「気にしなくていい……って、いや、気にするだろ、普通に! なあ、くま吉!?」
もちろん、くま吉は返事なんかしない。いつも通りのつぶらな瞳で俺を見つめてくれるだけだ。
それでも今は、くま吉がいてくれてよかった。
「雅人の家で雅人と二人きりなんて、別に意識することじゃない。することじゃない、けど……いやでも、あいつもわざわざ言ってきたしなあ」
気にしなくていい、と言いつつ、あいつは事前に二人きりだということを念押ししてきた。そのことになにか意味があるんじゃないか、と気になって仕方ない。
手を繋ぐのも、ハグをするのも、別に平気だ。でももし、それ以上のことを求められたら? それでも俺は、ちゃんと応じられるんだろうか。
雅人に本心を悟られずにやっていけるんだろうか。
「……俺とキスしたいとか、思うのかな、あいつ」
そう言われたら、俺はどんな顔をすればいいんだろう。考えたって答えなんて分からないのに、ぐるぐるとずっと考えてしまう。
もう、お泊りは明日だっていうのに。
「いや、なるようになるだろ。恋人とか友達とかそういうの以前に、俺と雅人なわけだし」
うん。そうだ。なにも問題ないはず。きっといつもみたいに楽しいお泊り会になる。
「そうだよな、くま吉!?」
やっぱり返事はない。分かってはいたけれど、今だけは返事がほしかった。
◆
「いらっしゃい、裕ちゃん」
玄関のドアを開けた裕樹は既に部屋着姿だった。シンプルなグレーのスウェットで、去年から着用しているものだ。
「おじゃまします。あ、お菓子持ってきたから」
「別にいいのに。ありがとう」
「さすがに持って行けって母さんがうるさいから」
遊びに行くだけなら何も言われないけれど、さすがに泊まりとなると話は別だ。今日は、母親がデパ地下で買ったクッキー缶を持ってきた。
「ご飯とかどうしよっか。家にあるものは自由に食べていいし、なんか買いに行ってもいいけど」
「ピザは?」
「あ。いいね。夜はピザにしよっか」
コーラを飲みながらピザを食べて、映画を見ながら夜更かしする。泊まりの時の定番コースだ。
本当はデリバリーで注文したいけれど、割高になるからいつも近くの店舗へ買いに行っている。
家だと滅多にピザなんて食べないし、パーティーという感じがして楽しい。
「今日はめちゃくちゃ楽しもうね、裕ちゃん」
◆
「さすがに、そろそろ寝ようか」
時刻は午前2時過ぎ。せっかくのお泊り会とはいえ、そろそろ限界だ。
「だな。部屋行くか」
食事はさすがにリビングでとろう、ということになって、今日はかなりの時間をリビングで過ごした。大きいテレビで見るホラー映画は大迫力で、俺も雅人も、何回も叫んでしまった。
気が抜けるくらい、いつもと変わらないお泊り会だった。
雅人の部屋に移動した頃には、俺の目は半分閉じかけていた。昨日は緊張であまり眠れなかったから、疲れがたまっているのだろう。
「ねえ、裕ちゃん」
「なに?」
「今日、一緒にベッドで寝ない?」
「……えっ?」
雅人の部屋に泊まる時は、いつも客用布団を用意してもらっていた。小さい頃は一緒にベッドで眠っていたのだろうけれど、小学校高学年くらいからは、シングルベッドは狭かったから。
「だってほら、今から布団敷くの面倒くさくない?」
「それはまあ……確かに?」
「詰めたらいけるでしょ」
そう言って、雅人はベッドに寝転がってしまった。
……別に、一緒に寝るだけだ。なにかがあるわけじゃない。俺も雅人も、たぶんすぐ寝るだろうし。
どくん、どくんとうるさい心臓を無視してベッドへ入る。眠れないことはないけれど、やっぱりシングルベッドは狭い。
常に肩同士がくっついてしまうし、寝返りをうつだけでもかなりお互いの邪魔になってしまうだろう。
「裕ちゃん。なんでそっち向くの」
眠いからか、雅人の声はいつもよりとろんとしている。肩を掴んで、強制的に身体の向きを変えられてしまった。
いや、二人で寝る時に向かい合って寝るか? 狭すぎるだろ。恋人ならそういうもんなわけ?
