夏期講習最終日の翌日から新学期がスタートした。だが、ずっと机に向かっていただけの期間とは違い、体育があったり化学の実験があったりと、実技があるのは息抜きになる。
 クラスメイトも同じように感じているようで、体育がある日はみんなどこかうきうきしていた。暑い日が続く九月はまだプールが人気だ。プールのあとの授業では、まどろみが洸太を襲ってくる。
 その中で、洸太は初めての古典の時間をどきどきしながら移動した。前期と同じ席に座ると、懐かしい丸文字がある。
『夏休みなにしてた? こっちはバイトと宿題』
 勉強の質問ではなかった。にやけそうになる口をごしごしとこすってごまかし、「勉強三昧だけど映画を見に行った」と書き残す。すると次の落書きは「①三昧ってなんて読むの? ②映画っていいよね」に変わっていた。
 ミナト君、僕って全然気づいてないな。
 ふふっと笑い、返事を書き込む。
 ふたりだけのやり取りは夏休みのふたりだけの時間を思い起こさせる。強い日差しの中入ったファミレスのクーラー。タッチパネルを操作するたびピッと鳴る音。ドリンクバーでグラスに入れるときにカラカラとぶつかる氷。そして向かい合って広げる教科書や問題集にペンケース。
 その穏やかな時間がそっくりそのまま机の上に閉じ込められている感じがして、ミナトが問題が分からないと眉間にしわを寄せていた顔まで思い出してしまう。
 その日の部活は久しぶりに最初から最後まで通しで行った。ジャージに工具の入った腰袋を下げ、上手(かみて)の舞台袖の梯子をのぼって小さな調光室(ちょうこうしつ)から舞台を見下ろし眺める。舞台中央ではジャージのままの湊太が台本片手に声を張っていた。
 劇は高校三年生の教室が舞台だ。主人公はクラス委員長。高三の秋を迎え、最後の行事について話し合う。クラス毎にやる内容を決めるのだが、主人公のクラスは一体感がなく、「自宅学習でいいじゃん」とみんなが口々に言う。熱い性格の主人公はそれに納得がいかず、みんなが楽しめる行事をやろうと促す。だが、それは主人公の自己満足ではないかと指摘する生徒が現れる。
 正しさとはなにか、主人公が葛藤する姿に見る青春と成長の物語だ。
「『どうして分かってくれねえんだよ! 俺のほうが正しいだろ!』」
 湊太の演技を見ていると胸がどきどきしてくる。演技を肌で感じられる劇は映画とは違う。頬の産毛がちりちりしてくるような、腹がざわざわとしてくるような、臨場感が洸太の胸を焼く。舞台に感じる魅力は幼い頃からずっと感じてきた。数メートルかける数メートルの舞台。現実世界から独立した世界が構築される舞台の上は輝きに満ちている。
 翌々日、古典の教室に行くと、丸文字が「文化祭ってなにが楽しい?」と尋ねてきた。洸太は「演劇部を見に行くといいよ」と返事をした。
 ミナトと何回か一緒に帰ったあとの九月の連休、文化祭の日になると、朝から教室は騒がしかった。勉強から一日解放される行事は特進のクラスを盛り上げる。ライムグリーンのクラスTシャツをまとうと、みんなのテンションがあがってくるのが分かった。
「コータ、部活の子と回るんだっけ」
「うん。あとで向こうのクラス前で待ち合わせ」
「演劇部は何時からだっけ。また弟が主役やるんだろ」
「二時から。よかったら見に来てね」
 ミナト君、来てくれるかな。
 そう思いながらクラスメイトと別れ、教室を出た。ポップな飾りつけや呼び込みの声が文化祭の盛り上がりを感じさせたが、洸太はひとり図書室へ行った。部活仲間との約束なんてしていない。図書委員おすすめの本紹介を眺め、ミナトがおすすめしている本を本棚に取りに行って席に座る。文化祭の中でも図書室だけは静かだ。
「寿君、今日はどうしたの」
 ほとんど生徒のいない中で司書教諭が話しかけてきたので、「部活までここで過ごします」と答えた。クラスメイトといると劇が気になることを話せない。部活仲間だと今日の解放感を説明できない。ひとりでゆっくりと落ち着きたかった。
 だが、次第に本を見ていても目が滑って、演劇が始まる緊張に何度もスマホの時間を確認してしまう。
