ミナトがキャメル色のカーディガン、洸太がネイビーのカーディガンを着る時期になると、学校帰りに遊びに行くようになった。近くの公園でしゃべるのはもちろんのこと、本屋に行ったり電車に乗ってクレープを食べに行ったりもした。湊太に「先に帰ってて」「先にご飯食べてて」と伝えることが多くなる。
机の丸文字も勉強のことは少なくなって、学校帰りに遊べる場所でおすすめはあるかだとか二泊三日のオリエンテーションが楽しそうだとか、ただのおしゃべりが混じるようになった。どうやらこちらが一年生ではないことに気づいたらしく、将来を考えるのは大変かといったことまで聞いてくる。
家に帰ってからリビングのソファでクレープを持って撮った画像を眺めていると、「なに見てんの」とソファのうしろから湊太が覗き込んできた。
「クレープを食べに行った。初めて食べたけど、おかずクレープもおいしかったよ。ツナマヨにレタス、すごくよかった」
スマホをそちらに見せると、湊太は「あの金髪プリン君か」と画像を見て頷いた。
「金髪プリン君がチョコバナナって、なんか笑えるぜ。髪の色と一緒」
「甘いのが好きなんだってさ。あと、金髪プリン君の名前は毒島港君ね。下の名前で呼んでほしいらしいよ」
「寄り道するとか、仲良いな。なにつながり?」
「ミナト君は図書委員なんだよ。図書室に通ってたら話すようになった」
「ふうん」
湊太が意味ありげに相槌を打つので「なに?」とそちらを見る。すると湊太は肩をすくめた。
「彼女ができたのかと思ってた。部活のあともすぐどこか行くしよ」
「そう言うソータは文化祭後にできた彼女とは最近どうなの」
「もうフラれた。演技してるんじゃないかと思うと信じられねえってさ。演劇部なの知ってて告ってきたのに、俺はどうしたらよかったんだよ」
湊太の不満そうな口調に思わず笑う。演技ができるというのもなかなか大変だ。
「コータ、それより読み合わせに付き合って。稽古してないと不安」
「オッケー」
ズボンのポケットにスマホをしまうと、ソファから立ち上がる。地区大会まであと二週間ちょっとだ。今は土日も朝から部活をしている。演劇は全員で作るものだが、一番セリフが多く目立つ役の湊太のプレッシャーは他とは違うのだろう。
ところが、事件は二日後の放課後に起こった。ジャージの部員が集まる第一体育館に、湊太が制服でやって来たからだ。その左足首にテーピングがされていた。
「えっ怪我したの!?」
舞台監督の女子が大きな声をあげて、湊太は「本当にごめん!」と顔の前で手を合わせた。
「体育の時間に捻っちまった。もう病院に行ってきて、一週間くらいで治るって言われてる。だから大会には出られる」
自分で立って歩いてはいるが、明らかに左足を庇っている。調光室にした洸太も目が丸くなって、慌てて舞台へ下りて尋ねた。
「大丈夫? すごく痛い?」
すると湊太は眉尻を下げた。
「痛みは大したことねえけど、みんなに迷惑をかける」
部員たちも顔を見合わせた。顔が強張って緊張が走る。主役の怪我、しかも足。つまり、舞台に立って演技することができない。ひとりが呟いた。
「え、どうしよう。少なくとも練習中は代役を立てないと。ソータがいるところに誰も立たないで練習するなんて無理だよ。ものを渡す場面もあるし」
「台本持って、誰かが舞台上でソータのセリフを読まないと」
「誰でもいいけど……でも誰がやる?」
劇を作るとき、役者を決める際は部内でオーディションを行う。自分のやりたい役のセリフを読み込み、演技し、顧問を含めた話し合いで決定する。だが、湊太は子役出身。オーディションをしなくても主役は湊太だというのはほぼ決定事項で、実際オーディションの際に主役にチャレンジした者はいない。
つまり、本気で主役を演じセリフを言ったことがある者は湊太以外誰もいないのだ。
