猫と王子と恋ちぐら


(見間違い、か……?)

 翌日。教室に入って真っ先に視界に入ったのは、机に向かって読書をしている千蔵の姿だった。

 本を読んでいるだけでも絵になるやつだと思うが、俺の脳裏にはどうしたって昨日の光景が重なって離れてくれない。

 舌の上の異質な存在。忘れろと言われても一晩では到底無理なものだが、それ以上に胸の奥に残ったのは、千蔵もあんな風に笑うのかという事実だ。

(そりゃ、普通に笑うんだろうけど)

 千蔵のことなんて何も知らない俺だって、あの男がああいった笑い方をする人間ではないという印象がある。

 少なくとも王子と呼ばれるだけあって、校内では口元に手を当てて”こぼす”という表現が正しいような笑い方をする。

 だから余計に強烈で、俺はつい千蔵のことを目で追ってしまっていた。自分が今日一日をどんな風に過ごしていたかなんて記憶にないほどに。

(かぶち)、一緒に帰ろう」

「……は?」

 放課後になると、塚本よりも先に俺の名前を呼ぶ声があった。顔を確認するまでもなく穏やかな声は、千蔵のものだ。

 彼の行動を意外だと感じたのはなにも俺だけではなく、教室内に残っていたクラスメイトの半数以上がこちらに視線を寄越しているのを肌で感じる。

「帰るって、なんでおまえと……」

「いいじゃん。それともなんか予定ある?」

「いや、別にねえけど」

「じゃあ決まり、行こ」

 断るための上手い理由が見つからなくて、俺は半ば腕を引っ張られる形で千蔵の後に続くことになった。

 昨日も駅にいたのだから千蔵も電車通学なのは間違いないのだろうが、方角が同じだという人間ならばいくらでもいるだろう。わざわざ俺に声を掛けた理由があるのだとすれば、昨日の一件以外には考えられなかった。

「どういうつもりだよ?」

「ん? なにが?」

「とぼけんな。今までロクに話したこともねえだろ」

 通りすがりの女子生徒から挨拶を受けた千蔵は、見慣れた王子スマイルで言葉を返すと俺の方へと顔を向ける。

「それならオレも橙に聞きたいけど」

「なんの話だよ?」

「今日一日、オレのこと見てたでしょ」

「ッ……」

 つい目で追っていたのは事実だが、まさか気づかれているとは思わなかった。それほどまでに、俺は千蔵を見てしまっていたらしい。

 肯定するのも悔しくて視線を泳がせるが、結果的にその反応が肯定に繋がってしまっていることは考えるまでもない。

「やっぱ、コレ(・・)のせい?」

 そう言いながら千蔵はべえっと悪戯に舌を出して見せる。その中央には間違いなく昨日目にした異物が乗っていて、俺の見たものが紛うことなき現実なのだと教えられた。

「おまえ、それ……っ」

「あはは、見られてたかあ」

 呑気な様子で笑う千蔵は普段通りに見えるのだが、悪いことをしている気分になるのは目の前の男が王子と呼ばれているせいなのだろう。

 ピアスなんてものは珍しくもないけれど、それを千蔵がしているとなれば話は別になる。

「……いつから開けてんの」

「ん-、中学卒業してすぐくらいかな」

「毎日してきてたのかよ」

「まあね。意外とバレないもんだよなぁ」

 バレないという言葉の通り、おそらく千蔵の舌にピアスがあることなんて俺以外のクラスメイトは知る由もないだろう。

「秘密にしてくれる?」

 向けられた問い掛けには困惑の色は見られない。千蔵自身知られたところで問題はないと思っているのかもしれない。だからといってわざわざ誰かに言いふらす気にもなれなくて、俺は素直に頷いた。

「別に、おまえがピアスしてようが刺青入れてようが、俺が困ることじゃねーし」

「はは、刺青はさすがに入れてないかなあ」

 そんなことを話しているうちに、駅の改札を抜けて最寄り駅の方角へと向かう電車のホームに辿り着く。特に尋ねることもなくいつもの場所に来てしまったけれど、何も言われなかったので千蔵も同じ方角なのだろう。

(まあ、昨日も同じ電車乗ってたわけだしな)

 そうしていつもの癖でヘッドホンに手を掛けた俺は、そういえば千蔵が一緒にいるのだと思い直してそれを首元にかけ直す。

 横目にその仕草を見ていた千蔵は、疑問を抱くかと思いきや不自然な挙動について特に尋ねてくることもなかった。

「あ、電車きた」

 ホームに滑り込んできた電車の扉が開いた時、俺は一瞬動きを止めてしまう。扉のすぐ向こうに、分厚い眼鏡の中年男性が立っていたからだ。

(っ、昨日の……!)

 音漏れ警察と呼ばれていたその男も、俺の顔を見て昨日の奴だと気がついたらしい。物言いたげな顔をしていたが、どちらかが動くよりも先に千蔵が俺の腕を取って、そのまま電車に乗り込んでいく。

「おい、千蔵っ……!」

「あ、向こうの席空いてるね。座ろっか」

 電車内はそれほど乗客はいないようで、優先指定ではない端の席には誰も座っていないらしい。

 そちらを目指して歩き出した千蔵は、学校でよく見る王子スマイルを中年男性に向けて会釈をしつつ、何でもない顔をして傍を通り過ぎた。

 俺を端に座らせた千蔵が隣に腰を下ろしたことで、音漏れ警察の姿は俺の視界から見えなくなる。そこまで考えての行動なのかはわからないが、スマートな奴だと思った。

「……聞かねえのな」

「ん?」

「昨日のこと」

 わざわざ一緒に帰ろうなどと言い出した時に、てっきり昨日の件について尋ねられるんじゃないかと予想していた。

 もちろん千蔵のピアスのこともあったのだろうけど、ヘッドホンのことといい、一切触れてくる様子が無いことが不思議でならない。

「聞かなくても、オレは困らないから」

 まるで千蔵に対する俺の発言を真似したみたいな物言いに、思わず隣に抗議じみた視線を送る。

 対して向けられた瞳は蜂蜜みたいに蕩けていて、不本意にも甘く絡め取られてしまうせいで、吐き出そうとした言葉を見失う。

(ムカつくのに、なんか……)

 千蔵という男の持つ独特の空気感のせいなのだろうか。妙な居心地の良さを感じてしまって、知らず知らずのうちに毒気を抜かれる。

「…………中学ン時にさ」

「うん?」

「好きだった奴がいたんだけど」

「え、なに、橙の恋バナ?」

 少しだけ茶化すように上がる語尾に肘で隣にある脇腹を小突くが、千蔵は大袈裟に痛がる真似をしつつもこちらに耳を傾けているのがわかる。

「好きなのがバレて、全否定されたんだよ。電車ン中で」

 思い出そうとすればあの日の光景はいつでも鮮明に脳裏に蘇ってきて、吐き気すら催しそうになるほどだ。

「そん時から、まあ電車が多いんだけど。注目される場が苦手になっちまってさ」

「そんなに目立つ金髪してるのに?」

「これは荒療治……のつもりだったけど、あんま効果なかったな。結局過呼吸っぽくなるのは変わんねーし」

 前髪をひと房摘まんで持ち上げれば、それまで真っ黒だった髪を初めてブリーチした日のことを思い出す。

 予想以上に色が抜けて焦りはしたものだったが、今になってはこの色もすっかり見慣れたものだ。

(……って、こんな話されても困るよな)

 同情が欲しいわけでも共感されたいわけでもないが、これまで友人の誰一人にも話すことのできなかった話だ。

 自分の中だけで消化していくべきことだったはずなのに、近しい人間ではない千蔵だからこそ、逆に抵抗なく話すことができたのかもしれないが。

「そっか」

「いや、変なこと聞かせて悪……」

「だから、ヘッドホンがあると安心するんだ」

 落とされた言葉に隣を見れば、千蔵は一人納得した様子でうんうんと頷いている。

「今は平気なの? ヘッドホンしてなくて」

「え、ああ……今はおまえが一緒にいるし」

 基本的に注目を集める場であっても、親しい友人が傍にいたりすれば過呼吸を起こすこともない。

 だからこそ一人で電車に乗ったりする際には、周囲を気にしなくて済むようにヘッドホンを装着するようになったのだ。

「そうなんだ。けど、音漏れ警察に目をつけられるとしばらく面倒だと思うよ」

 言葉と共に千蔵が身体をずらすと、彼の肩越しに見つけた中年男性とばっちり目が合う。

 すぐに視線は逸らされたものの、どうやらこちらを気にして見ているらしいことは明らかだった。

「う……まあ、しょうがねえ。どうにかする」

音漏れ警察がいるとはいえ、自転車で通学するには距離がありすぎる。電車に乗らないという選択肢がない以上、自身でどうにかするよりほかないだろう。

「じゃあさ、オレと一緒に登下校しようよ」

「え?」

 だからこそ、千蔵の提案してきた内容を理解するのに一瞬頭が追い付かなくて。

「オレが一緒なら、ヘッドホン無しでも大丈夫なんでしょ?」

「そう、だけど……」

「他に頼める友達がいるなら、無理にとは言わないけど」

 友人はいるが方角も違うし、頼むとしたら事情を最初から説明しなくてはならない。過呼吸の話をしたことすらないというのに、わざわざそんな手間をかけようとは思えなかった。

