好きだから、側から見たらどれだけ異常な事でも僕は嬉しさを感じて言う通りに行動していた。好きだから全く興味が無い、むしろ虚しさしか覚えない女装だってした。好きだから、意味不明な接触だって嬉しかった。だってきっとこの先僕の人生においてこんな事もう起きっこない。
好きになった人と出掛ける事も、かわいいって撫でられる事も、好きな人とのキスだって、きっともうする機会なんて訪れない。
だから飽きられるまで。「もういいや」って言われるまではこの関係でいたいって思ったのに、先に根を上げたのは僕だった。だって一方通行の好きがこんなに苦しいものだなんて思わなかったから。
僕を好きになって欲しい。僕と同じ好きを持った状態で僕と触れ合って欲しい。
……なんて贅沢で、烏滸がましい感情だろう。
自分が普通になれないなんて小学生の時から分かっていたのに、ほんの少し夢を与えられただけで僕の心はボロボロになってしまった。
あの時、文化祭の準備中に桐生にまたキスをされた時、僕は怒った。
僕の事を好きでも何でもないくせに触らないでって、都合の良いオモチャみたいな扱いをしないでって、僕は怒ったんだ。でもそれと同時にそんな有り得ない我儘を至極真面目に考えていた自分にも心底腹が立った。
「…やっぱりあの時、」
梅雨の日の放課後、僕の両手を握って僕を見つめている顔は今でも鮮明に思い出せる。思い出せるからこそ、僕は独り言だとしてもその続きを声に出す事が出来なかった。
準備も滞り無く進んで迎えた11月の第1週の日曜日、つまり文化祭の本番だ。
「よぉしお前ら、気合入れてくぞ」
「なんで田中がリーダーみたいな顔してんの」
「シャイな委員長に田中クンなら盛り上げてくれるだろうからってお願いされたんですぅ!」
一般の人達が入って来るまであと30分と迫った頃、みんな忙しい合間を縫って教室に集まっていた。こういう場面を見ると田中は本当にムードメーカーなんだなと思う。加えてこの学校でも屈指の男前で性格も気取ってなくて、でも滲み出ているちょっとしたバカっぽさが親しみ易くてそりゃあ人気者にもなるよなと納得する。
それに今日は文化祭本番、つまり田中は客寄せパンダとしてガチガチに決めている。というか元の素材が良過ぎて何をしてもイケている。なる程運動部の男子が「イケメン爆発しろ」という意味が分かった気がする。
「はいお前ら隣のヤツと肩組んで!」
「体育祭かよ」
「時間無いよぉ! ほらさっさと組む! おらそこの奴らも早く!」
さすがに全員は集まれなかったがそれなりの人数での円陣は結構な迫力がある。僕の隣にはばっちりと書生姿に男装した楠木さんと大胸筋がはち切れそうなツインテールゴリラ野球部がいる。カオスだ。
「そんじゃま、ついに本番なワケですが正直全校で俺ら程気合入ってるクラスはいねえ。妖怪喫茶と言われようが何だろうが焼肉掻っ攫うぞー!」
「おー!」
男女関係なく上がった声の大きさに目を見開いた。多分妖怪に該当する大胸筋はち切れツインテール野球部やはち切れる大腿筋黒ギャルラグビー部その他イロモノ達が何故だか一番やる気に満ち溢れていたからだ。
これが運動部の声出しか、と今まで遠目にしか見てこなかったカルチャーに触れて僕は呆気に取られていた。
「それじゃ作戦通り田中と桐生クンはプラカード持って正門へゴー! キャストと料理班はもう一回動線確認しよ。あと休憩時間の表とかもちゃんと貼ってるしグループの方にも載せてるから各自確認する事! あと何が起きるかわかんないからこまめにスマホチェックしといてー!」
桐生、という名前に僕は無意識に身構えた。そんな反応をしてしまうのはもう仕方が無いと思うのだ。だって何をどう考えない様にしていたとしても僕は依然として桐生の事が好きなままだ。いっそ嫌いになれたらいいのに悲しいかなあいつとの思い出は楽しいものばかりで暫く忘れられそうにない。
そんな事だから今日まだ一度として桐生を視界に収めていない。
でもクラスの女子のはしゃぎ様でわかる。桐生は多分今日引く程格好良い。そんな姿を見てしまったらまた僕は桐生を忘れるのに時間が掛かってしまう。だから今日の僕の目標は桐生を視界に入れずに1日を無事に過ごす事だ。
折角の文化祭なのにと思わなくもないが、しょうがないじゃないか。そんな下らない決意表明でもしないと僕の目は勝手に桐生を追ってしまうんだから。
「雪ぴー! 雪ぴはとりあえず笑顔ね。にこーってしなくてもいいから口角上げる! オッケー?」
「お、おっけー」
「うんうん、まーじでうちの女装でまともなの雪ぴとあと二人くらいしかいないからマジ頼んだ。あと動物園だからマジで」
気合十分と言った様子でメニューを復唱している筋肉女装陣達を見て思わず笑うと、黒ギャルが僕を見てビシッと指差した。
