青葉はただこわかったのだ。太陽がいなくなるのが、こわかった。

 父親がサッカーをやっていたわけでも、好きなわけでもない。兄は水泳を頑張っていて、サッカーには無頓着だった。なのに青葉だけが、サッカーに目覚めていた。不思議だと母親もよく言っていたものだ。

 青葉にとってサッカーは楽しかったはずだ。けれどいつの間にかくるしくなっていた。

『お前のことぜったい泣かす!!』

 幼稚園でその名札を見るまで、本気で「あさちゃん」だと思っていた女の子は、朝倉太陽という素敵な名前の男の子だった。いつも泣かすと言いながら自分が泣いてる、おもしろい子だった。

 その太陽だけだった。色んな人が自分を「天才」だと言うし、太陽もそう言ってくれた。けれど、なにもしないでサッカーがうまくなったわけじゃない。好きなりにできるようになりたいことはあって、できるまでやったからできただけだ。

 そういうことを太陽だけがわかってくれていた。見てくれていた。

 太陽が変な人に絡まれていたら助けなきゃと思ったし、守りたいと思っていた。特別に大切な友達だと思っていた。

『一ノ瀬くんが好きなの』

 中学一年になってすぐ、彼女ができた。目が大きくてかわいかったし、ちょっとそういうことに興味もあって、付き合ってみることにした。

 けれど関係が進むにつれて、徐々に違和感は確信に変わった。

 近づいてくるその白い頬に、重ね合わせている人がいる。柔らかな唇に、感触を重ね合わせている人がいる。

『なにお前、もう別れたの』

 心底呆れたような顔で、興味なさそうに呟く太陽。ぷいっと背けた顔が、うなじを差し出していて、どろっとした気持ちが溢れた。

 こわかった。相手が男ということにはそう戸惑いはなかった。たぶんずっと隣で、男に迫られてる太陽を見ていたからだ。それよりもずっとこわかったのは、『友達』にそんな感情を抱いてしまったことだ。

 何度も友達に裏切られてきた太陽を知っている。その度に太陽が吐いていた台詞もだ。

『男に気を許しちゃいけないんだ』

 ああごめんと、うなだれるしかなかった。

 けれどその頃、救世主が現れた。ファミレスで声を掛けてくれた、高校生の彼女だ。彼女は青葉にとってとにかく刺激的で、そういうことに夢中になってしまった。そのときに思ったのだ。

 やっぱりあれは誰より太陽の顔がかわいかったせいで、気の迷いで、自分は普通に女の子が好きなのだと。太陽とはずっと友達でいられると。

『俺たち、心友だよな!』

 その呪いの言葉を、何度も何度も吐いてきた。そのうちにそれが本当になってくれればいいと、心底願った、祈りのような言葉でもあった。


『試合中、何分ボールに触れるか。五分? いいやそんなに多くはない』

『オフ・ザ・ボール。つまりボールを持っていない状態で、どれだけいい準備ができるかだ』

『サッカーはゴールを決めなきゃ勝てない。ゴールを決めるためには、どこにいたらいいのか。逆算して考えるんだ』


 ジュニアの監督が口酸っぱく言っていた言葉だ。

 青葉はずっと、ゴールだけを意識してきた。だってサッカーはゴールしなきゃ勝てないのだから。どんな弾丸シュートを決めてやろうかと考えるのは、当然だと思っていた。

 けれど、青葉の願ったゴールを、途中出場で颯爽と奪っていった真野はきっと違う。オフザボールにいい準備をして、そのうえで華麗なゴールを決めたのだ。

 自分にボールが渡っていた時間が、たしかにあったのに。足を振りぬけなかった。枠を外すのが怖かったのかもしれないし、キーパーにセーブされるのが嫌だったのかもしれない。けれど知っているはずだった。


 ゴールは打たなきゃ決まらないのだと。


「一ノ瀬青葉です、一から頑張ります!よろしくお願いシャス!」


 次、がいつくるかなんてわからない。九十分の試合で、よくて二分しかボールには触れないと言われているのだ。その次がくる保障もない。

 けれど青葉は絶対忘れない、心の一番柔らかいところにそれを刻んだ。

 オフ・ザ・ボール。

 ボールを持たない時間にこそ、良い準備をすること。