混乱している間に、ぎゅ、と強く抱き締められた。冷房のおかげで部屋が涼しいから、単純に人肌が心地いい。
「裕ちゃん」
耳元で名前を囁かれると変な感じがする。とっさに顔を遠ざけると、裕ちゃん、とまた名前を呼ばれた。
寝る直前だから、雅人は眼鏡をかけていない。整った顔立ちがいつもよりもはっきり見える。
「一個だけ、お願いがあるんだけど」
「……な、なんだよ」
この状況でこんなことを言われたら、緊張しない方がおかしい。
俺の心臓は、爆発しそうなほど騒いでいる。
「キス、してもいい?」
雅人の手が伸びてきて、そっと俺の頬を包んだ。真剣な目が、見たことのない色で俺を見つめている。
雅人は、俺とキスしたいんだ。
「……いいよ」
「ありがとう」
雅人の唇がゆっくり近づいてくる。とっさに目を閉じて、唇が重なり合うのを待った。
それは本当に一瞬のことだった。単なる皮膚と皮膚との接触だ。ただ、雅人の唇はほんの少しだけ湿っていた。
「ありがとう、裕ちゃん」
「……別に。俺たち、付き合ってるんだし」
「うん、そうだね」
言いながら、雅人が枕元においてあったリモコンで部屋の電気を消した。
◆
「裕ちゃん、起きて。朝だよ」
何度か身体を揺さぶられ、ようやく意識がはっきりしてくる。それでも起き上がるまでにはかなりの時間を要した。
「朝ご飯どうする? 食パンとかならあるけど」
「あー、そうだな、食べるか」
「了解。でもその前に俺、一個裕ちゃんに話があるんだよね」
「……なんだよ、朝から」
雅人はなかなか続きを話さない。しびれを切らした俺がなあ、と催促すると、雅人が震えた声で言った。
「俺たち、別れようか」
「……は? え? 今お前、なんて……」
「だから、別れようって言ったの。俺たち」
「なんでだよ。なあ、雅人、俺なんかやったか?」
昨日だってちゃんと、雅人の頼みに応じてキスを受け入れた。浴衣を着て祭りにも行ったし、手を繋いだりもした。
ちゃんと、雅人の恋人をやれていたはずだ。
「だって裕ちゃん、俺のこと恋愛的な意味で好きじゃないでしょ」
「……そんなことない」
「分かるよ。俺が何年、裕ちゃんの幼馴染やってると思ってんの」
呆れたように溜息を吐いて、雅人が部屋を出ていこうとした。振り向いて、泣きそうな顔で俺に聞いてくる。
「食パン、なんか乗せて焼く? それとも焼いた後にジャム塗る?」
「……今、そういうのいいから」
食パンをどう食べるかなんてどうでもいい。
なんでお前は、別れようなんて言い出したんだよ。お前、俺のこと大好きなのに。
「裕ちゃん。知ってるだろうけど、俺は裕ちゃんが大好きなんだよ。だから、裕ちゃんに無理してほしくないわけ」
「……無理なんてしてないし」
「してるでしょ。俺、ずっと分かってたから」
はあ、と雅人が溜息を吐く。泣きそうな顔で無理やり怒った表情を作っているみたいで、見ているこっちまで泣きたくなってきた。
「でも、裕ちゃんに付き合おうって言われて嬉しくて浮かれたのは本当。裕ちゃんと恋人同士になれて、嬉しかったから」
「じゃあ、別れなくていいだろ。俺は別れたいとか思ってないし」
「それ、俺に気を遣ってくれてるからでしょ」
違う、とすぐに言えなかった俺を見て、雅人はまた溜息を吐いた。
「裕ちゃんはさ、自分が思ってるよりたぶん、嘘が下手だよ」
なんだよそれ。
じゃあなんで、今まで俺と付き合ってきたんだよ。
「今までごめんね、裕ちゃん」
ぽん、と雅人が俺の肩を軽く叩いた。恋人としての触り方じゃない。明らかに、友達としての触り方だった。