「ちょっとクオリティ高いからって調子乗ってんじゃないわよ! アタシ達にはあんたには無い才能があるわ。そう、お笑いのね!」
ラグビー部の黒ギャルと野球部のツインテールと柔道部のおかっぱがいつ練習したかわからないセクシーポーズを見せて来て僕は無事撃沈した。笑い過ぎて膝から崩れ落ちるって本当にあったんだな。
ちなみにその様子はしっかりと動画に収められていてクラスグループに共有されたし、それを使って宣伝したらしいクラスの人のおかげで筋肉三人娘目当てのお客さんが沢山来た。メイド喫茶じゃない筈なのに野太い声で「萌え萌えキュン」が行き交う空間はカオスだったし、田中桐生ペアが大量に連れてきた女性客はイケメンにクラスチェンジした女子達によってメロメロにされていた。
僕や普段からそんなに目立たない、運動部にも入ってないから必然的に体が細い女装組は料理やドリンクをせっせと運ぶ作業に従事していた。
忙しいし、やっぱり知らない人達に話しかけられると緊張はするけど、それでも注文が取れたり人の笑顔を見ていると心が満たされていくのが分かった。
「雪ぴー!一緒に写真撮りたいだってー!」
「女装組集合―! お客様がお呼びでーす!」
「ちょっとォ! アタシの横に斉藤置くんじゃないわよ! アタシの顔がデカイのがバレちゃうじゃないの!」
最初僕は緊張していたし、正直乗り気じゃなかった。女装は好きじゃないし、虚しくなるだけ。それに人と関わるのだって嫌だし目立つのなんてもっと嫌だ。眩しい人達の陰でひっそり生きていけたらそれで十分。そう思っていたのに。
「じゃあ僕前行こうか?」
「それはそれで腹立つわね!」
あえて団子みたいに体を寄せ合って楽しそうに笑っている一般客のお姉さんの声に合わせて笑みを浮かべる。それは無理した作り笑いじゃなくて自然と出て来たものだった。楽しいなって、心からそう思えた。
宣伝のおかげか僕達のクラスはかなり盛り上がっていて想定よりも早いペースで料理の在庫が尽きそうになっていた。だから今は副担がメモを握り締めた生徒と一緒に材料を買いに走っている最中で、その中で僕達は喫茶店を営業していた。
けれどそんな盛況ぶりでは表通りの休憩を取るなんてとてもじゃなくて出来なくて僕が休憩に行けたのは予定より一時間程過ぎていた頃だった。丁度隣のクラスを荷物置き場兼便利スペースとしている為僕は早速椅子に座って長く深い息を吐き出す。
「……つかれた…」
言葉にし尽くせない程楽しいのは間違いないのだがいかんせん僕には体力が無い。正直気合と根性で乗り越えていると言っても過言では無い程僕はすでに虫の息だ。でもこの休憩が終わったらまた接客に戻らないといけないし、この休憩は有意義に使いたい。
寝るか、それとも少しでも腹に何かを入れるべきかと考えたところではたと思い出す。そういえば誰かがいい店あったら共有すると言っていたのを。
この学校の文化祭は盛り上がる。僕達みたいに飲食店をやるクラスもあればお化け屋敷を作るクラスもあるし、外で祭りさながらの屋台を展開するクラスだってある。それに体育館ではバンド演奏や服飾部のファッションショー、演劇部や吹奏楽部による発表だってあるのだからイベントは目白押しだ。去年僕は特に何のイベントも見に行かなかった。裏方としてやる事をして後は静かに文化祭が終わるのを過ごしただけだったのに、一年後にこんな事になるなんて誰が想像しただろう。
「えっと、スマホは…」
ゆっくりと立ち上がって鞄の中に仕舞い込んでいたスマホを取り出す。きっと画面にはグループの通知が沢山あるんだろうなって予想したのに、結果は違っていた。いや、ちゃんとグループの通知は遡るのが大変な程にある。だけど、見慣れたアイコンが並んでいるのを見て僕は呆然とその場で固まった。
「…なんで…」
喧騒が聞こえなくなった。
アイコンは部屋に置いてある妙にアンティーク感の強い地球儀。どうしてそれなんだって聞いた時「顔以外なら何でも良かったんだよね」そう言っていたのを思い出して一気に心が掻き乱された。桐生からの連絡だった。グループで発言しているんじゃない。僕宛に、いくつかメッセージが送られて来ていた。読むべきじゃない、心の中で冷静な僕が言っているのがわかる。僕は概ねそれに賛成だった。だって、今僕は桐生を忘れようとしている最中だ。
だからこの前の日から僕は徹底して桐生を見ないようにして来た。声だって聞かないようにして来たし、兎に角僕の意識の中から桐生を消そうとして来た。
それくらい、僕の中で桐生の存在は大きい。
でも、ともう一人の僕が言う。緊急事態だったら? もしかしたらそんなに気にするような内容でも無いかもしれない。それにここで無視して教室で話し掛けられる方が、逃げ場が無くなるんじゃない?
