二度目の冬真の狼狽は、季節がすこしめぐって、中学三年生の夏。
「潮が、吉見さんに告白されて、付き合うことになったらしいよ」
「それ、どこ情報?」
「実際にふたりでいい感じでいるとこ見たのと、あとは小林から聞いた」
「まじか。おれ、吉見さん結構いいなって思ってたんだけどな」
「まあ、相手、潮だろ? 妥当って言うか、だれも勝てんだろふつうに」
おれと冬真が通っていた中学校は、高校受験に向けて、夏休みという概念を台無しにでもしたいのか、夏期補習をぎゅうぎゅうにつめてくる系の感じの悪い学校だったから、夏のあいだ、おれたちはたいていそれぞれの教室にいた。
自由参加を謳いながら、そこにはしっかりと「きょうせい」のルビがふられていて、超難関高校を目指すためのハードな塾に通っていないやつらは、ほぼほぼ参加していた。
ちょうど、数学と国語のあいだの休憩時間におれは、冬真に彼女ができたらしいということを、クラスのあかるい元野球部のやつらが近くの席で話してるのを盗み聞きして知った。
その時、おれは陽のあたらない自分の席で右手の人差し指のささくれをとろうとしていて、
「潮って、高校いったらもっと女子からモテそう」
「ふつうに性格いいし、面白いよなあいつ。嫌みがないっていう嫌み」
「吉見さんと、色々するんだろうな」
「うえー、ずるすぎるけど、別にいいよ、おれはそういうの高校はいってからでも」
強引に引っ張ったものだから爪と皮膚の間に痛みが走って、血が滲んだ。
それをじっと見ながら、生徒玄関で待ち合わせて帰っていく冬真と吉見さんの夏服の後ろ姿を、冬真の部屋でふたりがくっついているところを、想像した。
血は指のところでぷくりと玉のように膨らんでいって、それをおれは制服のズボンに押し付けるようになすりつけた。
想像のなかのふたりは、おれがよく知る冬真の部屋のベッドの上で、顔を近づけて唇を合わせてからゆっくりと顎を引いて、それでもまだ至近距離で見つめ合ったまま、瑞々しいひかりそのものみたいにわらいあった。
どんなフィルターをかけても、どんな角度からでも、自分の頭に思い浮かべたふたりは完璧にお似合いだった。
その日、補習が終わってひとりで帰ると、家の前に冬真がいた。
目が合うときれいに片笑んで、おれに向かって手を振ってきた。
まくられたカッターシャツの裾からのぞく冬真の腕はほどよく逞しく、おれは手をあげようと思ったけれど、昼間に聞いた話と自分がした冬真と吉見さんの想像を思い出したら、手を振り返す気にはなれず、頷くだけにした。
「家、入ってればよかったのに」
「誰もいなかったからさすがに。秋の母さん、夜勤の日じゃない? 木曜だし」
「あ、木曜か今日。そうだったわ。実の息子のおれより冬真の方が詳しいの何でだよ」
「気にしてるから」
「おれの母親の夜勤を?」
「うん」
「ちょっと怖くねーかそれ」
「そ、れは、……ごめん」
「別に謝らなくていいけど。次の夜勤いつ?」
「来週の火曜って言ってたはず」
「はは、こっわ。それ、おれの知らない情報だ。お前、おれよりあの人の息子じゃね」
おれが持っている鍵で玄関の扉を開ける。
冬真は、いつものように、お邪魔します、と丁寧に言って、いつものように、靴はきれいに揃えず、おれのあとに続いて中に入った。
中学二年の春からの三年間、父親は単身赴任でよその県にいて別居していたから、家に住んでいたのはおれと母親だけで、看護師をしている母親が夜勤の日は、家はすみずみまでおれだけの城だった。
だけど、そういう日にはきまって冬真が来るからおれだけの城というよりはおれと冬真の城と言った方が正しくて、部屋に入ると当然のようにおれのベッドの上を陣取る冬真の方が、おれよりも立派に王様だった。
夏の昼間は長く、午後五時を過ぎてもまだ窓の外はあかるいまま、おれの部屋にも、昼の延長線上をゆくような時間がずっと続いていた。
