雲外蒼天、然れども



「まじかよ」
前に付き合っていた女房が、やたら愛読していた物語の冒頭をやっと思い出した。
「『すぐれて時めき給うありけり』だっけか」
そんな感じだ。眉目秀麗、衣も上等で縫い目がきれいな直衣を身につけた若い貴族。こんな品のいい衣を身につけているんだからさぞかし金持ちで、きれいな嫁さんもいるんだろう――けれど。
「まあ、死んでちゃあな」
宿酔《ふつかよい》気味の頭を振って、九条(くじょう)千央(ちひろ)は生欠伸をかみころした。


場所は右京六条。端午の節句も近い四月二十九日、夜半を過ぎても知人と飲んでいた。明けて三十日、どこかから太鼓の音が聞こえるなあなんて笑っていたら、御所の開門を知らせる開諸門鼓(かいしょもんこ)だった。
これから帰って風呂入って髭あたって食事して出勤?
無理に決まっている。よく偉い貴族がやってるように、帰って物忌みと言い張って寝ようか考えたが、それすら面倒くさい。
とりあえず上司の屋敷に転がりこもうと思って、朝焼けに染まる西堀川小路を北に向かって歩き出したら、左の垣の下に血が溜まっている。
見なかったことにして通り過ぎようか、などと考えて顔を上げた瞬間、みすぼらしい板塀の破れ目から見える鬼灯の花の海に沈むようにして、若い男が倒れているのが見えた。
「それで切懸(きりかけ)の横板を剥いで敷地に入り込んで、確認したら死体だったと」
「そうだよ」
検非違使(けびいし)少尉(しょうじょう)かつ右衛門(うえもん)少尉である鈴木尚季(なおすえ)は、出勤するなり放免(ほうめん)たちから殺人事件の被疑者を捕縛したと報告を受けた。しかし捕縛された九条と名乗る本人は、死体を発見しただけだと主張している。
これがそこらの下級貴族や武士なら、とりあえず脅すか拷問でもして話を聞くところだが、どうもそうではないらしいと思っていた。
「振り返ったら周りに人だかりができていて、駆けつけてきた放免にとっ捕まったと」
「そうだよ!」
「いや、それ捕まったやつが言う定番の言い訳だが、あんたは畏れ多くも宮様の帳内(ちょうない)で、しかも弾正台(だんじょうだい)に所属していて、どっちかというと取り締まるほうだというわけだ」
「そうだよ!!」
自棄を起こしているらしい彼を見るに、まあ本当だろうなと思う。弾正少忠(しょうじょう)は身分を偽ろうとしてとっさに出るような職名ではない。嘘をつくならもっと潰しの利く名乗りをするだろう。念のため彼の上司という者を呼んではいる。
だいぶ酒臭いが証言も口調もしっかりしている以上、酔っての戯言でも嘘でもあるまい。
しかし、開諸門鼓まで飲み歩くような不真面目な男が、仮にも親王の護衛を務める帳内というのはどうにも信じ難い。
ふと、目の前の男が顔をあげて、しかめ面で唸った。
「水くれねえか」
それもそうか。寅の四刻ごろに捕縛され、卯の三刻の今まで拘禁されていれば喉も乾くだろう。少尉は妻戸を開けて人を探し、幸い近くにいた武官を呼びつけた。
「おい、水を一杯持ってきてくれ」
「少尉殿、武士の死体があると通報が」
「何? 殺しの多い日だな、放免を向かわせろ」
水を申し付けた時だけ後ろを向いた少尉は、報告を受け手早く指示を済ませるとすぐに千央へ顔を戻した。
「……しかし、あそこら辺は誰が住んでるかもわかったもんじゃないだろう。弾正少忠殿が通う女でもいるのか?」
口調から、本気でそう思っているわけではないらしいと千央は思った。

 そう、あいにくと自分は弾正少忠という役職にある。検非違使と弾正台、複雑、というか厄介な関係性だ。放って帰ってあらぬ疑いをかけられても面倒だ――と思ってやむなく検非違使の到着を待ったところ、その放免にすぐさま検非違使の使庁へ連行されたというわけだった。

「知り合いのとこで飲みすぎて朝になっただけだって。土御門大路の北の、弾正大忠(だいじょう)の屋敷へ向かうとこだった」
今日も使庁は多忙を極めているようで、先ほどからひっきりなしに放免を引き連れた火長(かちょう)が走り回っている。捕縛され土間に座らされている男たちが喚き散らすのが聞こえた。
「ふざけんな! 俺らなんか捕まえてる暇があったら、夜討ち野郎を捕まえろよ!」
「そうだそうだ! 何人死んでると思ってんだ!!」
「黙れ盗人風情が! お前らにさっき負傷させられた奴に言ってみろ!」
どちらも相当頭に血がのぼっているようだ。
青息吐息の舎人が持ってきてくれた椀に一杯の水をあおり息をついた千央に、少尉は意地の悪い笑みを見せた。
「では、死体について弾正少忠殿の所見を伺いたい」
 千央は眉間にしわを寄せ、椀をぐいと突き出した。
見るからにいいとこの貴族が殺された経緯になど、正直一分の興味も持てはしなかったが、「弾正少忠九条千央は発見した死体もろくに見ていない」などと検非違使に揶揄されるのは業腹だ。自分はともかく弾正台の長の評判にかかわる。
「左から右へ首を掻き切られてた。んで、直衣が相当血を吸っていたが乾いていなかった。殺害はせいぜい俺が見つける四半刻前ってとこだ」
「ついでに犯人を見てくれているとありがたいんだが」
「生憎見てねえんだよなあ。で、あのお坊ちゃんはどこのお貴族様なんだよ。まさかまだ不明とは言わねえよな?」
椀を受け取った少尉の眉尻がぎゅっと跳ね上がった。

 今上帝のおわす内裏と官庁をぐるりと囲む築地塀に囲まれた区画を大内裏と呼ぶが、その出入口の門は十二ある。その門と周辺の警備を担うのが衛門府(えもんふ)であるが、一方で都の治安を守る検非違使は衛門府に所属する者が兼帯している場合が多い。大内裏の警備との兼帯者で大部分が構成された検非違使は常に忙殺され、都で事件が起きても必ずしも解決できるとは限らない。なんなら調査すら行われない場合もある。
だが、そもそも都の監察と治安維持を預かっていた弾正台から職掌を奪ったようなもので、そこを当てこすられると複雑な立場だ。

ため息をついてから少尉は千央の質問に答えた。
「別当殿がご存じだった。左兵衛(さひょうえの)(すけ)の佐伯伊之(これゆき)殿、秋の除目で左近少将になられるはずだったと聞いている。あんな場所で亡くなられるなど、信じられん」
「左近少将だあ、あの小僧が? あー顔だろ。どっかの婿か!」
「口を慎んでもらえんか。あと顔はあんた、人のこと言えんだろ。唐人の孫かなんかか?」
いたって普通、なんなら凄みすらない、男として可もなく不可もない三十路相応の顔面をしている少尉が渋い顔をしてみせ、千央もぐっと眉間にしわを寄せることになった。
「……五代か六代前が胡人だ」
少尉が目を丸くする。

 胡人といえば、唐の西方にある国の住人だ。以前使節団を見かけたことがあるが、大柄な者が多く、背丈は六尺ほどもある者も少なくなかった。実際、千央も六尺に三寸ばかり足りない程度で、この都においては背が高いほうに分類される。

「道理でな。女官たちが騒ぎそうな顔をしてる」
都で見目よい顔立ちといえば、色白細面の顔に切れ長の瞳というやつだ。しかし胡人を祖先にもつ千央は、掘りの深い顔立ちとはっきりした目鼻立ち。左目の下の黒子が特徴的で、貴族的とは言えないが如実に異国情緒を漂わせる、人目を惹く整った顔だった。
そして、都で役職を持つものなら当然あるはずのものが、千央にはない。
「で。九条家所縁の者なら、なんで紋がないんだ」
これも想定内の質問だった。そう問う少尉の額には、黄みがかった赤い染料で三つ鈴紋が描かれている。

 海の彼方にある大国・唐からさまざまな文化が流入し、唐風文化として大いにもてはやされてきたが、その一つが花鈿(かでん)だ。本来女性の化粧だったが、今や貴族たちが己の家門を象徴するためにする目印となっている。自分の紋は額だけでなく、日常身につける衣や持ち歩く小物、牛車などにも入れるのが貴族の特権となっていた。
この染料は高価で、誰でも手に入れられるわけではない。また、花鈿に使われる染料は何種類かあるが、特に緑礬(ろうは)は発色がよく人気で常に品薄だ。従って花鈿の濃淡がその家門の権勢を物語る。当然ながら、生活するので精一杯の庶民は花鈿などしていなかった。
鈴木尚季は武門の家柄らしく、鈴という器物を紋にしたものだが、宮中で大多数を占める藤原氏の紋は木瓜や藤の花など美しい花が主だ。次に多い源氏は三ツ星か桔梗。藤原氏の傍流である九条の姓をもつなら藤の花の紋があるはず、と思われているのはわかっていたが、説明するのが面倒で言い淀む。

 と、人の往来の激しい房の外で誰かが足を止めた。衣をさばく音からすると座ったのだろう。二人が振り返るのと同時に、張りのある声がかかる。
(たちばなの)公鷹(きみたか)、参上いたしました」
「入ってくれ」
少尉の声に応じ、妻戸を開けて一人の少年が室内へ入ってきた。
いかにも出仕して間もないといった、深緑の袍にまだ着られているような感すらある人の好さそうな容貌。額に簡略化された結び桔梗の紋がある彼は、少尉に会釈をすると、明るい鳶色の瞳をしかめ面の千央に向けた。
「事情は伺っています。大変でしたね、千央さん」
「本当だよ。朝飯も食いっぱぐれてんだぜ。なんか持ってきてねえの?」
公鷹と名乗ったにこりと笑った笑顔には愛嬌があったが、出てきたのは表情とはほど遠い適切な指摘だった。
「食事なさりたいならもっと早く帰ってください。それ以前に、なんで僕の屋敷に朝帰りなさろうとしたんですか?」
それは俺も知りたい、という顔で少尉も振り返ったが、千央が悪びれもせず天井を仰ぐ。
「あーあれだよ、ほら、なんか方角が悪かったから方違えでお前の屋敷にな」
「昨日の朝はそんなお話しなかったように思いますが。それに、出仕を控えてそんなにお酒を召されて、挙句遅刻はちょっと」
「おお? おめえ結構な口をきくようになったじゃねえか」
「僕、お酒の匂いに弱いんでちょっと失礼しますね」
袍の胸ぐらを鷲掴みにして引き寄せられた公鷹が、檜扇を開いて千央との間に立てた。若干顔色が悪くなっているところを見ると、彼は本当に酒の匂いに弱いのだろうと思われる。千央より二寸ばかり小さいが、声を荒らげる千央に怯える様子がない。
一方の千央はおよそ大内裏にはふさわしくない梅の重ねの狩衣姿、かろうじて頭に烏帽子が乗っている程度だ。
一応さっき聞いたことを確認しておこうと思って、少尉はまだ話が通じそうな公鷹に声をかけた。
「橘大志(さかん)、彼の話によると、君は彼の上役ということだが」
まだ胸ぐらを掴んで引きずられたまま、公鷹はまたにっこりと笑ってみせた。
「はい、少尉殿。僕は検非違使において大志を、弾正台では大忠を兼任しておりますので、千央さんは僕の部下です」
「へえ……」
確か公鷹は、昨年から出仕を始めたばかりの十代だったはずだ。弾正少忠はどう見ても二十代半ば。役職と年齢の逆転自体は珍しくもないが、襟首を掴まれていながらわずかも動じない上司と遠慮なく文句を垂れ流す部下、両者の心情が全くわからない。
もう帰ってもらおう、と少尉は思った。


