大好きなリュウセイくんに会いたくて。刹那の夜の幻に溺れるためにどんどん大金を注ぎ込むようになってから、わたしの心は満たされると同時に、少しずつ虚しさを覚えるようになっていった。
あんなにも幸せで、彼がホストだと割りきった上で好きを貫きたかったのに。
いつしかひび割れた砂時計の砂が、いくら砂を落としても溜まらずに溢れてしまうような、そんな虚しさと苦しさの方が強くなっていった。
「……ひめ、いつまで頑張れるんだろう」
「なぁに、ヒメミ~。担当切る感じ? リュウセイくん何かやらかした? 今日のアイバンやめとく?」
ファミレスの一席で思わずぽつりと呟けば、向かいの席でスマホを見ていた『ネオンちゃん』が、不思議そうに首を傾げる。
よく一緒に『Last Princess』飲みに行くネオンちゃんは、派手な赤いネイルに、ストレートの黒髪に赤色のインナーカラーの綺麗な女の子だ。
ゆるく巻いた髪にピンクのインナーカラーを入れたピンクベース量産型のわたしと、赤黒で強い色味の地雷系ファッションのネオンちゃん。どっちもそれぞれの担当が好きな色を身に纏っている。
ホストに本気で恋をする愚かなわたしたちは、夜の街に溢れる同じ穴の狢。
ネオンちゃんと居ると安心する、こんな気持ちになるのがわたしだけじゃないとわかるから。こんな報われない恋が、それでも正しいものだと思えるから。
「そんなんじゃないよ……リュウセイくんはいつだって優しくて、素敵な人。だから、辛いなんて思うひめが悪いんだよ……」
「ふーん? あれなら今夜はラスプリはやめて、気分転換に別の店行ってみる? 初回安いしさー」
「……ううん、やめとく。ひめはホストが好きなんじゃなくて、リュウセイくんが好きだもん」
「ヒメミ~ほんと一途だよねぇ」
「そう、かな……?」
「うん。ネオン、ジュキヤに嫌なことされたらすぐ他店の初回行っちゃう。そしたらそれ聞いて急に接客丁寧になんの、うけるよねー」
ネオンちゃんは、わたしを一途だと、バカにした素振りではなく本当にそう思っているように感心した顔で言い放つ。
ネオンちゃんはいつも、リュウセイくんと同じ『Last Princess』所属の『北斗ジュキヤくん』を指名している。
彼女もよくジュキヤくんとのメッセージに一喜一憂したり、本物のカップルのように本気でぶつかり合って、時には喧嘩したりもしているのに。
そんなネオンちゃんですら、他のホストも視野に入れている。やっぱり、この世界で本気で恋をするのは、異質なのだろうか。
「……ごめん、やっぱり今日このまま帰るね。締め日までに少しでもお金貯めときたいし」
「そっかー、ヒメミ~は今やリュウセイくんのエースだもんね、了解。ネオンはジュキヤにあんま期待されてないだろうから、今日も『Last Princess』寄ってくる」
「ネオンちゃんはジュキヤくんに大事にされてるのに……。アイバンしようって言ってたのに、ごめんね」
アイバン。今日は食事の後一緒にお店に行って、同じ卓でリュウセイくんとジュキヤくんに接客して貰う予定だった。
リュウセイくんと二人きりの時間も好きだけど、同じ空間で友達と好きな人と一緒に飲めるあの時間も楽しくて、わたしは好きだった。
何よりジュキヤくんとネオンちゃんの関係はリュウセイくんとわたしとは全然違っていて、参考にもなったのだ。
「んーん。そんな節約モードなのに、リュウセイくんに会うよりネオンと一緒にご飯してくれただけで嬉しーし」
「ネオンちゃん……ひめも、いつもごはんしてくれて嬉しい。次こそアイバン一緒に行こうね……!」
予定をドタキャンするようなものなのに、そんな優しい言葉を貰えて、わたしは改めて友達のありがたみを実感する。
ホストクラブに通うようになってから、学生時代の友達とは金銭感覚も価値観も時間帯も何もかも合わなくなって、すっかり縁が切れてしまった。
わたしはもう、夜の世界にしか居場所がなかったのだ。
「えへへー、りょーかい。大事な日にどーんって使うのも、日頃からちまちま通うのもその子のスタンス次第だしね! まあ、言うて毎回大金使えたら最高なんだけどさー」
「あはは……そうだね。お金がなくちゃ……どうにもならない。……それじゃあ、ジュキヤくんと素敵な夜を……!」
「ありがとー。あ、リュウセイくんどんなだったか教える? 来てた同担情報とか」
「……うん、お願い」
「おけー。じゃあ、気をつけてねー!」
「ありがとう、またね」
ネオンちゃんと別れたわたしは、一人あてもなく歩く。眠らない街のネオンライトは、目を惹く輝きでキラキラとしているけれど、どれもこれも偽りの光だ。
本物の言葉も、本物の気持ちも、持っているだけ馬鹿を見る。わかっているのに、とっくに魔法の綻びに気付いているのに、わたしはどうしたって夢見るのを手離せなかった。
「……でも、今さら……やめられないよね」
ふらふらと彷徨い歩く内、気付けば少し遠くまで来ていて、普段来ることのない路地裏を見つける。
夜の片隅にあるような、世界から忘れ去られた道のような、そんな薄暗がりに興味を引かれて、わたしはその奥へと視線を向けた。
「……あれって、リュウセイくん……?」
はっきり見えた訳ではない。けれども夜空のような美しい髪をした背の高い男の人がその路地の奥へ向かっていくのを見かけて、わたしはついその後を追いかける。
闇色のコートに黒いズボン、暗がりに紛れる色味にすぐに見失ってしまったけれど、どこかからカランと、ベルの音がした。
その人が近くの店に入ったのだと、わたしは探すように辺りを見回す。すると少しして、ショーウィンドウにぼんやりと光の灯る建物を見つけた。
「……ここ?」
そっとガラス越しに建物の中を覗くと、そこはギラギラとしたネオン街とは違い、間接照明やステンドグラスランプの柔らかな光に包まれていた。
雑貨屋さんか何かだろうか、店内に所狭しと並ぶ小瓶が色とりどりに煌めいている。
「綺麗……」
思わずうっとりと見惚れては、吸い寄せられるように木の扉のドアノブに手を掛けゆっくり引く。すると先程のベルの音が再び聞こえて、その音に反応したように、店の奥からひょこりと女の子が顔を覗かせた。
白いリボンで清楚なハーフアップに纏めた、腰まで届くくらいの長くて綺麗な髪。黒いパンプスに白ソックス、クラシカルロリータ系統のネイビーの服がよく似合う、ぱっちりとした瞳が煌めく可愛らしい女の子。
そんな彼女はわたしの姿を見て、にっこりと微笑む。
「いらっしゃいませ、『薬屋 夜海月』へようこそ!」
「え……? 薬屋?」
「はい。うちにはとびきりのお薬をたくさん揃えてます、良ければお近くでご覧になってください」
とびきりのお薬。ちょっと危なそうな単語に、入ったばかりにも関わらず思わず半歩後退りしてしまう。そんなわたしの反応に、女の子は慌てて首を振った。
「はっ、そんな危ないお薬じゃないですよ! うちのマスターのお手製で……」
「お手製の薬……? え、やば……」
フォローのつもりが怪しさを増してしまった説明に、わたしは更に後退る。半分ほど店から身体を退避させた状態でいると、不意に女の子の後ろから男の人が姿を現した。
「……こよるさん、何かトラブルでも?」
「あ……マスター」
「……あなたがマスター、さん?」
「ええ。僕が店主の『夜永』といいます。……ああ、きみも夜の迷子だね」
「……夜の、迷子?」
綺麗な夜空色の髪で、スラッとした男の人。色白で、綺麗な顔立ちの彼は、まだ二十代半ば頃に見える。そんな夜永さんは、先程路地で見掛けた闇色のコートを脱いで、代わりに白衣のような上着を羽織っていた。
なんだ、違う人だ。それはそうだ、リュウセイくんは今頃お店に居て、他の女の子をお姫様扱いしているのだ。
リュウセイくんではなかったものの、彼の纏う優しげな雰囲気は確かに似ていて、やけに整った容姿をした彼につい目を惹かれる。
こよるさんと呼ばれた女の子も相当可愛らしいものの、彼もそこらのアイドルやモデルなんか目じゃない。店内の雰囲気と相俟って、作り物のように浮世離れした二人だ。
それこそ、わたしがかつて憧れた絵本の世界の住人たちのよう。
「……この店はね、くらげのように夜を彷徨う迷子が集うんだよ。この店の薬で心の傷を癒したり、道を見つけたりして、思い思いの夜の先に笑顔で朝を迎えられるようにする場所なんだ」
「……ひめが迷ってるみたいって、わかるの……?」
「もちろん。店に辿り着くのは、そんな迷子ばかりだからね」
「そうです、怪しいお店じゃないんですよっ!」
迷子ばかりなのは、お店がこんな辺鄙な場所にあるからではないか。そして、お手製の薬だなんて文言では、怪しい認定されるのはしかたないのではないか。
