よりみちは、美味しい夢と


 翌日の放課後、望月くんに頼まれた通り、俺は一階にある五組の教室に訪れた。
 後方の扉から教室を覗くと、見慣れない同級生たちが何人か残っている。俺が教室に足を踏み入れると、視線が一瞬こちらに集まった。

 窓際の一番前に、ひときわ背の高い望月くんがぼんやりと外を見つめていた。その傍らには、いつもの黒いギターケースが寄り添うように立てかけられている。

「望月くん!」
 俺が名前を呼ぶと、望月くんが振り向く。

「白石くん、ありがとう」
 教室の中で、数人の生徒が一瞬戸惑いの表情を見せた。

「喋った」「初めて声、聞いた」「友達いたんだ」
 なんとも散々なヒソヒソ声が聞こえてくる。望月くん、クラスでどんな生活しているのか、流石に心配なるレベルだ。
 望月くんの耳にも届いているのか、クラスメイトを視界に入れないように椅子から立ち上がり、ギターケースを背負うと早歩きでこちらへ向かってきた。

「ごめん、どこか……二人で話せる場所、ある?」

 いつもより早口で、緊張で声が少し震えているようだった。
 どこか切羽詰まった勢に、押されるがまま俺は「うん」と返事をした。

 俺たちは教室を出て、静かな廊下を歩く。望月くんは俯きながら、時節階段を上るたびに荒い息を吐きながら、彼の足音が重たく響いていた。そうして、隣の校舎の六階にある教室へとやってきた。

 ここは、俺が先月まで使っていた教室だ。

 あまりにも生徒数が増えたせいで、急遽屋上に追加した掘っ立て小屋と噂されている最上階。
 今年から新しい校舎が使えるようになったため、来年取り壊される予定だ。

 机の木目には数年分の傷跡がしっかりと刻まれており、窓から差し込む柔らかな光がうっすらと積み上がったほこりを浮かび上がらせていた。

「ここ、俺の先月までの席」
 俺が腰掛けたのは、窓側の席。
 広々としたガラス窓。周辺では最上階の場所で、和らいだ光が青い空一面に広がっていた。
 望月くんは、俺の前の席に腰を掛ける。その顔は少し疲れていた。

「六階まで、登ってたの?」
「勿論、しかも二年間。中二の時はここの隣のクラスね」
 俺の言葉を聞いて、あからさまに苦々しく眉間を寄せる。ギターを背負って六階は、流石にしんどかったようだ。すぐにギターバックを下ろすと、壁の方へと立てかけていた。

 
「それで、お願いって、どうしたの?」
 俺は少しだけ笑った後、本題を尋ねる。
 すると、望月くんは思い出したのか、ハッと口を大きく開けると、急に背筋をピンッと伸ばした。
 
「あの、白石くん……」
 変な緊迫感はまるで職員室に入っていく時のようで、何故か酷く畏まっているし、頬には汗がにじみ垂れていた。
 
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
 望月くんに優しく声をかけたが、一向に望月くんの肩は上がったままだ。
 
「ま、まず、さ……あの……」
 今度は一瞬視線を床に落とした、望月君は、迷うように口をはくはくと動かす。
 
「お、落ち着いて」
 こんなにも力が入って伝えるほど、大層なお願いなのだろうか。俺も何を言われるのかと、段々と怖くなってくる。
 望月くんは、気合いを入れるように自分の太ももを強く叩く。
 なんとも小気味よい肉の張り詰めた音が響いた後、息を整えるように、一度大きく息を吸い込んだ。
 そして、やっと口を開いた。

「白石くん……その、俺たち……」
「うん」

「友達になれないかな……?」
 
「ん? もう、友達でしょ?」
 正直、今更な願いだった。拍子抜けしてしまった俺の身体から、体から自然と力が抜けていった。

「え、そう……なの……」
「そうだよ」
 不安そうに聞き返してきたので、優しく同意する。望月君の顔から呼吸と共にこわばりがなくなり、安心したのか力が入っていた肩もゆっくりと下がっていく。

「じゃ、じゃあ、晴富(せいと)って呼んでもいいかな」
「勿論、俺も幸詩(こうた)って呼ぼうかな」

 名前を呼ぶと望月くんは満面の笑顔で「うん、うん」と相づちするから、なんだか可愛いなあと微笑ましくて心が温かくなる。

「で、早速、晴富にお願いがあって」
「お、なになに~」
 また新たなお願いがあるらしいが、先ほどよりも緊張感が抜けた様子のため、俺もゆるゆると続きを促す。

「この前さ、動画、撮られるの怖いって、話したと思うんだけど」
「そうだね」
 昔SNSの動画トラブルのせいで、トラウマになっていたと聞いていた。
 一体、どんなお願いだろうか。けれど、先ほどのお願いのが緊張していたように見えるため、そんなに難しいお願いではないだろう。気楽に構えていた俺に、幸詩が頭を下げた。

「俺のトラウマ克服、手伝ってほしい」

 友達になるよりも、遙かに高いハードルのお願いだった。



 驚きのお願いに困惑する俺に気付いたのか、幸詩は焦りながら言葉を続けた。

「も、もちろん、い、いきなりで、難しいとおもうし……断っても大丈夫だから……」
 かなり慌てているのか、吃音(どもり)が少し出ており、彼の額から汗が滲み出ている。ちゃんと退路を主張してくれるのが、優しいなあと感じる。

「俺に出来ることがあるなら、手伝うよ」
 トラウマ克服の手伝いというのはか思ったより責任重大だが、幸詩も信頼して俺にお願いしているだろう。まだまだ出会って日は浅い。しかし、だからこそ、頼って貰えるのは嬉しかった。
 ちょっとばかり保険をかけたような、言葉にはなってしまったけれど。

「晴富、本当……?」
 幸詩は目を大きく開けながら、本当かどうか尋ね返す。俺は少し笑いながら、「本当だよ」と繰り返し了承した。
 すると、幸詩の顔から焦りが消えて、安心したように顔がまた解ける。

「……ありがとう!」
 今までで一番大きな声を出すものだから、内心ドキッと心臓が跳ねた。彼の心を現すように、ペコペコと何度も頭を下げる幸詩。

「で、俺、何を手伝ったらいいの?」
 まず、幸詩的に考えている手伝う方法を尋ねると、幸詩は俺の前に彼のスマートフォンを突き出した。

「俺を、晴富に撮影して欲しいんだ!」
「うーん……もう少し詳しく聞かせて欲しいかな」
 これはちゃんと用件を確認しないといけない気がした。

 よくよく話を深掘りしたところ、どうやらスマートフォンのカメラに慣れたいので、自分の写真を撮ってほしいという事だった。

「一応、自撮りは出来るようになったんだけど、どうしても他の人からは……」
 詳細は知らないが動画トラブルでのトラウマのせいで彼にとって、他の人からカメラを向けられるのは怖いのだろう、ふるふると幸詩の身体が震えているほどだ。けれど、現代の日常生活で他人のスマートフォンの動画撮影は避けるのは難しい。

「やっぱり、生活に支障が出るから?」
「いや、生活は、大変じゃないのだけど……」
 俺の質問に、幸詩は困ったように言い淀む。少し踏み込み過ぎたかと、答えなくて良いと言おうとした。
 だけど、俺が口を開く前に、幸詩が意を決したように強く頷いた。そして、決意の固い眩しい眼差しが俺に突き刺さる。

「でも、俺……叶えたい夢があるんだ」
 今までで一番熱風が、俺を吹き抜けたような気持ちだった。俺にはない、なにか熱くなるモノを彼は持っている。気づけば、「どんな、夢?」と尋ね返していた。
 幸詩の目は、今まで見た中で最も鋭く、燃えさかる炎のように輝いている。