 解放された千央は、さも眠そうに大欠伸の上に伸びをした。掴みかかられて乱れた身なりを整え、公鷹が千央を見上げて袖を引く。
「ともかく弾正台へ行きましょう。少尉殿から連絡がきた時に、屋敷の方に束帯一式届けていただくよう使いを立てておきました」
「でかした。で、俺の腹が減ってるのはどうしたらいい?」
「水菓子も頼んでいます。いい加減、開諸門鼓までにはご自宅に帰ってくれないと困りますよ」
先に立って歩きだす小柄な背中を見下ろし、千央が鼻を鳴らす。
二人は並んで検非違使庁を出ると、まっすぐ西へ歩いて大内裏の陽明門をくぐった。役目をもつ公人とは思えないだらしない服装のため、千央が周辺の人々の耳目を集めまくっているが、本人は意に介していない。

夜が明けたばかりだが、大内裏の内は出仕の時間を迎え、清涼殿への昇殿が許されない諸大夫や地下人たちが忙しく行き交っていた。公卿などの身分の高いものは昼頃に顔を出すぐらいでも文句は言われまいが、中流や下級の貴族は早朝から働かねばならない。
門をくぐったすぐ左手は左兵衛府だ。恐らくは佐の佐伯伊之の訃報に接し、騒がしいことになっているだろう。
「あの末成(うらな)りが左兵衛佐ねえ」
千央が唸る。衣は立派だったが、およそ体格がいいとはお世辞にも言えない男だった。猛者揃いの兵衛府で佐が勤まったとは思えない。実際、太刀を抜きもせず殺されていた。
「気になりますか?」
「気になるな」
千央の答えを歩きながら、公鷹がこくんと首を傾げた。豊楽院の角を曲がると、行く手に弾正台の庁舎が見えてくる。

都の治安はもともと良いとはいえなかったが、この半年ほどで急速に悪化した。夜討ちや強盗が急増し、日中の大路でも暴行事件が起こることがある。取り締まりのために市中を回る放免や京識が襲われるといった事件も勃発していた。
こうなると武士団を抱えるような上層の貴族は、往来で何かあれば武力による問題解決を躊躇わなくなる。その結果、道で貴族の車同士がすれ違って、随身がぶつかるだけで乱闘騒ぎが起きかねない。
何故こんなに急に治安が悪化したのか、原因はどこにあるのか。それを調べるのは、確かに弾正台の職掌のうちだ。

「じゃあ、調べましょうか」
ちょっと驚いた顔で公鷹を見下ろした千央だったが、口にしたのは別のことだった。
堯毅(ぎょうき)さまは今日、屋敷へまっすぐ帰られるのか?」
「千央さんが追捕された旨の使いを立てましたので、今日はお見えになると思いますよ」
「は?」
突然千央が凶悪な顔になって足を止め、その顔を見上げた公鷹は再び首を傾げた。
「おまえ何してくれてんの?」
「黙ってるつもりだったんですか?」
怯む様子もない公鷹の返答に、うっ、と声をあげて千央が罵声を飲み込む。

 常識的に考えて、検非違使とて弾正の者を追捕しておいて報告せずにはおけないだろう。恐らく弾正台の長、(いん)に問い合わせが行っている。現在の尹は、都の民の治療や施薬を目的として創設された施薬院(やくいん)の長と兼任だった。閑職と言って差し支えない弾正台の庁舎に朝から来ることはなく、午前いっぱいは施薬院で民の診療をしていることが多いが、使いは疾っくに主のもとに到着しているだろう。
なんであの時、死んでるか確認しよう、とか思ってしまったのか――などと後悔したところでまさに覆水盆に返らず。
目の前が暗くなった千央が思わず頭を抱えた。
「……だめだ。なんとしても犯人をとっ捕まえて、この恥辱を雪がなければ」
「監督責任があるので、僕も頑張りますね」
弾正台の庁舎の入口を潜りながら、公鷹は朗らかに頷いた。

 屋敷から急遽届けられた衣冠束帯を身につけ、千央は割ってもらった甜瓜(まくわうり)をがつがつと貪っていた。またたく間に四つほど平らげて手を拭っていると、自分の曹司(ぞうし)へ行っていた公鷹が結構な量の紙束を手に戻ってきた。
「検非違使の調べ書きを書き写してきました」
「おまえが使庁に席があるの、便利だな」
早速手にとる千央に、公鷹は説明を始めた。
「まず、死体は確かに佐伯伊之殿でした。二十一歳、現職は左兵衛佐です。昨年の秋に権中納言家の乙姫に見初められ、婿になられました」
乙姫、つまり末の姫だ。確か十五歳になる評判の美人で、権中納言が選りすぐりの公達を集めて何度も宴を催し、よい婿を探していたと聞く。
「それで権中納言は婿のために左近少将の席を用意したというわけか。佐伯ねえ……聞かねえ姓だが、親父は役職があるのか?」
目立つ役職は藤原氏に掌握されていることもあるが、姓に聞き覚えがない。しかし、公鷹は違ったようだった。
「父君は式部(しきぶ)大丞(だいじょう)の佐伯連之(つらゆき)殿です。それでもご子息をもっと早く上位の職に就けなかったところを見ると、清廉潔白な方のようですね」
というのも、式部大丞は文官・武官を問わず任官に関与する権限を持つからだ。我が子が可愛いだけの人物なら、佐伯伊之は既に左近少将になっているだろう。
「ところが息子は遊び歩いて、まともに仕事をしていなかった。そんなとこだろ」
「何故わかるんです?」
公鷹が首を傾げたが、千央にしてみれば自明の理だった。
「右京の六条を朝方うろついてる時点で確定だ。どうせ身分の釣り合わない女相手に遊んでたんだろ」

 実際そのとおりだった。というのも、都とはいえ、それらしい繁栄を見せているのは都の東半分、左京に限られる。西側である右京は南方が湿地であり、整地が必要なため貴族たちから敬遠された。
時の政府から見放された土地は畢竟、治安が低下し好ましくない人々が集まるものである。整備が追い付かない右京は結果としてその街の半分が、いささか物騒だったり怪しかったりする生業をもつ人々や、貧民によって形成された。

 千央が切懸を壊した家の女は西市で菓子を売る店の者だった。当然ながら次期左近少将が自分で菓子を買いに来るはずもない。昨晩は彼女のあばら家で一夜を共にしている。
当の女は朝寝していて、夜明け前に家を出たはずの佐伯伊之が自宅の庭で死んでいたと聞いて腰を抜かした。
「女は論外だが、これ強盗の仕業だと思うか?」
千央の言葉に、公鷹は即答しなかった。別の紙を取り出して眺め、熟考した上で首を振る。
「違うと思います。左兵衛佐殿ほどのお立場なら、随身を連れていなければ不自然です。女子の前で興を削がれるから家を出ているよう申し付けたとしても、普通付近には居りましょう」
「道理だな」
左兵衛佐が連れ歩くような随身なら、盗人ぐらいで遅れは取るまい。ではまとめて何者かに殺されたかといえば、随身らしい死体もまたなかった。
「そういや、どこのか知らん武士が殺されてたとかいう報告を聞いたが」
ああ、と頷いて、公鷹が更に別の紙を取り出した。
「西大宮川に、武士と思しき二人の死体があったそうです。付近の者に身包み剝がされて、身元もわかっていませんが……ご大身の随身という風体ではありませんね」
西大宮川なら佐伯伊之が死んでいた区画の一つ東隣を流れている川だが、二人は髭も当たっておらず、かなり酒の匂いもしていたようだ。
「やっぱ違うか。まあ、これは保留としといて……そうなるとあの末成りが恨みを買ってないかって話になるのか」
「まず、普段随身をお連れになっていたのかをご家族から伺うところからでしょうね。心当たりについてはそれからかと」
それには屋敷を訪問する必要があるが、既に検非違使から、佐伯伊之の父である佐伯連之の屋敷に人が行っているだろう。待っていれば検非違使が聞いたことは公鷹伝手に入手できるが、正確なことを聞けているかは話が別だ。
「聞き込みを続けます。佐伯連之殿については訪問する口実を見つけましょう。検非違使と我々弾正は、視点を異にすべきです」
あれこれと広げた紙を取りまとめながら、公鷹が呟く。
いまや弾正台は有名無実。とはいえ、すべきことは変わらない。

 二人が互いに言うべきことも言い終えて息をつくと、妻戸の向こうから、控えめな舎人の声がかかった。
「大忠殿、調査が必要な案件があると承りましたが」
永峯(ながみね)、入ってください」
公鷹に促されて、額に笹竜胆の紋がある源永峯が入室してきた。
大疏(だいさかん)、つまり弾正台における補佐官としての職にあり、型どおりにきっちりと袍を着こなした彼は、板間に両手をついていざり入ると顔をあげた。厳めしい顔つきから四角四面の性格が窺い知れる。
「迂闊にも少忠殿が検非違使めらに追捕されたと聞き耳を疑いましたが、誤報でございましょうか」
「安心してください、事実です」
「ひとつも安心できねえ。んなことより、尹宮(いんのみや)のお戻りの時刻は?」
じっと千央の顔を眺めた永峯が、目を逸らし鼻で笑った。
「未の三刻を予定されていると使いが来ております」
「おい今俺の顔見て笑ったよな?」
「我々が残りますから、皆さんはいつも通り午の刻でお帰りいただいて構いませんよ」
未の三刻ということは、陽が最も高い頃だ。あまり時間はないな、と考える公鷹をよそに、千央が面倒くさい絡み方をしたが、それには一切応じず永峯は公鷹に頭を下げる。
「とんでもない。尹宮様がお戻りになると知っていて、帰るものなどおりませぬ」
既に三十代に入っている彼は、きっちり半分の年齢の上官である公鷹に対し礼を欠かない。一方で千央に対してはというと、言わずもがなである。
首を傾げて少し考えた公鷹は、頷いて了承した。
「では、無理強いはせぬこと。本来今日はお戻りの予定ではありませんでしたから、予定を入れている人もいるでしょう。それは咎めぬように」
「承知いたしました」
千央を完璧に無視して、一礼した永峯は退室していった。反応がなかったので一応黙って見送ったものの、目の据わった千央が唸り声をあげる。
「んだよあいつ、着任以来ずっと俺につっかかってくるじゃねえか」
「千央さんは貢挙(こうきょ)という例外的な扱いで少忠になられましたからね。以前から弾正にいた永峯が不満を持っていたとしても、不思議ではないかと思います」
 本来無位で官職を持っていなかった千央は、堯毅の護衛兼側仕えである帳内の筆頭に就き、堯毅の貢挙で試験を受けて役職を得た。四等官の大疏である永峯が少忠になり、千央が大疏になるならまだわかるが、無位だった千央が永峯の位を飛び越えて判官職に就くのは異例のことだ。公鷹の説明は理路整然としていた。
「お前が上官なのはいいのかって点はまあおいといて、なるほどな。納得」
そう言われれば腑に落ちたらしい。やれやれと伸びをして横になった千央を、立ち上がった公鷹が笑顔で急き立てた。
「さ、堯毅様が戻られる前に、この調べ書きを読み込んでおきましょう」
俺寝てねえんだけど、と言いかけて、多分右から左に流されるだろうなと思った千央は、素直に起きることにした。


