翠くんは可愛がられたい

 翌日。スマホのアラームより前に起きてしまいました。勝手に目が開いてしまい、スマホの時刻はあと5分程で一応アラームの時間です。たかが5分。されど5分ですよね。早めに起こしてしまったらお兄さんの貴重な睡眠時間を削ってしまいます。ベッドの上でちょこんと正座して眠気で重だるい頭を動かします。5分でできることを探してみますが、結局思いつかず、いつのまにかアラームが音を立て始めます。
 いつもと同じアラームのはずなのに、音が大きくなるにつれてなぜか僕の心臓の音も大きくなっていきます。ドキドキを超えてバクバクと音を立てる心臓の音を聞きながら、アラームを止めます。こんなときに限って、何度も何度も「ストップ」ボタンをタップしてもアラームは止まってくれません。
 やっとアラームを止め終えたころにはもう約束の時間より2分も過ぎています!焦った僕はすぐにメッセージアプリで電話マークを指でタップ。
 今度は間違いなく電話です。なぜか息を切らしながら、コール音を聞きます。そして、一回鳴り終わるか鳴り終わらないかというところでコール音が途絶えます。
 びくっと大きく肩をはねさせながら、えいって気合をいれて話します。
「あ、あのおはようございますっ!」
『……おはよ。翠』
 お兄さんのお声とふっと笑った柔らかな笑い声が鼓膜をくすぐります。
 直接吐息まじりに耳元で笑われたような錯覚がして、照れくささとわけのわからないあの泣きそうになる気持ちでぎゅうっと目をつむってしまいます。
『朝はやくからありがとな。うん。これで1日頑張れそう』
「お、お役に立てて嬉しいです」
『ん。お願いついでにこのまま電話繋いでいていいか?』
「へぇあ?」
 このまま電話を繋いでいないと二度寝をしそうだから、見張っててほしいとのことです。なるほど。朝弱いっていうのは大変なんですね。僕は今日はおやすみで登校準備もないのでお付き合いしましょう。
「はい。電話のおつきあい頑張ります!」
『ありがと』
 ふはっと軽い笑いまじりの声はやっぱりくすぐったいですし、心臓に悪いです。思わずスマホを持つ手に力を入れぎゅっと握りしめてしまいます。
 お兄さんがスピーカーにしててそのへんに置いといてくれればいいよ、と教えてくれました。が、スピーカーとは?とりあえず耳にあてながら、いそいそとベットから抜け出し、リビングのソファーに腰掛けます。そわそわ落ち着かないのでお山座りで両膝を抱えます。
『今日も休みなんだよな?』
「……はい。しばらくお休みですね。お昼にノラさんによろしくお伝えください」
『ん。昨日ノラすっげー不機嫌だったからな……翠から謝ったほうがいいぞ。あれ』
「え?! ノラさんそんなに怒ってたんですか?」
『ちゅるちゅーる2本でやっと撫でさせてくれたくらいだったな』
「献上しなければ……大量のちゅるちゅーるを」
 ぶっと思い切りお兄さんが噴き出しました。そんな笑っている場合ではないのに。
 僕とノラさんとの仲が大変な危機的状況なんですよ。こちらは真剣なんですよ。僕の必死さが伝わらないもどかしさにぎゅうっと拳を握り、ついぶんぶん上下に振ってしまいます。
『直接謝ればいいんじゃね? 昼にテレビ電話して、翠が顔見せればノラも機嫌直るだろ』
「なるほど。お願いしてもいいですか?」
『ん。俺も翠の顔みたいしな』
 びっくりしすぎて言葉もでませんでした。なんだかお兄さんが昨日からおかしいです。あれですかね、昨日のテレビ電話での僕の顔があまりにも病人顔だったので心配しているとかですよね。
 点滴したあとにお昼寝までしましたけど、顔色とか良くなかったかもしれないですね。
 つまり伊織くんと同じ状態ってことですね。納得です。やっぱり僕はダメダメなんですね。脆くていとも簡単に崩れる体は皆の優しい心を煩わせることしかできません。
「きょ、恐縮です。僕もノラさんとお兄さんのお顔見ながらご飯食べたいです」
『ノラが先なのな……未だにお兄さん呼びだしなぁ』
 なんだか声が遠いですね。衣擦れの音が聞こえてきたのでお着替え中なんでしょうか。
 人さまのお着替えを盗み聞きはよろしくないので、テーブルの上にスマホを置き、ふうっと息を吐きます。頬が熱い気がして、両手で頬を挟むとほんのり熱をもっていました。
 その後は無事にスピーカーに切り替えられた僕です。でも、スピーカー通話は好きじゃないかもです。息を洩らしたような笑ったのかわからないくらいの笑い声も、すうっと息を吸う音も、耳元にあてた通話より雑音でかき消されちゃいます。お兄さんの声をしっかり聞きたいです。
『あー、もう出るわ。ありがと』
 お兄さんの声が激しく揺れながら、ごそごそと靴を履く音がします。もう学校に行く時間なんですね。一緒に朝ごはん食べて、ちょっと雑談していたらすぐでした。
 通話を切る前に、なんとかお見送りをしたいですね。学校頑張ってくださいの気持ちを込めて、息を吸います。
「いってらっしゃい」『は』
 なんだかごんって何かにぶつけたような、物騒な重い音が聞こえました。
「お兄さん?!」声をかけたのにくぐもった唸り声しか聞こえません。いきなり体調不良でしょうか。それとも何かあったのか、心配です。なるほど、みんなが僕へ色々言うのはこういう気持ちなんですね。そわそわ落ち着かないし、苦しいです。
『あ゙ーうん。ドアに頭ぶつけただけだから大丈夫だから』
「え? な、なんでです?」
『ん? 想定外の嬉しいことがあって心臓が飛び出そうなんだよ。ありがと』『いってきます。翠』
 笑顔が透けて見えそうなくらいごきげんなお声に僕も心臓が飛び出そうになりながらお返事をして、名残惜しくも通話を切りました。
 初お電話の余韻に浸る間もなく伊織くんがお部屋を訪ねて来て、今日も色々と細かくお約束させられました。心配性の伊織くんの心の平穏のためにも、吸入機とスマホは肌見離さず持っておきましょう。
 その後、午前中に白井先生の診察を受け、無事自習の許可もおりました。中間テストのためにもお勉強しておかないといけませんからね。

 日が高くなり、タブレットでの自習も終わり一息つくとちょうどお昼になりました。
 伊織くんが朝残したメモ通りに、お昼ご飯を簡単に調理します。といっても、包丁もIHヒーターも体が本調子ではないので危険と判断され、レンジで温めて終わるんですけどね。普段は料理のお手伝いできるくらいの調理は僕だってできるのに、伊織くんは心配性ですね。
 メモというのか長文はほぼレシピをふむふむとしっかり読み込み、調理開始です。
「僕でもリゾットが作れましたね。伊織くんすごいです」
 レンジの中から取り出したリゾットをテーブルに置きながら、伊織くんに感謝の念をピピっと送ります
 さらに追加でミトンをつけたままぱふぱふ両手を叩いて拍手も贈りました。
 あら、チーズがふつふつとマグマのような地獄状態なので、冷めるまでとりあえずリゾットさんは待機ですね。あとは飲み物を準備して、お兄さんへの連絡ですね。
 あ、スマホにメッセージがもうお兄さんから届いていました。
『まだかなー』と双子のくまの赤ちゃんが仲良く左右に揺れるスタンプです。僕もサムズアップした白猫赤ちゃんのスタンプを返します。お星さまがキランとしているのが可愛らしいんですよ。
 画面の中がシルヴァニアさんだらけでとっても可愛らしくてつい笑みがこぼれます。
 朝のお電話のあと、お兄さんがシルヴァニアさんスタンプをプレゼントしてくれました。ねだったわけでもないですし、ただおそろいにしたかったから、何気なしに聞いただけなんです。
 ですが、速攻のお返事かつ、いつもの5倍くらい長いメッセージと口調から不安げなのが伝わり例のあのお顔が頭に浮かんだ僕です。「わかりました」と指が勝手に打ち返していました。僕はお兄さんに頼まれたらとてつもなく弱いです。際限なくお願いを聞いてしまう自信しかありません。
 受け取ってしまったからには、モーニングコール頑張りますし、おそろいのスタンプをいーっぱいつかいます。もうこれしかお兄さんにお返しできる術はないですね。
『ほら、ノラ! お待ちかねの翠だっああ?!』
『ひぎゃっ!』
『やめっ! 触んっな! ちょ、待て!』
 お兄さんのお顔が映ったと思ったら、ノラさんのアップからの猫パンチ連打でした。画面いっぱいにピンク色の潰れた肉球が映り込み、スマホは不穏な音を立てながら大いに傾き、お兄さんの焦った声。ノラさんの不機嫌そうな「にゃー!!」という鳴き声がBGMです。
 放送事故もしくは衝撃映像です。
 お兄さんが抱っこでスマホに映った僕をノラさんに見せようとした結果この大惨事。
 僕のスマホ画面にはきれいな澄み渡る青空が映し出されています。とってもいいお天気で和みますね。音声だけ聞くとかなりの修羅場なんですが、僕にはどうすることもできません。
『翠はここからは出てこないからな! 見るだけ! 触るなっ!』
 2人が真剣に話し合いを重ねているようですが、なかなか話がまとまらないようです。時間がかかりそうですね。
 ずっとスマホを持ち続けるのも手が疲れちゃいますし、ご飯食べるときには両手を空けたいです。キョロキョロとお部屋の中を見渡し、スマホを立てかけられるものを探し回ります。そして、この子もお昼のお供に誘いました。お兄さんにもらったシルヴァニアのキーホルダー。お行儀悪いですが、お茶のペットボトルにスマホを立てかけ固定します。スマホの横には白猫の赤ちゃんを。僕も椅子に腰掛け、お昼ご飯の準備万端です。
 初夏の澄んだ青空を細長い雲がゆったり流れる映像が未だに表示中です。今日は上空の風は穏やかみたいで雲の流れがゆっくりですね。時折お兄さんの影が映り込む。耳元のピアスが初夏の陽射しに乱反射して眩しい光がはねてきれいです。
「きれい……」
 走る光に引き寄せられつい指を伸ばしかけますが、触れられないと気づきそっと戻します。
 代わりに直接触れられるお兄さんにもらったシルヴァニアのキーホルダーに触れます。指先で頭を撫でてあげると心なしか嬉しそう?ふっと小さく笑いがもれます。
 それにしても先程から届くノラさんのお声がいつもより低いです。未だに話し合いは続いています。
 先程、自分のお顔に猫パンチされるのはなかなかに恐怖でした。猫パンチの連打具合から察するに、相当女王さまがご立腹なのがわかります。ちゅるちゅーるを献上してもあのお怒りは収まりますか? 1週間のおやすみ中に猫さんのご機嫌をとるアイテムを検索しましょう。ノラさんの信用回復と怒りを鎮めるために!
 ノラさんの鳴き声が聞こえなくなったとき。お兄さんがスマホ画面に再登場です。小さく息をつきながら前髪をかきあげています。珍しい。お疲れなんですかね。
『翠? 先にメシ食おう。待っててくれてんだろ?』
『大丈夫です。リゾットさんのチーズをちょうど冷ましていました』
『リゾット? 翠が作ったやつ?』
『はい。でも伊織くんがレンジでチンするだけのとっても簡単な方法教えてくれましたので……』
 なぜかお兄さんが無言です。先程まで柔らかかった表情がなんの感情ものせていません。
『……いおりくん』
 視線を落としながら、重々しい声で伊織くんの名前を復唱するお兄さんです。あれ? 伊織くんとお知り合いですかね。それとも伊織くんは有名人なのでただ名前が引っかかっただけでしょうか。
『三年生にいる僕の母方の従兄なんです。お名前は佐倉伊織くんっていいます』
 何かを考え込むようにずっと無言のお兄さんとの間に満ちる沈黙がいつもと違います。ぎこちないこの空気を変えたくて、聞かれてもいないことが口から滑り落ちます。
「従兄?翠とあいつが?」と小さく呟いたお兄さんはゆっくりとスマホ越しに僕を見る。
『ご飯やお弁当作ってくれたりとお世話を色々焼いてくれる……家族なんです』
 僕が圧倒的に弱い不安げな揺れる瞳をなんとか変えたくて、いつもなら絶対にいえない言葉を使いました。
 ぱちくり瞬きを繰り返すお兄さんはこわばった表情をゆっくりと緩めます。
『あーわりい。あの佐倉伊織が翠の従兄なんてびっくりしすぎてな。あいつってやたらキラキラしてて恋愛漫画の表紙を主人公と爽やかに微笑み合いながらバックハグで飾るタイプだよな』
『きらきら爽やかバックハグ』
『あいつは誰もがかっこいいって言うモテ無双王子だろ?』
 お兄さんが首のうしろをすんごく擦っています。それにしても伊織くんに対するイメージが偏っています。やけに具体的ですし。
 だって、お兄さんも伊織くんをかっこいいって思っているんですよね。たしかに容姿はキラキラして王子様ですが。
『……僕はお兄さんの方がかっこいいと思います』
 艷やかな黒色の髪や瞳はなにものにも揺るがない優しさを持つお兄さんにぴったりです。お顔の造形だって目元のほくろや切れ長な目の型はドキッとするくらい色っぽいです。ピアスも風鈴みたいで一番かっこいい。加えて本当の笑顔は可愛い、です。
 そんなに伊織くんをかっこいいって持ち上げなくても良いんじゃないですか。
『うぇ? お、俺かぁ。俺は表紙では左端の三角関係の当て馬タイプだろ。横向いて舌出してるような……』
『左端の当て馬?……』
『ん。このピアスとか皆は怖がんだよ……』
 肩をすくめると、ピアスを指で弾いて揺らすお兄さん。
 当て馬は知っています。競馬が好きなおじいちゃんと同室になったときに意味を聞きましたから。本命でないダミーのお馬さんのことです。お兄さんには自分を卑下して欲しくないです。僕にはお兄さんの耳元でゆらんと揺れるピアスがとっても輝いて見えます。白い光を放ちながらたゆたうピアスはやっぱりかっこいいですよ。
『あの!僕は本命です。風鈴みたいなお兄さんのピアス大好きですよ』
 悔しさなのかわからないもやもやした気持ちを握りつぶすように、いつの間にかぎゅうっと両手を握りしめていました。
『あ、ありがとうございます』
 お兄さんはどうしてか敬語で視線をウロウロと彷徨わします。狼狽えているようにもみえて、僕は不思議な反応に首を傾げます。前のときみたいに笑って喜んでもらえると思ったのに。ワシワシと荒いけど優しいあの撫で方で頭を撫でもらえると思ったんです。
 ……僕は頭を撫でてもらいたいんですか?
 なんで僕はこんなにがっかりしているんでしょうか。それにさっきからずっと居座るもやもやする気持ちはなんでしょう。お兄さんが伊織くんのお話をし始めてから、さざ波が立つように気持ちが落ち着きません。
『おっ。やっと女王さまがご機嫌直したな』
 考え込んでいた僕の耳にノラさんの甘えた鳴き声が届きます。
 スマホに映る視点がぐっと高くなります。お兄さんのお膝の上で丸まり背中を丁寧に撫でられているノラさんがいました。気持ちよさそうにお兄さんのお膝に頭をこすりつけ、ゴロゴロ喉をならし目を細めています。しっぽがふりんふりんとご機嫌に左右に揺れています。
『……いいなぁ』
『元気になったら、撫でさせてもらえんだから。メシいっぱい食って治そうな』
『そ……う、……ですね』
 ぽつりとこぼした本音にお兄さんが優しく微笑んで返してくれます。でも、僕はなんて返したら良いのかわかりませんでした。だって僕が羨ましいと思った相手が違うんですから。
 撫でたいのではなく、撫でられたいって思ってしまったんです。お兄さんの大きな手で背中や頭を撫でられた感触や温もりが恋しくて。
 だから、僕はノラさんのように、猫のように。可愛がられたい、と思っているんです。
 本命のお兄さんに。たぶん。
『また明日。おやすみなさい』
『ん。朝またよろしくな。おやすみ翠』
 体調を崩した日にテレビ電話をするようになってから、毎日お兄さんと朝昼晩それぞれ電話とテレビ電話をすることになりました。
 朝はモーニングコールでお兄さんを起こすためにお電話をします。起こした瞬間からお兄さんが登校するまで通話は繋げっぱなしで、「いってらっしゃい」と言い終えると切ります。
 お昼と夜はテレビ電話です。お昼休憩中はお兄さんとお昼ごはんを食べながら、時々ノラさんにちょん、と優しく猫パンチをスマホ越しに顔面へ受けます。
 夜は寝る前に2人きりでぽつぽつとゆっくりお話しします。だからか、お兄さんがとっても優しいというのか甘いんです。
「可愛い」とか「早く直接会って顔みたい」とか言って療養中の僕を励ましてくれるんです。でも、僕は体調がおかしいです。
 夜で二人きりでお電話が来るのをとっても楽しみにしているのに、お兄さんの名前がスマホに表示されると、身体全体がそわそわして何故か出るのにちょっとだけ緊張します。ボタンを押す指が、熱くなってきてとっても胸がドキドキして苦しくなってしまうんです。早く出ないといけないのに。声が変じゃないかなとか、格好おかしくないかなとか、今さら気にしてもしょうがないことまで頭に浮かんで少し躊躇ってしまいます。お兄さんは僕の格好や声なんてそんなに興味もないはずなのに。
 猫の赤ちゃんに似ている僕をノラさんを可愛がる延長で気にかけてくれているだけ。同じような症状を持った妹さんを思い出して優しくしてくれているだけなんです。毎日のお電話も生存確認的な意味でしょう。僕一人だけが毎日毎日この夜の2人きりの時間を楽しみにして、勝手に浮ついて右往左往しているだけなんですよ。
 それに、なんで猫のように可愛がられたいってなんで思ってしまったんでしょう。
 やっぱりノラさんがお兄さんに撫でられている姿を見ると、胸の中がもやりとしてしまいます。お兄さんの大きな手で髪を優しくすくように撫でられると、頭にふわりと温もりが残り、心に明かりが灯るようにほんわかするんです。その気持ち良さを思い出してしまいます。
 画面越しに遠くから見ているだけじゃ物足りない、僕も撫でてもらいたいって気持ち湧き上がってくるんです。僕の手の平に『玄』と書いたしなやかな指に触れてもらいたいって。猫だったらお兄さんに気まぐれに甘え、あの可愛らしい笑顔で気軽に抱っこしてもらったり撫でてもらえます。
 だからでしょうか。お兄さんは僕のことを猫の赤ちゃんだと思っているから、僕も自分のことを猫さんだと錯覚してきている?
