気にならない訳ではないが、何も掲示がすぐに下げられることはない。風呂上りにゆっくり一人で見に行けばいいと思っていたところ、脱衣場を出た途端にチェンに結果をネタバレされたのだった。
「1年生はイースが、2年生はマキが主席。すごいよな」
「こんな狭い世界のてっぺんだけじゃ満足しませんからね~」
 イースは自分の胸を叩きながら言う。出会った当初はただただ神経質な少年といった雰囲気だったが、この1年で非常に真面目ながらも朗らかな、歌を楽しむ様子が見てとれるように変化した。
「でも、リオもなかなかだから油断できないですね」
「ん?」
「知らないんですか?」
「何? 僕、特別枠で受賞してた?」
「なんですかそれ」
「え……落第?」
「リオは次席ですよ。しかも僅差だったそうです」
 そう明るく言うものの、すこし悔しそうな表情を浮かべる。
「大差をつけて主席になりたかったです。というか、チェンも肝心な所を伝え忘れてたんですね」
「ほんっとだよ……」
 急に知らないことをイースから伝えられたせいで、変に緊張しまい肩が凝った。体を椅子の上で伸ばすと、あくびがひとつ出る。
「本当に、感謝だ」
 伸ばしたまま、何となく行き場を失ってぷらぷらさせていた左手を、イースがぱっと掴んだ。そのまま握手を交わす。
「リオのような友人に出会えためぐり合わせに、感謝」
 僕の横に立つイースの顔を見ると、いままで見たことがない位に顔をほころばせていた。
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「最近、笑顔の練習をしてて」
「面白いやつ」
「リオのような笑顔をしなさい、って先生にアドバイス貰ったから」
「へえ」
「難しいけど、笑顔っていいな」
 別に笑顔を無理に浮かべなくても充分ハンサムだし、いいやつだよ……と言おうとする。
「笑顔がいいと、ミスがバレにくいって」
「おい」
 そんな思考はぶった切られた。
「ちょっとは優しい嘘つけよ」
「私は嘘をつかないので」
「誰だよ、そのアドバイスしたの」
「秘密です」
 そのままイースはちょろちょろと逃げてしまった。追いかけるのもだるくて、僕は失笑する。
「まあ、この話はおしまいにして」
「は……」
 お前から言い出したんだろう、と文句をぼそぼそ垂れる。
「明日、お花見しませんか?」
「花見」
「サクラが咲いているらしいんです。これは、マキ先輩情報です」
 マキ、という言葉に僕は目が覚める。意外だ。
「というか、リオは最近先輩と仲いいんじゃなかったんですか」
「そんなことないよ」
「いや、てっきり先輩からリオには直接話が行っていると思ってた」
 心底うらやましい、という風に言う。
「いいなあ、先輩と仲がいいなんて。近寄りがたいじゃないですか」
「そんなことより、だよ。花見するにも、学校から出たら反省文だ」
「実は穴場があるらしいんです」
 明日朝7時、朝食後にこっそり校舎裏に集合です。と言い、イースは歯磨きをしますね、と部屋を出ていった。穴場に行くには随分堂々とした計画だから、学校から抜け出す……といったことではないのだろう。楽しそうだ、と率直に思った。イースもこういう誘いに乗る様になったのかと思うと感慨深いものがある。
 ――おやすみ。
 イースが帰ってくる前だが、僕は耐え難い眠気に早めの就寝についた。
 朝の空気の遠景に、桜が咲いていた。身を柵からぐいと乗り出すとより鮮明に見える。白い柵は、長らく人が触れていなかったせいでささくれ立っていた。
「あの川沿いの?」
「それです」
 桜並木という単語がポン、と思い出された。多分それは、日本に残る家族から向けられた言葉だろう。イースは目が悪いので、思ったより見えないようだ。眉間にシワを寄せている。この学校は丘の上に建つため、ニデルバ川沿いのサクラ以外にもふもとの街の様々な春の訪れが小さく視界に収まっていた。今日僕たちがいる側からはふもとの街が見え、この反対側からは海が遠くまで望めるだろう。灰色から彩度を取り戻した海は、春を象徴する。何も言わずに、見覚えのある姿が訪れた。そしてイースと僕の間に立つ。
「……っ、マキ先輩」
「そんなに驚かなくても……」
 姿は遮られたせいで見えないが、慌てたイースの声が聞こえた。おはよ、とマキは軽くこちらを振り向いた。
「日本にはさくら さくらって曲があるんだ」
「さくら、ですか」
「知らない?」
「知識不足で……どんな曲ですか」
 イースが問いかけると、マキはそっと歌い出した。
 ――さくら さくら。
 野山も里も、見わたす限り、かすみか雲か。朝日ににおう、さくらさくら、花ざかり。
さくらさくら、やよいの空は、見わたす限り、かすみか雲か。匂いぞ出ずる、いざやいざや、見に行かん。
「……みにゆかん」
