文化祭の振り替え休日は二日あって、昨日は家でのんびり過ごしていた。

 そして今日は、サッカー部の面々と大型テーマパークへ行くことになっている。本来ならばデートで行くようなその場所へ、わざわざ男七人で出向くのは、冴木の発案だった。

 冴木いわく、男が大所帯で固まっていれば、そういう女子に一緒に遊びませんかと声を掛けられるのではないかと言うのだ。そんなうまい話があるか、とは思ったが、サッカー部以外につるむ友人もいない太陽は、二つ返事に頷いていた。

「おっはー!!」

 テーマパークへのバスが出ている駅で待ち合わせをしていた。一番乗りの冴木は、いつもの五倍は元気そうだ。サングラスなんて掛けてて笑いそうになった。

「おはよ」
「太陽は私服もかわいいなぁ!」
「だまれ」
「いいか太陽、女子にその口の利き方はぜっったいNGだからな?」

 太陽の次にやってきた前田はそう言って、太陽の頭に手を置く。今日のメンバーで一八〇センチに満たないのは太陽ともう一人、佐藤というマネージャーだけである。大男たちにとって太陽の頭は、手を置くのにちょうどいい高さらしい。大変迷惑な話だ。

「てかないって、そんなうまい話」
「いやわかんねーよ、だって真野がいるんだし」
「それはそう!真野さまさま!!」

 続々と集まり出す部員たちが、口々にああだこうだと真野に期待を寄せていた。

 そういえば真野の私服姿を見るのは、夏の合宿以来だ。合宿なんて部屋着みたいなのしか着てこないのだ、実質初めて見ると言ってもいいかもしれない。

「え、お前ら早くね?」

 若干引き気味な声で現れた、最後の一人。たしかにバスの出発時刻まで、あと二十分はあった。

「真野さま!!」

 振り向いた瞬間、視線が交わる。それがなんだかくすぐったくて、妙な気分だ。

「……おはよ」
「……はよ」

 妙な間は勘違いなんだろうか。逸る心臓がどうしようもなくて、物理的に手で心臓のあたりをぎゅうっと握りしめていた。

「うわ、お前らおそろじゃん!」

 冴木がそう言った通り、真野と太陽のブルゾンの胸元には、同じブランドのロゴが入っていた。色味こそ多少違えど、黒も紺もぱっと見似たようなものだ。

 真野は兄のを借りたのだと言い、太陽は母親が買ってくる服を着ているだけなので、それがどこで買えるのかすら知らなかった。

「なんだよなんだよ~デートじゃねえんだぞ~」

 当然それが偶然なことはこの場の誰しもがわかっていて、それだってただ冗談で言っただけだろう。いつもの冴木のやることだ。

 しかしあろうことか、太陽はその冴木の冷やかしに、まんまと頬が反応していた。頬が熱くなるのが自分でもよくわかった。

「こら」

 ぱちっと両頬を冷たい手のひらで挟むのは、やっぱりこの男だ。

「なにまじになってんの」

 そうやっていつものような冷えた目で見下ろすくせに、だ。やっぱりその視線が以前よりも熱っぽく感じてしまうのだ。そんなもの目の前で浴びて、頬の熱が下がるわけがなかった。

「離せよっ」
「だめ~」
「ばか真野!」
「口悪っ」

 そのじゃれあいが、そういうのに見えないのは普段の行いのせい……おかげ? だ。

 冴木たちは「また左のアレが始まった」と、相変わらずサッカーの相性最悪な左サイドの二人をやれやれと見やる。

 そのままバスへ乗り込み、やっぱり隣には真野が座っていて、太陽の心は置き去りのままだ。心よりもとにかくずっと頬が熱い。熱くてしょうがない。車内でブルゾンを脱ぐと、中に着ていたパーカーを見てか、真野が言う。

「かわいいね」

 なにがだ!? ただのパーカーだ、なんの変哲もないただの白いパーカーだぞ。慌てふためく素振りをそんなあったく見つめるな、もう勘弁してくれ。これ以上脱いだら肌着になっちまうだろうが……。太陽は窓の外をただただ眺めて、深呼吸を何度もした。



 テーマパークへ到着すると、かなりの強風だった。その強風のせいで休止になっているアトラクションも多く、太陽たちはがっくりと肩を落とす。

「まあ乗れるの全制覇しようぜ」

 太陽がそう言うと、冴木はきらりと目を輝かせた。

「だよな!せっかく来たんだし!」

 こういうときに場を盛り上げてくれる冴木は、大変有難い。目一杯テンションを上げたところで、太陽の限界は冴木の寝起きさえ越えられない気がする。これが圧倒的陽の威力だ。

「おばけは俺パス」
「ああ、俺も」

 それなりにアトラクションを乗り継いだ頃、名物のお化け屋敷の前で太陽がそう手を挙げ、まさか真野もそれに賛同していた。

「えー!これ行かなくてほんとにいいの!?後悔しない!?」
「しない、絶対しない」

 冴木だってああ言ってはいるが、どうせ早々にリタイアしてくるだろう。それかサッカー部自慢のその足で駆け抜けてくるか、どっちかだ。

 太陽と真野を置いて、残りの部員たちがお化け屋敷へと吸い込まれていった。

「あっち座って待ってるか、なんか乗るか、どっちがいい?」

 真野にそう問われ、さすがに疲れてきていたので座りたいと希望したが、お化け屋敷周辺のベンチには、すでに疲弊した人たちがうなだれていた。

「空いてねえな」
「よくみんな入るもんだよ、ああなってまで」
「なあ」

 なんにも怖いものなんてありません、という顔をしておいて、真野はおばけが苦手なのかと小さく笑う。そういえばこの男、熱いものもだめだった。案外かわいらしいところがあるじゃないか。

「なんだよ」
「え!?なんでもねえよ」
「今にやついてただろ」
「気のせいだろ!」

 まったく目ざとい男だ。ほんの小さくにやついただけで、よく気がつくものだと考えたあと、妙に気恥ずかしい答えが浮かんでしまい、デリートした。

 少し離れたところに一つだけ空いているベンチを見つけ、真野と太陽はそこへ腰を下ろした。しかし強風は収まるどころか一層強くなっていて、髪の毛が吹っ飛んでしまいそうなくらいだ。

「風つよ……」
「どっか店入るか……」
「でも歩くのだるい」
「あ?サッカー部キャプテンが何言ってんだよ」
「いいよ、まだここで」

 店内で座れる場所となれば、レストランくらいだ。昼食は揃って食べるだろうから、レストランにはたぶん入らないだろう。となれば土産屋などが思い浮かぶが、立ち話をするような仲でもないし、冴木たちのようにお土産をあれやこれや選ぶようなキャラではお互いない。結局ここが一番落ち着けるような気がした。

 真野の洗い立てみたいにサラサラな髪の毛が、風によって巻き上げられている。ふと風が止んだときに、さらっと自然に定位置に戻ってくるのが羨ましい。太陽の髪はストレートではあるがコシが強いようで、こういう風の日には、巻き上げられた形のまま、形状記憶されてしまうのだ。

「んは、髪ぐっちゃぐちゃじゃん」
「うるせー」

 ぷるぷると頭を左右に振り、形状記憶を阻止する。

「犬みたい」

 真野はそう言って、オレンジ色のキャップのペットボトルをリュックから取り出した。

「飲む?まだあったかいよ」
「えっ……ああ……大丈夫」

 ぎくっとしてしまった心臓が憎い。太陽も自分のトートバッグからスポーツ飲料のペットボトルを取り出して、一口口に含んだ。

「てか冴木たち絶対リタイアするよな」
「な!俺もそう思う」
「よくあんなの入るもんだよ、夜寝れなくなりそう」
「わかるわかる。あと風呂もきっと無理」
「なー!頭洗うときとか背中ぞわってしそう」
「あれさ、ああなるときって、まじでいるらしいよ」
「は!?」

 テレビの受け売りを冗談半分でそう話すと、真野は予想以上にびびっていた。

「あはっ、お前、まじで怖いのだめなんだ」

 信じられないと疑うような目つきと、そのなかにほんのり怯えを含んだ目の色が、かわいいと思ってしまった。

 真野颯と書いてクールと読むような男にも、こんなかわいらしい一面があるのか。太陽は真野の弱みを握ったような気になって、心のなかでガッツポーズを決めた。

「太陽だってそうだろ、今ここにいんだから」
「まあそうだけど~、真野よりは強いだろうな」
「根拠は」
「え、なんとなく」
「なんだよそれ、全然あてになんない」

 いつだって冷静沈着で、理論的な真野らしい。なんとなく、とか勘で、とか一番納得しない奴だ。サッカーでもいつもそう。蹴ったボールの意図を聞かれることなんて、監督やコーチくらいにしかされたことがない。

「げっ」
「ん、どした?」
「目になんか入った」

 真野がそう言って、目をこすっていた。

「ばか、こすったらだめだろ」

 太陽がその手を取り、真野の顔を覗き込む。うるっと瞳に水分を含んで、まるで泣いているかのような顔に、また心臓がぎくっとする。

「こっちだよな?」

 赤くなりかけていた左目の方を触れると、真野は「うん」と頷いた。ぱっと見てわかるような大きなゴミは入っていない。コンタクトの縁が確認できて、ああ真野って目悪いんだ、家では眼鏡? などという気色悪い想像を振り払う。

「ぱっと見わかんないけど……べってしてみ」
「べ?」
「あっかんべーの目」
「ああ……」

 そう言って下まぶたを下へ引っ張らせた。赤く充血した下まぶたの粘膜部分に、黒い小さな点があって、ちょんとそれに小指で触れる。

「とれた!」

 何度かまばたきした真野が、嬉しそうに微笑んだ。

「ほんとだ、すっきり」
「よかった!」

 肩が触れ合ったままの距離で、ぱちりと目が合う。澄んだ瞳の奥の熱が、伝染してしまいそうだった。吸い寄せられ引き込まれ、身動きがとれなくなっていた。

「……どうして青葉なの?」

 その質問の瞬間、一層強い風が吹き荒れる。遠くで女性のきゃあという声が聞こえたり、足元をどこからか飛んできたビニール袋が転がっていたりした。そういう景色の一部に、真野がいる。切れ長で涼やかな目元に信じがたい熱を宿して、太陽は見つめられていた。

 どうして青葉なのか、そう問われても、一つもこの理詰め男を納得させる言葉は見つからない。なんとなく、気がついたら。

 青葉に対する好意がそういうものだと気づいたのは、青葉が初めて彼女と手を繋いで歩くのを見かけたときだった。それまでにも彼女はいたが、実際この目で特別な二人を目の当たりにしたときの苛立ちや焦燥感が、そのうちに恋なのだと気づいた。それだって、なぜ? と聞かれたらまともに答えられない。

 真野がたぶん一番好まない答えだ。なんとなく、そうだと思った。気づいたら、そうなってた。

「……なんでだろ」

 やや首を傾げた真野の不服そうで切なげな顔が、胸をえぐる。青葉と違ってこの男の笑顔はあまり見かけない。基本的に人をあざ笑うような笑みしかしないやつだ。たまにくしゃっとえらく整ったその顔に皴を寄せて笑うときもあるが、そうそうお目にかかることはない。

 だから、笑顔が一番いい、などとは思わない。

 けれど、そんな顔はさせたくない。悲しまないで欲しいと思う。悲しませたくない。

 飄々として、クールで、人を小馬鹿にして高みの見物している真野がいい。

「俺と青葉って、小さい頃から一緒にいるから」
「……」
「いつからって、わかんないんだ。気づいたらっていうか」

 理解不能、という顔をされるのが嫌で隠した本音を、そのまま伝えた。そしたらちょっとは、その顔が和らいだりしないかと思ったからだ。けれど真野の表情は、見えない。あの熱を宿した瞳は、今は足元の赤茶色のレンガをじっと見つめていた。

「太陽のその気持ちってさ、どこにいくの」
「……え?」
「言わないつもりなんでしょ」
「……うん」
「じゃあそれって、どうするの」

 腹の底でうごめいていた淀んだ気持ちが、躍起になっている。そうだそうだ、と真野に加勢しようとしている。そんなことは、太陽が一番知りたかった。どこにもいけない、どこにもやらない。ずっと、永遠に、死ぬまで一生、この腹のなかで持ち続けるはずだ。そう決めたはずだ。

