目を開けた途端、自分がどこへいるのかわからなった。
顔を横に向けると目の端から涙が零れ落ちる。涙を拭いながら起き上がり、部屋を見渡した。真っ白い部屋には家具がほとんどない。今寝ているベッドと簡易的な机だけだ。
そこは琉歌の部屋だ。
どうやら夢を見ていたらしい。夢といってもただの夢ではない。さっき見ていたのは、所謂前世にあった出来事だ。
誰に言っても信じてもらえないだろうが、琉歌には前世の記憶がある。
前世、琉歌は天狗の家に生まれ、出来損ないの子供として育てられた。そして伊織という名前の鬼の元へ嫁ぐ直前で死んだ。あの頃のことを思い出すと胸が痛む。毎日のように夢を見て、涙を流しながら起きるのが日常と化している。
立ち上がって鏡の前に立ち、前世とあまり見た目の変わらない自身を見つめる。十七歳になった現在の自分は昔と変わらず赤毛で、顔も同じだった。しかしその背には天狗の羽はない。今の琉歌はあやかしではなく、ただの人間なのだ。
まさか生まれ変わって人間になるとは思っていなかった。
よりによって前世で最後に会いたいと望んだ相手が毛嫌いしていた人間に生まれ変わるなんて、なんて残酷なのだろうか。琉歌は毎日自分の背に羽がないのに落胆し、同時に羽の美醜で評価されないことに安堵している。
「そろそろ降りないと」
制服に着替え、二階の自室から出て階段を下りている最中に台所で調理をしている母親の後ろ姿が目に入った。
「おはようございます」
その背中に声をかけると母親は一瞬だけ動きを止めたが、何も答えずに作業に戻った。
人間になるという大きな変化があったが、変わらないこともあった。人間に生まれ変わった琉歌の家族は相変わらず琉歌に厳しかった。しかし前世とは大きく違って、今の両親が琉歌を嫌っているのには正当なわけがある。それは、両親と琉歌があまりにも似ていないからだ。
両親ともに生粋の日本人で、祖先にも外国の血もあやかしの血も入っていないのに琉歌の髪色は赤毛で、目は蜂蜜のように薄い色をしている。両親に全く似ていないせいで、母親は浮気を疑われ義母達に散々責められたらしい。それはⅮNA検査を行い両親の子供だと判明するまで続き、母親はかなり精神をすり減らしたようだった。
それに加え、琉歌は生まれた時から前世の記憶があるせいで他の子供よりも達観していた。どんなに子供っぽく振舞おうが限度はある。両親は見た目の似てなさも相まって琉歌の心の成熟っぷりを気味悪がっていた。
それでも、琉歌がひとりだった時はそれなりに愛情はあったように思う。琉歌が生まれて二年後に妹が生まれてくるまでの話だ。
「おはよう」
二階から欠伸交じりの挨拶をしながら妹の優梨愛が降りてきた。
「おはよう、優梨愛。顔洗ってきなさいね」
「はーい」
琉歌の存在を無視して交わされる会話を聞きながら母親が用意している朝食に目をやる。朝食もだが、弁当も琉歌の分も用意してあるのにほっとする。
琉歌も優梨愛と入れ替わりで洗面台に向かい、寝起きでぼんやりしている顔を洗った。
台所へ戻ると父親が起きてきていた。四人掛けのダイニングテーブルには既に三人が着席し、それぞれ食事を始めている。琉歌も父親の前に腰を下ろし、手を合わせて食事を始めた。
食卓には両親と優梨愛の話す声が飛び交っている。琉歌は話に入らず、黙々と食事を口に運んだ。
「そういえば、今度あやかしのパーティーに招待されたんだよね」
優梨愛の発言に思わず箸を止めた。
「あら、すごいじゃない。いつ? 洋服買いに行かないとね」
「今度の日曜日だから土曜日に買いに行くよ」
母親と優梨愛が和気藹々と話す内容にそっと耳を傾けてしまったのは、あやかしという言葉に反射的に反応してしまったからだ。
昔はかくりよで生活するか、人間界で影に隠れて生活していたあやかしは、琉歌が生まれ変わった現代では人間界で普通に生活を送っている。初めて人間と共に生活を送るあやかしを見た時は目が落ちてしまいそうなほど驚いた。
前世では、人を毛嫌いしているあやかしも多かったというのに今ではあやかしが一緒に生活しているのに疑問を抱くものはいないようだ。しかし、まだ人間とあやかしの中には大きな壁があるのも事実。見た目の差や生活環境の差はどうしても埋められない。だから人間と結婚するあやかしは未だに少ない。
「それでさ、琉歌もつれて来いって言われたんだけど、一緒に行く?」
優梨愛が琉歌を見ながら聞いた。
久しぶりに話かけられ、琉歌は目を瞬かせた。驚いたのは両親も同じだった。
「え、どうしてこの子も?」
母親が唇の端をひきつらせながら問う。
「誘ってくれた子のお兄ちゃん琉歌の隣にクラスのあやかしなんだけど、琉歌が気になっているんだって。お近づきになりたいって言っていたよ」
隣にクラスの生徒を全員は把握していないので誰の話をしているのかわからない。気になっていると言われても琉歌の心は動かなかった。
「いや、私は行けないよ。粗相をしたら申し訳ないし」
「行かない方が失礼だと思わないの?」
優梨愛の顔に剣呑さが混じった。その顔に未来を苛立った表情を思い出した。茶髪を肩の位置で切りそろえられた優梨愛と長く美しい黒髪だった未来ではぱっと見の印象は異なる。顔立ちも釣り目気味で綺麗系の未来と可愛い系の優梨愛では全く似ていないのに醸し出す雰囲気はどこか似ている。
琉歌を見る目が特に一緒だ。
「断ると私の立場が悪くなるじゃん。私だってあんたと一緒になんて行きたくないよ。でも断れないの。ていうか、あんたに断る権利なんてないから。はい。じゃあ決定ね」
優梨愛は話は終わりだと手を打ち鳴らし、スマホを操作し始めた。
「はい。了承したから。あんたも土曜日に服買いに行きなよ」
否定の言葉は受け付けられるわけもなく、琉歌の参加が決定した。
思わずため息を吐いてしまった琉歌に優梨愛が目を吊り上げて怒りを露にする。
「なにその態度。被害者ぶるのやめてよね」
「ぶってないよ。ごめん」
「すぐ謝るなよ、うざいな。物わかりのいい振りしてんのむかつくんだけど」
どう言えばいいのだろうか。なんと言っても優梨愛の反感を買うのでもうだんまりを決め込むしかないのだが、黙ったらそれはそれで起こるのだ。
優梨愛はきっと琉歌のすべてが不快なのだろう。こういう態度の人間を相手取る方法は前世からわからなかった。他者との関りがほとんどなかったので、そもそも普通の人付き合いの仕方すらわからないのだから、穏便に話を終わらせるなどできそうにない。
だからいつも優梨愛の気が済むまで暴言に近い言葉の羅列を聞くしかできない。
ため息が漏れ出てしまわないように気を引き締めながら優梨愛の苦言に相槌を打った。
嫌な予定が入っている時は、時間が早く過ぎるのは何故なのだろうか。
あやかしのパーティーの話を聞いてからあっという間に当日になった。昨日優梨愛に引っ張られて連れていかれた店で全く趣味じゃないフリルのついた薄い桃色のワンピースを買わされた。曰く、琉歌の気に入っているというあやかしの趣味らしい。
しっかりした質感の着物と違い、ふわりと広がるひざ丈のワンピースは捲くれ上がってしまいそうで心もとない。
そのワンピースに身を包んだ琉歌は、優梨愛と共に都内の一等地にあるホテルに来ていた。俗世に疎い琉歌でも知っているような有名なホテルは、見上げるほど大きい。慄きつつ中に入った琉歌を待っていたのは、天井に吊り下げられているシャンデリラに照らされた広いロビーだ。床に敷かれたマットは土足で踏むのを躊躇ってしまうほど高価そうだ。
「ちょっと、きょろきょろしないでよ。みっともない」
前を歩く優梨愛に尖った声で怒られ「ごめん」と小さく謝罪を口にする。
しかし、落ち着きなく視線を動かすのをやめられない。
ホテルのロビーには数人の人間とあやかしが屯しているのが見えた。比較的若いあやかしが多く、琉歌と目が合っても一瞥するだけですぐに逸らされる。その反応に内心でほっとする。
琉歌がパーティーに来るのを拒否したのには理由がある。
あやかしは人間と寿命が違うので、長く生きる。殺されたり、祓われたりしなければ、それこそ何百年、何千年と生きるものもいる。つまり、前世の琉歌を知っている者もあやかしの中にいる可能性があるのだ。
知り合いといっても天狗の実家か伊織の周りの者しかいないので、会う可能性は少ないが、警戒は怠るわけにはいかない。
あやかしに、昔の知り合いには会えない。特に伊織には。
何故なら今の琉歌は彼の嫌いな人間で、前世は帰ると約束したのに裏切ってしまった負い目がある。それに――彼が琉歌を覚えていないかもしれない可能性があるのも辛かった。
琉歌は死んですぐに生まれ変わったような感覚なので、前世は遠い過去ではない。しかし、ずっと生き続けている伊織からしたら琉歌などずっと前に少しの間だけ過ごした元婚約者に過ぎない。顔も覚えていなければ、存在すら覚えていない可能性がある。
誰だ、と言われるのは苦しい。琉歌は、ずっと天狗の家で別れ際に見せた伊織の微笑みを忘れられずにいるので猶更辛い。
だから、誰にも会いたくない。どうか、知り合いと繋がっているあやかしに会いませんようにと願いながら先を行く優梨愛の後を追った。
パーティー会場には、人とあやかしが種族を超えて交流していた。
「まだ来てないみたい」
広い会場の隅っこで縮こまる琉歌に隣でスマホを操作していた優梨愛が眉を寄せながら言った。
件の琉歌を気に入ったというあやかしの話だろう。一生来なくてもいいのに、と思いながら会場を見渡す。
楽し気に談笑する人間とあやかし。前世では考えられない光景だ。
「あやかしって皆綺麗だよね。いいな。あ、あのあやかしかっこいい」
優梨愛も琉歌と同じように会場を見渡しながら言う。その言葉の通り、あやかしは皆美しい見た目をしている。可憐で華やかだ。
その中で、伊織はとび抜けて綺麗だったな、と全く薄れない美しい鬼を思い浮かべる。
何千年も前に終わった関係だ。恋と呼べるまで育たず、中途半端になってしまっているせいか、琉歌はずっと忘れられない。あまりにも未練がましくて嫌になる。
「着いたって」
優梨愛が楽し気に言った。
「あ、いた」
近くから聞き覚えのない声が聞こえ、視線を向ける。いつの間にか隣にふたりのあやかしが立っていた。
「やっと来た。遅いよ」
優梨愛の言動からして気安さが伺える。同じ学校なのだろうが片方の黒いスーツを着たあやかしは見覚えがない。その隣にいる紺のスーツ姿のにやついた表情を浮かべたあやかしには見覚えがあった。彼が琉歌をここへ呼んだのだろうな、とすぐにわかり、その熱の籠った視線に嫌気がさした。
「俺のこと、わかる?」
紺のスーツを着たあやかしは琉歌の前に来ると自身を指さしながら聞いてきた。
「顔は分かりますけど、すみません、名前まではわからないです」
そう言うと彼はつまらなそうな顔をした。
「俺、これでも有名なんだけどな」
「琉歌が無知なだけで、鎌街先輩を知らない人なんていないよ、ね」
鎌街と呼ばれたあやかしをフォローするように優梨愛が言う。優梨愛は隣に立っている同い年らしい黒いスーツのあやかしに腕を絡ませ、同意を求めるように見上げた。ふたりは良い仲なのか親密な空気感だ。鎌街も優梨愛の恋人も見た目ではどんなあやかしか判断できない。
「俺達はカマイタチのあやかしだよ」
カマイタチと言われても知り合いにいなかったので、よくわからなかった。首を捻る琉歌に鎌街は苦笑を零した。
「琉歌ちゃんは、あんまりあやかし興味ない? それとも緊張しているだけとか?」
「え、いや、そんなことは」
「だって、俺達とこんなに近くで接しているのに全く動揺しないんだもん」
鎌街はそう言いながら身を寄せてきた。
嗅ぎなれないムスクの匂いに拒否感を覚え、体は自然と背後に後退する。
この鎌街という男性は、相当自分に自信があるらしい。あやかしは人間よりも美しく、家柄が良いものが多いので、擦り寄る人間は多いのだろう。垣間見える傲慢さに琉歌は強く帰りたいと思った。
「ねえ、パーティーもいいけど、ふたりで抜け出して遊ばない?」
鎌街の手が琉歌の右手に触れた。ひんやりした温度にぞっとして体が震えた。
「いいじゃん、ね」
顔を寄せられ耳元で甘く囁かれ、思わず耳を抑える。
覚えのない体温も声も嫌だった。嫌悪感に耐えられず、鎌街の方に手を置いてそっと距離を置く。
「すみません、私、こんなパーティー来るの初めてで、楽しみだったので、もっといたいです」
本当は今すぐ帰りたいが、会場から出た途端に鎌街に連れ去られる可能性が滲んで嘘を吐いた。鎌街は琉歌が何も考えていないと思っているのか、それともいつでも落とせると思っているのか、快く頷いた。
近くでやり取りを見ていた優梨愛が不満げに顔を顰めている。その顔には『さっさと抜け出してよ』と書いてあったが、無視をした。
「琉歌ちゃん、恋人いないんだよね? 好きな人もいない?」
鎌街の問いかけに一瞬伊織の顔が頭に浮かんだが、首を縦に振った。
好きな人がいるから、と断ろうかと思ったが、誰かと追撃で聞かれたら咄嗟に言葉が出ないのは明白だ。
「俺、人間と付き合うの初めてだけど琉歌ちゃんとなら仲良くやれると思うんだよね」
するりと腰を抱かれ、口から「ひえ」と悲鳴が漏れた。
伊織よりもずっと近い距離に嫌悪感が限界を迎え、振り払う決心をする。優梨愛に非難されるより鎌街にちょっかいかけられる方がずっと嫌だった。
琉歌が声を上げようとした。
その時、会場の扉が開き、誰かが入って来た。
「あれって」
誰かがぼそりと呟く声が聞こえた。
今まで談笑していた皆が今しがた会場に入って来た者に注目している。談笑している人もいるが、視線は扉の方へ釘付けだ。
「誰か来たんですか?」
異様な雰囲気に思わず問うと視線を扉の方へ向けたまま鎌街が答える。
「ああ、鬼が来たんだ」
その答えを聞いた途端、こつと床に革靴が触れる音がやけに大きく響いた。
「鬼って」
頭に浮かぶのは、美しい元婚約者の顔だ。
まさか、そんなわけない。否定の言葉を思い浮かべながらも琉歌の心臓は早打ち始めている。もしかしたら、そうかもしれない。という期待と不安で手が震えた。その震えを恐怖だと受け取った鎌街が琉歌を安心させるためか更に身を寄せてきた。
「大丈夫。鬼なんて怖くないよ」
琉歌はさっきまで気になっていた距離感なんてどうでもよくなっていた。
会場に入って来た者が誰なのか、それだけが気になって仕方がない。
琉歌は、一歩踏み出し、入って来た者の顔を見ようと身を乗り出した。
「かっこいい」
優梨愛が惚けた様子で呟く声が聞こえてきた。それと同時に琉歌の視界にもその者が映り込んだ。
「あ」
伊織だ。見慣れないスーツを着たあやかしは間違いなく、伊織だ。相変わらず表情は仏頂面で誰も話しかけるのを許さないようなとげとげした雰囲気を醸しだしている。
あんなに会うのが怖いと思っていたのに、久しぶりに見た伊織があまりにも変わっていないのでなんだかおかしくなって笑いが漏れた。
「伊織様」
鈴を転がしたような美しい声が伊織の名前を呼んだ。声の主は綺麗な栗色の髪をした女性だ。後ろ姿しか見えないのであやかしなのか人間なのか判断ができないが、その立ち姿や振る舞い方から自信が伺える。
あれが、伊織の恋人だろうか。と疑問に思ったのは一瞬のこと。
「伊織様、お会いできて光栄です。あの私……」
伊織は女性を追う払うようなしぐさをした。恋人に対する態度ではないそれに女性はたじろぎ、そのまま人込みにまぎれた。
「あーあ、酷いよね。いつもああだよ。伊織様」
それやり取りを見ていた鎌街が呟く。
「いつも?」
「うん。寄って来た女性にすごく冷たい。でも、めちゃくちゃモテるから次から次へと女性が群がってくる。ほら」
鎌街の言う通り、伊織がどれだけ冷めた態度をとろうが関係ないとばかりに女性が寄って行っている。私こそはと挑戦する姿は凛々しい勇者のようだが、牽制しあっている様は狩人のそれで恐怖を感じた。
「彼には、恋人はいるんですか?」
決まった相手がいるから全て断っているのかと思い聞いただけのに、鎌街は不愉快そうに顔を顰めた。
「もしかしてさあ、琉歌ちゃんも好きになっちゃったの? 止めなよ」
「なんで?」
鎌街の言葉に返答したのは、優梨愛だ。彼女は初めて見る伊織の美しさに充てられたのか顔を赤くしている。さっきまで仲良さそうにしていたあやかしは、困った様子でため息を吐いた。
「優梨愛まで虜じゃん。でも伊織様は絶対無理だよ」