「……にゃあ」
 試しに鳴いてみました。平日のお昼間独りきり、部屋のキッチンに虚しくこだまする僕の鳴き声。
 なぜだか男子高校生としてやってはいけないことをし、何かを失った気分です。でも、僕は猫ではないですね。それだけはわかりました。
「猫さんはクッキーは作れません。僕は人間です」
 誰かへ言うつもりも言い訳を言う必要もないけれど、人間宣言です。
 かぶりを振り、再び作業再開です。手元をみると、薄く平らに伸ばしたクッキー生地。まだクッキー生地には型抜きするスペースがたくさん余っています。
 1週間の療養を終え、白井先生から登校許可が出た今日。無事に明日、登校再開です。
 今は、明日のお昼にノラさんに献上する『おかかクッキー』を作成中です。
 ノラさんへの献上するプレゼントの条件に当てはまり過ぎていましたので、僕は即決でブックマークしました。ついでに可愛い猫さんと肉球のクッキー型と猫さんモチーフラッピングもポチっておきました。何度も何度も型抜きを繰り返し、天板いっぱいのクッキー生地をオーブンへ。レシピに載っている温度をセットしたら、ノラさん用クッキーはこれでOKです。
 オーブンにおまかせしている間に、人間さん用に砂糖やバターをふんだんに使ったクッキー生地も猫さんと肉球に型抜きをし、焼きました。
 人間さん用は、お世話になった人たちへお礼を兼ねてプレゼントです。お兄さんと伊織くんと、塁くん、恭くん。あとは、元ルームメイトの高森くんです。
 一番お世話になったのに、僕は高森くんに『ありがとう』を伝えていなかったんです。遅くなってしまったお詫びとありがとうの気持ちを込めてクッキーをプレゼントしようと思います。
 またお顔を見て拒絶されたらと恐いですが、僕と暮らしていたころの彼は意味もなくあんな態度をとるような冷たい子ではなかったですから。共用リビングで顔を合わせると朗らかにあいさつしてくれ、色々話しかけてくれました。寮で過ごす相手に少しでも快適に過ごせるよう気配りができる優しい彼でした。その時の姿を信じてみたいと思ったんです。
 だって連絡が来ないと落胆したはずのお兄さんからは実は連絡がきていたんですよ。だから、これはたまたまタイミングが悪くてすれ違ってしまっただけなのかもしれないですよね
 こういうときはどうしたらいいんでしょう。すれ違いなのか避けられたのか曖昧なときです。
 それに、僕は自分から誰かに気持ちを伝えるのが苦手です。いい感情も悪い感情も相手に伝えるのが恐い。自分の気持ちが相手を不幸にしてしまうんじゃないか、といつも不安なんです。踏み込んで伝えたい正直な気持ちが汚いものだったり子供じみたものだったら特に。だから、こんな子供じみたことなんか伝えられるはずがない。撫でられたい。可愛いがられたい。……甘えられる猫さんが羨ましい。
 浅ましいくらい自分のことしか考えていない気持ちですよね。自分でも戸惑ってしまう気持ちなんて、伝えられた相手も困りますよ。もう誰かを不幸にしてはいけないから、気持ちを伝えるときは慎重に。大切な人の大事な家族を奪うことがないように。
 あのときのことは繰り返さない。
『わがまま』なことも思わず、言わないってあの日決めたじゃないですか。ダメダメな僕が唯一できる伊織くん家族とお父さんにできる罪滅ぼしなんですから。

 過去へ浸る思考を遮るようにオーブンが焼き上がりを告げます。
 天板の上には、肉球と猫さんのクッキーがずらりと並んで美味しそう。焼き色も完璧です。久しぶりのクッキー作りが成功し、さっきまでの暗かった気持ちも浮上します。
 じっと肉球クッキーとノラさんをイメージして作った猫さんクッキーを見つめます。ふとノラさんに猫パンチ連打されたときを思い出してしまいます。こんなことでグジグジしていたら、女王さまの猫パンチをもらってしまいそうです。私みたいに可愛いクッキーを渡しなさい! って
 直接言う勇気はないけれど、お礼は絶対伝えたいです。お兄さんから教えてもらった『ありがとう』を伝えたい気持ちはあるからです。高森くんにもらった優しさに少しでもお返しをしたいですから
 お部屋のドアノブにクッキーとメッセージカードをおいていきましょうか。それなら相手にも負担にもなりませんし、僕もドアノブに掛けるだけなのでできそうです。
 メッセージカードにはお礼の気持ちだけを書きましょう。
 彼に渡してもよいのか未だに少し迷いますが、クッキーが冷めるまでの間にメッセージカードを書いてしまいましょう。渡すしかない状況まで自分を追い込めばなんとか渡せるはずです。
 そう気合をいれた僕は、メッセージカードにお引っ越しお手伝いしてもらったお礼を一生懸命書きました。そして、クッキーを丁寧に一枚一枚ラッピング袋にいれます。
 よし。もうこれで渡すしかありません……頑張ります。
「クッキーはお兄さんとノラさん、高森くんのぶん」
 翌朝、登校前にお部屋で今日渡すはずのプレゼントを最終確認です。
 リビングの机の上には茶色と白色の色違いの紙袋が。中身はもちろんラッピングされたクッキーです。白色の紙袋には透明なラッピング袋が2つ。茶色の紙袋には小さな名刺大の封筒とラッピング袋。
 もれなくお渡しするプレゼントは入っていました。どちらも大事なプレゼントですから忘れないようにしないといけません。ぐっと気合を入れるために小さなガッツポーズをしていると、インターホンが鳴ります。モニターを覗くと、伊織くんが爽やかに立っていました。インターホンの荒い画像でもキラキラしています。
「はーい」
 鍵を開けるためぱたぱた小走りで玄関に向かいます。どうしたんでしょう。今日は僕1人で早く行くって言っておいたのに。お弁当?でもこれも……。玄関ドアの前、内鍵に指をかけようとしたタイミングで測ったように鍵が外から開かれました。開いた扉からは煌びやかな金髪がさらりと覗きます。途端、にゅっと長い腕が伸びてきて、肩を抱き寄せられます。僕の視界には学校指定のネクタイが。そして、遅れて玄関の扉が閉まる重い音がしました。
「翠? 今日の体調大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ? 白井先生からも許可されましたし……伊織くん?」
 あら、心配性伊織くんがまだ続いていました。このときの伊織くんはなにかにつけて僕を腕の中へ閉じ込めようとしてしまいます。身をかがめ僕の肩に顔を埋める伊織くんは少し不安そうなか細い声を出します。僕からも背中へ手を回し、なだめるようにぽんぽん軽く叩きました。
「今日のお弁当いらないっていうから……食欲ないのかと思って……」
 ぼそぼそ子供がお母さんに言い訳するように気まずげに言う伊織くん。
 お弁当の件でしたか。実は今日はお兄さんが退院祝いに僕のお弁当を作ってくれるので、いつもの伊織くんのお弁当は量的に食べられるか不安だったのでお断りしたんです。伊織くんの手間を減らすためとこういう心配解消のために前日にキャンセルしましたが、それでもだめでしたか
「あのね、今日はお友達が僕の分もお弁当を作ってきてくれるお約束をしたので、それでお弁当を……」
「お友達? 誰? クラスメイト?」
「えっと……クラスメイトさんです?」
「ふーん……」
 間髪入れずの質問のあとは、なにやら無言の伊織くんですよ。なんとなく空気が重くなったような、ぴりっと引き締まったような妙な空気ですね。
 お兄さんのことをひた隠しにしている罪悪感から、こんなに気まずい空気だと思ってしまうのでしょうか。どうにかこのよくわからない空気を払拭したいです。
 伊織くんがこんなに様子がおかしい原因として思いつくのは、お弁当食べないのがそんなに心配なんでしょうかね。それとも、僕が伊織くんのお弁当がいやになったと心配しているのかもです。
 詳しく事情を話せば伊織くんも心配事がなくなって機嫌良くなりますよね?
「その、いつもの伊織くんのお弁当も大好きだけど、お友達の分と一緒に食べられるか心配だったんです。僕、そんなにいっぱい量たべられませんから」
「明日は僕のお弁当だけを食べるんだよね?」
「あ、はい。僕、伊織くんの作る甘い卵焼きが好きでいつも楽しみにしています」
「じゃ、明日のお弁当は卵焼きいっぱいいれようかなー」
 良かったです。やっと体を離してくれた伊織くんが少しご機嫌になりました。ただし、明日のお弁当のおかずが卵焼きだけになりそうですが。
「ほ、他のおかずも、伊織くんの作ってくれるお料理はいつも美味しいですよ」
「よかったぁ。あ! 昨日の翠クッキーも美味しかったよ」
「お粗末さまです。お口にあってよかったです!」
 いつも美味しくて僕も翠クッキー好きだよ、と僕の頭を撫でる伊織くん。なんだかんだ伊織くんには小さい頃から昨日のクッキーを渡してばかりですね。昔は伊織くんの家族と一緒にクッキー作りしたりしていましたから、伊織くんへのお礼のプレゼントはこのクッキーって刷り込まれてしまっています。母の味というか従兄弟の味的な僕達2人の間の定番ですね。
「すーい? 忘れ物ない? 持っていくものはこれだけ?」
 伊織くんがお母さんみたいな口調です。僕のカバンをもう肩に掛け、当然のように玄関のたたきで待ってくれています。靴も履き終えた伊織くんは準備万端です。
「あ、クッキーを高森くんに持っていきます!」
 紙袋を手にもって廊下まで出た時、スマホが着信に震えます。えっと誰なんでしょうか。
 お兄さんからの着信です。
 今日はモーニングコールをしたら、お弁当作りされている最中で忙しそうだったのですぐに切ったはずなんですが。なにか緊急の要件でしょうか?玄関先にいる伊織くんが僕に訝しげな視線を注ぎます。お兄さんのことを隠している疚しさで、身をかがめながら背を向けてしまいました。
「もしもし。翠です。あの、なにか?」
『ん。さっき言い忘れたんだよ』
「……はい」
 電話に出る声もちょっと小声になってしまいます。言い忘れ? わざわざ電話を掛け直してくるくらいの内容とはとても重大な要件なのでは?身構えてスマホをぎゅっと握ります。
『いってらっしゃい』
 不意打ちの優しい声に心臓が大きな音を立てます。耳元で囁かれたその言葉の優しさに、やっぱり瞳の奥がジンと熱くなってしまいます。
「い、いってきます! あの、お兄さんもいってらっしゃい!」
『ん。じゃ、また昼にな』
 ぷつ、とそこで通話が途切れます。静かなスマホを耳元にあてたまま動けません。このままふわりと体が浮いてしまいそうなくらい嬉しいです。
 たぶん僕、本物の『ゆーれいさん』になっていませんか。このままどこかにふわふわ飛んでいきそうです。でも、わざわざ掛け直してまで言ってくれたお兄さんの心遣いにぎゅうぎゅう胸が苦しいんです。
 突然ぐいっとスマホを持つ腕を取られました。玄関先にいたはずの伊織くんがすぐそこに立っています。
「翠、どうしたの? 顔赤い……」
「へ?」
「それにお兄さんって?」
 目でスマホを示す伊織くんは怖いお顔です。スマホごと掴まれている腕には伊織くんの指が食い込みます。伊織くんの様子に先程浮き立った気持ちは急激に沈み、背中には冷や汗をかいてしまいます。
「お兄さんって誰?」
 同じ質問を繰り返す伊織くんのお声は冷たい。纏う空気さえも冷たい伊織くんです。
 どう答えていいか迷います。このまま本当のことを言っても良いような気もします。けれど、もう一人の自分が必死にこの場を取り繕う言い訳を探しています。
 伊織くんの蒼色の瞳がじっと僕を見つめます。
 ふとその碧眼や金髪をかっこいいというお兄さんのお声が蘇ります。お兄さんの存在を伊織くんに絶対に知らせたくない、と一瞬のうちに頭を占めます。次の瞬間には、自分でも信じられない稚拙な言い訳が口をついて出ました。
「鬼井さんっていうクラスメイトさんです」
 声を震わせながらそう答えた僕は最低なやつです。女王さまの猫パンチ連打を全発顔面で甘んじて受けるべきです。でも、思いがけずもうこの言い訳がこぼれ出ていたんです。
 すっと目を細めた伊織くんは、「鬼井、さんね」と呟きました。どこかに1つ1つ確実に刻み込むようゆっくり紡がれたこれ以上ない低い声。なんででしょう。全鬼井さんにも僕は殴られるべきだと思ってしまいました。この期に及んで何を言い訳しても、取り返しがつかないですよね。伊織くんに掴まれた腕がひりつくように痛みました。
 その後は機嫌を取り戻した伊織くんと手を繋ぎ、久しぶりの登校をしました。途中で高森くんのお部屋に寄り、クッキーも無事にドアノブにかけられました。
『いってらっしゃい』その声を思い出したら、背中を押されたようにぎゅうと握り込んでしまった紙袋の取ってを目の前のドアノブにかけられたんです。やっぱりお兄さんはすごいです。
 お昼休み。僕は普通科校舎との間の渡り廊下で事実の暴力により瀕死の重症です。
「っく。僕の指先頑張ってくださいっ」
 ジュースの自動販売機の最上段真ん中「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」のボタンが、遠いです。自動販売機の側面に掴まりつま先立ちで手を伸ばしますが、あと数センチ。なぜ僕がこんな自動販売機相手に奮闘しているのか。お兄さんがお弁当作ってくださるお礼に、いつも飲んでいるジュースを差し入れたかったんです。ちゃりん、と虚しくお釣りの小銭が返されてしまいました。再チャレンジしましょう。僕の指先の伸びしろこれくらいじゃないはず……です。お釣りをとろうと、自動販売機に再び近づいたまさにそのとき。
「ふぇ?」
 背後からやたら長い手が伸びてきました。すっとその指先は先程僕が必死に手を伸ばしたボタン「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」を軽々押します。ポケットから出したスマホを投入口にかざし、「ペインペイッ」とやたら軽快な声をさせました。
 ガッコンと音を立て落ちるジュースを取り出すその人。なんとなくかなり背が大きい方の気配です。
 自動販売機の前にずっと僕がいたら、皆さんジュース買えないです。ジュースを買うことしか頭になくて、ご迷惑をかけとっても申し訳ないです。申し訳ない気持ちと羨ましさで、ちょっとどんな方なのか気になります。そろそろと視線で辿ると、なぜか「青汁ほうじ茶オレ新茶風味」の紙パックジュースが僕に向かって差し出されています。
「え?」
 なぜ僕へ差し出されるのかわかりません。ジュースからその持ち主へ視線を転じます。
「た、高森くん?!」
「う、うん。綾瀬くんこれ欲しがってたよね?」
「…………」
 ということは、僕の背伸び見られていたってことですか。大変ありがたいです。けれど羞恥が感謝の気持ちをぶっち切りで追い越していきます。遅れて追いつくのは感謝よりも先に申し訳なさです。
「そ、その」
「あ、朝クッキー気づいたんだっ! 本当にありがとう。そのお礼だと思ってくれれば……」
 ずいっとさらに差し出されるジュース。高森くんは首の後ろに手をやり、なにやら頬を真っ赤に染めています。背の高いひとって首がよく凝るんでしょうか。
「も、もしかして前、避けたことまだ怒ってるかな? ごめんね……その、あのときいた方々が綾瀬くん含めて学校の凄い人たちばかりだったから、周りの視線が怖くてびびって……」
 ごめんなさいっ! と腰を折る高森くんです。
 僕がぽやんと背の高い人の持病を気にしていたばっかりに高森くんに謝らせて大変申し訳無いです。高森くんに避けられていなかったことがわかり、ホッとしました。ですが、視線が怖かったとは?あ、あの時の恭くんの視線は怖かったですね。塁くんが高森くんをかっこいいと褒めてしまったので、ヤキモチで今にも噛みつきそうなくらいの鋭い視線でした。おっかないですが、恭くんは塁くんが誰にも取られたくないくらい大好きですからね。
 ん? なにかが引っかかります。ほんの微かなひとひらの疑問が僕の心へ降り落ちます。
「本当にすみません!」
 すると、高森くんがさらに今にも泣き出しそうなお声を出します。よくわからないことに気を取られている場合ではありませんね。高森くんの誤解をとかなければ!
