「あー、ミナト君に見られたー!」
夕食後、湊太の部屋に敷かれたカーペットの上に座って頭をぐしゃぐしゃに掻きむしると、ベッドに腰かけた湊太がははっとおかしそうに笑った。
「コータと仲良いんだろ。いいじゃん」
「いや……あの子、ちょっと変わってるっていうか、こっちが思ってもないことを言うから……明日会うのが怖い。変だったって言われたらどうしよう」
「変じゃなかったけど? やっぱコータもやればいいじゃん。本当はやりたいんじゃねえの。そうじゃなきゃ今日のあの演技はできねえと思うけど」
そう言われ、赤くなりそうな顔をごまかすために髪を手櫛ですく。
部活の終わり頃、洸太の演技は湊太のものとは違うものになっていた。今まで湊太と話しながら「自分だったらこうするのに」と思った部分を自分のやりたいようにやったのだ。どうせただの代役、やりたいことをやりたい。そんな思いに突き動かされて、普段なら引っ込んでいる自我が顔を覗かせた。
周りも途中から「ソータに似ている」とか「ソータだったらやらない」といった言葉を口にせず、ごく当たり前のように洸太の演技を呑み込んで一つの舞台を作っていた。あちらはただの代役だからだと思っていたかもしれない。それでも憧れの舞台の上で自分をさらけ出せたことに高揚した。その高揚感をごまかすように息をつく。
「僕はそもそもソータと違って役者として大事なものが欠けてるんだよ。今日はただの代役だからできたことだし」
「欠けてる大事なものって、俺、それがなにか分かるけど」
湊太の言葉に思わず顔をあげると、湊太は真顔で「本音を出すことじゃん?」と言った。思わず聞き返す。
「どういう意味? 大事なのはどう演技するかでしょ」
「そうか? 普段本音を出せないやつが見ている人に届く演技なんてできんの? その役の感情を表現したり、説得力のある役作りができたりすると思ってる?」
湊太が左足のテーピングを気にするようにちらりと目線をやりながら言う。
「コータって本当は役者をやりたいんだろ。でも、そういうの言わねえじゃん。双子で比べるなとかも全部黙って呑み込んでるし。俺はサッカーしたいときはやりたいって言ったけど。子役を辞めるなんてもったいないって散々言われたけど、中学でサッカーやってた三年間は楽しかったから無駄だとは思わねえし」
正論に押し黙ると、湊太は頭を掻いた。
「あのよ、コータの一番近くにいるのは俺だから分かってるんだよ。いくらコータが台本を丸暗記できるって言っても、今日の代役だって役者をやりたくなきゃできねえものだっただろ。多分だけど、みんな分かったと思うぜ。コータ、役者をやりたかったんだ、ってな。照明をバカにしてるとかじゃなくて、なにをやりてえかっていう取捨選択の話」
違うと否定もできず、そうだと肯定もできず、くちびるを噛みしめる。だが、そんなこちらを見て湊太はにやりとして自分の膝に頬杖をついた。
「金髪プリン君と相当仲良いことも分かってるけどな。だから引き止めたんだし。後輩の前でかっこいいところ見せられてよかったじゃん」
「……あれ、やっぱりわざと引き止めたんだ」
「我が兄の晴れの舞台を見てもらったほうがいいと思ってさ。あ、金髪プリン君は帰るときに俺に『先輩やっぱかっこいいですね』って言って帰ってったけどな」
「そういう余計なことしなくていいから」
洸太は咳払いし、「それで?」と台本を広げた。
「今日駄目だったのはどこ? 僕だって他に迷惑をかけたくないんだよ。ちゃんと教えて」
湊太のアドバイスを聞いて自分の台本に書き込む。自分の部屋に戻ってスマホを見ると、突然手の中で振動し始めた。「ミナト君」の文字と着信を知らせる震えにびくっとする。
「はい、あの、もしもし」
『あ、先輩お疲れっす! 今大丈夫っすか? 今日の感想を言いたくて!』
ミナトの声は明るかった。早口にしゃべり出す。
『今日はお邪魔しました! 先輩も俺とかクソとか言うんだって、すげえおもしろかったっす!』
ミナトの言葉に部活中のように汗が噴き出した。床にぺたんと座る。
「いや、あの、突然引き止めてごめんね。主役がソータじゃなかったから、見せられるようなものじゃなくて」
『いや、先輩の演技すごかったっす! 別人みたいでしたよ! 正義感で突っ走るやつって感じで、普段の先輩と全然違う。あんな大きな声を出してる先輩を初めて見ました! ホント、すごいっす。ああ、オレ、語彙力足りないな』
ミナトが興奮気味に続けた。
『声がすげえんすよ。体の中にまで響いてきて、先輩の感情に体が包まれるっていうか。感情移入できるっていうんすか? 先輩の役の気持ちも分かって、先輩がクラスで孤立してるのがすげえつらくて。あ、文化祭の弟先輩はすごかったっす。でも、先輩が弟先輩みたいにはできないって言ってたから、てっきり先輩は演技はしないのかと思ってて! 今日体育館に忘れものしたオレ、すっげえナイス! 先輩、すげえかっこよかったっすよ!』
ミナトの素直な言葉が胸に広がっていく。不覚にも鼻がつんとした。湊太に比べれば見劣りしているに違いないのに、即興に近い演技をきちんと見てくれたのだ。
「えっと、ありがとう。裏方もね、エチュードって言って即興劇をやって練習するんだよ。だから、演技はみんなそれなりにできるんだ。僕がすごいわけじゃないから」
『なんで謙遜すんすか? 他の人ができたとしても、先輩もできるって事実は変わんねえっすよ? 先輩は人を照らす光にもなるけど、自分も光ることができるんすね! 「洸太」って、先輩のためにある名前っすね! 先輩、すっげえきらきらしてました!』
何度もありがとうと言って通話を切った途端、涙が溢れてベッドに突っ伏してしまった。嗚咽を漏らすまいと枕に顔を押しつける。それでも涙が止まらない。人生で初めて当たったスポットライトの眩しさが胸に灯っている。ミナトの目には自分が輝いて見えたのだ。
演劇を続けてきてよかった。自分にこんな瞬間が訪れるなんて想像もしていなかった。そして、それを見てくれた人の中にミナトがいてよかった。
コータって本当は役者をやりたいんだろ。
