーになってお世話しちゃう!」
「ねえ、映画研究会に入らない?これから撮りたい作品の主役に、佐原君がピッタリなの。感動青春ラブストーリーものよ。監督兼相手役ヒロインは私で!」
佐原、すっごい人気だなあ。
ややおびえて固まった笑顔となっている佐原は、どうやら助けを求めているらしい。
必死にこっちに向かって手を振ってくる。だがこれ以上女子にうらまれたくないおれは、手を振り返して、貴史と一緒に教室を出ようとした。
その途端、佐原を囲んでいる女子の数に負けないくらい大勢の女子が、おれ達の回りを囲んだ。
「私達は貴史君一筋だから!」
「やっぱり一番かっこいいのは貴史君よ!」
「転校生なんかに、すぐ押し変する子達とは違うから!」
貴史に熱い視線を向けながら、口々に声を張り上げている。
うーん。やっぱり貴史も相変わらず、人気だな。
感心していると、別のグループが駆け寄ってきた。
「私達は、貴史君と仁海君、ペアで見守っているから」
「ベストカップルよね。応援しているから!」
きゃっきゃとはしゃぐ女子達に向かっておれは大声で叫んだ。
「そこ違うから!ベストカップルじゃないから!」
こいつら何考えてるんだ!
部活に向かう貴史と別れて、化学室に浮かうおれの後ろから、足音が聞こえてきた。
「仁海君、待って!」
息をはずませながら、佐原が近づいてくる。
「はあっ。女の子達から逃げるのに時間がかかってしまったよ。みんな親切なんだけど、ちょっと強引なところあるよねえ」
「佐原相手だから、親切なんだよ。お前もてるなあ。ところでクラブは決めたのか?」
「ずっとバスケやっていたから、この学校でも続けたいんだけど。仁海君は何部?バスケ部じゃないの?」
「お前何いってんだ。おれみたいなちびがバスケ部のわけないだろ。おれは化学部。とはいっても、部員は実質おれと薫子だけ。あとは名前だけの幽霊部員が4人。おかげで好き勝手にやらせてもらっているけどな」
「そうなんだ。ねえ、この学校ってクラブ活動、掛け持ちもOKなんだよね?」
「ああ、そうだな。たまにいるよ。そういうやつ」
「よし、じゃあ決めた。バスケ部と化学部。両方に入るよ」
「おい、うちのバスケ部はけっこうハードだぞ。掛け持ちきついんじゃないか?」
「化学部は活動きつくなさそうだよね。合宿とか、イベントの時だけ顔出すのとか駄目かな?」
佐原がおれの顔を、のぞきこんでくる。
「いや、実際4人は幽霊部員だし。ま、部員が増えるのは、ありがたいしな。バスケ部優先で掛け持ちするのは別にかまわない。じゃあ明日、入部届を渡すから提出してくれ」
「ありがとう」
佐原が手を振って去っていくと同時に、背後から人の気配がした。
「……佐原が入部するのか」
「薫子、その心臓に悪い登場のしかたはやめてくれ」
「……そんなことをいわれても、現れる前に人魂を飛ばしたり、ラップ音を鳴らしたりなんてできないし……」
「よけい心臓に悪いわ!」
よく見ると、薫子はたまごと小麦粉とバターを抱えている。
「……今日の実験は、仁海特製のホットケーキにしようではないか」
おれはため息をついた。
「あのなあ。おれ達は化学部。料理研究部なら、別にあるだろう」
「……実験してくれないのか……」
しょぼくれた薫子に、おれは慌てて「いいよ。作るよ」と声をかけた。
「……しかし、いいのか?」
「何が?」
「佐原が化学部に入ると、きっと広瀬が荒れるぞ」
「何か問題があるのか?好きなクラブ活動するのは、個人の自由だろ?」
「……まあな。部員が増えるのはいいか。あと二人増えても、私の学校用ジノリのティーセットはまだ足りるし……」
薫子は何やらぶつぶつつぶやいていたけど、おれはたまごを落としそうになったのに気をとられ、あまり聞いていなかった。
「薫子ちゃん!これから部活?」
ふわふわの髪を揺らしながら、レースのフリルのついた可愛らしいエプロンをつけた姿で、坂本愛梨が現れた。
「……ああ、そっちも部活か?」
「そうよ。今日はマカロンを作るの。初挑戦だから、ちょっと不安なんだけど」
そういって、「てへ」という文字が横につきそうな、小さく舌をだした坂本愛梨の表情は、いかにもザ・女の子って感じだ。
「そうか。坂本さん、料理研究部だっけ。イメージにぴったりだね」
「えー。そんなことないわ。フリルのエプロンとか、かわいいお菓子って、松浦君の方がぴったりだもの。うらやましいわ」
いや、坂本さん。褒めてくれてるつもりかもしれないけど、それ全然嬉しくないから。
苦笑いしていると、彼女は可愛くラッピングされた小さな包みを、おれと薫子にくれた。
「昨日の部活で作ったクッキーなの。良かったら、食べてね」
坂本さんにお礼をいって、おれと薫子は化学室に向かった。
「坂本さん、料理研究部に入っているんだな。ならおれじゃなくて、あの子に菓子作ってもらえばいいじゃん」
「……いや、私は仁海のお菓子がいい。さっきのクッキーを食べてみろ」
理由が分かるから、という薫子にうながされ、包みを開いた。
色とりどりのアイシングを施された、可愛らしい花や動物の形をしたクッキーが現れる。
「へー。可愛いじゃん」
さっそく、うさぎの形をしたクッキーをかじってみようとした。
固い。なんだこれ。固すぎる。思いっきり力をこめて齧ると「ばきっ」という音と、苦い味が口中に広がった。
「うえー、何だこれ。すっごく固くて、おまけに苦いぞ」
「……愛梨の通るお菓子は、見た目はすごくいいんだが、味は……食べ物とは思えない。あの子は可愛くするのは得意だが、料理は壊滅的なんだ」
「なるほど。分かった。ホットケーキは作ってやるから、そこにある自動販売機でココアをおごってくれ!」
口中苦くてしょうがない。おれは一刻も早く、口直しがしたかった。
次の日、クラスの、いや学校中の女子が大騒ぎだった。
バスケ部に入部手続きをした佐原が、力だめしに練習試合に参加したら、シュートは決めまくるわ、回りを意識した的確なパスで点につなげるわ、誰からも文句が出ないレギュラー入り確実という活躍ぶりだったらしい。
「へえ、すごいなあ。うちのバスケ部、全国大会でベスト8入っているじゃなかったっけ」
おれの言葉に、佐原はすごく嬉しそうな顔をした。
「僕、バスケ大好きなんだ」
「だったら、掛け持ちなんかしないで、バスケ部だけにすればいいのに」
「好きなものは、ひとつじゃないんだ」
そういうと、またにっこり笑っている。変なやつだ。
佐原の化学部への入部届を、顧問に提出する為、記入漏れがないかチェックしていると、スッと用紙が手もとから抜き取られた。
「あっ貴史。返せよ。これから提出するんだから」
「ふーん。化学部への入部届け?あいつはバスケ部に入るんじゃないのか?」
奪った用紙を見つめて、冷たい口調で貴史はいった。
「バスケ部メインで、こっちには時々顔を出すつもりらしいよ。まあ部員多い方が、予算取りやすくなるから、化学部としてはありがたいけどね」
「そうかそうか。では喜べ。俺も化学部へ貢献してやろう。入部届けを、もう一部用意してくれ」
「へ?だれがどこに入部?」
「俺が、化学部に、だ」
「だって貴史、剣道部に入っているじゃん」
「佐原だって掛け持ちだろう?おれが同じことをしたって問題ない。あいつがお前の回りをうろちょろするのはよくない。俺としては、波奈さんとの約束もあるし、仁海に悪い虫がつかないよう、見張る義務がある」
「いいよ!そんなの。お前はお前で、やりたいことやってろよ」
おれと貴史がもめていると、横から薫子が、スッと申し込み用紙を差し出してきた。
「……こうなることは、分かっていたからな。用意しておいた」
「サンキュー。九条って意外と気がきくんだな」
「……大丈夫。ティーセットは、二人分増えてもOKだ」
貴史はさっさと記入すると、佐原の申し込み用紙の上に自分の分を置いて、提出頼むなと告げると去っていった。
いつの間にか、二人の入部が決まってしまったようだ。
部活が終わると、いつも通り貴史が迎えにきたが、帰宅中の道のりの口数は少なく、むっつりした顔をしている。
「お前、何を怒ってんだよ」
「別に怒ってなんかいない」
「うそつけ。そんな顔して、だんまり決め込むなっつーの。うっとうしくてたまんないよ」
「うっとうしいのは、俺じゃない。佐原だ。しつこく仁海の回りをうろちょろしやがって。お前ももう少し、警戒心を持てよ」
「大丈夫だろ。あいつはもともとナンパしてきたわけじゃないんだし。それにあんなに女子にもてているんだから、お前が心配するようなことないよ」
「……まあ、おれもそう願ってはいるんだけどな」
家に着くなり、貴史は「お帰りなさーい」「今日もかっこいい!」と、いつも通りの双子の大歓迎を受けている、
「こらこら。実のお兄ちゃんにも、もうちょっと温かいお迎えをして欲しいなあ」
すねながら靴を脱ごうとしたら、ハイヒールと男物の革靴があるのに気づいた。
「めずらしい。母さんもう帰っているのか?」
ドアを開けると、母さんと母さんの同僚の森安さんが、波奈ねえといっしょに食卓についていた。
「こんばんは。おじゃましています」
森安さんは、気弱そうな微笑みをうかべて、挨拶する。
「ども。また母さんにこき使われているんじゃないですか?森安さんやさしーから。母さんの横暴許しちゃダメですよ」
「こら、人聞きの悪い。私は編集の先輩として、いろいろ教えているだけよ」
「限定品のブランド物のバッグを買いに行かせたり、家でバーベキューやるからって肉担当を任命して調達させるのは、編集と関係ないんじゃない?」
「世の中の理不尽なことを教えるのも、先輩の仕事よ」
すました顔の母さんの横で、困ったような顔で森安さんが座っている。
気が弱く、そのくせ神経が細やかで気がきくので、母さんにいいように使われている。
そして、森安さんはどうやら母さんに憧れているらしい。
自分の母親のことを褒めるみたいでなんだが、今年四十五歳にはとても見えない若々しさだ。大学時代はミス・キャンパスでもてはやされ、自社の雑誌の美魔女特集では、ぜひ出てくれと懇願されている。
「私は裏方に撤したいからやあよ」と逃げているらしいが。
見た目の可憐さとは違い、男勝りの気の強さと、徹夜の二日や三日平気でこなす体力の持ち主で、頭の回転も早く仕事もかなりできる。
売れない写真家だった父さんの才能を発掘し、写真集を出して「流浪の写真家 松浦飛沫《まつうらひまつ》」を世にしらしめしたのは母さんの手腕だ。
才能だけではなく、本人にも惚れ込んだ若き日の母さんは、押しかけ女房となり、おれ達が生まれ、いまに至るって訳だ。
父さんは未だに世界中流浪しているし、母さんは忙しいしで、波奈ねえとおれでほとんど家事をやっているという状況。
親は無くとも子は育つ、だな。
「相変わらず、皆さんお綺麗ですね」
森安さんは、少し顔を赤らめながら、おれ達を眺めた。この人、見かけによらず、こういう褒め言葉をストレートにいうんだよなあ。
お世辞とかいえない人だから、ちょっと天然入っているというか。
「あたり前でしょう?私と私の産んだ子どもたちなんだから」
そうですよねーと、母さんの言葉に真顔でうなづく森安さんだった。
その時、シューベルトの「魔王」が、大きく鳴り響いた。
森安さんが、慌てて携帯電話に出る。
「はい、はい。僕です。えっ今ですか?」
なんかトラブルかな?大至急とか今すぐとかの単語が飛び交った会話の後、彼はおれ達に向かって頭を下げた。
「おじゃましました。今日は急で申し訳ないのですが、緊急の用事が入ってしまったので、これで失礼致します」
鞄を手にすると、そそくさと玄関から出て行ってしまった。
「仕事?プライベート?」
母さんに聞いてみたら
「うーん。たぶん両方ね。岸谷潤よ。きっと」
と回答がきた。
「まだ縁切れていないの?」
「無理よ。離婚したっていっても、相手はうちの売れっ子コラムニストよ。向こうの指名で、担当からも外せてもらえないし」
波奈ねえと母さんが森安さんについて話している横で話を聞いていたおれの肩を、貴史がちょんちょんとつついた。
「あの人、離婚歴あるの?というか、結婚していたのが意外」
「だろ?しかも相手が、コラムニストの岸谷潤だったんだから、よけいびっくりだよ。人間のタイプが違いすぎ」
「ああ、TVや雑誌にもよく出てくる……機関銃のように、しゃべりまくる人?美人だけど気が強そうなイメージだよな」
「そう。担当になった森安さんのことを、なぜか気に入って、あの勢いで結婚に持ち込んだんだけど、半年で彼女から三下り半をつきつけられて離婚したという、二十八歳にしてなかなかハードな経験の持ち主なんだよ。森安さんは」
「ねーえ。今日は、お母さんも貴史君も一緒にごはんー?」