「それ持ったままでいいよ」

 真野の顔が、太陽のほうを向いた。いつもと同じ、冷ややかな目だ。

「青葉を好きなままでいいよ」

 揃いのブルゾンの袖が重なる。冷えた指先は、どちらのものかよくわからなかった。どっちもひどく冷え切っていた。

 見つめ合う瞳がくすぐったい。触れるだけの指先がもどかしい。そんなふうに笑わなくていい。お前は仏頂面が一番似合う。

「ね~ママ~つかれたからやすむ~」

 そのとき、隣にちょこんと小さな男の子が飛び乗ってきた。二人掛けのベンチでいかに真野のほうへ身を寄せてしまっていたか、やっとここで気付く。

「ちょっ!やめなさい、お兄ちゃんたち座ってるでしょ!!」

 その子の母親に『お兄ちゃん』と呼ばれて、お互いに気が抜けてしまった。目で会話してから、太陽が言う。

「もう行くんで、ここどうぞ」
「え!?いいですいいです!ほら、タイヨウ行くよ!!」
「えーお兄ちゃんたちいいっていってるじゃーん」
「こら!!」

 まさかの名前被り、そう珍しい名前でもないが、多い名前でもない。

「名前、一緒だ」

 男の子にそう声を掛けると、嬉しそうに足をばたつかせ目をきらきらにしている。その姿がまんま小さい頃の青葉で、胸の奥がじんわりとした。

 ベンチからお化け屋敷のほうへ歩いていると、すぐに冴木たちと合流できた。案の定リタイアしたらしく、出てすぐのベンチでへばっていたらしい。

「もう正解っ!!お前らが勝ち!!めっちゃこわかった~!!」

 怖がりながらも愉快に冴木たちが迎えてくれたのが幸いだ。

 さっきの真野の言葉になんと答えたらいいのか、太陽はまったくわからなかった。



 真野と初めて会話したのは、入学してから割とすぐのことだ。青葉が昼休みに誘いにくるときに、真野もその隣にいた。二人は購買組で、その帰りに特進に寄ってくれているようだった。

 いつも焼きそばパンを買う青葉と同じように、真野もコレと決めたらあまり変えるタイプではないようで、いつもフルーツサンドとミルクコーヒーを手に持っていた。クールな顔してめちゃくちゃ甘党、というのが真野の第一印象だ。

 明るく天真爛漫で爽やかな青葉と、クールで近寄りがたいながらも凛とした真野は、タイプの違うイケメンとして、かなりもてはやされていた。そこへかわいいだの美人だのと主に男からもてはやされる太陽が加わり、冴木いわく『異色』の三人だと噂されていたらしい。

 初めて二人で交わした会話は、今でもよく覚えている。

『お前、青葉のこと好きなんだ?』 

 はあ? と声を出すことさえできなかった。自分の青葉への想いが見破られたのは初めてだった。不自然なほど一緒にはいるものの、大抵青葉には彼女がいたし、太陽に興味をもつ人間自体、そう多くなかったのもある。疑われることすら、これまでなかったのだ。

 それが、出会って数日の男に見抜かれた。

『……幼馴染だから』

 初めてのことに、気が動転していたのもあったと思う。ただ、確かに胸の奥底にあった。『ちがうよ』『そんなわけないじゃん』とは言いたくなかった気持ち。それをこの男は弄ぶようになったのだ。

『へえ、それでか。健気~』

 うっわこいつむかつく……。幼少期、スクールで青葉に出会ったとき以来の気の昂りだった。それからずっと、太陽にとって真野は『むかつく奴』であるはずだったのだ。

 大抵のことは一人でやれる。青葉は誰かがいないと生きていけないタイプだが、太陽はその真逆だ。青葉に勝てないと悔し涙を流した日々も、FWとしては生きていけないのだと自覚した日々も、やっと追いついたと思ったところで膝に大怪我したあの日も。サッカーさえあれば、太陽は一人で乗り越えてこれた。

 けれど青葉のこととなると、そうもいかなかったりした。自分のなかの矛盾した気持ちと折り合いがつけられなかったり、作り笑いのやり方を思い出せないような瞬間に、あの男はやってくる。

 どうしよう、どうしよう、と深みにはまって身動き取れないようなときに、真野は手……じゃなかったな、ロープくらい垂らしてくれる感じだ。決して引っ張り上げてはくれない、自力で登れるなら助けてやるよ、ってくらいの優しさを、いつもいつもくれる奴だった。

 その男が、まさか自分を好きだと言い、不機嫌を隠さずにいる。想定すらしていなかった事態だ。一体いつ、どこで、それこそなぜ、自分なのだ。ああも合理的な男が、なぜ見込のない自分に好意を寄せるのだ。

「……太陽?聞いてる?」
「ぬあ、全然聞いてなかったごめん」
「おいばかたれ」

 しかし当の本人は、普段は相変わらずこんな感じだ。時折この男が二重人格なんじゃないかと疑ったりする。

 部活のミーティングに呼ばれていた一年のキャプテンの太陽と、副キャプテンの真野は、よりにもよって二人机を並べて、計画書を書かされていた。テーマパークへ行った日から一週間が経っていた。

「だから、ディフェンスは一年は強いと思うからそこは維持でいいんじゃねって」
「ああ、うん。いいと思う」
「てめえちゃんと考えろよ」
「えええ、真野口悪い……」
「お前のがうつった」

 淡々とそう言い放ち、計画書にカリカリとなにかを書いているが、太陽の心臓はまたもぎくりとしていた。普段ならば『おいこら』と咎めたり『俺のこと大好きじゃん』などとふざけてみたりするところだ。早くそういうの、なんでもいいから絞り出せ、と頭に号令をかけているのに、なんにも浮かんじゃこない。

「……まじでどうした?もしかして具合わりいの?」

 ほらみろ、心配されたじゃねえか。太陽は咳払いで誤魔化して、「風邪気味かも」などと大ウソを吐いた。

「俺やっとくから、保健室行ってくれば」
「いや!いい、いい」
「は?なんで?出席やばいの?」
「いやんなことはねえけど……」

 ああしまった、本気で心配されている。罪悪感で気絶しそう。太陽は気を取り直して、計画書に視線をうつした。

「……攻撃パターン……」

 その項目で、ぐっと拳を握った。

「あれから話せたの」
「ううん……てか青葉学校きてんの?」
「朝はいねえな。昼前にはくるけど」

 というが、昼休みの屋上にもう随分長いこと青葉は顔を出していない。

「最近あいつ、俺らんとこも来ないんだよ」

 真野が、ちっと舌打ちをした。同じクラスの奴らにさえそうなのかとうなだれていたところ、さらに追い打ちをかけられることになる。

「おい朝倉、一ノ瀬のことでちょっと……」

 顧問の清水に、小声でそう肩を叩かれたのだ。

「ああ、はい」

 教室の隅の方で、清水は恐ろしい事実を告げる。

「一ノ瀬、これ持ってきたんだけど、聞いてる?」

 その手に握られていたのは『退部届』と書かれたぺら紙だ。

「……っはああ!?」

 あいつ、なに考えてんだ。太陽は清水の制止も聞かず、青葉のクラスへと走っていた。「廊下走らない!」という女教師の声も聞こえたが、そんなことにかまっていられない。今はそんなことよりなにより、あいつだ。

「青葉!!!」

 昼休みの終わりを告げる予鈴が、校内に響いていた。腹から出した大きな声に、青葉のクラスの全員が太陽のほうを振り返る。だから余計に目立っていた。一人だけ振り向かないあの背中。大きいくせに座っているときは丸まってる、あの背中だ。

「青葉!お前、」
「もう授業始まるよ」
「うるせえよ、こっちこい!」
「やだ!」
「ガキか!!」

 正々堂々とサボりを強要し、青葉はそれに、やだやだとガキみたなダダをこねていた。こねくりまわしたせいで、次の授業の教師がもうそこまで来ていると、冴木が言う。

「早く立て!」
「やだってば!太陽も早く教室戻りなって」
「なんでだよ……なんで、」
「太陽には関係ない!!」

「じゃあ誰なら関係あんだよ!!」

 およそ信じがたい。太陽は青葉の胸倉を掴みあげていた。長い付き合いで何度も喧嘩したが、こんなのは初めてだ。

 大きな目、黒目がちなその目が、ぽろりと落ちてしまいそうなくらい、見開かれていた。綺麗な黒目に、怒り狂う自分の姿が映っている。息があがっているのは、走ったせいなのか、それともこのやり場のない怒りのせいなのか。

「もういいじゃん……もうやめたい」
「………はあ?」

 青葉が落としたその言葉に、拳を構えたところを、背後から冴木たちに止められていた。

「太陽、落ち着けって!!」

 もうやめたい。

 その一言の重みを、こいつは本当にわかっているんだろうか。

「サッカーがなくなったら……どうすんだよ」

 その続きはやっぱり言えないものだ。理性を失い胸ぐらを掴みあげたというのに、自己保身だけは立派に成し遂げていた。

 下を向いて唇を噛む青葉にまたむかついて、掴みかかって上を向かせてやりたいのに、冴木たちがそれを許してくれない。大男の馬鹿力をこれほど憎んだことはない。

 本鈴が鳴り響いても、教室には教師がやってこなかった。ざわざわとするクラスのなかで「やばくない?」「先生だれか呼んできた方が……」などと言われ始めたので、しかたなく太陽は身体の力を抜き、去り際に青葉の椅子の脚を蹴っ飛ばした。

「ふざけんな」

 その声に、どれだけの力も込められなかった。もはや縋るような声色にさえなっていたかもしれない。

 教室から出たとき、隣の教室の前で足止めされている教師の姿が目に入った。

 その教師と話し込んでいた大男と視線が交わる。ちらっとこちらを見てすぐ、教師に頭を下げ、一緒にこちらへと向かって歩いてきていた。

「こら、本鈴鳴ったぞ、教室戻れよ~」

 その教師は太陽を見やって軽くそう言い、青葉のクラスへと入って行った。

 その教師の少し後ろを歩いていた真野の指先が、すれ違いざまに軽く触れる。

 あいつはいつもそうだ。止めに入るわけでも、大丈夫かと慰めてくれるわけでもない。

 ロープを垂らして、自力で上がってくるのを、じっとそこで待っててくれる男なんだ。



 その日の放課後の部活は、まったく身が入らなかった。誰と会話したかすら、よく覚えていない。ただ冴木たちは腫物に触れるように、昼休みのことを引きずっているような感じがした。キャプテンのくせに甚だ情けないと、太陽はより心が曇る。

 いつものように部室から校門までは真野と冴木と並んで歩き、校門前で別れた。あの二人は家の方向が一緒だ。

 そうして一人歩く駅までの道のり、ぽつりぽつりと小雨が降り出していた。折りたたみ傘は教室のロッカーに入れたままだ。着ていたダウンジャケットのフードで多少はしのげそうだと、それを被って駅までの道を急ぐ。けれど足にうまく力が入らず、自慢の俊足はまったく意味をなさなかった。

 青葉のために磨いてきた。足の速さもスタミナもクロスの精度も、もちろん他のこと、サッカーのすべて。青葉がゴールを決めたあの顔が見たくて、努力してきた。ああ、それじゃあ青葉のためではないか。青葉の喜んだ顔が見たいという身勝手な押し付けだ。

 急激に雨が強まり、ダウンジャケットに水滴が染みこんでゆく。まあもう、それもいい。よくドラマなんかで見る、土砂降りのなか傘もささずに歩くあれ、今なら気持ちがわかりそうだ。もう、どうでもいいんだ。どうにでもなれという投げやりな気持ちに、こういう雨ってぴったり合うんだ。全部、綺麗さっぱり流してほしいんだ。

 結局自分と青葉の間には、サッカーがなければなにもない。今日、青葉のクラスで言いたかったことだって結局それだ。『サッカーがなかったら、どうなるんだ、俺たち』だ。あまりに身勝手で独りよがりな気持ちじゃないか。そんなものぶつけて、一体どうする気だ。

 真野は青葉への気持ちを『健気ってか哀れ』と言ったが、それどころじゃなかった。

「虚し………」

 哀れってか虚しい、だ。

 報われなくていい。どこへも行けなくていい。

 けれどそれは、青葉の隣に『心友』としていられれば、という前提で成り立っていた。

 サッカーがなくなって、それでも自分は青葉の『心友』か? そんなわけない。

 いつか真野が言った『太陽が思ってないなら、心友じゃないじゃん』その通りだ。

 一度だって、青葉を心友だなんて思ったことはない。

 いつだって望んでいたのは、青葉の特別だ。


「太陽っ」

 そう自分の名を呼び、街路樹の陰から飛び出してきた大男。

 なんだ、またお前か――  と思った次の瞬間。

 傘から顔を出した男は『違った』。

「………青葉……?」

 脳裏を過った男の姿が、細い針で心臓を何度も突っつくように痛めつけてきた。太陽は目の前に現れた望んでいたはずの男の姿に、ごくりと息をのむ。

「お前、なにして……」
「今日……ごめん」
「別にいいけど……」

 大きなビニール傘を差し出してくれた青葉の手は、真っ赤だった。こういうところだ。手を差し伸べずにいられない。ふざけるなと叱ってやりたいのに、よしよしと撫で回したくなってしまうのだ。