「バンドで、絶対成功する」
 夢と言うには、あまりにも明確だ。それ以外見えていないくらいの、真っ直ぐさ。
 正直、やりたいことがない俺にとって羨ましかった。

「あれ、バンドって、まだ……」
「実は一応、幼なじみがドラムやってて、ずっと一緒に組んでる」
「そうだったんだ」
 部活でバンド組めずとも、どこかあまり焦っていなかったのは、他に相手がいたからなのか。
 軽音部に入ったのも、今克服しようとお願いしてきたのは、大きな夢のためなのか。

「だから、どうにかしなきゃいけないんだ」
 幸詩の言うとおり、バンド活動するにはカメラへの恐怖心が無くならないと大変だろう。
 現代のアーティスト活動には、SNSでの活動は切手も切り離せないし、写真や動画も沢山撮ることになるだろう。
 なので、まずは頼れる人にお願いして克服したいという作戦か。
 ちらりと机を見る。気づけば、すっかり日の光がオレンジ色に輝き、傷だらけの木目が色濃く赤く染まっていた。
 俺は今度は窓の外を眺め、良い題材があるなと両口角を上げた。

「そっか、じゃあ最初の写真なんだけど……」
 俺は自分の鞄に手を入れる。 中からはストローが刺さった飲みかけの900 ml紙パックジュース。コンビニで買った120円の安い桃の水は、金欠学生にとってはマストアイテム。果汁は最低限、人類の叡智で作り上げられた桃の味を楽しむ代物だ。
 椅子から立ち上がり、慣れた手つきでベランダへと出る。春の終わりの冷たい風が肌をかすめた。
 
 六階から見える美しく広々とした空。
 学校を中心とした、青空と夕日の見事なグラデーション。
 何も邪魔するものはない。天気の良い日に、遅い時間まで残った人たちだけが知っている刹那の絶景。

「幸詩も飲み物出して、乾杯してるなんてどう」
 今日は撮らなければ、なかなかこの先撮れない光景。

 幸詩も目に焼け付くような空に、気づいたのか俺が言うがまま、自分の鞄から飲み物を取り出した。
 スーパーで激安価格で売っているようなシンプルラベルの緑茶のペットボトル。スマートフォンとペットボトルを持ち、俺の後を追うようにベランダの外へと出てくる。やはり掘っ立て小屋、ベランダも他の教室とは違い、酷く簡素な作りだ。

「片手にペットボトル持って、この丁度半々で綺麗に撮ろう。俺が青空側、幸詩が夕日側な」
「え、えっと、良いけど、心の準備を」
「時間ないから、早く早く」
 矢継ぎ早な指示に幸詩は戸惑う。あえて俺は幸詩を急かし、手を伸ばしてスマートフォンを催促する。

 人間勢いでやってしまう方が、上手くいくことが多いと思う。逆上がりとか、自転車とか。考えて怖くなるものよりも、勢いに任せるのが正解だ。

 幸詩は俺の勢いに流されるように、俺の手にスマートフォンを渡す。
 俺は受け取ると、さっさとカメラアプリを起動させた。

「はい、幸詩、ポーズ!」
 俺が掲げた紙パックジュース。ちゃちい桃のイラストが、青空とよくマッチしている。幸詩も言われるがまま、飲みかけのペットボトルを上に持ち上げる。
 乾杯といえば、乾杯っぽい構図。
 その一瞬を逃さず、レンズを向けて容赦なくシャッターを切った。
 
 電子で作られた、シャッター音が響き渡る。

 幸詩は驚いたのか、声にならない声を上げ、後ろずさり、ベランダに落ちたペットボトルが鈍い音を立てた。

「せ、晴富! 心の準備させてよ!」
 いつの間にか教室の中に逃げ込んでいた幸詩は、情けない位に涙目で抗議してくる。

「そんなこと言ったら、一生準備できないだろ。ちょっとブレたけどさ、良い写真、撮れたから見てみてよ」

 俺はスマートフォンを幸詩に返し、ベランダに転がったペットボトルを拾い上げた。
 少し意地悪なやり方だったのが、ここは少しでも考えさせては駄目だと思ったから、急かして勢いで写真を撮ったのだ。

「……ブレてる、俺が」
「動いたからだろ。ほら、幸詩の手も、ちゃんと写ってるじゃん」
 うっすらと雲が浮かぶ茜色と空色のグラデーション、ブレること無い紙パックジュースを持つ俺の手と、躍動感の溢れるブレを披露したペットボトルと、辛うじて肌色で認識できる幸詩の手。

「まずは、第一歩じゃん」
「それは、そう」
 なんだかんだ納得してくれた幸詩は、じっと写真を見ている。
 そして、ゆっくりと顔を上げた。

「晴富、ありがとう。これからも、手伝ってくれ」
「わかった、その代わり、歌、聴かせてくれよ」

 ペットボトルを幸詩に渡す。そして、桃の水をストローで一口飲む。甘いだけのぬるくてまずい桃の味が、何だか少しだけ美味しく感じた。


 トラウマ克服のための撮影を手伝うと約束してから半月が過ぎた。
 学校から少し離れたレトロカフェ。草花が風に揺れて、淡く安らぐ草木の香りが漂うテラス席で、今日も幸詩にカメラを向けていた。

「やっぱり、怖いなあ……」
 幸詩が消え入りそうな声でこぼす。飲みかけのコーヒーが入った、シンプルな白いマグカップの取っ手を握る幸詩。無意識に力が入った手は微かに震えていた。

「腕だけだから、本日3回目撮るよ~」
 幸歌の肘辺りまでを画角に納め、スマートフォンの撮影ボタンを指先で軽くタップした。電子音のシャッター音と共に、撮れた画像は今日初めてブレていない写真だった。

「お! ブレてない!」
 幸詩が心の準備と言い訳をして先延ばしにするの5回。
 合計8回目のリテイクの末、ようやくだった。

 幸詩は「ほ、本当?」と言いながら、俺の手元にある幸詩のスマートフォンの画面を覗き込む。
 アンティークテーブルとマグカップのコーヒー。画面の中に、幸詩の腕が綺麗に切り取られていた。

「目標達成! がんばったな!」

「な、長かった……ありがとう、晴富」
 疲れたのか、ぐったりとテーブルの上で脱力する幸詩は、ぐたりと椅子の背もたれによりかかる。古い椅子だからぎいっと軋む木の音が聞こえた。
 喉も乾いたのだろう、冷めたコーヒーを一口飲み、「こんなにこれ、苦かったんだ」と初めて気付いたらしい。
 先ほども飲んでいたけれど、今の様子的に味がわからなくなるほど、緊張していたようだ。

 俺はカフェラテを飲み干す。温くなっていたが、ザラメのまろやかな甘みと、コクのあるミルクが苦みを包み込んでいる。
 おまけのビスコッティは、ざくざくの甘い生地にくるみが入っている自家製もの。追加で頼みたいが、(ふところ)が寂しいので今日は我慢した。
 
「次の目標は、身体半分か」
 幸詩の呟きに、俺はカフェラテから幸詩へと視線を向ける。スマートフォンの画面を見ながら困った顔をする幸詩。
 多分、画面には俺たちが考えた『トラウマ克服するぞ目標』が写し出されているのだろう。写真から動画へとステップアップしていく目標を二人で考えて、少しずつ達成していっている最中なのだ。

「そうだね、明日は手伝えないから、明後日になるけど」
「ボランティア部の活動だっけ?」
「そう、地域の掃除ボランティア」
 明日は部活動のため五限までの水曜日。
 基本的にボランティア部は活動はないのだが、珍しくミーティングと校外ボランティアとしてゴミ拾いをする日なのだ。