「あの。僕こそご迷惑かけましたし、全く気にしていませんから、頭上げてください。そのジュースいただいてもいいですか?」
「ありがとうっ!」
「こちらこそありがとうございます。大変助かります」
 顔を上げた高森くんからジュースを受け取ろうと手を伸ばします。とっても嬉しそうな高森くんのお顔に僕も自然と笑みがこぼれます。
「その、あの、綾瀬くんにお願いが……。全然断ってもらって結構なんですけど……」
「はい……」
「お、お友達。まずはお友達になってください!」
 また勢い良く頭を下げられます。頭を下げただけなのに、風が巻き起こり風圧がすごかったです。よくわかりませんが、高森くんは腰の低い方だったんですね。まさかまさかの嬉しいお願いです。
「よ、よろしくおねがいします!」
 にっこり笑顔でお返事しました。高森くんはくずおれ、なにやら叫びながら膝立ちでガッツポーズをします。なにやら大げさに感激されました。

 鼻歌まじりに中庭を歩きます。たった1週間だけおやすみしただけですが、いつの間にか季節は進んでいます。中庭のあじさいが緑色のとてもとても小さな蕾をつけています。白色に青みがかった紫色とどんな色のお花が咲くんでしょうか。とても楽しみです。
 足が勝手に校舎裏へと向かいます。今日はノラさんのお迎えはありませんが、今朝のお電話でお兄さんからもらった『いってらっしゃい』が僕の足を動かします。今日、ひさしぶりの登校だからと、励ますように言おうとお兄さんが考えてくれた。その心の動きが嬉しいんです。
 いつの間にか早足になっていました。見えてきたコの字型のあの角を曲がればいつものベンチです。
 早く、といつもよりも大きく1歩を踏み出しました。タイミングよく角から出てきた人が。驚きで足が止まります。
「あれ? え? お、お兄さん?」
「ん。迎えに来た」
「にゃ」
 お兄さんの胸元にはノラさんが抱えられています。ノラさんはお兄さんの腕からするっと降り、音もなく地面に足をつく。くるっと背中を向けて、校舎裏へ前足を出します。
「おいで、翠。女王さまに置いていかれんぞ」
 くっと喉で笑ったお兄さんがこちらに手を差し伸べます。差し伸べられた長い指の手。その大きな手をみつめ、少しためらいます。何を求められているのかわからないからでもなく、触れたいと思っていた手がなんの前触れもなくすんなり差し出されたから。
「……はい」
 差し出された手に自分の手を乗せます。初めて触れた手のひらなのに、何年も何年も待ち焦がれていたような気がします。神経がすべて手のひらに移動したように、触れる体温、さらりと冷たい肌。そして、僕の小さな手をいとも容易く包み込んでくれる大きさに、心臓が乱れ切ります。
 久しぶりに会えたお兄さんに、さっきあった嬉しい出来事を数瞬前には早く話したいと思っていたのに。「あの」と言ったきり言葉が続きません。
「久しぶり。やっと翠の顔が見れたな……」
「ご、ご心配をおかけしました」
「んー。心配もしてんだけど……会いたかったんだよな。俺が」
「え?」
 少し前を歩く背中は堂々としているのに、最後はぽつりと呟くお兄さん。そのお耳は真っ赤で、真下でゆらんゆらんするピアスよりも鮮やかで、なぜか目が離せません。
「……僕も。お兄さんに……ノラさんに会いたかったです」
 精一杯の声を出したつもりなのに。風に散らされそうなくらい小さな声しかでません。だって、喉も胸をぎゅうと絞られたように苦しいんです。苦しい反面、もう知ってしまったら生きていけないような甘さが滲みます。不思議とその苦しさや甘さが嫌じゃ無いです。
「おそろい……だな」
「……そ、うですね」
 ギクシャクした沈黙。僕達2人の間に静かな風が流れます。梅雨の到来を予感させる湿り気を含み始めた風は、ぬるいです。気持ち良いとはいえない風や居たたまれない沈黙もお兄さんとなら、心地よいです。
「「いただきます」」
 ベンチに2人で人一人分の距離を開けて腰掛け、お兄さんのお弁当をその空きスペースに広げます。
 一緒に小さく手をあわせて、お兄さんお手製お弁当をいただきます。いちごミルクと青汁ほうじ茶オレをお供にです。
「おにぎりは翠が好きなおかかと鮭だろ。あとは定番の卵焼きと肉のおかずくらいな」
 両手で持たないと食べられないくらい大きなおにぎりがたくさんあります。
 おかずも焦がさずきれいな黄色が美味しそうな卵焼き、からあげにウインナーとしょうが焼きとお肉がメインのおかずさんたちです。男の人の豪快お料理って感じがして新鮮です。
 伊織くんなら彩りを考えて野菜を入れるところなんですが茶色メインのお弁当です。テリーヌとかカプレーゼとかキッシュとか横文字のご飯ばかりなんですよ伊織くんは。美味しいんですけどね。
「あの……どれがおすすめですか……」
 僕にはほとんど馴染みの無いおかずがたくさんありすぎて、目移りしてしまいます。選べない僕は、おすすめを聞きます。
「…………これだな」
 逡巡したお兄さんがひょいと巨大おかかおにぎりをくれます。お礼を言い両手で受取り、おにぎりを包むラップをぺりぺり丁寧にはがしていると、僕へ注がれる視線が増えました。背後からかなり強い視線を感じますね。いつのまにやらもふもふさまに背後を取られていました。
「にゃお」
 ぽん、と僕のお膝にもふもふの両前足が乗りました。ノラさんは目だけは僕のおにぎりを見ながらベンチにゆったり座っています。甘えるように、いや誘うように両前足を交互に動かします。こ、これはふみふみです。気を許した相手にしかしないと言われるあのふみふみです。
「翠。やんなくていーかんな」
「え、えあ」
「そのおかかおにぎり狙われてんだよ……負けんな!」
「にゃおん」
 い、板挟みです。女王さまの下僕としてはおかかおにぎりを献上すべきだと思います。けれどお兄さんからの剣呑な視線も怖いです。でも、でも、お兄さんの手作りおにぎりを食べたいです。うう。ごめんなさい。ノラさん。
 見られています。とてつもなく見られています。お兄さんからも反対側にいるノラさんからも。そして近いです。ノラさんのおヒゲが腕にあたっているような気配。ここまで待ってくれているノラさんには大変申し訳ないです。おかかクッキーでお許しを。両側からのとっても熱い視線を感じながら、パクっとおにぎりを頬張ります。
「おいしいですっ。これごま油ですか?」
 鼻を抜けるごま油の香りが香ばしくて、おかかのお醤油味にとても合っています。ぱくぱく、もぐもぐ、食べるお口が止まりません。
「よかったよ。口にあって。俺も食おう」
 お兄さんもおかかおにぎりを手に取ります。その途端に背後の女王さまはベンチからさっと降り、お兄さんの足元へ。お顔を擦り付けるノラさんを無視し、大きなお口でおにぎりにかぶりつくお兄さん。
 お兄さんのお口では三口くらいで終わっちゃいそうですね。食べ方がおきれいなのでとてもおいしそうにみえます。本当に美味しいんですけど。
 ノラさんのご機嫌を伺いつつ食べたおかかおにぎりやお弁当のおかずはいつのまにか全部食べ終わってしまいました。おかずの味が濃いめでおにぎりと相性抜群だったんです。からあげにはほんの少しだけにんにくが入っていて、鶏肉のジューシーさとあいまりやみつきな美味しさだったんです。僕はいつも量をいっぱい食べるほうではないんですが、今日だけはいつも以上の量を食べてしまいました。
 お腹が苦しくはないですが、スラックスのベルトに違和感です。お腹を手でさすっていると、ふっと柔らかい笑い声が耳に届きます。少し眩しそうに目を細め、口元を緩めているお兄さん。
「お腹いっぱいになったか?」
「はい。美味しかったです。あの、僕も渡したいものがあって……」
 あの微笑みはなんなんでしょうか。今まで見たことない……ありました。テレビ電話中にもお兄さんはあんな表情をしていました。けれど、直接見ると破壊力が段違いです。
 膨れたなにかがあふれてしまいそうなあの微笑み。こ、怖いです。自分でもわからない気持ちに戸惑う僕は、あの微笑みを見ていられません。たまたま目に入ったプレゼントを渡すことにします。背中に隠していた紙袋を両手で持ち、お兄さんに差し出します。
「は? あ、ありがと?」
「こ、これ僕が焼いたクッキーなんです。白猫さんのシールはノラさんようのクッキーで、もうひとつはどうぞ……」
 あの微笑みから表情を変えて欲しくてプレゼントを渡したはずなんですが、失敗です。今度は子供みたいなわくわくというお顔で紙袋を覗くお兄さんを見てしまいました。心臓がさらに聞いたこともない音を立てはじめています。お兄さんはラッピング袋を紙袋から取り出し、丁寧に封を開けています。
「いただきます」
 恭しく手を合わせたお兄さんは、肉球クッキー1枚を袋から取り出し一口パクリ。ドッと心臓を殴られたように、一瞬だけ鼓動が止まります。
「うま!」
 息をするのも忘れていた僕は一安心。じわじわ染み込むように熱が顔に集まってきます。自分のクッキーを褒められて泣きそうになり、さらに落ち着かない僕に気づかれたくないです。
「ありがとうございます。の、ノラさん用のはおかかを使ったクッキーでっ」
「ん。翠があげな」
「ぎょ、御意!」
 唐突すぎる話題転換も気づかないお兄さんは新たなクッキーを手にし口に放り込みます。クッキーを咀嚼しながら、お兄さんは白猫さんのシールを貼った透明なフィルム袋を僕へ手渡します。受け取ると、足元で毛づくろいをしていたノラさんがふらりと引き寄せられたように僕のお膝に乗ってきます。
 ノラさんは僕らの会話を理解していると思ってしまうくらい良きタイミングです。
「僕が焼いたおかかクッキーですけど、ノラさん食べます?」
 僕が持つクッキーを1秒たりとも視線を逸らさずに見つめるノラさん。ちょん、と前足でクッキーをやさしく触れます。早く出しなさい、ということですね。
 袋を止めていたシールを剥がすと、ふわんと香ばしいおかかの匂い。お膝の上に鎮座されるもふもふさんの目がギランと光り捕食者の目に変わります。そっと一枚猫さん型クッキーを口元へ持っていくと、ガブっと喰らいつきます。あっという間に食べてしまったノラさんは名残惜しいのか僕の指につくクッキーのカスまで舐めとります。
「まだまだいっぱいあるのでどうぞ」
 さらにノラさんへ肉球クッキーを献上します。手ずからクッキーを食べるノラさんのしっぽがご機嫌にゆらんと揺れ、僕の手首へ巻き付きます。ついにノラさんが僕へ愛情表現をしてくれました。嬉しいな。
 お膝の上にはとろけるように柔らかいもふもふさま。ずしとお膝にかかる重みも柔らかい。ぽかぽか温かい陽射しの中で、頬を撫でる風はぬるいけれど、それさえ気持ち良い。時間の流れさえもゆったりしているような喜びに満ちた時間。
 まるで絵本の中にいるようなまったりと過ごす心落ち着きます。
 そういえば、仲間と仲良くご飯を食べるシーンを絵本で見るたびに羨ましかったな。前まで存在感が全く無いゆーれいさんである僕とご飯を食べてくれるお友達もいなかったですから。
 だって、僕の体調がいつも突然悪くなってしまうので、お約束を守れないことが多いんです。それで、次第に皆僕とのお約束をしてくれなくなってしまいます。気を遣ってくれているのか、僕の負担になると考えてくれるのかもしれませんが。
 それに、いつ来るかわからない人間を待つのは誰だって、不快です。来るかもわからない確実性のない僕を、自分の大切な時間を削ってまで待つことはしないですよ。皆、僕なんかより勉強や友達との遊び、部活とかたくさんすることが毎日あるんです。
 日々落ち着いて生きていくことすらままならない僕なんかに、構う暇なんかないです。自分の体調すら管理できない、僕にお友達なんかできるはずも無いです。本当は僕はそのお約束があるおかげで、休んでいる間そのお約束の持つ温もりやお約束を果たしたあと皆の喜んでくれる姿を見れる期待や楽しみな気持ちを支えに治療に励めるんですけど。
 そんな僕の『わがまま』を押し付ける訳にもいきませんしね。『わがまま』は僕なんかを気にかけてくれる優しいひとすら不幸にします。絶対に口に出してはいけません。
 だから、僕には絵本だけ。
 楽になったと思った次の日にはまた苦しくなり、どうしたって僕の体調は安定しません。次の発作がいつになるかもわからない。予定通りにいくことなんてほぼありえません。体調が揺らぐタイミングをはかれたら良いけれど、それもできず。落ち着かない、脆い僕の体調を待っていてくれる存在は絵本しかなかったんです。
 本は、僕が読み始めるまで物語の時間が止まっていてくれます。自分ですらよくわからないほど脆くて不安定な僕を読み始めるまで待っていてくれる。ダメダメな僕のペースに合わせてくれる貴重な存在だったんです。だから、今までは絵本や小説たちがゆーれいさんである僕のお友達でした。
 無機物にしか相手にされないゆーれいさんな僕。
 こんな僕がこんなきれいで愛らしい猫さんとピアスがかっこいいお兄さんとお昼を食べられるなんて凄い贅沢です。
「ふふふ、贅沢ですね……」
 胸の内からついこぼれた言葉。
「ん?」
 こっちを振り向いたお兄さんは静かに目で続きを促します。僕の子供っぽい発想を聞いても笑ったりしないと思えるくらいその目が優しいです。
「あの……美味しいものを大好きな皆と一緒に食べられるって最高の贅沢だなって思ったんです。僕、今までこういうことが全くなかったので、本当に嬉しくて。……時間ごと大事に取っておきたいくらい宝物です」
「だから、贅沢か……」
「あ! それに、絵本の……ぐりんとぐらんみたいじゃないですか。陽だまりの中で大好きなみんなでワイワイ美味しいものを食べて賑やかなお食事している場面が一緒なのもいいなぁと思いました……」
 う。やっぱり言い終わったら照れくさいです。お兄さんが無言なのはなぜ。あまりに子供っぽい発想で引かれてしまいましたかね。ベラベラ話し過ぎて乱れた呼吸と鼓動を落ち着かせるため、ノラさんの背中を撫でます。もふもふんとした手触りに癒やされていると視線を感じます。
「お兄さん?」
 そろそろと顔を上げると、思ったよりも近くに真剣なお顔がありました。真剣な表情のお顔は精巧な芸術品みたいにかっこよくてドキドキしてしまいます。
 答えないお兄さんは僕を見つめ、また眩しそうに目をたわませます。じっと見つめる漆黒の瞳に揺らめきながら熱が生まれたような気がします。それに、お兄さんの微笑みがいつもより甘く感じられて、目が離せません。熱を帯びた眼差しを向けたまま、お兄さんは手を伸ばして来ます。ゆっくりと近づく大きな手を見ながら、いつものように頭を撫でて貰えると期待しました。期待と突然向けられた熱に戸惑い、ぱちくりと瞬きをするだけで精一杯で動きをとめてしまいます。それから、大きな手はするりと、僕の右頬を撫でました。
「え?」
 思わず素頓狂な声を出すと、お兄さんは弾かれたように手を離します。お顔も。所在なく僕の周りをウロウロする手。お兄さんと再び目が合うと、決まり悪そうにすいっと逸らされました。
「な、あれ……だったよな! 仲間、と、食べたのってホットケーキ!」
「それ……は白いくまちゃんのお話で別の絵本です。ぐりんぐらんはカステラですね。とっても大きいフライパンにみんなで協力して焼くんです。今はクッキーですけど……」
「あ。そ、そうだな! そう……そうなんだよ……」
 何かに気を取られているのでしょうか。手を握ったり閉じたり、言葉がやけにたどたどしいです。視線も頑なに合いません。おもむろに下を向き頭を抱え大きく息を吐くお兄さん。
 やがて顔を上げるとずいっと手を伸ばし、ノラさんの頭をワシャワシャ乱暴に撫でます。
 ノラさんが嫌そうにしっぽをベシンと振り下ろします。
 僕はそんな2人のやり取りをぼんやり眺めながら、未だ右頬へ残る感触を噛みしめるように手をやりました。触れられた部分だけちょっと熱い気がしました。
 先日、中間テストも無事に終わり、梅雨入りはもうすぐの今日。放課後の今は大雨です。
 天気予報では夕方から一時間ほどゲリラ豪雨の予報でしたが、窓の外は薄暗く、かなり激しく雨が降っています。降る雨粒の勢いが凄すぎて、教室の窓の外の世界は白く霞んで見えます。音もゴウゴウ、バチバチ。窓に雨粒が当たる音とは思えない物騒な音。
 ノラさんは大丈夫ですかね。地域猫さんとして雨風から避難できる場所がどこかにあるのでしょうか。
 雨足の激しさに今すぐに帰る気にならないです。今日は伊織くんが生徒会のお仕事で一人で帰るので、時間潰しのために図書室へ本を読みに行きましょうか。
 置き傘がカバンに入っているので今すぐに帰れないこともないんですが、悩みます。ずぶ濡れで帰って体を冷やし風邪でも引いてしまったら発作も同時に発症しますから。またおやすみになるのは困ります。
 帰りの準備万端のカバンを机に置いたまま窓をぼんやり眺め、悶々と考えていると。
「翠」
 名前を呼ばれます。にわかに教室の空気がざわめきます。慌てて声のする方向へ顔を向けると、まさかの人物です。左手をドアに掛け、「おいで」と右手の指を折り曲げ手招きをしています。
「あ、あの……」
 座席から立ち上がり、その人物のもとへ小走りで向かいます。
「お兄さんどうしたんですか?」
「ちょっと今から時間あるか? すげー雨だし止むまで時間潰し付き合ってくんね?」
 身をかがめるお兄さん。その拍子にピアスが揺れてかっこいいです。クラスメイトさんが僕達にさらに視線を集めだしてしまいます。こんなかっこいいお兄さんがいたら自然と見ちゃいますよね。
 でも僕はそんなことを気にする余裕も無いです。お兄さんの来訪とお誘いにいっぱいいっぱいです。
「じ、時間いっぱいあります!」
「んん゙、じゃ一緒に帰れそ?」
 こくこくいっぱい頷くとお兄さんは目元も口元も緩めます。
 座席にカバンを取りに行き戻って来ると、さり気なくカバンを取り上げられて僕のカバンを肩にかけます。流れるような所作で荷物を持ってもらっちゃいました。気配りが大人の男の人っぽくてかっこいいですね。さらに、廊下に出た直後、するっと手を繋がれます。最近はことあるごとにお兄さんに手を繋がれてしまいます。未だに慣れない僕は手汗をかかないように必死です。
「あ、あのどこに……」
 お兄さんの足は特別コースの校舎から旧校舎まで黙々と進みます。この旧校舎は文化系の部活の準備室くらいしか使われません。ほとんど施錠された教室ばかりなので放課後すぐなのに、ほとんど人気もありません。お兄さんは目的地があるように淀みない足取りです。
「んー? この前いいとこ見つけたんだよ。これから熱くなるから涼しく昼メシ食うとこに」
 さらっとこれからもお昼ご飯を一緒に食べてもらえると言われました。実は不安だったんです。これから雨の日が増えるから、あの校舎裏では濡れてしまうので食べられません。だから、一緒に食べてもらえなくなってしまうかも不安でした。嬉しい。胸がきゅうっと苦しくなり、口を噤ませます。けど最近よく起こるその甘い痛みが嫌じゃないんです。
「…………」
「あー、ごめんな。勝手に。もう暑くなってきたから、部屋ん中のほう涼しいからな。ノラいねーから俺と2人ってつまんねぇかもしんねーけど……」
 そんなことありません。ノラさんには悪いですが。
「お、お兄さんと一緒ならどこでも楽しいです!」
「あ゛ー。……ありがとうな」
 お兄さんが口元を押さえます。きらめくピアス揺らめく耳たぶがほんのり赤く染まります。もしかして照れています?
