ああこれは夢ですね。おぼろげな意識の中で理解します。
小児科病棟のペールブルーの壁紙と真っ白な天井。規則的な電子音が鳴り続ける心拍モニター。
鼻には緑色の酸素チューブに、手の甲にはぐるぐる包帯が巻かれ、透明な長いチューブが伸び、辿れば点滴です。ベッド上に寝そべる僕の包帯だらけの手を小さな手が優しく握ってくれています。
「ごめんね。僕のお母さんのせいで翠が1人になっちゃって。……これから家族の僕が翠を守るから」
ズビズビ鼻をすする伊織くんの泣き声です。伊織くんの言葉で、この日がなんの日かわかりました。
伊織くんと僕のお母さんのお葬式をした日です。伊織くんからは、ほのかにお線香の香りがします。
情けない僕の人生史上一番ダメダメな日。自分で死なせてしまった方々のお見送りもできずに、病院のベットで寝て沢山の人にお世話され生かされている。脆くて弱っちい僕なんかが。
「翠。大丈夫だからね。僕がいるから。家族の僕がいるから、泣かないで……」
僕はなんとお返事したんでしょうか。舌が乾いてはりつき上手くおしゃべりできません。
ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。ウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたいよ。
ああ。このときに全て白状して謝ればよかったんですよね。一緒にこのままならない出来事を受け入れることができたかもしれないのに。
たしか僕は怖くて逃げたんですよ。これ以上伊織くんに泣いて欲しくなくて。悲しいお顔が見たくなくて。
『わがまま』をいわなければ伊織くんは幸せになれるはず、と自分の中で一方的に自己完結したんです。
罪悪感だけなのか、伊織くんに純粋に笑っていてほしいと思ったのかはもう思い出せませんが。
スマホのアラームがなっています。もう起きる時間です。夢の余韻で少し震えている指先でタップしてアラームを消します。時刻は7時ちょうど。ふーっと大きく息をはいて、指先の震えを落ち着かせます。そして、メッセージアプリを開き通話ボタンをタップ。
「おはようございます。玄くん」
『はよ。翠。今日も雨だな……』
今日も日課のモーニングコールをして、朝の準備をします。雨の日の玄くんは、少し気だるげで低く掠れたお声が艶っぽいです。さらに、ぼんやりさんです。服を着替えるまでの数分間はベッドの上から動こうとしません。電話口の向こうから僕は二度寝予防のために話しかけます。いってきますの挨拶で通話を切り、僕も玄関ドアを開けます。
玄関ドアには小さなランチバッグがかけられていました。数日前から朝昼晩かかさず届けられます。ランチバッグの中にはタッパーやお弁当箱にいっぱいに料理が詰め込まれているんです。
あの旧校舎でお兄さんと伊織くんが鉢合わせた日から避けられてしまっています。かれこれ1週間も顔をあわさず、スマホで連絡しても既読無視をされているんです。直接お部屋に訪ねてもいつも留守。
こんなことは今までありませんでした。それだけ、僕は伊織くんに甘えきっていたのか思い知ります
ですが、ランチバッグにはいつもどおりのお弁当が。ずっしりと重いお弁当に、伊織くんの優しさを感じます。いつもお世話をしている僕に言い返され、面倒くさくなったのか迷惑に思ったから避けられていると考えたけど、まだ僕は見捨てられていないはず。ちゃんと伊織くんと真正面から向き合いこの前の謝罪といつもの優しさへ感謝を伝えたいです。
いつもいつも僕は伊織くんに優しく手を引かれていた気がします。それなのに、伊織くんに家族って言われて心配されるのは心に重しがのったように少し苦しかったんです。いざ距離を置かれるのが寂しくて、置いていかれたような虚しさを勝手に感じてしまうわがままで自分本意な僕。でも玄くんは生きてるからわがままになると言いました。今度は僕が伊織くんへ手を差し出す番だと思います。
むん、と気合をいれるため、鍵に取付けた赤ちゃん猫の人形をぎゅっと両手で握りしめます。
玄くんの隣にいたいから。少しでもかっこよくなろう。
鍵を閉めた僕は、ランチバッグとカバンを持ち1人で寮を出て学校へ向かいました。
お昼休み、授業が終わってすぐに3年生の特別コースがある1階に向かうため階段を降りていると、下から登ってくる玄さんとばったり会います。
「あー、ごめん。佐倉に逃げられた」
首に手をやり申し訳なさそうに玄くんが謝ります。実は玄くんと伊織くんはクラスメイトでしかも席順も前後と仲良しさんだったのです。玄くんは仲良くないって凄い勢いで否定したんです。伊織くんと玄くんの仲の良さにもやもやが解消してしまった現金な僕です。ですので、そういうもやもやを持たずに安心して伊織くんと会ってお話するために玄くんに協力してもらいました。けど、うまくいきません。
「そうですか。……協力していただいたのにすみません」
「いいよ。また放課後もあんだし、さっさとメシ食おう。おいで」
こくりと頷くと、玄くんは手を差し出します。手を乗せるとする、と指を絡めて握られます。玄くんと手を繋ぐのが当たり前になってしまいました。
2人でとてとて旧校舎の空き教室へ向かいます。雨の日はここで2人でご飯を食べるようになったんです。
因みに雨の日になるとノラさんは寮監さんのお部屋で『ラテ』さんになり、室内猫さまに変わっているそうです。地域猫さんのたくましさは凄いですよねぇ。
空き教室には机や椅子が無造作に積み上げられ、その机に美術部さんの大きなポスターや吹奏楽部の垂れ幕なんかがたてかけられています。普段は物置として使われているらしく、床と教壇しか座るところがないので、2人で教壇の段差にしゃがみ込みます。
玄くんにおいで、と言われると同時に体を軽々持ち上げられ、お膝の上に座らされます。玄くんの胸に背中を預け、自分のお膝の上でお弁当箱を開けます。
最近玄くんは僕をことあるごとに自然と抱っこするようになりました。
最初のうちは心臓が爆発するくらいドキドキしていましたが、慣れるとぴったりとくっついていないと寂しい気持ちになってしまいます。
この体勢ではご飯も喉を通りませんでしたが、今では普通に食べられます。慣れって恐ろしいです。
「……なあ。隈ある……」
お弁当も食べ終わりお話をしていると、肩越しに顔を覗きこまれ、目元を指で撫でられます。唇へ吐息がかかって、落ち着いていた心臓が跳ねます。膝下と肩を支えられ、あれ? と思っていたら、真上に玄くんのお顔があります。頭の下にはなにやら温かくて固いものがと思ったら太ももですね。上半身を倒されて、玄くんに膝枕を強制的にされました。
「あ、あの? なぜ?」
見上げた玄くんのお顔が近いです。目元のほくろさえ見えちゃいます。
「少しだけ寝ろ。起こしてやるから……」
「で、でも」
「今日の俺のわがままだから、な?」
「はい……」
あれから律儀に1日1回お互いにわがままを言う練習をしてくれる玄くんです。僕の今日のわがままは伊織くんを連れて来てほしい、という無理難題です。そんな僕のわがままを玄くんはいつもどんな内容でも優しい笑顔で引き受けてくれます。頭を撫でて欲しいと言ってみたいですが、未だに恥ずかしくて言えません。僕の髪を優しく撫でる指先と目元を覆う大きな手の平です。まさかの撫でるオプション付きでした。
そのどちらも気持ちよくて、緊張してこわばった体の力が抜けます。
「あのな……佐倉は翠が嫌いになった訳じゃねーと思うんだ……」
「……そうだと良いんですけど」