 中天を過ぎた太陽がわずかに傾いだ頃、空は一面雲に覆われていた。今にも降り出しそうな様子を見て、大内裏に勤めている貴族たちが急ぎ足で帰途につく。そんな中、二条大路に面して建つ大内裏の門の一つ、皇嘉門に唐廂車(からびさしのくるま)が乗りつけられた。
両端が美しく反った軒をもつ、格の高いこの牛車を使うことが許されるのは、皇族や摂政などに限られる。周囲には貴人を垣間見ようと徐々に人が増えていった。
「どなたかお目見えになるのか?」
「弾正尹宮様が来られるとか」
「なんと。こんな陽の高いうちから、稀なこと」
まだ大内裏にいた地下(じげ)官人たちが色めきたつ。牛車から牛が離され前簾が上がった瞬間、ざわめきが広がった。現れたのは裘代(きゅうたい)五條(ごじょうの)袈裟(けさ)を身につけた小柄で年若い人物だ。
袖から出た小さな手は常人離れして抜けるように白い肌、すっぽりと被った帽子(もうす)の陰に、品よく整った面差しが見える。
「今日も浮世離れしてお美しい」
「いま少しご尊顔を拝することができれば……」
肯定的な声が聞かれる一方で、唐廂車をちらりと見やり、小声で「白子(しらこ)めが」と吐き捨てて立ち去る者もいた。

 事実、かの人物の肌の色は尋常とはいえない。陽にあたっていない、などという程度の話ではないのが一瞥してわかる。まさに降り積もった雪のようで、眉や睫毛、帽子に隠された髪は(しろがね)の糸のごとく輝き、伏し目がちのため目立たないが瞳も常人とは違い、唐渡りの青磁のごとき青灰色をしていた。
こうした、世の人に「白子」と呼ばれる人々は古来から稀に現れた。皇統を辿ればかつて白髪の帝がいたという。彼の帝の御代から既に五百余年を経ているが、彼もまた、そうした色彩をまとって生まれ落ちたのだろう。

 人々の囁き合う声が満ちる中、踏み台の(しじ)が置かれ、少年が前板に置かれた沓を履くと待っていた千央が恭しく一礼して手を差し出した。
「どうぞ、堯毅様」
堯毅と呼ばれた少年が微笑み、差し出された手を支えに榻を踏んで車を降りる。
「千央、いつもありがとう」
重そうな裘代の衿を整えた拍子に、帽子の奥で銀の髪が揺れて見え隠れした。
彼に続いて、牛車からもう一人、今度は六尺に届こうかというほど背の高い男が降り立った。額に捻じ梅の紋がある彼は身長の割に顔に厳つさはなく、むしろ柔和な印象さえ与え、千央を見下ろし笑った。
「なにやら面白い知らせを受け取ったんだが、話を聞かせてもらえるか?」
「あのな智也(ともなり)。ひとっつも面白くねえんだわ」
「どうぞ、お早く。御帳台(みちょうだい)の準備ができていますので」
物騒な笑みを顔面に貼りつける千央の後ろから、ひょっこりと顔を出した公鷹が一礼する。
「ありがとう、公鷹。今日は雨がちで助かります。では庁舎に入りましょう」
にこりと笑った堯毅が先に立ち庁舎へ入っていく。彼の姿が見えなくなると、皇嘉門にできていた人だかりも徐々に散っていった。

 庁舎の中央、一番大きな曹司に設えられた御帳台は貴人の座所である。庁舎の板張りの床の上に真新しい畳が置かれ、柱と鴨居で組まれた四方には(とばり)を下ろし、天井代わりに明障子(あかりしょうじ)を乗せて個室のように作られている。
今、一面の帳だけを上げて中に座す弾正尹宮は、今上帝の十番目の子であり親王の堯毅であった。額には花九曜と呼ばれる紋がある。今上帝と皇后、春宮と他二人の有力な親王が九曜の紋を戴くが、それ以外の親王や内親王は上下左右の丸が欠けた、花九曜とするしきたりだった。
だが何よりも人目を引くのが、余人とは一線を画したその色彩と整った容貌だ。持って生まれた超然とした容姿が、口さがないものに「白子」と陰口を叩かれる原因である。

長官である尹宮の帰着に際し、庁舎に残っていた職員が平伏して迎えていた。二十一名の背を見やり、堯毅が笑顔で告げる。
「もう午後ですから、皆さん、帰って構いませんよ。調査があるとしても明日以降になりますから遠慮せず」
「ありがたきお言葉」
源永峯が四角四面の言上をしたところで、堯毅と共に牛車に乗ってきた、千央に智也と呼ばれた男が職員たちに向き直って口を開いた。
「聞いてのとおりだ。尹宮に言上したきことがある者以外は帰ってよい。皆、ご苦労だった」
大男の鶴の一声。は、と声を揃えた職員たちが、順に曹司を辞去していく。しかしこの男は弾正台に籍を置くものではなかった。
親王である堯毅の家政を掌るべく、今上帝が自ら選んだ家司(けいし)の別当、菅原智也という。
 菅原家の現当主である菅原智長(ともなが)の三男で、式部省から蔵人(くろうど)へと順調に出世を重ね、侍読として今上帝の傍近くにいたこともあり、目に留まったのである。
職員たちが出ていくのと入れ替わるように、一人の舎人が籠を抱えて、御帳台の傍らにいる智也へ近づいた。
「智也様、沫雪(あわゆき)を連れてまいりました」
蓋を開くと真っ白い猫がひと鳴きして籠を飛び出す。迷うことなく堯毅の裘代を駆け上がり、肩に手をかけてぶるぶると身を震わせた。ふっくらと全身の毛を膨らませているのは、急に捕まえられ籠に押し込まれたからだろう。
「ああ、沫雪。今日も書庫の番をありがとうございます」
堯毅が頭をなでると猫はごろごろと咽喉を鳴らした。彼は弾正台や堯毅の私屋敷の書庫で鼠を獲る役職持ちだ。職員の中には「書庫別当殿」と呼ぶ者もいた。
「沫雪は今上帝からの御下賜でしたね」
「唐渡りの猫ですか。確かに、こんなに毛の長い猫は見たことがありません」
猫の前脚をつまんで上下しながら言う千央に、公鷹は興味津々といった態で身を乗り出した。尻尾を除けば一尺ほどの大きさだが、体を掴むと自分の指が見えなくなるほどの長い被毛に覆われている。
「私に似ていると仰せで」
ふふ、と笑って堯毅は沫雪の眉間をなでた。猫の目も彼にどこか似た、灰みを帯びた浅緑色をしている。ひとしきり猫を可愛がった堯毅は、やがて顔を上げて千央と公鷹へ笑いかけた。
「では、話を聞かせてください」

 千央が追捕、事情聴取されるくだりで智也が笑いを堪えられなくなるという事態はあったが、今朝からの騒動はひととおり全員で共有されることとなった。全ての情報を吐き出した後で、千央は板間に額をぶつける勢いで平伏した。
「少忠として、堯毅様の帳内として、恥じ入るばかりです。必ずやこの恥辱は(そそ)いでみせます」
「状況では致し方なかったでしょう。検非違使別当殿から使いを受け取った時は驚きましたが、誤解が解けて何よりでした。思い詰めてはいけませんよ」
「堯毅様……!」
大きな体を縮こまらせている千央と、おっとりと笑う堯毅。二人の関係性を公鷹は少しばかり不思議に感じていた。千央は相手が親王だから、などという理由でここまで臣従する性格ではない。そのぐらいはこれまでの付き合いで理解できる。まして、堯毅は常の親王ではない――そんなことを考えていると、二人の様子を微笑ましそうに眺めていた智也から声がかかった。
「それで、公鷹。我々が来るまでに分かったことはあるのか?」
公鷹は気を取り直した。
「はい。まず、厳密にはまだ千央さんの疑いは解けていないのですが」
「おい」
振り返った千央が氷点下に冷え込んだ声を上げたが、それは措いて公鷹は懐から紙束を出し智也の前に揃えて置いた。
「智也さんはご存知かもしれませんが、佐伯伊之殿は日頃から行状がよろしくありませんでした。左兵衛府での評判は不真面目、怠惰、遅刻が多いというもので、大内裏の外では治安に問題がある地区での乱闘騒ぎ、不当な召し上げ、女性への乱行の報告が目立ちます」
「周辺の者が随分と手を焼いているようだったな。しかし、若いな……」
文官・武官問わず人事考査や礼式を司る式部省で大輔(たいふ)という管理職に就いている智也は、問題のある人物を概ね把握していた。「若い」の一言で済ませてはならない行状ばかりで、こうなると彼個人への怨恨も考慮せねばならない。
「ご父君はこの上なく清廉な人物なんだが。随身はついていなかったのか?」
「いた。名前は覚えちゃいねえが、公鷹が控えてる。けどそいつら、昨夜は末成りの屋敷で酒飲んでつぶれてたんだよ」
「権中納言家に隠れて、別の女性のところへ忍んで行っていたのか?」
智也の訝しげな問いが言外に「婿入りして早々に大丈夫か」と言っていたので、公鷹は分析した結果について説明することにした。
「相手の女性は日々の灯油(ともしあぶら)にも事欠く生活でした。佐伯伊之殿がもし彼の女性に本気であられたなら、油なり衣なり贈っておられるでしょう。また、以前から右京で遊び歩いておられたようです」
「つまり、昨夜たまたまあの場所で、その女性だったということか」
「はい。目下調べた範囲では」
たまたま。犯罪が起こっている場合、素直に受け取るには難しい概念と言わざるを得ないが、今はそうとしか言いようがない。

 なんとなく落ちた沈黙を破ったのは、話を聞きながら沫雪を撫でていた堯毅だった。
「……昨年秋から、施薬院に運び込まれてくる怪我人も庶人から武士、五位に届かぬ貴族まで、増加の一途を辿っています。傷も殴打、熱傷、刀傷に矢傷と幅広い」
施薬院では医師が診察し、(あずかり)の指示のもと雑使たちが治療や施薬を行っているが、施薬院別当になる前の堯毅は院使として、医師に並び自ら民の診療をしている。この二年の実務経験から、現在の治安の異常をまざまざと感じていた。
「こう申し上げますとなんですが、藤原氏所縁(ゆかり)の方たち以外の保護や治療が増えますと、上からあれこれ要らぬ口を挟まれるのではありませんか?」
智也が眉をひそめて問いかける。

