1.
 
 従業員専用出入り口から外へ出ると、駅前の灯りと賑々しさが目に入ってきた。
 たまに遊びに行く東京に比べたら暗い駅前。それでも一応地方都市であることから、市の中では時間のわりに眩い光を放っている場所だ。金曜の夜となれば日常のあらゆるものから解放された会社員という名の紳士淑女たちが、あちこちで笑い声をあげているのがよくわかる。自分もほんの1年前まではあの仲間ではあった。今はシフト制というのもあって、休みは不定期。むしろ土日祝に出た方が歓迎される職場ではありつつ、盆暮正月に出られれば繁忙期出勤で若干給与に上乗せがあることが私の生活を支えている。
 今出てきたばかりの出入り口から方向を変え、お客様用玄関──というか、まあ普通に百貨店入口の自動ドアを潜った。目指すはデパ地下。月に数回あるかないかのシフトが18時までの日は、適当なお惣菜を買って帰るのが通例となっている。閉館は19時半。私のような仕事終わりの人間が集まる時間帯だ。6割以上は明らかに社会人なことがわかる光景もなかなか面白い。
 バレンタインフェア中のスイーツコーナーに比べれれば混雑しているとは言えないけど、それでも向かいから来る人とすれ違うのに気を遣うくらいには人がいる。
「あ、ポテサラが安い」
 誰に話しかけることなく声が出る。一人暮らし歴の長かった私は、元々独り言が多い。でもこれだけの人混みなら誰も気にしない。むしろ聞こえないと思う。なぜなら、友達同士で楽しそうに話しながら選んでいる女の人たちや、保育園のお迎え帰りと思われるお母さん方の「ちゃんと手ぇ繋いでるんだよ!」「あっこら! ダメだって! ちゃんとお母さんのそばにいて!」という大きな声がそこら中から聞こえてくる。
 がんばれお母さん、お疲れさまです……と心の中で応援しながら、そういった小さな人たちにうっかりぶつからないように気をつけつつ、引き続きお惣菜を選ぶ。
 ポテサラと、ちりめんじゃこが乗っている水菜サラダ。あとどうしようかな、せっかくだから唐揚げとか買っちゃおうか。海鮮の入った酢サラダも好きだし。あ、ビールって冷蔵庫に残ってたっけ。おつまみは適当に作るか買っていくか、どっちにしよう。
 目移りしながらも、顔馴染みの店員さんたちに声をかけながら買い物を続ける。ポテサラを買ったお惣菜屋さんの店員さんはロッカーが近い。まだ大学2年の女の子で、講義は一年の頃から一コマから詰めに詰め込み、夜はこうしてバイトに勤しむ生活を続けていると、いつか休憩が重なった時に話してくれたことがある。顔を真っ赤にしながら、いつか彼氏と一緒に暮らすのが夢だと言っていた。その姿があまりに可愛くて抱きしめたくなったけど、がんばって我慢した。
 じゃあねと彼女に軽く手を振り、また次のお惣菜屋さんへ。今夜はパーティーなので、いつもより奮発して買って帰ると言ってあった。宣言通り、みんなの好きなものを買っていかないと。
 美術館で買ったエコバッグにいつもより多めのお惣菜を詰め込んで、私はバスターミナルへ向かった。運良く待機していたバスに乗り込み、一番前の一人席に座る。カバンからスマホを取り出して、グループラインを開いた。
【帰りまーす】
 ラグもなく一気に既読が付く。早すぎ。まあ、今日は16時上がりにしてもらったって言ってたから予想はついてたけど。多分、業務連絡みたいに思ってると思う。
【はーい 気をつけて】
 スマホを閉じて、カバンにしまう。ラインを連絡網がわりくらいにしか思っていない私たちはこんなものだ。ただ、文章に「、」をつける代わりにスペースを入れるクセは何回読んでも慣れない。なんか気持ち悪い。
 ターミナルから家まではバスで約15分。騒がしくもなく閑静すぎることもなくちょうどいい立地でとっても気に入っている。私は以前住んでいたアパートは駅から徒歩10分いないではあったけど治安があまり良くなくて、ブラックだったのも手伝い帰宅はいつも夜遅くになっていて、酔っ払いもしくは不審者の気配を警戒しながら帰路についていたものだ。
