レモネードはよく冷やして

 大人なら違うのかな、なんて瑞希は思った。

 大人なら「俺のところへ来いよ」なんて、住まわせて、過度の節約なんてしなくてもいいような暮らしを……。

 そこまで考えて、瑞希はその思考が馬鹿馬鹿しいことに気付く。

 苦笑いが浮かんだ。

 そんな、金で解決するような真似。

 自分は良いと思わないし、玲望だってきっと望まない。

 でも。

「俺のところへ来いよ」という発言にこもる気持ちはひとつではない。

『一緒にいたい』という気持ち。

 そちらのほうなら瑞希の中に確かにある。

 叶えられないのがもどかしいほどに、ある。

 玲望と一緒に居たいと思う。

 そう、さっき……思えばまだたった数時間前……一緒に夕食を食べたときも思ったように。

 独りでご飯を食べる玲望に、一緒にご飯を食べるひとがいたらいいのにと思ったこと。

 そしてそれが、自分であったらどんなにいいかと思うこと。
 玲望の気持ちは聞いたことがない。

 でもちっともわからないわけじゃない。

 瑞希の下手くそな料理に笑いつつも、おいしそうに食べてくれたのだし、それに言ってくれた。

 『誰かの作ってくれたメシってのはいいもんだ』。

 その言葉の中にあった気持ち。

 単純な言葉だけのことではないに決まっている。

 玲望からも望んでくれる気持ち、僅かかもしれないけれど、あってくれる。

 瑞希にはそう感じられた。

 そりゃあ、重さや内容がどの程度かなんてことは、ひとによって違うだろう。

 重みがまったく同じなんてことはあり得ない。

 でも。

 同じ種類の気持ちがあれば、あるいは。

「おい、瑞希。これ、どっちだ」

 いつの間にか玲望のほうが先になっていた。

 自転車を漕ぐ速度をゆっくりにして振り返ってくる。

 道がわからなくなったのだろう。

 見れば、走っていた国道はだいぶ細くなってきていて、大きな岐路があった。
「ああ……ちょい待って。地図、見るわ」

 言って、瑞希は自転車を道の端に寄るように進んで、止めた。

 玲望もちょっと先に行ったものの、止まる。

 するすると自転車を引いて瑞希のほうへやってきた。

「えーと……多分あとちょっとなんだよな。海側のほうに向かう道だから……あれ、北ってどっちだ」

 瑞希が取り出したスマホ。

 表示された地図。

 GPSはちゃんと働いているようで現在地がぴこぴこ光っていたけれど、咄嗟にわからなかった。

 玲望はそれに笑ってくる。

 おかしい、という声音と声で。

「なんだ、地図も読めないのかよ」

「そういうわけじゃねぇ」

 からかわれたも同然だったので、瑞希は憮然とした。

「ここ見りゃいいだろ、あ、設定わかりづらいじゃん。ちょっと貸せよ、見やすくするわ」

 玲望は瑞希の手元を覗き込んで、地図の表示を見たらしく、ひょいっとスマホを取り上げてしまった。

 瑞希はちょっと驚いたものの、されるがままになった。

 玲望がわかるなら任せたほうがいい。

 玲望は慣れているのか、ひょいひょいとあちこちに触れていって、どうやら設定を変えてくれているらしい。

 その様子は何故か、楽しそうですらあった。

 さっきまで文句ばっかりだったのに。

 体も疲れているだろうに。

 どうしたことだろう。
 瑞希が内心、首をひねっている間に玲望はさっさと設定を終えたらしい。

 瑞希に向かって差し出してくれた。

「ほい。これでかなりわかりやすくなったと思うぜ。ていうか、そんなら最初から言えよな。真逆に行ってたかもしれないだろ」

「さんきゅ。でもそれほど抜けてねぇわ」

「そっか?」

 言い合いになったが、これはただのふざけ合い。

