午前中の授業を終え、お弁当を抱え中庭の奥へ歩いていきます。
 今日こそ風鈴のお兄さんにお礼を言います。僕が倒れてしまったあの日、起きたら保健室で寝ていたんです。起きたときにはお兄さんは去ったあとで、しかも校医さんに名前も名乗らずにすぐ帰ってしまっていました。僕は命の恩人であるお兄さんのお名前を聞くこともできず、お礼を言えず即入院してしまったのです。なので、退院できたらすぐにお礼を言いに行こうと、今捜索中です。わずかな手がかりは、この前お昼休憩中の時間に中庭の奥まった場所お兄さんに出会ったということ。
 濃いグリーンに色とりどりのお花が植えられて目にも鮮やかな中庭を進みます。中庭のベンチには他の生徒さんがお弁当を広げていて楽しそう。
 そんな光景を横目にしながら、中庭を突っ切り、人気もまばらな校舎裏へ向かったその時。
 視界の隅で白いものがもそもそ動いていました。というより、いつのまにか僕の横にぴったり付いてきていたようなんです。少し気になり、足を止めた途端その白いなにかは僕の目の前に飛び出します。
 現れたのはピンと尖った3角耳のきれいな猫さん。
 じっときらめく瞳で物言いたげに僕を見上げる猫さんのせいで、そんなに広くはない校舎裏へ通じる道が塞がれます。
 どうにかどいてほしいの気持ちを込めて眉を下げ見つめ返しますが、目の前の猫さんは一切動じません。
「……こ、こんにちは?」
「にゃっ!」
 とりあえず挨拶をしてみましたら、ご機嫌にしっぽをふりんとさせる猫さん。じっと僕を見上げる大きな瞳は美しい宝石を思わせるエメラルドグリーン。ふわりんと動くとろけそうに柔らかそうなふさふさの白い体毛と尻尾の猫さん。首輪をしていないので、野良猫さんだと思いますけど妙にふてぶてしいというのか、人馴れしている様子です。
 なぜ、このきれいな猫さんは僕の進路を現在進行系で塞いでいるんでしょうか。このお弁当箱の中身が気になるんでしょうか。それとも、僕と遊びたいとか。
 僕としてもこんな可愛らしい猫さんとお友達になれたらうれしいのですが、今日はお兄さん捜索という重大任務があります。心苦しいですが、事情を話してお誘いを断るしかないです。
「えっと、僕。人を探しているので……」
「にゃおん」
 あいわかった、とでも言いたげな納得顔で返事をした猫さんは、つんっと顎を振り上げました。そして、小さな顎で示した先。僕の進行方向である校舎裏に向かって、もふもふと歩き出します。
 もしかして『ついてこい』と言ってます?
「えっと……猫さん?」
 数歩先を歩く猫さんに声を掛けると、猫さんは足をとめます。そして僕の考えを肯定するように、今度ははっきりと校舎裏に向かって顎を振っています。ちなみに『さっさと付いてきなさい!』とでも言いたげに、にゃと短く鳴きました。
 なんだか猫さんの気迫がすごいです。せっかくの厚意を無下にする訳にもいかず、渋々お兄さん捜索を諦めて猫さんの背中を追うことにした僕は、一歩歩き出します。
 そんな僕の様子ににんまり目を細めた猫さんは、再びもふもふの前足を動かしました。
 とてとて足を動かし、白猫さんの背中を追います。
 猫さんでもふしぎですが背中で語るってやつですかね。ペットなんて僕は飼ったことないので、猫さんの気持ちがわかるはずないんですが。任せなさい! という気迫が背中から、ご機嫌にふりんふりん左右に揺れる尻尾から伝わりますよ。
 大変ご厚意はありがたいんですが、僕が探している風鈴のお兄さんを知らないこの白猫さんが案内できるわけないんですよ。
 でも、僕の数歩先を行く猫さんは自信満々に前だけを向いて進んでいきます。
 ふふ。でも、こういうおとぎ話ありましたよね。
 偶然知り合った動物を追いかけていったら、知らないふしぎな国に迷い込んでしまうという。あのお話の場合は、帽子屋さんのうさぎさんを追いかけていったらですけど。僕のこの状況を照らし合わせると『ふしぎな国の翠』でしょうか。猫さんとお弁当箱片手に冒険が始まっちゃいますかね。
 謎にわくわくしてきた僕を案内する白猫さんの歩みが遅くなりました。中庭をすっかり抜けて、校舎裏のひっそりとした場所。
 校舎がコの字になっているため角を曲がれば死角となる場所に、猫さんの尻尾を目印に誘われるように追います。
「お、ノラ。今日は遅いな」
 ぽつんと置かれたベンチに腰掛けた人影に白猫さんは甘えるようににゃんと足元にくっつきます。
 白猫さんをなれた仕草で抱き上げる男性の制服姿に目を奪われてしまいます。だって、その横顔の耳元にはゆらゆら揺れる風鈴のようなピアスが光ります。
 ⸺風鈴のお兄さん?!