湊太の言葉を思い出して、よしと切り替えて顔をあげた。涙を拭いて新しくメモを書き込んだ台本を広げる。今求められているのは湊太の足が治るまでの代役だ。洸太だって大会でいい結果を出したい。だったら役に立てることをやるしかない。
ところが、翌日から失敗のラッシュになった。調光室からの眺めと、実際に舞台に立ったときの距離感が違う。別の役者の子とぶつかったり、脳内の台本の画像がピンボケして一瞬セリフが飛んだり、それに焦ってセリフのトーンを間違えたりした。
周りは代役と割り切っているのかなにも言わなかったが、洸太は顔から火が出る思いがした。役者をやるのは楽しい。もっとうまくやりたい。だが、できていない。やはり湊太には適わない。
演技を止めて反省や話し合いになると、洸太は手持ち無沙汰になる。その話し合いに主役として参加するのは制服姿の湊太で、舞台に立っている洸太はただ黙ってそれを聞いているだけだ。舞台袖の調光室を見上げ、そこに逃げ込みたい気持ちと必死に戦う。
二日目、三日目、四日目。洸太の演技はどんどん縮こまっていき、役に入り込むことすら恥ずかしくなってきた。
部活を終えてジャージから制服に着替える。今日はミナトが図書当番の日なので、校門で待ち合わせて帰る予定だ。スマホを見れば『校門にいます』とメッセージが来ている。
明るい気持ちで家に帰りたい。なにか食べに行こうって誘ってみようかな。
ため息をついてトイレから出ようとすると、ドアの向こうで演劇部員が廊下を通り過ぎた。
「やっぱりソータ先輩が出ないと穴が大きいよね」
「コータ先輩だと呼吸が合わないんだよね……ちゃんと練習になってるのかな」
遠くに去っていく言葉に顔がカッとなった。こぶしをぎゅうっと握る。
ただの代役だ。湊太のセリフを読む人物がほしいだけ。だから今のままでいいはずだ。だが所詮代役で、みんなが本当に求めているものなど再現できない。
最終下校放送が流れ、深呼吸してトイレを出る。すのこをカタカタさせて革靴に履き替え、校門までの下り坂を下りる。秋は深まり、夜の空気が濃い。多くの制服姿がそそくさと帰っていく道で、ミナトだけが校門に寄りかかって待っていた。
「先輩、お疲れっす」
ハーフアップにピンで髪を押さえたミナトが小さく手をあげて笑う。その笑顔に洸太の口角も一瞬あがった。だが、なんと言えばいいか分からなくて、口を閉じてしまう。ミナトはそれに気づかず「帰りましょ」と言って歩き出す。外灯の明かりに大きな影のうしろを小さな影がついて行く。
「先輩、もう十月も終わるっす。あそこの公園にどんぐりがめっちゃ落ちてましたよね。公園行ってなにか飲みません? 昔公園中の落ち葉をゴミ袋に拾い集めて、一本の木の下に敷いてオレンジ色の絨毯を作ったっす。それだけだったのに楽しかったの、なんなんでしょうね。子どものときって謎なことが楽しかったりしますよね。先輩って小さい頃なにしてました? 弟先輩と一緒にごっこ遊びとかしてたんすか? 先輩の演技、すごかったっすもんね。それに」
「ミナト君!」
思わず言葉を遮っていた。驚いたようにミナトが足を止め、こちらを振り返る。だが、うまく表情を作れなくてミナトの顔を見ることができない。肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り締める。
「……想像できないかもしれないけど、小さい頃わんぱくだったのは僕で、ソータは家の中で遊ぶほうが好きだったんだよ。だけどソータは人見知りしないし新しいことをするのが好きだったから、きっといろんな役をやるのが楽しかったんだと思う。仕事で小学校もよく休んでたけど、学校に来ればみんなの中心にいて、にこにこしてるからみんなに好かれてた。休み時間は引っ張りだこになってたよ」
「……? 先輩、どうかしたんすか?」
ミナトが怪訝そうな声に変わった。
「弟先輩の情報は特に求めてないっす。なんとなく想像つくし。先輩がわんぱくだったっていうことのほうが気になるっす。オレみたいに落ち葉を集めて公園の清掃員のおじさんを困惑させました?」
一瞬面食らい、だが最後の言葉についふふっと笑ってしまった。肩の力が抜ける。こぶしの力が緩んで息をつく。
「おじさん、すごく困ってた?」
顔をあげてミナトを見ると、ミナトも小さく笑った。
「君が掃除してくれたのか、ありがとねってお礼を言われたっす。そのあと絨毯を作ったんで、ゴミ箱ひっくり返したくらいの嫌がらせをしたっすね」
「うーん、でもしかたないよね、絨毯を作りたかったんだから」
洸太が歩き出すと、ミナトも隣を歩き出した。足元で落ち葉を踏むとさくっという音がして、乾いた軽い旋律に次第に心が軽くなっていく。
「すげえふかふかにしたかったんすよね。公園の前の道の落ち葉も拾ったっす。なるべく赤とかオレンジとかを選んで。茶色のはハズレって思ってました」
「公園前の家の人は喜んだと思うよ。掃除しなくて済むし」
「先輩、それは一軒家に住んでる人のセリフ! オレん家、マンションなんで、全部管理人さんがやってくれるんす。でも、そのときはなんで片づけちゃうんだよってむかついてました」
ゴミ袋に落ち葉を集める少年の姿を想像して笑う。そうこうしているうちに公園に着いて、自販機でペットボトルを買った。洸太はレモンスカッシュ、ミナトはカフェオレだ。定位置となっている東屋に人はいなかった。目配せしてそこへ入り、並んで腰かけて鞄を横に置く。
チリッと音を立ててペットボトルの口を捻ると、ミナトがちらりとこちらを見下ろしてきた。
「……で? 今日はどうしちゃったんすか? 部活がどうかしたんすか?」
「ごめん、ちょっと嫌なことがあって。態度に出ちゃったよね」
レモンスカッシュがぱちぱちと喉を弾けて落ちていくと、ため息をついた。
「僕、情けないなあ。年下に気を遣わせてる」
「一歳違いってそんな年下? 先輩、何月生まれっすか」
「僕は四月。四月七日」
「やべ、ほぼ二歳差だ。オレ、三月十四日っす」
「早生まれでそんな大人っぽいの? 僕なんていまだに中学生に間違われるのに」
「中二のとき、大学生にアンケートをとってますってのに声かけられて、答えてやろうとしたら質問の意味が分かんなくて中学生バレしましたね。嘘はよくないっす」
