一学期の最終日。
 僕の高校は珍しく、学期の最終日に期末テストがすべて返却されることになっており、そこで初めて自分の点数が分かる。自分の点が分かるということは、そこで夏休みの補講を受けるかどうかも判明するということにもなる。ちなみに、補講は欠点の生徒だけが受講することになっており、数時間の授業と課題のプリントをこなすだけのようである。ただ、補講の最後に行われるテストで点数が悪いと、追補講が行われるようであり、テストで合格点を取るまで繰り返されるようであるから驚きだ。
 こんなことを言うのは何だが、僕は勉強が嫌いではない。むしろ好きだ。そのためか、テスト期間に焦って課題をする人や、欠点をとる人の気が知れないのが本音だ。ぜひとも変人とは言わないでほしい。
「今日は終業式や大掃除、ホームルームでのテスト返却という流れになるから、各々で行動するようにしてくれ」
 春本先生が今日一日の流れを説明してくれたが、高校生にもなって大掃除の時間を設けるのは驚きだ。学校全体で大掃除をするなんて中学生までだと思っていたし、このことを同じ中学校出身の友達に言うと、まさに「中学生かよ」と大笑いされてしまった。僕が考えたわけでもないのに。
 終業式と大掃除が終わり、とうとうテスト返却の時間となった。テスト対策はきっちりしているから、テスト返却の時間というのは嫌いではない。
「まずは古典から返していくから出席番号順に並んでくれ」
 古典、現代文、コミュニケーション英語、英語表現…と、どんどんテストが返却されていく度に教室に喜怒哀楽が飛び交う。坊主の野球部員が頭を抱えて机に突っぱねているのが分かる。いつも元気な彼が落ち込んでいるのは何とも言えない感情になってしまう。
 ふと、結衣ちゃんのテストの点数が気になった。
 これまでの彼女を見ていると、彼女は記憶の全てを失くしているわけではなく、エピソードや周りの人間関係を喪失しているようにも思える。つまり、言葉の意味や数式などの暗記物に関しては忘れていないらしい。
「和田。和田」
 考え事をしていると、春本先生の声が聞こえてきた。
 しまった。テスト返却の途中だったのに、並ぶのを忘れていた。
 慌てて答案を受け取ると、これまたいい点数で頬が緩みそうになる。みんなに注目されている場面でにやけてしまうとまさに変人に思われてしまうので、頬が緩まないように我慢した。とはいえ、我慢することができずに逆に変な顔をしていたかもしれない。
 その後は通常通りテストの返却が行われ、テストはすべて返却された。苦手な数学以外は予想以上の点数で、春本先生の夏休みの注意事項が頭に入らないほどの満足感に充たされている。
 一学期最後の帰りの会が終わり、教室に歓喜の声が響く中、前席の結衣ちゃんがへたへたと机に項垂れた。
 そういえば、このテスト返却の間、最初は点数について友達と話していた彼女が、途中から自分の席で静かにしていたのが気になった。
 ちょっとテストの話題で話しかけてみよう。
「やまも…」
 僕はそこで口をつぐんだ。
 なぜなら、彼女から明らかにどんよりとしたオーラが醸し出されているからだ。いくら自分のテストの点数が良かったからといって、ここまでのオーラになぜ気が付かなかったのか自分を疑いたくなる。
 原因は十中八九テストのことであろう。あんなにはしゃいでいたのに、ここまで落ち込むなんてわかりやすい。
 ……これは話しかけない方がよさそうだな。
 自分のバックを肩にかけ、テストの満足感に浸って帰ろうとしたところ、後ろから鞄の紐を引っ張られ危うく転げそうになった。思わぬ出来事に困惑していると、結衣ちゃんが俯いたまま腕だけを伸ばして紐を引っ張っている。まさかのノールックに驚きが隠せない。
「な、なんでしょうか」
 これは警戒せざるを得ない。思わず敬語になってしまう。
「……さい」
「ごめん、聞き取れなかったのでもう一度お願いします」
 聞き返すのも躊躇ってしまう。
「……教えなさい」
「教える?」
「だから、わたしに数学を教えなさい」
「え」
 まさかの彼女の提案に驚く。
「ど、どうして急に?」
「言わせないでよ」
 人にお願いをするなら、その組んでいる腕を解いてほしいものだが、あえてここは突っ込まずにいこう。
「でも、僕だって数学は平均くらいしか取れてないから教えるには力不足かと…」
「平均くらいって聞こえたんですけどここで喧嘩でもしたいのかしら?」
「イエ、チガイマス」
 今の彼女には何を言っても火に油を注ぐようなものなのかもしれない。でも、今のは僕の注意不足も否めない。もっと言葉を選ぶべきだった。
 つまり察するに、彼女は数学で欠点をとってしまったのだろう。
 記憶を失くす前の結衣ちゃんも数学だけは苦手で受け付けなかったようだから、そのあたりは変わっていないようだ。記憶を失くす前の結衣ちゃんが腫れ物を見るような表情でそう語っていたのを思い出し、少しばかり懐かしさが込み上げる。
「んー、そうは言っても僕も人に教えられるほど数学は得意ではないからなぁ」
 夏休みに補講があるから、それに向けて対策をしたいんだろうけど、こればっかりは本当に力になれそうにもない。
 仕方ない、ここは素直に断ろう。曖昧にしてもお互いにいいことはない。
「申し訳ないけど、僕にすうが……あ、そうか」
 ここで一つ閃いたことがある。
 いるじゃないか。数学を教えてくれるのに最適な人が。
「なによ」
「美月だよ」
「あ、あなたの幼馴染っていう?」
「そうそう、あいつ理系だし成績優秀だからきっと教えてくれると思うよ」
「そうと決まればその幼馴染さんに会いに行きましょ」
「そうだね」
 僕らは美月の在籍している四組に向かった。
 確かに結衣ちゃんとは距離を縮めていくと心に決めたけど、今の彼女に近づくと危ないという僕の危機管理センサーが反応している。ここは結衣ちゃんと美月の親睦を深めるという名目にして、教師役を美月に押し付けよう。
 四組に到着したわけだが、自分のクラス以外の教室に入るのはなかなか勇気がいるものである。特に、普段は席で静かに本を読んでいる僕からすれば、他のクラスに来ることは非日常的なことであり、美月のようにズカズカと入ってこれるのが今は羨ましい。
「矢野さんいますか?」
 扉のスライド音とともに、聞き覚えのある声が聞こえた。
 視線を向けると、結衣ちゃんが四組の女子生徒に話しかけている。なんという度胸とコミュニケーション能力だろうか。僕に度胸がないだけなのかもしれないが。
『美月なら窓際の席だから……あ、いた』
 四組の女子生徒は、美月を見つけるとそこに向けて指をさした。僕らはその指をたどって美月の方に目を向けると、美月は前の席の女子生徒と楽しくおしゃべりをしていた。
 偶然美月がこちらを向き、お互いに軽く手を振った。
 美月は席を立ち、こちらに向かおうとしていたが、友達に足止めを食らっていた。こっちからは何を話しているのか分からないが、手を横に振り、何やら誤解を解いているようにも見える。
「湊どうしたの? 四組に来るなんて初めてじゃない?」
「他のクラスに入るなんて緊張したよ」
「あ、山本さんも一緒なんだ」
 美月はそう言うと、僕の横にいる結衣ちゃんと軽く会釈をした。
「四組の教室まで案内してもらったんだけど、なかなか扉を開けないものだからわたしが勇気を振り絞ったの」
「それでも陰キャの湊にしては頑張ったほうだよ」
 ここは家ではないというのに、なかなか攻めた言葉を浴びせてくるものだ。
 ただ、ここに来た目的は、結衣ちゃんの家庭教師(数学)の依頼を美月に押し付けることだ。
 押し付けるということが見透かされては今後の人間関係が危うくなるから、あくまで成績優秀の美月にお願いに来たというスタンスを崩してはならない。
「僕が来たのはさ、美月に少しお願いしたいことがあって」
 一つ咳ばらいをして空気を変える。
「お願いって?」
「山本さんに数学を教えてあげてほしいんだ」
「山本さんに数学を?どうしてまた急に?」
「まあ、色々あって……」
 結衣ちゃんに関わる話題なのに、さっきから僕と美月の間だけで話している。
 彼女をちらっと横目で見ると、魂が抜けたのかのように立ち尽くしている。どこに視線の焦点が合っているのか見当もつかない。
 なるほど、今の結衣ちゃんは使い物にならない。
 考えてみると、ほとんど初対面の人に勉強を教えてほしいとお願いすること自体が不自然なのに、受験生でもない彼女がこの時期に勉強を教えてほしいというのはそういうことだと察しが付くだろう。なかなかに彼女も気の毒なものである。
「僕は数学が苦手だからさ。ほら、美月は数学得意だろ?」
「まあ、それなりには……だけど」
「だったらさ、この通りだ! 山本さんのためにもお願いするよ!」
 僕は、自分が本気で結衣ちゃんのためにお願いをしていることが伝わるよう、胸の前で手を合わせる。いつからこちらの世界に帰ってきていたのか、結衣ちゃんも僕に倣って手を合わせている。
 美月は腕を組んで「うーん」と悩んでいる。正直、ここで美月に断られてしまうと機嫌の悪い結衣ちゃんと机を合わせることになり、気まずい雰囲気の中で勉強を教える羽目になることは自明である。
 美月……頼む!
