「じゃあまた今度」
お盆前最後の夏期講習の日、クラスメイトにそう告げて洸太は校舎を出た。
昇降口を出ると途端に夏の日差しが肌を焼いてくる。ミンミンと蝉の声が降りしきる中、コンクリートの下り坂は熱されたフライパンのように照り返しが強い。門を通り過ぎるまでの数十メートルを歩くだけで肌から汗が噴き出す。ソーダ味のアイスが食べたい。
今日で一旦勉強も終わり。洸太は疲れで重い頭を振った。ゴールデンウィークは連休を楽しめたが、それからはずっと勉強ばかり。大会が近づくと部活で土日もなくなるので、ようやく一息つけるという感覚だ。
お盆はなにをしようかな。そんなことを考えながら校門を出て道を曲がったとき、ふと足が止まった。今日湊太はある劇団のオーディションを受けに行っている。未成年は保護者同伴だったはずだから、家に帰っても誰もいないだろう。夕飯も遅いはずだ。どうせなら夏期講習前半が終わった開放感を味わいたい。
ちょっと寄り道しよ。
洸太の革靴がいつもと逆の道を歩き始めた。駅前の商店街のほうへ進むと、夕方の買い出しの人々がざわざわと道を行く。駅前広場の植木の近くは蝉がうるさくて、洸太はカンカン鳴る踏切を渡って反対側へ出た。栄えているそちらに大きな本屋がある。店の中に入ると途端に冷房の風が吹きつけてきた。急に体がひんやりとして、お目当ての棚の前に行く。
洸太の一番の趣味は読書だ。部屋は本棚から溢れた本が床に積み上げられていて、ベッド前を中心に積ん読のタワーがそこら中に建っている。足の踏み場がないとまではいかないが、友人を招き入れられる部屋ではないことは確かだ。湊太とふたりで話すときも、「コータの部屋は座れねえから俺の部屋に来いよ」と言われてしまう。
そうは言ってもな。
洸太は一番上の棚を眺めた。
本は読みたいときに手に取れるところにないと。
お小遣いのほとんどを本につぎ込む洸太の目が『二.五次元文化の今』という背表紙を捉えた。最近は舞台の評論も好きで読んでいる。つま先立ちでそれに手を伸ばしたとき、隣からにゅっと伸びてきた大きな手が本を取った。
「あ」
先に取られた。
一瞬そう思ったが、「はい、先輩」と本を差し出されて、手の主を見た。そこには黒のTシャツにグレーのジーンズ姿の金髪プリンがいた。髪をハーフアップにして左側を黒いピンで留めている。全体的に黒っぽいせいか、金髪が目立つ。見上げるような身長は、すらっというとひょろっとして見えた。
「あっ、久しぶり!」
思わず笑顔になると、彼も白い歯を見せた。改めて洸太の手に本をぽんとのせる。
「先輩、制服でどうしたんすか? 部活っすか」
「ううん、特進の夏期講習。毒島君はなにしてるの」
「オレはバイト帰りっす。駅に行こうとしたらここに入る先輩を見つけたんで、一分弱ストーカーやってました」
「全然気づかなかった。私服だと大人っぽいね。大学生くらいに見える」
「身長のせいっすね。でも、そんな難しそうな本を買ったことはないっすけど」
彼はからりと笑い、「このあと時間あります?」とうしろポケットからスマホを出してロック画面の時間を指さした。
「いいときに先輩に会えたっす。相談があるっす」
「あ、佐藤さんを見つけたんだ?」
「そうなんすよ」
会計をして袋に入れてもらった本を鞄にしまうと、ふたりで商店街のファミレスに行った。涼しい店内で向かいの席に座り、ドリンクバーのカルピスで乾杯してフライドポテトを頼む。赤いケチャップをつけると甘塩っぱくて、ついぱくぱく食べてしまう。
だが、彼はポテトにフォークを刺してため息をついた。
「先輩、聞いてくださいよ。一年の特進に佐藤さんって女子がいたんす。でも彼氏がいるらしくて。オレ、進路変更を迫られたっす」
「そっか、残念だったね。どんな子だった?」
「いや、顔とか分かんないっす。いるって聞いただけなんで」
顔も知らない女子の彼氏の存在にため息をつく金髪プリンに、洸太は俯いて笑いをこらえた。夏期講習の疲れなどどこかへ行ってしまった。この子は本当に独特だ。発想と言動がおもしろすぎる。
「でも、また別の素敵な佐藤さんに会えるかもしれないよね」
「別棟の農業科とかも調べに行くべきかとも思ったんすよ。でも、オレ、農業とか分かんないし」
彼はそう言い、まばたきの少ない目でじっとこちらを見た。
「オレ、重大なことに気づいたんす。佐藤って名字だけで女の子のことを決めつけちゃダメなんじゃないかって。農業科の佐藤さんと付き合えても、多分話は合わないっす。『附子』を知ってる先輩とのほうが話が合うと思ったっす」
至極当たり前のことを大発見したように言うので、とうとう洸太はぷはっと吹き出してしまった。
「毒島君、ようやくそれに気づいたの!?」
つい腹を抱えてははっと笑ってしまう。
「多分だけど、普通は名字で決めないと思うよ!」
すると彼はむっとしたようだった。頬杖をついてくちびるをとがらす。
「名字が毒島から佐藤に変わったらすごいって言ってくれてたじゃないですか」
「すごいとは思うよ。毒から砂糖って発想はおもしろいと思うし」
「じゃ、夢は諦めねえっす。話の合う佐藤さんと結婚してみせるっす」
「うん、分かった。そのときは報告よろしくね」
洸太がくすくす笑うと、彼は不服そうにポテトにケチャップをつけた。それを一口で食べてじろりと見てくる。
「先輩、オレのこと名字で呼ぶのやめてください。下の名前、ミナトって言います」
「ミナト君、それはどうして?」
「佐藤になったときに備えてです。先輩とは結婚後もお付き合いを続けたいんで」
またぷはっと吹き出してしまい、洸太はフォークを置いて突っ伏してしまった。笑いがこらえきれず背中が震える。
ダメだ、この子といるとペースに飲まれてしまう。存在だけで場の空気を変えられるオーラがある人はいるが、この子は別の路線で空気を変えていく。
ミナトがいると急に現実がカタカタと音を立てて揺れ始めるような、日常に新たな風が吹き込んでくる。洸太は顔をあげてコップに口をつけたが、途中でまた思い出し笑いしてしまった。
「先輩、なにがそんなにおもしろいんすか。笑いすぎっしょ」
「ミナト君がめちゃくちゃおもしろいんだよ! ちなみにミナトの漢字はさんずいに奏でる?」
「いや、普通の港です。湊じゃありふれてるからって普通のほうをつけたらしいっす。でも、字面を思い浮かべてくださいよ。毒島港。どっかの漁港みたいじゃないっすか。オレ、漁業とか分かんないっす。名字と名前の組み合わせはマジ最悪っす」
洸太はそれを想像し、またも笑ってしまった。咳払いし、震えそうな腹筋に力を入れて笑いをこらえる。
「人の名前で笑ってごめん」
「でも、ぶっちゃけフグが釣れそうな漁港を想像したっしょ?」
ふくれっ面のミナトの言葉に太ももをつねる。ここは笑っていいところではない。
「ミナト君は名字も下の名前も珍しいってことだよ。いいんじゃない?」
「先輩は名字が寿で困ったことないんすか」
「親が葬式に行きにくいとは言ってた。ほら、香典に寿って書くことになるから」
「香典ってあの白黒の袋っすよね。そっか、めでたい名字も大変か」
彼は少し納得したような口調になり、ポテトをぱくりと食べた。見た目は年上に見えるが、しゃべっている内容はまだ後輩という感じでかわいい。演劇部というのは変わり者の集まりになるのがあるあるだが、彼は普段しゃべり慣れている部員とはまた違う。
「先輩、ちなみにお盆休みはなにするんすか」
「家でのんびりするかな。うち、祖父母も同じ県にいるから帰省とかなくて」
「マジっすか。お盆休み中、勉強を教えてくんないっすか。先輩は特進っしょ。オレ、宿題がキャパオーバーなんすよ」
彼は簡単に懐に飛び込んできて距離を詰めてくる。普段ぐいぐい来る相手は苦手なのだが、なぜかミナトは平気だった。笑って「なにを知りたいの」と聞いてしまう。
「僕、数学は苦手なんだ。ちゃんと教えられるかどうか分かんないや」
「理系なんで数学は大丈夫っす。英語とか国語とか社会とか、そっち系が分かんねえっす。こうやってファミレスで勉強しませんか。家にいるとどうしてもマンガとかに目が行っちゃうんすよね」
つい床の本を拾って没頭してしまいがちな自分も同じなので、思わず頭を掻いた。髪を手櫛ですき、コップを持った。
「いいよ。いつにする? 僕も宿題やっちゃいたいし」
「マジっすか? やった! 急ですけど明日って空いてます? 早く片づけないとって焦ってるんすよ」
ミナトが机に両肘をついて頭を抱える。去年夏休み最後に「宿題が終わんねえ!」と湊太に泣きつかれたことを思い出してしまった。
「いいよ。どこのファミレスにする?」
「先輩の最寄り駅はどこっすか。オレは隣の駅っす」
「僕はここ。高校から家は歩いて行ける距離なんだ」
「じゃあ明日ここに来ましょ。メニューのピザがうまそうっす。明日食べたいっす」
ミナトがタッチパネルを指でスライドさせて、洸太もそれを見た。常にお腹が空いていると言っても過言ではない男子高校生の目が吸いつくような料理の写真が並んでいる。
「ピザよりパスタ食べたい。明太子しそパスタ、夏っぽくておいしそう」
「マジすか。だったら冷やし中華のほうが気になるっす」
「デザートはアイスが食べたいな。二つの味が楽しめるっていいよね」
「いや、そこはケーキ一択っしょ。ケーキなんて普段食えねえっすよ」
結局その後はたわいもないおしゃべりをし、連絡先を交換して翌日九時半の集合となった。昨日と同じ席に座り、ドリンクバーを注文してテーブルの上にペンケースなどを取り出す。洸太が冷房対策で上着を羽織ると、白シャツにジーパン、小さなポニーテールのミナトがしかめっ面で腕を組んだ。
「まず古文が分かんねえっす。形容詞と形容動詞ってなんすか」
ミナトが古典の問題集を広げる。書き込み式の問題集は真っ白だった。
「形容詞形容動詞は現代語で考えたほうが早いかも。かわいい、とか、つらい、とか、静かだ、とか」
「ああ、そういうこと。美しい、優しい、とかっすね。つまり、美し、とか」
「そうそう。それが活用するんだよ。活用表も習ったでしょ」
するとミナトはノートを引っ張り出してきた。表紙が黄色のキャンパスノートのページをめくる。
「えっと、活用っていうのは……変化すること、か。言葉が変わるやつっすよね。歩かない、歩きます、みたいな」
ノートを広げて問題集をじっと見つめるミナトを見ると、そのノートが視界に入った。字を見て目を丸くする。それは見覚えのある丸文字だった。秘密の文通相手の文字だ。角の丸い、どことなく女の子っぽくも見えるかわいい字。男子かもしれないとは思ったが、金髪プリンの背が高い大人びた容姿のミナトとは結びついていなかった。
あの字、ミナト君の字なのか?
驚いて思わず尋ねる。
「ミナト君は国語って誰先生に習ってる?」
「森先生っす。昔の文を読むとかだるいと思ってたっすけど、『ね』の数を数えてたらおもしろくなったっす」
洸太が見つめる前でミナトのシャーペンが動いた。「く、から、く、かり、し、き、かる、けれ、かれ」とぶつぶつ呟きながら表を埋めていく。シャーペンの先から生まれるきちっきちっとした丸文字はどう見ても机に書かれた字と同じだった。
あれ? 夏休みにも授業を受けているみたいだから特進科の子だと思ってたんだけど? ミナト君は普通科だよな?
洸太は自分も問題集を広げつつ、ミナトのシャーペンの先から生まれる字をちらちらと見た。何気ないふうを装って尋ねる。
「特進って夏休みは毎日登校だから、案外宿題って少ないんだよね。ミナト君はどう?」
すると彼は問題集を睨みながら「んー」とシャーペンの頭で顎をトントンと叩く。
「オレ、古文とかできねえから、夏休みの始めは補講で毎日登校だったっす。宿題をやらせてくれないから、宿題をする時間が減っただけっしたね。でも、動詞の活用表は埋められるようになったっす」
「……ラ行変格活用の動詞を四つあげなさい」
「あり、をり、はべり、いまそかり!」
顔をあげた彼は即答し、白い歯を見せて「暗記したっす。褒めて!」と自信満々に親指を立てた。洸太は「さすが」と言いながら心臓がどきどきしてくるのを感じた。
あの質問、ミナト君だったのか。同じ教室で、同じ席で、授業を受けていた。学年も科も違ってなんの共通点もないと思ってたのに。あの秘密の文通相手はミナト君だったのか。
なんだか顔がにやけそうになり、慌てて顔を引き締める。たった一行のやり取りでも、他に知られないつながりにどこか安心感を覚える相手だった。それがとっくに知り合っていた相手だと分かって、偶然と特別感にどきっとしてしまう。
ミナト君がこっちに気づくまで黙ってよう。いつ気づくかな。
内心ふふっと笑い、広げた日本史の問題集をじっと見る。教科書を思い出しながら空欄を埋めていくと、暫く沈黙が下りた。カリカリとシャーペンの走る音と店内のざわざわとした人の声が溶け合って、BGMの中に脳が馴染んでいく。だが、暫くして向かいのミナトが手を止めた。
「……先輩、すごくないっすか」
顔をあげると、ミナトがこちらの問題集を指す。
「なにも見ないで全部書けるじゃないっすか。そういうの、教科書を見ながら書くんじゃないっすか」
久しぶりにそれを指摘されて、一瞬顔が熱くなった。
「実は特技があって。一回文章を読むとだいたい覚えられるんだ。だから暗記系の科目はほとんど間違えない」
「えっ? 一回で? 全部?」
「だいたい、だけど。今ミナト君が持ってる文法の教科書、ラ行変格活用のことが載ってるのって三十四ページだよね。読んだことのある図書室にある本なら、内容を言ってくれれば、どこの棚の何段目にある本の何ページ目かだいたい分かる。でも、何ページのあのへんに書いてあったけど、肝心の部分は思い出せないってことはある。見たものをそのまま覚えられる力をカメラアイって言うらしい。調べたけど、僕には当てはまらないことも多かったから、一般的なカメラアイとは違うんだと思う。不完全カメラアイって感じ」
ミナトがぽかんとしたようにこちらを見つめ、文法の教科書をめくった。三十四ページ。ラ行変格活用の文字を見て「マジかよ」と呟く。
「それ、遺伝っすか? 家族もできるんすか」
「いや、誰もできない。なんでだろうね。僕としては当たり前だったから、他は違うって小学校の途中まで気づいてなかったよ」
「すごいじゃないっすか。数学とかもいけますか」
「数字は苦手。パッて見せられただけの数字は数日後には忘れてる。歴史の年とかがぎりぎり覚えられるくらいで、クラス全員の誕生日を覚えろとか言われても無理。数学の公式は覚えられるときもあるけど、さっきも言ったように肝心なところを思い出せなかったりするから、混乱して間違えることも多いよ」
するとミナトがああと思いついたように納得した声を出した。
「だから図書室で本を借りて返す間隔が早いんすね。読めば覚えられるから。オレ、理解するのに時間がかかるから読むの遅いっす」
「なんていうのかな、一回読めば覚えられるから、図書室の本は返却したあとも思い出して楽しんでる。でも、ちらっと見ただけで覚えるとかは無理なんだ。フラッシュ暗算とかはできない。そういう意味では特技っていうのは言い過ぎかもしれない」
「いやいや、充分すごいっしょ。じゃあ、文法の教科書で上一段活用の動詞はどこにあるでしょうか」
「二十八ページの四行目。『口語の上一段活用動詞の「見る」は文語でも「見る」である。次の表のように活用する』。この文の隣に活用表がある。み、み、みる、みる、みれ、みよ」
すぐに答えると、ミナトがこちらと文法の教科書に目線を行ったり来たりさせて、ぽかんと口を開いた。
「えっ、一字一句間違えない感じ?」
「写真みたいに映像で覚えてるから、そのあたりは正確。でもピントがぼけて思い出せないってことはあるし、覚えてないページは一文字も分かんないよ」
洸太は口の前に人差し指を当てた。
「他の人には内緒ね。学校じゃ誰にも言ってないから。多分、ただ暗記が得意な人って思われてると思う」
「自慢すればいいのに。すげえ特技っすよ?」
「変に注目されたくないから。逆にみんながどうやって覚えるのか、僕には分かんないし。いいよなって言われても返事に困るし、やり方も説明できないし」
ミナトはへええと感心した声を出し、「そっすね」と頬杖をついた。
「オレも背が高くていいよなって言われても、ありがとうくらいしか言えないっすね」
「でも、身長ってスポーツでは有利じゃない? 部活は何部なの」
「最初バレー部に勧誘されたんすよ。で、仮入部二日目でブロックしたら突き指したんで辞めました。利き手を突き指するとか、シャーペンが握りにくくて不便でした。なんで今は帰宅部っす。図書委員でバーコードをピッてやってるのが楽しいっすね」
洸太にはミナトの反応が新鮮だった。小さな頃まだ自分が人と違うと分からなかったとき、自分の覚え方を教えると「羨ましい」とか「すごい」とか興味津々でいろいろ聞かれた。だが、ミナトはもうすっかり受け入れた様子で、自分の話題に話を移した。過度な期待を持ってこちらを判断しないこと、そのことに肩の力が抜ける。
ミナトの側にいると落ち着く。洸太は金髪プリンの彼と話していて居心地がいいことに我に返った。
たしかにクラスメイトとは勉強のことを話せる。たしかに部活仲間とは分かち合える楽しさがある。湊太とはお互いのことが分かっているし、趣味が重なることが多い。
それでも、学年が違って、科が違って、部活が違って、家族でないミナトといると自然な笑顔になれる自分がいる。
「先輩は部活以外の趣味とかあるんすか。読書が好きなのは分かってるっすけど」
ミナトが何気なく聞いてきたそれに思わず洸太は財布を取り出した。
「聞いてくれる? すっごく自慢したいものがあるんだけど!」
「なんすか」
「これ見て!」
洸太は財布から角の折れた映画の半券を取り出して見せた。映画の題名と座席番号が書いてある半券だ。
「映画を見に行くのが好き! 半券コレクション! これを見ると内容を思い出せるから、すごい魔法のチケットなんだよ! 好きな映画を二十に厳選して持ち歩いてる! 分かる? 映画の入場料を払わなくても何度もその席から見た映画の好きなシーンを思い出せるわけ! 僕の暗記力、多分このためにあるんだと思う!」
