文化祭の振り替え休日は二日あって、昨日は家でのんびり過ごしていた。

 そして今日は、サッカー部の面々と大型テーマパークへ行くことになっている。本来ならばデートで行くようなその場所へ、わざわざ男七人で出向くのは、冴木の発案だった。

 冴木いわく、男が大所帯で固まっていれば、そういう女子に一緒に遊びませんかと声を掛けられるのではないかと言うのだ。そんなうまい話があるか、とは思ったが、サッカー部以外につるむ友人もいない太陽は、二つ返事に頷いていた。

「おっはー!!」

 テーマパークへのバスが出ている駅で待ち合わせをしていた。一番乗りの冴木は、いつもの五倍は元気そうだ。サングラスなんて掛けてて笑いそうになった。

「おはよ」
「太陽は私服もかわいいなぁ!」
「だまれ」
「いいか太陽、女子にその口の利き方はぜっったいNGだからな?」

 太陽の次にやってきた前田はそう言って、太陽の頭に手を置く。今日のメンバーで一八〇センチに満たないのは太陽ともう一人、佐藤というマネージャーだけである。大男たちにとって太陽の頭は、手を置くのにちょうどいい高さらしい。大変迷惑な話だ。

「てかないって、そんなうまい話」
「いやわかんねーよ、だって真野がいるんだし」
「それはそう!真野さまさま!!」

 続々と集まり出す部員たちが、口々にああだこうだと真野に期待を寄せていた。

 そういえば真野の私服姿を見るのは、夏の合宿以来だ。合宿なんて部屋着みたいなのしか着てこないのだ、実質初めて見ると言ってもいいかもしれない。

「え、お前ら早くね?」

 若干引き気味な声で現れた、最後の一人。たしかにバスの出発時刻まで、あと二十分はあった。

「真野さま!!」

 振り向いた瞬間、視線が交わる。それがなんだかくすぐったくて、妙な気分だ。

「……おはよ」
「……はよ」

 妙な間は勘違いなんだろうか。逸る心臓がどうしようもなくて、物理的に手で心臓のあたりをぎゅうっと握りしめていた。

「うわ、お前らおそろじゃん!」

 冴木がそう言った通り、真野と太陽のブルゾンの胸元には、同じブランドのロゴが入っていた。色味こそ多少違えど、黒も紺もぱっと見似たようなものだ。

 真野は兄のを借りたのだと言い、太陽は母親が買ってくる服を着ているだけなので、それがどこで買えるのかすら知らなかった。

「なんだよなんだよ~デートじゃねえんだぞ~」

 当然それが偶然なことはこの場の誰しもがわかっていて、それだってただ冗談で言っただけだろう。いつもの冴木のやることだ。

 しかしあろうことか、太陽はその冴木の冷やかしに、まんまと頬が反応していた。頬が熱くなるのが自分でもよくわかった。

「こら」

 ぱちっと両頬を冷たい手のひらで挟むのは、やっぱりこの男だ。

「なにまじになってんの」

 そうやっていつものような冷えた目で見下ろすくせに、だ。やっぱりその視線が以前よりも熱っぽく感じてしまうのだ。そんなもの目の前で浴びて、頬の熱が下がるわけがなかった。

「離せよっ」
「だめ~」
「ばか真野!」
「口悪っ」

 そのじゃれあいが、そういうのに見えないのは普段の行いのせい……おかげ? だ。

 冴木たちは「また左のアレが始まった」と、相変わらずサッカーの相性最悪な左サイドの二人をやれやれと見やる。

 そのままバスへ乗り込み、やっぱり隣には真野が座っていて、太陽の心は置き去りのままだ。心よりもとにかくずっと頬が熱い。熱くてしょうがない。車内でブルゾンを脱ぐと、中に着ていたパーカーを見てか、真野が言う。

「かわいいね」

 なにがだ!? ただのパーカーだ、なんの変哲もないただの白いパーカーだぞ。慌てふためく素振りをそんなあったく見つめるな、もう勘弁してくれ。これ以上脱いだら肌着になっちまうだろうが……。太陽は窓の外をただただ眺めて、深呼吸を何度もした。



 テーマパークへ到着すると、かなりの強風だった。その強風のせいで休止になっているアトラクションも多く、太陽たちはがっくりと肩を落とす。

「まあ乗れるの全制覇しようぜ」

 太陽がそう言うと、冴木はきらりと目を輝かせた。

「だよな!せっかく来たんだし!」

 こういうときに場を盛り上げてくれる冴木は、大変有難い。目一杯テンションを上げたところで、太陽の限界は冴木の寝起きさえ越えられない気がする。これが圧倒的陽の威力だ。

「おばけは俺パス」
「ああ、俺も」

 それなりにアトラクションを乗り継いだ頃、名物のお化け屋敷の前で太陽がそう手を挙げ、まさか真野もそれに賛同していた。

「えー!これ行かなくてほんとにいいの!?後悔しない!?」
「しない、絶対しない」

 冴木だってああ言ってはいるが、どうせ早々にリタイアしてくるだろう。それかサッカー部自慢のその足で駆け抜けてくるか、どっちかだ。

 太陽と真野を置いて、残りの部員たちがお化け屋敷へと吸い込まれていった。

「あっち座って待ってるか、なんか乗るか、どっちがいい?」

 真野にそう問われ、さすがに疲れてきていたので座りたいと希望したが、お化け屋敷周辺のベンチには、すでに疲弊した人たちがうなだれていた。

「空いてねえな」
「よくみんな入るもんだよ、ああなってまで」
「なあ」

 なんにも怖いものなんてありません、という顔をしておいて、真野はおばけが苦手なのかと小さく笑う。そういえばこの男、熱いものもだめだった。案外かわいらしいところがあるじゃないか。

