私たちのクライミングプラン


 人生は山登りに似ている。
 かの有名な心理学者ユングはそう残している。
 
 「今、なんて言いました?」
 
 魚谷瑞希(うおたにみずき)は自分の耳を疑った。

「実は他の女性と結婚を前提としたお付き合いを始めることになったんです」

 彼は実に嬉しそうにメガネをクイと上げ、瑞希に報告した。
 ウキウキとはずむ声に思わず苛立ちを覚える。
 今日は二週間前に結婚相談所から紹介された彼との二回目のデート。
 上手くいけば、これを機に交際に発展するのではと瑞希はひそかに期待していた。
 淡い期待が裏切られたのは、食事を取り終わりデザートが運ばれてきたその矢先だった。

「そう、なんですか……。良かった、ですね……」

 瑞希は動揺を悟られないよう懸命に笑顔を作り、彼の門出を祝福をした。
 衝撃が冷めやらぬまま、おぼつかない手つきで焼きたてのアップルパイを頬張る。
 甘いカスタードクリームに酸味のあるりんごとサクサクのパイ生地の相性は抜群なのに、なぜか味がしない。
 婚活を始めて早二年。
 今度こそと気合い充分で臨んだはずなのに、こうもあっさりお断りされるなんて瑞希自身思ってもいなかった。
 
「魚谷さんも婚活頑張ってください」
「はあ……」

 帰り際、先に婚活すごろくのアガリを決めた彼から激励を贈られる。
 嫌味にしか聞こえないのは、気のせいだろうか。
 いや、気のせいじゃない。
 彼は瑞希の顔を見下ろすと、勝ち誇ったように鼻で笑った。
 
(なんなのよ! もう!)
 
 ちゃっかり二股かけてたくせに、どの面下げて頑張ってなんて言えるのか。
 気取ったメガネをはたき落とし、地面に叩きつけてやりたい衝動に駆られたが、思慮ある大人の振る舞いとしてジッと耐え忍ぶ。
 うっかり話が進んでしまう前に本性が見抜けて本当によかった。

「うう、もう……。結婚って難しいな」
 
 その日どうやって家まで帰ったのかは、いまだに思い出せない。
 瑞希は馴染みのあるベッドに横たわり、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、足をバタつかせたのだった。



(また遅れてる)

 瑞希は電光掲示板に映し出された遅延情報を見て、うんざりとため息をついた。
 電車が遅れるのは今月に入ってこれで五回目だ。
 新学期が始まったばかりの四月上旬とあって、毎日のように混雑による遅延や事故が発生している。
 各駅停車しか停まらないこの駅は急行電車の通過待ちのあおりを食うばかり。
 
(もう今日は遅刻でいいか)
 
 いつもなら代替手段として二十分かけて地下鉄の駅まで歩くが、今日はなんとなくそんな気分にもなれない。
 瑞希はベンチに座ると、肩にずしりと食い込む重たいトートバッグをかたわらにそっと置いた。
 そのまま電車が停まる気配のない線路をぼんやり眺める。
 気まぐれに吹く春風が肩までのびた漆黒のボブヘアをふわりと揺らしていく。若々しい青葉の香りが混じる生温い風に春の息吹を感じた。
 プラットホームには人の姿はまばらだ。皆、早々に見切りをつけて地下鉄へ移動したのだろう。
 瑞希のように呑気にベンチに腰を下ろしている者はひとりもいない。

「休もうかな……」
 
 頭の中に棲みつく小狡い悪魔が甘い誘惑を囁く。ズル休みをしたい誘惑に駆られる。毎日あくせくと働いているのだから、たまにはそんな日があってもいいじゃないか。
 そうだそうだと、悪魔が囃したててくる。
 ひとりになると先日の出来事をつい思い出してしまう。

(そもそも、複数の女性と同時にやりとりするなんてマナー違反でしょ!)

 時間は有限だ。
 ひとりずつ相手をするより、同時にやりとりした方が効率的なのは認める。
 しかし、生涯の伴侶を探している立場としては、誠実さが足りないのではないか。
 瑞希は、はあっとため息をついた。

(これで十人目かあ……)

 自分に至らない点があったのは認めよう。
 可愛らしい仕草や笑顔が魅力的でもない。
 容姿に華やかさがあればいいのだろうけれど、母譲りのストレートの黒髪と、凹凸の少ないのっぺりした目鼻立ちは、メイクをしても実力以上の効力を発揮できない。
 一緒にいて楽しい気分になるような会話術を会得しているわけでもない。
 瑞希には瑞希なりの美点があるはず。
 そうわかっていても心には、ぽっかりと大きな穴が開いている。

「どこか遠くに行きたいな……」

 なんとはなしに呟いた言の葉が風に乗り、すうっとかき消されていく。
 瑞希はふっと自嘲気味な笑みをこぼした。
 
「やだ、学生じゃあるまいし」

 瑞希は今年三十歳になった。アラサーなんて薄いオブラートに包むまでもない、正真正銘本物の三十歳。
 モラトリアムはとうの昔に終わらせていたはず。
 いい歳した社会人が自由気ままに振る舞ったら給料泥棒と後ろ指をさされかねない。
 そもそも、どこに行けばいいのかわからないのに、どこかに行きたいなんて変な話だ。

(さて、そろそろ会社に行きますか)

 いつまでもベンチに座っているわけにもいかない。
 瑞希は勝利を確信し陽気にコサックダンスを踊っていた悪魔を無理やり頭の中から追い出した。
 八年かけて培われた社会人としての性が許さない。なんと悲しき社畜のさだめだろう。
 婚活十連敗を決めたとしても、容易くルーティンは変えられない。
 瑞希が重い腰を上げたその刹那、エメラルドブルーのなにかに目を奪われる。
 瑞希は吸い寄せられるようにベンチから立ち上がり、そろそろと壁に貼られていたポスターに近づいていった。
 
「龍河谷……?」

 瑞希の心を捕らえたのは、龍河谷という国立公園にある蓬莱湖という湖の写真だ。
 いつから掲示されていたのかわからないそのポスターは大きく色褪せている。
 しかし、青空を逆さに映したエメラルドブルーは強烈な輝きを放っていた。


 ◇

「おはようございます」
「おはよう、魚谷さん。今日は遅かったんだね」
「はい。電車が遅れておりまして」
「ああ、四月だもんね〜」

 瑞希は遅刻を上司に報告してから、自席に腰を下ろした。
 サボっちゃおうかなと思っていたのは、チラとでも気取られてはいけない。
 パソコンの電源を入れ、今日のタスクをチェックしていく。
 瑞希は大学を卒業してから、リビングケア、ボディケア、衛生用品を扱う総合企業である『清和堂』で働いている。
 瑞希の所属する部材調達では、清和堂の主力商品である、洗濯洗剤やシャンプーに使う原材料や香料、ディスペンサーやパウチといった容器を仲介業者から仕入れ、管理している。
 調達部の棚にはサンプル用の容器と原料が所狭しと並べられている。

