【1】
カーテンの揺れ方で風の形がわかるよねと、あいつがそう言ったから。いつの頃からか、窓辺に視線を移すのが癖になってしまっていた。葉瑠ならこの風に、どんな意味を見出すだろうって。そんなことを考えながら風を見るのが、いつの間にか好きになっていた。でも今は、そんなことどうでもいい。風の形なんかよりこのまま葉瑠を見ていたい。
保健室のベッドに横たわっている葉瑠は眉間に皺をよせ、時折、小さなうめき声を上げている。悪い夢でも見ているのだろうか。あいつやあいつが葉瑠を夢の中ですら、今でも苦しめ続けているのだろうか。
地獄に落ちてしまえばいいって、思う。
葉瑠の胸の真ん中に、悲しみを塗り込んだ奴らを俺は絶対に許さない。葉瑠の夢の中に入り込めたら、そいつらをぶっ飛ばす。そんで、葉瑠を思い切り抱きしめてやりたい。
「ん……」
葉瑠の胸のあたりがもぞりと動き、仰向けだった身体がゆっくりと寝返りを打った。こちらに向いた葉瑠の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
苦しそうだ。身体が冷えたら大変だ。
どこにどう出しても通用する言い訳を捻りだした後、俺はハンカチを取り出した。去年の誕生日、葉瑠がくれた空色のふわふわとした生地が手にとても馴染むやつだ。でも、使うのがもったいなくて、持ち歩いているくせにまだほとんど使っていない。でも、今こそ使い時だ。
茶っこい葉瑠の前髪が、ぺたりと額にくっついている。葉瑠の額に手を伸ばし、そっとハンカチをあてがった。そのままポンポンと汗を吸い込ませていると、葉瑠の表情がほんの少し和らいだ気がした。
「大丈夫、大丈夫だから」
喉の奥の方で届けるつもりのない思いが漏れ出る。
「ここにいるから」
届かなくてもいい。
本当にそう思っているのに。葉瑠に触れていたいという思いは抑えられない。弱すぎる自制心にいとも簡単に負けてしまった俺は、そのまま葉瑠の頭を撫でた。触れているのはこっちなのに、さらさらとした感触に俺の方がどうにかなってしまいそうだ。
だが、このまま触っているのはまずい。本能的にそう感じた俺は、ぱっと手を離した。すると、それに呼応するように葉瑠の意識がぱちぱちと忙しなく覚醒した。
「……あれ、洸?」
「起きたか」
ほっと胸をなでおろしたあとで「ね、なんで倒れたか覚えてる?」と問いかけた。
「体育の授業で……走ってたのは覚えてるよ。洸の背中見てたから」
「え……」
「姿勢がキレイだなって。あんな風におれも走ってみたいなーって、考えてて……それで」
そこまで言って、葉瑠は再び顔をしかめる。その眉間の皺を伸ばすべく「ぶっ倒れたんだよ」と回答した。
「うそ。ほんとに?」
「ん。なんか漫画みたいだった」
「え、何それ」
くしゃと笑った後で、葉瑠の目がはっと開かれる。
「もしかして運んでくれた? おれのこと」
「うん」
「うーわ……え、おれめっちゃ迷惑かけてるじゃん」
恥ずかしさに顔を覆う葉瑠が可愛くて、ニヤけそうになるのを必死で抑える。しかし、他人の気持ちの機微に敏感な葉瑠はそれを逃がさなかった。
「ごめんね、ほんと。最近、寝不足でさ。ちゃんと寝るわ、うん」
言葉を重ねるごとに、翳りの色が濃くなっていく。申し訳なさそうに目を伏せた葉瑠に、そうじゃないことをきっちり伝えたくなるが、どうにもそうはいかない。
「気にすんな。それにほら、クラスでもさ大分定着してるし」
「あー…おれの『世話係』キャラ?」
「ん。それそれ」
俺自身はその立ち位置に非常に満足しているので、満面の笑みで肯定してみせた。しかし葉瑠は深いため息を吐き、真下に視線を落としてしまった。
「洸はいいの? そんなこと言われて嫌じゃない?」
「嫌じゃない。けど」
葉瑠の方は不快に思っているのだろうか。幼馴染の世話係キャラを確立させて葉瑠のそばにいようとすることを、本心では嫌だと感じているのだろうか。ぐるりと渦巻く不安を抱きながら葉瑠の方に向き直る。
「嫌、だったりする? 葉瑠は」
「やじゃないよ。そんなわけない」
きっぱりと否定してくれた葉瑠に、どばっと愛しさがあふれる。抱きしめたくなる衝動を感じながら葉瑠の次の言葉を待った。
「ただ、おればっかに構ってていいのかなって、思ってるだけ」
