戌の二刻を告げる鐘が鳴ってまもなく、唐廂車が橘屋敷の門をくぐった。三野夏清の案内で東中門を通り、寝殿の南面に車がつけられる。蘇芳簾(すおうみす)が巻き上げられ、いつものようにすっぽりと帽子をかぶった堯毅が顔を見せた。智也が前板に置いた沓を履き、彼の案内で再び寝殿へ上がる。上座に設えられた御座へ座ると、堯毅は千央に笑顔を向けた。
「すみませんが車に置いた文箱を持って来て、あと、籠の中に淡雪がいるので連れてきてもらえませんか?」
「はい。でもあいつ、俺の顔見ると逃げるんですよね……」
ちょっと悲しい顔になった千央は、ややあって文箱を小脇に抱え、籠は両手で抱えて戻ってきた。逃げられる懸念から、籠から出すことを断念したらしい。
すべての妻戸が閉められ、籠から出された淡雪は嬉しそうに走り回り始めた。まずは部屋の奥に置かれた二階厨子の脚にじゃれつき、陰に入ろうと足をばたつかせる。
微笑ましそうにそれを見やってから、堯毅は一同を労った。
「皆、今日もご苦労でした。公鷹、淡雪を放してすみません。持ってきたのは写しですが、そう簡単には写しが取れないのですよ。鼠に齧られると困るので連れてきました」
「お気遣いいただきありがたく存じます。書庫別当殿が当家を気に入ってくださるといいのですが」
「機嫌が良さそうですよ」
跳ねまわる淡雪を嬉しそうに眺めて堯毅が笑う。文箱の中から大量の木簡を堯毅の前に置いて、千央は彼なりに難しい顔をした。
「堯毅さま、群盗どもですが、大方が都で行った略奪について自供しています。しかし誰も和田が首魁だと吐かないため、和田が濡れ衣だと主張し面倒なことになっております」
「とはいえ、おまえと鈴木の少尉が、屯所から逃走した賊が逃げ込むところを押さえたんだろう。簡単には解き放ちにはなるまい」
智也の指摘に千央が「そうなんだけどよ」と応える。いつもより大きな声で行われるこのやりとりが、正に聞かせるためなのだということは公鷹にも理解できた。右手奥にある塗籠の入口へちらりと目をやった堯毅が、「そうですね」と話を引き継ぐ。
「そのための、この写しです。皆、目を通してください」
促されて木簡を手に取り、紐解きながら公鷹は首を傾げた。
紙は高価なものだが、堯毅の立場で惜しむとは思い難い。書き写す際に木簡を選んだということは、紙と違って改竄するのもされるのも難しいという属性が重要だということ。つまりかなり重要な情報ということだ。
「これは何の写しなんでしょう?」
「あなたが今持っているのが、八年前に焼亡した、和泉国の白露荘園内にあった八田部郷の倉に納められていた品の一覧です。今上帝の姉である春花門院さまご所有の荘園でした。こちらが同荘園内の、北松郷の蔵の一覧です」
 春花門院といえば、生後すぐに生母を亡くしたという堯毅の育ての母だと聞いたことがある。養母と養子という間柄ではあるが、まさに貴人中の貴人、その財産目録の一部ともいえる内容だけに、確かに簡単に写すことは難しいだろう。取り扱いには注意を要する。
「北松郷の蔵はいかがしたのでしょう?」
別の木簡を手にした堯毅に、眉間にしわを寄せた智也が問いかける。
「こちらも火災です。ただ、郷の者たちがすぐに気づいて消し止めたので全焼はしませんでした。つまり、八年前にかの荘園で、近い範囲にある倉が立て続けに二箇所、不審な火災により貢納物を失ったわけです」
この場の全員が難しい顔になった。そんな偶然があるだろうか。今上帝の姉という貴人の荘園で蔵が焼失したとなれば、原因究明のため国使が派遣され詳細が調べられる。
 もう一つの木簡に認められていたのは、郡衙に到着した国使と日根郡の群司による調査の結果だった。二人はもともと芳しくない噂のある、荘園の荘官・岡元(おかもと)真井(さない)による横領を疑った。彼が火災の前後に、納めるものもないのに蔵に出入りしていたという証言が多数あったためだ。
「あー、貢納物を引き出した後で蔵に火を放って、失火で焼亡したように装ったと」
「ええ。そこで他の荘官が横領と放火の罪で岡元を検非違使庁に訴え、使庁も和泉国国府に岡元の追捕を命じましたが……」
岡元は死体となって発見された。当時の和泉国の国の守は権官で、現地の最高責任者は介の和田清重しかおらず、和田が岡元の死を報告して事は終わった。

 つまり当時和泉介だった和田清重は、当時は大木姓だった木下為末と岡元真井と共謀し、国内の貢納物を収めた倉に火を放ったのだ。目的はおそらく、貢納物の横領。どちらの倉にも税として納める稲の他、八田部郷の蔵には葛根(くず)や桔梗、人参などの生薬の材料が納められていた。足がついた岡元を殺害し、横領品をすべて手に入れたのだろう。