「……俺も翠となら⸺」
「翠?!」
 小さなお兄さんの声が大きな叫び声に遮られます。廊下に響くお声は僕の名前を呼びます。お声へゆっくり振り返ります。視界にまず飛び込んでくるのは煌びやかな金髪です。
「い伊織くん?!」
 なぜここにいるんでしょう。今日は生徒会長さんのお仕事をするって連絡があったはずなんですが。
 伊織くんはなぜか僕の手元を見て、眉を寄せます。ふいに肩をつかまれ、後ろへ引かれると同時にお兄さんが1歩前へ。僕の視界を遮るように、僕と伊織くんの間にお兄さんがなぜかいます。
「篠崎。お前……」
「翠がよく言う『伊織くん』ってやっぱりお前だったんだな……」
「あ? なんでお前なんかが……」
「ただの従兄弟の伊織くんには関係ねーよ。俺と翠の仲だからな」
 お兄さんの広く逞しいお背中越しの会話がいやに挑発的では。それに、伊織くんはお兄さんの名前を言いました。2人はお知り合いなんですか? と尋ねようとしますが。できませんでした。
「はぎゃ! お、お兄さん?!」
 お兄さんは繋いでいた手を指を絡める繋ぎ方に変えます。ぎゅっと絡めた繋ぎ方は、さらに密着度が高いです。大きな手のひらにぴったりくっついたところがじんじん熱いです。
「おにいさん?」
「おい、いつもの爽やか笑顔が消えてんぞ。従兄弟の佐倉伊織くん」
「名前も呼ばれないお兄さんは翠から手を離してもいいんじゃないかな?」
 お兄さんが舌打ちしました。頭上で飛び交う会話及び空気が心なしかぴりついています。
 お兄さんは伊織くんをまっすぐ見つめています。眉を寄せたお顔は、なぜか悔しそうに感じます。繋いだ手にさらに力が篭ります。
「ゴメンな佐倉。翠と雨止むまで校内デートして一緒に帰んだよ。お前こそ、ここ離れてくんね?」
「はっ! 篠崎お前は野良猫に傘かける役割だろ。ほら野良猫がデート待ってるよ。翠は僕が送っていくよ」
 お兄さんが地域猫ノラさんを飼っていることを伊織くんも知っていたんですね。僕だけが知っていると思っていたのに。お兄さんと僕、二人だけの秘密だと思っていたのは勘違いだったんですね。
 それに、さっきからお兄さんの口調は僕へ話しかける時と全然違います。遠慮が無い、もしくはぞんざいな、砕けた口調です。お互いに名字を呼び合う言い方も2人の親密さが見えます。不意にずん、と胸の奥が重くなります。
 いつの間にか近づいていた伊織くんに自由な方の手首を掴まれ、引っ張られていました。
「翠。そいつなんかに触れられたら翠が汚れるから、離れて。篠崎より『家族』の僕がいいよね?」
 なんでお兄さんのことそんなに悪くいうんですか?! 伊織くん……。あんなに自分は仲良ししてもらっているくせに。かっこいいとまで言われているくせに。
「いやです! お兄さん優しくていい人です!」
 つい考えるより先に口から突いて出た反論が、廊下に反響します。
「翠?」
「僕は……」
 伊織くんは僕の手首を掴んだまま固まっています。その表情を見た途端、過去に一瞬で攫われます。全身の血の気が引き、目の前が真っ暗になります。耳の奥で誰かが泣いています。ああ、これは僕と伊織くんだ。自分のお母さんと弟のお葬式すら発作で入院したから出られず僕が泣いていたら、伊織くんも泣きだしてしまった時の。
 僕、なんて酷いことを伊織くんにしてしまったんでしょうか。ダメ。ダメ。また伊織くんにこんなお顔をさせたら……。
「ご、ごめん。伊織くん」
 みっともなく震える声。
「翠」
 お兄さんに名前を呼ばれ、目が合います。ああ、お兄さんも悲しいお顔になってしまいました。
 やっぱり『わがまま』を言ってはいけないです。みんなを不幸に悲しいお顔にさせてしまいます。こんな『わがまま』な気持ちは押し潰して、もうなかったことにしましょう。
「ごめんなさい。お兄さんにご迷惑かけちゃいましたね。もう会いません」
 2人に掴まれた両手を思い切り振り払います。非力な僕の力でも振り払えたのはお兄さんも迷惑だと思っていたからなのかもしれません。
 2人の表情を見たくなくて、駆け出します。呼び止められる声がした気がしても、もう無理です。
 これ以上『わがまま』になってしまったら、伊織くんだけじゃなくてお兄さんまで不幸にしてしまいそうで。怖いんです。宝物みたいな時間をくれたお兄さんを不幸にしたくありません。
 どこに向かうわけでもなく、とにかくこの場所から離れたかったんです。普段運動なんてしない僕は大して距離を走っていないのに呼吸が苦しい。でも安心します。これだけ苦しければ、2人を傷つけた分くらい自分を傷めつけられています。
 息が切れ、生理的に滲む涙のせいで視界はぼやけています。
 階段。ここを降りたら、遠くへいける。鉛のように重くなった足を踏み出します。踏み出した足が、空を切る。あっと思った瞬間には、体が大きく前へ傾いでいます。落ちる、と悟った瞬間、体へゾクりと悪寒が走り抜けます。襲い掛かってくるであろう痛みや衝撃を覚悟し、目を瞑りました。
「あぶなッ」
 衝撃の代わりに甘い香りがします。落ちるはずの僕の体をお兄さんが後ろからお腹へ回した片腕で支えてくれています。落ちないように手すりに掴まりながら。
 背中へ押し付けられた厚い胸板からはどくどくと早鐘のような心臓の音が伝わってきています。
「あ、ありがと、ございます」
「ん。深呼吸。発作出ていないか?」
「は……い」
 僕の体を片手でぐいっと引っ張り上げ、お兄さんはぎゅうと両腕を僕のお腹へ巻きつけます。優しすぎます。怖いくらい、その優しさが温かくて。無事に床に足がつき、深呼吸を繰り返し呼吸を整えようとしているのに心臓が未だに忙しなく鼓動を打ちます。
「こっちこそさっきは庇ってくれてありがとな。なぁ、だからさ。もう会わないとか言うなよ」
 注がれる声はやっぱり優しくて、でもどことなく不安げに掠れています。
 もっと心臓が痛くなる。落ち着かないです。申し訳なくて、あとは自分が変えられてしまいそうなどうしようもない気持ち。追いかけて来てもらえたこと、自分があの飄々としたお兄さん不安にさせていることにあさましく喜んでいる。もどかしくてあさましいこの気持ちを持て余してしまいます。
「頼むから。……な?」
 僕の首に顔を埋めるお兄さんは重ねてまた聞き直します。小さな声だけれど、回された腕の力を緩めることもしません。どっちにしても離さない、と言われているようです。
 また喜ぶ自分がいやです。お兄さんにここまでしてもらえるような人間じゃないのに申し訳ないです。本当は子どもじみて汚いことばかり考えているようなやつなんですよ。
「庇うとか、違うんです。お兄さんと伊織くんが仲良さそうだったから……もやもやして。八つ当たりというか、わがままいいました。不幸にするのに……ごめんなさい。わがままを言って」
 声が震えてしまわないように堪えていたら、瞳の奥が熱くなります。ぽろぽろ落ちる雫が頬を勝手に濡らしていきます。泣いたりして見苦しいです。身勝手な涙を引っ込めたいのに、次から次へと涙が溢れてきます。
「僕みたいなやつはたった一つのわがままで誰かの幸せを奪って悲しいお顔をさせてしまうんです。
 僕は伊織くんとお父さんから家族を奪ったやつです。僕のお母さんと弟、伊織くんのお母さんが亡くなったのは本当は交通事故なんかが原因じゃないんです。みっともなく自分勝手で子供じみた『わがまま』を言った僕のせいなんです」
「……佐倉の母親も翠の家族と一緒に亡くなったのか」
 そう独り言のように呟くだけで、お兄さんはなぜか僕の本心や醜い本性を聞いても腕を離しません。
 いつの間にか小刻みに震えていた両手でお腹の腕を引き剥がそうとしますがうんともすんともしません。体ごと抜けようともぞもぞ身をよじりますが、さらに腕に力をいれられ抱き寄せられます。
 それだけじゃなくて、お兄さんは僕をひょいと持ち上げると抱えたまま廊下に座り込んでしまいました。あぐらをかいたお兄さんの足の上に横向きに座らされます。僕の頭に手をあてがい、ことりと胸に頬を預けさせます。そして、髪をゆっくりとすくように撫で始めます。
 いつもは撫でられたらぽかぽか心が温かくなるのに、苦しいな。まだまだ話せってことでしょうか。……そうか。醜い僕のしでかした罪をお兄さんにさらけ出せば。お兄さんから、この手を離してもらえます。そんな投げやりな気持ちで口を開きます。
「僕、妊娠中つわりで寝込むお母さんに、構って欲しくて発作がひどいフリをしたんです。わざわざお母さんが病院行く日に。そうしたら、お母さんもお父さんも僕にかかりきりになるから、お母さんも病院行けなくなるって考えて。でも、伊織くんのお母さんがお母さんを病院に送って行くってことになって、信号待ち中に居眠り運転のトラックが……2人とも、赤ちゃんも亡くなって」
 僕があの時、未来の弟に嫉妬しないで少し咳が出てきたくらい我慢して、お母さん達と病院へ行けば良かったんです。それに、少し考えれば分かることだったのに。お父さんと僕だけ家に残してお母さんだけで病院に行くことも、隣に住む伊織くんのお母さんがお父さんの代わりにお母さんの病院に付き添うことも。伊織くんの家族からお母さんを奪うことも、お父さんから赤ちゃんとお母さんを奪うこともなかったのに。
 自分勝手な子供じみた嫉妬まじりのお母さんを取られたくないっていう『わがまま』で、皆の大切な家族を奪った。お母さんが病院に行くたびに豆みたいな赤ちゃんの写真をとっても幸せそうな笑顔で見せてくれました。隣でお父さんも同じお顔をしていました。でも、あの幸せそうなお顔を僕が言った『わがまま』のせいで永遠に失ってしまった。普段から発作のせいでただでさえ家族に迷惑をかけている、自分の世話もできずに脆く、弱っちいくせに。
「……翠」
「だから、皆を傷つける、不幸にするくらいなら、わがままは言わない。そう決めたんです。伊織くんを不幸にした僕ができる罪滅ぼしはそんなことくらいしかないから。
 ごめんなさい。わかっているんです。伊織くんのお母さんや僕のお母さんや赤ちゃんが亡くなるより、自分勝手なくせに脆い体で皆に迷惑しかかけられない『わがまま』な僕のほうが死⸺」
 続きを言えません。物理的な理由でです。ぶちゅっと頬を片手でつままれ、強引に上を向かされたからです。吐息がかかるくらい近くにお兄さんの顔が近づきました。真摯な眼差しの奥は怒りや悲しみに翳っています。掴まれていた頬へ両手が添えられました。
「…………」
 優しい指先が両目尻に残る涙を拭い去ると、踊り場の窓に雨粒がぶつかる激しい音が見つめ合う僕達の間に響きます。痛いほどの沈黙を破るため端正な唇は動きました。
「翠は可愛い。はい。復唱」
「へ?」
 至近距離にある形が良い唇は動くたびに吐息をかけます。よくわからないことを言いながら。
「復唱。翠は可愛い」
「ぼくは…………可愛いい?」
 捕らえるような強い視線に操られ、なぞるように口を動かします。突然、こんな恥ずかしいことをなぜ言わされているんでしょう。泣き過ぎてぼんやりした頭ではわかりません。
「翠は悪くない。ん。復唱」
「ぼくは……悪くない」
 お兄さんの揺るぎない優しい声に導かれるように唇を動かします。なぜか胸の奥深くのどろりとした澱のようなものが減ります。ぽろぽろ落ち続ける涙が止まる。瞬きで頬へ雫が滑り落ちます。ずっとぼやけていた視界には優しく微笑むお兄さん。優しく弧を描く唇が、沁み込ませるよう丁寧に1音1音声に出します。
「翠は生きていい。ん。復唱」
 唇が、喉が、震えて。声が出せません。この言葉を口にするとすべてが変わってしまう。漠然とした恐怖に駆られます。お兄さんの親指が、する、と下唇をあやすようにように撫でます。撫でられたところから震えが止まり、こわばりがほどけていきます。
 ふと心のベクトルが変わる。自分でもよくわからない、力強く引いていく力が働いたようです。慈しむようにとても優しい指先になら変えられても構わない、と。
「ぼく……は……生き……ていい?」
「そうだよ」
 もつれる舌を必死に動かし、紡いだ言葉。ほとんど言葉の形を成さないそれを拾い上げたお兄さん。顔を寄せ、僕と額をコツン、と合わせます。
「俺は翠に出会えてすっげぇ嬉しい」
 切れ長の瞳を眩しいくらいの、蕩けたような笑みにふわりとたわませました。
 包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔を真正面かつ至近距離から見てしまったからなのか。冷えきった心の奥深くまで力強い温もりに満ち足りていきます。心の奥底へ沈み込んだ恐怖や迷い、罪悪感を固めたようなどろどろの澱が不思議とその温もりに溶けていくように心が凪いでいきます。
 嬉しくて、涙が出そうなくらい目の奥が熱いです。でも、涙はでてきません。もしかして、嬉しすぎたり悲しすぎたりする激しい感情には、ひとって体の反応が追いつかないのかも知れません。僕にはそれだけお兄さんの言葉が嬉しかったんです。顔を離したお兄さんは真っ直ぐ僕を見つめる。
「それにな、俺から言わせれば翠の抱える罪悪感は独りよがりだよ。虚しい苛立ちをぶつけることもできず、どうしたらいいのかわからないから。勝手に自分のなかで理由を作り出して、自分を責めているだけなんじゃね。たしかに、自分のなかに理由があれば、事故で喪った大切な家族に対するやるせない無力感はごまかせるけどな、本当にそれで良いのか?」
「……で、も……」
「どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんだよ。自分を責め続けたところで反省や罪滅ぼしにもならない」
 静かな怒りを潜ませた低い声できっぱり言い切るお兄さん。
「…………」
 突きつけるような強い怒りを含ませた言葉に、喉がひくっと震えました。
「本当は気づいてんだろ? 誰もそんなこと望んでいない。佐倉伊織や翠のお母さんも絶対に。世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。でも、翠なら出来る」
「僕……なら?」
 未だに頬を包む大きな手に手を重ねます。温かい。
「うん。絶対に出来る。だから、これまで翠が押さえ込んじまった気持ちや想いを、これからはどんな小さなもんでもわがままさえ見つけてやって欲しい」
 俺も翠の気持ちを大切にしてやりたいよ、とお兄さんは笑いました。さっきと同じ包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔で。ああ、話して良かった。最初は自分の醜い過去や欲望を話してしまえば、幻滅され軽蔑され、お兄さんから離れていってくれると思いました。このままお兄さんと関わっていれば僕はもっと欲深く、わがままを言い出すだろうから。
 ……お兄さんまでも不幸にしたくなくて。
 いいえ、もうこれ以上お兄さんに対する気持ちを持ち続けていても、自分は誰かを不幸にするしかないんだから、もう諦めて捨てろ。自分にも思い知らせ、戒めるために。打算もしくは自虐で話しはじめたんです。それがいつも出来なくて、不安に蝕まれた末に投げやりに告白し、お兄さんの方から去っていって欲しかった。でも、真っ直ぐ黙って受け止めてくれました。それだけじゃない。眩しいくらいの言葉を力強く手渡してくれました。自分のことを責めて責めて、責め倒して、それでも誰かに『違う』と言って欲しいと心の奥で求め待っていた。けれど、そう思ってしまう自分の『甘え』を認めたくなくて、甘えるなと自分を責めてその気持ちに見ないふりをしていました。ずっとそんな独りよがりの罪悪感に囚われる自己満足を何度もなんども繰り返した。一人で抱えこんだくせに、泣き叫んで暴れ回りたい衝動が全身を駆け巡り、胸が重くて苦しくて、息を吐き出すのも吸うのも苦しかったんです。
 本当は誰かに話したかったのかも知れません。と初めてあの日の真相を言葉にして初めて気づいたんです。心の奥の奥深い部分では、あの日から囚われる自責の念から救われたいと願い求めていたんですね。ずっと。
 だから、誰にも、伊織くんにもお父さんにも話せないことをお兄さんに話したのかも。お兄さんなら。優しくて強いあの人なら話しても良いと信じて。自己満足にしかならない罪悪感だったとやっと気づけた。