「見に行こうって意味」
 街並みに向かってささやくように唄ったマキは、歌い終えると身を一歩引いてさらりと教えた。日本語の意味を伝えられたイースは、ぱあっと表情を緩ませ頷いた。
「いいですね。すごく、すごく。春だ」
 もういちどイースは柵にもたれ、桜並木を向くがこんどは目を凝らさず、目を閉じていた。
「サクラの匂いは……わからないですね」
「遠すぎだよ」
 思わず突っ込むと、イースは残念そうな顔をした。
「卒業式のあと位にある、今年の演奏旅行が日本だったらサクラの匂いが分かったかもしれないのに」
「もうその頃には散ってるよ」
「あ、そっか……日本はもっと暖かい所だもんね」
 校舎裏の土は春の温度に少しぬかるんでおり、3人の足跡がばらばらと残る。
「先輩は日本に戻られるんですか?」
「ん……いや、日系だけど学校に入るまでは地元にいたから。戻りはしないかな」
「ということは進学ですか」
 イースの質問にマキは答えあぐね、僕をチラリと見ると目を細めた。
「秘密」
「ええ……そんな」
「知ってどうするの?」
「……ケチですね、先輩」
 イースは分かりやすく拗ねた。知ってどうするかって言ったら、言いふらすんだろう。僕は呆れながらも、胸があったかくなり、思わず笑い声を上げた。マキが卒業後、どうするのか全く知らなかった。この学校の卒業生は、音楽家として活動する人もいれば、音大へと進学する人もいる。地元では、音楽の先生として引く手あまただと聞いたこともある……。つまり、主席での卒業が決まったマキは本当によりどりみどりのはずだ。きっと僕が訊いたら答えてくれる。だが、何となく訊くのが怖かった。訊いたらそのまま、いなくなってしまいそうだったから。突風が街に吹き、ふもとの桜並木からばあっと花びらが舞い上がるのが見えた。
 小さな学び舎が活気づいていた。赤い屋根の礼拝堂には、保護者や地元の来賓者がそぞろ歩いているのが遠目に見える。
 1年生は、礼拝堂の最後列で先輩を見送るのだ。一度だけ、先輩を送る歌として前へ出て歌う箇所がある。ただし、そこだけだ。
 式の開始までまだ時間はある。
 いますぐ逃げ出したい衝動に駆られ、礼拝堂から真反対に、石畳を走った……だが、すぐに右脚がぐらつき痛み出し走っていられなくなった。
 ――痛った……思ってたより。
 大きな独り言をつく。そのまま庭園のベンチで痛みが引くまで休憩をしていると、あっという間に時間が経った。
 すごすごと礼拝堂に戻ると、既に中は人で埋め尽くされていた。この学校が背負っている期待というものを目の当たりにして、ぞくりとした。
 将来有望な音楽家の旅立ちの日に、パイプオルガンの音色が響く。ざわめきが静まると、人の息遣いがひとつひとつ手に取るように聞こえるくらい、静まり返った。主席の名前から呼ばれる。マキは、黒いガウンを纏った背で立ち上がった。そして、次々と見慣れた先輩たちが卒業証書を貰っていく。卒業証書授与はあっという間に終わり、幾人かの長い話が終わったあと、僕たちの番になった。
「在校生から、おくる歌です」
 長椅子の端に座るイースを先頭に立つ。長く座っていたせいで、脚がしびれている。一歩、一歩ずつステージに近づく。一歩ずつ、先輩との別れに近づいていく。そんなの分かっていたはずなのに、せり上がる緊張に目がぱしぱしする。前を向く。ちょうど、正面にマキが座っていた。そらさないで、と願いながらまばたきをする。僕は丁度パート的に真ん中に立ちがちで、マキは主席で中央に座っている。仕組んだわけではないのに、真正面に相対することになった。完全なる偶然に僕は息を呑む。
 神様も、随分酷いことをしてくれるものだ。
 僕は静かに右手を上げた。いち、に、さん、し。……と、別れの曲を、歌いはじめた。
「ご卒業おめでとうございます」
 その言葉にマキは目を見開いた。1年生は卒業式が終わったあと、すぐに演奏旅行の準備に取り掛かり卒業生に会うことはないはずだ。実際、去年のマキは先輩を見送ったあと慌ただしく準備をし、気づいたら演奏会が終わっていた……という位の多忙さだったと他の先輩から聞いていた。いないはずの人がいて、マキは酷く驚いただろう。だが、ドアを開けた先に立っていた僕の表情はマキからでは逆光のせいでよく見えない。
「……お前、演奏会は」
「ストライキだそうです」
「は」
「鉄道会社がストライキで、演奏会も致し方なく延期……とついさっき先生が仰っていました」
 これは嘘ではない。卒業式が終わり、1年生だけ音楽室に集められて突然告げられたのだ。てっきりこのままリハーサルを挟むのかと思っていたので、僕たちは拍子抜けしてしまっていた。ストライキが終わるのがいつ頃になるか判らないため、一旦準備は中断。各自今日はお休みで、明日からは演奏会練習を再開、様子を見て順延日程を決定らしい。トム先生は「困ったけど、君たちの歌を待っていてくださる方はたくさんいる。練習を怠らないように」と落ち着いた声色で僕たちに語りかけた。顛末をかいつまんで話すと、マキは大きく溜息をついた。そのまま僕の方へと歩み寄ってくる。