しかしそうなると、岡元一人に容疑がかけられた北松郷と、正のいた八田部郷とでは状況が大きく異なる。八田部郷は郷人が正を残して全滅しているのだ。
「八田部郷の火災は、どのように報告されているんでしょうか」
公鷹の問いに、堯毅が別の木簡を提示した。
「こちらは群盗による襲撃の疑いとされています。当時摂津、和泉、河内では群盗による被害が頻出していて、推問追捕使が派遣されていました。彼らの調査により、賊の拠点が和泉にあるとの疑いがありましたが、その後群盗は鳴りを潜めます」
推問追捕使は都から遣わされ、群盗の捜索などを国境を越えて行うことができ、必要に応じて発兵もする。特定の国に常駐している追捕使と違い自由度が高い。
「北松郷の蔵の被害は稲だけですが、矢田部郷の蔵は全焼で全損です。余さず手に入れるために襲撃を選んだのでしょう。その上で、彼らは一度この地を去った」
 群盗の拠点は推問追捕使が当たりをつけた三国の中にはなかった。和田清重が首魁であると考えるなら、彼の家や一族、率いる武士団の屯所があるのは尾張なのだから、すぐ引き上げさせることができる。捕まらなかったことも説明ができるのだ。
「童が見た、木下と一緒にいたもう一人が、その岡元という荘官だったとすればありえますね。童もそれ以降見ていないですし、その頃から足がついた仲間は殺してきたのでしょう」
智也がうんうんと頷く。結果として証拠不十分で推問追捕使は都へ帰還し、白露荘園の蔵の火災の真相は明らかにならないままとなっていた。和田の関与を実証できれば、少なくとも彼の留置を延長して、改めて拷問にかけることもできる。
「もう一つ。薬材を奪い去ったものの、尾張で捌ききれなかったのでしょう。恐らく彼らは都に来てから、薬材を少しずつ売っています。彼らが薬材の正しい扱いを知っているとは思えませんから、状態の悪い薬材が都に出回っている理由も説明がつきます」
大切な薬の材料を粗雑に扱われたことに立腹しているのか、幾分機嫌が悪そうに堯毅が話をまとめた。
いつの間にか狩衣の裾にじゃれついていた淡雪を膝に抱き上げて撫でながら、公鷹は複雑な心境だった。正に無理強いはしたくないが、彼の身の安全を図る上でも、彼の証言は必要なのだ。
何もかも拒絶するような様子の正を、どう説得したものか――そう考えていると、かすかな音をたてて塗籠の引き戸が開いた。

 相変わらずやつれてげっそりとした印象は変わらないが、濁った水のごとく何も映さなかった正の目は、やっと生きている人間のものに近づいたように見える。戸にすがりつくように立った正は、蚊の鳴くような声で言った。
「……おれが、言えば。あいつを牢屋に入れられる?」
公鷹は一同を振り返ったが、任せると言わんばかりに誰もその言葉に応じない。正に向き直った公鷹は頷いて見せた。
「牢屋どころか流刑にできるよ。もう正に何もできないぐらい、とびきり遠いところに」
仏教が渡来し広く信仰されるようになり、慈悲の教えから極刑という刑罰はなくなった。とはいえそれが建前であることは誰しも知るところで、実のところ遠流にでもなろうものなら、粗末な生活に堪えられない育ちのいい貴族であればあるほど、生きては帰れないという面もある。
「証言って、どこでするの?」
「群盗が掴まってる検非違使庁なんだ。ここからすぐだよ」
突然公鷹が身を乗り出したことに驚いたのか、彼の手の中から淡雪がぴょんと飛び出して堯毅の膝元へと戻っていった。そう聞いた正が、覚悟を決めたように唇を噛む。
「……わかった。言う」
思いがけない言葉に、公鷹は一瞬、正が何といったのか飲みこめなかった。
「ほんと?!」
こくりと正が首肯する。目を丸くしている公鷹をよそに、千央が渋い顔で口を開いた。わかっているとは思うが、釘はさしておかなければならない。
「……おまえが心配してるとおり、あいつはとんでもねえ奴だ。逃がすわけにはいかねえが、おまえの身も絶対安全にできるとは言い切れねえ」
「千央さん!」
「本当のことだろ。群盗は全員ひっ捕らえたと思うが、あくまで『思う』だ。俺たちが知らない和田の手下がいたらどうしようもねえ」
勘問を受けている和田が、馬鹿正直に全ての配下の供述をするとも思えない。手下たちだとて同様だろうから、この危険性を伝えずに証言をさせるのは公正ではない。
千央としてはもう一つの意図も込めてのことだが、正はもう一度頷いた。
「それでもやる」
明らかに緊張した様子が見えて公鷹は心配になったが、彼の視線を受けた堯毅は頷いてみせてから正に笑いかけた。
「では、もう休んでください。明日は使庁で群盗たちの面通しと、追捕時に斬り死にした者たちを見ていただきます。疲れると思いますからね」
「わかった」
素直にそう言うと、正は塗籠の中へ戻っていった。それを見送り、公鷹がなんとも言えない顔で三人を振り返る。言いたいことが顔いっぱいに現れていたため、溜息をついた智也が笑みを見せた。
「そう不安そうな顔をするな。彼が証言してくれるならその方が助かるだろう。先ほど千央はああ言ったが、行くのは衛士がうろうろしている使庁だぞ。滅多なことはないだろう」
ある意味で、これ以上安全な場所はないはずだ。正が手下として働いていたのなら、顔を合わせれば和田から反応を引き出せる。
「それはそうですが……」
むしろ和田に会わせた後のことが公鷹は心配だったのだが、正のためにも、役目上もこれは避けられない。せめて傍について、できる限り恐怖を解消してあげなければ。
公鷹が前向きに気持ちを持てたのを見てとった堯毅が、木簡を元通り巻き直しながら全員を見回して微笑んだ。
「彼も不安でしょうから、明日は千央と公鷹がついていてあげてくださいね。私は気になっていることがあるので、明日は弾正台で調査を行います」
「わかりました、お任せください」
堯毅の指示とあれば否やはない。深く一礼し、千央は即答した。