「家、行ってもいい?」

 自分よりも高いところから見下ろされているはずなのに、なぜか青葉がそう言うときは上目遣いに見られている気持ちになる。どんな高等テクニックだ。

「いいよ、ほら、濡れてる」

 まるっきり太陽のほうへ傾けてくれていた傘を、ぐっと押し戻した。どう頑張ったって大の男が二人、一つの傘でこの大雨を凌げるわけがない。なのに、離れられなかった。ただただ窮屈なだけなのに、離れられなかった。



 太陽の両親は共働きで、普段から帰りが遅い。父親は来週まで出張で帰らないし、母親は十二月に入ってからは繁忙期で、まともに顔を合わせられない日が続いていた。けれどそのおかげで太陽はジュニアユースまで進むことができ、今も決して安くはない学費と部費を払いサッカーができているのだ。感謝はいくらしても足りないが、不満などは一つもなかった。

「お母さんたちまだ仕事?」
「うん、たぶん日付変わっても帰ってこねえな」
「そっか」

 青葉の家も似たようなものだが、敷地内に祖父母の家があり、幼い頃はよくそこで一緒に晩御飯をごちそうになったりしたものだ。

「あー……風呂、入る?」

 お互いにびしゃびしゃに濡れていた。決して下心などではない。青葉の返事がどうであれ、どのみち自分は入るのだからと、給湯ボタンを押した。『お湯張りをします』という無機質な声のあと、「太陽のあとで入る」と青葉が答える。

 洗面室から取ってきたタオルを一枚、青葉に手渡した。

「ありがと」
「いーよ、濡れたの俺のせいだし」
「いや……待ってたの、俺だし……」

 ったく、昼間はあんなにガキみたいにダダこねてたっていうのに、急にしおらしくなって。わかってて弄ばれているような気さえしてくる。太陽はウォーターサーバーからカップにお湯を注ぎ、その中に紅茶のティーパックを入れた。

 じわじわと色づいていく様をじっと見つめ、考えていた。

 一体、なにから話せばいいのだろうか。サッカー部をやめるとなったその顛末を聞けばいいのか? けれどそこに至る前からずっと抱いている疑念については? どっちを先に聞くべきだ? ……いくら考えても、真野のように最適解は導き出せなかった。

 けれど、逃げてはだめだ。軽く触れ合っただけの指先の感触が蘇ってくる。あのロープを上るんだ、自力で。

「なあ青葉」
「んー……?」
「サッカー、やめんなよ」
「直球……」

 ちょうどリビングに飾られていた、世代別の代表選手に選ばれたときの写真。合宿中の集合写真は地雷とばかりに母親にしまわれたが、青葉とのツーショットは飾ってもらっていた。

「俺さ、彼女と別れたんだ」
「………ああ……そう」

 何度も青葉からそういう報告を受けてきたが、ああ、そう、意外に言葉を返したことがなかった気がする。本当にどうしようもなく興味がない。どうせまたすぐ、新参者がやってくるのだから。

 しかしだ。今その話をするというのは、この件に楠田エリが関係している、ということなのだろうか。

 いい色になった紅茶に牛乳を少し入れて、青葉へ渡した。

「あ、ありがと」

 嬉しさを口元に含んだ青葉は、一口それを飲んで、また話し出した。

「……太陽は、俺の心友だよね?」

 太陽も同じように紅茶を口に含んでいたので、思わずぶっと吹き出しそうになる。今それ、一番聞くなってことを平気で聞いてくる。これが最後のチャンスなのか、と腹の底のアイツらはまた形を成そうとしているが、なぜか心は凪いでいた。

「お前のそれ、なんなの?心友って」

 心の友と書いて、心友。んなことはわかっている。あるときから急に青葉が言い出した言葉だ。そういう漫画でも読んだのかと思っていたが、いまだにそれを言い続けられて、さすがに疑問に思っていた。

「心の友、だよ」
「わーってるよ、それは。なんでって」
「なんでって、だってずっと一緒じゃん」
「そりゃそうだけど、別に心の友って言うほどじゃ」
「ええ!やっぱそう思ってんだ!」
「はあ?別に親しい友でいいだろって話」

 なんの話だこれ、と思ったところで『もうすぐお風呂が沸きます』という音声が流れる。つけっぱなしの暖房のおかげで随分寒さは和らいでいた。

 青葉はむすっとした顔で、太陽を睨んでいる。

「なんだよ、もう。しんゆうな、ハイハイ」

 適当にそうあしらうと、青葉はじりじりと太陽の方へ近づいてきた。

「は、なに……」

 やかましくなる心臓がむかつく。いつまで自分はこの男のペースなのだ。

 じろりと見上げた青葉は、太陽の知らない顔をしていた。十一年一緒にいて、初めてそんな顔で見下ろされて、平然としていられるわけがなかった。

「ねえ太陽」
「……なに」
「俺、おかしいのかな」
「はあ?」

 それから続きを言わないものだから、一度床に逃げてた視線を、おそるおそる持ち上げた。

 妖艶な眼差しに、凪いだ心が暴れ出す。いやだと願っても、もう戻れない。引き下がってくれない。躍起になった腹の底のアイツらが、喉元まであがってきていた。


「俺今、太陽にキスしたいって思ってる」



~♪お風呂が沸きました


 風呂が沸いたことを知らせる無機質な音声に、これほど感謝することは今後一生ないだろう。

「あー……青葉、風呂、沸いたけど」

 けれど青葉は、目の前から退いてくれない。腕も足も自由だけれど、拘束されているように、太陽も動けなかった。聞こえなかったフリしたってどうにもならないと、わかっているのに。相変わらず姑息な臆病者だ、朝倉太陽、お前は。

「……やっぱ変だよね」

 消え入りそうな声で、青葉がそう言葉を落とした。

 変なんかじゃない。だって自分は今、嬉しい。きっとお前よりずうっと前から、そういう気持ちを抱えてきたんだ。変なわけあるか。誰が変だと言っても、自分だけは絶対、変だなんて言わない。言ってやらない。

「言いたくない」

 思わず零れていた言葉は、青葉を誤解させただろう。

「変だなんて、言いたくない」

 咄嗟にそう言葉を言い直した。けれどそれはつまりどうなんだ、という答えで、以後しどろもどろになってしまう。

 青葉はそんな太陽を、いまだ熱をはらんだ瞳で見つめている。

「太陽がずっと、男に好かれて困ってたの知ってる」

 逸る気持ちに必死に蓋をしていた。腹の底と心が別々の場所にあるなんてこと、今はじめて自覚した。

「だから俺だけは、太陽の友達でいたかった」

 こぽぽっとウォーターサーバーの水が鳴る。フローリングが軋む音と同時、太陽は青葉の腕の中にいた。願っても願っても届かなかった、いつまでも自分の場所にはならなかったそこに。

「でも無理だ、ごめん、俺たぶん太陽が好き」

 願い続けていた。本当はずっと。同じ気持ちで、同じ好きでいてくれたらいいのにと。願わない日なんてなかったよ。ずっと、本当にずっと、青葉のことが好きだったんだ。

 苦しくて、息を吐くのがやっとなくらいだ。

 好きだったんだ、本当に。隠してまで大切にとっておきたくなるくらい、大好きだったはずなんだ。失くせない気持ちだった。

 もうなにも返せない。返したい。矛盾した二つの気持ちが、行ったり来たりしていた。

「ごめんね太陽。俺もう……くるしい」

 崩れていく音が聞こえた。なにもかもがもう、二度と戻らない。十一年、なんだかんだ隣でずっと笑っててくれた青葉が、いなくなる。またあの虚無感を味わうのか。そんなの、いやだ。なにをなくしたって、お前の隣にいたかった。その根っからに明るい笑顔を眺めているのが、幸せだったんだ。

「青葉ぁ……」


 泣きそうだ。どうして、どうして――


 どうして今、青葉じゃないやつの顔が浮かぶんだ。


「太陽ごめんね、困らせてごめん」
「ちがう、そうじゃない、困ってない」

 ひょっとしてずっと、青葉も同じだったのかもしれない。そう思うと胸が引き裂かれるように痛む。

 ずっと友達でいたかった、という言葉を言わせてしまったのは、自分があまりに不甲斐ないからだ。たとえば青葉のように明るく友達がたくさんいるような男だったなら、青葉はその気持ちを純粋に向けてくれたのかもしれない。そうしたら二人には、違う未来があったのかもしれない。

「ずっと好きだったのは、俺だよ。俺が青葉を好きだったんだよ」

 その妙な気持ちに、あてられてしまっただけなのかもしれない。出会って数日の男に見破られるくらいザルなのだ。きっと隣にいた青葉には、ばれてしまっていたのかもしれない。『好きって言われたら好きになっちゃう』って、いつだか誰かも言っていた。

「でもごめん……今俺、好きなやつがいる」

 これだって、まさにそうなんじゃないか。あいつに好きって言われて、あまりに柔らかな気持ちを向けられて、いい気になってるだけなのかもしれない。寝て起きて明日になったら、もしかしたら青葉のほうだったと後悔する未来もあるのかもしれない。

 正直、自信はあんまりない。

 ただ、今、この腕の中で抱くこの気持ちが、心が、本当のものだと信じたいだけだ。

 願い続けた腕の中で、大好きだった男の下で、心に浮かべるあの甘ったるい声が、息が、本物だと信じたいんだ。

「……俺、それ誰かわかる」
「………は?」
「うん……そりゃそうだよね」

 そっと離された腕に、離れていく体温に、名残惜しさを感じずにはいられなかった。

 やっぱり間違いなのかもしれない。でもそれならそれで、明日から一生、存分に後悔するしかない。

 太陽は、こわくて透明になりたい気持ちを抑えて、青葉の顔を見上げた。

 頬を伝う涙を、拭ってやりたい。いつものように、その柔らかな髪の毛を撫でまわして慰めてやりたい。でもそれは、しちゃいけない。苦しくて胸が張り裂けそうだった。

「たぶんずっと、太陽のためにやってたんだよサッカー」
「………ずりいよ、先言うな。俺が言いたかった」
「んんっ、なにそれ、太陽は違うよ」
「違うわけねえだろ、誰のためにあの先輩とクロスの練習したか……」
「ああ、あのジュニアユースのときの?」
「そうだよ、あの先輩が言ったんだぜ」
「なんて?」
「青葉みたいな天才は、クロスで通せばあとはなんとかしてくれるからって」

 吹き出した青葉が、目尻に溜まった涙を自らの指で拭った。

「まじ人任せじゃん!」
「そうだよ、でも実際そうじゃん」

 そうだ。青葉は私生活は頼りきりだが、サッカーとなれば正反対だ。ボールさえ与えてやれば、一人でなんとかしてしまう。むしろ絶対パスを出さずに、前線の仲間を泣かせたりしていた。

「ずっと思ってた、青葉はつまんなかったんだろ」
「………」
「お前は、南沢のサッカーがつまんなかっただけだよ」

 天才で努力家でサッカーを愛している。それだけで十分なのに、青葉にはまだもう一つ、人並み外れたものがあった。

「青葉は、負けず嫌いじゃん」

 ただの紅白戦ですら、負けるとその日は居残りして、コーチを独占しようとしていた。初めて出場した公式戦で負けたときには、泣きじゃくってピッチから出ずに、次の試合を遅らせてしまったことさえあったな。大きくなってもそれはあんまり変わらなくて、ただ青葉が強くなった分、負ける回数が減った。

 だからすっかり、忘れていたのだ。

 夏の予選の準決勝。青葉は一年生で唯一スタメン出場していた。きっと物凄く悔しかったんだ。たしかにあの日、無理矢理公園へ連行された。またいつものだ、と気にも留めていなかったが、きっとあのときからだ。

「……つまんない、じゃん。だってみんな満足してるし」

 ああでた、これが本音だ。本音を言うときの、斜め下を見る癖。

「だよなぁ。青葉はそうだよ」

 部員たちも、顧問も、監督も、太陽すら、準決勝で負けたことよりも、準決勝まで勝ち進んだことのほうに満足してしまっていた。青葉はそんな中でただ一人、燃え滾る闘志を隠し持ったまま、笑顔で、部活に来てくれていたんだ。

