ぼくが今お世話になっている『薬屋 夜海月』は、いつも夜が更けた頃合いに開店する。
 ぼくたち猫は基本的に夜行性……ではなく、薄明薄暮性というらしく、夕暮れと明け方に一番活発になるのだ。
 つまり、お店が始まる前と終わる頃が一番元気。そう考えると、この店に置いて貰っているのも何かの縁のように思える。

「……よし、まだ誰も起きてない」

 とある日、お気に入りのふかふかのソファーでお昼寝から目を覚ますと、ぼくは静かで暗い建物の中を見回し伸びをする。物音はしない、大きな窓の向こう側は、これから夜に飲まれる黄昏時だ。

 お店の店主である『マスターさん』は夜起きるのが苦手みたいで、よく開店前はお店の奥にある仮眠室で寝ている。
 二階が彼の居住エリアにも関わらず一度起きてからそこで二度寝をしているのは、万が一開店時間前に『夜の迷子』が訪れた時に対応できるようにだ。
 まあ、すぐに店に出られると油断しているのかよく寝過ごすせいで、店員の『コヨルさん』に、起こされているのだけど。

 お店の奥にある夜の帳のような布の向こう、開きっぱなしの扉を抜けて、ぼくはマスターさんの仮眠室へ向かう。
 その小さな部屋は窓ひとつなくて、閉鎖的だ。壁際にある小さなテーブルの上に、ステンドグラスみたいにキラキラのランタンがひとつだけ灯されている。ぼんやりと明るい室内には天蓋つきのお洒落なベッドがあって、マスターさんは白い清潔なシーツの上ですやすやと眠っていた。

 その柔らかそうな布団に飛び乗り顔の近くに行くと、オーナーさんはさらさらの夜色の髪の下、うっすらと目を開ける。

「んん。シャハルさん……? ごめんね、僕まだ眠いから……ご飯はこよるさんに貰って……」

 オーナーさんはぼくの頭を柔らかく撫でて、そのまま再び寝落ちてしまった。
 ぼくのご飯もそうだけど、彼も夕飯を食べていない気がする。よくコヨルさんの深夜のティータイムに付き合ってはいるけれど、できればちゃんとご飯を食べて欲しかった。

 よくご飯は忘れるし、気付けばこうして寝ているし、かと思えば一日中起きて薬を作っていることもある。そんな時は水を飲むのも忘れていることがあるから、僕が自分のを催促するふりをして気付かせるのだ。全く世話が焼ける。
 魔法のような素晴らしい薬を作るのに、彼は元野良猫の僕が心配になるくらい、生活力が欠如している気がした。

「……コヨルさん、まだ来る時間じゃないしなぁ」

 ぼくはベッドから降りて、お店の中を散歩することにした。コヨルさんが来ればお店のドアの開け閉めをしてくれるから外への散歩も出来るけれど、今は諦めた方が良さそうだ。
 大きく伸びをした後、再び布の向こうの夜海月店舗へと向かう。
 店舗の奥に続く扉には、仮眠室の他にもマスターさんが薬を作る秘密の部屋とか、コヨルさんやお客さんが飲む飲み物を用意するための簡易キッチンがあるけれど、生憎それらは猫立ち入り禁止だ。衛生的にしかたない。

 店舗の方も、本来なら薬屋という特性上動物はよろしくないところを、二人は自由にさせてくれるからありがたい。
 元野良猫が清潔であるはずの薬屋に居るなんて、お客さんから不評だったらどうしようかと思ったし、実際それを懸念してここに留まるのを諦めようともした。
 けれども当初の心配は杞憂で、猫のもふもふは癒しにもなるらしいので、ぼくの毛並みはお客さんにも好評だった。嬉しい誤算だ。これもコヨルさんが綺麗にしてくれて、時折ブラッシングもしてくれるお陰だった。

「さてと……」

 お店の中は、全体的に濃紺と白のコントラストを基調とした落ち着いたカラーリングで、日のある内はショーウィンドウからの光で日向ぼっこも出来る落ち着く空間だ。
 営業が開始されるとマスターさんかコヨルさんによって明かりが灯されて、間接照明やランプのぼんやりとした淡い光で狭い店内が柔らかく照らされるのが心地いい。

 店内には木製の棚が壁沿いにあって、他にもガラスのショーケースもある。店の奥には鍵付きの棚もあって、どれも中には大小様々な瓶が並んでいた。
 一見インテリアのようにも雑貨のようにも見える。けれどそのどれもが、マスターさんお手製の『薬』だった。

「……暇な時にコヨルさんたちに教えて貰って、ちょっとずつ薬について詳しくなってきた気がする」

 小瓶の中でラメのように煌めく『星屑の粉薬』
 淡く光る月のような半透明の『月明かりのオブラート』
 小瓶を揺らすと透明が夜色に変わる『夜露のシロップ』
 色とりどりの可愛らしお菓子のような『月の欠片』
 黒くて中が見えない『夜の帳カプセル』
 それからぼくもたまに飲ませて貰う『星座の物語』

 他にもたくさん、夜の迷子たちが薬によって笑顔の朝に踏み出すのを見てきた。『新月のオブラート』に『星の囁き』に『深淵の北斗七星』に『シンデレラドロップ』……ひとつひとつが小瓶の中で持ち主を待つ宝石のように鎮座して、誰かの訪れを待っているのだ。