 次の地区大会でよりよいものを披露するために、今日は前回の大会とは少し演出を変えたものを披露する。昨日のゲネプロでは音響とうまく噛み合わず、部員から飛んできた内線の指示にあたふたした。今日こそは成功させたい。
 一時に全部員が第一体育館に集まった。ニスでぴかぴかの床にずらりと並んだパイプ椅子を見ると気持ちがしゃんとして気が引き締まる。
 台本の書き込みを見ながら細かい部分を打ち合わせし、一時半には調光室に入った。反対側の下手(しもて)の舞台袖には音響室があって、お互い僅かな明かりの下で調光卓やミキサーを操る。だが、その小部屋が舞台を輝かせ、役者の演技をより華やかにするのだ。
「二時より、第一体育館にて演劇部による劇を行います。みなさま、第一体育館にお集まりください」
 校内に流れる放送が聞こえてきて、みんなが笑顔で親指を立てて合図を送り合う。高揚した気分のまま小部屋から客席側を眺めていると、人が集まり始めた。体育館の入り口で部員が入ってくる人たちにプログラムを手渡し、席へ誘導する。演劇部がそれなりに有名なのもあり、文化祭では近所の人が演劇だけを見に来ることもあるし、演劇部の中学生が来ることもある。
「照明、準備できてる?」
 内線の言葉に「心の準備もね」と返すと向こうが笑った。洸太は後輩と黒い調光卓の前で椅子に腰かけた。目の前のボタンを押すだけで舞台にライトが落ちる。朝なのか夕方なのか、楽しい時間なのか悲しい瞬間なのか、世界の色を支配するのだ。
 ざわざわと人が集まってくる音がする。どきどきする心臓に胸を当て、大きく息を吸う。
「コータ」
 小部屋の下から声がして、そちらを覗き込んだ。ブレザーにネクタイの制服を着た湊太がグーの左手を突き出してきたので、グーではなくパーを出した。湊太がおかしそうに笑う。だがすぐに湊太は真剣な表情で舞台を見つめて、洸太はきりっと顔をあげて調光卓を見た。スイッチを押し、灯るランプを目に焼きつける。
「これより、演劇部による演劇を開始します」
 影アナの声に体育館が拍手に湧く。小窓から客席を見れば椅子は満席で、壁に沿って立ち見客もいる。開演のベルにぶわっと頬の産毛が立つのを感じる。この瞬間だ。緞帳(どんちょう)で仕切られた新しい世界の幕が上がる。
 洸太は台に指を滑らせた。


 結果、劇は大成功に終わった。大きな拍手の中のカーテンコールもみんなが笑顔になれたし、ちらりと見ただけだが書いてもらったアンケートもおおむねいい評価が書かれている。
「来月の地区大会を通過したら県大会。今年も絶対行くよ!」
 円陣を組み、部長の女子の声にみんなで「おー!」と気合いを入れてハイタッチを鳴らした。音響の子に「お疲れ」と手を出すと、向こうも嬉しそうに「コータもお疲れ」とタッチを返してくれる。弾ける音にようやく緊張が解けた。
 舞台の片づけや反省会は明日になり、まずはクラスへ戻って帰りの会に参加する。それを終えて鞄を持って廊下へ出ると、普通科の教室の前に女子の人だかりができていた。中心にいるのは湊太だ。昨年と同じ光景にくすっと笑う。一年間の中で湊太のモテ期は学内公演後だ。
「ソータ、お先に」
 洸太がそう言って横を通り過ぎると、「コータ! ヘルプ!」と声が飛んでくる。文化祭となるとみんなテンションが高いわけで、そんな女子たちの相手をできるわけがない。洸太は手をひらひらと振って無視し、ぺたぺたとリノリウムの廊下を進んだ。
 秋の日はつるべ落としで、九月も下旬に入ると途端に日が短くなる。夜の迫るオレンジ色の空を見て、洸太は昇降口に向かった。
 昇降口には「ようこそ石見祭へ!」という飾りつけが残っていて、まだ文化祭の余韻が漂っている。洸太も劇が成功して大満足だ。他の生徒たちもわいわいとしていて、立ち話をしている姿も多い。
 内心鼻歌を歌いながら校門へと坂道を下っていると、遠くから駆ける足音が近づいてきて、「先輩!」とうしろから肩を掴まれた。
 力強さに驚いて振り仰ぐと、そこにいるのは鞄を肩にかけたミナトだった。はあはあと息を切らし、自分を見つけて走ってきたようだった。今日は前髪だけあげて二本のピンでバツ印に留めている。