「……謝るなよ」
ごめんね、なんて言葉が聞きたかったわけじゃない。俺は雅人が喜んでくれるなら、キスだってするし、それ以上のことだってやれた。
本当だ。俺は雅人が好きだから。
「ごめん。でもね、裕ちゃん。俺も結構きついんだよ。俺ばっかり好きなんだって、分かっちゃうからさ」
雅人の瞳から涙があふれた。
「これからも今まで通り、ちゃんと裕ちゃんの親友でいるから。だから、心配しないで」
「雅人……」
「裕ちゃんが俺以外を好きになっても、誰かと付き合っても、俺はずっと、裕ちゃんの親友でいるから」
違う。俺は雅人にそんな顔をさせたかったわけじゃない。
手を繋いだのも、キスをしたのも全部、雅人に笑ってほしかったからだ。
「ごめん裕ちゃん。やっぱり、朝ご飯は用意できないかも」
手の甲で必死に涙を拭く雅人に、どんな言葉をかけてやればいいんだろう。なにが正解で、そうすれば俺はまた、雅人の笑顔を見られるんだろう。
「明日からはちゃんと、いつも通りの俺に戻るって約束する。今までありがとう、裕ちゃん」
嫌だ。別れたくない。そうやって縋ったところで、きっと意味なんてない。俺が雅人と同じ気持ちを持っていないことが、もうバレてしまっているのだから。
それでも俺は一緒にいたい。雅人が望む気持ちをあげたい。
それは我儘で、同じ色の感情じゃないから、雅人を傷つけてしまうんだろうか?
「なあ、雅人。いつから、別れようなんて思ってたんだよ」
「最初から。期間限定の恋人だって、ちゃんと分かってたよ。……どこかで、本当に俺を好きになってくれないかなって、期待はしてたけど」
ああ、そうか。
最初から雅人は気づいていたのか。上手く誤魔化せているだなんて、俺の思い上がりだったんだ。
「でも、もうおしまい。これ以上恋人でいたら、俺はきっと裕ちゃんを傷つけちゃう。無理させて、嫌な思いもさせる」
「そんなこと気にしなくていい」
「気にするよ。だって俺、裕ちゃんが大好きなんだから」
こうなった雅人はかなり頑固だ。とっくに自分の中で結論は決まっていて、今はそれを口に出しているだけ。
「……昨日キスしたのは、なんで?」
「どうしても、裕ちゃんの初めてのキスは俺がよかったから。本当ごめん、裕ちゃん。あんな風に頼めば、裕ちゃんが断らないのは分かってた」
俺が雅人のことが分かるのと同じくらい、雅人も俺を理解している。そのことについて、俺はもっとちゃんと考えるべきだったのかもしれない。
「大好きだよ、裕ちゃん。だから俺たち、友達に戻ろう」
◆
結局、朝食を食べないまま、俺は雅人の家を後にした。あれ以上、雅人になにをどう伝えればいいのかが分からなかったのだ。
嘘をついても、本音を話しても、雅人を傷つけてしまうような気がして。
「……明日から本当に、元通りになるわけないよな」
少なくとも、俺は絶対に無理だ。雅人の気持ちを知ってしまった以上、何も知らなかった頃の俺には戻れない。
深呼吸して、ポケットからスマホを取り出す。ちょっとだけ迷ったけれど、思いきって発信ボタンを押した。
『もしもし? どうしました、穂村先輩?』
金城だ。連絡先を交換したものの、こうして電話をするのは初めてだし、メッセージのやりとりもたいしてしていない。
「雅人に振られた。諦められないから、相談に乗ってくれ」
『……はぁ!?』
「……別れよう、なんて、言わなきゃよかったのかな」
今頃裕ちゃんはなにを考えているだろうか。
恋人関係が終わったことに安心してる? それとも、俺を傷つけたって悲しんでる?