ほっとかれるのにしびれを切らした双子達が、貴史の両隣に座ってまとわりつく。
「そうね。もう夕飯の時間ね。私お腹空いちゃったあ!ねえねえ波奈、今日のご飯はなあに?」
母親の娘に対するセリフとは思えないな。
「今日は鯵フライと切干大根の煮物よ。お味噌汁の具はしじみ」
「あら、森安君の好物ばかりじゃない。まったくあの子は、ついていないわね」
よっこいしょ、と実年齢にふさわしいかけ声をかけて立ち上がった母さんは、波奈ねえと一緒に食事の準備に取りかかった。
「おはよう!今日も朝から、仁海君に会えて嬉しいよ」
「何をいっているんだ。偶然みたいな風にいうな。駅で待ち伏せしていたら、嫌でも会うだろうが」
貴史が佐原に反論する。
「ははっ。そうだね。広瀬君はついでだけど、まあ会えて嬉しいよ」
「……佐原、お前本当は、結構嫌なやつなんじゃないか?」
「クールビューティーと呼ばれながら、実は粘着質で嫉妬深い性格の広瀬君と同じくらいには、二面性があると思っているよ」
「お前なー」
「あーもう二人ともうるさい!」
右と左、おれの頭の上で飛び交う言い争いに、いいかげん耐え切れなくなり叫んだ。
教室に入るとガヤガヤと騒がしい。
「お化け屋敷と喫茶店は定番だよなー」
「うちのクラスの女子は水準高いから、メイド喫茶やコスプレ喫茶にしたら、絶対受けるぞお」
「レベル高いっていったら、ミスター・ミス陽聖、両方ともうちのクラスから出ちゃうんじゃね?」
「二年からじゃないと参加できないんだもんな。うちの学校。何でだろう?」
「まだ一年生は入学したばかりで、お互いのことがよく分かってないからってことになっているらしいよ。でも本当は昔一年生で選ばれた子が、上級生のいじめにあったんで、二年生以上にルール変更したらしい」
「最近はルッキズム批判があるから、ミスコン系は禁止したり、やり方変えた学校も多いよね。実際うちも審査基準も変わってきているし。写真以外に自己アピールが重視されるようになってきたもんね。ま、自己アピールは希望者のみだけど、あれで点入る人けっこういるよね。筋肉自慢の先輩やダンスの腕前がプロ級の先輩とか。男女二人で漫才コンビ組んで入賞した年もあったしね。ま、どっちにしても人気投票に近いから」
「へー。でもあの去年の噂聞いた?無効票で公には出来なかったらしいけど、一年生で出場者にエントリーされていないのに、広瀬と松浦がかなり票集めてしまって、文化祭実行委員を悩ませたらしいよね。こっちは完全に見た目の魅力で表が入っちゃったんだろうけどさ」
「松浦、ミスターとミス、どっちで票集めたんだ?」
おれは最後のセリフを口にしたクラスメートの背中をどついた。グッといううなり声を上げて「本当に顔と違って乱暴なんだから」とうめいている。うるせえ。
「そうか。文化祭だな」
貴史がつぶやいた。おい、クラス委員。そこ忘れるなよ。
陽聖高等学校での文化祭はGW中の2日間を選んで開催される。
秋にやるより受験に有利ってことらしいが、いくつかの進学校では、やはり同じような理由でこの時期にやるところがあると聞いている。
まだクラスがまとまりきっていないこの時期、親睦を深めるきっかけにもなるようだ。
「僕、いい時期に転校してきたなあ。仁海君と一緒に、青春の思い出を彩ることができるなんて、幸せだよ」
「……やめろ。佐原。隣のクールビューティーが、凍えるような冷たい目でお前を見ているぞ」
二人のバトルに、薫子がちょっかいを入れてくれたので助かった。こいつら二人、おれ一人じゃ面倒みてらんねーよ。
「ところで、ミスター・ミス陽聖って何なのかな?」
貴史を無視して、おれの隣に来た佐原が聞いてきた。
「ああ、生徒の中で一番イケてる男子と女子を投票で選ぶコンテスト。全校生徒の他、文化祭に来た一般客の一部に投票権がある」
「一般客は一部だけなの?」
「入場の時、ランダムに一定数を一般客に配るらしいんだけど、どうも係が私情に走って美男美女を選んで配っているらしいという噂もある」
おれは説明を続けた。
「ジンクスもあるんだよな。ミスターとミスに選ばれた二人は、必ず付き合うっていわれているんだよ。もともと人気トップの男女が選ばれているんだから、不思議じゃないけど。選ばれた後のパレードや写真撮影会で、組んでいるうちにその気になっちゃうらしいよ」
「そうかあ。じゃあ今年は、僕と仁海君で選ばれたいなあ」
「はあっ?何ほざいてるんだ。お前おれの説明、ちゃんと聞いてる?ミスター・ミスターじゃねえぞ。ミスター・ミス陽聖だぞ!」
「そうだな。佐原は間違っている」
貴史が割って入ってきた。いいぞ。このふざけた転校生にばしっといってやれ。
「選ばれるのはおれと仁海だ。パレードの時のドレスは、きっと仁海に似合うだろう。写真撮影会では、定番のお姫様抱っこでサービスしてやるからな」
「それも違うだろー!何で男のおれがドレス着なくちゃなんねーんだよ!」
怒りまくるおれをスルーして、貴史は佐原の正面に回った。
「勘違いはほどほどにしておけ」
「へえー。パレードではドレスを着るんだね。見たいなあ。仁海君のドレス姿」
佐原はちょっと頬を染めながら、おれに微笑みかける。
貴史は青筋を立ててそんな佐原を睨みつけている。
「……ところで松浦、化学部は文化祭に参加するのか?」
薫子が、全く違う方向から会話に参加してきた。ありがたい。貴史達二人の会話は不毛すぎる。
「そうだな。本当は三年の飯倉先輩がまだ部長なんだけど、あの人幽霊部長だしな。おれ、君の好きにやっていいからって丸投げされてんだよなあ」
「……お菓子の家の展示会とかどうだ?私が魔女の役をやろう。なかなか似合うと思うのだが」
確かに薫子にその役はぴったりだろう。
「そんなもの展示したら、薫子が全部食っちまうんじゃないか?」
「大丈夫。文化祭は他にも模擬店がある。そっちも食べるから、食いつくすまではいかないだろう。安心しろ」
なんだよそれ。ちっとも安心できないだろ。
「でも化学部なんだからさ。もっとこう、実験的な発表もいれたいよな」
「いいわね。魔女のマジックショーみたいな感じで取り入れてみたら、盛り上がりそうじゃないかなあ?」
ふわんとした声。坂本愛梨だ。
「お菓子の家なんて素敵!私も一緒にやりたいくらい。でも残念。料理研究部で、洋食屋さんやるから手伝えそうもなくって……親友の薫子ちゃんの役に立ちたいのに」
「気にするな!愛梨の気持ちだけで充分だ!」
「そうだ!坂本さんは、自分のクラブ活動を大事にしろ!」
薫子とおれは、間伐入れずに叫んだ。
おれ、薫子の頭に「……」がつかないしゃべりは初めて聞いた気がする。
「私、当日はウエィトレスをやるの。お料理作るのが好きだから、厨房やりたかったんだけど、みんなからウエイトレスの制服が一番似合うのは愛梨だからぜひって、説得されちゃって」
「……そうだな。愛梨のエプロン姿目当ての客が、たくさん押しかけるだろう」
きゃーやだ、お世辞なんていわれても何も出ないよおと坂本は体をくねらせながら、薫子の肩を叩く。
うん。料理研究部のみんなの気持ち、分かるぞ。あのクッキーで彼女の腕前が分かるけど、坂本さんに厨房は任せたくないよな。
結局その日のホームルームで、クラスの出し物を決めることにした。
「お化け屋敷かメイド喫茶だな」
「他でもやるだろ?つまんないよ。巨大迷路なんてどうだ?」
「教室しか使えないのに、巨大になんてならないだろ」
「メイド喫茶より、イケメン執事喫茶の方がいいよお」
「そうよね。なんたってうちのクラスには、広瀬君も佐原君もいるんだし」
「ものまねは?」
「エアーバンド大会!」
みんな無責任に思いつきを発言するだけで、意見が全然まとまらない。
「喫茶店みたいな、火を使って食べ物を出すのは、許可されるクラス数がかぎられているんだ。くじ引きで決めることになるから、出来れば運に左右されない催し物で最初から決められると、やりやすいと思っている」
クラス委員兼議事進行役の貴史が提案すると「私もそう思う」とか「さすが貴史君。よく考えてるわ」だの女子から賛同の意見が上がってきた。
「メイクやネイルアートとかどうかな?」
女子のクラス委員の、水名瀬《みなせ》ゆいの発言だ。
「うちのクラス、オシャレな子が多いでしょう?ネイルやメイク上手な子多いのよね。ネイルアート+メイク+ヘアメイクで、希望者には記念撮影をするの」
「でもそれって、男にはつまんないじゃん」
そーだよ、と男子からブーイングがとぶ。
「そう?男子だってナチュラルメイクぐらいたまにはいいと思うけどなあ。メイクに抵抗あるんだったら、髪型ちょっとセットするとか眉毛整えるとか。それだけでもだいぶ垢抜けるよ。そんでもってオシャレしたうちのクラスの女子とツーショットで記念撮影ってどう?新しくおしゃれに目覚めちゃうかも」
「それ、女子にも適用できない?おめかしした後、指名制でお気に入りの男子とツーショット写真」
みんなはしゃいで、それいいかも!と盛り上がっている。
「じゃあ、決を採っていいかな」
盛り上がる女子たちに、主導権を奪われた形になった貴史が、なんとかまとめようとする。
そんなわけで、うちのクラスはメイクアップ&記念撮影をやることになった。
「意見まとまって、出し物決まってよかったよな」
「うん。そうだな」
いまいち晴れない顔で貴史は同意した。
まあそうだろうなあ。あんな出し物だったら、ツーショットの指名は貴史に集中するのは間違いなしだ。
「水名瀬があんな提案するとは、思わなかったよ。なんか真面目ってイメージがあるから、メイクとか意外だった」
「一緒に委員やっているから、知っているんだけど、水名瀬の親は有名なメーキャップアーティストらしい。本人も同じ道を目指しているんだそうだ」
「へえ、肌が綺麗な真面目そうな子ってイメージしかないや」
「実はすっぴんに見えるようメイクしているらしいぞ。いかにもやってますってメイクより、素顔に見えるようなメイクの方が難しいんだからって自慢していたからな」
「メイクしているなんて、全然分からなかったよ!」
女子すげーな。本当の顔が分かんないじゃん。
家に寄った貴史と居間で話していると、波奈ねえがお茶とお茶菓子を持ってきてくれた。
「なあに?仁海。人の顔をじろじろみて」
「いや。波奈ねえはすっぴんだなあと思って」
「やあだ。私だってたまにはメイクするけど?家の中ではしないけど」
「しなくても綺麗だからいいよ」
ありがと、と笑みを浮かべる波奈ねえを見て、メイクして貴史とのデートに出かけていた姿を思い出した。
「波奈ねえ。GWは文化祭来てくれよな。招待券渡すから」
「私たちも!私たちの分は?」
双子が騒ぎ出す。
「何いってんだ。お前達は、友達と一緒に泊りがけでTDLに行くって、はしゃいでいたじゃないか」
「うー。だってえ」
「連れてってくれる友達の父さんに感謝だな」
「でもチケットは、お母さんのコネでうちが手に入れたんだもん」
「こら、そんなこといわない。連れて行ってくれる人に、素直に感謝しなさい」
貴史がたしなめると「はーい」と二人は声をそろえた。ほんと貴史のいう事なら、よく聞くんだから。
次の日曜日、おれは信じがたいものを見てしまった。
「仁海ちゃん。おなかすいたあ」
波奈ねえが、昨日の夜から友達の家に泊まりで遊びに行っているので、今日の朝食係はおれだ。
「ちょっと待ってな。すぐパンケーキ作ってやるから」
「わあい!パンケーキ♪パンケーキ♪」
双子の二重奏を聞きながら、おれは冷蔵庫を開けて、失敗したことに気づいた。
「悪い。たまごを買い忘れてた。ビザトーストでもいいか?」
「やだー!パンケーキがいいの!」
一度盛り上がった気分は、切り替えがきかないらしい。二人してパンケーキを連呼する。
しょうがない。買いに行くか。
最寄りのスーパーで切らしてしまったたまごを買ってから家に戻る途中、サングラスをかけた女性が、止まっている車の助手席から降りてきた。
「あれ?あの恰好は、母さんじゃん。若向きかなあって悩んでいたツーピースと、お気に入りのハイヒール。仕事だっていっていたけど、気合入ってんなあ」
そんなことを考えていると、森安さんが運転席から現れた。
ああ、やっぱり仕事なんだな。
声をかけようとしたら、おれに後ろ姿を見せていた母さんが、森安さんに抱きついた。
森安さんはちょっと躊躇した後に、思い切ったように強く抱きしめ返した。
「ええ!何これ!どういうこと?」
パニックになったが、とりあえず二人に見つかってはいけないと思い、一本奥に入った道に逃げ込んだ。
うそだろ。おれは今何を見たんだ。母さんが森安さんと……。
浮気?そんなまさか。
あれだけ周囲に何を言われても「私は飛沫さんしか見えないの」って堂々と惚気ていたのに。
母さん、いったいどうしちゃったんだよ!
