それからの記憶はあまり残っていない。
 結衣ちゃんの病室を後にし、病室の前の椅子に腰を掛けていた藤原さんと宮本さんに声を掛けられた気もするが、聞く耳を持つことができず、おぼつかない足取りで出入り口の自動ドアをくぐっていた。
 そのまま病院に繋がる坂を下ろうとした先にワンピースの女性が立っていた。
 気力はなかったが、さすがに目の前にいる人を無視するわけにはいかなかった。しかも、今回の件に関係のある人物であるわけだし。いくらか言葉を交わした後、車の助手席に乗るように言われた。
 そこから十五分くらい経った頃だろうか、僕は二十帖はあるだろうと思われる、白を基調とした品のある家具で統一されたリビングにいた。
「和田くん、大丈夫?」
 高い声が耳に入ると同時に、カップが僕の左斜め前に「カシャ」と音を立てて置かれた。コーヒー独特のにおいが鼻の奥をくすぐる。無力感から下がってしまっていた頭を無理やりにでも挙げた目線の先には、例のワンピースの女性が立っていた。この女性が結衣ちゃんに関係のある人物であることは予想がついていたが、まさか母だとは思わなかった。
 正直、大丈夫ではない。そして結衣ちゃんの母からの労いの言葉に対して、僕は俯くことしかできない。
「大丈夫じゃないわよね」
 僕の気持ちを女性が代弁して言ってくれた。
「わたし、結衣の母で真理子といいます」
「真理子さん……」
 僕は力なく、問いに対する答えを繰り返すしかできなかった。
 そこからは真理子さんから一方的に事の経緯を聞いた。
 結論から言うと、結衣ちゃんは『記憶喪失』だった。
 振替休日、僕が美月と本屋さんへ結衣ちゃんのおすすめしていた『好きだ。』を買いに行った日のこと。結衣ちゃんは昼過ぎになり、借りていた本を返しに近くの図書館へ向かっていたようだ。図書館の前の大きな交差点に差し掛かったとき、幼い子どもが、信号が赤であることに気付かずに、そのまま横断歩道へ足を踏み入れた。
 向かってくる自動車からクラクションが鳴り、結衣ちゃんの目線がそちらへ向く。万事休すかと思われたそのとき、結衣ちゃんは子どもの肩を掴んで後ろに引っ張る形になった。そして結衣ちゃんは間一髪で歩道に尻餅を付いて最悪の事態は逃れた。
 だが、最悪の事態は他のところで起きていた。
 接触しそうになった自動車はブレーキをかけていたので、スピードが急減していたのだろう。その自動車は後ろからものすごい勢いで追突され、その負の連鎖は何台にも及んだ。結衣ちゃんの目の前で、何台もの自動車が大きな音を立てて粉々になっていく様子や周りの歩行者の世紀末のような悲鳴が引き金となり、悲惨な状況を目の当たりにしたショックから記憶を失ってしまったのではないかと考えられているようだ。
 知らせを受けた真理子さんは仕事中にも限らず病院へ急いだ。病室へ案内された真理子さんは、静かに目を閉じてベッドに横たわっている結衣ちゃんの頭に包帯が巻かれていることに不安を覚え、院長である藤原さんに問い詰めた。藤原さんもおっしゃっていたように、命に別条がないことを知った真理子さんは一先ず安堵した。
 そしてその日の夜、結衣ちゃんは不意に目を覚ました。
 ベッドの横の椅子に座っていた真理子さんは、結衣ちゃんを我が身の方へ抱き寄せた。何度も結衣ちゃんの名前を叫んでいると、「結衣って誰?」という言葉が耳元に響いた。不審に感じた真理子さんは、身を引いて結衣ちゃんの顔を確認した。そこには本当に自分のことを知らないというような表情を浮かべた結衣ちゃんの姿があった。 
 そこから先は、真理子さんも僕と同じであまり意識がなかったようだ。急いで藤原さんを呼んだことは覚えているが、そのあと別室では記憶喪失の可能性があるということを宣告された。
 そして、信じられない気持ちは今も続いているとのことである。
 僕も結衣ちゃんが記憶喪失であることは信じられないが、記憶喪失だと色々な辻褄が合う。
 最初に春本先生が、結衣ちゃんの欠席理由について深堀をしないように誘導していたのも頷ける。春本先生はこの事実を担任として知っていたのであろう。
 そして、僕が結衣ちゃんに最後のラインを送ったのが振替休日の、本屋さんから帰ってきた後だ。真理子さんの話によると、結衣ちゃんの事件が起こったのは昼過ぎくらい。僕がラインの返信をした頃には、もう結衣ちゃんは病院へ搬送されており、おそらく記憶を失っていたのだろう。それから先、僕がずっと結衣ちゃんからのラインを待ち焦がれていたのは、知っている人からすればお門違いだったわけだ。
 ラインだけではない。看護婦の宮本さんや院長の藤原さんが結衣ちゃんとの面会を許してくれなかったのも納得できる。確かにいくら同級生だということを証明しても、記憶喪失という重大事態に立ち会わせるわけにはいかない。僕が宮本さんや藤原さんの立場なら同じような対応をする。
 面会を許可されたのは、今、僕の目の前で俯いている真理子さんが同意したことが決定打だったようだ。宮本さんに待たされていた間、宮本さんは院長へ「お母様が許せば面会はいいのでは?」と提案してくれていたようだ。そのため、僕と真理子さんのもとへ藤原さんと宮本さんが来たという訳だ。
 ここまで点と点がつながってしまうと、夢であってほしいという願望を抱くことはできない。呆気にとられて開いた口が塞がらない。
「少しは状況が把握できたかしら?」
「……はい」
 未だに僕の言葉には力がない。