そう思ったけれど、夜永さんの優しげに細められた瞳には、そんな表面的なものではなく、どこか本質を見抜かれているような気がした。
「……僕たちに、きみの迷いを断ち切るための手伝いをさせてくれないかな」
リュウセイくんに似た彼からの、リュウセイくんに似た柔らかく耳障りのいい優しい声。
ひとつ決定的に違うのは、夜に溺れさせるのではなく、朝に向かって送り出そうとするその言葉。
「……ひめの迷いを、断ち切る……うん。よろしく、お願いします」
これはきっと、何かのきっかけだ。先程まであんなに怪しいと思っていた警戒も全部消え去って、わたしはそっと、店の奥へと足を踏み入れた。
☆。゜。☆゜。゜☆
「ヒメミさん、紅茶はお好きですか? わたし、深夜のティータイムをしようと思ってて……」
「えっと、それじゃあ夜永さんとこよるちゃんに紅茶で……ここ、メニュー表ないけど、紅茶二人に入れたらいくらなの?」
「いくら、とは……?」
「え、だから紅茶一杯いくら? って……あ、でもひめも飲みたいから、三杯分の料金、タックス込みで教えて。飲み放題プランあるならそれでもいいし……」
「えっ? あれ? もしかしてこれ、ヒメミさんがわたしたちの飲み物代も払おうとしてます? わたしたちが飲むのに、お客様から飲み物のお代をいただくんですか? 何故……?」
「え? 何故、って……」
ホストクラブやキャバクラ、コンカフェ辺りのお店なら、キャストにドリンクを入れて、それを飲みながら会話を楽しむのが基本。注文したドリンク代は、キャスト分もお客が払うのが普通だ。
人気のホストなんかは、より高いボトルを入れた客の卓に行ってしまうから、お財布と相談しながら競うように次々高いお酒を頼むのだ。
たった数分彼の隣を独占するためだけに、彼が毎晩いろんな卓で浴びるように飲んでいるはずの、もう飲みたくもないであろうお酒を入れる。
何とも無駄なシステムだ。それならその額そのまま彼に渡せたらいいのにと、何度も思った。
けれどわたしにとってそのシステムが普通だったから、こよるちゃんが驚いたことに驚く。
「……なるほど。そういうシステムがあるんですかぁ……不思議なお店なんですねぇ」
「不思議、なのかな……? というか、この『星見町』に居てそういうお店知らないの珍しいね? 向こうのネオン街なら、むしろそんな店ばっかりだよ?」
「うーん……だって、好きな人に奢りたいって気持ちならまだわかるんですけど……お金を飲み物にして、お金を積んで時間を買ってるんですよね? 飲み物がおまけになっちゃうのは悲しいです!」
「え、そこ……? 時間を買うとかじゃなくて、そっちが悲しいの?」
「わたし、深夜のティータイムが好きなので……あ、紅茶に限らずハーブティーでもホットミルクでもココアでもいいんですけど! 飲み物はしっかり味わって、誰かとのんびりお話ししながら楽しみたいですもん……」
通された店の片隅の、ふかふかの綿菓子みたいな白いソファーに腰掛けながら、わたしは自分の中の常識がやはりすでに一般からはずれて来ていることを実感する。
夜永さんがお店の奥で紅茶の用意をしていてくれる間、わたしはリュウセイくんのことやホストクラブについて説明していた。
隣に腰かけたこよるちゃんは、わたしの話を聞きながら膝に黒い猫を乗せて撫でている。薬屋と聞いたけれど店の内装は雑貨屋のようで、その上猫カフェでも兼ねているのかもしれない。
「ふふ、僕たちの飲み物をヒメミさんが払う必要はないし、そもそも紅茶代は要らないよ。こよるさんのティータイムに付き合って貰うんだからね」
不意に目の前のテーブルに夜永さんが用意してくれたのは、専門店で出されるような洒落なティーセットだった。
繊細なデザインのカップとソーサーには星空が描かれていて可愛らしく、ティーポットもお揃いのものだ。
まだ茶葉を蒸らしているようで、隣に砂時計を添えられる。それもアンティークな装飾が美しい。
「えー、もうすごい。イケメンが用意してくれる本格紅茶……これが無料? 良心的……毎晩通いたい」
「おや、喜んで貰えたところ恐縮だけど、紅茶を淹れるのはこよるさんの方が上手いんだよ」
「そうなの? じゃあなんで今夜は……?」
「……シャハルさんがこよるさんの膝で寝ているから、今夜は僕が用意したんだ。特別にね」
「特別……えーん、ひめそういうの弱い……ずるい……」
「おや、ふふ」
シャハルさん、というのはこの黒猫の名前だろうか。猫にまでさん付けをする上、猫を起こさないために店主自らお茶を用意してくれるなんて。
その優しく丁寧な人柄に、やはりリュウセイくんの細やかで誠実な性格が重なってしまう。
「……僕はそんなに、きみの好きなホストに似ているのかな」
「え……ひめ、夜永さんがリュウセイくんに似てるって、言ったっけ?」
「ふふ、きみの目を見ていたらわかるよ」
「わたしの目……?」
自分ではわからない。わたしはリュウセイくんに似た彼に、どんな目を向けているのだろう。わたしはリュウセイくんに、あの頃と今、変わらない顔をしているのだろうか。
「わたし、そういうお店は行ったことないんですけど……ヒメミさんは、毎晩そのホストクラブに通われてるんですか?」
「あはは、毎晩はさすがに通えないよ~。お金がないとリュウセイくんには会えないもん。……けどね、ひめ、このネオン街にしか居場所がないの。だから毎晩この街には来てるよ」
「さっきのシステムを聞いている分に、ずいぶんお金がかかりそうですもんねぇ……。そんなにお金をかけてまで、そのお店に通いたいものなんですか?」
こよるちゃんの問いかけに、わたしは思わず目を伏せる。かつては舞踏会に行くお姫様のようにわくわくとした、彼との会瀬。
いつからだろう。スケジュール帳の会える日にピンクのハートシールを貼るんじゃなく、彼に使える金額を書くようになったのは。
いつからだろう。とびきりのお洒落をして何を話そうかとうきうきしていたのに、彼の言葉がわたしではなく、グラス越しのお金に向けて紡がれている事実に打ちのめされて、魔法のフィルターをも壊してしまったのは。
「……お金を払えば、その時だけはリュウセイくんに愛して貰える。本物になれないってわかってても、お姫様になれる夢を見させてくれる……それに溺れるのは、いけないこと?」
自分自身に問いかけるような、そんな響き。俯くわたしに対して、二人は忌憚のない意見をくれる。
「べつにいけないとは思わないけれど……ヒメミさんは、苦しんでいるように見えるかな」
「そうですねぇ。わたしにはそのお店のことも、そのリュウセイさんという方のこともわからないんですけど……その夢を見るためにヒメミさんが支払っている対価は、それに見合うものなんですか?」
「え……?」
「本物にならないその夢は本当に、ヒメミさんの望むものなんですか?」
「え、えっと……」
「どこか間違っている気がしているのに、やめられない。その迷いがきみの本当の望みを、覆い隠している気がするな」
「本当の望み? でも……ひめ、は……」
二人の言葉に、一瞬ぐらりと視界が揺らぐ。わたしの中の常識が、覆されそうになる。
ふと砂時計の砂がぴたりと止まって、それを合図に夜永さんはティーポットから三つのカップへとそれぞれ紅茶を注いだ。
「あ……」
揺らめく湯気が仄かな甘い香りを漂わせて、アルコールとは違う心休まるそれに思わず顔を寄せる。
紅茶なんていつぶりだろう。差し出されたカップの中を覗き込むと、映ったわたしの顔は確かに迷子の子供のようだった。
それを見たくなくて、添えられたミルクで紅茶を白く濁らせる。わたしはいつも、こうして見たくないものを覆い隠してきたのかもしれない。
「……そうだな、たとえばゲームへの課金や、ギャンブルもそうか……『コンコルド効果』と言ってね、コストをかけた分リターンを求める……後に何も残らないと知りながらも、お金を掛ければ掛けるだけ、離れがたくなるものなんだよ」
給仕を終えた夜永さんが正面のアンティーク調のお洒落な椅子に腰掛けて足を組み、ティーカップを片手に言葉を紡ぐ。その内容に、わたしのカップを持つ指先が震えた。
誤魔化すようにミルクで温くなった紅茶を一口飲むと、その仄かな甘味とまろやかな味わいに少しだけ落ち着く。
「べつにひめは……そんなんじゃ……」
「本当に? 辛そうに彼のことを語るきみの気持ちは、意地や執着ではなく、今も本当に純粋な恋心なのかな?」
「……それ、は」
重ねられた問い掛けに、何度も見ないふりをしてきた感情が、一気にわき上がる。おかしい、以前なら、間違いなく本気の恋だと断言できたはずなのに。