動揺したまますぐ帰るわけにもいかず、何とか落ち着きを取り戻して帰ると、ふくれっ面をした美海と亜湖が、仁王立ちして待ちかまえていた。
「おっそーい!」
「おなか空きすぎて、もう倒れそうだよ」
そういうわりには元気に走り回りながら、早くパンケーキ作ってよおと催促してくる。
「なあ、母さん帰って来ていないか……?」
双子はきょとんとして答えた。
「何いってるの。仁海ちゃん。お母さんはお仕事だって、いってたじゃない」
「ああ。うん。そうだよな」
これ以上考えてもしょうがない。とりあえず今は、双子の朝ごはんのパンケーキを作ろう。
「パンケーキの上には、何をのっける?苺にバナナ、生クリームとチョコクリーム。アイスクリームもあるぞ」
「全部!」
二人は揃って声を上げた。
「全部のっけね。お前らデブるぞお」
双子をからかいながら、波奈ねえが帰ってきたら、相談しようと考えていた。
しかし結局おれは、その日帰ってきた波奈ねえに、相談することができなかった。
昼ごろ帰ってきた波奈ねえが、貴史と一緒だったからだ。
「ちょうど家の近くで、貴史君に会ったから」
「仁海パンケーキ作ったんだって?美河ちゃんと亜湖ちゃんから、食べに来てって電話が来たんだ」
なぜ一緒に?波奈ねえ、友達の家に泊まるっていっていたけど、それって本当は貴史のとこに泊まった……?
頭が白くなってしまい、貴史のパンケーキに生ハムとチョコソースとあんこをのっけて出してしまった。
「えーと、仁海。今日はパンケーキの新しい可能性に挑戦しているのか?」
「っああ。そうか。ごめん。まだごはんですよを乗っけていなかったか」
「いや、いい。これで充分だ。これ以上俺のパンケーキに、何も追加するな」
覚悟を決めた様子で、貴史はパンケーキを食べ始めた。
「うん。パンケーキはうまい。生ハムもチョコソースもあんこもいい。ただし別々に食べれば、の話だがな」
そういいながら、貴史はパンケーキを食べ続けている。
その横では、なんだかいつもより艶っぽい雰囲気の波奈ねえが、いつもよりテンション高くはしゃいでいたので、よけいおれの平常心がどこかにいってしまった。
「……仁海。聞いているか?」
「いや、聞いていない」
「……私はあまりすぐ怒る方じゃないが、今の返事にはちょっと切れそうだぞ……」
「悪い悪い。薫子。ちょっと気になることがあって、今までの話が聞けていなかった。これからはちゃんと聞くから」
放課後、化学部の文化祭に向けた活動のため薫子と打ち合わせをしている最中も、波奈ねえと貴史のことが気になって、薫子を怒らせてしまった。それに母さんと森安さんのことも気になる。
あれ、どっちの方が気にかかっているんだ。おれ。
波奈ねえと貴史は付き合っているんだし、母さんと安森さんの不倫になってしまう場合と違って問題ないのに。ないはずなのにおれの中では、一番問題として心を占めていて……うー。やっぱりおれってかなりシスコンなのかな。
波奈ねえには、結婚までそういうことして欲しくないっていうか。でも貴史だったら、軽い気持ちでそんなことするやつじゃないし……ってことは、やっぱり貴史の一番は波奈ねえなのか……ってそんなの当たりまえじゃんか!
「……仁海。大丈夫か?」
「何がだ?」
「……さっきから赤くなったり、泣きそうになったり、歯を食いしばったり、一人百面相を繰り返しているぞ」
「えっおれそんなことしてた?」
「……かなり派手に」
大きくうなづく薫子を前に、おれは恥ずかしくなった。おれはいったいどうしちゃったんだ。
その時、部室のドアが開いて、佐原が現れた。
「化学部の文化祭の出し物の相談をしているんだよね?僕も参加していいかな」
「……ありがたい。松浦が使い物にならないから、話し合いに参加してくれる部員が増えると、とても助かる」
「仁海君、体調でも悪いの?」
「いや。大丈夫。続けようぜ」
おれは薫子の説明を、きちんと聞こうと努力した。
「……お菓子の家を提案したが、この方向で進めていいのか?」
「そうだな。たぶん化学の実験的なことだけじゃ、人目をひかないからな。ショー的な要素として取り入れれば、その方が人は来てくれるんじゃないかな」
「……確かに。去年のような展示のみはつまらないな。通りすがりに中を覗いたが、見る気がしなかった」
去年、一年生でまだ入ったばかりのおれは、先輩に意見することなんて、とても出来なかった。
指示されるまま手伝っていたら、出来上がったものは、大きな模造紙に化学式や実験結果をのせた、なんとも地味でつまらない展示物たちだった。
「椅子と机置いておいたから、足が疲れた人の休憩所になったけど、それだけだものな」
おれと薫子の暗い表情を見て、笑っていた佐原が質問してきた。
「ショー的な要素って、どんな感じのものを考えているの?」
「液体窒素を使って、薔薇とか割ったら魔女っぽいかなと思うんだけど。ただ液体窒素使うと、金かかるかな」
「……そこは心配しなくていい」
経済力の後ろ盾がある薫子からの力強い一言があった。
「……液体窒素は、金魚が生き返る実験もあったな。人間にも適用できるだろうか。仁海や佐原で実験したら観客に受けそうだな。せっかく美形揃いなんだし」
「却下!」
おれと佐原は身を乗り出して叫ぶ。
冗談じゃない。金魚と一緒にしないでくれ。
「この学校の文化祭は、文科系のクラブの活躍場所なんだねえ。バスケ部は、クラスの行事で忙しい人も多いから、クラブ行事としては参加しないんだって。おかげで化学部に顔出しやすいから、ありがたいけどね」
人体実験の対象とならないよう、佐原がさりげなく話題を変える。
「……そういう運動部も多いな。強くて実績があるクラブほど、文化祭への参加はしていない」
と、いうことは。
三人で入り口の方を見た瞬間、戸が勢いよく音をたてて開いた。
「練習終わった。おれも参加するぞ」
貴史の声に、薫子が「……やっぱりそうなるのか」とつぶやいた。
「出し物は決まったのか?」
「ああ、まだ途中。液体窒素を使おうかって話が出たとこ」
貴史と目を合わせられないまま、おれは答えた。
「液体窒素使うなら、取り扱いに注意しなくちゃいけないな。ガラスに入れると割れるし、換気も必要だ」
貴史が参加したことにより、話し合いが具体的かつスムーズになった。
「ウッド金属の合成なんてどう?お湯で融ける金属。僕、あれ色々な形にするの、やってみたいんだよねえ」
「……体験学習みたいなのはどうだ?定番だがスライム作成とか」
「いいね。触り心地が気味悪いところが、魔女っていうのと似合うし。べっこうあめも型を魔女のコンセプトに合わせれば、統一感出るな」
みんなで意見を出し合って、液体窒素とウッド金属の合成の実験ショー、体験学習としてスライムとべっこうあめ作成をやることに決まった。
「お菓子の家は、どうする?」
おれが聞くと、三人ともじっとこちらを見つめる。
「えーと、おれ以外で菓子とか作ったことあるやつ、いる?」
三人とも、ぶんぶんと首を横にふる。
「さすがに本物の菓子で、実寸大の家を作るわけにはいかないしなあ」
「……床とか踏んで、食べられない部分ができるのは、もったいないしな」
いや、薫子。問題にしているのは、そこじゃないから。おれ一人でそんな大きなもの作れないし、材料費半端ないから。
「小さな家、デコレーションケーキの少し大きいくらいのお菓子の家だったら、仁海作れるか?」
「ああ、それくらいなら、前日に用意できる」
「じゃあお菓子の家のデザインは、お前に任せる。デザイン図に基づいて、張りぼてで家を作成しよう。本物は展示すればいい」
「そうだな!それなら可能だ!」
意見を出してくれた貴史の方を見ると、今日初めて目があった。
優しい眼差しで微笑んでくる。お前、やっぱり全然クールビューティじゃないじゃん。
おれは心の中でつぶやいた。
「腹減ったなあ」
「波奈ねえに連絡したよ。今日はメンチカツ用意してあるってさ」
「美味そう。早く食いたいな」
「仁海君の家にお邪魔できるの、嬉しいなあ」
「……私が食べても、お家の人の分は無くならないのか?」
貴史がおれの耳元に口を寄せて、小声で聞いてきた。
「薫子はともかく、なんで佐原も夕飯に誘うんだよ」
「いいじゃん。二人は掛け持ちだから、なかなか四人で揃うことないんだし。おれの家が一番近いし、波奈ねえはOK出してくれたし、みんな腹ペコなんだし」
貴史と二人きりで帰るのがなんだか落ち着かないから、佐原と薫子も誘ったなんて本当のことをいえるわけがない。
「おかえりなさーい。貴史君も一緒?」
玄関を開けると、美河と亜湖が駆け寄ってきた。
とうとうおれより、貴史の方が先に呼ばれることになったか。
貴史の後ろから現れた佐原を見て、双子が一瞬固まった。しかしすぐに騒ぎ出した。
「ええ!こっちのお兄ちゃんもすごくかっこいい!ハーフ?髪の色も目の色も茶色だあ」
イケメン二人を前にして、テンションが上がった双子が、きゃあきゃあはしゃぎ出した。
「二人とも玄関で騒ぎ過ぎ。お客様に失礼でしょ」
波奈ねえが現れた。
「……こんばんは。今日は仁海さんのお言葉に甘えて、急にお邪魔させていただくことになりました。クラスメートの九条薫子です」
真っ先に薫子が挨拶をする。やっぱりこいつは、きちんと躾されたいいとこの娘なんだな。
「いらっしゃい。私は仁海の姉の波奈よ。こっちは双子の妹の美河と亜湖。遠慮しないでどうぞ上がって」
お邪魔しますといいながら、薫子達が靴を脱いだ。
「広瀬君が、この家に入り浸る気持ちがよく分かるよ。こんなにご飯が美味しくて、美人ばっかりに囲まれて」
「ハーフのお兄ちゃんもしょっちゅう来てくれればいいのに。大歓迎よ」
「ハーフじゃないけど、たくさん来ていい?」
「もちろん!」
佐原と双子のやり取りを、貴史がひきつった顔で見ている。
そんな貴史に気づくと
「貴史お兄ちゃんやきもちやいちゃ駄目よ?もちろん貴史お兄ちゃんのことも大好きなんだからね」と双子は甘い声を出した。
「あ、お姉さん。おかわりする?」
亜湖が空になった薫子の茶碗に気づき、ご飯をよそう。
「……ありがとう」
五杯目のおかわりを受け取ると、薫子は微笑んだ。
あれ?いつもの表情と違う。魔女っぽくない。優しい可愛らしい笑顔だ。
「薫子。お前そんなに腹減っていたのか?すごくいい顔で笑っているぞ」
「……仁海のお姉さんのご飯がすごく美味しいからな」
なんだか恥ずかしそうに、うつむいている。
文化祭の準備は着々と進んでいる。クラスの出し物も役割分担が決まった。
女子はお互いメイク道具やネイルを持ち寄って、あれが可愛いだのこれはいくらに設定するかだの、盛り上がっている。
「仁海君も写真パネル出すからね」
水名瀬に声をかけられた。客の指名で、ツーショット写真を受けるやつか。
「なーんかホストクラブかキャバクラみたいだな。でもクラスの行事だから仕方ないか」
「化学部の出し物もあるんだよねえ。でも二日間、一日三時間はクラスの為にあけといてね」
「あれ?おれの写真撮影は、拘束時間二時間じゃなかったっけ?」
「あはは。忘れたの?うちのクラスはメーキャップも売りなのよ。手をかけて、より可愛くなった仁海君に広告塔になってもらう予定なの」
「やだよ!そんなの」
水名瀬はまなじりをつり上げて、どすの効いた声でいった。
「やりなさい。ただでさえ仁海君は、女子の恨みを買っているのよ。広瀬くんも佐原君も独占しちゃって」
「その言い方やめろよ!」