「いや、けど……俺と一緒にいたら変な噂立てられるかもしんねーぞ?」

 自業自得ではあるのだが、金髪にしたせいで不良扱いされることも少なくない。それ自体を気にしたことはないけれど。

 そんな俺と優等生たる王子が一緒に行動していたら、意図せずとも千蔵に悪い噂が立てられてしまう可能性も十分にあるだろう。

 第一、そんなことをしてもらうほど千蔵と親しいわけでもないというのに。

「上等。噂立てる奴らなんて好きにさせとけばいいよ」

「っ……」

 そう言って笑う千蔵の顔は、昨日のそれとは全然違っていて。王子と呼ぶには程遠い、まるで悪事を企んでいるかのような悪い男の顔をしていた。

 それからとりとめのない話をしつつ無事に帰宅をした俺は、自室に荷物を放り投げてから家族不在のリビングへと向かう。

 壁際に置かれた猫ちぐらの中では、茶トラ模様の我が家の愛猫が丸くなって健やかな眠りについていた。

「ただいま、きなこ」

 返事は無いが構わずに毛並みを撫で付けると、小さな鼻がプゥと鳴って口元が緩んでしまう。同時に頭の中に浮かんできたのは、これまで見たことのない千蔵の笑う顔だった。

 これまで王子と呼ばれる男と距離を置き続けてきたが、ふたを開けてみればなんとも居心地のいい空間だったことは、もはや認めざるを得ない。

(……アイツ、ああいう顔してた方が王子よりよっぽどいいと思うけどな)

(かぶち)、おはよ」

「……マジで来た」

 翌朝。電車に乗るためにホームに立っていた俺は、開いた扉の向こうから爽やかな笑顔で登場した千蔵の姿に目を見張る。

 一緒に登下校をするのだと決まった手前、乗る電車の車両と時刻は伝えていたのだが。まさか本当にその車両の中から登場するというのは、よもや半信半疑の状態だった。

「そりゃあ来るでしょ。約束は守るよ」

「律儀な男だな……」

 念のためにと首元にかけていたヘッドホンは、どうやら今日はお役御免となりそうだ。

 電車に乗り込むと通学時間帯ということもあって車内は多少混み合っている。千蔵と隣り合って吊り革に掴まると、ゆっくりと電車が動き出した。

「なに見てたの?」

「なに?」

「さっき、ホームで電車待ってる時にスマホ見てたでしょ」

 見られていたのかと思うとなんだか気恥ずかしい気もするが、別に恥ずかしいものを見ていたわけでもないので正直に答える。

「見てたっつーか、画像整理してただけ」

 開いていた画面はそのままだったので、俺は飼い猫の画像が並んだフォルダを表示して千蔵の方に傾ける。

 猫を飼い始めてからの撮影が習慣にはなっているのだが、似たような写真ばかりで容量を圧迫されてしまうので、手持無沙汰な時間に整理するようにしているのだ。

「わ、可愛い……! これって橙の家の猫?」

「ああ、母さんが拾ってきたやつ」

「茶トラだよね、名前は?」

「きなこ」

「あはは、可愛い名前。こっちも見ていい?」

「いーけど」

 表情を綻ばせながら画面を指差す千蔵に許可を出すと、スワイプした長い指先が新たな猫の画像を表示させる。

 可愛い可愛いと同じ言葉を繰り返してはいるが、猫を前に語彙力を失うのはよく理解できるのでなんだか微笑ましくなってしまう。

「……おまえ、猫好きなの?」

「うん、好き。あんまり触る機会とか無いんだけどさ」

「家で飼ったりしねーの?」

「うちは妹が猫アレルギーなんだよね」

 残念そうに眉尻を下げる千蔵は、今日もまた俺の見たことのない顔を惜しげもなく晒してくる。

(こんなに表情変わる奴だったんだな……)

 俺が知らなかっただけで元々がこういう人間なのか、それとも猫のなせる業なのかはわからないが。見慣れない姿ばかりを見ていたせいで、口が滑ったのかもしれない。

「……なら、見に来るか?」

「え?」

 きょとんとした顔で千蔵がこちらを見たことで、ようやく俺は何を口走ってしまったのかと気がつく。

「あっ、いや、違……!」

「いいの!?」

「えっ……あ、ああ……」

 けれど俺が訂正を挟むよりも先に千蔵の嬉しそうな声が聞こえて、肯定を重ねてしまう。それじゃあ今日の放課後に、とトントン拍子で話が進んでいき、その日の授業はなんだかまるで身に入らなかった。






「お邪魔しまーす」

「どーぞ。別に親いねえけど」

「ニャア」

 千蔵と連れ立って帰宅した自宅の玄関を開けると、今日は起きていたらしい愛猫のきなこが出迎えをしてくれた。

 けれど家族以外の人間がそこにいることに気がついたきなこは、目を丸くしてリビングの方へと引き返していく。

「あれ、嫌われちゃった?」

「いや、人見知りだからあれがデフォ。部屋そっちな」

「はーい」

 廊下の奥にある扉を指差してリビングに向かうと、案の定全身で警戒をしているきなこが猫ちぐらの中で俺を見ていた。見知らぬ他人を家に上げるなと言いたげな瞳は、予想はしていたものの申し訳なくもなる。

「怖い奴じゃないって。大丈夫だぞ、きなこ」

「ニャウ……」

 不満げな唸り声を背中に受けつつ、俺は客人に飲み物を出すべく冷蔵庫を漁る。千蔵をもてなす必要もないとは思うのだが、会話に詰まった時に何か手元に無いと困るだろうという思いもあった。

(なに飲むか聞いてくりゃ良かったな。まあいいか)

 冷蔵庫にあったウーロン茶をグラスに注ぐと、棚から適当な袋菓子を掴んで俺は自室に向かう。両手は塞がっていたが部屋の扉は開いていたので、問題なく室内に足を踏み入れることができたのだが。

「……は?」

「あ、おかえり橙」

 目の前に広がる光景に、俺は言葉を失ってしまう。

 床の上に胡坐(あぐら)をかいている千蔵の膝の上に、つい今しがたまでリビングで来客に警戒心全開だったきなこが、当たり前のような顔をして鎮座していたのだ。

「嘘だろ、きなこ……?」

「なんか、大丈夫だと思ってくれたみたい」

「いやいやいや、こいつマジで人見知りすんだぞ!?」

 茶トラ猫という種類は、甘えん坊で人懐っこい性格をしていることが多い。けれど、きなこという猫は別だ。

 元が捨て猫だったという経緯もあるせいか、基本的に人間という生き物に対して並々ならぬ警戒心を抱いている。

 同じ家に住む家族であれば気を許して生活をしてくれているのだが、親父が出張で一週間ほど留守にしただけでも威嚇されることがあるほどだ。

「じゃあ珍しいんだ? 嬉しいなあ」

 きなこが自ら他人の膝に乗る姿なんて見たこともないが、さらに背中を撫でさせてすらいる。もはや緊急事態だ。

(いや……きなこにもわかるのかもな)

 千蔵という男の持つ穏やかな空気。妙に惹きつけられる居心地の良さのようなものが、猫にも伝わっているのかもしれない。

(俺だって、猫だったらきっとああやって撫でられたって……)

 などと考えかけたところで、我に返った俺は自身の思考回路が理解できずに全身に鳥肌を立ててしまう。

(なに考えてんだ俺キモすぎんだろ!!? きなこが予想外の行動したりするからだ!)