みんなが言葉を失って顔を見合わせると、湊太がその沈黙を破った。
「コータ、俺の代わりやれよ」
突然名指しされ、びくっとした。目を剥いて湊太を見たが、案の定周りも驚いたようにこちらと湊太を見比べてくる。
「でも、コータは役者をしたことがないし……」
「エチュードくらいだよね?」
「オーディションのときはそもそも裏方志望だったよね」
ざわつくみんなを見回し、湊太は肩をすくめた。
「俺の代わりに誰かが台本持って読むだけだろ? 誰でもいいならコータでいいじゃん。コータは俺のセリフも全部覚えてるし。だろ?」
湊太が答えを促してきて、思わず「え、うん」と答えてしまう。洸太は毎回台本は全て暗記している。すると湊太は「はい」と自分の台本を差し出してきた。押しつけるように渡されたそれをめくると、どこではけるか、どこに立つか、どんな動きをするかメモが入っている。
「コータ、今すぐ覚えろ。調光室から散々舞台の上は見てるだろ」
湊太にそう言われ、洪水のように映像が頭の中で溢れかえった。だが、上手の調光室から見える舞台は上から斜めに見えているし、舞台にも角度がついている。自分の目で舞台に立ってみなければどこでどう動くのか分からない。
「えっと、じゃあ、コータ、お願いしてもいい?」
舞台監督の女子がこちらに尋ねてきて、急いで「分かった」と台本の最初から目を通し始めた。舞台の上に立ち、実際にぐるぐると歩きながら位置を確認し、調光室を見て自分が立っている位置が正しいか考える。すると女子ふたりがやって来た。
「コータ、ここから入ってくれる? 台本の十二ページ目」
「その前の場面で私と喧嘩してるからね。でも、棒読みでいいから」
「え、あ、うん、分かった」
同じ場面に出るふたりは洸太そっちのけでなにか打ち合わせし始め、洸太は必死に台本をめくった。そのセリフを口にする湊太の演技を思い出す。するとライトの下で生き生きと役を演じる湊太の眩しさを思い出した。
――あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
ふと台本から顔をあげると、いつの間に出してきたのか、パイプ椅子に座ってこちらを見ている湊太がいた。ぱちりと目が合うと、にっと歯を見せて笑顔で頷く。
ずっと小さい頃から湊太の演技を見てきた。家で何度も何度も湊太の相手をしてきた。役作りについておしゃべりしてどんな演技がいいかも話した。家で湊太がなにかぶつぶつ言いながら台本にメモを書き込んでいるのも見たことがある。
改めて舞台上の周りを見る。いつも一緒に調光室にいる後輩も含め、みんなが自分の役をこなそうとしていて、誰もこちらを見ていない。大道具係が舞台上を学校の教室のようにセットし始めた。舞台の真上を見る。列をなしたライトが下を向き、ひっそりと洸太を見守っていた。
あれが僕がいつも操るライト。その熱さを背負って輝いているソータの代わり。きっと誰も僕がそれをできるなんて思っていない。
台本に目を落とす。頭はクリアだ。全てが鮮明に見通せる。調光室から見た舞台の上の湊太。家で練習したセリフのやり取り。そして今やるべき湊太のセリフと動作のメモ。勉強だと思って、湊太のセリフもこっそり練習していた。
――弟先輩があんだけかっこいいなら先輩もかっこいいっしょ。
洸太はゆっくりと歩いてバミリの上に立った。目の前に教室にあるような机のセットがある。
ソータよりダメだなんて思っているのは僕だけだ。自分がそんなふうに演技しているから誰も期待してくれない。ボーダーライト、サスペンションライト、フットライト、スポットライト。自分を輝かせてくれる光はそこにある。いつも自分がソータを輝かせている光が、今、僕に当たる。だったら今、ここで思い切りやろう。
「コータ、準備いい?」