「なんだよ」
「え!?なんでもねえよ」
「今にやついてただろ」
「気のせいだろ!」

 まったく目ざとい男だ。ほんの小さくにやついただけで、よく気がつくものだと考えたあと、妙に気恥ずかしい答えが浮かんでしまい、デリートした。

 少し離れたところに一つだけ空いているベンチを見つけ、真野と太陽はそこへ腰を下ろした。しかし強風は収まるどころか一層強くなっていて、髪の毛が吹っ飛んでしまいそうなくらいだ。

「風つよ……」
「どっか店入るか……」
「でも歩くのだるい」
「あ?サッカー部キャプテンが何言ってんだよ」
「いいよ、まだここで」

 店内で座れる場所となれば、レストランくらいだ。昼食は揃って食べるだろうから、レストランにはたぶん入らないだろう。となれば土産屋などが思い浮かぶが、立ち話をするような仲でもないし、冴木たちのようにお土産をあれやこれや選ぶようなキャラではお互いない。結局ここが一番落ち着けるような気がした。

 真野の洗い立てみたいにサラサラな髪の毛が、風によって巻き上げられている。ふと風が止んだときに、さらっと自然に定位置に戻ってくるのが羨ましい。太陽の髪はストレートではあるがコシが強いようで、こういう風の日には、巻き上げられた形のまま、形状記憶されてしまうのだ。

「んは、髪ぐっちゃぐちゃじゃん」
「うるせー」

 ぷるぷると頭を左右に振り、形状記憶を阻止する。

「犬みたい」

 真野はそう言って、オレンジ色のキャップのペットボトルをリュックから取り出した。

「飲む?まだあったかいよ」
「えっ……ああ……大丈夫」

 ぎくっとしてしまった心臓が憎い。太陽も自分のトートバッグからスポーツ飲料のペットボトルを取り出して、一口口に含んだ。

「てか冴木たち絶対リタイアするよな」
「な!俺もそう思う」
「よくあんなの入るもんだよ、夜寝れなくなりそう」
「わかるわかる。あと風呂もきっと無理」
「なー!頭洗うときとか背中ぞわってしそう」
「あれさ、ああなるときって、まじでいるらしいよ」
「は!?」

 テレビの受け売りを冗談半分でそう話すと、真野は予想以上にびびっていた。

「あはっ、お前、まじで怖いのだめなんだ」

 信じられないと疑うような目つきと、そのなかにほんのり怯えを含んだ目の色が、かわいいと思ってしまった。

 真野颯と書いてクールと読むような男にも、こんなかわいらしい一面があるのか。太陽は真野の弱みを握ったような気になって、心のなかでガッツポーズを決めた。

「太陽だってそうだろ、今ここにいんだから」
「まあそうだけど~、真野よりは強いだろうな」
「根拠は」
「え、なんとなく」
「なんだよそれ、全然あてになんない」

 いつだって冷静沈着で、理論的な真野らしい。なんとなく、とか勘で、とか一番納得しない奴だ。サッカーでもいつもそう。蹴ったボールの意図を聞かれることなんて、監督やコーチくらいにしかされたことがない。

「げっ」
「ん、どした?」
「目になんか入った」

 真野がそう言って、目をこすっていた。

「ばか、こすったらだめだろ」

 太陽がその手を取り、真野の顔を覗き込む。うるっと瞳に水分を含んで、まるで泣いているかのような顔に、また心臓がぎくっとする。

「こっちだよな?」

 赤くなりかけていた左目の方を触れると、真野は「うん」と頷いた。ぱっと見てわかるような大きなゴミは入っていない。コンタクトの縁が確認できて、ああ真野って目悪いんだ、家では眼鏡? などという気色悪い想像を振り払う。

「ぱっと見わかんないけど……べってしてみ」
「べ?」
「あっかんべーの目」
「ああ……」

 そう言って下まぶたを下へ引っ張らせた。赤く充血した下まぶたの粘膜部分に、黒い小さな点があって、ちょんとそれに小指で触れる。

「とれた!」

 何度かまばたきした真野が、嬉しそうに微笑んだ。

「ほんとだ、すっきり」
「よかった!」

 肩が触れ合ったままの距離で、ぱちりと目が合う。澄んだ瞳の奥の熱が、伝染してしまいそうだった。吸い寄せられ引き込まれ、身動きがとれなくなっていた。

「……どうして青葉なの?」

 その質問の瞬間、一層強い風が吹き荒れる。遠くで女性のきゃあという声が聞こえたり、足元をどこからか飛んできたビニール袋が転がっていたりした。そういう景色の一部に、真野がいる。切れ長で涼やかな目元に信じがたい熱を宿して、太陽は見つめられていた。

 どうして青葉なのか、そう問われても、一つもこの理詰め男を納得させる言葉は見つからない。なんとなく、気がついたら。

 青葉に対する好意がそういうものだと気づいたのは、青葉が初めて彼女と手を繋いで歩くのを見かけたときだった。それまでにも彼女はいたが、実際この目で特別な二人を目の当たりにしたときの苛立ちや焦燥感が、そのうちに恋なのだと気づいた。それだって、なぜ? と聞かれたらまともに答えられない。