隠し切れない悲しみを秘めた瞳で葉瑠は俺を見る。そのままこちらを見据えながら「洸、人気者だし。誰にでも優しいしさ。もっと仲良くなりたい人たくさんいると思うんだよね」と、俺にとってはさして重要ではないことを告げた。
「葉瑠が」
「え」
「葉瑠が嫌じゃないなら俺は葉瑠と……つるんでたい。それだけ、ほんとに」
胸にガツンとくる嘘を吐きながら、とりあえずの本当を伝える。当の葉瑠は何故かきょとんとした顔をしていて、それすら可愛いと思ってしまう自分はマジでヤバイ奴だなと感じた。
「ありがとう。ごめんね」
「いや、なんの謝罪だよ」
軽さを意識しながらツッコむと、葉瑠は「へへ」と破顔する。そしてふいっと何もない空間を見つめた。何かを掴んでいるようで何も掴んでいない、そんな表情を浮かべた。数秒の沈黙の後、葉瑠の口から「わかんないや」が零れた。
「……あ、そういえば授業は?」
「とっくに終わってる。体育、6限だっだろ。もう放課後」
「あー、そっか。待っててくれたんだ、ありがと」
「別に。大丈夫そうなら帰ろうぜ」
「うん」
スイッチを入れるみたいに、葉瑠の表情が明るくなる。呑気に「なんかお腹空いちゃった~」と言っている背中を見つめながらも、唇のそばまで「何かあったのか?」という言葉が這い上がってくる。しかし、教室に辿り着き帰り支度をしている最中。「今日の夕飯はカレーにしようかな」ぐらいのテンションで葉瑠は言った。
「叔父さんに恋人ができたみたいなんだよね」
「え」
「おれ、また捨てられちゃうかも」
あっけらかんと爽やかに告げる葉瑠に俺は言葉を失っていた。
「まあ別にいいんだけどね。叔父さんだって、まだ若いし。20代半ばでおれを引き取ってさ。たぶんその時、恋愛とかそういうの諦めちゃったと思うんだ」
「でも、多分」と言いながら葉瑠が視線を逸らす。その横顔からくみ取れるのは淋しさと諦め。そんな感情に捕らわれてほしくないのに「葉瑠」と小さく名を呼ぶことしかできなかった。
「子どもみたいで情けないけど。寂しくなってるのかも。またさ家族がいなくなっちゃう気がして」
たとえ今、そういう状況だとして。家族がいなくなったとしたって、俺は葉瑠をひとりにはさせない、絶対に。その気持ちがあまりにデカすぎたのか、考えるより先に「じゃあ俺が家族になるよ」と言っていた。
「え?」
口から出てきた直球極まりない言葉に、言った後で眩暈がしそうになる。多分、いや絶対。「好きだ」っていう気持ちのまま、さっきの言葉を吐いていた。それを自覚したのと同時に超ド級の後悔が押し寄せてきた。
「ご、ごめん……!」
やっとの思いで出た謝罪に対し、葉瑠は「ううん」と暖かな否定を返してくれた。
「洸となら大歓迎だよ」
「え……」
「あ……ごめん。もしかして冗談だった?」
「……や。冗談なんかじゃないけど」
「じゃあ、なっちゃおっか。家族」
そう言って葉瑠はこちらに手を差し出す。その手に触れられずにいると「ほら」と言って俺を促した。
「じゃあ、なるか」
「うん」
やっとの思いで触れた葉瑠の手は、柔く、ひんやりとしていた。
【2】
子どものころは葉瑠が苦手だった。忙しく視線を動かすその様は「嫌われたくない」という下心が見え見えで、他人に合わせて一切の自己主張をしないことこそが正義、みたいな顔を常にしていた。そのくせやり切る強さみたいなものは持っていなくて、時折、電池が切れたみたいに何もない空間を見つめる。
もういいや、めんどくさいやと投げ出すその態度もあまり好きにはなれなかった。
だけど、母さんは隣に住む葉瑠のことをよく気に掛けていた。
「お父さんがいなくて大変だろうし、お母さんもお仕事で忙しいからね」とは言っていたが、それは理由になるのだろうかと子供心に思っていた。今となってはもうどうでもいいけど、母さんはきっと葉瑠のことを「可哀想な子」だと捉えていたんだと思う。だから、俺なりに「気を使って」はいたけど、あいつの方が誰とも仲良くしようとしていなかった。
遊びに誘えば断らない。でも一緒の空間にいても、あいつ自身がどこにもいない感じがなんだかとても嫌だった。でも、小学校の学年が上がっていくにつれ、自然に時間を共にすることもなくなっていった。それに、クラスも別々だったから葉瑠との接点は徐々になくなっていったと思う。
でも、それでも。あの日俺は葉瑠のことを好きになった。