(またか……)
 
 瑞希はため息をつきながら椅子から立ち上がった。サンプル容器の入った段ボールが箱が乱雑に床に置かれているのを発見したからだ。
 犯人はわかっている。
 瑞希は、仕事はしないくせに口だけは達者の課長代理のデスクに直談判しに行った。
 
「課長代理、持ち出したサンプルはキチンと棚に返却してください」
「えー。いいじゃんどうせすぐ誰かが持ってくんだしー。置いといたって困らないじゃん?」

 四十をとうに過ぎた中年男性の若者ぶった言葉遣いはどうも聞くに耐えない。
 端的に言えば、イラっとさせられる。
 
「規則ですから」
「怖い顔しないでよ。今からやるからさあ〜」

 課長代理は渋々、段ボールを片付け始めた。
 瑞希とて怒りたくて怒っているわけではない。
 他に指摘する人がいないから、憎まれ役を買って出ているだけだ。
 黙って傍観している社員と同じ給料が支払われると思うと、本当に割に合わない。
 真面目な性格が損をすることもあると知ったのは社会に出てから。
 真面目にやっている人間より、要領よく適度に手を抜いた人間が出世するのは、課長代理の例を見る限り明らかだ。
 ――婚活でも同じことが言える。

(あー、疲れた)

 遅刻による遅れを取り戻し、午前中の仕事をマキで終わらせた瑞希は社員食堂に足を運んだ。
 同僚達が連れ立ってランチに出かける中、瑞希はいつもひとりで持参した弁当を食べている。
 昔は一緒に出かけたけれど、なんやかんや最近はひとりの方が気が楽だった。

(ふーん。龍河谷って隣の県にあるんだ……)

 ハムとレタスを挟んだだけのサンドウィッチを食べながら、スマホ片手に調べものを始める。
 今朝見たあのポスターの場所がどうしても気になったのだ。
 蓬莱湖は火山の噴火によってできた窪地に雨が溜まってできるカルデラ湖らしい。
 どんな秘境にあるのかと思ったら、まあまあ近い。
 特急列車で二時間。駅からは登山口までバスで三十分。
 しかし、蓬莱湖を臨める展望台広場まで行くには三時間以上山に登らなければならないようだ。
 片道二時間半かけたあとに、さらに三時間の登山が必要らしい。
 
(いやいや、無理でしょ)

 出来ることなら行ってみたいなと思ったのがそもそもの間違いだった。
 ひとりでもふらっと入れるチェーンの居酒屋じゃあるまいし、敷居は高くて当然だ。
 もっぱらインドア派の瑞希は社会人になってからロクな運動をしていない。
 三時間の登山なんて想像すらできない。
 蓬莱湖をこの目で見るなんて、到底無理な話だ。

(でも……)

 婚活十連敗を喫していた瑞希はなんだか疲れていた。
 何でもいいからこの鬱々とした気持ちを発散させたい。

(あの風景を見たら、絶対に元気が出てくるはずなのに!)

 心はすでに龍河谷に旅立っている。柔らかな風を全身に受け、湖を眺めている自分を想像していたそのときだ。
 
「魚谷さん」

 春の日差しの穏やかな空気を纏う女性から、鈴の音色のような軽やかな声で話しかけられる。
 瑞希は慌ててサンドウィッチを飲み込み、後ろを振り返った。

藤峰(ふじみね)さん、何でしょうか?」
「先週頼んでおいたフェイスミストの新しいサンプルボトルってもう届いてる? 来週のプレゼンで使いたいの」
「あ、はい。もう届いてます。のちほど企画部までお持ちしますよ」
「あら、いいの? ありがとう」
 
 チキンサラダをのせたトレーを手に持った彼女はツカツカとヒールをかき鳴らし、流れるような動作で瑞希と同じおひとり様専用のカウンター席に座る。
 小綺麗なネイビーのセットアップ。背筋がピンと伸びた美しい姿勢。
 まるで、目に見えないビロードの絨毯でも敷かれているように、誰もが彼女を振り返っていた。
 藤峰木綿子(ふじみねゆうこ)は、清和堂の中でも異色の存在だ。
 二年前に地方支社から本社に異動になってからというもの、彼女の話題には事欠かない。
 彼女が所属する営業企画部は清和堂の花形部門だ。
 有望な若手や、古参のエースがひしめきあう中、彼女が企画から販売まで担当したルームフレグランス『スノウフレーク』は爆発的な人気を博し、販売以来右肩上がりの売上を誇る。
 三十五歳を過ぎてなお結婚せず、バリバリ仕事をこなす美人キャリアウーマンの木綿子は社内でも一目置かれている。
 もちろん、上層部からの覚えもめでたく、女性初の営業企画部長の座も夢ではないと噂されている。

(世の中にはあんな人もいるんだよなあ)

 木綿子は瑞希のような地味な一般社員の顔を覚え、わざわざ気さくに声をかけてくれる。
 たとえば瑞希が木綿子のように華のある女性だったら、婚活に成功していただろうか。
 思わず考えずにはいられなかった。

 ◇

(見るだけ。ほんのちょっと覗くだけだから)
 
 退社後、瑞希は自分で自分に言い訳しながら、 大型ファッションビルの七階にある登山用品店にやって来ていた。
 
(こんなところに登山用品店があるなんて知らなかった)
 
 このビルには何度も来たことがあるが上層階に登山店があるなんて調べるまで知らなかった。
 入口をおっかなびっくり抜けていけば、いかにも登山用品店という風景が広がっている。
 壁際にはトレッキングシューズに、バックパック。
 最も目立つ入口前のスペースにはテントやバーベキュー用のコンロといったアウトドアグッズが所狭しと展示されている。
 春先のバーベキューと花見の需要を見越しているのか、焚き火の体験セットなんかが手頃な値段で売られている。
 
(へー。おもしろい)
 
 もちろん、目当ての登山グッズも豊富に販売されている。
 レディースコーナーも充実していて、瑞希はホッと胸を撫で下ろした。
 なにせ登山用品店を訪れるのは初めてだ。
 登山といえば男性のイメージが強いが、ちゃんと女性物のサイズも取り揃えられているようだ。
 ところが、安心したのも束の間。
 どんなものがあるのか店内を練り歩いていた瑞希の足取りが次第に重くなる。
 
(どうしよう)
 
 清水の舞台から飛び降りるような気持ちでここまでやってきたわけだが、初心者の瑞希には何を買えばいいのか見当がつかない。
 例えば、バックパック。
 全てがリットルで表記されている。
 数字が大きければ大きいほど中身がたくさん入るのはわかるが、龍河谷に行くには一体どの程度の大きさと荷物が必要なのか瑞希にはわからない。
 しかも形も種類も様々で瑞希はフックにかかっているバックパックを手に取っては、首を傾げながら戻していった。
 大きく弾んでいた気持ちが、徐々に萎んでいく。

(すっかりその気になってたけど、本当に龍河谷に行くつもり?)