 僕が天にお祈りをしていると、美月の組まれていた腕が解かれた。ついに判決だ。
「夏休みは部活と塾で忙しくなるからちょっと厳しいかなぁ。本当にごめんね……」
 僕の願いはあっさりと崩れた。
「いや全然、私の方こそ急にお願いしてごめんなさい……」
「ううん、頼ってくれるのは嬉しいよ。じゃあ、湊が数学を教えてくれるだろうからこき使いまくってね!」
「ええ、質問攻めにしてやるわ」
 結衣ちゃん、僕は教える立場だということを忘れていないか。
 でも、美月は2年生ながらにバレー部のエースだし、この時期から受験に向けての夏期講習にでも参加するのだろう。部活に勉強が忙しくてもおかしくはない。
 仕方がない。ここは観念して僕が結衣ちゃんの教師役を務めることにしよう。
「じゃあ、まずは勉強の日程を決めようか」
 美月と話していた結衣ちゃんに投げかける。
「そうね、よろしく」
「もし解説を読んでもわからないとかあれば、何でも連絡していいからね。私も空いた時間に検討して返信させてもらうから」
「本当に助かるよ、美月」
「じゃあ、私はこれから部のミーティングに行かなきゃいけないからこれで失礼するね。山本さんも一緒に勉強がんばろうね」
「ええ。本当にありがとう」
 美月は自分の席に戻り、机の上にあった青色の風呂敷に包まれた弁当箱をスクールバックに入れた。
「僕たちも一旦教室に戻ろうか」
「そうね、作戦会議をしましょう」
 彼女は踵を返して四組の教室を出ていった。
 美月の方を振り返ると、彼女もまた僕の方へ視線を寄こしていた。
『がんばれ』
 美月は笑顔で手を振りながら口パクでそう言った。
 美月はいつでも僕に元気を与えてくれる。
 僕は頷き、改めて彼女に感謝の気持ちを伝えた。
 四組の教室を後にする際、もう一度美月に視線を向けると、そこには先ほどまでの笑顔はなく、少し寂しそうな表情をしているようにも感じた。何か悩んでいることでもあるのだろうか。
「みつ……」
 気になって美月に話しかけようとした瞬間、またしても後ろからスクールバックの紐を引っ張られた。
「来るのが遅いから迎えに来てやったわよ」
「あ、ごめん」
「ほら、早く行くわよ」
「うん」
 美月のことが気に掛かりながらも、僕らの教室へと向かった。

 教室に戻ると、そこには幾分かの生徒が残っており、期末テストが無事に終わったという安堵感が漂っているようにも思える。そんな中、僕らは早速勉強会の場所決めに取り掛かった。
「僕が数学を教えることは観念したけど、一体どこで勉強するのさ?」
「そうねえ、図書室なんてどう? 今の時期ならあまり人もいなさそうだし」
 確かに、期末テストが終わって2週間近く経つし、明日から夏休みが始まるということで、図書室で勉強する生徒は少ないだろう。
 ただ、だからこそ問題点もある。
「ちなみに山本さんは補講がいつから始まるか知ってる?」
「え、まだ詳しくは見てないけど……」
「それなら今すぐに配布されたしおりに目を通したほうがいいよ」
「わかったわ」
 彼女はそう言いながら自分バックを探り始め、意外にも皴一つ付いていないしおりが取り出された。夏休み中の注意点などが書かれたページに目を通してページを捲る様を見守ると、彼女の黒目の彩度が薄まっていくのが分かった。
 その後、彼女が正気に戻るまでには幾ばくかの時間を要した。そして、一応の生存確認として尋ねる。
「状況は理解できた?」
「何とも信じがたい現実ね」
「それがここの名物らしいから仕方ないよ」
「名物だか伝統だか知らないけど、誰が得しているのかしら」
 それは補講を受ける人が言うとただの負け惜しみにしか聞こえないよ、とは口が裂けても言うことはできなかった。流石に僕の良心が口を噤ませた。
 僕らの通う城南高校では、一学期末テストの答案返却は終業式の日に全科目行われることになっている。これだけでも相当珍しいと思うが、さすが進学校の城南高校というべきか、驚きなのはここからだ。
 なんと、補講は夏休みの二日目から行われるのである。
 補講自体は授業と課題プリント、そして最後の確認テストらしい。
 カリキュラム的にはそこまで苦しいものではないと思うが、何より夏休みが始まって二日目から行われるということで、テスト前の知識なんか抜け落ちているという状況が横行しているようである。
 テストが終わった段階で補講が確定した生徒は、そこから補講まで復習できるため救いようがある。しかし、まさかの補講参加が決まってしまった生徒については、復習が追い付いていないから大変なのだ。
 そして、夏休み二日目から補講が始まるということは……
「いま学校の図書室で勉強していると、補講を受ける生徒だと思われちゃうよ」
「ぐぬぬ……」
「僕は別にどこでも大丈夫だよ」
「そう、とりあえず学校の図書室で勉強するのはやめるわ」
「じゃあ、どこで勉強する?」
 彼女は腕を組んで思考を葎せ始めた。
 僕は補講を受けるわけでもないし、仮に補講を受ける生徒に間違えられたとしても別に構わない。大事なのは勉強をするときの環境やメンタルだ。周りの目を気にしながら勉強したところで、身に付く知識の質は落ちるだろう。
 ここは、彼女がどこで勉強をしたいのかを最優先にするしかない。
 教室の窓から見えるグラウンドで実践練習をしている野球部の大きな声がここまで聞こえてくる。数十秒の間、目的もなくそちらに耳を傾けていると、彼女は腕を解いて意を決したように口を開いた。
「決めた、今日と明日だけ私の部屋に入ることを許可するわ」
 野球部の声しか聞いてなかったから上手く聞き取れなかったが、彼女はとんでもないことを言わなかったか?