その日も俺は、学校を終え自宅への道を友達と歩いていた。小6になってからの担任が宿題を多めに出す人だったので、教師に対する愚痴を言ったりしながら、いつものように友達と別れた。
玄関のドアを開けようとしたとき、第六感とでもいうのだろうか。ざわりとした妙な胸騒ぎを覚えた。家の中に誰かいるかもしれない。そんな違和感を覚えながらも、俺はカギを開けた。そして、玄関に入ったところでその違和感は確信に変わる。
玄関に続く廊下の奥。突き当りの左手にある仏間に人の気配がする。
今考えれば、そのまま家を出て警察に通報するのがベストな選択だ。でも、あの時の俺は好奇心と義勇心みたいなものがごっちゃになってたんだと思う。そのまま俺は仏間へと歩を進め、数センチほど開かれた襖の隙間から中の様子を伺い見た。
やっぱりいた。黒のブルゾンを着た男の背中がごそごそと箪笥を漁っている。箪笥の引き出しを開けては中を無造作に物色していた。そして、何回かその動作を繰り返した後、掌に収まる程度の小さな箱を取り出した。
あれは、母さんの指輪だ。おばあちゃんからもらったものなんだって、目を細めて言っていたのを覚えている。あの時の俺は、その指輪はお前のものじゃないって強く思って。それと同時に俺は男に向かってタックルをかましていた。背後からの不意打ちに男はひどく驚いた様子だったが、すぐに俺の身体をいともたやすく剥ぎとった。ガラス窓に背中を打ちつけた俺は、視界がちかちかと明滅するのを感じていた。初めて受けた大人の男からの暴力。圧倒的な強さを感じたけど、絶対に負けたくないと思った。頭を振ってうまく機能しない視力をどうにか正常の状態に戻したが、男はカバンを手に仏間を去ろうとしていた。
「待てよ」
喉の奥で響く、呻きにも似た声。音量を最大にして「待てよ!」と叫び立ち上がる。男は舌打ちをしつつも仏間を出て素早く玄関へと向かった。男がドアに手をかけたところで、俺は裸足のまま男の方へと駆け出した。
今度は絶対に離さない。離してなるものかと必死に食らいつくが、どうしたって腕力では敵わない。再び男が俺の身体を引き剥がし玄関のドアを開けると、男越しに葉瑠の姿を確認できた。
ばちりと合った視線だけで、葉瑠は事の次第を瞬時に理解したように見えた。でも、それだけでは足りない気がして「葉瑠、そいつ泥棒!」と、俺は力の限り声を張り上げた。葉瑠は一瞬、目を真ん丸にしたけど。次の瞬間、「うわああああああああ」と叫びながら男にとびかかった。
男が一瞬だけひるんだその隙に、俺も飛びかかった。男は何度も葉瑠と俺の身体を引き剥がしては地面に打ちつける。でも俺たちは諦めなかった。何度も立ち上がって男に食らいついた。そんな乱闘を繰り広げている間に、騒ぎを聞きつけた近所の人が外の様子を見に出てきた。尋常ならざる光景を見た住民は、即座に警察に通報してくれたようだ。そして、近隣に住む大人の協力もあり泥棒はお縄となった。警察に連れていかれる前に、ちゃんと指輪も回収できた。
事が終息したころ、母さんがパートから帰って来た。擦り傷だらけの俺と葉瑠を見て、何事かと母さんは驚いた様子だった。でも俺は、俺たちは、泥棒を捕まえるという難易度マックスな事案をやり遂げたばかり。興奮気味に事の次第を伝えた後で「これだって俺たちで取り返したんだぜ」と言って、誇らしげに指輪を渡した。すると、母さんの目の真ん中から涙がこぼれ出た。
「え」
涙の意味が分からず困惑していると「洸君、ほんとにかっこよかったんだよ」と、葉瑠が付け足すように伝えた。
「ありがとう。ありがとね」
泣きながら母さんは俺たちごと抱きしめる。葉瑠の前で母親から抱きしめられるのはひどく恥ずかしかったけど、俺はなされるがままになっていた。横目でちらりと葉瑠を見ると、なぜかその瞳にはいっぱいの涙が溜まっていた。
「なんで、泣きそうになってんの」
抱きしめられた照れくささもあり、俺はガキっぽく葉瑠にけしかけた。すると葉瑠は小さな笑顔を見せてくれたけど、その拍子にぽろりと一筋、涙が伝った。
「はじめてだから。こういうの」
あの日から、葉瑠は俺にとっての特別になった。一緒にいたいって素直に思った。距離が縮まっていくにつれ、葉瑠は意外と皮肉屋で器用だけど適当な部分があることにも気付かされた。