二つ折りの財布の形によれた半券二十枚を自信満々にトランプのように広げて見せると、ミナトが「嘘だろ」と言わんばかりにドン引きしたような顔をした。
「先輩って変わってる……絵柄もなにもないマジの半券じゃないっすか」
「文字と数字だけで思い出せるからこれでいいんだよ。このちょっと汚れてるやつは小学生のときに見に行った子ども向けのアニメ映画なんだけどね、すっごく感動するラストだったんだよ。これを見ると泣けてくるんだよね」
「先輩ってコレクターっすか? 変なの集めてそうっすね」
だがミナトはそこでぷっと小さく笑った。頬杖をつき、髪ゴムから漏れた髪が頬に垂れる。
「じゃあ夏休み中に映画を見に行きません? なにかおすすめはありますか」
「え、ホント? 来週から始まるもので見に行きたいのあるんだよね。小説が原作で映画化された作品。高校生が主人公なんだけど。それでもいい?」
「先輩のおすすめを見たいっす」
「じゃあ今予約を取っちゃってもいい?」
いそいそとスマホをいじり出すと、向かいの席でまたミナトが笑う。人混みが緩和しているときを狙い、お盆後の土日で席を探す。未来に楽しい時間が約束されているだけでうきうきしてくる。ミナトが汗を掻いたコップでジュースを飲み、テーブルについたコップの丸い輪を紙ナプキンでていねいに拭いた。
結局お盆休みに三回会って勉強し、夏休み最後の週に映画を見に行った。
「ミナト君!」
待ち合わせの駅の改札で手をあげると、改札から出てきたミナトが笑顔になって駆け寄ってきた。今日は薄いピンクのTシャツにまたジーパン。スタイルがいいからなのか、特に派手なおしゃれをしているわけではないのにかっこいい。そう思った洸太に対し、ハーフアップのミナトはこちらをじろじろと見下ろした。
「先輩、そのボタンシャツ、なんかおっきくないっすか。おしゃれですけど」
「これ、弟の。朝、着る予定だった服にお茶をこぼしちゃって」
「弟さん、でかいっすか」
「いや、そこまでじゃないよ。でも僕より五、六センチ大きいかな」
ミナトは簡単に「そすか」と頷き、映画館のほうを指して「行きましょ」と歩き出す。
夏の雑踏は蝉の音と人の声、車のブレーキ音などで騒がしかった。だが、なんとなくミナトの隣を歩いていると周りが勝手によけてくれる感覚がある。そっと斜め上を見ると、「暑ち……」と手の甲で顎を拭っていた。暑さが不快なのか、目蓋が重ための目が目つきが悪く見える。
この長身金髪プリンが高校一年生だなんて思わないんだろうな。隣を歩いている地味男子の僕とどういう関係に見えるんだろう。
佐藤さんと結婚することが将来の夢だなんて誰も想像もできないよな。洸太はそう思い、ちょっと笑った。日差しの強さとじわりと浮かぶ肌の汗に駆け足になって映画館に滑り込み、スマホのQRコードで機械から吐き出されたチケットを手にする。
ちらっとミナトを見上げると、ミナトもちらりと見下ろしてきた。
「この半券が先輩のコレクションに加わるんすね?」
「二十を厳選して財布に入れてるから、家に留守番になるか持ち歩きになるかは作品の出来次第」
「激戦なんすね。じゃ、今日の映画には頑張ってもらいましょ」
館内に入るとパンフレットを買い、フードメニューのところへ行った。夏休みだからか、自分と同じくらいの学生が多い。ポップコーンの弾ける音やコーラを一つと注文する人の声が反響してざわざわしている。
「先輩に宿題教えてもらったお礼っす。飲みものをおごります」
「気にしないでいいのに。でもお互い宿題終わってよかったねって乾杯しよ。僕はレモンジンジャーかな」
「オレはオレンジジュース。ポップコーンも食いたいっす」
「大きいの一つ買って分け合おうよ」
「無難に塩味でいいっすか」
「オッケー」
ミナトが山盛りのポップコーンとジュースのカップがはまるトレイをもらい、洸太は自分のレモンジンジャーを手にした。氷の入ったひんやりとしたカップを手にすると、ミナトと顔を見合わせてちょっと笑った。宿題が終わったご褒美感がふたりのテンションをあげてくる。
シアター内の座席を見つけて隣に座ると、ミナトがふたりの間の肘掛けにトレイをはめて座席に固定した。席はクッションが効いていてふわふわする。ミナトは一度座り、自分の身長が気になったのかうしろの席をちらりと見た。
「パンフレットまで買うってマジで好きなんすね。オレ、そういうの買ったことないっす」
「結構おもしろいよ。監督のインタビューが載ってたり、裏話も知れたりするし」
洸太はそう言ってパンフレットをめくった。片手でずずっとストローを吸うと、ジンジャーのすっきりさとレモンの爽やかさが口内に広がる。ミナトの手がポップコーンへ伸びた。さくっと軽い音が弾け、彼の大きな手が洸太の開いたパンフレットを指す。
「そういうのも覚えるんすか」
「覚えちゃうっていうのが正しいかも。自分では取捨選択できないから。特に思い出したくないことを思い出すこともある。忘れることも取捨選択できないって感じ」
洸太はそう言いながらレモンジンジャーをミナトのほうへ差し出した。そしてポップコーンの隣にあるジュースのカップを指さす。
「飲む? 僕もオレンジジュース一口ちょうだい」
コップを押しつけてオレンジジュースを飲むと、パンフレットの文字を読み出した。だが、急に隣が大人しくなったので洸太は顔をあげた。するとミナトがレモンジンジャーを飲み、はあと息をついたところだった。片方の手が目のところを押さえていて、耳がちょっと赤い。口がなにか言いたげだったので、洸太ははっとした。
「あっ、ごめん! 弟とよくやるからつい回し飲みしちゃった!」
「……いや、大丈夫っす……」
「いやいや本当にごめん」
ミナトはそこで口元を隠し、「イエ」とカタコトで目をそらした。
「オレひとりっ子なんで……そういう習慣ないから、ちょっとびっくりしただけっす。不愉快とかじゃないんで」
ミナトははあと息をつき、「先輩ってホント破壊力半端ないっすね」と頭を掻いた。
「オレ、こういうの、カップルがやると思ってたっす……」
「あっ、そうか、佐藤さんとやりたかったよね。ごめんね、僕がミナト君のファースト回し飲みを奪っちゃった」
するとミナトが肘をついて手で目元を隠した。まだ耳が赤い。
「……なんすか、ファースト回し飲みって……」
「いや、なんて言えばいいか分かんないけど、ファーストキス的な。ミナト君は佐藤さんとしたかったんだもんね?」
「したかったとかじゃないんすけど……いや、うん、あの、もう大丈夫っす」
くちびるをきゅっとさせたミナトからレモンジンジャーが返ってきたので、「ならいいけど」とストローに口をつける。そのままパンフレットに没頭すると、隣でしゃくりしゃくりとポップコーンを噛みしめる音がした。
映画はおもしろかった。主人公が困難にぶち当たったときはうるうるしたし、ぶつかりつつもそれを乗り越えた仲間たちとの友情にはほろりとした。原作と違うところもあったが、ハッピーエンドで終わったので満足感に浸れる。
映画を終えてご飯を食べようとファーストフード店へ行くと、向かいでハンバーガーにかぶりついたミナトが「主人公、よかったすね」と言った。
「どこがよかった?」
「空見て『洗濯日和だ』って言ってるシーンがよかったっす」
予想外のミナトの言葉に思わずハンバーガーを持つ手を止めた。ミナトは思い出すように上を見ながら考えるように言う。
「天気の日に洗濯物のことを考えるの、まめに布団を干す家庭なのかなって思いました。布団干す人に悪い人はいねえっす」
「友情に感動しなかった?」
「浜辺で抱き合ってるところはよかったっすね。満潮か干潮か気になりました」
ストーリーとはまったく関係ないところを話すミナトに洸太は驚いた。ずいぶん変わった見方をしている。
「えっと、映画はおもしろかった?」
「そりゃおもしろかったっす。やっぱり主人公がかっこいいで終わるのがいいっすよね」
「大団円を迎えるって感じだったよね」
「だいだ……なんすか、それ」
「全てめでたしめでたし、みたいな」
「だいだんえん。覚えたっす。頭のランクがレベル1上がった気がします」
レタスのはみ出るハンバーガーを持つミナトがにっと笑った。その口元にマヨネーズがついていたので、身を乗り出して紙ナプキンで拭いた。自分も改めてハンバーガーにかぶりつく。
「ミナト君の見方、勉強になるなあ。たしかに洗濯日和だって言うだけでキャラクターの性格が分かるもんね。そういうところでキャラづけをするってことか。家に帰ったら半券見てもう一回思い出してみようかな」
昔は苦手だったハンバーガーのトマトが最近はおいしく感じる。こぼれ落ちそうになったベーコンをパンの間に戻したところで、向かいに座るミナトから返事がないことに気づいた。おやと思って顔をあげると、ハンバーガー両手に顔を赤くさせて俯いている。俯いても背が高いので見えてしまうのだ。
「どうかした? 暑い?」
「……いや、暑くは……夏だから暑いけど……そうじゃなくて……」
彼は大きなため息をついて「先輩って天然っすね」と言った。
「天然なのは僕じゃなくてミナト君でしょ?」
「よく言われますけど……先輩、女の子と映画とかご飯とか行かないほうがいいっすよ」
「なんで? まあ予定はないけど」
「なんでもっす。行くならオレとにしてください……」
「もしかして映画気に入ってくれた!? また誘ってもいい!? クラスメイト、映画好きって子、あんまりいなくて! 終わったあとにおもしろかったねって感想を言い合いたいんだよね!」
洸太の勢いにミナトはそこでようやく顔をあげ、最後の一口まで食べた。紙ナプキンでていねいに口を拭い、空咳をする。
「次行きたい映画あったら誘ってください。で、セカンド回し飲みしましょ」
その言い回しに思わず笑うと、ミナトもようやく自然な笑みを見せてくれた。
「もう夏休みが終わるね」
夕方、家へ向かう電車内でつり革に掴まりながらそう言った。ミナトが窓の外を見て「っすね」と同意する。
流れていく景色は夕方でも明るかったが、どことなく寂しい。それは私服で会うのが今日で最後だからなのかもしれない。特進の夏休みはとにかく勉強尽くしなのだが、今年はミナトがいたことで楽しい時間が持てた。それが終わってしまうのが惜しい気がする。
「新学期に入ったら一年生は一番楽しい時期だと思うよ。九月の連休に文化祭があるし、宿泊行事もあったよね」
「先輩はきっと進路とかあるんすよね。二年って大変そうっす。入学したばっかだと思ってたけど、高校ってすぐ終わりそうっす。ダチとわいわいバカやってんのが楽しいんすけどね」
つり革でなく、つり革のついた棒に掴まるミナトがそう相槌を打つ。そうやって話していると、なんとなく一年の差が大きく感じられた。
一年の男子集団とミナトが一緒にいたときのことを思い出す。ミナト自身に自覚があるかはともかく、みんなミナトを「おもしろい子」と認識しているふうだった。みんながミナトに惹かれるのが分かる気がする。ミナトには裏表がなさそうだし、素直でいい子だ。自分の知らないところでミナトが男子や女子に囲まれているところを想像するとなんだかもやもやする。ミナトがクラスメイトだったらきっと日々の楽しさも違っただろう。
でも九月からは部活が始まるから、ちょっとは楽しいこともできるしな。
洸太は意を決し、ちらりとミナトを見上げた。
「ミナト君、九月から図書当番の日はよろしくね」
するとミナトは思いついたように「そうだ」と人差し指をぴんと立てた。
「オレが図書当番が終わる時間と、先輩の部活が終わる時間って同じっしょ。図書当番の日、一緒に帰りません? つっても分かれ道までのちょっとの間なんすけど」
するとミナトはためらったように「ほら、佐藤さんの報告もしたいし?」と小さく付け加える。
「あ、そうだね。ちゃんと進捗を聞かなきゃ」
「じゃ、またあの公園でおしゃべりしましょ」
じゃあまた学校で。笑顔で先に電車から降りたミナトの背中を電車内から追いかける。外ハネの髪が暑かったのか、一度立ち止まってうなじをタオルハンカチで拭いた。
目を瞑って本を拭いてくれたハンカチを思い出す。思いがけない出会いから始まった彼との日々は楽しいことばかりだ。久しぶりに仲の良い友人ができた気がする。
ポケットのスマホが振動する。湊太だ。
『どこいんの?』
『もうすぐ駅。すぐ帰る』
『夕飯キーマカレー。家までダッシュ』
湊太のメッセージに「OK」と返信を打ち込み、駅の近づく外の景色を眺める。ブレーキがかかって揺れる車内に足を踏ん張った。
夏期講習最終日の翌日から新学期がスタートした。だが、ずっと机に向かっていただけの期間とは違い、体育があったり化学の実験があったりと、実技があるのは息抜きになる。
クラスメイトも同じように感じているようで、体育がある日はみんなどこかうきうきしていた。暑い日が続く九月はまだプールが人気だ。プールのあとの授業では、まどろみが洸太を襲ってくる。
その中で、洸太は初めての古典の時間をどきどきしながら移動した。前期と同じ席に座ると、懐かしい丸文字がある。
『夏休みなにしてた? こっちはバイトと宿題』
勉強の質問ではなかった。にやけそうになる口をごしごしとこすってごまかし、「勉強三昧だけど映画を見に行った」と書き残す。すると次の落書きは「①三昧ってなんて読むの? ②映画っていいよね」に変わっていた。
ミナト君、僕って全然気づいてないな。
ふふっと笑い、返事を書き込む。
ふたりだけのやり取りは夏休みのふたりだけの時間を思い起こさせる。強い日差しの中入ったファミレスのクーラー。タッチパネルを操作するたびピッと鳴る音。ドリンクバーでグラスに入れるときにカラカラとぶつかる氷。そして向かい合って広げる教科書や問題集にペンケース。
その穏やかな時間がそっくりそのまま机の上に閉じ込められている感じがして、ミナトが問題が分からないと眉間にしわを寄せていた顔まで思い出してしまう。
その日の部活は久しぶりに最初から最後まで通しで行った。ジャージに工具の入った腰袋を下げ、上手の舞台袖の梯子をのぼって小さな調光室から舞台を見下ろし眺める。舞台中央ではジャージのままの湊太が台本片手に声を張っていた。
劇は高校三年生の教室が舞台だ。主人公はクラス委員長。高三の秋を迎え、最後の行事について話し合う。クラス毎にやる内容を決めるのだが、主人公のクラスは一体感がなく、「自宅学習でいいじゃん」とみんなが口々に言う。熱い性格の主人公はそれに納得がいかず、みんなが楽しめる行事をやろうと促す。だが、それは主人公の自己満足ではないかと指摘する生徒が現れる。
正しさとはなにか、主人公が葛藤する姿に見る青春と成長の物語だ。
「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」
湊太の演技を見ていると胸がどきどきしてくる。演技を肌で感じられる劇は映画とは違う。頬の産毛がちりちりしてくるような、腹がざわざわとしてくるような、臨場感が洸太の胸を焼く。舞台に感じる魅力は幼い頃からずっと感じてきた。数メートルかける数メートルの舞台。現実世界から独立した世界が構築される舞台の上は輝きに満ちている。
翌々日、古典の教室に行くと、丸文字が「文化祭ってなにが楽しい?」と尋ねてきた。洸太は「演劇部を見に行くといいよ」と返事をした。
ミナトと何回か一緒に帰ったあとの九月の連休、文化祭の日になると、朝から教室は騒がしかった。勉強から一日解放される行事は特進のクラスを盛り上げる。ライムグリーンのクラスTシャツをまとうと、みんなのテンションがあがってくるのが分かった。
「コータ、部活の子と回るんだっけ」
「うん。あとで向こうのクラス前で待ち合わせ」
「演劇部は何時からだっけ。また弟が主役やるんだろ」
「二時から。よかったら見に来てね」
ミナト君、来てくれるかな。
そう思いながらクラスメイトと別れ、教室を出た。ポップな飾りつけや呼び込みの声が文化祭の盛り上がりを感じさせたが、洸太はひとり図書室へ行った。部活仲間との約束なんてしていない。図書委員おすすめの本紹介を眺め、ミナトがおすすめしている本を本棚に取りに行って席に座る。文化祭の中でも図書室だけは静かだ。
「寿君、今日はどうしたの」
ほとんど生徒のいない中で司書教諭が話しかけてきたので、「部活までここで過ごします」と答えた。クラスメイトといると劇が気になることを話せない。部活仲間だと今日の解放感を説明できない。ひとりでゆっくりと落ち着きたかった。
だが、次第に本を見ていても目が滑って、演劇が始まる緊張に何度もスマホの時間を確認してしまう。
次の地区大会でよりよいものを披露するために、今日は前回の大会とは少し演出を変えたものを披露する。昨日のゲネプロでは音響とうまく噛み合わず、部員から飛んできた内線の指示にあたふたした。今日こそは成功させたい。
一時に全部員が第一体育館に集まった。ニスでぴかぴかの床にずらりと並んだパイプ椅子を見ると気持ちがしゃんとして気が引き締まる。
台本の書き込みを見ながら細かい部分を打ち合わせし、一時半には調光室に入った。反対側の下手の舞台袖には音響室があって、お互い僅かな明かりの下で調光卓やミキサーを操る。だが、その小部屋が舞台を輝かせ、役者の演技をより華やかにするのだ。
「二時より、第一体育館にて演劇部による劇を行います。みなさま、第一体育館にお集まりください」
校内に流れる放送が聞こえてきて、みんなが笑顔で親指を立てて合図を送り合う。高揚した気分のまま小部屋から客席側を眺めていると、人が集まり始めた。体育館の入り口で部員が入ってくる人たちにプログラムを手渡し、席へ誘導する。演劇部がそれなりに有名なのもあり、文化祭では近所の人が演劇だけを見に来ることもあるし、演劇部の中学生が来ることもある。
「照明、準備できてる?」
内線の言葉に「心の準備もね」と返すと向こうが笑った。洸太は後輩と黒い調光卓の前で椅子に腰かけた。目の前のボタンを押すだけで舞台にライトが落ちる。朝なのか夕方なのか、楽しい時間なのか悲しい瞬間なのか、世界の色を支配するのだ。