 ローテーブルの上に菓子類を乗せて隣に腰を下ろすと、背後にあるベッドを背凭れに恨みがましくきなこを見る。

 指先で顎の下をくすぐられる姿は気持ちが良さそうで、きなこはすっかり千蔵のそばを気に入ったようだった。

「ふわふわしてて触り心地いいね、きなこちゃん」

「あー、おふくろが熱心にブラッシングしてるからな」

「橙の髪もふわふわしてそう。触っていい?」

「ダメに決まってんだろ」

「ははっ、即答!」

 そんな質問をされるなんて予想できるはずもなく、反射的に拒否した俺に思わずといった風に千蔵は笑う。その拍子に、僅かだが口内のピアスがちらつく。

「……おまえさ、なんでピアス開けてんの?」

「ん? 特にこれって理由もないんだけど……反抗期かな」

「反抗期」

 千蔵という男に反抗期というものが存在したのかは定かではないが、少なくとも想像が難しいと感じる程度には似合わない言葉だとも思う。

「橙はさ、ピアス開けてないよね」

「あ?」

 そう呟いた千蔵の手が動いたかと思うと、きなこに触れていた指が俺の耳元に伸ばされる。

 耳の輪郭をなぞって耳朶へと滑り落ちていく指がくすぐったくて、意思に反して肩が大袈裟なほどビクリと跳ねてしまう。

「ッ……おい」

「あ、ごめん。橙って敏感なんだ?」

「はぁ……っ!?」

 次いだ言葉がなんだか意地悪く聞こえてしまったのは、千蔵の表情が少しばかり悪い色を滲ませていたからだろう。

(コイツ、教室じゃこんな悪い顔しないクセに……!)

 耳元から離れていく指は、再びきなこの毛並みを撫で付けている。やたらと煩い心臓を落ち着かせるために、俺は手に取ったグラスの中身を一気に飲み干した。

「ピアス、似合いそうなのに」

「……痛ェだろ、穴開けるとか」

「そうかな。オレはあんまり痛くなかったけど」

 耳朶を貫通させるのもハードルが高いと思うのに、千蔵はなんでもないことのように言ってのける。

(舌の方が、よっぽど痛そうだけどそうでもねえのか……?)

 開けてみなければ真実はわからないだろうが、少なくとも俺は自分の舌を使って挑戦するつもりは微塵もない。

「そういえば、そろそろ学力試験だね」

「……あ」

 できれば聞きたくなかった単語ではあるが、避けて通れない学力試験という存在を嫌でも思い出してしまう。

 俺が眉間に皺を寄せたことに気づいたらしい千蔵は、きょとんとした顔で首を傾げている。

「あれ、もしかしてあんまり自信無い感じ?」

「……最低限点数取れりゃいいだろ」

 うちの学校はそもそもの校則がゆるい。だからこそ俺は髪を金色に染めたりもしているし、ピアスを開けること自体も別に校則違反ではない。しかし、学力試験で赤点を取った場合は別の話だ。

「うちって赤点取ったらバイトとか染髪禁止になるよね」

「…………」

 校則がゆるい代わりに最低限のラインを守らせる。それがうちの高校のやり方だ。

 すっかり見慣れてしまったこの金髪を、今さら黒に戻すのは気が引けてしまう。まだ高校に入りたてではあるが、いずれはバイトだってしたい。

 だからこそ赤点を回避する必要があるのだが、勉強ははっきり言って嫌いだった。

「じゃあ、一緒に勉強する?」

「勉強……?」

「赤点回避したいんでしょ? 教えられそうなトコがあれば、オレ教えるけど」

(そういや、こいつの成績って学年上位だったか)

 王子と呼ばれる所以(ゆえん)はその見た目や言動だけでなく、一定以上の学力も併せ持っているからこそのものだ。

 こいつが勉強を不得意としていたらそれはそれでギャップなのかもしれないが、生憎とそうした姿はまだ見たことがない。

「……じゃあ、頼む」

「うん、なら目指せ赤点回避だね」

 こうして俺は、なぜだか千蔵と勉強をすることになったのだった。

「かーぶち、帰ろうぜ!」

「悪い、今日ちょっと用事ある」

 放課後になると声を掛けてくる塚本に即答で言葉を投げると、1ミリたりとも断られるとは思っていなかったと顔に書いてある。流れで一緒に下校することも多いが、別に約束しているわけでもない。

「なんでだよー!? 一緒にカラオケ行こうぜ!?」

「だから用事だって、また今度な」

(かぶち)の裏切り者ーっ!」

 抗議の声を背中に受けながら教室を後にすると、俺は下校する生徒たちの流れとは真逆の方向へと足を進めていく。

 普段であれば放課後に居残りをしたことなどないから、違った行動をするというのはなんだか妙な感覚だった。

 向かった先の室名札には『図書室』と記されている。好んで訪れたことはないが、ここが間違いなく図書室なのだろうと俺でも理解できた。

 がらりと音を立てて扉を開いた先では、数名の生徒が机に向かって本を開いている姿が見える。

 図書委員と思しき受付に座る女子生徒は、俺を見て僅かにぎょっとしたような顔をしたけれど、それは見なかったことにした。

(俺みたいなのは普段来ないだろうしな)

 別に本を読みに来たわけではない。癖で首元のヘッドホンに手を掛けつつ室内に視線を巡らせたところで、誰かの片腕が持ち上げられるのが見えた。

「橙、こっち」

 控えめな声音で俺を呼ぶのは、先に図書室へとやってきていた千蔵だ。

 教室からここへ向かうのに千蔵と一緒では目立ちすぎるからと別行動にしたのだが、結局注目を集めるのには変わらないので同じことだったかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺はテーブルを挟んで千蔵の向かい側に置かれた椅子に座ろうとする。

「あれ、こっちの方が良くない?」

「いや、別に隣じゃなくても……」

「隣の方が教えやすいよ、あんまり大きい声で話せないし」

 自身の隣を指差す千蔵に抵抗の意思を見せるのだが、確かに彼の言う通り図書室では発することのできる声量も限られるだろう。

 悩む時間ももったいないかと、俺は結局千蔵の言う通りに隣へと移動することにした。

「で、何からやる?」

「あー……全部やりたくねえけど」

「ふふ、じゃあ数学からにしようか」

 わざわざ図書室なんて場所に足を運んだ理由はほかでもない、千蔵に勉強を教わるためだ。

 別に俺の家でやっても良かったのだが、愛猫のきなこがすっかり千蔵に懐いてしまい、千蔵側としても勉強どころではなくなる可能性があるとのことだった。

(確かに、猫はそんな場合じゃねー時に限って構われに来るからな)

「ひとまず範囲になりそうなのが、ココとこの辺りかな」

「そんなことわかんの」

「この間の授業で先生がそれとなく話してたよ」

「……寝てたかも」

 言われてみれば聞いたような気もするけれど、覚えていないのだから右から左に通り抜けていってしまったのだろう。

 教科書を開いた途端、視界に飛び込んでくる数式の数々がまるで俺に呪文をかけてくるみたいで、自然と眉間に皺が寄ってしまう。

 始めは理解しようと努力をしていたのだが、一度(つまづ)いてしまうとどうにも別の星の言語のように見えてきてしまうのだ。

(……やべ、後でやるかの繰り返しで放置したトコだ)

 後回しにせざるを得なかったのは、やたらと放課後に遊びたがる塚本のせいだ。大体のことは全部アイツのせいだと思っている。

「早速わからないところある?」

「え、あー……」

 わからないところをわからないと言うのも妙に悔しい気がするのだが、試験勉強に来ているのだから1つでも理解ができなければ時間を無駄にするだけになる。

「ココ、そもそもなんでこの数字が出てくんだ。納得いかねえ」

「ああ、これややこしいよね。引っ掛けってほどでもないんだけど……」

 俺の手元を覗き込んでくる千蔵は、どうやらこの数字たちについて理解できているらしい。俯いたことで癖のない黒髪がさらりと頬を滑り、千蔵の顔に影を落とす。

(……マジで綺麗なツラしてるよな。つーかなんかいい匂いしやがるし)

 香水のそれともまた違ったほのかに甘いような不思議な香り。汗臭さを纏うコイツの姿なんて想像もできないのだけど。

 性格も伴ってこれほど王子らしい顔をしているのだから、クラスの女子たちが騒ぐのもわかる気がする。なんてことを考えるうちに、知らず知らずその顔をもっとよく見てやろうと距離が近づきすぎていたらしい。