 道具を揃えればなんとかなるかもと思っていたが、気持ちが揺らいでいく。
 行く、行かないのルーレットが頭の中で、ぐるぐると回り続ける。
 そうして店内をあてもなく彷徨っていた瑞希の目が、ふいに”龍河谷”という三文字を捉えた。
 店内に設置されていたラックに、『春にオススメ、龍河谷トレッキングツアー』と題されたフライヤーが置かれていたのだ。
 瑞希はパアッと顔を輝かせた。

(ひとりで行くつもりだったけど、複数人で行くのも全然アリだ!)

 喜び勇んでラックからフライヤーを抜き出し手に取ったその刹那。
 
「魚谷さん」

 瑞希の肩にポンと誰かの手が置かれた。

「ひっ!」

 瑞希は小さく悲鳴を上げ、思わず肩をすくませた。手からスルリとフライヤーが滑り落ちる。

「驚かせてごめんね。知っている人がいたから、つい話しかけちゃった」
「ふ、藤峰さん?」

 突然、声をかけてきたのは瑞希と同じ仕事帰りと思しき木綿子だった。

(な、なんで藤峰さんが登山用品店に!?)
 
「ん? なにか落としたよ」

 木綿子は瑞希が床に落としたフライヤーを拾い上げたかと思えば、まじまじと眺め始めた。
 
「魚谷さん、龍河谷に行くの?」
 
 ――しまった。
 ポスターに心惹かれて興味本位で登山を始めようとしているのをまだ誰にも知られたくなかった。
 しかし、フライヤーを眺めている現場を押さえられては、誤魔化しようがない。
 瑞希は仕方なく白状した。

「ほ、蓬莱湖に行ってみたくて……」
 
 瑞希がそう言うと、木綿子はもう一度フライヤーに視線を落とした。
 
「このツアーだと蓬莱湖には行かないわよ? その手前で折り返すルートだもの」
「え!?」
 
 木綿子いわく、龍河谷には複数の登山ルートが存在し、このツアーでは蓬莱湖までは行かないらしい。

(そんなあ……)

 期待を膨らませていたこともあり、瑞希はすっかり肩を落とした。
 落胆する様子を見かねたのか、木綿子が口を開く。
 
「えーっと、魚谷さんさえよければなんだけど……」
「はい?」
「私と一緒に登らない?」
「藤峰さんとですか?」
「ええ。私も龍河谷には何回か登ったことがあるし、知らない人同士で登るよりずっと気楽でしょう? 車で行くつもりだから家まで送り迎えもできるわ」

 瑞希は思わず目をパチクリさせた。
 この口ぶりからすると、もしかして……。
 
「藤峰さん、登山がご趣味なんですか?」
「ええ」
 
 キャリアを極める木綿子と山登りがいまいちイコールで繋がらない。
 たしかに同行者がいれば、初心者ひとりで行くよりもずっとハードルが下がる。
 そのうえ、家まで送り迎えもしてくれるなんて、至れり尽くせりだ。
 なにごとも先達がいてほしいものだと、詠んだのは徒然草の兼好法師だったか。
 旅は道連れだとよく言ったものだ。
 瑞希はしばし考えた末にもう一度清水の舞台から飛び降りる覚悟を決めた。
 
「お願いしてもいいでしょうか?」
「決まりね」
 
 こうして瑞希は清和堂のマドンナである木綿子とプライベートの連絡先を交換したのだった。


 木綿子からメッセージが届いたのは、帰宅後のことだ。
 風呂上がりの瑞希は髪をタオルで拭きながら、スマホを手に取った。
 
【買い物なんだけど、次の土曜はどう? お店の前で待ち合わせしましょう】

 なにを買えばいいのかわからないと泣きつくと、木綿子は買い物への同行を快く引き受けてきた。
 ひとりで怖気づいた身としては、やはり木綿子の存在は大変ありがたい。
 
(なるほど。上級者は登山用品をギアって呼ぶのか)

 早速、ひとつ発見をした瑞希は【よろしくお願いします】とメッセージを返信した。

 ◇

「おはようございます」
「おはよう、魚谷さん」
 
 木綿子はビジネス用のセットアップではなく、タイトジーンズにロングカーディガンという、いくらかカジュアルな出立ちで登場した。
 
「さ、行きましょう」

 登山用品店に入るなり、魔窟のような店内を先陣を切って歩いていく。
 頼もしい背中は会社で見かけるものと、まったく同じである。

「魚谷さん、登山は初めてなのよね?」
「はい」
「それならまずは靴ね。トレッキングシューズは普通の靴と違って生地も厚くて重たいの。メーカーによって履き心地が全然違うからきちんと試着しましょう」

 木綿子は慣れた足取りで瑞希をトレッキングシューズ売り場に案内した。

「魚谷さん、靴のサイズは?」
「二十五センチです」
 
 木綿子は棚に置かれている靴をいくつか見繕い、瑞希に渡した。

(なにこれっ! 本当に重いっ!)