 それが今はこんなに晴れやかな気分でバスに乗っている。
 ──なんてことを考えている間にも、次のバス停のアナウンスが流れた。
 押そうと腕を上げかけた時、ふと視界に入った親子連れの子どもの方が何やら期待に顔を輝かせ、ボタンに指を伸ばしたのが見えて動きを止める。まだふくふくとした短い指がギュッと力を入れて押すと、指先が白くなったのがわかった。〈次、止まります〉の声が流れ、その子は嬉しそうに開いた口元を両手で抑える。喜びの声をあげようとした推定5〜6才の彼のそばにいた母親らしき女性が、「バスの中ではどうするの?」と問いかけたからだ。
 さっきからどうにも親子の微笑ましい場面に遭遇し通りだな、と思いながら、それまで子どもなんかに目がいかなかったからかもと思い直す。
 良い意味でも悪い意味でも、私は子どもが好きでも嫌いでもない。公共の場所でうるさくて不快になる感情は相手の年齢や性別に左右されることはないし、それが子どもで高校生でもおじさんおばさんでも、それ以上のご年配の方々でもただ「迷惑だな」と思うだけだ。
 だけどここ数ヶ月は、やたらと子どもに目が行ってしまう。まあ、理由もわかっている。
〈えー、西公園前―、西公園前です。お降りのお客様は、バスがバス停に停車してから立ち上がりください〉
 マスク越しと思われるこもった声が車内に流れ、私は定期を準備した。

 バスを降りてすぐの角を曲がり、大通りから1本内側に入る。そこにはすべての家が経ったのがまだ1年以内という新しめの住宅街だ。ぽつぽつと同間隔に灯っているポーチライトの中、手前から3番目の敷地へ入っていく。
 控えめな門を静かに開け、本来私の趣味ではないポップなデザインのキーケースから鍵を取り出す。その穴に差し込もうとしたところで、ガチャッ! と内側から解錠される大きな音がした。慌てて手をひっこめて、ドアが開くのを待つ。
「まいちゃん! おかえり! おしごとおつかれさま!」
 文字通りひょっこりと顔を出したのは、肩下までの髪を可愛らしく両耳の下でお団子にした女の子だ。頭の上にはパーティー帽が乗っており、両手を大きく広げて私を迎えてくれる。眩しすぎるその笑顔を前に消滅しそうな気持ちになりながらも、自然と笑顔になってしまうのが不思議だ。
 ドアを閉めて施錠し、靴を脱ぎながら訊ねる。
「ただいま、(しずく)ちゃん。お母さんは?」
「じゅんびばんたんだよ! しずくも!」
「志穂ちゃんは?」
「もうすぐ来るって!」
「楽しみだね」
「うん!」
 答えてくれながらぴょんぴょんとウサギのように跳ねている雫ちゃんは、嬉しい・楽しいという気持ちを全身で表現している。初めて見た時は正直「疲れないか……?」と思ってしまったけど、どうやら子どもというものはそういう生き物らしい。
 玄関とリビングを繋ぐドアを開けてくれた雫ちゃんは、これまたハイテンションを保ったまま「まいちゃんかえってきたー!」と室内に呼びかけた。
「はいはい全部聞こえてるって。しず、落ち着いて。外に響いたら迷惑でしょ」
「えー!」
「嬉しいのも楽しいのもわかってるから。ほら、ペットボトルそっちに運んでくれる?」
「やったーかるぴす! やったー!」
 聞こえてるのかいないのか、雫ちゃんはキッチンへ走っていく。
 今雫ちゃんに言い聞かせていた彼女の母親、千明(ちぎら)が雫ちゃんと入れ替えにキッチンから出てきたところで目が合った。16時に終わったはずなのに仕事着のままなことに、帰宅から帰宅後のバタバタを伺い知ることができる。
 保育園の最年長児といっても、まだ6歳。6歳という生き物がどういうものかは、この1年で私もだいたい知った。まあ一緒に暮らし始めた頃の雫ちゃんは5歳だったけど、とりあえず子どもというものは人間じゃない。宇宙人でしかない。