「それでこれが、って……橙?」

「ッうわ……!?」

 俺の方を見た千蔵の鼻先が自分の鼻につくんじゃないかと思った。そのくらい間近に迫っていたせいで、俺は反射的にのけ反って大きな声を出してしまう。

 当然ながら周囲の視線が一斉に俺の方を向いていて、小さく咳払いをしてから何でもない顔をして席に座り直す。

「っふふ、なにしてんの」

「るせ……集中しすぎてたんだよ」

「オレに?」

「っ、問題に!」

 楽しそうに口元をゆるませて揶揄する言葉を紡ぐ千蔵に、俺は再び増した声量で反論してしまう。

「図書室では静かにしてもらえますか」

「……すんません」

 とうとう図書委員らしき女子生徒から注意を受けてしまい、俺は背を丸めて小さく謝罪を落とした。

 当の千蔵は隣で肩を震わせて笑っているのが腹立たしいが、この場所を追い出されては勉強場所を探すところから始めなければならなくなる。

「……で?」

「ああ、ごめんごめん。ココはひとつ前の数字をさ」

 笑いの余韻は残っているものの、そこからの千蔵の教え方は教師のそれよりよっぽど理解がしやすいものだった。

 あれほど他の星の言語だと思っていたものが、今や日常会話レベルまで扱うことができている気がする。……いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないが。

「……スゲ、こんな単純な話だったのかよ」

「オレの教え方で理解できたなら良かった。他はこれの応用だから、よっぽどの引っ掛け以外は問題ないと思うよ」

「おまえが山センの代わりやったらいいんじゃね?」

「あはは、そんなこと言ったら山田先生に怒られるよ」

 俺としては割と本気の発言なのだが、千蔵はあくまでそれを謙虚に受け取る。

「でもさ、そう言ってもらえるのも橙に理解力があるからだよ」

「そうかあ? 山センがなに言ってんのかさっぱりだぜ?」

「それはまあ、相性もあるのかもしれないけど」

 そこに否定を挟まない姿を見るに、もしかすると千蔵も山センの教え方については上手くないと感じているのかもしれない。

「橙さ、勉強嫌いなだけで、苦手じゃないでしょ?」

「え……?」

 急な問い掛けの意図がわからずに、俺は教科書の上の数字から千蔵の方に顔を向ける。

 どこか悪戯っ子のような表情を浮かべた千蔵は、手にしていたペンの先端で俺の手元にあるノートをトントンと叩く。

「ノートの取り方綺麗だし。本気でやればきちんと結果出せる奴だと思うよ」

「そ……そうかあ?」

 言われて手元に視線を落とすと、確かに自分のノートの取り方は見やすい方なのではないかと感じる。

 後から自分がわかりやすいようにと昔からの習慣だったが、特別なことでもないと思うし、そんな風に見られていると思うとなんだか気恥ずかしい。

(確かに、めんどくせえだけで勉強も苦手意識は持ってねえのかも……)

 どうやら千蔵は、俺よりも俺のことが見えているらしい。そう気がつくと途端にムズムズしてしまう。

「ま、まあ、褒美とかあれば頑張れるかもな」

「ご褒美? なるほど……橙の好きな物ってなに?」

「え?」

 誤魔化しのつもりで口にした言葉に、千蔵は神妙な面持ちで食いついてくる。

「えーっと……なんだろ、甘いもんとか?」

「へえ、橙って甘党なんだ」

「美味いもんなら何でも好きだけどな」

「そっか。じゃあさ、赤点回避したら甘いもの奢るよ」

「……いいけど」

 そんな提案をされるとは思っていなかったのだが、頑張った後に褒美が待っているというのは実際悪くはない。

 けれど俺は褒美以前に勉強を教わっている身で、千蔵にとってメリットのある提案だとも思えない。

「俺だけ貰うっつーのもどうなんだ」

「え、じゃあ……橙も何かくれる?」

 軽く首を傾げて俺を窺い見てくる千蔵は、どことなくあざとさを感じさせる視線で答えを待っている。

「何か……まあ、やれる範囲のもんならなんでもやるけど」

 千蔵はきょとんと目を丸くした後に、口元に手を当てて思案する素振りを見せた。

「なんでも……ねえ?」

「いや、マジでやれる範囲だぞ? 焼肉奢るとかはしねーからな?」

「……考えておく」

 ゆるりと口角を持ち上げる千蔵の姿に、俺は早まった回答をしてしまったのではないかと後悔する。それ以前に、まずは自身の赤点を回避することが何よりの最優先事項であるのだが。

 その日から試験当日まで、俺たちはほぼ毎日図書室に通って試験勉強を続けていた。

(あれだけ面倒だって思ってたのになあ)

 気がつけば、帰りの電車の中でも俺は単語帳を片手に試験前日を迎えることとなる。

 こんな自分の姿は少し前には想像もできないものだったが、勉強する時間が少しだけ楽しみになっているのも事実だった。

(……頑張れんのは、やっぱ褒美が待ってるからだよな)

 そんなことを考えている時、ふと肩に重みが増したのを感じて隣を見る。

 俺と同じように隣で英単語帳と向き合っていたはずの千蔵が、いつの間にか目を閉じてこちらに凭れ掛かってきていたらしい。

 黒髪が頬をくすぐる感触に千蔵を起こそうとするが、滅多に見られないであろうこの男の気の抜けた姿を前に、なぜか少しばかりの優越感のようなものを覚えていた。

(……コイツもうたた寝とかするんだな)

 目元にかかる前髪をそっと指先で払ってやると長い睫毛が僅かに震えた気がしたが、千蔵が起きる気配はない。

(もうちょっとだけ寝かせといてやるか)

 頑張れるのは、褒美があるからか。

 それとも、千蔵が一緒にいるからなのか。

「解放されたーっ!!!」

 正午過ぎ、爽やかな青空の下。俺は試験勉強から解放された身体を思いきり伸ばして、とある店の前に立っていた。

「あはは、(かぶち)は元気だなあ」

「そりゃ無事に赤点回避どころか、普通にいい点取れたしな。元気にもなるだろ」

 隣には当然のように千蔵の姿もある。なにせ今日は、試験勉強の褒美を貰いに来たからだ。

 シャツにジャケットを羽織ったモノトーンの私服姿は、シンプルなのに千蔵が着ているというだけで洒落て見えるから不思議なものだと思う。

 一方の俺はラフなパーカーで着てしまったのだが、もう少し考えるべきだったのだろうか。

「基本的に50点台が多めだったけど、赤点回避って騒いでたからもっと酷いのかと思ってたよ」

「試験勉強してなかったら普通に赤点だっただろうな」

 予想以上の点数が取れたのだから俺としては言うこともない。……はずなのだが、千蔵は当然のようにすべての教科で90点台を取っていた。

 だからこそ試験の結果が出た当日は、実を言うと素直に喜びきれなかったのだ。

(……次は、もうちょいイイ点取れっかな。そしたらまたこうやって千蔵に褒美貰……って)

 はたと、自分が何を考えているのかと思い至って恥ずかしくなり、思考を慌ててかき消していく。

 当たり前のように次も勉強を教わるつもりでいることも、また褒美を貰おうとしている自分にも、信じられないという思いが膨らんでいく。

「橙?」

「えっ!? あ、なんだよ?」

「こっち」

 名前を呼ばれて勢いよく振り返ると、千蔵が俺に向かって手招きをしている。

 見れば店の前には列ができ始めていて、千蔵はそこに並ぼうとしているようだったので、俺も慌てて隣に移動する。

「ここのお店、最近できて話題になってたけど、やっぱり並ぶんだね」

「ああ……つーか、女子ばっかだな」

 何気なく周囲に視線を巡らせたところで、店先に並んでいるのは俺たち以外全員が女性であることに気がつく。

 オープンしたての人気スイーツ店とあって目をつけてはいたのだが、それは当然俺たち以外の人間であってもそうなのだろう。

 ましてや店の外観はピンクと白を基調とした可愛らしいデザインをしていて、圧倒的に女性客が多いことは考えるまでもない。

「なんか、俺ら悪目立ちしてねえ……?」

 気になり始めた途端に居心地が悪くなってしまい、千蔵に喋りかける声も自然と小さなものになっていく。

 別日に一人で来たっていいと思った店でもあったが、男二人の方がかえって目立つ結果になってしまったかもしれない。

「そうかな? 気にすることないよ」

 しかし千蔵は言葉通り気にした様子もなくガラス越しに見える店内の様子を眺めていて、ちらと俺の方を見ると柔らかい笑顔を向けてくる。

「悪いことしてるわけじゃないし。性別とか関係なく、好きなものは好きでいいでしょ」

「それは……そう、か」

「それより、体調は平気?」

「ん? 体調?」

 何を問われているのかわからずに疑問を口にするが、千蔵が自身の首元を指先でトンと叩いたことで、遅れてその意図を理解する。

 首元に掛けられた俺のヘッドホンを指しているのだろう。

「ああ、平気。目立つけどまあ、話してるとそっちに意識行くし」

「そっか、じゃあなに食べるか決めよ」

 そう言って自身のスマホを操作した千蔵は、ネット上で公開されている店のメニューを表示して、画面をこちらへ傾けてくる。

(……なんつーか、気遣い方もスマートだよな)