……そうだ、この連絡は、きっと大して意味が無いかもしれない。取り留めもない文章か、もしかしたら宛先を間違えた可能性だってある。それに無視をするのは、相手にとって失礼だ。そんな自分への言い訳を沢山して、僕はそっとメッセージをタップした。
『雪穂、もう休憩入った?』
『ごめん結構忙しそうだね、平気?』
『休憩入ったら教えてほしい』
『会いたい』
『屋上で待ってる』
息が苦しかった。
最後の連絡があったのは30分前、最初に連絡が来たのは表にある僕の休憩時間の開始時刻だ。
理性が僕に行っちゃダメだって言ってくる。そんなの僕にだって分かってるのに、気が付いたら僕は教室から出ていた。生徒も一般客も入り乱れる廊下を人にぶつからない様に進んでいく。客引きの声や談笑する声、放送委員からの落とし物の報告の声、どこかのクラスのお化け屋敷の叫び声、いろんな音と声が錯綜する中、僕は真っ直ぐに屋上を目指す。
行って何になるんだろう。きっと何にもならない。
そんなの分かりきってるのに、人混みから抜けた途端僕は走り出していた。
着物がパタパタとひらめいて、動きやすい様にと着せられた袴だけど走るとなるとさすがに少し邪魔になる。コンタクトのおかげで視界が広く、屋上までの道がクリアに見えた。
一段飛ばしに階段を登って、肺が痛くなるくらい苦しい中僕は重たい屋上の扉を開けた。蝶番が錆びた扉は開けたら金属の擦れる様な嫌な音がする。その音と僕の息の乱れた音が重なって不協和音みたいに広い屋上に響いた。
もう11月、走ったところで汗は出ないけど疲労はする。僕は三歩ほど進んだところでその場に座り込んだ。
思えば、走らなくても良かった筈だ。でも一分一秒でも早く到着したかったのは、やっぱり僕がこの男のことが好きだからだ。
「……幽霊見てるみたいな顔、やめてくれる…?」
客寄せパンダ用に作られた衣装は全身が黒。一見するとスーツっぽいけど、マント見たいな上着や全体的なシルエットが大正っぽくてお洒落で、桐生はそれを難なく着こなしていた。でもその表情はやっぱり迷子みたいで目が自信なさげに揺れている。
「…本当に来てくれるって、思わなくて」
「呼んだのは桐生でしょ」
「そうだけど…」
珍しく歯切れの悪い桐生がゆっくりと僕に近付いてくる。その様子を伺うような挙動はどこか警戒心の強い動物を思い出させる。そうして僕のすぐ側にまで来た桐生はこれもまたゆっくりとした動作でしゃがんで僕と視線を合わせた。
「……ほっぺた、赤い」
「走ってきたからね」
「…かわいい」
「みんなの努力の結晶だね」
「…俺、雪穂と仲直りしたい…」
消え入りそうな声で呟かれた言葉に僕は何も返せなかった。
桐生は沈黙が苦しいのか目を伏せて下を見ている。思えば人の目を見て話さない桐生を見たのはこれが初めてだ。
目を見て話せないのは自信がないとか、不安だとか、そういう心理状態の現れだって僕は思っていて、それと同じだとするならあの桐生が僕に対して不安を抱えているという事になる。
教室を出るまでは、屋上に着くまでは、顔を見たところでどうしたらいいんだって不安だったのに、今は不思議な事に落ち着いている。きっと桐生が僕よりもずっと深刻そうな空気を背負っているからだ。
僕が取れる選択肢はいくつかある。
どれを選んだらいいのかも、何となくわかる。
だけどいつになく冷静な僕は、もうオモチャは嫌だって思った僕は、どの選択肢を選んだらいいのかを判断していた。
手を伸ばして桐生の右手を握った。それまで泣きそうなくらい沈んでいた桐生がぱっと顔をあげたのに、僕を見てまた迷子みたいに目を揺らした。
「桐生」
フェンスの外から、校舎の開いた窓から、体育館の方から、今日という日を楽しんでいる音が沢山聞こえる。その音が、空気が、僕の背中を押してくれた気がした。
「僕、桐生の事が好きなんだ」
ゆっくりと僕の言葉を咀嚼した桐生の目が見開かれて、信じられない物を見るような目で僕を射抜く。桐生はきっとこの学校の誰よりも僕の性格を知っている。だから僕が冗談でこんな事を言う人間じゃないって、きっと桐生が誰よりも分かってる。
「だから、仲直り出来ない」
握っていた手を離すと、力が入っていない桐生の手がぶらんと揺れた。
桐生の目は変わらずに僕を見ている。困惑と、動揺と、何を言ったらいいのかわからない、そんな表情だった。