ざわざわと人が集まってくる音がする。どきどきする心臓に胸を当て、大きく息を吸う。
「コータ」
小部屋の下から声がして、そちらを覗き込んだ。ブレザーにネクタイの制服を着た湊太がグーの左手を突き出してきたので、グーではなくパーを出した。湊太がおかしそうに笑う。だがすぐに湊太は真剣な表情で舞台を見つめて、洸太はきりっと顔をあげて調光卓を見た。スイッチを押し、灯るランプを目に焼きつける。
「これより、演劇部による演劇を開始します」
影アナの声に体育館が拍手に湧く。小窓から客席を見れば椅子は満席で、壁に沿って立ち見客もいる。開演のベルにぶわっと頬の産毛が立つのを感じる。この瞬間だ。緞帳で仕切られた新しい世界の幕が上がる。
洸太は台に指を滑らせた。
結果、劇は大成功に終わった。大きな拍手の中のカーテンコールもみんなが笑顔になれたし、ちらりと見ただけだが書いてもらったアンケートもおおむねいい評価が書かれている。
「来月の地区大会を通過したら県大会。今年も絶対行くよ!」
円陣を組み、部長の女子の声にみんなで「おー!」と気合いを入れてハイタッチを鳴らした。音響の子に「お疲れ」と手を出すと、向こうも嬉しそうに「コータもお疲れ」とタッチを返してくれる。弾ける音にようやく緊張が解けた。
舞台の片づけや反省会は明日になり、まずはクラスへ戻って帰りの会に参加する。それを終えて鞄を持って廊下へ出ると、普通科の教室の前に女子の人だかりができていた。中心にいるのは湊太だ。昨年と同じ光景にくすっと笑う。一年間の中で湊太のモテ期は学内公演後だ。
「ソータ、お先に」
洸太がそう言って横を通り過ぎると、「コータ! ヘルプ!」と声が飛んでくる。文化祭となるとみんなテンションが高いわけで、そんな女子たちの相手をできるわけがない。洸太は手をひらひらと振って無視し、ぺたぺたとリノリウムの廊下を進んだ。
秋の日はつるべ落としで、九月も下旬に入ると途端に日が短くなる。夜の迫るオレンジ色の空を見て、洸太は昇降口に向かった。
昇降口には「ようこそ石見祭へ!」という飾りつけが残っていて、まだ文化祭の余韻が漂っている。洸太も劇が成功して大満足だ。他の生徒たちもわいわいとしていて、立ち話をしている姿も多い。
内心鼻歌を歌いながら校門へと坂道を下っていると、遠くから駆ける足音が近づいてきて、「先輩!」とうしろから肩を掴まれた。
力強さに驚いて振り仰ぐと、そこにいるのは鞄を肩にかけたミナトだった。はあはあと息を切らし、自分を見つけて走ってきたようだった。今日は前髪だけあげて二本のピンでバツ印に留めている。
「あの、今日、演劇部を見たっす!」
興奮気味に話すミナトの口元が笑う。あ、見に来てくれてたんだ。洸太の胸が熱くなったが、ミナトは「すごかったっす」と笑顔を咲かせた。
「主役、めちゃくちゃかっこよくて! 先輩、あんなすごいなら先に教えてくださいよ」
――あ、そっか。
ミナトの言葉に熱くなっていた胸がさっと冷えた。
洸太はそこで初めてミナトと一緒にいると居心地がよかった理由を理解した。ミナトが湊太の存在を知らなかったからだ。洸太は湊太のことを弟としか表現していないし、一学年違うミナトが科の違うこちらの関係に気づくこともない。洸太は自分が演劇部だということもミナトに言っていなかったから、ミナトはあの机の文字に従って演劇部を見に行き、主役をやっている湊太を見てこちらと間違えたのだろう。
ふたりでいるといつも華やかなのは湊太で、いつも目立つのが湊太。だからいつもすごいと言われるのも湊太だ。小さい頃からそれが当たり前だった。先ほど廊下で湊太に群がる女子がいたのと同じように、仲良くなったこのミナトだって、湊太の存在を知ったらそちらに目が行く。
これは、いつものことだ。湊太がすごいのはいつものこと。
すうっと息を吸って、ミナトに向き直った。にっこりと笑ってみせる。
「本当? ありがとう。ソータにそう言っておくよ」
案の定、ミナトが戸惑った顔になる。
「ソータに言っておく……? え、先輩の名前って寿湊太っすよね」
「ううん、僕は寿洸太。漢字が似てるから間違いやすいけど。いつも見てる図書室のカードにも書いてあるでしょ」
洸太は財布からカードを取り出し、差し出した。受け取った彼が、洸太の名前の書かれたカードを凝視する。
「ことぶき、こうた……」
彼が思わずと言ったように言う。
「オレ、演劇部を見に行って、先輩が主役をやってるって思ったんすよ。プログラムの主役のところに寿湊太って書いてあって、寿なんて珍しい名字は先輩だけだろうって思ったから。顔も似てたのに……」
ミナトがカードを掴む指にぎゅっと力を入れて呟く。
「髪型が違うの、ワックスでもつけてんのかと思った。先輩じゃなかったんだ」
「ソータは弟。弟って言っても双子だから二年生ね。でも、似てるなんて最近は言われないけどな。あっちは眼鏡をかけてないのによく気づいたね」
ミナトが洸太とカードに目を行ったり来たりさせる。そこへ足早に校門に向かうリュックを背負った男子が「あ」と足を止めた。噂をすれば湊太だ。
「コータ、早く帰ろうぜ。今逃げてきたんだよ。なんで助けてくんねえんだよ」
「ソータ。この子、一年生。今日の演劇を見てくれたって。主役かっこよかったって」
すると湊太が嬉しそうに「マジ?」とミナトを見上げた。
「ていうか一年? でっか。何センチあんの?」
「……あ、一八三です。あの、演劇すごかったっす。演劇って初めて見たんすけど、本当にびっくりしました」
すると湊太がにかっと歯を見せて「サンキュー」と笑った。
「そんなに身長あるなら舞台で映えそうだな。うちの部に入ってよ」
「いやいや、演技なんてなんも分かんないっす!」
ミナトが慌てたように手を振って、湊太はそれにも笑った。そしてこちらに「早く帰って来いよ」と言い、たたっと坂道を走って下りていく。
「ね、あれが弟のソータで、演劇部の主役。似てないでしょ」
彼がぽかんとしたように湊太の背を目で追った。
「たしかに、あの人だったかも……。主役が出てきた瞬間、遠目だったけどイケメンだなって思って。よく見たら顔が先輩だったからめちゃくちゃ驚いて、プログラムを見て寿って名字を確認して、なんで教えてくれなかったんだろうって思ったんす。弟先輩と先輩、すげえ似てるっすよ」
そこでミナトは怪訝そうにこちらを見た。
「でも、先輩も演劇部っすよね。図書室で演劇関係の本を借りてるなって思ってたんすけど。だから演劇部だろうって思ってたし、主役を先輩だと思い込んだんだし」
「よく覚えてるね。たしかに僕は演劇部だけど、役者をやるわけじゃなくて照明係なんだ」
「照明?」
「劇の最中、ライトの色が変わったりスポットライトがひとりに当たったりしたの覚えてる? 役を演じるのは役者で華やかだし注目されるけど、その役者にライトを当てるのは照明係。見てる人が今誰を見るべきなのか、誰が輝いている瞬間なのか、全体がどんな雰囲気なのかを演出できるんだ。やりがいあるよ。たまにライトが熱くて火傷するけど」
「……なるほど」
ようやく彼は納得した声を出した。そしてこちらをじっと見下ろす。
「あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね」
まっすぐな目とミナトのセリフに思わず言葉に詰まる。照明係と言えば地味。演劇を知らない人からすればどこにいるかすら分からない裏方だ。照明係をそんなふうに評価されたのは初めてだった。
彼は再び洸太のカードに目を落とした。
「先輩、名前に光って入ってるし、照明係も似合うっす。名は体を表す、ってことっすか。人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。先輩、めちゃくちゃかっこいいっす」
「……あ、なんか気を遣わせてごめん」
湊太をかっこいいと思ったのに、なんだかこちらを褒めないといけない空気にしてしまった気がした。ミナトがまた湊太が去った方向を見る。
「演劇部ってみんなあんな演技できるんすか。弟先輩、すごく上手かったっす。オーラがあるとか、そういう感じでした」
「ソータは子役出身だからね。僕は役者をやったことがないから、あんなふうにはできないと思うけど」
するとなにを思ったか、彼が突然こちらに大きな手を伸ばしてきた。
「弟先輩があんだけかっこいいなら先輩もかっこいいっしょ。演技する役、やんないんすか」
大きな手が洸太の前髪をうしろへ掻き上げた。そして両手で眼鏡を外す。視界から眼鏡の黒縁が消えて、頭を撫でた手の温かさに体が固まった。ミナトが「やっぱり」と笑顔を咲かせる。
「ほら、先輩もやっぱイケメンっす。眼鏡にかかる前髪、長過ぎっすよ。おでこ出したほうがいいんじゃないっすか」
本音を言ってるとばかりの言葉に、顔がかーっと熱くなった。自分が真っ赤になるのが分かる。湊太が万人受けする爽やかな顔をしているのは分かっているが、自分はイケメンだなんて言われたことがない。湊太と比べて地味。そう振る舞ってきたし、それが正しい評価だと思っていた。
――いや、それを正しい評価にしたかった。湊太と比べられることがあのオーディション以来怖かったからだ。
「そう言うミナト君も、目おっきくてイケメンなんじゃない!?」
恥ずかしさに眼鏡をひったくって彼の顔に押しつけた。曲がって眼鏡をかけたミナトが驚いたようにこちらを見下ろす。だが、黒縁の眼鏡が案外似合っていたので、思わず笑顔になってしまった。
「ミナト君、眼鏡が似合うかも。オフの日って雰囲気だね」
するとなにを思ったのか、彼のほうが顔を赤くさせた。そして額を押さえる。
「いや、これ、先輩の眼鏡だし……先輩の眼鏡、かけちゃってるし……なんか微妙に温けえし……」
「ミナト君って裸眼? 僕は裸眼で大丈夫なんだよね。この眼鏡、伊達眼鏡だし。ほら、度が入ってないでしょ?」
「オレはコンタクトっす……家では眼鏡っす……てか、伊達眼鏡ってなんすか……」
「えっ、ホント? 眼鏡の写真見せてよ。絶対似合う。伊達眼鏡は、なんとなく。役者が衣装を着るのと同じだよ」
「なんとなくってなんすか……ってか、ホント、先輩、破壊力半端ないっす」
「前も言われたけど、それどういう意味?」
すると彼は黙りこくってしまい、はあと息をついた。そして眼鏡を外し、ていねいに折りたたむ。そして「はい」とこちらに差し出した。急いで眼鏡をかけ、手櫛で前髪を戻す。だが、ミナトは腕を組んでこちらをじろじろ見た。
「先輩、髪切りませんか。少なくともデコは出したほうがいいっす」
「髪型は特にこだわりないけど、顔出すのはちょっと恥ずかしい」
「顔面偏差値が高いのに隠すって意味分かんないっす」
「偏差値が高いか分かんないけど、気が向いたらね」
ミナトは「じゃあ楽しみにしてるっす」と笑った。そして鞄を肩にかけ直し、こちらの背中の真ん中をぽんと叩いた。こちらを押すように歩き出す。
「一緒に帰りましょ。弟先輩もすごかったっすけど、演劇部全体がすごくて楽しかったんす。映画を生で見たって感じで、見に行ってよかったって。先輩にそれは言わなきゃと思ってたんすよね」
ミナトは心の底からそう思っているようで、洸太の口元がほころんだ。演劇を知らない子にもあの世界を見てもらえた。それが分かると普段の練習や苦労が報われる気がする。
「それならよかった。来月地区大会があるから頑張らなきゃいけないんだ」
「大会なんてあるんすか。オレは詳しいことは分かんないっすけど、今日の話はおもしろかったっす。ザ・青春っすね。黒板に貼ってあるプリントが曲がってる感じがめちゃくちゃリアルで、オレのクラスがモデルかもと思って思わず席の数数えたっす」
相変わらずの独特な見方に思わず笑ってしまう。だが、そのプリントを作り、斜めに貼るというのを考えたのは演劇部だ。ミナトの目線は細部に注意を払ったこちらの意図まで指の先ですくうように汲み取っていく。照明係というものにさっきのような感想を持てるのも、ミナトの細やかな感性ゆえだろう。ミナトのおしゃべりが続く。
「オレ、中学のとき陸上部だったんすよ。全然筋肉つかなくて弱かったっす。先輩、半袖のときに見たら腕とかめっちゃ筋肉ついててびっくりしました」
「裏方って肉体労働なんだよ。筋トレするから腹筋が割れるし」
「マジか。オレ、体質なのか筋肉つかなくてぺらぺらなんすよね。背高いのはオレっすけど、男らしいのは先輩っす。羨ましいっす」
それ以降、ミナトは湊太のことを一度も口にしなかった。ミナトが図書室の本で紹介していた本に触れると、「先輩に読まれるのは緊張するっす」と笑う。ミナトに主役のことを言われたときに冷えた心の底がだんだんと温まっていって、「じゃあまた」と笑顔で駅のほうへ消えていくミナトの背中を見つめた。地平線に近づいた太陽がミナトの金髪を明るく照らしていて、毛先が翻るときらきらと光る。
そのきらきらしたミナトの笑顔が脳に貼りついている。まるで劇が終わった直後のように胸が熱い。
――あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
思わず口元を手で押さえていた。初めてだった。湊太のことを知った上で自分のことをまっすぐに見てくれた人は。小学校入学前から自分は双子の片割れで、「ダメ」な子だった。
舞台で役者の立ち位置に印をつけることをバミると言う。洸太のバミリはいつも湊太の影にあって、表立って評価されることはなかった。演劇が好きだ。だから「ダメ」な自分は関われるだけで充分すごい。
それでいいと思っていた。それしかないと思っていた。それなのに、ミナトは洸太を見つけ出した。
忘れたくても忘れられない幼い日の映像と「あの子はダメだね」の言葉。自分の特性ではきっと一生忘れられないと思っていたあの夏の光景を、植えつけられてからずっと払拭しきれなかった劣等感を、ミナトは太陽の笑顔で白い光の中に薄めていく。
――夏休みなにしてた? こっちはバイトと宿題。
バイトのあとに声をかけてくれて、一緒に宿題をやった。机の文通もミナトは気づいていないがふたりでやっている。ミナトは湊太のいない空間で自分をさらけ出せた初めての相手だったのかもしれない。
急いでスマホのスケジュールアプリを見る。ミナトの図書当番の日をメモしてある。あさってが一緒に帰れる日だ。ミナトと話したい。ミナトといると自然体の自分でいられる。ミナトといるとなにも気にせず笑って過ごせる。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
どこからか金木犀の香りがする。秋が来た。梅雨の季節にミナトと話して一つの季節が過ぎた。
家に向かって歩き出すと、次第に早足になって気づくと走り出していた。夕日が目に染みる。目が熱くてしかたなかった。
ミナトがキャメル色のカーディガン、洸太がネイビーのカーディガンを着る時期になると、学校帰りに遊びに行くようになった。近くの公園でしゃべるのはもちろんのこと、本屋に行ったり電車に乗ってクレープを食べに行ったりもした。湊太に「先に帰ってて」「先にご飯食べてて」と伝えることが多くなる。
机の丸文字も勉強のことは少なくなって、学校帰りに遊べる場所でおすすめはあるかだとか二泊三日のオリエンテーションが楽しそうだとか、ただのおしゃべりが混じるようになった。どうやらこちらが一年生ではないことに気づいたらしく、将来を考えるのは大変かといったことまで聞いてくる。
家に帰ってからリビングのソファでクレープを持って撮った画像を眺めていると、「なに見てんの」とソファのうしろから湊太が覗き込んできた。
「クレープを食べに行った。初めて食べたけど、おかずクレープもおいしかったよ。ツナマヨにレタス、すごくよかった」
スマホをそちらに見せると、湊太は「あの金髪プリン君か」と画像を見て頷いた。
「金髪プリン君がチョコバナナって、なんか笑えるぜ。髪の色と一緒」
「甘いのが好きなんだってさ。あと、金髪プリン君の名前は毒島港君ね。下の名前で呼んでほしいらしいよ」
「寄り道するとか、仲良いな。なにつながり?」
「ミナト君は図書委員なんだよ。図書室に通ってたら話すようになった」
「ふうん」
湊太が意味ありげに相槌を打つので「なに?」とそちらを見る。すると湊太は肩をすくめた。
「彼女ができたのかと思ってた。部活のあともすぐどこか行くしよ」
「そう言うソータは文化祭後にできた彼女とは最近どうなの」
「もうフラれた。演技してるんじゃないかと思うと信じられねえってさ。演劇部なの知ってて告ってきたのに、俺はどうしたらよかったんだよ」
湊太の不満そうな口調に思わず笑う。演技ができるというのもなかなか大変だ。
「コータ、それより読み合わせに付き合って。稽古してないと不安」
「オッケー」
ズボンのポケットにスマホをしまうと、ソファから立ち上がる。地区大会まであと二週間ちょっとだ。今は土日も朝から部活をしている。演劇は全員で作るものだが、一番セリフが多く目立つ役の湊太のプレッシャーは他とは違うのだろう。
ところが、事件は二日後の放課後に起こった。ジャージの部員が集まる第一体育館に、湊太が制服でやって来たからだ。その左足首にテーピングがされていた。
「えっ怪我したの!?」
舞台監督の女子が大きな声をあげて、湊太は「本当にごめん!」と顔の前で手を合わせた。
「体育の時間に捻っちまった。もう病院に行ってきて、一週間くらいで治るって言われてる。だから大会には出られる」
自分で立って歩いてはいるが、明らかに左足を庇っている。調光室にした洸太も目が丸くなって、慌てて舞台へ下りて尋ねた。
「大丈夫? すごく痛い?」
すると湊太は眉尻を下げた。
「痛みは大したことねえけど、みんなに迷惑をかける」
部員たちも顔を見合わせた。顔が強張って緊張が走る。主役の怪我、しかも足。つまり、舞台に立って演技することができない。ひとりが呟いた。
「え、どうしよう。少なくとも練習中は代役を立てないと。ソータがいるところに誰も立たないで練習するなんて無理だよ。ものを渡す場面もあるし」
「台本持って、誰かが舞台上でソータのセリフを読まないと」
「誰でもいいけど……でも誰がやる?」