 突然の再会に、呆然と白猫さんとお兄さんの仲睦まじい触れ合いを見つめることしかできません。
 お兄さんの腕の中に収まった白猫さんが、僕の存在を教えるようにくいっと顔を僕へ向けます。
 猫さんにつられてお兄さんもこっちを向きました。
 大きく目を見開き見つめたままだった僕とお兄さんはそのまま視線が絡まります。なぜか心臓が大きく脈打ちます。
 バクバクと速まっていく鼓動に、あらかじめお兄さんに出会えたら言おうとしていたセリフが頭から飛んでしまいました。
「あ、その節は保健室まで運んでくださりありがとうございまっしたっ!」
 全身がかなりの緊張状態でこわばります。声を途切らせないように、お腹に力をいれなんとかお礼を口にしてから、頭を下げました。
 でも、変なところに「っ」が入ってしまいました。痛恨のミスです。恥ずかしくて顔が上げられません。
「っふん、ん゙ん゙、どういたしまして」
 妙に苦しそうに答えるお兄さんです。その声には間違いなく笑いが含まれています。
 恥ずかしさで頬への熱とじわんと滲む視界ですが、目だけでも上げます。優しい眼差しが4つ僕を見つめていました。
「腹減ってんだろ? ここ、座れよ」
 ベンチの隣、人一人座れるくらいの空きスペースをお兄さんが手で軽く叩きます。
 そこに座って、お昼ご飯を一緒に食べても良いってことですかね。ちょっと戸惑って白猫さんを見たら、急かすように尻尾でぺしぺし空いたスペースを叩かれました。お兄さんに引き合わせてくれた猫さんを信じてみます。
「あ、えと。……失礼します」
 頷くお兄さんは傍らのビニール袋からウェットティシュを取り出し、手を拭き出します。
 ぴょんっとお兄さんのお膝から華麗におりた白猫さんは僕とお兄さんの間にするりと滑り込みます。ふんふん鼻を鳴らし僕のお膝の匂いを嗅いでいます。その姿がとても愛らしくて、白猫さんの頭につい手を伸ばしました。
「おいっ!」
 いきなり鋭い声とともに右手首を強く掴まれます。ピリっと腕に走る鋭い痛みに自然と顔を歪ませてしまいます。
「お、あ、……すまん。こいつは上から撫でられるのは苦手なんだ……」
「す、すみません。猫さんも……」
 いつの間にか猫さんはお兄さんの膝下に身を隠すように移動しています。
 三角のお耳を後ろに倒し、尻尾を後ろ足の間にくるり巻き込むように体を低く丸めていました。見るからに勝手に触ろうとしてきた無礼者である僕を警戒中です。
 ベンチから降り、お兄さんの膝下を覗きこみ目線を合わせ猫さんに謝ります。ですが、つんっと顔ごと逸らされそっぽを向かれてしまいました。
「すみません。今度は気をつけますので、また触らせてくださいね」
 猫さんからのお返事はありません。
「今度は気つけるんだって。ちゅるちゅーるやんから許してやれよ。な?」
 お兄さんが宥めるように白猫さんの背中を大きく撫でます。耳がぴくぴく震えると、ふるん、と尻尾が左右に一回大きく振られました。
 お兄さんの人徳なのか謎の『ちゅるちゅーる』なるものの効果により、ぼくはお許しいただけたんですかね。確認するようにお兄さんを見上げると、苦笑いで頷いてくれたので僕はようやくベンチに腰をおろします。
「あ、おい。お前も腕みせろ!」
 ホッとしたのもつかの間。