「…じゃあね」
立ち上がって重たい屋上の扉を開けた。重く閉じる扉の音を背中に僕は漠然と夢から覚めたんだなって、そう思った。
結局僕たちの妖怪喫茶は他の追随を許さないくらいの圧倒的差で一位に君臨した。後夜祭で出し物の結果発表が行われた時の歓声や、一位の封筒を何故か受け取りに行った妖怪筋肉三人娘に会場は爆笑の渦に包まれた。
優勝賞品である焼肉券は駅の近くにあるチェーン店の物でそれぞれ予定もあるだろうからと一人一枚ずつ用意されていたのには流石に驚いたけど、僕にはその方が都合が良い。
僕がこんな風にクラスに馴染めたのも文化祭っていう魔法があったからで、その魔法が解けた今僕はまた冴えないクラスメイトに戻る。それに元々焼肉もそこまで好きな訳じゃないからこの券は他のクラスの友人に上げても良いし、お世話になった楠木さんに渡すのだって良いかもしれない。
兎にも角にも、文化祭が終わったことで僕に起きた様々な非日常が終わりを告げた。
桐生の連絡先は消してないけどトークの履歴は全部消した。僕は桐生の写真なんて一枚も持っていないから、トークさえ決してしまえば7月からの出来事が全部夢だったんだって納得出来る。
僕はまた日常に戻る。ひっそりと、人とそこまで深く関わらず、そこにいるのかいないのか曖昧な存在になって生きていく。きっとそれが僕には一番似合う。
「なああ斉藤おお! 数学のノート見せて! お前眼鏡だし頭良いんだろ⁉ 頼むよ女装した仲じゃん見せてくれよおお」
そう思っていた時期が僕にもありました。
「眼鏡だから頭良いのは偏見。真ん中より上くらいだよ、僕」
「下の下である俺よりは上じゃん?」
「まあそうだろうね」
文化祭の時では黒ギャルになっていたラグビー部の玉田は何故か文化祭後も僕によく話し掛けて来るようになった。否、正直玉田だけじゃない。楠木さんもツインテール野球部山田もマシュマロボディおかっぱ柔道部剛田も普通に話し掛けに来る。
陽キャというのは距離を詰める速度がすごいのだと僕は最近体感した。困惑する僕を置いて彼らは会話を始めて時間が来れば去っていく台風の様な存在だ。そして陽キャは陽キャを呼ぶもので、僕が陽キャに挟まれたあわあわしているとまた別の陽キャが現れて陽キャに退路を塞がれるなんて事態にもここ最近慣れてきた。
たまに陽キャの帝王田中が現れる時なんてとんでもない事になる。彼らはきっと僕よりも喋る速度が倍以上早く、そして情報処理能力が僕の数段上を行っている。つまり僕はたまに宇宙人の会話を聞いているような心地になるのだ。
正直馴染めている気は全くしないけれど、この忙しなさが今の僕には救いだった。
僕は学校にいる間一人になる時間が減った。それはつまり物思いに耽る時間が減ったという事だ。僕は元々一人が好きだし、騒がしいのは得意じゃない。だけど今僕は出来るだけ考えるという事をしたくなかった。
理由は簡単で、一人になるとどうしても桐生の事を考えてしまうからだ。
あの日桐生に気持ちを伝えた事を後悔していないと言えば嘘になる。でもああしなければ僕はまた桐生と今まで通りの関係になって、更に深く傷付く未来が見えていた。僕は僕を守るために前の関係には戻らないという選択をしたんだ。
それでもたまに、本当にたまに思い出す。
触れてくれた温度とか、その時の桐生の顔とか、同じ男なのに全然違う体の硬さだとか、そういうのを思い出しては勝手に一人でダメージを負って落ち込む。自分がこんなにも面倒臭い人間だなんて知らなかったし、できれば知りたくなかった。でも何度もそんな事を繰り返したから僕は良い加減わかったんだ。
もう知る前には戻れない。ドラマや漫画で使い古されたセリフがこんなにも自分に重くのしかかって来るなんて、人生は本当に面倒臭いなって僕はため息を吐いた。
好きになった人と出掛ける事も、かわいいって撫でられる事も、好きな人とのキスだって、きっともうする機会なんて訪れない。
だから飽きられるまで。「もういいや」って言われるまではこの関係でいたいって思ったのに、先に根を上げたのは僕だった。だって一方通行の好きがこんなに苦しいものだなんて思わなかったから。
僕を好きになって欲しい。僕と同じ好きを持った状態で僕と触れ合って欲しい。
……なんて贅沢で、烏滸がましい感情だろう。