 真野がたぶん一番好まない答えだ。なんとなく、そうだと思った。気づいたら、そうなってた。

「……なんでだろ」

 やや首を傾げた真野の不服そうで切なげな顔が、胸をえぐる。青葉と違ってこの男の笑顔はあまり見かけない。基本的に人をあざ笑うような笑みしかしないやつだ。たまにくしゃっとえらく整ったその顔に皴を寄せて笑うときもあるが、そうそうお目にかかることはない。

 だから、笑顔が一番いい、などとは思わない。

 けれど、そんな顔はさせたくない。悲しまないで欲しいと思う。悲しませたくない。

 飄々として、クールで、人を小馬鹿にして高みの見物している真野がいい。

「俺と青葉って、小さい頃から一緒にいるから」
「……」
「いつからって、わかんないんだ。気づいたらっていうか」

 理解不能、という顔をされるのが嫌で隠した本音を、そのまま伝えた。そしたらちょっとは、その顔が和らいだりしないかと思ったからだ。けれど真野の表情は、見えない。あの熱を宿した瞳は、今は足元の赤茶色のレンガをじっと見つめていた。

「太陽のその気持ちってさ、どこにいくの」
「……え?」
「言わないつもりなんでしょ」
「……うん」
「じゃあそれって、どうするの」

 腹の底でうごめいていた淀んだ気持ちが、躍起になっている。そうだそうだ、と真野に加勢しようとしている。そんなことは、太陽が一番知りたかった。どこにもいけない、どこにもやらない。ずっと、永遠に、死ぬまで一生、この腹のなかで持ち続けるはずだ。そう決めたはずだ。

「それ持ったままでいいよ」

 真野の顔が、太陽のほうを向いた。いつもと同じ、冷ややかな目だ。

「青葉を好きなままでいいよ」

 揃いのブルゾンの袖が重なる。冷えた指先は、どちらのものかよくわからなかった。どっちもひどく冷え切っていた。

 見つめ合う瞳がくすぐったい。触れるだけの指先がもどかしい。そんなふうに笑わなくていい。お前は仏頂面が一番似合う。

「ね~ママ~つかれたからやすむ~」

 そのとき、隣にちょこんと小さな男の子が飛び乗ってきた。二人掛けのベンチでいかに真野のほうへ身を寄せてしまっていたか、やっとここで気付く。

「ちょっ!やめなさい、お兄ちゃんたち座ってるでしょ!!」

 その子の母親に『お兄ちゃん』と呼ばれて、お互いに気が抜けてしまった。目で会話してから、太陽が言う。

「もう行くんで、ここどうぞ」
「え!?いいですいいです!ほら、タイヨウ行くよ!!」
「えーお兄ちゃんたちいいっていってるじゃーん」
「こら!!」

 まさかの名前被り、そう珍しい名前でもないが、多い名前でもない。

「名前、一緒だ」

 男の子にそう声を掛けると、嬉しそうに足をばたつかせ目をきらきらにしている。その姿がまんま小さい頃の青葉で、胸の奥がじんわりとした。

 ベンチからお化け屋敷のほうへ歩いていると、すぐに冴木たちと合流できた。案の定リタイアしたらしく、出てすぐのベンチでへばっていたらしい。

「もう正解っ!!お前らが勝ち!!めっちゃこわかった~!!」

 怖がりながらも愉快に冴木たちが迎えてくれたのが幸いだ。

 さっきの真野の言葉になんと答えたらいいのか、太陽はまったくわからなかった。



 真野と初めて会話したのは、入学してから割とすぐのことだ。青葉が昼休みに誘いにくるときに、真野もその隣にいた。二人は購買組で、その帰りに特進に寄ってくれているようだった。

 いつも焼きそばパンを買う青葉と同じように、真野もコレと決めたらあまり変えるタイプではないようで、いつもフルーツサンドとミルクコーヒーを手に持っていた。クールな顔してめちゃくちゃ甘党、というのが真野の第一印象だ。

 明るく天真爛漫で爽やかな青葉と、クールで近寄りがたいながらも凛とした真野は、タイプの違うイケメンとして、かなりもてはやされていた。そこへかわいいだの美人だのと主に男からもてはやされる太陽が加わり、冴木いわく『異色』の三人だと噂されていたらしい。

 初めて二人で交わした会話は、今でもよく覚えている。

『お前、青葉のこと好きなんだ?』 

 はあ? と声を出すことさえできなかった。自分の青葉への想いが見破られたのは初めてだった。不自然なほど一緒にはいるものの、大抵青葉には彼女がいたし、太陽に興味をもつ人間自体、そう多くなかったのもある。疑われることすら、これまでなかったのだ。

 それが、出会って数日の男に見抜かれた。

『……幼馴染だから』

 初めてのことに、気が動転していたのもあったと思う。ただ、確かに胸の奥底にあった。『ちがうよ』『そんなわけないじゃん』とは言いたくなかった気持ち。それをこの男は弄ぶようになったのだ。