 木綿子の言う通り、トレッキングシューズは手に取るとズシリと重たかった。

「なんでこんなに重いんですか?」
「怪我をしないように足先とか足裏が丈夫にできているの。ハイキング用の軽いタイプもあるけど、龍河谷は岩も多いし滑って危ないからハイカットがおすすめ」
「な、なるほど……」

 木綿子に言われるがままに、トレッキングシューズを履いた。

「履けた?」
「はい、なんとか……」

 紐を何度もクロスさせる必要があり手間取ったが、どうにか履けた。
 瑞希はその場で立ち上がった。
 それにしても、足首ががっちり固定されていて歩きにくい。
 足を持ち上げるのも一苦労だ。
 ローヒールのパンプスや、スニーカーを履き慣れていると違和感しかない。

「じゃあ早速歩いてみましょう」

 木綿子は小石や砂利、急傾斜が作られた模擬コースを指さした。
 まるで小さめのアスレチックのようだ。

「ここを歩くんですか?」
「登山って平坦な道だけを歩くわけじゃないでしょう? だから、こうやって山道を模したコースで履き心地を色々と試すの」
「あ、なるほど」

 瑞希はポンと手で鼓を打った。
 舗装された道路を歩くわけではないのだ。
 怪我防止だと思えば、ゴツい作りも納得だ。
 瑞希は何回か試着を行い、一番履きやすかったワインレッドのトレッキングシューズをカゴに入れた。
 
「靴が決まったら、次はバックパックね。日帰りだし、おすすめは大体このあたりかな」

 靴が決まると今度はバックパック売り場に連れてかれる。
 他にも帽子や、レインウェアを次々物色していく。
 日頃から経営陣を相手にプレゼンを行っているだけあって、木綿子の提案力はそれは素晴らしかった。
 アドバイスのひとつひとつが実体験に基づいていて的確だ。
 瑞希は迷うことなく勧められたギアを次々とカゴに入れていった。

(この人、本物のガチ勢なんだな)

 登山が趣味と聞いたときは半信半疑だったが、嬉々として山登りのノウハウを語る木綿子を見た今となっては認めざるをえない。

(藤峰さんはどうして登山を始めたんだろう?)

 他人の趣味に口を出すつもりはないが、いつか機会があれば尋ねてみたい。

「ところで、藤峰さんはなにを買ったんですか?」

 瑞希が小物を見ている間に、木綿子は既に己の買い物を済ませ、店名がプリントされた紙袋を腕に下げていた。

「新しいカラビナでしょ。あと、プロテイバーの新しい味がでてたからそれを五本。あとはこれ!」

 木綿子はホクホク顔で紙袋を開け放ち、猫のイラストがプリントされたTシャツを広げてみせた。
 それも、色違いで三種類も。

「全部同じ柄ですけど……」

 たまらず指摘すれば、木綿子はあっけらかんと言い放った。

「いいのいいの! Tシャツなんて何枚あってもいいんだから! ね、かわいいでしょ?」

 Tシャツの中央には猫が前脚で顔を撫でている様子が描かれている。
 たしかにかわいいけれど――。

「猫、お好きなんですか?」
「好きなんだけど、マンションがペット禁止で飼えないのよねー」

 なるほど、猫への愛情を猫グッズを集めることで昇華させているようだ。

「ほら! 長い時間をかけて山に登るんだから、自分の好きな服を着ていた方が気分が上がるでしょう?」

 無難な無地のグレーやネイビーのTシャツを選ぶつもりだった瑞希はある意味衝撃を受けた。

(なるほど。そういう考え方もあるのか)
 
 ちらりと棚の上のマネキンを仰ぎ見れば、着こなしもさまざまだ。
 シンプルなボトムスの他にも、キュロットスカートにレギンスを合わせたり、巻きスカートなんてものもある。
 自分の好みに合うものが見つかれば、登山をより一層楽しめる違いない。
 しかし、登山初心者、所詮付け焼き刃の瑞希には無理な話だ。

(まあ、私は普通のTシャツでいいな)

 瑞希はそう思い、手近にあったネイビーのTシャツを手に取った。

「うわあ可愛い! 魚谷さん、そういうのが好きなんだ!」
「え?」

 瑞希は手元にあるTシャツに視線を落とした。
 無地だと思って手に取ったTシャツには三匹のチンアナゴが左胸にプリントされている。

「チンアナゴのプリントTシャツなんて珍しいわね」
「あ、いや、私は……」

 棚に戻そうとしたが、チンアナゴと目があってしまう。
 デフォルメされたクリクリと大きな瞳が「買ってよ〜!」と妙な同情を誘う。
 タグをよく見れば、売れ残りなのか定価の半額の値段に値下げされている。
 棚の中には他に仲間はいないようだ。
 つまり、この子達は売れ残った最後の一枚というわけだ。

(なんか、かわいそう……)

 婚活十連敗中の身として、親近感を覚えてしまったのか、どうしてもTシャツを棚に戻せない。
 
(半額だし!)
 
 瑞希は言い訳しながら、カゴの中にチンアナゴを放り投げた。
 
「登山用品って毎月のように便利なものが発売されるから、散財しないようにするのが本当に大変よねー」
「ぐふっ!」
 
 瑞希は思わず口もとを押さえ、こみあげてくる笑いを我慢した。
 猫Tシャツを三枚も購入しておいて、言える台詞ではない。

(藤峰さんって案外かわいい人だったんだ)

 瑞希はテイクアウトしたコーヒー片手に廊下をヒールで闊歩する木綿子の姿しか知らない。
 完璧美人の木綿子のイメージがガラリと変わっていく。
 瑞希は茶目っ気溢れる木綿子に不思議と親近感を覚えるようになっていた。

 ◇
 
「えーと。水とレインウェアとファーストエイドキットでしょ……」

 木綿子と龍河谷に行く前日。
 瑞希は床の上に荷物を並べ、パッキングを行っていた。
 日帰りとはいえ、荷物は多い。
 登山道の途中には、自販機もコンビニもない。
 必要なものはすべて自分で持っていかなければいけない。
 荷物をすべて入れ終わると、大きいと思っていたバックパックが隙間なくパンパンになった。
 明日は朝五時に木綿子が車で迎えに来てくれる。
 渋滞に巻き込まれなければ、九時には登山が開始できるはずだ。
 明日に備え今日は早めに風呂と食事を済ませ、たっぷり睡眠をとらなければ。
 瑞希が布団の中に潜り込もうとしたそのとき、スマホが着信を知らせた。
 電話は結婚相談所からだった。
 
「もしもし?」
『魚谷さん? この間は残念だったわね。あの方、とっても素敵な男性だったのに』

 そう早口で捲し立てるのは、瑞希を担当する婚活アドバイザーの女性だ。
 五十代前半の小太りで、やや上から目線だがアドバイザーとしての腕はたしかで、彼女のおかげでこれまで何人もの男女が結婚にこぎつけているらしい。

(なんで今日なのよ……)

 なんというタイミングだろう。
 瑞希はうげっとうめきそうになった。
 一刻も早く眠りたいのに、彼女の話はいつも長いのだ。
 瑞希は軽く相槌を打ちながら、壁掛け時計を仰ぎ見た。

「あの男性ね、『あなたが本気がどうかわからなかった』っておっしゃっていたの。どうもあなたには真剣さが足りないみたい」
「はあ……」

 彼女から先日御破算になった男性からのフィードバックが伝えられ、瑞希は辟易した。
 あのメガネ野郎のことなんて、思い出したくもない。

(やっぱりメガネを叩き割っておけばよかったな)