劇を作るとき、役者を決める際は部内でオーディションを行う。自分のやりたい役のセリフを読み込み、演技し、顧問を含めた話し合いで決定する。だが、湊太は子役出身。オーディションをしなくても主役は湊太だというのはほぼ決定事項で、実際オーディションの際に主役にチャレンジした者はいない。
つまり、本気で主役を演じセリフを言ったことがある者は湊太以外誰もいないのだ。
みんなが言葉を失って顔を見合わせると、湊太がその沈黙を破った。
「コータ、俺の代わりやれよ」
突然名指しされ、びくっとした。目を剥いて湊太を見たが、案の定周りも驚いたようにこちらと湊太を見比べてくる。
「でも、コータは役者をしたことがないし……」
「エチュードくらいだよね?」
「オーディションのときはそもそも裏方志望だったよね」
ざわつくみんなを見回し、湊太は肩をすくめた。
「俺の代わりに誰かが台本持って読むだけだろ? 誰でもいいならコータでいいじゃん。コータは俺のセリフも全部覚えてるし。だろ?」
湊太が答えを促してきて、思わず「え、うん」と答えてしまう。洸太は毎回台本は全て暗記している。すると湊太は「はい」と自分の台本を差し出してきた。押しつけるように渡されたそれをめくると、どこではけるか、どこに立つか、どんな動きをするかメモが入っている。
「コータ、今すぐ覚えろ。調光室から散々舞台の上は見てるだろ」
湊太にそう言われ、洪水のように映像が頭の中で溢れかえった。だが、上手の調光室から見える舞台は上から斜めに見えているし、舞台にも角度がついている。自分の目で舞台に立ってみなければどこでどう動くのか分からない。
「えっと、じゃあ、コータ、お願いしてもいい?」
舞台監督の女子がこちらに尋ねてきて、急いで「分かった」と台本の最初から目を通し始めた。舞台の上に立ち、実際にぐるぐると歩きながら位置を確認し、調光室を見て自分が立っている位置が正しいか考える。すると女子ふたりがやって来た。
「コータ、ここから入ってくれる? 台本の十二ページ目」
「その前の場面で私と喧嘩してるからね。でも、棒読みでいいから」
「え、あ、うん、分かった」
同じ場面に出るふたりは洸太そっちのけでなにか打ち合わせし始め、洸太は必死に台本をめくった。そのセリフを口にする湊太の演技を思い出す。するとライトの下で生き生きと役を演じる湊太の眩しさを思い出した。
――あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
ふと台本から顔をあげると、いつの間に出してきたのか、パイプ椅子に座ってこちらを見ている湊太がいた。ぱちりと目が合うと、にっと歯を見せて笑顔で頷く。
ずっと小さい頃から湊太の演技を見てきた。家で何度も何度も湊太の相手をしてきた。役作りについておしゃべりしてどんな演技がいいかも話した。家で湊太がなにかぶつぶつ言いながら台本にメモを書き込んでいるのも見たことがある。
改めて舞台上の周りを見る。いつも一緒に調光室にいる後輩も含め、みんなが自分の役をこなそうとしていて、誰もこちらを見ていない。大道具係が舞台上を学校の教室のようにセットし始めた。舞台の真上を見る。列をなしたライトが下を向き、ひっそりと洸太を見守っていた。
あれが僕がいつも操るライト。その熱さを背負って輝いているソータの代わり。きっと誰も僕がそれをできるなんて思っていない。
台本に目を落とす。頭はクリアだ。全てが鮮明に見通せる。調光室から見た舞台の上の湊太。家で練習したセリフのやり取り。そして今やるべき湊太のセリフと動作のメモ。勉強だと思って、湊太のセリフもこっそり練習していた。
――弟先輩があんだけかっこいいなら先輩もかっこいいっしょ。
洸太はゆっくりと歩いてバミリの上に立った。目の前に教室にあるような机のセットがある。
ソータよりダメだなんて思っているのは僕だけだ。自分がそんなふうに演技しているから誰も期待してくれない。ボーダーライト、サスペンションライト、フットライト、スポットライト。自分を輝かせてくれる光はそこにある。いつも自分がソータを輝かせている光が、今、僕に当たる。だったら今、ここで思い切りやろう。
「コータ、準備いい?」
ぽんと肩を叩かれてはっとする。頷くと、舞台監督の生徒が手で丸を作った。目を瞑って息を吸う。主役は熱血男子のクラス委員長。普段の自分とはまったく違う。その役に息を吹き込めるか、それは自分次第だ。
「始め!」の言葉が空気を切る。次の瞬間、洸太は湊太のメモの通り机にこぶしを叩きつけた。
「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」
隣の女子を睨むと、彼女は一瞬たじろいだ。だがすぐに言い返してくる。
「『あんな言い方したら誰だって反対するでしょ。言い方よ、言・い・か・た!』」
「『ふたりとも待ってよ。うちらが言い合ってたってしょうがないじゃん』」
「『しょうがないって、俺にとってはしょうがなくねーんだよ。あーあ、明日のホームルーム、どうすんだよ……』」
肩をすくめ、髪をぐしゃっと掻く。
「『そんなこと言ったって』」
そのセリフを言った女子の口調がゆっくりになったので、自分が早口になっていることに気づいた。すぐにその意味を理解して息を呑み込み、顔をあげた。「もう一回聞くけど」と人差し指を立てる。
「『俺らのクラスだけクラス行事はなんもせずに自宅学習でいいんだな? 他のクラスはウォークラリーやゴミ拾い競争とか思い出作りをすんのに』」
「『受験勉強をしたいっていう子もいるんだよ』」
「『そうそう。思い出よりも未来が大事って考えてるだけ』」
「『でも行事は高校の行事じゃねえか。クソッ、なんで分かってくんねーのかな』」
「『ひとりで突っ走ってもみんなはついてきてくれないよ』」
「『俺が黙ればいい意見が出るって言うのかよ?』」
五分弱のシーンを終えて「そこまで!」の声が入ると、途端に全身から力が抜ける気がした。思ったより照明が熱い。ジャージの下に変な汗を掻いていて、喉がからからだ。だが、すぐに舞台上が拍手に湧いて、「コータすごいじゃん!」と部員にわっと囲まれた。
「ソータと演技がすごく似てた! いや、口調が似てたって感じかな」
「台本マジで覚えてんの? すげえスムーズだった」
「こんなに上手いなら役者やればいいのに」
周りの歓声に顔が赤くなるのが分かった。前髪で眼鏡を隠し「いやいや」と手を振ってうしろへ下がる。
「ソータを真似すればいいんだなって思っただけ! ホント、それだけ!」
「でも、ソータができるまでコータが役をやってよ。ソータを再現できるなら周りもそれが一番いいし」
「十五ページのところ、はけるのがちょっと早かった。ソータに聞いて調整して」
「十二ページのセリフ、走りがちだからもう少しゆっくりしゃべってほしい」
代役が決定事項のように次々とアドバイスされ、普段黙々と作業をしがちな洸太の背から汗が噴き出す。
「あのー……」
そこへ一つの声が割って入ってきて、みんなが一斉に声のする舞台下を見た。洸太は驚いた。キャメル色のカーディガンの肩に鞄をかけたミナトが金髪プリンの頭を掻いている。
「部活中にすんません。体育の時間にジャージの上着をここに置き忘れちゃったんですけど、赤ジャージの上着、ありませんでしたか」
「あ、毒島君、あったよ。胸に名前の刺繍が入ってたから分かった」
一年女子が舞台袖からきちんとたたまれたジャージを持ってきた。舞台の上からミナトに「はい」と渡す。ミナトは顔見知りらしき彼女に「サンキュ」と言ったあと、舞台上の洸太とパイプ椅子に座る湊太に目線を行ったり来たりさせた。そして湊太のほうへ尋ねる。
「弟先輩があの役ですよね。椅子に座ってどうしちゃったんですか」
「体育の時間に足を捻挫しちゃったんだよ。だから代わりをコータに任せた」
「双子入れ替わりの術的なやつですか」
「うーん、そんな感じ? だって、コータ、俺のセリフを全部暗記してるから。コータなら俺の役をできるし」
湊太のセリフに彼はふうんと言ってこちらを見た。その目線にどきっとする。
「先輩、眼鏡外して髪型を変えたらいいんじゃないっすか。より弟先輩に近づくっしょ」
「ソータのセリフを言う人が必要ってだけだから、そこまで真似しなくても」
「あ、そうなんすか。弟先輩を真似するって言ったから、そういうことなのかと思ったっす。失礼なこと言ってすんません」
彼はぺこりと頭を下げると、「じゃ」と言って体育館を出ていこうとした。そこへ湊太が「あ! 君!」と呼び止める。
「演劇部に興味ない? 文化祭で感動したって言ってくれたじゃん。見学してかねえ?」
すると先ほどジャージを渡した子が「そうだ」と頷いた。
「毒島君、部活は入ってなかったよね。演劇部、男子は少ないの。背景のパネルとか、生徒で作ってるんだよ。毒島君なら体も大きいし、大道具を作るの得意そう」
するとミナトは今度は湊太とその子に視線を行ったり来たりさせた。
「オレ、すごい不器用。針に糸を通せないし、みかんの筋をきれいにとれない人だけど」
そう言ってから、ミナトの大きな目がびっとこちらを見た。
「でも、先輩の劇、おもしろそうっすね」
彼はそう言うとその場にすとんと座り、長い足の膝を抱えた。
「見学してくっす。バイトまで時間あるし」
驚く洸太の前で、湊太が「あそこに椅子あるぜ」と壁に立てかけてあるパイプ椅子を左手で指さした。ミナトがパイプ椅子を持ってきて湊太の隣に置き、腰かけて足の上にこぶしを置く。
「それで、今のシーンだけど」
ひとりがはっとしたように言い、みんながようやく意識を劇に戻した。役者の子と打ち合わせしながら、洸太の意識の一部がミナトへと向けられている。部活仲間に演技を見られるのも緊張するが、彼に見られるのだと思うと一層緊張してくる。
その後、最後まで湊太の代わりを演じ、照明係は後輩に任せた。スポットライトが当たると、その熱にいつも湊太はこんな熱気を浴びているのかと思う。きっと、照明をやっている自分の思いを受け取ってくれているだろう。
役者の立場になって、照明のすごさが実感できる。洸太にとって自分が自分を認められる初めての瞬間だった。
「あー、ミナト君に見られたー!」
夕食後、湊太の部屋に敷かれたカーペットの上に座って頭をぐしゃぐしゃに掻きむしると、ベッドに腰かけた湊太がははっとおかしそうに笑った。
「コータと仲良いんだろ。いいじゃん」
「いや……あの子、ちょっと変わってるっていうか、こっちが思ってもないことを言うから……明日会うのが怖い。変だったって言われたらどうしよう」
「変じゃなかったけど? やっぱコータもやればいいじゃん。本当はやりたいんじゃねえの。そうじゃなきゃ今日のあの演技はできねえと思うけど」
そう言われ、赤くなりそうな顔をごまかすために髪を手櫛ですく。
部活の終わり頃、洸太の演技は湊太のものとは違うものになっていた。今まで湊太と話しながら「自分だったらこうするのに」と思った部分を自分のやりたいようにやったのだ。どうせただの代役、やりたいことをやりたい。そんな思いに突き動かされて、普段なら引っ込んでいる自我が顔を覗かせた。
周りも途中から「ソータに似ている」とか「ソータだったらやらない」といった言葉を口にせず、ごく当たり前のように洸太の演技を呑み込んで一つの舞台を作っていた。あちらはただの代役だからだと思っていたかもしれない。それでも憧れの舞台の上で自分をさらけ出せたことに高揚した。その高揚感をごまかすように息をつく。
「僕はそもそもソータと違って役者として大事なものが欠けてるんだよ。今日はただの代役だからできたことだし」
「欠けてる大事なものって、俺、それがなにか分かるけど」
湊太の言葉に思わず顔をあげると、湊太は真顔で「本音を出すことじゃん?」と言った。思わず聞き返す。
「どういう意味? 大事なのはどう演技するかでしょ」
「そうか? 普段本音を出せないやつが見ている人に届く演技なんてできんの? その役の感情を表現したり、説得力のある役作りができたりすると思ってる?」
湊太が左足のテーピングを気にするようにちらりと目線をやりながら言う。
「コータって本当は役者をやりたいんだろ。でも、そういうの言わねえじゃん。双子で比べるなとかも全部黙って呑み込んでるし。俺はサッカーしたいときはやりたいって言ったけど。子役を辞めるなんてもったいないって散々言われたけど、中学でサッカーやってた三年間は楽しかったから無駄だとは思わねえし」
正論に押し黙ると、湊太は頭を掻いた。
「あのよ、コータの一番近くにいるのは俺だから分かってるんだよ。いくらコータが台本を丸暗記できるって言っても、今日の代役だって役者をやりたくなきゃできねえものだっただろ。多分だけど、みんな分かったと思うぜ。コータ、役者をやりたかったんだ、ってな。照明をバカにしてるとかじゃなくて、なにをやりてえかっていう取捨選択の話」
違うと否定もできず、そうだと肯定もできず、くちびるを噛みしめる。だが、そんなこちらを見て湊太はにやりとして自分の膝に頬杖をついた。
「金髪プリン君と相当仲良いことも分かってるけどな。だから引き止めたんだし。後輩の前でかっこいいところ見せられてよかったじゃん」
「……あれ、やっぱりわざと引き止めたんだ」
「我が兄の晴れの舞台を見てもらったほうがいいと思ってさ。あ、金髪プリン君は帰るときに俺に『先輩やっぱかっこいいですね』って言って帰ってったけどな」
「そういう余計なことしなくていいから」
洸太は咳払いし、「それで?」と台本を広げた。
「今日駄目だったのはどこ? 僕だって他に迷惑をかけたくないんだよ。ちゃんと教えて」
湊太のアドバイスを聞いて自分の台本に書き込む。自分の部屋に戻ってスマホを見ると、突然手の中で振動し始めた。「ミナト君」の文字と着信を知らせる震えにびくっとする。
「はい、あの、もしもし」
『あ、先輩お疲れっす! 今大丈夫っすか? 今日の感想を言いたくて!』
ミナトの声は明るかった。早口にしゃべり出す。
『今日はお邪魔しました! 先輩も俺とかクソとか言うんだって、すげえおもしろかったっす!』
ミナトの言葉に部活中のように汗が噴き出した。床にぺたんと座る。
「いや、あの、突然引き止めてごめんね。主役がソータじゃなかったから、見せられるようなものじゃなくて」
『いや、先輩の演技すごかったっす! 別人みたいでしたよ! 正義感で突っ走るやつって感じで、普段の先輩と全然違う。あんな大きな声を出してる先輩を初めて見ました! ホント、すごいっす。ああ、オレ、語彙力足りないな』
ミナトが興奮気味に続けた。
『声がすげえんすよ。体の中にまで響いてきて、先輩の感情に体が包まれるっていうか。感情移入できるっていうんすか? 先輩の役の気持ちも分かって、先輩がクラスで孤立してるのがすげえつらくて。あ、文化祭の弟先輩はすごかったっす。でも、先輩が弟先輩みたいにはできないって言ってたから、てっきり先輩は演技はしないのかと思ってて! 今日体育館に忘れものしたオレ、すっげえナイス! 先輩、すげえかっこよかったっすよ!』
ミナトの素直な言葉が胸に広がっていく。不覚にも鼻がつんとした。湊太に比べれば見劣りしているに違いないのに、即興に近い演技をきちんと見てくれたのだ。
「えっと、ありがとう。裏方もね、エチュードって言って即興劇をやって練習するんだよ。だから、演技はみんなそれなりにできるんだ。僕がすごいわけじゃないから」
『なんで謙遜すんすか? 他の人ができたとしても、先輩もできるって事実は変わんねえっすよ? 先輩は人を照らす光にもなるけど、自分も光ることができるんすね! 「洸太」って、先輩のためにある名前っすね! 先輩、すっげえきらきらしてました!』
何度もありがとうと言って通話を切った途端、涙が溢れてベッドに突っ伏してしまった。嗚咽を漏らすまいと枕に顔を押しつける。それでも涙が止まらない。人生で初めて当たったスポットライトの眩しさが胸に灯っている。ミナトの目には自分が輝いて見えたのだ。
演劇を続けてきてよかった。自分にこんな瞬間が訪れるなんて想像もしていなかった。そして、それを見てくれた人の中にミナトがいてよかった。
コータって本当は役者をやりたいんだろ。
湊太の言葉を思い出して、よしと切り替えて顔をあげた。涙を拭いて新しくメモを書き込んだ台本を広げる。今求められているのは湊太の足が治るまでの代役だ。洸太だって大会でいい結果を出したい。だったら役に立てることをやるしかない。
ところが、翌日から失敗のラッシュになった。調光室からの眺めと、実際に舞台に立ったときの距離感が違う。別の役者の子とぶつかったり、脳内の台本の画像がピンボケして一瞬セリフが飛んだり、それに焦ってセリフのトーンを間違えたりした。
周りは代役と割り切っているのかなにも言わなかったが、洸太は顔から火が出る思いがした。役者をやるのは楽しい。もっとうまくやりたい。だが、できていない。やはり湊太には適わない。
演技を止めて反省や話し合いになると、洸太は手持ち無沙汰になる。その話し合いに主役として参加するのは制服姿の湊太で、舞台に立っている洸太はただ黙ってそれを聞いているだけだ。舞台袖の調光室を見上げ、そこに逃げ込みたい気持ちと必死に戦う。
二日目、三日目、四日目。洸太の演技はどんどん縮こまっていき、役に入り込むことすら恥ずかしくなってきた。
部活を終えてジャージから制服に着替える。今日はミナトが図書当番の日なので、校門で待ち合わせて帰る予定だ。スマホを見れば『校門にいます』とメッセージが来ている。
明るい気持ちで家に帰りたい。なにか食べに行こうって誘ってみようかな。
ため息をついてトイレから出ようとすると、ドアの向こうで演劇部員が廊下を通り過ぎた。
「やっぱりソータ先輩が出ないと穴が大きいよね」
「コータ先輩だと呼吸が合わないんだよね……ちゃんと練習になってるのかな」
遠くに去っていく言葉に顔がカッとなった。こぶしをぎゅうっと握る。
ただの代役だ。湊太のセリフを読む人物がほしいだけ。だから今のままでいいはずだ。だが所詮代役で、みんなが本当に求めているものなど再現できない。