自分が普通になれないなんて小学生の時から分かっていたのに、ほんの少し夢を与えられただけで僕の心はボロボロになってしまった。
あの時、文化祭の準備中に桐生にまたキスをされた時、僕は怒った。
僕の事を好きでも何でもないくせに触らないでって、都合の良いオモチャみたいな扱いをしないでって、僕は怒ったんだ。でもそれと同時にそんな有り得ない我儘を至極真面目に考えていた自分にも心底腹が立った。
「…やっぱりあの時、」
梅雨の日の放課後、僕の両手を握って僕を見つめている顔は今でも鮮明に思い出せる。思い出せるからこそ、僕は独り言だとしてもその続きを声に出す事が出来なかった。
準備も滞り無く進んで迎えた11月の第1週の日曜日、つまり文化祭の本番だ。
「よぉしお前ら、気合入れてくぞ」
「なんで田中がリーダーみたいな顔してんの」
「シャイな委員長に田中クンなら盛り上げてくれるだろうからってお願いされたんですぅ!」
一般の人達が入って来るまであと30分と迫った頃、みんな忙しい合間を縫って教室に集まっていた。こういう場面を見ると田中は本当にムードメーカーなんだなと思う。加えてこの学校でも屈指の男前で性格も気取ってなくて、でも滲み出ているちょっとしたバカっぽさが親しみ易くてそりゃあ人気者にもなるよなと納得する。
それに今日は文化祭本番、つまり田中は客寄せパンダとしてガチガチに決めている。というか元の素材が良過ぎて何をしてもイケている。なる程運動部の男子が「イケメン爆発しろ」という意味が分かった気がする。
「はいお前ら隣のヤツと肩組んで!」
「体育祭かよ」
「時間無いよぉ! ほらさっさと組む! おらそこの奴らも早く!」
さすがに全員は集まれなかったがそれなりの人数での円陣は結構な迫力がある。僕の隣にはばっちりと書生姿に男装した楠木さんと大胸筋がはち切れそうなツインテールゴリラ野球部がいる。カオスだ。
「そんじゃま、ついに本番なワケですが正直全校で俺ら程気合入ってるクラスはいねえ。妖怪喫茶と言われようが何だろうが焼肉掻っ攫うぞー!」
「おー!」
男女関係なく上がった声の大きさに目を見開いた。多分妖怪に該当する大胸筋はち切れツインテール野球部やはち切れる大腿筋黒ギャルラグビー部その他イロモノ達が何故だか一番やる気に満ち溢れていたからだ。
これが運動部の声出しか、と今まで遠目にしか見てこなかったカルチャーに触れて僕は呆気に取られていた。
「それじゃ作戦通り田中と桐生クンはプラカード持って正門へゴー! キャストと料理班はもう一回動線確認しよ。あと休憩時間の表とかもちゃんと貼ってるしグループの方にも載せてるから各自確認する事! あと何が起きるかわかんないからこまめにスマホチェックしといてー!」
桐生、という名前に僕は無意識に身構えた。そんな反応をしてしまうのはもう仕方が無いと思うのだ。だって何をどう考えない様にしていたとしても僕は依然として桐生の事が好きなままだ。いっそ嫌いになれたらいいのに悲しいかなあいつとの思い出は楽しいものばかりで暫く忘れられそうにない。
そんな事だから今日まだ一度として桐生を視界に収めていない。
でもクラスの女子のはしゃぎ様でわかる。桐生は多分今日引く程格好良い。そんな姿を見てしまったらまた僕は桐生を忘れるのに時間が掛かってしまう。だから今日の僕の目標は桐生を視界に入れずに1日を無事に過ごす事だ。
折角の文化祭なのにと思わなくもないが、しょうがないじゃないか。そんな下らない決意表明でもしないと僕の目は勝手に桐生を追ってしまうんだから。
「雪ぴー! 雪ぴはとりあえず笑顔ね。にこーってしなくてもいいから口角上げる! オッケー?」
「お、おっけー」
「うんうん、まーじでうちの女装でまともなの雪ぴとあと二人くらいしかいないからマジ頼んだ。あと動物園だからマジで」
気合十分と言った様子でメニューを復唱している筋肉女装陣達を見て思わず笑うと、黒ギャルが僕を見てビシッと指差した。
「ちょっとクオリティ高いからって調子乗ってんじゃないわよ! アタシ達にはあんたには無い才能があるわ。そう、お笑いのね!」
ラグビー部の黒ギャルと野球部のツインテールと柔道部のおかっぱがいつ練習したかわからないセクシーポーズを見せて来て僕は無事撃沈した。笑い過ぎて膝から崩れ落ちるって本当にあったんだな。