「だから何でよ」
優梨愛が焦れた様子で声を上げる。
その背後では、伊織が群がってくる女性達に辟易した様子で息を吐いた。その時、たまたま伊織の視線が持ち上がり、琉歌の方を見た。
目があった。
「伊織様は、死んだ婚約者のことがずっと忘れられないんだって」
鎌街の話は全く入って来ない。ただ、伊織の目が見開かれるのを見ていることしかできなかった。
「琉歌ちゃん? どうしたの」
鎌街が呆然とする琉歌の顔を覗き込んだのと伊織が動いたのは同時だった。
伊織が周りにいた女性達をなぎ倒す勢いで琉歌の方へ歩いてくる。
「ちょっと待って、こっち来る」
優梨愛が興奮した声を上げた。
「まじじゃん、琉歌ちゃんちょっと横にどけて……」
鬼の進路を妨害してはいけないと思ったのか鎌街が琉歌を引っ張るが、琉歌は動かなかった。否、動けなかった。
「琉歌」
伊織が目の前にいて、琉歌の名前を呼んだ。
「琉歌」
もう一度、今度は確かめるように呼ばれる。
琉歌は、それに応えようと口を震わせた。
「いおりさま」
声になっていたのか自分でもわからないほど、小さな声だったのに伊織は少しだけ口角をあげ、笑った。
思い出の中にあるものと違わない笑みに目の奥がぎゅっと痛くなった。泣きそうなのだと気が付き、口を引き結んで耐える。
「会いたかった」
伊織はそう言うなり琉歌を抱きしめ――そのまま持ち上げた。
「えっ」
子供みたいに持ち上げられ、そのまま会場から連れ出されそうになる。
鎌街が可愛いと思えるぐらい強引な人攫いだ。
「ま、待って、伊織様」
「話はあとで聞くから、少しだけ大人しくしていてくれ」
有無を言わさない口調は相変わらずである。恐らく何を言っても取り合ってもらえないだろうと分かり、琉歌は力を抜いた。
ちらりと見えた先で鎌街と優梨愛達がぽかんと口を開けている。彼らになんと説明すればいいのだろうか。前世からの関りなどといっても信じてもらえるといいのだが。琉歌は八つ当たりするように伊織の頭にぐりっと額を押し付けた。
「あの、どこへ行くんですか?」
会場の敷地内を出て、迷いなく歩く様子に声をかける。
すると伊織は漸く足を止めた。
「婚姻届けをもらいに行こう」
「はい?」
「今すぐ結婚しよう」
何を言っているのかわからず、首を捻る。
婚姻届け、結婚。どういう意味だろうか。
「あの、結婚するんですか?」
「ああ」
「誰と?」
一応聞いておこうと質問したところ、伊織は何を言っているのかわからないといった様子で首を傾げた。
「琉歌以外にいないだろう」
言い切られると琉歌の方が間違っているみたいだ。加えて伊織の目が何の曇りもないせいで、否定するのも憚られる。
しかし、ここで訂正しなければ、今すぐに役所にいって婚姻届けをもらってきそうだ。そもそも役所はこんな夜に開いているのだろうか。
「あの私まだ十七なので結婚できません」
伊織がびしりと固まった。
「そうか、人間には年齢制限があったな」
あやかしの結婚には年齢の制限がない。幼くして嫁ぐ者もいるのだ。伊織はその感覚が抜けなのだろう。ちっと舌打ちが聞こえた。
「それに私達、まだ会って数分ですし」
琉歌の感覚的には前世の自分と今の自分では大きな変化はない。しかし、天狗から人間への変化は無視できるものではない。
一旦落ち着いて琉歌と向き合ってほしかった。そして、捨てるのなら今、この場で捨てておいてほしかった。
伊織は、眉を下げて掠れた声で言った。
「千年間、琉歌だけを探していた。生まれ変わったら絶対に見つけ出すと決めていた。天狗だろうが人間だろうが関係ない」
きっぱりと言い切った伊織に琉歌は何度も瞬きを繰り返した。
「なんで、そんなに」
琉歌と伊織が過ごしたのは短い時間だった。千年以上生きている伊織の中では一呼吸分ぐらいに過ぎないはずだ。
それなのに何故、そこまで思ってくれているのだろう。琉歌の疑問に伊織はさっと視線を下げた。
「好きだった」
「え」
「一目ぼれだった」
衝撃的な発言に目を見開く。
「そんな素振りなかったのに」
「伝え方がわからなかった……素直になれなかったんだ」
伊織は苦しそうに目を伏せた。琉歌を抱えている手に力が入り、彼の胸にある後悔の片鱗を感じ取る。
安心させてあげたくて、頭を抱きかかえた。雰囲気に呑まれてとんでもない行動に出ているが、気づかないふりをした。
今はただ言葉を重ねていたかった。
「大切にされていることは伝わってました」
触れた手の感触を思い出す。
実家までの道を手を繋いで歩いた時間が、琉歌の人生でもしかしたら一番幸せだったのかもしれない。
「帰れなくて、ごめんなさい」
死に際に帰りたいと願った体温に身を寄せると少しだけ目が潤んだ。
こんこん、とドアのノックの音で目を覚ました。
寝起きで鈍い思考のまま今日は休みだったかどうかを考え、身を捩ったところで腹が温かいもので拘束されているのに気が付いた。
「えっ」
ばっとかけている布団を捲り、腹を確認すると背後から太い腕が回っていて、悲鳴を上げかけた。
「おはよう」
背後から聞こえてきた声に悲鳴を飲み込み、振り返る。すぐ近くに伊織の顔があり今度こそ「ぎゃっ」と声が漏れた。
「どうした」
「い、や、びっくりして」
一気に目が覚め、昨日の出来事を思い出す。
あやかしのパーティーで伊織と再会したのだった。結婚したい役所に行きたいと騒ぐ伊織を説得した後、連れてこられたのはパーティー会場になっていたホテルの一室だった。伊織が宿泊するためにとっていたらしい。
部屋は矢鱈と広いのにベッドがひとつしかなく、押し問答の末に一緒に寝たのだった。
「伊織様、近いです」
腹に回った手をとんっと叩くと簡単に手が離れた。
「悪い、寝相が悪いんだ」
全く悪びれもせずに嘘とわかる言葉を吐いた伊織に疑惑の目を向ける。
前世では一度も同衾しなかったので、伊織の寝相がどんなものなのかわからないが、腹に腕を回したのは明らかに故意だ。まさか癖でやってしまったわけではないだろう。とそこまで考えて、はたと気が付いた。
千年もの間伊織は生きていたのだからこれまで恋人がいたとしてもおかしくはない。琉歌を探していたといっても鬼の当主やその周りが伊織の独り身を許すだろうか。子を成せとせっつかれて、結婚も経験しているかもしれない。
思わず眉間にしわを寄せた琉歌を伊織が不思議そうな顔をした。
「琉歌? どうした」
「いえ……」
何でもない、と続けようとした時、こんこんこんと扉を強めに叩く音が聞こえてきた。
「そう言えば、さっきもノックされたような気がします」
目を覚めるきっかけになったのが扉を叩く音だったのを思い出す。
「誰も来る予定はないが……」
話をしている間にもどんどんと扉を叩く音は強くなっていく。
「伊織、いるんだろ。開けろ」
ノック音の合間に聞こえてきたのは、男性の声だった。
「あれ、この声」
聞き覚えのある声だ。
「太陽だな」と伊織が呟き、面倒くさそうにしながらも立ち上がって扉の方へと向かう。
太陽とは伊織の側近だった鬼の名前だ。彼は相変わらず伊織と共にいるらしい。しかし、前世では穏やかな関係だったふたりの間に何がったのか、扉への打撃音と外から聞こえてくる声には怒りが滲んでいる。
「太陽、今開けるから騒ぐな」
伊織が扉を開けた。隔てるものがなくなり、太陽のよく通る声が室内に木霊した。
「伊織、パーティー会場から女を連れ帰ったってどういうことだ? 琉歌に一生を捧ぐっていう誓いは嘘だったのか? そんな軽薄な男だとは思わなかった。鬼なら鬼らしく愛した者へ生涯を捧げなよ」
「ちょっと落ち着け」
伊織が宥めようとするが、逆効果だった。
「これが落ち着いていられるか? あの伊織が琉歌以外の女に靡くなんて……最悪だ。鬼の風上にも置けない。極刑だ」
「い、言い過ぎでは」
太陽な過激な発言に思わず小さく呟いた言葉は、太陽の耳にも入ったらしい。伊織の背で隠れていて見えなかった太陽が、顔をずらして中を覗き込んできた。
そして、太陽と目があった。その途端、太陽の動きが完全に止まった。
「え……琉歌さん?」
「お久しぶりです、太陽さん」
ベッドに座ったままでは失礼かと床に降りて、頭を下げた。
信じられない様子で太陽が何度も瞬きを繰り返し、伊織と琉歌へ視線を行ったり来たりさせた。
「ど、え、ん? なに、どういう、え?」
「落ち着けよ」
「俺の妄想? あ……幽霊?」
伊織がはあとため息を吐いた後、困惑しっぱなしの太陽を部屋に招き入れた。
ソファに座る太陽の対面に伊織と並んで腰を下ろす。太陽は早く説明してほしそうにそわそわしている。
「それで、何がどうなってそうなったの?」
「生まれ変わったんだろ」
「本当に? 騙されていない?」
太陽が抱いている疑惑は最もだ。化けるのが得意なあやかしが琉歌の真似をして伊織に近づいた可能性だってある。伊織には忘れられない女性がいるというのは有名らしいし、それが琉歌だと知っている者も中にはいるかもしれない。鬼の懐に入るためなら手段を選ばない者はいる。
伊織もそれをわかっているので、冷静な態度で返した。
「大丈夫だ。他の者と琉歌を間違えたりしない」
「そっか……」
太陽は伊織の言葉を信じたようで、ゆっくりと嚙みしめるように頷いた。そして、琉歌に微笑みかけた。
「良かった。本当に」
太陽の膝の上にある拳に力が入る。
「パーティーで伊織が女を連れ去ったって聞いたときは何かの間違いだと思ったよ。千年前から琉歌さん一筋でやって来たのに急に何があったんだって。不義理を働くようなら俺がこの手で制裁を加えようと誓ったところだった」
「不義理って、もう千年前に死んでいるのに」
冗談かと思ったが、太陽も伊織も真剣だった。
「死んでいたって関係ない。鬼というのはそういう生き物だ」
「そういうって」
「生涯に愛するのは、ひとりだけ。死ぬまでずっと忘れられない」
伊織に熱の籠った目で見られ、ぎくりとした。
天狗と鬼とでは愛に対しての考え方は大きく違うらしい。もしかしたら結婚しているかも、なんて思った自分が恥ずかしくなった。
伊織の真っすぐな目を見ていられなくて逸らした先で、太陽がにこにこと笑っていた。
「それで、結婚はいつにするの?」
「私、まだ結婚できる年齢じゃないので」
そう答えた所、太陽が強い衝撃を受けたような顔をして、立ち上がった。
「法律を変えよう」
「太陽さん、落ち着いて」
「伊織なら法律変えるぐらいできるよ。今すぐ変えよう。結婚できる年齢を引き下げよう」
本当にできそうだから怖いのだ。冗談じゃなさそうな雰囲気に助けを求めるように伊織に視線を向ける。
「今すぐ手続きをしよう」
伊織が強く頷いた。
「申請すればすぐ通るか?」と伊織が真剣に問う。
「一週間、いや、三日あれば通す」
「よし」
伊織も立ち上がったところで慌てて琉歌が声をあげた。
「よしじゃない。良くないですよ! ちょっとおふたりとも落ち着いてください。伊織様は昨日納得してくれたじゃないですか」
昨日、ホテルの部屋で今後について話をした。琉歌が結婚を渋っているのには何も年齢だけの問題ではない。
「そもそもまだ再会して一日もたっていないですし、すぐに結婚には踏み切れないです」
「まぁ、それはそうだよね」
琉歌の言葉に冷静さを取り戻したらしい太陽が腰を落とした。しかし、すぐにはっとした様子で顔を上げる。
「琉歌さん、恋人とかいないよね?」
「いないです」
人間として生まれてきてからずっと恋愛と関わらなかった。言い寄られたのは、昨日のパーティーで絡んできた鎌街だけだ。
「あ」
そういえば、優梨愛達を会場に残したまま伊織と出てきてしまった。その上、無断外泊までしてしまった。
「どうした?」
「家に連絡を入れていなかったのを思い出しました」
今から連絡だけでもした方がいいだろうか、とスマホを取りに行き確認したところ、画面には優梨愛と両親から連絡が入っていた。内容は連絡がない琉歌を心配するものではなく、鎌街を置いて行った琉歌を非難するものと伊織とどこで知り合ったのか問いただすものばかりだ。
両親の連絡も似たようなものだ。きっと優梨愛に言われて送ったのだろう。
少し悩んでから『無断外泊してごめんなさい。帰ったら説明します』と返して、スマホをしまい「そろそろ帰らないと」と告げようとしたタイミングで、太陽のスマホが鳴った。
「ごめん、ちょっと出てくる」
あやかしが現代機器を使用している光景は中々慣れそうにないな、と別室へ去っていく後ろ姿を見送る。
ふたりきりになった途端、伊織がそっと身を寄せてきた。鎌街に近づかれた時に感じた不快感はない。むしろ安心する温度と匂いに自然と体から力が抜けた。
緊張感が抜けたせいか、ずっと気になっていた疑問が零れ落ちた。
「私が死んだ後、天馬はどうなりました?」
鬼の家に残してしまったのは伊織だけでなく、天馬もだ。素直じゃない友達は琉歌が帰って来なくても幸せに暮らしただろうか。それがずっと気になっていた。
「天馬は、鬼の家で働いているよ」
「ん? 働いて、いる?」
伊織の言い方は、まるで今も継続されているような言い方だ。
「ああ、天馬は天狗になったんだ」
「えっ!」
「長生きしすぎた動物があやかしになる現象はたまに起きる。天馬は今でも元気だから安心してくれ」
そんな話を聞くには初めてだった。
「会いに行くか?」
そう伊織に聞かれた瞬間、天馬の顔が頭に浮かんだ。
もう二度と会えないと思っていた友人に会えるかもしれない。それはあまりにも甘美な誘いだった。
「かくりよに一緒に行こう」
そっと手を握られ、行かない選択などすぐに消してしまった。
すぐにでも行きたかったが、何日間かくりよで生活するのか未定なので、一旦帰宅した。
琉歌が家に入った途端、いつも無関心を貫き琉歌を無視する両親が目を吊り上げて怒りを露にして待っていた。
「あんた優梨愛を置いてどこに……」
母親の言葉は、後から入って来た伊織を見た途端、止まった。
「だ、誰ですか?」
母親が怯えた様子で問う。
「こちら、鬼のあやかしの……」
「あんたに聞いてないわよ!」
琉歌の声を母親が遮った。きんと高い声が耳に刺さり、思わず顔を顰める。
するとその表情が母親の怒りに触れたようで、怒りが爆発した。
「なんなのよ、あんた。私のこいつも馬鹿にして」
パニックでヒステリックになっているのだろう。琉歌が何を言っても無駄だと分かるが、父親も空気に圧倒されて何も言えなくなっているので琉歌が落ち着かせるしかない。一応、家族なのだ。向こうがそう思っているのかはわからないが。
噛みつく勢いの母親を止めようと伊織が動くのが見えたが、首を振って制した。
「お母さん、あのね」
「あんたにお母さんなんて呼ばれたくないわよ。私の娘はずっと優梨愛だけだもの」
腹を痛めて生んでも琉歌みたいな人間を自分の子だと認められなかったらしい。
まあ、そうだよね、と琉歌は達観していた。全く似ていない、自分の子供だと思えない女をよく育ててくれたものだと感謝こそすれ、恨みなどない。
「伊織様とかくりよに行きます。いつ帰ってくるのかは、まだ決まっていなくて……」
「帰って来なくていい」
母親は声を震わせながら言った。
「もう、帰って来ないで」
濡れた声で言われてしまうと何も言えなくなってしまった。
「あー! 帰ってきてる!」
その時、階段の上部から優梨愛の声が聞こえてきた。
彼女は俯いている母親とおろおろしている父親を訝し気に見たが、すぐに伊織の存在に気が付いたようで、ぱっと顔を明るくした。
「伊織さん!」
優梨愛は伊織を呼び、近づいて来ようとした。愛されるのに慣れている優梨愛は、断れることを知らない。だから何も考えずに無邪気に伊織に近づいて行った。
「近づくな」
そんな優梨愛を伊織は素っ気ない態度でいなした。
そして伊織が「大丈夫か」と琉歌の顔を覗いたので、優梨愛は分かりやすく怒った。
「え、なに、どういう関係?」
優梨愛が不機嫌になっている時の声は、低く平坦なのですぐにわかる。自分よりも琉歌に伊織の興味が向いているのが気に食わないのだ。
どういう関係か聞かれても上手く答えられないので、用件だけ告げてさっさと家を出ようと決めて自室へ向かった。
「ちょっと待って、どこへ行くのよ」
手を掴まれ、一旦止まる。
「かくりよ行って来るからその用意をしに」
「はあ? かくりよ? 伊織さんとだよね、私も行く!」
ぱっと目を輝かせた優梨愛に口の端が引くつく。先ほど冷たくされたのは彼女の記憶に残らなかったのだろうか。