「……っ」
いつからだろう。叶わない恋ですら愛しいと健気に思っていた頃から、諦めと共に「どうして愛してくれないのか」と理不尽な怒りを秘めるようになったのは。
いつからだろう。彼の名前を口にするだけで口許が綻ぶような幸せな気持ちだったのが、彼の名前を呼びたくなるのは苦しくて耐えられない時になったのは。
いつからだろう。優しい夢を見させてくれる彼を好きだったのに、まやかしばかり与えてくる彼に虚しさを覚えるようになったのは。
「ひめは……」
「きみが執着しているのは、こんなにも尽くしたのだから愛されたいって欲求? 彼にお金を積むことで得られる承認欲求? それとも……」
「……ちがう、ひめは……、わたし、は……」
認めたくなかった。認めたら最後、わたしは心の拠り所にしていた『あの頃の純粋な恋心』を、本当に失くしてしまう気がした。
とっくに、偽物の苦しいだけの感情だとわかっていたのに。確かに一番大きかったはずの大切な記憶を、自ら手離すのが怖かった。
「……シンデレラの魔法が解けてしまうのが、怖かったの……」
思わず溢れた本音に、わたしは動揺する。ずっと辿り着かないように迷い続けていた答えを、こんなにもあっさりと出せたことに、困惑した。
それでも、まるで決壊したかのように、次々と心の奥底に閉じ込めた本音が溢れてきた。
「会いに行けば、また魔法をかけて貰える。彼の側なら、居場所のない惨めなわたしも、愛されるお姫様になれる。……そう信じて頑張って来たのに、それが無駄だったなんて思いたくなかった……」
「無駄……ですか?」
吐き出すように告げると、こよるちゃんは心配そうにわたしに視線を向けてくる。けれど、やっぱりもう止まらなかった。
「とっくに、魔法なんて解けてたの。与えられる愛が全部嘘だって、とっくにわかってたよ。リュウセイくんはホストだもん……どうしたって『ひめ』はお客の一人のまま。頑張って彼のエースになっても、特別なお姫様にはなれなかった……愛されたかった『わたし』は、いつまでも惨めなままだった……!」
「ヒメミさん……」
「だけど……それは、最初からわかっていたんだろう?」
「わかってた……それでも、わたしはリュウセイくんを好きになったの……幻だったとしてもその恋は確かに幸せで、わたしにとってのたった一つの宝物だったから……壊れてしまっても、あの頃の恋を嘘にしたくなかった……あの頃の幸せな気持ちまで嘘にしたくなくて、縋り続けるしかなかった……魔法の先の奇跡を、信じたかったの……」
心の中の不安や恐怖全てを次々吐き出す口は、自分の物じゃないみたい。どんなにお酒に酔っていたって、ここまで話すこともなかった。
自分の本当の気持ちをようやく理解して、思わず涙が溢れる。
「あの頃の恋、ということは……今は、違うんですね?」
「苦しくても、縋りたかった……嘘でも愛をくれたから、それを返したかった……だけど、そっか、わたし……もうとっくに偽物の気持ちって気付いて、失恋して、幸せじゃないことに気付いてた……それを、認めたくなかったんだ」
心の安寧としていたものが心を蝕んで、縋っていたものがもうとっくに失われていることを、ずっと見ないふりしてきた。だけどもう、とっくに限界だったのだ。
ぼろぼろと涙が溢れると、こよるちゃんが優しく刺繍のハンカチで拭ってくれる。
口の中に広がっていた甘いミルクティーの風味は、すっかり涙の味になってしまった。
わたしはただ、叶わなかったとしても健気に恋する女の子で居たかった。確かに本物だった恋心を誇っていたかった。
最初から偽りだとわかっていたはずなのに、傷ついて悲劇のヒロインぶるつもりもなかったのに。今さら認めたところで、自業自得なのに。
「うう……ごめ、……ひめ……こんな、可愛くない……」
「気にせずたくさん泣くといいよ。……紅茶には『深淵の北斗七星』が入っていたから、その涙は紛れもない、本物のきみの心の痛みだ。向き合ってたくさん流してあげるといい」
「……? しんえん? の北斗七星、って……なに?」
聞き慣れない単語に思わず聞き返すと、夜永さんは白い上着のポケットから、手のひらより小さめのガラスの小瓶を取り出す。
瓶の中には、スプーンよりも少し歪な、北斗七星に似た形のピンクの塊が入っていた。可愛らしい形状に、琥珀糖のような半透明の色合い。
ぐすぐすと泣きながらも、その美しさに思わず視線を向ける。
「綺麗……これなに? 砂糖菓子?」
「これはね、自分の心と向き合う薬だよ」
「……、……は?」
「ああ、味は甘いから、紅茶に溶かしても問題ないはずだよ」
「あ、うん。味はおいしかったけど……」
「それはよかった。『深淵の北斗七星』はね、心の奥底に閉じ込めた本当の気持ちを、ひしゃくが掬い上げるようにして表に浮上させてくれるんだ。本来向き合うことが怖い本音を優しく掬って……」
「ちょ、ちょっとまって……えっ、これ入ってたの? 飲み物に知らぬ間に薬盛られてるとかドン引きなんですけど!?」
「おや、心外だな。薬屋である僕たちに、迷いを断ち切るための手伝いを頼んだのはきみだろうに」
「それはそうだけど~……せめてそれ飲む前に教えて欲しい……!」
驚きのあまり、ついぼろぼろと止まらなかった涙が引っ込んだ。思わず夜永さんの顔と手元の小瓶、そしてわたしの前のティーカップを交互に見る。
こよるちゃんは薬を盛られることを知っていたのか、困ったように笑っていた。
「すみません、ヒメミさん。マスターがお薬を配合するから、紅茶の準備もお任せしたんです……」
「特別ってそういうこと!? ひめのときめき返して!?」
「ふふ、うちの薬を怪しんでいたけれど、プラシーボ効果なんかなくとも効くってわかったろう?」
「あ……案外根に持ってたんだ? 怪しんでたのは効果じゃなくて……いや、もう、なんでもいいや……」
確かに、ぐるぐるとしていた気持ちに答えは出た。わたしもそれを望んでいた。背中を押してくれたことには感謝したい。それでも、これでは自白剤で無理矢理引きずり出されたようなものだ。
予想外のことに思わず頭を抱えていると、隣のこよるちゃんは自分の手元のカップの中身を一気に煽る。
「えっ、こよるちゃん!?」
「ふう……ヒメミさん、大丈夫ですよ。わたしも同じものを飲みましたから……お互い本音で語り合いましょう!」
「へ……?」
こよるちゃんの予想外の行動に呆けていると、夜永さんは楽しそうに微笑みながら頷く。
「ふふ、そうだね。この薬は本来、喧嘩や誤解で拗れた二人に振る舞うことが多いけれど……そうやって、誰かに本心から寄り添って貰うのも悪くないだろう。……嘘ばかりじゃない、本当の心でさ」
「本当の、心で……?」
「……まあ、僕はあんまり薬は効かないから、そこはこよるさんと女子会してて貰うかたちになるんだけど」
「……もう、台無しなんだけど!?」
「おや、効いたふりをして同席する方が不誠実じゃないかい?」
「それはそうだけど~……!」
そう言って自らも薬入り紅茶を飲み干すどこまでも自由な夜永さんは、リュウセイくんとは全然違っていて、思わず肩の力が抜ける。
わたしは時々笑って、やっぱり溢れる涙は無理に止めず、素直に気持ちの整理をする。
偽りばかりの夜の片隅、塗り固められた嘘と建前に疲れきっていたわたしは、型破りで自由でまっすぐな薬屋で、久しぶりに本当の心と向き合った。
☆。゜。☆゜。゜☆
「はー、一生分泣いた……デトックスって感じ……」
「すっきりされたみたいで何よりです。最後はわたしたち、ずっと泣いてましたもんねぇ」
「薬盛った元凶のくせして、夜永さんちょっと困り顔してたもんね……」
「ふふっ」
一晩中泣き明かしたあと、ようやく落ち着いたわたしは店の出口へと向かう。
夜永さんと黒猫は短い針がてっぺん過ぎる頃には店の奥へと引っ込んでしまい、後半は本当にこよるちゃんとの女子会だった。
お酒がなくてもこんなにもたくさん誰かと話せるなんて、そんな当たり前のことさえ久しく忘れていた。
「……というか、こよるちゃん、あんなに泣いてそんな顔面保てるの凄すぎない?」
「……?」
「この世は不平等……ひめ軽率に病む……」
「えっ!?」
こよるちゃんは目が赤くなっているくらいで、可愛らしいまま。わたしの泣き腫らした顔は、メイクを直したものの誤魔化せない。可愛く見られたい人も居ないし、もう帰るだけだからいいけれど。
時間を確認しようとスマホを見ると、一件のメッセージが届いていた。
「あ、ネオンちゃんからメッセージ来てる……次のアイバンの予定、断らないとなぁ……」
「お友達さんですか?」