「男の子のくせに可愛すぎるのがいけないのよ!こういう時ぐらい、その可愛さでクラスの役にたちなさい!さもなければ、女子全員を敵にまわすことになるわよ」
クラス中の女子からの「分かってんでしょうね?」の視線に負け、おれはおとなしくうなづいてしまった。
文化祭当日は、よく晴れた気持ちのいい日だった。
「今日私は生徒会の用事で行けないけど、明日は行くからね」
「明日は最終日で、コンテストもあるから華やかだよ」
「ふふ。仁海も貴史君もエントリーされているのよね。楽しみだわ」
双子はあれだけ騒いだのに、友達のお父さんが車で迎えに来ると、大はしゃぎでTDLに行ってしまった。泊りがけで行くのは初めてだから、無理もないか。
明日も双子はいないから、波奈ねえも気楽に見学できるだろう。
結局波奈ねえに、土曜日どこに泊まったのかを聞くことも、母さんの浮気疑惑のことを相談することもできなかった。なんかどういったらいいのか分からないし、両方心配したことが事実だったりしたら、こわい。おれって自分で思っていた以上に、本当はへたれみたいだ。
学校の最寄りの駅に着くと、貴史と佐原が待っていた。
最近、朝は二人して待っているし、帰りは化学部のみんなでうちに寄っていくので、ほとんど貴史と二人では話をしていない。
もちろん波奈ねえとどうなっているのかなんて、聞けていない。
「もう一通り準備は終えているんだけど、最終の飾りとチェックをしておきたいから、まずは化学部の魔女のお菓子の家を見ておきたいな」
おれがいうと二人がうなづいた。
おれが先頭に立って、目的地に向かう。
するとすでに薫子がいて、ミニ版の本物のお菓子の家を見つめていた。
「薫子。おれの渾身の作だぞ。本番前に食べたりするなよ。文化祭終わったら、好きにしていいから」
「……家本体はチョコレートスポンジ。回りの柵には、3種類のクッキーを使っているんだな。屋根瓦はミルクとホワイトの2種類のチョコレート。壁が崩れないよう、長方形型のマカロンで囲い、庭の花は飴細工。美しい。……つくづくこれが、実物大でないのが、悔やまれる……!」
「お前はおれを殺す気か!このサイズだって、日持ちするものを部分ごとに作成して、何日もかかって出来上がっているんだぞ!」
薫子かは渋々、ミニチュア版お菓子の家から離れ、魔女の衣装に着替える為、女子更衣室に指定された教室に向かった。
「薫子は朝から魔女の衣装でいいのか?クラス行事の写真撮影会で指名されたら、どうするんだ」
「本人曰く、指名するもの好きな人は少ないだろうし、自分を指名するマニアックな人ならこの衣装の方が喜ぶだろう、とのことだったぞ」
「本当は美少女なのに、なんでああなっちゃうのかなあ」
おれ達男三人は、ため息をついた。
「これでよし、と」
食用の花で庭を彩り、お菓子の家の完成だ。
チェックを終えてから教室に行くと、張りきった様子の水名瀬が、皆に指示を出していた。
「メイク道具は揃っている?写真撮影の予約時間はしっかりね。広瀬君、佐原君、仁海君あたりはツーショットじゃなくダブルとかみんなでっていう希望が多いだろうけど、一人ずつに分けて。そうすれば別々の申し込みになって、売上多くなるから」
「さすが水名瀬、しっかりしてんなあ」
「ぼくは仁海君とツーショットの方が、いいんだけどね」
佐原はまたよけいな一言を口にして、貴史からにらまれていた。
「ああ、売れっ子さん達、おはよ。スケジュールは確認した?絶対この時間は、クラスに戻ってくること!約束してね」
はいはい、とうなづきながら、おれ達はスケジュールの確認をする。
「あれ、これ間違っていない?聞いていた時間より、二日とも一時間ずつ増えているんだけど」
「事前調査で人気予測してみたらね。やっぱりあなた達三人が、ぶっちぎりで人気だったの。もとの時間じゃ足りないから、一時間ずつ追加したの」
自由時間ないじゃないか。
「あなた達が入っている化学部とミス・ミスターコンテストのことも考えて、3人は別々のスケジュールにしてあるから。あ、でも宣伝効果も考えて一緒に行動して欲しい時間帯も設けたの。ここまで気をつかったんだもの。やってくれるわよね」
目が全然笑っていない笑顔を向けられ、おれ達はうなづくしかなかった。
「じゃあ、仁海君は支度に入ってちょうだい」
「あれ?おれのスケジュール、十一時からの一時間と三時からの二時間じゃなかった?」
「広告塔になってもらうって伝えたでしょう?メイク後文化祭に参加してもらうから」
「えー!やだやだ!姉ちゃんも来るのに、そんな恰好できるかよ!」
「文化祭だもん。のりで大丈夫よ」
必死で逃げようとするおれは、水名瀬を先頭とした女子の集団に拉致られ、仕切りの向こうに運ばれた。
おれの叫びを耳にしながら、貴史は女子相手になす術もなく戸惑った様子のまま。
佐原は「いってらっしゃーい」と軽く手をふってきた。
おれは仏頂面で、足音をどしどし鳴らしながら、化学部の展示室へ向かう。
「おいおい。広告塔なんだから、もうちょっといい表情しろよ」
「でもすごいよねえ。いつもの仁海君も可愛いけど、普段とはまた違う魅力だね。思わず僕もメイク試してみたくなるよ。ああ、でも仁海君だからここまで可愛くなるんだよね」
「うるさい!」
後ろからついてくる貴史と佐原にやつあたりだ。
支度が終わった後、仕切りから出てきたおれを見て、クラス中がどよめいた。
「すごっ。なにこれ。可愛すぎ!」
「天使?人形?うわー。おれも写真撮りてえ」
そんな様子を見て、水名瀬は満足そうな笑みを浮かべている。
「もとがいいのもあるけどね。その良さを壊さないよう、あくまで自然なメイクにしたわ。
はかなげで上品な、ガラス細工のような女の子をイメージしたの。爪もそのイメージに合うよう、淡いピンクの二色を使ったつけ爪に、ストーンをつけてあるから。髪の毛はウィッグで、天然のウエーブがついている印象にしたわ。服は上下白にしたの。デザインはシンプルだけど、素材に気を使ったものよ。いいものってんじゃなくて、仁海君が雑に扱っても汚れにくいようにね。本当はスカートもはかせたかったんだけど、仁海君が抵抗するから幅広のパンツで一見スカートに見えるものにしたの。靴は、ヒールで歩くのは履き慣れない子には無理だから、ぺったんこのバレエシューズ。妹とサイズ同じで、ほんと良かった」
うんうんうなづきながら、おれの全身をチェックする。
「あーうっとうしい!全部はがしてえー!」
おれは絶叫し、足を踏み鳴らした。
「この天使、がら悪いぞ」
「イメージが……しゃべるな。動くな」
好き勝手なこというな!
「私の会心の作だわ」
満足げな水名瀬の言葉の後に「いつもの方がいいな」とつぶやく貴史の声が聞こえた。
「……ほほう。これはこれは」
薫子はおれを上から下までじっと見た。
「……水名瀬はセンスいいな。よく仕上がっている」
おれも薫子をじっと見た。
「お前、黒を基調にした帽子とその衣装は、いかにも魔女の恰好でいいけど、そのわし鼻をつけるのはやめろ!」
「……けっこう気にいってるんだが……」
「駄目!薫子だって、写真撮影の希望者いるだろうから、せっかくの美貌をおかしくするな!」
薫子は、せっかくこの日の為に購入したのに、とぶつぶつつぶやきながらも、おれの勢いにおされて、渋々とつけ鼻を取り外した。
文化祭開始すぐは、おれと薫子と佐原が魔女の家の当番だ。
「じゃあ写真撮影、頑張ってこいよ」
クラスに戻る貴史に声をかけると、「いけね」といいながらおれの方に来た。
おれの正面に向かって、腰に手を回す。
な、なんだよ。何するつもりなんだ。
「よし、できた」
ポンポンとはたかれたそこには、メイク&ヘア&ネイル二年C組」と書かれた札が、安全ピンでつけてあった。
「水名瀬にいわれたんだ。これがなくちゃ広告塔の意味がないってね」
なんだ。驚かすなよ。
「あと宣伝の為、なるべく校内を練り歩けって指示も出てるからな。自由時間が重なるところは、一緒に行動しよう」
「う、うん。分かった」
そこへ佐原が入ってきた。
「広瀬君だけじゃなくて、僕もそれいわれているから。っていうかいわれてなくても迎えに来るから僕とも回ろうね。さあ、広瀬君は早く戻って。時間になっちゃうよ」
一瞬眉間にしわを寄せた貴史だが、時計を見るとあわてて教室へ戻って行った。
「……ではこの薔薇を、パキンと割ってみせよう」
薫子の魔女の実験ショーはなかなか盛況だ。
お菓子の家が効いたのか特に子どもが多い。
「ねえ、あれって本当の魔女?」
「なんか怖いよ。体が動かなくなっちゃう」
別の意味で薫子のショーに、釘付けになっているようだ。
拍手喝采でショーが終わると、貴史がやってきた。交代の時間だ。
「……疲れた。写真に魂吸い取られた気分だ」
「指名どれだけきたんだよ」
「確認はしてないけど、二階の教室の入り口から、下駄箱まで人が並んでいたらしい」
さすが貴史。すごい人気だな。
「お前だって……いや、きっともっと多いと思うぞ。メイクしたお前の顔と普段の顔が、両方宣伝に大きく飾られているからな。女子だけの俺と違って、男子も女子も指名してくるはずだ」
げーっ。やめてくれ。
「早くお勤めすましてくるわ」
教室に向かおうとして、廊下に出たら回り中を囲まれてしまった。
「可愛い!何年生?」
「二年C組?ああ、写真撮影会やっているとこだよね。おれ行くよ!」
「メイクもここでやってもらったら、こんな風になれるの?試してみたーい」
おれは身動きがとれなくなってしまった。
「ほら、行くぞ」
大きな手がおれの肩をつかみ、抱きかかえるようにして、人ごみから連れ去る。
「かっこいい!」
「なんて絵になる二人なの!」
「私、絶対一緒に写真とってもらう!」
後ろからきゃあきゃあ騒ぐ声が聞こえる。
「貴史。午後の部は、靴箱までの行列じゃ足りないんじゃないか?」
「宣伝効果ばっちりだから、クラスには貢献しているだろ」
おれを無事教室まで送り届けると、貴史は化学部のコーナーへ戻っていった。
疲れた。とにかく疲れた。
引きつりそうな顔を無理やり笑顔にし、べたべた触ってくる男を殴り倒したいのを我慢して、ひたすら指名の列が終わるのを待った。
「さすが仁海君。午後はもっと来客が増えるから、この調子で頼むね」
写真撮影代の五百円が山となった箱の前で、水名瀬がほくほくしている。
「もーやだ。勘弁して。せめていつも通りの恰好にさせて」
「何いっているの。それじゃあメイクの宣伝ができないでしょ!」
あっけなくおれのお願いは却下され、そのままの恰好で化学部に戻ることになった。
「お迎えに来たよ」
今度は佐原が教室まで来ている。
一人で行ける!といいたいとこだが、さっきの身動きできない恐怖を思い出して、素直に従うことにした。
「今は体験実験の時間だよな。上手くいっているか?」
「うまくも何も……もうびっくり」
「何が?」
「とにかく仁海君も見てよ。実際に見るのが一番」
わけが分からないまま、化学部のコーナーに着いた。
「……こっちをこう持って。そうそう。とっても上手」
初めは目を疑った。
聖母マリアのような、慈悲深く美しい微笑みをたたえた黒髪の美少女がいる。
「薫子……似てるけど違うよな?あいつあんな笑い方できたのか?」
子どもにべっこうあめを手渡す薫子は、あめより本人の方が甘いんじゃないかという、とろけそうな笑顔を浮かべている。
その顔をじっと見ていると、似た表情を見た時のことを思い出した。
「……仁海。仁海も体験実験を手伝ってくれ」
こちらを見た薫子に近寄り、聞いてみる。
「あのさ。もしかして薫子って子ども好き?」