「俺……1回あいつにすげー怒られたことあんだよ。少しだけ、うん。少しだけな授業ダルいから自主的に休んだ時期があって」
すう、とお兄さんが息を吸い、腹筋が動きます。
「佐倉に学校に来たくても来れないれない子もいるんだからしっかりしろ! ってガチで怒鳴られたんだよ。胸ぐらつかんでまでな。その来れない子って翠のことだろ? だから……佐倉は翠のことすっげー大事にしてんじゃねーかと」
はっきりものを言う玄くんにしては自信無さそうにとつとつとお話しされます。口ぶりの変わりようから僕を一生懸命励まそうとしてくれているのがわかります。嬉しい。
「はい。仲直り頑張ります!」
「ん。大丈夫。翠ならできる」
玄くんの優しい声が甘やかな余韻を残し胸の奥へゆっくり沁みていきます。消えない甘さに勇気をもらい放課後伊織くんに突撃する決意をしました。
放課後、伊織くんに逃げられた僕は、寮への突撃に作戦を変更しました。
寮部屋の玄関扉前。いますよね。いる。絶対に。スマホの時刻は19時過ぎ。最終下校時刻はもう過ぎていますし、今日は生徒会のお仕事もない日です。生徒会書記の恭くんに確認しましたから確実です。伊織くんはお部屋にいるはず。なのに、心臓がバクバクいっています。ポケットの中に手を入れて、シルヴァニア人形に触れ、心臓を落ち着かせます。1回深呼吸。
インターホンのボタンを押します。数秒後、ノイズまじりにはい、と応答したのは伊織くん。
「お、お弁当箱返します! 出てきて! お願い」
わたわたあらかじめ用意していたセリフを言い切ります。足音が扉越しに近づくと、すぐに伊織くんが扉から顔を覗かせます。
「……お弁当箱ちょ」
「あのね! 伊織くんとお話をしたい! 僕達『家族』だよね! 心配だし、伊織くんと前みたいに仲良くしたいから……」
お弁当箱を人質のように胸に抱え、勇気を振り絞りました。でも。
「ふ、あはは」
「い、伊織くん?」
伊織くんはなぜか歪に口元をゆがめ嗤い出します。
「自分で言ってた言葉がこんなに白々しくて残酷なんて知らなかったよ。なにが『家族』だよ。そんなことこれっぽっちも思っていないくせに」
「ち、ちがっ」
吐き捨てるような伊織くんの言葉につい否定します。ですが、伊織くんはさらに声を低くして続けます。
「ねえ、僕に家族って言われることが翠は苦手だったよね?」
「………え?」
「ふっ、とっくの昔に僕は気づいていたよ。ずっと翠だけを見てきたんだからね。僕だってバカじゃないよ。本当は嫌なのに、翠が僕に遠慮していたのもわかってる」
ドアノブを掴む伊織くんの手が震えています。
「あのね。本当は僕、翠と家族になんてなりたくない。ずーっと翠の隣にいながら、僕を嫌がる翠を見てみないふりをしてた。なんでこうなったんだろうね」
僕は……どうしたら良かった? と伊織くんは力なく呟きます。
さっきから言われている内容がわかりません。ただ伊織くんを怒らせてしまったことしか。こんなに静かに激しく怒る伊織くんは見たこともありません。
「翠はわからないよね」
聞かれても困惑と恐怖で指先一つ動かせません。伊織くんの瞳がうつろに僕を映すのを見つめます。
「うん。もういいんだ。僕はもう翠とは会わない」
「なんで? 伊織くん?!」
ふっと伊織くんは微笑みます。その微笑みが伊織くんが遠くにいってしまいそうな、これでお終いになってしまいそうな予感を。
「家族じゃない僕とわざわざ会う必要もないでしょ?」
見下ろす青色の瞳は冷たい拒絶の色をしていました。
「……ッ」
「早く帰ってくれるかな」
伊織くんは僕の肩をそっと押し出すとバタンと玄関扉を閉じます。
閉じられた扉は微動だにしない。僕と伊織くんの距離を表しているようです。どうしよう。伊織くんを怒らせた? 違う……僕を扉から押し出した手は震えていました。扉を閉じる間際の取り残されたような不安気な表情は、あのお葬式の日に見たものと同じでした。はからずも伊織くんをまた悲しませてしまったんですね。
「……全然ダメダメじゃないですか」
伊織くんに手を差し伸べるとか意気込んだくせに、いざ拒絶されたら勝手に傷ついて。あんな……家族じゃないとまで言わせてしまいました。伊織くんは人を傷つける言葉を平気で使えるようなひとじゃないです。きっと、言った伊織くんも傷ついています。
「ごめんね……伊織くん……」
本当にどうしたらよかったんでしょうか。……僕達は。
いつまでも伊織くんのお部屋の前にいる訳にもいかず、とりあえず自分のお部屋に戻ろうとエレベーターホールへ歩き出します。
頭の中は伊織くんから言われた言葉がぐるぐる回ります。僕が家族って言われることを嫌がっていたのを知っていた伊織くんはあえて言っていたと言いました。それはなぜ?でも僕とは家族以外になりたかったとも言う。
「伊織くんはなにがしたかったのかな……」
零れ落ちた疑問は誰にも答えてもらえず。足元のふかふかの絨毯へ吸い込まれます。
とぼとぼ歩いていくと、ちょうどエレベーターのドアが開き賑やかな二人組が降りてきます。
「ねっるねる300個作ってみたは動画的にハズレないから! やる価値あるよぉ〜」
「俺は食べ物を粗末にするのが気に食わない……」
「ちゃんと後でスタッフが全部いただきますぅ〜」
眉間にシワ寄せた恭くんがダンボールを両手に抱え、その隣には口を尖らす塁くんです。
僕に気づいた累くんが駆け寄って来てくれます。恭くんも。
「えっ?! 翠ちゃん顔色悪すぎー!!」
「伊織とは会えなかったか? 翠?」
「伊織くんとは……会えました。けど……ダメダメでした僕」
せっかく恭くんにも協力してもらったのに伊織くんに怒られて悲しませてしまった失敗が視線を床に落とさせます。
「ねぇ、翠ちゃん。動画配信者のお部屋入ってみる?」
よくわからず顔を上げた僕のお顔の前には『ねっるねる』とポップな丸い文字で書かれたダンボール箱ととっても優しい表情の累くんでした。
グイグイ背中を押されあれよあれよと通されたのは累くんのお部屋です。小花柄の玄関マットが迎えてくれる可憐なお部屋です。手を引かれリビングへ向かうと、がらりと雰囲気が変わりました。大きな丸いライトやカメラの3脚にマイクがどーんと置いてあります。リビング窓際のデスクには3台ものモニターが設置され、本格的なゲーミングチェアーが。戦隊モノの秘密基地みたいなお部屋になりました。
「とりま座ってねぇ。恭は翠ちゃんに飲み物〜」
ライトや3脚を一纏めに持ち上げ、お部屋の隅に移動させる累くん。
お高そうな機器に触れて壊したら、と手伝うにも手伝えず、おろおろと僕は立ち尽くします。
「お、おかまいなく……累くん、恭くん」
「いいから。翠はそこのソファーに座っていろ。メシもまだなんだろ?」
ダンボールを無造作に置いた恭くんに2人がけソファに両肩を押さえつけられ座らされました。そのまま恭くんは袖を捲りながらキッチンへ。
ローテーブルを挟んだ向かいの3人がけソファーには片付け終わった累くんが座りました。良きタイミングで恭くんが僕達2人の前にグラスに入ったお茶を出してくれました。
「うーんと。いおりんと翠ちゃんはどうしたの?」
累くんがグラスのお茶を一口飲むとお話を切り出しました。
「えっと……」
伊織くんとのことを話すと必然的に玄くんのことからノラさんのことまでお話することになります。
累くんのお気持ちは嬉しいんですが、迷います。
「あのね、言いたくないことは無理に言わなくてもいいけど……僕と恭は2人ともが大切だから相談くらい乗らせてよ?」