「……うん、そう思ってたけど……どうなんだろう。こんなひめにも優しくしてくれる、いい子なんだけど……」
思えばネオンちゃんとは、こんな風に腹を割って話したことはなかった気がする。それどころか、お互い本名も年齢も何もかも知らない。聞いたとして、それが本当かもわからないのだ。
お互いホストを通じての縁だったから、きっと、ホスト通いを辞めてしまえばもう縁も切れてしまうのだろう。寂しいけれど、そういう世界なのだから、仕方ないと割り切るしかなかった。リュウセイくんにだって、わたしがお金を積まなくなれば会えなくなる。
はじめからの見え透いた嘘に傷付くのも当然だ、わたしの世界には嘘で固められたものしかなかったのだから。それがわたしの世界のすべてだったのだから。
そこにしか居場所がないと必死にしがみついていたけれど、散々自分の本心と向き合って弱音を吐き散らかすと、そんな稀薄な縁に死ぬ気で縋る自分がいっそ馬鹿らしく思えた。
「……ネオンさん、でしたっけ。わたしとお話しできたように、その方とも一度、ちゃんと向き合ってみるといいかもですね」
「うん……ありがとう、こよるちゃん。あのね……こんなに誰かと繋がれた気がするの、わたし、初めて」
「それはよかったです。ヒメミさんは素敵な方ですから、これからたくさん、本物の素敵なご縁に恵まれますよ」
「えへへ、そうかなぁ……?」
「ええ! あ、もし心配でしたら『シンデレラドロップ』を処方しますか?」
「……シンデレラ、ドロップ?」
突然飛び出してきたわたしが自分を重ねていたお姫様の名前に、思わず反応してしまう。
出口まで見送りに来ていたこよるちゃんは、すぐに店の中に戻り壁沿いの商品棚に手を伸ばす。そして、手のひらサイズのひとつの小さな瓶を持ってきた。
「こちらです!」
「わあ、可愛い……これも薬なの?」
「はい。こちらはなんと、零時ぴったりに口に入れると新しい恋を引き寄せるお薬なんですよ!」
ガラスの靴の形が表面に彫られた、色とりどりの小さなまぁるいドロップキャンディ。おまじないのような魔法の予感に、新しい恋をするのも悪くないかもしれないと思った。
けれどもう、わたしが欲しいのは、魔法の恋ではないのだ。
「……とっても魅力的だけど、やめておく。わたし……いつかまたする恋は、今度こそ本物がいいから」
「そうですか……ふふ、かしこまりました。ヒメミさんなら、きっと素敵な恋が出来ます」
「ありがとう! ……それじゃ、そろそろ行くね」
「はい。ご来店ありがとうございました。あなたがもう、孤独な夜に迷われませんように……」
カランと響くベルの音、外に一歩踏み出せば、朝を迎えた街並みはいつもより明るく見える。
あんなにも終わりを迎えるのが怖かった夜の魔法は解けて、思いの外身軽になった心に気付く。
わたしの一世一代の恋だと思っていたそれは、痛みと共に終わってしまったけれど。それも認めてしまっても、幸せだったあの時間は確かに存在していて、消えることはなかった。
「……さよなら、ピンクのシンデレラ」
彼が褒めてくれたピンクのリボンも、ピンクのネイルも、ピンクのインナーカラーも、もうおしまい。飾り立てた偽物の世界から脱け出して、これからは、わたしだけの色を見つけていく。
誰かに縋るんじゃない。誰かに自分の存在価値を委ねるんじゃない。まずは、自分で自分を愛してみよう。
そして自分の居場所は、くらげのように流されるのではなく、そこにしかないと盲目にならず、きちんと自分で決めるのだ。
「……よしっ!」
心の奥にぽっかりと空いた穴は、しばらく塞がることはないだろう。
それでもわたしは、新しい自分の始まりに、少しだけわくわくした。
わたしは、幸せなお姫様だった。
たくさんの綺麗なお洋服に、可愛らしい小物たち。いい香りのするオイルを使って丁寧にブラシで梳かした髪に、繊細な作りの綺麗な髪飾り。わたし専用の可愛いが詰まったお部屋に、わたし専用の乗り物。
わたしは家の人たちからとても大切にされていて、わたしもみんなを愛していて、穏やかな世界で女の子が羨むものをすべて与えられてきた。
わたしはこれからもずっと、そんな日々が続くと思っていた。
ずっとずっと、ただ微笑んでいるだけで誰かに愛されるような、そんなお姫様で居られると思っていた。
けれど、わたしはある日、そのすべてをなくして、ひとり暗闇に取り残されたのだ。
☆。゜。☆゜。゜☆
年に数回訪れる、おばあちゃんの家。広くて埃と畳の匂いがする古いその家には、ガラスケースに飾られた綺麗なお人形さんが居た。
和の趣が強い家の中において少し異質な、ドレスのような洋服を着ていて、四~五十センチほどの大きさで存在感があり、ドレスから覗く手足は球体関節で動かすことが出来る。長くて艶のある髪と、角度によって青にも紫にも見えるガラスの目が綺麗なお人形さんだ。
着ている服は見る度に違っていて、どれもおばあちゃんのお手製だと言う。
わたしはこの家に遊びに来ると必ず、一番にそのお人形さんに会いに行っていた。
「ねーねーおばあちゃん、このお人形さんいつ見ても綺麗だね」
「ふふ、そうでしょう? お手入れも欠かさないもの。この子はね、おばあちゃんの大切なお友達なのよ」
「ふーん? いいなー……」
「あら、光架理ちゃんは新しいお人形さんたくさん持ってるでしょう? お洋服もアクセサリーも、光架理ちゃんのものはたくさん」
「そうだけどー……」
わたしは小さな頃から、欲しいものは何でも手に入れてきた。
高齢になってから生まれた子だとかで、友達の親より歳上のお父さんもお母さんもわたしにはすこぶる甘くて、わがままを言えばすぐに叶えられてきた。
だから、わたしは簡単に手に入らないものに憧れた。
それは誰かの宝物だったり、手の届かないお月様やお星様だったり、人の心だったり。
そして今は、孫娘に甘いおばあちゃんにしては珍しく、毎回おねだりしても譲ってくれないそれが、欲しくてたまらなかった。
「ヒカリは、このお人形さんが欲しいの」
「……そう、じゃあおばあちゃんが死んだ時には、光架理ちゃんがこの子を可愛がってあげてね」
「ほんと? うん……やったー!」
何度目かのおねだりの末そんな約束を果たしたからには、いつかわたしの物になるお人形さんを、今か今かと楽しみにしていた。
今にして思うと、その喜びはおばあちゃんの死を望んでいるみたいでちょっと失礼で不謹慎だったけれど、うちのおばあちゃんはやっぱり友達のおばあちゃんよりうんと歳上だったから、いつその日が来てもおかしくなかった。
わたしはその約束から、おばあちゃんの家に遊びに行く回数を増やした。
おばあちゃん思いの優しい子、なんて褒められたけど、そんなんじゃない。
もうじきわたしの物になるお人形さんに会いたくて、クリスマスや誕生日を楽しみに指折り数えるような感覚だった。
「ねーおばあちゃん、この子お名前はあるの?」
「ええ、小夜ちゃんっていうのよ」
「サヨちゃん、かぁ……」
「おばあちゃんの古い友人がね、小さい夜の花でサヤカちゃんっていって……その子の名前を少し貰ったのよ」
「ふーん……?」
「……ほら、この人。とっても綺麗でしょう?」
「あ、ほんとだー、ちょー美人」
「ふふ、そうでしょう? だから綺麗なお人形さんに、その人の名前の漢字をもらったの」
お人形さんのガラスケースの近くに置いてあった、少し埃っぽい古いアルバム。
見せてもらった古い写真はセピア色で、その中で微笑むのはセーラー服の二人の女の子。ひとりはおばあちゃんで、もうひとりがサヤさんなんだろう。
サヤカさんはさらさらの綺麗な髪をしていて、まさに美人って言葉が似合うタイプだった。
可愛らしい顔立ちのお人形さんとは別の系統だけど、お人形さんに名前を貰いたいのもわかるくらい、雰囲気のある綺麗な人だった。
「小夜花ちゃん……いつ見ても綺麗ねぇ」
「その人、今はどうしてるの?」
「……どうしてるのかしらね」
「……? 知らないの?」
おばあちゃんはわたしの質問に曖昧に微笑みながら口をつぐんだ。昔を懐かしむように少し寂しげに目を伏せるおばあちゃんは、なんだか知らない人みたい。
その後、おばあちゃんの日課だというお人形さんの髪を整えたり、着替えさせたりするのを間近に見ながら、それが自分の物になった時を想像する。
おばあちゃんのセンスで作られたお洋服は、確かに可愛いけれど少し地味で古くさい。わたしの物になったら、もっと派手な服を着させてあげよう。
この子はかわいいから、きっとどんな服でも似合うはずだ。
名前ももう少し洋風な方が可愛いかもしれない。今の名前も悪くはないけれど、おばあちゃんの友達なんて、わたしにとっては知らない人だった。
