お昼休み。僕は普通科校舎との間の渡り廊下で事実の暴力により瀕死の重症です。
「っく。僕の指先頑張ってくださいっ」
 ジュースの自動販売機の最上段真ん中「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」のボタンが、遠いです。自動販売機の側面に掴まりつま先立ちで手を伸ばしますが、あと数センチ。なぜ僕がこんな自動販売機相手に奮闘しているのか。お兄さんがお弁当作ってくださるお礼に、いつも飲んでいるジュースを差し入れたかったんです。ちゃりん、と虚しくお釣りの小銭が返されてしまいました。再チャレンジしましょう。僕の指先の伸びしろこれくらいじゃないはず……です。お釣りをとろうと、自動販売機に再び近づいたまさにそのとき。
「ふぇ?」
 背後からやたら長い手が伸びてきました。すっとその指先は先程僕が必死に手を伸ばしたボタン「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」を軽々押します。ポケットから出したスマホを投入口にかざし、「ペインペイッ」とやたら軽快な声をさせました。
 ガッコンと音を立て落ちるジュースを取り出すその人。なんとなくかなり背が大きい方の気配です。
 自動販売機の前にずっと僕がいたら、皆さんジュース買えないです。ジュースを買うことしか頭になくて、ご迷惑をかけとっても申し訳ないです。申し訳ない気持ちと羨ましさで、ちょっとどんな方なのか気になります。そろそろと視線で辿ると、なぜか「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」の紙パックジュースが僕に向かって差し出されています。
「え?」
 なぜ僕へ差し出されるのかわかりません。ジュースからその持ち主へ視線を転じます。
「た、高森くん?!」
「う、うん。綾瀬くんこれ欲しがってたよね?」
「…………」
 ということは、僕の背伸び見られていたってことですか。大変ありがたいです。けれど羞恥が感謝の気持ちをぶっち切りで追い越していきます。遅れて追いつくのは感謝よりも先に申し訳なさです。
「そ、その」
「あ、朝クッキー気づいたんだっ! 本当にありがとう。そのお礼だと思ってくれれば……」
 ずいっとさらに差し出されるジュース。高森くんは首の後ろに手をやり、なにやら頬を真っ赤に染めています。背の高いひとって首がよく凝るんでしょうか。
「も、もしかして前、避けたことまだ怒ってるかな? ごめんね……その、あのときいた方々が綾瀬くん含めて学校の凄い人たちばかりだったから、周りの視線が怖くてびびって……」
 ごめんなさいっ! と腰を折る高森くんです。
 僕がぽやんと背の高い人の持病を気にしていたばっかりに高森くんに謝らせて大変申し訳無いです。高森くんに避けられていなかったことがわかり、ホッとしました。ですが、視線が怖かったとは?あ、あの時の恭くんの視線は怖かったですね。塁くんが高森くんをかっこいいと褒めてしまったので、ヤキモチで今にも噛みつきそうなくらいの鋭い視線でした。おっかないですが、恭くんは塁くんが誰にも取られたくないくらい大好きですからね。
 ん? なにかが引っかかります。ほんの微かなひとひらの疑問が僕の心へ降り落ちます。
「本当にすみません!」
 すると、高森くんがさらに今にも泣き出しそうなお声を出します。よくわからないことに気を取られている場合ではありませんね。高森くんの誤解をとかなければ!