冬真はおれのベッドに寝そべりながら、おれは床に座ってベッドフレームに背を預けながら、ふたりでインストールしたばかりのゲームをやっていたけれど、それにもすぐに飽きて、だらだら、とにかく、ふたりともだらだらしながら、日が沈むのを待ちあぐねていた。
手持無沙汰になり、後頭部をシーツにくっつけて、ぼんやりと天井を眺めていたら、おれは不意に昼間のことを思い出した。
そうなるともうだめで、冬真がスマートフォンを触っているのを視界の端っこでとらえて、いま冬真は吉見さんと連絡をとっているに違いないなと、始点をどこにしても思考回路はそこで行き止まりになるから、眼鏡を外して視界をわざと不明瞭にした。
それでも頭の中は、冬真、吉見さん、冬真、吉見さん、冬真ばかりのままだったから、鬱陶しくなり、ついに白旗をあげることになった。
頭を動かして、頭だけの逆立ち状態で無理やり冬真の方に顔を向けると、輪郭の曖昧な冬真が、逆さのまま目に映った。
名前を呼んだら冬真はすぐにスマートフォンから視線をこちらに向けて、ん、と口元に笑みを浮かべた。
いつも通りの冬真に、おれも平然を装いながら、世の中に用意されているテンプレートからありきたりな一つを適当に選んで、声にした。
「彼女できたらしいじゃん、おめでとう」
遠ざけようとしたのにずっと近いままだった冬真だったけど、おれに吉見さんのことを報告しようという素振りは全く見せなかった。
日向で行われていることをわざわざ日陰のおれに言う必要なんてないから当然のことだっただろうし、それは、おれたちの距離がようやく離れようとしている良い兆しみたいなものかもなと、その時のおれはわりと冷静に考えていた。
ありがとう、その五文字だけがきれいに返ってくるものだと思った。
だけど冬真は、おれの言葉に、「へ」と驚いたようなしゃがれた声を漏らして、上体を起こした。
だらだらとした空気はそこでぷつんと糸が千切れるように終わり、おれは視界を逆さにしたまま、目を見開いて焦った顔をしている冬真を眺めた。
「いきなり、何?」
その顔には、既視感があった。
「今日、クラスのやつらが話してるの聞いたんだよ。別に、他意はない」
「おめでとうっていうのは、何で」
「何でって。おめでとうだろ。間違ってるか?」
あまりに頼りない裸眼でも、冬真が狼狽えていることが分かった。でもその狼狽が一体どういう類のものなのかは、おれには分からなかった。
「相手、吉見さんだろ。告白されたんだってな」
「告られは、したけど」
「お似合いだよな。おれも彼女ほしいわ」
「…………………へえ」
「うわ、間がグロすぎる。お前、今、絶対できるわけねーだろとか思ったろ。まあ、おれもそう思うけど」
はは、とおれは逆さに自嘲してみたけれど、冬真はにこりともしなかった。
おれの発言がグロすぎたのかもしれない。自分の部屋でなら許されると思っていたけど、珍しく冬真は許してくれないらしかった。
でも、おれだって言うくらい自由だろ。思ってもないよ。だけど、思ってるふりくらいはしたっていいだろ。お前みたいに、女子に告白されて、女子と付き合えるって、おれみたいな日陰の人間だって、別に考えてたっておかしくはないだろ。
そういうことを思いながら、おれは冬真から天井に視線を移した。
ぱちぱちと瞬いた途端に、冬真に対する劣等感がじゅくじゅくと湿り始めて、おれは嫌になって目を閉じた。
「秋」
おれを呼ぶように、吉見さんの名前をこれから何度も冬真は呼ぶのだろう。吉見さんじゃなくても、だれでも。冬真の横にいてもおかしくない女子の名前を、冬真は何度も呼んで、その回数はいつかおれを呼んだ回数よりもはるかに多くなっていくのだろう。
おれは、それでいつか、冬真には名前を一切呼ばれなくなる。