この子のための可愛いお部屋風の飾るスペースや、連れ歩いて写真を撮るためのお洒落なトランクケースも用意しよう。
家に溢れているたくさんの人形やぬいぐるみにはもう興味がなくて、わたしはその子のことばかり考えていた。
そうして数ヶ月経った頃、ある日おばあちゃんが持病の悪化で入院した。
その時思ったのも「お人形さんを見に行けない」なんて、随分身勝手なことだった。
お母さんと一緒に病院にお見舞いに行った時、わたしはつい、おばあちゃんにお人形さんの約束のことを聞いた。
そわそわとしたわたしの様子からおねだりの気配を察したのか、もう退院できるかわからないと考えたのか、おばあちゃんはしわしわの手でわたしの頭を撫でてこう言った。
「光架理ちゃん……小夜ちゃんね、持って帰っていいわよ」
「……えっ!? いいの!?」
「えっ、お義母さん、小夜ちゃんってあのお人形さんですよね? ……光架理、おばあちゃんにおねだりしてたの? ダメよ、あのお人形さんはおばあちゃんの大切な……」
「いいのよ、光架理ちゃんと約束したから」
「ねー!」
「でも……」
「ふふ、いつもみたいにすぐに飽きちゃうかと思ったのに……小夜ちゃんのこと、あんなに可愛がってくれるんだもの。……光架理ちゃん、あの子のこと、大切にしてあげてね」
「うん、ありがとうおばあちゃん……! 大切にする!」
「本当にすみません……もう、何でも欲しがるわがままな子になっちゃって……私達が甘やかしすぎたのね……ちょっとは従兄弟の良夜くんを見習って欲しいくらい……」
「ああ、良夜くんたちにも形見分けしないとねぇ……男の子は何がいいかしら」
「形見分けなんて……やめてください、まだお元気なんですから……」
おばあちゃんとお母さんの話は長くて、わたしはようやく手に入ったお人形さんのことを想像して時間を潰した。お見舞いの帰りにおばあちゃんの家に寄って、念願のお人形さんをガラスケースから取り出して連れて帰る。
おばあちゃんと可愛がっていた時とは違って、その子は少し寂しそうな顔をしている気がした。
「……心配しなくても、わたしが可愛がるからね」
こうしてわたしは、ようやくお迎えできたその子を大切にした。可愛く飾った棚に座らせて眺めたり、お揃いのヘアアレンジをしたり、お洋服をオーダーしたり、自分の手でどんどん可愛くなるお人形さんに夢中だった。
おばあちゃんの入院先に連れていって会わせてあげたり、外で撮影してその写真を見せてあげたりもした。おばあちゃんの家のガラスケースに閉じ込められてるより、よっぽど可愛がってあげたつもりだ。
そしてその様子に安心したように、少ししておばあちゃんは亡くなった。
「おばあちゃん……お人形さん、大切にするからね」
元々可愛いお人形さんで、わたしのお気に入りだったその子は、おばあちゃんの形見となったあと、お父さんもお母さんも可愛がるようになった。
「光架理、今日はあの子は出さないのか?」
「光架理。来週小夜ちゃん連れて遊園地行こうか?」
最初こそ、両親にも自慢するようにお人形さんを見せていたけれど、こうなると、わたしだけのものじゃなくなったようでなんだかイライラとした。
なんとなくお人形さんにおばあちゃんを重ねられてるようで、その感覚が嫌だった。
そして何より、手に入らないものは他人のものでも欲しくなるけれど、手に入れたのに他の人と分け合うのは、もっと嫌だった。今で言う同担拒否に近いのかもしれない。
わたしはわたしだけの特別なものが欲しかったのだ。
「……もうやだ、おばあちゃんは関係ない! この子はもう、わたしのなの!」
やがてわたしは、お人形さんを部屋に隠すようになった。どこにも連れ歩かないし、お人形さんのためにと可愛く飾り付けた棚にはカーテンをした。
そうすることでお人形さんを守れた気がしていたけれど、自分自身もほとんど構わなくなったことで、その内お人形さんへの執着も薄れていった。
「……」
あんなにも欲しかったのに。手に入った喜びをピークに、結局そのお人形さんも、他のたくさんのかつて欲しかったものと同じように、飽きてしまったのだろうか。
そんな自分に失望して、けれどそれを認めたくなくて、わたしはすぐに次を求める。
「ねーお父さん、ヒカリね、クリスマスプレゼント、新しいお人形さんが欲しい」
「え……? 光架理、あのお人形さんは?」
「あのってどの?」
「……小夜ちゃんだよ、あんなに大切にしていたじゃないか」
「知らなーい。ヒカリ、今度は金髪のお人形さんが欲しいの、緑の目をしていて、ドレスが似合う洋風な感じの……」
「光架理……」
お父さんの寂しそうな顔の理由は、なんとなくわかっていた。それでも、わたしは欲しいものを諦められない。ずっとなにかを求めていないと不安だった。
常に満たされない状態も不安なのに、もし満たされてしまうとしたら、その先がもうなにもないように感じられて怖い。
わたしはどうしたって、いつも迷子のような感覚だった。
だから、まだ手元にない理想のお人形さんを想像すると、その時は素直にわくわくしたのだ。
「……ふう。お父さんならきっと買ってくれるんだろうな、ヒカリの欲しいもの」
おねだりを終えたわたしは部屋に戻り、久しぶりに目隠しカーテンの向こうのお人形さんと向き合う。
この子のために用意した山積みの洋服も、しばらく着せ替えていない。新調したブラシも、結局使わなかった。
「わたし、やっぱりだめだなー……」
わずかに曇ってしまっていたそのガラスの瞳は、心を映す鏡のように思えた。
何かを得るのは嬉しいけれど、何かを失うのは悲しい。
いつからだろう。このお人形さんを見ていると、おばあちゃんの死をどうしたって思い出すし、わたしは何を得ても結局満たされないのだと、悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。
隠している間、向き合おうと思うことは何度もあった。けれども、どうしたって自分の弱さを突きつけられているようで、すぐに目を背けてしまいたくなるのだ。
「……ごめんね」
弱いわたしを咎めるような、まっすぐな瞳。そんな目から逃れるように、わたしはまたしばらく、そのお人形さんを目隠しカーテンの奥の棚に封印することにした。
もう少し、成長することができたら。もう少し、心満たされるなにかがあれば。その時はまた、あの頃のようにこの子を愛せるような気がしたのだ。
他のお人形やぬいぐるみを愛せなくても、すぐに飽きてしまっても、いつか変われるきっかけがあるはずだ。
その時にはまた、わたしのお人形になったこの子を、今度こそまっさらな気持ちで大切にしてあげたい。その気持ちだけは、わたしの中の前向きな目標だった。
「もう少し待っててね、小夜ちゃん……」
☆。゜。☆゜。゜☆
それから数年、人間そう簡単に変われるはずもなく、結局わたしは相変わらずで。
興味の対象がコスメやファッションになっても、やっぱり手に入れてからはすぐに飽きてしまい、使いかけのものや、買っても着ない洋服に囲まれていた。
そして不意に、そういえば以前にも集めるだけ集めた服を使わなかったなと、お人形さんのことを思い出した。
「……あ」
恐る恐るカーテンの向こうを覗くと、手入れをせず埃を被ったその子が、わたしの置いたままの姿で座り続けていた。
それを見て、当時の記憶がよみがえる。過去の後悔も、成長できるはずと期待した自分にも、ずっと待たせていたこの子にも、わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになって、数年振りにその子の名前を呼んだ。
「……ごめんね、小夜ちゃん」
そしてわたしは、このお人形さんを手放すことにした。
結局、新しい名前もつけられなかった。おばあちゃんがつけた名前を変えてしまうと、おばあちゃんとお人形さんが過ごした日々も消えてしまう気がしたのだ。いくらわたしの物になったとはいえ、それはダメな気がした。
そう考えると、この子は名付けの時点でおばあちゃんの友人を重ねられて、うちでは両親からおばあちゃんを重ねられて、わたしにはわたし自身を重ねられて……結局最後まで誰かの代わりをして、最後まで誰のものではなかったのかもしれない。
そういう意味では、やっぱり他の子とは違う、特別なお人形さんだ。
「……ちゃんと大切にできなくて、ごめんね」
わたしなりに、この子を大切にしたかった。あの頃、なにより大切にしたつもりだった。
たくさんの綺麗なお洋服に、可愛らしい小物たち。オイルを使って丁寧にブラシで梳かした髪に、繊細な作りの綺麗な髪飾り。この子専用の可愛いが詰まった棚に、この子専用の連れ歩くためのトランクケース。