実際、施薬院は国の政策で設置された万人へ向けての医療機関ではあったが、大いに政治的な意図を含めて運用されており、運用に使われている米などの食品や医薬品、衣、人員の使い道の一部は困窮する藤原氏の血族にしか使えないという側面がある。
そこを心配しての智也の言葉だったが、堯毅はにこやかに笑って応えた。
「それは心配ありません。なにしろ被害に遭った方の大半が、後日になるとはいえ必要なものを自力でご用意くださっています」
なるほど、夜討ちやら強盗やらされるだけの余裕がある家の者だけのことはある。
「ただ、中には薬材を買ってお持ち下さる方もいますが、最近東市に出回っている薬材の質が低いのが困ります。保管が悪かったのか傷みやすくて…まったく、どこのものなのか」
「善意で持ってくるものだし、断りづらいですね」
憂い顔の堯毅に同調して公鷹が頷く。薬材を取り扱う店が保管方法を知らないとは思えないのだが。
「しかし都の治安を預かる検非違使が居ながらこの体たらく。それほどに不埒者が増えているということでしょうか」
「ただ増えただけでなく、よからぬ輩が幅を利かせているのでしょう」
智也の言葉に、堯毅が髪と同じ銀の眉を寄せた。

 弾正尹宮としての立場で言うなら、この半年あまりの都の治安の悪さは目に余る。検非違使は都の治安維持だけでなく、上級貴族の護衛などさまざまな役目があるため、実際に市中の治安に回す人員が不足することがあった。
であれば、そもそも京官の非違を糺す役目である弾正台が調べてなんの問題があろうか。

「公鷹、千央は都の治安低下の原因について調査をしてください。必要であれば永峯を通して人員を動かし、何かあれば私に使いを」
「畏まりました」
首肯した二人を見やり、永峯が畏れながら、と発言の許可を求めた。良くも悪くも権威主義的というべきか、千央を除いて上役からの命令に異を唱えない彼には珍しいことだ。
「もちろん尹宮様がお決めになったことですから異存はございませんが、(すけ)殿にこの旨、お話しせずに進めてよいのでしょうか」
「弼殿には私から尹宮さまの意向をお伝えする。反対はなさらないだろう」
問には智也が応えた。弾正台の長、尹を補佐するのが次官の弼であり、(ともの)帯刀(たてわき)は堯毅の前任者の代から既に十年近くその任にある。検非違使に取って代わられている現状に、心穏やかであるはずもない。
正直な話、智也にとって、千央が誤解とはいえ追捕されたのは素行から身に返ったことで大したことではない。それよりも、堯毅が都の民の安全が脅かされていること、怪我人・死人が続出していることを憂いていることを帯刀に伝えるべきだ。
ごろごろと咽喉を鳴らす沫雪を撫でながら、堯毅が智也を振り返る。
「私もできることをしなければいけませんね」
「承知いたしました。佐伯連之殿は私が日々補佐をいただいている方。今回のことで物忌みに入られるでしょうから、折をみて私から見舞いを申し入れます。畏れながら、その際に足をお運びいただけましょうか」
「もちろんです。その方が話も早いでしょう」
佐伯伊之の殺害事件が必ずしも、都の治安悪化の原因と直接関係があるとは限らないが、治安の悪化によって起きたことには違いない。一つずつ手がかりを辿って、都の人々を脅かすものに近づいていく、その一歩を弾正台は踏み出した。


 弾正台の尹という役職に就くことになった尭毅の率直な感想は、「余計な仕事を増やしてくれた」であった。俸禄と権威だけがあるような名誉職ではあるが、自分には施薬院の別当という責務があり、だからといって弾正台の勤めを全くせず放っておくわけにはいかない。
この人事は後ろ盾である大納言・三条(さんじょう)実仲(さねなか)によるものだ。
健康な人間であれば兼務も大した問題ではなかったかもしれないが、自分は決して健康とはいえない。
浮世離れした容貌だとか、神がかった色合いだとか、あるいは白子だとか、人は自分のことをさまざまに表現するが、自分にとってはそんなこと知ったことではない。外見がどうあれ、それよりも切実なのは生まれついての生きづらさだった。

白皙の肌は余人に比して陽光に非常に弱く、陽の当たった肌は激しく痛み赤く腫れ、日中に外に出れば目が眩む。経典や文書の文字は鼻先すれすれまで紙を近づけねば見えない。当然足元も見えないので、勝手知ったる己が住まいでもなければ、人に手を引いてもらわないと転倒しかねない。
そんな病の身で勤め先が増えるなど、正気の沙汰ではないではないか。
家司になってから尭毅のそんな事情を知った智也は、以後可能な限り傍に侍るようにしていた。
「大納言殿なりに、尭毅様の御為になるとお考えなのですよ。もちろん尭毅様が恙なくお務めになってより高き地位に上られることが、最終的には大納言殿のためとなる、わけですが」
「そうでしょう?」
ふふ、と笑うこの親王は一見とても穏やかだが、政を牛耳る貴族たちに政治の玩具のように使われていることを自覚しているし、十分に腹もたてていた。それ以上に優先すべきことを己で定めているだけだ。
「私としてはやっと人々の役に立てる機会を得たのですから、施薬院の任に全力を注ぎたいところなのですが」
「畏れながら、私は弾正台もまた、都の人々の生活のためとなるお役目と考えます」
智也は進言すべきだと思ったことは躊躇わない。そうした彼の気質を尭毅も尊重していた。
「わかっていますよ。だからこうして、式部大丞殿の屋敷に向かっているのですし」
宮中には典薬寮があるが、これはあくまで五位以上の位があるものだけが治療を受けられるという、上層の貴族たちのためのもの。位の低い貴族は対象外であり、時には市中の、身元や経歴の怪しい医師(くすし)の治療を受けざるを得ない場合もあった。
式部大丞である佐伯連之も典薬寮の医師の治療は受けられない。だからこそ、施薬院の別当であり医師でもある尭毅の訪問には価値がある。

 弾正台での話し合いから五日経ち、式部大丞・佐伯連之の屋敷へ向かう牛車の中で、尭毅と智也は顔を突き合わせていた。五月五日の今日は、大内裏の武徳殿で左近衛府による騎射(うまゆみ)の本番、真手結(まてつがい)が行われている。もののふの武を披露するまたとない行事であり、それだけに宮中ばかりか都のうちも、広範囲にわたって警備が強化されていた。
佐伯の屋敷は左京四条の高倉小路沿いにある。屋敷は四坊二町の区画の約四分の一を占めていたが、敷地の広さより庭に趣向を凝らしているのだろう。東門から入ると、中門の向こうに美しい緑が広がっているのが見えた。
侍廊の前に出ている家人たちといい、中門の前に控えている雑色たちといい、今にも倒れそうなほどに緊張しているのがよくわかる。まあ、親王の訪問とあっては無理もない。屋敷に唐廂車が来るのも初めてのことだろう。
気の毒には思ったが、千央はせいぜいいかめしい表情を作って言い放った。
「弾正尹宮様とその家司、式部大輔菅原殿が到着致した。式部大丞佐伯殿にお取次ぎを願いたい」
「お待ち申し上げておりました。どうぞ門を通り、寝殿正面へ車をお寄せください」
家人の責任者らしき男が応え、車宿の前にいた雑色が震えながら深々と一礼する。
 通常、訪問客は車宿に車を停め、簀子を通って家の主がいる対屋か寝殿へ向かう。しかし身分の高い賓客に限り、寝殿の前へ牛車を乗り付けることが許されていた。
千央がどう応えたものか牛車を見上げると、前簾の裾から差し出された檜扇が簾を持ち上げた。智也が顔を出して告げる。
「いや、大丞殿のお気遣いはありがたいが、こちらの車宿に停めていただきたい」
智也は佐伯連之の上役であることもあり、屋敷の者の中には彼の顏や声を見知っている者もいた。だからこそ、続いて牛車から聞こえた穏やかな声に身をこわばらせた。
「あくまで私は僧のつもりですし、今日は式部大丞殿の診察のために参ったのです」
僧のつもり。すなわち、常日頃から僧形であるという親王・尭毅の言葉だろうと十分に伝わる。賓客自身にそう言われてしまっては無理強いもできない。
牛が離され、榻を踏んで尭毅が姿を現すと、水を打ったような静けさが広がった。親王を直視するなど許されないため、全員がその場で平伏したが、帽子をすっぽりと被っていてもその肌の際立った白さや銀の髪はちらりちらりと視界に入る。
千央の手を借りて尭毅が牛車を降り、続いて智也が降りると、尭毅の手を引く役を代わった。千央は薬草や薬道具を収めた櫃を手に後に続く。

通されてみると、屋敷は大貴族にありがちな東西の対がある大規模な寝殿造りではなく、寝殿と北の対、東の対があるだけの小ぢんまりとした作りだった。東中門から渡殿に入ると、小づくりながら綺麗に整えられた庭が見える。女房の先導で短い渡殿を通り抜け、寝殿の庇に入ると全ての半蔀が下ろされており、陽も高くなりつつある午の一刻だというのに薄暗かった。
「お気遣いをいただいたようですね」
千央に手を引かれて歩きながら尭毅がそう独り言ちると、廂の向こうからかすかなざわめきが聞こえてきた。女房たちが思わず声をあげたのだろう。
足元が危なくないように明かりが灯されている中を進み、寝殿に近づくにつれ、男が喚くような声が聞こえてきた。およそ、病みついた主がいる屋敷から聞こえていい怒声ではない。
「先客がいるだと?」
意外な成り行きに、思わず智也は呟いた。

 今回の尭毅の訪問は一昨日、自分から見舞いとして申し入れた際に佐伯に伝えてある。仮にも親王の訪問を控えて、他の客を呼ぶことがあるだろうか。それが尭毅にとっての目上、例えば今上帝や春宮、兄宮たちであればない話でもないが、一介の役人である式部大丞にそんな訪問があろうとは思えない。
つまり、佐伯にとって予定外の訪問客が来ているのだ。

二人を先導する梅の花鈿の女房が、申し訳なさそうに二人へ向き直って項垂れる。
「まことに申し訳ございません。先ほど急に、弔問の方がお見えになられまして」
「とはいえ、病を得た方の前で声を荒げるなど……」
珍しく気分を害したような尭毅の声色にふと笑みをこぼして、先行する智也は考えた。
つまりその和田という人物は、佐伯とは事前の約束や知らせもなしに訪問が許されるような間柄ということなのだろうが、急に訪うわ怒声をあげるわ、随分と自儘な人物のようだ。歩を進める間にも、声は詰問でもしているような調子で続いていた。
「伊之殿が家を出ていたことも知らなかった、と仰るのか!」
「……あれも通う姫のいる身。あれこれと咎めだては……」
「和田様、どうぞお声を静めてくださいませ。大殿のお体に障りまする」
女房がたしなめる声も間近になり、一行が寝殿に入る。