「ふふ、いつかぼくも、お客さんのお薬選び出来たらなぁ……なんて」

 家を出て、もう二度と大好きな人にも会えないと嘆き、生きることさえ諦めかけていたぼくが、こんな風に笑いながら未来を考えられるようになるなんて、思ってもみなかった。
 一通り棚の中を見て回って、今日もキラキラして綺麗だと満足する。小瓶の中身はひとつひとつ特徴的で、何度見ても飽きない。
 ラムネ菓子やグミや金平糖のような美味しそうなものから、ガラス細工や飴細工のような繊細なもの、食用なのか危うい色をしたキラキラの粉や、本物なのか不明な猫の顔サイズの枯れない花まであった。

 たくさんの薬があるからか、店内はいつも甘いような花のような植物のような、不思議な香りがする。
 どこかで嗅いだ気のする懐かしさと、けれどどこでもないような未知の感覚がする、唯一無二の香りだ。ぼくはこの匂いが嫌いじゃなかった。

「あ……そろそろかな」

 夜目が利くからあまり気にしていなかったものの、すっかり日が落ちて暗くなった店内に気付き、ぼくはお店の片隅にあるふかふかの白いソファーに飛び乗る。
 お客さんが来た時にはそこで話をすることが多いけれど、誰も居なければ転た寝場所になる。ぼくにとってもお気に入りの場所だった。

「こんばんはー……あら、真っ暗。もう、マスターったらまだ寝てるんですね?」

 とんとんと階段を降りてくる軽快な足音がして、ぼくは耳をぴくりと揺らす。明るい声と共にやって来たのは、コヨルさんだ。
 彼女が手慣れた様子で電気のスイッチを入れると、世界に淡い光が灯る。

「あ、シャハルちゃん。こんばんは! マスターが寝てるってことは、ご飯まだですか?」
「こんばんは。うん、まだ……お腹空いた……」
「ふふ。すぐご用意しますね」

 ソファーの僕に気付くと近付いてきて、ふわふわと頭を撫でてくれた。ここの人たちは、ぼくのことを撫でると優しい笑顔を向けてくれる。ぼくはこの瞬間が好きだった。

「あ……!」

 さっそくご飯をと背を向けたコヨルさんは、今日は長い髪をひとつ結びにしている。ぼくの首に巻かれたリボンとお揃いの白いそれをひらひらと揺らす様子に、つい猫の本能が刺激された。

「えいっ」
「ひゃわ!? ……もう、シャハルちゃん悪戯っ子ですね!?」

 ひらひらのスカートも、ゆらゆら揺れる長い髪も、いつも気になってしかたなかったけれど、リボンみたいな細いものは余計に気になってしまってダメだった。
 思わず背中に飛び乗ってリボンに戯れようとすると、後ろから衝撃を受けたコヨルさんは心底びっくりしたようにしている。

「ごめん……揺れてたから、つい」
「もう……シャハルちゃんは普段とってもお利口さんですけど、お店では気を付けてくださいね? 瓶が割れてしまっては危ないですから」
「はぁい……反省……」
「ふふ。良い子ですね。さて、ご飯にしましょうか」
「……うん」

 マスターさんが寝ている今、ぼくは『星座の物語』を使っていない。だからぼくの言葉は通じていないはずなのに、コヨルさんはぼくと会話をしてくれる。
 彼女は感受性が強くて、のんびりに見えて聡いところがある。お客さんにもよく真摯に向き合って親身に寄り添っているから、そんな姿勢に救われる人も多い。
 そんな彼女だから、言葉は通じなくてもぼくの気持ちに寄り添ってくれているのかもしれない。
 元の飼い主であるリョウヤくんとも同じように一方通行な会話をしていたけれど、上手く噛み合うとそこに絆のような温かなものを感じた。
 だからぼくは、よっぽど伝えたいことがある時にしか薬は飲まない。言葉が通じなくても繋がれることがあると知っているからだ。

「あ、そうだ。シャハルちゃん。今日はお散歩少し待ってくださいね」
「……?」
「夜中に雨が降るそうなので、お散歩はお天気を見てから考えましょう」
「雨かぁ……寒いし濡れるから嫌い」

 お店の片隅、アンティークなレジのある台の側でコヨルさんから貰ったご飯を食べながら、野良猫時代をぼんやりと懐かしむ。そして、リョウヤくんと居た時から、雨の日は彼が外に遊びに行けないと嘆いていたことを思い出した。

 ぼくはリョウヤくんとお家で遊べるから雨の日は少し嬉しかったけれど、雨でしかたなく構われるより、晴れの日にぼくと居ることを選んで遊んでくれる方が嬉しいのだ。

「……あ、そうだ。雨の夜ですし……時期的にもそろそろあの人がいらっしゃるかもしれませんねぇ」
「あの人?」

 来客の予定でもあるのか、コヨルさんはぽつりと呟く。誰にでも優しく人懐っこい彼女にしては、どこかその声も強張っていた。

「わたし、マスターのこと起こしてきます。シャハルちゃんはご飯しっかり噛んで食べててくださいね」
「うん」

 結局問いの答えは出ないまま、外からは雨の音がし始めた。ぼくはそのまま最後の一口まで残すことなく、存分にお腹を満たしていった。


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