わたしが望むまま両親から与えられたように、この子にも幸せなお姫様でいて欲しかった。
それでもやっぱりいろんなものに耐えられなくて、すべて忘れてなかったことにしたのだ。
そして久しぶりに詰め込んだトランクごと、この子をこんな町外れの路地裏に捨ててしまうのだ。
「……ヒカリ、ほんと最悪だね」
誰にも見られていないことを確認して、わたしは薄暗がりに焦げ茶の木製のトランクを置いていく。
すぐに駆け出して、表通りに出る前に一度だけ振り向いた。
トランクごと捨ててきてよかった。お人形さんだけを置いてきたなら、きっとあの子は、寂しそうにわたしを見つめたのだろう。
「さようなら……」
そうして『小夜』と、最後まで捨てられなかった名前を記したトランクと、その中に眠るお人形さんを手離した。
それから少しして、高齢の両親はもうわたしのわがままを聞くことも出来なくなって、わたしは幸せなお姫様ではなくなってしまった。
二十歳にして両親を亡くしたわたしは、たくさんあったものを全て捨てて、新しい環境で一人暮らしを始めた。
ひとりぼっちの暗闇の中、ふとあの日手離したお人形さんの存在が浮かんだけれど、もうあの子がどんな顔をしていたかも思い出せなかった。
そして気付く。わたしは、与えられるものだけでは満たされない、手に入らないものを追い続けたい。そうすれば、わたしは飽きる自分に失望せずに済む。
そんなわたしが夜の町に溺れるのはあっという間で、お金で買う時間や偽物の愛は、心の欠けたものを適度に埋めてくれた。
「メリークリスマス! これ、プレゼント」
「えっ、わー、これ欲しかったネックレス! ほんっとジュキヤしごでき! だから好きー!」
「あはは。おれも大好きだよ、ネオンちゃん……」
大好きな担当のホストがくれるプレゼントは、今は宝物のように見えるけど、きっと数ヵ月で見向きもしなくなるのだろう。
気持ちがなくても交わされる愛の言葉、お金をかけた分与えられる時間が落ち着いた。
人工物のヒカリであるネオンライトから取ったこの名前は、わたしを偽物でコーティングしてくれる。
ホストであるジュキヤは、絶対手に入らないからこそ、安心できる。わたしは彼に飽きずに済んで、わたしはそれを恋だと思えた。付き合いたいとか結婚したいとか、そんな風には思わない。ただ刹那の寂しさを埋めてくれたらそれでいい。
目的地もなくただふらふらと彷徨うのが、わたしには性に合っていた。
幼い頃絵本で読んだ、海の底のお姫様のように。手に入らない別の種族に恋い焦がれて求めても、わたしは彼女のように全てを捨てて縋るなんてしない。
友達が去っても、恋が叶わなくても、くらげのように漂っていれば、傷つくことなく自由でいられる気がした。
そんな歪な安心の中、偽りだらけの夜にほんの少し寂しさを感じた時。わたしは暗闇に置き去りにした、かつての自分のようなお人形さんを、ぼんやりと思い出す。
あの子のガラスの瞳は、確かこの街のネオンよりも美しい、今は見えない星空のような輝きをしていた。
☆。゜。☆゜。゜☆
☆。゜。☆゜。゜☆
あのガラスケースのある部屋で、わたしは幸せなお姫様だった。
愛情の込められたお洋服、何十年も髪を整えてくれたしわしわの指先、まっすぐ向けられる慈しむような笑顔。
これからもずっと、そんな日々が続くと思っていた。
彼女の孫娘だというヒカリちゃんの家に引き取られてからしばらくの間も、あらゆるものを与えられて愛された。その両親からも、時折彼女の話を聞けて嬉しかった。
ずっとずっと、ただ微笑んでいるだけで誰かに愛されるような、誰かを幸せにできるような、そんなお姫様で居られると思っていた。
けれど、わたしはある日、そのすべてをなくして、ひとり暗闇に取り残されたのだ。
部屋にカーテンをされてしばらく、わたしはひとり、かつて愛された記憶を反芻していた。またいつか、彼女に微笑んで貰えることを願っていた。
しかし、数年
ぶりに顔を見たヒカリちゃんは思い詰めた顔をして、久しぶりに触れた指先は髪を撫でることなく、白いクッションが敷き詰められたトランクへわたしを誘う。
また遊んでくれる気になったのか、またどこかへ連れていってくれるのか、嬉しくなったけれど、久しぶりに乗った乗り物はいつになく冷たくて、なんだか嫌な予感がした。
しばらくの後揺れが収まって、早く開けて乱れた髪を整えて欲しいのに、いつもなら目的地に着くと開かれた扉はトランクごと地面に置かれたきり、開く気配がない。
何かあったのか、問い掛けようにもわたしは人形で、何の言葉も持たない。わたしにできるのは、微笑みながら話を聞くことくらいだ。
「……ちゃんと大切にできなくて、ごめんね……さようなら」
そんな悲しいお別れの言葉と共に、わたしは唐突に暗闇に取り残される。
せめてここが開いて、外が見えたなら。そんな願いも空しく、ヒカリちゃんの走る足音が遠ざかる。去り行く背中も見られず、持ち主の最後の表情もわからないまま、わたしは夜の迷子になってしまった。
冷たい暗闇の中、どれくらい経ったのか。これからどうなるのか。ヒカリちゃんは大丈夫なのか。どうして置いていかれたのか。ここはどこなのか。それから、わたしを彼女に委ねた元の持ち主も、どこへ行ってしまったのか。
わたしには、わからないことばかりだった。答えのない問いを重ねながら暗闇の中途方に暮れていると、不意にこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。
ヒカリちゃんが戻ってきてくれたにしては、足音が大きい。大人だろうか。
「……おや?」
トランクの中のクッション越しに響いたのは、知らない男の人の声だった。
もう誰でもいい、助けて欲しい。わたしは人形だ。人間に愛されるため、そして人間を愛するため生まれた存在なのに。
わたしは役目を全うできないどころか、あんなに寂しそうな目をした彼女にごめんねと謝らせてしまった。宝物だと言ってくれたのに、捨てさせてしまった。
なにがお姫様だ、与えられる幸せに浸ってばかりでなにも返せなかった、ただの役立たずだ。
答えのない問いを暗闇で続ける内、すっかり思考は深く沈んでしまっていた。ずっとここに捨て置かれるくらいなら、いっそスクラップにでもして欲しかった。
「……助けを呼んだのは、きみかい?」
不意に、かちゃりとトランクの扉が開けられる。白いクッションに寝たままのわたしをしゃがんで覗き込んで来るのは、黒いズボンに黒いコートを羽織った、闇に溶けそうな夜色の髪をした美しい男の人だった。
わたしの心の叫びが聞こえたかのような、そんな言葉にも、わたしは返事をする術を持たない。
それでも男の人は尚、わたしに対して言葉を重ねる。
「とても綺麗なお人形さんだね……愛されていたのがよくわかる。……きみは、どこから来たのかな?」
優しく語りかけながら、男の人はわたしの乱れた髪をそっと指先で整えてくれる。人に撫でて貰うのは久しぶりで、その温度に少しだけ落ち着いた。
改めて確認した外の景色は暗くて、触れる空気はとても冷たい。こんなに寒い夜には、雪が降るかもしれない。
心細くてお家に帰りたかったけれど、前の持ち主からも、ヒカリちゃんからも、きっと捨てられてしまったのだと、なんとなく理解していた。わたしには、帰る場所なんてなかった。
「……きみは……。……ああ、ごめんね。一度帰ってもいいかな、アイスを買ったんだけど、溶けてしまうから」
突然思い出したように告げる彼は、手にぶら下げていたビニール袋を小さく揺らす。
アイスなら知っている。甘くて冷たいものだ。元の持ち主が遊びに来る孫娘のためにとよく買ってきていた。
こんな寒い日にも、アイスは溶けるものなのだろうか。
どちらにせよ、わたしはまた置いていかれるのだ。そんな諦めにも似た気持ちでいると、彼は優しくわたしに微笑んで、絵本のお姫様をエスコートするようにそっとわたしの片手を指先で掬い上げる。
「行き場がないのなら、きみも一度うちにおいで……うちはきみのような、夜の迷子のためのお店だから」
夜の迷子。わたしの状況も心境もお見通しとばかりに告げられた言葉に、驚いた。
それでも、さっきまであんなに壊れてしまいたい気持ちだったのに、またこうして触れてくれるなら、また微笑みかけてくれるなら、わたしはこの人についていこうと決めたのだ。
トランクをまた閉められて、しばらく揺られた後、わたしは温かく仄かな明かりの照らす室内で再び出して貰えた。
先程言っていたお店についたのだろう。ふわりと香る甘いような植物のような柔らかな香りと、暗かった場所にいた目にも優しい淡く煌めく美しいインテリア。