母屋では身なりの整った男が、板間に敷かれた畳に座した顔色の悪い高齢の男に膝詰めにならんばかりの距離で声を張りあげていた。
「そうは申せ、栄進を控えた御子息をあたら…死なせてしまわれるとは!」
困ったような顔をしていた高齢の男が、尭毅と智也に気づいて目を丸くする。
転がるように畳を下りて平伏する様に驚いたらしい手前の男が、不審げな顔で振り返った。彼もまた大きく目を見開く。高齢の男――屋敷の主である佐伯連之が板張りの床に這いつくばるようにして嗄れた声を絞り出した。
「弾正尹宮尭毅さま。我があばら屋へお運びくださり恐悦至極にございます」
一拍おいて、男も弾かれたように平伏する。
佐伯連之はかろうじて起きてはいるようだが、青ざめた顔、落ちくぼんだ目といい、間違っても客の応対ができるような状態ではない。それらが詳細には見えなくとも、ふらつく様子や声の調子から状況を悟った尭毅が慌てたように一歩前へ進み出た。
「佐伯殿、すぐに床を延べてください」
先導してきた女房がその言葉を受けて、少々ほっとしたような表情を見せた。客人たちに畳を薦めると急いで床の準備のために他の女房たちに指示を出し始める。
智也は平伏した男に声をかけることにした。
「私は尹宮さまの家司で、式部大輔の菅原智也という。その方は?」
「左衛門少尉、和田清重と申します。大丞殿には以前より仕事を頂き、長らく親しく交わらせていただいております。本日は弔問のためまかり越しました。尹宮さま、式部大輔さまにお目にかかれて幸甚でございます」
察するに文官で武士の伝手がない佐伯のために、必要に応じて警固などの武士を都合してきたのだろう。都で官職を得たい武家は、特に武士団を抱えているならば、下級貴族の護衛などをして信用を得、職を推挙してもらうのが常だ。彼もその結果、佐伯の推挙で衛門府に仕官がかなったと考えられた。
「本日は佐伯殿に事前にご訪問をお伝えし、尹宮さまと佐伯殿に時間を割いていただいている。日を改めてはもらえまいか」
「は、ただちに。これにて御前を失礼いたします」
先程はおよそ弔問という風情ではなかったが、まるで人が変わったように落ち着いた声になった和田とやらは、床に額を擦りつけんばかりに深く一礼すると立ち上がり寝殿を立ち去っていった。女房たちも困惑気味の顔を見合わせている。

予定外の訪問者を見送った智也が肩を貸して起き上がらせると、連之は咳で不調法を働かぬよう、袖で口元を覆いながら謝辞を述べた。
「おお、大輔さま。此度はなんとお礼を申し上げればよいのか」
「お気になさいますな。差し出がましいかとは存じましたが、不調にお悩みと伺っておりました故、尭毅さまに診察をお願いいたしました」
話を振られた尭毅が、勧められた畳に座してにこりと微笑む。
「半蔀を閉めておいていただきありがとうございます。陽に当たると私の肌がひどく焼けることをご存知だったのですね」
既に身を起こしておくことも困難らしく、体を震わせながら連之が首肯する。
「このように陽の高い時分には外出すら障りがおありだと……また、御目にもよろしくないと伺っております。かような老骨のために、畏れ多いことです」
「気遣っていただいて嬉しく思います」
連之の言葉は正しく、尭毅は陽が高い時間に外出することはほとんどない。出歩くのは日暮れからが主で、建物の中でも渡殿はもちろん廂であろうと帽子を外すことはなかった。それは必要以上に人目を引かないためでもある。
 女房達によって慌ただしく床が設えられると、やっとのことで連之は体を横たえた。千央に導かれ傍らに座した尭毅が、改めて礼と弔辞を述べる。
「此度の御不幸でさぞお心を痛められ、お気落としのことでしょう」
「お耳に入っておりましたか。恐懼の極みでございます」
「脈から診させていただきます」
連之の腕をとり、尭毅は診察を始めた。連之は痩せてはいるが持病があるという風情ではない。しかし脈拍は浅く、早い。胸や腹に異常はないが、時折咳が出る。
「夜は眠れておられますか?」
「あまり……眠りが浅く、ちょっとした物音で目を覚ましてしまいまして」
「食事はいかがです?」
施薬院で行っているように、脈を診ながら尭毅がひとつひとつ問診を重ねていく。事前に聞き込んでいた状態と大きな差はない。やはり気鬱が原因であろうと思われた。加えて、少しばかり体調を崩しているようだ。
尭毅が必要な薬剤と薬湯の調合を記し、その紙を受け取った千央が別の帳内が持ってきた長櫃を開けて必要な薬を取り出し始めた。それを背に、尭毅は穏やかに連之に笑いかける。
「おおよそわかったと思います。薬湯の処方をお伝えしたいのですが」
「女房頭の菱野にお願いいたします。尹宮さま御手ずからの処方など、身に余ること……」
千央から処方を受け取った四十ほどに見える年かさの女房――おそらく菱野であろう――が紙と薬材を押し戴くようにして受け取り、母屋を下がっていった。薬剤の擦り方なども書いてあるので、薬の知識がない者でも薬湯自体は作れるだろう。
「どうぞそのようなことは仰らず。常日頃から、智也がお世話になっておりますから」
脈をとるほど近づいても、やはり尭毅の目には相手の顔かたちが見えない。ただ、白髪がちらほら混じる髪をきれいにきっちりとまとめた様子や、荷葉を基にしたと思われる薫物の上品さは印象に残った。
「すばらしい薫物のご趣味ですね。伊之殿もこのような才をお持ちであったのなら、姫君が恋に落ちられたのも道理です」
「もったいなきお言葉。しかしあれは、何事も根気が続かず……」
乾いた笑い声をもらして、連之は力なく首を振った。
「我が子の行状は、既にお聞き及びのことと存じます。なんとも遊び好きの困った子でございました……とはいえ、幼い頃は体が弱くよく熱を出しまして。静養を兼ねて三歳からは尾張の別邸へ送り出しました」
「尾張の。しかし、佐伯殿は式部省でのお勤め一筋だったと思いますが」
それは同じく式部省での勤めが長い智也だから知っていた。さまざまな省庁を経て出世する者もいるが、連之は智也が入省した頃から既に式部省にいたのだ。
「尾張には祖父の建てた屋敷がありまして、私も幼い時分はそちらで育ちましたので」
「そうでしたか。では伊之殿はずっとそちらでお育ちに?」
「はい。時間をかけた静養がよかったのか、十二になる頃にはすっかり健やかに育ちましたので、都へ呼び寄せて元服させた次第でございます」
智也の問いに、連之が懐かしそうに眼を細めたが、そうしてやっと育った子を失った悲しみは癒しがたいものがあろう。智也はふと、気になったことを聞いておくことにした。
「先ほどおられた和田殿でしたか。彼とは長い付き合いでいらっしゃるのでしょうか」
「ご賢察恐れ入ります。妻の遠縁にあたる尾張国の豪族でして、伊之を尾張まで送ってくれたのも彼です。なにぶん当家は本家筋から離れておりまして、武士の伝手がございませんでした。武士団を抱えており、ちょうど仕事を探していると妻から紹介され、以降は我が家で武士が必要な際は和田殿に頼んでおりました」
なるほど、遠縁であればあの振る舞いもわからないではない。しかし穏やかな気質の連之は気にしていないようだが、妻の遠縁に許される行動範囲を逸脱しているように思える。とはいえ、智也は想いを口にせずにおいた。
「そうでしたか……」
「しかし、長らく京官をされていたのであれば、あまりご子息とお逢いになる時間も取れなかったことでしょうね」
「こればかりは宮勤めの悲しさ、と申しましょうか。元服までに二、三度訪いましたが、体調が思わしくなく、一度会ったきりでございましたから……あるいは私を困らせたくて、あのようなことをしていたのかもしれませぬ」
それはあるかもしれない、と尭毅は考える。貴族のほとんどはまともに仕事をしない。大人になれば否応なくわかることだ。それなのに己の親だけが真面目に仕事をし、ろくに自分の顔を見にも来なかったと思えば、少なからず子も思うところはあろう。
「立派になられたご子息とこれからという時に、お気の毒なことです」
「尾張へはあれの母親も一緒に行かせましたが、道中で事故があり世を去ったそうで。私は肉親の縁が薄いのかもしれませんな」
「……南無大師遍照金剛……」
数珠を握り、尭毅は数度念仏を唱えた。この世の不条理に嘆く人を見ると、僧を志したものとして胸が痛む。
「現世は生老病死の苦しみに満ち、さまざまな妄念や猜疑のもととなる男女、親子の恩愛もまた、仏の教えにおいては断ち切るべきものです。生きる上では離別は避けられぬもの……ですが」
涙ぐみ合掌している連之の様子は痛々しい。もちろん、ただ教えについて語るだけが、僧が為すべきことではないということは尭毅も承知していた。
「悲しみもまた人の情というものです。お嘆き、お察しいたします」
「……畏れ多いことでございます……」
言葉尻が嗚咽で消える。しばしの間、母屋を連之のすすり泣きが漂った。


 千央は尭毅や智也が連之と話している間、途中までは大人しく座していたが、ふと気づくと御簾の向こうで菱野が気遣わしげにちらちらと顔を出しているのを見て、腰をあげた。何か不明なことがあるのだろう。そっと身を乗り出して智也に是非を問うと、無言のまま頷いて返事を返してくる。
音を立てずに母屋を退いて、千央は廂へ出た。菱野と、その後ろに年若い女房が廂に座して何事か囁きあっている。思いがけず見栄えのよい彼が出てきたことで、若い女房は素直にも頬を染めていた。
「私は宮の帳内、千央と申す者です。女房殿、処方で何か不明なことが?」
自分の顔の効果をよく知っている千央が、とびきりの笑顔をつくって問いかける。ぽうっとなっている女房をよそに、きりりとした眉が印象的な菱野は手にした処方と椀へ目を落とした。
「お手を煩わせて申し訳ありません。こちらの石のようなもの、こんなに入れてよいのでしょうか。このような材料を使った薬湯など初めてで、不安で」
牡蛎(ぼれい)ですね」
千央は手元を覗きこんで呟いた。伊勢国から貢納された牡蠣の殻だが、綺麗に磨かれ乳白色の石のようになっている。不安に感じるのも無理はない。
「ご懸念には及びません。不眠に効果があるものです」
女房頭らしく、主に忠実なたちのようだ。安心させられるかわからないが、さっき処方で見たことを笑顔で答えた。正直、もう一つの石のような薬材が大昔の牛だか犀だかの骨だと尭毅から聞いていたので、そちらを聞かれなくてよかったとも思う。
ほっと息をつく菱野と対照的に、若い女房は顔を隠すでもなく、しかし自分から話しかけるほどの勇気もないようだ。
「牡蛎を擦るのは女房殿には大変でしょう。私がやりましょうか?」
「お願いできますでしょうか!」
菱野を置き去りに若い女房が身を乗り出した。渋い顔をしたものの、菱野もそのほうがありがたいと見える。二人に先導されて千央は台盤所へ向かった。