「………ありがとな、青葉」

 青葉は泣きそうな顔で笑って、退部届の真相を教えてくれた。

「もう全部やめたかったのは本当。でも迷ってたのも……本当」

 青葉は、近藤という太陽たちが所属していたジュニアユースの監督から、これまでも何度も誘いを受けていたらしい。いわゆるスカウト枠でユースへ戻ってこないか、という話だ。夏の予選にはユースのスカウトも見に来ていたらしく、そこでまた話が現実味を帯びてきていたところだったのだと言う。

「そんなの完全に……」

 完全に自分のせいじゃないか、と太陽は言おうとしていた。しかし青葉はそれを遮って言う。

「俺が太陽とサッカーがしたかったの。太陽とサッカーするのが好きだったから」

 太陽の脳裏には、青葉がユースを蹴ったと聞かされた、あの夏の夜のことが思い起こされていた。

 あのとき聞きたかった言葉。それさえ聞ければ、もうなにもいらないと、サッカーさえ捨てられると思ったあの夜の記憶。自分がサッカーをやめたって、この天才にはサッカーを続けて欲しかった。そんな想いをたしかに持っていた。

「……俺が言っちゃったからだろ……まだ青葉とサッカーがしたかったって、あのとき」

 昇格試験に落ちた日、たしかに太陽はそう口走ってしまったのだ。悔しくて、悔しくて、目の前が滲んでなにも見えなかった。そのときの青葉の顔なんて覚えてもいない。でもたしかに、そう言ってしまった。それがずっと、ずっと、心に引っかかっていた。

 そのせいで青葉はユースを蹴って、南沢についてきてくれて、あげくサッカーをやめることになったんじゃないかと。誰にも、真野にだって言えなかった。戦犯は自分なんだということを。

「違う、俺はそれが嬉しかったんだよ、ずっとそうだよ」
「なわけあるか、俺のせいで一年無駄に……」
「違うってば!」

 声を荒げた青葉の目には、涙がたっぷり溜まっていた。もうそれを拭ってやれないんだ、勘弁してくれよ。伸ばしかけた手に、目一杯の力を込める。絶対にだめだ。言うことをきいてくれ。

「太陽だけだったよ、俺とサッカーして笑っててくれるの」
「……笑ってはねえだろ、いつも悔しかった」
「いつも泣かしてやるって言いながら泣いてたもんね」
「うるせえ!いつの話してんだ、ガキの頃だろ!」
「ふふっ……それが嬉しかった。また俺とサッカーしてくれるんだなって」
「………なんだそれ」

 なに当たり前のこと言ってんだ、と思わんでもなかった。けれど青葉の言わんとすることが、まったくわからないわけでもなかったのだ。この圧倒的天才を目の前にして、夢を諦めていった奴らを何人も知っている。そいつらが吐いた言葉で傷ついてきた青葉のことを、太陽はよく知っていた。

「ユースにはさ……きっといっぱいいるよ。お前とサッカーしたいって言う奴が」

 絶対そうだ。そういう人間の集まりだ、きっと。その証拠に年代別の代表合宿では、あの青葉が悔しいとのたうち回っていたことだってあったじゃないか。……お前が生きる道は、そっちなんだ。

「………もう、ここまでだな」

 太陽の言葉に、ついに青葉の目から涙の粒が零れた。太陽の目からも、ぽたぽたと粒が零れていた。

 ずっと、特別だった。サッカーも青葉も、どっから分かれてたのかわからないくらい、どっちも特別に特別だったんだ。今日までずっと。

 しばらく二人呆然と立ち尽くしたまま、十一年分の形にならなかった想いを、瞳から零していた。カウンターに置いてあったティッシュで太陽が鼻をかむと、青葉もティッシュをせがみ、ちんっとかわいい音で鼻をかんだ。

「でも俺、ほんとにやれんのかなぁ……」

 でかい図体で小さく呟いたのが、おかしかった。その瞳にはすでに火が灯っているというのに。自覚がないのか。

「まあだめでも、練習すればいいだけじゃん」

 なら、あの日、青葉から貰った言葉を今返してやる。

 青葉は「はあ?むかつく」と言って唇をとがらせていた。あんな小さな頃のこと、言った本人は覚えていないだろうな。けれどたしかにお前が言ったんだ。だからここまで、十一年も球蹴りに人生をかけてしまったんだ。

「お前が言ったんだろーが」
「え!?俺!?」
「そうだよ、スクールで初めて一緒にサッカーした日さぁ……」

 そうして夜は更けていく。冷えた身体はすっかり温まっていて、風呂のことなどまるっきり頭から抜け落ちていた。



「真野、昼行こうぜ」
「ああ……ごめん今日はいい」
「えっ」
「ちょっとやることあって」
「そ、そっか……」

 あの雨の日以来、青葉が昼休みに屋上へ顔を出すようになった。

 これから自分たちはどうなっていくのだろう? あの夜、太陽はそれを考えてはうなされ、ろくに眠れなかった。けれど青葉は、今も隣で焼きそばパンを頬張ってくれている。目が合えば、にこりと微笑んでくれる。青葉の天真爛漫さに、太陽はまた甘えてしまっていた。

 しかし、それはそれとしてだ。

 今度はあの男が、屋上へ滅多に顔を見せなくなっていた。

「真野って、なんか委員会とかやってんの?」

 太陽が冴木へ視線をやって、そう聞く。できれば通りたくはない普通科の教室前の廊下を、最近は行ったり来たりしている。そうまでして自分は真野と昼飯が食いたいっていうのに、甚だ偉そうなことを言うが、なぜ、来ない?

「やってないよなぁ?」
「うん、部活あるしね」
「なぁんか最近クールに磨きかかってるしなぁ」
「なんかあったんかなぁ」

 ぼんやり空を仰いだ冴木の言葉を、太陽も心の中で繰り返していた。

 なんか、あったんかなぁ。

 もし、なにかがあったとしてだ。自分は真野に、ロープを垂らしてやれるのだろうか。弁当につけた箸を置いてじっくり考えてみたって、一つも検討がつかない。あの男はいつだって、太陽の一大事を察してくれていたというのに。

「青葉が立ち直ったと思ったら、次は真野かよ~」
「苦労すんな~キャプテン」

 冴木の呑気な声に、腹を抉られる。別に自分が関係してるだなんて、思っちゃいない。真野に関しては本当にそうだ。思い返してみれば、真野は太陽の一番汚い部分を余すことなく知っているが、真野の汚い部分なんてこれっぽっちも知らないのだ。ああ見えて繊細なところがある。あの男にだって、誰にも言えないことがあるのかもしれない。

「太陽、なんかあったら言ってよ」
「え、大丈夫大丈夫……」
「まじで!」
「青葉必死かよ、お前散々迷惑掛けたもんな~」
「……うるせえ」
「教室で取っ組み合いになったときはまじで焦った」
「なぁ!部活停止になるかと思ったぜ」

 口々にそう言われ、当事者としてもキャプテンとしても、他になにも返す言葉がなかった。

「すみません本当に……」

 太陽がそううなだれると、面々は大声で笑う。しかし青葉だけは、憎らしいといった目で太陽を見据え「俺が全面的に悪いので!!」と声を張り上げた。

「いやわかってるわ、そんなん!」

 冴木の鋭い突っ込みに、さらにその場が沸く。青葉さえ悔しげに、でもたしかに楽しげに笑っていた。

 こんな日々が、あっていいのだろうか。もう戻れないと、失ってしまうとばかり思っていたのに。まだ青葉がここにいる。その笑顔の隣にいられる。

 ふとした瞬間に泣きそうになるくらい嬉しいのに、どこか心が晴れない。

「も~なんで一人で謝んの、俺が悪いのに」

 屋上から教室へと戻る道すがら、青葉の恨めしそうな声に、そう文句をつけられた。

「青葉だけじゃねえよ、俺も悪いし」
「そんなことない!」

 ぶうっと唇を突き出す青葉。その唇の端っこには青のりがついていた。ふとそれに伸びかけた左手を、拳を握ってなんとか従わせる。

「……てかお前、青のりついてる」
「え!?ちょ、取っ……」

 青葉もたぶん、そこで気がついたのだろう。

「……も~、誰か鏡貸してぇ」

 甘えたは健在。けれど大男たちが、鏡など持ち歩いてるわけもない。

「ほら、見える?」

 太陽は自分のスマホのインカメを起動して、青葉に渡した。

「ふふっ……まじだ、ださっ」

 画面を見つめる甘ったるい顔が、好きだった。犬みたいで好きだった。

「ありがと、太陽」

 二度と、戻らない。あの頃の二人にはもう戻れない。

 青葉がいくら天真爛漫に振る舞ってくれたって、太陽がいくら今まで通りに青葉を甘やかしたって、もうあの頃には戻れないのだ。たしかに変わってしまったのだから。

「どういたしまして」

 『心友』にはなれないのかもしれない。限りなくグレーだ。けれど許されるなら、そばにいたい。本質がどうであれ、出会ってから今日までずっと、青葉は大切な存在だ。それだけは、絶対変わらない。

 ありがとう、と微笑んだ青葉の儚げな笑顔に、またそういう身勝手な未来を思い描いていた。



 あと三日で冬休みである。真野とはいまだまともに話せていない。というか、状況は最悪だ。

「おい太陽っ!!」
「ごめ……」
「青葉いねーんだから中入ってこいよ!!」
「!!だからごめんって!!」
「何回同じことやんだよ」
「……そのための練習だろーが」
「ああ!?」

 ああ、またやってしまった……。売り言葉に買い言葉というのだろうか。真野にキレられると、反射で返してしまうのだ。素直に謝れないし、冷静に話せなくなる。

 青葉が部活をやめて、スカウトを受けた地元クラブのユースに入団することが、正式に決まった。一年フォワードは冴木が筆頭となり、二年の先輩ともプレースタイルが似ている。体格を生かしたポストプレーが得意で、足で稼ぐ青葉みたいなタイプではないのだ。

 そもそもにして『あいつにボールを入れればいい』と言われるプレイヤーは、ごくごく稀だ。その異端と十一年サッカーをしてきてしまったので、太陽の、クロスを供給すればいい、という悪癖がなかなか抜けてくれず、こうなっている。

 左サイドハーフにいることが多い真野とは、ただでさえよくぶつかるのだ。それがあの理詰め男は、太陽の悪癖を理論で叩き、叩き、叩きまくってくる。太陽自身も理解してもがいているところを、だ。

「っは!?」
「お前……!!」
「ハイ、ごちです」

 馬鹿野郎、なんでそんなとこ突っ立ってんだ。今こそ上がっとけよ、おい真野! あっけなく敵チームにボールが渡り、今日も左サイドはぐだぐだで練習が終わる。

「お前らどうしたよ、そこまで仲悪かったっけ?」
「やいやい言ってるけど実は仲良しパターンかと思ってたのに」

 チームメイトたちにそう言われるのも当然だ。本当に一ミリも合わないのだ。曲がりなりにもジュニアユースにいた身としては、非常に大変遺憾である。本人に聞いたことはないが、噂によれば真野も中二まではジュニアユースにいたらしい。相当目指すプレーの違うクラブだったのかもしれないが、それにしたって正直相性は最悪だ。

 そして当の真野は、いまだグラウンドから帰ってこない。

「……ちょっと行ってくる」

 着替えようとしていた手を止め、灯りの灯ったグラウンドへ駆け足に向かった。

「真野」

 一人グラウンドに寝そべって伸びている男。ああもくだけた姿、見たことがない。あれは完全に油断している。その証拠に、太陽の呼びかけにびくっと一瞬身体が震えていた。

「なんだよ」
「その……ごめん」
「……」
「なんかつい、お前に言われるとムキになっちまう」
「ああそう」
「でもちゃんとわかってるから、頭では……身体がついてこなくて」

 つらつらと言い訳を並べたところで、この男がじゃあしょうがないね、と引き下がるわけがない。わかってるならやれよ、だ。真野はそういう男だ。

「じゃあやれよ」

 ほらな。太陽は謎にしたり顔を見せていた。

「やるよ、ちゃんと練習すっから……」

 久しぶりだ。練習以外でこんなに話せたの。そんな場合ではないというのに、太陽は浮かれてスキップしてしまっている心のまま、真野の隣に寝転んだ。

 並んで寝るの、ちょっとくるな、などという邪な想いを、隠してしまう癖がついている。

「だから、こっち向け!」

 でもそれじゃあ、前と変わらないのだ。隠して隠して、隠した先にあったものがなんだったのか、もう太陽は知っている。汗で冷えはじめていた真野の頭に手を置いてやった。触れたいという下心でもあり、いつもの仕返しでもある。