 この生き物を5年間ひとりで育ててきた千明(ちぎら)は、素直にすんごいと思う。私にはとてもできない。
「おかえり四十宮(よそみや)
「ただいま。買ってきたよ、ホラ」
「うっわ最高! ありがと!」
「おかーさーん、かるぴすどこー?」
「えっ野菜室にないの?」
「あ! おかしのとこだとおもってた! みてくるー」
 千明(ちぎら)はくるくるぱたぱたと忙しない雫ちゃんを見て呆れたようにため息をついたけど、そんな千明(ちぎら)が雫ちゃんの前では頑張って笑顔を保っているのも私は知ってる。疲れた時は疲れたって言ってもいいのに。雫ちゃんだってお母さんが頑張ってることは知ってるんだから。
 そんなことを話したこともあったけど、「できる限りは笑顔のお母さんでいたいんだよね」と、千明(ちぎら)は強い目をして私に言った。だから私は、「じゃあ私とふたりで飲む時くらいはダメダメになんな」とだけ答えた。それも同居の条件だった。
「志穂ちゃんまだなんだって? 私の方にはなんにも連絡来てないな」
「もうすぐ来るって連絡は来てたよ」
「なんで叔母に送んないで千明(ちぎら)に送るんだか……」
「家主への礼節なんでしょ。良い子そうでよかった」
「んーまあ、どうだろう? 悪い子ではないと思うけど」
「信じてあげなよ、叔母さん」
 そう。不思議な3人の同居生活に今日、ひとりメンバーが増える。
「あ! いまそとでなんかおとがしたー! もんがあいたおと!」
「えっ」
「違ったら普通にホラーなやつ」
 雫ちゃんの言葉に私と千明が顔を見合わせていると、
 ──ピンポーン
 インターフォンが鳴った。体の半分ほどに見える500ミリリットルのペットボトルをリビングテーブルに置いた雫ちゃんは途端に跳ね上がり、今にも玄関へ走って行こうとする。
「待ってしず、ちゃんと確認してからだよ」
「あ! はあい!」
 ピッと右手をあげて動きを止めた雫ちゃんを見て、こっそり(犬みたい……)と思ってしまったのは内緒だ。まあ、間違いなく千明(ちぎら)は「しつけるという意味では同じかも」と頷きそうではあるけど。
「おかあさん、だっこ」
「ごめんお母さん今腰やっちゃってるから……」
「しずくちゃん、私でもいい?」
「まいちゃん! だっこ!」
 数日前に腰をやってしまった千明の代わりに雫ちゃんを抱っこする。ずっしり感じる重みに「また大きくなった?」と自然と口から出るようになったのは、自分でびっくりする変化かもしれない。
 雫ちゃんは頭をコテンと私の肩に寄せると、「かめらみる」と千明(ちぎら)が確認のために向かったインターホンを指差す。
 はいはいわかってますよ、と苦笑して、私たちも千明(ちぎら)の後ろに立った。


2.

 昔から人見知りで、インドアだった。
 休みになるたびに外へ連れ出してくれるお父さんとお母さんに申し訳なくなるくらい、夏の海も冬のスノボにも興味が持てなかった。だからといって、つまんないという顔をする勇気もなくて、なんとなく家族旅行に付き合っていたっていう感じだった。
 そんな自分のままだと友達ができないことに気がついたのは、初めて引越しをした小学4年生の時。小説や漫画では、転校生が座った席のまわりにクラスメイトたちが寄ってきて「どこから来たの?」とか色々質問攻めにしてきたり、女の子には「このクラスで誰が一番かっこいいと思う?」なんて聞かれたり。そういうのを想像してた。
 現実はそんなことはなくて、遠巻きに見てくるクラスメイトたちの視線だけが痛くて、わたしから話しかけないと誰も話しかけてもらえなかった。オーストラリアからの転校生というのも大きかったかもしれない。ガイジンって言われたことも覚えてる。どう見ても純日本人なのに。でも、今思えば小学生はそんなものだったかもしれない。
 それからは、外での志穂(わたし)と家での志穂(わたし)がかけ離れた生活を続けてきた。