累くんが心配そうなお顔で見つめています。
「……累くん」
「それとも僕達じゃ頼りないかな?」
「ち、違います」
累くんの優しい言葉に慌てて否定します。ここまで僕と伊織くんとの仲を心配している2人に、隠しておくなんて不義理なことはできません。この2人にだったら未だに僕にもわからないことだらけの状況だけど素直に話したいです。
「……あの、僕最近お昼ご飯を一緒に食べる方がいて……」
「……うん」
ちらりと累くんのお顔を見ると、優しくて真っ直ぐな瞳を僕に向けてくれています。
その瞳に勇気をもらい、自分でもまとまりのない内容だったと思いますが、ぽつぽつとぎれとぎれに話しました。
玄くんに発作中助けてもらったこと。ノラさんの案内で再開できたあとはお昼をともにして、連絡先交換後は毎日かかさず電話をしていること。そして、伊織くんに玄くんといるところを見られてしまい僕が伊織くんに言ってしまった暴言を。累くんは黙って耳を傾けてくれました。
「……え? 翠ちゃんがいおりんに言い返したの?」
「……はい。その日から伊織くんに避けられています。今日は玄くんや恭くんにも協力してもらったんで……少しお話しできたんですけど、お部屋から追い返されてしまって」
「あー、そのいおりんは今日なんて言っていたの?」
「家族になりたくなかったと言われました。だからもう家族じゃない僕とは会わなくていいでしょ……っとも」
一瞬、沈黙が降り落ちます。その後、累くんはクッションを思いっきり殴りつけました。ぼふっときらきらホコリが舞い上がります。
「あんの! 初恋拗らせメンヘラがっ! 誘い受けか?! 構ってちゃんかあ?!あ゙あん?!」
「……落ち着け。累。あとで必ずぶっ飛ばしてやるから」
恭くんがきれいな3角の形のおかかおにぎりを2つお皿に盛り付け僕の目の前にことりと置いてくれました。
累くんは隣に座る恭くんに宥められると、僕にずいっと詰め寄ります。腰を浮かせてまで。
「翠ちゃんにとって、その……玄くん? っていう人はどういう人なの?」
「う。僕がわがまま言っても……嬉しいって言う凄い優しくてかっこいい人です……」
「……素敵な人なんだね」
「……はい、……でも……とっても恐い、人です」
「……ん?」
累くんは首を傾げ、恭くんは組んだ腕に力を入れます。恭くんの不穏な様子に説明を付け足します。
「怖い……です。心の中にするりと優しさが入ってくるんです。『少しくらい甘えても……わがまま言ってもいいんじゃないか』って、気にさせてきます。喜んでくれたのが嬉しくて欲張りさんになっちゃう。させてくるんです」
僕だけの玄くんになることは決して無いです。だからこの前抱いた過ぎた欲、わがままは伝えてはいけない。
「その玄くんはそのわがままを言っても良いっていうんだよね……。んーと」
「はい。僕のわがままを聞けて幸せだって……。でも僕は……、そんな玄くんを困らせることしかできないのに、欲しくなっちゃうんです。笑顔とかが」
「翠ちゃん。それが好きってことだよ」
考えつかない答えを言われて目をぱちくりさせるしかできません。好きってもっときれいなものなんじゃあ。僕のは。
「あのね。僕は翠ちゃんが抱いたその『特別』な好き、に「恋」ていう名前をあげてほしい。素敵な気持ちがさらにきらきら輝きだして、もっと大切にしたくなるからさ」
「でも……玄くんだけが欲しくて、独り占めしたくなっちゃうんです……。こんなあさましい気持ちを大切にして良いんですか?」
「いいんだよ。誰かだけを欲しく思うことも、独り占めしたくなることも、欲張りな気持ちを含んだ『特別』な好きがあっても、さ」
ちらりと見上げ恭くんを見つめる累くんは照れ臭そうにはにかみました。累くんの肩を抱き出す恭くんです。
「色んな好きが増えるのは素敵なことだよ。いけないことじゃないよ。だって、色んな好きが増えたり、その人のことを考えるだけでも、翠ちゃんは幸せでしょ?」
「幸せ? こんなに苦しいのに……恐いのに……」
ふと伊織くんの悲しそうな先ほどの表情が過ぎります。
「それに……僕なんかが? いいんでしょうか」
「翠ちゃん。『幸せ』になるのは恐くはないよ。それに、卑下するのは絶対にやめて。翠ちゃん自身と、君に幸せになって欲しい僕達《ママとぱぱ》のためにもさ」
語気を強めた累くんと隣にいる恭くんが真っ直ぐ僕を見つめます。本気でそう思ってくれているのが伝わるくらい強い眼差しです。
幸せになってもいいんだ。でも、ぼんやりと思います。幸せって? 累くんはさっき教えてくれました。
色んな好きが増えたり、その人のことを考えるだけでも、幸せ。と
玄くんといると、想うだけでも。とびきりの宝物をもらったように心も体もふかふかして甘い温もりに浸っているようなんです。ああ、これが『幸せ』ってことなんですね。
「……あ、ありがとうございます。僕は玄くんが好き。です」
「ふふ! どーいたしまして!」
そっか。僕は玄くんに『恋』しているんですね。自覚したばかりの気持ちが言葉にすると胸に満ちていきます。甘い喜びや温かい心地よさ。それだけじゃない胸の奥に溜まるどろどろ汚い気持ちはしゅわしゅわ弾けてしまいそうなくらい軽くなっていきます。
「ふふふ。男同士だってことが些細なことに思えるくらい。すーっごく幸せになっちゃったでしょ?」
優しい笑顔でそう断言する累くん。いたずらが成功したように、目を細め楽しそうな恭くん。
「そうだな。男同士だとかくだらねーことで諦められねーよ」
お互いの目を見て微笑み合うお二人です。とても仲良くて本当に幸せそうな二人。全力で恋をして、心からそう思っているってわかる様子です。
恋って本当にするだけで幸せになれるんですね。
初めて好きになった人が男のひとってことが、その恋がもたらす幸せに比べたら、とても些細なことに思えました。
「よし! じゃあ、いおりんとも決着つけよう! 潔く振られてしまえ!」
「手っ取り早くドアを蹴破るか……」
「恭やめてっぇ!令和はコンプラ重視なの! あのね……」
拳をまっすぐ突き上げ立ち上がった累くんと、とんでもなく悪いお顔をした恭くんです。なにやら仲良しのお二人がこそこそ内緒話をしています。なんでしょうか。累くんのきらきら楽しそうなお顔にとっても悪い予感です。
「では、Uberいおりんポチります!」
そう掛け声をすると累くんはスマホをタップします。僕はわけがわからず恭くんお膝の上です。累くんが僕達3人のスリーショットを自撮り。すぐさま累くんがぽちぽちメッセージを打ち始めたんです。
「なんで酒池肉林です? 累くん?」
「むふっ! 翠ちゃんは気にしなくていーよ。はい。あーん」
おかかおにぎりを口元へ持ってきてくれる累くんはとびっきりの笑顔です。無邪気な笑顔ですが、累くんの場合はいたずら好きさんなので注意が必要です。でもお話を聞いてもらってほっとした僕はお腹が空いてきました。目の前のおにぎりを食べようとお口を開けたとき。
玄関からものすごく物騒な音が。どんどんと何かを思いっきり叩く音です。
「Uber配達完了〜」
累くんの心からの愉しげな声が僕の耳に届きました。少し遅れて恭くんの呆れたため息も。
「……伊織くんご飯食べた?」
累くんのお家のソファーに向かい合って座っているのはUberされた伊織くん。なぜか累くんと恭くんは僕と伊織くんを置き去りにして部屋を出ていきました。去り際、累くんが伊織くんに「男みせろよ」と睨みつけ。恭くんは無言です。例の仁王像の視線付きでしたが。