「結衣はその時より前の記憶は一切覚えていないのよ。わたしが母であることもね」
 真理子さんは苦渋の顔でそう言った。僕は何と言っていいのか分からなかった。いや、考えたくなかったというのが正解かもしれない。数日前までは何事もなく「娘」として接していたはずの女の子から、突然知らないと言われた衝撃は到底僕には想像できない。机の下で、僕は制服のズボンの生地を強く掴んだ。
「そこで和田くんにお願いがあるの」
 真理子さんの顔は、先ほどまでのどこか寂しげな表情から決死の表情へと変わった。お願いがあるという声にも真理子さんの決意が感じられた。
 今から真理子さんの口から出てくるお願いを僕は受け止めることができるだろうか。胸の中に不安と緊張が入り混じった複雑な感情が渦巻いていて心地が悪い。
「お願い?とは何でしょう」
 聞くことは怖かった。どのようなことを言われるのか想像できなかったから。それでも聞かずにはいられなかった。実体を失ったわけではないが、これまで築き上げてきた『娘』という存在が無に等しくなってしまった真理子さんの気持ちを考えると、お願いを聞かないという選択肢を選ぶことはできない。
「お願いというのはね…しばらくは結衣と関係を持つことはやめてほしいの」
 真理子さんは僕の目を離すことなくそう言った。
 僕はその言葉を頭の中で整理することにした。結衣ちゃんと関係を持つことはやめてほしいというのはどの範囲での話なのだろうか。
 落ちた消しゴムを拾ったり、授業中の意見交換をしたりということを言っているのだろうか。それとも休み時間に話したり、一緒にお弁当を食べたりという「友達」の関係のことを言っているのだろうか。
「関係……とはどういうことでしょうか?」
 どうこう考えても仕方ないのでストレートに聞いてみた。
「結衣から聞いたのよ。彼氏ができたって」
 真理子さんは遠慮がちに言った。もしかして僕と結衣ちゃんが付き合い始めたことを知っているのか。
「僕が結衣さんとお付き合いを始めたことをご存じなのですか?」
「結衣から直接聞いたのよ」
 そうだったのか。おとなしい性格の結衣ちゃんだから、付き合うことを周りの人に話したがらないものだと決めつけていた。ということは真理子さんの言う『関係』というのは『彼氏』という特別な関係だと解釈して大丈夫だろう。となると、友達の関係なら大丈夫ということになる。結衣ちゃんとの関わりを一切無くすという訳ではないことに安心を覚える。
「結衣の記憶はなくなっているの。だから、和田くんが彼氏だということも覚えていないと思うの」
 僕の一先ずの安心は、真理子さんの現実を突きつける言葉で一瞬に消え、代わりに絶望感が押し寄せてきた。そして僕に有無を言わさず、真理子さんは話を続ける。
「わたしとしては、まずは親と子という関係をこれから改めて築き上げていきたいの。一から始めていきたいの。過去のことがなくなってしまうのは苦しいことだけど、わたしたちも家族として前を向いて生活していくしかないのよ。でも、記憶がない分、結衣はわたしたち夫婦に対して他人行儀なところがあったり、どこか遠慮しているようなところがあったりして、わたしとしても精神的に苦しいの」
 僕の胸の中は既にぐちゃぐちゃになっているが、それに拍車をかけるように真理子さんはこれからの家族について語ってくれた。
ここまでは僕の目を見て話してくれていた真理子さんだったが、一度俯き、何かを覚悟するかのように咳払いをして再び僕の方へ視線を移した。
「結衣に過去を思い出させるようなことはしないでほしい」
 僕の目の前が真っ暗になった。
 もう僕にはどうしていいのかわからない。
 かつての結衣ちゃんの隣にいることはもうできないのか。
 結衣ちゃんと回った文化祭の記憶が蘇ってきた。
 夢なら覚めてほしいと切に思った。

「湊、帰ってるの?」
 まるでここが自分の家であるかのような、普段から聞き慣れた美月の声が耳に届いた。だが、結衣ちゃんが記憶喪失であるという現実を突き付けられてからというもの、体には力が入らず何も考えることができない。
 真理子さんとのお話を終えた後、真理子さんは家まで車で送ってくれた。車内では会話を交わすことなく、僕からの一方的な「お願いします」と「ありがとうございました」しかなかった。真理子さんは一度も僕と目を合わせてはくれず、これから先はもう他人だと言わんばかりの佇まいでアクセルを踏んでいった。
 それからはただいまも言わずに二階の自分の部屋へ駆け込んだ。肩にかけていたスクールバックを重力の力で床に落とし、足を引きずるように部屋の隅っこへ行き、腰を下ろして壁にもたれかかっていた。それからは、生産性のあることは何も考えることはできずに、ただただ俯いているだけであった。
 学校が終わって病院へ向かうときには雲一つない快晴であり、夕方になると西日のきれいなオレンジ色が街一面に広がっていた。しかし病院を出るときには、空の色には白の割合がだんだんと増えていき、西日が出たり隠れたりを繰り返していた。かろうじて温かみのあるオレンジが残っていたのにもかかわらず、僕が家に帰ってきたときには、太陽は完全に地平線の向こうに沈んでおり、辺りは暗くなっていた。