「あの、今日、演劇部を見たっす!」
 興奮気味に話すミナトの口元が笑う。あ、見に来てくれてたんだ。洸太の胸が熱くなったが、ミナトは「すごかったっす」と笑顔を咲かせた。
「主役、めちゃくちゃかっこよくて! 先輩、あんなすごいなら先に教えてくださいよ」
――あ、そっか。
 ミナトの言葉に熱くなっていた胸がさっと冷えた。
 洸太はそこで初めてミナトと一緒にいると居心地がよかった理由を理解した。ミナトが湊太の存在を知らなかったからだ。洸太は湊太のことを弟としか表現していないし、一学年違うミナトが科の違うこちらの関係に気づくこともない。洸太は自分が演劇部だということもミナトに言っていなかったから、ミナトはあの机の文字に従って演劇部を見に行き、主役をやっている湊太を見てこちらと間違えたのだろう。
 ふたりでいるといつも華やかなのは湊太で、いつも目立つのが湊太。だからいつもすごいと言われるのも湊太だ。小さい頃からそれが当たり前だった。先ほど廊下で湊太に群がる女子がいたのと同じように、仲良くなったこのミナトだって、湊太の存在を知ったらそちらに目が行く。
 これは、いつものことだ。湊太がすごいのはいつものこと。
 すうっと息を吸って、ミナトに向き直った。にっこりと笑ってみせる。
「本当? ありがとう。ソータにそう言っておくよ」
 案の定、ミナトが戸惑った顔になる。
「ソータに言っておく……? え、先輩の名前って寿湊太っすよね」
「ううん、僕は寿洸太。漢字が似てるから間違いやすいけど。いつも見てる図書室のカードにも書いてあるでしょ」
 洸太は財布からカードを取り出し、差し出した。受け取った彼が、洸太の名前の書かれたカードを凝視する。
「ことぶき、こうた……」
 彼が思わずと言ったように言う。
「オレ、演劇部を見に行って、先輩が主役をやってるって思ったんすよ。プログラムの主役のところに寿湊太って書いてあって、寿なんて珍しい名字は先輩だけだろうって思ったから。顔も似てたのに……」
 ミナトがカードを掴む指にぎゅっと力を入れて呟く。
「髪型が違うの、ワックスでもつけてんのかと思った。先輩じゃなかったんだ」
「ソータは弟。弟って言っても双子だから二年生ね。でも、似てるなんて最近は言われないけどな。あっちは眼鏡をかけてないのによく気づいたね」
 ミナトが洸太とカードに目を行ったり来たりさせる。そこへ足早に校門に向かうリュックを背負った男子が「あ」と足を止めた。噂をすれば湊太だ。
「コータ、早く帰ろうぜ。今逃げてきたんだよ。なんで助けてくんねえんだよ」
「ソータ。この子、一年生。今日の演劇を見てくれたって。主役かっこよかったって」
 すると湊太が嬉しそうに「マジ?」とミナトを見上げた。
「ていうか一年? でっか。何センチあんの?」
「……あ、一八三です。あの、演劇すごかったっす。演劇って初めて見たんすけど、本当にびっくりしました」
 すると湊太がにかっと歯を見せて「サンキュー」と笑った。
「そんなに身長あるなら舞台で映えそうだな。うちの部に入ってよ」
「いやいや、演技なんてなんも分かんないっす!」
 ミナトが慌てたように手を振って、湊太はそれにも笑った。そしてこちらに「早く帰って来いよ」と言い、たたっと坂道を走って下りていく。
「ね、あれが弟のソータで、演劇部の主役。似てないでしょ」
 彼がぽかんとしたように湊太の背を目で追った。
「たしかに、あの人だったかも……。主役が出てきた瞬間、遠目だったけどイケメンだなって思って。よく見たら顔が先輩だったからめちゃくちゃ驚いて、プログラムを見て寿って名字を確認して、なんで教えてくれなかったんだろうって思ったんす。弟先輩と先輩、すげえ似てるっすよ」
 そこでミナトは怪訝そうにこちらを見た。
「でも、先輩も演劇部っすよね。図書室で演劇関係の本を借りてるなって思ってたんすけど。だから演劇部だろうって思ってたし、主役を先輩だと思い込んだんだし」
「よく覚えてるね。たしかに僕は演劇部だけど、役者をやるわけじゃなくて照明係なんだ」