「あの。僕こそご迷惑かけましたし、全く気にしていませんから、頭上げてください。そのジュースいただいてもいいですか?」
「ありがとうっ!」
「こちらこそありがとうございます。大変助かります」
 顔を上げた高森くんからジュースを受け取ろうと手を伸ばします。とっても嬉しそうな高森くんのお顔に僕も自然と笑みがこぼれます。
「その、あの、綾瀬くんにお願いが……。全然断ってもらって結構なんですけど……」
「はい……」
「お、お友達。まずはお友達になってください!」
 また勢い良く頭を下げられます。頭を下げただけなのに、風が巻き起こり風圧がすごかったです。よくわかりませんが、高森くんは腰の低い方だったんですね。まさかまさかの嬉しいお願いです。
「よ、よろしくおねがいします!」
 にっこり笑顔でお返事しました。高森くんはくずおれ、なにやら叫びながら膝立ちでガッツポーズをします。なにやら大げさに感激されました。

 鼻歌まじりに中庭を歩きます。たった1週間だけおやすみしただけですが、いつの間にか季節は進んでいます。中庭のあじさいが緑色のとてもとても小さな蕾をつけています。白色に青みがかった紫色とどんな色のお花が咲くんでしょうか。とても楽しみです。
 足が勝手に校舎裏へと向かいます。今日はノラさんのお迎えはありませんが、今朝のお電話でお兄さんからもらった『いってらっしゃい』が僕の足を動かします。今日、ひさしぶりの登校だからと、励ますように言おうとお兄さんが考えてくれた。その心の動きが嬉しいんです。
 いつの間にか早足になっていました。見えてきたコの字型のあの角を曲がればいつものベンチです。
 早く、といつもよりも大きく1歩を踏み出しました。タイミングよく角から出てきた人が。驚きで足が止まります。
「あれ? え? お、お兄さん?」
「ん。迎えに来た」
「にゃ」
 お兄さんの胸元にはノラさんが抱えられています。ノラさんはお兄さんの腕からするっと降り、音もなく地面に足をつく。くるっと背中を向けて、校舎裏へ前足を出します。
「おいで、翠。女王さまに置いていかれんぞ」
 くっと喉で笑ったお兄さんがこちらに手を差し伸べます。差し伸べられた長い指の手。その大きな手をみつめ、少しためらいます。何を求められているのかわからないからでもなく、触れたいと思っていた手がなんの前触れもなくすんなり差し出されたから。
「……はい」
 差し出された手に自分の手を乗せます。初めて触れた手のひらなのに、何年も何年も待ち焦がれていたような気がします。神経がすべて手のひらに移動したように、触れる体温、さらりと冷たい肌。そして、僕の小さな手をいとも容易く包み込んでくれる大きさに、心臓が乱れ切ります。
 久しぶりに会えたお兄さんに、さっきあった嬉しい出来事を数瞬前には早く話したいと思っていたのに。「あの」と言ったきり言葉が続きません。
「久しぶり。やっと翠の顔が見れたな……」
「ご、ご心配をおかけしました」
「んー。心配もしてんだけど……会いたかったんだよな。俺が」
「え?」
 少し前を歩く背中は堂々としているのに、最後はぽつりと呟くお兄さん。そのお耳は真っ赤で、真下でゆらんゆらんするピアスよりも鮮やかで、なぜか目が離せません。
「……僕も。お兄さんに……ノラさんに会いたかったです」
 精一杯の声を出したつもりなのに。風に散らされそうなくらい小さな声しかでません。だって、喉も胸をぎゅうと絞られたように苦しいんです。苦しい反面、もう知ってしまったら生きていけないような甘さが滲みます。不思議とその苦しさや甘さが嫌じゃ無いです。
「おそろい……だな」
「……そ、うですね」
 ギクシャクした沈黙。僕達2人の間に静かな風が流れます。梅雨の到来を予感させる湿り気を含み始めた風は、ぬるいです。気持ち良いとはいえない風や居たたまれない沈黙もお兄さんとなら、心地よいです。
「「いただきます」」
 ベンチに2人で人一人分の距離を開けて腰掛け、お兄さんのお弁当をその空きスペースに広げます。