「幸詩は、軽音部……明日は行けそう?」

「……迷ってる、かな」
 幸詩は小さく背中を丸めて、ギターに視線を落とす。
 トラウマ克服のこともあり、ほとんどの放課後を幸詩と過ごしている。勿論、本来幸詩が軽音部に参加しているはずの水曜日もだ。

 実は一度部活にちゃんと参加しよう頑張ったけど、相も変わらず隣のクラスの女子人気が凄く、断念したのだ。
 更に彼女はベースボーカルで、どうやらバンドではベースがかなり需要が高いらしく、熱量に拍車がかかっているようだ。
 そんな熱気の中、ただでさえギターボーカルというライバルだらけのポジションの幸詩は、引っ込み思案な性格もあって誰とも仲良くなれていない。

 結果、俺と怠惰な寄り道しつつ、トラウマ克服チャレンジに挑み続けて過ごしているのだ。

「喉の調子はどう? まだ、駄目そう?」
「うん、やっと痛みはなくなっけど……ね」
 そして、不運な事に出会った時の風邪が尾を引いていて、満足に歌えないよう。余計に軽音部でアピール出来ないのだ。
 俺も幸詩の歌とギターを聴きたかったが、体調が良くなってからお願いしようとおもっている。

「文化祭、このままだとソロ?」
「全員参加だからね」
 文化祭での軽音部の演目は、例年同様全員参加ライブらしい。部員ならば、たとえソロでも一曲は披露しなければならない。

「……ソロとかより、動画撮られる事のが怖い」
 幸詩曰く、ソロよりも向けられるスマートフォンのレンズのが恐ろしいようで、疲れた顔をしながらため息を吐いた。

「そのためにも、頑張って特訓しような」
 俺は怯えた幸詩を落ち着かせるように優しく声をかけつつ、ゆっくりと席から立ち上がる。
 もうそろそろ今いるレトロカフェが、オシャレなレトロバーに変わるので、学生の俺たちは店から出ないといけない。

「ほら、幸詩、暗くなるし帰るよ」
 俺を見上げる幸詩は、寂しそうに眉を下げた後、唇をつんっと尖らせた。

「帰りたくない」

「だぁめ」
「もう少しだけ一緒じゃ……だめ」
 出会ってまだ期間が短いとは言え、それなりに打ち解けたからか、いつも帰る時になると幸詩はこのように「帰りたくない」と駄々をこねるようになった。
 しかし、ちゃんと断れば、とても残念そうにしつつも「分かった」と受け入れてくれる。
 寂しがり屋なのかもしれないし、甘えてくれるほど俺のこと気に入っているのだなと、暢気に嬉しかった。勿論ダメなものはダメなので、断るけれど。

「ボランティアってさ、部員だけなの?」
「ううん、俺たちがやっぱ主導だけど、明日の清掃とか実は部員外もできるよ」
「そうなんだ。わかった、ありがとう」
 まさかボランティア部の事を、聞かれるとは思いつつ、ちゃんと応える。幸詩も納得したように、一回頷いた。


 そして、話していた翌日の水曜日の放課後。

「あのぅ白石、その後ろのデカいのは?」
 ボランティア部の部長が、俺の背中側に向かって指す。先にミーティングのために借りた教室にいた高田と松下も、俺の背後に視線を向けて唖然としていた。

「えーっと、ボランティア参加したいそうです」
「高等部一年四組の望月幸詩です。今日はお願いします」
 いつもとは違いギターを背負っていない幸詩が、何故か俺と一緒にボランティア部にやってきたのだ。



「基本的には新入生は先輩達の指示に従って。いつも通り自治会長さんには確認済みだから」
 黒板の前に立つ部長が、慣れた調子でボランティアの説明を始めた。

 説明の間に参加者リストが回ってきて、俺たちは順番に学年とクラス、名前を書き込んだ。
 教室内には顔なじみの先輩や中学の後輩達の他に、初対面の人たちも勢揃いしている。

「ちなみに、高校一年でも内部進学組はいつも通り先輩組として扱うから、覚悟しておけよ」
 部長の説明に続いて、副部長である女性の先輩が、鋭い目で俺たちに声をかけた。
 内部進学組でボランティア部なのは、俺、高田、松下の三人のみなので、三人それぞれ「はあぁい」と間延びした返事をした。

 俺たちはもう七回目になる地域清掃ボランティア、少し変更点はあれどやることは変わらない。全体的に弛んだ様子に気付いたのだろう、副部長はしっかりと釘を刺してきた。

「お前ら、気が抜けてるだろ。特に、白石。お前は友達を連れてきたんだから、ちゃんと対応しなよ」
「は、はい」
 俺だけ、名指しである。誘ったわけではないが、ボランティアに必要な軍手とゴミ袋を用意しており、「今日参加したい」と言われてしまえば、断れなかった。しかも、ギターを家に置いてくる徹底ぶりだ。

「よろしくお願いします」
 隣に座る幸詩は、副部長たちに向けて丁寧に頭を下げた。


 ボランティア活動が始まり、学校の正門から決まった道筋を歩きながら、ゴミ拾いを始める。軍手を装着した手には、長い鉄製トング、ゴミ袋。腰のベルトには水筒を引っかけている。とりあえず目に付いたらどんどん拾い、最後的には学校内のゴミ捨て場で分別する方法だ。
 といっても、意外とゴミが落ちていないのは、学校区域がある地域は比較的穏やかな住宅街だからだろう。
 ペットボトルやマスクゴミ、レシートなどのポケットから転げ落ちたようなゴミが殆どである。

 松下と高田は、新入生に適当に話しかけつつ、さっさと作業を進めていた。俺も普段ならさくさく進む側なのだが、副部長からの命令で今回は一番後ろで新入生がはぐれないように見る役目だ。

「意外と、ないね」
「だよね、俺も最初びっくりした」
 幸詩が俺の隣にぴったりと寄り添いながらゴミを拾っている。平均身長の俺ですら背を丸めて作業しているというのに、高身長の幸詩はなかなかに体勢が辛そうだ。

「それにしても、軽音部大丈夫だったの?」
「休んでも誰も気にしてないから、いつも出席だけだし」
「た、たしかに」
 思えば、ずっとそうだった。
 他愛も無いこと話しながら、学校の周りをぐるりと回っていく。途中、見守り担当の自治会の人たちから応援される。

「はい、水」
「ありがとう」
 ボランティア部の時は、ゴミを出さないようにと水筒持参必須。そこまでは知らなかった幸詩に俺は水筒のコップを渡す。学校の給水器で継ぎ足してきたとはいえ、ぬるい水を幸詩は飲んだ。そして、コップを受け取り、俺も水を口に含む。
 学校の周りとは言え、基本的に一時間くらいかかるため水分は必須。しかし、鞄は盗難や紛失がないように、ボランティア部の鍵付きの部屋に保管される。というわけで、俺のを分け与えているのだ。

 本当にくだらない話をしながら、学校の周りを歩いて行く。閑静な住宅街を進んでいくと、公園では子供たちがゲーム機に夢中になっていた。幸詩と一緒に食べたことのあるたい焼き屋の前を通れば、今日は珍しく臨時休業の看板が出ていた。

 練り歩けばそれなりにゴミが集まるもの。一番後ろとはいえ、一時間も集めていればゴミ袋半分くらい集まっていた。

「お、やっと学校が見えてきた」
 出発とは逆側から戻ってくると、先に着いただろう部長が校門前で立ち、俺たちの帰りを待っていた。

「白石たちで最後だから、今回は無事()()()()()()合流したな」
 部長は言葉を強調しながら意味深ににやりと笑う。その言葉が当てつけであるのを知っている俺は「ハイ、良かったですね」と顔を引きつらせた。
 幸詩は不思議そうに首を傾げるが、「はい、お疲れ様です」と頭を下げ、俺と共に分別するためゴミ捨て場に向かった。