 そう言うが早いかお兄さんは僕の右腕の袖を捲ります。袖を肘まで捲り上げた途端、彼はぴたりと動きを止めました。
 露出されたもやしみたいなガリガリの僕の腕には黄色や暗紫色から赤黒い内出血痕が数カ所散らばっています。
「あ、その。これはさっきのでは無くて、昨日まで入院していたので、点滴の針でできたんですっ! もう痛くもないですし……見苦しいものを見せてすみません」
 じっと僕の腕を見つめたまま無言のお兄さんに言い訳がましく説明しますが、語尾が弱々しくなってしまいます。これからお昼ご飯を食べるというときに、こんなゾンビみたいに気持ち悪い色をした腕を見せてしまいました。毎回入院のたびになるので僕はもう慣れっこですが、初めて見た人は不快になりますよね。食欲も低下しちゃいます。
 申し訳無さで思わず地面に落ちていく視線。
 すみません、ともう一度心の中で謝り、腕を袖で再び隠そうとしますが、しっかりと腕を掴まれておりびくともしません。
「……治療よく頑張ったな。退院おめでと」
 深いいたわりと温もりに耳が、体が、包まれます。お兄さんが腕の内出血痕に触れないよう優しく丁寧に袖を戻してくれていました。
 いつもお兄さんは僕の辛さをすくい上げて、いたわってくれます。自分でも気づかないでいた心の中の微かな傷をじんわり癒やしてくれますね。
「……ありがとう……ございます」
 心を込めて感謝を言えば。ふは、と柔らかい笑い声が帰ってきます。
「よく出来ました」
 温かく大きな手が頭に置かれ、そのまま髪をすくように撫でます。とても心地よく、息を小さくほっと吐いてしまいます。撫でる手が離れると、ゴソゴソポケットを探りだします。そして、なにかを握りこんだ片手を目の前に差し出されます。
 よくわからないお兄さんの行動にぱちぱち瞬きを繰り返し、その大きな手とお兄さんのお顔を交互に見つめます。
「手出してみろよ?」
 お兄さんはやけに楽しそうに目を輝かせながら僕に指示します。なんだか既視感のあるやり取りですが、お兄さんがこんなに楽しそうなのに断るのも忍びないです。変なものじゃありませんように、と祈りながらそろそろと僕も手を差し出します。
「退院祝いだ。やる」
 ぽん、と軽いものが手の平に乗せられます。乗せられたのはとっても小さな白い子猫のお人形さんのキーホルダーでした。白く尖った3角耳で小さな耳の間にシルバーのボールチェーンが付いています。エメラルドグリーンの大きな瞳と小さな鼻と口。首元には小さな赤いイカリのマークがワンポイントで可愛い水色のスタイ、小さな体にはスタイと同じデザインのベビー服。もふもふでぷっくりした前足には哺乳瓶を持っています。
「ありがとうございます。……猫さんの赤ちゃん?」
「ん。似てんだろ? お前にさ」
「へぁ?」
「この前ガチャでこれ見つけて懐かしくて回してみたらちょうど出たんだよ。知らね?シルヴァニアファミリーって? 妹がちびの頃昔ハマってたんだよ」
「はあ……妹さんが。ぼ、くはご存知なかったです……ね」
 一気に説明されましたが、お兄さんから与えられた情報量が多めです。まじまじとその手の中にある『シルヴァニアファミリー』さんの人形を見つめ、情報を整理します。お兄さんはこの赤ちゃん猫が僕に似ていると思った。そして、この人形もといシルヴァニアファミリーさんはかつてお兄さんの妹さんが好きだった女の子用おもちゃなんですね。ん? 僕ってヒト科ですよ。二足歩行の男子高校生。目の前の赤ちゃん猫さんとかろうじて似ている部分は白髪と緑がかった瞳だけだと思います。