最終下校放送が流れ、深呼吸してトイレを出る。すのこをカタカタさせて革靴に履き替え、校門までの下り坂を下りる。秋は深まり、夜の空気が濃い。多くの制服姿がそそくさと帰っていく道で、ミナトだけが校門に寄りかかって待っていた。
「先輩、お疲れっす」
ハーフアップにピンで髪を押さえたミナトが小さく手をあげて笑う。その笑顔に洸太の口角も一瞬あがった。だが、なんと言えばいいか分からなくて、口を閉じてしまう。ミナトはそれに気づかず「帰りましょ」と言って歩き出す。外灯の明かりに大きな影のうしろを小さな影がついて行く。
「先輩、もう十月も終わるっす。あそこの公園にどんぐりがめっちゃ落ちてましたよね。公園行ってなにか飲みません? 昔公園中の落ち葉をゴミ袋に拾い集めて、一本の木の下に敷いてオレンジ色の絨毯を作ったっす。それだけだったのに楽しかったの、なんなんでしょうね。子どものときって謎なことが楽しかったりしますよね。先輩って小さい頃なにしてました? 弟先輩と一緒にごっこ遊びとかしてたんすか? 先輩の演技、すごかったっすもんね。それに」
「ミナト君!」
思わず言葉を遮っていた。驚いたようにミナトが足を止め、こちらを振り返る。だが、うまく表情を作れなくてミナトの顔を見ることができない。肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り締める。
「……想像できないかもしれないけど、小さい頃わんぱくだったのは僕で、ソータは家の中で遊ぶほうが好きだったんだよ。だけどソータは人見知りしないし新しいことをするのが好きだったから、きっといろんな役をやるのが楽しかったんだと思う。仕事で小学校もよく休んでたけど、学校に来ればみんなの中心にいて、にこにこしてるからみんなに好かれてた。休み時間は引っ張りだこになってたよ」
「……? 先輩、どうかしたんすか?」
ミナトが怪訝そうな声に変わった。
「弟先輩の情報は特に求めてないっす。なんとなく想像つくし。先輩がわんぱくだったっていうことのほうが気になるっす。オレみたいに落ち葉を集めて公園の清掃員のおじさんを困惑させました?」
一瞬面食らい、だが最後の言葉についふふっと笑ってしまった。肩の力が抜ける。こぶしの力が緩んで息をつく。
「おじさん、すごく困ってた?」
顔をあげてミナトを見ると、ミナトも小さく笑った。
「君が掃除してくれたのか、ありがとねってお礼を言われたっす。そのあと絨毯を作ったんで、ゴミ箱ひっくり返したくらいの嫌がらせをしたっすね」
「うーん、でもしかたないよね、絨毯を作りたかったんだから」
洸太が歩き出すと、ミナトも隣を歩き出した。足元で落ち葉を踏むとさくっという音がして、乾いた軽い旋律に次第に心が軽くなっていく。
「すげえふかふかにしたかったんすよね。公園の前の道の落ち葉も拾ったっす。なるべく赤とかオレンジとかを選んで。茶色のはハズレって思ってました」
「公園前の家の人は喜んだと思うよ。掃除しなくて済むし」
「先輩、それは一軒家に住んでる人のセリフ! オレん家、マンションなんで、全部管理人さんがやってくれるんす。でも、そのときはなんで片づけちゃうんだよってむかついてました」
ゴミ袋に落ち葉を集める少年の姿を想像して笑う。そうこうしているうちに公園に着いて、自販機でペットボトルを買った。洸太はレモンスカッシュ、ミナトはカフェオレだ。定位置となっている東屋に人はいなかった。目配せしてそこへ入り、並んで腰かけて鞄を横に置く。
チリッと音を立ててペットボトルの口を捻ると、ミナトがちらりとこちらを見下ろしてきた。
「……で? 今日はどうしちゃったんすか? 部活がどうかしたんすか?」
「ごめん、ちょっと嫌なことがあって。態度に出ちゃったよね」
レモンスカッシュがぱちぱちと喉を弾けて落ちていくと、ため息をついた。
「僕、情けないなあ。年下に気を遣わせてる」
「一歳違いってそんな年下? 先輩、何月生まれっすか」
「僕は四月。四月七日」
「やべ、ほぼ二歳差だ。オレ、三月十四日っす」
「早生まれでそんな大人っぽいの? 僕なんていまだに中学生に間違われるのに」
「中二のとき、大学生にアンケートをとってますってのに声かけられて、答えてやろうとしたら質問の意味が分かんなくて中学生バレしましたね。嘘はよくないっす」
真面目に言うミナトの言葉にまた笑ってしまった。体から力が抜けて、足をぐっと伸ばして再びレモンスカッシュを飲む。ぱちぱちする感触にもやもやしたものが弾け飛び、レモンのすっきり感が気持ちをなだらかにしていく。ミナトの隣にいるといろんなことが軽くなる。
だが、目蓋の裏には男子トイレのドアノブを掴む自分の手の映像と、聞こえてしまった後輩のセリフがセットになって焼きついてしまっている。ため息をつき、レモンスカッシュのラベルを見た。
「ミナト君がこないだ見たようにまだソータの代わりやってるんだけどさ、早く終わらないかなって思っちゃう。ソータの怪我が治ってほしいって意味もあるけど」
「……なんでっすか? 演技するの、嫌いっすか?」
ミナトが不思議そうに言う。
「オレがこないだ見たときはすごかったっすよ。楽しくなきゃできなくないっすか。オレだったら棒読みだし、噛みますよ」
「でも、楽しいだけじゃダメなんだよね。ソータじゃなきゃ練習にならないって言われちゃったよ。当たり前だよね。演劇は団体でやるものだし、自分ひとり楽しくてもみんなに迷惑をかけてたら邪魔でしかないし」
話していたらだんだんと脳裏の映像が鮮明になってきて、胸がぎゅっと痛くなった。思わず太もものズボンを掴んでうなだれる。
「僕はソータになんてなれない。ソータみたいに堂々と演技できないし、自信を持って振る舞えない。あいつが嫌なやつなら嫌いになれたけど、僕が言うのもなんだけど普通にいいやつだし。代役だって、嫌味でやれって言ってきたわけじゃないんだよ。僕が役者をやりたいって気づいてたからチャンスをくれただけ。期間限定のチャンスをものにできないって、やっぱり僕には致命的な欠陥があるんだよ。……演劇部で主役を張れるかっこいいソータにはなれない」
「先輩もかっこいいっすけど」
間髪入れずに返ってきた言葉に思わず顔をあげると、ミナトはじっとこちらを見下ろしていた。
「先輩が弟先輩とは違うのは当たり前っすよね。だって、別人だし。顔は似てるけど、兄弟だから似てることは別におかしくないっすよね。それとも文化祭でオレが先輩と弟先輩を間違えたの、すげえ不愉快だったすか? だったら謝ります」
ミナトの口調は真剣だった。まだ開けていないカフェオレのペットボトルが行き場を失っている。
「オレには演劇は分かんないっすけど、あの役、セリフも出番も多くてすげえ大変なんでしょ? オレが見学した日の夜、弟先輩が言ってました。本当はただ台本を読むだけでよくて、あんなふうに演技する必要ないんだって。でもコータはやろうとしちゃうんだよねって。あと、こうも言ってました。多分これでまた悩ませちゃうんだろうなって。俺コータに失礼なことしちゃったなって。なんか悩んでるふうだったっす。その会話でその日の夜はつぶれました」
ミナトの言葉に「えっ」と思わず声が出た。
「もしかしてソータと連絡先を交換した? それ、メッセージでやり取りしたってこと?」
「弟先輩に連絡先を教えてよって言われたっす。弟先輩、フレンドリーっすよね。……って言うと、先輩は自分はフレンドリーだろうかとかって考え出すんですよね。不思議っす。なんでいつも弟先輩が基準? 先輩は先輩らしくいちゃ駄目ってこと?」
ミナトの口調が次第に強くなってきたので、ごくりと唾を飲み込んだ。ミナトが眉根を寄せる。
「あのさ、先輩って普段から演技してるよね。本当のことを言わないっていうかさ。もしかして弟先輩と別人にならなきゃって思ってんの? 同じところがあるとダメだって考えてる? それで髪型変えて眼鏡かけて僕って一人称まで変えてんの? でも、オレは別人だって知ってるけど。映画の半券を嬉しそうに見せて、読書量がすごくて、照明係のよさを語ってた。あれは演技じゃないっしょ。演技でできることじゃないし。好きなことを好きって言えるとこ、すげえかっこいいと思ったけど」
ミナトの口調から「っす」が消えた。
「多分、逆じゃない? 髪切って眼鏡外して俺って言ってみれば? 双子で顔が似てても全然違うって周りも分かるじゃん。同じところがあっても、違う人間だって伝わる。弟先輩は劇の主役だし、たしかにすげえと思ったよ。でもさ、自分の人生の主役は自分のはずじゃん。先輩はなんで脇役みたいにしてんの? 常に主役は弟先輩で、先輩は脇役なの? 違うんじゃねえ?」
少し冷たくなった秋の風が頬を撫でていく。足元でかさっと音がしたと思ったら、運ばれてきた落ち葉がコンクリートの東屋に入ってきていた。ミナトのまばたきの少ない目がじっとこちらを見ている。その視線に射抜かれて、思わず本音がぽろっと漏れた。
「……俺、は無理かもしれない……もう僕で馴染んじゃった……」
「じゃあ僕でいいけどさ。次の新しい劇の役を決めるのはいつなの。そこで役をもらえばいいじゃん。弟先輩の代役だから悩むんでしょ。別の役だったらいいんじゃねえの? そういうの、手をあげて立候補して決まんの?」
「……大会をどこまで進めるかで時期は変わっちゃう。あと、役はオーディションで決まるから、ちゃんと演技ができないと駄目なんだけど」
「じゃ、そのオーディションで役をもらえるように頑張ればいいんじゃん? この間オレが劇を見たときも、部活の人たちは先輩をうまいって褒めてたし。役をもらえるくらいできるってことじゃねえの」
ミナトが頭を掻いてため息をつく。
「あのさ、オレの前で演技しなくていいよ。正直弟先輩のことはほとんど知らないから、先輩がなに言ったってオレは比べようがないし。オレはひとりっ子で兄弟と比べられる感覚が分かんないから、先輩の悩みは分かんない。でもさ、誰かひとりくらいに本音を言ってもよくねえ?」
オレの前で演技しなくてもいいよ。
まるで突風のようにその言葉が洸太の心臓を貫き、吹き抜けていった。自分でも目が見開いていくのが分かる。ミナトの金髪が差し込む夕日に輝いていて、きらきらしていた。そのきらきらが広がってその視界が滲み、突然ほろりと崩れた。しかめっ面をしていたミナトの目が丸くなるのが分かる。
「あ、ごめん」
自分が泣いていることに気づき、思わず顔の前に腕を出して顔を隠す。
「ちょっとごめん。びっくりしただけ。うわ、僕、すごくダサい」
言いわけが口から出ると、それにつられたように涙が止まらなくなって、羞恥心に体が熱くなる。
「ミナト君ちょっと待って。恥ずかしい。あの、ごめん」
「すみません!」
ミナトが大きな声を張り上げた。先ほどとは一転、慌てたような口調で「えっと、あの」とあたふたする。
「ひどいこと言ってすんません! てめえには分かんねえよって話っすよね。分かったふうな口きいて悪かったっす!」
「そうじゃない。ミナト君は悪くないよ」
「いや、でも」
そこでミナトがなにかに気づいたように「これ!」と差し出してきた。視界を遮った腕の下から見ると、いつか本を拾ってくれたときに見た白と青のボーダーのタオルハンカチだった。
「あの、本当にすみません。先輩を責めたかったわけじゃないっす……」
落とした本を拭いてくれたハンカチ。あのときも自分は悪くないのに謝ってくれた。ミナトは優しい子だ。今自分が本音を落としたら、それもていねいに拾ってくれるのだろうか。
ハンカチを受け取り、眼鏡をとって目元を押さえ、また眼鏡をかけ直す。はあと息をつき、横に座る彼を見上げた。その顔はまるで痛みを感じているように歪んでいたが、「本音を言ってもいい?」と聞くといつも通りの表情に戻った。
「役者をやるの、本当は楽しい」
言葉を短く区切って息を吸う。
「ソータの代役もあと数日だけど、全力を出してみたいんだ」
「やればいいと思うっす。誰だって好きなことしたいっしょ」
「今特進科にいるけど、有名大学に入りたいとか目標があるわけじゃないんだ。高校に合格したときにソータと別でほっとしただけ」
「学校では兄弟と離れたいって普通じゃないっすか。中学のクラスメイトが廊下で姉ちゃんとすれ違うと気まずいって言ってたっす」
「ソータは高校に入ってからも外部のオーディションを受けてるし、俳優とかそっちのほうに進もうとしてる。ソータが親とそういう話をしてるのを横目で見ながら、僕は教科書を読んで暗記する。すっごく虚しいよ」
「虚しいってことは先輩もそういう方向に興味があるんじゃないっすか」
ミナトが金髪プリンの頭を掻いた。
「先輩は隠しごとが多いっすね。今みたいなこと、親にも弟先輩にも言ってないんしょ? もうここで全部言っちゃえば? オレ、それを聞いたところで弟先輩にも言わないですし」
全部言っちゃえば。そのセリフにまた涙が出てきそうになった。
誰も聞いてくれなかった。いや、自分が言おうとしなかった。大学受験に必死なクラスメイトにも、演劇が好きな部活仲間にも。夢物語を言っていると思われるから。湊太と比べられるはずだから。でも本当は声を大にして言いたかった。
息せきって心の内を明かす。
「僕、本当は大学じゃなくて事務所の養成所に入りたいんだ。将来の夢は舞台役者なんだよ……!」
床に積み上がっている本の間に隠してある劇団の資料や演劇関連の書籍。湊太がこれまで受けてきたオーディションの要項も持っている。親も湊太も自分の部屋に入らないから隠せているだけだ。自分の部屋では夢について自由に考えたり、必要なことを調べたりできた。自分を楽しませてくれる本や資料に囲まれていると安心できる。積ん読タワーがそこにあることが、心の慰めになるのだ。
「じゃあ先輩、約束してくださいよ」
洸太が眼鏡を外して目元をこすると、ミナトがそう言って口角を上げた。
「先輩の初公演のチケットをください。オレ、学校を休んで見に行きます」
ミナトがにっと白い歯を見せた。
「その半券を財布に入れるんで。オレが先輩の舞台の半券コレクションを作りますね」
ああ、すごく優しい子だな。ミナトの柔和な笑みが胸に染みて安堵する。だが、半券を財布に入れるミナトを想像したら笑ってしまった。
「ミナト君、それ、佐藤さんに変な趣味って思われるからやめたほうがいいよ。プログラムの間にでも挟んでおいて」
洸太がくすっと笑うと、ミナトが一瞬動きを止めた。そしてちょっと考えるように首を傾げ、小さく笑う。
「大丈夫っす。そんな佐藤さんはオレの前にやってこないんで」
「……ミナト君」
洸太はミナトの隣にぴたりと座り、ちょうどいい高さにある肩にコンと頭をつけた。
「ちょっと肩貸して」
ミナトの肩に頭をのせると、公園の景色は角度をつけて傾く。ミナトの肩が一瞬びくっとしたのが分かったが、それでも伝わってくる熱にほころんで目を瞑った。
自分のことを受け入れてくれる人がいる。それがどんなに嬉しいことか、こうしていれば彼に伝わるだろうか。
濃紺の空の下、駅へ向かう道で別れた。じゃあと道を行く大きな背中を見つめる。
初めて人に自分の夢を話した。これまでずっと胸につかえていた思いを吐き出せて、体がすっきりしている。人に話せたことで自分の将来の夢がはっきりした。舞台役者を目指すこと、それは恥ずかしいことではない。
ミナトは不思議な子だ。湊太とふたりでいれば見向きもされない自分と仲良くしてくれて、自分の前で演技をしなくていいと言う。演劇を知らないと言いつつ、洸太の舞台を見てみたいと自然な口調で話す。年下なのに自分よりずっとしっかりしている。始めは変わっているところにばかり目が行っていたが、今はどれだけ頼もしくて誠実で優しいか、よく分かる。
これ、ミナト君のおかげで進路が決まったようなものだよな。
洸太は家に向かって歩き出した。夜空に星が瞬いている。風が冷たくて、カーディガンの上から腕をさすった。道の端に落ち葉が身を寄せ合って震えていて、草むらから虫の音がリーリーと聞こえる。
ミナト君がいたから将来の夢を口にできた。どこへ向かえばいいか分からなかった自分を導いてくれた羅針盤だ。ミナト君の将来の夢は佐藤さんと結婚することだけど、自分になにかできるだろうか。二年生の佐藤さんを紹介すればいいのだろうか。
そこで胸がちりっとして足が止まった。
ミナト君が佐藤さんを見つけたら、放課後に一緒に帰ることもなくなるのだろうか。そうしたら、僕は誰に本音を話せばいいんだろう。
くしゅん。くしゃみが出て、鼻を啜る。鞄を肩にかけ直し、走り出した。すぐに体が熱くなってきて、はっはと口から息が漏れる。なぜか目が熱い。ミナトに本音を打ち明けたときとは違う熱さだ。
空を見上げれば星がちらちら瞬いている。洸太は目の熱さを振り切って走り続けた。
その後、湊太は主役に復帰し、十月考査後の土曜日、無事大会に出場した。だが、県大会には進めなかった。県大会に進めるのは常連校ばかりで、一昨年去年と二年連続で出られただけの洸太たちの学校はまだまだ実力不足だったと言うことだろう。
来年の大会には引退して関われない洸太たち二年生は目を真っ赤にさせたが、一年生が「来年は絶対に行きますから」「先輩たちを来年度の県大会へ招待します」と泣いてくれた。
だが、ここで立ち止まってはいられない。次は年明けに行われる学内公演に向けて一から新しい劇を作っていく。そうやって練習を積み上げていくことが来年の大会を引っ張っていく一年生の力につながるし、送り出す三年生や迎え入れる新一年生に魅力を知ってもらえる契機になる。大会ではないからといって力を抜いていいことにはならない。
励ましなのか、顧問は反省会で新しい台本を配り、「月曜日にオーディションをやるからね! 休んでる暇はないよ!」と部員を鼓舞した。
洸太は大会の帰路から胸が高鳴るのを感じた。ミナトに言われたように、次は役者をやってみたい。自分が輝かせてきた舞台に自分の足で立ちたい。代役ではない、名前つきの役を演じてみたい。
赤トンボの飛ぶ道を帰って風呂に入り、洗面所で髪を乾かす自分を鏡で見つめた。そして湊太の部屋に直行する。コンコンとノックをしてドアを開けると、湊太はベッドの上で突っ伏していた。足音でこちらだと分かっているだろうに、なんの反応も示さない。