「いや、ごめんけど、連れていけないよ。いつ帰れるかわからないし」
「はあ? なんでよ。琉歌だけずるいじゃん。何で琉歌がよくて私が駄目なの? 意味わかんない」
優梨愛は昔からこうと決めたら曲げなかった。今も何を言っても着いて来そうだ。さて、どうするかと頭を悩ませた時。
「連れていくわけがないだろう」
伊織が面倒そうにしながら、きっぱりと断った。
「琉歌、用意しておいで」
優梨愛へ向けている言葉とは対照的な優しい言葉に琉歌は、迷いながらも自室へ帰ってかくりよへ行く準備を整えた。
一階へ降りようと扉を開けた途端、優梨愛の声が飛び込んできた。
「なんでそんなこと言うの? 琉歌よりも私の方がいいに決まっているじゃない」
ぱっと弾けるような声に琉歌は慌てて階段を下りた。一階では伊織と優梨愛が向き合っていた。
「話にならない。琉歌行こう」
伊織に呼ばれ、小走りで玄関に向かう。
「ちょっと待ちなさいよ」
優梨愛が後からついて来ようとした。
それを伊織の声が止める。
「いい加減にしろ。琉歌の妹だから優しく対応してやっているんだ。今のうちに俺の視界から消えろ。不快だ」
伊織的に優梨愛への対応は優しいらしい。どこの辺りが優しかったのか、琉歌にはまるで分らなかった。
最後のきつい言葉に優梨愛は足を止めて、ぎゅっと顔を顰めた。今にも泣きそうな表情に傍で見ていた父親が慌てて近寄る。その隙に伊織と琉歌は家を後にした。
家の前で待っていた太陽の車の乗りこむと一気に気が抜けた。
「説得はうまく行かなかった?」
「いえ、それは割とすんなりいったんですけど、別の件でちょっと揉めまして」
家族間のいざこざを大雑把に説明した。
家族と違う容姿に子供らしからぬ言動が両親に受け入れられず、無視をされる日々を過ごしていたと話したところ伊織が怒りを露にした。
「戻ってくれ、今すぐ話をつけてくる」
「駄目ですよ! 別に平気なんです。前世の記憶を持って生まれた私はきっとイレギュラーな存在で、両親は、特に母親はかなり悩んだんだと思います。自分の子供じゃないと思っていてもここまで育ててくれて、有難いくらいです」
泣き崩れる母親の姿が脳裏に過る。彼女の苦悩は娘の立場からは想像もできない。自分が彼女の子供として生まれてきてしまったのを申し訳ないとすら思ってしまう。
「どんな理由があっても不当な扱いを受けていいわけがない」
伊織はそれだけ言って琉歌の頭を撫でた。
労わる様な手つきにぐっと胸に込み合えて来た思いがある。
どんなに冷たく扱われても平気だったが、最後に聞いた母親の沈痛な「帰って来なくていい」は心にぐさりと刺さった。
家族に対して線引きをしていたのは琉歌も同じだ。自分の家族でないから、と割り切っていたのにいざ帰る場所を奪われると喪失感を覚える。
「……あれ、私もしかして帰る場所無くなりました?」
母親の言葉は本気だった。
琉歌が家に帰ったら母親の精神状況は悪化するだろうから、帰らない方が賢明だ。
「かくりよにいればいい」
そっと手を握られ、反射的に伊織を見る。
「かくりよに住んでいる人間も数は少ないが、いる。琉歌も一緒に暮らそう。かくりよにいる間に今後どうするかは考えればいい」
人間が住む現世に未練はない。目立つ容姿のせいか、それとも性格のせいか、友人と呼べる人もいなかったのでかくりよに行くのは問題ない。
じっくり考えて答えを出せばいいという伊織の言葉に甘えることにした。
かくりよの入り口はあやかしと政府内の一部の人間しか知らない。山の中や池の中にあるなんて噂もあれば、人間には見えないなんて噂する者もいる。
大衆の長年の疑問が目の前にあった。
あやかしの入り口は、都内にある神社の鳥居らしい。目の前に聳える鳥居はどこにでもある形と色で、別段特別な感じはしない。
「人間が入ってこないよう、かくりよにはあやかしの許可がないと入れないようか妖術がかかっている。普通に見えているのも妖術のおかげだ」
「昔からあったんですか?」
「いや、ここ最近だな。百年くらい前か」
伊織からしたら百年前は最近らしい。
「さて。じゃあ行こうか」
伊織と手を繋ぎ、鳥居を潜った。
その途端、ふっと空気が変わった。同時目の前の景色も様変わりする。鳥居から出た先は、かくりよの町中だった。
高い建物が多い現世とは違い、かくりよの建物は基本的に背が低く、風情がある。現世の京都のような佇まいなのは、昔も今も変わっていない。しかし、明らかに昔に比べて発展している。
着物を着ているあやかしも多いが、中には現世の洋服を着ている者もいて、文化が混じりあっているのが人目でわかる。
「変わりましたね、かくりよ」
「変わらないところもあるけどな。こっちだよ、行こう」
伊織と町を抜ける。一度だけ過去に伊織と共に歩いた記憶が蘇った。
「懐かしいな」
伊織も同じように思い出していたらしく、ぽつりと呟いた。
「そうですね。そう言えば、あの時って何か目的があって出かけたんです?」
琉歌の記憶では、伊織に誘われ町へ出たが、結局入った店で襲われかけて帰るはめになったのだ。
伊織は少し躊躇った後に言った。
「目的があったわけじゃない。ただ、琉歌と出掛けたかっただけだ」
この時になって漸く、あれがデートだったのに気が付いた。客観的に見れば婚約者との外出はデートに決まっているのに今まで気が付けなかったのは、恋愛経験の少なさが問題だろう。現世で恋愛ドラマを視聴したおかげか、微かにだが知識を得た琉歌は昔よりも察しが良くなっている。
だから伊織の目が甘いのにも気が付けた。
もしかしたら、ずっとこんな目で見られていたのだろうか。
「本当に私のこと好きなんだ……」
ついぽろりと言葉が零れた。
伊織の目が見開かれた瞬間、自分の発言が間違った捉え方をされる可能性に気が付いて慌てて声を上げた。
「違うんです。疑っているわけじゃなくて、再確認しただけなんです」
必死で告げると伊織はふっと口角を上げた。
「それならいい。俺に愛されているって自覚してくれ」
伊織の笑みと言葉に顔に熱が集まる。
琉歌の背後にいて伊織の笑みを見たらしい女性から「きゃっ」と黄色い悲鳴が上がった。それくらい伊織の笑みには絶大な破壊力があった。
「善処します」
赤くなった顔を隠すために俯きがちになりながら町を歩いた。
到着したのは、伊織と共に生活したあの家だった。
「変わってないですね」
家の外観どころか、周りの景色も殆ど変わっていない。まるでそこだけ時間を止めてしまったみたいだ。
「変わりたくなかったんだ」
伊織の言葉は切なく響いた。その声色で変化がないのは意図したものだと分かった。
家の内装も全く変わっていなかった。
懐かしい光景にきょろりと辺りを見渡していた時、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
「伊織様、お帰りなさいませ」
向こうからやって来たのは見たことのない女性の使用人だった。
使用人の入れ替えはあったらしい。
女性は伊織から琉歌へ視線を向け、一瞬動きを止めた。主がいきなり知らない女を連れて帰ってきたら混乱するだろうが、使用人の女性は動揺を押し殺して何も聞かなかった。
「天馬は、どこだ?」
「いつものところに」
その会話だけで全て理解したらしい伊織が家の中をずんずんと進んでいく。琉歌はそれについて行く。
「いつものところって」
「行けばわかる」
伊織の言う通り、天馬がどこにいるのかすぐにわかった。
そこは、琉歌はここで生活している時に使っていた部屋だった。
「天馬の部屋は他にあるけど、ずっとここで過ごしている」
伊織がそう言いながら扉を開けると、部屋の中でぼんやりと庭を見ている小さな背中が目に入る。黒い髪の男の子だ。あれが天馬なのだろう。天狗になったのならもう烏の姿じゃないのは、わかっていたはずなのに部屋にいたのが烏じゃなく、羽の生えた男の子だったことに驚いた。
「天馬」と伊織が名前を呼んだところ、振り返らずに「なに」と冷たい声が返って来た。
天馬の声だ。その声を聞いた途端、懐かしさで目頭が熱くなる。
「天馬」
震える声で友人の名前を呼んだ。
はっとしたように天馬が振り返る。黒目がちな大きな目が見開かれ、驚愕の表情を浮かべた。
「は、なに、なんで」
座り込んでいた天馬は立ち上がり、後退する。
昔から天馬は頭の回転が速く、冷静に物事を判断し、すぐに思考を切り替えられた。今も驚きで満ちていたのにすぐに怒りに表情が変わった。
「偽物だ。そういう妖術あっただろうが。何で騙されてんだ」
威勢のいい声なのに震えている。
「琉歌になりきって伊織に取り入ろうなんて考えてんなら無理だぞ。俺が許さない。俺は絶対に認めない」
「うん」
天馬の必死な言葉に涙が零れた。
一度流すと次から次へととめどなく涙が溢れてくる。琉歌はその場に膝をついて天馬と目線を合わせ、言葉を詰まらせながら言った。
「天馬、ごめん。帰るって言ったのに、帰れなくて。待っててくれたのに、ごめんなさい」
潤んだ視界では天馬の表情はよく見えない。涙を止めようと何度も拭ったが、溢れて止まってくれなかった。
号泣する琉歌の方に伊織の手が乗る。
「俺が間違えるわけがない。信じろ」
伊織の言葉が部屋に響き、琉歌が漏らす嗚咽の合間に天馬が小さな声で言った。
「琉歌なの?」
「そうだ」
答えられない琉歌の代わりに伊織が答える。
「でも、死んだのに」
「生まれ変わったんだ。魂は巡るって話をしただろう」
「スピリチュアルは信じてないんだよ、俺は」
ふたりのやり取りを聞いているうちに落ち着いてきたので、涙を拭って顔を上げる。天馬は目いっぱいに涙をためて琉歌を見ていた。
「本当に琉歌?」
「うん」
「俺の好きな食べ物と嫌いな食べ物はなに?」
疑い深い天馬に苦笑を零しながら答える。
「好きなものは肉で、嫌いな食べ物はないって言っていたけど、本当は茄子が嫌いだった。何聞かれてもいいよ。答えられるから」
「……もういい。信じる。信じるよ」
涙声で告げた天馬は、くしゃりと顔を歪めた後、琉歌の目に膝をついた。
「おかえり、琉歌。ずっと待ってた」
伊織だけでなく、天馬も待っていてくれたのだ。
「待っていてくれて、ありがとう」
小さな友人に手を伸ばし、抱きしめる。形は変わってしまったのに匂いも温度も全く同じで、止まったはずの涙が再びあふれ出した。
一旦落ち着くために食卓へ移動し、飲み物を飲みながら話すことになった。
「それにしても琉歌が人間になっているなんて驚いたわ」
「いや、それはこっちも同じ気持ちだよ。まさか天馬が天狗になっているなんて予想できなかった。もう会えないって思っていたから会えてうれしい」
率直な気持ちを伝えた所、照れた天馬がそっぽを向き、話を逸らす。
「それで、これから伊織と結婚すんの?」
自分で作ったカフェオレを飲みながら天馬が言う。
「いや……」
「は? お前、伊織のこと好きなくせになんで渋ってんだよ。さっさと籍入れちまえ」
昔の天馬は全面的に琉歌の味方をしてくれていたのだが、今では伊織と過ごした期間の方が圧倒的に長いので、彼の味方らしい。
「好きなのか? 俺のこと」
琉歌の隣に座っている伊織が顔を覗き込みながら聞いてきたので、目線を合わせないようにそっと逸らす。
「天馬、ちょっと待って」
「結婚すんの嫌ってわけじゃないんだろ? こいつ以上にいい男早々いないだろうが。今度こそ琉歌を幸せにすると思うぞ」
「そうなんだけど、まだ心の整理がついてなくて……」
天馬が顔を歪めた。
「じゃあ、今すぐつけろよ。ていうか、話聞く限りもう帰る場所ないんだろ? 伊織と籍入れた方が絶対にいいって。かくりよなら結婚に年齢制限ないからすぐできるぞ」
「それは、わかっているんだけど」
心の整理がつかないのだ。優柔不断だという自覚はあるし、伊織に対して特別な感情を抱いている自覚もある。しかし、感情に名前を付けるに至っていないし、それに未だにどこか夢うつつで現実味がない。
それをどうにか説明しようと言葉を選ぶ琉歌に天馬から追撃があった。
「でも、結婚でもしない限り琉歌こっちにいられないだろ」
「え?」
「かくりよに人間が滞在するにはそれ相応の理由がいるんだよ。俺に会いに来ただけなら滞在できるのは、一週間程度だろ。結婚とか仕事の都合じゃないと長いができないって知らなかった?」
そんな話は初耳だった。
天馬が知っていて伊織が知らないわけがないので、かくりよに来た時点で琉歌の道は決まっていたらしい。
「もしかして、私に選択肢ない?」
「あるけど、伊織と結婚するのが一番おすすめ。結婚してから心の整理ってやつをすればいいんじゃない?」
他人事だとばかりに言い放つ天馬を恨みがましく思う一方で、どこか安心していた。心の整理がつかないから、と言い訳をしていつまでも踏み出す勇気が出なかっただろうから、伊織の強引さは有難い。
それは、それとして。
「ちゃんと説明してほしかったです」
文句を言うと伊織は苦笑を零した。
「悪い。俺も余裕がないんだ。どんな手を使っても一緒にいたかった」
直球な言葉が返ってきて、言葉に詰まる。
どうやら伊織と再会した時点でこうなる運命だったようだ。
善は急げとばかりに伊織に引っ張られながらやって来たのは、町の中心部にある大きめの建物だ。現世の図書館のような見た目をしているが、市役所のようなところらしい。
天馬の言う通り、人間がかくりよに居続けるには明確な滞在理由が必要らしい。前世であやかしの結婚には明確な手続きは存在していなかったが、現在ではかくりよを管理している機関に婚姻届けのような書類を提出しなければいけないようだ。
鬼だけが全てを統治していた頃から随分様変わりしている。
書類はシンプルなもので、署名と血判を押すだけで終わった。
「はい。受理しますね。結婚おめでとうございます」
受付に書類を提出し、役員の拍手で見送られ、呆気なくふたりの婚姻は成立した。
「ご両親に挨拶もしてないのに……」
書類を提出する前にご両親に挨拶をすべきだ、と提案したのだが伊織は「前世で挨拶しただろ」と言って聞かなかった。それはそうなのだが、千年越しなのだからもう一度顔を合わせるべきだろうと思ったが、千年以上生きている伊織と琉歌とでは時間の感覚に齟齬があるので、強くは言わなかった。
「一応、太陽には言ってあるから両親にも伝わるだろう」
「そういえば、太陽さんこっちに来た時からいませんね」
一緒かくりよに来たはずだが、いつの間にかいなくなっていた。
「あいつは結婚の報告に駆けずりまわっている」
「ていうことは、やっぱりこっちに来た時点で私の結婚は決まっていたんですね」
伊織がほほ笑んだ。笑顔で誤魔化そうとしているらしい。
「正直、こっちに連れてきさえすればこっちのものだとは思っていた。騙されやすくて心配になるな。もっと警戒してくれ」
「警戒心は強い方ですよ。緩んだのは、伊織様だからで」
琉歌を騙した所で伊織になんの得もないだろうから騙したりしないと思っていた、という意味で言ったのだが、伊織は嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「信頼しているから?」
そんな良い理由ではないのだが、伊織を信頼している点は強ち間違っていない。
「そうとも言います」
首肯し、役所の敷地内から出た所、誰かが騒いでいる声が聞こえてきた。
「だから、なんでもっと早く言ってくれなかったの! 婚姻届けを出す前に言うべきでしょうが」
「一番早く言いに行ったよ。間に合わなかったのは、ごめん」
「もう手遅れなんだから、ごめんじゃ済まされないわよ!」
男女の声が辺りにきゃんきゃんと響いている。痴話喧嘩だろうか。
「現世でも婚姻届け出し行く時に喧嘩して別れた話を聞きましたけど、かくりよでもあるんですね」
ふたりの声はどこか聞き覚えがある気がしたが、あやかしの知り合いなど殆どいないので気のせいだろう、と思い直した。痴話喧嘩が起こっているのは、道の真ん中らしい。琉歌達の進行方向でもあるので傍を通るのは気まずい。
「別の道を通るか?」
「そうですね」
伊織の提案に乗り、反対方向へ行こうとした、その時。
「あー! やっと出てきた! ちょっと、待ちなさいよ」
背後から喧嘩していた女性が叫んだ。喧嘩中なのだから相手の男性に言ったのだろうと思いつつ、琉歌達に話しかけているみたいなタイミングだったので反射的に振り返った。
