そんな、悪いしいいよ、となんとか必死で断ろうとしたが、駄目だ、これは俺にとっても死活問題だ、とわけのわからないことを言われてしまった。
 
 部活のない日は朝九時に一晟の家に来るように言われて、まだ眠い眼をこすりながらリュックの中に教科書やらノートやらを詰め込む。玄関であくびを噛み殺しながら靴を履いていると、「あら、もう出るの」とリビングから顔を出した母親に声をかけられた。
 
「朝ごはんは食べて行かないの」
「いい。約束の時間に遅れる」
「帰りは何時頃? お昼ご飯はどうするの?」
「暗くなる前には帰る。昼は、一晟がそうめん茹でてくれるって」
「ええ、いっくん、料理もするの! えらいわねぇ」
 
 一晟を褒めながら慌ててキッチンから何か持って来る。大きめのスーパーの袋に入っているのは……スイカ? 昨夜食べた大玉の残り半分だろうか。今回は当たりだったね、と話しながら食べた甘いやつだ。
 
「次はもうちょっとちゃんとしたのを持たせるから。とりあえず今日はこれ持っていって!」
「一晟には気を遣わないで欲しいって言われたけど……」
「そんなこと言っても手ぶらってわけにはいかないでしょ! いっくんにわざわざ勉強みてもらうのに!」
 
 それともちゃんと家庭教師代として現金を渡した方がいいかしら、と悩んでいるので「聞いてみる」と言った。
 
「すごいわねえ。あのいっくんが第一志望に落ちちゃったって聞いた時は信じられなかったけど。やっぱり賢いのね。この間の試験、学年二位だったんでしょ?」
「なんでそれ、知ってるんだよ」 
「高校のアプリで保護者あてにきてたのよ。……っていうか、恵介の成績表、見てないけど?」

 慌ててスーパーの袋を受け取って「行ってきます!」と立ち上がる。
 玄関を閉めるまえに「次は期待してるわよ!」と大きな声で言われて「うん」と一応、返した。


    
 一晟の住む五階建てのマンションは恵介の家から歩いて五分もしない距離にある。
 それでも朝から三十度超えの今日は暑くて、歩いているうちにびっしょり汗をかいた。
 インターホンを鳴らすと一晟のぶっきらぼうな声と共に後ろから賑やかな子供の声が聞こえてきて、ついくすりと笑う。
 一晟は三人兄弟の長男で、年の離れた小学生の妹と弟がいる。一人っ子の恵介はそれがうらやましくて、一晟の家に遊びに行く時は二人に会えるのも楽しみにしている。
 
「恵介くんいらっしゃい!」
 
 玄関のドアを開けると嬉しそうに小さな姉弟が飛び出てきた。
 
「日菜ちゃん、塁くん、おはよう」
 
 両脇から腕に抱きつかれて、ついにこにこしてしまう。石塚家の兄弟はよく似ている。一晟と同じ、太くて短いキリッとした眉毛が可愛い。シベリアンハスキーの子犬が二匹、尻尾を振りながら自分に纏わりついているところをつい想像してしまう。
 
「おい、日菜、塁! 恵介はおまえたちと遊ぶために来たんじゃないぞ」
「知ってる、知ってる!」
「今日はお勉強しに来たんでしょ!」
「わかったらその手を離せ」
 
 一晟にスイカの入ったスーパーの袋を渡すと「別に気にしなくていいのに……」とやっぱり言われてしまった。
 
「一晟。お母さんは?」
「今日はパート。夕方には帰ってくる」
 
 いそいそとスイカを冷蔵庫に入れに行く背中に声をかける。

「あのさ、うちの母さんが一晟に家庭教師代を払いたいって言ってたけど、どうする?」
「そんなの悪くて受け取れない」
「……そう言うと思ったけど。母さんがちょっと気にしてるっぽい」
「お金が欲しくてやってることじゃないし、そもそもちゃんと成績があがるかどうかまだわからないしな。……もちろん努力はしてもらうが」
 
 ついでに冷たい麦茶を入れてくれたので一気に飲み干す。うまい。
 空になったグラスを一晟に渡し、ぎゅっと拳を握る。
 
「……俺、頭は悪いけど。せっかく一晟に見てもらうんだから、少しでも成績上がるように努力するよ!」
 
 一大決心で恵介がそう言うと、一晟が軽く口の端を持ち上げた。
 
「よし、その意気だ。じゃあ、早速始めるか。日菜、塁、邪魔するなよ」
「え〜、もう⁉」
「ああ。時間はいくらあっても足りない。なにか用事があったら隣の部屋からにいるから呼べ。いいな」
「は〜い」
 
 残念そうに言う二人に「ごめんね」と謝った。