 今日の天気の変動は、僕の気持ちの変動と似ていた。最初は振り切ったように病院の構内へ踏み込んだ。そして藤原さんの登場により、結衣ちゃんの身に起こっていることについて色々な推測が生まれて、僕の心の内は混沌としていた。病室で結衣ちゃんと会い、真理子さんのお話を聞いてからというもの、すでに僕の心の内には絶望という真っ黒な世界が広がっている。まるで天候が僕の気持ちを表しているようで、僕がこの世界の中心なのではないのか錯覚してしまいそうになる。本当に僕中心で世界を回せるのなら、今すぐにでもこんな悲惨な状況を終わらせたい。
 部屋のドアの向こうの階段を上がってくる足音が聞こえてきた。その音はだんだんと大きくなりやがて止まり、部屋の中にコンコンッという、足音の低い音とは違ってノックの高い音が響いた。
「湊、いるんでしょ」
 ドア伝いにでもこんなに大きな声が聞こえるのだから、美月は相当大きな声を出しているのだろう。大きな声だとは言っても、美月の声色はとても穏やかなものだった。無視はよくないよなと、俯いていた頭を起こそうとするも体に力が入らず、まるで金縛りにでもあっているかのようにピクリとも動かすことができない。それは喉の筋肉も然り、僕は何も言えなかった。
 すると、僕の承諾なしにドアが勢いよく開かれた。入口の近くに放たっておいたスクールバックに突っ掛かったが、それはドアに押されて開かれたドアの向こうに押されて見えなくなった。
 僕は部屋の電気を点けていなかったみたいで、ドアの隙間からは廊下の光が差し込んでおり、力なく伸ばしている僕の足先にまで届いていた。ドアが開かれて、先ほどとは環境が変わっているにもかかわらず、未だに僕は無気力に見舞われている。
「湊、どうしたの?」
 美月の声色は、先ほどとは打って変わって少し驚きを含むものになっていた。それはそうだろう。何の用事でここに来たのかは知らないが、急に真っ暗な部屋でうなだれている死人のような幼馴染が目の前に現れたのだから。無気力感から顔を上げることはできないが、美月は普段しないような神妙な面持ちになっていることだろう。
「いやちょっとな……」
 やっとのことで俯きながらであるが声が出せた。これが限界だ。
「いや、ちょっとのことでこんなに死人みたいな顔にならないでしょ」
 美月はこちらに歩み寄ってきて僕の前に立った。その声色には先ほどの驚きはもうなく、僕の言葉に対して呆れた、というような印象を受けた。
「美月には関係ないことだから」
 僕はとりあえず一人にさせてほしかった。
「わたしには関係ないことかもしれないけど、ここまで落ち込んでいる幼馴染を放っておけないよ」
 僕の前では明るい性格の美月であるが、小さい頃から面倒見がいい。人のことをよく見ていると言うか、人の些細な心境の変化だったりを見逃さないのだ。
「僕は大丈夫だから」
「大丈夫じゃない」
 面倒見がいいとは言っても、それは毎回のことではない。当の本人は良心でやっているのだろうが、それは度を超すとおせっかいになってしまう。僕はそんなことを思ったことはないが、さすがにここまで深堀されるのはいい気分ではなかった。
「だから、大丈夫だって言ってるだろ」
「どこが大丈夫なのよ」
「頼むから出ていってくれ」
「だめよ。放っておけない」
 どうして出ていってくれないんだ、そんな感情を抱いた。
「頼むから一人にしてくれよ!」
 僕は自分の頭の容量を超えて、怒気を含んだ声を出していた。僕は美月の良心に対してひどい言葉を吐いてしまった。さっきまでは動かなかった身体だが、今の言葉の弁解をしようとすると、自然と動くようになっており、見上げると悲しい顔をした美月が立ち竦んでいた。
 小さい頃から僕と一緒にいるときの美月はいつも笑ってばかりだった。学校で嫌なことがあったり、バレーで上手なプレーができなかったりしたときには、落ち込んだ表情を見せることはあった。それでも、そのときの美月の目には悲しみの情は含まれておらず、学校のことはすぐに振り切ったり、バレーに関してはもっともっと練習するといった、常に前を向く姿勢が見られた。
 しかし、今の美月は悲しい顔を覗かせているのが分かる。今にも泣きだしてしまいそうな顔をしている美月は初めてだから、どう弁解しようかと口をつぐむ。
「湊」
 しばらくの沈黙が流れた後、美月は落ち着いた声で僕の名前を呼んだ。
「ん?」
「ちょっと外に行って歩かない?」

 美月のお誘いに乗ったというか、半ば強引ではあったが僕と美月は大通りに向かう方とは逆の方へ歩を進めていた。しばらく歩いていると、残業の光が遠のいていき、周りには田んぼが多くなっていた。まだまだおぼつかない足取りではあるが、金縛りにあっていたような感覚も今はもうなくなった。
 真夏の真っただ中であるため、太陽が沈んで辺りが暗くなったと言ってもまだまだ気温は高い。一歩を踏み出すごとに全身から汗が噴き出してくる。やっぱり外になんか来るんじゃなかった、なんて言ったら美月に怒られるかな。
 そんな美月は僕の三歩先を歩いていた。後ろで手を結び夜空を見上げているが、星でも探しているのだろうか。夕方あたりから雲がかかっていたため、空には星一つ見えていないのだが。
 それにしても、どうして美月は外を歩こうなんて言い出したのだろうか。確かにあの静まり返った空間に耐え切れなかったのもあると思うが、それにしてもわざわざ外に出る必要はないだろう。気分転換が目的なら、リビングに降りれば元気いっぱいでおしゃべりな母さんもいる。
「どうして外に出たのさ?」
 僕は先を行く美月の背中を見ながら問うた。すると美月は振り返り、ミケランジェロの有名な彫刻『考える人』の像と同じような考える仕草をした。