 中学は中高一貫の学校を選んだ。初めての転校先だった小学校で馴染めなかったから、隣の市にある、知ってる子がひとりもいないところに行った。いわゆる中学デビュー的な感じ。
 我ながら頑張ってたと思うし、明るくて元気な陽キャラを徹底したおかげで、過ごしやすい学校生活を送れてたと思う。
 でもまた、大学の入学タイミングでキャラに迷っちゃって。なんでかというと、中高でのキャラづくりに疲れたからだ。おまけに慣れない土地で一人暮らしを始めたのもあって、なんていうか、色々と限界に近かった。
 その矢先、アパートが潰れるという報告を受けた。マジかよ聞いてないと思ったけど、大家さんやその上の会社? よくわかんないけどそこらへんも寝耳に水だったらしく、何回も謝罪を受けたし引き払う時の余計なお金もいらなくなった。おまけに引越し費用も持ってくれるというので、ありがたく甘えた。

「元気そうでよかったよ」
 2年ぶりに会った舞ちゃんは、わたしの顔を見るなりそう言った。
「そう見える?」
「うん。だって今志穂ちゃんのままでいるでしょ」
「え。わかる?」
「うん。よかった」
 お母さんの妹である舞ちゃんは、おじいちゃんたちにうるさく言われながらも「結婚に興味ない」とハッキリ言って自由にしてて、こっそり憧れてる大人だったりする。
「ねーまいちゃん、しずくもしほちゃんとおはなししたい」
「あーごめんね雫ちゃん。おいで」
 わたしの隣に座る舞ちゃんの後ろに、まるで順番待ちするように立っていた女の子が舞ちゃんの服の袖を引っ張る。
 この家へ迎え入れられた時、舞ちゃんと心晴(みはる)さんの間でふたりに手を繋がれていた女の子。体が真半分に折れるんじゃないかってくらいぶんっと頭をさげて、その頭をきっちりと戻してから「ちぎらしずくです!」と挨拶してくれた。保育園のつき組で、もうお誕生日はきていて6歳だとも教えてくれた。
 わたしたちが座っている高さよりほんの少し高いのが、この雫ちゃんだ。
 舞ちゃんは慣れた様子で雫ちゃんを膝に乗せる。雫ちゃんに応える舞ちゃんはいつもよりちょっとやわらかい感じがした。高校時代の親友の心晴(みはる)さんの子どもっていうのも大きいのかもしれないな、ってわたしは思う。だって、舞ちゃんは子どもというものに多分興味がない。わたしが舞ちゃんを好きなのはそういうところが大きいからわかる。昔から、良い意味で子ども扱いされないのがすごく心地よかった。
 わたしがこの家に住むのはどうかと誘ってくれたのはなんと心晴(みはる)さんの方だったみたいだけど、心晴(みはる)さんも子どもをあんまり子ども扱いしない。わたしも子どもは正直苦手な方だけど、このふたりが一緒に住んで、そこにいる子ならわたしもやっていけるかなと思った。そのくらいよく似てる親友同士だと思ってる。
 雫ちゃんは「ねえねえ」とわたしの袖を引っ張りながら、ワクワクという擬音語がぴったりな顔をした。漫画みたいだ。
「しほちゃんのみよじはなんていうの?」
美鳥(みどり)美鳥(みどり)志穂(しほ)だよ」
「みどり? おなまえみたいだね」
「そうかな」
「うん、かっこいい!」
 満足そうに言って、雫ちゃんはテーブルに手を伸ばした。いつもは夜のジュースは禁止されてるみたいだけど、今日は特別なんだって教えてくれた。「しほちゃんのかんげいぱーてぃーだから、とくべつなの!」と鼻の穴を膨らませて跳ねていた姿に、わたしは初めて子どもって可愛いかもしれないな、なんて思って見た。
 そんな雫ちゃんがくるくる回って踊ってるみたいだと思ったら、ソファに頭から突っ込んでいく。え、大丈夫か? と思っていたら、そのまま寝息を立て始めた。え、マジか。なにこれ。電池が切れたオモチャみたい。なにこれ。唖然としていると、
「わー歯磨き……あーまあ1日くらいいっか……死なないし……」
 トイレから戻ってきた心晴(みはる)さんがソファを見てボソッとこぼす。そのままテーブルに戻ってくると、
「志穂ちゃんの部屋は2階の南側だから。荷物は置いてあるよ」