「お風呂お先に。次どうぞ」
「……ん」
「今日の結果、へこんでる?」
「……ん」
「でもソータのせいじゃないよ」
「……それは分かんねえだろ」
湊太が落ち込んでいるのを久しぶりに見た。ちょっと迷ったが、「月曜から新しい劇になるよ」と言った。
「また主役をやることになるのはソータだろうから頑張ってよ」
「月曜から頑張る。日曜までは落ち込んで過ごす」
その言い方に少し笑い、「ねえ」とベッドの側の床に座った。
「髪切りたいんだけど。ソータがいつも行ってる美容院の名前教えて」
すると湊太が顔をあげた。いつも千円床屋で済ませているこちらに訝しげな表情をする。だが、なにかを感じたのか、体を起こしてスマホを取り出した。タタタタとタップし、洸太のスマホがブブッと振動する。
「情報を送った。俺がいつも切ってもらってるのは神崎さんって美容師さん。明日空きがあるみたいだし、行ってくれば?」
湊太がまた突っ伏しそうになったので、「ヘイ、ソータ!」と洸太はスマホを向けた。
「はい、チーズ!」
反射的にピースした湊太の画像を確認し、湊太にそれを見せた。
「はい、笑顔! 僕がこの笑顔を暗記したしスマホにも保存したから、ソータも忘れちゃ駄目だからね」
ようやく湊太が「なんだそれ」と笑い、洸太も笑って部屋を出た。スマホに送ってもらったリンクから美容院のサイトに飛んで、夕方の空き時間に予約を入れる。そして新しい台本を読み始めた。
役作りを意識して台本に目を通すのは初めてだ。登場人物の名前とセリフしか書かれていない台本に目を通し、誰がどういう性格でどんなトーンでしゃべるのか考える。
その中でも朝比奈大悟という役が気になって読んでいると、スマホがブブッと振動した。見ればミナトからの着信だ。既に県大会に進めなかったことはメッセージで送ってあったから、慰めの電話だろう。「もしもし」と出ると、耳元でミナトの声が少し寂しそうに笑う。
『大会お疲れさまっす。残念な結果になっちゃったんすね』
その一言で今日で終わってしまったひとつの世界が報われる気がした。ふふっと笑い、ごろんとベッドに寝転がる。
「でも、楽しかったよ。いい作品だったなと思ってる」
『先輩がそう思ってるならいいっす。オレにとっては初めて見た劇でしたけど、感動ものでした』
「ありがとう。ミナト君は今日はなにしてた?」
『宿題っす。試験が終わったばっかりなのに、なんで勉強しなきゃいけないんすかね』
「人生は毎日が勉強なんだよ」
『うわ、特進科のリアルすぎる声! 普通科で音をあげてたら先輩にボコられそうっす』
「ボコるって、デコピンするんだっけ。グータッチのほうがいい?」
『それ覚えてんすか? 最近のオレはいい子っす。誰もボコってないっす』
ミナトの返しにくすっと笑い、少しだけおしゃべりをして通話を切った。ブラックアウトした画面に映る自分を見る。以前ミナトがやったように前髪を掻き上げて、笑顔を作ってみた。
翌日、初めて美容院へ行った。つるつるの白いタイルの床と壁一面の鏡群にどぎまぎする。どうぞと通された席に座って鏡を見ると、目の前の台にお守り代わりに持ってきた台本と黒縁の眼鏡を置いた。
「えっと、寿君? 湊太君の兄弟かな?」
奥からやって来た女性に洸太は「初めまして」と頭を下げた。そして昨日撮った湊太の写真を見せる。
「違う髪型にしてください」
その夜、湊太と小学校以来久しぶりに喧嘩した。前髪を斜めに流した額が見える髪型が恥ずかしくて眼鏡をして家に帰ったのだが、湊太が「取れ!」と眼鏡を奪い、洸太が「返して!」と叫んで奪い合いになったからだ。
湊太の部屋まで追いかけたが、カーペットの上で湊太が踏んづけた眼鏡はフレームが曲がり、「やべ」とそれを拾った湊太の手の中でブリッジ部分がぽきっと折れて割れた。お気に入りだった眼鏡の惨状に腹の底から「ふざけるな!」と怒りの声が出る。
「コータ、それそれ。怒るときは今の怒りを思い出して演技すればいいんじゃねえ?」
「ごまかすな! その眼鏡今すぐ直してきて!」
「もうちょっと口悪く言えねえのかよ? ほら、もっとぶち切れた感じでさ」
「ちょっとは悪びれるとかないわけ!? 僕は明日からどうしたらいいのさ!」
「眼鏡、いらねえだろ? 家では眼鏡してねえじゃん。黒板くらい見えるだろ」
「髪切って眼鏡外したら本気のイメチェンみたいじゃん!? 恥ずかしいんだよ!」
すると壊れた眼鏡片手に湊太が「あ」と思いついたように顔を明るくさせた。
「賭けようぜ。コータが俺に間違われる可能性。俺はあると思う。『ソータ、今日はちょっと髪型が違うし大人しいな』って思われるんじゃねえ?」
「ソータの雰囲気は出せない! さすがに無理でしょ!」
割れた眼鏡を奪い取ると、湊太は頭を掻いた。そしてくるりと背を向けてドアノブに手をかける。
「だってさ、コータって演技うまいじゃん。できると思うけど」
「えっ?」
思わず湊太のうしろ姿を見たが、「俺、風呂行ってくるから」と出ていってしまう。だが、パタンと閉まったドアがまたすぐに開いて、「やっぱ言うわ」と湊太が戻ってきた。ドアの前でぐっとくちびるを噛みしめ、緊張した面持ちでこちらを見る。
「今まで言ったことねえけど、コータって演技がうまいと思う。本音を言わないでなにかに徹するって、結構しんどいと思うし。家族の前でもいい子してて、俺がサッカーをやりたいって言ったみたいなわがままも言ったことねえじゃん」
湊太がドアにもたれてはあと下向きに息を吐く。
「俺がそうさせてんだよなって分かってた。俺が同じ高校で一緒に演劇部に入ろうなんて言わなければ、コータは伸び伸びと部活やってたんだよな。でも、あの金髪プリン君と一緒にいるときのコータは楽しそうだし、演技しないで話してんじゃねえの。そういうの、もっと出すべきじゃねえの」
――もうここで全部言っちゃえば?
ミナトの言葉が不意に蘇った。湊太にもミナトにも見抜かれていた。そう思うと、これまで自分を偽ってきた殻が剥がれ落ちていくのが分かる。
自分の思う自分を自然に振る舞っているつもりだった。それを見抜かれていたのなら、もう「ソータと違うコータ」を演じる意味がない。そして、それが分かっている湊太を悩ませることもない。
――もうここで全部言っちゃえば?
脳内のミナトがそう言って微笑する。少し首を傾げたときの髪先の揺れを想像し、それが自分の心をそっと撫でていくのを感じた。こぶしをぎゅっと握る。
「……じゃあ、お風呂からあがったら台本の読み合わせに付き合ってよ」
こちらの言葉に湊太が目をぱちぱちさせた。
「明日のオーディションの練習をしたい。僕は朝比奈大悟役を読みたいんだよ」
すると湊太が一瞬動きを止めた。そして真剣な顔で聞いてくる。
「なんでその役でオーディションを受けんの」
「主役と、ソータと二人っきりになるシーンがないから」
洸太は髪を手櫛ですこうとして、ボリュームが減った髪をごまかすようにぺたぺたと触った。
「僕とソータが二人っきりで話すシーンがあったら、見てる側が混乱するかもしれないじゃん。また高校生ものだから、衣装は同じ制服になるだろうし」
「……役者をやりたいんだ?」
「やりたいよ。やりたいって言うって決めた。だから、ソータももう僕に気を遣わなくていいよ。僕も気にしないから」
洸太は息をつき、「それと」とビシッと湊太を指さした。
「金髪プリン君は毒島港君ね。僕も内心金髪プリン君って呼んでたけどさ。実はミナト君にも役者頑張れって応援されてんの。だから絶対に役がほしいの!」
すると湊太はまじまじとこちらを見、暫くしてから「そっか」と眉根を下げて笑った。
「じゃ、もう気にしねえわ」
その瞬間、ふたりの間のなにかが変わったのを感じた。お互いにどこか遠慮し合い、傷つけ合っていた月日のわだかまりが、冬の吐く息のように透明になって消えていく。
「……んじゃ、風呂入ってくる」
「僕は自分の部屋に戻ってるから」
「コータの部屋の本、ちょっと減らせよ。だんだんドアが開けにくくなってんだよ」
不満そうな湊太の言葉に笑い、「早く入ってこい!」とその背中を押した。
翌朝、湊太のあとに家を出た。
眼鏡なしで登校する通学路はなんとなく視界が広かった。いつも黒い縁が少しだけ世界を狭めていたことに気づく。花壇の植え込みに寄せられた銀杏の黄色い実もなんだか新鮮な色をしている気がする。木に絡まるツタも色を変えていて、風も心地よい。空も秋晴れで突き抜けるように高く、綿菓子をちぎったような雲を見ながら新鮮な気持ちで登校した。
昇降口で既に登校している湊太の靴を見つつ、上履きに履き替える。そのすのこの音もいつもより半音高い気がする。足取り軽く普通科の教室前を通り過ぎて特進科の教室前へ行くと、廊下にあるロッカーから教科書を取り出すクラスメイトを見つけた。
「おはよ」
洸太が声をかけると、彼は驚いた顔をし、辺りをきょろきょろ見回した。
「どうかした? 兄貴はまだ来てねえと思うけど」
クラスメイトの言葉に洸太はぽかんとして彼を見た。クラスメイトが訝しげにこちらを見ているので、湊太と間違えているのだと気づく。
本当にソータに間違えられた。驚きに思わず教室を指す。
「僕、コータだけど。ここ、僕の教室」
洸太が教室を指さすと、彼は目を丸くして「ええ!?」と叫んだ。
「髪切ったのか? てか、髪切るとそんなに似てんのかよ?」
彼の大声に教室からなんだなんだと人が出てきた。クラスメイトたちがこちらを見て、考えるようにしてから目を見開く。
「ええ、コータ!?」
「眼鏡はどうした?」
「眼鏡はソータが踏んづけてフレームが割れたんだよ。ひどいよね」
「あ、話し方はコータだ。でも、すげえ似てる」
そこへ「やってるやってる」と声がして、普通科のほうから湊太がにやにやしながらやって来た。
「ドッキリ成功した?」
するとクラスメイトのひとりが「あ」とこちらを見比べた。
「並ぶと雰囲気違うな。ソータのほうが焼けてるし。身長も違うじゃん」
湊太がふふんと満足げにこちらを見下ろしてきたのでむっとする。
「僕はこれから伸びるから。ソータが先に伸びただけ。僕は遅咲きなだけだから」
すると湊太が「ふーん?」と笑って頭のてっぺんをぽすぽすとタップしてくる。
「頑張って追いつけよ。俺はまだ伸びてるからスピードアップしねえと追いつけねえぞ。知ってるか? 男子の成長期はだいたい十七で終わりなんだぜ」
「じゃあ自分だって止まるじゃん。そのセリフ、矛盾だらけなんだけど」
「俺は去年三センチ伸びた。コータは何センチ伸びたんだよ」
「もう、うるさいな。夕飯にから揚げが出たら、一個多く食べてやるからな」
ばしっと自分の頭にのった手を振り払うと湊太はははっと笑い、「じゃあなー」と自教室のほうへ去っていく。教室に入りながら「腹立つ」と愚痴ったが、クラス内がへえというようにこちらを見てくる。
朝の会から話題は自分が髪を切ったことで持ちきりになり、一時間目にやって来た湊太も教えている教師には「びっくりした」と驚かれた。その中でも洸太は「そんなに似てるかな」と笑顔で答えることができた。髪を切って前の自分とは別れられたような、さっぱりとした気分だ。
二時間目、古典で教室を移動すると、机にミナトの丸文字が書いてある。
『十月考査のテスト返ってきた。点数あがった。ありがと』
ふふっと笑い、どういたしましてと書き込む。そこでちょっと思いついた。これまでミナトから質問されたことに答えるだけで、自分からは聞いたことがない。朝の湊太との会話を思い出し、「身長ってまだ伸びてる?」と書く。
放課後の掃除が終わると、いそいそとジャージに着替えてトイレで鏡を見た。口角が上がっている自分を見て、くせっ毛の髪を手ですき、よしと気合いを入れる。今日は次の劇のオーディションだ。そしてミナトが図書当番の日。つまり、一緒に帰る日だ。今日会ったときに「役をもらえたよ」と笑顔で報告したい。
部活ではやはり部員に顔が似ていることに驚かれたが、洸太も湊太も「そう?」とだけ答え、体育館の床に座ってお互い台本を読むことに集中した。
演劇部では配役を決めるとき、各自でやりたい役のセリフを読んでオーディションを行う。今回も主役にチャレンジするのは湊太だけだろうが、自分が狙うのは脇役で何人か狙っている子がいてもおかしくない。昨晩湊太と話しながら書き込んだ鉛筆のメモを見て、セリフを小さく呟く。
「はい、みんな揃ってるね」
体育館の扉がガチャと開いて、顧問がやって来る。その手にまだ新しい台本が握られている。裏方しかやってこなかった自分が役を取れるかどうか、これは自分との戦いだ。
「じゃあオーディションを始めようか」
顧問の声にみんなが「はい!」と立ち上がる。上履きがキュッと音を立てた。
部活後、洸太は大急ぎで着替えて校門に向かった。興奮で足元がふわふわして、顔がにやけてしかたない。坂道の下の門に寄りかかっている金髪プリンを見つけ、思わず「ミナト君!」と大きな声を出してしまった。洸太の声に弾けるように反応した彼がこちらを見る。駆け寄って「役もらった!」と息を切らして開口一番に言うと、彼が驚いたように口を小さく開き、黙ったままこちらを見つめた。
あれ、思ってた反応と違うな。
はあはあと息を整えながら、おやと思う。風が吹いて前髪が揺れ、ようやく髪を切ったことを思い出した。役が取れたことに浮かれていてすっかり忘れていた。急に恥ずかしさに顔から汗が出てきて、手でぱたぱたとあおぐ。
「えっと、今日次の作品のオーディションで。気合い入れて髪切った。眼鏡もとった。っていうか、ソータがフレームを踏んづけて。えっと、どうでしょうか……」
ミナト君としては、なんか違うって感じか。
洸太がそんなふうに思ったとき、突然「うわ」とミナトが顔を手で覆った。そのまま悔しそうに空を仰ぐ。
「オレ、すんごいバカ……髪切ればって言うんじゃなかった……」
「あ、切らないほうがよかったか」
「いや、そうじゃないっす……先輩がイケメンなのはオレと弟先輩たち家族だけ知ってればよかったんすね……作戦失敗……」
またイケメンと言われた。ミナトの言葉はいつもまっすぐだから、本気でそう思われているように感じて顔が熱くなる。自分には縁遠い言葉を彼がなんのてらいもなく口にするから恥ずかしい。ミナトが急に表情をきりりとさせてこちらを見下ろした。
「先輩、オレ、作戦変更を迫られたっす。その顔を隠さないと狙われます。女子スナイパーの目をそらさないと。せめて眼鏡。眼鏡してください」
「眼鏡は壊れちゃってかけられないんだ。ごめん」
「今後、髪は伸ばしますか」
「やっぱり伸ばしたほうがいいの?」
「オレの計算ミスっす。髪がちょっと長めで眼鏡をかけた先輩は小数点以下を切り捨てれば先輩なんですが、今は見た目から整数の先輩になっちゃったんすよ」
「えっと、どういう意味? ごめんね、ちょっと分からない」
そこでミナトは首を振り、ため息をついた。
「オレ、すんごい重い男っすね……改善余地ありですね」
「? 重い? 背が高いからしかたないんじゃない?」
「体重の話じゃないっす。てか、オレ、ひょろいから案外体重軽いっす」
「うん? そっか」
なんだか話が噛み合っていない気がしたが、「それより」ともう一度言った。
「役、もらえた! ミナト君がやりたければやればいいって言ってくれたからだよ。ありがと」
するとミナトが「やったっすね」と歯を見せて笑った。
「公園で乾杯っす!」
そこへ「おふたりさん、お先にー」とリュックを背負った湊太が横を通り過ぎた。
「俺、先に飯食ってるから。コータの分のから揚げが少なくても文句言うなよ」
後ろ姿のまま手をひらひらさせて帰ろうとしたので「サイテー」と思わず噛みつく。
「こっちの分まで食べるのはずるいだろ。ちゃ・ん・と・取っ・と・い・て」
「俺のほうがコータより背高いんですけどー。俺のほうが一日の消費カロリー高いから食べなきゃいけないんですけどー」
「身長を伸ばすために僕のほうが食べないとダメじゃん! 身長を伸ばすの頑張れって言ったくせに、横取りする気?」
「だったらいちゃいちゃは早めに切り上げて、から揚げがなくならないうちに帰ってこいよ」
「いちゃいちゃとか失礼なこと言うな! ミナト君には佐藤さんっていう将来の彼女がいるんだからな!」
すると湊太はこちらをちらっと見やり、肩をすくめて「はいはい」と切り上げてさっさと帰っていってしまう。まったくとため息をつき、ミナトを見上げた。
「ソータが失礼なこと言ってごめんね?」
ところが、彼は後ろ姿の湊太とこちらを見て「どうしちゃったんすか」と言った。
「めちゃくちゃ仲良くなってるじゃないっすか。なにかあったんすか」
「元々仲良いけど? 普段喧嘩とかしないし」
「いや、そうじゃなくて……」
ミナトがなにか言いたげにし、だが「ま、いっか」と公園へ続く道を指した。今日のミナトは髪を全部下ろしている。
「から揚げが全部なくならないうちに乾杯っす」
ミナトの笑顔につられ、洸太も「そうだね」と笑った。
十一月の公園は空気が乾燥していた。車止めを通り過ぎ、落ち葉と土のにおいの中を東屋のほうへ進む。外灯が自販機横のイチョウの木を黄色に彩る。自販機でスポーツドリンクとピーチティーを買い、東屋のベンチに座ってペットボトルをぼんっとぶつけて乾杯した。夜のにおいが混じる秋風が爽やかに吹き抜けていく。
「先輩が演じる劇って、オレが見られるチャンスってあるんすか」
ミナトがピーチティーの口を開けながら尋ねてくる。
「年明けに学内公演があるから、よかったら見に来てよ。まあほとんどがソータの活躍なんだけど」
「弟先輩が主役なんすね。文化祭が終わってから、一年生の間でも弟先輩が噂になってるっす。子役やってたかっこいい二年生がいるって」
そこでペットボトルに口をつけたミナトがふふっと小さく笑った。
「先輩が弟先輩じゃなくてよかったっす。じゃなきゃ女子に先輩を紹介しろとか言われたかもしれないっすよね」
そこできゅっと口角を上げてこちらを見た。くちびるの前に人差し指を当てる。
