「ご卒業おめでとうございます」
 その言葉にマキは目を見開いた。1年生は卒業式が終わったあと、すぐに演奏旅行の準備に取り掛かり卒業生に会うことはないはずだ。実際、去年のマキは先輩を見送ったあと慌ただしく準備をし、気づいたら演奏会が終わっていた……という位の多忙さだったと他の先輩から聞いていた。いないはずの人がいて、マキは酷く驚いただろう。だが、ドアを開けた先に立っていた僕の表情はマキからでは逆光のせいでよく見えない。
「……お前、演奏会は」
「ストライキだそうです」
「は」
「鉄道会社がストライキで、演奏会も致し方なく延期……とついさっき先生が仰っていました」
 これは嘘ではない。卒業式が終わり、1年生だけ音楽室に集められて突然告げられたのだ。てっきりこのままリハーサルを挟むのかと思っていたので、僕たちは拍子抜けしてしまっていた。ストライキが終わるのがいつ頃になるか判らないため、一旦準備は中断。各自今日はお休みで、明日からは演奏会練習を再開、様子を見て順延日程を決定らしい。トム先生は「困ったけど、君たちの歌を待っていてくださる方はたくさんいる。練習を怠らないように」と落ち着いた声色で僕たちに語りかけた。顛末をかいつまんで話すと、マキは大きく溜息をついた。そのまま僕の方へと歩み寄ってくる。
「じゃあ。今が本当に最後だ。もうお前には、会えないんだね」
 やたらと意地悪な言葉をつかれ、その台詞に僕は思わず口元を歪めた。
「また置いてくんですか」
 視界に入ったマキの胸元に刺された白いバラの花が憎たらしい。その花を毟り取ると、取り損ねられていた棘が指先に刺さった。
「……ッ、痛」
 中指の腹に刺さる棘に目を凝らすと、隣からマキの手が伸びてきた。
「ばかだね。抜くよ、じっとして」
 爪を立て、マキは指に刺さった小さな棘をつまんだ。小さく開いた孔から血がポツン、と湧いた。その血をマキの指が拭い押さえ、逡巡した後、唇が僕の指を舐めた。突然のことに戸惑いを顕にし、固まっているとマキはじいと僕に視線を向けた。空いていた左手で僕を引き寄せると、そのまま唇が重なる。午後5時は電気を点けるにはまだ早いが、部屋が夕焼けで少し暗くなるような暮合いだった。