とたんに薫子の頬は、ポッとピンク色に染まった。
「……悪いか。イメージと違うだろうが、私は子どもには優しくしたいと思っている。優しい大人がいて、自分は守られていると感じさせてあげたいんだ」
そうか。だから家にきた時、双子を見て優しい表情になっていたのか。
「……私が子供の頃、寂しかった時優しくしてくれた人がいたから……」
薫子はそっと目を伏せた。
「悪いわけないよ。薫子とってもいい表情しているし。みんな見とれているよ」
おれのいう通り、子どもを連れたきた父親が薫子を見て頬を赤らめていたり、薫子目当てに体験実験に申し込もうとしている若い男性の数が増えて来ている。
薫子の写真を撮ろうとしていた男子四人グループに、おれはストップをかけた。
「申し訳ないけど写真撮影禁止。この子の写真が欲しかったら、二年C組の撮影会で指名して下さい」
そして薫子の方を向いてニッと笑う。
「薫子、お前の拘束時間、午後3時からだったよな。きっと忙しくなるぞお」
それを聞いた薫子はうえーとつぶやいて、聖母マリアの微笑から、魔女の憂い顔に変化してしまった。
午後3時からの撮影会は、ちょっとした騒ぎになった。
子ども相手にいい表情を見せていた薫子への指名が予想外に多かったのと、薫子の婚約者という男が現れたからだ。
「……びっくりした。秀一《しゅういち》さんが来るとは思っていなかった」
「文化祭あることを、僕にも教えて欲しかったな。いとこから聞かなかったら、知らないままだったよ」
「……悪かった。仕事で忙しいだろうと思ったので」
拘束時間が薫子と重なっていたおれは、二人の会話を聞きながら、その男の姿をじっと見た。天然パーマのふわふわした髪で、色白の柔和な面立ち……。だれか思い出すなあ。
「秀一お兄ちゃん!」
駆け込んできた顔を見て分かった。
そうだ。坂本愛梨になんとなく似ているんだ。
「……秀一お兄ちゃん?」
「薫子ちゃん。黙っててごめんね。私と秀ちゃんはいとこなの。秀ちゃんの婚約者が薫子ちゃんだって知って、友達になりたかったの」
そういえば薫子は「愛梨からよく話しかけてくる」っていっていたもんなあ。
そういう理由だったのか・
「あとね。もう一つ理由があるの。あれだけ食べるのに、全然太らないのはどんな秘密があるのかしらって不思議だったの。近くにいたら分かるかと思ったけど、全然分からなかったわ」
坂本さんも、やはり疑問に思っていたのか。そうだよな。あれだけ食べてあんな細いなんて、誰がどう考えても、おかしいよな。
「薫子ちゃんが自由時間になったら、三人で一緒に模擬店巡りしましょ」
「愛梨、僕は薫子さんと二人で回るつもりなんだけど」
「ずるーい!薫子ちゃんを独り占めするつもり?」
二人はもめ始めたけど、薫子は苦悩したような表情になっている。
あ、これは絶対模擬店どこから回るか、効率的な攻略を考えている顔だな。
「はい。仁海君。ボーっとしない!カメラ目線で笑いなさい!」
水名瀬の声だ。いけね。撮影会の最中だった。
あわてて引きつりそうな笑みを浮かべる。早く終わらないかなあ。これ終わったら、おれも自由時間は、模擬店見て回りたいなあ。
「終わったあ!よーし。模擬店回るぞう」
「僕も一緒に回りたい……」
「何いってるの。佐原君も予約たくさん入っているんだから。とっとと教室へ行く!」
おれと交代で拘束時間の佐原は「一人じゃ危ないから」と化学部のコーナーまで送ってくれた水名瀬に、襟元をつかまれたまま、連れていかれた。
「……二人とも、せっかくの自由時間だから、模擬店に行くといい。秀一さんが手伝ってくれているから、ここは大丈夫だ」
薫子の申し出に、おれと貴史は顔を見合わせた。
「いや、そんな部外者に手伝わせるなんて申し訳ないよ」
秀一さんがこちらを振り返り
「大丈夫ですよ。僕も学生に戻ったみたいで楽しんでますから」
と優しい微笑みを浮かべている。
でもやはり、と遠慮しようとすると
「僕らは年が離れていますからね。なかなか共通の行事に参加することができないんですよ。でもここで薫子さんのお手伝いをしていると、一緒に学生生活を送っているような気分を味わえます」
と上気した顔を向けられると、残る方がお邪魔なようだと気づいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて二人で模擬店巡りしてくるよ」
貴史がいう。
久しぶりに貴史と二人きりだ。どうしよう。
横を見ると、貴史が腕を差し出している。
「貴史。何してんだ?」
おれがきょとんとしていると、苦笑した。
「そんな格好だし、腕組んだ方が自然だろ?」
「男同士で腕組むのは自然じゃないから!」
おれが慌てて否定すると、貴史の腕が背中と膝に回された、と思ったとたんにおれの身体はふわっと浮いた。
「ひゃあ!何すんだよ!」
「この恰好なら、腕を組むのが駄目なら、お姫様抱っこしかないかと思って」
「降ろせ?降ろして?わかった。腕組むから」
このままでも構わないのに、とつぶやきながら貴史はおれを降ろした。
「……一年D組の焼きそばと、二年A組のクレープは食べておいた方がいいぞ」
「了解」
薫子のアドバイスに返事をして、おれは貴史の腕に自分の腕をくぐらせた。
おれと貴史は大量の食べ物を前に首をひねっていた。
「これが薫子のお勧めかな」
「さあ。クレープだけで六種類もあるからな。焼きそばは三パックあるけど、一種類だけだから一年D組のだろうな」
他にたこ焼き、焼きとうもろこし、サンドイッチにシュークリームと、ありとあらゆる食べ物がおれ達を囲む。
「これはもしかしたら、模擬店全種類分あるんじゃないか?」
「うん。おれもそう思う……」
おれと貴史が模擬店をのぞきに行ったとたん、そこら中大騒ぎになった。
「きゃー!貴史君だあ」
「松浦?やっぱりお前は女子だったのか!」
「これどうぞ!お金いらないから、持って行って下さい!」
集まってくる貢物攻撃に、おれ達はあわてた。
「ちょっと待ってよ。嬉しいけど、こんなに二人で食べきんないよ」
「売り物が足りなくなるぞ」
おれと貴史は、売り物を差し出してくる売り子達を止めようとした。
「もう、二人とも奥ゆかしいんだから。遠慮なんてしないで。大丈夫。ちゃんと持ち帰れるようにしてあげる」
あっという間に、風呂敷と紙袋で持ちやすいようにした食べ物が、おれ達の横に積まれた。
「とてもじゃないが、食べきれないな。九条達に持って帰ろう」
おれは貴史の案にうなづいた。
戻ってきたおれ達の両手を見て、薫子の目が輝いた。
「……予想通りだ。さすがに仁海と広瀬のペアだな」
「あー!薫子、お前はこれ目当てで、わざとおれ達二人で行かせたんだな!」
「……これが一番効率よく、全店制覇できるからな」
ふっふっと笑いながら、薫子はどれから食べようかと物色している。
薫子は何で食い物が絡む時だけ、頭が働くんだよ!
お前はやっぱり聖女マリアじゃなくて、ずる賢い魔女の方が似合っているぞ!
しかしふと気づくと、そんな薫子をとてつもなく優しい眼差しで見つめている男がいる。
秀一さんだ。
「そんなことしなくても、僕が全部買ってあげるのに。ああ、でも食べ物を前にした薫子さんは、本当に魅力的だなあ。小さい頃と変わらないなあ」
薫子、お前の婚約者すっげーいい人だな。
そう思って見ていると、なんか嫌な空気を感じた。なに。この禍々しいオーラ……。
回りをきょろきょろしてみると、ウェイトレス姿の坂本さんが、普段とは全然違う凶悪な人相で薫子を睨んでいる。
こわっ。何これ。
そう思った瞬間に、目が合った。
「もう、薫子ちゃんたらずるーい。こんなにたくさん食べても太らないなんて。ちょっと憎たらしいぐらいよ」
いつも通り、ふわふわした雰囲気の愛梨に戻っている。
「……愛梨。来てくれたのか」
「ええ。今は休憩時間なの。私なんて食べ過ぎたらすぐ太っちゃう。本当にうらやましいな。薫子ちゃんの体質」
そっか。それで睨んでいたのか。女子の多くは、ダイエットで苦労しているっていうもんな。
そこへ佐原が現れた。
「広瀬君交代だよ。写真撮影会、さっきより順番待ちの列が増えたらしいから、頑張ってね」
うんざりした顔で、貴史が出て行った。
「さあ、仁海君。一緒に回ろう」
「でもずっと薫子達に任せっきりだから、こっちも手伝わないと」
「……大丈夫だ。心配せず回って来い。仁海と佐原のペアも、かなりの貢物が期待できる」
「ってまだ食うつもりかよ!」
思わず叫ぶと、薫子は力強くうなづいた。
一日目が終わり、水名瀬はほくほく顔だ。
「うーん。みんな頑張ってくれて嬉しい!目標の三倍の売上だよ!仁海君と広瀬君、佐原君の活躍は期待通りだったけど、そのうえ九条さんがこんなに売り上げ伸ばしてくれるなんて。嬉しい誤算!」
終わるなり、とっととウィッグをとり、服を着替えたおれは「それよりメイクとネイルを早く落としてくれ」と叫んだ。
「うーん。ちょっとお疲れかな」
おれのメイクを落としながら、水名瀬はつぶやく。
「はい。これ」
「何だよ。これ」
「パックよ。とっても効くんだから。明日に備えて今日の夜はこれを使ってちょうだい」
おれはげんなりしながら、小さな包みを受け取った。
次の朝、おれは波奈ねえに頬をつままれた。
「わあ、気持ちいい。昨日のパック、効果あるみたいね。私も購入しようかな」
さすが水名瀬。セレクトに間違いはないようだ。
「今日は必ず行くからね。友達も一緒に行くから、私のことは気にしないで。適当に文化祭楽しんでいるわ」
「そんなこといっても、貴史だって待ち合わせしないと捕まえらんないよ。あいつも拘束時間長いんだから」
「大丈夫大丈夫。ほら、いってらっしゃい」
学校に着くと、また昨日の通りメイクから始まる。
しかも女子たちみんなして「わあ気持ちいい」「お肌プルプル」なんて撫でまくるから、くすぐったくてしょうがない。
「今日は午後からコンテストだから、昨日ほど写真撮影会に時間を割けないのが残念よねー。まだまだ稼げるのに。まあパレードの時、ドレスに負けないよう、今日は昨日より少し華やかなメイクにしてみようかな」
「ちょっと待て。なんでおれが、ドレスでパレードすること前提になっているんだ」
騒ぎながらも準備終了。
午前中が忙しく過ぎていく。
「さあ、午後は待ちに待ったミスター&ミス聖陽コンテストだ!」
司会の生徒のかけ声に合わせて、みんなの「おーっ」という叫び声があがる。
出場者による任意のパフォーマンスアピールは、昨日披露済だ。おれたち化学部の4人にも要請が来たが「クラスの出し物の手伝いでとても無理」と断った。
エントリーだって文化祭実行委員やクラスからの圧で仕方なくOKしたのに、そこまでやってられるか。
「みんな投票は済んだかな?二年生三年生のみんなはどきどきですね!一年生はまだ参加資格ないけど、ここでしっかり憧れの先輩の名前をチェックだ!」
司会はテンション高くい放つ。
「では十位から発表だ!」
「男性は三年A組木下保君!女性は二年B組阿部こずえさん!」
みんなキャーキャー大騒ぎだ。
そんな調子で第五位まで発表された。受賞者は名前を呼ばれると壇上に上がり、コメントを求められる。
「男性四位は二年E組星野孝彦さん!女性四位は二年C組坂本愛梨さん!」
おー!うちのクラスから受賞者が出た。
「やったじゃん。坂本さん!」
すぐ近くにいたので声をかけると、坂本さんからチッと小さな音が聞えた
えっ!今のおれ以外だれも気付かなかったみたいだけど、舌打ちしたよね?