「特に理由なんてないけど、強いて言うなら気分転換かな」
「それなら別に外に出なくたってよかったじゃないか」
「まあまあ、風が気持ちいいからいいじゃない‼」
 美月は再び前に振り返り、腰まである長い髪がきれいな弧を描いてなびいた。
 その後はこれまでと同じように、二人して無言のまま歩き続けた。自分の家から見える山は小さく見えるものだが、ここまで山が大きく見えるところまで近づいたことはない。それに比例して、辺りには田んぼが一面に広がるようになっていた。
「湊、何があったの?」
 美月は急に立ち止まり、前方にそびえる山を眺めながら言った。
「だから何もないって。心配しなくて大丈夫だから」
 さっきみたいにひどい言い方をしないように、言葉を選ぶように気を付けた。
「湊がおとなしい性格だって知ってるけど、あそこまで死にそうなのは初めて見たよ」
「それは恥ずかしいから言わないでくれ」
「あ、やっぱり落ち込んでる自覚あるんだ」
 美月に鎌をかけられ、見事にそれに引っかかってしまったようだ。
「いつもの落ち込みなら放っておくんだけど、今回に関しては首を突っ込ませてもらうよ」
 ここまで引き出されてしまったら、もう話さなければならないのだろうか。話すにしてもどこから話を始めればいいのかが分からない。だって美月は僕が結衣ちゃんと付き合っていたことすら知らないのだ。そもそも結衣ちゃんの存在を認知しているのかも危ういところである。
 ただ、美月のこの親切さは身に染みた。僕はこれまで人と深く接することを避けてきた。僕が美月の立場だったら、悩んでいる人に対して心配はするけど、その人のために一緒に乗り越えていこうなんて言えない。
 ……美月になら話してもいいか。
「わかった。美月にだけは話すけど、他の誰にも言わないことを約束してほしい」
 誰にも言わないというのは春本先生との約束でもある。僕はその約束を破ってしまう訳であるが、美月ならこの約束を破るようなことはしないと断言できる。三歩先を歩いていた美月は、後ろへ切り替えし僕の方に近づいてきた。
「約束するよ」
 美月の顔には真剣さが帯びており、これから話を聞く姿勢に入っていた。
 僕はふぅと一息ついた。
 山本結衣という女の子と二年生で同じクラスになって、この間の席替えで席が前後になったこと。お互いに本が好きで意気投合して文化祭を一緒に回ったこと。帰りは一緒に帰り、その途中に告白して特別な関係になったこと。次の日は振替休日で、おすすめされた本を買いに文庫屋さんに向かったこと。翌日の学校に結衣ちゃんが来ていなくて不審に思い、春本先生に聞いてみると戸惑った態度をとられたこと。入院していると分かり病院に行くと、結衣ちゃんと面会をさせてもらえなかったこと。やっと面会を許されたと思えば、結衣ちゃんは記憶を失っていたということ。結衣ちゃんの母にこれから関わることはやめてくれと言われたこと。
 僕はこれまでのことに関して、取りこぼしのないようにすべて話した。
 話している間、美月は口を挟むことなく聞いてくれていた。
話が終わると、僕と美月の間には重たくて何とも言えない空気が生まれていた。僕らの周りからは人の声は聞こえず、蝉の鳴き声だけが響いていた。あまりにも静かだったので、蝉が耳元で泣いているのかと思うくらい鼓膜を震わせていた。
「……それは大変だね」
 美月もどう言ったらいいのかわからないという口調だった。
「無理やりにでも思い出させることは考えてないの?」
 それはもちろん考えていた。何が何でも僕のことを思い出してほしい。でも、結衣ちゃんの母である真理子さんの話を聞いていると、まずは家族での関係作りをしていきたいと言っていた。それに記憶を取り戻して、僕のことを思い出すのはこの上なく嬉しいことだが、それと同時に事故の一部始終も思い出すことになるのだ。都合よくそこだけ記憶から切り取られているなんて考えられない。
「そんな残酷なことできない」
 思わず目から涙が出そうになった。僕は強く拳を握り、それが流れるのを我慢した。美月は僕の返答と聞くや否や俯いてしまった。
「……どうしたらいいのか分からないんだ」
 僕は正直な気持ちを真っ暗な空間に放った。しかし、その言葉は儚くも消えていった。美月はというと、俯いたまま動かない。
 僕と美月はお互いが俯いてしまい、何度目か分からない沈黙に支配されていた。僕はどうしていいのか分からず、美月はまさかの状況に頭が追いついていない状態なのだろう。このままいても何もならないし、もうすぐ晩御飯の時間で母さんに迷惑を掛けたくないと思い、もう帰ろうと美月に言おうと顔を上げた瞬間…
 ――パシンッ。
 左の頬に痛感が走った。
 何が起きたのか理解するまでに数秒を要した。
 左手を頬に当てると、そこから熱が発されていることが分かった。
「そんな卑屈になってる湊なんて見たくないよ」
 美月からこんなに低い声を聴いたことがない。
「どうしたらいいのか分からない? そんなのやることは一つでしょ」
 僕は出す言葉が見つからないまま美月の次の言葉を待った。
「もしかしたら結衣ちゃんはこれまでの結衣ちゃんではなくなるかもしれない。人格が大きく変わっている可能性だってある。でもどんな結衣ちゃんでも『山本結衣』であることに変わりはないよ」
 美月は少しの微笑みを含んだ表情で、優しく言った。
 僕は茫然と美月の言葉を聞いていた。ここまで美月は話し終わると、一息ついてもう一度瞳を大きく見開いた。