 苛立ちのあまり、つい過激な思考に走る。
 どうやら彼女は瑞希がどうしてお断りされたのか理由を知らないみたいだ。
 矢継ぎ早にアドバイスと称したお説教が続く。

「他の女性はね、本当に努力されているの。エステに通ったり、マナー講座を受講されたり、男性から選ばれるために必死で自分を磨いているの。あなたも自分をよく見せようという努力をしましょうよ」

 そう言われた瞬間、瑞希の中でなにかが音を立てて崩れていった。

「次の男性を紹介する前に少しお勉強したらどうかしら? 女性らしい所作や、温かみのある会話を――」
「もういいです」

 瑞希はヤケクソ気味に言い捨てると、通話終了マークをタップした。
 
「なにそれ」

 悔しさで涙が滲みそうになり、思わず天井を見上げる。
 真剣さが足りないなんてよく言える。
 瑞希だって自分なりに努力したつもりだった。
 デートの前の日は相手のプロフィールを熱心に読み込み、服だって新調した。
 今まで二年も婚活に費やしてきたのに、そんな言い方されるなんてあんまりだ。
 
(私が結婚できないのはアドバイザーに問題があるんじゃないの!?)

 そう真っ向から文句を言ってやればよかった。
 男性から断られるたびに自分自身の生き方を否定され、メンタルがゴリゴリ削られる。
 この気持ちがアドバイザーの彼女にわかるものか。
 瑞希は頭から布団を被り瞼を閉じたが、目は冴えるばかりでちっとも眠れなかった。


「おはよう、魚谷さん」
「おはようございます」

 瑞希はマンションの前まで迎えに来てくれた木綿子に、楚々と頭を下げた。
 
「今日はよろしくお願いします」
 
 そう言って頭を上げれば、にゃおんと決めポーズをとる猫ちゃんと目が合う。

(あ。藤峰さん、猫Tシャツ着てる……)

 今日の木綿子はギュルンギュルンのマスカラも、大ぶりのイアリングも派手なネイルもなし。
 Tシャツにキュロットスカート、スポーツタイプのスパッツという、典型的な山ガールスタイルだ。
 対する瑞希もチンアナゴTシャツにトレッキングパンツと格好だけ見れば、ほぼ同類である。

「行きましょうか。龍河谷までは三時間ぐらいよ」

 バックパックを後部座席に置き、助手席に身体を滑り込ませたら車はすぐに発進した。

「龍河谷も晴れみたい。登山日和でよかったね」

 木綿子の運転する車は、早朝の高速道路を爽快に駆け抜ける。
 瑞希はカーラジオから聞こえる天気予報と渋滞情報にぼうっと耳を傾けていた。

(真剣さが足りないか……)

 ひと晩経ち、怒りのピークが通り過ぎると彼女の言いたいことも、わかる気がしてくる。
 本気で結婚したいのか聞かれたら、力強く「はい」とは答えられない。
 
 性格の合う人がいたら。
 条件の釣り合う人がいたら。
 結婚したいと思えるような人がいたら。

 そうやって、いつも心のどこかで逃げ道を用意していたのかもしれない。
 断られるたびに傷ついていたのはたしかだけれど、心のどこかでホッとしていたのもまた事実だ。
 
(もう、自分で自分がよくわからないよ)

 結婚したいのか、したくないのか。
 三十歳になってもなお、自分で自分がわからないなんて情けない。

「どうしたの? 寝不足?」

 浮かない表情で物思いに耽る瑞希の様子に、なにかを感じ取ったのだろうか。
 木綿子が話しかけてくれる。

「いえ、大丈夫です!」

 瑞希は先ほどとは打って変わり明るく答えた。
 
(いけない、いけない)

 これから楽しみにしていた登山に向かうというのに、暗い顔ばかりしていては木綿子に心配をかけてしまう。

「ほら、あれが龍河谷だよ」

 木綿子に言われてフロントガラスに視線を向ければ、堂々とした稜線が見える。
 瑞希が昨日の出来事を反芻しているうちに、目的地はすぐそこまで迫っていた。
 車はそのまま走り続け、やがて登山口に到着した。

「うわあ――」

 荷物を下ろし車から降り立つと、湿り気を帯びた風が通り過ぎ、思わず身震いする。
 四月も終わろうとしているのに、山の気温はまだ下がらない。
 標高千メートルともなれば、気温は平地より五度は低い。風が吹けば体感温度はもっと低くなる。
 瑞希はウィンドブレーカーを羽織りながら、他の登山者の様子に目を向けた。
 登山口には大勢の人が立っている。
 皆、瑞希と同じようにバックパックを背負い、登山ウェアに身を包んでいた。

(さあ歩くぞ)

 瑞希が意気揚々と登山道へ足を踏み入れようとしたそのときだ。
 
「あ、ちょっと待って!」
「へ?」

 木綿子は先を行こうとする瑞希を引き留め、ポストに似た木製の箱に、ふたつ折りにした紙を差し入れた。
 木綿子だけではなく、他にも同じような人が何人も現れ、次々とポストに紙を投函していく。
 
「お待たせ。行きましょうか」
「あの箱、なんなんですか?」
「ああ。あれはクライミングプランの投函箱よ」
「クライミングプラン?」

 聞きなれない単語で、瑞希は思わず聞き返した。

「えーっと。登山するときは登山口でその日の行程と予想到着時間、同行者の名前や連絡先をあらかじめ紙に書いて提出するのがマナーなの」
「え!? そうなんですか?」
「いざっていうときに誰が入山しているのか、わからないと困るでしょう?」

(たしかに……)

 どれだけ安全に気を配ろうと、遭難や自然災害の可能性はゼロにはならない。
 瑞希たちが登るのはあくまでも自然の山々。
 相手が誰だろうと手加減してくれない。
 無事にクライミングプランを提出したふたりは、ようやく登山道を歩き始めた。
 木綿子によると、しばらくはなだらかな上り坂が続くらしい。
 初心者にはちょうどいい肩慣らしだ。
 歩くリズムとペースを掴みながら、ひたすら足を前後に動かす。
 木綿子は瑞希に歩調を合わせ、ゆっくり進んでくれる。
 
「そういえば、さっきから鈴をつけている人が多いですね」

 歩き始めたばかりでまだ余裕があった瑞希は、なんとはなしに話しかけた。
 ベテラン風の何人かは、カウベルのような大きな鈴をカランカランと派手に鳴らしながら瑞希達を追い抜いていった。
 風の音や、鳥が鳴く声しかしない山の中に、甲高い人工音だけがやたら大きく響く。
 お洒落のひとつかと思ったけれど、あまりにもつけている人が多くて不思議に思う。

「ああ、熊鈴ね。熊が寄ってこないようにするためにつけておくの」
「熊!?」
「龍河谷の周辺は熊の出没情報は少ないけど、熊が出てくる山って結構多いのよ」
 
 瑞希は唖然とした。
 野生の熊と遭遇するなんて、ニュースの中の出来事でしかない。
 口をあんぐり開けた瑞希を見て、木綿子があははと笑いながら情報を足していく。

「熊だけで驚いてたら大変よ。山の中には野生の鹿も猪だっているからね」
「鹿!?」

 熊だけではなく、鹿まで生息しているのか。
 
(私、今日無事に帰れる?)