ちなみにその様子はしっかりと動画に収められていてクラスグループに共有されたし、それを使って宣伝したらしいクラスの人のおかげで筋肉三人娘目当てのお客さんが沢山来た。メイド喫茶じゃない筈なのに野太い声で「萌え萌えキュン」が行き交う空間はカオスだったし、田中桐生ペアが大量に連れてきた女性客はイケメンにクラスチェンジした女子達によってメロメロにされていた。
僕や普段からそんなに目立たない、運動部にも入ってないから必然的に体が細い女装組は料理やドリンクをせっせと運ぶ作業に従事していた。
忙しいし、やっぱり知らない人達に話しかけられると緊張はするけど、それでも注文が取れたり人の笑顔を見ていると心が満たされていくのが分かった。
「雪ぴー!一緒に写真撮りたいだってー!」
「女装組集合―! お客様がお呼びでーす!」
「ちょっとォ! アタシの横に斉藤置くんじゃないわよ! アタシの顔がデカイのがバレちゃうじゃないの!」
最初僕は緊張していたし、正直乗り気じゃなかった。女装は好きじゃないし、虚しくなるだけ。それに人と関わるのだって嫌だし目立つのなんてもっと嫌だ。眩しい人達の陰でひっそり生きていけたらそれで十分。そう思っていたのに。
「じゃあ僕前行こうか?」
「それはそれで腹立つわね!」
あえて団子みたいに体を寄せ合って楽しそうに笑っている一般客のお姉さんの声に合わせて笑みを浮かべる。それは無理した作り笑いじゃなくて自然と出て来たものだった。楽しいなって、心からそう思えた。
宣伝のおかげか僕達のクラスはかなり盛り上がっていて想定よりも早いペースで料理の在庫が尽きそうになっていた。だから今は副担がメモを握り締めた生徒と一緒に材料を買いに走っている最中で、その中で僕達は喫茶店を営業していた。
けれどそんな盛況ぶりでは表通りの休憩を取るなんてとてもじゃなくて出来なくて僕が休憩に行けたのは予定より一時間程過ぎていた頃だった。丁度隣のクラスを荷物置き場兼便利スペースとしている為僕は早速椅子に座って長く深い息を吐き出す。
「……つかれた…」
言葉にし尽くせない程楽しいのは間違いないのだがいかんせん僕には体力が無い。正直気合と根性で乗り越えていると言っても過言では無い程僕はすでに虫の息だ。でもこの休憩が終わったらまた接客に戻らないといけないし、この休憩は有意義に使いたい。
寝るか、それとも少しでも腹に何かを入れるべきかと考えたところではたと思い出す。そういえば誰かがいい店あったら共有すると言っていたのを。
この学校の文化祭は盛り上がる。僕達みたいに飲食店をやるクラスもあればお化け屋敷を作るクラスもあるし、外で祭りさながらの屋台を展開するクラスだってある。それに体育館ではバンド演奏や服飾部のファッションショー、演劇部や吹奏楽部による発表だってあるのだからイベントは目白押しだ。去年僕は特に何のイベントも見に行かなかった。裏方としてやる事をして後は静かに文化祭が終わるのを過ごしただけだったのに、一年後にこんな事になるなんて誰が想像しただろう。
「えっと、スマホは…」
ゆっくりと立ち上がって鞄の中に仕舞い込んでいたスマホを取り出す。きっと画面にはグループの通知が沢山あるんだろうなって予想したのに、結果は違っていた。いや、ちゃんとグループの通知は遡るのが大変な程にある。だけど、見慣れたアイコンが並んでいるのを見て僕は呆然とその場で固まった。
「…なんで…」
喧騒が聞こえなくなった。
アイコンは部屋に置いてある妙にアンティーク感の強い地球儀。どうしてそれなんだって聞いた時「顔以外なら何でも良かったんだよね」そう言っていたのを思い出して一気に心が掻き乱された。桐生からの連絡だった。グループで発言しているんじゃない。僕宛に、いくつかメッセージが送られて来ていた。読むべきじゃない、心の中で冷静な僕が言っているのがわかる。僕は概ねそれに賛成だった。だって、今僕は桐生を忘れようとしている最中だ。
だからこの前の日から僕は徹底して桐生を見ないようにして来た。声だって聞かないようにして来たし、兎に角僕の意識の中から桐生を消そうとして来た。
それくらい、僕の中で桐生の存在は大きい。
でも、ともう一人の僕が言う。緊急事態だったら? もしかしたらそんなに気にするような内容でも無いかもしれない。それにここで無視して教室で話し掛けられる方が、逃げ場が無くなるんじゃない?