壇上に上がった坂本さんは、いかにも女の子って感じの笑顔でコメントしている。
「すごくびっくりです。私みたいな目立たない子が四位をもらえるなんて、思ってもいなかったんで。ありがとうございます!」
「愛梨ちゃーん可愛い!」
「お菓子作りパフォーマンス良かったよ!」
「エプロン姿最高!」
野太い声があちこちから上がった。
彼女はパフォーマンスアピールに参加したのか。
それで票が入ったってことは出来上がりの試食はなかったってことだろうなと推測する。
でもなんだろう。坂本さんって時々イメージとギャップがあるような気が……。
見つめすぎていただろうか。可愛くお辞儀をして振り返った坂本さんとばっちり目があう。
やばい。おれの表情は犯人のアリバイを崩そうとする刑事のようにでもなっていたはずだ。
一瞬すごく冷たい目をした坂本さんは、おれがいたのとは反対側に向かって、そのまま壇上から去って行った。
続いて三位の発表が終わり、残すはパレード参加資格のある、準グランプリとグランプリのみだ。
「ではミスター部門は……今年は非常に厳しい戦いでした。僅差、わずか一票差で、準グランプリが二年C組佐原和佳さん!栄光のグランプリは同じく二年C組広瀬貴史さんです!」
一段と大きな「キャー!」という女子の声が上がった。
「続いてミス部門……」
読み上げようとした司会者が止まった。文化祭実行委員が数名、投票箱を持ってきて何かささやいている。
「えっと……すみません。こんなことは初めてなんですが、ちょっと揉めてまして……」
実行委員達は小さな声でしゃべっているつもりらしいが、司会のマイクが音を拾ってしまい全部筒抜け状態だ。
「女性枠男性枠しっかり決めておかないから、こんなことになるんだろうが」
「でも男子生徒なんだよね」
「男性枠で入れているやつなんて、いないだろ。特に今回あんな恰好なんだし」
「でも一部では可愛すぎる男の子ってことで女子からも人気あるよ」
みんなの目がおれの方を向く。えっ。おれのせいなの?まだ名前も出てないし、おれじゃないかも知れないよね。
「お前しかありえないな」
横で貴史がつぶやき、佐原がうなづく。
そこへサングラスをかけた、スーツ姿の女性が現れた。
「あれ?母さん?今海外じゃなかったっけ……」と声をかけようとして途中でやめた。
違う。あれは母さんじゃない。
「ごめんなさい。遅れてしまって。まだ投票間に合うかしら」
突然現れた大人の女性に見とれ、ボーッとしていた司会は、実行委員の女子に突っつかれ、慌てて投票用紙を受け取った。
しかし開くと、今までよりもっと慌てた様子で
「少々お待ち下さい」
といい残して、舞台裏に引っ込んでしまった。
「いつまでかかってんだよ」
「一番盛り上がるところなのに」
みんなが文句をいい始めた頃に、やっと司会者が現れた。
「えー、大変お待たせ致しました。仕切り直してもう一度。先ほどお伝えした通り、男性グランプリは広瀬貴史さん!準グランプリは佐原和佳さん!……そして女性グランプリは二年C組九条薫子さん!」
「おおー!」
と大きなどよめきの声がした。
「おれ九条にいれたぜ。今日のあいつ可愛かったもん」
「おれもおれも」
「でもそれじゃおかしいよ。絶対高得点の人が入ってないじゃない!」
それらの声をかき分けるように、司会者がマイクの音量を上げた。
「皆さん。お静かに!今回は特別な賞があります。ミス・ミスターの両方で票を集めた松浦仁海さん!総合優勝です!」
ものすごい歓声が上がる。
「えー。松浦さんの票はちょっと揉めたんですね。ミスで投票が多かったんですが、本人男子生徒ですし。でも最後の投票でミスター枠で投票が入りまして。ここまで人気がある方なら、もう特例にしましょうと実行委員会で決定致しました!そんな訳で今年のミスター・ミス陽聖のパレードは、松浦さん、九条さん、広瀬さん、佐原さんの四名に参加していただきます」
さっきを上回る大歓声が上がった。
「総合優勝ってなんだよそれ。スポーツかなんかと違うんだし」
あっけにとられているおれに向かって、スーツの女性が近づいてくる。
おれの目の前に来ると、彼女はサングラスを外した。
「波奈ねえ!なんでそんな恰好しているんだ」
「今日は必ず来るって約束したじゃない。良かった。投票に間に合って」
いつもよりメイクで鮮やかになった唇を上げて、波奈ねえが微笑む。いや、そんなことをいってるんじゃなくて。
「なんで母さんのスーツなんて、着ているんだよ。母さんかと思ったじゃん」
「やあね。お母さんなら、お父さんに会いたくなったっていって、貴重な有給使ってジャマイカまで旅立っちゃったじゃない。ほんとラブラブなんだから」
そこへおずおずと、誰かが近づいてきた。
「あれ?森安さん?どうしてここにいるの」
波奈ねえと森安さんが並んだ時、はっと気づいた。
「もしかしておれが見たのは、母さんと森安さんじゃなくて、波奈ねえと森安さん?」
「やだ。仁海見ていたの?家の近くだったから、もっと気をつけなきゃいけなかったかな」
どういうこと?森安さんと抱き合っていたなんて。それじゃ貴史はどうなるんだよ!
いろいろ聞こうとした矢先、実行委員達が現れて「さあパレードの準備をお願いします」と無理やり移動させられてしまった。
「おれ、総合優勝だとかで、ミスじゃないんだよな?」
「そう。今年初めてだから、まさに仁海君の為の賞よね」
「じゃあなんでこんな純白のひらひらしたドレスなんて着せられなきゃいけないんだ!」
メイクの腕をかわれて、パレードでも支度を手伝うことになった水名瀬相手に、おれはぶち切れた。
「そりゃミスターが二人は決まっているもの。あと二人はミス役じゃなきゃ盛り上がらないし、衣装も足りないでしょうよ」
水名瀬は冷静に返事をしてくる。
薫子は何か写真を見ながら、微笑んでいる。
「水名瀬、お前何を薫子に渡したんだ?」
「ん?私の五歳の妹と六歳の弟の写真。うち兄弟多いの。九条さんにはあの表情でいてもらわないと。二人とも今日は遊びに来ているから、パレードの時は一緒に手をつながせることにしたわ」
確かにそれなら、薫子はパレード中、ずっといい表情でいるだろう。
「薫子ちゃん、おめでとう。私も薫子ちゃんに一票入れたんだ」
甘い声、坂本さんだ。さっきの冷たい目とは大違いのあどけない笑顔を浮かべている。
「……私は愛梨にいれた。愛梨はとても可愛いらしい」
薫子が真顔でつぶやくと、みるみるうちに坂本さんの頬がバラ色に染まる。
なんだろう。さっきの裏のありそうな態度は、薫子に対する嫉妬のたぐいではないようだ。坂本さんはおれの視線を感じたらしい。
「すごーい。松浦君よく似合ってるよお」
おれのことを睨みながら近づいてくる。
な、なんだ。おれが何かしたか?
壁際に突っ立っていたおれの側にはちょうど人がいなかったので、いつもと違う坂本さんの表情を目にしているのはおれだけだ。
「やだなあ。総合優勝おめでとうっていいにきただけなのに、なんでそんな強ばった顔をしているのかなあ」
それはあなたの甘い口調と鋭い視線が一致していないからです。
こわいからです。
「ねえ、なんか私のこと疑ってるでしょ」
小声で聞いてくる。
「いやあ、そんな」
冷や汗が出てくる。でもこれだけは確かめたい。
「ただ坂本さんが、薫子の本当の友達かどうかだけが気になって」
どういう意味?と眉間にしわを寄せられてしまった。
「薫子って近づきにくくて、女子には遠巻きにされていたけど、坂本さんは自分から声をかけてきたんだろう?なんか魂胆……理由があったんじゃないかなあって気になっていたんだ」
坂本さんはフッと笑った。
「大丈夫よ。薫子ちゃんとは、今は本当に仲良くしたいと思っているもの」
え、今は?前は違ったのか?
「いつも優しい従兄弟の秀一お兄ちゃんに婚約者ができたって聞いて驚いたわ。しかもうちの学校の生徒だっていうじゃない。そうなったらもうお兄ちゃんは他の人のもの。今までと同じじゃない……」
坂本さんは従兄弟の秀一さんに恋心を抱いていたのか……。
「今までのように買い物につきあってもらったり、食事をご馳走してくれたりができなくなるじゃない!そんなの悔しくて」
ん?恋心と何か違うな。
「どんな女か見てみようと思ったら、大食いなのに太らないなんて私が欲しくてたまらない体質なんだもの。薫子ちゃんだったらお兄ちゃんがどれだけ美味しいものを食べに連れていっても、私のようにダイエットで苦労するなんてことないんだわ!ずるい!」
「え?でも坂本さん全然太ってないじゃん」
「だから!努力しているの!美味しいもの食べたい!でも太りたくない!家じゃ腹筋にダンベル運動、スクワットを毎日欠かしていないわ」
そういって袖をまくって出した二の腕は、引き締まって筋肉質だ。
「こんなに私は頑張っているのに、薫子ちゃんはずるい!その上私がなりたかった憂いを秘めた美人なのよ?そんでもって私が毎日嫌がらせで長電話してもつきあってくれるし、お兄ちゃんと食事したら、そのお店でお土産のお菓子を買ってきてくれるのよ?コンテストだって、私がパフォーマンスで頑張っても4位、そんなことしなくても準ミス。どうせなら一緒にパレード回りたかったのに。ずるい、ずるい」
なんかよく分からなくなってきたけど。
「えーと。つまり坂本さんは、薫子のことが大好きなんだね?」
坂本さんの顔が真っ赤になる。
「すっすっ好きとか簡単にいわないで!薫子ちゃんと親戚になるのは嬉しいけど、薫子ちゃんがたとえお兄ちゃんでも結婚なんてするのは嫌なんだから!本当は松浦君のことだって嫌なんだから!一応男の子なのに、女の子同士の親友みたいに薫子ちゃんと仲良くしているし!」
これ、どうしろっていうんだ?
そこは薫子が婚約者の秀一さんと一緒にやってきた。
「……愛梨、今日帰りに秀一さんが食事に連れて行ってくれるそうだ。一緒に行こう」
「そんな。婚約者二人にくっついていくなんて、お邪魔虫でしかないでしょう」
坂本さんは、ちょっと拗ねた表情だ。
それを聞いて薫子が肩を落とす。
「……そうか。今日は愛梨が好きな近江牛で有名なお店だから、一緒に行きたいと思ったんだが」
「じゃあ薫子さん。二人で行きましょう」
その途端、愛梨が薫子の腕に寄り添い大声で叫ぶ。
「行くわ!私も一緒に行きます!」
料理に惹かれたのかな。
二人きりにさせたくなかったのかな。
微妙なところではあるが、薫子と坂本さんは食いしん坊というところでは、真の友となれそうだな。
ひとまず安心してこの場を去ろうとすると、薫子が駆け寄ってきた。
「……松浦、ありがとう」
いきなり礼をいわれて面食らった。
「え?何が?おれ、何かありがとうなんていわれるようなことしたっけ?」
「……松浦が友人になってくれなかったら、私の今の高校生活はなかった。だから感謝している」
まだおれの頭の中はクエスチョンマークだらけだったが、薫子が訥々と語った内容をまとめるとこんな感じだった。
薫子にはとても優秀な3歳上の兄が一人いる。
勉強が得意で、朗らかな性格でクラスの人気者。できのいい長男にこれからの期待も含めて、両親は溺愛した。
それに比べて、お世辞にも学業が得意とはいえず、また感情が顔に表れにくい薫子は、女の子なのに愛嬌がないといわれ、両親の関心も薄かった。
祖父母はそんな薫子のことも可愛がってくれたが、どうしても兄と自分を比べてしまう。
兄は良い子。薫子は駄目な子。
兄は愛される子。薫子は愛されない子。
心の中で、自分はできそこないだと感じてしまうことが多く、そんな性格だから、学校でもうちとけることができず、友人はできにくかった。
同い年の子達が、一緒に誘い合って遊びに行くのをうらやましく思いながら、友達もいない薫子は暇を持て余すと、近所にある祖父母の家に寄ることが多かった。
祖父母の家は大きく、庭も広かった。
「使ってくれるならその方がいいだろう」
と庭の一部を、近所の子供たちが自由に遊べる場所にしていた。
その子供たちとも距離を置いて、薫子は祖父の書斎で本を眺めていることが多かったという。
庭で遊ぶ子供たちには、世話役のような役目の近所の大学生も来ていた。
これは後で分かったのだが、この大学生こそ秀一さんだったらしい。
たくさんの子供たちの世話をしながら、一人書斎に閉じこもる薫子のことも気にかけてくれたという。
はじめは知らない人だということで警戒していた薫子だが、さりげなく声をかけておしゃべりしてくる彼に、だんだん慣れてきたらしい。
薫子が読んでいる本を見て、次に読む本を薦めてくれたり、自分が昔読んだ時どう感じたか話してくれるうちに、いい人だと感じるようになった。
いろいろなことを話せるようになってきた時、ついポロリと「私はお兄ちゃんと比べて駄目な子だから」と心のうちをこぼしてしまった。
「薫子ちゃんはいいこだよ。駄目な子なんかじゃないよ」
そういってもらっても納得できない。
「……だって勉強だってできないし、みんなと仲良くだってできない」
そうつぶやくと
「誰だってその人が得意なことはあるんだよ。お兄ちゃんは勉強が得意かもしれないけど、薫子ちゃんは別のことがお兄ちゃん以上に得意なのかもしれない。自分の好きなこと、得意なことを伸ばせばいいんだよ」
と秀一さんは教えてくれた。
そして「このお店にマドレーヌ、僕好きなんだ」とおやつをくれた。
食べてごらんとすすめられて、マドレーヌを口にした薫子は
「……おいしい」
と思わず笑顔になった。
すると秀一さんは
「ほら、その笑顔だって、とってもステキだよ。薫子ちゃんはたくさんいいところがあるんだよ」
と褒めてくれた。
幼い薫子は嬉しくなった。
「……そうか。これが私の得意なことなんだ」
そう気づいたからだ。
自分の得意なもの、いいところを伸ばそう。
「……だから私はたくさんおいしいものを食べるようになったんだ」
「ちょっと待った!」
薫子の話を聞き終わったおれは、まず叫んだ。
「秀一さんが褒めたのは、笑顔であって大食いのことじゃないだろう?」
「……食べた結果の笑顔だし、私ほど健康的に大食いができる者もいないから、あながち間違ってはいないと思うのだが」
納得しかねるような顔で反論してくる。
「……だから仁海には感謝している。友人になってくれただけではなく、私の大食いという才能を伸ばしてもくれた。おかげで愛梨という親しい友人もできたし、秀一さんにも子供の頃のアドバイスを活かせている自分を見せることができている。とても嬉しい」
「そ、そうか。うん。薫子にとっていいことなら、おれも嬉しいよ」
なんかいろいろ違うんじゃないかなーっていう気もするが、本人は満足しているし、婚約者の秀一さんも薫子の食べっぷりには満足している様子だったし。
みんな幸せそうだから、まあよしとしておこう。
薫子もパレードの準備の為に別の場所に行ってしまった。
「支度できたのか?」
一人残されたおれが、動きにくいドレス姿に腹をたてて裾をまくり上げていると、貴史と広瀬が入ってきた。
「なんだ。二人のその恰好は」
映画に出てくる、何とかの騎士みたいな恰好の上、仮面舞踏会みたいなマスクを被っている。
「俺の趣味じゃない。勝手に着替えさせられたんだ」
「パレード中はこれで歩いて、最後の写真撮影会の会場でマスクを外す趣向らしいよ」
ふーん。そんなものない方が貴史はかっこいいのにな。っておれは何を考えてるんだ!