 瑞希は大自然の生態系を直に感じて圧倒されていた。
 ひょっとして、とんでもない世界に足を踏み入れてしまった?
 にわかに心配になっていると、ふいに真横から視線を感じる。

「あーう?」

 かわいらしいくりくりとふたつの丸い瞳と目が合い、ぎょっとする。
 一歳ぐらいの赤ちゃんが瑞希に向かって、にぱ~と微笑む。

「ふ、ふふ藤峰さん! あれ見てください! 赤ちゃんがいます!」
「あら、本当! かわいいわねえ!」

 赤ちゃんはベビーキャリアを背中に装備した父親と思しき男性に背負われ、大人しく親指をしゃぶっていた。
 見慣れた光景なのか木綿子はさほど驚きもせず、赤ちゃんに軽く手を振った。

(子連れで登山ってどういうこと!?)

 ただでさえ水やら着替えやらで重いのに、子どもを背負って歩こうなんて狂気の沙汰だ。

「すごい……」

 瑞希は感心するしかなかった。
 ――山って不思議だ。
 さまざまな価値観がひとつの場所に集まっている。
 ここでは瑞希の常識は通用しない。
 瑞希はゴクンと唾を飲み込んだ。
 予想通り、物見遊山ではしゃいでいられたのも最初のうちだけだった。

「魚谷さん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、で、す……」

 登り始めて二時間ほど経つと、瑞希の呼吸が明らかに乱れ始めた。
 ふくらはぎが疲労でパンパンになり、膝がガクガクと震えている。
 足を上げるのも億劫で、何度もつまずく。

「休憩しましょう」
「へ、平気です。さっきも休憩したばかりですし……」
「いいから!」
 
 見るに見かねた木綿子はそう言うと、強引に瑞希の腕を引き、登山道の端に連れて行った。
 バックパックからレジャーシートを出し、地面の上に広げる。
 
「ここに座って靴と靴下を脱いで」
「はい……」
 
 瑞希は言われるがまま腰を下ろし、トレッキングシューズと靴下を脱いだ。
 長い時間、足首を固く拘束されたいた分、開放感は格別だったが、左足の小指から三センチほどの辺りからうっすら血が滲んでいる。
 
「靴擦れしてるね。なんで言わなかったの?」
「ペースを落としたくなくて……」
 
 瑞希は口を濁らせ、もごもごと言い訳を始めた。
 最初のうちはすべてがもの珍しく、足に感じた違和感が気にならなかったのだ。
 痛みに気づいたのは、歩き始めてからしばらくしてから。
 靴擦れを起こした右足を庇ううちに、今度は左足までおかしな具合になった。
 
「藤峰さん、私のことはいいので先に進んでください」

 足は痛いし、寝不足だし、身体はクタクタで、メンタルもボロボロだ。
 つい弱音を吐いてしまう。
 
「最初から無理だったんです。碌に運動もしないのに、山に登るなんて。婚活が上手くいかないからって、どこかに行ってみたいなんて馬鹿みたいですよね」

(思い出した)

 婚活を始めたのだって、いい加減な動機だ。
 二十五歳を過ぎた頃から、友人知人が結婚し始め、自分もそろそろ結婚を考え始める年齢になったかと何も考えずに周りに倣った。
 恋人はいないから、結婚相談所に入会して。
 アドバイザーに勧められたから、見合いを繰り返した。
 大学を卒業し、就職して、結婚して、出産する。
 誰もが考える普通の人生というレールに乗らなきゃいけないとせき立てられていた。
 でも、結婚相談所に登録しても、なにも変わらなかった。
 瑞希は今でも変わらずひとりだ。
 ウジウジと膝を抱え出した瑞希に木綿子がそっと声をかける。

「私と一緒だね」
「え?」

 地面の一点を見つめていた瑞希は木綿子を仰ぎ見た。
 目が合うと木綿子はニコリと微笑んでくれた。
 
「私、実はバツイチなの」
「バツイチ!?」

 木綿子がバツイチだなんて、初耳だった。
 会社でもそんな話は聞いたことがない。
 
「結婚して二年後ぐらいにね、子どもが出来ない身体だってわかったの。元夫はそれでもいいって言ってくれたんだけど、彼に人並みの幸せを与えられないことに私が耐えきれなくなって……」

 木綿子はどこか遠い目をしていた。
 昔を懐かしんでいるのか、離婚を後悔しているのか、うまく読み取れない。
 
「離婚した後、たまたま旅行雑誌でトレッキング特集を見たの。あまりに綺麗な写真で、ここに行ってみたいって離婚してから初めて思えた。それから、なんとなーく登山が趣味になって緩く続いている感じ?」

 木綿子はそうして自分の話を締めくくった。

(知らなかった)

 あっけらかんとしている木綿子の知られざる一面に、瑞希はなにも言えなくなった。
 
「人生って山あり谷ありって言うけど、実際歩いてみるときついよね。どっちに歩いたらいいか誰も教えてくれないもの」

 ――そう言えるまでに、木綿子はどれぐらい山に登ったのだろう。
 登って、登って、登り続けて。
 ようやく辿り着いた先にしか、紡ぎ出せない言葉がこの世にはある。

「とりあえず大きめの絆創膏と包帯で保護するね。手当てが終わったら、おやつを食べましょう。魚谷さんと食べようと思って、とっておきの栗羊羹を持ってきたの。甘いものを食べれば元気が出てくるはずよ」

 木綿子はバックパックからファーストエイドキットを取り出し、手早く処置を始めた。
 手当てが終わると、ふたりでレジャーシートに座り、ひと口サイズの栗羊羹を食べる。

(美味しい)
 
 甘い栗羊羹は疲れた身体に効果覿面だった。

「どう? 歩けそう?」
「はい」

 手当してもらったおかげで、靴擦れの痛みもだいぶ和らいだ。

「じゃあ、行こうか」

 ふたりは立ち上がると、再び登山道を歩き出した。
 太陽が空のてっぺんに差し掛かり、木々の隙間からキラキラと光が漏れてくる。
 ポツポツと登山道を照らす光はまるで道標のようだった。
 
(静かだ)

 ざっざっと土を蹴る音だけが耳に心地よい。
 山の中には車のクラクションの音も、エアコンの排気音も一切響かない。
 自分の呼吸音と、地面を踏みしめる足音に支配されている。
 歩いている最中は、無心になって自分自身を見つめ直すしかない。

(そもそも普通ってなんだろう?)