 ボランティアも分別も終わり、どんどんと解散していく。
 わかっていたことだが、先頭の方に居た高田と松下はすでに帰路についていた。
 メッセージアプリにも『外部生くんによろしく、また明日』とだけメッセージが届いていた。
 ヤキモチを焼いているように一見見えるが、長い付き合いの俺にだけは真意が伝わっていた。ただ、さっさと帰りたかっただけだろう。基本的に二人は、早く帰ることが重要なのだ。

 その中で中学入学したての頃、俺の到着が酷く遅れた事件があった。

「同じクラスの人たちは?」
「先、帰ったよ」
 鞄を回収した俺たちは、中にいた副部長に挨拶をして部室を出た。
 学校の正門から駅へと向かいつつ、それまで明日の克服について話していると、幸詩が「そういえば」と話題を変えた。

「誰かはぐれたの?」
 ぐっと顔を中央に寄せて、思わず顔が苦味つぶしを齧ったように、くしゃりと縮こまる。

「……俺だよ」
「え、地元だよね」
「地元……だからさ」
 まさかの回答に、幸詩がぎょっとした表情で、俺の顔をのぞき込んできた。指摘はごもっともで、地元なのだ。
 しかし、地元だからこその緩みと、どうしても我慢が出来なかったのだ。

「たまたま、歩いてたら新装ラーメン屋を見つけたり、途中の商店街で期間限定のケーキショップがあったり……」
 そう、今はもう閉店してしまったが鶏白湯のラーメン屋がオープンしていたのだ。ついそちらに気を取られてしまい、知らず知らず周りには誰もいなくなっており、仕方なく土地勘で歩いていたら……。
 今度は期間限定のケーキショップが出店しており、そこでも道草をしてしまい、気づけばとんでもない時間になっていたのだ。
 当時のボランティア部では、「はぐれた」と大騒ぎで、探しに行こうかと顧問と話し合っていたほど。
 理由を聞いた人たちからは、大笑いとお叱りを受けたのは言うまでもない。

「色々気をとられてたから、はぐれたの?」
「その頃、高田と松下とも仲良くなかったから、さ」
 そして、別のクラスだった高田と松下は、我関せずで帰宅しており、後日「ラーメン屋の看板じっくり見ててはぐれるとか」と笑われてしまった。
 幸詩は戸惑いながら、「本当に晴富って、ご飯大好きだよね」と優しくフォローしているが、彼の口元はピクピクと引きつっている。

「それ以来、最後尾に監視役がついてさ。俺も二度としないと誓った」
「なるほど、ね」
 幸詩の声は、笑いをこらえているせいか、少しこもって聞こえた。俺が目を細めて視線を突き刺せば、幸詩は小さく噴き出し「ごめんて、だって晴富らしくて」と笑い始めた。

「笑うなよ、俺の黒歴史なんだけど」
「ごめん、ごめん」
 それでも笑いが止まりそうにない幸詩。俺はむうっと拗ねながら、肘で優しく幸詩の腕を小突いた。


「喉、やっと復活です」
「おめでとう!」
 ゴールデンウィークが近づく四月最後の水曜日。部活のない俺と幸詩は、以前一緒に夕日を見たあの教室にいた。窓の外には柔らかな日の光が射し、青空には白い雲がぽっかりと浮かんでいる。

 相変わらず部活には馴染めないようで、出席確認と連絡事項を聞くと、逃げるように俺の元へとやってくる。
 毎度俺のクラスまで迎えに来るため、友人である高田と松下も慣れてきたらしく、「保護者業、頑張れよ~」と視線すらも向けない様子で先に帰っていった。

 以前二人から「いいように使われてないか」と心配されたけれど、俺の「大丈夫、楽しいし」という素直な気持ちと幸詩のなつきっぷりに、今は一切心配していない。

 さて、一ヶ月もかかってしまったが、ようやく幸詩の喉の調子がよくなった。

 最初に出会ったときの掠れた声が嘘のように、今の幸詩の声は少し癖がありつつも澄んだ低音で、耳に心地よく響いてくる。
 幸詩も嬉しそうに頬を緩めながら、幸詩はギターケースのファスナーをゆっくりと開け、艶やかな木目が美しいアコースティックギターを大事そうに取り出した。

「ということで、約束の通り歌います」

「おおー待ってました! 楽しみ!」
「春っぽい曲を、晴富のために用意したよ」
 少し照れたように笑ったが、目には確かな自信が宿っていた。
 なんだか初めて見る姿だったが、次の瞬間更に俺は驚かされた。
 手慣れた手つきでギターをチューニングし終えると、幸詩は軽く喉を鳴らす。そして、音階を一音一音確認するように駆け上り、そして一気に低く沈み込んでいく。
 ただの音階を駆け上り一気に落ちていく。

 それだけで、俺は思わず背筋を伸ばして息を呑んだ。

「じゃあ、聞いてください。Neon Wildの『Wildflower』」
 Neon Wildは海外で注目されているロックバンドで、『Wildflower』は以前、日本の車のCMソングとしても人気だった。雪の冷たさを耐え、春を迎えた花が力強く咲き誇る。俺は、誰にも負けない唯一だと伝えるロック。

 弦を弾く。最初の一音。静寂とした空気を切り裂くように広がった。

 心地よさに俺は、自然と目を見開いた。
 音は繋がり音楽となり、耳の横を強い風のように、アコースティックギターの柔らかくも情熱的な音が疾走していく。
 ギターの音に乗る歌声。誰よりも荒々しく。けれど、繊細な息づかいが、心を突き動かす。雪の冷たさも、春の光も、咲き誇る花の強さも。
 歌に込められたものを、彼が全て伝えてくる。
 寧ろ、この歌が幸詩なのかもしれないと、思ってしまうほど。

 最後の一音まで、聞き逃したくない。いや、終わらないでほしい。
 思わず、そう願ってしまうほどに。
 けれど、音楽は短い。最後の歌詞を歌いきり、終にはおしまいと言わんばかりに弦を掻き鳴らした。

「す、すごい……!」
 無意識に立ち上がり、手が自然と拍手を始めていた。胸の中で押さえきれない何かが爆発するような感情が湧き上がってくる。
 叩きすぎて自分の手のひらがヒリヒリと痛むが、この感動を伝えられるなら腫れ上がるのも本望だ。
 幸詩はまさかこんなにも反応するとは思わず、「お、落ち着いて……」といつもの静かな感じで俺を宥める。

「良すぎるって! これは、本当にデビューしてワールドツアーだよ!」
 心がこんなにも震えるほど素晴らしい、歌声だった。本当に世界の大きなステージで歌っているのが想像できるくらい、素晴らしかった。

「ありがとう、晴富のために用意したから、よかった」
「俺のためかあ、そう言われると照れちゃうな」
 言葉通り安心したのか、幸詩は肩の力を一気に抜き、笑みを浮かべながら大きく息を吐いた。
 俺のためとか嬉しいなと、俺はにまにまと頬の緩みが止まらない。
「せっかくだし、別の練習してる曲、聞いてもらてもいい?」
「勿論!」
 なんともありがたい提案に、俺は即答した。幸詩は楽しそうに体を横に揺らしながら、空咳で喉を鳴らし始める。
 しかし、次第に顔を顰めると、何故か申し訳なさそうな顔で俺を見た。

「あ、晴富……」
「うん」
「飴とか、あったりする?」
「勿論! 何がいい? てか、無理させちゃったかな、ごめん」

 どうやら、復活したとは言っていたが、喉の調子はまだ完璧ではないようだ。俺は鞄からクマの形の巾着を取り出した。巾着の口を開けると、今までセレクトした様々なお気に入りの個包装された飴が入っていた。俺は中身を見せるようにして、幸詩に巾着を差し出した。