「そんなに好きならもう一回『和田湊』として惚れさせてみなよ」
 その言葉は僕に大きな衝撃を与えてくれた。
 小さい頃からいつも一緒にいた美月。
 学校の態度とは打って変わって、僕の前でだけは明るい性格を見せてくれている。
 その明るさには少なからず救われることもあった。
 美月は幼馴染だけど、僕からしたら頼りになるお姉ちゃんのような存在だった。
 これまで何度も何度も僕の背中を押してくれた。
「実際に両思いになっているんだから、これからもきっとうまくいくよ」
 美月は右手の人差し指を僕の胸に置いてそう言ってくれた。
 美月の声と指先はとても温かくて、ボロボロだった僕の心に染み込んだ。
 照れ臭かったのか、美月は慌てていつもの笑顔に戻った。
「それじゃもう帰ろっか‼智子さんが心配しちゃうから」
 美月はいつもの明るい表情と口調で言うと、僕の横を通り過ぎ、来た道を引き返し始めた。僕もそれに倣って美月の後ろを歩く。
 今の美月の背中は、今まで見てきた中でも一番大きく見えた。
 無気力だった僕に力を与えてくれたのはまぎれもなく目の前の美月だ。
「……ありがとう」
 僕は美月に聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。美月から何か言ったか聞かれたが、僕は恥ずかしかったので何も言ってないと答えた。
 
 その後は、家の前でお互い別れた。
 晩御飯を食べ終わり、お風呂も済ませた僕は自分の部屋に戻った。
 部屋の電気をつけ、一目散にベッドに飛び込んだ。
 今日は色々ありすぎて、情報を頭の中で整理することが困難だ。結衣ちゃんとの面会が許されたと思ったら、彼女は記憶を失くしていたり、母親である真理子さんから関わらないでくれと頼まれたら、美月にもう一回惚れさせてみろと言われた。   
 あまりにも状況の変化が大きくて、僕の脳内も混乱していた。頭の後ろで手を組んで寝転んでいるため、自分の手に脳の重さを感じる。
『そんなに好きならもう一回『和田湊』として惚れさせてみなよ‼』
 さっき言われた、美月からの叱咤激励の言葉を反芻させる。
 ……もう一回惚れさせてみなよ。
 もう一度好きにさせるなら、僕自身が結衣ちゃんを好きになった理由を思い出さないといけない。少しばかりの昔を思い出すために、ゆっくりと目を閉じた。確か、最初の出会いは去年だったかな。



 高校一年生の四月、僕らは新入生として桜舞い散る城南高校の正門をくぐった。
 入学式があったため、母と一緒に学校へ来ていた。
 入学式が終わると、新入生は体育館を後にし、それぞれの教室へ足を運んでいた。色々な中学校から集まる高校では、大半がはじめましての人たちだ。教室へ向かう間も、生徒同士で話をしている人はいなかった。
 僕の出席番号は四十番。毎年、クラスが変わるごとに僕の最初の席は窓側の一番後ろなのだ。見慣れた景色のはずだったが、新しい教室や新しい制服になったということもあって、僕は色々な人の背中を見渡した。
 教室に入ってしばらく待っていると、教室のドアがガラッと勢いよく開かれ、比較的若い男性の先生が入ってきた。話によると春本先生というらしい。
 最初のホームルームということで、まずはみんなから自己紹介をしていく流れになった。出席番号一番の人から順番に自己紹介をしていく。僕は最後なので、皆の緊張感に比べれば、リラックスして話すことができる。
 こうした自己紹介はただの作業のように思われるかもしれないが、快適な学校生活を送るためには必要不可欠だと思っている。快適に過ごすためには、クラスメイトと無駄な隔たりを作らないことである。この自己紹介で、クラスメイトの名前を憶えてしまうのだ。少なくとも知らないという状況を失くす。
 順番に自己紹介をしていって、次は僕の前の前(三十八番)の人が席を立った。
「はじめまして、山本結衣と言います。本を読むことが好きです。よろしくお願いします」
 彼女はやや早口で自己紹介を終えると、すぐに席に着いてしまった。
 ……山本結衣? なんか聞いたことあるようなないような。
 思い出そうと顎に手を添える。
 そんなこんなしている内に、自分の番が回ってきた。
「和田湊です。ずっと出席番号が最後なのは継続中です。よろしくお願いします」
 渾身のギャグをかましても、誰もクスリッともしない。前の椅子に座っている春本先生ですら、顔に変化がなく、何を言っているんだという表情をしている。
 快適な学校生活を過ごすためには、最初の自己紹介でクラスにインパクトを与えないことが大事になる。でも、僕は毎年必ずこのギャグをすることだけは欠かさずにやるようにしている。別に目立ちたいとかそういうわけではなく、この出席番号の最後は誰にも渡さないぞという決意表明をしているのだ。一体僕は何を言っているのだろう。
 何も生まれてないが、なぜか達成感を覚えている僕は椅子に腰を掛けた。自己紹介をしたおかげで僕の頭の中から山本結衣の存在は消えていた。

 入学式から一週間が経つと、自然とクラスには数人のグループがいくつもできていた。高校にもなると、俺は一人がいいんだと言い張る人もいるのかと思っていたが、意外とそんな人はおらず、みんながみんな仲良くグループに馴染んでいる様子である。いわゆる陽キャと呼ばれる類の人がいないことに安心を覚える。