ぽんと肩を叩かれてはっとする。頷くと、舞台監督の生徒が手で丸を作った。目を瞑って息を吸う。主役は熱血男子のクラス委員長。普段の自分とはまったく違う。その役に息を吹き込めるか、それは自分次第だ。
「始め!」の言葉が空気を切る。次の瞬間、洸太は湊太のメモの通り机にこぶしを叩きつけた。
「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」
隣の女子を睨むと、彼女は一瞬たじろいだ。だがすぐに言い返してくる。
「『あんな言い方したら誰だって反対するでしょ。言い方よ、言・い・か・た!』」
「『ふたりとも待ってよ。うちらが言い合ってたってしょうがないじゃん』」
「『しょうがないって、俺にとってはしょうがなくねーんだよ。あーあ、明日のホームルーム、どうすんだよ……』」
肩をすくめ、髪をぐしゃっと掻く。
「『そんなこと言ったって』」
そのセリフを言った女子の口調がゆっくりになったので、自分が早口になっていることに気づいた。すぐにその意味を理解して息を呑み込み、顔をあげた。「もう一回聞くけど」と人差し指を立てる。
「『俺らのクラスだけクラス行事はなんもせずに自宅学習でいいんだな? 他のクラスはウォークラリーやゴミ拾い競争とか思い出作りをすんのに』」
「『受験勉強をしたいっていう子もいるんだよ』」
「『そうそう。思い出よりも未来が大事って考えてるだけ』」
「『でも行事は高校の行事じゃねえか。クソッ、なんで分かってくんねーのかな』」
「『ひとりで突っ走ってもみんなはついてきてくれないよ』」
「『俺が黙ればいい意見が出るって言うのかよ?』」
五分弱のシーンを終えて「そこまで!」の声が入ると、途端に全身から力が抜ける気がした。思ったより照明が熱い。ジャージの下に変な汗を掻いていて、喉がからからだ。だが、すぐに舞台上が拍手に湧いて、「コータすごいじゃん!」と部員にわっと囲まれた。
「ソータと演技がすごく似てた! いや、口調が似てたって感じかな」
「台本マジで覚えてんの? すげえスムーズだった」
「こんなに上手いなら役者やればいいのに」
周りの歓声に顔が赤くなるのが分かった。前髪で眼鏡を隠し「いやいや」と手を振ってうしろへ下がる。
「ソータを真似すればいいんだなって思っただけ! ホント、それだけ!」
「でも、ソータができるまでコータが役をやってよ。ソータを再現できるなら周りもそれが一番いいし」
「十五ページのところ、はけるのがちょっと早かった。ソータに聞いて調整して」
「十二ページのセリフ、走りがちだからもう少しゆっくりしゃべってほしい」
代役が決定事項のように次々とアドバイスされ、普段黙々と作業をしがちな洸太の背から汗が噴き出す。
「あのー……」
そこへ一つの声が割って入ってきて、みんなが一斉に声のする舞台下を見た。洸太は驚いた。キャメル色のカーディガンの肩に鞄をかけたミナトが金髪プリンの頭を掻いている。
「部活中にすんません。体育の時間にジャージの上着をここに置き忘れちゃったんですけど、赤ジャージの上着、ありませんでしたか」
「あ、毒島君、あったよ。胸に名前の刺繍が入ってたから分かった」
一年女子が舞台袖からきちんとたたまれたジャージを持ってきた。舞台の上からミナトに「はい」と渡す。ミナトは顔見知りらしき彼女に「サンキュ」と言ったあと、舞台上の洸太とパイプ椅子に座る湊太に目線を行ったり来たりさせた。そして湊太のほうへ尋ねる。
「弟先輩があの役ですよね。椅子に座ってどうしちゃったんですか」
「体育の時間に足を捻挫しちゃったんだよ。だから代わりをコータに任せた」
「双子入れ替わりの術的なやつですか」
「うーん、そんな感じ? だって、コータ、俺のセリフを全部暗記してるから。コータなら俺の役をできるし」
湊太のセリフに彼はふうんと言ってこちらを見た。その目線にどきっとする。