真面目に言うミナトの言葉にまた笑ってしまった。体から力が抜けて、足をぐっと伸ばして再びレモンスカッシュを飲む。ぱちぱちする感触にもやもやしたものが弾け飛び、レモンのすっきり感が気持ちをなだらかにしていく。ミナトの隣にいるといろんなことが軽くなる。
だが、目蓋の裏には男子トイレのドアノブを掴む自分の手の映像と、聞こえてしまった後輩のセリフがセットになって焼きついてしまっている。ため息をつき、レモンスカッシュのラベルを見た。
「ミナト君がこないだ見たようにまだソータの代わりやってるんだけどさ、早く終わらないかなって思っちゃう。ソータの怪我が治ってほしいって意味もあるけど」
「……なんでっすか? 演技するの、嫌いっすか?」
ミナトが不思議そうに言う。
「オレがこないだ見たときはすごかったっすよ。楽しくなきゃできなくないっすか。オレだったら棒読みだし、噛みますよ」
「でも、楽しいだけじゃ駄目なんだよね。ソータじゃなきゃ練習にならないって言われちゃったよ。当たり前だよね。演劇は団体でやるものだし、自分ひとり楽しくてもみんなに迷惑をかけてたら邪魔でしかないし」
話していたらだんだんと脳裏の映像が鮮明になってきて、胸がぎゅっと痛くなった。思わず太もものズボンを掴んでうなだれる。
「僕はソータになんてなれない。ソータみたいに堂々と演技できないし、自信を持って振る舞えない。あいつが嫌なやつなら嫌いになれたけど、僕が言うのもなんだけど普通にいいやつだし。代役だって、嫌味でやれって言ってきたわけじゃないんだよ。僕が役者をやりたいって気づいてたからチャンスをくれただけ。期間限定のチャンスをものにできないって、やっぱり僕には致命的な欠陥があるんだよ。……演劇部で主役を張れるかっこいいソータにはなれない」
「先輩もかっこいいっすけど」
間髪入れずに返ってきた言葉に思わず顔をあげると、ミナトはじっとこちらを見下ろしていた。
「先輩が弟先輩とは違うのは当たり前っすよね。だって、別人だし。顔は似てるけど、兄弟だから似てることは別におかしくないっすよね。それとも文化祭でオレが先輩と弟先輩を間違えたの、すげえ不愉快だったすか? だったら謝ります」
ミナトの口調は真剣だった。まだ開けていないカフェオレのペットボトルが行き場を失っている。
「オレには演劇は分かんないっすけど、あの役、セリフも出番も多くてすげえ大変なんでしょ? オレが見学した日の夜、弟先輩が言ってました。本当はただ台本を読むだけでよくて、あんなふうに演技する必要ないんだって。でもコータはやろうとしちゃうんだよねって。あと、こうも言ってました。多分これでまた悩ませちゃうんだろうなって。俺コータに失礼なことしちゃったなって。なんか悩んでるふうだったっす。その会話でその日の夜はつぶれました」
ミナトの言葉に「えっ」と思わず声が出た。
「もしかしてソータと連絡先を交換した? それ、メッセージでやり取りしたってこと?」
「弟先輩に連絡先を教えてよって言われたっす。弟先輩、フレンドリーっすよね。……って言うと、先輩は自分はフレンドリーだろうかとかって考え出すんですよね。不思議っす。なんでいつも弟先輩が基準? 先輩は先輩らしくいちゃ駄目ってこと?」
ミナトの口調が次第に強くなってきたので、ごくりと唾を飲み込んだ。ミナトが眉根を寄せる。
「あのさ、先輩って普段から演技してるよね。本当のことを言わないっていうかさ。もしかして弟先輩と別人にならなきゃって思ってんの? 同じところがあると駄目だって考えてる? それで髪型変えて眼鏡かけて僕って一人称まで変えてんの? でも、オレは別人だって知ってるけど。映画の半券を嬉しそうに見せて、読書量がすごくて、照明係のよさを語ってた。あれは演技じゃないっしょ。演技でできることじゃないし。好きなことを好きって言えるとこ、すげえかっこいいと思ったけど」
ミナトの口調から「っす」が消えた。
「多分、逆じゃない? 髪切って眼鏡外して俺って言ってみれば? 双子で顔が似てても全然違うって周りも分かるじゃん。同じところがあっても、違う人間だって伝わる。弟先輩は劇の主役だし、たしかにすげえと思ったよ。でもさ、自分の人生の主役は自分のはずじゃん。先輩はなんで脇役みたいにしてんの? 常に主役は弟先輩で、先輩は脇役なの? 違うんじゃねえ?」
少し冷たくなった秋の風が頬を撫でていく。足元でかさっと音がしたと思ったら、運ばれてきた落ち葉がコンクリートの東屋に入ってきていた。ミナトのまばたきの少ない目がじっとこちらを見ている。その視線に射抜かれて、思わず本音がぽろっと漏れた。
「……俺、は無理かもしれない……もう僕で馴染んじゃった……」
「じゃあ僕でいいけどさ。次の新しい劇の役を決めるのはいつなの。そこで役をもらえばいいじゃん。弟先輩の代役だから悩むんでしょ。別の役だったらいいんじゃねえの? そういうの、手をあげて立候補して決まんの?」
「……大会をどこまで進めるかで時期は変わっちゃう。あと、役はオーディションで決まるから、ちゃんと演技ができないと駄目なんだけど」
「じゃ、そのオーディションで役をもらえるように頑張ればいいんじゃん? この間オレが劇を見たときも、部活の人たちは先輩をうまいって褒めてたし。役をもらえるくらいできるってことじゃねえの」
ミナトが頭を掻いてため息をつく。
「あのさ、オレの前で演技しなくていいよ。正直弟先輩のことはほとんど知らないから、先輩がなに言ったってオレは比べようがないし。オレはひとりっ子で兄弟と比べられる感覚が分かんないから、先輩の悩みは分かんない。でもさ、誰かひとりくらいに本音を言ってもよくねえ?」
オレの前で演技しなくてもいいよ。
まるで突風のようにその言葉が洸太の心臓を貫き、吹き抜けていった。自分でも目が見開いていくのが分かる。ミナトの金髪が差し込む夕日に輝いていて、きらきらしていた。そのきらきらが広がってその視界が滲み、突然ほろりと崩れた。しかめっ面をしていたミナトの目が丸くなるのが分かる。
「あ、ごめん」
自分が泣いていることに気づき、思わず顔の前に腕を出して顔を隠す。
「ちょっとごめん。びっくりしただけ。うわ、僕、すごくダサい」