「すごい、流石、晴富だね」
 幸詩は興味深そうに巾着の中を覗き込んだ。

「ははは、よく言われる。好きなの選んでいいから」
 実は高田や松下だけではなく、他のクラスメイトや同級生からもしょっちゅう飴をたかられている。というのも、俺は基本的に身体の燃費が悪く、見た目よりもお腹が空きやすい。そのため、飴玉で空腹感を紛らわせるように持ち歩いているのだ。

「じゃあ、俺、このはちみつのど飴で」
「お、お目が高い! 流石」
 幸詩はそっと飴の個包装をつまみ上げた。ハチの可愛らしいイラストが描かれた人気ののど飴だ。
 単純に蜂蜜だけではなく、レモン酸味もプラスされており、本当に甘くて喉にもいい。
 俺もついでにと、巾着の中から小さな二つのキューブが入ったフルーツ飴を取り出す。黄色と緑のキューブはそれぞれ、レモンとメロンの味だ。

「その飴、久々に見た」
「意外とでかいスーパーだと売ってるんだよな」
 よく小学生のころ遠足で女子が食べていた印象の可愛い飴なのだが、俺の母親が好きで家にいつも置いてある飴。幸詩も遠足の印象が強いからか、じっと俺の手の中にある飴を凝視する。
「じゃあ、もう一個上げるよ。えーっと、一番俺が好きなイチゴとグレープの組み合わせ」
 巾着から見えていた同じキューブの飴をつまみ上げ、はちみつのど飴を未だ握っていた幸詩に渡した。

「ありがとう」
 幸詩は飴を貰うと、礼を言いながらポケットにしまい、はちみつのど飴の方を舐め始める。俺は選んだキューブ飴を口に放り投げた。
 すっぱあまいレモンと、グリーンな甘みの強いメロンの、人工感強いチープな風味。
 これこそが、この飴の持つ独特の魅力なのだろう。唾液と共に溶けていく幸せをゆっくりと味わう。
 その時、教室の静けさを破るように、ガリッという乾いた音が響いた。
 俺が顔を上げると、幸詩が飴を無造作に噛み砕いていた。

「……豪快だね」
「飴、口にあったら、歌えないからね」
 飴を噛む音がガリリと響き、彼の言葉とともに、蜂蜜レモンの香りがふわりと広がった。
 驚く俺に淡々と回答する幸詩。たしかに、正論だが、やはりどうしてもびっくりしてしまう。
 そんな俺の驚きを気にせず、 「じゃあ、次は何を歌おうか」と幸詩はギターを軽く撫でつつ、こちらに視線を向ける。彼の瞳には、新たな挑戦へのわずかな期待が込められていた。

 幸詩の姿を見ながら、俺は心の中で思わず微笑んだ。
 きっと彼は、これからもっと大きな存在になっていくんだろうと、改めて思った。



 ゴールデンウィークが終わり、ついに最初の登校日がやってきた。
 教室の窓の外には、新緑の葉が陽の光に透け、キラキラと輝いている。
 しかし、教室内は反対に全体的に暗い雰囲気に包まれていた。

「ゴールデンウィーク、終わったら、もう中間かあああ」
 高田は机に突っ伏し、購買で買った焼きそばパンを無造作に片手に握りしめている。かじりかけの焼きそばパンが、まるで彼の苦しさを代弁しているかのようだった。

「早いよね~」
 俺も購買で唐揚げ卵サンドを食べつつ、先ほど一発目の中間範囲の発表を思い返し、苦笑いを浮かべる。
 唐揚げに絡んだ美味しい照り焼きソースや、ふわふわの優しい卵サラダとは違い、現実はなんともほろ苦い。
「毎年のことだろうが。俺たち、四年目だぞ」
 松下は冷静に言い放つと、冷やしたぬきうどんを無表情でずるずると啜った。松下の言葉に、俺と高田は顔を見合わせて、微かに笑った。こんなやり取りを繰り返すのも、もう四年目かと思うと、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。

 青口学園は三学期制のため、五月中旬からは一学期中間テストが始まる。去年までは五月に体育祭もあったのでてんやわんやだったが、近年の気候変動から秋へと変更されたので少しは楽になった。
 けれど、勉強命かつ学年の一位二位を争う松下と違い、俺と高田は正直勉強が嫌いである。

「いつもどおり、一緒に勉強したいなあ、なんて」
「それだと助かる。松下、お前ならもう完璧だろ」
「大体は、な」
 テストの時は松下にいつもお願いして、勉強を見て貰っている。今までの松下の傾向的に、ゴールデンウィークには今年の範囲分までは、勉強終えていることのがほぼなのだ。

「一応今日あったやつは、全部メモしたから任せておいて」
「白石、お前は真面目で助かる。ただ、今回は数学(いち)現代文(げんぶん)が一番ネックだよな」
 基本的に範囲等の内容をまとめるのは、唯一まともに授業を聞いている俺の役目。その範囲の情報を元に勉強を教えるのは、松下の役目だ。

 松下曰く、「他人に勉強を教えることができたら知識として身についたサインだと、研究として証明されている」とのこと。俺たちは彼の言葉を真に受け、ありがたくそのご厚意に甘えている。

 ちなみに、テストでは戦力外の高田に関しては、また別の機会に役に立ってもらうので問題ない。
 と考えている時、自分のスラックのポケットが震えた。スマートフォンを取り出して、幸詩からのメッセージが届いていた。「なんだろう?」と少し不安を抱きつつ開いてみると、驚くべき内容が目に飛び込んできた。

「今、幸詩から数Ⅰと化学の範囲、教えて貰った」
「まじか」
「あのでくの坊も役に立つのだな」
 なんと親切にも、あちらのクラスで告知された中間テスト範囲が書かれていた。
 高田はわかりやすく喜び、松下も言葉は酷いが彼なりの褒め言葉だ。
 俺はまだ文面の続くメッセージに最後まで目を通す。どうやら、他にもあるらしく、今日は一緒に勉強しないかという内容だった。

「幸詩が、今日の化学で大事なポイント出たらしくて、一緒に勉強したいって来てるけどいいかな」
俺が二人に確認すると、高田は「おけ、一度は対面で話してみたかったから」と即答し、松下は少し考えた後「共同戦線を張るのも勉強だ。構わん」と小難しい返事を返した。二人が幸詩に対しても協力的なことに、俺はほっと胸をなでおろした。
 幸詩にも、二人がいることを伝えると、すぐに「大丈夫」と返信が来た。

「じゃあ、今日は四人で。場所はやっぱ三年二組で、どう」
「六階まで上るのかよ、だりぃ……」
「まあ、このテスト時期は図書室も自習室も混むから、残当だろう」
 わかりやすくいつもの屋上階を指名すれば、高田は嫌そうに顔を歪める。しかし、松下の最もな意見を聞き、「仕方ないか」と高田は渋々了承し、焼きそばパンをかじりついた。
 俺はメッセージで、「中間が終わるまでは撮影は一旦休止かな」と返すと、幸詩からも同意の返事が返ってきた。


 今日の放課後。俺たちは三年二組にて、初めて四人で集まった。

「改めまして、望月幸詩です。よろしくお願いします」
「高田拓海」
「松下慎一だ」
 四人が向かい合わせに座った机の上には、それぞれのノートと参考書が並んでいる。互いに短く名乗り合っただけで、あとは沈黙。まるで見合いの席みたいで、俺は内心苦笑してしまった。

「じゃあ、早速勉強しようか」
 俺の声かけと共に、四人で勉強を開始した。

 それから、一時間後。
 机には数学と英語の教科書やノート、プリントが広げられており、机にはそれぞれの飲み物が置かれていた。

「うわあ、わかんな、ここの確率ってどう解けばいいの」
「晴富、それはさここを応用して……」

 隣の幸詩に尋ねると、彼は俺のノートに軽く手を置き、しっかりと目線を合わせてから説明を始めた。彼の声は落ち着いていて、一つひとつの言葉が丁寧でわかりやすい。
 幸詩は数学が得意らしく、数学が苦手な俺にとってはまさに救世主だ。
 ちなみに高田は本日二度目の居眠りによって、松下に叩かれた頭を摩りながら、今日の英語の大事なポイントを教科書に書き込んでいた。