連之の屋敷は小造りながら、過ごしやすそうな手入れの行き届いた状態に保たれていた。それは恐らくは使用人たちがしっかりと為すべき仕事をしているからで、連之の人望や使用人たちの水準の高さが窺われる。
ちらちらと観察を忘れない千央だったが、台盤所へ着くまでのわずかな間も、若い女房から興味津々の質問をぶつけられることになった。
「千央殿は帳内と仰られましたが、宮さまのお側近くに侍られるお役目ですよね?」
「お身の回りのお世話や、外出される際の護衛など務めさせていただいております」
「まあ……お恥ずかしいことに、帳内の方とお話しさせていただくのは初めてなんです。皆さま、こんなにご立派でいらっしゃるんですか?」
「およしなさい、周防。はしたない」
先に立って歩く菱野は困った様子だが、千央にとってはこういう女房は都合がいい。十五、六ほどか、もともと気になる物事に前のめりなたちなのだろう。そうした関心の対象に、自分が入っているらしいことも勘づいていた。
「帳内では私が筆頭ですが、私など、宮さまの家司である式部大輔殿とは比べ物になりません。主のため、私も菱野殿のように、まだまだ精進せねばと思います」
官位については興味がないので除外するが、正直なところ、智也に負けているところは身長だけだと思っている。千央がさも真面目であるような顔でそう言うと、周防と呼ばれた女房はいくぶん唇を尖らせ、菱野もやや目尻を緩めた。
「式部大丞殿は清廉潔白なお人柄と、常々承っております。女房殿たちもお勤めにさぞかし尽力されていることとお見受けします」
「それはもう!」
雑談には乗り気でなかった菱野が、今までで一番大きな声をあげた。
「お殿さまは私たち女房や雑色たちにも親身で、色々と気遣ってくださいます。私などは流行病で家族を亡くしておりますので、ここより行く宛もありません。こちらに終生お仕えするつもりでございます」
「身寄りが……そのような方は多いのですか?」
千央の問にはやや食い気味に周防も答えた。
「はい、私も父以外みな亡くしまして……父がこちらのご子息の伊之さまにお歌のご指南をしておりましたご縁で、女房として雇っていただきました。お殿さまはお優しい方なんです」
女房たちの忠心はかなりのものだ。相槌を打ちながら、千央は感心していた。

着いてみれば、台盤所の女房たちが一瞬ざわついた。庖丁人や雑色以外の男が台盤所へ来ることはあまりない。まして歴とした帳内とあって、騒ぎもひとしおだった。
「みな、取り乱さないように。お薬湯のご指導のために来ていただきました」
菱野の一言で騒ぎが静まり、粛々と材料と薬湯の淹れ方について千央から説明が始まる。薬湯は厳密に材料を調整する必要があるため、薬道具から秤を出して一回分ごとに小分けに薬剤を包んでおくよう説明した。
「これを煎じて、お休みの前に飲んでいただいてください。都度、しっかり煮立てるようお願いします」
昨今の貴族の屋敷では鉄の鍋を使っているところもあるが、煎じ薬の材料である生薬は、鉄に反応して好ましくない変化を起こす場合がある。幸いにしてこの屋敷ではまだ石堝(いしなべ)土堝(どなべ)だったが、さすがに食事を作る堝で煎じ薬は作りたくないだろう。
「薬湯は専用の堝を使います。差し支えなければ、今持ってきておりますものを差し上げます。宮さまのご意向ですので、ご遠慮はなさらず」
「ありがとうございます。本当に……蛍の宮さまのご温情に畏れ入るばかりです」
菱野が半泣きで言った。
『蛍の宮』とは都人が尭毅に好んで使う呼称である。昼は屋敷の奥深くにあり外出はもっぱら夜、光輝く髪や白皙の容貌から蛍の名を冠せられているようだ。
彼女のような一般の貴族に仕える女房の立場からすれば、尭毅の名を直接口にするのは憚られるだろうから、その呼称を使うこと自体は驚いたことではない。
しかし、隔意をもって口にする者も少なくないため、笑みが若干ひきつったことを千央も自覚していた。

 一通り、煎じ薬に使っている材料や一度に飲ませる量についてなどの質問に答えたところで、千央は自身の用事を切り出すことにした。
「時に、先ほど屋敷にお見えになられていた方、和田さまとおっしゃられましたか」
途端に、今まで和やかだった女房たちの表情ががらりと変わった。一様になんとも言えない不快そうになった顔を、慌てたように衣の袖口で隠す。
「北の方さまの縁者であられるというお話しでしたね」
「……お殿さまは和田さまをたいへん頼みにしておられます」
渋々といった様子で口を開いたのは周防だった。彼女自身はそれに納得しているという口調ではない。それはどうやら菱野も同じだったようだ。
「お殿さまは荒事は和田さまをお頼りするしかないのです。でもあの方、私たち女房や雑色にはちょっと……」
「乱暴なことでもなさるんですか?」
「それは……ちょっと見目のよい女房には親切にしてお手をつけられたり、お気に召さない雑色を厳しく打たれたり。お殿さまの目が届かないところであれこれと!」
「お供の方たちはもっとひどいんです。新人の女房を曹司に連れ込もうとするわ、大路を歩いていた棒手振りを引きずり込んで商いものを奪い取るわ、やりたい放題です」
周防が堰を切ったように不満を吐き出すと、相槌をうって別の女房も身を乗り出した。他の女房たちも同意の声をあげ、先ほどまでは屋敷の内情を口にしたがらなかった菱野でさえ、渋い顔ながら訴えを止めようとはしない。
千央からすれば正直、そのぐらいはありうることだと思っていた。主である連之がおよそ穏当であるがゆえに、和田の挙動が際立って見えているのだろう。
そもそも武士団を構えている地方豪族は、都人に比べて荒事慣れしている。抱えている武士たちもつまるところ、自分の郷を追い出されたような無頼のものが多数いることだろう。
しかしだ。
「郎党がそんな乱暴を働いているというのは困りますね。狼藉が知れたら京識からお咎めがあるかもしれません。その場合、式部大丞殿が責めを負われることになります」
「……そんな! お殿さまは何も悪くありませんのに!」
思わず大声をあげた周防が一瞬息をのみ、いくぶん小声にして訴える。まだ何か言いたそうな彼女を制して、菱野が眉を寄せて呟いた。
「ですが、そうした狼藉を働く郎党を抱えている和田殿に警固を頼んでいるのが、お殿さまだからですね」
「そうです」
首肯した千央は、もう一押ししておくことにした。
「京識で済めばよいですが、物盗りをしているとなると検非違使が出てくるかもしれません。式部大丞殿の御名に傷がつくようなことがなければよいのですが」
菱野が唇をひき結んだ。その場にいる者たちからは声も出ない。『検非違使が出てくる』ということにはそれだけの重大な意味があった。
「……お殿さまに、和田さまやお供の方たちの行状について申し上げるべきでしょうか」
「まったくお伝えしていないのですか?」
「いえ、女房たちのことについてはお伝えしています。でも棒手振りのことなどはお話ししておりません。そもそも和田さまは、警固は熱心にしてくださるのです。北の方さまのご縁ということもあってか、特に伊之さまにはお優しくて……よく伊之さまあてに差し入れなども送ってこられていましたし、弓馬の扱いなども伊之さまには丁寧に教えてくださっていました」
無理もなかった。女房頭の菱野が女房への仕打ちについて訴えるのは当然のことだが、和田の郎党の行状について、しかも屋敷の者が被害に遭っていないことを訴えるのは勇気がいることだろう。
「いえ、それを菱野殿からお伝えした結果、もし女房殿たちへの当たりが強くなるようなことがあれば大変です。私から式部大輔殿にお伝えし、それとなく式部大丞殿へお話しいただくようにしましょう」
「そうしていただけましたら幸いです」
菱野がそう答え、女房や雑色たちの間にほっとした空気が流れた。大事にならなくてよかったという想いも見て取れる一方で、使用人たちは式部大丞に忠実で思いやりもある。

しかしなるほど、和田という男は粗暴な一方で、縁者の伊之を大切にしていた面があったようだ。先ほどの取り乱しようは、察するに妻の縁者という立場から、連之よりも伊之に入れ込んでいたからこそなのだろう。今後役職などにつきたい時に、権中納言の娘婿となり栄達した伊之からの口添えや紹介を期待していた、という打算もあったかもしれない。

今日のところはこのぐらいの情報でよしとするか。
再び始まった女房たちの雑談に応じながら、千央は尭毅や智也たちのもとへ戻る機会を図り始めた。


 朝から主である尭毅たちが佐伯家を訪問したこの日、公鷹は検非違使庁で周辺の者たちから嫌な顔をされながら調べ物をしていた。刑部省から転属してきた明法家の公鷹は、使庁の者にとってはほぼ部外者だ。まして、検非違使とはいい関係とは言えない弾正の役職を兼任しているとあって、使庁ではわりとはっきりと煙たがられていた。
ちょっと神経の細い者なら針の(むしろ)と感じただろうが、そこを気にしないのが公鷹である。
「では目下のところ、佐伯伊之殿の事件について進展はないのですね」
「それはまあ……」
苦虫を嚙み潰したような顔をしたのは、千央の聴取を行った鈴木尚季の同僚である源是守(これもり)だった。年の頃三十あまりで細面の鈴木尚季とは打って変わって、四十がらみで四角く張った顎に髭を生やし、厳めしい顔つきをした彼が辺りを憚るように若干声を潜める。
「権中納言殿の手前、我々も急いではいるが、京識との連携がうまくいっていない」
「何故です?」
「ほらあれだ。半月ほど前に、左京(さきょう)大夫(だいぶ)が闇討ちに遭っただろう」
公鷹は考えた表情のまま、一拍おいて手を打った。そういえばそんなことがあった。

 左京大夫は都の東半分、左京を司る左京職の長官で、西半分の右京職の長である右京大夫と並びたち行政や司法を司っている。治安維持権限こそ検非違使に奪われているが、いまだ重要な職であることには違いない。
「左京大夫殿は傷を負われ、随身を二人斬られたのでしたね。そちらの犯人もまだ捕らえていないから……」
京識にとってはまさに『それどころではない』だろう。調査する権限もないというのであれば、自分たちは自衛するので殺人も検非違使で調べろと言いたいわけだ。筋は通っている。
「まあ、大夫殿は少々性格に難があり、坊長たちから不満が上がっていたからな。身内に襲われていても別に驚かんよ」
是守殿は左京大夫のことがあまり好きではないんだな、と公鷹は考えた。

彼の額の紋は四つ割菱で、検非違使や衛門府に多い典型的な武門の家柄の武官だ。検非違使で役職を得ていることは彼の誇りでもあろう。単純な構図だが、都の治安維持の点で手を携えるべき京識に対抗意識がみられる。
いや、というより、検非違使と京識の間に溝がある。それ自体は職掌を奪ったものと奪われたものの間柄であるが故、改善を図ろうにも難しいかもしれない。

あれこれと考え込んでいると、しげしげと公鷹の額の紋を眺めていた是守が、ぎゅっと眉を寄せて銅鑼声を押し出した。
「なぁ、あんた橘の家の人なんだろ?」
「そうですが」
「なんで紀伝道じゃないんだよ。橘の家って菅原家の次に紀伝道に優れるって聞いたぞ」
「仰るとおりですが、紀伝道を修める者は多く、それだけでは職に就けないのですよ」
 紀伝道は優秀者に学問料が出る上に出世に直結するため、貴族以外からも志願する者が多かった。文章生や文章得業生が都で官職を得て政治に参入していったが、結果として形骸化するのも早かったのだ。遣唐使が廃止されてからは新しい学問も入ってこず、学問自体を活かせず衰退が始まっている。そうなると、紀伝道は職を得るにあたって、必ずしも強みにはならない。
橘一族である公鷹ももちろん幼い頃から紀伝道を学び、得意としていたが、そうした経過を目の当たりにしていた。
「ですが、明法家というのは需要が尽きません。残念ながら罪人はなくなりませんからね」
事実、刑部省や弾正台、検非違使には常に、律令に明るい明法家が必要であり、年若い公鷹であっても実際に職を得て禄を与えられている。
簡単にそうした説明をされた是守は、ぽかんとした顔で聞き返した。
「ええ……あんた幾つでそんなこと考えて、明法道修めたの?」
「幾つでと言われても」
明確に覚えておらず、公鷹は首を傾げた。明法道院を四年で出たこと自体は異例の速さではあるが、昨今の明法家の不足に伴う試験の形骸化で、それもそう珍しいことではない。