家を出ていった時の裕ちゃんは、俺と同じで泣きそうな顔をしていた。
裕ちゃんに恋心がバレた時、終わった……素直にそう思った。裕ちゃんが俺を恋愛的な意味で好きじゃないことは分かっていたから。
でも裕ちゃんは、付き合おう、と俺に言ってくれた。
「裕ちゃんと付き合えて、本当に幸せだったな」
小さい時から、ずっとずっと裕ちゃんが好きだ。男同士なのに、なんて違和感は持たなかった。そういう世間の常識を知る頃には、とっくに裕ちゃんを大好きになっていたから。
裕ちゃんと付き合えたら、という妄想は数えきれないほどしてきた。でも、それが現実になるとは思っていなくて、いつか伝えたいと思いながらも、ずっと気持ちを伝えられずにいた。
そっと唇に触れる。
昨日俺は、裕ちゃんにキスをした。狡くて、最低なキスだ。裕ちゃんがキスをしたくないことも、俺が言えば断れなくなっちゃうことも、全部分かっていた。
これ以上付き合いを続けていたら、俺はどんどん裕ちゃんに甘えてしまう。ここで踏みとどまらなきゃいけない。
キスをした後の顔を見て、今まで以上にそれを実感した。
好きだから、付き合おう、という裕ちゃんの誘いを断れなかった。
好きだから、これ以上付き合っていられないと思った。
どちらも、紛れもなく俺の本音だ。
◆
泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を覚ました時には、既に午後一時過ぎだった。
あと少しで家を出なければ、夏期講習に遅刻してしまう。
分かっているのに、身体が重くて動かない。今日くらいは休め、と身体が労わってくれているのだろうか。
「……もうなんか、どうでもいいや」
眠くはないけれど、もう一度瞼を閉じる。こうしていればきっと眠れるだろう。今は、一秒だって起きていたくない。
もし自分が望んだ夢を見られるのなら、夢の中でくらい、裕ちゃんと本当の恋人同士になりたい。
◆
塾からかかってきた電話で目を覚ました。連絡もなしに欠席したから、家に電話がきたのだ。
両親がいなくてよかった。もし両親がいたら、なにがあったのかと詮索されただろう。
日頃真面目に塾へ行っているおかげで、具合が悪かったのだと言えば心配されるだけで済んだ。
勉強する気にはなれないし、裕ちゃんのところへも今日は行けない。
他にしたいことだってない。
「……裕ちゃん、なにしてるのかな」
寝ても覚めても、裕ちゃんのことばかりを考えてしまう。だって裕ちゃんは、俺の全てだ。
面倒くさがり屋で、結構マイペースで、案外流されやすくて、ちょっと我儘。そんな裕ちゃんが、俺は可愛くて仕方ない。
見た目だって大好きだ。白い肌も、切れ長の瞳も、左目の下の涙ボクロも、薄い唇も、全部。
やっぱり別れなきゃよかったかな、なんて一瞬でも考えてしまう俺は最低だ。大好きだからこそ、裕ちゃんを傷つけるわけにはいかないのに。
「俺と裕ちゃんは幼馴染。親友で、ただの友達で……」
言い聞かせるように何度も呟く。スマホに手を伸ばし、メッセージアプリを起動した。裕ちゃんからのメッセージはない。
いつもは、他愛ないメッセージをくれるのに。
昼飯は何を食べた、とか。この動画が面白かった、とか。