すると、そこには見知った女性が立っていた。
「美晴さん?」
「そうよ!」
美晴はふんっと高飛車気に鼻を鳴らした。久しぶりに会うというのに綺麗な容姿も自信ありげな様子もちっとも変っていない。
美晴の背後に立っている太陽が申し訳なさそうに頭を下げた。どうやら喧嘩をしていたのは太陽と美晴だったらしい。
「お久しぶりです」
「そんな呑気に挨拶してんじゃないわよ。何なのよ、あんた!」
がうっと噛みつくように美晴が叫ぶ。
この反応は天馬の時と似ている。すんなり受け入れた伊織がやはり異質なのだろう。
「生まれ変わりなんてふざけた話、信じられると思うの? 嘘に決まってる。絶対に偽物。それなのに伊織と結婚するなんてありえない。伊織も伊織よ、どうしてこんな女に騙されるわけ? 容姿を似せる妖術に決まっているんだから!」
「もうそのくだりは、天馬でやったぞ」
伊織が冷静に言った。
「伊織は黙っててよ! 天馬も騙されてんの! 絶対にそう」
ぐいぐい、両頬を引っ張られ痛みがはしる。特殊メイクを見破ろうとしているような触り方だ。
「いた、いたいです、ちょっと、美晴さん、落ち着いて」
「美晴、やめろ」
とん、と伊織の手刀が美晴の頭に落ちた。
「痛いっ! ひどい、伊織の馬鹿、おたんこなす……私は、認めないんだから!」
美晴は叫びながら去って行った。
凡そ、琉歌が生まれ変わっていると聞きつけて結婚を止めに来たのだろうと、聞こえてきた太陽と美晴の喧嘩の内容で察する。
「美晴さん、変わっていませんね」
容姿もそうだが、雰囲気も千年前のままだ。まるで前世がついこの間の出来事であるような錯覚を覚える。
「あいつも変えられなかったんだろう」
「え?」
伊織はそれ以降は美晴について何も言わなかった。
変えられなかったとは、一体どういう意味なのか、何故変えられなかったのか、琉歌にはわからなかった。
役所から真っすぐ帰宅すると、伊織の両親が客間で待っていた。
「お久しぶり、琉歌さん」
朗らかな様子の鬼の当主に声をかけられた瞬間、膝をついて頭を下げた。
「この度は、挨拶に伺わず誠にすみませんでした」
「いい、いい。もう千年前に挨拶は済ませているしね」
ふふ、と鷹揚に笑う様は貫禄がある。よく見ると昔よりも老けたかもしれない。
「琉歌さん……?」
当主の隣に座る女性がぽつりと零れるように琉歌の名前を呼んだ。その女性――伊織の母親である純恋は前よりもずっと顔が青白く、どこか生気が抜けていた。よろよろと琉歌の方へ近寄って来ると恐る恐るといった風に手を伸ばしてくる。
頬に触れた手は氷のように冷たい。
その手は、琉歌に触れると熱いものに触ってしまった時のようにぱっと離れた。
「あの、大丈夫ですか?」
あまりにも顔色が悪い。何か病気を疑い顔を覗き込んだ途端、純恋の目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「え」
涙が頬を濡らすのに純恋は一切拭いもせずに琉歌を見据え、震える声で言った。
「ごめんなさい。私のせいで」
それから彼女の口からは何度も謝罪が飛び出した。震えるその背中を当主が撫でさする。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」
それしか言葉を知らないかのように何度も繰り返され、琉歌はどうしていいのか分からなくなり、隣にいる伊織に助けを求めた。
「ちょっと場所を変えよう。説明する」
伊織に連れられ、琉歌の部屋へと向かった。
部屋の中で寝ている天馬を起こさないように縁側に通じている襖を開け、縁側並んで座る。ここから見える景色も変わっていない。
涼しい風が頬を撫でる感触に、純恋の涙を思い出した。
「母さんは、琉歌を実家に帰したのをずっと後悔していた。自分が帰さなければ琉歌は死ななかったと自分を責めているらしい」
「そんな……」
憔悴していた純恋の姿は痛々しかった。千年たってもずっと自責の念に駆られていたのだろうか。
「あんたのせいじゃないって言ってやれよ。いっつも元気なくせにたまにめちゃくちゃ情緒不安定になるんだよ、あのおばさん」
いつから起きていたのか、天馬が欠伸交じりに言いながら琉歌の隣に座った。
「おばさんなんて言わないの」
天馬を窘め、立ち上がる。
伊織に着いて来てもらい、一緒に客間へ戻ると涙に濡れた謝罪を止まっていた。
純恋は当主に支えられながら座り、俯いている。細く、綺麗な女性だ。前世の溌溂と印象はない。
鬼の恋は生涯のものだと太陽が言っていた。それが鬼の共通認識ならば、自分のせいで息子の番を死なせてしまった罪を抱えて生きるのは、あまりにも辛い。崩れ落ちなかったのは当主がいたからだろう。
琉歌は、そっと純恋の前に膝をついた。
「あの」と声をかけただけで、純恋の方がびくりと跳ねた。
「私が死んだのは、貴方のせいじゃないです。実家に帰る選択をしたのは、私なので、責められるのは私ですよ」
純恋の手が震えている。
琉歌の言葉が聞こえているのか、どうかは分からなかったが、続けるしかない。
「伊織様をひとりにして、ごめんなさい」
頭を下げ、視界に入った純恋の手を無理やり握った。酷く冷たい手を温めるようにぎゅっと握りしめ、生きていると訴えかける。
「二度とひとりにしないと誓います。だから、どうか責めないでください」
「琉歌さん、琉歌さん、ごめんね、ごめんなさい」
純恋ががたがた震えだし、言葉選びも行動も失敗したかと身を固めた。
しかし、次に聞こえてきたのは、柔らかい言葉だ。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
顔を上げると純恋が泣きながら笑っていた。憑き物が落ちた様子に安堵の息を吐いた。
人間のように婚姻届けを出すだけで、結婚自体は成立するのだが、ほとんどのあやかしは今でも昔と同じように婚儀の宴会を開くらしい。昔のような格式ばったものではなく、飲んだり食ったりと大騒ぎするだけのただの楽しい会になっているらしい。
それを開こうと言ったのは、伊織の叔父である総一郎だ。
彼は、琉歌が生きていると聞きつけて、純恋が落ち着いてすぐに家へやって来た。
息を切らして駆けて来てくれた総一郎は、琉歌の顔を見るなり目いっぱいに涙を溜め、良かった良かったと声を震わせた。数回しか会っていないが、愛情深いあやかしらしく、琉歌がいなくてご飯が食べられない時期もあったようだ。
総一郎に伊織と結婚したことを伝えた所、一瞬目を大きく見開き驚きを露にした。
「早いね」と言われ、苦笑が零れる。再会して一日も立たずに籍を入れたのだから、そういわれるのは当然だ。
宴会の話はその後すぐに出た。籍を入れたのならした方がいいと言われ、それに伊織の両親も乗った。
「じゃあ、早速準備しよう」と張り切る多少顔色の良くなった純恋と当主、それから総一郎を見送り、騒がしかった家が一気に静かになった。
「はあ」
力が抜けて、玄関に崩れ落ちそうになったところを伊織に支えられた。
「大丈夫か? もう休んだ方がいい」
かくりよに来てからずっと休んでいなかったので、もう体は限界だ。外もすっかり暗くなってしまっている。
食事と風呂を済ませ、自室へ戻ると何故か天馬と伊織がいた。しかも、何故か布団が二組並んで敷かれている。
「ここで寝る」
天馬が片方の布団に入ろうとしたのを伊織が首根っこを掴んで制し、ぽいっと投げる。上手く着地した天馬が伊織に嚙みついた。
「何すんだ!」
「お前は自室へ戻れ。ここは今日から俺たちの寝室にする」
「はあ? 伊織こそ自分の部屋戻れよ。琉歌が緊張して眠れないだろうが」
ぎゃあぎゃあ騒ぐふたりを他所に琉歌はもう開いている方の布団に入った。
もう眠気が限界だった。ふたりには悪いが、休ませてほしい。
「琉歌、騒がしくして悪い」
伊織が声のトーンを落として言う。それに目を閉じながら首を振る。
「元気で、楽しそうで良かった」
意識がどんどん暗くなっていき、自分が何を言っているのかすら分からなくなっていく。現実なのか、夢なのか曖昧になっているの聴覚だけが異様に過敏になった。
「琉歌、好きだ、愛してる」
伊織の声で吐きだれた愛の言葉は、苦しみで歪んでいるみたいだった。
どうしてそんな辛そうに言うのだろうか。問いたいのにもう口は動かなかった。
夢を見た。
幸せな夢だった。
皆に祝福されながら伊織と愛を誓い合った。伊織は琉歌と目が合うととろりと蕩けるような笑みを浮かべた。
幸せだった。
「これ、飲んで」と誰かが言った。
目の前に差し出されたのは、グラスに入った水だ。誰から受け取ったのかわからないが、結婚するにはこれが必要なのだろう。琉歌は、グラスを呷り、飲み干した。
途端、きんと耳がおかしくなった。体がおかしくなった。
この感覚は知っている。
幸せが崩れ落ちる感覚だった。
「琉歌!」と鋭い声で名前を呼ばれ、肩を許られて目が覚めた。目を開けた途端入り込んで来たのが伊織の綺麗な顔面だったため琉歌は「ひっ」と声を漏らした。
どうして、ここに伊織がいるんだと一瞬混乱したが、すぐにここがかくりよにある伊織の家なのだと思い出した。
「魘されていたが、嫌な夢でも見ていたのか?」
頬を撫でられて漸く自分が泣いているのに気が付いた。
「夢、見ていた気がしますけど、忘れました」
泣くほどつらい夢だったのかもしれないが、全く思い出せない。
「それならいいが、何か変わったことがあったら教えてくれ」
変わったことなら目の前にある。
「伊織様……近いです」
伊織は琉歌のすぐ後ろに寝そべっていた。伊織の布団だってあるのに、はみ出している。
泣いている琉歌を心配して来てくれたのかもしれないが、心臓に悪いので離れて欲しい。琉歌が身を捩るとすぐに距離を開けてくれた。
「というか、本当にここで寝たんですね」
「ああ、朝起きてすぐに琉歌の顔が見たかったからな」
「そうですか……」
幸せそうな笑みを向けられ、ひとりで寝たいなど言えなくなってしまった。
話を逸らそうと部屋を見渡し、天馬がどこにもいないことに気がつく。
「天馬は?」
「自室に帰った。今日くらいは譲ってやる、とかなんとか言っていたから、今日の夜も来そうだな」
伊織がため息交じりに言う。呆れてはいるが、本気で嫌がっているようには見えない。
「仲いいですね、天馬と」
「悪くはない。好意の形は違えど、好きな人が同じだからな、気が合うんだろう」
さらりと告げられ、言葉に詰まる。
息を吐くように口説くのはやめてほしいと思いつつ、好きだと告げられる度に喜びを感じる。心の整理がつかないと言いつつ、もう既に答えは出ている気がした。
甘く緩やかな空気がふたりの間に流れ始めた時、空気を引き裂くように扉が開かれた。
「おい、そろそろ、起きろー」
ノックもなしに扉を開け放ったのは、天馬である。部屋を追い出されたのが余程むかついたのか、朝から不機嫌だ。
「おはよう、天馬」
「ん、おはよう。目覚めてんならさっさと起きて来いよ、いちゃついてないで」
そう言いながら天馬が伊織を睨む。
天馬に急かされ、三人で部屋を出て朝食が用意してある部屋に向かう。
昨日と同じく伊織と琉歌が並び、琉歌の向かいに天馬が腰を下ろした。
話題は、昨日決定した宴会についてだ。
「宴会って、どこで何すんの?」
天馬が焼鮭を解しながら問う。
「まだ何も決まっていないが、ここか、鬼の本家だろうな。内容は飲み食いするだけだ」
「へえ。それってする意味ある? 結婚って名目で飲み会開きたいだけじゃないの?」
食べるのが好きな天馬のことだから、てっきりはしゃぐと思っていたのに、予想に反して嫌そうな反応をした。
「嫌なの? 美味しいもの食べられるのに」
「面倒だからやだ。美味しいものならいつでも食べられるだろ。わざわざ宴会なんて開かなくていい」
天馬の言う通りここの料理はどれも美味しい。しかし、宴会で作られる料理となるといつもとは違った料理が出るはずだ。昔の天馬ならば食いついたはずなのにどうしたのだろう、と首を捻る琉歌を天馬は半眼で睨みつけるように見た。
「今、昔の俺と比べただろ」
図星だったので頷く。天馬はため息を吐き、不貞腐れたような顔をした。
「いいけどさ、俺だって成長したの。昔のままじゃないんだよ」
この家や再会した皆があまりにも変わらなかったので、千年たっているのを忘れそうになっていた。変わらないものもあれば、変わるものもある。それは当然だ。
「もう食いしん坊から脱却したんだね」
「別に昔からそんなに食い意地は張ってなかったよ!」
天馬はわっと声を上げた後、すぐにはっとした様子で居住まいを正し、こほんと咳ばらいをした。
「そんなわけだから宴会はなし」
「いや、そんなわけにはいかないよ。皆楽しみにしているみたいなのに。伊織の両親は張り切っているし」
「いいから!」
天馬の反対具合はなんだか過剰だった。
嫌がるのに理由があるように思えて、内情を探るようにすっと目を細めて天馬の表情を窺う。
「宴会に何か嫌な記憶でもあるの?」
天馬の動きがぴたりと止まった。
天馬は唇を噛みしめ、顔に力を入れた。澄ましていた表情はみるみる内に崩れ、じわりと涙が浮かぶ。
「え、ど、どうし」
慌てて駆け寄ろうとした琉歌を伊織が止める。
「琉歌、わからないか?」
「え?」
静かに声で問われても一体何故天馬が泣いているのかわからない。
おろおろするしかできない琉歌を諭すような口調で伊織が言う。
「ここで宴会が開かれた日に琉歌が死んだから、思い出すんだろう」
「あ……」
言われて初めて気が付いた。琉歌は宴会に出ていないのでぴんと来ていなかったが、天馬からすれば前世の時と同じ状況なのだ。
天馬が不安になるはずだ。そのことに少しも気付かなかった自分の鈍感さに嫌気がさした。
琉歌は天馬の前に膝をつき、小さな体を抱きしめた。
「ごめんね、天馬。気が付かなかった。天馬が嫌な思いをしてまで宴会開く意味ないね。止めにしよう」
天馬がぐすんと鼻を鳴らす。
「伊織様、止めてもいいですか?」
天馬の背中を撫でながら身を離し、伊織を窺う。
「もちろん。問題ない」
返答にほっとした。
結婚を一番に祝ってほしいのは天馬だ。彼が嫌だというのなら宴会など開かなくてもいい。
「両親には俺から言っておく」
「私の言いに行きます」
朝食を食べたらすぐにでも本家に行こうと決めた琉歌達の耳に「ごめんください」という声が届いた。小さい声は女性なのか男性なのか判断ができない。
「来客?」
予定にない来客に伊織の眉間にしわが寄る。
使用人が応対する声を聞こえ、その後すぐに琉歌が家に来た時に迎えてくれた女性が顔を出した。
「伊織様、本家から伝達です」
「は?」
伊織は女性が差し出してきた手紙を訝し気に受け取り、中を確認して、大きなため息を吐いた。
「宴会の日取りの連絡だ。日時は、今日の日暮れ」
「えっ」
伊織が見せてきた手紙には、琉歌と伊織の結婚を祝うための宴会を開くこととその日時と開催地が簡潔に記されている。
この書き方からして、この家だけに送られたようには思えない。恐らく他の鬼の家にも同じ紙が届いているだろう。
「これって、もう手遅れってやつ?」
天馬が疲れた顔で言った。
他の家に通達が行っている今中止にすれば、他の家からは不審がられるだろう。鬼の世界に詳しくない琉歌でもそれがまずいと分かる。
「問題ない。今すぐ止めに行こう」
伊織はそう言ったが、天馬も琉歌も立ち上がらなかった。
「いいよ、別に。さっきはちょっと精神が不安定になっていただけだった。琉歌をひとりで帰すんじゃなくて、一緒に宴会をするんだから状況はあの時とは全く違う」
天馬のその言葉がただの強がりなのは、手の震えで気が付いてた。
本当は怖いのに伊織と琉歌のために恐怖を押し込んでくれている。
「ごめん、天馬」
「謝んな。俺は大丈夫だよ」
天馬の心遣いに甘え、琉歌達の宴会への参加が決まった。
宴会が行われるのは、鬼の当主達が住むという本家だ。
本家に訪れたのは、前世でのお披露目の時以来だ。あの時は緊張していたせいか、殆ど記憶が残っていない。なので、久しぶりにやって来た本家の荘厳な外観に目を剥いた。
「こ、こんなに広かったですっけ」
「広さは変わっていないはずだ」
ちょっとした遊園地くらいの広さはあるだろう。一度入ったら迷子になってしまいそうだ。
不安感から伊織と繋いでいる手をぎゅっと握りしめる。
「どうした? 帰るか?」