 公鷹の祖父も父も受領である。橘の名を持つ家がいわゆる「没落」し、栄達が望めないと腹をくくった彼らは、せめて一族を飢えさせまいと受領の職に甘んじた。しかし当然のように任地を転々としていたため、幼い頃の祖父や父の記憶はない。

その二人も、流行病で相次いで世を去った。姉は三人いるが男子は自分一人であり、一族は自分が背負わなければならない。そうした意識が、公鷹に『確実に京官を得て家族を養える』方法を考え、選ばせたのだ。
とはいえ、そんな事情を是守に話してもしょうがない。差し当たり、実際に襲われている左京大夫、源光長に話を聞きに行ったほうがいいか、とまで考えて唇をかんだ。

 左京大夫といえば従四位下と相当上の位階だ。正六位上の自分では、直接話を聞くことはおろか面会を申し込むことも難しい。大夫の周りに使えそうな人脈がない以上、これはしばらく保留にせざるを得ない。
「お話を聞かせていただいてありがとうございました」
「かまわんが、京識へ行くなら気をつけろよ」
「構えてそのように。失礼いたします」
一礼して少尉のもとを辞去した公鷹は、一度私屋敷へ帰ることにした。目を通したいので、この数日で作った最近の事件に関する勘文(かんもん)を抱えて使庁を出る。
入口の侍所で控えていた三野(みの)夏清(なつきよ)が、公鷹を見て顔を輝かせた。
「若、屋敷にお戻りになりますか?」
公鷹が育った橘家の別邸がある、河内の豪族・三野家の長子である。公鷹の家に仕えており、額に檜扇紋のある彼は、丸顔で人懐っこそうな容貌ながら太くしっかりした眉が印象に残る。三野家は母方の親戚でもあり、十歳以上年上の夏清は公鷹を年の離れた弟のようにも思っているのか、比較的くだけた物言いをしていた。
「うん、午後も調べ物があるからね。食べておかないと」
「いやぁよかった。俺、腹減ってめまいがしてます」
そこそこ重い勘文の束をひょいと公鷹の手から取り上げ、からからと笑う夏清につられ、公鷹も笑顔になって使庁を出る。

 堀川小路を北へ向かって歩き出したところで、横の小路から小柄な影がひょこりと視野に入ってきた。反射的に夏清が公鷹の前に飛び出したが、それを制して声をあげる。
(しょう)!」
 それは年の頃は十二、三、粗末で泥まみれの直垂と括り袴を身につけた、額に紋もない子どもだった。痩せた顔の左側が腫れて右足も引きずっている。主に危害を加えられそうにないと判断した夏清は、公鷹の指示に従って退いた。
「若、面識がおありで?」
「大丈夫。少し前に知り合った、京識の人の雑色だよ。正、またぶたれたの?」
突然前に現れた大柄な夏清に驚いたのか、正と呼ばれた子どもは一歩退いて唇を震わせた。
「ご、ごめん、なさい。あの、俺」
あまりの震え声に、辺りの通行人がちらと彼らへ視線をやった。一見すれば郎党を連れた若い下級官吏と、薄汚れた雑色という奇妙な取り合わせだ。
「ほっぺた、ひどい腫れだよ。それに顔色悪いよ……具合が悪いの?」
心配そうに語を連ねられ、子どもは口ごもりながらうつむいた。
「お、俺、昨日またしくじって。為末(ためすえ)様が、飯やらねえって……」
「昨日から?! 僕、今から屋敷に帰るから一緒に行こう。夏清、正を運んであげて」
「承知しました。担ぐぞ、童」
返答を待たずに夏清が子どもの直垂を掴んで肩に担ぐ。ぐえ、と蛙がつぶれたようなうめき声を聞きながら、公鷹は足を速めた。屋敷までは東に三町、北に二条歩くことになる。
なるべく早く戻って、食事を待つ間に正の頬を冷やしてやらなければ。

 大内裏の東北部、土御門大路に面した左京北側の区画は、大内裏に勤める役人たちが住む厨町であったり、受領階級の屋敷が集まっていたりという事情から人通りも多い。公鷹の住む橘家の屋敷は一町あたり三十二区画のうち南東角の八区画を有する、周辺では比較的大きなものだった。
屋敷に入って女房に三人分の食事を頼み、桶に水をもらって、夏清は肩から正を下ろしながら公鷹に奥へと促した。
「顔や手足を洗ってから行かせます。まずは着替えてお寛ぎください」
「……わかった」
ちょっと間が空いたのは、自分で洗ってやるつもりだったからだろう。しかし仮にも京官である主にそんなことをさせるつもりは、夏清にはなかった。束帯も脱いで、楽な直衣に着替えてもらう必要もある。
「正、夏清は怖いことしないから、大丈夫だよ」
頷いた公鷹が、正ににこりと笑いかけてから渡殿を小走りに駆けていく。それを見送った夏清は、所在なげな童を見下ろして複雑な表情にならざるを得なかった。
「さて。殴られたのは顔だけじゃないだろ?」
びくりと正が体を震わせた。
武士である夏清にとって、傷や打身による姿勢の悪さや体の動きは見慣れたものだ。こんな童が、という想いもあり、なるべく手荒にならないよう加減して直垂と括り袴を脱がせる。すると腹や背中、腕や脛にいくつもの痣や打身が見てとれた。
普段からこき使われているのか、異常に痩せた体には最低限の筋肉だけがついている。食事を満足に与えられていないのも確かだ。
「……親兄弟はどうした?」
唇を結んで答えがない。亡くしているか、帰れない事情があるのだろう。
「どうしても、今の主のところにいなければならんのか?」
一瞬だけ夏清を見上げた正は、目があうことを恐れるようにすぐさま目を伏せた。
「……い、いく、行くところもないし……その、行かないと、怖い、し」
荒れて血のにじむ唇が、たどたどしく言葉をこぼす。
余程ひどい目に遭わされているのだろうな、と思うと、夏清は見たこともない正の主に対する憤慨が沸き上がった。京識と聞いたが、こんな童の雑色をこき使い乱暴している時点で役職持ちではないだろう。あってたまるものか。
ため息をついて、夏清は正の体を拭く手に力をこめた。


 話を聞けば、正は二日に一度は食事を抜かれているという。固粥(かたかゆ)水飯(すいはん)では消化不良を起こすかもしれないと思った公鷹は、自分の分とまとめて汁粥にしてもらうことにした。公鷹が育った河内の別邸から送られてきた覆盆子(のいちご)を高坏から取って、いくつか正に握らせる。
「粥が炊けるまでこれ食べて。美味しいよ。僕が育った別邸から届けてもらったんだ」
おずおずと正が頷く。覆盆子を口に運ぶ間も、おどおどと落ち着きのない視線があちこちをさまよっていた。片手では井戸水で冷やした布で頬をおさえている。橘家の家人用の直垂と括り袴を借りているものの、小柄なためぶかぶかだった。
「衣は今、洗って干してもらってるから。今日は風があるから、きっとすぐ乾くよ。……それで、木下殿、だっけ。正の主って」
「う、うん。右京識少属(しょうさかん)の木下為末さま。最近は、機嫌が悪くて……」
それは左京大夫が襲われたからだろうか、と公鷹は考えた。右京と左京の違いがあるとはいえ、やはり同輩が襲われては黙っていられまい。しかも、この半年の治安悪化で人手が足りず、検非違使が十分機能していないという問題もある。
「京識でも、左京大夫殿が襲われた件は調べてるのかな?」
言葉自体に怯えた表情になった正は、覆盆子を頬張ったまましばらく逡巡した。迷った挙句、唇を噛んで頷く。
「うん。で、でも他所の人に話しちゃいけないって、為末様が。検非違使が首突っ込んでくるからって……あと、どこのかわからない武士団が京識を締め上げて回ってるって。荒っぽい奴らだから、捕まらないようにしろって」
管轄の違う役所の内情を詳しく聞くのはよろしくないかもしれない。それについて調べたくても、どこから入った情報かを公にできないのは厄介だ。そうは思ったが、ここまで聞いて放っておくこともできない。公鷹は身を乗り出した。
「どこかの武士団が京識に乱暴を働いて、話を聞き出そうとしてるの?」
「うん」
「それで、木下殿は何か、手がかりは見つけたのかな?」
正は首を横に振った。捜査に進捗がないから機嫌が悪いのか知らないが、家人にやつあたりとは感心しない。そしてだ。

都に、すぐ所属のわからない武士団がいること自体は珍しくもない。上級貴族が護衛として丸ごと雇い入れていることが多く、武士団だけで都の中に屋敷を構えていることもあるほどだ。もちろんそんな武士団はよほど大きな後ろ盾、つまり雇い主の貴族がいるということになる。
しかしどうして武士団が、京識から話を聞きだそうとしているのか? それも力ずく、腕力にものをいわせてもという風情だ。
実際、その理由については公鷹は心当たりがないでもなかった。