裕ちゃんは連絡がまめってわけじゃない。むしろその逆で、裕ちゃんに連絡がつかないから、という理由で他人から連絡されたことが今までに何度もある。
裕ちゃんと言えば俺、と周りに認識されるのは気分がいい。
それに裕ちゃんは、俺には頻繁にメッセージをくれた。まあ、読書やゲームに夢中になって、全然連絡をくれない時もあるけれど。
写真フォルダを開いて、裕ちゃん、というタイトルのアルバムを開いた。中には、今まで撮ってきた裕ちゃんの写真が大量に保存されている。
この前夏祭りに行った時は、浴衣の裕ちゃんが可愛すぎて何枚も写真を撮った。
「もうちょっと髪が伸びたら、結んでも似合うだろうな」
来年も裕ちゃんは、俺と一緒に夏祭りに行ってくれるだろうか。
裕ちゃんと浴衣を着て夏祭りに行った。人混みの中で裕ちゃんが手を繋いでくれた。
裕ちゃんとこの夏はたくさんデートをした。キスをして、一緒のベッドで眠った。
恋人同士としての思い出はたくさんある。これ以上更新されることはないだろうけれど、俺にとっては大切な宝物だ。
「……だから、大丈夫」
これがあればもう、俺はこれからの人生を我慢できる。一生この夏を思い出して生きていける。
それくらい、幸せな夏だった。
「久しぶりに手紙、書こうかな」
裕ちゃん宛ての、渡せないラブレター。
いつからか、伝えられない気持ちを手紙に綴るようになった。
心の中にため込んでおくには、裕ちゃんへの気持ちは大きすぎるから。
机の中からペンと便箋を取り出す。裕ちゃんへ、と一行目に書いただけで涙がこぼれてきた。
便箋に小さなシミがいくつもできてしまう。本人に渡すラブレターなら、こんな便箋はもう使えない。
でも、いいか。
どうせこのラブレターは、裕ちゃんには渡せないんだから。
「で、会長に振られたって、どういうことなんですか」
金城が身を乗り出して聞いてきた。テーブルの上には、俺が買った二人分のフラペチーノがある。
今すぐ行く代わりに飲み物は奢ってください、と金城に言われたのだ。
「だから、雅人に振られたんだよ。俺に無理させたくない、とかいう理由で」
「無理させたくない、ですか。会長って本当、穂村先輩のこと好きですね」
「俺だって、あいつのこと好きだけど」
それですよ、それ! と金城が急に大声を出した。店内の注目を集めてしまったにも関わらず、金城は少しも動揺していない。
「たぶん、会長には伝わってないんです。穂村先輩も、会長のことがめちゃくちゃ好きだってことが」
「……そう思うか?」
「思います。まあ、それだけ会長の思いが強いってことですよ。長年ずっと片思いしてるわけですし」
箱の中に入っていた何通ものラブレターを思い出した。俺が見たのは一通だけだ。他の手紙には、どんなことが書いてあったのだろう。
「それで穂村先輩はどうしたいんです? 諦められない、って言ってましたけど。会長とまた付き合いたいんですか? それとも、本当に元通りになりたいんですか?」
「それは……」
たぶんこのまま時間が経っても、元通りの関係には戻れない。でも、そんな現実は無視して、俺の理想だけを考えたらどうなのだろう。
幼馴染で親友。雅人からの恋心になんて微塵も気づいていなかった頃に戻りたい?
それともまた、あいつと付き合いたい?