 一緒に小さく手をあわせて、お兄さんお手製お弁当をいただきます。いちごミルクと青汁ほうじ茶オレをお供にです。
「おにぎりは翠が好きなおかかと鮭だろ。あとは定番の卵焼きと肉のおかずくらいな」
 両手で持たないと食べられないくらい大きなおにぎりがたくさんあります。
 おかずも焦がさずきれいな黄色が美味しそうな卵焼き、からあげにウインナーとしょうが焼きとお肉がメインのおかずさんたちです。男の人の豪快お料理って感じがして新鮮です。
 伊織くんなら彩りを考えて野菜を入れるところなんですが茶色メインのお弁当です。テリーヌとかカプレーゼとかキッシュとか横文字のご飯ばかりなんですよ伊織くんは。美味しいんですけどね。
「あの……どれがおすすめですか……」
 僕にはほとんど馴染みの無いおかずがたくさんありすぎて、目移りしてしまいます。選べない僕は、おすすめを聞きます。
「…………これだな」
 逡巡したお兄さんがひょいと巨大おかかおにぎりをくれます。お礼を言い両手で受取り、おにぎりを包むラップをぺりぺり丁寧にはがしていると、僕へ注がれる視線が増えました。背後からかなり強い視線を感じますね。いつのまにやらもふもふさまに背後を取られていました。
「にゃお」
 ぽん、と僕のお膝にもふもふの両前足が乗りました。ノラさんは目だけは僕のおにぎりを見ながらベンチにゆったり座っています。甘えるように、いや誘うように両前足を交互に動かします。こ、これはふみふみです。気を許した相手にしかしないと言われるあのふみふみです。
「翠。やんなくていーかんな」
「え、えあ」
「そのおかかおにぎり狙われてんだよ……負けんな!」
「にゃおん」
 い、板挟みです。女王さまの下僕としてはおかかおにぎりを献上すべきだと思います。けれどお兄さんからの剣呑な視線も怖いです。でも、でも、お兄さんの手作りおにぎりを食べたいです。うう。ごめんなさい。ノラさん。
 見られています。とてつもなく見られています。お兄さんからも反対側にいるノラさんからも。そして近いです。ノラさんのおヒゲが腕にあたっているような気配。ここまで待ってくれているノラさんには大変申し訳ないです。おかかクッキーでお許しを。両側からのとっても熱い視線を感じながら、パクっとおにぎりを頬張ります。
「おいしいですっ。これごま油ですか?」
 鼻を抜けるごま油の香りが香ばしくて、おかかのお醤油味にとても合っています。ぱくぱく、もぐもぐ、食べるお口が止まりません。
「よかったよ。口にあって。俺も食おう」
 お兄さんもおかかおにぎりを手に取ります。その途端に背後の女王さまはベンチからさっと降り、お兄さんの足元へ。お顔を擦り付けるノラさんを無視し、大きなお口でおにぎりにかぶりつくお兄さん。
 お兄さんのお口では三口くらいで終わっちゃいそうですね。食べ方がおきれいなのでとてもおいしそうにみえます。本当に美味しいんですけど。
 ノラさんのご機嫌を伺いつつ食べたおかかおにぎりやお弁当のおかずはいつのまにか全部食べ終わってしまいました。おかずの味が濃いめでおにぎりと相性抜群だったんです。からあげにはほんの少しだけにんにくが入っていて、鶏肉のジューシーさとあいまりやみつきな美味しさだったんです。僕はいつも量をいっぱい食べるほうではないんですが、今日だけはいつも以上の量を食べてしまいました。
 お腹が苦しくはないですが、スラックスのベルトに違和感です。お腹を手でさすっていると、ふっと柔らかい笑い声が耳に届きます。目を細めて、少し眩しそうに口元を緩めているお兄さん。
「お腹いっぱいになったか?」
「はい。美味しかったです。あの、僕も渡したいものがあって……」
 あの微笑みはなんなんでしょうか。今まで見たことない……ありました。テレビ電話中にもお兄さんはあんな表情をしていました。けれど、直接見ると破壊力が段違いです。