 ようやく交わった視線に、たまらない気持ちになった。夜のせいかもしれない。ひどく抱き締めたいと思ってしまう心は、隠すというよりまだ早い、だ。

「……なに」
「なにじゃねえわ、なんでこっち見ねえんだよ」
「別にそんなことねえよ、自意識過剰」
「は!?うっざ!」

 自意識過剰で上等だ。お前いまどんな顔してるかわかってんのか、と喉元まで出かかっていた。けれどそれを言ったら、この顔は隠されてしまう。ひょっとして自分の欲望が見せる幻覚かもしれない。でもいい。それでもいくらも視線が交わらない最近のなかでは、一番いい。

 熱っぽく身体中をくすぐるその目つきに、溶けてしまいそうだった。


「………終業式の日、ひま?」


 十二月二十四日、金曜日。聖なる夜、クリスマスイブ。なにかと特別なその日を、自分にくれないかという意味だ。もうずっと、心の一番上にあった。なのにこいつ、まったく隙を見せてくれなかったものだから、今の今まで言えなかったのだ。

 真野はじっくりと太陽を見つめている。こいつどうした、頭でも打ったのかと次に言われそうなくらいだ。それくらい疑い深く見つめられていた。

「~っだから!クリスマス!一緒にいたいって言ってんの!!」

 どこのツンデレだくそっ……! 太陽が消えたくなったところでようやく真野が「しょうがねえな」と、顔をくしゃくしゃにして言った。ごろんと人工芝の上で寝返りをうって、やっぱり太陽は、溶けて消えてしまいたくなった。


 終業式の日、予想はしていたが、練習に顔を出した部員は両手で数えられる程度だった。彼女ができたわけでもないってのに、冴木もいない。真野いわく『寂しい者同士の合コン』へ勇み足に出かけたそうだ。

 こういうところが青葉は嫌だったんだと思うし、だからそこそこ止まりの成績なのだと、太陽も本音ではそう思っている。けれど今は、サッカーと同等に大切な感情があることも、わかるようになった。生き方は人それぞれだと、キャプテンが言ってはいけないかもしれないが。

 しかし太陽も例外ではない。たまたま相手が同じサッカー部だから、練習後にデ、デ、デート……? しようということになったが、そうじゃなかったら練習をサボってしまう可能性だってはらんでいる。恋心とはあまりに貪欲で筋の通っていないものだ。

「太陽っ」
「だっ!」
「……わりい」
「いやごめん!俺だ!!」

 相変わらず真野とは、ボールを介した意思疎通はうまくいっていない。それでも以前よりは、多少冷静にやり合えるようには成長していた。主に太陽が、だ。

「だからお前クロスに逃げんなって」
「わっ……かってるよ……!」

 時折唇が切れてしまうこともあった。悔しいときに唇を噛んでしまうのが、太陽の癖だ。

 人数が少なくミニゲームもできないのでと、監督の計らいなのかなんなのか、ともかくいつもより一時間も早く部活が終わった。予定がだいぶ狂うし、いらない配慮だと憎まれ口を心のなかで叩きながらも、涼しい顔で着替えている真野の姿をちらちらと見やる。

「なに」
「えっ」
「早く着替えろよな」
「わかってる!」

 バレていた……なんて視野の広い男だ。太陽は入念にシャワーを浴びて、制服へと着替える。すっかり部室には誰も残っておらず、真野と二人きり。いつもと大して変わらない光景だっていうのに、冴木がいないだけでやけに静かだ。あの陽の力を今こそ借りたいっていうのに……。

「終わった?」
「……うす」
「なんだその返事」

 疑問符さえ愛おしい。太陽は、恋をしている。紛れもなく、今心にいるのは、この男一人でいっぱいだ。

 人混みを歩くのが苦手な太陽と、人酔いしてしまう真野となれば、このクリスマスにどこかへ出かけるというのは、あまり現実的ではなかった。お小遣いだってそう多くはない。というわけで、太陽の家でささやかなクリスマスパーティーをしようということになっていた。下心は断じてない。……いや、少ししか、ない。

 太陽の最寄駅には、桜並木がずうっと続く学園通りがある。その桜の木に、冬はシンプルな電飾が飾られて、イルミネーションのプチ名所でもあるのだ。色とりどりの華やかな雰囲気ではなく、温かみのあるシャンパンゴールド一色という潔さが、太陽は結構好きだった。

「でもまだイルミ点ついてないよ、きっと」
「やたら早く練習終わったもんな」

 乗り慣れた電車の隅の座席に、並んで座る。ただそれだけのことが、やたら特別に感じてしまうのは、隣にこの男がいるからなのだろうか。真野の横顔をじっと眺め、すっと通った鼻筋に目を奪われていた。

「お前さぁ最近なんでそんな凝視してくんの?」
「……っは!?してねえけど!」
「いやめっちゃ視線感じます」
「お前こそ自意識過剰じゃね?」
「あ~そう……そうですかぁ」
「ばっっか、お前、ちけえんだって!」

 にゅっと顔を寄せ覗き込まれた。心臓がばっくんばっくん、そうまるでバスケットボールを床につくみたいに、弾みまくっていた。その綺麗な顔を手で押しのけて、息を整える。

ふと見ると、洗い立てのさらさら髪が、真野の涼やかな目元に影をつくっていた。

「髪伸びたな」
「あー、すぐ目にかかんだよ。一週間ももたない」
「まじ、もう坊主にすれば?」
「ぜってーやだよ、変なのにモテたら困るし」

 いつだか話した太陽の坊主黒歴史を、からかってくる真野。いたずらな視線が、むかつくのにかわいくって、余計にむかついた。

「お前が坊主にしても、いかちくなるだけだろ」
「失礼なやつ、自分がちょっとかわいいからって」

 全然こっちも見ないで、平気で地雷を踏み抜くんだ。地雷だ、そう、地雷。かわいいは地雷………

「……かわいいって言うな……」

 やべえ。反応が遅れてしまった。あんなに嫌だったのに。『かわいい』って好きなやつに言われるとこんなにくすぐったいのかと、太陽は火照りはじめた頬を、開いたドアから流れ込む冷気で必死に冷まそうとしていた。


 やはり駅に着いても、まだイルミネーションは点灯していなかった。そりゃあそうだ、まだ時間は、十六時を回ったばかり。ならばと、先に家で食事を済ませ、帰りに真野を駅まで送る際に見ようということになった。

 家までの帰り道の途中、スーパーでチキンやサラダを多少買っていくつもりではあったが、あれもこれも、とならないのが真野のすごいところだ。必要なものだけをぱっぱとカゴへ入れて、レジへと連れて行かれた。

「なんていうか、真野って無駄がないよな」
「そんなことはねえけど」
「サッカーもそうじゃん、ゴールから逆算してるかんじ」
「……いや逆に、お前いつもどうやってサッカーしてんの?」
「そんな不思議そうな顔しなくても……」

 どうやって、ってそんなの………

「……どうやってだ……?」

 言われてみれば、どうって言語化できなかった。あ、いまだというタイミングはたしかにあって、けれどそれがなぜそう感じるのかは、うまく言葉にできない。なんとなくだ。なんとなくそこしかない、と思って走りこんだり、ボールを蹴ったりしている。

「なんていうか、感覚っていうか、うまく言えねえ」
「はあ~だから合わねえんだな」

 大きなため息をつかれ、むっとした。合わないって言葉をサッカー以外に当てはめてしまいそうになり、ひやっとする。

 会計を済ませ外へ出れば、やや空が暗くなり始めていた。

「あっそうだ!ケーキ買ってねえじゃん!」

 甘党の真野が、めずらしくそう声を張った。そう言うと思っていたのだ。

「あー……実はさ……作った」
「………は?」
「や、ごめん、勝手に。買いたいのあったら寄ってこ、そこにケーキ屋……」

 と言いかけたところで、手に持っていたスーパーの袋を取り上げられた。

「いまなんて言った」
「え、だからそこにケーキ屋……」
「その前」
「ごめん勝手に」
「その前だよ!」

 こいつなんだ、わざわざ恥かかせようってか? 太陽が渋々もう一度「ケーキ作った」と投げやりに言うと、真野の顔から力が抜けてゆく。

「なにそれ……もー……ほんとにさぁ」

 さらさらの髪をかき上げたときの表情が、知らない男の顔でどきっとした。真野ってこんな男らしかったのかと、見惚れていた。あまり見惚れているとまた「凝視するな」と叱られる。早く目を離したいのに、まだ見ていたい。そんな気持ちが行ったり来たり忙しい。

「……はやく食いたい」

 熱を感じるその眼差しは、ケーキに向けられたもの、だけとはやっぱり思いたくなかった。ここ最近避けられていた理由もわからない。そもそも返事が欲しいなどと言われてもいない。なのに太陽は、勝手に一人で盛り上がっているだけかもしれない。

「飯が先だろ、ガキんちょか」

 こっ恥ずかしくて、そう誤魔化してしまった。

 相も変わらず母親は残業続きで、家には真野と二人きりだ。青葉以外の人を自宅に招くのは、思えば随分久しぶりのことだ。小学生の頃、買ったばかりのゲームをしにクラスメイトが来た以来じゃないだろうか。

「手、どうぞこちらで……」
「ああどうも……」

 仰々しく洗面室へ案内すると、真野が手を洗っていた。自分の家で真野が手を洗っていた。

「あ、タオルこれ」
「わり、ありがと」

 真野が我が家のタオルで手を拭いている。三面鏡に真野が映っている。紛れもなくさっきまで隣にいたリアルだっていうのに、鏡の中の真野のほうがなんだかリアルで、おかしな気持ちだった。

「えーと……座ってて」
「いやなんか手伝うよ」
「いい、座ってて」

 あまり近づくな、という意だ。何度も手を伸ばしかけては引っ込めている。いくら視野の広い真野でも、手までは気づいていないのだろう。お前の隣にいる男は、思っているより色欲まみれだぞと、言いたくはなかった。なので、離れていてくれ。

 買ってきたチキンとサラダを皿に盛り、今朝作っておいたミートソースを温める隣で、パスタを茹でていた。両親とも家を空けることが多いが、これでも真面目にサッカーに取り組んできたのだ。食事は手を抜けない。いくら練習終わりで疲れていてもカップ麺に手を出したことはなかったし、そのうちに作り置きという技を覚えたりした。

 今こそその腕を発揮するときだと、太陽は意気込んでいた。

「太陽って料理できんだね」
「ああ、親があんま家いないから」

 胸の内に秘めた熱意とは裏腹に、あまりに涼しい顔で答えてしまった自分が恥ずかしい。

「そっか、えらいな」

 対面キッチンじゃなかったら、全身で喜びを表現できたのに。太陽は向かい合った真野に決してばれないよう、ほくそ笑んだつもりだ。こういう話をしたら大抵の大人がそう言ってくれるのに、今までで一番特別な『えらいな』だった。

 茹であがったパスタを皿へ丸く盛り、ミートソースをかける。辛いより甘い方が好きそうだからとミートソースにしてみたが、口に合うだろうか。家族以外では青葉くらいにしか、自分の手料理を食べさせたことはない。弁当の卵焼き一切れとはわけが違う緊張感だ。

「口に合わなかったら、こっちいっぱい食べてな」

 そう言って買ってきたチキンとサラダを差し出すが、真野はそれより先にミートソースを食べたがった。

「早く、いただきますしよ」

 真野の言動に、くらくらきていた。声にならない叫びを心の中に留め、手を合わせる。

「い、いただきます」
「いただきます」

 子どもか、なんだそのきらきらの目は。お前誰だ、本当に真野か? いくつも浮かんでくる憎まれ口で心をなだめなければ、何を言い出すか太陽自身わからなかった。

 くるくる巻いたパスタを、大きな口でぱくりと食べる。もう口に入れて数秒だ、絶対味なんてわかってない。

「うますぎ」

 くしゃくしゃの笑顔が眩しい。一生うまいもん食わせてやりたいと瞬間過った。どうも自分は貢ぎ体質なんだろうか。

 そういつもと変わらないミートソースを口に入れ、咀嚼する間もずっと目の前の真野を眺めていた。何度も一緒に食事したことがあるっていうのに、こんな綺麗な食べ方だったっけなぁとか、とはいえ全然噛んでねえ、わんぱくだなぁとか、色々なことを心に浮かべていた。

「だから凝視すんなって」

 真野の声ではっと我に返り「してねえ」と強がったところで、目の前じゃもう言い逃れできなかった。

「……食べんのはやすぎ、チキン食えよ」
「腹減ってんの、炭水化物食いてえ。おかわりある?」
「………あるけどさぁ」

 全部、真野の優しさだ。柔らかい優しさがくるしい。息できないくらいにくるしい。もう無理だ。持ちきれない。


「好きだ」


 とうとう吐き出してしまった三文字に続く言葉は、あーあ、だ。

 本当はもっとロマンチックで、いい雰囲気のなかで、聖なる夜の力も借りて、伝えるつもりだった。まさかお互いに口をもごもごさせてるときに言おうだなんて、思ってもなかったのに。まだだ、まだだと何度も号令をかけたっていうのに。

「真野が好きだよ」

 一度解かれた想いは、留まるところを知らない。自分も自分もと、忙しなく絶え間なく、いろんな感情が一気に押し寄せている。順番だ、全部伝えるから、順番に話さないと、この男には納得してもらえない。なんで? どうして? どこが? きっと全部聞かれるだろう。ちゃんと答えなければいけない。納得して、またもう一度同じ気持ちだと真野が言ってくれたら、初めてどうこうって話に……

「なっ、えっ……!?」

 目の前に真野の顔があった。唇に柔らかな感触が押し当てられていた。首の裏に添えられたごつごつした手が、熱かった。

「………あ……やべ」
「……やべ、ってなんだよ……!」

 突然キスしといて、なにがやべえだって? それ、今の、このミートソースの味を含んだそのキスが、ファーストキスだっていうのに……。真っ赤に染まっているだろう自分の顔を、愛おしそうに見つめている男。お前はそういうの嫌なんじゃないのか。なんでキスしたんだって聞いたら、お前ちゃんと答えられんのか……!? 