伊織は琉歌の不安を感じ取るとすぐに帰ろうとする。
「帰らないです」
その度に首を振り、足を進めた。
「早く入ろうぜ」
天馬にも促され、琉歌達は本家の門をくぐった。
宴会が行われるのは日が暮れてからだが、その前に着替えなければいけない。伊織によると着物や化粧の準備は本家の方でしてくれるらしい。
「いらっしゃい、伊織、天馬君、それから琉歌さん」
琉歌達を迎え入れてくれたのは、昨日よりも顔色の良い純恋だ。薄紫の着物がよく似合っている。
「宴会、すごく楽しみなのよ。美味しいものをたくさん用意しているからね」
そう言って笑う純恋の片方の口角が引きつっているのに気づく。もしかしたら彼女も天馬と同じように怖がっているのかもしれない。その恐怖を脱却するためにこの宴会は開かれたのだろうと予想がつく。早々に準備が整っていったのも純恋の精神面を考慮してのことだろう。
トラウマを乗り越えるために避けようとしたのが天馬で、上書きしようとしているのが純恋だ。
伊織にも天馬にもそれが伝わったようで、ふたりとも純恋を責めなかった。
「じゃあ、入って。三人とも着替えましょうね」
着替えを手伝ってくれるのは本家で働いている使用人だ、と聞かされた時、伊織が反発した。
「信用できない」
「え?」
純恋が子供みたいに瞬いた。
「俺が知っている者に手伝わせてくれ」
「伊織が知っている使用人なんて、男性ばかりだから駄目よ。わがまま言わないで」
純恋の声が微かに震える。苛立ちがこもった声に伊織は憮然とした態度を崩さない。
「それじゃあ、母さんが着替えを手伝ってくれ。それか、天馬をつけるか……」
「純恋さんは忙しいし、天馬は男の子でしょ。駄目よ」
伊織と純恋の話に割り込んだのは、美晴だ。今しがた来たようで右手には荷物がぶら下がっている。
「私が手伝ってあげる。感謝しなさい」
相変わらず高圧的な態度ではあるが、提案自体は有難い。琉歌は別段天馬と着替えることになっても気にしないが、手伝ってくれる使用人は困惑するだろうし、変な噂がたって問題になるのは避けたい。
「美晴さん、ありがとうございます」
「勘違いしないで、あんたのためじゃないから。私はまだあんたが本物だなんて認めてないから」
美晴は琉歌の手を取ると廊下を慣れた様子で進んでいく。
「おい、美晴。手荒に扱うな」
「丁重に扱ってるわよ」
美晴は、伊織にも刺々しい物言いをした。琉歌にはずっとこうだったが、伊織にはもっと柔らかかった記憶がある。
何か、あったのだろうか。琉歌の腕を掴む美晴の華奢な手を見ながら首を傾げた。
美晴に連れてこられたのは、大きな姿見があるだけの一室だ。
「男子禁制だから。伊織と天馬はここまでよ!」
ついて来ていた伊織と天馬に言い放ち、鼻の前でぴしゃりと襖を閉めた。
「琉歌、すぐ傍にいるから何かあったら呼んでくれ」
「伊織も準備があるでしょうが」
美晴が呆れた様子で言い放つ。加えて「何もしないわよ」と言うと伊織は渋々その場から去った。
「さて、じゃあ準備するわよ」
美晴は言葉とは裏腹に優しい手つきで着付けを施してくれた。
「この着物は伊織が選んだんだって」
身に着けた着物は華やかな赤色だ。
「琉歌の赤毛に似合うからだって。千年前にオーダーメイドしていたよ」
「え、千年前から?」
「そう。まぁ、千年前に作ったものは朽ち果てちゃったから、これは新調したものだけどね」
伊織が琉歌を想ってオーダーした着物は、赤に蝶が散っている。
姿見に映る着物姿の自分は、何の違和感がない。様相よりも馴染んでいる気がした。
「伊織は、ずっとあんたのこと好きだったんだって。一目ぼれしたけど、素直になれないって、どうしたらいいか聞かれたよ。私はさ、幼馴染の恋に嫉妬しながらも応援していたの。むかつくけど、幸せになってほしかった」
琉歌の髪を解きながら独り言のようなトーンで美晴が言う。
「幸せそうだったよ、あんたといる時」
手が止まった。
「ねぇ、教えてほしいんだけど」
美晴は言葉を切る。姿見越しに美晴の揺れる瞳と目があった。
「どうして、自死なんてしたの?」
「え?」
何を言われたのか一瞬わからなかった。
自死、と聞こえた気がしたが、そんなわけないと打ち消す。
混乱している琉歌を置いて、美晴は言葉を吐き続ける。
「私が帰って来るなって言ったから? あんなの冗談じゃん。嘘だよ。むかつくから言っちゃっただけ。本当に思っていたわけじゃ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
怒涛の言葉を慌てて止める。
「なによ」
「自死ってなんですか? 私、自殺したことになっているんですか?」
「はあ? 何言ってんの、そんなの当たり前……」
琉歌の驚きに満ちた表情を見た美晴が言葉を止めた。
「え? もしかして、自殺じゃないの?」
怒りで澱んでいた美晴の目が、困惑に変わる。
「私が死んだのは」
理由を思い出そうとしたのに思考に靄がかかってうまくいかない。
今まで何も疑問を抱いていなかったが、自分の死因を思い出せないことに気が付いた。
「えっと、あれ?」
鬼の家で宴会が行われるから一時的に実家へ帰った記憶はあるが、その後が曖昧だ。思い出そうとすると途端に頭の奥がずきずきと痛む。
痛みに呻くと美晴が慌てた様子で隣に腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい。落ち着きました」
痛みが引き、ふうと息を吐く。
美晴は表情に緊張感を滲ませながら琉歌に言った。
「私とあんたで認識の齟齬があるみたいだから擦り合わせをした方が良さそうね」
琉歌と美晴は向き合い、お互いの知らない部分を補いために口を開いた。
「鬼の家にあんたの訃報が届いたのは、宴会が始まってから三時間後くらい。日付が変わってすぐだった。すぐに天狗の家に行き、あんたの遺体や周辺を確認した所、不審な者はいなかったし、誰かが侵入した形跡もない。そもそも伊織の式神を搔い潜って中に入るのは不可能な状態だった。あんたの死因が毒だったのもあって、自死だろうと結論が出た」
「毒……」
その瞬間、最期の記憶がフラッシュバックする。
「部屋に置いてあったグラスの水を飲んだんです。それからすぐに苦しくなって……誰かが、毒を入れてんですか?」
それしかないと思ったのに美晴は煮え切らない返事をした。
「その水がいつ用意されたのか分かる?」
「えっと、たしか……」
琉歌が実家へ帰ってから自室へ入った回数は二回。食事の後と寝る前だ。記憶を必死に巡らせ、いつからあの水が置かれていたのか思い出す。
「部屋に籠っている時にはまだなかったと思います。その後、お風呂に入りに行った時に部屋を空けました。その後、戻って来た時にはもうあったはずです」
「ということは、あんたが風呂に入っている間に入れられた可能性が高いのね」
時間が絞れれば犯人の特定に繋がると希望を抱いたのに、美晴は首を振った。
「犯人は特定できない。さっきも言ったけど天狗の家は伊織の式神が守っていたから不審者は侵入できなかったのよ」
「私が家に帰った時に既に家の中にいたのなら?」
琉歌の帰宅は天狗の家に知らせていた。情報が洩れていたのなら侵入者が潜伏している可能だってある。
「それもない。伊織から説明を受けてない? 伊織の式神は妖術と殺気に反応するの」
「あ、そういえば、聞いた気がします」
伊織の警備は完璧だった。その最たる理由が、殺気へ反応できることだった。
「誰かが琉歌を殺そうと毒を入れたのなら式神の感知に引っかかるはず。式神が反応しなかったということは、あの場に琉歌を殺そうとした者はいなかったってことよ。だから、琉歌は自死したっていう結論になったの」
状況から考えて琉歌が誰かに殺されたとは考え難い。しかし、琉歌だけは自分が自死ではないとはっきりと言い切れる。
「私は絶対に自殺ではありません」
美晴の目を見つめ断言した。
「そっか」
美晴の瞳の奥がゆらっと揺れた。
「伊織の式神は完璧だから誰も疑えなかった。それに天狗の実家で不当な扱いを受けていたって天馬に聞いたし、鬼の家でも幸せとは言い辛かったかもしれない。自死の要因は散らばっていた。私があんたに帰って来るなって言ったのもきっと要因だって皆思っていた」
その声色には不安や懺悔が滲んでいる。
きっと純恋と同じように自分を責めてきたのだろう。周りに対しての刺々しい物言いは、虚勢を張っているようにも見えた。
「気にしてなかったです。帰るつもりでした」
帰りたいという願いは、あの時は叶わなかったが、時を超えて叶った。
それでいいと今なら思える。
「もう昔のことは忘れましょう」
琉歌はもう自分のせいで誰かが自責の念に駆られているのを見るのが辛かった。
前世のことはもう過去として清算し、これから新しい未来を生きればいい。そう前向きに考える琉歌に美晴は緊迫感のある声で言った。
「昔の話で終わっているならいいけど、そうじゃないなら?」
「どういう意味ですか?」
「犯人がまだ生きていたら、また琉歌を殺しに来るかもしれない」
美晴の言葉にぞっと背筋が冷えた。
殺意のない殺人鬼が琉歌を虎視眈々と狙っているかもしれない。急に怖くなり、辺りを見渡した。当たり前だがこの部屋には美晴と琉歌以外はいない。
しかし、前世だって琉歌はひとりきりの部屋で死んだのだ。いつ何が原因になるかわからない。
「……宴会は危険かもしれない。今からでも中止にした方がいいかも」
美晴が呟く。
不特定多数が入り混じる場で琉歌の安全がどれだけ確保できるかわからない。伊織や彼の両親には悪いが、安全を優先した方が良さそうだ。
伊織ならばふたつ返事で頷いてくれるだろうと考え、ふと、違和感に気が付く。
琉歌が自死をしたと思っているのに伊織はその話題に一度も触れなかった。よくよく考えれみれば天馬にも言われていない。
「どうして自殺したんだって伊織達は聞かなんだろう」
「思い出してほしくなかったんでしょうね。死んだ時の気持ち。死んだ原因を思い出して、苦痛を感じた琉歌がいなくなるのが怖かったんだよ」
伊織はずっと琉歌を気遣ってくれたのは、そういう理由もあったのか。
もしかしたら一緒に寝たがるのにも琉歌をひとりにするのが怖いという理由が隠されていたのかもしれない。
「それじゃあ、今から伊織様の所へ行きましょう」
「ちょっと待って。あのさぁ」
早速部屋から出ようとした琉歌を美晴が引き止めた。
「……ごめん、酷い態度をとって。言っちゃいけないこと言った。本当にごめん」
改めて頭を下げられ、琉歌はすぐに顔を上げさせた。
「そんな謝らないでください。気にしていないですよ。大丈夫です。犯人については過去のものと割り切れないけど、千年も前の発言なんて覚えていなくていいですよ。忘れましょう」
もう忘れてほしいのだと伝え、この話は終わりだと手を打った。
そして伊織と会うために廊下へ出た。
「伊織様がどこにいるのかって分かります?」
「うん、こっちにいるからついて来て」
美晴の案内に従い廊下を進んでいく。本家は使用人の数が多く、宴会の準備をしているらしい鬼とすれ違った。手にお茶請けを持っているので来客があったのだと察する。もしかしたらもう何人か集まっているのかもしれない。
気持ちが急くのに比例して歩く速度も上がっていく。
廊下の角を曲がったところで、死角から現れた人物にぶつかりそうになった。
「わっ」
美晴が華麗に避けたのに琉歌はよろけて転びそうになる。
「おっと」
その琉歌の体は前方から伸びきた手によって支えられた。
「大丈夫? って、あれ、琉歌さんだ」
ぶつかりかけた男性は、伊織の叔父である総一郎だった。彼の見た目はほっそりとしているが、琉歌を支える手は意外にも安定感がある。
総一郎から身を離し、ぺこぺこと頭を下げた。
「すみません、前を見てなくて。ぶつからなくて良かったです」
「いいよ。僕もぼうっとしていたからお互い様だよ。それより、もう準備は整っているのかな?」
総一郎が琉歌の着ている着物を見ながら言った。
「いえ、それがちょっといろいろありまして」
「いろいろって?」
総一郎に話してもいいのか、ちらりと美晴を見ると首を横に振られた。
言わない方がいいという意味だろうと解釈し、何とか誤魔化そうと必死で思考を巡らせる。
「まぁ、言えない事情もあるだろうから深くは聞かないよ。それよりも琉歌さん、ありがとうね。宴会を開いてくれて」
「え?」
「琉歌さんが帰ってきてから義姉さんの精神が安定しているんだ。宴会っていうトラウマを乗り越えたら完治すると思う。本当に感謝してもしきれないよ」
鬼の本家で純恋達と共に暮らしているらしい総一郎は、鬼の当主と同じくらい純恋の回復を願っているのだ。腰を折って感謝を告げる総一郎の声色から心底安堵しているのが分かった。
駄目だ、と思ってしまった。
琉歌がここで宴会を中止にすれば、純恋は完璧にはトラウマから脱却できないかもしれない。皆の中で琉歌の死は過去のものにならずにずっと痛みを与え続ける。それは、嫌だった。
「琉歌、どうした?」
背後から聞こえてきた声にはっと振り返る。
すぐ後ろに着替えを済ませた伊織が立っていた。自然な動作で肩を抱かれ、急激に近くなった距離に恥ずかしさよりも安堵感を覚える。
「叔父さん。一体何の話を?」
「宴会楽しみだねって言っていただけだよ、ね、美晴ちゃん」
伊織が美晴に視線を向ける。美晴が頷いたのを見て「そうですか」と平坦に返したが、その後すぐに琉歌と目を合わせる。探るような視線に頷きで答えた。
「仲睦まじいようで安心したよ」
と総一郎に微笑まれ、伊織の身内の前で密着しすぎたと慌てて伊織の腕の中から逃げ出した。
伊織が何か言おうと口を開いた時、純恋が廊下を歩いてくるのが見えた。
「あ、いた。もう皆揃ったから始めますよ」
純恋はぱたぱたと小走りで近づいて来て、琉歌の着物姿を足元からつま先まで確認し、満足げに頷いた。
「うん、可愛い。よく似合ってるわね」
「ありがとうございます」と返した瞬間、手を握られ引っ張られた。
「もう天馬君と太陽は会場にいるから、行きましょうね。宴会たくさん楽しんで」
大きな声と強引さは陽気に映る一方で、よく見れば顔が少しだけ強張っている。
そんな姿を見て、中止にしようなどとは琉歌も美晴も口にできなかった。
宴会が開かれる大広間には、百人近くの鬼達が既に座って待っていた。
琉歌が部屋に入った途端、今まで雑談を繰り広げていたらしい鬼達が一斉に口を閉じた。目をこれでもかと見開く者や呆けた様子でぽかんと口を開けて琉歌を見つめる者もいる。
琉歌が生まれ変わった話は本家以外には伝えられていないようだった。
しんと静まりかえる室内を歩き、上座に伊織と共に腰を下ろす。普通は当主が上座に座るものだが、今日の主役は伊織なので当主は鬼達に紛れてどこにいるのかわからなかった。
「本日は集まっていただきありがとうございます。昨日、こちらにいる琉歌と籍を入れましたので、どうぞよろしくお願いします」
伊織は無表情のまま決められた台詞をなぞる様に言い、軽く頭を下げる。
鬼達はざわついていたが、当主が拍手をし始めると追従し始め、室内は拍手の音でいっぱいになった。
「あ、あの」
拍手の音よりも大きな声を出しながら部屋の中央辺りにいた中年の女性が立ち上がった。
「その方は昔の婚約者様とよく似ていらっしゃいますが、他人の空似でしょうか? 失礼ですが、伊織様は騙されていませんか?」
じっと射貫くような視線は、琉歌への警戒が滲んでいる。女性の発言に一気に室内が緊張感で包まれた。
「問題ない。騙されてもいないから安心してくれ」
伊織はその言葉で一蹴した。
鬼達の中には発言したそうにしている者もいたが、宴会の場で空気を乱すわけにはいかないと思ったのか誰も何も言わず、徐に飲み物が入ったコップを手に取った。
琉歌も近くに置かれていたコップを手に取り、高い位置に掲げた。
「では、結婚を祝いまして」
乾杯の音頭をとったのは当主だ。穏やかな声に皆が掲げていたコップを合わせた。
酒が入ってしまえば深刻な雰囲気は消え、すぐに陽気な空気に包まれた。鬼は酒飲みが多く、テーブルに乗っている酒や食べ物がどんどんなくなっていく。
「すごいですね」
「いつも以上に酒の減りが早いな。琉歌も遠慮せずに食べていいからな」
琉歌は何も食べる気になれなかった。乾杯をしたお茶にすら口をつけていない。