 メニューを眺めながらああでもないこうでもないと話しているうちに、待ち時間はあっという間に過ぎていった。

 店内端のソファ席に通された俺たちは、豊富なメニューの中から何にするかを迷った末に、どうせならと店のイチオシ――始めは悩んだが、奢る千蔵がいいと言ったのでそれに決めた――を注文することにした。

 運ばれてきたのは旬のフルーツと生クリームが惜しげもなく盛り付けられた特大のパフェで、見た目のインパクトだけでなく味も値段に見合ったものだと感じる。

「うんまぁ!」

 甘すぎない生クリームの軽さはいくらでも胃に入る気がするし、メインで飾られた真っ赤ないちごは甘くて思わず顔が綻ぶ。

「良かった、ここに決めて正解だったね」

「スゲー脳が修復されてく感じする」

「修復されてそうな顔してる」

 猛勉強で疲れきった脳を癒すべくパフェを堪能する俺を見て、千蔵は笑いながら自分の手元にあるガトーショコラを口にしている。

 王子だから紅茶という偏見があったのだが、ブラックコーヒーを嗜む姿も様になるなどと頭の片隅で考えてしまう。

「はー、満足した。ごちそーさま」

 中間層のコーンフレークは食感を飽きさせないし、〆の最下層はフルーツソースの添えられたヨーグルトで、後味も最高だった。

「喜んでもらえて良かった。店に入る前はやっぱり帰ろうとか言い出す空気だったしね」

「いや、あれはそうなるだろ」

 千蔵の言葉に改めて店内を見回してみても、席に座っているのはどこもかしこも女性ばかりだ。

 貴重な男性客だって同席しているのはすべて女性で、男一人はもちろん男同士で店を訪れている人間は見当たらない。

「おまえみたいに、人目気にせず振る舞えるのってスゲーよな」

「そうかな?」

「王子だから見られ慣れてんのもあったりすんのか」

「やめてよ」

 そう言って笑う中にも照れたりする様子はなく、王子という愛称で呼ばれることにも慣れているのだとわかる。

「……興味とか、関心が無いのかも。他人に」

「え、そうなのか?」

 次いで千蔵の口から発せられた言葉は意外なもので、俺は目の前の男をじっと見つめる。

 浮かべられた笑みこそ穏やかではあるものの、普段のそれとは少し違うものに思えたのは、見慣れた制服姿ではないからなのだろうか?

「大事な人以外からどう思われても、オレには関係ないからさ」

 はっきりとそう言い切る千蔵。確かに、普段の彼は決まった誰かとつるんでいたりするのを見た記憶がない。

 誰とでも上手くやれて、どのグループにも溶け込めるように見えて、実は案外そうではないのかもしれない。

 だからこそどんな相手にも一定の距離を保って、穏やかに接することができているのか。

「…………じゃあ」

(……俺は?)

 こうして二人で過ごす機会の増えた俺は、千蔵にはどう思われているのだろう。

 なんて馬鹿みたいな思考が脳裏を掠めて、言葉として出しかけたものを紅茶と一緒に飲み込んでいく。

「橙?」

「っ、そろそろ出ようぜ。外並んでるし」

「ああ、そうだね」

 立ち上がった俺につられて席を立つ千蔵は、スマートな仕草で伝票を手にレジへと向かっていく。

(アイツにどう思われてようが、いいだろ別に)

 会計を済ませた千蔵と共に外へ出ると、入店を待つ列は店の角を折れたところまで続いているようだった。

「ありがとな、会計」

「約束だったからね」

「そういや、おまえの欲しいもんまだ聞いてねえよな」

 今日は俺の赤点回避の褒美ということで集まりはしたが、一方的に貰っておしまいというわけにはいかない。

 やれる褒美など限られてはいるが、美味いパフェを食べられたのだから多少奮発することだってやぶさかではないと思ってはいる。

「オレは、もう貰ったよ」

「は? 貰ったって、俺まだ何もやってねーだろ」

「橙と過ごす時間」

 等価交換にもなりはしない、そんなものを出されて俺はすぐには言葉が出なくなってしまう。

(時間ってなんだ……なんだそれ)

 試験勉強のためとはいえ、一緒に過ごす時間ならば今日までいくらでもあったものだ。それが褒美になるとは到底思えずに、千蔵は俺に遠慮しているんじゃないかと考える。

「いや、褒美になんねーだろそれ。俺の時間なんか別にいくらでも……」

「なるから言ってるんだよ」

 この男の考えていることが理解できずに戸惑うが、からかっているようにも見えなければ、遠慮している風でもない。それがわかってしまうからこそ、俺は視線をうろうろと彷徨わせてしまう。

「でも、いくらでもなんて言ってくれるんだ?」

「そ、そりゃ、時間なんか……」

 金のかからない無償の褒美でいいというなら、惜しむ理由は俺には無い。

 だからこそ素直に肯定したというのに、千蔵があんまり嬉しそうに笑うものだから、俺の心臓が急激にうるさくなる。

「橙、あんまりオレのこと欲張りにしないで」

 それ以上抗議するようなこともできなくて、その日は結局ずっと千蔵のペースに呑まれたままだった。

(かぶち)さぁ、最近よく千蔵と一緒だよな」

 指摘を受けた放課後。いつかはそんな質問をされる日が来るかもしれないと思わなくもなかったが、いざ現実となると少々面倒だと感じてしまう。

 教室移動の準備を始める俺の前の席に座ってじとりとした視線を向けてくる塚本。興味本位が三割、残りは最近構ってやらないことへの恨み節といったところか。

「いや……勉強教わってたし、まあちょっと」

「えっ、橙くん王子と仲良くなったの?」

「なになに、王子の話!?」

 俺の声が耳に届いたらしく隣の席の女子が反応したかと思うと、連鎖的に他の女子たちもわらわらと集まってくる。

 あっという間に自席の周りを囲まれてしまった俺は、まるで取り調べを受ける容疑者の気分だった。

「王子ってなに好きなの?」

「さあ……猫とか?」

「王子ってどんな風に過ごしてるの?」

「さあ……?」

「王子って音楽なに聴くの?」

「さあ……?」

 四方八方から飛び交う質問の嵐に、俺は聖徳太子ではないと言いたくなる。けれど次第に質問の声が止んでいったかと思うと、なんだか妙に残念そうな視線が増えていく。

「……な、なんだよ……?」

「橙って、仲いいわりに王子のことあんまり知らないんだね」

「は?」

「っていうか、ホントに仲いいの?」

 勝手に寄ってきて勝手に失望するクラスメイトたちに、俺のこめかみに青筋が立っていくのがわかる。

「上等だ、なら何だって調べてきてやる!」

 そうして勢いで返してしまった俺は、なぜだか千蔵についての調査をすることになってしまった。

 登下校には相変わらず千蔵がやってくるので、調査のタイミングはいくらでもあるのが幸いだ。帰りにちょっと買い物に行かないかと誘ってみれば、千蔵は二つ返事でそれを承諾する。

 駅前の商店街をふらふらと歩きながら、俺は調査を実行するためにそれとなく質問を投げかけていく。

「おまえさ、そういうの好きなのか?」

「ん? これ?」

 古着屋の店先で手に取ったカジュアルなシャツは、胸の辺りに不可思議なキャラクターがプリントされている。先日出掛けた時とは違った印象だと感じたそれを、千蔵は首を横に振って俺の身体に当ててくる。