 わたしの正面に座った。
「あっ、ありがとうございます。本当に助かりま……」
「あーいいいい、そんな丁寧にしなくていいから。お礼は前に聞いたし、お母様からも連絡いただいてるよ。私はさ、トイレとかお風呂場とかこのリビングとか、そういう共同場所だけ丁寧に扱ってくれたら充分」
 缶ビールを片手に笑った心晴(みはる)さんは、グビっと中身を飲み干して缶をテーブルに置いたと同時に片膝を立てる。何気にお行儀にうるさい舞ちゃんは「千明(ちぎら)〜」と眉を顰めたけど、心晴(みはる)さんは「今日は特別だから」と雫ちゃんへの言葉を繰り返して笑った。
 私はカルピスソーダの入ったグラスを持ちつつ、改めて聞く。
「あの、なにか決まり事とかありますか」
「ないよ。さっき言ったことくらい」
「いやでも……」
 そういうわけにもいかなくて思わず身を乗り出しかけると、隣にいた舞ちゃんが笑った。
「あえて言うなら、人としての気遣い」
「ひと……として?」
「ん。叔母さんだから、叔母さんの友達だから、その子どもだから。そういう関係性云々じゃなくて、相手を人として尊重して。私たちがこの暮らしをしようってなった時にふたりで決めたのもそれが一番だったの」
「……人として……」
 わかるような、わからないような。難しいような、簡単なような。
 こういう時、まだ自分が19年しか生きてない子どもだと思い知らされる。もうすぐ20だけど。お酒だって飲めるようになるけどさ。
「しずもぉ〜、いっしょにいくのぉ!」
 その時、ソファで寝てたはずの雫ちゃんが大声を出して、3人そろってそっちを見た。雫ちゃんはソファのクッションに頭を埋めたまま、クフクフ笑っている。笑いに合わせてクッションも小さな体も揺れてるし今の声からして間違いなく雫ちゃんなんだけど、なんせうつ伏せだから表情はわからないし起きてるかも謎。ていうか、寝ててこんなハッキリ喋ることある? なに? 怖いんだけど。
「気にしないで。楽しかった日ほど寝言がひどいの」
 新しく開けた缶ビールに口をつけながら、心晴(みはる)さんは雫ちゃんを見つめて笑う。笑うっていうか、微笑んだっていうか。これが母性ってやつなんだろうか。なんか、すっごく優しい顔をしているのはわかった。
「でもそろそろベッド連れてくかな」
 よいしょ、と立ち上がりかけた心晴(みはる)さんを「腰やったんでしょ」と止めたのは舞ちゃんだ。え、腰やったの? とびっくりしつつ、「じゃあわたしが」と立ち上がる。なんでだろう、わかんないけど自然とそうしてた。
 舞ちゃんは「え、私がいくよ」と言ったけど、なんか、そうしたかった。ていうかよく見たら舞ちゃんも心晴(みはる)さんも明らか仕事着のまんまで、わたしなんかの歓迎パーティーとやらの準備をしてくれてたと思ったら、わたしだって何かしたかった。一番若いんだし。
 起こさないようにとそっと雫ちゃんの体の下に両腕を差し入れたら、心晴(みはる)さんが「しずは一度寝たらマジ起きないから大丈夫だよ。ありがとう」と言ってくれた。マジか、強い。
 思ったよりずっと重い雫ちゃんを抱いて、リビングから出る。廊下を挟んで向かいにある和室が雫ちゃんと心晴(みはる)さんの部屋なのは教えてもらっていた。ドアというか襖は閉まってなかったので、遠慮なく入る。半分以上ドアが開いたリビングから漏れる明かりが届いてちょうどいい感じになっていた。
 腕の中の雫ちゃんがまたクフクフと笑う。この重さとあったかさは、命の証拠だ。わたしより幼くて、でも、わたしもきっとまだ幼い。それをこの家で知れると思った。知らなきゃいけないと思った。そしてそれが、すごく心地よくなれると思った。
大人になろうと焦ってたし、焦れば焦るほど意味のない自転車を一生漕いでる気分になってたけど、それこそが自分の驕りかもしれないと気づいた。
 雫ちゃんをそうっとベッドに下ろすと、自然とそのおでこを撫でていた。


3.