言いわけが口から出ると、それにつられたように涙が止まらなくなって、羞恥心に体が熱くなる。
「ミナト君ちょっと待って。恥ずかしい。あの、ごめん」
「すみません!」
ミナトが大きな声を張り上げた。先ほどとは一転、慌てたような口調で「えっと、あの」とあたふたする。
「ひどいこと言ってすんません! てめえには分かんねえよって話っすよね。分かったふうな口きいて悪かったっす!」
「そうじゃない。ミナト君は悪くないよ」
「いや、でも」
そこでミナトがなにかに気づいたように「これ!」と差し出してきた。視界を遮った腕の下から見ると、いつか本を拾ってくれたときに見た白と青のボーダーのタオルハンカチだった。
「あの、本当にすみません。先輩を責めたかったわけじゃないっす……」
落とした本を拭いてくれたハンカチ。あのときも自分は悪くないのに謝ってくれた。ミナトは優しい子だ。今自分が本音を落としたら、それもていねいに拾ってくれるのだろうか。
ハンカチを受け取り、眼鏡をとって目元を押さえ、また眼鏡をかけ直す。はあと息をつき、横に座る彼を見上げた。その顔はまるで痛みを感じているように歪んでいたが、「本音を言ってもいい?」と聞くといつも通りの表情に戻った。
「役者をやるの、本当は楽しい」
言葉を短く区切って息を吸う。
「ソータの代役もあと数日だけど、全力を出してみたいんだ」
「やればいいと思うっす。誰だって好きなことしたいっしょ」
「今特進科にいるけど、有名大学に入りたいとか目標があるわけじゃないんだ。高校に合格したときにソータと別でほっとしただけ」
「学校では兄弟と離れたいって普通じゃないっすか。中学のクラスメイトが廊下で姉ちゃんとすれ違うと気まずいって言ってたっす」
「ソータは高校に入ってからも外部のオーディションを受けてるし、俳優とかそっちのほうに進もうとしてる。ソータが親とそういう話をしてるのを横目で見ながら、僕は教科書を読んで暗記する。すっごく虚しいよ」
「虚しいってことは先輩もそういう方向に興味があるんじゃないっすか」
ミナトが金髪プリンの頭を掻いた。
「先輩は隠しごとが多いっすね。今みたいなこと、親にも弟先輩にも言ってないんしょ? もうここで全部言っちゃえば? オレ、それを聞いたところで弟先輩にも言わないですし」
全部言っちゃえば。そのセリフにまた涙が出てきそうになった。
誰も聞いてくれなかった。いや、自分が言おうとしなかった。大学受験に必死なクラスメイトにも、演劇が好きな部活仲間にも。夢物語を言っていると思われるから。湊太と比べられるはずだから。でも本当は声を大にして言いたかった。
息せきって心の内を明かす。
「僕、本当は大学じゃなくて事務所の養成所に入りたいんだ。将来の夢は舞台役者なんだよ……!」
床に積み上がっている本の間に隠してある劇団の資料や演劇関連の書籍。湊太がこれまで受けてきたオーディションの要項も持っている。親も湊太も自分の部屋に入らないから隠せているだけだ。自分の部屋では夢について自由に考えたり、必要なことを調べたりできた。自分を楽しませてくれる本や資料に囲まれていると安心できる。積ん読タワーがそこにあることが、心の慰めになるのだ。
「じゃあ先輩、約束してくださいよ」
洸太が眼鏡を外して目元をこすると、ミナトがそう言って口角を上げた。
「先輩の初公演のチケットをください。オレ、学校を休んで見に行きます」
ミナトがにっと白い歯を見せた。
「その半券を財布に入れるんで。オレが先輩の舞台の半券コレクションを作りますね」
ああ、すごく優しい子だな。ミナトの柔和な笑みが胸に染みて安堵する。だが、半券を財布に入れるミナトを想像したら笑ってしまった。
「ミナト君、それ、佐藤さんに変な趣味って思われるからやめたほうがいいよ。プログラムの間にでも挟んでおいて」
洸太がくすっと笑うと、ミナトが一瞬動きを止めた。そしてちょっと考えるように首を傾げ、小さく笑う。
「大丈夫っす。そんな佐藤さんはオレの前にやってこないんで」
「……ミナト君」
洸太はミナトの隣にぴたりと座り、ちょうどいい高さにある肩にコンと頭をつけた。
「ちょっと肩貸して」
ミナトの肩に頭をのせると、公園の景色は角度をつけて傾く。ミナトの肩が一瞬びくっとしたのが分かったが、それでも伝わってくる熱にほころんで目を瞑った。
自分のことを受け入れてくれる人がいる。それがどんなに嬉しいことか、こうしていれば彼に伝わるだろうか。
濃紺の空の下、駅へ向かう道で別れた。じゃあと道を行く大きな背中を見つめる。
初めて人に自分の夢を話した。これまでずっと胸につかえていた思いを吐き出せて、体がすっきりしている。人に話せたことで自分の将来の夢がはっきりした。舞台役者を目指すこと、それは恥ずかしいことではない。
ミナトは不思議な子だ。湊太とふたりでいれば見向きもされない自分と仲良くしてくれて、自分の前で演技をしなくていいと言う。演劇を知らないと言いつつ、洸太の舞台を見てみたいと自然な口調で話す。年下なのに自分よりずっとしっかりしている。始めは変わっているところにばかり目が行っていたが、今はどれだけ頼もしくて誠実で優しいか、よく分かる。
これ、ミナト君のおかげで進路が決まったようなものだよな。
洸太は家に向かって歩き出した。夜空に星が瞬いている。風が冷たくて、カーディガンの上から腕をさすった。道の端に落ち葉が身を寄せ合って震えていて、草むらから虫の音がリーリーと聞こえる。
ミナト君がいたから将来の夢を口にできた。どこへ向かえばいいか分からなかった自分を導いてくれた羅針盤だ。ミナト君の将来の夢は佐藤さんと結婚することだけど、自分になにかできるだろうか。二年生の佐藤さんを紹介すればいいのだろうか。
そこで胸がちりっとして足が止まった。
ミナト君が佐藤さんを見つけたら、放課後に一緒に帰ることもなくなるのだろうか。そうしたら、僕は誰に本音を話せばいいんだろう。
くしゅん。くしゃみが出て、鼻を啜る。鞄を肩にかけ直し、走り出した。すぐに体が熱くなってきて、はっはと口から息が漏れる。なぜか目が熱い。ミナトに本音を打ち明けたときとは違う熱さだ。
空を見上げれば星がちらちら瞬いている。洸太は目の熱さを振り切って走り続けた。