「意外と望月は勉強しているのだな、この二人と違って」
 一時間が経った頃、松下は感心したように幸詩を褒めた。

「ありがとう。晴富は家庭科得意だよね、先生が言ってたよ」
「料理とか裁縫は昔からしているからね」
 幸詩は手短にお礼すると、俺に何故か話を振った。家庭科の先生とは中学からの付き合いなので、俺の食べることへの愛が高じて、料理が得意というのはよく知っている。
 その先生は引っ込み思案な生徒を気に掛けるタイプなので、幸詩にも話しかけたのかもしれないが、まさかの話題で少し笑いながら答えた。

「へえ、得意科目はなに?」
「一番得意なのは音楽、晴富は聴いたよね」
「うん、幸詩のギターと歌は本当に凄いもん」
 そこまで言って、俺はふと思いだし、「そういえば」と話題を切り出した。

「好きな楽器で課題曲弾くテスト、みんなは大丈夫そう?」
 音楽教科にも勿論テストがあり、暗記物の筆記テスト、学園歌の前半の歌唱テスト、課題曲の指定箇所の演奏をしなければいけないのだ。

「俺はアルトリコーダー、折るわ」
 高田はまるで悪役を決意したヒーローのように、拳を握りしめた。
「楽器の実技は捨てた」
 松下は潔い決断を表明する。
 ちなみに学園歌は四年目のため、もうすっかり身体に染みついているので問題ない。

「俺はギターでやるかな、アルトリコーダーでもいいけど」
 幸詩はやはりギターで演奏するようだ。アルトリコーダーもできた上でというのも、なんとも強い。

「すごいなあ、俺、リコーダーすらも出来ない……」
「俺が教えるよ、大丈夫だから」
「ありがとう、幸詩」
 俺の肩に重くのしかかっていた不安が、幸詩のフォローで一気に軽くなったように感じた。
 幸詩からのありがたい申し出は、本当に感謝でしかない。黒い前髪の隙間から優しく微笑む幸詩に、俺もホッとした笑顔でお礼を言う。

「おーい、俺たち何見せられてんだ」
「知らん、全員さっさと勉強しろ」
 何だか脱力した顔の高田の言葉に呼応して、険しい顔の松下は冷たく言い放つ。たしかに脱線しすぎたかと、俺たちは勉強へ戻った。
 中間テストが始まるまでの期間、四人で学校に居れるギリギリまで勉強し続けた。
 ということは、どうしても腹が減ってしまう。

 こういう時に行くのは、大抵決まっている。
「最強ハンバーガーセット一つ」
 学校の近くにあるラドリーダイナーという、安めのハンバーガーチェーン店。
 学生が集まってゆっくり食事を取れるなんて、ファーストフード店かファミレスくらいだ。
 テーブル席に戻ると、既に注文を終えた幸詩と松下が注文したポテトや飲み物を摘まみながら、ゆったりと座っていた。そこには、先程までいたはずの高田の姿はない。

「あれ? 高田は?」
「あいつ、なんか今日リアタイしたい番組あったらしく帰った」
「そ、そっか」
 高田が慌てて帰るのだから、何かファッション関連の番組なのだろう。俺は「それなら仕方ないね」と言いながら、注文の品が乗ったトレイをテーブルに置く。男子高校生三人でもそれなりに狭いテーブルの中、俺は幸詩の隣かつ松下の正面の席に座った。

「いただきます!」
 俺が注文した最強ハンバーガーセットは、まさにこの店ならではのもの。
 ふかふか分厚いバンズ、ジューシーなビッグパテ、カリカリベーコンも最高の品。シャキシャキレタスに、丁度良い焼きかげんの輪切りトマトとタマネギ。それをがっつり纏め上げる最強のオーロラソースが最高。
 ちなみにだが、こういうガッツリ系のハンバーガーは手に持って齧り付いたら最後、食い切るまで離さない方が食べやすいコツだ。父ちゃんが言っていた。

「お前、まじで食うよな」
「だって、このジューシーなお肉の脂と書いて幸せと読むほどの味だよ!?」
「ま、なあ。そうだけど、さあ」
 一口、また一口と食べていた俺に、松下は少し呆れ気味に声をかける。そんな松下はハンバーガーサラダというバンズの代わりにレタスとトマト増量したメニューとポテト。

「俺も、それにすれば良かった」
「一口いる?」
「いいの? うん、ほしい」
 幸詩に俺は包み紙をずらし、口づけていない部分を差し出した。すると、いつもの豪快さとは違い、遠慮がちに一口齧り付いた。

「おいしい?」
「美味しい。たしかにジューシー」
 美味しそうに食べる幸詩の口の端についたソースを軽く拭う。その間も幸詩はもぐもぐと頷きながら咀嚼していた。

「白石、お前は望月の母ちゃんか」
「母親……?」
「無自覚かよ……」
 そんな俺らを見て酷く呆れたような松下。俺は「もしかして、ハンバーガー、ほしかった?」と尋ねると、「俺は何を見せられてるんだ」とわざとらしく大きなため息を吐かれた。
そんな俺たちの隣で、幸詩は一人どこか驚いた様子でこぼした。
「晴富って、母さんみたいなんだ……そうなんだ……」
 不思議そうに呟くから、幸詩にとっては意外だったのだなと思っていた。だから、この時は気にも止めなかった。

 それから、数日後。

「おわったー!」
 無事に中間テストが終わり、ようやく勉強漬けの日々が終わった。
 後はテスト結果だが、それよりもだ。

「幸詩、今日からまた特訓再開ってことで」
「うん」
「じゃあ、今日どこに行く? 上の教室のがいい?」
 下駄箱で待ち合わせしていた俺たち。どうしようかと隅の方で会話をしていると、俺の視界の端に久しぶりに見た先生が入り込んできた。

「あ、笹塚先生、お久しぶりです」
「ん? おお! 白石か!」
 笹塚先生は中等部時代の学年主任の先生で、ご高齢かつ長い間青口学園に勤めている熱血で面倒見のいい先生だった。去年末に手術が必要な病気にかかってしまい、長期療養していた。
 俺も随分とお世話になった先生で、恩師と呼べる人の一人。俺が呼びかけると、先生はゆっくりとこちらへとやってきた。

「体調よくなりましたか?」
「ああ、非常勤にはなるが、また戻ってくる予定なんだ。お、君は新入生かな?」
 笹塚先生は相変わらず温和な笑顔を浮かべながら、俺の隣にいた幸詩へ声をかけた。
 幸詩を見た瞬間、彼の瞳が見開かれているのに気づいた。その視線は、まるで過去の影を追うように笹塚先生に向けられており、同時に不安を抱えたように揺れているように見えた。

 そして、少しの静寂の後幸詩の口が開いた。

「……お久しぶりです」
 一言目は、随分硬く畏まっていた。ただ、その続く言葉に、俺はただただ驚くことしかできない。

()()()()()()と望月()()()()の息子の、望月幸詩です」
 極めて穏やかな口調で話すけれど、声はわずかに震えていた。

 えとうしおり? 望月こうすけ?
 息子だと称しているからに、幸詩のご両親の名前だろうか。しかし、この場面に彼の両親の名前がどうして出てきたか解らず、笹塚先生を見る。笹塚先生は一瞬、驚きのあまり息を飲んだ。そして、まるで記憶の断片が繋がったように「ああ!」と声を上げ、目を細めた。