「照明?」
「劇の最中、ライトの色が変わったりスポットライトがひとりに当たったりしたの覚えてる? 役を演じるのは役者で華やかだし注目されるけど、その役者にライトを当てるのは照明係。見てる人が今誰を見るべきなのか、誰が輝いている瞬間なのか、全体がどんな雰囲気なのかを演出できるんだ。やりがいあるよ。たまにライトが熱くて火傷するけど」
「……なるほど」
 ようやく彼は納得した声を出した。そしてこちらをじっと見下ろす。
「あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね」
 まっすぐな目とミナトのセリフに思わず言葉に詰まる。照明係と言えば地味。演劇を知らない人からすればどこにいるかすら分からない裏方だ。照明係をそんなふうに評価されたのは初めてだった。
 彼は再び洸太のカードに目を落とした。
「先輩、名前に光って入ってるし、照明係も似合うっす。名は体を表す、ってことっすか。人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。先輩、めちゃくちゃかっこいいっす」
「……あ、なんか気を遣わせてごめん」
 湊太をかっこいいと思ったのに、なんだかこちらを褒めないといけない空気にしてしまった気がした。ミナトがまた湊太が去った方向を見る。
「演劇部ってみんなあんな演技できるんすか。弟先輩、すごく上手かったっす。オーラがあるとか、そういう感じでした」
「ソータは子役出身だからね。僕は役者をやったことがないから、あんなふうにはできないと思うけど」
 するとなにを思ったか、彼が突然こちらに大きな手を伸ばしてきた。
「弟先輩があんだけかっこいいなら先輩もかっこいいっしょ。演技する役、やんないんすか」
 大きな手が洸太の前髪をうしろへ掻き上げた。そして両手で眼鏡を外す。視界から眼鏡の黒縁が消えて、頭を撫でた手の温かさに体が固まった。ミナトが「やっぱり」と笑顔を咲かせる。
「ほら、先輩もやっぱイケメンっす。眼鏡にかかる前髪、長過ぎっすよ。おでこ出したほうがいいんじゃないっすか」
 本音を言ってるとばかりの言葉に、顔がかーっと熱くなった。自分が真っ赤になるのが分かる。湊太が万人受けする爽やかな顔をしているのは分かっているが、自分はイケメンだなんて言われたことがない。湊太と比べて地味。そう振る舞ってきたし、それが正しい評価だと思っていた。
――いや、それを正しい評価にしたかった。湊太と比べられることがあのオーディション以来怖かったからだ。
「そう言うミナト君も、目おっきくてイケメンなんじゃない!?」
 恥ずかしさに眼鏡をひったくって彼の顔に押しつけた。曲がって眼鏡をかけたミナトが驚いたようにこちらを見下ろす。だが、黒縁の眼鏡が案外似合っていたので、思わず笑顔になってしまった。
「ミナト君、眼鏡が似合うかも。オフの日って雰囲気だね」
 するとなにを思ったのか、彼のほうが顔を赤くさせた。そして額を押さえる。
「いや、これ、先輩の眼鏡だし……先輩の眼鏡、かけちゃってるし……なんか微妙に温けえし……」
「ミナト君って裸眼? 僕は裸眼で大丈夫なんだよね。この眼鏡、伊達眼鏡だし。ほら、度が入ってないでしょ?」
「オレはコンタクトっす……家では眼鏡っす……てか、伊達眼鏡ってなんすか……」
「えっ、ホント? 眼鏡の写真見せてよ。絶対似合う。伊達眼鏡は、なんとなく。役者が衣装を着るのと同じだよ」
「なんとなくってなんすか……ってか、ホント、先輩、破壊力半端ないっす」
「前も言われたけど、それどういう意味?」
 すると彼は黙りこくってしまい、はあと息をついた。そして眼鏡を外し、ていねいに折りたたむ。そして「はい」とこちらに差し出した。急いで眼鏡をかけ、手櫛で前髪を戻す。だが、ミナトは腕を組んでこちらをじろじろ見た。
「先輩、髪切りませんか。少なくともデコは出したほうがいいっす」
「髪型は特にこだわりないけど、顔出すのはちょっと恥ずかしい」
「顔面偏差値が高いのに隠すって意味分かんないっす」
「偏差値が高いか分かんないけど、気が向いたらね」