 25歳で結婚して、すぐに(しずく)を授かった。
 夫だった人と添い遂げるのは無理だなと思ったのは、(しず)が2歳を過ぎた頃。元々機嫌で動くタイプの人だったけど、それがひどくなったから「もうやめよう」と言った。人の機嫌を伺って生きていくのはあまりにキツすぎる。両親を亡くして頼るところのなかった私にあの人は「ふたりで生きていけるはずないだろ」と言ったけど、「それなら(しず)の養育費は惜しみなく出してあげてね」と言ったのを覚えている。本当はもっと覚えてるけど、思い出すとイライラするし悲しくなるからもうやめておく。
 結婚してからも月に一度は掃除をしに帰っていた親の遺した家に戻り、(しず)との新生活を初めてまもなく立ち退き要請に遭うという、なかなかしない経験もした。駅前の道路拡張に伴い必要とのことで、立ち退き料を遠慮なくいただいて今に至る。
 (しず)とのふたり暮らしは大変だし、楽しいし、やっぱり大変だった。家があるというのは強かったけど、それ以上に大変だった。5歳くらいまでの(しず)は熱を出しやすく、保育園からの電話はしょっちゅうで、申し訳なくなりすぎて仕事も変えた。だからと言って、共同保護者が欲しかったわけじゃない。男なんてと思ってたわけじゃないけど恋愛する余裕なんてなかったし、そんな暇があるならゆっくり寝たかった。
『ちょうどマンションが更新なんだよね。私も住んで良い?』
 そう言ったのは、四十宮(よそみや)だった。
 四十宮(よそみや)(まい)。高校の頃の親友。……親友……? 正直わからない。高校時代確かに一番気の合う友達だったけど、卒業してから密に連絡を取り合ってたわけじゃなかったから。今だってラインは最低限しか取り合わないし。まあ、お互いの性格もあるかもしれないけど。なんとなく、細く長く繋がっていた相手だった。
 改めて再会したのは離婚してからだ。「色々楽になったから会お」と私から誘って、四十宮(よそみや)が「おけ」と受けてくれた。
 そんな中、(しず)とのふたり暮らしを真新しい一軒家で改めて始めるとこぼしたんだと思う。1年くらい前だけどもうあんまり覚えていない。仕事に育児に忙しない毎日を消化していくことに精一杯だったからっていうのもある。
 でも正直、この1年はだいぶ楽だ。四十宮(よそみや)は私にも(しず)にも、必要以上甘えさせようとはしない。でも、人として尊重してくれる。最初に私たちが約束したことだ。四十宮(よそみや)があんまり子ども好きそうじゃないのは知ってたから、(しず)に関することは甘えないと決めていた。同居を提案してきたときに一番驚いたのはそこがある。でもいざ一緒に暮らし始めたら、「私が行ける時は行くから」と、保育園にお迎えに行く人の書類を頼むように言ってくれた。
「なんか全部意外なんだよね」
「は?」
 志穂ちゃんがお風呂に入り、自分の部屋に行ってから何時間経ったっけ。四十宮(よそみや)の姪っ子の志穂ちゃんは根が生真面目すぎて、頑張りすぎて、あのままだとどうなるかわからなくて心配だとこぼした四十宮(よそみや)に、私が提案した。なら、ここに来ればいいじゃないと。
 今は電気のレベルを落としたリビングに、私と四十宮(よそみや)が残りのお惣菜を消化しながら意味のないことばかり交わしていた。
「何が意外?」
 怪訝そうな四十宮(よそみや)に、(しず)の大好物のポテサラの残りをツマミにしながら私は答える。
(しず)にさ、優しくしてくれるなーって」
「元々優しい人間だと思うんだけど」
「いやわりとそうではあるんだけど。最近はこう……あー上手く言えないな〜……」
「飲みすぎでしょ」
「明日休みなんだから許してよ。ていうかあんたもでしょ」
「あ、忘れてた」
「マジしっかりしな。老化かな?」
「ははっ、それブーメラン」
「うるさい」
 四十宮(よそみや)はハイボール缶を新しく開けながら、あれだけ私に注意した片膝を立ててスルメに手を伸ばした。珍しいこともあるもんだ。四十宮(よそみや)もわりと酔ってるのかもしれない。