顔が赤くなったと感じた時、誰かに手を捕まれ、ついたての陰に引き込まれた。
驚いて大声をあげかけたおれは、そのとたん口を誰かの手でふさがれた。
「静かにして。私よ。仁海」
「波奈ねえちゃん。どうやってここへ」
「説明は後で。私と服を交換して。パレードは私と森安さんが代わりをするから。仁海は貴史君と二人で、話し合った方がいいわ」
そういうとおれのドレスを、脱がしにかかった。
「長時間は無理だけど、パレード中くらいはごまかせるでしょう。もともと似てるし」
今度は貴史君ね、とつぶやくと同じ手法で森安さんと貴史の入れ替えを行った。
「僕は自信ないなあ。貴史君みたいなイケメンの代理だなんて」
「マスクしているし、大丈夫。身長は似たようなもんなんだから」
波奈ねえにいわれて、森安さんは複雑な表情のまま、うーんと唸っている。
なんとか貴史と森安さんの服の交換が終わった。
マスクをつけて遠目に見れば、貴史といわれればそう見えないこともない。
「パレードを始めます。参加者の人は早く集まって」
実行委員が呼びに来た。
ギリギリのタイミングだ。
森安さんを引っ張って、波奈ねえが出ていこうとする。
「代理はパレードだけよ。その後マスク外したらばれちゃうからね。貴史君、仁海への説明はお願いね」
そういって「これは補足」とおれに封筒を渡した。
部屋に残されたおれ達は、何となく気まずいまま、しばらく黙っていた。
「貴史。波奈ねえがいっていた説明って、何のことだ」
「ああ。俺と波奈さんが付き合っているって件だけど……」
「別れたのか?森安さんに波奈ねえを、奪われちゃったのか?」
おれが詰め寄ると、眉間にしわを寄せた。
「いや。そうじゃなくって。別れるも何も俺と波奈さんは、もとから付き合っていないから」
「へ?」
おれは間抜けな声を出した。こいつ何をいっているんだ。
「仁海が熱心に頼んでくるから、波奈さんには会ったけど、もともと仁海をあきらめるつもりなんてなかったんだよ。外見だけ気にいったわけじゃないし」
会ったその日、はっきりそのことを波奈ねえに伝えたそうだ。
「わあ。ひどい。だったら会う必要なかったんじゃない?」
気にする様子もなく、からかうような口調の波奈ねえに、つい本心を漏らしてしまったという。
「家に行ったりお姉さんと会ったりしていたら、家族ぐるみで親しくしていたら、いつか仁海がこっちを向く時が来るんじゃないかと思って……。情けないですね。利用するようなことして申し訳ない」
謝る貴史に、波奈ねえは意外な申し出をしたらしい。
「いいわよ。利用して。その代わり私にも協力してくれる?」
波奈ねえは交換条件の内容を伝えた。
自分には離婚歴のある、年上の片思いの相手がいる。恋愛関係ではないが、定期的に会う関係にはなっている。
でも親にばれると猛反対される可能性が高いので、彼が自分に振り向くまでは、動きをとりやすいよう付き合っていることにしておいて欲しい……。
「それでおれと波奈さんは、付き合っているという嘘をついたんだ」
「波奈ねえが片思い……しかも相手はあの森安さん……」
おれはあまりに意外だったので、すぐには信じられなかった。
「今日の様子を見ると、波奈さんは片思いじゃなくなったみたいだな」
貴史がおれの顔に手をかけて、自分の方に向けた。
「おれの方はどうなのかな。片思いのままなのか」
「なっ何をいってるんだ」
おれは思わず顔を下に向けた。
だって顔が熱くて、貴史の視線を受け止めることなんてできない
「波奈さんは、ずっとおれを励ましていてくれたんだ。仁海は一番好きなものを自分にゆずろうとする。子供の頃からそうだったって。絶対仁海はおれのことを好きだから、あきらめちゃ駄目って。おれはその言葉を信じていいのかな」
「波奈ねえってば、何いってんだ」
恥ずかしくなってきて横にずれようとしたら、波奈ねえが渡してきた封筒が、ポトリと落ちた。
「そういえば補足っていっていたけど、なんのことだろう」
封筒を開けると、綺麗な字で書かれた手紙が入っている。
「もう貴史君から聞いたかな?お姉ちゃんは貴史君とは付き合っていませんからね。だってお姉ちゃんの好きな人は、森安さんだからです。嘘ついていてごめんね。でも仁海も嘘ついているから、おあいこかな。貴史君のこと、本当は大好きなんでしょう?」
ここまで読んで、おれは顔から火が出そうになった。
「何が書いてあるんだ?」
「駄目!絶対見ちゃ駄目!おれ宛の手紙だから!」
急いで貴史の目から隠して、続きを読む。
「昔から仁海は一番好きなものを、お姉ちゃんにくれるよね。チョコレートケーキもハンバーグもお姉ちゃんにあげるって。自分が欲しくてたまらないくせに、涙をためて差し出してくるの」
やっていたな。おれ。大好きな波奈ねえに、自分の大好きなものをあげたくて。
「そんな仁海が可愛くて、もらっていたのが良くなかったかな。本当はお姉ちゃんはケーキより大福が好きだし。ハンバーグよりお芋のにっころがしの方が好きなの」
波奈ねえの手紙は、まだ続く。
「大好きなものは、あげちゃ駄目よ。欲しいものはきちんと欲しいっていわないと。お姉ちゃんからのアドバイス。可愛い私の弟の仁海へ」
波奈ねえの手紙を全部読み終わって、おれはまっすぐ貴史の目を見た。
「何が書いてあったんだ?」
「うん……。波奈ねえには全部ばれていた」
「何が?」
おれは一瞬躊躇したが、波奈ねえの手紙を思い出した。
いわなきゃ。ちゃんと本当の気持ちを。
「おれが貴史のこと好きだってこと」
早口で一気にいった後、恥たまらなく恥ずかしくなって、その場を逃げ出したくなった。
「よく聞こえなかった……仁海、もう一回いって」
「だから……好きだって」
「誰が誰を?」
おれは思わず立ち上がった。
「もう!お前絶対分かっていっているだろ!何度もこんなこと言わせるな!」
貴史は微笑みながら立ち上がり、おれの頭を撫でた。
「何度でもいわせたいよ。何度でも聞きたいから」
おれを柔らかく抱きしめると、そっと唇を合わせてきた。
柔らかくてあたたかい。
「……やっぱり貴史はクールじゃなくて、ホットだな」
おれのつぶやきに「何だ。それ」と貴史は笑った。
貴史に抱きしめられて、床に座り込んだ姿勢のまま、俺たちはしばらくおしゃべりをした。
「いつから俺のこと好きだった?」
「別にいいだろ。そんなの」
「良くない。俺はずーっと待たされたんだから。これぐらい聞く権利あるだろう?」
こめかみや耳元にやさしくキスをしながら、貴史はいう。
「教えてくれないなら、目立つところにキスマークつけようかな」
「やめろ!そんなことされたら、恥ずかし過ぎて死ぬ!」
「だったら教えて?」
根負けしたおれは正直にバラした。
「初めてあった時からだよ。でもその時は、えーと、その……好きになるなんて初めてだから自分でも分かってなかった。途中からだよ。自覚したのは」
「それにしちゃあ、ずいぶん長い間、冷たい態度だったんじゃないか?今まで」
貴史が不満そうな顔をする。
だって……。不安だったんだ。
男同士だろう。今は女の子みたいなんていわれるおれだって、成長していけば段々ごつくなっていく。
髭が濃くなって、男っぽくなっていくおれに幻滅されたら。
好きなやつに、貴史に幻滅されるなんて、そんなの耐えられない。
「仁海はそんな心配しなくていい」
「無理だよ。だっておれ可愛いとかいわれても、実際は男だし。貴史はいいよ。男としてかっこいいんだから」
拗ねたような口調になってしまった。
貴史はやれやれといった表情を浮かべる。
俺の話、聞いて。耳元でささやかれた。
「おれ父方のじいちゃんに似てるって、よくいわれるんだよ」
ん?いきなり何?何の話?
「外見だけじゃなくて、性格もよく似ているっていわれるんだ。その奥さん、つまりおれのばあちゃんだけどね。畑仕事が趣味だから、しみは多いわしわくちゃだわ、そのうえ気が強くって、子供がいたずらすると大声で怒鳴るし、拳固がとんでくる。孫のおれ達は鬼ババアなんて、ひどいこといっていたんだよ。でもじいちゃんは、そんなばあちゃんのことを、しょっちゅう可愛い可愛いっていうんだよ」
なぜ今貴史の祖父母の話になるのか?
家族のルーツでも語り出すのか?
「俺、不思議でさ。子供の頃にじいちゃんに聞いたことあるんだよ。しわくちゃだし、鬼ババアだしなんであれが可愛いの?って」
それは失礼すぎるぞ。貴史。
「そしたらじいちゃんは教えてくれた。とにかく可愛い。じいちゃんの目には、いつでも娘の頃のばあちゃんが見える。お前にはしわくちゃに見えても、自分の目には、はにかむような笑顔の娘が見えているんだよってね」
まだよく分からない。
見上げるおれの顔を、じっと見つめたまま、貴史の話は続けられた。
「だからさ。おれは絶対じいちゃんと一緒だよ。髭面になっても、女の子みたいじゃなくなっても、いつまでもおれには可愛い仁海のまんまだよ」
うう。顔が熱い。胸がどきどきする。
「それにもう一つつけ加えたい。仁海は俺がルックスで好きになったと思ってるみたいだけど、教室で告白した時には、ちゃんと男子だって分かっていたよ。だってもっと前に出会っていたから」
え?出会っていた?
いつだよ?おれの記憶にはないぞ。
「俺について噂がいろいろあるみたいだけど、その中の一つ。痴漢退治しただのいわれてるのがあるけど、あれ仁海が関わっているから」
「何だそれ。そんな覚えないけど」
「中学生の時だったな。中央線で新宿に向かっていたら、同じ車両で騒ぎが起きていたんだよ。中学校の制服を着た子が、でかいおっさんに向かって怒鳴っていた」
「中央線……痴漢?あっもしかして」
思い出した。
中三の春、受験に向けて気を引き締めて勉強しよう、その為にはまず参考書を購入しようと思い、都内の大型書店に行こうとしていた時だ。
中学生ではそれほど乗る機会のない電車は、なかなか混んでいて、人混みも揺れも慣れないおれは、必死に吊り革につかまっていた。
特に隣の高校生のお姉さんが、こっちに寄っかかってきたり、身体をねじったりして体重がこちらにかかってきてつらくてしょうがない。
なんでこんなに変な動きをするんだ?