誰にも見せていない本当の自分を、俺にだけ、ちょっとずつさらけ出している。そんな気がして、めちゃくちゃ嬉しかった。今まで知り得なかった葉瑠のそういうところも全部好きだなって思った。葉瑠を丸ごと好きになれる自分に対し、誇らしさすら抱いていた。でも、距離が縮まったとしても。葉瑠は最後の一線をくっきりと引く。これ以上は入ってこないで、という線が見えた。
いつか葉瑠に恋人的な人ができたら。葉瑠は線の中に、その人を迎え入れるのかもしれない。そんなことを思ったら苦しくてしょうがなくなった。その人は俺であってほしいと切に願った。だから、家族になりたいって言ったのは、そういうことなんだ。葉瑠にも俺と同じように俺のことを想ってほしいって、ことなんだけど。
差し出された葉瑠の手の温度は、まるで変わらなかった。
「……あのさ」
「んー?」
「叔父さんとちゃんと話した方がいいと思う」
俺からの真っ当な提案に、葉瑠は「あー……ん~」と顔をしかめた。
「俺たちまだ学生だし。実際問題、自立するのは難しいだろ。だから来年の春、俺らが卒業するまでは……」
そこまで言って、脳直で流れていく言葉を食い止めた。卒業して葉瑠が自分のことをどうにかできるようになったら、おじさんとは自ずと家族じゃなくなる。そんな意味合いが含まれる言葉を、俺は言おうとしていたのかもしれない。流れていく恐れのある言葉を、俺は慌てて脳内で灰にした。
「洸? 何、なんかフリーズしてない?」
視線を逸らしながら「ごめん」と告げると「でも……確かにそうだよね」と、葉瑠は俺の顔を覗き込んだ。
「洸の言う通り。勝手に寂しくなって自己完結するのは違うし、なんかガキくさすぎ。ちゃんと話すよ。ごめんね、なんか昔の事思い出して虫になってた」
「……虫?」
「うん、いじけ虫」
「なんだよ、それ」
笑みをもらしながら告げると、葉瑠は何故か安心したように頬を綻ばせる。
「あ、じゃあさ、洸も一緒にいてよ」
「え」
「家族、なってくれるんでしょ? おれもちゃんと紹介したいから」
そう告げた葉瑠の目は悪戯心に満ちていて、だけどその奥に俺の知らない何かがあるような気がした。
【3】
葉瑠からの突然の申し出に、俺はどうすればいいいのかわからなくなっていた。
「紹介ってどういうこと?」という疑問が頭を占め、思考回路がうまく働かない。すると葉瑠は俺の脳の中を覗き込むかのように「言葉通りの意味だよ」と笑った。
いや、言葉通りに受け取ったとして。
それはどういう感情がもとになっているのだろう。もしかして、友達とか親友とかを超越してる存在だということを言いたいのだろうか。その真意を問おうかどうしようかと迷っている隙に、葉瑠はさっさと歩き始めた。あっという間に生徒玄関に辿り着き、葉瑠は埃が立たないよう、外履きを地面にゆっくりと置く。葉瑠は靴を履きながら「でも、どんな人なんだろうな」と独り言のように告げた。
「……叔父さんの恋人?」
「うん。優しい人だといいな。ほら、叔父さんが優しいじゃん?」
葉瑠は叔父さんを「優しい人」と評しているが俺の中では、多少の認識のズレがあった。俺の中のおじさんは、優しいよりも厳しいという印象が勝っているけど。葉瑠がそう評するならおじさんは優しい人なんだろう。
「父さんがさ、なんでもできる人みたいだったんだよね」
「え、そうなんだ」
「んー。叔父さん、父さんのことは滅多に話さないけど。でも『憧れだった』って言ってて」
「そっか」
言いながら靴を履き終えた俺たちは、校門に向かってゆっくりと歩き始めた。いつものように、吹奏楽部の楽器を鳴らす音や野球部の掛け声が俺たちを追いだしていく。
「ほらおれってさ。なんでも結構、器用にできちゃうじゃん?」
「それ、自分で言わない方がいいやつだけどな」
「はは。でもそういうとこ、たぶん受け継いだのかも」
葉瑠の口から家族の話が出るのは珍しいことだったので、俺はいつもより慎重に葉瑠の声に耳を澄ませた。
「やっぱさ善は急げだよな」
「え」
「今から叔父さんに連絡してみる。恋人さんとごはん一緒に食べようって。な、洸も来るだろ?」
「え……お、おう」
「なんでそこで、ためらう感じ出ちゃうかなー。おれの家族、なってくれるんだろ」
「それはうん、そうだけど。でも、その前に言っておきたいことが────」