 本当のことを言うと、僕自身は一人の方が好きであるが、快適に過ごすためには何らかのグループに属しておく方が得策だ。僕は自己紹介のギャグが効いたのか、僕からではなくクラスメイトの方から話しかけに来てくれた。今はそのグループで行動することが多いが、仕方なくという感覚はなく、グループでいることを楽しく感じていた。
 午前中が終わり、五限は普段の教室ではなく、被服室への移動が必要となる家庭科だった。グループの友達と移動をしていると、僕の前方に数人のグループで移動している山本さんの姿を視界に捉えた。
 僕は入学初日の自己紹介を思い出した。どこかで山本結衣という響きを聞いたことがあった気がする。あのときのように、顎に手を添えて輪郭に沿ってさすった。
 被服室に向かっている間、山本結衣に関して考え込んでいたが、友達に話しかけられたことで、その思考は停止した。思い出せないことにモヤモヤを感じたが、思い出せないということは、特別なことがあったわけではないだろうから気にしないことにした。
 家庭科の授業は高校に入って初めてだった。机がたくさん並べられている教室とは違い、被服室には大きな机が八つ並んでいた。教室の前の教卓には女性の先生がおり、黒板に書いてある通りに席に着くように指示をしている。
 それに倣って、僕は黒板に目を向ける。そこには出席番号が一定間隔で割り振られており、予想通り僕は最後のグループになっていた。僕の席は入口の扉とは正反対のところに位置していた。
 それぞれのグループは、大きな直方体のテーブルに三人と二人で向き合う形で座るような仕組みになっていた。席に着いてテーブルに対面している方を向くと、山本さんが教科書のページをパラパラとめくっていた。僕が最後のグループと予想できたのなら、山本さんも同じグループであることも予想できたはずである。これまでのモヤモヤがあるため、やたらと山本さんが気になっていた。チャイムが鳴ると、めくっていた手を止めて、教科書を閉じて、日直の号令に従って席を立った。山本さんに気を取られていた僕は、周りよりワンテンポ遅れて席を立った。
 授業中、僕は先生の話が頭に入ってこなかった。その原因は目の前に座っている山本さんに他ならない。山本さん含め、クラスのみんなは、栄養素のことを説明している先生の方に視線を向けていた。僕の席は幸いなことに、普通に座っていれば勝手に先生の方に目線が向くようになっている。
 さらに幸いなことに、その目線の片隅には山本さんがいた。自己紹介のときから、なぜか僕の心の片隅には山本さんがいる。ただ、それは恋心とかではなく単に『山本結衣』という響きがどうも気にかかっているのだ。
 僕は少しだけ山本さんのことを観察しようと思い、顔は前を向けたまま、黒目だけを彼女の方へ向けた。
 穏やかな表情、優しさを感じさせる大きな瞳、潤いのある唇、肩に少しかかっているくらいの艶のある黒髪。これまで意識したことなかったが、山本さんはとてもきれいだと感じた。
 僕がしばらく横目に山本さんを見ていると、山本さんが首を捻って僕の方へ瞳を向けてきた。僕は反射的な速さで黒目を先生の方へ向けた。その速さは空しく、一瞬だけ山本さんと目が合ってしまった。
 自分の鼓動が速くなるのを感じた。これは『好きな子と目が合ってドキドキ』みたな甘酸っぱいものではない。他人から見れば言い訳じみたことを言っているように思われるかもしれないが、断じて山本さんに気があるわけではない。
 自分の心の中だけで勝手に開かれている『山本結衣について考えようの会』は意味を成しておらず、自分の意識とは裏腹に、気が付けば山本さんの方に視線を移していた。

 モヤモヤが晴れることのないまま夏休みを終えて二学期を迎えた。
 教室ではクラスメイトたちがそれぞれの休暇について語り合っており、久々に会った友達に夏の思い出を話したくて仕方ないといった様子が窺える。
 新しい学期を迎えたということで、始業式の後のホームルームではクラスの役員を選ぶことになっていた。
 僕は何かしたいわけでもなかったため、どの委員会にも立候補をしなかった。驚いたことに、どの委員会の役員にも立候補者がおり、空いた役員のところを決めるという地獄の時間が訪れることはなかった。
 委員会を決めている間はずっとぼーっとしていたため、誰がどの委員会に属したのか把握できていなかった。消される直前の黒板に目をやると、クラスのリーダー的存在である学級委員には前学期と同じ人が選出されていた。自分には到底理解できないそのやる気に感心を抱きながら、そこから横に目線をずらしていき、学習委員、保健委員……と確認していくと、飼育委員には山本さんが選出されていたことに気が付く。クラスの中でもおとなしい山本さんが委員会に立候補したことに驚きを覚えたが、その日から山本さんは教室にある観葉植物に水やりをするという仕事を毎日こなしていた。
 毎日与えられた仕事をやっている彼女がとてもかっこいいと思えた。それに、水やりをしている山本さんは、まるで植物と会話ができているかのような穏やかな表情をしていた。

 ――山本さんに惹かれ始めたのはこの頃からだったのかもしれない。

 そんな自分の気持ちに気が付き始めていたころ、決定的な出来事が起こった。
 放課後、学校に課題を忘れて教室に取りに戻ったときのこと。
 無事に忘れ物を回収し終え、部活をしている生徒たちの横を通り過ぎ裏門へと向かった。正門から出るよりも裏門から出たほうが家までの近道になるからである。