いざ二人きりになるとなにから話せばいいのかわかりません。お部屋に入って来た時から頑なに視線も合いません。目に入ったおかかおにぎりのお皿を見て浮かんだことを話しかけました。
「……うん。翠はまだなら、しっかり食べないとだめだよ。ひとつだけでも」
10秒くらい無言だった伊織くんは、おかかおにぎりを乗せたお皿を僕へ寄せます。いつものように僕を心配してくれる優しい伊織くんにぎゅうと胸が苦しくなります。
「食べるから……お話聞いて欲しい。僕は伊織くんとちゃんと家族になりたい」
顔を上げ、真正面から伊織くんを見つめます。息を呑み、暫く無言で僕を見つめた伊織くんは、ゆっくりと頷きました。息を吸います。
「伊織くんのお母さんと僕のお母さんが事故にあった日、発作が起きたのは嘘だったんだ。ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。お母さんに構って欲しくてウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたい。だから玄くんのことも誤解がないようにしたいんです」
あれだけ何年も言えなかったことがするする溢れて止まりません。自分でも呆れかえるくらいのわがままな言葉の数々です。でも、言い切ります。
「…………違うよ。僕のお母さんが翠の家族を奪ったんだよ。……でしょ?」
伊織くん青色の瞳はの虚ろでガラス玉の様です。
「それも違うよっ!」
僕の想像以上に伊織くんがこの出来事で負った傷は深くて、広くて、今も痛み、苦しんでいたんですね。
僕達は同じ出来事の被害にあったもの同士だけど、お互いの受けた傷を隠し続けてきたから、気づかなかった。玄くんからもらった厳しいけど優しいあの言葉を伊織くんに贈りたい。
「ねぇ伊織くん。どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんです。自分を責め続けたところで反省や償いにもなりません。誰もそんなこと望んでいない……から! 僕は全部お話して伊織くんと仲直りがしたい、また家族にっ」
なりたい、まで言い切れずに喉が締まります。伊織くんの鈍く光る青色の瞳が僕を射貫いたからです。
今まで見たこともないくらい険しい瞳。
「だからっ! ……僕は家族になりたくないんだ。翠が好きだから!」
いつも穏やかな伊織くんからの突然の心ごとぶつけるような告白。まさかの予想外で思考が停止します。好きって家族としてでの意味では説明がつかないくらい伊織くんの瞳には激しい熱が。
「翠だけが好きだから。翠が嫌がる家族って言葉も吐いて心を縛って、手も勝手に繋いだんだ! 誰にも翠を取られないように……。篠崎なんかと手を繋いだ翠を見たくなかった!」
きらきら伊織くんからは考えられないくらい執着めいた真っ黒い独白です。僕のことが嫌いになったわけでもなく、面倒くさくなったわけでもなく。玄くんと手を繋いだことを怒ってた?
言葉も無く呆然と見つめる僕へ伊織くんはふっと柔らかく微笑みます。
「最初はね。僕より可哀想な翠がいてくれれば自分が可哀想な子って思わなくていいから、……ふと襲われる罪悪感や寂しさからの逃避で心が楽だったんだ。そんな優越感まじりの打算から翠の世話を焼いているうちにね。……いつの間にか翠に癒やされる時間が手放せなくなっていた自分に気づいた」
ダメダメな僕に癒やされるなんてあるはずないです。伊織くんにはずっと迷惑ばかりかけていました。
伊織くんはふうっと息を吐きます。そして、僕のお顔を見てあははと楽しそうに笑います。
「全然心当たりないって顔してる。翠が発作で苦しむたびに弱音も吐かないで治療している姿はとってもいじらしくて可愛い。それに、絶対に翠は誰かのせいにもしないし誰のことも悪く言わないからさ。そばにいるだけでささくれ立つ心が安らいだんだ。自分の醜さも忘れてしまって……好きになったんだ」
伊織くんはふわりと優しく笑います。その笑顔が幸せそうで、家族よりももっと強い気持ちを抱いているとやっとわかってしまいました。
本気で僕のことを好きなんですね。理解できた瞬間、遅れて体の奥から熱がこみ上げてきます。熱が全身に広がり、ぽかぽかしてきた頭で、浮かぶのは玄くんのことだけ。僕は玄くんが好きです。伊織くんも好きですが、それはあくまで家族としてなんです。玄くんみたいに誰かにとられたくないとか、独り占めしたくないなんて全く思いません。
俯いて考えていた僕へ伊織くんがそっと呼びます。
「気持ち悪かった? 従兄だし、男からは……」
「そんなこと絶対思いません! こんなに真剣に伝えられた気持ちに!」
ぶんぶん首を振って否定します。
「そうだね。……翠はそういう子だから……」
ほっとした様子でしみじみと呟き、伊織くんは僕を真っ直ぐ見つめます。
「篠崎がね、翠は意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも持ってるかっこいい子って言うんだ。僕たちが心配しすぎて安心する為に翠を過保護に囲ってるとも。優しすぎる翠が、臆病な僕達がより安心できるように、やりたいことや本音を無意識に押し殺すようになってたとも」
こうも言っていたな、と伊織くんは笑います。
「翠はお前らの大事なお人形さんやお姫様じゃねー」
伊織くんでは絶対言わない乱暴な言葉遣い。そのギャップが玄くんが伊織くんへ本当にそう言ってくれたのだと証明する。嬉しい。玄くんが好きです。せり上がる気持ちが上手くコントロールできなくて、じわり、と視界を滲ませます。
「ねえ、翠。……翠は篠崎のこと」
柔らかな声音に、これから伊織くんが言おうとしていることがわかりました。でも、それは僕の口から言わなければならないこと。伊織くんの真剣な想いに真摯に向き合うために勇気を出すべきです。ぐっと唇に力を入れます。
「僕は玄くんが好きです」
自分で言った声なのにどこか淡々とした響きに、おかしくなります。自分の本当の気持ちを声に出すことがこんなに呆気なく簡単なことだったんですね。本音を話すことに過剰に臆病になっていた自分が恥ずかしいです。僕に勇気をくれるのはいつも玄くんです。
「あのね、知っていました。僕を憐れみ、庇護しようとしていたのを。みんなが、僕の病気を心配してくれていたのも同じくらい知っています。でも、そんな思いを抱かせてしまう、情けない自分が悪いと思っていたんです。伊織くんたちが僕を心配し、困らないように先回りしてくれていたのもありがたかったんです。でも僕は、たとえ上手く出来なくても、体の負担になるかもしれなくても、自分でやってみたかったんですよ」
「……知らなかったな」
「……はい。僕がお母さんの事故のことで『わがまま』を言ってはいけないって勝手に罪悪感に苛まれて。……今まで言い出せなかったんです」
「え? なんで? 翠はなにも悪くないじゃないか……」
「……ありがとう。伊織くんならそう言ってくれるますよね。今ならわかるんです。でも、僕のわがままで伊織くんのお母さんを奪ったとずっと思い込んでいたんです。家族って言われるのがちょっと苦しかったのは、僕が嘘ついたことを伊織くんに話せていなかったから。本当は大事な家族だと思っていたけど、後ろめたさでそんな態度を取ってしまいました。ごめんなさい」
「そんな……こと思ってたの?! 僕こそ翠の家族を奪ったと思っていたよ……」
伊織くんが悲痛そうに顔を歪め、視線をずらします。でもね、伊織くん。聞いてと呼びかけると顔を上げる伊織くん。