「望月と江藤の、息子か。そうか、こんなに大きくなったんだな」
「はい」
「そうか、()()()()だったから驚いたよ」
 「葬式」という言葉が放たれた瞬間、周囲の空気が一瞬で凍りついたような感覚に陥った。
 幸詩のご両親に、何があったんだ?
 頭の中で一瞬、たくさんの疑問が駆け巡る。

「あ、すまない。今から学園長と打ち合わせなんだ、学期明けから復帰するからその時また、話そう」
 笹塚先生は、申し訳なさそうに頭を下げると、学園長室のほうへと去って行く。残されたのは、少しばかり気まずい雰囲気の俺たち二人。

「……晴富、あの……その……」
 幸詩がいつもよりも暗いトーンで俺の名前を呼んだ。視線を向ければ、狼狽えたように俺から目をそらし、下駄箱の地面を見ていた。
 まだ短い付き合いだが、幸詩の声は彼の心を素直に反映していると思う。
 だから、この暗い雰囲気を一掃するように、俺はとびっきりの笑顔を浮かべた。

「なあ、幸詩、三角パンの店、行こうよ。公園で、気分転換にピクニックとかどう?」
 と、わざと明るく、軽やかな声で話しかけた。重い空気を振り払うように、笑顔を浮かべながら。

「え」
「美味しいパンと、写真撮るのよくない?」
 明るく話しながら提案する俺に、幸詩は少し目を見開いた後、ぎこちない笑顔を貼り付けて小さく頷く。
 俺たちは出会ってから日も経っていないから、まだまだ知らないことばかりだ。幸詩には何か他にもあるかもしれない。

「……まあ、ここでしんみりしても仕方ないしさ。美味しいパンでも買って、少し休もうよ。空の下で食べるの美味しいよ」
 だからこそ、何か幸詩の為に出来たらと思ったのだ。


 学校の下駄箱を抜けて正門を出ると、以前たい焼き屋に向かった時と同じ坂を登り始めた。空は曇りがかかり、少し湿った風が肌を撫でる。夏の兆しが少しだけ感じられるものの、まだその気配は控えめだ。
 あと少しで梅雨入りも間近だから、最近は天候もあまりよくない。
 そして、俺たち二人の空気はどうしても重いものになる。

「三角パンのお店、イートインスペースないからさあ。でも、だからこそ買い物を楽しめるって思うんだよね」
 重く淀んだ空気が俺たちの間に漂っていた。どうにかこの空気を壊そうと、俺は無理にでも明るく話し続ける。だが、隣の幸詩は暗い顔のまま、小さく頷くだけだ。彼に引きずられないように、俺は必死に言葉を紡いだ。

「昔は購買にあったパンも売ってるんだ。さっきの笹塚先生が『思い出のミルクパン』とか、『思い出のごまあんぱん』とか」
 笹塚先生は本当に歴が長く、授業の合間に色々な事を教えてくれた。購買のパンも昔より品数は減りつつ、人気なモノだけが残ったことも。
 幸詩はようやく顔を上げて、俺の方を見た。

「……ミルクパン」
「前にさ、ミルクパンについて、言ってたよね。気になるでしょ」

 幸詩の目に、ほんの少しだが、ぼんやりとした光が差し込んだ。俺たちが出会ったとき、彼がミルクパンはあるかどうか尋ねてきたことを思い出した。あの時は、単純に好きなのかと思っていたが、彼にとってもっと違う意味だったのだろう。

「俺、この店のミルクパン、好きなんだよね。おっ、見えてきた」
 視界には年季の入った白地のくすんだ建物に、赤と黄色のストライプの昭和レトロなテント看板。
 もうそろそろ閉店時間らしく、店前を片付けていた。俺は慌てて時計を見る。十六時まで後七分。

「やば、あと七分しかない」
「えっ」
「早く買おう!」
 慌てた俺は勢いのまま幸詩の腕を取って、お店に駆け込んだ。

 さっさと選ばなければという意識で、とにかく目当てのパンをお盆に乗せて会計して、という一連の作業でパンの香りや店の雰囲気を楽しむ時間は全く無かった。

「ミルクパンゲットできた~。ごめん、振り回す形になって」
 俺の手にはベーカリーオリジナルロゴが描かれた緑色ポリ袋に入った買ったパン。昔ながらのお店だからか、一個百二十円と昨今のパンにしては安い値段だ。
 謝った俺に、幸詩は「大丈夫」と短く言葉を返す。
 そして、パン屋近くの自然公園へと向かう。

 広い砂のグラウンドには、小さな砂場や錆びついた鉄棒、古びたブランコがぽつんと置かれていた。ペンキの剥げた滑り台も、公園の片隅にひっそりと佇んでいる。
 小さい頃は公園内に沢山の遊具があったが、昨今の安全面とかメンテナンス面から殆どが撤去や、別のモノに置き換わってしまった。
 だからだろうか、子供の姿もなく、犬を連れたおばあちゃんがゆっくりと歩いているだけだ。
 隅にはベンチとテーブルが設置されており、俺たちは鞄をテーブルに置いて腰を掛けた。
 ショップ袋を開けると、透明なビニールに包まれた、こんがりと焼けた艶やかなミルクパンが2つ顔を覗かせた。その隣には、ストロー付きの牛乳パックが二つと、おしぼりが揃えられている。

「さあ、食べよう」
 俺はおしぼりを幸詩に渡す。幸詩は頷くと、おしぼりの袋を破いて、手を拭き始める。
 自分の牛乳パックにストローを差すと、おしぼりで手を拭いて、ビニール袋を開く。
 そして、もう一つ取り出して、袋に入ったままの方を幸詩に差し出した。

「とりあえず、撮影忘れて食べようよ。中間テストお疲れ祝いってことで」
「……ありがとう」
 どこか暗い幸詩は申し訳なさそうに頭を下げた。俺はにっこりと笑った。

「いいのいいの。さあ、食べよう! いただきます!」
 先陣切って、ミルクパンを頬ばる。艶やかな生地に包まれたふかふか柔らかパン。ミルクらしい香りと、ほのかなバターと、優しい甘さと。全て幸せになる味だ。目を細めて堪能した後、俺の目の前に座る幸詩を見る。未だパンに手をつけず、じっと無表情で見下ろしていた。

「うん、美味しい~! 幸詩も食べてよ!」
 極めて明るいトーンで、俺は優しく促す。幸詩はハッと顔を上げた後、控えめに頷き、ようやくパンに手を伸ばした。
 透明のビニール袋を剥き、パンを持ち上げる。何故だか、震えている手。
 幸詩の感想が気になった。

 幸詩は一口、パンを齧る。
 そして、少し咀嚼した後、ごくりと飲み込んだ。
 幸詩の顔を覗き込むと、黒い前髪の隙間から見えるその瞳が、静かに揺れている。
 ふと目が合った瞬間、その端から一筋の光が零れ落ちた。
 透明な涙が、ゆっくりと頬を滑り落ちていくのを見て、俺は息を飲んだ。

「……美味しい」
 彼の喉が震え、酷く上擦る。ぼろ、ぼろと、彼の頬がしとしと濡れている。
 なんと、声を掛ければいいのだろう。

「ど、どうしたの……?」
 自分の中には、こんな言葉しかない。ポケットに入っていたタオルハンカチを取り出して、幸詩の目尻から頬にかけて、優しく当てる。

「これが、父さんが、言っていたミルクパン……か……」
「お父さん?」
 その時、ふと先程の笹塚先生とのやりとりを思い出した。たしか、ご両親らしき人の名前を話していたはず。そして、葬式。流れる涙。