……そうだ、この連絡は、きっと大して意味が無いかもしれない。取り留めもない文章か、もしかしたら宛先を間違えた可能性だってある。それに無視をするのは、相手にとって失礼だ。そんな自分への言い訳を沢山して、僕はそっとメッセージをタップした。
『雪穂、もう休憩入った?』
『ごめん結構忙しそうだね、平気?』
『休憩入ったら教えてほしい』
『会いたい』
『屋上で待ってる』
息が苦しかった。
最後の連絡があったのは30分前、最初に連絡が来たのは表にある僕の休憩時間の開始時刻だ。
理性が僕に行っちゃダメだって言ってくる。そんなの僕にだって分かってるのに、気が付いたら僕は教室から出ていた。生徒も一般客も入り乱れる廊下を人にぶつからない様に進んでいく。客引きの声や談笑する声、放送委員からの落とし物の報告の声、どこかのクラスのお化け屋敷の叫び声、いろんな音と声が錯綜する中、僕は真っ直ぐに屋上を目指す。
行って何になるんだろう。きっと何にもならない。
そんなの分かりきってるのに、人混みから抜けた途端僕は走り出していた。
着物がパタパタとひらめいて、動きやすい様にと着せられた袴だけど走るとなるとさすがに少し邪魔になる。コンタクトのおかげで視界が広く、屋上までの道がクリアに見えた。
一段飛ばしに階段を登って、肺が痛くなるくらい苦しい中僕は重たい屋上の扉を開けた。蝶番が錆びた扉は開けたら金属の擦れる様な嫌な音がする。その音と僕の息の乱れた音が重なって不協和音みたいに広い屋上に響いた。
もう11月、走ったところで汗は出ないけど疲労はする。僕は三歩ほど進んだところでその場に座り込んだ。
思えば、走らなくても良かった筈だ。でも一分一秒でも早く到着したかったのは、やっぱり僕がこの男のことが好きだからだ。
「……幽霊見てるみたいな顔、やめてくれる…?」
客寄せパンダ用に作られた衣装は全身が黒。一見するとスーツっぽいけど、マント見たいな上着や全体的なシルエットが大正っぽくてお洒落で、桐生はそれを難なく着こなしていた。でもその表情はやっぱり迷子みたいで目が自信なさげに揺れている。
「…本当に来てくれるって、思わなくて」
「呼んだのは桐生でしょ」
「そうだけど…」
珍しく歯切れの悪い桐生がゆっくりと僕に近付いてくる。その様子を伺うような挙動はどこか警戒心の強い動物を思い出させる。そうして僕のすぐ側にまで来た桐生はこれもまたゆっくりとした動作でしゃがんで僕と視線を合わせた。
「……ほっぺた、赤い」
「走ってきたからね」
「…かわいい」
「みんなの努力の結晶だね」
「…俺、雪穂と仲直りしたい…」
消え入りそうな声で呟かれた言葉に僕は何も返せなかった。
桐生は沈黙が苦しいのか目を伏せて下を見ている。思えば人の目を見て話さない桐生を見たのはこれが初めてだ。
目を見て話せないのは自信がないとか、不安だとか、そういう心理状態の現れだって僕は思っていて、それと同じだとするならあの桐生が僕に対して不安を抱えているという事になる。
教室を出るまでは、屋上に着くまでは、顔を見たところでどうしたらいいんだって不安だったのに、今は不思議な事に落ち着いている。きっと桐生が僕よりもずっと深刻そうな空気を背負っているからだ。
僕が取れる選択肢はいくつかある。
どれを選んだらいいのかも、何となくわかる。
だけどいつになく冷静な僕は、もうオモチャは嫌だって思った僕は、どの選択肢を選んだらいいのかを判断していた。
手を伸ばして桐生の右手を握った。それまで泣きそうなくらい沈んでいた桐生がぱっと顔をあげたのに、僕を見てまた迷子みたいに目を揺らした。
「桐生」
フェンスの外から、校舎の開いた窓から、体育館の方から、今日という日を楽しんでいる音が沢山聞こえる。その音が、空気が、僕の背中を押してくれた気がした。
「僕、桐生の事が好きなんだ」
ゆっくりと僕の言葉を咀嚼した桐生の目が見開かれて、信じられない物を見るような目で僕を射抜く。桐生はきっとこの学校の誰よりも僕の性格を知っている。だから僕が冗談でこんな事を言う人間じゃないって、きっと桐生が誰よりも分かってる。
