【4】

 一晩明けたら考えがクリアになって、より良い道が自然に浮かび上がってくる。的な話があるが、あれは普通に嘘だと思う。考えれば考えるほど、自分の言動をただの「しでかし」と捉えてしまう自分がいた。
 仮病使いたい。腹痛いって言って学校休みたい。だが、そんなことをしたって問題を先送りするだけだ。母親に急かされながらも愚鈍極まりない動きで準備をし家を出ると。
「はよー」
 葉瑠が待ち構えていた。
「おは、よ」
 口元をがくがくさせながら挨拶を返すと葉瑠が困ったように笑う。
「あのさ。ちゃんと話そ」
「うん」
「どうする? さぼる?」
「……や、それは」
「だよね」
 葉瑠を直視できないまま、俺は「遅刻する」と言いながら走り出した。
「えー、まじでー」
 葉瑠のぶーたれた声を背中で聞きつつ、葉瑠との距離を一定に保ちながら俺は走った。
 その日の放課後。俺は葉瑠から答えをもらった。
誰もいない場所をふらふらと探した後、学校の近くにある土手を選んだ。ベンチへと歩を進めながら葉瑠は「なんでこの世に持久走大会なんてあるんだろうな。あれこそ社会の害悪だよ」と口を尖らせた。
「あれはたぶん、早さを競うことが目的なんじゃない。半強制的に苦しさを体感させる通過儀礼的なやつだ」
「ええ……」
「知らんけど」
「いや、知らんのかい」
 仲の良い幼馴染っぽい会話を交わしながらベンチに腰をかける。すると葉瑠は、ご丁寧にジャスミン茶を渡してくれた。そしてコアラのマーチの封を開け俺に差し出す。ふたりしてしゃくしゃくとそれを食べながら、しばらくはぼうっとキレイとは言えない川を眺めていた。
「あのさ」と、葉瑠が切り出す。その音には「これから大事なことを言います」という決意が感じ取れた。
「おれ洸の気持ちに気づいてた」
 急に核心に触れてきたので、どくりと脈が跳ねる。
「俺、そんなにわかりやすかった?」
「うん。なんつーか、めっちゃおれのこと慈しんでる~的なやつは感じてた」
 それに関しては心当たりがありすぎて、カッと耳のあたりが熱くなった気がした。
「それに、なんか……妙に色っぽい、つーかさ」
「え」
 邪心までもが透けて見えていたのかと、今度はサーッと喉の奥が急激に渇いた。
「あ、違うよ。キモイとかそういうんじゃなくて。なんとなく、あーそっかあ……おれのことめっちゃ好きなのかあ……って、感じちゃった感じ」
「そ、そっか」
「うん」
 俺の気持ちを勘付いたうえで状況を冷静に分析できるってことは、多分、そういうことだなと。うっすらとした諦観が自分の中に生まれ始めていた。
「だからおれ、その気持ちに甘えちゃった」
「うん」
「おれには葉瑠がいるから大丈夫って。葉瑠の気持ちを確かめてもいないのに、おれは葉瑠の気持ちを……さ」
 葉瑠なりに言葉を探してくれているのは、きっと俺を傷つけないためだ。葉瑠よりも深く早く、その気持ちが伝わってきた。
「いいよ、そうだとしても俺は嬉しい」
 葉瑠にとっての特別はきっと俺だけだって、確信することができた気がしたから。心が浮足立つのを感じながら「甘えてくれる、とか。マジで超うれしすぎ」と続けた。
「いや……ここは怒っていいとこだって。おれ、洸の気持ちを利用しようとしてたってことだよ」
「いいよ」
「よくないって」
「うん、普通に全然いい」
「洸……」
 葉瑠の気持ちの全部を理解したわけじゃない。でも、その一端をちゃんと手の中に収めることができた。だからこそ、もう怖いものはないと思えたし、諦観の念なんてあっという間に消え去っていた。
「あのさこれだけ、ちゃんと確認しておきたいんだけど」
「うん、何?」
「脈はある?」
 絶対に逃がさない、という念を込めながら葉瑠を見つめる。
「え」
「ある?」
 重ねて訊ねると葉瑠の頬が心なしか赤らんだ。それが答えになっているようにも思えたが、俺はそのまま葉瑠の声を待った。
「うん」
 視線を合わせながら葉瑠は頷く。瞳の膜の潤いは、もしかしたら恋情によるものかもしれない。そんな期待が高まってしまうのを抑えられそうになかった。

  *

 またあの日の夢を見ている。
 必死に縋りついて「行かないで」って叫んでる夢だ。おれはあの人に言葉の限りを尽くしたけど、結局、届くことはなかった。
「早く大人になるから」
「いい子にするから」
「置いていかないで」
 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫んだけど。あの人の頭の中には、おれも父さんも、もういないみたいだった。あるのは恋人と始める幸せで新しい生活のことだけ。あの人はおれの腕を振り払って、「あんたがいると幸せになれない」と、おれにとどめを刺した。そしてあの人は、恋人にぴたりと寄り添いながら歩いていく。おれはそのまま茫然と、遠ざかっていく背中を見ているしかなかった。
 あの日からもう、5年近く経ってるのに。何度も何度も夢の中であの光景が繰り返されていた。夢のなかのおれは、その様子を薄い膜越しに見ている。淡々と流れる安いドラマの筋はいつも同じ。泣いて泣いて泣きまくる子どもの頃の自分を冷めた思いで見つめているだけ。でも、いつもとは違うことが起きた。
 洸だ。洸が来てくれた。
 洸はあの日のおれに近づいて片膝をつき、あの日のおれと同じ目線になってくれた。洸は泣きじゃくるおれの頬にハンカチをあてがい、優しく涙を吸い取っていく。
「大丈夫、大丈夫だから」
 その声は、膜越しのおれの耳元で響いているみたいだった。
「ここにいるから」
 そうだ。おれには洸がいる。
 あの人がいなくなった時だって「そばにいるから」って、言ってくれた。
 家族なんていらない。洸さえいてくれればいいって、心の底から思った。だけど、洸はどう思ってる? おれのこと。ていうか、好きな子とかいんのかな。その手の話、あんましたことないんだよな。
 友達とか、恋人とか、家族とか。
 正直、そういうのに当てはめることに抵抗がある。関係性に名前が付くと終わりとワンセットって感じがどうしてもしてしまうから。
 ただ、一緒にいたい。一緒にいるための手っ取り早い方法が「家族になる」だったら、おれは洸とそうなりたいな。でも、「家族になりたい」とか言ったら、どんな顔するかな。やっぱ困るよな、普通に。でも、やっぱちょっと気になるからさ。目が覚めたら言うね。
「洸と家族になりたい」って。