「『世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。
でも、翠なら出来る』って玄くんが言ってくれたんです。わがままな僕は伊織くんと一緒にこのままならないことを受け入れたいです。僕と伊織くんならできるはずです」
「…………」
玄くんからの言葉を応用しました。伊織くんは顔をしかめます。でもそれも一瞬のことで固い表情でぽつりと尋ねます。
「それ……がやっと言えた翠のわがままなの?」
「はい」
言葉を詰まらせる伊織くん。真正面からじっと見つめます。伊織くんの顔つきがあまりに真剣なので、驚き、怒り、悲しみなのか、わかりません。端正な美貌は仮面じみて見えます。伊織くんは歯を食いしばって、顔を伏せます。その瞬間、どこか昏い伊織くんの瞳に温もりが灯ったように見えました。ぎゅっと手を握り締めます。もう今しか無い。僕達が家族へ戻るための機会は。
「少しだけこのわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげです。
わがままな僕でも良い。翠が生きる為に、わがままになっても良いと、心の声を大切にしてほしいと言ってくれたから、今こうして本心を言えるようになったんです」
静かに俯いたまま聞いていた伊織くんがふと目元を手で覆います。
「……うん。翠の本当の気持ちを聞けて嬉しいよ……」
その声は僅かに震えています。ゆっくり深呼吸をした伊織くんは顔を上げます。揺れる青色の瞳を逸らさず見つめ僕は口を開きます。
「伊織くんずっと今までありがとうございます。伊織くんみたいなかっこよくて、なんでもできる素敵な人に『好き』になってもらえるなんて、……ひ弱で悲しませることしかできないって思っていた自分自身をもっと好きになれました。ごめんなさい。僕、とっても好きな人がいるんです。
だから、伊織くんのその気持ちは受け取れません」
丁寧に頭を下げます。今までのありがとうの気持ちを込めて。それと、わがままだけど家族へ戻りたいと。
「……僕こそありがとう。謝らなくてもいいよ……頭上げて」
優しく受け止めるような声に、喉がヒクッと震えます。
「で……も……」
「家族でしょ?」
当たり前に言われた言葉には、伊織くんの優しさや10年間ともに大切に積み重ねた日々の重みが込められていました。ぼろぼろ膝に落ちていく雫が止まりません。泣いた姿を見せるなんて告白してくれた伊織くんに、失礼だから。ゴシゴシ袖で拭い、顔を上げます。
「はい! 家族です!」
「じゃあ。仲直りのハグしよう」
最後に、と小さく付け足された、その言葉の残酷さに申し訳なさで心臓がぎゅっと掴まれたよう。でも僕は目を背けられたい心の痛みも拾い上げ、真正面から受け止めたいです。両手を広げてコクコクと何回も頷きます。
「ありがとう。翠」
伊織くんはテーブルを周り込み、僕の座る二人がけのソファーへ腰掛けます。いつも肩がくっつく程近くに座るのに少し距離を開けて。その距離につい唇を噛んだ僕へ伊織くんは微笑みかけます。
「翠って実は意地っ張りで強情だよね……」
「へぇあ?」
突然笑顔で罵倒された僕はわけがわからず、気の抜けた声が漏れそのままの体勢で固まります。
あはは、とからりと笑う伊織くんは軽く両手を広げ、僕の背中へ手を回します。そのまま伊織くんにゆっくりと抱きしめられます。あくまでも抜け出せるくらいの力加減。腕の中へ閉じ込めるような以前の力加減ではありません。些細な違いに胸が締め付けられます。今までの僕たちでしたら僕も背中に手を回しますが、それはもうできないです。広げた手をぎゅっと握り、ゆっくり下ろしました。
「だからさ、無気力アメーバの篠崎とお似合いだよ」
「……っ」
「……自信持って頑張れ」
玄くんとのことを励まされてしまい、恥ずかしさと申し訳無さが交じります。なんと返してよいかわからずあわあわ顔が熱くなります。
「ねぇ。翠、ありがとう」
「伊織くんもっ、ありがとうっ」
ふふっと笑う伊織くんは僕の背中をぽんっと押してくれます。不意に懐かしさがこみ上げます。うんと小さな頃はこうやって伊織くんに励まされていました。病院に行きたくないとぐずったときも、いたずらがバレてお母さんに怒られて拗ねていたときも、ずっと。優しくお話を聞いてくれて励ましてくれました。
うんと小さい頃は同じ、家族の好きが重なり合っていたはず。いつもまにか『好き』の意味がずれてしまった僕達ですが、いつかまた、同じ『好き』になれたらいいな。とわがままにも思ってしまいます。
これからは家族として伊織くんとの関係をやり直していきます。
「……ねえ? 翠……体熱くない?」
体を離した伊織くんがなにやら怪訝なお顔をします。 そして、顔を近づけようと動かした寸絶でピタッと止まり、手の平をおでこにそっと当てます。手の平の冷たさに自然と目を瞑ります。冷たさが気持ち良いです。
「っ凄い熱あるじゃないかっ?!」
「えええ?」
「最悪だ。僕のことでストレスが?! 翠が高熱を出してしまったぁー!!」
伊織くんの苦悩な叫びを聞き流しながら、熱があると意識した途端に寒気が襲ってきます。
ぼんやりしていた頭で、そうかさっきからなんとなく気分が高揚していたのは熱のせいだったんですねと妙に納得し、僕はソファーにこてんと横になります。
次第に遠ざかる意識の中、累くんと恭くん、伊織くんが言い争う声を聞きます。
最後に皆仲直りできて良かったですと思いました。
累くんのお部屋で高熱を出してしまった僕は、恭くんに自室のベッドへ運ばれ伊織くんが呼びに行った白井先生に診てもらうことに。
寝不足とストレスでの熱。風邪の症状も無く、胸の音も、呼吸状態も正常だから、と白井先生の診断です。解熱するまで休むよう指示された僕はゴロンとベッドへ横になっています。点滴も無いですが、38.7℃もあったので念の為解熱剤を処方され、ゆっくりと休みなさいとのことです。
それが昨晩のこと。今は、1日寝たことと解熱剤を服用したので微熱くらいには解熱しました。
相変わらずの脆く弱っちい僕の体です。でも、初めて本心を口に出せて、伊織くんと仲直りできた僕はちょっとは強くなれたのではないでしょうか。
意地っ張りで強情だと呆れながら伊織くんに言われてしまいましたが。そう言う伊織くんも同じ性格をしていると思います。僕達2人は従兄弟同士似たような性格ってことなんでしょう。だからこそ、こんなに長い時間を経ってからでしかお互いの本心を言えなかったと。拗らせていたとも言えますが。もつれた僕達の関係を玄くんがいとも簡単にするする解いてくれました。
あの日偶然玄くんに出会ったことで僕はいろんなことに気づくことができました。感謝してもしきれないくらいです。ノラさんと玄くんと一緒に過ごすお昼休憩は、陽だまりの温もりが染み込むような体も心も包み込む優しい時間だったはずなのに。
玄くんのことを考えると胸が苦しくなります。発作のときも胸が苦しくなるけど、全然違う。発作の時は、冷たくてただひたすら苦しいだけなのに。奥底に熱を秘めながら、とっても甘いんです。
頭の中はその温もりを感じる甘さに絡めとられたみたいに玄くんでいっぱいで。いきなり僕の中で玄くんの存在が大きくなってしまったんです。
しかし、もう一人の自分が囁きます。怖い。おぼろげな恐怖。一緒に過ごす時間は楽しくて、時間を忘れてしまうくらい。名前を呼ばれただけや手作りクッキーを褒められて泣きそうになる自分、優しい指先に触れられたいと浅ましく欲する自分。大切なお友達と思っていたノラさん、大切な家族である伊織くんにヤキモチを焼く自分。それに、こんなに僕を乱すお兄さんが。もう絶対に持たないと決めているものにまで、手を伸ばそうとしてしまいそうで。今までの自分にはない、まとまりのない感情が手に余っていたんです。