「だから、仲直り出来ない」
握っていた手を離すと、力が入っていない桐生の手がぶらんと揺れた。
桐生の目は変わらずに僕を見ている。困惑と、動揺と、何を言ったらいいのかわからない、そんな表情だった。
「…じゃあね」
立ち上がって重たい屋上の扉を開けた。重く閉じる扉の音を背中に僕は漠然と夢から覚めたんだなって、そう思った。
結局僕たちの妖怪喫茶は他の追随を許さないくらいの圧倒的差で一位に君臨した。後夜祭で出し物の結果発表が行われた時の歓声や、一位の封筒を何故か受け取りに行った妖怪筋肉三人娘に会場は爆笑の渦に包まれた。
優勝賞品である焼肉券は駅の近くにあるチェーン店の物でそれぞれ予定もあるだろうからと一人一枚ずつ用意されていたのには流石に驚いたけど、僕にはその方が都合が良い。
僕がこんな風にクラスに馴染めたのも文化祭っていう魔法があったからで、その魔法が解けた今僕はまた冴えないクラスメイトに戻る。それに元々焼肉もそこまで好きな訳じゃないからこの券は他のクラスの友人に上げても良いし、お世話になった楠木さんに渡すのだって良いかもしれない。
兎にも角にも、文化祭が終わったことで僕に起きた様々な非日常が終わりを告げた。
桐生の連絡先は消してないけどトークの履歴は全部消した。僕は桐生の写真なんて一枚も持っていないから、トークさえ決してしまえば7月からの出来事が全部夢だったんだって納得出来る。
僕はまた日常に戻る。ひっそりと、人とそこまで深く関わらず、そこにいるのかいないのか曖昧な存在になって生きていく。きっとそれが僕には一番似合う。
「なああ斉藤おお! 数学のノート見せて! お前眼鏡だし頭良いんだろ⁉ 頼むよ女装した仲じゃん見せてくれよおお」
そう思っていた時期が僕にもありました。
「眼鏡だから頭良いのは偏見。真ん中より上くらいだよ、僕」
「下の下である俺よりは上じゃん?」
「まあそうだろうね」
文化祭の時では黒ギャルになっていたラグビー部の玉田は何故か文化祭後も僕によく話し掛けて来るようになった。否、正直玉田だけじゃない。楠木さんもツインテール野球部山田もマシュマロボディおかっぱ柔道部剛田も普通に話し掛けに来る。
陽キャというのは距離を詰める速度がすごいのだと僕は最近体感した。困惑する僕を置いて彼らは会話を始めて時間が来れば去っていく台風の様な存在だ。そして陽キャは陽キャを呼ぶもので、僕が陽キャに挟まれたあわあわしているとまた別の陽キャが現れて陽キャに退路を塞がれるなんて事態にもここ最近慣れてきた。
たまに陽キャの帝王田中が現れる時なんてとんでもない事になる。彼らはきっと僕よりも喋る速度が倍以上早く、そして情報処理能力が僕の数段上を行っている。つまり僕はたまに宇宙人の会話を聞いているような心地になるのだ。
正直馴染めている気は全くしないけれど、この忙しなさが今の僕には救いだった。
僕は学校にいる間一人になる時間が減った。それはつまり物思いに耽る時間が減ったという事だ。僕は元々一人が好きだし、騒がしいのは得意じゃない。だけど今僕は出来るだけ考えるという事をしたくなかった。
理由は簡単で、一人になるとどうしても桐生の事を考えてしまうからだ。
あの日桐生に気持ちを伝えた事を後悔していないと言えば嘘になる。でもああしなければ僕はまた桐生と今まで通りの関係になって、更に深く傷付く未来が見えていた。僕は僕を守るために前の関係には戻らないという選択をしたんだ。
それでもたまに、本当にたまに思い出す。
触れてくれた温度とか、その時の桐生の顔とか、同じ男なのに全然違う体の硬さだとか、そういうのを思い出しては勝手に一人でダメージを負って落ち込む。自分がこんなにも面倒臭い人間だなんて知らなかったし、できれば知りたくなかった。でも何度もそんな事を繰り返したから僕は良い加減わかったんだ。
もう知る前には戻れない。ドラマや漫画で使い古されたセリフがこんなにも自分に重くのしかかって来るなんて、人生は本当に面倒臭いなって僕はため息を吐いた。