「お兄さんに話を聞いてもらえて、話せて良かったです。ありがとうございます」
 もっと感謝の気持ちをこめたいけれど、言葉にならないです。それでも、口元も目元もふにゃふにゃなこの笑顔で伝えられたらいいな、と思いました。
 お兄さんは大きく目を見開いて、一瞬だけ固まります。良く出来ました、とふわりと微笑むと、そっと僕を抱きしめてくれました。あの初めて出会った時と同じ甘くやわらかな香りにふんわり包まれます。頭を撫でられるのも同じです。
「それにな、可愛い翠はわがまま言っても良いンだよ。わがままって言うのは欲ってことだろ。あー、本で見たけど、人って欲があるから生きるんだってよ。」
「欲があるから……生きる」
「ん。生きてれば皆ごく当たり前にわがままだし、欲張りになるんだよ。たしかに俺なんて最近欲だらけだしな……」
「ごく当たり前に……わがままですか。みんなも? お兄さんもですか?」
 お兄さんが話す内容が頑なだった僕の価値観がひっくり返るものです。
「そーなんだよ。わがままより質悪いな、俺の場合はそいつには欲しかないな。そいつのことになるとなんかアホみたいに何でもないことで、嫉妬したり、……しょうがねーことだし、家族なら当たり前だし正しいことなんだけどな。……理屈抜きにすっげーただただ悔しい。本当はそいつのことを俺だけが一番特別に気にしてやりたいのに」
 ハア、とお兄さんが悔しげにため息を吐きます。なにやらお兄さんも悩んでいることがあるんですね。今度は僕がお話を聞く番ですよね。黙って聞きましょう。
「そんな善意を押し付けるようなことをしている奴等を嫌ってたのに、家族よりなにより俺だけを頼って欲しい。そいつの大事にしたかったもんまで蔑ろにしそうな自分が嫌になる。無理やりにでも全部俺だけがって……。俺ってこんなに歪んで性格悪い……いや、もともと良くはないんだけどな」
「あの! お兄さんはとっても優しいです! 僕……」
 大事なことなので、つい割り込んでしまいました。ぎゅうとお兄さんのシャツを握ります。
「ん。ありがと」
 お兄さんは僕の肩に顎をぽすんと乗せると、僕の手に指を絡めました。首筋に吐息がかかるくすぐったさで、つい指に力を入れてしまいます。我慢です。
「肝心のところで、グズグズ尻込みして情けなくてかっこ悪いヘタレ。全てにおいて、そいつのことはままならねーのがな……」
 顔を上げ、握りあった手を見つめるお兄さんは口元を緩めなんだか嬉しそう。
「……嬉しそうです」
「あー、うん。嬉しいよりはそんなヘタレた俺も楽しいんだな。初めてこんなんなるんだけど、そいつに会うだけで、少しでも笑ってくれたらどうでも良くなってくるんだよなー。うんうん」
「そう……なんですね」
 首を傾げたり頷いたり、忙しいお兄さんは、照れたようにやわらかに笑います。頬が淡く色づく笑顔はとっても甘く優しいです。
 晴れやかだった胸がもやもやし始めてきちゃいました。こんな僕をお兄さんに見せられません。お兄さんのお胸に額を押し付けぐりぐり左右に動かし、振り払います。
「ん? 眠いか?」
「ち、違います……えっと、その……」
「ん? して欲しいことはなんだ?」
「そ、そう言うわけでもなく……自分でもよくわからないんです」
 フッと小さく笑ったお兄さん。
「んー? じゃあ練習するか?」
「れ練習?」
「そう。お互いわがまま言い合おう。翠が自分の気持ちを見つけて言葉にすんのを慣れて、俺にたっぷり甘えられるような!」
「あ甘える?」
「わがままを一つずつ! お互いに言って叶えてもらうんだ。俺は翠のを、翠は俺のわがままをな!」
 人差し指で僕とお兄さんを交互に指しながら弾むような笑顔で言います。
「翠が俺に望むものは? わがままは?」
「あ、その……お兄さんは良くても、僕のわがままはやっぱり……」
 お兄さんが優しく聞いてくれますが、じっとりと手に汗が滲みます。胸が重くなり、僕はやっぱりまだ恐いです。せっかくお兄さんが僕のために提案してくれた練習をしてみたい気持ちもあります。が、お兄さんをもし不幸にしてしまったら嫌な想像が駆け巡ります。
「……不幸にさせそうでまだ恐いか?」
 図星でついこくり、と頷いてしまいます。呆れられたでしょうか。お兄さんがあれだけ言葉を尽くし、僕なら出来るとまで信じてくれたのに。やってもいないうちに尻込みする臆病者な僕に。
「あのな、翠。こっち向いて」と優しく呼びかけられ、いつのまにか俯けていた顔を上げます。
 澄み切った漆黒の瞳が強い意志を湛え僕を真っ直ぐ見つめます。
「俺は翠のわがままだったらどんなんでも嬉しいし、受け止める。ぜったい叶えてやるから。可愛い翠の望みを叶えてやれるんなら俺は幸せに決まってるだろ!」
 自信満々に言い切られ、息を止めてしまいます。俺は幸せに決まってる。お兄さんはそう言いました。誰かのわがままを聞いて幸せになれるものなんだろうか。信じられない、けどお兄さんを信じたい。僕へいっぱい優しい言葉をくれたこのひとを。
「幸せ? お兄さんが?」
「ああ。翠がわがままを言えるくらい俺に心を開いてくれて、甘えてもらえるなんて幸せだよ」
 言葉になりません。どこまでも優しい言葉に。今までわがままで幸せになれるなんて思いもしませんでした。でも、お兄さんはわがままは心を開いているからこそできるものだから、幸せだと。
 わがままを言い易くするために気遣いで出た言葉でも、嬉しかった。こんな僕のわがままで誰かを幸せにできるのならば、自分の汚い子供じみた心の奥の本音を取り出してみても怖くないのかも。
「僕はわがままをいってもお兄さんを幸せにできる……」
 心の中で思っていたことを声に出していました。
「ん。俺が幸せになるために、翠は1日1回わがままを言ってくれ。喜んで叶えてやるからな?」
 お兄さんからもらった言葉が降り積もり、温かくて眩しい光に包まれたように僕の恐怖が霞んでいく。
 幸せにしたい。お兄さんを。自分が今までもらったやすらぎや喜び、優しさ、温もりを少しだけでも返すことができたなら。
 自分でも驚くほど迷い無く覚悟が決まります。男の子として、ここまでよくしてもらったお兄さんを幸せにするために。今まで押さえてきた自分の心にあるわがまま、だけじゃなくて、いろんな感情とも向き合いたいです。
「がんばり……ます!」
「うん。俺に望むもの、して欲しいことはなんだ?」
 改めてお兄さんが問いかけます。ですが、今は特に思いつきません。自然と眉が寄ってしまいます。
 ぶは、と息を漏らすように笑うお兄さんは、繋がれた手をゆるく振ります。
「じゃ、俺のわがままを先に叶えてくれよ。ちょっとついて来て」
 なぜだかお兄さんはいたずらを今から仕掛けようとする笑顔で、僕をひょい、と持ち上げます。
 こともなげにお兄さんは僕をかかえたまま旧校舎の階段を昇っていきます。
 そして、あとは屋上だけというところまで登ってしまいました。
 この先の屋上は原則として生徒の立ち入り禁止です。それに警備上の理由で鍵がかかっていたような気がします。
 やはり階段を塞ぐように立ち入り禁止と書かれたホワイトボードがあります。ですが、お兄さんはホワイトボードを気にも留めずに、足で横にずらし階段を登っていきます。な、なんかお兄さん手慣れていませんか?
「長く学校にいんと色々詳しくなるし、変わった知り合いも増えんだよ」
 僕の気持ちを見透かしたように罰が悪そうにお兄さんが答えます。
「はい。ここに立って」
 階段を登りきり、屋上の扉の前にお兄さんの腕から降ろされます。
 屋上へ続く鉄製の扉はところどころ錆びており塗装が剥がれています。グレーの扉に赤胴色のまだらな模様ができて不気味です。
 採光の窓からは光が漏れていて、もう雨が上がったみたいです。
 それにしても、今から屋上になんの用なんでしょうか。床は濡れているからビシャビシャに上履き濡れますよ。よくわからず扉とにらめっこをしていると、お兄さんがポケットから取り出した鍵をドアノブに差し込み回します。
 やがてぎいっと重たい音を立てながら扉を開きます。
 薄暗い場所から出ていきなり明るい日差しを受け、一瞬視界が真っ白に満ちます。眩しさで思わず目を瞑ります。
 頬へ強い陽射しの温かさを感じながら、目を開けると。視界いっぱいのどこまでも続く澄み渡る青い空。
 晴れている真っ青な空を屋上の水面が鏡のように反転し映していました。屋上の床1面が大きな水たまりになっています。その水面に空が投影されています。
 日差しが差し込み反射した輝く粒が、キラキラ光が溢れる虹をかけています。虹も水鏡に反転してつながり、7色のまあるい光の束が浮かんでいます。
 きらきら輝いて、逆さまで空の境目がない、夏の気配を感じさせる濃い青色の滑らかなグラデーションの空。果てなく続いていきそうな空は手を伸ばせば違う世界に触れられそうです。ダイナミックなのに、幻想的で神秘的な美しさに瞬きするのも惜しんでしまいます。
「……きれい」
「だろ?雨上がりのここを翠と見たかったんだ」
 僕の肩に手を置いたお兄さんは満足気に呟きます。その見たこともないくらい優しくて甘い微笑みに見惚れます。
『欲しい』
 ストン、と僕の心の真ん中へ落ちてきました。そして、弾けます。色んな気持ちが胸に止めどなくパチ、パチ、気泡のように弾け出します。
「僕だけがみていたい」
「僕だけに向けてほしい」
「そんな笑顔のお兄さんのすべて欲しい」
「僕を好きになって欲しい」
「僕だけを見ていて欲しい」
 あさましいですね。この笑顔を僕だけに向けて欲しいんです。お兄さんのすべてが僕は『欲しい』です。
 ざぁ、と強い風が吹く。
 僕の髪が舞い上がり、水面が波たちさざめきます。呆気なく水鏡の中の真っ青なお空と虹は消えてしまいました。残したいのに。欲しいのに。儚く消えてしまったきらきらの瞬間。あの眩しい笑顔を僕の中へ残しておきたいです。せめてかけらだけでもいいですから。
「えっと、お兄さんのお名前呼びたいです。その……今日のわがまま……です」
 変わりにこんなことしか言えません。ちゃんと言葉にしてしまったら、お兄さんに嫌われてしまいますから。いくらお兄さんが僕の気持ちを見つけ大切にして欲しいといっても限度があると思います。
 独占欲まじりのこの気持ちは押し付けてはいけませんよね。だから、せめて名前だけでももらいたかった。名前ぐらいしか僕がもらえそうにないですから。
「は? まじ? ど、どうぞっ!」
 両肩を持たれぐりんっと体を回され、力ずくでお兄さんと向き合わされました。なにやらきらきら期待の眼差しで見つめられています。真っ直ぐお顔を見るのが恥ずかしくて、そっと視線を外し口にします。
「げん……さん」
 小さく呟いた僕の言葉を拾ったお兄さんはなぜか複雑な表情です。ですが、僕は鼓膜を揺らすその名前に胸がうずうずと甘酸っぱく疼きます。
「ん。玄くん。復唱」
 先程の発音練習が突如として始まってしまいました。なぜ? と目を向けると、ぶすっと拗ねたような表情をしたお兄さんです。
「……玄さんだと大工のやつと同じだからヤなんだよ。それに佐倉は君付けで俺はさん呼びは悔しい……」
 最後のほうがもごもごお口の中でいうので聞き取れません。えっとよくわからないですが、お兄さんなりにこだわりがあるそうです。年上の先輩を君付けというのはかなり忍びないです。幼馴染の伊織くん、恭くんは小さい頃からの癖みたいなものなので例外です。累くんも。
「なあ、翠。呼んで?」
 身を屈めて覗き込むように視線を合わせ、優しいお声でお願いするみたいに言うお兄さんはずるいです。
「玄くん?」
 僕はこのお兄さんのお願いに弱いです。お兄さんのシャツへ手を伸ばしぎゅっと握りしめ、緊張しながら呼びます。
「おう!」
 心臓がドクンと大きな音を立てます。
 屈託無い笑みは可愛く、やっぱり僕は玄くんの笑顔が欲しくなります。
 それに……ひたひたと胸に満ちるこの甘やかな気持ちで体も心もふかふかになって自然と笑顔になってしまいます。
 これが『幸せ』ってことなんでしょうか。
 ああこれは夢ですね。おぼろげな意識の中で理解します。
 小児科病棟のペールブルーの壁紙と真っ白な天井。規則的な電子音が鳴り続ける心拍モニター。
 鼻には緑色の酸素チューブに、手の甲にはぐるぐる包帯が巻かれ、透明な長いチューブが伸び、辿れば点滴です。ベッド上に寝そべる僕の包帯だらけの手を小さな手が優しく握ってくれています。
「ごめんね。僕のお母さんのせいで翠が1人になっちゃって。……これから家族の僕が翠を守るから」
 ズビズビ鼻をすする伊織くんの泣き声です。伊織くんの言葉で、この日がなんの日かわかりました。
 伊織くんと僕のお母さんのお葬式をした日です。伊織くんからは、ほのかにお線香の香りがします。
 情けない僕の人生史上一番ダメダメな日。自分で死なせてしまった方々のお見送りもできずに、病院のベットで寝て沢山の人にお世話され生かされている。脆くて弱っちい僕なんかが。
「翠。大丈夫だからね。僕がいるから。家族の僕がいるから、泣かないで……」
 僕はなんとお返事したんでしょうか。舌が乾いてはりつき上手くおしゃべりできません。
 ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。ウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたいよ。
 ああ。このときに全て白状して謝ればよかったんですよね。一緒にこのままならない出来事を受け入れることができたかもしれないのに。
 たしか僕は怖くて逃げたんですよ。これ以上伊織くんに泣いて欲しくなくて。悲しいお顔が見たくなくて。
『わがまま』をいわなければ伊織くんは幸せになれるはず、と自分の中で一方的に自己完結したんです。
 罪悪感だけなのか、伊織くんに純粋に笑っていてほしいと思ったのかはもう思い出せませんが。

 スマホのアラームがなっています。もう起きる時間です。夢の余韻で少し震えている指先でタップしてアラームを消します。時刻は7時ちょうど。ふーっと大きく息をはいて、指先の震えを落ち着かせます。そして、メッセージアプリを開き通話ボタンをタップ。
「おはようございます。玄くん」
『はよ。翠。今日も雨だな……』
 今日も日課のモーニングコールをして、朝の準備をします。雨の日の玄くんは、少し気だるげで低く掠れたお声が艶っぽいです。さらに、ぼんやりさんです。服を着替えるまでの数分間はベッドの上から動こうとしません。電話口の向こうから僕は二度寝予防のために話しかけます。いってきますの挨拶で通話を切り、僕も玄関ドアを開けます。
 玄関ドアには小さなランチバッグがかけられていました。数日前から朝昼晩かかさず届けられます。ランチバッグの中にはタッパーやお弁当箱にいっぱいに料理が詰め込まれているんです。
 あの旧校舎でお兄さんと伊織くんが鉢合わせた日から避けられてしまっています。かれこれ1週間も顔をあわさず、スマホで連絡しても既読無視をされているんです。直接お部屋に訪ねてもいつも留守。
 こんなことは今までありませんでした。それだけ、僕は伊織くんに甘えきっていたのか思い知ります
 ですが、ランチバッグにはいつもどおりのお弁当が。ずっしりと重いお弁当に、伊織くんの優しさを感じます。いつもお世話をしている僕に言い返され、面倒くさくなったのか迷惑に思ったから避けられていると考えたけど、まだ僕は見捨てられていないはず。ちゃんと伊織くんと真正面から向き合いこの前の謝罪といつもの優しさへ感謝を伝えたいです。
 いつもいつも僕は伊織くんに優しく手を引かれていた気がします。それなのに、伊織くんに家族って言われて心配されるのは心に重しがのったように少し苦しかったんです。いざ距離を置かれるのが寂しくて、置いていかれたような虚しさを勝手に感じてしまうわがままで自分本意な僕。でも玄くんは生きてるからわがままになると言いました。今度は僕が伊織くんへ手を差し出す番だと思います。
 むん、と気合をいれるため、鍵に取付けた赤ちゃん猫の人形をぎゅっと両手で握りしめます。
 玄くんの隣にいたいから。少しでもかっこよくなろう。