 ミナトは「じゃあ楽しみにしてるっす」と笑った。そして鞄を肩にかけ直し、こちらの背中の真ん中をぽんと叩いた。こちらを押すように歩き出す。
「一緒に帰りましょ。弟先輩もすごかったっすけど、演劇部全体がすごくて楽しかったんす。映画を生で見たって感じで、見に行ってよかったって。先輩にそれは言わなきゃと思ってたんすよね」
 ミナトは心の底からそう思っているようで、洸太の口元がほころんだ。演劇を知らない子にもあの世界を見てもらえた。それが分かると普段の練習や苦労が報われる気がする。
「それならよかった。来月地区大会があるから頑張らなきゃいけないんだ」
「大会なんてあるんすか。オレは詳しいことは分かんないっすけど、今日の話はおもしろかったっす。ザ・青春っすね。黒板に貼ってあるプリントが曲がってる感じがめちゃくちゃリアルで、オレのクラスがモデルかもと思って思わず席の数数えたっす」
 相変わらずの独特な見方に思わず笑ってしまう。だが、そのプリントを作り、斜めに貼るというのを考えたのは演劇部だ。ミナトの目線は細部に注意を払ったこちらの意図まで指の先ですくうように汲み取っていく。照明係というものにさっきのような感想を持てるのも、ミナトの細やかな感性ゆえだろう。ミナトのおしゃべりが続く。
「オレ、中学のとき陸上部だったんすよ。全然筋肉つかなくて弱かったっす。先輩、半袖のときに見たら腕とかめっちゃ筋肉ついててびっくりしました」
「裏方って肉体労働なんだよ。筋トレするから腹筋が割れるし」
「マジか。オレ、体質なのか筋肉つかなくてぺらぺらなんすよね。背高いのはオレっすけど、男らしいのは先輩っす。羨ましいっす」
 それ以降、ミナトは湊太のことを一度も口にしなかった。ミナトが図書室の本で紹介していた本に触れると、「先輩に読まれるのは緊張するっす」と笑う。ミナトに主役のことを言われたときに冷えた心の底がだんだんと温まっていって、「じゃあまた」と笑顔で駅のほうへ消えていくミナトの背中を見つめた。地平線に近づいた太陽がミナトの金髪を明るく照らしていて、毛先が翻るときらきらと光る。
 そのきらきらしたミナトの笑顔が脳に貼りついている。まるで劇が終わった直後のように胸が熱い。
――あの弟先輩がかっこよく見えたのは、先輩のおかげってことっすね。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
 思わず口元を手で押さえていた。初めてだった。湊太のことを知った上で自分のことをまっすぐに見てくれた人は。小学校入学前から自分は双子の片割れで、「ダメ」な子だった。
 舞台で役者の立ち位置に印をつけることをバミると言う。洸太のバミリはいつも湊太の影にあって、表立って評価されることはなかった。演劇が好きだ。だから「ダメ」な自分は関われるだけで充分すごい。
 それでいいと思っていた。それしかないと思っていた。それなのに、ミナトは洸太を見つけ出した。
 忘れたくても忘れられない幼い日の映像と「あの子はダメだね」の言葉。自分の特性ではきっと一生忘れられないと思っていたあの夏の光景を、植えつけられてからずっと払拭しきれなかった劣等感を、ミナトは太陽の笑顔で白い光の中に薄めていく。
――夏休みなにしてた? こっちはバイトと宿題。
 バイトのあとに声をかけてくれて、一緒に宿題をやった。机の文通もミナトは気づいていないがふたりでやっている。ミナトは湊太のいない空間で自分をさらけ出せた初めての相手だったのかもしれない。
 急いでスマホのスケジュールアプリを見る。ミナトの図書当番の日をメモしてある。あさってが一緒に帰れる日だ。ミナトと話したい。ミナトといると自然体の自分でいられる。ミナトといるとなにも気にせず笑って過ごせる。
――人を輝かせる照明係ってかっこいいっすね。
 どこからか金木犀の香りがする。秋が来た。梅雨の季節にミナトと話して一つの季節が過ぎた。
 家に向かって歩き出すと、次第に早足になって気づくと走り出していた。夕日が目に染みる。目が熱くてしかたなかった。