夕食後、湊太の部屋に敷かれたカーペットの上に座って頭をぐしゃぐしゃに掻きむしると、ベッドに腰かけた湊太がははっとおかしそうに笑った。
「コータと仲良いんだろ。いいじゃん」
「いや……あの子、ちょっと変わってるっていうか、こっちが思ってもないことを言うから……明日会うのが怖い。変だったって言われたらどうしよう」
「変じゃなかったけど? やっぱコータもやればいいじゃん。本当はやりたいんじゃねえの。そうじゃなきゃ今日のあの演技はできねえと思うけど」
そう言われ、赤くなりそうな顔をごまかすために髪を手櫛ですく。
部活の終わり頃、洸太の演技は湊太のものとは違うものになっていた。今まで湊太と話しながら「自分だったらこうするのに」と思った部分を自分のやりたいようにやったのだ。どうせただの代役、やりたいことをやりたい。そんな思いに突き動かされて、普段なら引っ込んでいる自我が顔を覗かせた。
周りも途中から「ソータに似ている」とか「ソータだったらやらない」といった言葉を口にせず、ごく当たり前のように洸太の演技を呑み込んで一つの舞台を作っていた。あちらはただの代役だからだと思っていたかもしれない。それでも憧れの舞台の上で自分をさらけ出せたことに高揚した。その高揚感をごまかすように息をつく。
「僕はそもそもソータと違って役者として大事なものが欠けてるんだよ。今日はただの代役だからできたことだし」
「欠けてる大事なものって、俺、それがなにか分かるけど」
湊太の言葉に思わず顔をあげると、湊太は真顔で「本音を出すことじゃん?」と言った。思わず聞き返す。
「どういう意味? 大事なのはどう演技するかでしょ」
「そうか? 普段本音を出せないやつが見ている人に届く演技なんてできんの? その役の感情を表現したり、説得力のある役作りができたりすると思ってる?」
湊太が左足のテーピングを気にするようにちらりと目線をやりながら言う。
「コータって本当は役者をやりたいんだろ。でも、そういうの言わねえじゃん。双子で比べるなとかも全部黙って呑み込んでるし。俺はサッカーしたいときはやりたいって言ったけど。子役を辞めるなんてもったいないって散々言われたけど、中学でサッカーやってた三年間は楽しかったから無駄だとは思わねえし」
正論に押し黙ると、湊太は頭を掻いた。
「あのよ、コータの一番近くにいるのは俺だから分かってるんだよ。いくらコータが台本を丸暗記できるって言っても、今日の代役だって役者をやりたくなきゃできねえものだっただろ。多分だけど、みんな分かったと思うぜ。コータ、役者をやりたかったんだ、ってな。照明をバカにしてるとかじゃなくて、なにをやりてえかっていう取捨選択の話」
違うと否定もできず、そうだと肯定もできず、くちびるを噛みしめる。だが、そんなこちらを見て湊太はにやりとして自分の膝に頬杖をついた。
「金髪プリン君と相当仲良いことも分かってるけどな。だから引き止めたんだし。後輩の前でかっこいいところ見せられてよかったじゃん」
「……あれ、やっぱりわざと引き止めたんだ」
「我が兄の晴れの舞台を見てもらったほうがいいと思ってさ。あ、金髪プリン君は帰るときに俺に『先輩やっぱかっこいいですね』って言って帰ってったけどな」
「そういう余計なことしなくていいから」
洸太は咳払いし、「それで?」と台本を広げた。
「今日駄目だったのはどこ? 僕だって他に迷惑をかけたくないんだよ。ちゃんと教えて」
湊太のアドバイスを聞いて自分の台本に書き込む。自分の部屋に戻ってスマホを見ると、突然手の中で振動し始めた。「ミナト君」の文字と着信を知らせる震えにびくっとする。
「はい、あの、もしもし」
『あ、先輩お疲れっす! 今大丈夫っすか? 今日の感想を言いたくて!』
ミナトの声は明るかった。早口にしゃべり出す。
『今日はお邪魔しました! 先輩も俺とかクソとか言うんだって、すげえおもしろかったっす!』
ミナトの言葉に部活中のように汗が噴き出した。床にぺたんと座る。
「いや、あの、突然引き止めてごめんね。主役がソータじゃなかったから、見せられるようなものじゃなくて」
『いや、先輩の演技すごかったっす! 別人みたいでしたよ! 正義感で突っ走るやつって感じで、普段の先輩と全然違う。あんな大きな声を出してる先輩を初めて見ました! ホント、すごいっす。ああ、オレ、語彙力足りないな』
ミナトが興奮気味に続けた。
『声がすげえんすよ。体の中にまで響いてきて、先輩の感情に体が包まれるっていうか。感情移入できるっていうんすか? 先輩の役の気持ちも分かって、先輩がクラスで孤立してるのがすげえつらくて。あ、文化祭の弟先輩はすごかったっす。でも、先輩が弟先輩みたいにはできないって言ってたから、てっきり先輩は演技はしないのかと思ってて! 今日体育館に忘れものしたオレ、すっげえナイス! 先輩、すげえかっこよかったっすよ!』
ミナトの素直な言葉が胸に広がっていく。不覚にも鼻がつんとした。湊太に比べれば見劣りしているに違いないのに、即興に近い演技をきちんと見てくれたのだ。
「えっと、ありがとう。裏方もね、エチュードって言って即興劇をやって練習するんだよ。だから、演技はみんなそれなりにできるんだ。僕がすごいわけじゃないから」
『なんで謙遜すんすか? 他の人ができたとしても、先輩もできるって事実は変わんねえっすよ? 先輩は人を照らす光にもなるけど、自分も光ることができるんすね! 「洸太」って、先輩のためにある名前っすね! 先輩、すっげえきらきらしてました!』
何度もありがとうと言って通話を切った途端、涙が溢れてベッドに突っ伏してしまった。嗚咽を漏らすまいと枕に顔を押しつける。それでも涙が止まらない。人生で初めて当たったスポットライトの眩しさが胸に灯っている。ミナトの目には自分が輝いて見えたのだ。
演劇を続けてきてよかった。自分にこんな瞬間が訪れるなんて想像もしていなかった。そして、それを見てくれた人の中にミナトがいてよかった。
コータって本当は役者をやりたいんだろ。
湊太の言葉を思い出して、よしと切り替えて顔をあげた。涙を拭いて新しくメモを書き込んだ台本を広げる。今求められているのは湊太の足が治るまでの代役だ。洸太だって大会でいい結果を出したい。だったら役に立てることをやるしかない。