「先輩、先輩がかっこいいの、バレないようにしてくださいね。隠密行動っす。御庭番ってやつっすね。昔読んだマンガに出てきて覚えた言葉っす。オレ、ちょっと賢くないっすか」
再びペットボトルに口をつける横顔を見て、この子はどうして自分をかっこいいと言うのだろうと突然気になった。顔が似てる似てないは別として、演劇で脇役より主役が目立つのは当然のことだ。だからこそ最初ミナトがかっこいいと褒めたのも、主役をやっている湊太だった。
そこからなぜか照明係をやっていることがかっこいいという話になり、髪を切ったらイケメンになるという話になり、好きなものを好きって言えるのがかっこいいという話になり、髪を切って脇役で喜んでいる程度の洸太がかっこいいという話になっている。親はさておき、こんなに手放しで褒められたのは初めてだ。
「あの……嬉しいことを言ってくれてありがたいんだけど、僕そんなかっこよくない……というか、駄目なところたくさんあるけど……」
自分で言いながら部屋の惨状を思い出してため息をついた。
「ミナト君が僕の部屋を見たらげんなりするよ。ソータの部屋は整理整頓されててきれいだけど、僕の部屋ってめちゃくちゃだし」
「先輩、片づけられない人っすか」
「片づけられないって言うか、片づけたくないって言うか」
「それ、片づけられない人の言葉っすね。場所が移動すると分からなくなるからそこに置いとくんでしょ」
「そう! この本をここまで読んで、でもこっちの本の内容を思い出したいからここに置いておいて、それを読んで思い出したけどあの本にこんなシーンがあったなって思って引っ張り出して、みたいなことをしてると床に本が散らばる」
スポーツドリンクを口にすると微かに甘い味が喉を潤していく。はあとため息をつき、自分の部屋の映像を思い起こした。鞄を太ももの上にのせて、もう一口飲む。
「前に言ったけど、僕って不完全カメラアイだから、覚えたものをきちんと思い出せないときがあるんだよね。それでふと気になってその本を探しちゃうってことが起こるわけ。だから何冊も並行して読んでる状態になっちゃう。できればリラックスしてベッドに寝転がりながら読みたいから、ベッドから手が届くところに全部置きたいじゃん? そうするとさらに本が散らかるわけ」
ピーチティーを飲んでいたミナトがいつかのようにちょっとドン引きした顔をした。
「……なんかすごそうっすね……すげえ意外……」
「ソータにも本を片づけろって言われる。でも、ベッドから届く範囲に置きたいんだよ。映画のパンフレットも同じね。映画のサントラ聴きながらパンフレットを見てるといろんなシーンを思い出せて楽しいんだけど、今日はこの映画、明日はあの映画って手を出すと、それもベッドの側に散らばる。どれを優先して片づければいいか分かんないんだよ」
「いや、昨日のを片づければいいんすよ」
「数日後に『あそこになんて書いてあったけな』って思うかもしれないじゃん。未来の僕がそこに置いておけって言うんだよ」
「それ、未来の先輩じゃなくて今日の先輩っすよ」
呆れた口調でミナトはそう言い、すぐにからっと笑った。
「ウケる。先輩の意外なところを知ったっす。よく言うと本の虫で映画好き。悪く言うと、うーん、言わないでおきます」
あまり褒められたことではないことは分かっているので、そこは流した。そこで洸太はミナトの風に揺れる髪を見た。ずっと切っていないのか、もう一番長い部分は背中についているし、キャラメルの部分もかなり長くなってきた。
「そう言えばミナト君はなんで髪伸ばしっぱなしにしてるの? 金髪に染め直さないの?」
するとミナトが痛いところを突かれたとでも言うように頭を掻いた。
「オレ、童顔だから、大人っぽく見られたくて中学の卒業式の帰りに染めたんすよね。そしたらめっちゃ美容院代が高かったんす。髪染めるのって大変なんだって思って、髪を切るのを諦めてお金を貯めようとしたんすけど、プリンになったらそれも大人っぽいからいいやと思って放置しました。で、現在に至るっす」
「中学の卒アルとか見せてよ。黒髪のミナト君を見てみたい」
「いや、マジでただのガキっす。身長と顔のバランスが合ってないんすよ」
そこでミナトが思い出したようにスマホを取り出した。
「スマホは高校に入学したときに買ってもらったんすけど、中学ンときのダチに写真もらった気がする……」
キャメル色のカーディガンの袖から出た大きな手がすっすっと画面をスライドさせる。するとすぐに「あ」と指が止まった。
「これ、中三の卒業遠足のときの写真っす。学ランだったんすよ。ほら、顔がすごいガキでしょ?」
そう言ってミナトが見せてきた写真では、五人の男女がテーマパークのモチーフの前でピースをしているものだった。中央に顔の小さいのっぽの学ランがいると思ったら、顔がミナトだった。
「え!」
洸太は思わずスマホをひったくった。二本の指で画像を拡大する。前髪センター分けのツーブロックのミナトは、韓流モデルを連想するようなハンサムだった。スッと通った鼻梁が目立つ甘いマスクの笑みを見て、つい顔をあげて本人を見てしまう。ミナトが目線をそらして顔の前で手をひらひらさせた。
「あんま見ないでください。マジで恥ずいっす。一年前のオレ、ガキなんで」
照れるミナトを見て、思わずスマホを握ったまま突っ伏してしまった。かわいすぎる。全然変わってない顔をガキだと言って恥ずかしがるのも、お金を貯めるために髪を切るのを諦めるという思考回路になるところも。外見を気にしているのかしていないのかさっぱり分からない。
ミナト君、やっぱりおもしろい。
ついぷはっと吹き出したら頭をぱしっと軽くはたかれた。
「自分だって髪の毛テキトーだったっしょ!? なんでオレのこと笑うんすか!」
ミナトが怒り出したので「ははっ!」とまたも笑い出してしまった。
「髪の色変えても顔は変わんないからね!? っていうか、すんごいイケメンでびっくりしたんだけど! めちゃくちゃモテたでしょ?」
「モテた……か分かんないっす……告白されたことはあるんすけど、二週間くらいでフラれるんすよね。中身に幻滅したとか思ってたのと違うって言われるんすよ。オレ、そんなにやばいやつっすかね? 割と普通だと思うんすけど」
いや、普通とは違う。
そう思ったらまたもぷっと笑ってしまい、顔の赤いミナトから「歯ァ食いしばれ」と懐かしい言葉とともにデコピンをもらってしまった。ピンと爪の先が当たっただけのデコピンにまた笑うと、「もう!」とスマホをひったくられてしまう。
「あ、ミナト君待って! その写真ちょうだい! もう一回見たい!」
「絶対やだ! 先輩、これ見て笑う気でしょ!? あ、弟先輩に見せてふたりで笑うつもりだな!?」
「すごいイケメンだよってソータに自慢するからちょうだい」
「嘘つき! 絶対に笑うくせに!」
「ちょっとは笑うかも」
「ほら! そういうの、よくない!」
ミナトはそう言いながら鞄にずぼっとスマホを突っ込んだ。そして鞄に頬杖をつき、口をとがらす。耳が赤くなっていて、照れているのが丸分かりだ。最初の頃見下ろされて怖いと思っていたのはどこへやら、ただのかわいい大型犬に見えてきた。
「ミナト君、黒髪のほうが似合うんじゃない? いや、髪が短いほうがいいのかな。今はワイルドっぽさが前面に出てて、イケメンさがちょっと隠れてる気がする」
「……先輩はなんでそんなアドバイスしてくんの」
頬杖をついたままちらりとミナトが視線を寄こす。
「そりゃあ」
洸太はそう言ってから言葉が続かないことに気づいた。急いで佐藤さんの単語を引っ張り出す。
「そりゃあ、佐藤さんを万全のコンディションで迎えたほうがいいでしょ?」
「……ふうん」
ミナトが視線をそらし、気のない返事をした。
「参考に聞くっすけど、金髪と黒髪、どっちがよかったすか」
「今の長さなら黒髪に戻さなくてもいいんじゃない? 重ために見えそう」
「髪短くするなら黒髪ってことっすか」
「髪の短い金髪は見てないからなんとも言えないけど、少なくともあの写真はイケメンだよ」
「じゃあ髪短いのと長いのとどっちがいいっすか」
そう言われて洸太はミナトの頭のてっぺんから下まで見た。廊下で別の一年生とぶつかりそうになったとき、本を拾ってくれたことを思い出す。
「佐藤さんとの出会い方によるよね。今の感じで背が高くてちょっと怖そうに見えておいて、実は優しい人でしたってギャップは定番だよね。少なくとも映画や小説ではそう」
「……なるほど。優しいならよかったっす」
ミナトが小さく頷き、胸がちりっとした。優しいミナトに助けられて、念願の役を得ることができた。これから出会う佐藤さんもそんな優しさに救われるのだろう。
「でも、最初からあのイケメンっぷりを見せられて、一目惚れってこともあるかもしれないか。あ、分かった。今の状態で佐藤さんと出会って、佐藤さんが今のミナト君に慣れたあたりで髪黒く染めて髪切ったらどう?」
そう、そうしたら、今画像を見た僕みたいにすごく驚く。好感を抱く。もっと深く知りたいと思う。だからきっと、未来の彼女の佐藤さんだってミナト君を好きになる。
洸太は胸のちりちりを無視してにっこり笑ってみせた。
「そうしたらギャップになると思わない? 佐藤さんを落とす作戦、完璧だよ」
「……なるほど。タイミングが肝心ってことっすね」
ミナトは考えるように口元に手をやり、また「なるほど」と繰り返した。そして頷く。
「オレ、先輩の髪に関してはミスったんで、自分の髪は間違えないっす」
「え、ちょっと、なんか失礼じゃない?」
洸太は抗議したが、ミナトはひとりで「なるほどね」と繰り返し、納得してしまった。そしてピーチティーを最後までごくごくと飲み、ペットボトルを空にする。
「つか、そろそろ先輩のから揚げがやばいっすね。おめでとうの話をするつもりだったのに話し込んじゃってすんません」
ミナトはそう言ってからスマホを取り出した。そしてカメラを起動する。急にカーディガンの腕が肩に回って、ぐっと引き寄せられた。
「髪切った先輩の写真をくれるなら、あのガキの画像をあげてもいいっす。オーディション合格記念、撮りましょ」
改めてオーディションのことに触れられて、つい照れてしまう。ミナトが斜め上に掲げたスマホを見て手で髪を整えると、ふたりとも笑顔で写真に収める。だが、撮った画像を見たミナトが「ホントだ、オレ、顔変わってない」と赤面したため、「やっぱり消す」「ちょうだい」の押し問答になった。
「先輩」
別れ際、ミナトがそう言ってこちらを呼び止めた。
「明日から眼鏡なしで登校してください」
「え? 眼鏡したほうがいいんじゃないの?」
「はいかイエスで答えてほしいっす」
「? はい。じゃあ新しいのは買いに行かない」
するとミナトは「やった」と笑い、スマホに写るツーショットを指した。
「明日もこの顔で登校してくださいね!」
駅のほうへ向かうミナトの背を見送ってから、改めて画像を見る。写真の隅に空のピーチティーが写っている。甘い香りが笑顔と一緒に閉じ込められていた。
十一月の第二週になると、一年生は県の保有施設へ泊まりのオリエンテーションに行く。その間机の上の落書きは更新されず、夜に「今自由時間なんで」と電話をかけてきたミナトとおしゃべりした。
「そっち、寒くない? 去年、そこ行ったときに風邪引いたんだよね」
洸太が自室のカーテンを開けて住宅街の街並みを見ると、スマホの向こうからむくれた声がした。
『寒いっす。こんなの聞いてないっす。オレ、末端冷え性なんすよ。指先冷たくて、ダチの首筋で暖をとろうとしたらすんげえ怒られました』
「特進って男子少ないから、寝る前にみんなで寒い寒いって言いながらちっちゃく輪になってトランプしてたな。隣の子の熱波に助けられた」
『トランプ羨ましっ。こっちはこっそりゲーム機を持ち込んで回して遊んでます。でも、宿泊行事つったらトランプっしょ』
「ゲームしに行かなくていいの? 対戦相手を待たせてない?」
『大丈夫っす。先輩に呼び出し食らったって言っといたっす』
「ええ、ミナト君から電話かけてきたのに」
くすくす笑うと、スマホの向こうも笑った。改めて住宅街の屋根の上に見える夜空を眺める。
「あ、半月。そっちは天気いい? 見える?」
ミナトが施設内のどこにいるか分からなかったので聞いたのだが、スマホの向こうが沈黙した。
「……ん? もしもし?」
『先輩はすごいっす……今のが「月がきれいですね」の流れっすね? 先輩、タイミングもさりげなさも完璧! 見習うっす』
佐藤さんに言うのかな。ちらりとそんなことを思いながら「そんなつもりじゃなかったけど」と言っておく。
「それ、『ずっと前から月はきれいだよ』って返してもらえたらいいね」
『どういう意味っすか』
「ずっと前からあなたが好きでしたって意味になるんじゃない?」
『うわ、国語、ムズいっす。きれいが形容詞か形容動詞か分かってないオレには鬼ハードっす。この話題を出したオレ、反省案件っす』
「『きれいだ』は形容動詞。はい、古文の形容動詞の活用の種類は?」
『ナリ活用、タリ活用!』
洸太が「正解!」と拍手をすると、向こうから「やった」と明るい声がした。
『先輩、冬休みも宿題教えてくださいよ。そろそろ漢文がキャパオーバーっす。外国語は英語で精一杯なのに、なんで昔の中国語?』
「中国語というか……まあいいや、またファミレス勉強ね」
冬休みもミナトとふたりで話せる。それに喜んでいる自分がいる。にやけそうになる口元を押さえ、「お風呂に呼ばれたから」と理由をつけて通話を終えた。
スマホのフォルダをタップして、ミナトと撮った公園の写真と中三のときの画像を呼び出す。そう言えば前にクレープを撮ったなと思ってそちらも見てみる。すると、クレープを持つミナトの手が大きくて、手首の骨がごつごつと出ていた。
この手で佐藤さんと手をつないだりするのかな。
想像してはあとため息をつく。なんだかこの間から佐藤さんのことを考えると胸がちりちりするのだ。むかむかする気持ちを抑えて台本を掴み、湊太の部屋をノックした。
「なに?」
ベッドにうつ伏せになって音楽を聴いていたらしい湊太が、白のヘッドホンをずらしてこちらを見る。だが、湊太の目の前にも台本が広げてあった。
「ソータ、前回の劇でヒロイン役の橋本さんに片思いしてる設定だったよね」
「それが?」
「今回の僕の役、彼女がいるんだけど、どうやって気持ちを作ってた?」
「この間は、マンガに出てくるヒロインがイメージにぴったりだったから、そのマンガを読んで橋本さんに重ねてた。結構好きになりかけてた。橋本さんが他の男子としゃべってるとむかついたりしてさ。劇が終わった今は好きでも嫌いでもねえけど」
それを聞いて額をこんこんと叩く。
「うーん、僕の役、彼女がいる設定なだけで出てこないんだよな」
「コータの理想の彼女を思い浮かべてみれば?」
湊太が簡単にそう言ったので肩を落とす。彼女いない暦イコール年齢の自分に難しいことを言ってくれる。
「誰なの、理想の彼女って」
「髪が長いかとか、背は小さいかとか、そういうのあんだろ。好きな女優とか」
うーんと唸ると、湊太が「そうだ」と言った。
「それで思い出したけど、ミナト君の将来の彼女ってなに? 前に言ってただろ?」
あの大きな手で手をつなぐ女の子。その映像を頭から追い出し「佐藤さんね」と言う。
「詳しいことは省くけど、ミナト君、佐藤って名字の人と結婚したいんだよ。名字を佐藤に変えたくて。だから、話の合う佐藤さんっていう彼女候補を探してるわけ」
すると湊太が「え」と目を見開いた。
「ミナト君、変わってんな……なんだそれ」
「僕も最初聞いたときはなんだそれと思ったけどさ、本人がそう言ってたし」
「外見でもなく中身でもなく名字? しかも結婚相手? 俺らより年下なのに。高一ってそういう夢見るもん? 高校で初めて付き合った彼女と結婚したい、みたいな」
「そりゃあひとり目で結婚できるのがいいって思うのが普通じゃない?」
多分、ミナト君の初めての彼女は二週間でフラれた子なんだろうけど。その言葉は呑み込むと、湊太が「そうか?」と怪訝そうな声を出した。
「俺はひとり目よりふたり目がいい。ふたり目のほうが絶対に気が合うじゃん。だから付き合ってるわけだろ? 断然ふたり目だろ」
初めて聞く湊太の恋愛観に驚く。
「え? そういう考え方……? ひとり目の子のほうが、やること全部が初めてで、どこにデートに行っても初めての場所になるから嬉しくない?」
こちらの言葉にも湊太は「ふうん?」と懐疑的だ。
「コータはどこにデートに行きたいんだよ?」
「まずは映画かな? 僕が半券を集めてるのを見てても気持ち悪いとか言わない人だといいなとは思う。テーマパークとかよりも寄り道で行ける場所を楽しんでくれるような子がいい」
「年は? ひとり目なら何歳でもいいってわけじゃないだろ」
「えっと……年上よりは年下かな。年上だと振り回されそうで怖い」
「性格は? 元気な子なのか大人しい子なのかでも全然違えだろ」
「元気な子のほうが明るくて見てて気分がいい気がする。こっちも楽しくなりそう」
「見た目だって大事じゃねえ? きれい系かかわいい系かどっちだよ?」
「見た目……? クジャクよりひよこを見てたいだから、かわいい系かも」
そのセリフに湊太がぷはっと吹き出した。
「その考え方はおもしれえけど、つまり、コータの理想の彼女はこうよ。初めてできた彼女で、初デートは映画。こっちの趣味を打ち明けても、いいですねって言ってくれる。次のデートも近所なんだけど、ふたりで会えればどこでもいいですって喜んでくれる。年下だけど、明るい性格にこっちが元気をもらえるような存在。服装はゴテゴテしてなくて目がくりっとしたかわいい系。さあ、どうだ」
「どうだって、なに?」
「イメージできたか?」
洸太はそれを聞いてため息をついた。
「そんな都合のいい子がいるわけないでしょ。まあもうちょっと考えるよ」
なんだよ、真剣に考えたのに。湊太の言葉を背にドアを閉めて、自分の部屋に戻る。台本を放り出してぼふっとベッドに転がった。湊太の言葉を反芻しながらスマホをタップすると、先ほどまで見ていたクレープ画像が浮かび上がる。そこではっとしてがばっと起き上がった。
あれ、ミナト君、結構当てはまってない?
