「いよいよだ……」

 僕は大きく息を吸った。目の前には同じような扉が並んでいる。体育館では、半日かけて部活動の説明会があり、もらったパンフレットを何度も読み直した。

 私立清涼(せいりょう)学園(がくえん)高等学校。伝統ある男子校で、校風は自由。仲の良い従兄(いとこ)の母校で、しょっちゅう学園生活が楽しかったと話すものだから、ずっと憧れていた。
 なにしろ、清涼には文芸部がある。誰にも見せたことはないけれど、僕は小説を書くのが好きだ。同じように小説好きの友達や先輩ができたら嬉しいと、辛い受験勉強を頑張ってきた。合格通知を見た時の喜びは言葉にならない。その憧れの文芸部に、とうとうやってきたのだ。

「文芸部。うん、間違いない」

 目の前の扉には、黒字で大きく『文芸部 新入生歓迎!』の貼り紙がある。すごくシンプル。隣は扉一杯にでかでかと土星やオリオン座の切り抜きが貼られていて、対照的だなあと思う。
 深呼吸の後に、よし!と心を決めてドアをノックしようとした。まさに、その時だ。バタバタと後ろから階段を駆け上がってくる音がする。振り返ると、すらりと長身の眼鏡男子がいた。はっとするほど綺麗な瞳に、思わず目を(またた)いた。

「あ! 君も星が好きなんだね。俺もなんだ!」
「へ? ちょっと待っ」

 終わりまで言うこともできず、いきなり手をがしっと掴まれる。長身の男子はバン!と扉を開けて、僕の手を掴んだまま部屋の中に飛び込んだ。

「すみません! 入部希望ですっ」

よく通る声が耳元で響いて、椅子に座った先輩たちが一斉に振り返った。

「うおおお! やったぁ!」
「いきなり二人もっ」
「天文部にようこそ!」

(……て、天文部???)

 彼が僕を連れて入ったのは……文芸部のすぐ隣。たくさんの切り抜きが貼られた天文部の部室だった。



 ――衝撃の入部から二か月。

 僕はあの日一緒に入部した彼、藤木(ふじき)(すい)と同じクラスだった。(すい)は入部した日の帰りには僕とメッセージアプリで連絡先を交換し、次の日の昼休みから一緒に弁当を食べ始めた。あまりにぐいぐい来るのでよほどコミュ強なのかと思えば、全然違った。彗はめちゃくちゃ星が好きで、話し相手を求める……天文オタクだったのだ。

 今日はたまたま、僕たちが部室に一番乗り。
 星の図鑑を一緒に見ながら、いつものように彗の話を聞いていた。

「そういえば、文月(ふづき)は何で、星が好きになったの?」

 彗が不意にそんな質問をするものだから、咄嗟(とっさ)に答えが返せなかった。

「何で、って」
「?」
「特に星に興味はなかったんだ」
「え?」
「好きになったのは……彗が教えてくれるから、かな」

 彗の綺麗な瞳が驚きで丸くなる。その様子が何だかすごく幼くて、笑いがこらえきれない。今日は何となく、もういいかなと思う気持ちもあって、正直に話してしまった。彗に会うまで星には全然興味がなかったこと、実は小説が好きで文芸部に入ろうと思っていたことを。彗は呆然としたかと思うと、頭を抱えて椅子に座り込んだ。

「……や。ちょっと待って。……ごめん。マジでごめん!」 
「あはは。いいよ、星って全然知らなかった世界だから、逆に興味が湧いたし」
「あの時、文月が部活動案内のパンフ握ってただろ。わー! 同じ1年だ、星が好きな奴が俺の他にもいるんだ! って勝手に舞い上がっちゃって。まさか、隣の文芸部に来てたなんて」
「うん、そうだと思った」
「……俺、いつもこうなんだ」
「え?」
「自分の好きなことばかり夢中で話して、相手の話を聞かないって言われる。まさか、文月が文芸部に入りたかったなんて」
「小説は一人でも書けるから大丈夫。気にしないで」
「あー、もう、文月優しすぎ。どんな話をしてもいつも静かに聞いてくれるだろ。安心して、俺、好き勝手なことばかりしてた。ほんとごめん」
「だから、気にしなくていいって。彗の話は楽しいよ。確かにわからないことは多いけど」
「……ごめん。本当に、本当に悪かった」