 ちょうどそこで、透渡殿を軽い足音が近づいてきて止まった。軽い物音がしているところを見ると、昼食ができたのだろう。外の女房から声がかかる。
「若君、膳をお持ちしました」
「ありがとう。運び入れて」
公鷹の応えに応じて妻戸が開かれ、三人の女房が入室してきた。嬉しそうに表情を輝かせる夏清と、戸惑った顔の正、直衣に着替えた公鷹の前にそれぞれ膳が置かれた。汁粥の入った椀、味付け用の塩や酢、醤、酒の皿、牛蒡の粕漬け、青物が二皿、焼魚、雉と芹の汁物が並んでいる。
およそ下級貴族の家で出る品揃えではなかったし、主である公鷹と郎党である夏清、客人とはいえ雑色である正の全員に同じものが出ているのも普通ではない。普通は家の主である貴族が、膳に並べられた多すぎるほどの料理の中から欲しいだけ食べ、残ったものを家人が分け合って食べるものだ。
正もなんとなく気が付いたようで、膳と公鷹の顔をしどもどと往復して見ていた。
「遠慮しないで。お腹が痛くならないように、汁粥からゆっくり食べてね」
「お先にいただきますよ、若!」
夏清が満面の笑顔で、彼だけは汁粥ではなく大盛りにされた玄米飯をかっこみ始める。
その大声に一瞬びくっとした正は、公鷹の言葉に首肯して椀を手に取った。膳を持って正の隣に移動した公鷹は、正の膳から箸や匙を自分の膳に移した。貴族階級以外の下人の食事はまだほとんどが手づかみで、箸や匙は使わない。汁粥以外の皿を胡乱げに見る正に、それぞれ説明をする。
「これが蕗の炊き合わせで、これが茹でた野蒜(のびる)だよ。そっちは鮎。たくさん食べてね。正も僕と一つしか違わないんだから、どっちが背が高くなるか競争しようよ」
「えっ、そんなに変わらないのですか?」
水を差さないつもりだったが、思わず夏清は声を上げていた。五尺四寸ある公鷹から、正は頭半分ほども低い。二つ三つは年下だろうと思っていた。
器に口をつけて汁粥をすすっていた正がこくこくと頷く。次に鮎を手にとり口をつけた彼に、公鷹は塩をふることを薦めた。正にはとにかくいろいろと世話を焼きたくなってしまう。
 最初は遠慮がちだった正も前日からの空腹には抗えず、汁粥を飲み干すと次々と皿のものを平らげ、汁物もあっというまに胃に収めていった。最後にぼりぼりと牛蒡を齧りながら、小さな声を正がもらす。
「ご、ごめん、俺、そろそろ戻らないと……」
「え、でも、衣はまだ乾ききってないんじゃないかな」
流し込むような食べっぷりに空腹の度合いを見てとり、憤りと悲しさ半々の心持ちだった公鷹は、はっとして渡殿のほうを見た。陽は中天を少し過ぎた辺りだから、直垂も括り袴も、もう少し干せば完全に乾くと思われた。しかしちょうど未の三刻を告げる鐘の音が聞こえてくる。
「……うん、戻りが遅くなって今以上にいじめられると困るね。わかった」
女房を呼んで正の直垂と括り袴を持ってくるよう頼むと、正が蚊の鳴くような声で、皿が空になった膳を押し出し礼を言った。
「あ、あの、ありがとう。お腹いっぱいになった」
「よかった」
にこりと笑ってから、公鷹は真面目な顔になって正に向き直った。
「ねえ正、屋敷から放り出されたりしてるんでしょ? これからもさ、ご飯を抜かれたらうちに来て。きちんとしたお膳を出すように女房たちに言っておくから」
正が呆然とした顏で公鷹を見返す。信じられないといった表情なのは、彼がなんの地位もない庶人であり、公鷹が貴族だからだ。舌をもつれさせて問い返す。
「……なんで、そんなに良くしてくれるの? 俺、何も返せないのに」
「何か返してほしいわけじゃないよ。正と仲良くなりたいから、困ってたら助けてあげたいんだ」
唇を噛んだ正が涙目になった。うつむいて、絞り出すように「ありがとう」とこぼす。
「僕はこれからお役目があって一緒に行けないんだけど、右京識まで送らせるよ。忘れないでね、何かあったらちゃんとここへ来てね」
「……わかった」
鼻水をすすり上げて答えた正が、頷いて立ち上がると女房に案内されて対屋を出ていった。それを見送って、公鷹がまだ食べている夏清を振り返る。
「正を送ってきてあげてくれる? 僕は勘文を作ってから使庁に戻るつもりだから」
「承りました。童を送ったらすぐ戻って参ります」
玄米の一粒も残さず昼食を胃に収め、公鷹がわずかに残した牛蒡の粕漬けまで食べ尽くした夏清は、首肯して立ち上がるとふと首を傾げた。
「さっきの、武士団が聞き込みをしているとかいうのは何なんでしょうね」
公鷹はちょっと眉を寄せた。
武士団が調べているのは、恐らく、佐伯伊之が死んだ同じ日に殺害されていた二人の武士についてだろう。何らかの理由で検非違使に、自分の武士団所属の者だと言えないのだ。そこで殺害した者を調べていると考えられる。
「後ろ暗い事情があるんだと思うよ」
最も考えられる理由としては、左京大夫を闇討ちした者たちが仲間の死の真相を探っている。京識の者たちに殺されたのではないかと疑っているのだろう。そしてなんなら、京識の者たちが実際に手にかけた可能性があった。
ただ、これはあくまで予想だ。迂闊な発言は慎まなければならない。
「んじゃ、ひとっ走り行って参ります」
そう言い残して、夏清も対屋を出ると大股に渡殿を歩いていった。


 残った公鷹は三人分の膳をまとめて渡殿側の壁際に置くと、二階厨子から筆と硯を入れた箱を出して文机の前に座った。食膳を片付けるため、さらさらと衣擦れの音をたてて廂から女房たちが入ってくる。
「公鷹さま、今の童はどのようなお知り合いですの?」
膳を手に声をかけてきたのは、公鷹の乳兄弟の百瀬(ももせ)だった。公鷹の乳母の娘であり、今は女房たちに交じって公鷹の身の回りの世話をしている。不思議そうな彼女に公鷹は笑顔を向けた。
「食事をありがとう。正とはお役目で知り合ったんだよ」
「まあ。お役目ということは刑部の? まさか罪人ではございませんでしょうね?」
きゅっと眦を吊り上げた様子は、怒った時の彼女の母親によく似ていた。母親の百重(ももえ)はかつては美貌でも鳴らした人だが、それ以上に公鷹の教育係を任されたほどの才媛だ。昔しっかり躾けられた関係上、反射的に娘の彼女の声でも肩がびくつく。
「違うよ、その逆。京識の木下って人の雑色なんだ。ちゃんとお手当もらってない上に、痣だらけで、ぶたれてるみたいで」
「それは……かわいそうなことですわね」
百瀬が眉をひそめる。数秒逡巡した後、やはり言わねばと思ったのだろう。膳を持ち直して語を継いだ。
「でも公鷹さま、そんな童をすべて面倒みるおつもりですの? こう言ってはなんですが、悲田院へ送ったほうが童のためではないでしょうか」
百瀬の言葉は、あながち外れたものではなかった。
悲田院は御仏の教えに則り、貧者や孤児を収容・保護するための場所だ。まして現在は主である堯毅が施薬院別当で、施薬院の別当は悲田院も監督する。歴史的にはあまりまっとうな扱いを受けてこなかった施設だが、これまで以上に安心できる場であるはずだ。
だが。
「正が行きたくないって言うし……悲田院に入っちゃったら会えなくなるって思うと、僕も強く言えなくて」

 出仕し始めて感じたのは、周囲の同僚にうまく馴染めない、という感覚だった。
学館院に所属した期間が短く、一緒に試問を受けた同輩も年齢がかなり上。出仕している同じ年ごろの貴族の子弟たちは有力な家の子弟が大多数で、彼らはもっと上の職にある。
同僚たちはというと年齢も立場も大いに違った。むしろ公鷹の父が受領であると知ると、その蓄財から賄賂(まいない)をもって現職を得たのだろうと邪推するものがほとんどだ。
出仕を始めた頃は己の仕事をきちんとこなすことが普通だと思っていたのだが、どうやら大内裏で働くほとんどの人がそう思っていないらしい。なんなら仕事を押し付けられる。

現状について悩んでいたわけではないが、堯毅によってもたらされた職にあって同じ年ごろの者と出会えたことは、公鷹にとって思いがけず心が浮き立つことだった。
「公鷹さまの周りにいる方々だって、年上の方たちばかりではないのでは?」
「うん、そうなんだけど、みんな割と仕事が適当だからさ。拍子抜けっていうか」
「まあ」
「でも、正はよく殴られてるみたいなのに、いつ見ても一生懸命仕事をしてるんだ」

初めて出会ったのはつい三月ばかり前、左京の三条大路と東洞院大路の角でだった。大柄な男に二、三度蹴られて転がり、放置されるのを見て駆け寄ると、正は驚いた顔で身を引いた。聞けば蹴ったのは主で、文使いから戻ったところ、文の内容が主の癇に障ったからだったという。
「何それ、ひどいよ!」
憤然としてあげた公鷹の声に、正は驚いて一言も出せずにいた。
それからは都を歩くたびに注意して見ていると、時折正が一生懸命走っているのを見かけた。主の木下某に殴られているのを見たこともあったが、昼の都の往来は人が多く近づくのも簡単ではない。止めに入れたことはなく、木下某が立ち去るのを数度見るに留まっているが、もし間に合えば一言言ってやらなければと公鷹は思っていた。
そんなことがあっても、見る限り正は罵声に身を縮こまらせながらなお、与えられた仕事を必死でこなしていた。それは、まだ子供の身で小突かれながら雑色をせねばならないほど身寄りのない立場だから、ということもあるかもしれない。
公鷹は初対面の際に悲田院のことを伝えてある。それでも雑色を辞めないということは、あの木下なる者に仕えなければならない、余程の理由か恩義でもあると思われる。

 話を聞きながら、百瀬はなんとなく公鷹の気持ちがわかった。橘家はもとが大貴族とは思えないほど、郎党や女房たちに親身な一族だ。傍流とはいえ父祖伝来の教育を受けてきた彼にとって、その木下という役人のやりようは納得がいかないのだろう。
かの雑色が素直で真面目な働きぶりのようだから、猶のことなのだ。
「僕はとにかく、お祖父様や父上、みんなの期待に応えたいからね。彼に負けずに頑張りたいんだよ」
墨を磨りながらそう言うと、公鷹は表情を引き締めた。
「これから仕事に関する書き物をするから、しばらく誰も立ち入らないようにしてね」
「かしこまりました」
深々と一礼した百瀬が女房たちと共に下がっていく。
ふと、公鷹はもの思いに沈んだ。

堯毅の目に留まり、弾正大忠と検非違使の大志を兼任することになった時は、正直迷っていた。家のため、祖父や父のためにも出世はしたいと思っていたが、果たして異色の親王である堯毅の信を得ることは、家のためになることだろうか。
そこにはまだ答えを出せていない。
しかし、堯毅という親王の為人は尊敬に値すると思っている。

 さて。
 ここ最近の都全体の治安の低下に始まり、ここ最近の都全体の治安の低下に始まり、佐伯伊之の死、それに先立つ左京大夫が襲撃され、怪我を負ったという事件、そして左兵衛佐である佐伯伊之の死。正の話を聞いて思いついたが、最近都で起こっているのは、これまでの散発的で無計画な夜討ちや強盗事件とは一線を画した組織的な犯罪だ。白昼堂々と強盗・傷害事件が起きること自体は前例がないわけではないが、昨今の事件は「被害者が的確すぎる」。

 先程も強盗事件の勘文にいくつか目を通してきたが、昨年までは強盗や窃盗といっても、被害がないに等しい事件も珍しくなかった。食い詰めた武士や下級貴族が行っていることもあり、入りやすそうな家屋敷に侵入しての場当たり的な犯行になるからだ。
ところが昨年からは被害の程度が大きく、押し入った側にとって実に失敗のない事件ばかりになっている。
事前に下調べをして確実に欲しいものがある時に押し込む、これは相当組織だった行動といえる。それこそ、どこかに召し抱えられている武士団のような、明確に統率された一団によるものだ。

いつ、どこで、どのような事件があったか。怪しい者を目撃した人はいたか、事件前にどんな者が周辺に出没していたのか。それらを徹底的にまとめたほうがいい。まずは借りてきた勘文を、それが済んだら検非違使庁に戻って他の勘文を調べてみよう。
事件が早く解決するよう尽力して――それから。

仕事が片付いたら、正を誘って一緒に市場の菓子屋に行ってみようか。楽しい予定を目標に据えて、公鷹は仕事に集中した。