中天を過ぎた太陽がわずかに傾いだ頃、空は一面雲に覆われていた。今にも降り出しそうな様子を見て、大内裏に勤めている貴族たちが急ぎ足で帰途につく。そんな中、二条大路に面して建つ大内裏の門の一つ、皇嘉門に唐廂車(からびさしのくるま)が乗りつけられた。
両端が美しく反った軒をもつ、格の高いこの牛車を使うことが許されるのは、皇族や摂政などに限られる。周囲には貴人を垣間見ようと徐々に人が増えていった。
「どなたかお目見えになるのか?」
「弾正尹宮様が来られるとか」
「なんと。こんな陽の高いうちから、稀なこと」
まだ大内裏にいた地下(じげ)官人たちが色めきたつ。牛車から牛が離され前簾が上がった瞬間、ざわめきが広がった。現れたのは裘代(きゅうたい)五條(ごじょうの)袈裟(けさ)を身につけた小柄で年若い人物だ。
袖から出た小さな手は常人離れして抜けるように白い肌、すっぽりと被った帽子(もうす)の陰に、品よく整った面差しが見える。
「今日も浮世離れしてお美しい」
「いま少しご尊顔を拝することができれば……」
肯定的な声が聞かれる一方で、唐廂車をちらりと見やり、小声で「白子(しらこ)めが」と吐き捨てて立ち去る者もいた。

 事実、かの人物の肌の色は尋常とはいえない。陽にあたっていない、などという程度の話ではないのが一瞥してわかる。まさに降り積もった雪のようで、眉や睫毛、帽子に隠された髪は(しろがね)の糸のごとく輝き、伏し目がちのため目立たないが瞳も常人とは違い、唐渡りの青磁のごとき青灰色をしていた。
こうした、世の人に「白子」と呼ばれる人々は古来から稀に現れた。皇統を辿ればかつて白髪の帝がいたという。彼の帝の御代から既に五百余年を経ているが、彼もまた、そうした色彩をまとって生まれ落ちたのだろう。

 人々の囁き合う声が満ちる中、踏み台の(しじ)が置かれ、少年が前板に置かれた沓を履くと待っていた千央が恭しく一礼して手を差し出した。
「どうぞ、堯毅様」
堯毅と呼ばれた少年が微笑み、差し出された手を支えに榻を踏んで車を降りる。
「千央、いつもありがとう」
重そうな裘代の衿を整えた拍子に、帽子の奥で銀の髪が揺れて見え隠れした。
彼に続いて、牛車からもう一人、今度は六尺に届こうかというほど背の高い男が降り立った。額に捻じ梅の紋がある彼は身長の割に顔に厳つさはなく、むしろ柔和な印象さえ与え、千央を見下ろし笑った。
「なにやら面白い知らせを受け取ったんだが、話を聞かせてもらえるか?」
「あのな智也(ともなり)。ひとっつも面白くねえんだわ」
「どうぞ、お早く。御帳台(みちょうだい)の準備ができていますので」
物騒な笑みを顔面に貼りつける千央の後ろから、ひょっこりと顔を出した公鷹が一礼する。
「ありがとう、公鷹。今日は雨がちで助かります。では庁舎に入りましょう」
にこりと笑った堯毅が先に立ち庁舎へ入っていく。彼の姿が見えなくなると、皇嘉門にできていた人だかりも徐々に散っていった。

 庁舎の中央、一番大きな曹司に設えられた御帳台は貴人の座所である。庁舎の板張りの床の上に真新しい畳が置かれ、柱と鴨居で組まれた四方には(とばり)を下ろし、天井代わりに明障子(あかりしょうじ)を乗せて個室のように作られている。
今、一面の帳だけを上げて中に座す弾正尹宮は、今上帝の十番目の子であり親王の堯毅であった。額には花九曜と呼ばれる紋がある。今上帝と皇后、春宮と他二人の有力な親王が九曜の紋を戴くが、それ以外の親王や内親王は上下左右の丸が欠けた、花九曜とするしきたりだった。
だが何よりも人目を引くのが、余人とは一線を画したその色彩と整った容貌だ。持って生まれた超然とした容姿が、口さがないものに「白子」と陰口を叩かれる原因である。