ところが、翌日から失敗のラッシュになった。調光室からの眺めと、実際に舞台に立ったときの距離感が違う。別の役者の子とぶつかったり、脳内の台本の画像がピンボケして一瞬セリフが飛んだり、それに焦ってセリフのトーンを間違えたりした。
周りは代役と割り切っているのかなにも言わなかったが、洸太は顔から火が出る思いがした。役者をやるのは楽しい。もっとうまくやりたい。だが、できていない。やはり湊太には適わない。
演技を止めて反省や話し合いになると、洸太は手持ち無沙汰になる。その話し合いに主役として参加するのは制服姿の湊太で、舞台に立っている洸太はただ黙ってそれを聞いているだけだ。舞台袖の調光室を見上げ、そこに逃げ込みたい気持ちと必死に戦う。
二日目、三日目、四日目。洸太の演技はどんどん縮こまっていき、役に入り込むことすら恥ずかしくなってきた。
部活を終えてジャージから制服に着替える。今日はミナトが図書当番の日なので、校門で待ち合わせて帰る予定だ。スマホを見れば『校門にいます』とメッセージが来ている。
明るい気持ちで家に帰りたい。なにか食べに行こうって誘ってみようかな。
ため息をついてトイレから出ようとすると、ドアの向こうで演劇部員が廊下を通り過ぎた。
「やっぱりソータ先輩が出ないと穴が大きいよね」
「コータ先輩だと呼吸が合わないんだよね……ちゃんと練習になってるのかな」
遠くに去っていく言葉に顔がカッとなった。こぶしをぎゅうっと握る。
ただの代役だ。湊太のセリフを読む人物がほしいだけ。だから今のままでいいはずだ。だが所詮代役で、みんなが本当に求めているものなど再現できない。
最終下校放送が流れ、深呼吸してトイレを出る。すのこをカタカタさせて革靴に履き替え、校門までの下り坂を下りる。秋は深まり、夜の空気が濃い。多くの制服姿がそそくさと帰っていく道で、ミナトだけが校門に寄りかかって待っていた。
「先輩、お疲れっす」
ハーフアップにピンで髪を押さえたミナトが小さく手をあげて笑う。その笑顔に洸太の口角も一瞬あがった。だが、なんと言えばいいか分からなくて、口を閉じてしまう。ミナトはそれに気づかず「帰りましょ」と言って歩き出す。外灯の明かりに大きな影のうしろを小さな影がついて行く。
「先輩、もう十月も終わるっす。あそこの公園にどんぐりがめっちゃ落ちてましたよね。公園行ってなにか飲みません? 昔公園中の落ち葉をゴミ袋に拾い集めて、一本の木の下に敷いてオレンジ色の絨毯を作ったっす。それだけだったのに楽しかったの、なんなんでしょうね。子どものときって謎なことが楽しかったりしますよね。先輩って小さい頃なにしてました? 弟先輩と一緒にごっこ遊びとかしてたんすか? 先輩の演技、すごかったっすもんね。それに」
「ミナト君!」
思わず言葉を遮っていた。驚いたようにミナトが足を止め、こちらを振り返る。だが、うまく表情を作れなくてミナトの顔を見ることができない。肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り締める。
「……想像できないかもしれないけど、小さい頃わんぱくだったのは僕で、ソータは家の中で遊ぶほうが好きだったんだよ。だけどソータは人見知りしないし新しいことをするのが好きだったから、きっといろんな役をやるのが楽しかったんだと思う。仕事で小学校もよく休んでたけど、学校に来ればみんなの中心にいて、にこにこしてるからみんなに好かれてた。休み時間は引っ張りだこになってたよ」
「……? 先輩、どうかしたんすか?」
ミナトが怪訝そうな声に変わった。
「弟先輩の情報は特に求めてないっす。なんとなく想像つくし。先輩がわんぱくだったっていうことのほうが気になるっす。オレみたいに落ち葉を集めて公園の清掃員のおじさんを困惑させました?」
一瞬面食らい、だが最後の言葉についふふっと笑ってしまった。肩の力が抜ける。こぶしの力が緩んで息をつく。
「おじさん、すごく困ってた?」
顔をあげてミナトを見ると、ミナトも小さく笑った。
「君が掃除してくれたのか、ありがとねってお礼を言われたっす。そのあと絨毯を作ったんで、ゴミ箱ひっくり返したくらいの嫌がらせをしたっすね」
「うーん、でもしかたないよね、絨毯を作りたかったんだから」
洸太が歩き出すと、ミナトも隣を歩き出した。足元で落ち葉を踏むとさくっという音がして、乾いた軽い旋律に次第に心が軽くなっていく。
「すげえふかふかにしたかったんすよね。公園の前の道の落ち葉も拾ったっす。なるべく赤とかオレンジとかを選んで。茶色のはハズレって思ってました」
「公園前の家の人は喜んだと思うよ。掃除しなくて済むし」
「先輩、それは一軒家に住んでる人のセリフ! オレん家、マンションなんで、全部管理人さんがやってくれるんす。でも、そのときはなんで片づけちゃうんだよってむかついてました」
ゴミ袋に落ち葉を集める少年の姿を想像して笑う。そうこうしているうちに公園に着いて、自販機でペットボトルを買った。洸太はレモンスカッシュ、ミナトはカフェオレだ。定位置となっている東屋に人はいなかった。目配せしてそこへ入り、並んで腰かけて鞄を横に置く。
チリッと音を立ててペットボトルの口を捻ると、ミナトがちらりとこちらを見下ろしてきた。
「……で? 今日はどうしちゃったんすか? 部活がどうかしたんすか?」
「ごめん、ちょっと嫌なことがあって。態度に出ちゃったよね」
レモンスカッシュがぱちぱちと喉を弾けて落ちていくと、ため息をついた。
「僕、情けないなあ。年下に気を遣わせてる」
「一歳違いってそんな年下? 先輩、何月生まれっすか」
「僕は四月。四月七日」
「やべ、ほぼ二歳差だ。オレ、三月十四日っす」
「早生まれでそんな大人っぽいの? 僕なんていまだに中学生に間違われるのに」
「中二のとき、大学生にアンケートをとってますってのに声かけられて、答えてやろうとしたら質問の意味が分かんなくて中学生バレしましたね。嘘はよくないっす」