 軽快な足取りで裏門へと向かい校舎の角を曲がろうとすると、角を曲がった先から何やらすすり泣く声が聞こえた。僕は角までそろりそろりと歩み寄り、校舎の角から片目だけを出して何が起きているのかを確認した。
 そこにいたのは、うさぎ小屋の前でうずくまって泣いている女の子だった。
 顔も見えず、何があって泣いているのかも分からない。ここは僕に何かできるわけではないだろうと思い、少し遠回りになってしまうが正門から出ようと踵を返した。
 方向転換をしても聞こえてくるすすり泣き。僕には関係ないと頭の中では考えてはいるけれど体は言うことを聞いてくれなかった。僕の良心が許してくれなかったのだろう、気が付けば校舎の角を曲がり、うずくまっている彼女の目の前に立っていた。
「大丈夫ですか?」
 泣いているのが誰なのかは分からないが、相手に警戒心を持たれないように、とりあえず敬語で話しかけた。女の子は泣くのを一旦止めると、僕の顔を見上げてきた。
 その顔には見覚えがあった。というか同じクラスの山本さんだった。
 彼女はごめんねというだけ言って、その場から走ってどこかへ行ってしまった。
 一連の流れが急展開過ぎて頭が追い付いていけず、僕はなす術もなくその場に佇むしか他なかった。
 視界の片隅に移っているうさぎ小屋の前に立ってみると、小屋の中には彩のある花束が置かれてあった。それから察するに、ここで飼われていたうさぎが亡くなってしまったのだろう。僕は特に気に掛けたことはないが、登下校のとき毎回このうさぎ小屋の前を通ってきた。朝の段階ではみんなが気にする様子もなかったから元気に生きていたのだろう。となると、死んでしまったのは今日の出来事であると推測できる。自然と寂しさが込み上げてきた。
 ここで、山本さんが僕たちのクラスの飼育委員であることを思い出した。飼育委員の仕事には『飼育しているうさぎのお世話』というのがあった気がする。おそらく山本さんはうさぎが亡くなってしまったことに悲しんでいたのだろう。
 さっきの見上げた瞬間の山本さんの泣き腫らした顔が脳に鮮明に映し出された。
 自分のことではなく、自分以外のことで涙していた彼女はとてもきれいだった。
 おそらくこのことがきっかけだろう。
 僕は山本さんのことが好きなんだと気が付いた。

 穏やかな表情。
 優しさを感じさせる大きな瞳。
 潤いのある唇。
 肩に少しかかったくらいの艶のある黒髪。
 僕が好きになっていたのは彼女の容姿ばかりだった。
 しかし、今回の涙を見て山本さんが心優しい人なんだと分かった。
 僕は容姿だけではなく、彼女の全てを好きになってしまっていたのだ。



 ゆっくりと目を開き、照明の眩しさに目を細めた。
 横に置いていたスマホのホームボタンを押して表示された時刻を見るに、目を閉じていた時間は約四十分ほどだった。
 結衣ちゃんへの恋心を自覚してからまだ一年も経っていないが、当時のことがなぜか遠い昔のように感じられた。それからの僕は彼女とお近づきになりたいと思いながらも、恥ずかしいからか話しかけたりすることはなかなかできなかった。
 それでもあの頃の僕はとても純粋だったように思える。
 ……でも今の僕はどうだろうか。
 昔から結衣ちゃんとお近づきになりたいと考えていて、文化祭を一緒に回れて、突発的な告白は成功して彼氏と彼女の関係になった。ただそれだけのことなのに、記憶を失ってしまった彼女とどう接すればいいのかを悩んでいる。
 彼女と何の関係もなかった昔の僕ならば、行動をする前に後先を考えることはなかっただろう。恥ずかしいから行動できないのは仕方ないが。
 ふと目線を左に向けると、いつもお世話になっている本棚の「これから読む本」のコーナーに、ただ一冊だけ『好きだ。』が置かれてあった。本が喋ることはないが、本棚で佇む『好きだ。』からは、うじうじ考えてないでやるだけやってみろ、というようなメッセージを送られている気がした。
 僕は体を起こし、ベッドから降りて本棚へ向かい『好きだ。』を手に取る。
 裏表紙に書かれているあらすじに目を通す。
『「お前のことは何も覚えてない…」事故により記憶を失ってしまった航大に言われた一言。この日から楓の日々は激変する。かつての彼氏であった航大の記憶喪失に戸惑いながらも、楓はもう一度、航大を惚れさせようと試みていたが……。』
 本をひっくり返して表紙のイラストを眺める。文庫屋さんで手に取った時にも感じたが、イラストの風景といい、ストーリーといい、自分たちと似ている部分が多すぎる。筆者の『さくら』さんも同じ体験をしているのだろうか。
 『好きだ。』はまだ読むことができていない。買った次の日から色々ありすぎて頭の中から抜けていたこともあるが、なにより読む勇気が出なかった。あらすじ自体は知っていたので、結衣ちゃんが記憶喪失なのではないかと疑ってしまいそうで、それが現実になることへの恐怖があった。
 ……この本の楓は航大を惚れさせることができたのだろうか。
 その答えは本に綴られている文章を最後まで辿っていくことで知ることができる。
 でも、それはしたくない。
 読んで答えを知ってしまうと、どんな結末であれ僕は楓の行動に縛られてしまうだろう。