 成長したらキチンとした大人になれると思っていた。
 大人になったら結婚して、子供を産むのが普通だと思っていた。
 けれど、今の自分は子どもの頃に思い描いていた大人像とはかけ離れている。
 今でもピーマンが苦手だし、掃除も洗濯も面倒臭い。休みの日は二度寝が当たり前。
 
(そうだよね)

 普通なんてひとによって違う。
 大多数の人が選んでいる道が、普通だとは限らない。
 別のルートを歩んでいると思えばいい。
 人生という山の楽しみ方は人それぞれだ。
 
「ほら、見えてきたよ」

 木綿子に声をかけられ山頂を見上げれば、木々がひらけ、空が徐々に見え始める。
 瑞希は最後の力を振り絞り足を上げた。
 目的地はすぐそこだった。


 
「うわあ……」

 展望台広場から眺める大パノラマに瑞希は歓声を上げた。
 眼下には見渡す限りエメラルドグリーンの湖。
 遅めの春が訪れたばかりの湖畔には、若芽が青々と芽吹いている。
 雲が大きな影をつくり、ときおり強めの風が吹いたら、水面がさざ波を打つ。
 想像以上の絶景だった。
 ポスターで見た無機質な写真とは比べ物にならない。

(来てよかった)

 瑞希は帽子が飛ばされないように、手で押さえながら、念願の光景を目に焼きつける。
 木綿子はなにも言わず、蓬莱湖を眺める瑞希の隣に立ち、手すりに身体を預けていた。
 風で流れていく雲をいくつも見送り、吹き荒ぶ風に吹かれること数分。
 ふと、展望台広場の一角に人が集まっているのが目の端に留まる。

「あれ、なんですかね?」
 
 トイレや売店があるわけでもない、なんの変哲もない場所に登山者が賑々しく列をなしている。

「あそこのあるハート型の岩の前で写真を撮ると願いが叶うって、最近SNSで評判らしいよ」

 木綿子は理由を知っていたのか、澱みなく答えた。
 やたら若い女性の登山者が多いと思ったら、そういう理由だったのか。
 
「私たちも並ぶ?」

 木綿子に聞かれた瑞希は首を横に振った。

「私は大丈夫です」

 パワースポットにあやかりたくて龍河谷に来たわけではない。
 瑞希にとっては自分の足でこの地に立てたことが一番誇らしい。

「それならご飯にしましょう。お腹空いたよね」

 空いているテーブルベンチに陣取るなり、木綿子はバックパックをゴソゴソ漁り出し、あるものを取り出した。
 
「こ、これが噂の……」
「点けてみる?」

 木綿子がテーブルに置いたのは、ガス缶とガス缶に直接取り付けるタイプのバーナーだ。
 瑞希は木綿子に教わりながらアタッチメント部分をガス缶に取り付け、折り畳まれていたバーナーの四つ脚部分を広げた。
 点火用のスイッチを軽く回せば、簡単に火がつく。

「おー!」

 無事に点火の儀を終えた瑞希は小さく拍手をした。
 木綿子は持参したコッヘルに水を入れ、お湯を沸かし始めた。
 取っ手が折りたためるステンレス鋼の深胴コッヘルは、バーナーと並ぶクライマーの必需品だ。
 昼ごはんは、コンビニのおにぎりとインスタントのお味噌汁。
 お味噌汁をひと口飲んだ瑞希は、ほうっと息を吐き出した。
 
「あったまる〜!」

 遮蔽物のない山頂は文句なしに寒い。
 疲れた身体に味噌汁の塩分と温かみが染み渡り、いつもの何倍も美味しく感じられた。
 しかし、木綿子はどうにも不満げな様子だ。
 
「本当はああいうオシャレなやつもやりたいんだけどねー。私、どうにも料理が苦手で……」

 木綿子は羨ましそうに背後を指差した。
 鼻をすんすんと鳴らせば、どこからか香ばしい匂いが漂ってくる。
 後ろのグループは木綿子のものより大きなガス缶とバーナーを持ち込み、メスティンでソーセージを焼いている。
 ソーセージを炙ったコッペパンにインすれば、ホットドッグの出来上がりだ。

「私もメスティン買おうかなあ。でもひとりだとあんまり使わないし……」

 よほど羨ましいのか木綿子はまだなにごとか、ぶつぶつ呟いている。

(いや、もうこれ。絶対買うやつじゃん)

 言い訳が下手くそか。
 でも、だんだん木綿子のことがわかってきた。
 仕事では原価と販売値をシビアに判断できるのに、登山に関しては財布の紐がゆるゆるになりタガが外れてしまう。
 木綿子にも抜けたところがあるのだとわかると、なんだかホッとする。

「お味噌汁も充分美味しいですよ」

 お世辞ではなく本気でそう伝えると木綿子は、にへら〜と相好を崩した。

「ねえねえ、まだお腹空いてるでしょ? 実はとっておきのチョコレートを持ってきたの!」

 木綿子はバックパックからいそいそと小綺麗な小箱を取り出した。
 蓋を開ければ、美しく光沢のあるチョコレートが現れる。
 見た目からして山登りの最中に消費するには、高級過ぎるチョコレートだ。

「いいんですか? こんなところで食べちゃって」
「疲れているときに食べた方がより美味しく感じるでしょ? むしろ今が食べどきだよ」
「たしかに……」
「他にもいろいろ持ってきてるの。ナッツクッキーでしょ、インスタントのカフェラテに紅茶のティーパックと――」
「藤峰さんのリュックはなんでも入ってますね」

 さっきもらった栗羊羹といい、木綿子のバックパックには美味しいものがたくさん入っている。
 ふふっと笑うと、木綿子もつられて笑みをこぼす。
 
「あははっ。行動食は登山中の活力だからね。カフェラテと紅茶、どっちにする?」
「じゃあカフェラテで!」

 おにぎりと味噌汁で腹を満たした後は、即席のお茶会が始まる。
 
「最近、社食の定食のラインナップが変わったと思わない?」
「福利厚生の一環で、ヘルシー志向に転換したらしいですよ」
「えー! そうなの!? 全然気づかなかった〜。前の方が絶対美味しかったのに」