 言いたいことはいくつもあった。もっと伝えたい気持ちがたくさんあった。

 けれど今、テーブルの向こう側で立ち上がって前のめりに自分の唇を奪ったのは、紛れもなく好きな男だ。愛おしくてたまらない人だ。そんなのってもう、理屈じゃない。何個の言葉を並べても、敵いそうになかった。

 熱を帯びた視線に絆され、もう一度、唇を重ね合わせる。

 離れてもまた何度も、何度も――


「……ちょっ……まって……!!」
「……ん」
「まっ……まてって!」

 色っぽい顔つきのとこ悪いけれど、一個聞いておかないとまずいことが発生した。

「っ、息って………どうやってすんの……」

 だっっせえ、消えたい……。

 もっと近づきたい、もっともっと、と願えば願うほど、息ができなかった。比喩ではなく本気のやつだ。心臓がバクバクしているのもたぶん、生命活動に直結するやつだと思われた。だから恥を忍んで聞いたのだ。

 案の定、真野は笑い転げている。くしゃくしゃの笑顔でひーひー言っていた。ついさっきまでの熱情は一体どこやった。くそ、やっぱりむかつく奴だ。

「鼻以外ないっしょ」
「だって鼻じゃふんふんしちまうだろ」
「いいよ、ふんふんして」
「……やだ、ぜってー笑うじゃん」
「そんなことないよ、俺もふんふんしてるって」

 涼しい顔してなに言ってやがる。ふんふんなんてしてないだろうが。

「なら考えてみろよ」
「え?」
「鼻が無理なら、あとどこがあんの?」

 真野の親指が、太陽の唇の端に添えられていた。

 質問の意図がわかった瞬間、ぶわっと全身に妙な汗が噴き出す。もっと近くにいきたいのに、今はどうしても逃げたい。なんだこれは、恋心って本当に矛盾している。

「ばか!ばか真野!!早く飯食えよ!!」

 押し戻した身体がやれやれと椅子に座り直したが、太陽の心臓はまだバクバクとうるさい。この男といたら心臓が壊れてしまうんじゃないか。太陽は割と本気で、五年くらいは寿命が縮まりそうだと、心臓の負荷を心配したりしていた。

 それから火照る顔と身体を抱えたまま、なんとか食事を終え、一息ついていたところだ。

「あ、てかごめん太陽」
「ん?」
「俺も好きだよ」
「………は?」
「さっき、言い忘れたと思って」

 並んで座っていたソファーから落っこちそうになった。ちょうどテレビのリモコンを持ってチャンネルを変えようとしていたところだったが、間違って音量を爆上げしてしまった。

「うるさ!」
「ごめ、ちょ、てかお前が……!」

 ああまずいなぁ、とちくりと心臓が痛んだ。

 この気持ちって、どこへいくんだろうか。いつか真野に問われたことだ。

 持て余した好意は、いったいどこへやればいいのか。そのまんまぶつけたりできないだろう、けれどもうすでに抱えきれない。溢れ出て全身ドロドロになっている。

 どうしようもなく、真野が好きだ。

「真野」
「んあ?」
「あー……んっと……」
「え、なに、やっぱなしってこと?」
「ばかか、そんなわけねえだろ」

 冗談言っているのかと顔を覗けば、その顔は本当に不安げだった。瞬間思い出した。

 真野は、叶う見込みがないはずの自分を好いてくれていた。いつだって身動きできないようなときに、そっとロープを垂らして上がってくるのを待っていてくれた。いつもそういうときに、そばで見守っていてくれた。なにも返ってこないとわかっているのに。

 それがどれほどくるしいことなのか、太陽は誰よりわかっているはずだった。たったの三文字で、それを取っ払えるわけがない。自分の怠慢さに腹が立った。

「めっちゃ話していい?」
「は?なんかやだ、聞きたくないかも」
「え!?」
「うそうそ、聞くよ」

 これまで向けてくれた真野の柔らかな優しさに、いくらも返せないだろう。今だって、結局返そうとしてまた貰ってしまったのだ。

「違くて。俺が、どんだけお前を好きかって話をするから」

 どんだけ恥ずかしくたって、言うしかないんだ。伝えるしかないんだ。

「青葉が退部届け出した日、帰りに雨降ってただろ」
「……そうだったっけ」
「降ってたんだよ、こっちでは。そんときに傘持って待ってたわけ、あいつが」
「……」
「俺無意識に思っちゃったの、ああまた真野かって」
「……ふうん」
「そしたらお前じゃなくて青葉だったんだけど、俺は……」
「ちょっとストップ」
「えっ」

 ふわりと回された腕が、優しく太陽を抱き寄せた。こうも男に抱き締められたことがある男は、きっと自分くらいなものだろうと太陽は思っているが、その誰よりも優しい。振りほどかなくても解けてしまいそうなくらいに、そっと優しく抱き寄せられた。

「青葉の話なら聞きたくない」
「お前……だから、俺はお前が好きだって言ってんの!」
「………」
「おーい」
「………」

 真野はずっと黙ったままだ。きっとろくでもないことを考えているんだろう。早く弁明したいのに、青葉の話をせずにどうやってこの気持ちを納得させられるか、わからなかった。ただ何度も好きだと伝えるだけで、納得してくれるのだろうか。安心してくれるのだろうか。

「……いつも、やばいとき……そばにいてくれてありがと」

 真野の返事は待たずに、太陽は続けた。くれぐれも青葉の名前は出さないように、細心の注意を払って。

「めっちゃスパルタだけど、自力で上がってくんの待っててくれるの嬉しかった」

「真野が見ててくれるって思ったから、俺は今までの色々……決着つけられたっていうか」

 真野の腕のなかが一番落ち着く、と言いたかったがそれを言ったら、誰と比べてんだって話になり、ああ青葉ね、とまたこの男がいじけるだろう。

 どうしたらいい? ここが一番だと、お前が一番だと、どうしたらわかってくれる?

「……むかつくけど、好きだよ。真野だけが特別だよ」

 言葉にして初めて理解した。もう自分の特別は、真野だけなんだ。

 誰が泣いたって、怒ったって、傷つけたって、真野がそうじゃなきゃなんでもいい。真野にだけは、そんな想いさせたくない。特別は一人で手一杯なんだ。

「真野、聞いてんの」
「きーてるよ」
「はあ?ほんとかよ、お前食いすぎて寝てたんじゃ……」

 身体が離れた瞬間、また唇がくっつく。もうなんとなくわかってきた。あの顔してる真野は、キスしたいときなんだな。虚ろな目にぎくっとしてしまうのも、そんなに悪くなかった。

 さっき鼻で息しろと言われたが、やっぱり鼻息がおそろしくて無理だ。真野だってやっぱり全然、ふんふんなんてしていなかった。肺活量どうなってんだ。

「おい、また息してねえだろ」
「はあっ……えっ……?」
「鼻で息しろって」
「いや無理……はずかし……」

 すると真野の長い指が、太陽の口元をなぞる。上唇と下唇のあいだに指を挟み込まれそうになって、咄嗟に唇に力を込めていた。

「こら、あけろ」
「んん!」

 言葉にできない分、目で抵抗していた。まったく嫌なわけではない。まんざらでもない。けれどやっぱり不安だ。太陽にとって初めてのことだらけだ。なにか変だったらどうしようと、引かれてしまったらどうしようという不安を、抱かないわけがなかった。

 しかし真野はやっぱり容赦がない。ぺろりと唇を舐めあげられ、ぞくっとしたときにはもう手遅れだ。

 かぱっと開かれてしまった口に、また真野の唇が重ねられる。

 もう少しも、力は残っていなかった。

 ただただその熱に溺れ、たしかに口を開ければ息はいくらかしやすいな、などと思い浮かべてはかき消され、どうしようもなかった。

――俺、真野に食われんのかな……

 まあ本望だ、とおかしな思考になりかけたところで、ようやく休息が与えられた。

「………おまえ、やばいよ……」
「はあ?」
「食われるかと思った……」

 どちらのものかもよくわからない、口角に溜まった唾液をシャツの袖で拭う。真野も同じだ。そしてそのあとすぐ、本当に軽いキスを一度された。

「かわいい」
「………あっそ……」
「かわいいから次は食べる」
「ふざけんな、ばか」
「……ふふふ……」
「不気味な笑い方すんなよ……」

 これ以上は、きっとない。毎秒ごとにそう幸せを噛みしめている。

 なのにそのすぐあと、またそれ以上が与えられるのだ。

 もう一秒も離れたくない。逃げたくなるほど離れたくないと思う。こんなの変だ。真野の理論では絶対通らないだろう。

「ずっと好きでいてくれて、ありがとな」
「なにそれ、別にずっとじゃねえし」
「じゃあなんだよ、いつからだよ」
「言うわけねーだろ、ばか太陽」
「はあ!?」

 そのあと真野に急かされて、今更恥ずかしくなってきた手作りの苺のケーキは、そんなに素晴らしいものでもなかったはずだ。

 なのに真野は、一ミリも動かないホールケーキを連写していた。まるで知らない男のようで、ずっと隣にあったような、そういう顔で何度もお礼を言われたのが、心底恥ずかしくて、空も飛べそうなくらい嬉しかった。太陽は、この気持ちを上手く表現できる言葉を知らなかった。

 ぱくりと口に含んだ苺が甘酸っぱい。きっとこれから先、どこで苺を食べたって今日のこと、今の気持ちを思い出すのだろう。来年も、再来年も、その先も、できればずっと。

 特別なこの男の隣で。

 
 それからあっという間に年が明け、冬休みの終盤。今日は三年生の引退試合が行われる。南沢の通例通り、今日は一年チームと試合を行い、明日の二年チームとの試合はかなり盛り上がるらしい。

 つまり、太陽たち一年生は前座的な立ち位置である。

 とはいえ、新年一発目の試合だ。太陽は毎年、この時期のサッカーは特別楽しみだった。

 年が明けて一番最初の練習や試合というのは、どんなものであれ、なんとなく気持ちがいい。今年もボールを蹴るんだと、意気込みを新たにできる瞬間なのかもしれなかった。

「おはよ!」
「はよ……元気だな」
「え、そう!?」
「張るな張るな声を」

 真野は今朝、太陽の最寄駅まで出向いてくれていた。わざわざ学校の最寄駅を乗り越すことになるというのに、昨晩の電話でそういう話になったのだ。

「なんか寝不足?」
「ああ……あんま昨日寝れなくて」
「なんか観てたん?」
「いや、なんとなく眠れなかっただけ」
「なら俺がそっち行ったのに」
「……順番だって約束しただろ」

 真野は、やや不貞腐れた顔でそう言った。けれど太陽は、なにがそうさせているのか、いまいちよくわかっていない。

 年が明けてすぐ、朝八時に待ち合わせて初詣に行ったときでさえ、その目元はいつも通りきりっと涼しげだったのだ。今朝のように、垂れた目尻で二重幅と同じくらいしか目が開いていないのは、かなり珍しい。よっぽど眠くて機嫌が悪いのだとしか、見当がつかなかった。