真面目に言うミナトの言葉にまた笑ってしまった。体から力が抜けて、足をぐっと伸ばして再びレモンスカッシュを飲む。ぱちぱちする感触にもやもやしたものが弾け飛び、レモンのすっきり感が気持ちをなだらかにしていく。ミナトの隣にいるといろんなことが軽くなる。
だが、目蓋の裏には男子トイレのドアノブを掴む自分の手の映像と、聞こえてしまった後輩のセリフがセットになって焼きついてしまっている。ため息をつき、レモンスカッシュのラベルを見た。
「ミナト君がこないだ見たようにまだソータの代わりやってるんだけどさ、早く終わらないかなって思っちゃう。ソータの怪我が治ってほしいって意味もあるけど」
「……なんでっすか? 演技するの、嫌いっすか?」
ミナトが不思議そうに言う。
「オレがこないだ見たときはすごかったっすよ。楽しくなきゃできなくないっすか。オレだったら棒読みだし、噛みますよ」
「でも、楽しいだけじゃ駄目なんだよね。ソータじゃなきゃ練習にならないって言われちゃったよ。当たり前だよね。演劇は団体でやるものだし、自分ひとり楽しくてもみんなに迷惑をかけてたら邪魔でしかないし」
話していたらだんだんと脳裏の映像が鮮明になってきて、胸がぎゅっと痛くなった。思わず太もものズボンを掴んでうなだれる。
「僕はソータになんてなれない。ソータみたいに堂々と演技できないし、自信を持って振る舞えない。あいつが嫌なやつなら嫌いになれたけど、僕が言うのもなんだけど普通にいいやつだし。代役だって、嫌味でやれって言ってきたわけじゃないんだよ。僕が役者をやりたいって気づいてたからチャンスをくれただけ。期間限定のチャンスをものにできないって、やっぱり僕には致命的な欠陥があるんだよ。……演劇部で主役を張れるかっこいいソータにはなれない」
「先輩もかっこいいっすけど」
間髪入れずに返ってきた言葉に思わず顔をあげると、ミナトはじっとこちらを見下ろしていた。
「先輩が弟先輩とは違うのは当たり前っすよね。だって、別人だし。顔は似てるけど、兄弟だから似てることは別におかしくないっすよね。それとも文化祭でオレが先輩と弟先輩を間違えたの、すげえ不愉快だったすか? だったら謝ります」
ミナトの口調は真剣だった。まだ開けていないカフェオレのペットボトルが行き場を失っている。
「オレには演劇は分かんないっすけど、あの役、セリフも出番も多くてすげえ大変なんでしょ? オレが見学した日の夜、弟先輩が言ってました。本当はただ台本を読むだけでよくて、あんなふうに演技する必要ないんだって。でもコータはやろうとしちゃうんだよねって。あと、こうも言ってました。多分これでまた悩ませちゃうんだろうなって。俺コータに失礼なことしちゃったなって。なんか悩んでるふうだったっす。その会話でその日の夜はつぶれました」
ミナトの言葉に「えっ」と思わず声が出た。
「もしかしてソータと連絡先を交換した? それ、メッセージでやり取りしたってこと?」
「弟先輩に連絡先を教えてよって言われたっす。弟先輩、フレンドリーっすよね。……って言うと、先輩は自分はフレンドリーだろうかとかって考え出すんですよね。不思議っす。なんでいつも弟先輩が基準? 先輩は先輩らしくいちゃ駄目ってこと?」
ミナトの口調が次第に強くなってきたので、ごくりと唾を飲み込んだ。ミナトが眉根を寄せる。
「あのさ、先輩って普段から演技してるよね。本当のことを言わないっていうかさ。もしかして弟先輩と別人にならなきゃって思ってんの? 同じところがあると駄目だって考えてる? それで髪型変えて眼鏡かけて僕って一人称まで変えてんの? でも、オレは別人だって知ってるけど。映画の半券を嬉しそうに見せて、読書量がすごくて、照明係のよさを語ってた。あれは演技じゃないっしょ。演技でできることじゃないし。好きなことを好きって言えるとこ、すげえかっこいいと思ったけど」
ミナトの口調から「っす」が消えた。
「多分、逆じゃない? 髪切って眼鏡外して俺って言ってみれば? 双子で顔が似てても全然違うって周りも分かるじゃん。同じところがあっても、違う人間だって伝わる。弟先輩は劇の主役だし、たしかにすげえと思ったよ。でもさ、自分の人生の主役は自分のはずじゃん。先輩はなんで脇役みたいにしてんの? 常に主役は弟先輩で、先輩は脇役なの? 違うんじゃねえ?」
少し冷たくなった秋の風が頬を撫でていく。足元でかさっと音がしたと思ったら、運ばれてきた落ち葉がコンクリートの東屋に入ってきていた。ミナトのまばたきの少ない目がじっとこちらを見ている。その視線に射抜かれて、思わず本音がぽろっと漏れた。
「……俺、は無理かもしれない……もう僕で馴染んじゃった……」
「じゃあ僕でいいけどさ。次の新しい劇の役を決めるのはいつなの。そこで役をもらえばいいじゃん。弟先輩の代役だから悩むんでしょ。別の役だったらいいんじゃねえの? そういうの、手をあげて立候補して決まんの?」
「……大会をどこまで進めるかで時期は変わっちゃう。あと、役はオーディションで決まるから、ちゃんと演技ができないと駄目なんだけど」
「じゃ、そのオーディションで役をもらえるように頑張ればいいんじゃん? この間オレが劇を見たときも、部活の人たちは先輩をうまいって褒めてたし。役をもらえるくらいできるってことじゃねえの」
ミナトが頭を掻いてため息をつく。
「あのさ、オレの前で演技しなくていいよ。正直弟先輩のことはほとんど知らないから、先輩がなに言ったってオレは比べようがないし。オレはひとりっ子で兄弟と比べられる感覚が分かんないから、先輩の悩みは分かんない。でもさ、誰かひとりくらいに本音を言ってもよくねえ?」
オレの前で演技しなくてもいいよ。
まるで突風のようにその言葉が洸太の心臓を貫き、吹き抜けていった。自分でも目が見開いていくのが分かる。ミナトの金髪が差し込む夕日に輝いていて、きらきらしていた。そのきらきらが広がってその視界が滲み、突然ほろりと崩れた。しかめっ面をしていたミナトの目が丸くなるのが分かる。
「あ、ごめん」
自分が泣いていることに気づき、思わず顔の前に腕を出して顔を隠す。
「ちょっとごめん。びっくりしただけ。うわ、僕、すごくダサい」