「ごめん、ちょっと聞いてなかった」
 曖昧なまま返事をするわけにはいかない。適当に返事をして取り返しのつかない事態にならないように、自己防衛として彼女の提案をもう一度聞くことにする。
「なんて?」
「だから、私の部屋で勉強するって言ってんのよ」
 二度も言わせるなというような形相で睨まれた。
 僕の聞き間違いであってほしかったが、どうやらその願いは儚く散ってしまった。
「山本さんの部屋で勉強するの?」
「そうよ」
「ファミレスとかじゃダメなの?」
「ファミレスで長居するのはお店に迷惑でしょ」
「じゃあ、市立の図書館とかどう?」
「あなたが言ったんじゃないの。今の時期に勉強している城南高校の生徒は受験生か補講が決まった生徒だって」
「……そういうことか」
 僕の考えが浅はかだったことを恨ましく思う。
 学校の図書室で勉強することを回避すればどこでもいいだろうと考えていたがそうじゃなかった。
城南高校は県内でも有数の進学校ということもあり、この夏休みの補講は珍事として市内でも有名なのである。つまり、この時期に学校の外で勉強しているとなると、補講の生徒だって勘づかれてしまうかもしれない。
 だから、誰にも見つからない場所で勉強をする必要がある。
「わたしだって不本意なのよ」
「反論したいけど何も代替案が出なくて困ってるよ」
「何とか捻り出して欲しいところよ」
 僕の部屋を提案しようと思ったが、さすがに男子の部屋に女の子と二人っきりになるなんて不信感を抱かれるに決まっている。
「時間がないんだから早く決めなさいよ」
 僕がしどろもどろしながら決めかねていると、彼女から催促の言葉が飛んできた。
 何とか拒否したいところではあるが、彼女の方から自分の部屋を提案してきたことを踏まえて、彼女の家に足を入れることを決意した。

 ここに来るのは、結衣ちゃんとの面会が終わった後、彼女の母である真理子さんと今後の関わり方について宣言されて以来二回目だ。
 結衣ちゃんの部屋で勉強をすることが決まり、僕らは家の正門の前に立っていた。真理子さんとのことがあるからあまり来たくなかったが、結衣ちゃんの留年の危機と比べると仕方ないと自分を言い聞かせる。
 ただ、結衣ちゃんが真理子さんへ事前に僕が行くことを連絡しておいてくれたようで、少しばかり緊張が和らいでいた。絶対に来てはいけないのならば、結衣ちゃんの方へ連絡が届くだろうから、少なからず僕が来ることを真理子さんは了承してくれたのだろう。
 結衣ちゃんが軽い足取りで玄関の扉を開けて「ただいま」と言うと、奥の方から足音が近づいてきて、黄色いワンピース姿の真理子さんが現れた。
 お決まりのワンピース姿に心拍数が上昇する。
「おかえりなさい‼」
 僕の心の緊張とは裏腹に、真理子さんは明るい声で言った。
「あなたが和田くん……かしら? 初めまして、結衣の母の真理子です」
「初めまして、結衣さんと同じクラスの和田湊と申します。突然来てしまいまして申し訳ございません」
 僕と真理子さんはお互いに自己紹介をしてお辞儀をした。
 本当は病院の帰り道にリビングでシリアスな話をした関係性なのだが、結衣ちゃんの記憶を思い出させることはしない約束があるからお互いに初対面を演じる。
「今から私の部屋で勉強を教えてもらうから、お母さんは邪魔しないでね」
「あなたが男の子を連れてくるなんて滅多にないんだから二人っきりを楽しみなさいね」
「お母さん……何を勘違いしてるのよ」
「あらあら、どうなのかしらね」
 真理子さんは悪戯な笑みを浮かべながら、リビングの方へ駆けて行った。
 想像していたよりもフラットな関係が築けているようで、少しばかり安心感を覚える。結衣ちゃんと真理子さんの関係が悪かったら、僕はその重たい雰囲気に押し潰されていただろう。
「陽気でエネルギッシュなお母さんだね」
「まあ、今はあなたのせいで少し面倒くさいことになったけれど…」
「どう考えても僕のせいではないと思うんだけど」
「誤解を解くのが大変だわ……」
 彼女は頭を押さえて一つため息を吐いた。彼女は力なく靴を脱ぎ、僕は彼女の後を付けて部屋に入った。
 結衣ちゃんの部屋には必要最低限の家具が揃っていた。
 だが、彼女の部屋にはそれ以上のものがなく、写真立てなどの類も一切ない。
 彼女の部屋を見るのは初めてだが、今どきの女子高生の部屋に写真立ての一つもないというのは不自然だ。スマホで写真が撮れるからそういったものは置かないというのが普通なのを僕が知らないだけなのか。
 どうにしても、結衣ちゃんとの関係を一から築き直していくと宣言していた真理子さんの本気度が見て取れる。
 しかし、それらの類がないのに対して、本棚には参考書の他に多くの小説が並べられていた。僕が持っている小説よりも多いのではないか……本棚いっぱいに小説が並べられており、背表紙を見るに同じ出版社のものだろう。本棚がいっぱいに詰まっていることが何とも言えない部屋の淋しさに拍車をかけている。
「もう夕方だから、今日は軽くやるわよ。本番は明日だから」
 部屋の真ん中に置かれた円形の白机に数学のノートや教科書を出しながら、彼女は流すように言った。
「了解、まずは勉強の方向性から決めていこうか」
 僕は彼女と対面になるように腰を落とす。
「まずは今回のテスト用紙を見せて」
 そう言うと、彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。
 補講のためにテスト範囲全般を復習するんだから、どのくらいの理解度があるのかを把握することは教師としての役目だ。
「テストの点数を見せる必要はないでしょ」
「勉強ができるのは一日しかないんだから、できていないところを洗い出して重点的にやらないと補講までに間に合わないよ」
 もっともらしいことを言うと、彼女は口をもごもごさせながら答案用紙を僕の方へ差し出した。なんとか点数を知られないで乗り切ろうとしたのだろうけど、勉強ごとになると僕はそこまで甘くないぞ。
 まず、数学Ⅱの答案用紙に目を向けると、それはお世辞にもいいものではなかった。
 数学Ⅱの主な試験範囲は三角関数であり、苦手意識を持ってしまうのも無理はないが、これは基礎すら危うい。
 見通しが立たず絶望している中、数学Ⅱの答案を捲って数学Bの答案に目を向けると、そこには思ったよりもいい点数が書かれていた。欠点なのには間違いないが。
 今回の数学Bの試験範囲はベクトルであり、僕としては三角関数よりも苦手意識を持つ人が多いと感じていたことから、意外な結果に驚く。
「山本さんはベクトル苦手ではないの?」
 シンプルに気になったので聞いてみた。
「ベクトルは嫌いではないわね。問題が解けないだけで……」
 点数を見られた恥ずかしさから目を他所へ向けていた彼女は、こちらに目を向けてそう答えた。
「ベクトルって図を書くから視覚的で、何となくとっつきやすいから……」
「ふむふむ」
「三角関数は敵よ」
「……ふむふむ」
 鋭利な言葉が飛んできたが、考える振りをして相槌を打つに留めた。
 あと一日でどうにかできるのか不安に思うところはあるが、図形に苦手意識を覚えていない以上は、三角関数もなんとかなりそうである。三角関数もグラフを書いて図示化すればイメージが湧いてくるからである。
 ベクトルも苦手意識自体はないみたいだし、まずはそれぞれの基礎を教科書の例題から復習していくことが大事だろう。問題が解けるようになるのはその後からでも十分間にあう。