頭の中で湊太の挙げていた言葉を思い出していく。
ミナト君と学校帰りの寄り道や勉強以外で楽しめる場所に行ったのは映画だった。半券の件にはちょっと驚いてたっぽかったけど、そのあと笑っていたから多分受け入れてくれた。年下だし、天然っぽい明るさにこちらも笑顔になれる。私服姿もすっきりしてた。顔はイケメンだけど、童顔でどちらかというとかわいい系だ。言動もかわいいから全体的にかわいく見える。
スマホをタップし、先ほども見た公園でミナトと撮った画像を見る。何度も撮り直した写真はもうポーズを撮っていなくて、自然な笑顔だ。写真に収まるようにと抱き寄せられたから、肩がぶつかっている。そのときの温かさを思い出して笑顔を見つめていたら、急に顔が熱くなってきた。
え、さっきのソータの質問に無意識にミナト君のことを連想しちゃってた? 恋愛の意味でミナト君を好きになってるってこと……?
いやいやいや。誰がいるわけでもないのに手を振って赤くなっているに違いない顔を隠す。ちらりとスマホのふたりを見た。
ミナト君、男子だけど? 僕より背が高くて、明らかに男子って感じの子だけど? でもすごくいい子だしな。しゃべってて楽しいし。冬休みにファミレスで宿題するって約束しちゃったけど、これがデートだったら……やばい、結構嬉しいかも。
口元を手で覆い、ミナトからもらった学ランの黒髪の画像を見た。
僕だったら二週間なんかでフったりしないけどな。中身に幻滅とか、思ってたのと違うとか、ありえない。最初から優しかったしおもしろい子だったし。これまでミナト君に告白してた女子、見る目なさすぎだろ。ミナト君のなにを見てたんだ? こんないい子、他にいないじゃん。
ベッドに膝を立ててそこに腕を組み、顔をのせてため息をついた。もう一度公園で撮った写真を眺める。
一緒に帰りたいし、しゃべってると楽しいし、机の上の文通はまだ相手に気づいてくれてないけど嬉しいし、冬休みだって会いたい。でも、これは恋なんだろうか。男子が男子に好きと思ってもいいんだろうか。僕はまた「ダメ」なことをしていないだろうか。
目を瞑ってじっくり考えようとする。だが、視界が遮られると目蓋の裏に浮かぶのはミナトの顔だ。
先輩はかっこいいっす。オレの前で演技しなくていいよ。先輩の初公演のチケットをください。
ミナトの言葉を思い出していると顔が熱くなってくる。
湊太と比べず自分を見てくれる人。湊太を知っても態度を変えない人。誰にも言えなかったことを話せた初めての人。一緒にいて一番居心地がいい人、それがミナトだ。そして、将来自分の舞台のチケットを最初に渡す人でもある。
ミナト君が僕の将来に期待してくれているなら、頑張れる気がする。
洸太は台本を広げた。青ペンの書き込みを見ながら脳内で舞台に立つ。
この気持ちが恋なのかはもう少しゆっくり考えればいい。肝心なことがあと回しになっても、今はふたりで笑っておしゃべりができる関係でいたいんだ。
オリエンテーションから帰ってきたミナトがくれたのは、いちごキャラメルにコーティングされたポップコーンだった。いちごの産地だけの限定品だ。映画を思い出して笑うと、案の定ミナトも「また映画行きましょ」と笑ってくれた。
いちご味は甘くて心に染みる。ひとり自室でポップコーンを味わい、気分よく翌日古典の授業に行った。だが、机の上の文字を見て息が止まった。
『こないだ好きな人ができた』
蛍光灯で銀色に光るシャーペンの丸文字が恋を語っている。木目のある机に目が釘付けになって、目が見開く。体がかちんと動かなくなって、その文字から目をそらせない。
好きな人ができた。好きな人ができた? 佐藤さんを見つけたってこと?
食い入るように机を見つめていたら、入ってきた教師に「寿君?」と声をかけられた。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません」
ささっと文字をノートで隠し、ペンケースからシャーペンを取り出す。だが、なんと返事をすればいいのか分からない。
心臓がどくどくと音を立てて、腹がきゅうっと痛くなる。急に目頭が熱くなって、ハンカチで咳を抑えるふりをして目元を拭った。シャーペンを握る手に力が入らない。教師の言葉なんて右から左で、座っている椅子の冷たさだけがしんしんと体に冷えた。
ミナト君、佐藤さんに会ったんだ。ってことは、これからその子と一緒に帰ったり、クレープを食べたりするってこと? 映画館でセカンド飲み回しをするのは僕じゃなくて、佐藤さんってこと? 来年の学内公演を一緒に見ながら僕を指さして、「あの先輩と仲良いんだよ」っておしゃべりしたりするってこと? 僕はそんなふたりに「付き合えてよかったね」と笑顔で言わなきゃいけないってこと? ――そんなの、できるわけないじゃないか。
ギリギリと掴まれたように心臓が痛い。授業は上の空で聞き、チャイムが鳴ってから「おめでとう」と一言書いて終わりにした。
ところが、次の授業のときには「うんざりされない程度にアプローチするにはどうしたらいい?」と書かれていた。どうやら恋愛の相談相手にされてしまったらしい。ぐっとくちびるを噛みしめる。
おそらくオリエンテーションに行って、他クラスや他の科とも交流して佐藤さんを見つけたと言ったところだろう。自分を応援してくれたミナトを突き放すのは心が痛む。ミナトのことは好きだから相談に乗りたい。でもミナトのことが好きだから素っ気ないことしか書けない。しかたなく「一緒に帰ろうって誘ってみたら」と返事をした。
翌日はミナトの図書当番の日で、部活を終えてから悶々として制服に着替えた。初めての役者は楽しいが、この状態では学校生活の楽しみが半分なくなったも同然だ。ブレザーの前を合わせ、ため息をついて昇降口を出ると、いつも通りミナトは校門にもたれて立っていた。校舎からの明かりの中、こちらに気づかずぼんやりと空を眺めている。
いつもはシャツにキャメル色のカーディガンだが、今日は寒かったのか、白のパーカーを中に着たブレザー姿でポケットに手を突っ込んでいた。普段あまり見ない紺色のジャケットがハーフアップの金髪を目立たせている。
長くなった金髪が翻るといつもよりきらきらして見える。洸太の胸がぎゅっと締めつけられた。
佐藤さんと結婚するのが将来の夢のミナト君。話が合う佐藤さんを探していたミナト君。そして、念願の好きな人を見つけたミナト君。羨ましい。僕が佐藤さんになりたい。ああ、今はっきりした。ミナト君が好きだ。僕は佐藤さんでも女子でもないのに、ミナト君を好きになってしまった。どうやってミナト君の夢を応援したらいいんだろう。
「ミナト君、待たせてごめんね」
勇気を振り絞って名前を呼ぶ。ミナトがぱっと顔をこちらに向け、笑って小さく手を振ってきた。顔に笑みを貼りつけて近づくと、ミナトが校門から背を離す。
「先輩、一緒に帰りましょ」
こんなふうに誘ってくれて一緒に帰れるのもいつまでかな。そんなことを思いながら「うん」と彼の隣を歩き出そうとした。だが、ミナトは立ち止まったままで、おやと思って顔を見上げる。するとなぜかミナトが緊張した顔をしていた。
「どうかした?」
思わず尋ねると、ミナトが「イエ」と目をそらす。
「……なんでもないっす……ちょっと、ね」
「そう?」
特にミナトの言葉が続かなかったので、並んで歩き出した。コツコツと靴が地面を鳴らす。どんどん日が短くなって、足元から寒さが這い上がってくる。明日からマフラーを出そうと考えて、もし寒そうにしているミナトがいたら自分のをかけてあげるのにななんて思う。もやもやする気持ちを打ち消すために口火を切る。
「ミナト君さ、理想の佐藤さんってどんな子? 今やってる僕の役、彼女がいる設定なんだけど、どういう子を想定すればいいのか全然分かんなくて。ソータには理想の彼女を考えろ、みたいなことを言われたけど、そんなの考えても分かんないし」
佐藤さんってどういう子? どういう子なら僕は諦められる? そんな思いで聞くと、ミナトが真剣に「うーん」と腕を組んだ。
「理想の彼女っていうか、好きになった子が理想なんじゃないっすか」
「……そういうもの?」
「好きになってみて、意外とこういう子が好きなんだなって気づくとか、ありそうじゃないっすか」
ミナトの言葉にリアリティがあったので、ぐっと言葉に詰まる。自分で聞いておきながら、身勝手に傷ついてしまう。だが、ミナトはちょっと笑った。
「先輩が恋バナってちょっとおもしろいっす。弟先輩はしゃべりそうっすけど」
そうだよね。僕ってそういうタイプに見えないよね。
内心頷きつつため息を吐くと、「先輩」と急に肩を抱き寄せられた。はっとすると目の前に車が迫っている。ミナトがこちらの肩に手を回したまま端に寄った。
「危ないっす。ちゃんと前見て歩いてくださいよ」
近い近い近い。体がくっついて、制服越しにミナトの体温が流れ込んでくる。車が通り過ぎるまで口をむずむずさせていたが、車が去るとミナトがぱっと手を離した。笑顔でこちらを見てくる。
「先輩、あったかい。抱き枕サイズのカイロっすね」
その言葉に恥ずかしくなって、思わずミナトの鼻先を摘まんだ。
「そうやってチビをバカにして」
「チビなんて言ってないっす。てか、先輩そんなにチビじゃないっしょ。あと、暴力反対っす。鼻声、やだ」
「じゃ、次言ったらグータッチね」
洸太が手を離すと、ミナトは白い歯を見せて「了解!」と破顔した。
再び歩き出したミナトをちらりと見上げる。今日は言葉一つ、行動一つが胸をちりちりとさせてくる。ゼロ距離でも本音を言えなくて、隣にいるのになんだか悲しい。好きだと思ったら友人の距離では満足できなくて、どんどん欲張りになっていくのが分かる。
好きになってみて、意外とこういう子が好きなんだなって気づく。
ミナトの言葉は半分合っていて、半分違う。好きになってみて、意外と自分はこうだったと気づくのだ。
その日聞いたオリエンテーションの話は楽しめなかった。主に友人の話だったが、どこで佐藤さんと出会ったのかと冷や冷やしてしまう。結局話題には出てこなかったが、むかむかしながら家路についた。
家に帰って黙々と夕飯を食べ終わると、先に夕食を済ませてソファでテレビを見ていた湊太が「これ食う?」と個包装されたせんべいを差し出してきた。
「どうしたの、これ」
「先週もらわなかった? ミナト君からのオリエンテーション土産」
「は?」
思わず声が尖って、湊太が目を丸くさせた。
「どうした?」
「あ、いやごめん、ミナト君からオリエンテーションの話を聞いて、去年の嫌なことを思い出したばっかりでさ」
「……ふうん?」
「ほら、特進って自由時間も学習時間だったからさ、他の科が楽しそうに遊んでるのが羨ましかったんだよ。いくらなんでも厳しすぎだと思って。すっごく根に持ってる」
「……あ、そう」
湊太は分かったような分からないような微妙な顔をした。
「コータは部活やってるからそういう感じじゃないけど、普通科から見ると特進って朝から晩まで勉強してる最強軍団に見えるぜ」
「でしょ」
そこで話を切り上げ、部屋に戻ってせんべいをぼりぼり食べる。湊太にまでお土産を渡すなんて律儀だなという思いと、自分の知らないところでなにをしゃべってるのかななどと嫉妬めいたことを思う。
床に膝をついてコロコロとカーペットクリーナーを手で動かすと、脳内で第一体育館の舞台が蘇った。あるはずもない、ミナトがそこに立つ姿を思い描く。他の照明が消えた闇の舞台の上に、サスペンションライトのひと筋の光がひとりの人物だけを捉えるサス残し。そこに立つミナトが照明にきらきらさせた金髪を片手で払い、暗闇に向かって手を伸ばす。
「佐藤さん、一緒に帰ろう」
するともう一つのライトが地面に落ちる。ブレザー姿の女子が嬉しそうに胸に手を当て、ミナトのほうへ片手を伸ばすのだ。
カッとなって頭の中でフェーダーを下げた。照明を絞って女子の姿をフェードアウトさせる。
頭の中は自由だ。自分の人生において誰にライトを当ててみるかなんて誰にも縛れない。だが、頭の中と現実は一致しない。ミナトは暗闇の中に立つ佐藤さんを見つけたのだろうし、自分はそれを客席側から見ることしかできないのだろう。
もやもやして迎えた翌週は、机の上の「ただデートに誘うだけでも喜んでくれると思う?」「既に行ったところでもまた楽しめる場所ってある?」という問いに答えなければならなかった。前者に「きっと喜ぶよ」と書き、後者には「映画は?」と答える。
まだセカンド回し飲みができていない現状に悶々とし、部活では刷毛をがさがさと動かしてベニヤ板にペンキを塗った。つんとするにおいに頭を振り、稽古に声を張る。
「『朝比奈君は、最近彼女のユキちゃんとどう?』」
「『それが、こないだもバイトが忙しいってデートを断られちゃってさ』」
「『いのち短し恋せよ乙女って言うのにね』」
「『ユキちゃんは人生長し稼がにゃアウトって感じなんだよな』」
「『なにそれ!』」
ブレザーの上にコートを着るようになると落ち葉はどこかに消えて、寒々しい枝が空をどんと突かんとばかりにきりりと尖る。冬到来の棘がちくちくと頬を刺して、口元までマルチカラーのマフラーでぐるぐる巻きにする。すると、息をするたびに薄らと目の前に白い息がのぼった。
星空がきれいになる時間のふたりの帰り道は、本屋に寄ったり、公園で温かい飲みものを買って二十分ほど話したりして帰るようになった。毎回「じゃあね」が言い出しづらくて、「寒いっす」の言葉が出る前にミナト用に持ってきているカイロを渡す。
試験二週間前に入ると、特進科はゼロ時間目の朝勉強が始まる。湊太より早起きして、寒さの中を走って登校する。体を温めてから机に向かうと今年も冬がやって来たという気がする。どうやら机の上の丸文字も同じらしく、クリスマスの話になった。
『金曜が終業式、二十四日の土曜から冬休みだけど、クリスマスデートに行くならどこに行けばいい?』
この近くの駅から二十分ほど電車に揺られると、市の中心部に出る。そこにある三階建てのモールの中央にはストリートピアノが設置されているのだが、クリスマスには巨大なクリスマスツリーが立つ。
ここのイルミネーションは定番の赤と緑と白のイメージの年もあれば、ゴールドとシルバーでまとめた上品な雰囲気の年もある。小さい頃は毎年家族と見に行って、何色になるか楽しみにしていた。この近辺に住む人にとって、クリスマスのイルミネーションは楽しみの一つである。
エアコンが効きすぎて暖かすぎる教室はなんだか空気がこもる。息苦しさを感じながら、そのクリスマスツリーの前で笑うミナトを思い浮かべた。だが、その視線の先にいるのは自分ではない。
シャーペンを持つ手が下りた。分からない。どこへ行けばいいのかも、自分の気持ちも、なにもかも。
なにも書かずに授業を終え、くちびるを噛みしめて教室を出た。