 僕の前で、黒いフレームの眼鏡をかけた彗が、しょんぼりと肩を落としている。サラサラの黒髪が襟元で揺れ、うつむいて震える睫毛にドキンと胸が鳴る。フレームの下の瞳は澄んでいて、星のように綺麗だ。彗の端正な顔に度々見惚(みほ)れていることを、知られないようにするのに必死だった。
 偶然にも同じクラスなのが嬉しかった。彗は大の星好きで、周りからはちょっと引かれている。興味のある事ならいくらでも話すけど、他は挨拶ぐらいしかしない。「あいつ、変わってるよね」と付属の中等部時代から有名だったらしい。

「天文部も楽しいよ。みんな優しいし、彗が色々教えてくれるし」
「文月……」

 こちらを見上げる彗の瞳は、まるで叱られた子犬みたいだ。潤んだ瞳にドキドキしてしまう。
 確かに、僕が入ろうと思っていたのは隣の文芸部だった。でも、入部希望の名簿に名前を書いたのは僕だ。何よりも、ものすごく嬉しそうな顔で僕を見る彗の前で、違うとはとても言い出せなかった。

 星のことは、全くと言っていいぐらい知らない。名前を聞いたことがあっても、夜空の中のどれかはわからない。そんな僕に、彗は一つ一つ星の名を教えてくれた。馬鹿にすることも呆れることもなく、すごく楽しそうに。僕はそんな彗を見るのが好きだ。星の話をしている彗は、夜空の星みたいにきらきらしている。
 彗が黙り込んでしまったので、僕は慌てて、開いていた本を指さした。

「あのさ、さっき言ってたこと、もう一度教えてくれる?」
「え? ああ、視差(しさ)のこと?」
「うん」

 彗がそばにあったノートを開いて、真ん中に丸を書いた。さらには、手前の右側と左側に、それぞれ小さな三日月のマークを書く。丸と二つの三日月を見ると、線の無い三角形に見える。彗は、三日月のマークの右から左へと、さらに矢印を書いた。

「この白い丸が地球で、三日月が月だとする。右から左へ月が動いて、それぞれの地点から地球を見るとね。右の時と左の時。方向が違うから、見え方が違う。これを視差って言うんだ」
「視差……」
「そう、同じものを見ていても、方向が違う。これが視差で、英語ではパララックス。カメラのファインダーを見た時と実際に写真に撮った時に、見えていたものが少しずれることがあるだろう? あれも視差なんだ」

 彗の言葉に突然、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
 同じ星を見ていても見え方が違う。同じものを見てるつもりでも、ずれが生じる。
 何だろう。何だかとてもやるせなくて、もどかしい。思わず口に出した言葉は自分でも、思いがけないものだった。

「でも……。でもさ、視差があっても、同じものを見てるんだよね?」
「うん、見てるものは同じだよ。ほら、右の月も、左の月も。同じ地球を見てるんだ」

 同じものを見てる。そう聞いた瞬間に、心がほんのりと温かくなる。
 彗が僕の顔をじっと見た。

「そうだ! 文月、今月末までのプラネタリウムの券があるんだ。よかったら、一緒に行かない?」
「えっ、僕と?」
「あ、興味ないかな? あの……お詫びにはならないと思うけど」
「ううん、行く! プラネタリウムって行ったことないんだ。彗と一緒に行けるなら、すごく嬉しい」

 気遣ってくれるのが嬉しくて、思わず彗の手を取った。彗が目を丸くする。ちょうど先輩たちが部室に入ってきて、僕たちは慌てて手を離した。「藤木(ふじき)神谷(かんたに)も、大丈夫か? 顔が赤いけど」と心配されてしまった。

 部活が終わった後、駐輪場まで彗と一緒に並んで歩いた。ちょうど次の日曜が二人とも空いている。待ち合わせを決めた後、僕はずっと足元がふわふわしていた。家に帰ってからすぐに、何が上映されるのかを調べた。

(星座と神話の特集があるんだ。有名なものしか知らないなあ。確か本棚にギリシャ神話があったはず)

 ごそごそと本棚を探って、ようやく一冊の本を探し出した。

(彗はきっと、星の神話もよく知ってるんだろうな。これを読んだら、少しでも彗と同じように……)

 そう思った時に、はっとした。

 視差。パララックス。彗は『ずれ』だとも言った。
 そうだ、あの時あんなに苦しかったのは、彗との間にずれがあるからだ。あの綺麗な瞳が映すものを、僕も同じように見たい。
 いつの間にか、僕の中では彗の存在がとても大きなものになっていた。