「今日は三角関数に重点を置いて復習していこうか」
「よろしく頼むわ」
 そう言っている彼女は上の空だ。現実逃避でもしているのだろう。
 彼女の方にあった数学Ⅱの教科書から該当ページを開いて、彼女の目の前に差し出した。現実逃避なんかさせないぞ。
「まずはこの角度をπで表してみようか」
「πってなに?」
「……え?」
 幸先が不安だ。
 
 勉強を始めて一時間くらいは経過しただろうか。
 すっかり結衣ちゃんも現実に向き合うようになり、今は三角関数の例題を必死に説いているところだ。
 彼女が解いている間は、僕自身の教える箇所の復習と例題の選別を行っている。昼間の時には教えるのが嫌だったが、今となっては彼女も真面目に取り組むようになっているし、意外とこの役目を楽しんでいる自分がいる。
 そして何より、頑張る彼女の役に立てているのがいちばん嬉しい。
 ソフトボールで距離が縮まったと思えば、それ以降はなかなか関わる機会がなかった時期もあった。そんなときに美月に自分が変わるしかないってことに気が付かされて頑張るって決めたけど、なかなか行動に移すことができなかった。そんな中で、今回、結衣ちゃんは藁にも縋る思いで僕に勉強を教えてほしいと言ってきのだろう。当初は断っていたけど、いま思えば、彼女と関わる絶好の機会だと気付き、全力で彼女のために頑張ろうという気になれた。
 補講のための勉強会という予期せぬ出来事だったが、少しでも彼女のためになるのであれば、どんなことでも全力でやる。今は無事に補講を乗り切れるように全力でサポートをする。自分の株上げのためではなく、彼女のためだ。
「できたわ、丸つけをお願いできるかしら」
「了解、少し休憩してなよ」
 僕がそう言うよりも前に、彼女は背伸びをして机に突っぱねた。
 今解いた例題は全部で五問だったが、どれも正解していた。その前の例題でも、彼女は全問正解しており、おそらく苦手意識から勉強をしていなかっただけできちんと取り組んでいれば理解できるのだろう。
「全問正解だったよ」
「当然よ、わたしが間違えるわけがないもの」
 期末テストの答案を目の前に突き出してやりたい衝動に駆られたが、それはしないでおこう。正直、いま解いているのは三角関数の基本の例題だから正解してもらわないと困るのである。その点、無事に理解できているようで一安心だ。
「三角関数の基本は理解できたみたいだね」
「テスト前に比べたら苦手意識はなくなったわね、テスト前は苦手意識もあって一つも勉強してなかったから」
「全然勉強してなかったの?」
「ええ」
 苦手な上に勉強をしていないんじゃ欠点を取ってなんら驚くところはない。むしろ当然の結果だし、欠点を取ってショックを受けていたことに驚く。
 でも、基本は理解できているみたいだし、これなら明日も含めてベクトルまでの復習は終わりそうだ。
「一時間くらい経ったし少しだけ休憩しようか」
「そうね、息抜きも大事ね」
 彼女はそう言って、部屋から出ていった。
 僕は一つ大きく背伸びをし、思わずうっ……と声が出てしまって想像以上に疲れていたのだと実感する。
 改めて部屋を見渡してみると、小説でいっぱいの本棚の中に『好きだ。』が並んでいるのが目に入った。
 これは記憶を失くす前の結衣ちゃんがいちばん好きだと言っていた小説だ。おとなしい彼女が熱弁をしていたことで興味を持ち、普段はミステリー小説しか読まない僕でもつい購入してしまったのだ。
 確かストーリーとしては、男子高校生と付き合っていた彼女が、記憶を失くした彼をもう一度惚れさせるという設定だったと記憶している。小説だから設定がおもしろいという感想を持てるが、現実世界で当事者になってしまうとこんなにも大変なのかと感じてしまう。設定だけでいうと、本当に『好きだ。』と全く同じだ。
 すると、扉の方からギギッと音がして振り返ると、少しだけ開いた扉の隙間から結衣ちゃんが覗き込んでいた。一体、何を企んでいるのだろうか。
「山本さん急にどうしたの?」
 さすがに触れないわけにはいかなかった。
「……お母さんがあなたとお話がしてみたいって」
「えっ」
 完全に虚を突かれた。
 僕が次の言葉を探していると、しびれを切らした彼女が口を開いた。
「わたしはちゃんと弁解したから、あんたもちゃんと誤解を解いてよね」
 彼女は真理子さんが興味本位で僕とお話がしたいと考えているのだろうけど、おそらくその予想は的を射ていない。真理子さんが僕に話があるとすれば、思い当たるのは一つしかない。
「わかったよ、僕の方からもちゃんと話しておくからさ」
「ありがと」
「とりあえず一階に行けばいい?」
「うん」
「それじゃあ、すぐに戻ってくるからそこのページをやっててよ」
「はーい」
 彼女は気怠そうに返事をすると、僕と入れ違う形で部屋に入っていった。
 いつかは真理子さんに呼び出されるだろうと予想はしていたから驚くほどでもないが、いざ呼び出されると鼓動が速くなるのを感じる。部屋の扉を閉めて、彼女に聞こえない程度に一つ息を吐く。
 リビングと廊下を繋ぐ扉を二回ノックすると、中の方から返事が聞こえた。開いた扉のからは真理子さんが姿を現し、その表情は先ほどとは打って変わって真剣そのものだ。やはり弁解をする必要はないみたいだ。
 前回と同様、真理子さんとはテーブルで対面する形で座った。
 真理子さんとの間には重苦しい空気が漂っており、掛時計の秒針の音がやけに大きく響いている。神経が研ぎ澄まされているのか、カップに注がれたホットコーヒーの匂いが自分の思考を鈍らせる。
「いきなり家に来るなんてどういうつもりかしら」
 無言で俯いていると、真理子さんから冷たい言葉が聞こえた。
「僕は結衣さんに頼まれて勉強を教えに来ただけです」
「本当にそれだけ?」
「そうです、それ以上のことありません」
「そう」
 僕は自分の思っていることをそのまま返した。
 変に駆け引きをするよりかは、真理子さんから聞かれたことに対して正直に話すことが一番の得策だろう。
 ここで勘違いをしてはいけないのが、真理子さんは僕の恋路を邪魔する敵ではないということだ。娘が記憶を失くしたことの親としてのショックは想像もできないが、そんな娘と一から関係性を作りたいと考える真理子さんの気持ちは理解することができる。その気持ちを汲むと、僕のような存在は危険なのだろう。
 そして、真理子さんと約束したのは、結衣ちゃんに記憶を呼び起こさせるようなことをしないということだ。僕は結衣ちゃんの記憶を思い出させるような言動はしていないと断言できる。僕が心の中で絶対的に破ってはならないルールとして決めたことだからだ。
少し言葉を交わした後、また静寂が包む。
 クーラーで冷やされた空気が鎖骨に流れた汗を冷やし、少し身震いをした。
「あのあと結衣さんとはどうですか」
 沈黙に耐え切れず、僕は真理子さんに問うた。
「そうね、前のような他人行儀な感じはなくなったわね」
「そうですか、それは良かったです」
「あなたもわたしの頼みを聞いてくれてありがとね。お礼を言うわ」
「いえ……結衣さんのためですので」
 冷たく接してきたり、お礼を言われたりとこちらも大変だ。
「最近ね、結衣が笑うようになったの」
 会話が途切れたところで、途方もなく掛時計に目を向けていると、真理子さんがコーヒーを一口啜り、呟くようにそう言った。
 結衣ちゃんが笑うようになった?