目を閉じて、この夏のことを振り返る。戸惑ったことも多かったけれど、やっぱり楽しい夏だった。
手を繋いだことも、キスも、別に嫌じゃなかった。同じ気持ちを持っていないことに後ろめたさは感じたけれど。
雅人と恋人になってみても、やっぱり俺は変われなかった。雅人と同じ気持ちにはなれなかった。
でも。
幸せそうなあいつを見るのは、俺だって嬉しかったんだよな。
なんであいつが俺と手を繋ぎたがるかも、キスをしたがるかも分からない。でもそういうことをして雅人があんなに喜ぶなら、悪くないような気がした。
「俺は、またあいつと付き合いたい」
「それは、会長が喜ぶからですか?」
金城相手に嘘をついたって意味がない。
「ああ、そうだ。俺はあいつが喜ぶことをやってやりたい」
雅人にはずっと世話を焼かれてきた。いつも甘えてばかりで、雅人だって楽しそうにしていたから、それでいいと思っていた。
でも雅人と付き合うようになって、今まで見たことがないほど幸せそうな顔を見ることができた。
俺はもっと、雅人を幸せにしてやりたい。
恋じゃなくたって、これは俺の愛だ。
「分かりました。でもたぶん、ただ付き合いたいって言うだけじゃ無理ですよね」
「……だな。気を遣わなくていい、って言われると思う」
俺が雅人の恋心を理解できないように、雅人だって俺の愛を理解してくれていないのかもしれない。
雅人が俺の頭の中を覗いてくれたら、気を遣っているわけじゃないってことくらい、すぐに分かるだろうに。
「私は、先輩のどでかい愛を会長に伝えるしかないと思います」
「どでかい愛?」
「はい。恋だなんて嘘をついてもバレます。愛だって言っても、たぶん足りない。でも、どでかい愛が伝われば、会長だって分かってくれますよ」
金城が得意げに胸を張った。確かに金城のアイディアは結構いいかもしれない。
雅人相手に嘘をつく必要がないし、ちゃんと俺の気持ちも伝わる。
そういうのを全部伝えた上で、それでもあいつが俺と付き合いたくないって言うんなら、それはもう仕方がないことかもしれない。
「問題は、どでかい愛をどうやって伝えるかだな」
「はい」
口だけならどうとでも言える。あいつはちょっと疑い深いところもあるし、ただ話をするだけじゃ駄目だ。
行動で示すとしても、なにができる? どでかい愛がないとできないことってなんだ?
「ここで穂村先輩に、さらなる提案があるんです」
目が合うと、金城はにやっと笑った。
たぶんここへくる前から、その提案とやらを考えていたのだろう。
「……なんだよ?」
「文化祭のステージ発表、利用してみませんか?」
「ステージ発表?」
文化祭は各クラスが模擬店や展示をするだけでなく、ステージ発表も開催される。主にダンス部や軽音部などの文化部が発表を行うが、個人でも事前に申し出れば発表が可能だ。
実際去年も、バンド演奏や手品など、いろんな発表があった。
「もしかして、ステージで雅人に告白でもしろって言うのか? さすがに無理だぞ。企画も通らないだろうし」
テレビ番組や漫画でたまに見かける、全校生徒の前で告白をするシーン。
確かに大勢の前で気持ちを宣言することで本気度が伝わりそうではあるけれど、さすがに現実的じゃない。
「違いますよ。私が提案したいのは、歌です」
「歌?」
「会長から、穂村先輩は歌が上手いって聞きましたよ。文化祭で会長のために歌う、っていうのはどうです?」
「……いや、別にそこまで得意なわけじゃないけど」
俺の歌唱力は、カラオケで90点台前半をとれるくらいのレベルだ。苦手な曲だと70点台なんてこともあるし、95点以上はとったことがない。
上手いか下手かで言われれば上手いだろうが、ステージで歌うほどの腕前ではないはずだ。
でもあいつ、俺の歌声が好きだって、前に言ってたな。
二人でカラオケに行くと、雅人は俺にばかり歌わせたがる。裕ちゃんの歌を聴くのが好きだから、なんて笑って。