アンティークの雰囲気はどこかあの家の懐かしさを感じて、可愛らしい小瓶たちはヒカリちゃんが好きそうだとぼんやりと考える。
「ええと……トランクに『小夜』って書いてあったけれど、きみの名前かい? ふふ、なんだか懐かしいな……僕の師匠の名前にも、この字が入っていたんだよ」
ひとり何かを思い出すように目を細めた男の人は、明るいところで見るとますます綺麗な人だった。
そして男の人はトランクに座らせたわたしの髪を整えながら、わたしの目をまっすぐに見つめてくる。誰かにこんな風に見て貰えるのは、いつぶりだろう。
「読み方はサヤ、サヨ……いや、夜空の星を閉じ込めたみたいに綺麗な瞳をしているから、『こよる』かな。……ようこそ、こよるさん。『薬屋 夜海月』へ」
それが、『こよる』となったわたしと、マスターの出会いだった。
☆。゜。☆゜。゜☆
その夜、すぐにお客様が来店されて、わたしはお店のインテリアの一部のようにトランクケースに腰掛けたまま、マスターとお客様のやりとりを眺めた。
「……さて、きみの話を聞かせてくれるかな」
「それが……おれ、ホストなんすけど……」
吐き出される苦しみや寂しさに、夜の迷子はわたしだけではないのだと知った。
隠された切なさと悲しみに、夜にはあらゆる冷たさが眠っているのだと知った。
自身の傷と向き合う時間が、温かな飲み物とマスターの用意した薬によって癒されるのを間近に見て、わたしのやるべきことを見つけた。
わたしは、人の役に立ちたかった。
また誰かの笑顔を見たかった。今度こそ誰かの痛みに寄り添いたかった。
ただ在るだけで何も出来ない、与えられるだけの人形では居たくなかった。
捨てられた人形に、そんな大それたことは出来ないかもしれない。
それでも、悲しみに浸り自棄になるよりも、かつて人から受けた愛を返しかった。
そんな決意の一夜は明けて、お客様は涙の夜から笑顔の朝を迎えられ、お店を後にした。
ショーウィンドウから見えた去り行くお客様の明るい横顔に、わたしはつられて笑顔になる。
「こよるさん、待たせてしまって申し訳ない……、おや……? なんだか嬉しそうだね。何かあったのかい? ……なんて、きみの話も聞きたいところなんだけど、ごめん、もう眠くて……」
夜通しお客様に付き合った彼は、あくび混じりにそう告げる。
物言わぬ人形のわたしの話を聞きたいなんて、本当に不思議な人だ。
それでも、助けを求めた時手を差しのべてくれて、今もわたしの気持ちの変化を悟ってくれた彼ならば、わかってくれる気がした。
眠たげな彼は店を閉めて、わたしをトランクごと抱え、二階へと向かう。
店の二階は居住スペースのようで、いくつかある内の一室、彼の私室の机の上にわたしは置かれた。
窓から差し込む日の光は、レースカーテンを介して柔らかく部屋を包み込み、店内よりも明るい印象を与える。
「少しここで待っていてね」
一度部屋を出て、やがてシャワーや着替えを終えたのであろう彼は、お店での店主然とした姿からすっかり一人の青年の顔をして、力尽きたようにベッドに潜り込んだ。
「……おやすみ、こよるさん、起きたら、きみの……」
「はい……あなたのお目覚めを、お待ちしていますね」
言葉の途中で眠りに落ちた彼に、わたしの心の声はきっと届かない。それでも、わたしと向き合ってくれようとしたことが嬉しかった。
このお店の看板人形としてでも置いてくれたらそれでいい。役に立てるのなら何でもしよう。小さい子や女の人なら、人形のわたしでも笑顔を引き出せるかもしれない。
そう思っていたわたしに、彼が『深夜の人魚姫』という『言葉を持たぬ者が夜の間だけ人間の身体になれる薬』を与えてくれたのは、また別の夜の話。
ちょうど三年前、彼に拾われた夜を思い出しながら、わたしはハーブティーを乗せたトレーを持ってマスターの私室にお邪魔する。
マスターが今日のことを覚えているのかはわからない。けれども今夜はもうお客様が来ないからと、珍しく早めに店仕舞いをしたのだ。
特別何かがあるわけでもない。それでも深夜のティータイムをこの部屋で彼と過ごせるのが、何より嬉しかった。
「……こんばんは、お邪魔してもいいですか?」
「やあ、いらっしゃい、こよるさん。お茶の用意をありがとう」
「にゃあ」
扉を開けてくれたマスターと、足元から出迎えてくれる黒猫のシャハルちゃん。お店の方で寝ていることの多いシャハルちゃんがここに居るとは思わず、わたしは少し驚いた。
「あら、シャハルちゃんもいらしてたんですね」
「うん。今夜は冷えるからね、彼の温もりを借りようと思って呼んだんだ」
「ふふ……確かに、もうすっかり冬ですもんねぇ、そろそろ雪が降りそうです」
かつて一晩彼を見守った机にトレーを置いて、温かなティーセットを用意する。透明なカップに湯気立つハーブティーを注げば、ふわりと生姜の爽やかで甘い香りがした。
「……今夜はジンジャーティーかな?」
「はい、肌寒いと思いまして、身体を温める作用のあるジンジャーをベースに、ローズマリー……それからカモミールも入れました。甘みが欲しい場合はお好みで蜂蜜でもお砂糖でもいいですし……心も身体も温まるハーブティーをご用意しました」
「なるほど……ローズマリーにカモミールか」
「すみません、シャハルちゃんが居るとわかっていたら別のものをお持ちしたんですけど……」
カモミールは猫にとってよろしくないし、ローズマリーの香りは猫があまり好まない。
けれどもお利口さんなシャハルちゃんは机から離れてベッドに飛び乗って、その片隅で気にするなと言わんばかりに丸くなった。
「あとでシャハルちゃんにもホットミルクをお持ちしますね」
「にゃあ!」
「ふふ、よかったね」
深夜零時を過ぎて始まった今夜のティータイムは、お店で過ごすのとはまた違う感覚だった。
マスターはお店に出る時の白い上着ではなく、大きめの黒いカーディガンを羽織ったラフな装いだったし、受け取ったカップを片手にベッドに向かう姿は、店主としてではなくまるで家族と過ごすように砕けた様子だ。
わたしは椅子に座って熱いハーブティーを冷ましながら、ちらりとベッドに足を組んで腰掛けるマスターを見る。丸くなっているシャハルちゃんを撫でる指先は、あの頃わたしの髪を撫でてくれたように優しい。
人間の身体を得た今ではすっかり、ヘアアレンジも着替えも自分で出来るようになった。それでもたまに、人形の名残かあの指先が恋しくなる。それを誤魔化すように、わたしは言葉を紡いだ。
マスターが留守の時や寝ている時にお相手したお客様のこと、シャハルちゃんがお外で出会った他の野良猫のお友達のこと、今度挑戦してみたいハーブティーのこと。とりとめのないことを話しながら、ふと気になっていたことを尋ねる。
「……ねえマスター、どうしてこんな町外れの路地裏で、お店を始めたんですか?」
「うーん……そうだな、僕はね……星空が好きなんだ。夜空に散らばる、この数えきれない煌めきひとつひとつが愛おしい。街中だと、ネオンの光でせっかくの夜空が見えないからね」
「なるほど……だからマスターのお薬には、お月様やお星様のモチーフが多いんですね」
お店の中にたくさんある、小瓶で煌めく不思議なお薬たち。そのどれもが綺麗で可愛らしくて、薬嫌いの子でも笑顔になってしまうような見た目をしている。
「ああ……星が好きならもっと田舎にでも、って思うかもしれないけれど……この街はね、星空に似ているんだ」
「この街が、ですか?」
「うん。この区画の『星見町』なんて名前もそうだけど……ここに集う人たちもね。まるで個なんてないかのように日々無数の人たちが行き交うけれど、ひとりひとり違う人生という物語を持っていて、そのどれもに愛や傷があるだろう。……僕はね、そのどれもが愛おしいんだ」
シャハルちゃんを撫でる手を止めたマスターは、ハーブティーを一口含んで頬を緩めた。その表情がどこまでも美しくて、わたしはつい溜め息を吐く。
「……マスターは、神様みたいです。人の悪い面も弱いところも、優しく全部を包み込むみたい……」
「ふふ、そんなんじゃないよ。ただのエゴだ。……傷も迷いも悲しみも、夜は特に深くなる。きみにも経験があるだろう」
「はい……」
「だから僕は夜に迷う人たちに、俯かず上を向いて欲しいだけなんだよ。きっと誰もが、あの星のように輝きを持っているからね」
マスターは、そう言ってカップをサイドテーブルに置いて立ち上がり、外気との差ですっかり曇った窓を開ける。
入り込む冷たい空気に一瞬身震いしたけれど、わたしも窓辺へと近付いた。見上げた星空は高く遠く澄んでいて、冬の空気を纏っている。