お母さんの事故から『わがまま』を言ってはいけないと決め付け、心の声を押し潰し逃げるしかできない、身動きを拒むように過去の記憶の中に閉じこもった僕の思い込み。呪いのように独りよがりで卑屈なその思い込みが、玄くんへの気持ちを心の奥に潜む暗闇に引きずり込みそうだったんです。
でも、玄くんは僕へとんでもない優しく眩しいくらいの言葉を力強く手渡してくれました。その言葉は僕の心に降り積もり、温かくて眩しい光を放ち、深く沈みながらも輝き続けます。だから今、こうして本心を言えるようになったんです。
もらった言葉のもつ光と玄くんのことを考えるだけで惑わせるような甘さがふわりと溶けるよう胸に広がります。背徳感さえ感じてしまうくらい自分の中をかき乱す熱の滲む甘さを大切にしたい、手放したくない、育っていったらどうなるのか見てみたい思ってしまいました。
僕が知らないだけで、怖くて目を向けていなかった気持ちを大切にしたい。温もりを伴う心地よさや優しく眩しい気持ちだけじゃなく、どろどろした心にいくつもの波紋を立て自分ごと壊れてしまいそうな激しい気持ちも。これまで押さえ込んだ気持ちを拾い上げて、真正面から向き合う。欲を持つことが生きるという玄くんを幸せにしたいんです。
この少しだけわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげですね。
頑張って。すいなら出来る。当然のようにそう言ってくれる玄くん。皆が心配し熱心にお世話を焼いてくれるから、自分の行動に自信が持てなかった僕です。僕でさえ信じられない僕を信じ、背中を押して応援してくれるんです。ついネガティブ思考にとらわれやすい僕に、いつも冷静に物事の見方や受け取り方を正すように軌道修正してくれます。
いつも玄くんの迷いの無い口調に、勇気づけられた気がしました。何気なく放つ揺るぎない言葉が、嬉しかったです。頼もしかったんです。玄くんは手助けは手を引くだけ。僕自身が立ち上がって歩けるように隣で教え、見守ってくれる。そんな厳しい優しさがあります。いつも僕を信じて、やってみろって玄くんは言ってくれて、良くできたら頭を撫でて褒めてもくれました。…………どうしようもなく嬉しかったんです。
だから、まずは一回だけ。勇気をかき集めて、一歩踏み出したいです。今まで玄くんが沢山くれたものを糧にして僕なりに伝えたいです。
⸺『好きです』
僕が差し出せるものはこれだけ。でも自分の弱さも醜さも、前向きに変わりたいと願うきらめきも、すべてをこの1言にぎゅうとまるごと僕を詰め込んだ特別な言葉。
正直、まるごと心を預けてしまうのは怖いです。同性からの好意に嫌悪感を抱かれるたり、拒まれたりするかも、しれません。ですが、玄くんは僕の心の声を大切にしたいとまで言ってくれる優しい人です。それに僕でさえ気づかなかった心の傷をすくい上げ労ってくれた玄くんが真剣に向けられた想いを軽んじたりするわけありません。彼の人となりに惚れこんでいる僕はそう確信できます。玄くんだからこそ僕は好きになりましたし、告白する勇気が持てます。
温かくて大きくて強い玄くん。いっぱいいっぱい持っているひとなんです。弱くてちっこくて、脆い自分。僕なんかじゃ釣り合いません。隣にいたい。ただそれだけを望むことすらおこがましい。だけど、僕を前向きでかっこいいと言ってくれた玄くんに少しでも釣り合うようになりたいんです。この重くて切なくなるほど愛しい想いを伝えきれるかわかりませんが。
ベッドの上で横になりつつ悶々と長考していましたが、頭がズーンと重くなって来てしまいました。またお熱出そうですかね。お熱が治らないことには告白もできませんし、ましてやそれ以前の問題で、玄くんに会うことすらできませんからね。
それにこれでは白井先生とのお約束を守れません。「今日はなんにも考えず、ぼんやり天井の模様でも見て寝なさい」白井先生曰く、早く治すためのかなり独特かつ具体的なアドバイスですよ。
ころりと仰向けに向きを変えて、天井の模様を見てみます。真っ白の壁紙かと思いましたが、淡いクリーム色で、ハケで刷いたような掠れた凹凸感が……。鎮痛剤が効いてきたのか、白井先生のアドバイスの効果なのか意識がぼんやりしてきます。目蓋がとろりと重くなっていくままにいつ眠りに落ちたのかわかりませんでした。
「……ん」
カサ、カサと紙を静かに捲る音に緩やかに意識が上昇します。そっと目蓋を開くと、手元に持つ紙束から顔を上げた玄くんの優しいお顔です。
「翠? 起きたか?」
「……げ、んくん?」
寝起きで声がしゃがれます。ひゅっと喉が乾いていて音が鳴ると、心配そうに眉を下げる玄くん。
これは夢ですかね。そうですね。僕のお部屋に玄くんがいるなんてありえません。寝る前に玄くんのことを考えていたので夢にまで召喚してしまいました。ぐっじょぶ自分です。
もう少し寝てるか? と聞かれますが、首を横に振ります。喉が乾いていたので、お水飲みますと答えると、玄くんはチラっと手元の紙束へ視線を落とします。扉からいそいそと出ていった玄くんの背中を起き上がりながらぼんやり見送ります。うう。心配そうにしてくれるお顔でさえかっこいいです。憂いを帯びながら低く潜められた声はなんだかえっちな気がして、ドキッとしてしまいます。すぐに玄くんはミネラルウォーター片手に戻って来てくれました。
「……ん。これでいいか?」
「ありがとう……ございます」
ペットボトルの蓋を外し、渡してくれた玄くんは、ベット脇の床へあぐらをかいて座ります。
触れたペットボトルは冷たく、自分の夢の解像度に驚きます。一口、こくりと飲めば、喉へするする染み込んでいく水。ほうっと息をつくと、改めて玄くんを見やります。いつもは高い位置にあるお顔が真正面の同じ位置。控えめに言って最高です。
「翠?」
じっと僕が見つめているからか、頬を淡く染めながらこてりと首を傾げる玄くん。その動きに合わせゆらゆらするピアスです。へにゃんと頬をだらしなく緩めながら手を伸ばそうとした途端、ぐいっと顔ごと体を近づける玄くん。いきなりの至近距離に近づくお顔です。びっくりして動きを止めた僕を抱きしめるような格好の玄くんです。
「みず……溢すぞ」
安堵の吐息が耳にかかり、頬が擦れ合い甘い香りの体温を直に感じます。ん? 温かいですね。……もしや夢では無いです? ぎくしゃくとした動きで視界にあるもの全てを検分します。ペットボトルを持つ僕の手を覆う玄くんの手。顔を動かしたためにさらに頬へ触れることになった滑らかな玄くんの頬。近すぎてピントが合わないピアス。
「夢では……ない? え? え?」
わたわたと独り言を呟いていたら、玄くんが僕の首元へ顔を埋め、震えています。
「うん。夢じゃねーよ……ぶふっ」
首筋に当たる吐息が熱を伴いながら肌をくすぐります。お顔がかっと熱くなります
「あの、その僕……えっと……臭くないですか?!」
昨日あれからすぐに大騒ぎでベットへ強制連行されたのでお風呂を入っていないことを思い出しました。
「……濃い翠の匂いがするからすっげぇ旨そう」
余計にすんすん匂いを嗅ぐように首元へお鼻を寄せられてしまいました。濃い僕の匂いとは? それダメじゃないですか?! 旨そうとか食べられます?!