 何かが一つ、繋がった。

「幸詩」
 彼の名前を呼ぶ。俺を見た幸詩は、パンを強く握りしめ、まるでこの世に独りぼっちとでも言うように、酷く寂しげだった。
 何故かはわからない。ただ、言葉を無くした俺は、幸詩の頭を優しく抱きしめたかった。
 行儀が悪いけれど身を乗り出す勢いで、俺たちの間にあるテーブルの上に乗り、必死に幸詩をたぐり寄せた。
 幸詩は腕を振り払わず、俺の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら涙を流し続けた。


 やがて、幸詩の嗚咽が少しずつ収まり始めた。俺はゆっくりと彼を抱きしめていた腕を解く。涙と鼻水で濡れたセーターを見下ろしつつも、目は真っ赤で鼻水を垂らす幸詩の頭を撫でた。幸詩は自分の腕で涙を豪快に拭う。そして、俺の手を掴んだ。

「……俺の両親、もういないんだ」
 幸詩は静かに言った。その言葉の重みが、沈黙の中でじわりと広がっていった。
「……そう、なんだ」
 晴富は声が出ないほどの重みを感じ、思わず拳をぎゅっと握りしめた。

「……母さんが、俺が小一の頃、癌で……死んじゃってさ」
 幸詩の声が微かに震える。その言葉の重みが、その場の空気を一層静かにした。

「癌……」
 癌。しかも、幸詩が小一だなんて、随分と幼い時に母親と離別してしまうなんて。全身が冷えたような感覚に襲われた。空気が急に重たくなった気がして、唾を無理やり飲み込む。

「二年前に父さんも、工事現場の事故に巻き込まれてさ」
 幸詩は、一瞬唇を噛んだように見えた。語る彼の声からは、悲しみと共に諦めの色が滲んでいた。
 事故ということは、急な別れだっただろう。中一か中二の頃に親を両方とも亡くすなんて。どんなに、辛かっただろう。

「……本当に、神様は酷ぇよなって」
「本当に……酷いね……」
 あまりにも悲しい話だ。俺と同い年なのに。その悲しみの深さは、俺には決してわからない。けれど、もし自分ならと考えると、身が震えるほどの悲しみと怖さだ。
幸詩は俯き加減に、ポツリと続ける。

「今も、家に帰る度に、ああ一人なんだって……それが怖くて……」
その言葉を聞いて、ようやく気づく。幸詩が「帰りたくない」と言っていた理由が、こんなにも深いものだったなんて。俺は申し訳ない気持ちになり、ただ目を伏せるしかなかった。

「よく父親が話してたんだ。母さんと出会ったのは高校のクラスで、二人とも購買に売ってたミルクパンが好きだったって」
 思い出の中を辿るように、ミルクパンを見ながら懐かしむ幸詩。
 あの時は、ミルクパンが好きなのだろうと思ったが、まさかこんな経緯があるなんて。
 幸詩の手に握りしめられたミルクパンは、既にぺしゃんこで無残な姿ではあるが、これが彼にとって親が残した記憶の味なのだろう。

「父さんと母さん、どっちも青口学園の生徒だったんだ」
 幸詩は小さく息を吐き、少しの沈黙の後、遠くを見るような目をする。
「笹塚先生は、その時の担任だったって……父さんが教えてくれたんだ。体調悪いのに、葬式にも来てくれてさ……」
「そうだったんだ……」
「実は俺がギター始めたのは、父さんの影響でさ。小っちゃい頃から一緒に弾いてて、『バンドで世界制覇したい』って無謀な夢も、母さんと一緒にずっと応援しててくれたんだ」
 幸詩の瞳が何か遠くを見ており、視線の向こうには父親との思い出が浮かんでいるのだろう。ただ、その表情はなんだか幼く、幸せを羨むようだ。

「幸詩の()、叶えたいね」
 重く強い彼の願い。彼の()は、彼の親に結びつくものだったのだろう。俺は改めて、幸詩の願いを意識する。

「ああ、叶えるよ。だから、トラウマなんかで、足踏みしてちゃ駄目なんだ」
 熱い眼差し。こんなにも()に懸命な彼が、何故スマートフォンの動画がトラウマになってしまったのか。しかし、それでも立ち上がろうとしている幸詩は、静かで強い人だ。

「……そうだな、俺も手伝うから、早くトラウマ克服しような」
 ああ、これも俺にはないものだ。にっこり笑う俺の心に、嫉妬めいた羨ましいという気持ちが浮かぶ。
 俺には……何もない。夢も、目標も、強さも。
 ただ、毎日をただただ、過ごしているだけ。
 こんなにも熱い夢がある幸詩を、羨むことしかできない。

「ありがとう、晴富。こんな相談したの、俺の幼馴染みくらいだよ」
 真っ赤に目を腫らした幸詩のはにかんだ笑顔は、俺の目を焼くほど眩しい。夢見る彼から頼られている、そのちっぽけな自尊心しか俺は持っていない。

「俺、晴富と出会えて、本当に幸運だった」
 凄く嬉しい言葉だ。俺の心臓は高鳴るが、反面として、身体の中に蔓延る空虚感を強く感じる。
 自分に今何も夢がないから、幸詩の夢を一緒に見ることで蓋をしようとしているみたいだ。

「俺も幸詩と出会えて、幸運だよ」
 しかし、この幸運が無ければ、他人の夢を叶えたいなんて思わなかった。

「あ、折角なら一枚撮ろうよ、ミルクパンと、幸詩で」
「ミルクパン……あっ、潰しちゃった」
「誰にも見せないからさ、今日の思い出ってことで」 
 言葉を上手く促せば、幸詩はスマートフォンを取り出す。俺は受け取ると、カメラを起動して、レンズを幸詩へ向けた。スマートフォンに映る幸詩は、相変わらず緊張した面持ちではあったが、最初よりもリラックスした様子で潰れたパンの角度を決めている。
 けれど、俺が違った。何故かはわからない。ただ、この画面越しの彼と、自分の間に酷く隔たりを感じてしまったのだ。

「今日は、顔も入れて撮ろうよ。俺と一緒にさ」
「えっ?」
 本当なら顔以外を写して撮る予定だった。
 けれど、どうしても、同じ画面の中で一緒に写りたかった。だから、幸詩には悪いけれど、少しばかりイタズラさせてもらった。

「はい、さん、にー、いち!」

 幸詩の心の準備が出来る前にシャッターを切る。わざと内カメではなく外カメで無理矢理撮ったから、見るまではちゃんと撮れたか分からない。

 シャッター音が、何もない公園に響く。

 くるりと、ひっくり返し、写真を確認する。
 少しばかりの手ぶれ。目元や耳や鼻が赤く泣き腫らしたのがわかる呆然とした幸詩と、楽しそうに笑ったように見える俺。

「せ、晴富! 心の準備!」
「大丈夫、ほら、怖くなかったでしょ」
 思わず声を荒らげる幸詩に、俺はスマートフォンを手渡す。

「……ほんとだ」
 画像をまじまじと見た幸詩は、俺と画像を交互に見る。どうやら、あまり怖さも無くなって来たようだ。幸詩は今、一つトラウマ克服まで近づいたのだ。

「ほら、あと少しで、克服できるって。次からは動画に慣れていこうか」
 俺の言葉に、幸詩は「動画……いけるかな……」と身体をぶるりと震わせた。俺は笑いつつ、テーブルから降りた。すると、自分のズボンが何故かはひんやりと濡れている。

「晴富、牛乳が……」
「えっ、まじか……」
 幸詩の指差すテーブルには、無残にも倒れた牛乳パックから白い液体が広がっていた。勿論、テーブルの上に乗った俺の足は濡れていた。

「ああ、これはクリーニング代だな……」
 幸詩は少しだけ微笑んで、「仕方ないよ」と軽く肩を竦めた。俺も一緒に肩を竦め、二人で顔を見合わせて苦笑する。
 なんでもないような一瞬だったけれど、それでも、少しだけ笑えたことが嬉しかった。