『へえ、それでか。健気~』

 うっわこいつむかつく……。幼少期、スクールで青葉に出会ったとき以来の気の昂りだった。それからずっと、太陽にとって真野は『むかつく奴』であるはずだったのだ。

 大抵のことは一人でやれる。青葉は誰かがいないと生きていけないタイプだが、太陽はその真逆だ。青葉に勝てないと悔し涙を流した日々も、FWとしては生きていけないのだと自覚した日々も、やっと追いついたと思ったところで膝に大怪我したあの日も。サッカーさえあれば、太陽は一人で乗り越えてこれた。

 けれど青葉のこととなると、そうもいかなかったりした。自分のなかの矛盾した気持ちと折り合いがつけられなかったり、作り笑いのやり方を思い出せないような瞬間に、あの男はやってくる。

 どうしよう、どうしよう、と深みにはまって身動き取れないようなときに、真野は手……じゃなかったな、ロープくらい垂らしてくれる感じだ。決して引っ張り上げてはくれない、自力で登れるなら助けてやるよ、ってくらいの優しさを、いつもいつもくれる奴だった。

 その男が、まさか自分を好きだと言い、不機嫌を隠さずにいる。想定すらしていなかった事態だ。一体いつ、どこで、それこそなぜ、自分なのだ。ああも合理的な男が、なぜ見込のない自分に好意を寄せるのだ。

「……太陽?聞いてる?」
「ぬあ、全然聞いてなかったごめん」
「おいばかたれ」

 しかし当の本人は、普段は相変わらずこんな感じだ。時折この男が二重人格なんじゃないかと疑ったりする。

 部活のミーティングに呼ばれていた一年のキャプテンの太陽と、副キャプテンの真野は、よりにもよって二人机を並べて、計画書を書かされていた。テーマパークへ行った日から一週間が経っていた。

「だから、ディフェンスは一年は強いと思うからそこは維持でいいんじゃねって」
「ああ、うん。いいと思う」
「てめえちゃんと考えろよ」
「えええ、真野口悪い……」
「お前のがうつった」

 淡々とそう言い放ち、計画書にカリカリとなにかを書いているが、太陽の心臓はまたもぎくりとしていた。普段ならば『おいこら』と咎めたり『俺のこと大好きじゃん』などとふざけてみたりするところだ。早くそういうの、なんでもいいから絞り出せ、と頭に号令をかけているのに、なんにも浮かんじゃこない。

「……まじでどうした?もしかして具合わりいの?」

 ほらみろ、心配されたじゃねえか。太陽は咳払いで誤魔化して、「風邪気味かも」などと大ウソを吐いた。

「俺やっとくから、保健室行ってくれば」
「いや!いい、いい」
「は?なんで?出席やばいの?」
「いやんなことはねえけど……」

 ああしまった、本気で心配されている。罪悪感で気絶しそう。太陽は気を取り直して、計画書に視線をうつした。

「……攻撃パターン……」

 その項目で、ぐっと拳を握った。

「あれから話せたの」
「ううん……てか青葉学校きてんの?」
「朝はいねえな。昼前にはくるけど」

 というが、昼休みの屋上にもう随分長いこと青葉は顔を出していない。

「最近あいつ、俺らんとこも来ないんだよ」

 真野が、ちっと舌打ちをした。同じクラスの奴らにさえそうなのかとうなだれていたところ、さらに追い打ちをかけられることになる。

「おい朝倉、一ノ瀬のことでちょっと……」

 顧問の清水に、小声でそう肩を叩かれたのだ。

「ああ、はい」

 教室の隅の方で、清水は恐ろしい事実を告げる。

「一ノ瀬、これ持ってきたんだけど、聞いてる?」

 その手に握られていたのは『退部届』と書かれたぺら紙だ。

「……っはああ!?」

 あいつ、なに考えてんだ。太陽は清水の制止も聞かず、青葉のクラスへと走っていた。「廊下走らない!」という女教師の声も聞こえたが、そんなことにかまっていられない。今はそんなことよりなにより、あいつだ。

「青葉!!!」

 昼休みの終わりを告げる予鈴が、校内に響いていた。腹から出した大きな声に、青葉のクラスの全員が太陽のほうを振り返る。だから余計に目立っていた。一人だけ振り向かないあの背中。大きいくせに座っているときは丸まってる、あの背中だ。

「青葉!お前、」
「もう授業始まるよ」
「うるせえよ、こっちこい!」
「やだ!」
「ガキか!!」

 正々堂々とサボりを強要し、青葉はそれに、やだやだとガキみたなダダをこねていた。こねくりまわしたせいで、次の授業の教師がもうそこまで来ていると、冴木が言う。

「早く立て!」
「やだってば!太陽も早く教室戻りなって」
「なんでだよ……なんで、」
「太陽には関係ない!!」

「じゃあ誰なら関係あんだよ!!」

 およそ信じがたい。太陽は青葉の胸倉を掴みあげていた。長い付き合いで何度も喧嘩したが、こんなのは初めてだ。

 大きな目、黒目がちなその目が、ぽろりと落ちてしまいそうなくらい、見開かれていた。綺麗な黒目に、怒り狂う自分の姿が映っている。息があがっているのは、走ったせいなのか、それともこのやり場のない怒りのせいなのか。