 木綿子は不服そうに頬を膨らませた。

(こういう感じ、久しぶりかも)
 
 この二年は婚活に時間を取られていたせいで、友人と出掛けたり、たわいもない話をする時間が目に見えて減っていた。
 高級ホテルのアフタヌーンティーもいいけれど、絶景を見ながら頬張るチョコレートも悪くない。
 何時間も険しい道のりを共にした仲間と一緒ならなおさらだ。

(ふたりで来てよかった)

 絶えず冷たい風が吹き荒んでいるし、薄曇りで天気はいまいちはっきりしない。
 展望台広場は賑やかで、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
 想像とはまるで違う風景だけれど、これはこれで楽しい。
 チョコレートとカフェラテが、あっという間になくなっていく。

「今日はありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。魚谷さんのおかげでとっても楽しかったよ」
「瑞希でいいです」

 瑞希は気がつくと、そう口を滑らせていた。
 言ってしまったあとで、ハタと気がつく。
 他部署とはいえ木綿子は、瑞希よりも上の立場の人間だ。
 登山て距離が近づいたからといって、名前で呼んでほしいと口走ったら困るに決まっている。
 ところが木綿子は、ニンマリと口の端を上げたのだった。
 
「じゃあ、私のことも木綿子って呼んでね」

 クラス替えの初日みたいに、互いの呼び方を確かめあうのは少し照れがある。

「お茶も飲み終わったし、そろそろ行きましょうか」

 木綿子は使ったカップをカラビラに引っ掛けると、おもむろにバックパックを背負い始めた。

「あの、木綿子さん! 帰る前に写真を撮りませんか?」
「あ、やっぱり並んどく?」

 木綿子はいまだに絶えない行列を指差した。

「パワースポットは関係なしに木綿子さんとふたりで撮りたいんです」

 写真を撮りたいというのは単なる思いつきだった。
 なぜだかわからないけれど、このまま帰るのがもったいないと感じたのだ。

「別にいいけど……」

 木綿子はバックパックを下ろし、そわそわと恥ずかしそうに帽子と強風で乱れた髪を整え始めた。
 顔を寄せあい、スマホを横にしてインカメラに変更する。
 
「せーの!」

 シャッターは瑞希が切った。
 写真は得意な方ではないが、まずまずの出来だろう。

「ちょっと待って。私、変な顔してない?」
「大丈夫ですよ。いつも通りお綺麗です」
「白目剥いてたら、ちゃんと加工してね!」
「だから平気ですって」

 木綿子はこの世の終わりみたいに、ひたすら写真写りを気にしている。

「瑞希ちゃんはともかく、私は今年で三十五歳なのよ! 小皺とくすみが気になるの! 最近のスマホは本当に高性能なんだから油断できないわ!」
「えー。全然、気にすることないと思いますけど」
「ダメ! やっぱり撮り直しましょう!」

 登山道では頼もしい限りだったのに、写真ひとつでこうも大騒ぎするとは。
 写真は誰にも見せないからと時間をかけて説得すると、木綿子は徐々に落ち着きを取り戻した。
 我に返った木綿子はコホンとひとつ咳払いをする。

「さて。今から下山するわけだけど、登山は帰りの方が油断していて危ないから気をつけましょう」

 木綿子が神妙な顔つきであればあるほど、笑いが込み上げてきて瑞希は変な気持ちになった。
 結局、帰りは三分の二ほどの時間で無事に下山できた。
 車の助手席に身体を埋めると、ホッと息を吐き出す。
 
「明日は怖いわよ。全身筋肉痛で疲労困憊だから」
 
 運転席に座るの木綿子が、さも楽しげに瑞希をからかってくる。

「あはは、覚悟してます……」

 登山に慣れている木綿子と違い、瑞希の足腰は貧弱そのもの。
 明日のことを考えると恐ろしいけれど、今は達成感の方が大きい。
 怪我なく登山を終えられたのは、木綿子のおかげだ。

(ん?)

 帰路に着く道中、瑞希のスマホにあるメッセージが届く。
 
【魚谷さんの条件に合う人が見つかりました。ぜひご連絡を】

 メッセージは例の婚活アドバイザーからだった。
 瑞希は躊躇なくメッセージを削除した。

(正式な退会手続きは今度にしよう)
 
 瑞希に足りなかったのは、人とは違う道を歩むという覚悟だ。
 憑き物をおとされた今となっては、あれほど必死になっていたのが馬鹿みたいだ。
 婚活はもうこりごり。

「木綿子さんの人生の最終目標ってなんですか?」

 自分の一歩先を行く木綿子になんとなく尋ねた。
 
「んー? やりたいことをやり尽くして大往生で死ぬことかな?」
「あははっ」

 予想の斜め上を行く回答に瑞希は思わず吹き出す。
 Tシャツの上で猫とチンアナゴも笑った気がした。

 
 


 
「うっ!」
 
 木綿子と龍河谷に行った翌日。
 瑞希は目を覚ますやいなや、激しい筋肉痛に襲われた。
 生まれたての小鹿のように足がぷるぷると震える。

(きっつ!)

 歩くのも一苦労でトイレまで歩くのもやっとだが、身体は怠くても不思議と心は軽い。
 瑞希は筋肉痛の身体に鞭を打ち、いつものように出社した。
 
「片づけてください」
「はいはい。魚谷さんは本当に小煩いねー」

 課長代理からチクンと嫌味も言われても今日はさほど気にならない。

(登山のおかげかな?)

 午前中を順調に過ごした瑞希が打ち合わせを終え会議室から戻ると、見覚えのない栄養ドリンクが一本デスク置かれていた。
 
【昨日はお疲れさま】

 木綿子と思しき繊細な女性の文字だった。
 瑞希は慌てて調達部から駆け出し、木綿子を追いかけた。
 
「木綿子さん!」

 廊下をランウェイのように華麗に歩くあの後ろ姿に声をかける。
 木綿子は髪を靡かせながら、後ろを振り返った。

「また私と山に登ってくれますか?」

 ルージュを引いた唇がゆっくり弧を描く。木綿子はもちろんとばかりに微笑んだ。

「次はメスティンでフレンチトーストでも焼きましょう」

 木綿子はそう言うと颯爽と廊下を駆け抜けていった。

(やっぱり買うんだ)

 散財する木綿子が目に浮かび、瑞希は堪えきれずにふふっと笑みを溢した。

「フレンチトーストかあ」

 私たちのクライミングプランはまだ最後まで決まっていない。
 さあ、次はどこの山に登ろう。




 おわり

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