 鍵を閉めた僕は、ランチバッグとカバンを持ち1人で寮を出て学校へ向かいました。

 お昼休み、授業が終わってすぐに3年生の特別コースがある1階に向かうため階段を降りていると、下から登ってくる玄さんとばったり会います。
「あー、ごめん。佐倉に逃げられた」
 首に手をやり申し訳なさそうに玄くんが謝ります。実は玄くんと伊織くんはクラスメイトでしかも席順も前後と仲良しさんだったのです。玄くんは仲良くないって凄い勢いで否定したんです。伊織くんと玄くんの仲の良さにもやもやが解消してしまった現金な僕です。ですので、そういうもやもやを持たずに安心して伊織くんと会ってお話するために玄くんに協力してもらいました。けど、うまくいきません。
「そうですか。……協力していただいたのにすみません」
「いいよ。また放課後もあんだし、さっさとメシ食おう。おいで」
 こくりと頷くと、玄くんは手を差し出します。手を乗せるとする、と指を絡めて握られます。玄くんと手を繋ぐのが当たり前になってしまいました。
 2人でとてとて旧校舎の空き教室へ向かいます。雨の日はここで2人でご飯を食べるようになったんです。
 因みに雨の日になるとノラさんは寮監さんのお部屋で『ラテ』さんになり、室内猫さまに変わっているそうです。地域猫さんのたくましさは凄いですよねぇ。
 空き教室には机や椅子が無造作に積み上げられ、その机に美術部さんの大きなポスターや吹奏楽部の垂れ幕なんかがたてかけられています。普段は物置として使われているらしく、床と教壇しか座るところがないので、2人で教壇の段差にしゃがみ込みます。
 玄くんにおいで、と言われると同時に体を軽々持ち上げられ、お膝の上に座らされます。玄くんの胸に背中を預け、自分のお膝の上でお弁当箱を開けます。
 最近玄くんは僕をことあるごとに自然と抱っこするようになりました。
 最初のうちは心臓が爆発するくらいドキドキしていましたが、慣れるとぴったりとくっついていないと寂しい気持ちになってしまいます。
 この体勢ではご飯も喉を通りませんでしたが、今では普通に食べられます。慣れって恐ろしいです。
「……なあ。隈ある……」
 お弁当も食べ終わりお話をしていると、肩越しに顔を覗きこまれ、目元を指で撫でられます。唇へ吐息がかかって、落ち着いていた心臓が跳ねます。膝下と肩を支えられ、あれ? と思っていたら、真上に玄くんのお顔があります。頭の下にはなにやら温かくて固いものがと思ったら太ももですね。上半身を倒されて、玄くんに膝枕を強制的にされました。
「あ、あの? なぜ?」
 見上げた玄くんのお顔が近いです。目元のほくろさえ見えちゃいます。
「少しだけ寝ろ。起こしてやるから……」
「で、でも」
「今日の俺のわがままだから、な?」
「はい……」
 あれから律儀に1日1回お互いにわがままを言う練習をしてくれる玄くんです。僕の今日のわがままは伊織くんを連れて来てほしい、という無理難題です。そんな僕のわがままを玄くんはいつもどんな内容でも優しい笑顔で引き受けてくれます。頭を撫でて欲しいと言ってみたいですが、未だに恥ずかしくて言えません。僕の髪を優しく撫でる指先と目元を覆う大きな手の平です。まさかの撫でるオプション付きでした。
 そのどちらも気持ちよくて、緊張してこわばった体の力が抜けます。
「あのな……佐倉は翠が嫌いになった訳じゃねーと思うんだ……」
「……そうだと良いんですけど」
「俺……1回あいつにすげー怒られたことあんだよ。少しだけ、うん。少しだけな授業ダルいから自主的に休んだ時期があって」
 すう、とお兄さんが息を吸い、腹筋が動きます。
「佐倉に学校に来たくても来れないれない子もいるんだからしっかりしろ! ってガチで怒鳴られたんだよ。胸ぐらつかんでまでな。その来れない子って翠のことだろ? だから……佐倉は翠のことすっげー大事にしてんじゃねーかと」
 はっきりものを言う玄くんにしては自信無さそうにとつとつとお話しされます。口ぶりの変わりようから僕を一生懸命励まそうとしてくれているのがわかります。嬉しい。
「はい。仲直り頑張ります!」
「ん。大丈夫。翠ならできる」
 玄くんの優しい声が甘やかな余韻を残し胸の奥へゆっくり沁みていきます。消えない甘さに勇気をもらい放課後伊織くんに突撃する決意をしました。

 放課後、伊織くんに逃げられた僕は、寮への突撃に作戦を変更しました。
 寮部屋の玄関扉前。いますよね。いる。絶対に。スマホの時刻は19時過ぎ。最終下校時刻はもう過ぎていますし、今日は生徒会のお仕事もない日です。生徒会書記の恭くんに確認しましたから確実です。伊織くんはお部屋にいるはず。なのに、心臓がバクバクいっています。ポケットの中に手を入れて、シルヴァニア人形に触れ、心臓を落ち着かせます。1回深呼吸。
 インターホンのボタンを押します。数秒後、ノイズまじりにはい、と応答したのは伊織くん。
「お、お弁当箱返します! 出てきて! お願い」
 わたわたあらかじめ用意していたセリフを言い切ります。足音が扉越しに近づくと、すぐに伊織くんが扉から顔を覗かせます。
「……お弁当箱ちょ」
「あのね! 伊織くんとお話をしたい! 僕達『家族』だよね! 心配だし、伊織くんと前みたいに仲良くしたいから……」
 お弁当箱を人質のように胸に抱え、勇気を振り絞りました。でも。
「ふ、あはは」
「い、伊織くん?」
 伊織くんはなぜか歪に口元をゆがめ嗤い出します。
「自分で言ってた言葉がこんなに白々しくて残酷なんて知らなかったよ。なにが『家族』だよ。そんなことこれっぽっちも思っていないくせに」
「ち、ちがっ」
 吐き捨てるような伊織くんの言葉につい否定します。ですが、伊織くんはさらに声を低くして続けます。
「ねえ、僕に家族って言われることが翠は苦手だったよね?」
「………え?」
「ふっ、とっくの昔に僕は気づいていたよ。ずっと翠だけを見てきたんだからね。僕だってバカじゃないよ。本当は嫌なのに、翠が僕に遠慮していたのもわかってる」
 ドアノブを掴む伊織くんの手が震えています。
「あのね。本当は僕、翠と家族になんてなりたくない。ずーっと翠の隣にいながら、僕を嫌がる翠を見てみないふりをしてた。なんでこうなったんだろうね」
 僕は……どうしたら良かった? と伊織くんは力なく呟きます。
 さっきから言われている内容がわかりません。ただ伊織くんを怒らせてしまったことしか。こんなに静かに激しく怒る伊織くんは見たこともありません。
「翠はわからないよね」
 聞かれても困惑と恐怖で指先一つ動かせません。伊織くんの瞳がうつろに僕を映すのを見つめます。
「うん。もういいんだ。僕はもう翠とは会わない」
「なんで? 伊織くん?!」
 ふっと伊織くんは微笑みます。その微笑みが伊織くんが遠くにいってしまいそうな、これでお終いになってしまいそうな予感を。
「家族じゃない僕とわざわざ会う必要もないでしょ?」
 見下ろす青色の瞳は冷たい拒絶の色をしていました。
「……ッ」
「早く帰ってくれるかな」
 伊織くんは僕の肩をそっと押し出すとバタンと玄関扉を閉じます。
 閉じられた扉は微動だにしない。僕と伊織くんの距離を表しているようです。どうしよう。伊織くんを怒らせた? 違う……僕を扉から押し出した手は震えていました。扉を閉じる間際の取り残されたような不安気な表情は、あのお葬式の日に見たものと同じでした。はからずも伊織くんをまた悲しませてしまったんですね。
「……全然ダメダメじゃないですか」
 伊織くんに手を差し伸べるとか意気込んだくせに、いざ拒絶されたら勝手に傷ついて。あんな……家族じゃないとまで言わせてしまいました。伊織くんは人を傷つける言葉を平気で使えるようなひとじゃないです。きっと、言った伊織くんも傷ついています。
「ごめんね……伊織くん……」
 本当にどうしたらよかったんでしょうか。……僕達は。
 いつまでも伊織くんのお部屋の前にいる訳にもいかず、とりあえず自分のお部屋に戻ろうとエレベーターホールへ歩き出します。
 頭の中は伊織くんから言われた言葉がぐるぐる回ります。僕が家族って言われることを嫌がっていたのを知っていた伊織くんはあえて言っていたと言いました。それはなぜ?でも僕とは家族以外になりたかったとも言う。
「伊織くんはなにがしたかったのかな……」
 零れ落ちた疑問は誰にも答えてもらえず。足元のふかふかの絨毯へ吸い込まれます。
 とぼとぼ歩いていくと、ちょうどエレベーターのドアが開き賑やかな二人組が降りてきます。
「ねっるねる300個作ってみたは動画的にハズレないから! やる価値あるよぉ〜」
「俺は食べ物を粗末にするのが気に食わない……」
「ちゃんと後でスタッフが全部いただきますぅ〜」
 眉間にシワ寄せた恭くんがダンボールを両手に抱え、その隣には口を尖らす塁くんです。
 僕に気づいた累くんが駆け寄って来てくれます。恭くんも。
「えっ?! 翠ちゃん顔色悪すぎー!!」
「伊織とは会えなかったか? 翠?」
「伊織くんとは……会えました。けど……ダメダメでした僕」
 せっかく恭くんにも協力してもらったのに伊織くんに怒られて悲しませてしまった失敗が視線を床に落とさせます。
「ねぇ、翠ちゃん。動画配信者のお部屋入ってみる?」
 よくわからず顔を上げた僕のお顔の前には『ねっるねる』とポップな丸い文字で書かれたダンボール箱ととっても優しい表情の累くんでした。
 グイグイ背中を押されあれよあれよと通されたのは累くんのお部屋です。小花柄の玄関マットが迎えてくれる可憐なお部屋です。手を引かれリビングへ向かうと、がらりと雰囲気が変わりました。大きな丸いライトやカメラの3脚にマイクがどーんと置いてあります。リビング窓際のデスクには3台ものモニターが設置され、本格的なゲーミングチェアーが。戦隊モノの秘密基地みたいなお部屋になりました。
「とりま座ってねぇ。恭は翠ちゃんに飲み物〜」
 ライトや3脚を一纏めに持ち上げ、お部屋の隅に移動させる累くん。
 お高そうな機器に触れて壊したら、と手伝うにも手伝えず、おろおろと僕は立ち尽くします。
「お、おかまいなく……累くん、恭くん」
「いいから。翠はそこのソファーに座っていろ。メシもまだなんだろ?」
 ダンボールを無造作に置いた恭くんに2人がけソファに両肩を押さえつけられ座らされました。そのまま恭くんは袖を捲りながらキッチンへ。
 ローテーブルを挟んだ向かいの3人がけソファーには片付け終わった累くんが座りました。良きタイミングで恭くんが僕達2人の前にグラスに入ったお茶を出してくれました。
「うーんと。いおりんと翠ちゃんはどうしたの?」
 累くんがグラスのお茶を一口飲むとお話を切り出しました。
「えっと……」
 伊織くんとのことを話すと必然的に玄くんのことからノラさんのことまでお話することになります。
 累くんのお気持ちは嬉しいんですが、迷います。
「あのね、言いたくないことは無理に言わなくてもいいけど……僕と恭は2人ともが大切だから相談くらい乗らせてよ?」
 累くんが心配そうなお顔で見つめています。
「……累くん」
「それとも僕達じゃ頼りないかな?」
「ち、違います」
 累くんの優しい言葉に慌てて否定します。ここまで僕と伊織くんとの仲を心配している2人に、隠しておくなんて不義理なことはできません。この2人にだったら未だに僕にもわからないことだらけの状況だけど素直に話したいです。
「……あの、僕最近お昼ご飯を一緒に食べる方がいて……」
「……うん」
 ちらりと累くんのお顔を見ると、優しくて真っ直ぐな瞳を僕に向けてくれています。
 その瞳に勇気をもらい、自分でもまとまりのない内容だったと思いますが、ぽつぽつとぎれとぎれに話しました。
 玄くんに発作中助けてもらったこと。ノラさんの案内で再開できたあとはお昼をともにして、連絡先交換後は毎日かかさず電話をしていること。そして、伊織くんに玄くんといるところを見られてしまい僕が伊織くんに言ってしまった暴言を。累くんは黙って耳を傾けてくれました。
「……え? 翠ちゃんがいおりんに言い返したの?」
「……はい。その日から伊織くんに避けられています。今日は玄くんや恭くんにも協力してもらったんで……少しお話しできたんですけど、お部屋から追い返されてしまって」
「あー、そのいおりんは今日なんて言っていたの?」
「家族になりたくなかったと言われました。だからもう家族じゃない僕とは会わなくていいでしょ……っとも」
 一瞬、沈黙が降り落ちます。その後、累くんはクッションを思いっきり殴りつけました。ぼふっときらきらホコリが舞い上がります。
「あんの! 初恋拗らせメンヘラがっ! 誘い受けか?! 構ってちゃんかあ?!あ゙あん?!」
「……落ち着け。累。あとで必ずぶっ飛ばしてやるから」
 恭くんがきれいな3角の形のおかかおにぎりを2つお皿に盛り付け僕の目の前にことりと置いてくれました。
 累くんは隣に座る恭くんに宥められると、僕にずいっと詰め寄ります。腰を浮かせてまで。
「翠ちゃんにとって、その……玄くん? っていう人はどういう人なの?」
「う。僕がわがまま言っても……嬉しいって言う凄い優しくてかっこいい人です……」
「……素敵な人なんだね」
「……はい、……でも……とっても恐い、人です」
「……ん?」
 累くんは首を傾げ、恭くんは組んだ腕に力を入れます。恭くんの不穏な様子に説明を付け足します。
「怖い……です。心の中にするりと優しさが入ってくるんです。『少しくらい甘えても……わがまま言ってもいいんじゃないか』って、気にさせてきます。喜んでくれたのが嬉しくて欲張りさんになっちゃう。させてくるんです」
 僕だけの玄くんになることは決して無いです。だからこの前抱いた過ぎた欲、わがままは伝えてはいけない。
「その玄くんはそのわがままを言っても良いっていうんだよね……。んーと」
「はい。僕のわがままを聞けて幸せだって……。でも僕は……、そんな玄くんを困らせることしかできないのに、欲しくなっちゃうんです。笑顔とかが」
「翠ちゃん。それが好きってことだよ」
 考えつかない答えを言われて目をぱちくりさせるしかできません。好きってもっときれいなものなんじゃあ。僕のは。
「あのね。僕は翠ちゃんが抱いたその『特別』な好き、に「恋」ていう名前をあげてほしい。素敵な気持ちがさらにきらきら輝きだして、もっと大切にしたくなるからさ」
「でも……玄くんだけが欲しくて、独り占めしたくなっちゃうんです……。こんなあさましい気持ちを大切にして良いんですか?」
「いいんだよ。誰かだけを欲しく思うことも、独り占めしたくなることも、欲張りな気持ちを含んだ『特別』な好きがあっても、さ」
 ちらりと見上げ恭くんを見つめる累くんは照れ臭そうにはにかみました。累くんの肩を抱き出す恭くんです。
「色んな好きが増えるのは素敵なことだよ。いけないことじゃないよ。だって、色んな好きが増えたり、その人のことを考えるだけでも、翠ちゃんは幸せでしょ?」
「幸せ? こんなに苦しいのに……恐いのに……」
 ふと伊織くんの悲しそうな先ほどの表情が過ぎります。
「それに……僕なんかが? いいんでしょうか」
「翠ちゃん。『幸せ』になるのは恐くはないよ。それに、卑下するのは絶対にやめて。翠ちゃん自身と、君に幸せになって欲しい僕達《ママとぱぱ》のためにもさ」
 語気を強めた累くんと隣にいる恭くんが真っ直ぐ僕を見つめます。本気でそう思ってくれているのが伝わるくらい強い眼差しです。
 幸せになってもいいんだ。でも、ぼんやりと思います。幸せって? 累くんはさっき教えてくれました。
 色んな好きが増えたり、その人のことを考えるだけでも、幸せ。と
 玄くんといると、想うだけでも。とびきりの宝物をもらったように心も体もふかふかして甘い温もりに浸っているようなんです。ああ、これが『幸せ』ってことなんですね。
「……あ、ありがとうございます。僕は玄くんが好き。です」
「ふふ! どーいたしまして!」
 そっか。僕は玄くんに『恋』しているんですね。自覚したばかりの気持ちが言葉にすると胸に満ちていきます。甘い喜びや温かい心地よさ。それだけじゃない胸の奥に溜まるどろどろ汚い気持ちはしゅわしゅわ弾けてしまいそうなくらい軽くなっていきます。