 日曜日のプラネタリウムは、親子連れが多い。デートらしい子たちもいるけれど、男子の二人組は、ほとんどいない。

「彗は、ここによく来るの?」
「うちの父親がさ、ずっと星が好きで、俺の名前も星から取ったんだ。小さい頃からよく連れて来てもらった」

 彗の名は、彗星(すいせい)から取ったと知った。ぴったりだと思う。まっすぐに夜空を走る箒星(ほうきぼし)のように、彗はすぐに星の世界に入ってしまう。
 ゆっくりと目の前が暗くなり、頭上のスクリーンに星が映る。わあっと歓声を上げそうになって、慌てて飲み込んだ。隣で彗がくすりと笑う。
 夕暮れに星々が浮き上がり、瞬く間に夜の世界に移り変わる。(きら)めく星々の輝きが眩しい。

 初めてのプラネタリウムは、驚きの連続だった。
 プラネタリウムに行くと言ったら、「眠くなるぞー!」と大学生の兄にからかわれた。
 あれは、嘘だ。寝るどころじゃない。こんなに綺麗ですごい世界があるなんて知らなかった。四季の星々が紹介され、特集の星座と神話の世界に移り変わる。オリオンと蠍の物語が終わって、ほうっと息をついた時だった。
 ふと隣を見たら、彗が僕を見ていた。僕は慌ててしまった。左手が彗の右手に触れた。あっと思った時には、彗が手を握り返してくれた。彗の手は、僕の手よりもずっと温かい。

 どくん、どくんと心臓が鳴る。口を開いたら、すぐにも飛び出てしまいそうだった。手まで震えてる、と思ったらそれは慧の手から伝わってきたものだった。

(あれ? 彗も……。彗も、もしかして、ドキドキしてる?)

 一気に頬が熱くなる。プラネタリウムでよかった。こんな顔を見られたら、恥ずかしくてたまらない。握りしめた手からは、お互いの熱だけが伝わってくる。

 その時、静かなどよめきがホールに満ちた。
 暗いスクリーンが白く染まる。一際まばゆく映し出されたのは、シリウスだった。冬天に明るく輝く、青白色の星。

「……きれい」
「うん」

 ……僕たちは今、煌めく星に囲まれて、同じものを見ている。その事実が、たまらなく嬉しかった。

 プラネタリウムの帰りに、二人で近くのファーストフードに寄った。まだ一緒にいたくて、星の話を彗の口から聞きたくて。

「今日はありがと。すごく楽しかった」
「こっちこそ。……俺、よく一人でプラネタリウムに来るんだけど」
「一人で?」
「うん。一緒に来た奴は、一回見たら大抵、もういいって言うから」

 不満げに口を尖らせる彗がおかしくて、思わず笑ってしまった。確かに、同じものを何度も見たいと思う人は少ないかもしれない。

「でも、今日はいつもと全然違った。何度も見てるのに、星がずっときれいに見えた」
「そっか」
「……文月のおかげだ」
「えっ」

 僕は動揺して、紙コップの中身をストローでぐるぐるかき混ぜた。

「……文月、それ」
「ん?」
「飲めなくなるんじゃ。コーラだろ?」
「あ、あああっ。そうだ、炭酸!」

 げらげら笑い出した彗の前で、僕は黙ってポテトを食べた。慧が自分のアイスコーヒーを差し出して、飲む?と聞いてくれたけれど、お断りした。頬が熱いし、そんなの絶対、味がわかるわけないから。

 その晩は、全然眠れなかった。
 プラネタリウムに行ってから、僕は自分の気持ちがはっきりわかった。

 僕は、彗が好きだ。

 周りに女子がいない男子校にいるからかな、と思ったけれど、そうじゃない。他の男子には少しも興味がわかない。こんな気持ちになるのは、彗にだけだ。
 彗を見るとドキドキして、胸が痛い。彗の姿が見えないと、いつのまにか探している自分がいる。彗が笑ってくれたら……すごくすごく嬉しい。
 ただ、この気持ちは言わない。彗が同性を好きな可能性は無いと思うから。近くにいて同じものを見られたら、それだけでいい。



「文月、何読んでるの?」
「えっ?」

 僕は慌てて顔を上げる。今日の部活は僕が一番乗りだ。日直を終えてきた彗に見つめられて、おずおずと本を差し出した。

「天文学入門?」
「……うん。何もわかってないから恥ずかしくて」

 部室や図書室にも天体の本はあるけれど、自分でも勉強しようと買ってみた。彗は面白そうに僕の本を読み始めた。あっという間に夢中になっているから、僕はその間に彗の綺麗な顔をゆっくり見ることができた。
 彗の話を聞くのは楽しい。ただ、僕の知らない用語がたくさんある。
 僕は彗が言った言葉を一生懸命覚えて、毎晩こっそり調べている。その場で聞くと話が途切れてしまうから、質問はしない。わからない言葉が多いと困ってしまうけれど、一つでも多く知りたい。彗の言った言葉を調べる時間は幸せな時間だ。 