「……志穂ちゃん、大丈夫そ?」
 気になっていたことを訊ねる。頑張りすぎる性格を話に聞いていたから、いきなりこんな女だらけの共同生活にストレスを感じることを私は一番懸念していた。人間関係に疲れたっていうのに、ますます疲れることになったら意味がない。おまけに(しず)は綺麗なお姉さんに憧れが強いみたいで、グイグイいってしまう。それでも必要以上に抱きついたりスキンシップを求めなかったし、ご機嫌にひとりで踊ってただけだからよかったけど。
「大丈夫だよ。だって、志穂ちゃんだったもん」
「……?」
「んーと……つくってなかった、って言ったらわかる?」
「あ、わかる」
 私もそうだ。(しず)の前では母親としての私をつくるし、仕事をしている事務所では社会人の仮面を被る。そこまで考えて、志穂ちゃんが抱えた『疲れ』をようやく理解できた。人間生きていれば大小そういうことはあれど、本当の自分とあまりに剥離が大きいと疲れてしまうだろう。志穂ちゃんは、時々顔の右半分だけ引き攣るようになってしまったらしい。
(しずく)ちゃん見てちょっと笑ってたでしょ。あれ、むかーし見た顔なんだぁ」
「そうなの?」
「うん。だからきっと、ここでは大丈夫」
 まるで宇宙人みたいな6歳児を前にして、少しでも心から笑ってくれたのならよかった。
四十宮(よそみや)は?」
「何が?」
「わかってるくせに」
「わかってるけどさ」
「で、どうなの。大丈夫そう?」
「もう1年経つんだよ。大丈夫だって」
「まあ私からもそう見えるよ」
「ならいいじゃん」
「一応ね。自分の感覚としてどうなのかなって」
 しつこいなあ、と苦笑した四十宮(よそみや)は、この家に来ることを決めた頃に前の仕事を辞めている。いわゆるブラックと呼ばれるヤバい会社で、それでもクソがつくほどに根は真面目な四十宮(よそみや)は食らいついてしまった。上司の嫌味にも耐えていたし、四十宮(おまえ)は仕事ができるからと影でさらに上乗せされ、それを贔屓されていると名指しする同期。正直言ってクズしかいない会社だったのに、なんで辞めなかったんだろう。麻痺してたと言えばそれまでだけど。
 今は駅前の百貨店に転職して、楽しそうにしてる。よかったって素直に思う。
 それでも最初の頃はふとした時に吐き気とか、そういう後遺症?みたいなものに苦しんでいた。見せなかったけど。あれは今も許してないけど。
 四十宮(よそみや)はいつだって強気で、自分がこうだと決めた道を行く。それが美点であり、欠点でもあった。自分で決めたから「今更」曲げられない、逃げられないと自分を無意識に追い詰めるところがある。
「だーかーらあ、マジでもう大丈夫なんだって。だってお酒が美味しいもん」
「最高。それが一番だね」
「志穂ちゃんの誕生日どうしよっかなー」
「待って四十宮(よそみや)。さすがに初めての乾杯はご両親とじゃないの。仲はいいんでしょ?」
「あ」
「あじゃないよ。それが終わったら、またパーティーしよっか」
(しずく)ちゃんも喜ぶかな」
「志穂ちゃんのお酒解禁と同時に、(しず)の炭酸を解禁にしてもいいかも」
「おっマジで? ついに? あんた意外にしっかりしてるもんね」
「意外は余計」
 そんなことを笑いながら、夜は更けていく。

 私と四十宮(よそみや)は、特別仲が良かったわけじゃない。
 でも今こうして同じ屋根の下で暮らして、缶ビールとハイボール缶を軽く鳴らしあって笑っている。不思議な縁もあるものだと思う。私のそばには(しず)がいて、今日は志穂ちゃんも加わった。付かず離れずじゃないけど、「人と住んでる利点は活かしたいよね」って四十宮(よそみや)と話したようにできればいいなと思う。
 いつか四十宮(よそみや)も志穂ちゃんもこの家から出ていくだろう。というか、それを望んでいる。ここで束の間でいいから羽根を休めて、元気になったら飛んでいく。それがいい。(しず)だっていつかはそうなんだから。
 その日が来るまでは、この1+2+1の暮らしを、穏やかに。





了.