「先輩、眼鏡外して髪型を変えたらいいんじゃないっすか。より弟先輩に近づくっしょ」
「ソータのセリフを言う人が必要ってだけだから、そこまで真似しなくても」
「あ、そうなんすか。弟先輩を真似するって言ったから、そういうことなのかと思ったっす。失礼なこと言ってすんません」
彼はぺこりと頭を下げると、「じゃ」と言って体育館を出ていこうとした。そこへ湊太が「あ! 君!」と呼び止める。
「演劇部に興味ない? 文化祭で感動したって言ってくれたじゃん。見学してかねえ?」
すると先ほどジャージを渡した子が「そうだ」と頷いた。
「毒島君、部活は入ってなかったよね。演劇部、男子は少ないの。背景のパネルとか、生徒で作ってるんだよ。毒島君なら体も大きいし、大道具を作るの得意そう」
するとミナトは今度は湊太とその子に視線を行ったり来たりさせた。
「オレ、すごい不器用。針に糸を通せないし、みかんの筋をきれいにとれない人だけど」
そう言ってから、ミナトの大きな目がびっとこちらを見た。
「でも、先輩の劇、おもしろそうっすね」
彼はそう言うとその場にすとんと座り、長い足の膝を抱えた。
「見学してくっす。バイトまで時間あるし」
驚く洸太の前で、湊太が「あそこに椅子あるぜ」と壁に立てかけてあるパイプ椅子を左手で指さした。ミナトがパイプ椅子を持ってきて湊太の隣に置き、腰かけて足の上にこぶしを置く。
「それで、今のシーンだけど」
ひとりがはっとしたように言い、みんながようやく意識を劇に戻した。役者の子と打ち合わせしながら、洸太の意識の一部がミナトへと向けられている。部活仲間に演技を見られるのも緊張するが、彼に見られるのだと思うと一層緊張してくる。
その後、最後まで湊太の代わりを演じ、照明係は後輩に任せた。スポットライトが当たると、その熱にいつも湊太はこんな熱気を浴びているのかと思う。きっと、照明をやっている自分の思いを受け取ってくれているだろう。
役者の立場になって、照明のすごさが実感できる。洸太にとって自分が自分を認められる初めての瞬間だった。
机の丸文字も勉強のことは少なくなって、学校帰りに遊べる場所でおすすめはあるかだとか二泊三日のオリエンテーションが楽しそうだとか、ただのおしゃべりが混じるようになった。どうやらこちらが一年生ではないことに気づいたらしく、将来を考えるのは大変かといったことまで聞いてくる。
家に帰ってからリビングのソファでクレープを持って撮った画像を眺めていると、「なに見てんの」とソファのうしろから湊太が覗き込んできた。
「クレープを食べに行った。初めて食べたけど、おかずクレープもおいしかったよ。ツナマヨにレタス、すごくよかった」
スマホをそちらに見せると、湊太は「あの金髪プリン君か」と画像を見て頷いた。
「金髪プリン君がチョコバナナって、なんか笑えるぜ。髪の色と一緒」
「甘いのが好きなんだってさ。あと、金髪プリン君の名前は毒島港君ね。下の名前で呼んでほしいらしいよ」
「寄り道するとか、仲良いな。なにつながり?」
「ミナト君は図書委員なんだよ。図書室に通ってたら話すようになった」
「ふうん」
湊太が意味ありげに相槌を打つので「なに?」とそちらを見る。すると湊太は肩をすくめた。
「彼女ができたのかと思ってた。部活のあともすぐどこか行くしよ」
「そう言うソータは文化祭後にできた彼女とは最近どうなの」
「もうフラれた。演技してるんじゃないかと思うと信じられねえってさ。演劇部なの知ってて告ってきたのに、俺はどうしたらよかったんだよ」
湊太の不満そうな口調に思わず笑う。演技ができるというのもなかなか大変だ。
「コータ、それより読み合わせに付き合って。稽古してないと不安」
「オッケー」