「もういいじゃん……もうやめたい」
「………はあ?」

 青葉が落としたその言葉に、拳を構えたところを、背後から冴木たちに止められていた。

「太陽、落ち着けって!!」

 もうやめたい。

 その一言の重みを、こいつは本当にわかっているんだろうか。

「サッカーがなくなったら……どうすんだよ」

 その続きはやっぱり言えないものだ。理性を失い胸ぐらを掴みあげたというのに、自己保身だけは立派に成し遂げていた。

 下を向いて唇を噛む青葉にまたむかついて、掴みかかって上を向かせてやりたいのに、冴木たちがそれを許してくれない。大男の馬鹿力をこれほど憎んだことはない。

 本鈴が鳴り響いても、教室には教師がやってこなかった。ざわざわとするクラスのなかで「やばくない?」「先生だれか呼んできた方が……」などと言われ始めたので、しかたなく太陽は身体の力を抜き、去り際に青葉の椅子の脚を蹴っ飛ばした。

「ふざけんな」

 その声に、どれだけの力も込められなかった。もはや縋るような声色にさえなっていたかもしれない。

 教室から出たとき、隣の教室の前で足止めされている教師の姿が目に入った。

 その教師と話し込んでいた大男と視線が交わる。ちらっとこちらを見てすぐ、教師に頭を下げ、一緒にこちらへと向かって歩いてきていた。

「こら、本鈴鳴ったぞ、教室戻れよ~」

 その教師は太陽を見やって軽くそう言い、青葉のクラスへと入って行った。

 その教師の少し後ろを歩いていた真野の指先が、すれ違いざまに軽く触れる。

 あいつはいつもそうだ。止めに入るわけでも、大丈夫かと慰めてくれるわけでもない。

 ロープを垂らして、自力で上がってくるのを、じっとそこで待っててくれる男なんだ。



 その日の放課後の部活は、まったく身が入らなかった。誰と会話したかすら、よく覚えていない。ただ冴木たちは腫物に触れるように、昼休みのことを引きずっているような感じがした。キャプテンのくせに甚だ情けないと、太陽はより心が曇る。

 いつものように部室から校門までは真野と冴木と並んで歩き、校門前で別れた。あの二人は家の方向が一緒だ。

 そうして一人歩く駅までの道のり、ぽつりぽつりと小雨が降り出していた。折りたたみ傘は教室のロッカーに入れたままだ。着ていたダウンジャケットのフードで多少はしのげそうだと、それを被って駅までの道を急ぐ。けれど足にうまく力が入らず、自慢の俊足はまったく意味をなさなかった。

 青葉のために磨いてきた。足の速さもスタミナもクロスの精度も、もちろん他のこと、サッカーのすべて。青葉がゴールを決めたあの顔が見たくて、努力してきた。ああ、それじゃあ青葉のためではないか。青葉の喜んだ顔が見たいという身勝手な押し付けだ。

 急激に雨が強まり、ダウンジャケットに水滴が染みこんでゆく。まあもう、それもいい。よくドラマなんかで見る、土砂降りのなか傘もささずに歩くあれ、今なら気持ちがわかりそうだ。もう、どうでもいいんだ。どうにでもなれという投げやりな気持ちに、こういう雨ってぴったり合うんだ。全部、綺麗さっぱり流してほしいんだ。

 結局自分と青葉の間には、サッカーがなければなにもない。今日、青葉のクラスで言いたかったことだって結局それだ。『サッカーがなかったら、どうなるんだ、俺たち』だ。あまりに身勝手で独りよがりな気持ちじゃないか。そんなものぶつけて、一体どうする気だ。

 真野は青葉への気持ちを『健気ってか哀れ』と言ったが、それどころじゃなかった。

「虚し………」

 哀れってか虚しい、だ。

 報われなくていい。どこへも行けなくていい。

 けれどそれは、青葉の隣に『心友』としていられれば、という前提で成り立っていた。

 サッカーがなくなって、それでも自分は青葉の『心友』か? そんなわけない。

 いつか真野が言った『太陽が思ってないなら、心友じゃないじゃん』その通りだ。

 一度だって、青葉を心友だなんて思ったことはない。

 いつだって望んでいたのは、青葉の特別だ。


「太陽っ」

 そう自分の名を呼び、街路樹の陰から飛び出してきた大男。

 なんだ、またお前か――  と思った次の瞬間。

 傘から顔を出した男は『違った』。

「………青葉……?」

 脳裏を過った男の姿が、細い針で心臓を何度も突っつくように痛めつけてきた。太陽は目の前に現れた望んでいたはずの男の姿に、ごくりと息をのむ。

「お前、なにして……」
「今日……ごめん」
「別にいいけど……」

 大きなビニール傘を差し出してくれた青葉の手は、真っ赤だった。こういうところだ。手を差し伸べずにいられない。ふざけるなと叱ってやりたいのに、よしよしと撫で回したくなってしまうのだ。

「家、行ってもいい?」

 自分よりも高いところから見下ろされているはずなのに、なぜか青葉がそう言うときは上目遣いに見られている気持ちになる。どんな高等テクニックだ。

「いいよ、ほら、濡れてる」

 まるっきり太陽のほうへ傾けてくれていた傘を、ぐっと押し戻した。どう頑張ったって大の男が二人、一つの傘でこの大雨を凌げるわけがない。なのに、離れられなかった。ただただ窮屈なだけなのに、離れられなかった。



 太陽の両親は共働きで、普段から帰りが遅い。父親は来週まで出張で帰らないし、母親は十二月に入ってからは繁忙期で、まともに顔を合わせられない日が続いていた。けれどそのおかげで太陽はジュニアユースまで進むことができ、今も決して安くはない学費と部費を払いサッカーができているのだ。感謝はいくらしても足りないが、不満などは一つもなかった。