「ううん、橙に似合いそうだなって思って」

「俺……?」

 似合うだろうかとシャツを見下ろすが、確かにこういったデザインの服は嫌いではない。

「じゃあ……買う」

 丁度新しいシャツも欲しかったしなと頭の中で言い訳を並べて、俺は千蔵の選んだシャツを購入した。

 次に千蔵が目を留めたのは、食器や調理器具などを扱う古めかしい店だ。

「おまえ、料理とかすんの?」

「まあ、多少はね」

「へえ。なに作れんの?」

「ん-、簡単なものだよ。カレーとかオムライスとか、あとは炒め物とか」

 王子は料理までできるのかと、複雑そうな顔をする塚本の姿が容易に想像できる。

「……橙さ、なんか今日変じゃない?」

「え、変か……?」

 指摘を受けた俺はぎくりとしてしまったことで、千蔵に余計な疑念を生ませてしまったと感じる。

 しまったと思ったところで後の祭りで、圧のある視線に追い込まれた俺は後退した先で壁に背中をぶつけてしまう。

「一緒にいるし、確かにオレのこと見てるけど……なんか、蚊帳の外にいる気分」

 これが噂に聞く壁ドンというやつなのかと、どこか他人事のように考えていた俺に白状しろとばかりに千蔵が迫る。

「どういうつもり?」

「いや、その……ええと……」

 観念した俺は事の経緯を素直に話すほかなく、別に悪いことではないはずなのだが妙な罪悪感に駆られる。

 さすがに怒っているだろうかと泳がせていた視線を戻してみると、そこにあったのはどこか拗ねたような千蔵の表情だった。

「なんだ、橙がオレに興味持ってくれたわけじゃなかったんだ」

「それは……」

 確かに始まりこそクラスメイトからの質問責めではあったのだが、厳密に言えばそれだけではないという気持ちもゼロではない。

 本当に仲がいいのかと問われて、俺は内心で面白くないと感じたのだ。

 他の奴らが知らないであろう顔も俺は知っているのに、千蔵について知らないことの方がまだまだずっと多いという事実。

「……知りたいと思ったのは、俺の意思でもあるけど」

 共に過ごす友人ならばきっと、相手のことを知りたいと思うのは普通のことだろう。だから別に、それを白状するのは恥ずかしいことではない。

「…………そっか、ならいいや」

 だというのに千蔵がやけに甘ったるい顔で笑うものだから、俺はやっぱり言うべきではなかったのだろうかと、密かに後悔していた。

「あのっ」

「ん?」

 朝、いつものように電車の到着を待っていた俺は、ホームで突然見知らぬ女子に話しかけられた。

 見れば同じ学校の制服を着ているので、知り合いでこそないが同級生か先輩のどちらかであることは明白だ。

「突然すいません。これ……」

 そう言って彼女が差し出してきたのは、一枚の封筒だった。裏面はご丁寧にハート型のシールで封がされている。

(こ、これって……ラブレターってやつか!?)

 生まれてこの方ラブレターなどというものを貰ったこともなければ、ここまでベタな見た目のものを見たこともない。

 さらに言えば、告白を受けた経験も無い俺にとってはあまりにも急な展開ではあったのだが。

「ち、千蔵くんに渡してください……!」

「へ……?」

 そう言うが早いか、彼女は引き留める間もなくその場から走り去ってしまった。手元に残された封筒を見下ろして、俺は深い深い溜め息を吐き出す。

(……だよなぁ、こんな展開マジであるもんなのかよ。つーかあの子同じ電車乗るんじゃねーのか)

 次々と浮かぶ疑問に眉間に皺を寄せていると、到着した電車の中からいつものように千蔵が姿を現した。

「おはよ、(かぶち)

「っ……はよ」

 俺は咄嗟に封筒を鞄の中に押し込んでしまうが、すぐにそれを後悔する。渡せと言われたのだからさっさと渡してしまえば良いものなのに、顔を見てすぐに渡しづらくなってしまったのだ。

 ひとまず電車に乗り込んで吊り革に捕まり、電車が動き出すのを待つ。隣に立つ千蔵から視線を感じる気がするが考えすぎだろうか。

「どうしたの?」

「へっ、どうってなんだよ?」

「……もしかして体調悪い?」

 問い掛けに封筒を見られていたのではないかとドキドキするが、続く問いと共に伸びてきた手が俺の首筋に触れる。

「ふぁっ!?」

 少しだけ冷たい指先が何の前置きもなく肌に触れたことで、俺は情けない声を上げてしまって急激に顔が熱くなった。

「あ、ごめん。熱あるのかなって思ったんだけど」

「だからってなんで首なんだよ!?」

「家族がこのやり方だからつい」

 改めてごめんと謝ってくる千蔵に悪気はないようなので、俺はそれ以上を怒る気にもなれずに感触の残る首筋を擦る。

「……橙、もしかして首弱い?」

「はあ!? 急に触られたら誰だってそうなるだろ!」

「ふふ、それはそう」

 しかし、からかうように問われれば今度こそ反論の声が上がるのは致し方ない。「周りの人が見てるよ」と指摘する千蔵をじとりと睨みつつ、動き出した電車に揺られる。

(くそ、ヘッドホンがあればガードできてたのに……あれ)

 ふと、そこまで考えて俺は違和感を覚える。改めて首元に触れてみれば、千蔵の不意打ちの感触は残っているものの、首周りを遮るものは存在しない。

(…………ヘッドホン、家に忘れてきた)

 過呼吸の症状を起こしてからというもの、俺にとってヘッドホンは何よりの必須アイテムといっても過言ではない。

 これまで寝坊をした日だろうと悪天候の日だろうと、それを忘れるなんてことは一度だって無かったのだ。

 それが今日は、今や体の一部といってもいいほどのヘッドホンが無いということに今の今まで気がつかずにいた。

(……そういや、最近は電車乗る前の不安も感じなくなったな)

 それがゼロになったとは思わないのだが、以前は外に出てから安心できる場所に移動するまで、何もかもが不安でしかなかったのに。

 そんなこととは露知らずの隣の男を横目に見れば、俺の視線に気づいたらしい千蔵はこちらを向いて表情を和らげる。

(友達パワーってスゲーんだな)

 こんなにも大きな変化をもたらしてくれたのは、間違いなく千蔵のおかげなのだろう。

 そうであるならば、何か恩返しをしなくてはならないとも思う。きっとコイツはそんなもの必要ないと言うかもしれないが、試験勉強の礼だってきちんと返せていないのだ。

(かといって、何すりゃいいんだろうな)

 日頃他人に物を贈るようなことはした覚えがないし、贈り物のセンスがあるかと言われれば正直自信もない。

 どうしたものかと頭を悩ませかけたところで、俺の脳裏に浮かんだのはホームで受け取ったあの封筒だった。

(……女子に告られたら、嬉しいよな。普通)

 封筒の主は俺の主観ではあるけれど、なかなか可愛い子だったと思う。

 中身はほぼ間違いなくラブレターであるのだろうし、もしかしたら俺が千蔵と彼女のキューピッド的な役回りになるのかもしれない。

 このタイミングで封筒が俺の手に渡ってきたということは、きっとそういうことなのだろう。

「なあ、千蔵」

「ん? なあに?」

 学校の最寄り駅に着いた電車を降りたところで、俺は人の波から外れて千蔵を呼び止める。

 鞄の中に手を突っ込めば目的の封筒はすぐに見つけられたものの、どうしてだかそれを引っ張り出すという行為に力が入らない。

「どうかした? もしかして、やっぱり調子悪い?」

 こんな時でも、千蔵は相変わらず俺の体調を気遣ってくれている。

 過呼吸の症状も落ち着いたのならもう付き添ってもらう理由もなくなるし、俺の世話なんか焼いていないで自分の幸せを考えた方がいい。

「……これ」

 ようやく取り出した封筒を差し出すと、千蔵は両目を見開いてそれを受け取る。モテる男だとは思っているが、もしかしたら千蔵もこんなベタなラブレターを貰うのは初めてなのかもしれない。

「なに、これ……?」

「おまえに渡してくれって、今朝知らない子から」

「あ、なんだ……そういう……」

 状況を理解したらしい千蔵はなんだか複雑そうな顔をしている。

 普通は嬉しいものではないかと考えたが、封筒を見ただけでは相手がどんな女子かはわからないのだから、反応に困っているのだろうか。

「あー……結構可愛い子だったぜ?」

「…………そう」

「……千蔵?」

 妙に反応の薄い千蔵はその封筒を鞄にしまい込むと、「行こう、遅刻する」と俺に背中を向けてくる。

 想像していた反応とは違うけれど、ずっとこの場に留まるわけにもいかないので俺も千蔵に続くことにする。

「……それ、返事とかすんの?」

 普段は自分から喋ることも多い千蔵の口数が少なくて、俺はなんとなく場を持たせようと質問を投げる。

「気になる?」

 だというのに返ってきたのは回答ではなく問い掛けで、少しだけムッとしてしまう。

「そりゃ、ラブレターなんて本物見たの初めてだしよ……」

「……そう」

 どことなく空返事に聞こえる千蔵は結局教室に着いてもそのままで、いいことをしたつもりだったのに、その日はずっともやついた感情を抱いたまま過ごすことになった。

「オレ、ちょっと返事しに行ってくるから」

 放課後になって顔を合わせた千蔵は、開口一番に俺にそう告げてきた。

 一瞬なんの話かわからなかったのだが、その手には今朝渡したあの封筒があったので、告白の返事をしに行くのかと理解する。

「……おう、行ってこい」

 呼び出し場所らしい方角へと向かっていく千蔵を見送ると、俺は大きく溜め息を吐き出してその場にしゃがみ込む。

 事情を知らないクラスメイトがどうしたのかと俺を見ているが、今はそちらを気に掛けている余裕もないのが笑えてしまう。

(付き合うってなったら、俺邪魔だよな)