 どうして急にそんなことを言うのか。
 この言葉の真理子さんの真意が見えない。
「笑うようになったというのはどういうことでしょうか」
 自分の意思よりも先に口走る。
「七月に入ってすぐだったかしら。体育でソフトボールをしたんだけど、それがものすごく楽しかったみたいでね。あんなに楽しそうに話してくれたのはあの一件以来初めてで私もすごい嬉しかったのを覚えているわ」
 ソフトボール……結衣ちゃんとキャッチボールをした日のことだ。
 僕だけじゃなくて、結衣ちゃんも楽しかったんだ。
 体育の日以降、彼女と接する機会は指で数えられるほどしかなく、二人の距離が縮まったというのは僕の勘違いや、思い上がりだという節があった。
 しかし、楽しかったということを真理子さんに話していたことで、少しは体が軽くなったような気がする。
「確かに、結衣さんは楽しそうでした」
「何やら、友達がボールの投げ方を教えてくれたんだって。それで上手に投げることができて嬉しかったって話してくれたわ」
 ……友達。
 普段は僕にツンとした態度で接していて、友達とは程遠い、クラスメイト以上友達未満の存在と思っていた。だけど、結衣ちゃんは真理子さんに対しては僕のことを友達と表現して話していたのか。
「そうなんですか……それは結衣さんにセンスがあったからだと思いますよ」
 思わず涙ぐんでしまい、ズボンの生地を強く握ることで涙が溢れるのを堪える。
「さすがわたしの娘ね」
 真理子さんは鼻を高くしてはにかんでいる。こんな優しい表情の真理子さんは初めて見た。
「結衣は昔からおとなしい子どもでね、家で絵本を読んでいることが多かったのよ」
「結衣さんは小説が好きだと教えてくれました」
 あのときの結衣ちゃんは人が変わったように熱弁してくれていたな。
「多分、小説が好きになったのは私の影響だと思うわ」
「そうなんですか?」
「ええ、小学生の高学年になったくらいの頃かしら、絵本ばかり読んでいた結衣に一冊の小説を薦めてみたの。そしたら齧るように読んでて思わず笑ってしまったわ。それ以降は同じ出版社の本が気に入ったみたい」
 幼少期の彼女の様子を聞くのは新鮮な気持ちだ。
 僕も結衣ちゃんと同じ境遇で、親からミステリー小説をおすすめされたことがきっかけで小説を好んで読むようになった。美月がアウトドアのため、休日はよく外に駆り出されていて、家族からはアウトドア派だと勘違いされているのはここだけの話だ。
「その小説の設定は記憶喪失だったわね」
 人差し指を揺らしながら、真理子さんは思い出したように言った。
 設定が記憶喪失の小説なら僕にも心当たりがある。
「もしかして『好きだ。』ですか?」
「そうそう。よく知ってるわね」
「記憶を失くす前に結衣さんが僕に教えてくれたんです。いちばん好きな小説だって」
「……結衣がそんなことを言っていたのね」
 これまでとは打って変わって、真理子さんは迷いを含んだ口調で呟いた。
 僕は真理子さんの表情の変化に困惑する。そして、真理子さんは僕を呼び出していったい何を伝えたいのだろうか。真理子さんの真意が見えない。
「結衣はね、小説家になるのが夢だって言っていたわ」
「えっ」
 小説家になるのが夢だったなんて初耳だ。僕も小説を読むのは好きだが、書きたいと思ったことは一度もないから余計に驚きだ。
「わたしはその結衣の言葉が忘れられなくて…部屋に小説を残したの」
 真理子さんは必死に言葉を紡いだようで、その後、俯いてしまった。
 もしかしたら、真理子さんも結衣ちゃんの記憶が戻ることを心のどこかで期待しているのではないだろうか。この間の真理子さんからは確固たる決意を感じていたが、今日こうして話してみると、迷いを感じられることが多々ある。
 すると、真理子さんは嗚咽を漏らしながら目頭にハンカチを当てた。
 彼女は心のどこかで娘の記憶が蘇ることに期待をしながらも、それはいつになるのかも分からない不安感や、その期待を裏切り記憶は戻らないのかもしれないという絶望感を日々背負っているのだ。
 真理子さんは一から関係性を築いていくと言っていたが、それを言葉にするのにどれだけの覚悟が必要だったことか。
 もしかすると、僕は無意識のうちに真理子さんを憎んでいたのかもしれない。結衣ちゃんと付き合い始めたのは事実で、彼氏としては記憶を取り戻してほしいに決まっている。そんな状況で記憶を思い出させるような行動は控えてほしいと言われた。
 ただ、今は真理子さんの力になりたい。
 それが、結衣ちゃんの幸せに繋がると信じているからだ。
「真理子さん」
 一拍置いて、続ける。
「真理子さんは結衣さんに記憶が戻ってほしいですか?」
 これは賭けだ。
 真理子さんの返答次第では、僕は結衣ちゃんから身を引くことも考えている。
 僕が真理子さんに問うて数秒経った頃、彼女は目頭に溜まった涙を全部拭うと、一つ息を吐いて意を決したように言った。
「わたしは結衣の記録が戻ってほしい……」
 僕の目を直視して言った彼女の言葉には真っ直ぐで太い芯が感じられた。
 これが彼女の本心なのだと確信する。
「わかりました」
 僕と彼女の周りに漂っていた澱んだ空気が澄んでいくのを感じる。
「和田くん、ありがとう。わたしも迷いが晴れたわ」
 今の彼女の眼には力がある。もう安心だ。
「ただ、直接記憶を呼び起こす言動を慎むことは今後も続けてちょうだいね」
 僕は彼女の言葉に頷く。
 結衣ちゃんに記憶を取り戻してほしいなんて僕らのエゴでしかないのである。
 記憶を失くしたことで結衣ちゃんを悩ませるなんて彼女のためにならない。
「結衣さんの記憶を呼び覚ます言動はできませんが、僕は普段通り結衣さんに接していこうと思います」
「ええ、よろしくね」
 真理子さんは腰を伸ばしながらそう言った。
 僕はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、真理子さんと笑い合った。

 その翌日に結衣ちゃんと一日みっちり 勉強をしてから約一週間が経った。
 お昼時の太陽の日差しが部屋に差し込む。
 僕は補講組でも受験生でもないし部活にも入っていないから、連日家でゴロゴロする毎日だ。
 今日も朝からこのお昼時までベッドから一度も起きることなく、ネットサーフィンと読書を繰り返している有様だ。体たらくが過ぎることは自分がいちばん理解している。
 連日夜更かしをするせいでお昼まで寝ているのが最近なのだが、今日はあまり寝つきが良くなく、二度寝をすることができずに珍しく朝方に目が覚めてしまった。
 というのも、今日は結衣ちゃんの補講の確認テストの日なのだ。このテストで合格点が取れれば、晴れて補講は終了ということになる。勉強を教えていたときの実力を発揮することができれば合格は容易いだろう。
 結局のところ、三角関数はすぐに理解することができ、期末テストの問題を再度解いてもらったところ、平均点程度の点数を取ることができた。そして、三角関数に限らず、ベクトルもすぐに理解をし、こちらに関しては僕よりも良い点数を取ってしまったのは驚きである。僕よりも点数が高いと分かったときの彼女のドヤ顔が憎たらしくもあったが、それ以上に彼女の役に立てたことの喜びの方が大きかった。
 もうすぐ補講が終わる時間のため、枕元に置いているスマホの画面を何度も確認してしまう。結衣ちゃんは記憶を失ってからスマホを一新していたため、ラインのアカウントも新規になっていた。記憶が亡くなる前の彼女のアカウントは持っていたが、新しいアカウントは持っていなかったので、勉強会二日目の帰り際に交換したのだ。
 ただ連絡を待っていても仕方ないと思い、お昼ご飯でも食べようと上半身を起こしたとき、ライン特有のポキポキッという通知音が部屋に響いた。