今宵は満月だ。空に浮かぶ淡い光が、夜の海を漂うくらげのよう。
わたしはそんな月を彼の隣で見上げながら、夜風に揺れる髪と、月明かりに照らされた白い横顔をそっと見上げた。
「……あの、お店の名前にもあるくらげって、半透明で、その名の通り水面に漂う月みたいじゃないですか」
「うん、そうだね」
「だからじゃないですけど……わたし、マスターってずっと月みたいな人だと思ってました……でも、太陽だったんですね」
「……おや、そうかな? こんなに夜行性なのに?」
わたしの言葉に、マスターは面食らったように瞬きをして、夜空からわたしに視線を向けてくれる。
その瞳がこちらを向くと、あの日彼が暗闇から救ってくれた記憶を思い出す。
あの時は、月を見る余裕なんてなかった。夜は孤独な暗闇で、彼が唯一の光だった。なのに今は、その夜のすべてが、こんなにも美しい。
「ふふっ……お日様は、あたたかな朝を連れてくる優しい光でしょう? 夜を照らすお月様は、そんな太陽の光を受けて反射することで輝きます……つまり夜に受け取る光は、ゆらゆら揺らいで消えてしまいそうな『お月様の道標』でもあるんです」
思うままに口にして、伝わったかどうか不安だった。それでも彼は、わたしの言葉を受けると、顎に指を添えながら考えようとしてくれる。
言葉を持たなかった頃から、わたしの気持ちを推し量ろうとしてくれた人だ。誰かの想いを無下にしたりはしないのだろう。
「つまり……月が夜の標である以前に、太陽たる僕が月に道標と光を提示していると?」
「はいっ!」
「それは……ずいぶんと大役を仰せつかってしまったな……? 月も海月も、夜の迷子たちも皆、自分で進む先を見つけている。買い被りすぎだよ」
困ったように微笑むマスターは、本当に謙虚な人だ。彼や彼の薬に救われた人が、大勢居ると言うのに。今ここに居るわたしも、その内のひとりだというのに。
わたしの不満そうな様子に気付いたのか、マスターはどうしたものかと悩んだようにわずかに俯く。少し長めの前髪が影を作り、その優しい瞳が隠れてしまうのが惜しかった。
「こよるさん。きみたちが恩義を感じてくれているのはわかるよ。でもね、僕はただ、夜空の無数の星々に焦がれているだけ……そのひとつひとつの輝きに、その星だけの色を灯したいだけなんだ」
「……その星だけの色、ですか?」
「うん……さっき言ったように、数えきれない星にひとつとして同じものがないみたいに、ひとりひとり同じ人生はないから。……その人生で負った傷と向き合い、迷いを捨てて、本当の自分と向き合って一歩踏み出す時……その人生はその人だけの色で輝くだろう」
マスターは再び窓の方を向いて、そのまま夜空に手を伸ばす。届かない月を掴もうとするように、長く白い指先が動いた。
「僕は、店を訪れる星ひとりひとりが色を灯す瞬間を、間近に見たいだけなんだよ。……迷いの先で、自ら輝きを捨ててしまう人も居るからね」
「……、……マスター?」
冷たい風に、前髪が揺れる。その隙間から覗く月明かりを受けた瞳は、少し揺らいで見えた。
わたしはその理由が知りたくて問い掛けようとするけれど、マスターはすぐに手を下ろして、代わりに窓枠に肘を乗せて、頬杖をつくようにしてわたしの方へと向き直る。
その顔は、もういつもの優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ……そうだ。こよるさん。さっき、僕のことを太陽だと言ってくれただろう?」
「え、あ、はい……」
「僕が太陽だとしたら、きみが月だね。僕の光を……店にこめた願いを、きみが叶えてくれている」
「えっ!? わ、わたしはそんな……叶えるなんて大それたこと……マスターのお薬があってこそです!」
「おや、そんなことないさ。きみの存在に癒されている人も、随分多いと思うよ。もちろん、お客様だけじゃなく……僕やシャハルさんもね」
マスターのベッドの片隅で、寒さに丸くなりながらすっかり眠ってしまった黒猫は、名前を呼ばれて無意識に反応したのか、尻尾をぱたりと揺らした。
「わたし、マスターのお役に立ててるんですか?」
「当たり前だろう。きみにならお客様を任せられるし……お陰で僕も出掛けたり、寝坊したりしやすくなったしね」
「……お寝坊は直して欲しいです」
「ふふっ……善処するよ。……こよるさん。心配しなくても、きみはこの店になくてはならない存在だよ」
大切な人に捨てられた人形。女の子ひとり笑顔にしてあげられない役立たずの人形。一時は存在意義すら見失ったわたしが、こんなにも優しい人から必要とされる。
そして、多くの人からも必要だと言ってもらえる。これ以上ない幸せに、じわりと涙が滲んだ。
「……ありがとうございます。わたし……これからも頑張ります!」
「あ、いや。無理に頑張らなくていいよ。変に張り切るときみ、空回ったりするし……」
「えっ」
「お店の説明でお客様に怪しまれるのはしょっちゅうだし」
「う……っ」
「あとほら、この間なんて、片付けてたと思ったら急に店の薬瓶全部にリボン巻き始めた時、どうしようかと思った……シャハルさんも『いきなりどうした?』って顔してたし……」
「えっ!? あれは可愛くないですか!?」
「いや、うん……そうだね、可愛い……」
くすくすと笑うマスターの瞳には、もう悲しい色は見えない。
さすがに肌寒く、開けっぱなしだった窓を閉めると、部屋の中は花や植物に似てほんのり甘い慣れ親しんだたくさんの薬の香りがした。
「マスター……わたし、マスターへのご恩もありますけど、このお店が、お仕事が好きです。だから……これからもよろしくお願いしますね」
マスターはわたしの言葉に柔らかく微笑んで、そっと頭を撫でてくれた。指先から伝うその温もりに、わたしは胸がいっぱいになる。
「うん。こちらこそ……よろしく頼むよ」
「マスター……わたし……」
「……にゃあ」
「あら……シャハルちゃんも、ふふ、よろしくお願いしますね。……もうおねむみたいですし、ホットミルクは明日にしましょうか」
こうして決意を新たにしたわたしは、まだ夜空を眺めるというマスターと、気持ち良さそうに眠るシャハルちゃんに小声でおやすみの挨拶を告げて、廊下を挟んで向かいにある自分の部屋に戻る。
「……」
朝日が昇ってしばらくすると、薬の効果が切れてわたしの身体は人形に戻るから、この部屋にはベッドがない。
わたしが捨てられた時に入っていた、焦げ茶色の木製のトランクケース。その内側に敷き詰められた白いクッションが、今のわたしの寝床だ。
「……あの頃の可愛いお部屋とは、全然違うなぁ」
簡素な部屋にそれだけしかなかったのに、この三年で、随分私物も増えた。
お給金代わりのお小遣いで用意した何着かのお洋服に、古物商でお迎えした小さな家具。
マスターからいただいた白いリボンに、スバルさんにいただいたネックレス。鏡花さんからお預かりした指輪。他のお客様からいただいた飴玉や小物なんかも、全部机の引き出しにとってある。
それから机の上に置いてある、大切なガラス瓶。毎日眠る前に飲む『深夜の人魚姫』は、人魚姫のウロコのように薄く丸い。
月明かりに透かすとキラキラと虹色に輝いていて、舌に乗せると甘く溶ける。
「……もう三年、まだ三年、かぁ……」
三年間、迷い人たちは誰ひとりとして、同じ傷を持ってはいなかった。そのどれもが唯一の物語だ。
明日は、どんなお客様に出会えるだろう。そのお客様は、どんな迷いの中で頑張ってきたのだろう。そして朝を迎える時、この店を一歩出て、朝陽の中でどんな顔をしてくれるのだろう。
わたしはまだ見ぬ星に名前をつけるような感覚で想いを巡らせ、雪の降りだしそうな窓の外を見上げて、誰ともなくそっと呟く。
「おやすみなさい……素敵な夜を」
明日が誰かにとって少しでも良い夜となるようにと願いながら、わたしはそっと目を閉じた。
☆。゜。☆。゜。☆
悩んで、苦しんで、傷ついて、迷って……暗闇を漂うくらげのように、あてもなく彷徨う夜には、どうか町外れの路地裏にある『薬屋 夜海月』を、そっと訪ねてきて欲しい。
長い夜を越えて、新しい朝を迎え、また次の夜には、自ら輝けるように。
きっと優しい笑顔と魔法のような素敵な薬で、その心を癒すから。
あたたかな飲み物と共に、きみの歩んできた物語に寄り添うから。
夜空に輝く星のように、闇に紛れてしまっても消えることのない、きみだけの煌めきを見つけるお手伝いをするから。
今宵も『薬屋 夜海月』は、夜の片隅でひっそりと明かりを灯す。まだ見ぬきみと、出会うために。
「いらっしゃいませ、ようこそ、『薬屋 夜海月』へ。……きみがもう、夜に迷いませんように」