 彼女は同じ路線の利用者だったようだから、これからはきっと千蔵と一緒に登下校をすることもなくなる。

 王子だからと始めは距離を置いていたけれど、今なら女子たちが千蔵を見て騒ぐ理由もわかると思った。むしろ見る目がありすぎる。今まで特定の相手がいない方が不思議だったのだ。

(……帰るか)

 別に待っていろと言われた覚えはないし、恋人になるなら今日から一緒に帰りたいだろう。変に気を使わせるのも嫌だと思った俺は、千蔵を待たずに足早に学校を後にした。

(おめでとうとか、言うべきだよな。一応)

 友達として祝いの言葉を述べるのは別に不自然なことじゃない。二人並んで電車に乗る姿を想像すると、お似合いだとすら思う。

 俺だって高校生活の中で彼女を作って青春を謳歌するんだと、人並みに考えたことだってある。その青春が、千蔵に一足先に訪れたというだけだ。

 だというのに、最低な自分も胸の内に存在しているのは事実だった。

(……千蔵なら、断るんじゃないかって……なんで思ったりしたんだろうな)

 他人に興味関心が無いと言っていた千蔵。まるで隣にいる自分だけが特別扱いを受けているような、自分勝手な錯覚を起こしていたのかもしれない。

 慣れた道のりが長く感じられたが、ようやくたどり着いた駅のホームで電車を待つ。

 やがて滑り込んできた電車のドアが開かれると、そこに踏み込もうとした瞬間、俺は覚えのある息苦しさを感じて足を止める。

(っ……なんで、だよ)

 指先が冷たくなって震えるのを感じた時には、俺はすでに過呼吸を起こし始めていることに気がついた。

 慌てたところで自分を守るためのヘッドホンは首元にも鞄の中にも無い。落ち着いたと思っていたのに、千蔵が隣にいないだけでこれなのか。

(情けねえな、俺)

 今日までのことはすべて千蔵の厚意で成り立っていたものだ。アイツが他を望むなら、いつでもこの関係性は解消されるものだった。

 千蔵に甘え続けてはいられないと思うのに、どうしてここにいないんだとも思ってしまう。

(ダチって、こんな風だったかな……)

 息苦しいし頭の中もぐちゃぐちゃで、とにかく早く家に帰らなければ。その思いだけで俺は震える脚で無理矢理にでも電車の中に乗り込もうとする。

(かぶち)ッ……!!」

 その瞬間、俺の身体は力強い腕によって後方へと引き戻される。

 何が起こったのかわからなくて振り返った先には、らしくないほどに大きく息を切らした千蔵の姿があった。

「え、千蔵……なんで……?」

「ここ、邪魔になる」

 なんだか怒っているようにも見える千蔵は、短く告げると俺の腕を引くのでホームの隅へと移動を余儀なくされる。

「なんで一人で帰ったの?」

「な、なんでって……手紙の子に返事しに行っただろ」

「そうだよ。断りに行っただけなのに、なんで待っててくれなかったの」

「え……断ったのか……?」

 千蔵がどうして怒っているのか理解はできなかったが、まさかの言葉に俺はそちらに食いついてしまう。

「当然でしょ、好きでもない子とどうして付き合うの?」

「いや……だって……」

 あまりにも正論を向けられると言葉を続けられなくなってしまうが、そういえば手を握られたままだったことに気がついて、俺は腕を引こうとする。

 けれど千蔵が逆に力を込めてくるので、手を離すことは叶わなくなってしまった。

「……あのさ、橙はオレと一緒にいるの嫌?」

「え、嫌じゃねえけど」

「……そう。それならさ、ちゃんと聞いてほしいんだけど」

「ああ……?」

 いつになく真剣な表情で俺を見る千蔵に、なんとなく背筋が伸びてしまう。

「オレにとって、家族以外でいま一番大事なものを決めるとするなら、橙なんだ」

「え……俺……?」

「そう。だから変な気遣いとかしないで、嫌じゃないならそばにいて」

 まるで愛の告白でも受けているのかと錯覚するほど、千蔵はまっすぐに想いを伝えてくる。

(まだ……一緒にいてもいいのか、俺)

 彼のためだと思っての行動だったけれど、結果的に余計な世話を焼いただけになってしまったらしい。

「…………わかった」

 そのことを反省するにしても、どうしたって消しきれない感情がそこに残る。

(……嬉しい、とか……最低だな、俺)

 見知らぬ彼女の想いは無下にしてしまったけれど、まだ千蔵と離れる必要はないらしい。

 そう思うだけで、握られていた指先はいつの間にか温もりを取り戻していて、俺は気持ちが一気に軽くなっていくのを感じていた。

「いいぞー、(かぶち)ーっ! 行けーっ!!」

 クラスメイトからの声援を背中に受けながら、俺は目の前に対峙する男の額に集中する。

 奴の視線は右前方から来る別部隊からの突撃に気を取られていて、俺の方まで意識が向いていない。

(今だ……!!)

 額目掛けて思いきり腕を伸ばしした俺は、そこに巻かれていた白いはちまきを流れるように奪い取る。

「あーっ!!! やりやがったな橙!!」

「っしゃ、これで三本目!」

 悔しがる負け犬の遠吠えを尻目に、自身の腕に掛けられたはちまきを見て俺は勝利を確信する。それと同時に終了のホイッスルが鳴り響いて、騎馬戦は俺のチームが危なげなく勝利を収めた。

 今日は待ちに待った体育祭。身体を動かすことが好きな俺にとって、楽しみだった行事の真っ只中だ。

「キャーッ! 千蔵くん頑張ってー!!」

 続いて二回戦に出場する選手が登場すると、これまでとは比較にならない黄色い歓声が上がる。振り返るまでもなくわかっていたことだが、歓声の先にいたのは赤いはちまきがよく似合う千蔵の姿だった。

 騎馬として動く千蔵は無駄のない足取りでチームに指示を出し、最短ルートではちまきを奪取させているようだ。

「あいつ、運動神経まで抜群なのズリ―よなあ」

「さすが王子。コケろー!」

「ちょっと男子! 王子になんてこと言ってんの!」

 外野からヤジが飛び交ってはいるが、誰も本気でそう思っていないことはわかるので一種の戯れなのだろう。

 千蔵が嫌味の無い性格をしているからこそ、アンチのような人間が存在していないのかもしれない。

 午前の種目を無事に終えた俺たちは、一旦休憩を挟むと共に昼食の時間を迎える。

 教室内であれば弁当はどこで食べるのも自由となっているが、普段のメンツとは異なってチームを組んだ者同士で固まっている席も多い。

「橙、たまには一緒にどう?」

「千蔵」

 どこで昼食にするかと考えていた俺の肩を叩いたのは、同様に弁当を片手に持った千蔵だった。特に断る理由もないので、俺は手近な席同士を寄せて食事スペースを作る。

「午前中だけでも結構動いたね。橙、騎馬戦大活躍だったじゃん」

「まーな。つってもおまえだって結構活躍してたろ」

「あ、見ててくれたんだ?」

「そりゃ、チームの勝利にはおまえの活躍もかかってるからな」

 そうは言ったものの、見るなと言われても見ない方が無理だろう。動きというよりも存在が目立つのだから、千蔵が場に出ていれば誰もがそちらに注目するはずだ。

 現に今だって千蔵の方をちらちらと見る女子や、好奇の目を向けてくる男子の姿もあるが、最近では俺も随分と慣れたものだ。

「……人目は大丈夫?」

 不意に千蔵が声を潜めたので、必然的に聞き取りやすいよう少しだけそちらに身を寄せる。

「体育祭って楽しいけど、種目に出場してる間って注目されるから」

「ああ、平気。喋れる相手もいるし、集中できるもんがある時はな」

「そっか、それならまずは安心かな」

 まさか、体育祭の間もこちらを気に掛けてくれているとは思わなかったので、ホッとした様子の千蔵に驚いてしまう。

「何かあったら、オレのところに来ていいから」

「過保護。何もねーって」

「無いなら無いでいいんだって」

 千蔵のそばで感じる居心地の良さは相変わらずで、むしろ心地良さが増しているような気さえする。

 それはひとえに、こうしてこの男が常に俺のことを気遣ってくれているからなのだろう。

(……千蔵は、なんでそこまでしてくれんだろうな)