長官である尹宮の帰着に際し、庁舎に残っていた職員が平伏して迎えていた。二十一名の背を見やり、堯毅が笑顔で告げる。
「もう午後ですから、皆さん、帰って構いませんよ。調査があるとしても明日以降になりますから遠慮せず」
「ありがたきお言葉」
源永峯が四角四面の言上をしたところで、堯毅と共に牛車に乗ってきた、千央に智也と呼ばれた男が職員たちに向き直って口を開いた。
「聞いてのとおりだ。尹宮に言上したきことがある者以外は帰ってよい。皆、ご苦労だった」
大男の鶴の一声。は、と声を揃えた職員たちが、順に曹司を辞去していく。しかしこの男は弾正台に籍を置くものではなかった。
親王である堯毅の家政を掌るべく、今上帝が自ら選んだ家司(けいし)の別当、菅原智也という。
 菅原家の現当主である菅原智長(ともなが)の三男で、式部省から蔵人(くろうど)へと順調に出世を重ね、侍読として今上帝の傍近くにいたこともあり、目に留まったのである。
職員たちが出ていくのと入れ替わるように、一人の舎人が籠を抱えて、御帳台の傍らにいる智也へ近づいた。
「智也様、沫雪(あわゆき)を連れてまいりました」
蓋を開くと真っ白い猫がひと鳴きして籠を飛び出す。迷うことなく堯毅の裘代を駆け上がり、肩に手をかけてぶるぶると身を震わせた。ふっくらと全身の毛を膨らませているのは、急に捕まえられ籠に押し込まれたからだろう。
「ああ、沫雪。今日も書庫の番をありがとうございます」
堯毅が頭をなでると猫はごろごろと咽喉を鳴らした。彼は弾正台や堯毅の私屋敷の書庫で鼠を獲る役職持ちだ。職員の中には「書庫別当殿」と呼ぶ者もいた。
「沫雪は今上帝からの御下賜でしたね」
「唐渡りの猫ですか。確かに、こんなに毛の長い猫は見たことがありません」
猫の前脚をつまんで上下しながら言う千央に、公鷹は興味津々といった態で身を乗り出した。尻尾を除けば一尺ほどの大きさだが、体を掴むと自分の指が見えなくなるほどの長い被毛に覆われている。
「私に似ていると仰せで」
ふふ、と笑って堯毅は沫雪の眉間をなでた。猫の目も彼にどこか似た、灰みを帯びた浅緑色をしている。ひとしきり猫を可愛がった堯毅は、やがて顔を上げて千央と公鷹へ笑いかけた。
「では、話を聞かせてください」

 千央が追捕、事情聴取されるくだりで智也が笑いを堪えられなくなるという事態はあったが、今朝からの騒動はひととおり全員で共有されることとなった。全ての情報を吐き出した後で、千央は板間に額をぶつける勢いで平伏した。
「少忠として、堯毅様の帳内として、恥じ入るばかりです。必ずやこの恥辱は(そそ)いでみせます」
「状況では致し方なかったでしょう。検非違使別当殿から使いを受け取った時は驚きましたが、誤解が解けて何よりでした。思い詰めてはいけませんよ」
「堯毅様……!」
大きな体を縮こまらせている千央と、おっとりと笑う堯毅。二人の関係性を公鷹は少しばかり不思議に感じていた。千央は相手が親王だから、などという理由でここまで臣従する性格ではない。そのぐらいはこれまでの付き合いで理解できる。まして、堯毅は常の親王ではない――そんなことを考えていると、二人の様子を微笑ましそうに眺めていた智也から声がかかった。
「それで、公鷹。我々が来るまでに分かったことはあるのか?」
公鷹は気を取り直した。
「はい。まず、厳密にはまだ千央さんの疑いは解けていないのですが」
「おい」
振り返った千央が氷点下に冷え込んだ声を上げたが、それは措いて公鷹は懐から紙束を出し智也の前に揃えて置いた。
「智也さんはご存知かもしれませんが、佐伯伊之殿は日頃から行状がよろしくありませんでした。左兵衛府での評判は不真面目、怠惰、遅刻が多いというもので、大内裏の外では治安に問題がある地区での乱闘騒ぎ、不当な召し上げ、女性への乱行の報告が目立ちます」
「周辺の者が随分と手を焼いているようだったな。しかし、若いな……」
文官・武官問わず人事考査や礼式を司る式部省で大輔(たいふ)という管理職に就いている智也は、問題のある人物を概ね把握していた。「若い」の一言で済ませてはならない行状ばかりで、こうなると彼個人への怨恨も考慮せねばならない。
「ご父君はこの上なく清廉な人物なんだが。随身はついていなかったのか?」
「いた。名前は覚えちゃいねえが、公鷹が控えてる。けどそいつら、昨夜は末成りの屋敷で酒飲んでつぶれてたんだよ」
「権中納言家に隠れて、別の女性のところへ忍んで行っていたのか?」
智也の訝しげな問いが言外に「婿入りして早々に大丈夫か」と言っていたので、公鷹は分析した結果について説明することにした。
「相手の女性は日々の灯油(ともしあぶら)にも事欠く生活でした。佐伯伊之殿がもし彼の女性に本気であられたなら、油なり衣なり贈っておられるでしょう。また、以前から右京で遊び歩いておられたようです」
「つまり、昨夜たまたまあの場所で、その女性だったということか」
「はい。目下調べた範囲では」
たまたま。犯罪が起こっている場合、素直に受け取るには難しい概念と言わざるを得ないが、今はそうとしか言いようがない。