スマホで動画を撮影されたこともあった。
それに、文化祭のステージ発表なんて普段の俺なら絶対にしない。面倒くさいからだ。そんな俺が文化祭で歌ったら、俺の気持ちもちょっとは伝わるかもしれない。
「私、ギター弾けるので協力できますよ」
「え? お前、ギター弾けんの?」
「必死に覚えました。茜ちゃんがギター弾ける人って格好いいよね、とか言ってたので」
その言葉を聞いて、金城が歌を提案してきた理由が分かった。
こいつはこいつで、佐々木にアピールをしたいと考えていたに違いない。
要するに、利害の一致ってやつだ。
「どうします、先輩。やります?」
「やる」
歌を歌ったくらいじゃ、俺の気持ちは完全には伝わらないかもしれない。でも、なにかのきっかけにはなるはずだ。
それに今は、他にいい方法も思いつかない。
「じゃあ穂村先輩。さっそく、今日から練習を始めましょう!」
カフェを出て、俺たちはそのまま学校へ向かった。金城の荷物がやたらと大きかったのは、ギターを持ってきていたからだったのだ。
ギターも弾けて歌も歌える、なんて場所はあまりない。カラオケはうるさいからギターの練習には向かないだろうし、公園などの外で練習すれば注意されてしまうかもしれない。
その点、学校は最高だ。文化祭に向けた練習であれば校舎内で演奏しても問題ないし、申請すれば防音の音楽室だってタダで使える。
とりあえず俺たちは、生徒会室にやってきた。防音ではないが密室だし、なにより、誰かが入ってくる可能性は低い。
「とりあえず、何の曲を歌うか、ですよね。正直何曲もやるのは厳しいです。私もまだ、ギターは始めたばかりなので」
「俺としても、何曲もやるのはきついな」
一曲だけならなんとか頑張れるだろうが、何曲も歌い続けるのはきつい。
それに、一曲に集中した方がクオリティーも上げられるはずだ。
「どうします? 会長の好きな歌とかですかね」
「そうだな。で、なおかつ俺の気持ちがちゃんと伝わりそうな歌」
「バラード系とか? あんまり難しいのは無理なので、いくつか候補をあげてから決めましょうか」
金城が鞄からメモ帳を取り出す。俺はスマホの音楽アプリで、雅人が好きだと言っていた曲をいくつか検索してみた。
ほとんどが、一緒に見たドラマやアニメ、映画の主題歌だ。雅人はそんなに歌を聴くタイプではないから。
いくつか曲名を言うと、金城がそれをメモしていった。
「この中でも、特に会長が気に入ってるやつってあるんですか?」
「そうだな……これ、とか」
金城のメモの、一番上に書いてある曲名を指差した。
『星々を数えて』というゆっくりとしたリズムの曲である。
「これって、何の歌でしたっけ?」
「SFアニメのエンディング。ほら、『二つの星』っていう……結構長めの」
「あー、分かりました。見たことはないんですけど」
「カラオケに行くたびに、絶対歌ってってあいつに言われるんだよな」
『二つの星』は、異なる惑星で生まれた主人公二人の絆を描いた作品である。
二人が生まれた星同士は長年戦争をしていたが、幼い頃に互いの出身星を知らないまま親しくしていた時期があった。
大人になり、軍人になった二人が戦場で再会してしまい……というスペースオペラである。
これ、アニメも泣いたし、劇場版もめちゃくちゃ泣いたんだよな。
中一の時にハマって、原作が長いからって理由で、半分ずつ原作コミックスを買った。
俺が1巻から23巻で、雅人が24巻から47巻。当時は今よりも小遣いが少なくて、俺も雅人も、47巻をまとめ買いすることができなかったのだ。
「聴いてみたいので、流してもらってもいいですか?」
「おう」
再生ボタンを押す。そういえば俺も、この曲を聴くのは久しぶりだ。
ゆったりとしたメロディーで、柔らかくもあり、どこか切なさがある。勢いがあって耳に残る主題歌とは違って、しんみりするような歌だ。
やっぱりこれ、いい歌だな。