 損得勘定で動く男ではないのだろうが、千蔵という人間を知る度にますますわからなくなる。

『嫌じゃないならそばにいて』

 そう言っていた千蔵の顔が思い浮かぶ。甘えていいと言われているのだとしても、そうすることでコイツに何かメリットはあるのだろうか。

(千蔵って、世話焼き体質なのかもな)

 そんなことを考えながら、俺は午後の種目に備えるために腹を満たすことに専念した。

「俺便所寄ってから行くわ」

「りょーかい、じゃあオレ先に行ってるね」

 昼休憩の時間が終わって午後の種目が始まる前、俺は千蔵と別れて男子トイレへと向かう。

 その途中、女子が三人固まって何かを話しているのが視界に入る。妙に深刻そうな顔をしていると思ったのだが。

「あたし、千蔵くんに告白する」

「ッ……」

 聞こえてきた名前に思わず足を止めそうになるが、立ち聞きをしていると思われたくなくてトイレへ向かう足取りはそのままに、けれど歩調は意図せず少し緩まってしまう。

「借り物競争だよね」

「そう。お題に必ず『好きな人』が入ってるから、それ引いて告白するの」

「引けなかったらどーすんの?」

「その時は……今じゃないんだって思うことにする」

「運任せじゃ~ん!」

(……この間のラブレターといい、千蔵ってやっぱモテるよな)

 今さらのようにそんなことを実感しつつ、俺は今度こそトイレを済ませて校庭に向かう。

 借り物競争といえばいろいろなお題があるのは知っていたが、そんなものまで入れている奴がいるのか。

 想像してみれば確かに盛り上がるお題ではあるのだろうし、告白をしたい人間にとっては絶好の機会なのかもしれない。

(公衆の面前とか俺なら無理……女子って勇気あるよな)

 そうして午後の種目を終えた後、件の借り物競争の時間になる。

 俺は出場しないので完全に傍観するだけだが、あんな話を聞いてしまった以上はどうしてもあの女子の動向が気になってしまった。

(あ……千蔵も一緒の走者か)

 スタートラインに並ぶ選手の中には、千蔵の姿がある。その隣に例の女子が並んでいるのだが、千蔵を見る瞳は誰が見ても恋をしているのが丸わかりだ。

(あれ、告白するまでもなくバレバレじゃねーか)

 などと考えているうちに、スタートの合図が鳴り響く。駆け出した走者たちは数メートル先にあるお題の札を目指し、各々が好きな札を手に取っていく。

 裏返しになったそれを捲ってお題を確認した人間から、会場内に視線を巡らせてお題に合うものを探し始める。

 脚力には自信があったのか、あの女子が手に取ったお題を見て頬を紅潮させているのがわかった。次に視線が向いたのは、隣のレーンを走っていた千蔵の方だ。

(あれ、もしかしてマジで引いた?)

 そうだとしか思えない動きで、彼女は千蔵に声を掛けようと腕を伸ばしているのが見える。

 その腕が千蔵に触れそうになった直後、自分の札を確認した千蔵が(きびす)を返してしまったために、彼女は標的を取り逃がしてしまう。

 その様子になぜだか安堵してしまった俺は慌てて頭を横に振り、両手で自分の顔を覆う。

(ラブレターの時といい、俺なんかおかしいぞ……!)

 自分自身のことだというのに感情が理解できない。そんなにも今のポジションを奪われるのが不満だというのか、まるでお気に入りのおもちゃに執着する子どもじゃないか。

 ぐるぐると考え込んでいた時、俺の周囲で黄色い悲鳴が上がり始める。何事かと思って顔を上げた先には、こちらに駆け寄ってくる千蔵の姿があった。

(かぶち)、来て!」

「えっ、うわ……ッ!?」

 千蔵はシートに座っていた俺の腕を引っ張って立ち上がらせたかと思うと、有無を言わさずに走り出していく。

 わけもわからず俺はその後について走るしかなく、隣には同様にお題をゲットしたらしい男子生徒が走っているのが見える。

 お題はわからないが先にゴールをした方が一着なのだということは理解できた俺は、負けじと速度を上げて千蔵と共にゴールテープを切った。

「お題お願いします」

 ゴールでお題の確認を担当しているらしい女子生徒が、千蔵に札の提出を促す。

 それを差し出した千蔵は繋いだ俺の腕を持ち上げて、これが自分のお題なのだとアピールした。

「オレの好きな人です」

「…………は……?」

 はっきりとそう告げられたのだが理解が追い付かず、それは周囲も同じだったようで、隣の走者も確認を担当する女子生徒も目を丸くしている。

 千蔵の札にははっきりと『好きな人』と文字が書かれていた。

「……あっ、えーと、好きって別に恋愛限定のお題じゃないですもんね!」

「えっ……ああ!」

 判定担当の女子生徒の一声で、俺はようやく好意にも種類があるのだということを思い出す。

 判定は成功とされたので千蔵は一着でゴールとなり、遅れてやってきたあの女子が不服そうな顔でこちらを見ているのが視界に入る。

 彼女の手にしている札には『かっこいい人』と書かれていて、確かに顔のいい別の男子生徒を引き連れてきていた。

 種目を終えて意図せず駆り出された俺は元いたシートの方へと戻っていく。道中では女子たちの話し声が聞こえてきて、どうやら千蔵のお題についての話をしているらしかった。

「私も千蔵くんに連れ出されたかった~」

「あれ羨ましいよね」

「でもさ、連れ出したのが女子じゃなくて良かったよね」

「それそれ、男で良かった~!」

 もしもあそこで千蔵が連れ出した相手が女子生徒だったら、おそらく多くの千蔵ファンから反感を買っていたことだろう。

 好意の種類が様々だというのなら、連れ出された相手はなにも俺ではない別の男子だった可能性もあるのだが。

(良かった、って思ってんのか……俺も)

 お題を見た千蔵は、真っ先に俺を目掛けて走り出してきたようだった。

 好きな人なんて確認する術はないのだから、もっと手近にいた人間を引き連れたって良かったはずなのだが。

 千蔵にとって一番近いのは俺だと言われたような気がして、感じてしまう歪んだ優越感に俺は顔が熱を帯びるのを感じていた。







「はーっ、あっという間の一日だったな」

 帰宅するための電車の中。打ち上げと称して寄り道をする生徒も多いためか、いつもより人の少ない車内で俺は座席にゆったりと背を預ける。

 惜しくも総合優勝は逃してしまったものの、どの競技も心残りは無いといえるくらいには楽しむことができたと思っている。全力で挑んだこともあって、体力的にはとっくに限界を迎えているのだが。

「ふふ、橙すっごい眠そう」

「あー、眠い。首が座らねえ」

 油断するとかくんかくんと舟を漕いでしまう自覚はあるので、どうにか意識を保とうとするのだが、すっかり気が抜けてしまったのだろう。

 電車の揺れがあまりにも心地良すぎて、いっそ座ったことが失敗だったのかもしれないとさえ思う。

「寝てもいいよ、着いたら起こすから」

「ん~……」

 俺は必死に抗おうとしているというのに、あろうことか千蔵が俺の頭を引き寄せて丁度いい位置に肩枕をあてがうものだから、とうとう眠気に勝てなくなって瞼が閉じてしまう。

 そうやっておまえが俺を甘やかしたりするから、俺に変な独占欲がついてきちまってるっていうのに。

「……ありがとな、ちくら……」

 眠る体制が整ってしまったのだから、俺が誘惑に負けてしまうのは必然だった。

 こんな風に電車の中で気を抜くことがあるなんて、千蔵がいなければきっとあり得ないことだっただろう。ここはそれほどまでに呼吸がしやすい場所なのだ。

「……無防備すぎ。伝わってないよなあ」

 だから耳に届いた千蔵の呟きの意味も、髪に触れる掌の優しさの理由も、微睡みの中ではひとつも理解ができないままだった。

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