「でも……そんな無理しなくても、」
「俺がしたいからしてんだけど」

 カーン-- と脳内でゴングが鳴り響く。いや待て、これから試合なのだと何度も自分に言い聞かせていた。ただてさえ、左サイドはザルだと言われているのだ。そんな汚名は今日限りにしたいと、つい昨日電話で話したばかりじゃないか。

 落ち着け、落ち着け。今この男の機嫌は最悪なのだ。寝不足は人格を変えると言うしな。触れるな、触れたら負けだ。

「……それはどうも……」

 がらんとした電車内、車両には二人きりだっていうのに。なんだよ、もう。太陽はぎりぎり下唇を噛んで、沈黙を耐え忍んでいた。


 キックオフから二十分も経っているというのに、真野の態度は相変わらずだ。本当に必要な場面で意外、一度も視線が交わらない。

 いくら引退試合という、練習試合みたいなものだとはいえ、それはないんじゃないか? え? 募る苛立ちはまんまプレーに乗ってしまう。

「……あ、やべ」

 またクロスあげちまった、と後悔したところでもう遅い。あの冷ややかな目が、まったくこちらを向かない。あれはもう、完全に怒っている。怒らせてしまった。

 前半が終わり、後半は一年メンバーも交代するはずだった。けれど太陽は、絶対に引き下がりたくない。金を払ってだって、まだこのピッチに真野と立っていたかった。

 幸いにして勝敗に重きを置く試合ではなかったため、交代を控えていた二人はそれを快く了承してくれた。

「別にええよ、まだ身体重いし」
「てかそろそろ本気で、左サイド覚醒しないとやばいもんな」

 そう言われて、真野はどう思っただろうか。その顔を覗いてみたって、やっぱりあまりわからない。相変わらずのポーカーフェイスを決め込んでいる。

「真野!」
「なに」
「ごめんて」
「なにが」

 ああああ、という部員たちの心の声が聞こえてくるようだった。

 太陽は思い切り真野の肩を掴み、ピッチへ戻ろうとするその背中を引き止める。それでもまだ、振り向きもしないのだ。

 一体なぜ、この男はこうも怒っているのだ。せめて理由を言え。というかだ。そもそも自分はお前のなんだ? ただのチームメイトか? 左サイドのよしみか? 違うよな?? 太陽の苛立ちは、ここですっきりさせておかなければ、またきっと真野を怒らせるだろう。ぽんと無意識に蹴り上げたボールで、始まったばかりの関係が終わるのは、絶対ごめんだ。

「こっち向け真野」
「……結局そうじゃん」
「は?」
「お前、誰のためにサッカーやってんだよ」

 ピッチ上の全員が、ポジションに着こうとしていた。そこでようやく振り向いたその顔は、太陽の予想とはおよそかけ離れていた。

 よく見れば下がっていたのは目尻じゃなく、眉毛だ。今朝からずっと、眉毛がしょぼくれていたのだ。

 怒りじゃなかった。

 これは、寂しい、だ。

「真野、真野!」
「………」

 いくら呼んでも歩みを止めない背中。後半キックオフのホイッスルがグラウンドに響く。

「太陽ーっ!がんばれーっ!」

 そのホイッスルの同時くらいだったか。咄嗟に振り向いてしまう、骨の髄まで染み込んだあの声がした。

「青葉!?」

 とんだスペシャルゲストだと、ピッチ上も沸いていた。

 一時期こそ部活をサボりまくりかなりの反感を買っていた青葉だが、その行先が名門クラブのユースとなれば、正直手のひら返しだ。

 あいつはここに居ていい奴じゃなかった、とみなが口を揃えていた。半分同意で、半分はそんなことないと否定したい気持ちだった。

「青葉ーっ!!」

 最前線の冴木のよく通る声が、青葉を呼ぶ。三年生の先輩たちも、手を振っていた。

 ああよかった、青葉の居場所がここにだってある。太陽のこの安堵の気持ちは、特別だからじゃない。大切な存在だからだ。

 そこでようやく気づいた。真野のあの表情の意味に。

 考えてみれば、至極当然だ。たとえば真野が、いつまでも元カノのくれたプレゼント……たとえば財布とかか? そういうものをずっと使っていたら、どうだ。使いやすいから手放せないんだと言われたら、どうだ。

 そりゃあ、あの顔になるだろう。

 むしろあの程度でこれまで留めておいてくれただけ、かなり真野は大人だ。自分なら泣いて縋って取り乱すに違いない。

 ピッチ上のほぼ全員が、ベンチの青葉を見ていた。なのにあの男に目をやった瞬間、視線が交わったのだ。真野は、太陽を見ていたのだろう。

 好きなやつが好きなやつを見る横顔を、太陽はよく知っている。ずっと、ずっと見てきたから。クリスマスに初詣、毎日連絡を取る仲になったからって、そう簡単に消えるわけなかった。

 馬鹿野郎。ゴングなんて鳴らせる立場じゃねえだろうが。

 太陽は、今すぐ真野に駆け寄りたいと思った。けれどホイッスルが吹かれ、試合再開だ。

 今、真野に証明できることはなんだ。そんなのは一つしかない。走って、走って、ボールを奪う。

 今まではずっと、最前線で待つ青葉のためだった。

 けれど今は違う。

「真野っ」

 真野のため? それもちょっと違う。

 集中してるときの冷めた目つきが、かっこいい。それは確かにそうだ。真野との練習の成果を見せたい。それもそうだ。

 けれど違う。

 真野と視線が交わる。ここだ。

「太陽っ!」

 真野とのワンツー、こっから――

「太陽!」

 冴木の声だ。隣にもう一人走りこんできている。見えてる。わかってる。でも違う。

『お前ほんとは……』

 初めて真野と話した日の続きが、脳内で再生されている。そうだよ、ずっと。真野だけがわかっててくれた。真野だけには見抜かれてた。

 思いっきり振りぬいた左足、カシャンっとゴールネットが揺れる音、甲高いホイッスル。

『お前ほんとは、自分が決めたいんだろ?』

「……できた……」

 ぱっと後ろを振り向き、蛍光ピンクのビブスで汗を拭う真野のところへ、自然と足が向かっていた。足が速くてよかった。一秒でも速く、真野の元へ向かえる。

「真野っ!!!」
「なっ、はあ!?」

 思いっきり抱きついた。この心臓の高鳴りを半分貰ってほしかった。渡したいのは絶対、お前以外いないよ。

「真野っ真野っ真野~っ!」

 一人滾ってしまった気持ちを、ぐりぐりと頭で真野の首筋に植え込む。ああ許されるならこのまま押し倒して、キスして、めちゃくちゃぎゅってしたい。されたい。

 続々とその背中に飛びついてくる仲間たちがそんなこと許してくれるわけがないので、その欲望はまた後でとなるが、とにかくだ。

「俺の特別は、絶対、真野だから!!」

 真野がどう捉えるかは、考えてもどうせわからない。ならもうやっぱり、伝えるしかないのだ。ゴールの余韻だと信じてもらえなかったとしても、口だけだと蔑まれても、別にいい。

 そうじゃないと、何度でも伝えるしかないんだ。

 「……お前、かっこよすぎ」

 バチン、と合わせた手のひらが、じんじんして気持ちよかった。

 優しく、柔らかく、包み込むように微笑んでくれた真野のことが好きだ。

 真野だけが、ずっと特別な一番だ。

 持ってるもの全部で、この男を安心させたい。幸せにしたい。

 太陽はその気持ちを乗せて、またボールを真野へ届けた。



『じゃあ誰なら関係あんだよ!!』

 部活のミーティングを途中で飛び出した太陽の声が、廊下まで響いていた。聞きたくなくても、聞こえてしまった。

 太陽と青葉には、自分には到底想像もつかない、深い繋がりがある。サッカーで繋がってるとあいつは思っているようだけれど、たぶんそうじゃない。青葉の言う『心友』は牽制であり、自己暗示だ。

 それを太陽に言ってあげられない。お前が踏み出せば変わる関係だよと、教えてやれない。傷つく太陽の隣にいることしかできないと思っていた頃から、随分と薄汚れてみじめったらしくなってしまったこの気持ちを、どうしたらいいのか。

 放課後、冴木と歩く帰り道で小雨が降り出していた。

「やべ、傘ねえ!」
「まあもう駅着くし、いいっしょ」
「真野は駅近だからいいけどよぉ、俺今日チャリじゃねえのよ」

 鞄に入っている折り畳み傘を、ぺしょっとした顔の冴木に貸してやろうかと思ったときだ。文化祭の日、ロッカーの奥のほうへ追いやられていた、太陽の紺色の折り畳み傘を思い出した。

 ………いらねえよな、だって小雨だ。別にただ家へ帰るだけだ、びしょ濡れになったってそう問題はない。多少寒くて風邪をひくリスクはあるが、そんな大した……

「……わり、俺忘れ物した」
「は!?」
「先帰っといて」

 曲がりなりにも常に一緒にいるクラスメイトでチームメイトを、幾分強くなってきた雨足のなか置き去りにし、真野は来た道を駆け戻っていた。太陽がいれば二番手になってしまうが、これでも足は速いほうだ。すぐに追いつくだろうと思っていた。

 リュックの中で、ばっこんばっこん縦横無尽に揺れるこの傘は、太陽にだけ差してやりたい。ただでさえ今日は病んでいそうだ。一人で帰すんじゃなかったと、真野は土砂降りになってきた雨空の下を全速力で走っていた。

 しかし、太陽に傘を差してやるのは、やっぱり自分ではなかったらしい。

 ビニール傘の下で二人、肩を寄せ合っている背中を見つけた。

『じゃあ誰なら関係あんだよ!!』

 昼休みの太陽の声が、脳内でリピートされている。まったくその通りだ。太陽と青葉は深い絆で結ばれている。ぽっと出の自分なんかが、その間に割りこめるはずがなかったのだ。

「……わかってただろ、最初から」

 真野には、土砂降りの雨が心地よかった。誰も自分を見ていないし、ぐしゃぐしゃの心に雨は染みわたる。全部洗い流してまっさらにしてほしいと、真野は雨空に願っていた。



 あの雨の日から、太陽を見るのが怖くなった。あからさまに青葉の顔に光が戻り、なぜか太陽は自分のところへ毎日昼を誘いにくるのだ。不気味でしょうがなかった。「付き合うことになったんだ」と、成り行きで相談を受けていたような立場の自分に報告しようとしているようにしか思えなかった。

 サッカーだってそうだ。もう青葉はいないっていうのに、あいつの癖は一向に直らない。胸の奥底に大切にしまっておかれている『青葉とのサッカー』を見せつけられているようで腹立たしく、そう頭に血が上ると同時、お前は何様だと、どんどん心がすり減った。

 太陽も青葉も眼中にもなかっただろうからすっかり忘れているが、真野はしっかり覚えていた。ジュニアユース時代の二人のことを。圧倒的に一人だけレベルの違った青葉と、そいつがいなければお前だっただろうな、という太陽。特に太陽はその容姿があまりにかわいらしく、当時から二人は有名人だった。

 青葉は自分に自信があって、生粋のストライカーそのものだが、太陽は違った。あいつは青葉に献身的すぎる。打てる場面でも絶対に青葉に上げてしまうのは、チームの方針だったのかもしれないが、真野はそれに中学時代から腹が立ってしかたなかった。同い年とは思えないクロスの精度だ。あのキック力のある左足を持って、なぜミドルを打とうと考えないのか謎だった。使わないならその左足を自分にくれとさえ思っていた。

「わかってるから、頭では……身体がついてこなくて」

 しょぼくれた声で、ナイフみたいな言葉を投げかけてくる。本能で青葉を求めてるってことかと、つい口調が強くなってしまった。

「じゃあやれよ」

 持て余したこの恋心は、いったいどこへやればいいのだろう。いつか太陽に問いかけたが、真野だってその答えを持ってるわけじゃなかった。力任せにこの気持ちをぶつけて、相手はどうなる。押し付けがましい、重すぎると、離れていくのがオチだ。

「だから、こっち向け!」

 しかし太陽は、残酷だ。ぶつけたくないから、これ以上困らせたくないから、離れたいのに。この男はどうもそれを許してくれないらしい。終業式の日がなんの日か知っているのかと疑って見つめれば、言うのだ。

「クリスマス!一緒にいたいって言ってんの!!」

 赤らめた頬に手を伸ばしたら、どうせ跳ね除けるくせに。ひっくり返ったその背中に抱きついたら、きめえと暴言を吐くんだろう? なのになんで、まだ隣にいるんだ。

 なにも返ってこないとわかってて、好きになった。青葉を見つめる横顔を好きになったようなもんだ。初めから結末のわかってた恋だ。

 真野はただ、太陽に幸せになって欲しいと願っていたはずだ。あまりに健気で痛々しい太陽を、放っておけなかった。あと一歩で掴める背中に手を伸ばせない臆病なところが、たまらなく愛しかった。