 膨れたなにかがあふれてしまいそうなあの微笑み。こ、怖いです。自分でもわからない気持ちに戸惑う僕は、あの微笑みを見ていられません。たまたま目に入ったプレゼントを渡すことにします。背中に隠していた紙袋を両手で持ち、お兄さんに差し出します。
「は? あ、ありがと?」
「こ、これ僕が焼いたクッキーなんです。白猫さんのシールはノラさんようのクッキーで、もうひとつはどうぞ……」
 あの微笑みから表情を変えて欲しくてプレゼントを渡したはずなんですが、失敗です。今度は子供みたいなわくわくというお顔で紙袋を覗くお兄さんを見てしまいました。心臓がさらに聞いたこともない音を立てはじめています。お兄さんはラッピング袋を紙袋から取り出し、丁寧に封を開けています。
「いただきます」
 恭しく手を合わせたお兄さんは、肉球クッキー1枚を袋から取り出し一口パクリ。ドッと心臓を殴られたように、一瞬だけ鼓動が止まります。
「うま!」
 息をするのも忘れていた僕は一安心。じわじわ染み込むように熱が顔に集まってきます。自分のクッキーを褒められて泣きそうになり、さらに落ち着かない僕に気づかれたくないです。
「ありがとうございます。の、ノラさん用のはおかかを使ったクッキーでっ」
「ん。翠があげな」
「ぎょ、御意!」
 唐突すぎる話題転換も気づかないお兄さんは新たなクッキーを手にし口に放り込みます。クッキーを咀嚼しながら、お兄さんは白猫さんのシールを貼った透明なフィルム袋を僕へ手渡します。受け取ると、足元で毛づくろいをしていたノラさんがふらりと引き寄せられたように僕のお膝に乗ってきます。
 ノラさんは僕らの会話を理解していると思ってしまうくらい良きタイミングです。
「僕が焼いたおかかクッキーですけど、ノラさん食べます?」
 僕が持つクッキーを1秒たりとも視線を逸らさずに見つめるノラさん。ちょん、と前足でクッキーをやさしく触れます。早く出しなさい、ということですね。
 袋を止めていたシールを剥がすと、ふわんと香ばしいおかかの匂い。お膝の上に鎮座されるもふもふさんの目がギランと光り捕食者の目に変わります。そっと一枚猫さん型クッキーを口元へ持っていくと、ガブっと喰らいつきます。あっという間に食べてしまったノラさんは名残惜しいのか僕の指につくクッキーのカスまで舐めとります。
「まだまだいっぱいあるのでどうぞ」
 さらにノラさんへ肉球クッキーを献上します。手ずからクッキーを食べるノラさんのしっぽがご機嫌にゆらんと揺れ、僕の手首へ巻き付きます。ついにノラさんが僕へ愛情表現をしてくれました。嬉しいな。
 お膝の上にはとろけるように柔らかいもふもふさま。ずしとお膝にかかる重みも柔らかい。ぽかぽか温かい陽射しの中で、頬を撫でる風はぬるいけれど、それさえ気持ち良い。時間の流れさえもゆったりしているような喜びに満ちた時間。
 まるで絵本の中にいるようなまったりと過ごす心落ち着きます。
 そういえば、仲間と仲良くご飯を食べるシーンを絵本で見るたびに羨ましかったな。前まで存在感が全く無いゆーれいさんである僕とご飯を食べてくれるお友達もいなかったですから。
 だって、僕の体調がいつも突然悪くなってしまうので、お約束を守れないことが多いんです。それで、次第に皆僕とのお約束をしてくれなくなってしまいます。気を遣ってくれているのか、僕の負担になると考えてくれるのかもしれませんが。
 それに、いつ来るかわからない人間を待つのは誰だって、不快です。来るかもわからない確実性のない僕を、自分の大切な時間を削ってまで待つことはしないですよ。皆、僕なんかより勉強や友達との遊び、部活とかたくさんすることが毎日あるんです。
 日々落ち着いて生きていくことすらままならない僕なんかに、構う暇なんかないです。自分の体調すら管理できない、僕にお友達なんかできるはずも無いです。本当は僕はそのお約束があるおかげで、休んでいる間そのお約束の持つ温もりやお約束を果たしたあと皆の喜んでくれる姿を見れる期待や楽しみな気持ちを支えに治療に励めるんですけど。