前世で水に混入していた毒で死に至った話をした後では、何を口に入れるのも怖かった。
「緊張しているからですかね、お腹空いてなくて……」
食欲がないのは本当なので嘘は吐いていないが、誤魔化している自覚があるので気まずくなって目を逸らす。伊織は目ざとく気が付いた。
「何かあったか?」
耳元に口を寄せられ囁くように問われる。
伊織に話したいが、大衆がいる場で打ち明けるべきではないだろう。しかし、ふたりで抜け出すのは不自然だ。
悩んだ末に琉歌は伊織の耳に顔を寄せ、囁く。
「伊織様、実は――」
不意にどこからか強い視線を感じた。
「琉歌? どうし」
伊織の言葉に被せるように誰かの怒鳴り声が部屋中に響いた。その瞬間、ひゅっと風を切る音が耳の近くでしたとと同時に伊織の腕の中に抱き込まれた。
一瞬で視界が暗くなり、何も見えなくなる。何が起きているのかわからず困惑する。視界が塞ががれているので頼りになるのは聴覚しかないのに、何故か無音だ。
何も聞こえなくなってしまった、とパニックになりかけた琉歌に伊織の声が落ちてきた。
「琉歌、怪我は?」
「大丈夫です。えっと、一体何が?」
抱きかかえられたまま辺りを見渡す。
部屋の中は一瞬でぐちゃぐちゃになっていた。テーブルはひっくり返り、上に乗っていた皿が散乱している。琉歌の傍では大量にガラスが割れている
「な、何があったんですか?」
「あいつが暴れたんだ」
伊織の指さす先には、女性が周りの鬼達に拘束されていた。
その女性は先ほど伊織に「騙されていないか?」と聞いていた鬼だ。暴れようとはせずに、ただじっと憎しみの籠った目で琉歌を見ていた。
「人間風情が伊織様に近づくな! 身の程を弁えろ!」
周りの鬼達が女性の口を塞ごうとやっきになっているが、女性は首を振り声を荒げる。
「汚らしい天狗が死んだと思ったら、どうして次はあれよりも下級の人間を選ぶんですか! 伊織様は騙されていらっしゃいます。どうか、目を覚ましてください。その人間がいるから駄目なんですよね。私が消して差し上げますから」
「おい、黙れ!」
鬼達の怒号が飛ぶ。
琉歌は女性の澱んだ目を見ていられなくなり、俯いた。すると今まで黙ってみているだけだった伊織が琉歌を置いて立ち上がろうとした。ふっと今まで近くにあった体温が遠ざかり、慌てて伊織の着物を握りしめて引き止める。
「伊織さ、ま」
見上げた先、女性へ視線を向ける伊織の目は見たこともないくらい冷たく、ぞっと腹の奥が冷えた。自分に向けられたわけじゃないのに伊織の怒りは怖かった。しかし、このまま離れてしまう方がよっぽど嫌だった。
荒れ狂う感情のまま女性の元へ行こうとする伊織の名前をもう一度、今度は強く呼ぶ。
「伊織様、行かないで」
ぎゅっと抱き着くように腕を回すと伊織の動きが止まり、驚きで丸くなった目が琉歌を見た。
「お願いします、ここにいて」
懇願すると伊織の怒りが萎んでいくのが分かった。
「悪かった、冷静じゃなかったな……ここにいる。ひとりにしない」
もう一度抱きしめられ、ほっと安堵の息を吐いた。
「どうして!」と女性が喚く声がする。癇癪を起した様子でそれからも何か理解できない言葉を吐き続け、鬼達に連行されて部屋から出て行った。
女性の声が聞こえなくなった瞬間、部屋に残っていた皆が大きく息を吐き出した。
「まさかあんな暴挙に出るなんて」
鬼達は緊張感から解放され、各々話を始めた。
「琉歌、怪我はないか?」
「大丈夫です。助けてくださってありがとうございます」
近くに散乱しているガラスの破片から察するにグラスを琉歌に向かって投げたようだ。伊織が抱き寄せてくれなかったら直撃していたかもしれない。
「無事ならいい。怖かっただろう。もう今日は休もう」
「でも」
琉歌は部屋を見渡し、天馬達の無事を確認した。
天馬は太陽に抱き抱えられている。その隣には美晴の姿もあった。三人とも何ともないようで、目が合うと太陽の腕からぴょんと飛び降りて寄って来た。
「おい、大丈夫か?」
そう聞いてきた天馬の顔色は青白く、血の気が引いている。
琉歌よりも余程大丈夫じゃなさそうだ。
「大丈夫だよ」
しゃがんで天馬と目線を合わせ、その丸い頬を撫でる。
安心させるために宴会に参加したが逆に心労をかけてしまった申し訳ない気持ちになる。そして、安心させたかったもうひとりのあやかしを思い出してはっと顔を上げた。
純恋は当主の隣に立っていた。少しだけ顔色が悪く見えたが、琉歌と目が合うと微笑んでくれた。表情は硬いが、不安定さは感じない。大丈夫そうだと安堵した途端、体から力が抜けた。
よろけた所を伊織に支えられる。
「もう戻ろう」
返事をする前に抱き上げられ、そのまま部屋を出ていく。
「伊織様、歩けますから」
「俺が抱えていたいんだ。悪いが、我慢してくれ」
切なさを滲ませた声で言われ拒否できなかった。琉歌は、伊織の首に腕を回し、周りから顔が見えないように俯いた。
そのまま部屋を出ようとしたが、その直前に聞こえてきた言葉に伊織の足が止まった。
「前の襲撃もあの女だったのかもな。ほら、あっただろ、町の喫茶店で」
町、喫茶店、襲撃。という単語で琉歌の頭には、伊織との最初で最後のデートで妖術によって操られていた男性に殺されかけた記憶が蘇る。
「あの女、明らかに天狗を下に見ていたからな。あり得る」
先程、女性は確かに『汚らしい天狗』と言っていた。あれは前世の琉歌のことで間違いないだろう。
天狗に対してなのか、それとも琉歌の羽がみすぼらしかったからなのかは判断できないが、人間というだけで殺そうとするのなら、妖術を使って琉歌を襲わせた可能性はある。
「もしかして、毒もあの鬼が?」
疑問がつい口から出て行った。
その瞬間、琉歌を抱く伊織の腕の力が強くなり、うっとうめき声をあげた。
「伊織様?」
どうしたのかと問う琉歌の言葉には答えず、伊織は足を進めて部屋を出た。
それから家に着くまでの間、伊織は一度も口を開かなかった。
「おかえりなさいませ」と玄関先で迎えてくれた使用人は、伊織に抱きかかえられている琉歌を見て、一瞬動きを止めたが、何事もなかったかのように自分の仕事に戻って行った。
伊織は琉歌の部屋に入るなり、琉歌を床にそっと下ろした。
「毒って、なんのことだ?」
見上げた先にあった伊織の表情は硬い。
琉歌は伊織の手を引いて正面に座らせた。美晴との会話を反芻しながら話す内容を整える。
「前世で、私は自殺したことになっていると聞きましたが、自殺ではありません」
そう言うと伊織は息を呑んだ。
「枕元にあった水に毒が入れられていました。伊織様の式神が殺意に反応しなかった件に関しては説明できませんが、絶対に自殺ではないと断言できます」
じっと伊織の目を見つめながら、できるだけ真摯に聞こえるように言う。
伊織は、吐息のとうな声を吐き出した。
「本当に?」
「はい。私は、伊織様の元に帰るつもりでした。帰りたかったです」
膝の上に置かれている伊織の手を握る。緊張しているのか、いつもよりも温度が低くひんやりとしている。
「伊織様にもう一度会いたかった」
声に出して初めて、自分の気持ちに気が付いた。
あの時、死の淵にたった琉歌は確かに伊織に恋をしていた。あれが恋でないのなら琉歌は恐らく誰にも恋などしない。
「あなたが好きです」
その言葉はすんなりと口から出て行った。
告白など前世を含めて初めての経験だったが、不思議と恥ずかしさは少しもない。むしろ伝えられた喜びで口角が上がった。
心に余裕がある琉歌と対照的に伊織は、びしりと固まってしまった。
「伊織様、だいじょうぶ」
ですか、と言い終わる前に琉歌は再び伊織に抱きしめられていた。骨が軋んでしまうほどの強い抱擁に「うっ」と小さく呻く。痛いと反射的に言いそうになったが、すぐに伊織の肩が震えているのに気が付いて口を閉じた。
恐る恐る伊織の背に手を回し、ぎゅっと抱き着く。
「ずっと、その言葉が聞きたかった」
伊織の声は濡れていた。
「泣かないで」
「泣いていない」
強がりだと分かる言葉にふっと笑みが零れる。
笑ったのを叱るように頬を優しく齧られ、ぎゃっと声を上げた。
「噛んだ!」
「甘噛みだ」
甘噛みなら許してもらえると思っているのだろうか。
落ち着いてから伊織から離れ、座りなおす。まだ真剣な話は終わっていないのだ。
「美晴さんと毒を盛った犯人がまた襲ってくる可能性について話していたのですが、伊織様はどう思いますか? 今回襲ってきたあの女性が毒の件に関わっていると思いますか?」
伊織は逡巡し、首を振った。
「今回襲ってきたあの女はあまりにも短絡的だ。殺意を消し、犯行に及ぶほどの冷静さは感じられない。喫茶店の襲撃事件に関しても犯行の証拠を残していない点から毒を盛った犯人と同一のような気がする」
どれだけ考えても『殺意を消して殺害した』という点でどうしても行き詰る。
「考えても仕方ないな。危険がないように守るしかない」
伊織は顔を寄せてきた。
え、と驚き、反射的に顔を引こうとしたが、後頭部を引き寄せられ逃げ道を絶たれた。至近距離で目を合わせながら、こつんと額どうしがぶつかる。
「今度は必ず守る」
強い決意の言葉に琉歌は祈る様に目を閉じた。
事件があった宴会から一夜明け、朝一に帰って来た天馬と太陽、それと美晴に昨夜伊織と話した内容を聞かせた。美晴は既に知っている内容だったので驚きはないようだったが、天馬と太陽は顔色を悪くした。
「つまり、まだ犯人はまだどこかにいるってこと?」
「その可能性があるだけだよ。千年もたっているからもう私なんて忘れているかもしれないし、そもそも生き残っているかすらわからない」
あやかしは長寿だが、不死ではない。
前世の琉歌のように殺されれば死ぬし、力の弱いものは寿命が短い。鬼は全体的に力が強いので特に寿命が長いが、終わりは来る。
「ていうか、なんで琉歌は狙われたの? 身の程知らずだから? それとも鬼の家の怨恨?」
「さあ、それも全くわかってないよ」
どちらの理由でも犯人を特定するのは難しそうだ。
「まぁ、警戒するしかないってことか」
今のところ犯人について何もわかっていないのだ。無駄に思考しても仕方がない。
「安心したらお腹減って来た。朝食何かな?」
元気を取り戻したらしい天馬が食事をとる部屋へかけていく。その後ろを四人もついて行った。
使用人が作った料理を囲み、食事をとり始めたのは午前十時のこと。朝食にしては遅い時間だ。
「ごめんください」と玄関の方から女性の声が聞こえたのは、それからすぐにことだった。
皆玄関の方を警戒し、ぴんと空気が張り詰める。
「来客予定は?」
「ない」
美晴の質問に伊織が短く答える。
「ごめんください。鬼の次期当主様はいらっしゃいますか?」
再び聞こえてきた声は、聞き覚えがある気がする。一体誰の声だっただろうか。
応対していた使用人が部屋に入ってきて言った。
「伊織様、天狗の当主様とその奥方がいらっしゃいました」
「え?」
天狗の当主と言えば、世代交代していなければ琉歌の前世の父親だ。琉歌達は顔を見合わせた。
「前世の琉歌が死んでから天狗の家との交流はない。今更、何の用だ?」
伊織も天馬ですら関わりがないという。
一体何の用があって来たというのだろうか。伊織が対応するために立ち上がり、玄関へ向かった。部屋に残った面々は耳を澄まして伊織達のやりとりを盗み聞く。
玄関から遠いので大きな声で話していない限り聞こえて来ないのだが、両親の声はよく聞こえた。
「琉歌の親、声大きすぎね」
「ヒステリックになってるんじゃねえの」
美晴と天馬が呆れた様子で言う。
伊織の声は聞こえて来ないので、話の内容までは分からない。断片的に聞こえている単語の中に自分の名前を含まれていた。
「琉歌が生まれ変わったのを聞きつけた両親が娘を取り戻しに来たに一票」
「いや、生まれ変わった琉歌が鬼と結婚したらしいからあやかりに来たに一票だな」
美晴と天馬が無感情に考察する。
「ただ顔を見に来たっていうだけじゃないかな?」
と太陽がにこにこと笑うが、琉歌は両親がそんな甘い考えをしないと知っている。
恐らく天馬の考えで間違いないだろう。
どこまでも利己的で、死んだ娘すらも利益のために使う姿に呆れを通り越して感心する。
「琉歌、両親が会いたいと言っているが、どうする?」
両親と話をして戻って来た伊織の表情は疲れていた。
「追い返しなよ」と天馬が伊織を睨むが、伊織は首を振る。
「それは俺が決めることじゃない。琉歌の意思を尊重する。会いたいなら会えばいい。会いたくないなら追い返す。どちらでもいい」
琉歌は少し悩んで、会うことにした。
客室で琉歌は伊織と共に両親と相対した。
両親は、記憶よりもずっと老け込んでいた。細く綺麗だった母親は萎びていて、顔には疲れの色がくっきりと出ている。父親は溌溂とした雰囲気が鳴りを潜め、目の周りにできた隈や眉間にしわが彼の苦悩を映していた。
前世時点での天狗の家は裕福で、上級のあやかしだった。しかし、今は細々と暮らしているらしい。
両親は顔を合わせるなり琉歌に縋りついた。
「ああ、琉歌、会いたかった」
涙を流し琉歌に抱き着くふたりに対して琉歌は気味の悪さを覚えた。
前世で琉歌が死んだところで両親が悲しんだとは到底思えなかったのだ。それくらいの扱いは受けていた自覚がある。
両親は自分たちの行いなど忘れて、涙を流し始めた。
「お前が死んでから、ずっと会いたいと願っていたんだよ」
父親が琉歌の頬を撫でようとしたので、顔を反らした。伊織に視線で助けを求めると両親をどかしてくれた。
「それで、今日はどういった用で?」
隣に座っている伊織は冷たい口調で問う。すると両親は前のめりになりながら答えた。
「先程も申し上げましたが、娘に会いに来ただけです」
「それならもう目的は達成できただろう」
「そんな冷たくしないでくださいよ、伊織様。死んだ娘が帰って来たんです。もっと再会を喜んでもいいじゃないですか。ねぇ、琉歌」
母親は伊織の無表情を見て、何を言っても無駄だと感じたのか、琉歌に話を振った。
「家族だけで話がしたいんですよ。お願いします、伊織様」
父親が誰かに頭を下げるのを琉歌は初めて見た。
前世の父親は高圧的で、母親は明らかに姉の未来と比べて琉歌を蔑んでいた。傲慢な様子は今のふたりには見る影もない。
ちらちらと見てくるふたりの視線から逃れ、首を振った。
「伊織様が一緒にいてください。何か話があるのならこのまま聞きます」
伊織の手を握りしめると両親は一瞬憎々し気に顔を歪めた。化けの皮が剥がれる瞬間を目の当たりにした琉歌は内心「やっぱりな」とため息を吐いた。彼らはただ娘に会いに来たわけではない。
すぐに笑顔で取り繕った父親が口を開く。
「あのですね。私達は琉歌の親なわけですよ。それなのに結婚祝いの宴会に呼ばれなかったのはどういう了見でしょうか?」
「鬼の身内だけで行われた宴会だから天狗を呼ぶ理由はない」
「いや、琉歌の親として参加するべきでした。それにですね、琉歌がそちらに嫁いだというのに家に何の報告もなかったのはどうしてですか? 他のあやかしの噂話を耳にしなければ私どもは一生知らなかったかもしれません。琉歌が嫁いだのですから、天狗と鬼は良い関係を築いていくべきでしょう。それなのに私達を無視するなんて、裏切りですよ」
父親は自分の意見を押し通そうと大きな声で言い切る。
自分が間違っているとは思っていない言葉の真っすぐさは昔と何ら変わっていない。
「そもそも、もう琉歌は天狗じゃない。あんた達に報告する義理がどこにある?」
「え?」
その時になって漸く両親は琉歌の背に羽がないことに気が付いた。
「天狗の琉歌はもういない。人間として生まれ変わったんだ」
「う、うそ、そんな……じゃあ、私達はどうすればいいの? これだけが頼りだったのに」
母親が目を見開き、希望を失ったと嘆く。本音が口から零れ落ちた。
鬼に嫁いだ娘にあやかろうとしていたのだろう。天馬の予想が当たったのだ。
「未来もどうしようもないからこっちに来たのに」
俯き打ちひしがれる母親から出た言葉に首を傾げる。
「未来に何かあったんですか?」
「……しょうもない男と結婚して家を出たのよ。家柄も何もない男。長く付き合っていた幼馴染に捨てられたからって何もあんなにすぐに結婚しなくても良かったのに。私達がもっとちゃんとしたあやかしを選んで結婚させる予定だったんだから」
前世で未来は恋人に捨てられて絶望していた。天狗の家の雰囲気は最悪でどうなるかと思ったが、どうやら幸せになったようだ。