 それがいつの間にか、自分なら大切にしてやるのに、という頼まれてもいない傲慢な想いに変わり、いまやどうだ。強引にでも自分のものにしたいという、欲望まみれのヘドロみたいな気持ちになってしまった。

 太陽が好きだ。どうしようもなく好きだ。この気持ちをどっかにやりたい。でもやりたくもない。その矛盾が、どんどんと心をすり減らしていく。このまま好きだという気持ちさえすり減ってくれたらいいのにと、終業式の前夜、真野はベッドの中で丸まっていた。


 クリスマスの日の太陽は、おそろしくかわいかった。というかもう、フィルターかもしれない。でもかわいかった。

 ちらちらこっちを覗う目つきも、るんるんという効果音が付きそうな横顔も、スーパーでいらんものカゴに入れようとする子どもみたいなところも。そもそもクリスマスに浮かれているその様子が、かわいかった。

「真野は無駄がないよな」

 んなことはないぞ、と太陽を注意深く見つめた。

 こいつは自分を見誤っている。無駄だらけだ。どうしたらいい、どのタイミングで、いつもそう頭で考えるのに、結局その通り上手くはやれない。サッカーでも恋愛でもそうだ。無駄だらけじゃないか。

 それに、そう冷静沈着な男では到底ない。今だって隙だらけの首筋を、いやらしく見つめている。太陽の匂いでいっぱいの太陽の家にお邪魔したときの高揚感だって、きっとわかってない。その方がこちらの都合はいいが、やや危なっかしく真野の目には映っていた。

 しかし、こうされてしまうと、さすがの真野も期待してしまっていた。ケーキを作ってくれたというだけでも感動だというのに、パスタまで作ってくれていたらしい。クリスマスに家に招待してもらって、手料理を振る舞ってくれる。自分ならただの友達にそこまではしない。せいぜい宅配ピザを取るとか、もうあとはゲームするとかだ。イルミネーションを見ようなどとは、到底思わない。

 喉元まで出かかっていた、好きの二文字。それをまた言ったら、きっと太陽を困らせる。もう二度も同じ失敗をしたのだ。三度目はないだろう。しつこい、失せろと言い捨てる太陽は、安易に想像できる。

 まじまじと見つめてしまうその長いまつ毛。すうっと綺麗な鼻筋。ちっちゃな鼻尖と唇。ぽわんと柔らかそうな頬。ビー玉みたいな瞳に吸い込まれそうだ。けれど、熱を込めたらいけない。獣だと思われては、きっと不利だ。追い返される。真野は素数でも数えようとしていた。

「好きだ」

 …………ん?

 脈絡のないその三文字を幻聴かと疑ったのは、自分が傷つかないためだった。けれど目の前の太陽は、そんな顔していない。まっすぐ真野を見つめ、柔らかそうな頬がピンク色に染まっているじゃないか。

「真野が好きだよ」

 ――追い打ち……。聞きたいことは山ほどあった。そもそも、なにがどうなってそうなった。青葉はどうした。なんで今、口の端っこにミートソースが付いていそうなタイミングで言うんだ。とかだ。

 けれどもう、気づいたときには手が伸びていた。

 やっと、やっと、触れていいのか。

 手を伸ばしていいのか。

 無防備で柔らかな唇が、これが現実なのだと教えてくれる。

 真っ赤な顔で、唇を湿らせて、あの男はなんて言ったか。未来永劫忘れないだろう。

「息って………どうやってすんの……」

 そのあと太陽に言われたのだ。食べられそうだと。まったくそうだ。本気で食べてしまいたい。かわいくって大切すぎて、誰にも見せたくなくなる。けれど同時に、世界中に言いふらしたいとも思う。こんな矛盾した恋心を抱いたのは、初めてだ。


 太陽が告白してくれて、真野は有頂天だった。天にも昇る気持ちだった。

 しかし数日が経てば恐ろしいものだ。年末年始でたった数日顔を合せなかっただけなのに、やけに不安が募っていた。

 クリスマスの夜、太陽はあんなにも全身全霊で好意を伝えてくれたというのにだ。電話口で太陽が『サッカー』という単語を口にするたび、脳裏にちらつくのだ。あの爽やかなチャラ男が。

 もうわかっている。それこそ頭では理解している。それにそもそもだ。「青葉を好きなまんまでいい」と、そのままでいいから自分のところへ来てくれとせがんだのは、紛れもなく真野である。

 太陽の心の真ん中か、もしくは奥深くにあの男の存在があったとしても、真野に文句を言う権利など一切ないはずだ。それでいいと言ったのは、自分なのだから。

 それなのに、たまらないのだ。

 ボールを蹴るたびに、太陽の頭には心には、きっと青葉が映る。ああいやだ。ミジンコ以下の自分の心がいやだと、真野は引退試合の前日、一睡もできなかった。

 そして八つ当たりだ。だいたいサッカーにおいて、太陽との相性は最悪だ。感覚で動く天才肌の太陽と、頭で考えなきゃ動けないマニュアル人間の真野では、守備ならまだしも秒を争う攻撃において、阿吽の呼吸とはいかないのだ。

「青葉!?」

 そんな中、最悪のシナリオが整う。あのチャラ男が、高みの見物にやってきたのだ。……と言っては、やや心が痛む。だがそう汚い心で接してしまうほどには、真野は青葉を妬んでいる。

 そんな意地悪い男だ。ミジンコ以下だ。なのにだ。

 太陽は自分がいいと、言ってくれるらしい。信じられない気持ちだ。

 願ってできるプレーじゃなかった。あのミドルは太陽が紛れもなくそっち側だからできたことだ。そういうことを、きっとこの男は理解していない。

 大勢の前で飛びついて、ふわふわの髪の毛で首元をくすぐる悪戯の責任をどう取らせようか。

「俺の特別は、絶対、真野だから!!」

 きらきらの目で笑うな。ここで抱き潰したくなるだろうが。そんな下心にまみれた男だぞ、本当にいいのか。

「……お前、かっこよすぎ」

 バチンと力強く合わせた手のひらが、じんっと痛んで、泣きそうだった。



「真野、ありがとな」

 太陽が先輩たちとの写真撮影に呼ばれている間、青葉になぜかそう礼を言われた。何に対して、なぜお前が、誰に向かって? という好戦的な言葉は全部飲み込んだ。さっきの太陽の眩しい笑顔のおかげだ。

「なにが」

 コート脇の長椅子に腰を下ろした青葉は、真野を手招きする。渋々それに従ってやると、青葉は長い脚を前に伸ばしきって、青い空を仰いでいた。

「俺じゃ無理だったから」
「……わかりやすく言えよ」
「全部だよ、わかんだろ」

 わかるか、と強く言い返せなかった。なんとなくわかってしまうのが、嫌だった。そんな寂しげな顔で笑うんじゃねえと、真野は青葉の長い脚に蹴りを入れる。

「いてえ!スパイクで蹴んな!」
「ばかじゃねえの、お前に礼言われる筋合いない」
「……あっそー!」

 青葉は天才だ。誰もがそう言うだろう。その天才の隣でサッカーをしてきた太陽が、自分で点を取りたいだなんて、きっと言えなかったと思う。真野もそうだった。太陽たちのチームと対戦した日以来、サッカー選手になるという夢を諦めた一人だ。

 それでも隣に立ち続けたいという負けん気が、きっとこの天才を救っていたのだろう。だからこの二人は異様なのだ。お互いがお互いを離せない、窮屈そうな関係。

「……太陽に怒られっかもしれないけど、俺たち、付き合ってるから」

 だっせえ、みみっちいプライドだ。嫉妬だ。

 窮屈そうに一つの傘の中で肩を寄せ合っていた、あの背中を思い出してしまった。

 けれど太陽は、自分がいいと言ってくれるのだ。だったらもう、それを信じるしかないんだ。いくら嫉妬をこねくり回したって、なにが生まれるっていうんだ。

「えわかってんだけど。太陽見ればそれくらいわかるし」
「は?」
「太陽はずっとお前が好きだったよ」
「……まじでむかつく、三発蹴る」
「おまっ!ばか、せめてスパイク脱げ!天才の右足になにすんだ!!」
「自分で言うな天才」

 ずっと好かれてたのはてめえだ、とは、やっぱり言ってやらない。



 
 青葉はただこわかったのだ。太陽がいなくなるのが、こわかった。

 父親がサッカーをやっていたわけでも、好きなわけでもない。兄は水泳を頑張っていて、サッカーには無頓着だった。なのに青葉だけが、サッカーに目覚めていた。不思議だと母親もよく言っていたものだ。

 青葉にとってサッカーは楽しかったはずだ。けれどいつの間にかくるしくなっていた。

『お前のことぜったい泣かす!!』

 幼稚園でその名札を見るまで、本気で「あさちゃん」だと思っていた女の子は、朝倉太陽という素敵な名前の男の子だった。いつも泣かすと言いながら自分が泣いてる、おもしろい子だった。

 その太陽だけだった。色んな人が自分を「天才」だと言うし、太陽もそう言ってくれた。けれど、なにもしないでサッカーがうまくなったわけじゃない。好きなりにできるようになりたいことはあって、できるまでやったからできただけだ。

 そういうことを太陽だけがわかってくれていた。見てくれていた。

 太陽が変な人に絡まれていたら助けなきゃと思ったし、守りたいと思っていた。特別に大切な友達だと思っていた。

『一ノ瀬くんが好きなの』

 中学一年になってすぐ、彼女ができた。目が大きくてかわいかったし、ちょっとそういうことに興味もあって、付き合ってみることにした。

 けれど関係が進むにつれて、徐々に違和感は確信に変わった。

 近づいてくるその白い頬に、重ね合わせている人がいる。柔らかな唇に、感触を重ね合わせている人がいる。

『なにお前、もう別れたの』

 心底呆れたような顔で、興味なさそうに呟く太陽。ぷいっと背けた顔が、うなじを差し出していて、どろっとした気持ちが溢れた。

 こわかった。相手が男ということにはそう戸惑いはなかった。たぶんずっと隣で、男に迫られてる太陽を見ていたからだ。それよりもずっとこわかったのは、『友達』にそんな感情を抱いてしまったことだ。

 何度も友達に裏切られてきた太陽を知っている。その度に太陽が吐いていた台詞もだ。

『男に気を許しちゃいけないんだ』

 ああごめんと、うなだれるしかなかった。

 けれどその頃、救世主が現れた。ファミレスで声を掛けてくれた、高校生の彼女だ。彼女は青葉にとってとにかく刺激的で、そういうことに夢中になってしまった。そのときに思ったのだ。

 やっぱりあれは誰より太陽の顔がかわいかったせいで、気の迷いで、自分は普通に女の子が好きなのだと。太陽とはずっと友達でいられると。

『俺たち、心友だよな!』

 その呪いの言葉を、何度も何度も吐いてきた。そのうちにそれが本当になってくれればいいと、心底願った、祈りのような言葉でもあった。


『試合中、何分ボールに触れるか。五分? いいやそんなに多くはない』

『オフ・ザ・ボール。つまりボールを持っていない状態で、どれだけいい準備ができるかだ』

『サッカーはゴールを決めなきゃ勝てない。ゴールを決めるためには、どこにいたらいいのか。逆算して考えるんだ』


 ジュニアの監督が口酸っぱく言っていた言葉だ。

 青葉はずっと、ゴールだけを意識してきた。だってサッカーはゴールしなきゃ勝てないのだから。どんな弾丸シュートを決めてやろうかと考えるのは、当然だと思っていた。

 けれど、青葉の願ったゴールを、途中出場で颯爽と奪っていった真野はきっと違う。オフザボールにいい準備をして、そのうえで華麗なゴールを決めたのだ。

 自分にボールが渡っていた時間が、たしかにあったのに。足を振りぬけなかった。枠を外すのが怖かったのかもしれないし、キーパーにセーブされるのが嫌だったのかもしれない。けれど知っているはずだった。


 ゴールは打たなきゃ決まらないのだと。


「一ノ瀬青葉です、一から頑張ります!よろしくお願いシャス!」


 次、がいつくるかなんてわからない。九十分の試合で、よくて二分しかボールには触れないと言われているのだ。その次がくる保障もない。

 けれど青葉は絶対忘れない、心の一番柔らかいところにそれを刻んだ。

 オフ・ザ・ボール。

 ボールを持たない時間にこそ、良い準備をすること。

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