 そんな僕の『わがまま』を押し付ける訳にもいきませんしね。『わがまま』は僕なんかを気にかけてくれる優しいひとすら不幸にします。絶対に口に出してはいけません。
 だから、僕には絵本だけ。
 楽になったと思った次の日にはまた苦しくなり、どうしたって僕の体調は安定しません。次の発作がいつになるかもわからない。予定通りにいくことなんてほぼありえません。体調が揺らぐタイミングをはかれたら良いけれど、それもできず。落ち着かない、脆い僕の体調を待っていてくれる存在は絵本しかなかったんです。
 本は、僕が読み始めるまで物語の時間が止まっていてくれます。自分ですらよくわからないほど脆くて不安定な僕を読み始めるまで待っていてくれる。ダメダメな僕のペースに合わせてくれる貴重な存在だったんです。だから、今までは絵本や小説たちがゆーれいさんである僕のお友達でした。
 無機物にしか相手にされないゆーれいさんな僕。
 こんな僕がこんなきれいで愛らしい猫さんとピアスがかっこいいお兄さんとお昼を食べられるなんて凄い贅沢です。
「ふふふ、贅沢ですね……」
 胸の内からついこぼれた言葉。
「ん?」
 こっちを振り向いたお兄さんは静かに目で続きを促します。僕の子供っぽい発想を聞いても笑ったりしないと思えるくらいその目が優しいです。
「あの……美味しいものを大好きな皆と一緒に食べられるって最高の贅沢だなって思ったんです。僕、今までこういうことが全くなかったので、本当に嬉しくて。……時間ごと大事に取っておきたいくらい宝物です」
「だから、贅沢か……」
「あ! それに、絵本の……ぐりんとぐらんみたいじゃないですか。陽だまりの中で大好きなみんなでワイワイ美味しいものを食べて賑やかなお食事している場面が一緒なのもいいなぁと思いました……」
 う。やっぱり言い終わったら照れくさいです。お兄さんが無言なのはなぜ。あまりに子供っぽい発想で引かれてしまいましたかね。ベラベラ話し過ぎて乱れた呼吸と鼓動を落ち着かせるため、ノラさんの背中を撫でます。もふもふんとした手触りに癒やされていると視線を感じます。
「お兄さん?」
 そろそろと顔を上げると、思ったよりも近くに真剣なお顔がありました。真剣な表情のお顔は精巧な芸術品みたいにかっこよくてドキドキしてしまいます。
 答えないお兄さんは僕を見つめ、また眩しそうに目をたわませます。じっと見つめる漆黒の瞳に揺らめきながら熱が生まれたような気がします。それに、お兄さんの微笑みがいつもより甘く感じられて、目が離せません。熱を帯びた眼差しを向けたまま、お兄さんは手を伸ばして来ます。ゆっくりと近づく大きな手を見ながら、いつものように頭を撫でて貰えると期待しました。期待と突然向けられた熱に戸惑い、ぱちくりと瞬きをするだけで精一杯で動きをとめてしまいます。それから、大きな手はするりと、僕の右頬を撫でました。
「え?」
 思わず素頓狂な声を出すと、お兄さんは弾かれたように手を離します。お顔も。所在なく僕の周りをウロウロする手。お兄さんと再び目が合うと、決まり悪そうにすいっと逸らされました。
「な、あれ……だったよな! 仲間、と、食べたのってホットケーキ!」
「それ……は白いくまちゃんのお話で別の絵本です。ぐりんぐらんはカステラですね。とっても大きいフライパンにみんなで協力して焼くんです。今はクッキーですけど……」
「あ。そ、そうだな! そう……そうなんだよ……」
 何かに気を取られているのでしょうか。手を握ったり閉じたり、言葉がやけにたどたどしいです。視線も頑なに合いません。おもむろに下を向き頭を抱え大きく息を吐くお兄さん。
 やがて顔を上げるとずいっと手を伸ばし、ノラさんの頭をワシャワシャ乱暴に撫でます。
 ノラさんが嫌そうにしっぽをベシンと振り下ろします。
 僕はそんな2人のやり取りをぼんやり眺めながら、未だ右頬へ残る感触を噛みしめるように手をやりました。触れられた部分だけちょっと熱い気がしました。