ズボンのポケットにスマホをしまうと、ソファから立ち上がる。地区大会まであと二週間ちょっとだ。今は土日も朝から部活をしている。演劇は全員で作るものだが、一番セリフが多く目立つ役の湊太のプレッシャーは他とは違うのだろう。
ところが、事件は二日後の放課後に起こった。ジャージの部員が集まる第一体育館に、湊太が制服でやって来たからだ。その左足首にテーピングがされていた。
「えっ怪我したの!?」
舞台監督の女子が大きな声をあげて、湊太は「本当にごめん!」と顔の前で手を合わせた。
「体育の時間に捻っちまった。もう病院に行ってきて、一週間くらいで治るって言われてる。だから大会には出られる」
自分で立って歩いてはいるが、明らかに左足を庇っている。調光室にした洸太も目が丸くなって、慌てて舞台へ下りて尋ねた。
「大丈夫? すごく痛い?」
すると湊太は眉尻を下げた。
「痛みは大したことねえけど、みんなに迷惑をかける」
部員たちも顔を見合わせた。顔が強張って緊張が走る。主役の怪我、しかも足。つまり、舞台に立って演技することができない。ひとりが呟いた。
「え、どうしよう。少なくとも練習中は代役を立てないと。ソータがいるところに誰も立たないで練習するなんて無理だよ。ものを渡す場面もあるし」
「台本持って、誰かが舞台上でソータのセリフを読まないと」
「誰でもいいけど……でも誰がやる?」
劇を作るとき、役者を決める際は部内でオーディションを行う。自分のやりたい役のセリフを読み込み、演技し、顧問を含めた話し合いで決定する。だが、湊太は子役出身。オーディションをしなくても主役は湊太だというのはほぼ決定事項で、実際オーディションの際に主役にチャレンジした者はいない。
つまり、本気で主役を演じセリフを言ったことがある者は湊太以外誰もいないのだ。
みんなが言葉を失って顔を見合わせると、湊太がその沈黙を破った。
「コータ、俺の代わりやれよ」
突然名指しされ、びくっとした。目を剥いて湊太を見たが、案の定周りも驚いたようにこちらと湊太を見比べてくる。
「でも、コータは役者をしたことがないし……」
「エチュードくらいだよね?」
「オーディションのときはそもそも裏方志望だったよね」
ざわつくみんなを見回し、湊太は肩をすくめた。
「俺の代わりに誰かが台本持って読むだけだろ? 誰でもいいならコータでいいじゃん。コータは俺のセリフも全部覚えてるし。だろ?」
湊太が答えを促してきて、思わず「え、うん」と答えてしまう。洸太は毎回台本は全て暗記している。すると湊太は「はい」と自分の台本を差し出してきた。押しつけるように渡されたそれをめくると、どこではけるか、どこに立つか、どんな動きをするかメモが入っている。
「コータ、今すぐ覚えろ。調光室から散々舞台の上は見てるだろ」
湊太にそう言われ、洪水のように映像が頭の中で溢れかえった。だが、上手の調光室から見える舞台は上から斜めに見えているし、舞台にも角度がついている。自分の目で舞台に立ってみなければどこでどう動くのか分からない。
「えっと、じゃあ、コータ、お願いしてもいい?」
舞台監督の女子がこちらに尋ねてきて、急いで「分かった」と台本の最初から目を通し始めた。舞台の上に立ち、実際にぐるぐると歩きながら位置を確認し、調光室を見て自分が立っている位置が正しいか考える。すると女子ふたりがやって来た。
「コータ、ここから入ってくれる? 台本の十二ページ目」
「その前の場面で私と喧嘩してるからね。でも、棒読みでいいから」
「え、あ、うん、分かった」
同じ場面に出るふたりは洸太そっちのけでなにか打ち合わせし始め、洸太は必死に台本をめくった。そのセリフを口にする湊太の演技を思い出す。するとライトの下で生き生きと役を演じる湊太の眩しさを思い出した。
――あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