 僕は疲れた目を擦りながらスマホの画面に目を向ける。
『合格‼』
 彼女からのメッセージはとてもシンプルで、たったの三文字だけだった。
 たった三文字だったが、僕にはこの上ないほどの嬉しい報告だ。
『おめでとう‼ よくがんばりました』
 僕は彼女の頑張りを労うメッセージを返した。
 やはり、どこか緊張していたのか天井を見上げて一つ安堵の息を吐く。とりあえず無事に終わってよかった。
『わたしを誰だと思っているのよ』
 あの母にしてこの子どもありといったところか。いま思えば、真理子さんも鼻を高くしていた場面があって、同じように自己を持ち上げていた。親の遺伝子は子に遺伝するということを目の当たりにしたところで、今度こそお昼ご飯を食べるためにベットから起き上がる。
 そのとき、続けてポキポキ音が鳴った。
 階段を下りながら画面を確認すると、彼女からこんなメッセージが届いていた。
『お礼としてわたしと遊園地に行きなさい』

 補講の合格が決まってから、さらに一週間が経過した。
 城南高校では夏休みにもかかわらず、受験生でもないのに課外という名の授業が存在する。ただ、この課外はお昼までであるため、僕としては生活習慣を整えるという意味では別に嫌いではない。お昼には帰れるのだから。
 ただ、さすがの進学校でも、休日まで課外をすることはない。
 そんな彼女に遊園地に誘われたのは土曜日の昼下がりの時間帯、とはいっても真夏だから太陽が元気で、日陰にいても全身から汗が噴き出してくる。
 僕はいま、待ち合わせ場所である結衣ちゃんの家の最寄りの電車の無人駅にいる。
 僕の家は、学校と、学校の最寄り駅の中間に位置しており、家からはどちらに行くにも徒歩圏内でかなりの好立地だ。そして、結衣ちゃんは電車通学だから、僕の家のあたりを通り過ぎて駅に向かう形になる。
 彼女の家は、そこから一駅だけ進んだ駅の近くにある。僕の家からは車で十分程度だろう。
 急に彼女から遊園地に行くという連絡を受けて、少し怖さも感じて身構えたが、ここは素直に彼女からのお礼なのだろうと勝手に解釈して、快くお誘いを受けた。お礼なのに命令形なのが気になったのだが。
 遊園地へは、さらにここから三駅先の駅で下車して歩いていくことになる。本来は乗車する電車の時間を合わせて、電車の中で合流する予定だったのだが、それだと何だか雰囲気が薄れる気がして、今は彼女に事前の連絡もなく駅で待ち伏せしている状況だ。もしかしたら怒られるかもしれないが。
 今日は柄にもなく少しお洒落をしてみた。
 行き先が遊園地ということで、動きにくい恰好は避け、髪も普段はつけないワックスを付けて固めようと思ったが、ジェットコースターに乗るかもしれないことを考慮してノーセットで来た。今日ほど直毛でよかったと思った日はない。
 赤色の塗装が所々錆びている自販機で、小さめサイズの冷たいお茶を購入する。アルミ缶には結露ですぐに水滴が付き、持っている手を濡らす。プルタブを引いて、冷たいお茶を一気に喉に通す。お昼を過ぎて空腹を感じている胃に染みていく感覚が癖になる。
 僕は残ったお茶を一気に飲み干し、空き缶をごみ箱に捨てた。
 電車の時間から逆算すると、そろそろ結衣ちゃんが来てもいい頃だ。スライド式の駅の出入り口から、ガラス越しに外を確認するも未だ彼女の姿はなく、コンクリートの上に陽炎が揺れているばかりである。
 仕方なく、構内のベンチに腰を下ろしてスマホを確認する。ラインには新着メッセージは届いておらず、すぐに画面を切る。よくよく考えてみると、今の彼女は時間ギリギリを攻めてくるタイプのように思えてきた。
 彼女が時間ギリギリに来ても大丈夫なように、代わりに彼女分の切符を購入しておくことにしよう。これで切符を買う時間を節約することができる。
 切符購入機に向かおうとすると、窓から女の人が小走りで来るのが見えた。もしかして結衣ちゃんかな……。腕時計に視線を落とすと、発車の五分前だ。僕が早すぎただけで、彼女は最適な時間だ。これが普段から電車を利用するかどうかの歴の違いかと痛感する。
 例の女性が出入り口のスライドドアを勢いよく開いて、駅の構内へ入ってきた。僕の予想は当たっており、案の定結衣ちゃんだった。
 彼女はベンチに座っている僕に気が付いていないようで、急いで切符を購入して改札を通って一目散にプラットホームへ駆けて行った。あまりの滑らかさに関心すら覚えてしまう。
 近くの踏切が鳴り始め、電車が近づいていることを知らせてくれる。僕もベンチから腰を上げ、薄い茶色に変色した時刻表で乗り場を確認して無人の改札を通る。
 ありがたいことに、遊園地の方面へは向かいのホームに行く必要はない。構内とは違いクーラーが効いていないため、湿度を含んだ空気が肌に張り付く。
 辺りを見渡し彼女を探すと、そこには手鏡で前髪を整えている彼女の姿があった。前髪を整えた後は、何やら口を大きく動かしている……? 顔の体操でもしているのだろうか。
 普段は見れない彼女の一面が新鮮で、彼女が僕の存在に気が付くまではこのまま観察を続けることにした。
今日の彼女は白のノースリーブをまとい、ショートパンツに黒のサンダルといった非常にシンプルなコーディネートだった。スラッとした細身で肌白い彼女にはお似合いのコーデで、ホームに吹き込む微量の風が彼女の艶やかな髪をなびかせ、立ち姿に華やかさを添えている。
 彼女が不意にこちらに視線を移し、ばっちりと目が合ってしまった。彼女は事態が処理できていないようで、気の抜けた表情で首をかしげている。彼女は一度目線を他所へ移し、事態が把握できたのか、口を大きく開け、再度こちらへ視線を寄こした。
 気付かれた以上、距離を置いておく必要がなくなった僕は、彼女の元へと歩を進める。近づいている間も、彼女の口が塞がることはなく、横に来ても開いたままだ。
「口、閉じたら?」
 口が開いていて、少しばかり間抜けな印象を受ける彼女も可愛いが、周囲的には口が開いているのはいかがなものかと思い、一応の提案をする。
 口以外の部位を動かすことなく彼女は言った。
「……なんでいるのよ」
 うむ、ごもっともな質問だ。
 事前に相談もしていないし、連絡もしていないのだから驚くのも無理はない。
「どこから見てたの?」
「駅の前を走ってきたところから……かな」
「めちゃくちゃ最初じゃない」
 彼女はため息を吐きながら、手鏡を革製のハンドバックにしまう。
 そこでようやく気が付いたのか、手鏡を直す手を止め、彼女はハッとしてこちらを見る。
「……てことは」
「ん?」
「いや、何でもないわ」
 彼女が僕に聞きたいことはある程度予想はついている。彼女からすれば、このままスルーしてもらった方が都合がいいのだろう。でも、そうはいかない。
「変顔をしているところは見たけど、それ以外に何かあるの?」
 尻に全力の蹴りをお見舞いされたところで、遠くの方に電車が見えた。

 遊園地のゲート前に着くころには、嬉しいことに雲がまだらに現れ、肌が焼けそうなほど強烈だった日光を遮ってくれていた。
 この遊園地は地元では有名で、アトラクションやフードコートも豊富で比較的大きな遊園地にもかかわらず、休日でもそこまで混雑しない。そういった事情もあって、ここは学生のデートにはうってつけな訳で、おそらく今日も何かしらの学生カップルをお見受けするだろう。僕らはデートではないのだが。
 それに、遊園地に来るのはいつぶりだろうか……。小学生のときに僕の家族と美月とで来て以来かもしれない。心なしかこの遊園地に来ることを楽しみにしていた自分がいる。