 ほわりと瑞希の胸があたたかくなった。

「ほら! 道は右だな。行くぞ。朝になっちまう」

「流石に朝はねぇだろ」

 玲望は再び自分の自転車を掴んで、またがった。

 たっと地面を蹴る。

 何故か走り方がさっきより爽快に見えてしまった。

 なにも変わらないだろうに。

 瑞希はよくわからなくなりつつ、同じように走り出したのだけど、すぐ思った。

 道がはっきりしたことで、迷いや不安がなくなったのだろう。

 それで目的地に向かって駆けていきたくなった……。

「おい、待てよ!」

 ふっと微笑んでいた。

 ペダルをさっきより強めに踏む。

 ああ、そうだ。

 いつだって俺が引っ張るばかりじゃない。

 玲望に引っ張ってもらったり、助けてもらったり。

 そういうことだって何度もあったし、きっとこれからもある。

 速度をやや上げて漕ぎながら、瑞希は実感した。

 そこから導き出されたもの。

 瑞希の中から、形を取って浮き上がってきたもの。

 それはつまり、玲望にあげたいと思ったものとは……。
「つ……着いた……あっちぃ……」

 後半、どうも飛ばしすぎたようで、目的地に着いたとき、玲望はぜぇはぁしていた。

 おまけに汗だく。

 真夏に、いくら涼しめの夜の時間とはいえ、自転車で二時間も走ったのだ。

 そりゃあ汗も大量にかくだろう。

 どうにかこうにか、たどり着いた海。

 零時はとっくに過ぎて、真夜中もいいところだったので真っ暗であった。

 海沿いの駐車場に自転車を停めて、鍵をかける。

 そうしてから柵のあるほうへ向かっていった。

 駐車場は少し高いところにあって、端に柵があって、そこから海が一望できる。

 近くにある階段を下りれば浜辺に行けるのである。

「やー、お疲れ」

 ぽん、と肩を叩く。

 玲望はじとっとした目で瑞希を見た。

 まだ呼吸はちょっと荒い。

「お前なぁ、お前に付き合ってやったんだろう」

 飛ばしたのは自分だというのに、玲望は恨めしそう。

 瑞希はそれに、くくっと笑ってしまう。

「付き合って、海までチャリ飛ばしてくれたのはお前だろ」

 瑞希のそれはからかいではなかったけれど、そういう意味がなくもない。

 玲望は今度、眉を寄せた。

 普段見せる、ちょっと不機嫌という顔になる。

「うるさいな。付き合わなきゃ一人で突っ走ってたかもしれねぇじゃん」

 言い訳というように言われたけれど、それはちょっと違う。

 瑞希はその不機嫌な顔に笑ってみせた。

「一人で行くかよ。お前と来たかったのに」

 玲望は数秒、黙った。
 ちょっと気障(きざ)なことを言った自覚はある。

 気恥ずかしい。

 けれど言うべきところである。

 本当にそうなのだから。

 玲望と海が見たかった。

 玲望に見せたいと思ったけれど、それだけでもない。

 一緒に、見たかったのだから。

「そう」

 それだけ答えた玲望の顔は、もう不機嫌ではなかった。

 どちらかというと照れている、という表情にも近い。

「でもそれだって、お前、独りで行かせるもんかよ」

 そんな表情をしつつも、ぼそりと玲望が言ったこと。

 瑞希は目を丸くしてしまう。

 玲望も同じ気持ちだったと言ってくれたようなものだ。

 そんなことを言ってもらえようとは。

 瑞希が驚いたのを見て、玲望は照れているような顔をしかめた。

 照れ隠しにしか見えなかったけれど。

「ほら、せっかく来たんだろ。見に行こうぜ」

 ぱっと玲望は瑞希からよそを向いて、すたすたと行ってしまう。

 瑞希はその後ろ姿を数秒見ていたけれど、ふっと笑ってしまった。

 玲望らしいことだ。

 猫のよう。

 気まぐれで、近付いたと思えばふぃっと去ってしまって、でも自分の傍に居てくれる。