俺の言葉が届いていないのか、それとも聞こえないふりをしているのか。葉瑠はこちらのことはお構いなしで、スマホを取り出し通話ボタンを押した。十中八九、おじさんに電話をかけているのだろう。すぐに電話は繋がって、案の定、葉瑠は「あ、叔父さん」とこちらにも聞こえるように呼びかけた。
「今日さ仕事終わりにごはんでもどうかなって。叔父さんの恋人と一緒に。ど?」
少し早口でそう告げると、葉瑠の口元が楽しそうにたゆむ。葉瑠の相槌から察するに、おそらく叔父さん的には、自分に恋人がいることをどうして知っているんだ、と驚いているのだろう。
「そんでさ、おれも紹介したい人いるんだ」
葉瑠がそう告げると、スマホ越しでもおじさんの言葉にならない驚きが響いてきた。さぞや大きい声を出されたのだろうと思うが、葉瑠は平然としている。
「だからさ……うん、え、ほんと? やった。じゃあ……焼き鳥! ちょっとお高い感じのね……うん、はは、りょーかーい。はーい、はいはーい……」
軽さを感じ得ない会話を終えた後、葉瑠はこちらに向き直って「何着てく?」といい笑顔で言った。
クローゼットを開いても、似たような色のパーカーが数着とバンドTとデニムしかない。基本、服は着れればいいというスタンスなので都会に来ていくような服は持っていなかった。どうしようかと迷っていると、葉瑠から『どう?』とラインが来た。『ない』とだけ送ると『だろうと思った』と言わんばかりの頷きスタンプが速攻で返って来た。
『じゃあうち来る?』
続けて送られてきたメッセージにどくんと胸が跳ねる。その高鳴りを感じながらも断る理由を捻出しようとしたが、どうしてもできなかった。
「地味に超、久しぶりじゃない? 中学ぐらいまではさ、よくどっちかの家に入り浸ってたのに」
「……そう、ですね」
「え、なんで敬語?」
高校に入ってからは、もう葉瑠への気持ちを自覚していたから。密室にふたりきりでいることに対して妙な罪悪感を覚えるようになった。
いや、違うな。理由はもっと単純だ。
シンプルにすげえドキドキしてしまうからだ。気持ちが溢れてバレて友達にすら戻れなくなったら、マジで死にたくなると思ったからだ。だから、葉瑠とふたりで過ごすときは学校とかファミレスとか、極力ふたりきりにならない環境を選んでいた。
「めっちゃ今更だけど。洸、大きくなったよな」
「え」
「だって昔はさ、頭のてっぺんにこれ、くっつくぐらいだったじゃん」
そう言って葉瑠は天井に備え付けられた室内灯の紐に触れた。カチとそれを引っ張ると室内がもう一段階、明るくなった。
「それは流石に昔すぎだろ」
「確かに」
葉瑠はなぜか満足そうに笑うと、ウォークインクローゼットをがらりと開く。中にはびっしりと洋服が詰め込まれていて、俺は小さく「おお」と慄いた。
「おれ、前からコーディネートしたかったんだよね、洸の。ほらおれと違って筋肉質だしタッパもあるし。多分、何来ても様になると思う」
そう告げた葉瑠の目はイキイキとしていて、その様子を見ているだけで心が満たされる気がした。のだが。
その後、俺は葉瑠の着せ替え人形となった。ほぼ半裸のまま「これも似合う、あれも似合う」とおもちゃのようにされながらもぺたぺたと触ってくるので、ぎりりと奥歯を噛み締めながら早く終われと願っていた。
────という話を、葉瑠は端的に面白おかしく話している。おじさんの恋人は葉瑠の話に耳を傾け、時折、朗らかに笑う。もちろん俺のことをバカにしているわけではなく、俺たちの関係を微笑ましく思っているような感じ。きっといい人だ。多分。
「じゃあさ、今日着てるのは葉瑠君のコーディネートってこと?」
「そうですそうです。頭のてっぺんからつま先まで、おれのコーディネート」
「うん、すごくいい感じだと思う。ていうかカーキのテーラードジャケット着こなせるとか、普通にすごいと思う」
「は、はぁ」
会話の中に織り込まれたカタカナに困惑していると「カーキは色、テーラードっていうのは……まぁ、かっけーってこと」と、葉瑠が理解に多少苦しむ説明をしてくれた。
「ていうかさ、葉瑠君はなんでわかったの。叔父さんに恋人がいるってこと」
「いや、わかりますよ。明らかに歯磨きの時間が長くなったり入念に髭剃るようになったり。あとはまぁ……いろいろ」
「えー、そうなんだ……」