「後生ですっ! 距離を! 距離をとってくださいっ!」もう羞恥心でパニックになった僕は子供のように頼み込みます。玄くんは渋々といった様子で、ベッド下部僕の足元へ腰掛けます。
「あ、の玄くんはなんでいるんですか?」
「……佐倉に翠が熱で寝込んだって聞いて」
「あ、伊織くんからですか……その昨日連絡できなくてすみません」
昨晩は熱を出してしまい、玄くんに連絡できなかったんです。ん? でもなんでお家に入れたんですか?
「気にすんな。昨日は大変だったんだろ? 佐倉から聞いた……」
なぜか伊織くんの話題になったときから玄くんの表情が曇りだしたような。
「あの……」
「あ! 佐倉から『翠の看病のしおり』と合鍵渡されてんだよ。で? 次は何して欲しい?」
床へ置きっぱなしになっていた紙束を拾った玄くんはパラパラ捲りながらやる気いっぱいに僕へ聞きます。聞かれた僕は、しおりという単語と玄くんが持つ紙束を見て伊織くんに謎の憤りを感じました。
手に持っているしおりを今から破り捨ててくださいという言葉を飲み込み、代わりに答えます。
「玄くんと……お話したいです」
「ん。わかった。しんどくなったら遠慮なくいえよ」
玄くんは表情を綻ばせ、しおりをそっと置きました。
「えっと。昨日伊織くんと無事に仲直りできました。ありがとうございます。あのそれで……」
いざ玄くんに出会えてしまったら、告白しようとした気持ちが揺れてしまいました。とりあえず協力してくれた伊織くんとのお話をしようとしましたが。
玄くんと視線が合いません。いつだって僕のたどたどしいお話を目をまっすぐ見つめる漆黒の瞳が伏せっています。見つめる先は硬く組まれた指先です。
心臓がひやりと痛み出します。
「……つまらないお話でし……たね」
「は? あ? ちげ……」
顔を上げた玄くんのお顔が見れません。わざわざお見舞いに来てくれた玄くんに話す内容では無かったかもしれません。それともお見舞い自体が伊織くんに頼まれたからいやいや来てくれていたのでしょうか。どうしましょう。怖いです。さっきまで告白するとか意気込んでいた気持ちが一気に萎んでいきます。
「あー! もー!! くそっ!」いきなり叫びだした玄くんが頭をグシャグシャにかき回します。
大声に驚いた僕は顔を上げ、いつのまにか滲み瞳へなんとか留めておいた雫が頬へ滑り落ちます。
玄くんが苦しげに顔を歪めます。
「嫉妬したんだよっ! 佐倉が翠の部屋の合鍵持ってんのを!」
嫉妬? 合鍵を持っていて? もしや玄くんは鍵マニア?
「余裕なくてごめん。我慢できなかった。俺だけが翠の世話を……優しくしてやりたい。俺だけが翠が苦しんでいるときに駆けつけたい。家族の佐倉より先に……。合鍵も欲しい」
「な、あ、なんでですか?」
玄くんの言葉を反芻します。胸に芽吹くかすかな期待を抑えこんで聞きます。鍵マニアではないのなら、そんなことがあるんでしょうか。
「翠が好きだ」
差し出された揺るぎない言葉に、僕は一瞬言葉を失ってしまいます。
「真っ直ぐ素直なところが可愛くて俺には眩しいくらい羨ましい。それにな、世界救えるくらいちっちゃく可愛いいくせに意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも俺は憧れる。あとは……上手く言えねえけど一緒にいるとなんかこうふわふわもふもふしてほっとする」
甘く蕩けるように笑う玄くん。包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔はあのときと同じです。で、でも見たことのないくらい昏く絡めとるような熱を潜ませた瞳です。
本当に玄くんが僕のことを好き、という実感が湧いて来ます。そして、胸と息が苦しくなります。
嬉しいばかりではなく、なぜだか胸が痛いです。悲しいわけではないんです。感情が追いつかず、ひたすら驚いたせいで体も心もパニック状態。何かを言いたいのに、何も浮かばないからもどかしい。それなのに甘い感情がとぷんと溢れていきます。この気持ちは言葉だけじゃ足りない。
「あの! 待っててくだちゃい!!」
ベッドから飛び降り、目当てのものをめがけて一目散に走ります。リビングのテーブルの上にあるそれを掴むとすぐに踵を返そうとすると、ばふんと顔と体全体が衝撃に襲われます。
甘い香りに優しく包まれた僕を玄くんが見つめます。そのお顔は眉が下がった不安なお顔。
「……嫌だったなら」
優しいのに諦めや切なさを無理やり閉じ込めた声の響き。衝動的にどんと手の中のものを玄くんの胸に押し付けます。
「これれすっ!」
思いの外僕の力が強かったのか玄くんはふらりと後退ります。噛んだのは無視です!