 もう一度お兄さんに聞いてみようかと隣を見ると、お兄さんはもう渡し終えて満足したのか、パンの袋を破りパンへかぶりついています。
 いつの間にか音もなくベンチに上がって来ていた本物の白猫さんが興味深そうに、瞳をまん丸くさせ僕の手の平を上の人形を見ています。
「この猫さんの赤ちゃん、僕に似ていますか?」
 お兄さんの目の無い隙に本物の猫さんに、小声で聞いてみました。
「にゃあん!」
 猫語はわからない僕ですが、しっぽをピンと立てた猫さんの様子で肯定されたことを理解します。
「……なるほど?」
 ぽろりと漏れ出た1言に、聞こえていないはずのお兄さんが勢い良く噴き出しました。僕と目が合うと、こられきれないように声に出して笑い、片手でお腹を抱えていますよ。
「うん。うん。そっくり! ノラ最高!」
 内緒の猫さんとの会話を聞かれていた恥ずかしさで、またまた顔が熱を持ちます。お兄さんからの面白がる視線から逃げるようにカーディガンのポケットへシルヴァニアさんをしまいました。
「あの、大事にします。ありがとうございます」
 やっと笑いが収まったお兄さんは涙を指で拭っています。ちょっと笑いすぎなんじゃないかと思いますが、『退院お祝い』をいただけたのはとっても嬉しかったので頭を下げます。
「いーよ。ほら、早く飯食わねーと時間なくなんぞ」
「はい!」
 お兄さんがお弁当へ視線を向け言います。僕も膝の上でお弁当を開きます。
 僕がもぐもぐお弁当のおかずでを口の中をいっぱいにしている内に、お兄さんはぱくぱくとパンを食べ切ってしまいました。
 ちなみに、先程謎の『ちゅるちゅーる』と交換に僕を許してくれた猫さんは、お兄さん手ずからそれを食べさせてもらっていました。例の『ちゅるちゅーる』というものは、見た目スティックゼリーなんですが、すさまじく猫さんの食いつきが良いんです。お兄さんが時々面白がってそれを動かすと、目をぎらぎらさせたまま猫さんが顔で追いかけるくらいなんです。

 このお昼ご飯の時間だけで、いろいろなことを知ることができました。
 猫さんを虜にする『ちゅるちゅーる』と、『シルヴァニアファミリー』さん。
 ああ大事なこと。猫さんの性別はメスで、彼女この地域一帯が縄張りの地域猫さんだそうです。
寮監さんにも餌をもらったりシャンプーされたりと大層可愛いがられているこの学校の名物女王猫さんだそう。
女王さまに相応しく呼び名はいくつもあるそうで寮監さんからは「ラテ」さんと呼ばれているそう。
お兄さんは『ノラ』さんと呼んでいます。僕もそう呼ぶことにしました。
女王さまの性格はお兄さん曰く気まぐれやさんかつ人見知りが激しいらしいです。さすが女王さまですね。

 お兄さんとベンチで別れ、なぜか当たり前のように僕の数歩前を道案内するようにとてとて歩くノラさんにお願いです。
「今度はちゃんと気をつけますので撫でさせてくださいね」
ふりんふりんと左右にしっぽが振り返されました。無事に女王さまの下僕?認定されました。胸の中がふくふくくすぐったような気持ちになります。嬉しいな、と。