 でも、内心で心が高ぶっている僕とは正反対に、あからさまにテンションが高いのは僕の横にいる人。
「ね~‼ 遊園地なんて初めて‼ お化け屋敷いきたい‼」
 文化祭のときもそうだったが、僕はお化け屋敷が得意ではない。だから、今の彼女の要望は聞いていなかったことにする。
 電車では一言も喋らずにおとなしかったのに、降車した瞬間に別人かと疑いたくなるほどに口数が増えた。駅からここまで来るのに、ずっとこの調子である。正直、ギラギラで容赦ない太陽よりもウンザリしてしまう。
 ただ、ここまで屈託のない笑顔で楽しそうにはしゃいでいる彼女を見るのは初めてで、気持ちが朗らかに緩む。勉強のお礼とはいっても、こうして二人でお出かけをできるまでの関係にまでなれたことは素直に喜ぶことにしよう。
「早く入らないともったいないよ‼」
 腕を掴まれて、彼女に導かれるように遊園地のゲートをくぐる。
 年月が経って自分が大きくなったせいか、記憶の中にある遊園地の映像よりは幾分か小さく感じられた。記憶では、首を直角に近い角度まで曲げてアトラクションを見上げていたのに対し、今では少し見上げるだけで済んでいる。
 しかし、この幼少期の思い出が混じった懐かしい空気は気持ちがいい。
「あのジェットコースター勾配すごくない⁉」
 思い出に耽っていたところ、アトラクション音にも負けない大きな声が鼓膜を震わせる。
 彼女が言っているジェットコースターは、この遊園地の代名詞と言ってもいいだろう。その高さは四十五メートルにもなる。有名な富士急ハイランドやよみうりランドとは少々見劣りするかもしれないが、地元民はこれを誇りに思っている。ここの遊園地は臨海部に造られたということもあり、眺めが映えるということで一時期はインスタグラムでも話題になっていたようである。
「遊園地に来たらジェットコースターに乗らないと始まらないでしょ‼」
 彼女は言い切るよりも先に列の最後尾に歩を進める。
 僕はお化け屋敷も苦手だが、実は絶叫系も苦手なのだ。だから、何とかジェットコースター以外で遊園地を始められるアトラクションがないか模索する。
「コーヒーカップなんてどう?」
「嫌よ」
 とりあえず目についたアトラクションを提案してみたのだが、バッサリと切り捨てられてしまった。でも確かに、高校生にもなってコーヒーカップに揺られている自分を想像すると鳥肌が立った。
そして、僕らはジェットコースターの待ち列の最後尾に位置し、いよいよ覚悟を決めないといけないときが来た。もう後戻りはできない。
「ジェットコースター初めてだから楽しみ‼」
「小さい……」
 僕は咄嗟に口を手で押さえる。
「え?なに?」
「いや、何でもないよ。ジェットコースター楽しみだね」
「うん‼」
 彼女は元気よく頷くと、乗ることを待ちきれないのか、前に並んでいる人の数を指さしで数え始めた。
 危うく彼女に小さい頃の話をしてしまうところだった。僕自身の幼少期の話をするならまだしも、彼女の過去を掘り起こさせるような言動は慎むように真理子さんと約束を交わしている。オープンな彼女に踊らされて油断していた。
 列に並んで約二十分。ようやく僕らの順番が回ってきた。
 どうせ乗るなら早く終わってほしい……。僕のそんな願いも空しく、二周したのではないかと疑いたくなるような長い時間を過ごした気がする。
 ジェットコースター横のベンチに座り項垂れていると、右肩をツンツンされた。
「もしかしてジェットコースター苦手だったのかしら?」
「……」
 今の僕とは対照的に、彼女は悪戯な笑みを浮かべて面白がっているようで、反論したいがそんな元気が湧いてこない。お礼として遊園地に誘ってもらったと自負していたが、撤回させてもらおう。
 雲が出てきて多少は涼しくなったとはいえ、まだまだ気温も高かったこともあり、ジェットコースターの後はゴーカートや観覧車、射的にゲームセンターで遊園地を満喫した。
「あなた将来は自動車の運転はしない方がいいわよ」
「あいにく運転はする予定なんだ」
「わたしちゃんと忠告したからね?」
 ゴーカートでの僕の運転がそんなに下手だったのか、目的もなく園内をぶらぶらしていると、彼女から真剣な面持ちで忠告された。しかし、ちょくちょくぶつかっていたのは、彼女が陣地のラインから出ていたせいで、決して僕の過失があるわけではない。彼女が将来事故を起こさないことを切に願うばかりである。
 途方もなく歩いていると、ジェットコースター以上に関わってはいけないアトラクションが見えてきた。
「さっきのゲームセンターにあったお土産屋さんに行こうよ」
 僕はそのアトラクションに気が付いていない振りをして、彼女にそう提案をしてそっと踵を返す。
 しかし、彼女は提案に返答することもなく、ズカズカと直進している。
 僕は目的もなくただ歩いていたのだが、彼女は違ったのか……?
サンダルで歩いているとは思えないほど、この短時間で僕と彼女との間に距離が生まれており、この距離を埋めるために少し小走りして背中を追いかける。
「ねぇってば」
 彼女に追いつき、打つ手もなく制止を促す。
 しかし、彼女は目の前のアトラクションしか見えていないようで、残念なことに彼女の黒目に僕は映っていないようである。とびっきりの笑顔で一心不乱に歩いている姿に少し恐怖を覚える。
 遊園地に入る前の彼女の言葉が頭で反芻された。
 確かに行きたいって言ってたもんな……。
 彼女が一心に向かっているアトラクションは、そう、お化け屋敷だ。
 お化け屋敷の入り口に着くと、そこにはジェットコースターを超える行列ができていた。一気に人を裁くことができるジェットコースターとは違い、一組ずつしか裁くことしかできないお化け屋敷は、非常に回転率が悪い。それにこの列の長さだ。もう太陽もオレンジを帯びてきたし、今回は彼女も諦めるに違いない。
 お化け屋敷の外観を傍観しながら自分の都合のいい解釈を展開していると、彼女に思いっ切り腕を引っ張られて、思わず転げそうになった。
「ちょっと、この列じゃ帰りが遅くなっちゃうよ」
 自分の都合もあるが、年頃の女の子を夜まで付き合わせるわけにはいかない。
「いいのよ、今日はこれに入るために来たようなもんなんだから」
「え?」
 思いもよらない彼女の言葉に、間抜けな返事をしてしまう。
「お化け屋敷は初めてなんだけど、パンフレットで見たときにワクワクしたの」
 どこか懐かしい感じがした。
 高校の文化祭で結衣ちゃんと出し物を回ったとき、今回と同じように彼女の提案でお化け屋敷に一緒に入ったことを思い出す。今の彼女を、以前の結衣ちゃんの面影と重ね合わせてしまう。
 記憶は失くしたにしても、やはり結衣ちゃんは結衣ちゃんだ。
「ねぇ、聞いてるの?」
 彼女に肩を叩かれて正気に戻る。
 今の彼女を以前の姿と重ねるなんて、僕はなんて失礼なことしているんだ。
 今の彼女に向き合わないと……。
「ごめんごめん、ちょっと考え事してた」
 嘘ではない。
「わたしの話よりも大事な考え事だったんだ」
「うん、美月に何のお土産を買おうかなって」
「わたしも矢野さんにお土産買わないといけない‼ 数学の分からないところをラインでたくさん質問しちゃったのに、丁寧に返信してくれて感謝しかないわ」
 そりゃ理解が早いわけだ。
 勉強はできるけど上手く教えることができない感覚タイプの人間は一定数いるが、美月はその部類に属さない。論理的に理解をし、それをそのまま還元する形で教えてくれるから、こちらとしても理解がしやすい。正直、今の数学の先生よりも美月に教えてもらった方が分かりやすいくらいだ。
「このお化け屋敷が終わったらお土産屋さんに行こうか」
「うん‼ 行きたい‼」
 彼女は屈託のない笑顔で、弾んだ口調で言った。