おじさんの恋人はうっとりとした表情で葉瑠の言葉を胸の奥にしまいこんでいる。
「ね、武人さん。もしかして俺の事めっちゃ好きだったりします?」
冗談と本気が絶妙に混ざったような顔をして、おじさんの恋人が問いかける。しかし、当のおじさんは「はいはい、そうですね」と軽くあしらうだけだった。これはあれだ。おじさんは大分照れている、きっと。
「それより葉瑠。お前、紹介したい人がいるって洸のことなのか」
「うん。家族として紹介したいなって思って」
にぱっと笑って告げる葉瑠を、おじさんはぎろりと睨む。そしてゆっくりと俺の方に向き直った。
「洸、葉瑠に付き合わされてるんなら────」
「それは違います」
考えるより早く口をついて出た否定に自分で驚く。今の態度でバレたかもだけど、葉瑠のことを真剣に考えてるって、しっかりと伝えるチャンスなのかもしれない。ちゃんと「好き」だから家族になりたいって、ここで言うべきなのかもしれない。
「あの、俺は……」
でも、次の言葉を続けられない。ここで本当のことを言って関係性が終わってしまうリスクの方を、どうしても強く感じてしまっていた。
「えっと……」
そのまま言葉に詰まっていると、おじさんがため息を吐く。その横顔は明らかに呆れた様子で、選択を間違ったかもしれないと後悔した。すると葉瑠の方が先に口を開いた。
「ごめん叔父さん」
「どうして謝る」
「ノリで言うことじゃなかったかなって、反省してるから。洸の気持ちも考えずに、突っ走ったから」
少し早口気味に告げると、葉瑠はこちらに向き直った。
「ごめんね」
「いや、俺は……」
「おれさ、たぶん先手を打ちたかったんだと思う。『あんたがいると幸せになれない』っとか、そんな感じのこと言われる前に」
葉瑠の言葉におじさんの目が反射的に鋭くなる。まっすぐ素早く葉瑠の方を向いたので、木製のテーブルがガタッと鋭い音を立てた。
「どうすれば信じる」
「いや、ちゃんと信じてるよ。叔父さんが人道に外れることは絶対しないって。ただ、可能性のひとつを考えてみただけだから」
「そんな可能性、考えるな。俺はちゃんと、お前のことを家族だってずっと思ってきた」
「家族だからって関係ないよ、あの人には普通に捨てられたし」
冷めた笑顔で告げる葉瑠に対し、おじさんは「お前な」と一瞬、前のめりになった。しかし「武人さん」と、恋人に静かに窘められ呼吸を落ち着けた。
「お前が俺を信じられないならそれでもいい。そうさせた責任は俺にあるからな。だがな、人の気持ちを勝手に決めつけるな。それはとても失礼なことだ」
怒りよりも悲しみが滲む声に、なぜか俺の方が泣きたくなってしまった。
「ごめん」
軽さに逃げるような謝罪をした後、葉瑠は真下を向く。そしてそのまま、葉瑠は勢いよく立ち上がって店の出口へと視線を移した。
「おい、待て」
「頭冷やしたいんだ。ほんとごめんね」
ぺたりとした笑顔を貼り付け、葉瑠はそそくさと歩いていく。俺は葉瑠を絶対に見失わないよう、心もとないその背中を追いかけた。
「クリーニングしてから返すよ」
「いや、いいって。そのままで」
「いや、臭くなってたらやだし」
「いや、何言ってんの。洸が臭いわけねえじゃん」
葉瑠の家の前で、俺たちはぐだぐだとそんな話をしていた。
結局のところ、俺は葉瑠の願いを叶えられなかったんだと思う。あの時にちゃんと「好きだから、大切だから一緒にいたいんです」って、おじさんに言っていればよかったのだろうか。でもあの時。葉瑠は「ノリで言うことじゃなかった」と反省していた。
つまりはそういうことだ。
俺の「好き」と葉瑠の「好き」は違う。それを知ってしまった状態で想いを伝えるのは流石にキモイ。「気持ちを伝えたかっただけだから」なんていうのは利己的な慰めだ。これからもせめてちゃんと友達でいたい。そのために全力を尽くしていくしかない。
「あ、じゃあさ。今日はおれんち泊まっていけばいいんじゃない?」
「……は?」
「ねっ」
一所懸命に気持ちを収めようとしているというのに。何を言いだすんだ、こいつは。
「服返してもらって洗濯機まわして、その間に風呂入ってもらう。洸が風呂入ってる時間を使っておれはフルーチェを作る。うん、一切の無駄がない」
「だからクリーニングに出すって────」
「あーもう、それはマジで本当に大丈夫! ていうかおれ、叔父さんに核心突かれて地味に傷心なの。だから一緒にいて欲しいんだって」