「お母さんたちまだ仕事?」
「うん、たぶん日付変わっても帰ってこねえな」
「そっか」

 青葉の家も似たようなものだが、敷地内に祖父母の家があり、幼い頃はよくそこで一緒に晩御飯をごちそうになったりしたものだ。

「あー……風呂、入る?」

 お互いにびしゃびしゃに濡れていた。決して下心などではない。青葉の返事がどうであれ、どのみち自分は入るのだからと、給湯ボタンを押した。『お湯張りをします』という無機質な声のあと、「太陽のあとで入る」と青葉が答える。

 洗面室から取ってきたタオルを一枚、青葉に手渡した。

「ありがと」
「いーよ、濡れたの俺のせいだし」
「いや……待ってたの、俺だし……」

 ったく、昼間はあんなにガキみたいにダダこねてたっていうのに、急にしおらしくなって。わかってて弄ばれているような気さえしてくる。太陽はウォーターサーバーからカップにお湯を注ぎ、その中に紅茶のティーパックを入れた。

 じわじわと色づいていく様をじっと見つめ、考えていた。

 一体、なにから話せばいいのだろうか。サッカー部をやめるとなったその顛末を聞けばいいのか? けれどそこに至る前からずっと抱いている疑念については? どっちを先に聞くべきだ? ……いくら考えても、真野のように最適解は導き出せなかった。

 けれど、逃げてはだめだ。軽く触れ合っただけの指先の感触が蘇ってくる。あのロープを上るんだ、自力で。

「なあ青葉」
「んー……?」
「サッカー、やめんなよ」
「直球……」

 ちょうどリビングに飾られていた、世代別の代表選手に選ばれたときの写真。合宿中の集合写真は地雷とばかりに母親にしまわれたが、青葉とのツーショットは飾ってもらっていた。

「俺さ、彼女と別れたんだ」
「………ああ……そう」

 何度も青葉からそういう報告を受けてきたが、ああ、そう、意外に言葉を返したことがなかった気がする。本当にどうしようもなく興味がない。どうせまたすぐ、新参者がやってくるのだから。

 しかしだ。今その話をするというのは、この件に楠田エリが関係している、ということなのだろうか。

 いい色になった紅茶に牛乳を少し入れて、青葉へ渡した。

「あ、ありがと」

 嬉しさを口元に含んだ青葉は、一口それを飲んで、また話し出した。

「……太陽は、俺の心友だよね?」

 太陽も同じように紅茶を口に含んでいたので、思わずぶっと吹き出しそうになる。今それ、一番聞くなってことを平気で聞いてくる。これが最後のチャンスなのか、と腹の底のアイツらはまた形を成そうとしているが、なぜか心は凪いでいた。

「お前のそれ、なんなの?心友って」

 心の友と書いて、心友。んなことはわかっている。あるときから急に青葉が言い出した言葉だ。そういう漫画でも読んだのかと思っていたが、いまだにそれを言い続けられて、さすがに疑問に思っていた。

「心の友、だよ」
「わーってるよ、それは。なんでって」
「なんでって、だってずっと一緒じゃん」
「そりゃそうだけど、別に心の友って言うほどじゃ」
「ええ!やっぱそう思ってんだ!」
「はあ?別に親しい友でいいだろって話」

 なんの話だこれ、と思ったところで『もうすぐお風呂が沸きます』という音声が流れる。つけっぱなしの暖房のおかげで随分寒さは和らいでいた。

 青葉はむすっとした顔で、太陽を睨んでいる。

「なんだよ、もう。しんゆうな、ハイハイ」

 適当にそうあしらうと、青葉はじりじりと太陽の方へ近づいてきた。

「は、なに……」

 やかましくなる心臓がむかつく。いつまで自分はこの男のペースなのだ。

 じろりと見上げた青葉は、太陽の知らない顔をしていた。十一年一緒にいて、初めてそんな顔で見下ろされて、平然としていられるわけがなかった。

「ねえ太陽」
「……なに」
「俺、おかしいのかな」
「はあ?」

 それから続きを言わないものだから、一度床に逃げてた視線を、おそるおそる持ち上げた。

 妖艶な眼差しに、凪いだ心が暴れ出す。いやだと願っても、もう戻れない。引き下がってくれない。躍起になった腹の底のアイツらが、喉元まであがってきていた。


「俺今、太陽にキスしたいって思ってる」



~♪お風呂が沸きました


 風呂が沸いたことを知らせる無機質な音声に、これほど感謝することは今後一生ないだろう。

「あー……青葉、風呂、沸いたけど」

 けれど青葉は、目の前から退いてくれない。腕も足も自由だけれど、拘束されているように、太陽も動けなかった。聞こえなかったフリしたってどうにもならないと、わかっているのに。相変わらず姑息な臆病者だ、朝倉太陽、お前は。

「……やっぱ変だよね」

 消え入りそうな声で、青葉がそう言葉を落とした。

 変なんかじゃない。だって自分は今、嬉しい。きっとお前よりずうっと前から、そういう気持ちを抱えてきたんだ。変なわけあるか。誰が変だと言っても、自分だけは絶対、変だなんて言わない。言ってやらない。