「じゃあ。今が本当に最後だ。もうお前には、会えないんだね」
 やたらと意地悪な言葉をつかれ、その台詞に僕は思わず口元を歪めた。
「また置いてくんですか」
 視界に入ったマキの胸元に刺された白いバラの花が憎たらしい。その花を毟り取ると、取り損ねられていた棘が指先に刺さった。
「……ッ、痛」
 中指の腹に刺さる棘に目を凝らすと、隣からマキの手が伸びてきた。
「ばかだね。抜くよ、じっとして」
 爪を立て、マキは指に刺さった小さな棘をつまんだ。小さく開いた孔から血がポツン、と湧いた。その血をマキの指が拭い押さえ、逡巡した後、唇が僕の指を舐めた。突然のことに戸惑いを顕にし、固まっているとマキはじいと僕に視線を向けた。空いていた左手で僕を引き寄せると、そのまま唇が重なる。午後5時は電気を点けるにはまだ早いが、部屋が夕焼けで少し暗くなるような暮合いだった。
「……昨日さ、今日が最後とか言ったけど、退寮日の今日が本当の最後だったね」
「ほんとだよ」
 と呟く2人に、嫌な教師が首を突っ込んできた。
「マキ君~、卒業おめでとう」
 割入ったのはジン先生だ
「……どうも」
 どの顔を下げて言うんだ、というような刺々しい言葉を飲み込む。ピリっと凍り付いた空気は、普段なら周りの生徒が異変に気付くだろうが、退寮日は誰もが自分のことで精一杯で3人の様子に気づくものはいない。
「リオ君も、先輩と仲直りできたようでよかった」
「あ、はい……」
 仲直り、という言葉に嫌味を感じるのは気のせいではないだろう。僕は嫌悪感をうっすら抱きながらも笑顔を浮かべようとしていた。
「じゃ、先生たちは忙しいので」
 ジン先生は足早に職員室のほうへと去っていく。
 その姿を見送り、2人きりになると再び微妙な空気が漂った。
 退寮で忙しいマキを引き留めたのは僕なのに、つなげる言葉が見つからない。先輩、と引き留めた僕自身を恨みたくなる。
「あの……、うん」
 昨日の口づけを思い出し、言葉が出なくなった。あれだけのことで、どうして動揺してしまったのだろう。きっと、相手が、ずっと恋焦がれ、拗らせていたマキだったからだ。
「あれは、二人の秘密」
「……っ」
 な、とマキは念を押した。ふわりと小首をかしげ、僕に小さな声をかける。
「うん……」
 あんなこと、ほかの人に言えるわけないじゃないか、と思う。同い年のはずなのに、大人びて見えるマキにとってはそうではないのだろうか。近づいたようで、まだわからないことばかりのマキの姿に、ふとさみしさを感じた。
「マキは進路、どうするの?」
 ついぞ今日まで聞けなかったことを訊く。マキは淡泊な表情を浮かべたまま、口を開かない。
 遠くの渡り廊下を歩くひとの足音が聞こえる。それくらい部屋の前の廊下は静まりかえっていた
「言ったらまた着いてくるんだろ」
 呆れ口調でマキは笑う。
「付いていっちゃダメなの?」
 率直な疑問をぶつけるとマキは形容しがたい表情を浮かべ、僕に言った。
「一緒に逃げてくれるならいいよ」
「何から逃げるの?」
 マキの提案の意味が分からずに、再び質問を重ねた。
「俺たちが恋人になることを邪魔するものから」
 後ろ手に組まれていた大きな手のひらが、僕の頭にぽんと置かれた。そのまま、子犬を撫でるように髪をぐしゃぐしゃにされる。
「……だれも邪魔してない、はず」
「理音はそう思うんだ」 頭に置かれた手のひらが温かい。そのままマキは、左手で僕の顔をやさしく包んだ。
「じゃあ、待ってる」
 吐息とともに唇が僕のものへと重ねられる。やわらかい粘膜の感触が、小鳥のさえずりのように幾度となく繰り返される。
 キスが止んだあと、マキは微笑みながら僕をやさしく突き放した。
「またね」
 マキは手を振る。
 僕は、声も出せずに手を振り返し、自分の部屋へと戻った。
 ひとりで歩いた距離は、そう長くはない。だが、とても長かった。
 指先に残る赤い血の跡は、ゆいいつ形に残った〝約束〟に思えた。

 部屋にはイースがひとり、席について本を読んでいた。
「おかえり」
 眼鏡を押し上げ、穏やかな表情を僕に向ける。
「雨は上がりましたか?」
 その言葉に窓のカーテンを開くと、木漏れ日がまっすぐ床に差し込んだ。ガラスの向こうは、新緑の木の葉が日差しに照らされている。葉の水滴は、宝石のようにきらめいている。
 通り雨は過ぎ去ったようだ。

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