「…………」
「だめ?」
駄目なわけがあろうか。そんなふうに甘えられたら、突っぱねることなどできっこない。だから俺は洸が思い描くスケジュールに丸ごと乗っかることにした。
風呂上がりのフルーチェ以上にうまいスイーツはこの世にない。好きな奴が作ってくれたのなら尚更だ。一口一口を噛み締めながら食していると、葉瑠はカクテルグラスに盛られたフルーチェをふるふるさせていた。
「これ、うちのフルーチェ専用機なんだよね」
そう言った葉瑠の目は、とても誇らしげだった。
「叔父さんに引き取られてすぐの頃、だったと思うんだけど。おれフルーチェのCMガン見してたみたいで。次の日、速攻でさ。叔父さんがフルーチェとこの専用機買ってきて」
よっぽどキラキラとした目でそのCMを見ていたんだろうなと想像し、ついつい、にやけてしまいそうになった。
「その時はさ『嬉しい』って気持ちしかなかったけど。でもこの皿見つけるのとか地味に大変だったんじゃん? とか。最近、気付いて」
葉瑠はカクテルグラスの華奢な持ち手にふれ、それを慈しむように見つめた。
「叔父さんの気持ちは、ちゃんとわかってるつもりなんだ。でも、万が一に備えたいって思っちゃったんだ。『いらない』って言われた時に、ちゃんと大丈夫でいられるように」
葉瑠は小さく息を吐き、ゆっくりとこちらに向き直る。その瞳はちゃんと真剣で、一番伝わる言葉を考えているように見えた。
「ほんとに嬉しかった。洸が『家族になる』って言ってくれて。嬉しかったのはほんとの、ほんとだから……」
「好きだ」
考えるより先に出た。やってしまった、本日2回目だ。でも言ってしまったのだから、もう後には引けない。
「家族とか、そんな括り俺にとってはどうでもいい。好きだからお前と一緒にいたい」
自分の想いを伝えることなんて「利己的な慰め」だと、ほんの1時間前に認識していたのに、このザマだ。でも半端なことをしていたって、何も伝わらない。
「言っとくけど、あれな。ちゃんと色々したい方の好きだからな」
駄目押しをしている間に、葉瑠の口周りがうやうやと妙な動きをし始めた。完全に混乱させてしまっていると認識した俺は、フルーチェをがっと飲み干し、そのまま葉瑠の自宅を後にしたのだった。
【4】
一晩明けたら考えがクリアになって、より良い道が自然に浮かび上がってくる。的な話があるが、あれは普通に嘘だと思う。考えれば考えるほど、自分の言動をただの「しでかし」と捉えてしまう自分がいた。
仮病使いたい。腹痛いって言って学校休みたい。だが、そんなことをしたって問題を先送りするだけだ。母親に急かされながらも愚鈍極まりない動きで準備をし家を出ると。
「はよー」
葉瑠が待ち構えていた。
「おは、よ」
口元をがくがくさせながら挨拶を返すと葉瑠が困ったように笑う。
「あのさ。ちゃんと話そ」
「うん」
「どうする? さぼる?」
「……や、それは」
「だよね」
葉瑠を直視できないまま、俺は「遅刻する」と言いながら走り出した。
「えー、まじでー」
葉瑠のぶーたれた声を背中で聞きつつ、葉瑠との距離を一定に保ちながら俺は走った。
その日の放課後。俺は葉瑠から答えをもらった。
誰もいない場所をふらふらと探した後、学校の近くにある土手を選んだ。ベンチへと歩を進めながら葉瑠は「なんでこの世に持久走大会なんてあるんだろうな。あれこそ社会の害悪だよ」と口を尖らせた。
「あれはたぶん、早さを競うことが目的なんじゃない。半強制的に苦しさを体感させる通過儀礼的なやつだ」
「ええ……」
「知らんけど」
「いや、知らんのかい」
仲の良い幼馴染っぽい会話を交わしながらベンチに腰をかける。すると葉瑠は、ご丁寧にジャスミン茶を渡してくれた。そしてコアラのマーチの封を開け俺に差し出す。ふたりしてしゃくしゃくとそれを食べながら、しばらくはぼうっとキレイとは言えない川を眺めていた。
「あのさ」と、葉瑠が切り出す。その音には「これから大事なことを言います」という決意が感じ取れた。
「おれ洸の気持ちに気づいてた」
急に核心に触れてきたので、どくりと脈が跳ねる。
「俺、そんなにわかりやすかった?」
「うん。なんつーか、めっちゃおれのこと慈しんでる~的なやつは感じてた」