「待てよ。暗いから階段、落っこちんなよ」

「馬鹿にすんな」

 柵の切れ端にある階段。

 一歩下りながら玲望は言ったけれど、それはもうまったくいつも通りのものになっていた。
「……超キレー! とか言いたかったんだが」

 浜辺に下りて、さくさく歩きつつ、玲望は言った。

 その内容は思い当たりすぎるから、瑞希は苦笑いする。

「ま、確かにそうだよな」

 確かに「海に行こう」なんて言ってやってきて、見られたものがこれでは。

 これも『海』ではあるが、きらきら輝く青緑も、さらさらの砂浜もここにはない。

 海自体は夜の暗闇に沈んで真っ黒にしか見えないし、明るくなったとしても『澄んだ美しい水』なんて言えないだろう。

 浜辺だって。

 砂浜なんて些細なもの。

 裸足で歩けば怪我をするくらい、石や貝殻や、なにかよくわからないものが転がっている。

 お世辞にもキレー、とはまったく言えなかった。

 都会から少し離れた程度の場所にある海では仕方がないだろう。

 それでも海に変わりはない。

 玲望の声は不満げではなかった。

「ま、海に変わりはないよな。潮風は同じだし」

 玲望が、すぅ、と息を吸い込むのが聞こえてしまうくらい、静か。

 玲望が言った通り、鼻をくすぐる潮風は心地良かった。

 しょっぱくて、辛いようなものも混ざっていて、でも爽快な香りだ。
「そうだな。なんか懐かしいような気にもなるし」

 瑞希が言ったことには笑みが向けられたけれど。

 さっきの意趣返し、とでも言いたげなちょっと意地悪なものも混ざった笑みを。

「じじむさいなぁ」

「なんだよ!? 懐かしいに年齢もなにもあるか」

 小突き合いになりつつ、歩いていく。

 さくさく、という音もしない。

 強いて言うならざくざく、である。

 歩き心地も良くない。

 けれど潮風だけではなく、ひらけているからかとても爽快だった。

 夏の暑さもここまでとは比べ物にならない。

 海を渡る風が涼しいのだろう。

「で? すっきりしたのか」

 不意に玲望が口火を切った。

 コンビニで聞いてきたことだ。

 ちょっとどきりとしたけれど、瑞希はそっと手をこぶしの形に握った。

 確かにすっきりした。

 もんやり考えていたことが、形になったのだから。

 それをくれたのは、ここまで自転車で走ってきたからではない。

 道中、考えたからでもない。

 玲望が一緒に走ってくれたからだ。
「ああ。……玲望」

 瑞希は足を止める。

 数歩先を行っていた玲望がそれで振り返った。

 まったくさっきと同じ状況であった。

 ふわりと玲望の金髪が揺れた。

 さらさらの金髪。

 汗で湿っているかもしれないが、その美しさに違いはなかった。

 ふと、瑞希は懐かしいことを思い出した。

 もう二年半近く前のこと。

 玲望と裏庭で出会ったこと。

 そのときにはこれほど仲良くなれるなんて思いもしなかったし、恋人同士になれるなんてことは、もっと思いもしなかった。

 でも良かったと思うのだ。

 こういう関係になれて、仲が深まって。

 玲望と一緒に居ることで、日々を過ごすことで、たくさんのものをもらったから。

 だからそれを返す、ではないが。

 二人でもっと良いものにするために、ここに来た。

 玲望はなにか、重要なことを言われると悟ったのだろう。

 受け止めるという気持ちが浮かぶような、凪いだ顔で瑞希を見つめてくれた。

 悪いことではないとわかっている。

 そういう顔だ。

 そう信頼してくれることが嬉しくてならない。

「玲望。いつか俺と一緒に暮らしてほしい」

 ぎゅっとこぶしを握って、瑞希は言った。