 2年生になったらクラスが分かれてしまう。僕は文系、彗は理系。進む方向が違う。それでも、部活がある間は一緒にいられる。そんな事を考えていたら、彗が顔を上げた。

「文月、この本、もしかして先週の水曜に駅前で買った?」
「何で知ってるの?」
「実は、あの本屋に俺もいたんだ。すごく真剣に選んでるから、声をかけられなかった。何の本かなって思ってたんだけど」

 彗がいたなんて全然気づかなかった。驚いた拍子に、ペンケースと彗の言葉を書きとったメモ帳が床に落ちた。ペンを拾い集めていたら、彗がメモ帳を拾ってくれた。ぱらりとめくれたメモ帳の一番先にあるのは『視差』の文字だ。

「視差。パララックス?」
「あ、それ。わからない言葉を書き留めてるんだ」

 彗から受け取ったメモ帳を慌ててペンケースの下に置いた。隠す必要もないけど、何だか恥ずかしい。

「文月は……すごい。わからないことがあっても、放っておかないんだな。ちゃんと調べてるんだ」
「だって、知りたいから」

 彗の見ている世界を、もっと知りたいんだ。

「あのさ、文月はこんなに努力家で優しいから、言えないのかもって思うんだけど。……本当は文芸部がいいんだろ?」
「え? ……いや」

 今はもちろん、そんなことはない。でも、天文部にいたい本当の理由は言えない。

「俺、ずっと悪かったって思ってて。もし、俺に遠慮してるなら気にしなくていいんだ。天文部をやめて、文芸部に入る方がいいなら」

 天文部をやめる? そんな、そんなことしたら……。

「……」
「文月?」

 気がついたら、ぽとんと涙が落ちていた。彗が慌てているのがわかる。
 泣き止まなくちゃ。泣いたら、彗を困らせる。そう思うのに、涙は止まらない。

「ぶ、文芸部には、彗がいないじゃないか」
「え……え?」

(部活の間だけでも、一緒にいたいんだよ。……近くに、いたいのに)

 ぽとん、ぽとんと涙がこぼれ落ちる。

「……文月。泣かないで」

 優しく髪が撫でられ、そっと手を握られる。

「俺、文月が本を読んでる姿が好きなんだ。……おかしいかもしれないけど、時々、文月が読む本になりたいって思う。あんなに真剣に見つめてもらえたらいいなって」

 僕はびっくりして、目を見開いた。
 彗はポケットからハンカチを出して、丁寧に涙を拭いてくれた。気持ちが溢れて、勝手に言葉が出た。

「僕、天文部にいたい」

 彗の手が止まる。

「星のことはよくわからないけど、わかりたい。彗とおんなじものが見たい」
「俺と、同じ?」
「うん。前に言ってた視差があってもいい。彗と同じものを見て、彗の話が聞きたい。彗の好きなものを、もっと知りたい」

 彗の驚いた顔が、ゆっくりと笑顔に変わる。

「……文月。じゃあ、俺にも教えて。文月の好きなもの」
「僕の好きなもの?」
「うん。俺、何も知らないから。」

(そんなの、一つしかないよ)

「あ、でも、本が好きで、小説を書くのが好きってことは知ってる」
「……それだけじゃない」
「うん。教えてくれる?」

 言ったらだめだと思うのに、友達じゃいられなくなるのに。

「……彗。彗が好き」

(ああ、言ってしまった。僕の馬鹿……)

 涙は今度こそ大洪水だ。次から次へとあふれてくる。少しの沈黙の後に、耳元で小さな声が聞こえた。

「俺も、好きだ。文月が」
「……彗」
「また一緒にプラネタリウムに行こう。文月と見たい星が、たくさんあるんだ」

 僕は何度も頷いた。頬を伝う涙を、彗が優しく指で受け取ってくれる。額と額が、こつんと当たる。

「視差があっても、同じものは見られる」

 彗の言葉が柔らかく、僕の耳に、心に響く。

 ――視差(パララックス)があっても、同じものを見ていこう。彗と、一緒に。

 僕たちは、互いの手をぎゅっと握りしめた。