ふと台本から顔をあげると、いつの間に出してきたのか、パイプ椅子に座ってこちらを見ている湊太がいた。ぱちりと目が合うと、にっと歯を見せて笑顔で頷く。
ずっと小さい頃から湊太の演技を見てきた。家で何度も何度も湊太の相手をしてきた。役作りについておしゃべりしてどんな演技がいいかも話した。家で湊太がなにかぶつぶつ言いながら台本にメモを書き込んでいるのも見たことがある。
改めて舞台上の周りを見る。いつも一緒に調光室にいる後輩も含め、みんなが自分の役をこなそうとしていて、誰もこちらを見ていない。大道具係が舞台上を学校の教室のようにセットし始めた。舞台の真上を見る。列をなしたライトが下を向き、ひっそりと洸太を見守っていた。
あれが僕がいつも操るライト。その熱さを背負って輝いているソータの代わり。きっと誰も僕がそれをできるなんて思っていない。
台本に目を落とす。頭はクリアだ。全てが鮮明に見通せる。調光室から見た舞台の上の湊太。家で練習したセリフのやり取り。そして今やるべき湊太のセリフと動作のメモ。勉強だと思って、湊太のセリフもこっそり練習していた。
――弟先輩があんだけかっこいいなら先輩もかっこいいっしょ。
洸太はゆっくりと歩いてバミリの上に立った。目の前に教室にあるような机のセットがある。
ソータよりダメだなんて思っているのは僕だけだ。自分がそんなふうに演技しているから誰も期待してくれない。ボーダーライト、サスペンションライト、フットライト、スポットライト。自分を輝かせてくれる光はそこにある。いつも自分がソータを輝かせている光が、今、僕に当たる。だったら今、ここで思い切りやろう。
「コータ、準備いい?」
ぽんと肩を叩かれてはっとする。頷くと、舞台監督の生徒が手で丸を作った。目を瞑って息を吸う。主役は熱血男子のクラス委員長。普段の自分とはまったく違う。その役に息を吹き込めるか、それは自分次第だ。
「始め!」の言葉が空気を切る。次の瞬間、洸太は湊太のメモの通り机にこぶしを叩きつけた。
「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」
隣の女子を睨むと、彼女は一瞬たじろいだ。だがすぐに言い返してくる。
「『あんな言い方したら誰だって反対するでしょ。言い方よ、言・い・か・た!』」
「『ふたりとも待ってよ。うちらが言い合ってたってしょうがないじゃん』」
「『しょうがないって、俺にとってはしょうがなくねーんだよ。あーあ、明日のホームルーム、どうすんだよ……』」
肩をすくめ、髪をぐしゃっと掻く。
「『そんなこと言ったって』」
そのセリフを言った女子の口調がゆっくりになったので、自分が早口になっていることに気づいた。すぐにその意味を理解して息を呑み込み、顔をあげた。「もう一回聞くけど」と人差し指を立てる。
「『俺らのクラスだけクラス行事はなんもせずに自宅学習でいいんだな? 他のクラスはウォークラリーやゴミ拾い競争とか思い出作りをすんのに』」
「『受験勉強をしたいっていう子もいるんだよ』」
「『そうそう。思い出よりも未来が大事って考えてるだけ』」
「『でも行事は高校の行事じゃねえか。クソッ、なんで分かってくんねーのかな』」
「『ひとりで突っ走ってもみんなはついてきてくれないよ』」
「『俺が黙ればいい意見が出るって言うのかよ?』」
五分弱のシーンを終えて「そこまで!」の声が入ると、途端に全身から力が抜ける気がした。思ったより照明が熱い。ジャージの下に変な汗を掻いていて、喉がからからだ。だが、すぐに舞台上が拍手に湧いて、「コータすごいじゃん!」と部員にわっと囲まれた。
「ソータと演技がすごく似てた! いや、口調が似てたって感じかな」
「台本マジで覚えてんの? すげえスムーズだった」
「こんなに上手いなら役者やればいいのに」