言いわけが口から出ると、それにつられたように涙が止まらなくなって、羞恥心に体が熱くなる。
「ミナト君ちょっと待って。恥ずかしい。あの、ごめん」
「すみません!」
ミナトが大きな声を張り上げた。先ほどとは一転、慌てたような口調で「えっと、あの」とあたふたする。
「ひどいこと言ってすんません! てめえには分かんねえよって話っすよね。分かったふうな口きいて悪かったっす!」
「そうじゃない。ミナト君は悪くないよ」
「いや、でも」
そこでミナトがなにかに気づいたように「これ!」と差し出してきた。視界を遮った腕の下から見ると、いつか本を拾ってくれたときに見た白と青のボーダーのタオルハンカチだった。
「あの、本当にすみません。先輩を責めたかったわけじゃないっす……」
落とした本を拭いてくれたハンカチ。あのときも自分は悪くないのに謝ってくれた。ミナトは優しい子だ。今自分が本音を落としたら、それもていねいに拾ってくれるのだろうか。
ハンカチを受け取り、眼鏡をとって目元を押さえ、また眼鏡をかけ直す。はあと息をつき、横に座る彼を見上げた。その顔はまるで痛みを感じているように歪んでいたが、「本音を言ってもいい?」と聞くといつも通りの表情に戻った。
「役者をやるの、本当は楽しい」
言葉を短く区切って息を吸う。
「ソータの代役もあと数日だけど、全力を出してみたいんだ」
「やればいいと思うっす。誰だって好きなことしたいっしょ」
「今特進科にいるけど、有名大学に入りたいとか目標があるわけじゃないんだ。高校に合格したときにソータと別でほっとしただけ」
「学校では兄弟と離れたいって普通じゃないっすか。中学のクラスメイトが廊下で姉ちゃんとすれ違うと気まずいって言ってたっす」
「ソータは高校に入ってからも外部のオーディションを受けてるし、俳優とかそっちのほうに進もうとしてる。ソータが親とそういう話をしてるのを横目で見ながら、僕は教科書を読んで暗記する。すっごく虚しいよ」
「虚しいってことは先輩もそういう方向に興味があるんじゃないっすか」
ミナトが金髪プリンの頭を掻いた。
「先輩は隠しごとが多いっすね。今みたいなこと、親にも弟先輩にも言ってないんしょ? もうここで全部言っちゃえば? オレ、それを聞いたところで弟先輩にも言わないですし」
全部言っちゃえば。そのセリフにまた涙が出てきそうになった。
誰も聞いてくれなかった。いや、自分が言おうとしなかった。大学受験に必死なクラスメイトにも、演劇が好きな部活仲間にも。夢物語を言っていると思われるから。湊太と比べられるはずだから。でも本当は声を大にして言いたかった。
息せきって心の内を明かす。
「僕、本当は大学じゃなくて事務所の養成所に入りたいんだ。将来の夢は舞台役者なんだよ……!」
床に積み上がっている本の間に隠してある劇団の資料や演劇関連の書籍。湊太がこれまで受けてきたオーディションの要項も持っている。親も湊太も自分の部屋に入らないから隠せているだけだ。自分の部屋では夢について自由に考えたり、必要なことを調べたりできた。自分を楽しませてくれる本や資料に囲まれていると安心できる。積ん読タワーがそこにあることが、心の慰めになるのだ。
「じゃあ先輩、約束してくださいよ」
洸太が眼鏡を外して目元をこすると、ミナトがそう言って口角を上げた。
「先輩の初公演のチケットをください。オレ、学校を休んで見に行きます」
ミナトがにっと白い歯を見せた。
「その半券を財布に入れるんで。オレが先輩の舞台の半券コレクションを作りますね」
ああ、すごく優しい子だな。ミナトの柔和な笑みが胸に染みて安堵する。だが、半券を財布に入れるミナトを想像したら笑ってしまった。
「ミナト君、それ、佐藤さんに変な趣味って思われるからやめたほうがいいよ。プログラムの間にでも挟んでおいて」
洸太がくすっと笑うと、ミナトが一瞬動きを止めた。そしてちょっと考えるように首を傾げ、小さく笑う。
「大丈夫っす。そんな佐藤さんはオレの前にやってこないんで」
「……ミナト君」
洸太はミナトの隣にぴたりと座り、ちょうどいい高さにある肩にコンと頭をつけた。
「ちょっと肩貸して」
ミナトの肩に頭をのせると、公園の景色は角度をつけて傾く。ミナトの肩が一瞬びくっとしたのが分かったが、それでも伝わってくる熱にほころんで目を瞑った。
自分のことを受け入れてくれる人がいる。それがどんなに嬉しいことか、こうしていれば彼に伝わるだろうか。
濃紺の空の下、駅へ向かう道で別れた。じゃあと道を行く大きな背中を見つめる。
初めて人に自分の夢を話した。これまでずっと胸につかえていた思いを吐き出せて、体がすっきりしている。人に話せたことで自分の将来の夢がはっきりした。舞台役者を目指すこと、それは恥ずかしいことではない。
ミナトは不思議な子だ。湊太とふたりでいれば見向きもされない自分と仲良くしてくれて、自分の前で演技をしなくていいと言う。演劇を知らないと言いつつ、洸太の舞台を見てみたいと自然な口調で話す。年下なのに自分よりずっとしっかりしている。始めは変わっているところにばかり目が行っていたが、今はどれだけ頼もしくて誠実で優しいか、よく分かる。
これ、ミナト君のおかげで進路が決まったようなものだよな。
洸太は家に向かって歩き出した。夜空に星が瞬いている。風が冷たくて、カーディガンの上から腕をさすった。道の端に落ち葉が身を寄せ合って震えていて、草むらから虫の音がリーリーと聞こえる。
ミナト君がいたから将来の夢を口にできた。どこへ向かえばいいか分からなかった自分を導いてくれた羅針盤だ。ミナト君の将来の夢は佐藤さんと結婚することだけど、自分になにかできるだろうか。二年生の佐藤さんを紹介すればいいのだろうか。
そこで胸がちりっとして足が止まった。
ミナト君が佐藤さんを見つけたら、放課後に一緒に帰ることもなくなるのだろうか。そうしたら、僕は誰に本音を話せばいいんだろう。
くしゅん。くしゃみが出て、鼻を啜る。鞄を肩にかけ直し、走り出した。すぐに体が熱くなってきて、はっはと口から息が漏れる。なぜか目が熱い。ミナトに本音を打ち明けたときとは違う熱さだ。
空を見上げれば星がちらちら瞬いている。洸太は目の熱さを振り切って走り続けた。