 とりあえずは、目の前の敵(お化け屋敷)に立ち向かうことにしよう。

 お化け屋敷を出た僕らは、お化け屋敷を出た先にポツンと置かれたベンチに座って呼吸を整えていた。
 こういう状態になるのは本日二度目といったところか……。
 これくらい全然へっちゃらといった様子の彼女は、愉快にも鼻歌を歌いながらスマホの画面を操作している。彼女とは対照的に、僕は無事項垂れている。
 本当のことを言うと、外装的には文化祭の出し物の方が幾分か怖い印象を受けたため、ここのお化け屋敷はそこまで怖くないのではないかと高を括っていた。
 しかし、この有様だ…。
 このお化け屋敷に子どもが入ることが想像できない。
「どう? 少しは良くなった?」
 スマホの画面を直視しながら彼女は言った。
「そうだね、だいぶ良くなったよ。お茶も買ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして。良くなったようで何より」
 今の間にも彼女は一度もこちらを見ることなく、スマホの画面を直視している。本当に心配してくれているのか甚だ疑問である。
 しかし、彼女の鼻歌のメロディーは心地よく、呼吸を落ち着かせるのには最適だった。買ってくれたキンキンに冷えたお茶にも助けられた。
「そろそろ行こうか。お土産をじっくり選ぼう」
「そうね、にしてもこの時間でも暑いわね」
「本当だよ。早くクーラーでキンキンに冷えたところに入りたいよ」
 夕暮れ時だというのに、まだまだ太陽の勢いは留まることを知らない。
 ベンチを立った僕らは、正門ゲート付近にあるお土産屋さんへと足早に向かう。
 華やかな装飾を施した外観のお土産屋さんに入ると、肌をまとった薄い汗の膜が一気に冷やされ、思わず「涼しい……」と零れる。
 お土産屋さんには様々なコーナーがあり、遊園地のオリジナルブランドのクッキーやラングドシャなどがあり、お菓子の種類は豊富だった。お菓子だけではなく、雑貨関係も充実しており、文房具やハンカチ、マグカップに靴下など、遊園地のマスコットキャラクターが描かれたものもあり、見てるだけでも心が高ぶっている。定番のお菓子の詰め合わせか、変化球でマスコットを美月に買うか悩むところである。
 美月へのお土産をそれそれで選ぶために、しばらく彼女とは別行動をするということで同意した。すると、彼女は一目散にマスコットのコーナーへと駆けて行った。
 さて…僕は何を買うかな。
 美月とは何度かこの遊園地に来ているから、いまさらお土産を買う必要はないのだが、結衣ちゃんとの関係で背中を押されまくっているため、お礼の品として感謝の気持ちを込めて買うことにしよう。
 雑貨コーナーにお菓子コーナー、マスコットコーナーをしばらく巡り、僕が結論として選んだのは、シンプルにお菓子の詰め合わせだ。美月は何よりも睡眠と食べること大好きだから喜んでくれるといいな。
 レジで支払いを済ませて辺りを見渡すと、マスコットコーナーで二つのマスコットを見比べている彼女の姿を発見した。あの様子だと、決まるまでにもうしばらくかかりそうだ。
 端に置かれた一人掛けのソファに座り、読書でもしながら彼女を待つことにする。
「おまたせ」
 ショルダーバックの小説に手を掛けたとき、目の前に影がかかった。 
 彼女は瞬間移動の能力でも持っているのか?
 ついさっきまでマスコットコーナーにいると思っていたが、僕の勘違いだったのだろうか。咄嗟に腕時計に目を落とすと、僕がソファに座ってから二分しか経っていない。そんな短時間で決断して支払いを済ませてここに来るなんて忍びだとしか言いようがない。
「さっきまでそこのコーナーにいなかった?」
「もう買ったわよ」
 彼女は派手な包装紙でラッピングされたお土産を揺らしている。
「けっこう迷ってたみたいだね」
「迷ってなんかないわ、即決だったわよ」
 即決と言っていた割には、すごい形相で睨むように比べていたように見えたが、余計なことは言わないでおこう。
「やっぱりマスコットを買ったの?」
「ええ、どの種類かは内緒よ」
 彼女はそう言うと、ラッピングが潰れないようにハンドバックへ直す。
 お土産も買ったことだしそろそろ帰ることにしよう。すでに六時を回っているというのに、まだまだ辺りは明るい。
 僕らは遊園地を出て帰路に就いた。行きとは違い、駅までの道のりは遊園地での話題で持ちきりだった。射的が一つも当たらなかった結衣ちゃんのしかめっ面がお気に入りだと彼女に伝えると、ジェットコースターとお化け屋敷で瀕死寸前に追い込まれた僕の話題を取り上げられ苦笑を浮かべる。
 そのときは本当にきつかったが、今となっては彼女との会話の話題にもなっているし、結果的にはこれでよかった。もう二度と経験したくないけれど。
 ジェットコースターとお化け屋敷では、彼女が心の底から楽しんでいるという眩しい笑顔をしており、思わず見惚れってしまっていた。彼女が楽しんでくれたのならそれでいい。正直僕は楽しむ余裕なんてなかったのだが。
 あっという間に駅に着き、帰りの電車の時間を確認すると幸いにも十分後に出発する電車があった。
「山本さんの分の切符も買ってくるからベンチに座って待っててよ」
 サンダルで長い距離を歩いて大変だっただろう。
「そんないいわよ。わたしも行くわ」
 労いの意味も込めていたのだが、それを払って彼女は切符購入期へ向かう。
 彼女は勉強のお礼で僕を遊園地に誘ったのかもしれないが、僕としては、理由が何にしても遊園地に誘ってくれて感謝の気持ちしかない。普段は見れない彼女の色々な表情を垣間見ることができたし、何より彼女と一緒に過ごす時間は本当に楽しかった。
 だからという訳ではないが、帰りの電車賃くらいは出したい。
「電車代くらい出させてよ」
「だめよ。誘ったのは私なんだから、むしろ私が出すところなのよ」
 お互いが意地を張って埒が明かないため、ここは強行策として力づくで切符を買って彼女に渡すという作戦に出よう。
 早速、ショルダーバックから財布を取り出してお金を投入する。
「ちょっと、なにか落としたわよ」
 彼女は屈んでそれを手に取った。
 財布を出すときに何か落としたのか。全然気が付かなかった。
「ごめんね。ありがとう」
 僕は手を差し出して彼女から落とし物を受け取ろうとしたが、彼女は屈んだまま動かない。
「山本さん?」
 一体どうしたのだろうか。不審に思い、彼女と同じように屈むと、落としたものの正体を知って血の気が引いた。
 彼女が持っていたのは、
 ――ウサギのマスコット……。
 これは文化祭のときに結衣ちゃんからもらったもので、彼女が記憶を失ってからというもの、お守りとして肌身離さず持っていたものだ。
 まさか、よりによってそれを落とすなんて……。
 ただ、今は後悔よりも先に、彼女の心配が先だ。
 彼女は、何やらぶつぶつ呟いており、頭を押さえて蹲っている。
 事態を察知した周囲から好奇の目が向けられているが、そんなのは気にならない。
 僕は何もすることができないのか……。
 彼女のことを見守ることしかできないなんて、僕はなんて無力なんだ。
 彼女が蹲って数分後、彼女は力なくふらふらと立ち上がった。
「大丈夫?」
「少しお腹が痛くなっただけよ。もう大丈夫だから」
「そう……。よかった」
「もう電車が来ちゃうでしょ? 行きましょ。はい、これ落とし物」
 気が付けば、踏切のカンカン音が駅の構内にまで響いていた。彼女からうさぎのマスコットを受け取ると、僕らは改札を通ってホームへ向かった。
 間近に迫っていた電車がホームに着くまで僕と彼女の間に会話は一つもなく、ヒューッという駅の隙間風の高い音が、僕らの間に流れていた。