周りの歓声に顔が赤くなるのが分かった。前髪で眼鏡を隠し「いやいや」と手を振ってうしろへ下がる。
「ソータを真似すればいいんだなって思っただけ! ホント、それだけ!」
「でも、ソータができるまでコータが役をやってよ。ソータを再現できるなら周りもそれが一番いいし」
「十五ページのところ、はけるのがちょっと早かった。ソータに聞いて調整して」
「十二ページのセリフ、走りがちだからもう少しゆっくりしゃべってほしい」
代役が決定事項のように次々とアドバイスされ、普段黙々と作業をしがちな洸太の背から汗が噴き出す。
「あのー……」
そこへ一つの声が割って入ってきて、みんなが一斉に声のする舞台下を見た。洸太は驚いた。キャメル色のカーディガンの肩に鞄をかけたミナトが金髪プリンの頭を掻いている。
「部活中にすんません。体育の時間にジャージの上着をここに置き忘れちゃったんですけど、赤ジャージの上着、ありませんでしたか」
「あ、毒島君、あったよ。胸に名前の刺繍が入ってたから分かった」
一年女子が舞台袖からきちんとたたまれたジャージを持ってきた。舞台の上からミナトに「はい」と渡す。ミナトは顔見知りらしき彼女に「サンキュ」と言ったあと、舞台上の洸太とパイプ椅子に座る湊太に目線を行ったり来たりさせた。そして湊太のほうへ尋ねる。
「弟先輩があの役ですよね。椅子に座ってどうしちゃったんですか」
「体育の時間に足を捻挫しちゃったんだよ。だから代わりをコータに任せた」
「双子入れ替わりの術的なやつですか」
「うーん、そんな感じ? だって、コータ、俺のセリフを全部暗記してるから。コータなら俺の役をできるし」
湊太のセリフに彼はふうんと言ってこちらを見た。その目線にどきっとする。
「先輩、眼鏡外して髪型を変えたらいいんじゃないっすか。より弟先輩に近づくっしょ」
「ソータのセリフを言う人が必要ってだけだから、そこまで真似しなくても」
「あ、そうなんすか。弟先輩を真似するって言ったから、そういうことなのかと思ったっす。失礼なこと言ってすんません」
彼はぺこりと頭を下げると、「じゃ」と言って体育館を出ていこうとした。そこへ湊太が「あ! 君!」と呼び止める。
「演劇部に興味ない? 文化祭で感動したって言ってくれたじゃん。見学してかねえ?」
すると先ほどジャージを渡した子が「そうだ」と頷いた。
「毒島君、部活は入ってなかったよね。演劇部、男子は少ないの。背景のパネルとか、生徒で作ってるんだよ。毒島君なら体も大きいし、大道具を作るの得意そう」
するとミナトは今度は湊太とその子に視線を行ったり来たりさせた。
「オレ、すごい不器用。針に糸を通せないし、みかんの筋をきれいにとれない人だけど」
そう言ってから、ミナトの大きな目がびっとこちらを見た。
「でも、先輩の劇、おもしろそうっすね」
彼はそう言うとその場にすとんと座り、長い足の膝を抱えた。
「見学してくっす。バイトまで時間あるし」
驚く洸太の前で、湊太が「あそこに椅子あるぜ」と壁に立てかけてあるパイプ椅子を左手で指さした。ミナトがパイプ椅子を持ってきて湊太の隣に置き、腰かけて足の上にこぶしを置く。
「それで、今のシーンだけど」
ひとりがはっとしたように言い、みんながようやく意識を劇に戻した。役者の子と打ち合わせしながら、洸太の意識の一部がミナトへと向けられている。部活仲間に演技を見られるのも緊張するが、彼に見られるのだと思うと一層緊張してくる。
その後、最後まで湊太の代わりを演じ、照明係は後輩に任せた。スポットライトが当たると、その熱にいつも湊太はこんな熱気を浴びているのかと思う。きっと、照明をやっている自分の思いを受け取ってくれているだろう。
役者の立場になって、照明のすごさが実感できる。洸太にとって自分が自分を認められる初めての瞬間だった。