 僕は『好きだ。』を本棚のもとあった場所に戻すと、本棚の横に置いているスクールバックのファスナーが開いて中身が丸見えになっていることに気が付いた。いつ開いたのだろうか。僕は案外几帳面なところがあり、こういったことは直さないと気が済まないタイプなのだ。屈んでファスナーに手をかけると、バックの奥底にピンク色の何かが視界に入った。僕は首を傾げながらそこに手を伸ばしてバックの外に出してみると、それは文化祭の日に結衣ちゃんからもらったうさぎのマスコットだった。マスコットの存在すら忘れているとかどれだけ頭の中混乱してたんだよ、と過去の自分を蔑む。
 だが、そこでようやく自分のやるべきことが見えたように思えた。
 美月も言っていたように、もしかしたらこれまで接してきた結衣ちゃんとは別人になっている可能性だってある。毎日植物に水やりをしたり、飼育していたうさぎが亡くなって涙したり、マスコットをくれたりした優しい結衣ちゃんではなくなっているかもしれない。
 僕はそれでも『山本結衣』が好きなんだ。
『そんなに好きならもう一回『和田湊』として惚れさせてみなよ‼』
 美月の言葉が無意識のうちに反芻された。
 美月、ありがとう。
 僕は、誰に流されることなく、自分の力でもう一度結衣ちゃんを惚れさせてみせる。
 僕が彼女を笑顔にする。
 そして、僕が彼女の笑顔を一番近くで守ってやる。

 翌週の月曜日。
 クラスの雰囲気は先週と何ら変わらず、朝だというのにみんな友達とのおしゃべりに夢中になっている。僕と同じように席に着いているのは、僕を含めて数人ほどしかいない。
 先週は結衣ちゃんが連続して休んでいたために、何があったのか噂を立てる者もいたが、そんなことはすっかりと忘れている様子である。
 おそらく今日から彼女が登校してくるはずだ。こんなことを考えているのは、この教室内の中で僕だけだろう。
 チャイムが鳴ると、前方から春本先生が入ってきた。今日はシンプルなホワイトシャツに、水色の半ズボンという夏にぴったりの涼しいコーディネートとなっている。
 いつも通り、春本先生は連絡事項を淡々と話している。いつもならぼーっと聞いているところだが、今日に限っては違った。僕は彼女に関する連絡を今か今かと待っている。時間が過ぎていくにつれて、自分の鼓動が速くなっていくのが分かる。
「以上で連絡事項は終わりだが……。もう一つみんなに大事な連絡がある」
 僕の心臓の心拍数が急激に上がった。皮膚を破って出てきそうだ。
「先週、連続で欠席していた山本だが、今日から登校することになる」
 クラスのみんなは特に興味がないといった感じで、結衣ちゃんと仲の良かった女子たちが笑顔になる。
「ただ……」
 春本先生の言葉が詰まるのが分かった。こんな春本先生はめったにお目にかからないということでクラスの生徒がお互いに顔を合わせている。
 目線を下に向きがちだった先生は一つ息を吐き、目線を前に移した。覚悟を決めたのだろう。
「みんな先週起きた交通事故は知っているな?」
 クラスの雰囲気は真剣なものだった。話をしているものなど一人もいない。いつも元気な春本先生の面持ちを見れば重大なことを伝えようとしていることは明白であったからだ。
 先生はもう一度息を吐いて言った。
「山本はその事故に関与してそのショックで記憶を失くしてしまった」
 クラスの雰囲気がガラッと変わった。
 ただの静寂ではない。これまでに感じたことのないクラスの雰囲気だ。
 みんな開いた口が塞がらないといった様子だということが背中を見るだけで感じ取れた。
 僕はこの事実を受け止める心持ちはできているからいいが、他のクラスメイトからすれば唐突すぎて頭が混乱しているのだろう。無理もない。
「親御さんの頼みがあって、過去のことは掘り返してほしくないそうだ。新しい友達になることは構わないが、昔の友達だったなどとは言わないでほしいとのこと」
 僕が真理子さんに言われたことだ。
 春本先生は真剣な顔から表情一つ変えることなく話している。自分の担任のクラスメイトが記憶を失くしただけでも大きなショックのはずなのに、さらにクラスメイトに関わらないように指示するなんて苦痛この上ないことだろう。本当ならこの場から逃げ出したいだろう。
 僕はそれを言われたとき落ち込んでしかいなかった。だから、逃げないでここまで言える春本先生は本当にすごいと思う。
「山本、入ってきてくれ」
 その言葉の後に扉がゆっくりと開き、一人の女の子の姿が現れた。
 それは指で数えきれないほど目にした姿に違いなく、ゆっくりと教壇の段差に足を掛けた。
「それじゃ、自己紹介して」
 春本先生の言葉に、無言で首を縦に振る。僕は胸に手を当てている。
「初めまして。山本結衣と言います。よろしくお願いします」
 聞こえるか聞こえないかの声量だった。彼女はそう言うと、浅く頭を下げた。クラスからは拍手が起こる。ただ、その拍手はこれからよろしくの意味というかは、この何とも言えない空気をどうにかしようと足掻いた結果にも感じた。
「それじゃ、山本。席は窓側の後ろから二番目の空席のところだ」
 またも無言で小さく頷くと、彼女は僕の方へ向かってきた。正確には自分の席に向かっているだけなのだが。
 僕は一言くらい声を掛けようか……迷った。
 だけど僕はやるだけやると決めたんだ。迷っている暇などない。
「山本さん、よろしくね」
 僕は不愛想だと思われないように、口角を上げてそう言った。
 僕はどんな返答が帰ってくるかとドキドキしていたが、僕のドキドキとは裏腹に、彼女は頷くこともなく自分の席に腰を下ろした。
 ……無視された。
 さて、これからどう接していこうか。