それに関しては心当たりがありすぎて、カッと耳のあたりが熱くなった気がした。
「それに、なんか……妙に色っぽい、つーかさ」
「え」
邪心までもが透けて見えていたのかと、今度はサーッと喉の奥が急激に渇いた。
「あ、違うよ。キモイとかそういうんじゃなくて。なんとなく、あーそっかあ……おれのことめっちゃ好きなのかあ……って、感じちゃった感じ」
「そ、そっか」
「うん」
俺の気持ちを勘付いたうえで状況を冷静に分析できるってことは、多分、そういうことだなと。うっすらとした諦観が自分の中に生まれ始めていた。
「だからおれ、その気持ちに甘えちゃった」
「うん」
「おれには葉瑠がいるから大丈夫って。葉瑠の気持ちを確かめてもいないのに、おれは葉瑠の気持ちを……さ」
葉瑠なりに言葉を探してくれているのは、きっと俺を傷つけないためだ。葉瑠よりも深く早く、その気持ちが伝わってきた。
「いいよ、そうだとしても俺は嬉しい」
葉瑠にとっての特別はきっと俺だけだって、確信することができた気がしたから。心が浮足立つのを感じながら「甘えてくれる、とか。マジで超うれしすぎ」と続けた。
「いや……ここは怒っていいとこだって。おれ、洸の気持ちを利用しようとしてたってことだよ」
「いいよ」
「よくないって」
「うん、普通に全然いい」
「洸……」
葉瑠の気持ちの全部を理解したわけじゃない。でも、その一端をちゃんと手の中に収めることができた。だからこそ、もう怖いものはないと思えたし、諦観の念なんてあっという間に消え去っていた。
「あのさこれだけ、ちゃんと確認しておきたいんだけど」
「うん、何?」
「脈はある?」
絶対に逃がさない、という念を込めながら葉瑠を見つめる。
「え」
「ある?」
重ねて訊ねると葉瑠の頬が心なしか赤らんだ。それが答えになっているようにも思えたが、俺はそのまま葉瑠の声を待った。
「うん」
視線を合わせながら葉瑠は頷く。瞳の膜の潤いは、もしかしたら恋情によるものかもしれない。そんな期待が高まってしまうのを抑えられそうになかった。
*
またあの日の夢を見ている。
必死に縋りついて「行かないで」って叫んでる夢だ。おれはあの人に言葉の限りを尽くしたけど、結局、届くことはなかった。
「早く大人になるから」
「いい子にするから」
「置いていかないで」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだけど。あの人の頭の中には、おれも父さんも、もういないみたいだった。あるのは恋人と始める幸せで新しい生活のことだけ。あの人はおれの腕を振り払って、「あんたがいると幸せになれない」と、おれにとどめを刺した。そしてあの人は、恋人にぴたりと寄り添いながら歩いていく。おれはそのまま茫然と、遠ざかっていく背中を見ているしかなかった。
あの日からもう、5年近く経ってるのに。何度も何度も夢の中であの光景が繰り返されていた。夢のなかのおれは、その様子を薄い膜越しに見ている。淡々と流れる安いドラマの筋はいつも同じ。泣いて泣いて泣きまくる子どもの頃の自分を冷めた思いで見つめているだけ。でも、いつもとは違うことが起きた。
洸だ。洸が来てくれた。
洸はあの日のおれに近づいて片膝をつき、あの日のおれと同じ目線になってくれた。洸は泣きじゃくるおれの頬にハンカチをあてがい、優しく涙を吸い取っていく。
「大丈夫、大丈夫だから」
その声は、膜越しのおれの耳元で響いているみたいだった。
「ここにいるから」
そうだ。おれには洸がいる。
あの人がいなくなった時だって「そばにいるから」って、言ってくれた。
家族なんていらない。洸さえいてくれればいいって、心の底から思った。だけど、洸はどう思ってる? おれのこと。ていうか、好きな子とかいんのかな。その手の話、あんましたことないんだよな。
友達とか、恋人とか、家族とか。
正直、そういうのに当てはめることに抵抗がある。関係性に名前が付くと終わりとワンセットって感じがどうしてもしてしまうから。
ただ、一緒にいたい。一緒にいるための手っ取り早い方法が「家族になる」だったら、おれは洸とそうなりたいな。でも、「家族になりたい」とか言ったら、どんな顔するかな。やっぱ困るよな、普通に。でも、やっぱちょっと気になるからさ。目が覚めたら言うね。
「洸と家族になりたい」って。