親が子供の選んだ道を間違っているなどと言っていいわけがない。
「当てが外れたようだな。分かったらさっさと帰れ」
伊織が顎で玄関の方を指す。
両親はいつまでも渋っていたが、取り付く島もないと感じると立ち上がって玄関に向かった。
「琉歌って、本当に恩知らずよね」
家から出る直前、母親は振り返りながら琉歌に向かって言った。
「折角生んでやったのに鬼と結婚する前に死んだ挙句、生き返っても私達を邪険にするのね。自分だけ幸せになって。国利はあんたのせいで不幸になったのにね」
「え?」
国利、という名前に琉歌ははっとした。
「どうして国利さんが? なんで、不幸になったんですか?」
「琉歌、落ち着け」
伊織が止めようとしてくるが、その手を振り払い母親の肩を掴んだ。
嫌な予感に胸がざわついていた。
母親は琉歌の不幸をあざ笑うように口角を上げて言った。
「そりゃ、あんたが毒を入れた水は国利があんたの部屋に用意したものなんだもの。自分が水を用意しなければってずっと言っていたわよ」
呆然とするしながら琉歌は震える声で聞いた。
「こ、こくりは、今どこに?」
「未来が嫁ぐときに一緒に行ってからは知らないわ」
それだけ言うと両親は帰って行った。
「琉歌、大丈夫か?」
伊織に背を撫でられ、はっと我に返る。
心配そうに見下ろしてくる瞳に頷き、何とか皆がいる部屋まで戻った。
「どうした、なんかあったのか?」
部屋に入ると顔色の悪い琉歌を心配して真っ先に天馬が寄って来た。
「大丈夫だけど、ちょっと待って」
琉歌はよろけながら席に着き、ぐるぐると回る思考を整理しようと頭に浮かぶ言葉を口に出していく。
「前世の私が死んだのは、部屋に置いてあったグラスに毒が盛られたからで、その水を用意したのは国利さんだった。国利さんが毒を? いや、国利さんに私を殺す動機はないはず……それに殺意の件も……」
とそこまで考えて、はっとした。
「もし、毒だと知らなかったら?」
目の前に座る伊織は琉歌の思考が落ち着くのを待っていてくれた。
「犯人はそれが毒だと知らずにに入れた場合、殺意はないから反応もしないですよね」
「しない」
伊織が肯定する。
「でも、事情聴取をした時に国利は水以外入れていないって言っていたよ」
天馬の言葉に前世の記憶を必死に頭に浮かべた。
飲み水は今のように新鮮なものではない。溜めていたものを使っていたはずだ。そこに毒を入れていたのなら天狗は全滅している。それがないということは、毒が入れられたのは、国利が水を入れた後。
「つまり、国利という使用人が琉歌の部屋に水を置いた後に何者かが部屋に侵入し、毒を混入したってことだな」
「多分、そうだと思う」
国利は何も悪くないと言いたいのに手の届く範囲に彼女はいない。
もしかしたらもう既に亡くなっている可能性は高い。自責を抱えたまま逝かせてしまったとぐっと胸が詰まった。
「その何者かは、それが毒だと知らなかったかもしれないのか」
「まぁ、それぐらいしか殺意を込めずに毒を入れるなんてできないよね」
太陽と美晴が納得した様子で頷いた。
しかし、肝心の犯人については決定的な考えは誰からも出なかった。
外の空気を吸いたくなり、伊織と共に庭を歩く。
「昔、あまりにもやることがなくて、ひとりで散歩していたのを思い出します」
庭には季節の花が咲いている。使用人は変わったというのに、育てている花の種類は全く変わっていない。庭の一角に赤い小さな花が咲いているのに気が付いた。何の花だろうか。名前は知らないが、頭にとある記憶が蘇る。
「この花、天狗の家にも咲いていたんです。国利さんが花に詳しかったから教えてもらって、確か絵を描きました。私は羽が見すぼらしかったから、あまり家から出られなくて、国利さんはそんな私の遊び相手になってくれました」
「琉歌にとって、本当の親みたいなものだな」
伊織の言葉に国利の笑顔を思い出した。
いつも優しく、柔らかい笑みを浮かべた老齢のあやかしは琉歌にとって唯一信頼できる親だった。琉歌にとって一番親に近い存在だったのだ。
「国利さんが不幸になっているなんて、知らなかった」
ぽつりと言葉が漏れた。
「あんなによくしてもらったのに、全てを思い出せないんです」
大切な思い出のはずだったのに、うすぼんやりとしか輪郭を捉えられない。
前世の記憶は昨日のことのように思い出せると思っていたのに、人間として生まれ変わってからの記憶とこんがらがって、どれが前世なのかわからない時がある。
国利との記憶を忘れていると気が付いた時、自身の薄情具合に絶望した。
しかし、そんな琉歌に伊織はあっさりと言った。
「当たり前だ。記憶なんてものはそんなに万能じゃない。時間を重ねれば記憶は増え、古いものはどんどん思い出せなくなる。皆そうだ、琉歌だけじゃない」
「でも」
俯く琉歌の頬を伊織が優しくなで、持ち上げる。
視線を上げた先で伊織がそっと微笑んでいた。
「申し訳ないと思うのなら会いに行けばいい」
反論しようとしていた口が止まる。
「国利さんはまだ生きているんでしょうか」
「まだわからない。今、太陽に調べさせている。もし、姉の所にいるのなら会いに行くか?」
その提案に強く頷いた。
国利の所在を調べていた太陽から報告が上がったのは、次の日の昼だった。
「国利という名前の使用人は現在、琉歌さんの姉である未来さんの自宅で生活しているみたい。未来さんは数百年前に旦那さんをなくしていて、今はお子さんと国利さんの三人で暮らしているみたい。琉歌さんのことを伝えた所、会いたいって言っていたよ」
「会いたい? 本当に未来が言っていたんですか?」
「うん」と太陽が頷く。
前世の未来は琉歌に会いたいなどとは絶対に言わなかった。
結婚して子供を授かってから彼女の中で何か変化があったのだろうか。
「今日か明日の午後なら予定が空いているらしいよ。どうする?」
出来るだけ早く会いたかった琉歌は今日の午後に早速行きたかったが、伊織は多忙ではないかと前世の記憶が過った。思い返してみれば伊織は、琉歌がかくりよに来てからずっと一緒にいてくれたが、仕事は大丈夫なのだろうかと今更ながらに心配した。
「大丈夫だ。休暇をもらっているから当分は休んでいられる」
「新婚ということで当主様が配慮してくれているんだよ。それに琉歌さんは生まれ変わりというイレギュラーだからね、落ち着くまでは仕事もセーブしてくれるって」
琉歌のせいで誰かが迷惑を被るのは申し訳ないと思ったが、伊織に「俺が一緒にいたいんだ」と言われてしまえば、それ以上は何も言えなくなった。
かあっと顔を赤くした琉歌を見て、太陽がおやと何か察した様子を見せた。
「もしかして、心の整理が付いた?」
「ま、まあ、はい」
現世で心の整理がついていないから結婚しないと言っていたのに、かくりよに来て数日で陥落しているのを揶揄われているようで恥ずかしくなった。
「伊織様が逃がすわけないし、琉歌さんも最初から好意的だったから恋仲になるのは秒読みだと予想できていたよ」
自分ではわかっていなかったが、周りから見れば琉歌の気持ちなど分かりきっていたようだ。
「琉歌、押しに弱いから」
話を聞いて天馬が呆れた様子で言う。
「いや、誰にでもじゃないから」
「俺にだけ、な」と伊織が嬉しそうに顔を覗き込んくると、周りの空気が生ぬるいものに変わる。
「そうですけど……近いです、伊織様」
密着してくる伊織から逃れる。肩を強引に押しても伊織は嫌な顔をせず体を離した。上機嫌な様子に太陽がそっと口角を上げた。
「良かったね、伊織」
とかける言葉は柔らかい。
「ああ」と答える伊織の声も優しかった。
「改めて、伊織をよろしくね、琉歌さん」
差し出された手を握る。
「伊織をもうひとりにしないで」
太陽が真剣な声で言う。
握手をした手は予想よりもずっと力強く、伊織を残して逝ってしまった琉歌を責めているようだ。
「はい。絶対に一緒にいます。誰にも負けません」
それは、太陽にはもちろんだが、伊織に向けての言葉でもある。
もう離れないように琉歌は自ら伊織の手を握った。
未来の住まいは天狗の家から離れた場所にあった。
華やかなものが大好きだった未来のことだからきっと町から近い場所にあると思っていたのに、実際はまだ整備が行き届いていないような辺鄙な場所だった。のどか、と言えなくもないが、隔絶されているようにも見える。
「本当にここですか?」
「ああ。間違いない」
伊織と太陽が頷く。
未来がどういう道を選び、ここに住むと決めたのかわからないが、きっと彼女の中で大きな変化があったはずだ。そう思うほど、琉歌の記憶にある未来とこの家が結びつかない。
「そろそろ入ろうか」
いつまでも家の前でうろついているわけにはいかない。
琉歌達は門を潜った。
未来の家は、天狗の家の半分ほどの大きさだった。
目に見えるものでマウントを取りがちな母親のことだから、どれだけ未来は幸せそうでも家が実家よりも小さければ認めないだろうな、と思った。
「ごめんください」とアポイントを取り付けた太陽が声をかける。
緊張しているせいで太陽の大きな声にも過敏にびくついてしまう。体の横でぎゅっと拳を握りしめるとその手を大きな手が上から包み込んだ。指を解かれ、繋がれる。安心する温度にふっと呼吸を吐き出した。
その時「はい」という声を共に扉が開いた。
顔を出したのは、未来だ。
琉歌の記憶にある未来は十代だったため顔に幼さが残っていたが、今の未来は大人の女性になっている。
未来は琉歌と目が合うとぎこちなく口角を上げた。
「久しぶり、琉歌。本当に生まれ変わったんだね」
「うん、未来も久しぶり」
昔はどんな風に話をしていたのかわからなくて、他人行儀な挨拶を交わす。
「国利に会いに来たんだよね、こっちだよ」
琉歌は逸る気持ちを抑えつつ、先を行く太陽の後を追った。
案内されたのは、家具など何もない客間だった。テーブルすらない部屋に案内した未来は国利を呼んでくると言って、どこかへ行ってしまった。
あまり部屋を見渡すのは失礼かと思ったが、落ち着きなく見渡してしまう。きょろりと部屋を隅を見てから、琉歌は無意識に伊織に身を寄せていた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて離れようとした琉歌の肩に伊織の手が回って、引き寄せられる。
未来の前で密着しているのは気まずいと身を捩ったが、伊織の手は離れない。それどころか更に力が強まった。
「伊織様?」
どうかしたのか、と伊織を見上げると、彼は真剣な表情でじっと扉の方を見据えていた。
「何か変だ」
「え?」
「この部屋、何かおかしい」
琉歌には何もない部屋という印象しかなかったが、伊織は危険を感じ取っているらしい。
太陽は立ち上がると躊躇いなく扉を開けた。
扉の向こうには真っ直ぐ長い廊下が続いている。琉歌達が通された客間は玄関からさほど離れていなかったので、視界に入るはずなのに全く見えない。
さっきと家の間取りが変わっている。
「嵌められた」
伊織が舌を打った。
「何が目的か知らないが、どうやら改心はしていないらしいな」
「目的は琉歌さんかな」
「恐らくな」
伊織と太陽が話をしている横で琉歌はそっと廊下の先を見た。真っすぐに続いている廊下の先は暗闇になっていて突き当りを確認できない。じっと見つめていると不安感を覚えて、すぐに逸らした。
「琉歌、危ないから俺から離れないで」
「は、はい」
そそくさと伊織の隣に行き、ぴったりと密着する。
「家の間取りが変わっているのは、妖術ですか?」
琉歌の問いかけに伊織が頷く。
「そうだな。この部屋に入るまで気が付かなかったから、相手はかなりの手練れだ」
「ん? でも、確か天狗は妖術を使えませんよね。飛んだり、烏と会話をするぐらいしかできなかったはずです」
「そうなのか?」
あやかしの知識は誰もが知っているわけではない。統治している鬼にさえ把握してない事柄があるのは当たり前だ。
「はい。だからこの妖術は未来じゃありません。他のあやかしの力です」
「なるほどな」
伊織が頷く。
「伊織、どうする? このままここにいる方が安全か?」
太陽の言葉に応えるように琉歌達の背後でかたんと音が鳴った。
はっとして振り返ると今まで何もなかった真後ろの壁に扉が現れていた。ドアノブがガタガタと揺れ出した瞬間、琉歌はとび上がった。
「い、い、いおりさま、伊織様!」
「琉歌、大丈夫だから落ち着いて」
咄嗟に伊織の背に縋りつく。
前世あやかしだった身だが、ホラー映画は怖くて見れないのだ。恐怖のあまり涙が溢れてきた。
「移動した方が良さそうだな」
扉の奥から得体のしれない者が飛び出してくる可能性がある。琉歌達は部屋を出て矢鱈と長い廊下を歩く決意をした。
未来の家はまるでお化け屋敷のようだ。脅かしてくる者こそいないが、廊下に面した扉は時折かた、と音を立てたり、暗がりの奥に何かの気配がある気がする。
「怖がりすぎですかね」
涙声で問うと伊織が優しく言う。
「こんなところ怖い決まっている。過敏に反応するくらいでちょうどいい」
伊織はそう言ってくれたが、みしっと廊下が軋む音にすら体が跳ねて泣きたくなった。
「犯人は何が目的なんでしょうか?」
「わからない。、本人に聞くしかないな」
ゆっくりと周りを警戒しながら歩いていると不意に耳が異音を拾った。
みし、みしっと何かが前から歩いてくる音だ。三人はその場でぴたりと止まり、警戒をむき出しにして暗がりを睨んだ。
「ふたり共、下がって」
太陽が前に出て、伊織と琉歌は後ろに数歩下がる。
と、その時、琉歌の右側にあったと扉が開いた。咄嗟に飛びのき、逃げようとしたのに扉の中から真っ黒い手が伸びて来て琉歌に触れた。
「琉歌!」
伊織が琉歌と繋いでいる手を引いた。
「伊織様」と名前を呼び、彼に飛びついてでも逃げようとした。
しかし、気が付いたら目の前は真っ暗に塗られ、自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。立っているのか寝転んでいるのかもわからない状態に伊織の名前を呼ぶが声にならない。
焦りと不安で泣きながら何度も伊織の名前を呼んだ。
そのうち酷い眩暈を覚えて、きつく目を閉じた。
足が床についている感覚にはっとして目を開くと周りの光景が変わっていた。長かった廊下はなくなり、玄関に立っていた。
周りに伊織も太陽の姿もない。
どうやらひとりだけ分断されてしまったらしい。
ひとりになってしまった空間でごくりと生唾を飲み込んだ。
「ねぇ、なんで戻って来たの」
背後から聞こえてきた未来に声に振り返る。未来は、少し離れた位置から暗い目をして琉歌を見つめていた。
「あんたが戻って来なければ、私はこんな目に合わなかったのに。全部全部あんたのせいよ」
苦痛に歪んだ顔は犯人というよりも被害者のようだ。
「あんたが死んでから私がどんな思いをしたかわかる? それが、漸く落ち着いてたの。罪悪感とおさらばしてたのに。やっと解放されたって思っていたのに」
未来の言葉は支離滅裂だった。
吐き出された罪悪感という単語に琉歌は疑念を口にした。
「私に毒を盛ったの、未来?」
未来の肩が跳ねる。
言葉の肯定などなくてもその反応だけで十分だった。
思い起こしてみれば、琉歌が毒を飲む直前に部屋の近くに未来はいた。琉歌が風呂に言っている間に国利が水の入ったグラスを置き、その中に未来が毒を入れたのだろう。
「何で? どうして私を殺したの?」
「毒だなんて知らなかったのよ!」
未来が唇を震わせながら苦し気に言う。
「腹が痛くなる薬だって聞いていたの。あの時期、私は恋人に捨てられて絶望の中にいたのに琉歌は鬼に嫁いで幸せになろうとしていたから、むかついて……嫌がらせをしてやろうと思っただけなの。ちょっと痛い目みればいいなって、それだけなの。本当よ」
未来の言葉に嘘はなさそうだ。毒だと思っていなかったから殺意がなかったという仮説が証明された。
「誰にその薬をもらったの?」
「それは――」
未来の言葉を遮るように玄関の扉が開く音がした。
「琉歌さん、どうしたの?」
未来の家に入って来たのは、伊織の叔父である総一郎だった。彼の顔を見た瞬間、未来の目に怯えの色が浮かぶ。
その瞬間、琉歌は足を引いて後退した。
「総一郎さんこそ、どうしてここに」
「僕はちょっと用事があって……そんなに怯えないでよ」