「言いたくない」

 思わず零れていた言葉は、青葉を誤解させただろう。

「変だなんて、言いたくない」

 咄嗟にそう言葉を言い直した。けれどそれはつまりどうなんだ、という答えで、以後しどろもどろになってしまう。

 青葉はそんな太陽を、いまだ熱をはらんだ瞳で見つめている。

「太陽がずっと、男に好かれて困ってたの知ってる」

 逸る気持ちに必死に蓋をしていた。腹の底と心が別々の場所にあるなんてこと、今はじめて自覚した。

「だから俺だけは、太陽の友達でいたかった」

 こぽぽっとウォーターサーバーの水が鳴る。フローリングが軋む音と同時、太陽は青葉の腕の中にいた。願っても願っても届かなかった、いつまでも自分の場所にはならなかったそこに。

「でも無理だ、ごめん、俺たぶん太陽が好き」

 願い続けていた。本当はずっと。同じ気持ちで、同じ好きでいてくれたらいいのにと。願わない日なんてなかったよ。ずっと、本当にずっと、青葉のことが好きだったんだ。

 苦しくて、息を吐くのがやっとなくらいだ。

 好きだったんだ、本当に。隠してまで大切にとっておきたくなるくらい、大好きだったはずなんだ。失くせない気持ちだった。

 もうなにも返せない。返したい。矛盾した二つの気持ちが、行ったり来たりしていた。

「ごめんね太陽。俺もう……くるしい」

 崩れていく音が聞こえた。なにもかもがもう、二度と戻らない。十一年、なんだかんだ隣でずっと笑っててくれた青葉が、いなくなる。またあの虚無感を味わうのか。そんなの、いやだ。なにをなくしたって、お前の隣にいたかった。その根っからに明るい笑顔を眺めているのが、幸せだったんだ。

「青葉ぁ……」


 泣きそうだ。どうして、どうして――


 どうして今、青葉じゃないやつの顔が浮かぶんだ。


「太陽ごめんね、困らせてごめん」
「ちがう、そうじゃない、困ってない」

 ひょっとしてずっと、青葉も同じだったのかもしれない。そう思うと胸が引き裂かれるように痛む。

 ずっと友達でいたかった、という言葉を言わせてしまったのは、自分があまりに不甲斐ないからだ。たとえば青葉のように明るく友達がたくさんいるような男だったなら、青葉はその気持ちを純粋に向けてくれたのかもしれない。そうしたら二人には、違う未来があったのかもしれない。

「ずっと好きだったのは、俺だよ。俺が青葉を好きだったんだよ」

 その妙な気持ちに、あてられてしまっただけなのかもしれない。出会って数日の男に見破られるくらいザルなのだ。きっと隣にいた青葉には、ばれてしまっていたのかもしれない。『好きって言われたら好きになっちゃう』って、いつだか誰かも言っていた。

「でもごめん……今俺、好きなやつがいる」

 これだって、まさにそうなんじゃないか。あいつに好きって言われて、あまりに柔らかな気持ちを向けられて、いい気になってるだけなのかもしれない。寝て起きて明日になったら、もしかしたら青葉のほうだったと後悔する未来もあるのかもしれない。

 正直、自信はあんまりない。

 ただ、今、この腕の中で抱くこの気持ちが、心が、本当のものだと信じたいだけだ。

 願い続けた腕の中で、大好きだった男の下で、心に浮かべるあの甘ったるい声が、息が、本物だと信じたいんだ。

「……俺、それ誰かわかる」
「………は?」
「うん……そりゃそうだよね」

 そっと離された腕に、離れていく体温に、名残惜しさを感じずにはいられなかった。

 やっぱり間違いなのかもしれない。でもそれならそれで、明日から一生、存分に後悔するしかない。

 太陽は、こわくて透明になりたい気持ちを抑えて、青葉の顔を見上げた。

 頬を伝う涙を、拭ってやりたい。いつものように、その柔らかな髪の毛を撫でまわして慰めてやりたい。でもそれは、しちゃいけない。苦しくて胸が張り裂けそうだった。

「たぶんずっと、太陽のためにやってたんだよサッカー」
「………ずりいよ、先言うな。俺が言いたかった」
「んんっ、なにそれ、太陽は違うよ」
「違うわけねえだろ、誰のためにあの先輩とクロスの練習したか……」
「ああ、あのジュニアユースのときの?」
「そうだよ、あの先輩が言ったんだぜ」
「なんて?」
「青葉みたいな天才は、クロスで通せばあとはなんとかしてくれるからって」

 吹き出した青葉が、目尻に溜まった涙を自らの指で拭った。

「まじ人任せじゃん!」
「そうだよ、でも実際そうじゃん」

 そうだ。青葉は私生活は頼りきりだが、サッカーとなれば正反対だ。ボールさえ与えてやれば、一人でなんとかしてしまう。むしろ絶対パスを出さずに、前線の仲間を泣かせたりしていた。

「ずっと思ってた、青葉はつまんなかったんだろ」
「………」
「お前は、南沢のサッカーがつまんなかっただけだよ」

 天才で努力家でサッカーを愛している。それだけで十分なのに、青葉にはまだもう一つ、人並み外れたものがあった。

「青葉は、負けず嫌いじゃん」

 ただの紅白戦ですら、負けるとその日は居残りして、コーチを独占しようとしていた。初めて出場した公式戦で負けたときには、泣きじゃくってピッチから出ずに、次の試合を遅らせてしまったことさえあったな。大きくなってもそれはあんまり変わらなくて、ただ青葉が強くなった分、負ける回数が減った。