不思議に思ってお姉さんの方を見ると、目に涙をためている。
向きを変えたせいで、後ろに立っている薄汚れた格好をした中年男が、お姉さんのお尻に手をあててなで回しているのが分かった。
身体をずらしても執拗に追いかけているので、これは偶然なんかじゃあり得ない。
「おい。おじさん。やめろよ」
おれがはっきりいうと、男は一瞬動きを止めた。
「いい年してみっともないよ。迷惑だろ」
注意してきたのが、ちびで弱っちいおれだったので、見くびられたようだ。
中年男は馬鹿にしたような口調で
「何のことだよ」
とふてぶてしい態度をとった。
「しらばっくれんなよ。今痴漢していただろうが」
「あー?オレが誰に痴漢したって?」
そういっておれとお姉さんを睨みつけた。
「そうです。この人痴漢です!私の身体に触ってきて……」
泣きそうになっていたお姉さんが、中年男を指さす。
「あー?何いってんだ。お前みたいなブス、誰が触るかよ」
ヘラヘラした態度で中年男は続けた。
「どうせ触るなら、こっちのお嬢ちゃんにするよ。お前なんかよりうんと可愛いじゃん」
おれはぶち切れた・
「バカヤロー!お姉さんは可愛いだろうが!お前みたいな節穴の目の持ち主に、そんなこといわれてたまるか!」
「な、なんだよ。何を根拠にオレの目が節穴だなんて決めつけてんだよ」
「おれは男だ!」
中年男だけではなく、回りの乗客も「え?嘘。男の子なの?」と驚いている。
そのうえ「女の子なのになんで男子の制服着ているんだろうと思った」なんて声まで聞こえてくる。
あー、またこんなところで注目を集めてしまった。
男だってことで注目を集めてしまうのは、とっても嫌なんだけど、でもこいつがお姉さんにしたことの方が許せない。
「おれのことが男と分からなかったお前のいうことなんて、間違っているに決まっている!そんでもって世界中のどの女性も、お前なんかに触れられたかないんだよ!」
怒鳴りすぎて息があがった。
「てめえ、ガキだと思って手加減してやってんのに、ふざけんなよ」
男が手をあげてきそうになったところで、「これ、証拠になりますよね?」と若い男の声が聞こえた。
おれ達に差し出された携帯には、お姉さんに痴漢している男の姿がくっきり写っていた。
「うっいてえ!」
そのうえ、男の腕をいとも簡単にひねって身動きがとれないようにしてしまった。
「証人お願いできますか」
お姉さんは声をかけてきた背の高い男性にうなづくと、おれに向かって「ありがとう」といって電車を降りていったんだ。
「え?あの痴漢騒ぎの中で、どこに貴史がいたっていうんだ?」
「証拠写真を見せて、痴漢を引きずっていったのが俺」
「えー!あれが貴史?だってそしたらお前だって中学生だよな?全然そんな感じじゃなかったぞ。もっと大人って感じだったぞ」
「昔から老け顔なんだよ。しかもあの日は会社員の兄貴の服を借りていたから、よけい年相応には見えなかったんだ」
一緒に降りた女子高生にも、痴漢を突き出した駅員にも、中学生っていったら驚かれたしな、と不機嫌そうにいう。
そうか。写真を見せられた時は、そっちしか見ていなかったし、その後は後ろ姿しか見ていなかったから、顔がちゃんとわからなかったんだ。
「あれは貴史だったのか」
驚いて呆然としてしまう。
「そう。あれが一回目の出会い。で、俺は仁海に惚れた」
「なっなんだよ!それ!どこに惚れる要素があるんだよ!」
「だって、小さくて弱そうなのに、大声出して年上の女子高生を痴漢から守ろうとしてる。男だなんて宣言したしたせいで、好奇心の目にさらされて傷ついているくせに、あの男の暴言で女子高生が傷つくのは許せないってんで頑張っている。そんな正義感の強い、いいやつを見たら惚れちゃうだろう?」
そういっておれを見つめた。
「でも、でも告白の後、男だっていったら、おれの外見だったら女の子と間違えてもしょうがないっていった!寒くなるような形容詞の数々を並べて!男だって分かっているなら、あんなこといわなくていいだろう?」
おれが文句をいうと
「それはしょうがない。俺は運命の出会いだと思ったのに、あの電車での出会いを仁海は全く覚えていなかったんだから。傷ついた俺が小さな嘘をついてしまうぐらいは、多めに見て欲しいな」
だから、あの時はお前の顔さえよく見えていなかったんだってば!
見えていたら、おれだって絶対覚えていたよ。うん。だって貴史はすごくいい男だし。
痴漢事件の時の出会いを思い出せなかったことは、責められても仕方ないので、心の中でゴニョゴニョ言い訳してしまう。
「俺の話ちゃんと聞いた?だから何も心配なんかいらないよ」
貴史の顔が近づいている。
二度目のキスは、もっと深くて、貴史の熱さを感じさせるものだった。
「もう焦ったわよ。このままばれるかと思ったあ」
予定より遅れてパレードの終点地、撮影会の会場に着いたおれと貴史は、波奈ねえと森安さんに向かってごめんを連呼しながら、急いで衣装を取り替えた。
「波奈さんはともかく、僕はどうやってもごまかせないからね。本当に生きた心地がしなかったよ」
気弱そうな笑顔の森安さんに、波奈ねえは手伝ってくれてありがとうと、優しい笑顔を向ける。
ケーキより大福。
ハンバーグよりお芋の煮っころがしか。
「ん?仁海君。僕の顔になにかついてる?」
「いえいえ。何でもないです」
いけね。じろじろ見過ぎた。
「貴史君ときちんと話せたの?」
「うん。大丈夫」
たぶんおれの顔は真っ赤だったろう。
恥ずかしくて、わざと話題を変えた。
「でもまだ分かんないことあるよ。なんで波奈ねえはスーツなんて着て、森安さんに会っていたんだよ」
「森安さんには、恋人としてではなく、編集者として会ってもらっていたのよ」
よく話を聞くと、姉は投稿サイトで小説をペンネームで発表しているという。
人気が出てきたので、書籍化の話を持ち込んだのが、森安さんだったらしい。
「びっくりしましたよ。SFとバイオレンスを組み合わせた、血生臭い小説で大人気の武奪《ぶっだ》が、まさか波奈さんだなんて」
波奈ねえがそんな小説を?
おれだって信じられない。
ちょっと編集部に電話入れて来ます、と森安さんが外すと、波奈ねえは続けた。
「小説でもエッセイでも良かったんだけどね。とにかく売れっ子になって、もうあんな女にでかい顔はさせないって思っていたから」
えーと今の話の流れだと、あの女って。
「もちろん森安さんのもと妻、岸谷潤よ」
やっぱりそうか。波奈ねえの、思いがけず激しい面を知った。
「ふん、いつまでもあんな女に森安さんを好きにさせないわ」
どうやら森安さんって、強い女に好かれやすいみたいだな。
波奈ねえは話を続けた。
「武奪が女子高生ってのも、隠していたしね。仕事で会う時はスーツにしていたのは、子供扱いされたくなかったの」
波奈ねえの説明でおれの疑問は氷塊した。
「やめてくれよ。おれ母さんが浮気していたらどうしようって、すごく悩んだんだから」
「ごめんごめん」
波奈ねえは大笑いした。
「……結局落ち着くとこに、落ち着いたということか」
文化祭後、無事お菓子の家を自分の物にした薫子は、屋根のチョコレートをかじりながら、おれと貴史を交互に見る。
「まあそういうことだ」
にっこり笑う貴史の横で、おれは知らん顔をした。
貴史のことを好きだというのは認めるが、むやみやたらと人前で言いふらす気はないというか……。
「……仁海。なんとか隠そうとしているところを申し訳ないが、お前のその赤面状態は全てにイエスと答えているのと、同じだぞ」
薫子があきれているようだ。
えーい。うるさい!男心は複雑なんだよ!
「……しかしなぜ佐原は、相変わらず仁海達にひっついているんだ?」
今日も佐原は、駅でおれを待っていた。
「昨日はひどいな。二人で消えちゃうし」
おれ達のことを察しているらしいのに、今までと変わらない態度のままだ。
しっしっと追い払おうとする貴史を無視している。
「……まだ仁海のことをあきらめないのか」
「うん。何で?あきらめる必要ないでしょう。僕は気が長い方なんだ。二人がずっと続くなんて保証はどこにもないし」
あっけらかんといってのける。
「気が長いんなら、仁海をあきらめないんじゃなくて、双子が大人になるのを待てばいいだろう。あれだけ気に入られているんだからな」
「あはは。それもいいかもね。その時になってみないと分からないけど、とりあえず今は仁海君のことをあきらめる気ないから、僕を仁海君から遠ざけようとするのは、あきらめてよ」
どこまで本気なんだろう。
貴史のいらついた顔と、佐原のお気楽な表情を見て、おれは深くため息をついた。
「これが仁海の父さんか。仁海は母親似なのかと思っていたけど、実は父親似だったんだな」
母さんから送られてきたジャマイカからのハガキは、久しぶりに髭をそった父さんとの、ツーショット写真だった。
直立不動で立つ父さんの頬に、母さんがキスをしている。
「写真集の著者紹介は見たことあったんだけど、髭に長い髪に帽子を深く被っていたから、ほとんど顔が分からなかったんだよな」
「基本父さんは髭生やしているから、今回は貴重な一枚と言えるよ」
「そうか。父親似だから、髭もじゃになったらどうしようって心配してたのか」
「うるさいな」
くすくす笑う貴史から、ハガキを取り上げた。
気持ちを打ち明けあった後も、朝は駅で待ち合わせ、帰りはほぼ一緒にうちに来るって生活は、波奈ねえと付き合っていることになっていた頃と変わらない。朝はあいかわらず佐原もいるけどさ。
昼の弁当も今まで通り。
文化祭が終わってからの昼休み、貴史は購買に向かおうとした。
「あれ?弁当あるよ」
「え?だってもう波奈さんからの弁当は、もうないだろう?」
「えーと、実はなんだけど……」
今まで波奈ねえが作っていることになっていたけど、本当は八割ぐらいおれが作っていたんだ。
「だから今まで通り」
おれの告白に、貴史はすごく感動していた。
いろいろ今まで通りだな。
夕食が終わると、おれの部屋に来るのも前からだし。
この日も学校が終わった後、おれの部屋で貴史と二人いつも通りくつろいでいた。
「仁海」
「何?あっそうだ。明日の物理の小テスト、範囲どこまで……」
貴史の唇が、おれのおしゃべりを止める。
「ん……ふう」
キスが終わった後、思わず吐息が漏れる。
「仁海、キスに慣れてきたな」
「……ばーか。何いってるんだ」
貴史は嬉しそうに、おれの髪をなでる。
ああ、これは今までと違う。
でもこれが当たり前になりつつある。
そしてこれから先、もっといろんな事が二人の間で当たり前になりそうで……そんなことを考えると鼓動が早くなって、全身が心臓になったかと思うぐらいどきどきしてしまう。
「そういえば、ミスター・ミス陽聖のジンクス、おれ達で破っちゃったんじゃない?ジンクスからいうと、ミスター聖陽と付き合うのは、薫子のはずじゃん」
ちょっとだけ気になっていたので、貴史に伝えてみた。
「ジンクスは破ってないんじゃないかな」
貴史がおれの頬をなでる。
「好きなもの同士が付き合うことになるってのが、文化祭のジンクスだよ」
お前って本当にそういうことさらっというよな、と軽くどつくと、貴史はこういうとこいいだろうといって笑ったので、返事の代わりに、今度はおれからそっと唇を寄せてみた。
そのとたん
「なあ。そういえば仁海はミスターの投票、誰に入れたの?」
と貴史が聞いてきた。
おい。せっかくおれが雰囲気出してやっているのに、今そんなこと聞くか?
「だって気になるし。俺はもちろん仁海に入れたけどさ。男女枠関係なしで」
そういうことするから、実行委員たちが苦労するんだろうが。
いつまでも貴史が回答待ちの顔をするので、おれは観念した。
「お前が一票差で優勝できたのは、おれのおかげだからな」
早口で伝える。
恥ずかしくなって顔を反対に向けたおれを、貴史は嬉しそうに抱きしめてきた。
「続きをしよう。仁海から来てよ」
「もうやだ!絶対しない!」
騒いでいると、一階でお気に入りのテレビアニメを見ている双子から
「うるさーい!聞こえないでしょ。静かにしなさーい」
と怒られてしまった。
思わず
「はい!ごめんなさい!」
と二人の声がそろってしまう。
声を出さずに笑いをこらえた顔で、お互い見つめ合う。
「静かに……だな」とささやく貴史に、もう一度そっと唇を寄せた。