「ふふふ。男同士だってことが些細なことに思えるくらい。すーっごく幸せになっちゃったでしょ?」
 優しい笑顔でそう断言する累くん。いたずらが成功したように、目を細め楽しそうな恭くん。
「そうだな。男同士だとかくだらねーことで諦められねーよ」
 お互いの目を見て微笑み合うお二人です。とても仲良くて本当に幸せそうな二人。全力で恋をして、心からそう思っているってわかる様子です。
 恋って本当にするだけで幸せになれるんですね。
 初めて好きになった人が男のひとってことが、その恋がもたらす幸せに比べたら、とても些細なことに思えました。
「よし! じゃあ、いおりんとも決着つけよう! 潔く振られてしまえ!」
「手っ取り早くドアを蹴破るか……」
「恭やめてっぇ!令和はコンプラ重視なの! あのね……」
 拳をまっすぐ突き上げ立ち上がった累くんと、とんでもなく悪いお顔をした恭くんです。なにやら仲良しのお二人がこそこそ内緒話をしています。なんでしょうか。累くんのきらきら楽しそうなお顔にとっても悪い予感です。
「では、Uberいおりんポチります!」
 そう掛け声をすると累くんはスマホをタップします。僕はわけがわからず恭くんお膝の上です。累くんが僕達3人のスリーショットを自撮り。すぐさま累くんがぽちぽちメッセージを打ち始めたんです。
「なんで酒池肉林です? 累くん?」
「むふっ! 翠ちゃんは気にしなくていーよ。はい。あーん」
 おかかおにぎりを口元へ持ってきてくれる累くんはとびっきりの笑顔です。無邪気な笑顔ですが、累くんの場合はいたずら好きさんなので注意が必要です。でもお話を聞いてもらってほっとした僕はお腹が空いてきました。目の前のおにぎりを食べようとお口を開けたとき。
 玄関からものすごく物騒な音が。どんどんと何かを思いっきり叩く音です。
「Uber配達完了〜」
 累くんの心からの愉しげな声が僕の耳に届きました。少し遅れて恭くんの呆れたため息も。
「……伊織くんご飯食べた?」
 累くんのお家のソファーに向かい合って座っているのはUberされた伊織くん。なぜか累くんと恭くんは僕と伊織くんを置き去りにして部屋を出ていきました。去り際、累くんが伊織くんに「男みせろよ」と睨みつけ。恭くんは無言です。例の仁王像の視線付きでしたが。
 いざ二人きりになるとなにから話せばいいのかわかりません。お部屋に入って来た時から頑なに視線も合いません。目に入ったおかかおにぎりのお皿を見て浮かんだことを話しかけました。
「……うん。翠はまだなら、しっかり食べないとだめだよ。ひとつだけでも」
 10秒くらい無言だった伊織くんは、おかかおにぎりを乗せたお皿を僕へ寄せます。いつものように僕を心配してくれる優しい伊織くんにぎゅうと胸が苦しくなります。
「食べるから……お話聞いて欲しい。僕は伊織くんとちゃんと家族になりたい」
 顔を上げ、真正面から伊織くんを見つめます。息を呑み、暫く無言で僕を見つめた伊織くんは、ゆっくりと頷きました。息を吸います。
「伊織くんのお母さんと僕のお母さんが事故にあった日、発作が起きたのは嘘だったんだ。ごめんなさい。僕が伊織くんの家族を奪ったんです。伊織くんはなにも悪くないよ。お母さんに構って欲しくてウソついて、わがまままいったから、伊織くんのお母さんは亡くなったんです。謝っても許されないこと、取り返しのつかないことをしたけど、伊織くんとはこれからも仲良くしたい。だから玄くんのことも誤解がないようにしたいんです」
 あれだけ何年も言えなかったことがするする溢れて止まりません。自分でも呆れかえるくらいのわがままな言葉の数々です。でも、言い切ります。
「…………違うよ。僕のお母さんが翠の家族を奪ったんだよ。……でしょ?」
 伊織くん青色の瞳はの虚ろでガラス玉の様です。
「それも違うよっ!」
 僕の想像以上に伊織くんがこの出来事で負った傷は深くて、広くて、今も痛み、苦しんでいたんですね。
 僕達は同じ出来事の被害にあったもの同士だけど、お互いの受けた傷を隠し続けてきたから、気づかなかった。玄くんからもらった厳しいけど優しいあの言葉を伊織くんに贈りたい。
「ねぇ伊織くん。どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんです。自分を責め続けたところで反省や償いにもなりません。誰もそんなこと望んでいない……から! 僕は全部お話して伊織くんと仲直りがしたい、また家族にっ」
 なりたい、まで言い切れずに喉が締まります。伊織くんの鈍く光る青色の瞳が僕を射貫いたからです。
 今まで見たこともないくらい険しい瞳。
「だからっ! ……僕は家族になりたくないんだ。翠が好きだから!」
 いつも穏やかな伊織くんからの突然の心ごとぶつけるような告白。まさかの予想外で思考が停止します。好きって家族としてでの意味では説明がつかないくらい伊織くんの瞳には激しい熱が。
「翠だけが好きだから。翠が嫌がる家族って言葉も吐いて心を縛って、手も勝手に繋いだんだ! 誰にも翠を取られないように……。篠崎なんかと手を繋いだ翠を見たくなかった!」
 きらきら伊織くんからは考えられないくらい執着めいた真っ黒い独白です。僕のことが嫌いになったわけでもなく、面倒くさくなったわけでもなく。玄くんと手を繋いだことを怒ってた?
 言葉も無く呆然と見つめる僕へ伊織くんはふっと柔らかく微笑みます。
「最初はね。僕より可哀想な翠がいてくれれば自分が可哀想な子って思わなくていいから、……ふと襲われる罪悪感や寂しさからの逃避で心が楽だったんだ。そんな優越感まじりの打算から翠の世話を焼いているうちにね。……いつの間にか翠に癒やされる時間が手放せなくなっていた自分に気づいた」
 ダメダメな僕に癒やされるなんてあるはずないです。伊織くんにはずっと迷惑ばかりかけていました。
 伊織くんはふうっと息を吐きます。そして、僕のお顔を見てあははと楽しそうに笑います。
「全然心当たりないって顔してる。翠が発作で苦しむたびに弱音も吐かないで治療している姿はとってもいじらしくて可愛い。それに、絶対に翠は誰かのせいにもしないし誰のことも悪く言わないからさ。そばにいるだけでささくれ立つ心が安らいだんだ。自分の醜さも忘れてしまって……好きになったんだ」
 伊織くんはふわりと優しく笑います。その笑顔が幸せそうで、家族よりももっと強い気持ちを抱いているとやっとわかってしまいました。
 本気で僕のことを好きなんですね。理解できた瞬間、遅れて体の奥から熱がこみ上げてきます。熱が全身に広がり、ぽかぽかしてきた頭で、浮かぶのは玄くんのことだけ。僕は玄くんが好きです。伊織くんも好きですが、それはあくまで家族としてなんです。玄くんみたいに誰かにとられたくないとか、独り占めしたくないなんて全く思いません。
 俯いて考えていた僕へ伊織くんがそっと呼びます。
「気持ち悪かった? 従兄だし、男からは……」
「そんなこと絶対思いません! こんなに真剣に伝えられた気持ちに!」
 ぶんぶん首を振って否定します。
「そうだね。……翠はそういう子だから……」
 ほっとした様子でしみじみと呟き、伊織くんは僕を真っ直ぐ見つめます。
「篠崎がね、翠は意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも持ってるかっこいい子って言うんだ。僕たちが心配しすぎて安心する為に翠を過保護に囲ってるとも。優しすぎる翠が、臆病な僕達がより安心できるように、やりたいことや本音を無意識に押し殺すようになってたとも」
 こうも言っていたな、と伊織くんは笑います。
「翠はお前らの大事なお人形さんやお姫様じゃねー」
 伊織くんでは絶対言わない乱暴な言葉遣い。そのギャップが玄くんが伊織くんへ本当にそう言ってくれたのだと証明する。嬉しい。玄くんが好きです。せり上がる気持ちが上手くコントロールできなくて、じわり、と視界を滲ませます。
「ねえ、翠。……翠は篠崎のこと」
 柔らかな声音に、これから伊織くんが言おうとしていることがわかりました。でも、それは僕の口から言わなければならないこと。伊織くんの真剣な想いに真摯に向き合うために勇気を出すべきです。ぐっと唇に力を入れます。
「僕は玄くんが好きです」
 自分で言った声なのにどこか淡々とした響きに、おかしくなります。自分の本当の気持ちを声に出すことがこんなに呆気なく簡単なことだったんですね。本音を話すことに過剰に臆病になっていた自分が恥ずかしいです。僕に勇気をくれるのはいつも玄くんです。
「あのね、知っていました。僕を憐れみ、庇護しようとしていたのを。みんなが、僕の病気を心配してくれていたのも同じくらい知っています。でも、そんな思いを抱かせてしまう、情けない自分が悪いと思っていたんです。伊織くんたちが僕を心配し、困らないように先回りしてくれていたのもありがたかったんです。でも僕は、たとえ上手く出来なくても、体の負担になるかもしれなくても、自分でやってみたかったんですよ」
「……知らなかったな」
「……はい。僕がお母さんの事故のことで『わがまま』を言ってはいけないって勝手に罪悪感に苛まれて。……今まで言い出せなかったんです」
「え? なんで? 翠はなにも悪くないじゃないか……」
「……ありがとう。伊織くんならそう言ってくれるますよね。今ならわかるんです。でも、僕のわがままで伊織くんのお母さんを奪ったとずっと思い込んでいたんです。家族って言われるのがちょっと苦しかったのは、僕が嘘ついたことを伊織くんに話せていなかったから。本当は大事な家族だと思っていたけど、後ろめたさでそんな態度を取ってしまいました。ごめんなさい」
「そんな……こと思ってたの?! 僕こそ翠の家族を奪ったと思っていたよ……」
 伊織くんが悲痛そうに顔を歪め、視線をずらします。でもね、伊織くん。聞いてと呼びかけると顔を上げる伊織くん。
「『世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。
 でも、翠なら出来る』って玄くんが言ってくれたんです。わがままな僕は伊織くんと一緒にこのままならないことを受け入れたいです。僕と伊織くんならできるはずです」
「…………」
 玄くんからの言葉を応用しました。伊織くんは顔をしかめます。でもそれも一瞬のことで固い表情でぽつりと尋ねます。
「それ……がやっと言えた翠のわがままなの?」
「はい」
 言葉を詰まらせる伊織くん。真正面からじっと見つめます。伊織くんの顔つきがあまりに真剣なので、驚き、怒り、悲しみなのか、わかりません。端正な美貌は仮面じみて見えます。伊織くんは歯を食いしばって、顔を伏せます。その瞬間、どこか昏い伊織くんの瞳に温もりが灯ったように見えました。ぎゅっと手を握り締めます。もう今しか無い。僕達が家族へ戻るための機会は。
「少しだけこのわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげです。
 わがままな僕でも良い。翠が生きる為に、わがままになっても良いと、心の声を大切にしてほしいと言ってくれたから、今こうして本心を言えるようになったんです」
 静かに俯いたまま聞いていた伊織くんがふと目元を手で覆います。
「……うん。翠の本当の気持ちを聞けて嬉しいよ……」
 その声は僅かに震えています。ゆっくり深呼吸をした伊織くんは顔を上げます。揺れる青色の瞳を逸らさず見つめ僕は口を開きます。
「伊織くんずっと今までありがとうございます。伊織くんみたいなかっこよくて、なんでもできる素敵な人に『好き』になってもらえるなんて、……ひ弱で悲しませることしかできないって思っていた自分自身をもっと好きになれました。ごめんなさい。僕、とっても好きな人がいるんです。
 だから、伊織くんのその気持ちは受け取れません」
 丁寧に頭を下げます。今までのありがとうの気持ちを込めて。それと、わがままだけど家族へ戻りたいと。
「……僕こそありがとう。謝らなくてもいいよ……頭上げて」
 優しく受け止めるような声に、喉がヒクッと震えます。
「で……も……」
「家族でしょ?」
 当たり前に言われた言葉には、伊織くんの優しさや10年間ともに大切に積み重ねた日々の重みが込められていました。ぼろぼろ膝に落ちていく雫が止まりません。泣いた姿を見せるなんて告白してくれた伊織くんに、失礼だから。ゴシゴシ袖で拭い、顔を上げます。
「はい! 家族です!」
「じゃあ。仲直りのハグしよう」
 最後に、と小さく付け足された、その言葉の残酷さに申し訳なさで心臓がぎゅっと掴まれたよう。でも僕は目を背けられたい心の痛みも拾い上げ、真正面から受け止めたいです。両手を広げてコクコクと何回も頷きます。
「ありがとう。翠」
 伊織くんはテーブルを周り込み、僕の座る二人がけのソファーへ腰掛けます。いつも肩がくっつく程近くに座るのに少し距離を開けて。その距離につい唇を噛んだ僕へ伊織くんは微笑みかけます。
「翠って実は意地っ張りで強情だよね……」
「へぇあ?」
 突然笑顔で罵倒された僕はわけがわからず、気の抜けた声が漏れそのままの体勢で固まります。
 あはは、とからりと笑う伊織くんは軽く両手を広げ、僕の背中へ手を回します。そのまま伊織くんにゆっくりと抱きしめられます。あくまでも抜け出せるくらいの力加減。腕の中へ閉じ込めるような以前の力加減ではありません。些細な違いに胸が締め付けられます。今までの僕たちでしたら僕も背中に手を回しますが、それはもうできないです。広げた手をぎゅっと握り、ゆっくり下ろしました。
「だからさ、無気力アメーバの篠崎とお似合いだよ」
「……っ」
「……自信持って頑張れ」
 玄くんとのことを励まされてしまい、恥ずかしさと申し訳無さが交じります。なんと返してよいかわからずあわあわ顔が熱くなります。
「ねぇ。翠、ありがとう」
「伊織くんもっ、ありがとうっ」
 ふふっと笑う伊織くんは僕の背中をぽんっと押してくれます。不意に懐かしさがこみ上げます。うんと小さな頃はこうやって伊織くんに励まされていました。病院に行きたくないとぐずったときも、いたずらがバレてお母さんに怒られて拗ねていたときも、ずっと。優しくお話を聞いてくれて励ましてくれました。
 うんと小さい頃は同じ、家族の好きが重なり合っていたはず。いつもまにか『好き』の意味がずれてしまった僕達ですが、いつかまた、同じ『好き』になれたらいいな。とわがままにも思ってしまいます。
 これからは家族として伊織くんとの関係をやり直していきます。
「……ねえ? 翠……体熱くない?」
 体を離した伊織くんがなにやら怪訝なお顔をします。 そして、顔を近づけようと動かした寸絶でピタッと止まり、手の平をおでこにそっと当てます。手の平の冷たさに自然と目を瞑ります。冷たさが気持ち良いです。
「っ凄い熱あるじゃないかっ?!」
「えええ?」
「最悪だ。僕のことでストレスが?! 翠が高熱を出してしまったぁー!!」
 伊織くんの苦悩な叫びを聞き流しながら、熱があると意識した途端に寒気が襲ってきます。
 ぼんやりしていた頭で、そうかさっきからなんとなく気分が高揚していたのは熱のせいだったんですねと妙に納得し、僕はソファーにこてんと横になります。
 次第に遠ざかる意識の中、累くんと恭くん、伊織くんが言い争う声を聞きます。
 最後に皆仲直りできて良かったですと思いました。
 累くんのお部屋で高熱を出してしまった僕は、恭くんに自室のベッドへ運ばれ伊織くんが呼びに行った白井先生に診てもらうことに。
 寝不足とストレスでの熱。風邪の症状も無く、胸の音も、呼吸状態も正常だから、と白井先生の診断です。解熱するまで休むよう指示された僕はゴロンとベッドへ横になっています。点滴も無いですが、38.7℃もあったので念の為解熱剤を処方され、ゆっくりと休みなさいとのことです。
 それが昨晩のこと。今は、1日寝たことと解熱剤を服用したので微熱くらいには解熱しました。
 相変わらずの脆く弱っちい僕の体です。でも、初めて本心を口に出せて、伊織くんと仲直りできた僕はちょっとは強くなれたのではないでしょうか。