 だからすっかり、忘れていたのだ。

 夏の予選の準決勝。青葉は一年生で唯一スタメン出場していた。きっと物凄く悔しかったんだ。たしかにあの日、無理矢理公園へ連行された。またいつものだ、と気にも留めていなかったが、きっとあのときからだ。

「……つまんない、じゃん。だってみんな満足してるし」

 ああでた、これが本音だ。本音を言うときの、斜め下を見る癖。

「だよなぁ。青葉はそうだよ」

 部員たちも、顧問も、監督も、太陽すら、準決勝で負けたことよりも、準決勝まで勝ち進んだことのほうに満足してしまっていた。青葉はそんな中でただ一人、燃え滾る闘志を隠し持ったまま、笑顔で、部活に来てくれていたんだ。

「………ありがとな、青葉」

 青葉は泣きそうな顔で笑って、退部届の真相を教えてくれた。

「もう全部やめたかったのは本当。でも迷ってたのも……本当」

 青葉は、近藤という太陽たちが所属していたジュニアユースの監督から、これまでも何度も誘いを受けていたらしい。いわゆるスカウト枠でユースへ戻ってこないか、という話だ。夏の予選にはユースのスカウトも見に来ていたらしく、そこでまた話が現実味を帯びてきていたところだったのだと言う。

「そんなの完全に……」

 完全に自分のせいじゃないか、と太陽は言おうとしていた。しかし青葉はそれを遮って言う。

「俺が太陽とサッカーがしたかったの。太陽とサッカーするのが好きだったから」

 太陽の脳裏には、青葉がユースを蹴ったと聞かされた、あの夏の夜のことが思い起こされていた。

 あのとき聞きたかった言葉。それさえ聞ければ、もうなにもいらないと、サッカーさえ捨てられると思ったあの夜の記憶。自分がサッカーをやめたって、この天才にはサッカーを続けて欲しかった。そんな想いをたしかに持っていた。

「……俺が言っちゃったからだろ……まだ青葉とサッカーがしたかったって、あのとき」

 昇格試験に落ちた日、たしかに太陽はそう口走ってしまったのだ。悔しくて、悔しくて、目の前が滲んでなにも見えなかった。そのときの青葉の顔なんて覚えてもいない。でもたしかに、そう言ってしまった。それがずっと、ずっと、心に引っかかっていた。

 そのせいで青葉はユースを蹴って、南沢についてきてくれて、あげくサッカーをやめることになったんじゃないかと。誰にも、真野にだって言えなかった。戦犯は自分なんだということを。

「違う、俺はそれが嬉しかったんだよ、ずっとそうだよ」
「なわけあるか、俺のせいで一年無駄に……」
「違うってば!」

 声を荒げた青葉の目には、涙がたっぷり溜まっていた。もうそれを拭ってやれないんだ、勘弁してくれよ。伸ばしかけた手に、目一杯の力を込める。絶対にだめだ。言うことをきいてくれ。

「太陽だけだったよ、俺とサッカーして笑っててくれるの」
「……笑ってはねえだろ、いつも悔しかった」
「いつも泣かしてやるって言いながら泣いてたもんね」
「うるせえ!いつの話してんだ、ガキの頃だろ!」
「ふふっ……それが嬉しかった。また俺とサッカーしてくれるんだなって」
「………なんだそれ」

 なに当たり前のこと言ってんだ、と思わんでもなかった。けれど青葉の言わんとすることが、まったくわからないわけでもなかったのだ。この圧倒的天才を目の前にして、夢を諦めていった奴らを何人も知っている。そいつらが吐いた言葉で傷ついてきた青葉のことを、太陽はよく知っていた。

「ユースにはさ……きっといっぱいいるよ。お前とサッカーしたいって言う奴が」

 絶対そうだ。そういう人間の集まりだ、きっと。その証拠に年代別の代表合宿では、あの青葉が悔しいとのたうち回っていたことだってあったじゃないか。……お前が生きる道は、そっちなんだ。

「………もう、ここまでだな」

 太陽の言葉に、ついに青葉の目から涙の粒が零れた。太陽の目からも、ぽたぽたと粒が零れていた。

 ずっと、特別だった。サッカーも青葉も、どっから分かれてたのかわからないくらい、どっちも特別に特別だったんだ。今日までずっと。

 しばらく二人呆然と立ち尽くしたまま、十一年分の形にならなかった想いを、瞳から零していた。カウンターに置いてあったティッシュで太陽が鼻をかむと、青葉もティッシュをせがみ、ちんっとかわいい音で鼻をかんだ。

「でも俺、ほんとにやれんのかなぁ……」

 でかい図体で小さく呟いたのが、おかしかった。その瞳にはすでに火が灯っているというのに。自覚がないのか。

「まあだめでも、練習すればいいだけじゃん」

 なら、あの日、青葉から貰った言葉を今返してやる。

 青葉は「はあ?むかつく」と言って唇をとがらせていた。あんな小さな頃のこと、言った本人は覚えていないだろうな。けれどたしかにお前が言ったんだ。だからここまで、十一年も球蹴りに人生をかけてしまったんだ。

「お前が言ったんだろーが」
「え!?俺!?」
「そうだよ、スクールで初めて一緒にサッカーした日さぁ……」

 そうして夜は更けていく。冷えた身体はすっかり温まっていて、風呂のことなどまるっきり頭から抜け落ちていた。