「僕も玄くんが好きです。玄くんがいたから僕はやりたいこと、なりたい自分を見つけることができました。僕の微かな心の声を拾い上げて大切にしてくれる、厳しくも優しいあなたとずっと一緒にいたいです!」
噛まずに言えた安堵の息をつきます。目を大きく見張ったまま動かない玄くんの手を掬います。力が抜けきった大きな手の平の上へ、取りにいったシルヴァニアさん付きマスターキーをそっと載せます。
「わがままを一つ言います。1番早くこの鍵で玄くんに僕は駆けつけてもらいたいです。家族より……先に。玄くんに看病してもらいたいです」
とろりと溶け出してしまいそうなくらい玄くんは破顔します。無邪気なのに甘さが加わった笑みに見とれた僕に玄くんは腕を伸ばします。優しいのに、性急に閉じ込めるように腕に力が入ります。
「すいが困った時は絶対に駆けつけてやる。好きだ。愛してる」
嬉しそうな玄くんの声に、しがみつくように腕を背中に回します。息もできないくらい堪らなく幸せで。
ただ頷くことしかできない僕の髪へキスを落とす玄くん。おずおずと顔を上げると、玄くんと視線が絡んで口元に浮かぶ笑みが艶っぽく変わります。ふと空気が濃いというのか甘ったるくなりました。
「……キスしていい?」
どっぷり甘い声で囁く玄くん。嫌では無いですが。まだ熱が風邪では無いと確定もしていません。玄くんに移してはいけませんよね。
「お口は……熱があるので……」
ふっと目を細めた瞳が甘さを孕んだ熱をぐっと深めました。脳を揺さぶられたような衝撃で僕は熱がぐわとあがります。玄くんは身を屈め頬へ唇を押し当てます。ふんわりと柔らかな唇の感触の気持ちよさに、くたりと体の力が抜けてしまいます。僕を抱き留めた玄くんは、そのまま抱き上げベッドへ運びます。
「す、すみません。……」
「いいよ。これ以上続きすんの危ねーからな。俺が」
「え?」
言われた意味がわかりません。僕に頬ずりしながらにっこり笑う玄くんです。
そのままベッドへ寝かされ、首元までお布団をかけられます。
「もう寝ような」
「…………」
このまま寝てしまったら、この嬉しい出来事が泡沫のように消えてしまいそうです。無意識に玄くんのシャツを握ります。
「……どこか行っちゃ嫌です」
初めて自分からわがまま言いました。
「いるから………」
シャツを握りしめる手を包み込む大きな手。温かいです。マットレスがギシ、と沈み込み、玄くんが端へ腰掛けます。握った手はそのままに、寝かしつけるように髪をさらさらと撫でてくれます。気持ちよくて、ついうっとりと目蓋を閉じました。急激な眠気に襲われます。とろんと重い意識の中、最後になんとか唇を動かします。
「……玄くん……大好きです」
「俺も翠が好き」
眠りに落ちる瞬間、小さく優しく笑う声と玄くんの手の平の温もりを確かに感じました。
1日寝たら復活です。白井先生のアドバイスは凄いですね。
しかも、僕がすうすう寝ていた間に伊織くんと玄くんが仲良くなっていました。
2人で話し合いをしたらしく、伊織くんの持っていた合鍵を玄くんが持つことになったんですよ。僕としてはシルヴァニアさん付きの鍵を渡したかったんですが、伊織くんと玄くん二人がかりでむやみに他人に鍵をしかもマスターキーを預けてはダメと、説得されてしまいました。
玄くんなら悪用するはずありませんし、帰る時と朝登校する時に玄くんに寮のお部屋に寄って鍵をかけてもらえたら、少しでも長く一緒にいられるかもしれないと悪だくみしてたんですが。そんな僕の浅い考えはあっさりと打ち砕かれました。
朝、寝室クローゼットの鏡前で、もそもそネクタイを縛っていると、インターホンが鳴ります。モニターにはカバンが肩からずり落ち少しだけ眠そうな玄くんです。モニター越しでもその気怠げな雰囲気がかっこいいです。こんなかっこいい人が僕のことを好きになってくれたなんて奇跡ですよね。なんだか胸がそわそわうずうず落ち着かなくなってきました。でも、モニターに映る大好きな人の無防備な姿に目が離せません。
モニター越しの玄くんに見惚れ、ぽやんとしていると玄関から小さな電子音が。次いで玄関扉が開く音と玄くんの声です。迎えに来た玄くんと支度をし、2人一緒に玄関から出ます。
俺が鍵かけていい?と昨日僕があげた合鍵を顔の前で揺らし、玄くんが聞きます。頷く僕へはにかんだ玄くんに胸がぎゅっと絞られます。
「いくか」そう言うと同時に当たり前のように差し出される大きな手。恋人同士なら手を繋いで登校するのは当たり前ですもんね。恋人同士という言葉に、顔が熱くなります。僕も玄くんが好きで、玄くんも僕が好き。今さらながらに実感が湧き、じわりと胸の奥が熱くなります。おずおずと手を出すと、玄くんは澄ましたお顔で平然と指を絡めてきます。その瞬間、甘い痺れが繋いだ指先からびりびりと身体中を這い巡り腰が砕けました。
「ぎゃん?!」
へなへなと床に成すすべ無くへたり込む僕です。玄くんは驚いたようで目を丸くし、固まっています。
「す、すい?! 嫌だったか?」
ぱっと手を離すと床に膝をつき、顔を傾げ覗き込む玄くん。
「いえっ! あの、玄くんのこと好きだなあと思って、手を繋いだら幸せ過ぎてびりびりと痺れて……大好きな人と恋人になるってすごいです……」
「ぐふぅ! 俺も今、びりびり来た」
玄くんも胸を押さえて苦しそうです。崩れるように玄くんも、床にへたり込んでしまいました。何故か玄くんが僕を物言いたげにじっとみつめてきます。
「なぁ。恋人になった俺と翠がキスしたらどうなっちゃうんだろうな」
確かに。手を繋ぐだけで痺れて動けなくなったくらいです。昨日の頬へのキスが鮮明に蘇ります。柔らかな感触すらはっきりと思い出してしまいます。
「幸せすぎて……溶けちゃいますよぉ」
思い出した幸せの記憶に浸ったままそう漏らせば、昨日と同じ柔らかくて気持ちいい感触が頬へ。
「ひゃあ!!」
遅れて、玄くんが頬へちゅっと軽くキスを落としたと気づきます。片頬を押さえ、パクパクと口を空いたり閉じたりしかできない僕です。
玄くんは顔を寄せたまま、とん、と指先で唇へ触れます。
「……我慢、できねーんだけど。いい?」
端正な眉を下げ、縋るように掠れた囁き声で尋ねられます。何を、とは聞かなくても唇に残る熱がわからせます。触れた指先はカサついて、微かに震えていました。
⸺可愛い
胸を満たす愛おしさに思わず鼻へ唇を寄せます。
「……鍵使いましょう?」
期待に息を震わせながら言います。息を呑んだ玄くんは漆黒の瞳で静かに僕を見つめます。瞳の奥の甘さを孕んだ熱をぐっと深めると、ゆっくり頷きます。甘い熱に捕らえられてしまった僕は玄くんの首へしがみつき視線で部屋を示します。
抱き上げられて部屋へ入るとすぐに気だるげな美貌がゆっくりと近づいてきます。ゆらんと揺れるピアスやお揃いの目元のほくろが焦点も合わずボヤけるほど。もう心臓が破裂寸前くらい痛くて、ぎゅっと目を瞑ります。玄くんが小さく笑い唇を吐息が撫でます。またまたその熱や感触に心臓が悲鳴を上げ跳ね上がります。唇へふわりと柔らかなものが重なります。そうっと、とても軽く重なっただけ。でも甘い熱に心まで一緒に溶け合ったような気持ちよさでした。
「……好きだ。翠がいないと生きていけないくらい」
ほんのり赤く色づく目元を蕩けたようにふわりとたわませる玄くん。
大好きな優しい笑顔に好きがとぷんとぷん溢れ出てきます。とめどなく押し寄せる愛しさに溺れそうです。
「僕も玄くんとずっと一緒にいたいです」
ぐっと首を伸ばし、僕から唇をそっと重ねます。一瞬だけですが。
呆然と僕を見つめる漆黒の瞳は、だんだんと目尻を下げふんわり包み込むように優しく笑います。目が眩みそうなほど屈託のない笑顔です。
可愛い。ぽんっと心の中に新たな甘酸っぱい気持ちが生まれます。このわがままな気持ちも目の前で笑う厳しくも優しいあなたなら、きっと大切にしてくれる。そう信じられます。
脆く弱っちい僕をまるごと、取り返しがつかないくらいからっぽになるまで差し出せるくらい、好きだから。
実は誰よりも可愛い玄くんを可愛がりたいです。ずっと。