 意地っ張りで強情だと呆れながら伊織くんに言われてしまいましたが。そう言う伊織くんも同じ性格をしていると思います。僕達2人は従兄弟同士似たような性格ってことなんでしょう。だからこそ、こんなに長い時間を経ってからでしかお互いの本心を言えなかったと。拗らせていたとも言えますが。もつれた僕達の関係を玄くんがいとも簡単にするする解いてくれました。 
 あの日偶然玄くんに出会ったことで僕はいろんなことに気づくことができました。感謝してもしきれないくらいです。ノラさんと玄くんと一緒に過ごすお昼休憩は、陽だまりの温もりが染み込むような体も心も包み込む優しい時間だったはずなのに。
 玄くんのことを考えると胸が苦しくなります。発作のときも胸が苦しくなるけど、全然違う。発作の時は、冷たくてただひたすら苦しいだけなのに。奥底に熱を秘めながら、とっても甘いんです。
 頭の中はその温もりを感じる甘さに絡めとられたみたいに玄くんでいっぱいで。いきなり僕の中で玄くんの存在が大きくなってしまったんです。
 しかし、もう一人の自分が囁きます。怖い。おぼろげな恐怖。一緒に過ごす時間は楽しくて、時間を忘れてしまうくらい。名前を呼ばれただけや手作りクッキーを褒められて泣きそうになる自分、優しい指先に触れられたいと浅ましく欲する自分。大切なお友達と思っていたノラさん、大切な家族である伊織くんにヤキモチを焼く自分。それに、こんなに僕を乱すお兄さんが。もう絶対に持たないと決めているものにまで、手を伸ばそうとしてしまいそうで。今までの自分にはない、まとまりのない感情が手に余っていたんです。
 お母さんの事故から『わがまま』を言ってはいけないと決め付け、心の声を押し潰し逃げるしかできない、身動きを拒むように過去の記憶の中に閉じこもった僕の思い込み。呪いのように独りよがりで卑屈なその思い込みが、玄くんへの気持ちを心の奥に潜む暗闇に引きずり込みそうだったんです。
 でも、玄くんは僕へとんでもない優しく眩しいくらいの言葉を力強く手渡してくれました。その言葉は僕の心に降り積もり、温かくて眩しい光を放ち、深く沈みながらも輝き続けます。だから今、こうして本心を言えるようになったんです。
 もらった言葉のもつ光と玄くんのことを考えるだけで惑わせるような甘さがふわりと溶けるよう胸に広がります。背徳感さえ感じてしまうくらい自分の中をかき乱す熱の滲む甘さを大切にしたい、手放したくない、育っていったらどうなるのか見てみたい思ってしまいました。
 僕が知らないだけで、怖くて目を向けていなかった気持ちを大切にしたい。温もりを伴う心地よさや優しく眩しい気持ちだけじゃなく、どろどろした心にいくつもの波紋を立て自分ごと壊れてしまいそうな激しい気持ちも。これまで押さえ込んだ気持ちを拾い上げて、真正面から向き合う。欲を持つことが生きるという玄くんを幸せにしたいんです。
 この少しだけわがままな欲望に、気付けたのは玄くんのおかげですね。
 頑張って。すいなら出来る。当然のようにそう言ってくれる玄くん。皆が心配し熱心にお世話を焼いてくれるから、自分の行動に自信が持てなかった僕です。僕でさえ信じられない僕を信じ、背中を押して応援してくれるんです。ついネガティブ思考にとらわれやすい僕に、いつも冷静に物事の見方や受け取り方を正すように軌道修正してくれます。
 いつも玄くんの迷いの無い口調に、勇気づけられた気がしました。何気なく放つ揺るぎない言葉が、嬉しかったです。頼もしかったんです。玄くんは手助けは手を引くだけ。僕自身が立ち上がって歩けるように隣で教え、見守ってくれる。そんな厳しい優しさがあります。いつも僕を信じて、やってみろって玄くんは言ってくれて、良くできたら頭を撫でて褒めてもくれました。…………どうしようもなく嬉しかったんです。
 だから、まずは一回だけ。勇気をかき集めて、一歩踏み出したいです。今まで玄くんが沢山くれたものを糧にして僕なりに伝えたいです。
 ⸺『好きです』
 僕が差し出せるものはこれだけ。でも自分の弱さも醜さも、前向きに変わりたいと願うきらめきも、すべてをこの1言にぎゅうとまるごと僕を詰め込んだ特別な言葉。
 正直、まるごと心を預けてしまうのは怖いです。同性からの好意に嫌悪感を抱かれるたり、拒まれたりするかも、しれません。ですが、玄くんは僕の心の声を大切にしたいとまで言ってくれる優しい人です。それに僕でさえ気づかなかった心の傷をすくい上げ労ってくれた玄くんが真剣に向けられた想いを軽んじたりするわけありません。彼の人となりに惚れこんでいる僕はそう確信できます。玄くんだからこそ僕は好きになりましたし、告白する勇気が持てます。
 温かくて大きくて強い玄くん。いっぱいいっぱい持っているひとなんです。弱くてちっこくて、脆い自分。僕なんかじゃ釣り合いません。隣にいたい。ただそれだけを望むことすらおこがましい。だけど、僕を前向きでかっこいいと言ってくれた玄くんに少しでも釣り合うようになりたいんです。この重くて切なくなるほど愛しい想いを伝えきれるかわかりませんが。
 ベッドの上で横になりつつ悶々と長考していましたが、頭がズーンと重くなって来てしまいました。またお熱出そうですかね。お熱が治らないことには告白もできませんし、ましてやそれ以前の問題で、玄くんに会うことすらできませんからね。
 それにこれでは白井先生とのお約束を守れません。「今日はなんにも考えず、ぼんやり天井の模様でも見て寝なさい」白井先生曰く、早く治すためのかなり独特かつ具体的なアドバイスですよ。
 ころりと仰向けに向きを変えて、天井の模様を見てみます。真っ白の壁紙かと思いましたが、淡いクリーム色で、ハケで刷いたような掠れた凹凸感が……。鎮痛剤が効いてきたのか、白井先生のアドバイスの効果なのか意識がぼんやりしてきます。目蓋がとろりと重くなっていくままにいつ眠りに落ちたのかわかりませんでした。

「……ん」
 カサ、カサと紙を静かに捲る音に緩やかに意識が上昇します。そっと目蓋を開くと、手元に持つ紙束から顔を上げた玄くんの優しいお顔です。
「翠? 起きたか?」
「……げ、んくん?」
 寝起きで声がしゃがれます。ひゅっと喉が乾いていて音が鳴ると、心配そうに眉を下げる玄くん。
 これは夢ですかね。そうですね。僕のお部屋に玄くんがいるなんてありえません。寝る前に玄くんのことを考えていたので夢にまで召喚してしまいました。ぐっじょぶ自分です。
 もう少し寝てるか? と聞かれますが、首を横に振ります。喉が乾いていたので、お水飲みますと答えると、玄くんはチラっと手元の紙束へ視線を落とします。扉からいそいそと出ていった玄くんの背中を起き上がりながらぼんやり見送ります。うう。心配そうにしてくれるお顔でさえかっこいいです。憂いを帯びながら低く潜められた声はなんだかえっちな気がして、ドキッとしてしまいます。すぐに玄くんはミネラルウォーター片手に戻って来てくれました。
「……ん。これでいいか?」
「ありがとう……ございます」
 ペットボトルの蓋を外し、渡してくれた玄くんは、ベット脇の床へあぐらをかいて座ります。
 触れたペットボトルは冷たく、自分の夢の解像度に驚きます。一口、こくりと飲めば、喉へするする染み込んでいく水。ほうっと息をつくと、改めて玄くんを見やります。いつもは高い位置にあるお顔が真正面の同じ位置。控えめに言って最高です。
「翠?」
 じっと僕が見つめているからか、頬を淡く染めながらこてりと首を傾げる玄くん。その動きに合わせゆらゆらするピアスです。へにゃんと頬をだらしなく緩めながら手を伸ばそうとした途端、ぐいっと顔ごと体を近づける玄くん。いきなりの至近距離に近づくお顔です。びっくりして動きを止めた僕を抱きしめるような格好の玄くんです。
「みず……溢すぞ」
 安堵の吐息が耳にかかり、頬が擦れ合い甘い香りの体温を直に感じます。ん? 温かいですね。……もしや夢では無いです? ぎくしゃくとした動きで視界にあるもの全てを検分します。ペットボトルを持つ僕の手を覆う玄くんの手。顔を動かしたためにさらに頬へ触れることになった滑らかな玄くんの頬。近すぎてピントが合わないピアス。
「夢では……ない? え? え?」
 わたわたと独り言を呟いていたら、玄くんが僕の首元へ顔を埋め、震えています。
「うん。夢じゃねーよ……ぶふっ」
 首筋に当たる吐息が熱を伴いながら肌をくすぐります。お顔がかっと熱くなります
「あの、その僕……えっと……臭くないですか?!」
 昨日あれからすぐに大騒ぎでベットへ強制連行されたのでお風呂を入っていないことを思い出しました。
「……濃い翠の匂いがするからすっげぇ旨そう」
 余計にすんすん匂いを嗅ぐように首元へお鼻を寄せられてしまいました。濃い僕の匂いとは? それダメじゃないですか?! 旨そうとか食べられます?!
「後生ですっ! 距離を! 距離をとってくださいっ!」もう羞恥心でパニックになった僕は子供のように頼み込みます。玄くんは渋々といった様子で、ベッド下部僕の足元へ腰掛けます。
「あ、の玄くんはなんでいるんですか?」
「……佐倉に翠が熱で寝込んだって聞いて」
「あ、伊織くんからですか……その昨日連絡できなくてすみません」
 昨晩は熱を出してしまい、玄くんに連絡できなかったんです。ん? でもなんでお家に入れたんですか?
「気にすんな。昨日は大変だったんだろ? 佐倉から聞いた……」
 なぜか伊織くんの話題になったときから玄くんの表情が曇りだしたような。
「あの……」
「あ! 佐倉から『翠の看病のしおり』と合鍵渡されてんだよ。で? 次は何して欲しい?」
 床へ置きっぱなしになっていた紙束を拾った玄くんはパラパラ捲りながらやる気いっぱいに僕へ聞きます。聞かれた僕は、しおりという単語と玄くんが持つ紙束を見て伊織くんに謎の憤りを感じました。
 手に持っているしおりを今から破り捨ててくださいという言葉を飲み込み、代わりに答えます。
「玄くんと……お話したいです」
「ん。わかった。しんどくなったら遠慮なくいえよ」
 玄くんは表情を綻ばせ、しおりをそっと置きました。
「えっと。昨日伊織くんと無事に仲直りできました。ありがとうございます。あのそれで……」
 いざ玄くんに出会えてしまったら、告白しようとした気持ちが揺れてしまいました。とりあえず協力してくれた伊織くんとのお話をしようとしましたが。
 玄くんと視線が合いません。いつだって僕のたどたどしいお話を目をまっすぐ見つめる漆黒の瞳が伏せっています。見つめる先は硬く組まれた指先です。
 心臓がひやりと痛み出します。
「……つまらないお話でし……たね」
「は? あ? ちげ……」
 顔を上げた玄くんのお顔が見れません。わざわざお見舞いに来てくれた玄くんに話す内容では無かったかもしれません。それともお見舞い自体が伊織くんに頼まれたからいやいや来てくれていたのでしょうか。どうしましょう。怖いです。さっきまで告白するとか意気込んでいた気持ちが一気に萎んでいきます。
「あー! もー!! くそっ!」いきなり叫びだした玄くんが頭をグシャグシャにかき回します。
 大声に驚いた僕は顔を上げ、いつのまにか滲み瞳へなんとか留めておいた雫が頬へ滑り落ちます。
 玄くんが苦しげに顔を歪めます。
「嫉妬したんだよっ! 佐倉が翠の部屋の合鍵持ってんのを!」
 嫉妬? 合鍵を持っていて? もしや玄くんは鍵マニア?
「余裕なくてごめん。我慢できなかった。俺だけが翠の世話を……優しくしてやりたい。俺だけが翠が苦しんでいるときに駆けつけたい。家族の佐倉より先に……。合鍵も欲しい」
「な、あ、なんでですか?」
 玄くんの言葉を反芻します。胸に芽吹くかすかな期待を抑えこんで聞きます。鍵マニアではないのなら、そんなことがあるんでしょうか。
「翠が好きだ」
 差し出された揺るぎない言葉に、僕は一瞬言葉を失ってしまいます。
「真っ直ぐ素直なところが可愛くて俺には眩しいくらい羨ましい。それにな、世界救えるくらいちっちゃく可愛いいくせに意外に行動力あるし、前向きに変わろうとする強さも俺は憧れる。あとは……上手く言えねえけど一緒にいるとなんかこうふわふわもふもふしてほっとする」
 甘く蕩けるように笑う玄くん。包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔はあのときと同じです。で、でも見たことのないくらい昏く絡めとるような熱を潜ませた瞳です。
 本当に玄くんが僕のことを好き、という実感が湧いて来ます。そして、胸と息が苦しくなります。
 嬉しいばかりではなく、なぜだか胸が痛いです。悲しいわけではないんです。感情が追いつかず、ひたすら驚いたせいで体も心もパニック状態。何かを言いたいのに、何も浮かばないからもどかしい。それなのに甘い感情がとぷんと溢れていきます。この気持ちは言葉だけじゃ足りない。
「あの! 待っててくだちゃい!!」
 ベッドから飛び降り、目当てのものをめがけて一目散に走ります。リビングのテーブルの上にあるそれを掴むとすぐに踵を返そうとすると、ばふんと顔と体全体が衝撃に襲われます。
 甘い香りに優しく包まれた僕を玄くんが見つめます。そのお顔は眉が下がった不安なお顔。
「……嫌だったなら」
 優しいのに諦めや切なさを無理やり閉じ込めた声の響き。衝動的にどんと手の中のものを玄くんの胸に押し付けます。
「これれすっ!」
 思いの外僕の力が強かったのか玄くんはふらりと後退ります。噛んだのは無視です!
「僕も玄くんが好きです。玄くんがいたから僕はやりたいこと、なりたい自分を見つけることができました。僕の微かな心の声を拾い上げて大切にしてくれる、厳しくも優しいあなたとずっと一緒にいたいです!」
 噛まずに言えた安堵の息をつきます。目を大きく見張ったまま動かない玄くんの手を掬います。力が抜けきった大きな手の平の上へ、取りにいったシルヴァニアさん付きマスターキーをそっと載せます。
「わがままを一つ言います。1番早くこの鍵で玄くんに僕は駆けつけてもらいたいです。家族より……先に。玄くんに看病してもらいたいです」
 とろりと溶け出してしまいそうなくらい玄くんは破顔します。無邪気なのに甘さが加わった笑みに見とれた僕に玄くんは腕を伸ばします。優しいのに、性急に閉じ込めるように腕に力が入ります。
「すいが困った時は絶対に駆けつけてやる。好きだ。愛してる」
 嬉しそうな玄くんの声に、しがみつくように腕を背中に回します。息もできないくらい堪らなく幸せで。
 ただ頷くことしかできない僕の髪へキスを落とす玄くん。おずおずと顔を上げると、玄くんと視線が絡んで口元に浮かぶ笑みが艶っぽく変わります。ふと空気が濃いというのか甘ったるくなりました。
「……キスしていい?」
 どっぷり甘い声で囁く玄くん。嫌では無いですが。まだ熱が風邪では無いと確定もしていません。玄くんに移してはいけませんよね。
「お口は……熱があるので……」
 ふっと目を細めた瞳が甘さを孕んだ熱をぐっと深めました。脳を揺さぶられたような衝撃で僕は熱がぐわとあがります。玄くんは身を屈め頬へ唇を押し当てます。ふんわりと柔らかな唇の感触の気持ちよさに、くたりと体の力が抜けてしまいます。僕を抱き留めた玄くんは、そのまま抱き上げベッドへ運びます。
「す、すみません。……」
「いいよ。これ以上続きすんの危ねーからな。俺が」
「え?」
 言われた意味がわかりません。僕に頬ずりしながらにっこり笑う玄くんです。
 そのままベッドへ寝かされ、首元までお布団をかけられます。
「もう寝ような」
「…………」
 このまま寝てしまったら、この嬉しい出来事が泡沫のように消えてしまいそうです。無意識に玄くんのシャツを握ります。
「……どこか行っちゃ嫌です」
 初めて自分からわがまま言いました。
「いるから………」
 シャツを握りしめる手を包み込む大きな手。温かいです。マットレスがギシ、と沈み込み、玄くんが端へ腰掛けます。握った手はそのままに、寝かしつけるように髪をさらさらと撫でてくれます。気持ちよくて、ついうっとりと目蓋を閉じました。急激な眠気に襲われます。とろんと重い意識の中、最後になんとか唇を動かします。
「……玄くん……大好きです」
「俺も翠が好き」
 眠りに落ちる瞬間、小さく優しく笑う声と玄くんの手の平の温もりを確かに感じました。