 なんとなく落ちた沈黙を破ったのは、話を聞きながら沫雪を撫でていた堯毅だった。
「……昨年秋から、施薬院に運び込まれてくる怪我人も庶人から武士、五位に届かぬ貴族まで、増加の一途を辿っています。傷も殴打、熱傷、刀傷に矢傷と幅広い」
施薬院では医師が診察し、(あずかり)の指示のもと雑使たちが治療や施薬を行っているが、施薬院別当になる前の堯毅は院使として、医師に並び自ら民の診療をしている。この二年の実務経験から、現在の治安の異常をまざまざと感じていた。
「こう申し上げますとなんですが、藤原氏所縁(ゆかり)の方たち以外の保護や治療が増えますと、上からあれこれ要らぬ口を挟まれるのではありませんか?」
智也が眉をひそめて問いかける。

実際、施薬院は国の政策で設置された万人へ向けての医療機関ではあったが、大いに政治的な意図を含めて運用されており、運用に使われている米などの食品や医薬品、衣、人員の使い道の一部は困窮する藤原氏の血族にしか使えないという側面がある。
そこを心配しての智也の言葉だったが、堯毅はにこやかに笑って応えた。
「それは心配ありません。なにしろ被害に遭った方の大半が、後日になるとはいえ必要なものを自力でご用意くださっています」
なるほど、夜討ちやら強盗やらされるだけの余裕がある家の者だけのことはある。
「ただ、中には薬材を買ってお持ち下さる方もいますが、最近東市に出回っている薬材の質が低いのが困ります。保管が悪かったのか傷みやすくて…まったく、どこのものなのか」
「善意で持ってくるものだし、断りづらいですね」
憂い顔の堯毅に同調して公鷹が頷く。薬材を取り扱う店が保管方法を知らないとは思えないのだが。
「しかし都の治安を預かる検非違使が居ながらこの体たらく。それほどに不埒者が増えているということでしょうか」
「ただ増えただけでなく、よからぬ輩が幅を利かせているのでしょう」
智也の言葉に、堯毅が髪と同じ銀の眉を寄せた。

 弾正尹宮としての立場で言うなら、この半年あまりの都の治安の悪さは目に余る。検非違使は都の治安維持だけでなく、上級貴族の護衛などさまざまな役目があるため、実際に市中の治安に回す人員が不足することがあった。
であれば、そもそも京官の非違を糺す役目である弾正台が調べてなんの問題があろうか。

「公鷹、千央は都の治安低下の原因について調査をしてください。必要であれば永峯を通して人員を動かし、何かあれば私に使いを」
「畏まりました」
首肯した二人を見やり、永峯が畏れながら、と発言の許可を求めた。良くも悪くも権威主義的というべきか、千央を除いて上役からの命令に異を唱えない彼には珍しいことだ。
「もちろん尹宮様がお決めになったことですから異存はございませんが、(すけ)殿にこの旨、お話しせずに進めてよいのでしょうか」
「弼殿には私から尹宮さまの意向をお伝えする。反対はなさらないだろう」
問には智也が応えた。弾正台の長、尹を補佐するのが次官の弼であり、(ともの)帯刀(たてわき)は堯毅の前任者の代から既に十年近くその任にある。検非違使に取って代わられている現状に、心穏やかであるはずもない。
正直な話、智也にとって、千央が誤解とはいえ追捕されたのは素行から身に返ったことで大したことではない。それよりも、堯毅が都の民の安全が脅かされていること、怪我人・死人が続出していることを憂いていることを帯刀に伝えるべきだ。
ごろごろと咽喉を鳴らす沫雪を撫でながら、堯毅が智也を振り返る。
「私もできることをしなければいけませんね」
「承知いたしました。佐伯連之殿は私が日々補佐をいただいている方。今回のことで物忌みに入られるでしょうから、折をみて私から見舞いを申し入れます。畏れながら、その際に足をお運びいただけましょうか」
「もちろんです。その方が話も早いでしょう」
佐伯伊之の殺害事件が必ずしも、都の治安悪化の原因と直接関係があるとは限らないが、治安の悪化によって起きたことには違いない。一つずつ手がかりを辿って、都の人々を脅かすものに近づいていく、その一歩を弾正台は踏み出した。