琉歌の強張った表情に総一郎は苦笑を零す。
緊迫感で張り詰める空気の中、総一郎だけはゆったりと家に上がって来た。
「止まってください」
琉歌が叫ぶと総一郎は「おっと」と両手を上げた。
「琉歌さん、落ち着いて」
「ごめんなさい。今はあなたを信用できません。動かないで」
「信用できないなんて、酷いな。俺はただ琉歌さんを想っているだけなのに」
総一郎は傷ついた顔をした。
「毒を未来に渡して私を殺したのは貴方でしょう。それなのに私を想っているなんて意味が分かりません」
核心を突いた言葉に総一郎は笑った。
「琉歌さんは、わからないよね。だって本当の恋をしたことがないんだから」
総一郎はとろんとした目をして夢心地の様子で言葉を続ける。
「僕はね、琉歌さんを見た時に一目で恋に落ちたんだよ。一目ぼれだった。これ以上ないほど好きだと思ったのに君は伊織の隣にいた。僕の方が好きなのにもう手の届かない所にいたんだ。鬼の恋は生涯のものだ。僕は今後誰も好きになれないと気が付いたよ。しょうがないと思おうとした。けど、無理だった。君と会うたびに、声を聞くたびに想いを募っておかしくなりそうだった。伊織が、憎くて堪らなくなった。君の目が伊織を見ているの耐えられなくなった。でも、僕は自分の地位を理解しているから次期当主の伊織から花嫁を奪うなんてできないのは分かっていた。それでも伊織のものにならないでほしかった。僕のものにならないのなら消えて欲しかった」
総一郎が琉歌に近寄って来る。総一郎が一歩進めば、琉歌はその分下がった。
「最初は殺そうとなんて思っていなかったんだよ。でも、君と伊織が一緒に出掛けているのを見た瞬間、耐えられなくなった。気が付いたら妖術を使って君を襲わせていた」
喫茶店での襲撃事件はやはり総一郎の仕業だったらしい。
そこから歯止めが利かなくなったと総一郎は続けた。
「君が僕のせいで死んだ時は絶望を感じたよ。自分の半身を失ったような喪失感でおかしくなりそうだった。それと同時に心の底から満たされた。僕が君を殺したんだ。君は僕のものになったように感じさえした」
この男はおかしいのだ。琉歌の愛を語る目は澱み、異常な熱に浮かされている。
「どうして、未来を利用したの?」
「利用しやすかったんだよ。馬鹿で愚かだから。動かしやすかった」
総一郎は目線をずらし、琉歌の背後にいる未来を嘲笑った。
「琉歌を妬ましそうに見ていたから、ちょっと唆したら簡単に乗って来たよ。ちょっとお腹が痛くなる薬だって言ったら簡単に騙されて毒を盛ってくれたんだ。僕に唆されたなんて誰も信用しないだろうねって言ったら今までずっと黙っていたよ」
総一郎の口車に乗ってしまって騙されたから、と言っても鬼に嫁ぐ予定の妹を殺したとなれば罪に問われかねない。未来にとって黙っているしか道はなかったのだろう。
「今回は、どうしてこんなことを?」
「それは琉歌さんが悪いんだよ」
総一郎の目がきゅっと吊り上がり、琉歌を攻め立てた。
「君が伊織なんて選ぶから悪いんだよ。せっかく生まれ変わったって聞いて駆け付けたのに、君は既に伊織の隣にいた絶望がわかるかい? 宴会場であの女が暴れなかったら僕が君を手にかけていたのに邪魔が入って悲しかったよ。せっかく宴会に参加するように誘導したのに」
「純恋さんを心配していたのもただの演技ですか?」
総一郎はにっこりと笑って頷いた。
「当たり前だ。僕は琉歌さん以外どうでもいいんだよ」
総一郎と話していると頭が痛くなった。
琉歌を無視した愛情は、あまりに一方的で傲慢だ。
「貴方は、私のことだってどうでもいいんでしょう。だからそんなひどい真似ができるんだ」
琉歌の言葉に総一郎は哀れなものを見るような視線を向けてきた。
「琉歌さんは元は天狗で、今は人間だから鬼の気持ちがわからないんだよ。鬼はね、皆恋でおかしくなるんだよ。伊織だってそうだ。千年もずっと君を想っているなんていかれている」
「伊織様と貴方は違う。一緒にしないで」
伊織は琉歌を離さないと言いながら、無理強いをしたことはない。
琉歌を尊重してくれていた。自分のものにならないからと殺そうとはしない。
「……どうしても分かり合えないみたいだね」
総一郎はそう言うと琉歌との距離を一気に縮めてきた。
逃げようと足を引くが間に合わず、目の前に来た総一郎に腕を掴まれた。
「選んで、琉歌さん」
「な、なにを」
総一郎が暗い目を細めた。
「僕を選ぶか、ここで死ぬかの二択だよ。次、生まれてきたら今度こそ僕の元へ来るって約束もしよう。ちゃんと待っているから」
ずいっと迫った顔に琉歌は躊躇いなく頭突きをした。
ごつんという鈍い音と共に額に痛みが走る。脳が揺れ目の前がちかちかと点滅したが、倒れることなく総一郎を睨んだ。
「貴方を選ばないし、ここで死ぬ気もない。私は伊織様の元に帰るの」
今度こそ、伊織の隣に帰るのだ。
琉歌の言葉に総一郎の目は怒りで燃え上がった。
震えぐらいの感情を向けられても琉歌は総一郎から目線を離さずに見返した。
「本当に、琉歌さんは悪い子だね」
悲しいよ、と眉を下げた総一郎の手が琉歌の首に伸びる。
暴れる体は簡単に抑えられ、首がどんどんしまっていく。
「琉歌さん、次は絶対に一緒になろうね。約束だよ」
息ができなくなり、どんどん目の前が霞んでいく。
ああ、もうだめかもしれない。最期の光景が総一郎だなんて嫌だと思い、目を閉じて伊織を思い浮かべた。優しくて甘い視線が好きだった。あの目でもう一度見つめて欲しい。そう思った――その時。
どん、と衝撃が走り、琉歌の首から総一郎の手が離れる。
投げ出され体はすっかり馴染んだ熱に受け止められた。
「琉歌」
今、一番聞きたかった声が事情から聞こえ、琉歌はせき込みながらなんとか顔を上げた。
「大丈夫か?」
至近距離で伊織に見つめられていた。
「いおりさま」
「うん。もう大丈夫だからな」
優しく抱きかかえられると安心して涙が溢れた。
ぎゅっと抱き着く。叫び声のようなものが聞こえて来たので、そちらに視線を向けると太陽の手によって地面に押さえつけられた総一郎が喚いていた。
「なんで、どうして」
「妖術で伊織に勝てるあやかしはいないよ。慢心したね」
太陽が誇らしげに鼻を鳴らした。
「琉歌、琉歌さん、待って。行かないで。僕と一緒にいよう。お願いだ」
総一郎が琉歌に叫ぶ。その姿は伊織が琉歌の前に立ったことで見えなくなった。
「黙れ。もう二度と琉歌をその目で見るな」
伊織は地べたで暴れる総一郎に止めを刺すように言った。
「地獄に落とすから、覚悟しておけ」
背後にいる琉歌は伊織の表情を見ることは叶わないが、発せられる言葉から伊織が相当怒っているのがわかる。
「連れていけ」
伊織が指示を出すと太陽が総一郎を抱えて家を出て行った。
「琉歌、無事か? 遅くなってすまなかった」
伊織が琉歌を振り返り、怪我の有無を心配してくる。頬に触れる手が震えていて、琉歌は安心させるために微笑んだ。
「大丈夫です。怪我もないですし」
「そうか……首に痕ができてる」
総一郎に首を絞められた痕を指摘された。
一瞬だったので大丈夫だと思っていたが、赤く痕が付いてしまったらしい。痛みなどはないので平気なのに伊織は怒りを露にして、玄関から出ていこうとする。
「どこ行くんですか」
「あいつの息の根を止めてくる」
「いいです。大丈夫ですから、落ち着いてください」
ぎゅっと抱き着くと伊織の動きが止まった。
困ったように振り返った顔には怒りはない。感情を抑えるのに成功したらしいと安堵の息を吐いて伊織から離れる。すると正面から抱きしめられた。
「俺の落ち度で危険な目に合わせた。守ると約束したのに」
「守ってくれたじゃないですか。来てくれてありがとうございます」
抱きしめられる腕の強さや温度で、前世では帰れなかった伊織の隣に帰れた事実を再確認して涙が溢れた。
呆然としている未来に近づき、顔を覗き込む。彼女は怯えた表情をした。
「未来、大丈夫?」
声をかけた途端、未来はその場に崩れ落ちた。
「終わった?」
未来はぽつりと呟き、頬を数回叩く。ぴしゃりと乾いた音が室内に響いた。
「夢じゃない……」
その様子からは未来の総一郎への怯えが透けて見えた。
毒を盛ってから、総一郎に脅され続けたのだろう。殺す気はなかった妹を殺してしまった罪悪感も抱えながら生きていくのは、どれだけ苦痛だったのだろう。全てを理解するのは無理だ。
地べたに座る未来に近寄り、呆けている未来に言い聞かす。
「もう総一郎さんは捕まったから、怖いものなんていないよ。大丈夫」
その途端、未来は顔を歪ませて泣き出した。
未来は琉課よりずっと大人なはずなのに、小さくなって泣く姿は記憶にある未来と重なって見えた。
「お母さん……」
不意に聞こえてきた声に視線を向ける。廊下の奥に琉歌と同い年くらいに見える女の子が立っていた。
未来の子供なのだろう。よく似ている。
彼女は近寄って来ると母親の背中を撫でた。
ふたりの事情を琉歌は知らない。琉歌が死んだ後の苦悩も苦痛も、そしてその合間につかみ取った幸せも。知る必要があるとも思えない。未来が琉歌に知ってほしいと願っているとは思えないので、寄り添う合うふたりからそっと離れた。
「琉歌様」と聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、琉歌は目頭が熱くなるのを感じた。
「国利さん……」
廊下の向こうからやって来た国利は昔と全く変わらない様子で立っていた。千年前から容姿が変わっていないことにふっと笑みが零れる。
国利は唇を震わせた後、頭を下げた。
「琉歌様、すみませんでした」
「どうして謝るんですか」
「私は貴方を守れなかった。自分の子供のように思っていたのに、みすみす死なせてしまった……ごめんなさい」
自責の念を抱えている国利に琉歌は首を振る。
「国利さんは何も悪くないよ。ごめんなさい、もっと早く来るべきでした。それにしても未来と家を出ているとは思いませんでした」
国利は琉歌が生まれてくる前から天狗の家に仕えていたので、天狗の家に骨を埋めると思っていた。
「貴方が死んだあの家にいるのが、耐えられなかったのです。それに当時の未来様は精神的にボロボロで、誰かの支えが必要だと感じたので一緒に行きました」
「そっか」
未来がここまで生きて来られたのは国利の存在が大きかったのかもしれない。
「国利さん、また会えて良かったです」
「それは私の台詞ですよ。まさか生きている内に琉歌様に再び会えるとは思っておりませんでした。元気そうで、安心しました」
国利は漸く表情を緩め、笑った。
そして、彼女の視線は琉歌を背後に立つ伊織に向いた。
「私はこんなを言っていい立場ではありませんが、どうか琉歌様をよろしくお願いいたします」
「ああ。もちろん。必ず幸せにする」
伊織が頷くと国利は安心した様子で顔を綻ばせた後、両手で顔を抑えた。
「今度こそ幸せになるよ」
琉歌がそう言うと国利は何度も頷き「良かった、良かった」と涙声で言う。琉歌の幸せを願ってくれる国利の姿に琉歌は堪らず彼女を抱きしめた。
鬼の家に帰宅した琉歌達を待っていたのは、心配しすぎて泣いている天狗ともっと警戒しろと怒りを露にしている美晴だった。
どうやら太陽から連絡があったらしい。
「総一郎さんはどうなるんですか?」
説教を終えた美晴に問うと「知らない」と首を振られた。
「ただでは済まないとしかわからない。きっと地獄に落ちるだろうけど、琉歌が気にする必要はないよ。あんたは伊織のことだけ考えてなさいよ」
総一郎はきっと二度と琉歌の前に現れないだろうな、と確信した。
哀れだとは思わない。正当な対処だろう。
言いたいことだけ言って、美晴はさっさと家に帰っていった。
玄関で美晴を見送り、三人で琉歌の自室に集まる。ふうとっ疲労からため息を吐いた琉歌に隣に座った天馬が言った。
「美晴、心配してたぞ」
「うん。分かってる。天馬も心配かけてごめんね」
小さな頭を撫でた。いつもなら「心配なんてしていない」と反論してくるのに、今は甘えるように頭を擦りつけてくる。
おや、と思ったら天馬が抱き着いてきた。
「帰ってきてくれてよかった。もういなくならないで」
「うん。もういなくなったりしない」
抱きしめ返しながら背中を撫でると天馬はわんわん泣き出した。気を張っていたのだろう。天馬が泣き疲れて寝てしまうまで、琉歌は天馬を抱きしめ続けた。
疲れて寝てしまった天馬を布団に寝かせ、縁側へと移動した琉歌と伊織はただ黙って並んで座りながら外を眺めていた。
手を伸ばせば隣にいる距離に伊織がいることに帰って来たのだと実感する。
「庭に新しい花を植えようか」
唐突に伊織が言った。
伊織の視線の先には何も植えられていない花壇があった。あそこは前世の時点でも何も生えていなかった場所だ。
琉歌がいなくなって、伊織はこの家の時間を止めた。変えられなかったと言ったのはきっと琉歌の居場所を開けて置きたかったからだろうと察している。
その伊織が時を進めようとしている。未来へ進もうとしているのだ。
「伊織様は、何の花が好きですか?」
「花のことは分からないから、ふたりで選ぼう」
伊織は優し気な笑みを浮かべて琉歌を見た。
この顔を見た瞬間、琉歌は無意識の内に言葉を吐き出していた。
「夢なら覚めないでほしい」
前世の自分が取りこぼしてしまったものが、今隣にある事実があまりに幸せで、信じられなかった。どこか夢を見ているような気さえするのだ。
生まれ変わってからずっと琉歌はどこか現実味がなかった。これは死んだ自分が妄想か夢で、いつか覚めてしまうのだとどこかで思っていた。
頬に涙が流れる感触に自分が泣いているのに気が付く。自覚すると止まらなくなる。
伊織の指が琉歌の涙を掬い、宥めるように頬を撫でる。
「夢じゃない。今は信じられなくてもいい。いつか現実なんだと知ればいいいから。ゆっくりでいいんだ。俺がずっと傍にいて、琉歌が不安になる度に現実だと教える」
伊織が顔を寄せ、琉歌の目元に唇で触れた。
その感触に再びぽろりと涙が零れた。
「愛してる。ずっと隣にいるから、泣かないで」
懇願するような愛の言葉に琉歌は何度も頷いた。
「私も伊織様を愛してます。ずっと一緒にいると誓います」
泣きながら言った言葉はまるでプロポーズのようで、もう既に結婚しているのになと少しおかしくなった。
そう思ったのは琉歌だけでないようで、伊織が何か思い出しように「あ」と言って、急に立ち上がった。
「ちょっと待っていてくれ」
そう言うと琉歌を置いて、部屋を出ていく。
何が何だかわからず、言われた通りその場にいるとすぐに伊織は戻って来た。
「ばたばたしていて、忘れていた」
元の位置に座り直した伊織は、徐に懐に手を入れて小さなものを取り出した。それは手の平サイズの箱だった。
現世のテレビドラマで何度か目にしたことがあるそれに思わず「えっ」と声を上げる。
「琉歌、もらってくれないか?」
伊織が箱を開けながら言う。
箱には、銀色の指輪がふたつ並んでいた。
「昔、町で見たのを覚えているだろうか? あそこで作ったんだ」
「覚えています」
伊織との記憶はなにひとつ忘れていない。
いつ、この指輪を作ったのだろうか。琉歌がかくりよに来てからはずっと伊織が隣にいて指輪を作りに行く時間はなかった。それに記憶が正しければ、指輪は注文してから一週間はかかると言っていたはずだ。
伊織は琉歌と再会するよりも前から指輪を作っていたのだ。
「……注文は前からしていた。琉歌が生まれ変わったと聞いたらしい店主が勝手に作って持って来たんだ」
琉歌の疑問に気が付いた伊織が補足してくれた。
人が嫌いなのに琉歌が欲しそうにしていたから注文してくれたのだ。
本当に千年前からずっと愛されていた。
「ありがとうございます。伊織様。嬉しいです」
止まった涙が溢れ出そうになり、慌てて目に力を入れて耐える。今は泣きたくない。笑っていたかった。
「手を出して」
伊織に言われ、左手を出し、薬指に指輪をつけてもらった。
琉歌もお返しに伊織の薬指に指輪をつけると本当に結婚式みたいだ。
幸福感で胸がいっぱいになり「愛している」と口にした。伊織も同じタイミングで言ったからその声は重ねり、顔を見合わせて笑う。
「おめでとう」という声が聞こえ、そちらへ視線をやるといつの間にか起きていたのか、天馬が手を叩いていた。
「ふたりともずっと幸せでいろよ」
そう言われ、琉歌と伊織は笑いながら頷いた。