この曲は、主人公の一人である、アンドレアの視点から書かれた曲だ。彼はもう一人の主人公であるカルロと再会した際、既にかなり軍で上の立場になっていて、頑なにカルロと話そうとはしなかった。
しかしアンドレアはカルロを殺せなかったし、心の中ではカルロ以上に再会を喜んでいた。
そんなカルロの、言葉にできない思いをつづった曲だ。
曲が終わると、なるほど……と金城が呟いた。
「いい曲じゃないですか」
「アニメ見てなくてもそう思うか?」
「はい。それに会長、もしかしたらこの曲を聴きながら穂村先輩のこと考えてたんじゃないですか? 歌詞も、共感できそうなところありましたし」
ほら、と金城が歌詞を検索したスマホの画面を見せてきた。
「こことか」
『今日もまた星を数える いくつもの星を 君と見た星は見つからない なのにどうしても忘れられない』
「アニメの内容はあらすじくらいしか知らないからあれですけど、二人がすれ違いまくるやつですよね?」
「いやまあそうかもしれないけど、いろいろあるんだって。二人が育った星じゃ政治体制も違うし、法律も倫理観も違う。だからこそ二人が目指す理想も違って……」
「いいですいいです、そういう細かいのは」
俺の熱い語りをあっさり止めて、金城は溜息を吐いた。これ以上話は聞かない、と顔にはっきり書いてある。
「これって、先輩たちの状況にも合いません? 会長は恋で、先輩は愛。その考え方の違いですれ違ってるわけですから」
「……似てる、と言えなくはないかもしれないけど、あまりにも状況が違うぞ」
「分かってますよ。でもちょっとでも重なる部分があれば、感情移入くらいはできるでしょう」
そういうものだろうか。俺にはあまりピンとこないけれど、そういうものなのかもしれない。
「その二人って結局、仲良しに戻れるんですか?」
「ああ。二人はちゃんと話ができるし、お互いに思っていたことを伝え合える」
「なら、縁起もいいですね」
そして二人はそれぞれの星に別れを告げ、旅に出るのだ。物語はそこで完結してしまったけれど、二人の旅の様子が見たいと望む声も多い。
俺としては続きが読みたいような、読みたくないような気持ちだ。物語としていい終わり方をしていたから。
「これにしましょう、先輩。ネットにギターのコードもありましたし。あ、コード見たらすぐに弾けるほど上手くはなので、期待しないでくださいね」
「分かってる」
「ちょっと練習してみます。先輩も部屋の端で歌っててください」
そう言うと、金城は一人でギターの練習を始めた。
金城が言ったように、雅人はこの曲を聴きながら俺のことを考えたりしていたのだろうか。
俺が歌うこの曲をどんな気持ちで聴いていたのだろう。
「……大丈夫だよな、きっと」
カルロとアンドレアだって、最後はまた仲良くなれた。互いの理想や主張、価値観や生まれ育った星を捨ててでも、共に生きる道を選んだのだ。
俺たちだってきっと、好きの種類が違っても、一緒にいられるはず。
すう、と息を吸い込む。『星々を数えて』を歌い出した瞬間、ほんの少しだけ涙がこぼれてしまった。
「裕ちゃん、一緒に宿題でもしない?」
勉強道具を持った雅人が俺の家にやってきて、いつもと同じように笑った。でもその顔は、いつもとは全然違う。
泣き過ぎたのか腫れて赤くなっている目は見ているだけで痛々しい。
……こいつ、本当にきたな。
今朝、今日は裕ちゃんの家に行くね、とメッセージが送られてきた。昨日俺を振ったばかりだというのに。
明日からはいつも通りにする、って言ったのを守ろうとしてるのか?
それとも日が空けば空くほど、俺に会いにくくなるから?
「裕ちゃん? 宿題は嫌だった? でもさすがにそろそろやらないと終わらないでしょ。休み明けには定期テストもあるしさ」
「あ、ああ。そうだな。そろそろやらないと」
「でしょ。じゃあ、そうしよう。おじゃまします」
そう言って、雅人が靴を脱いで家に上がった。そのまま一緒に俺の部屋へ向かう。いつも通りの行動だが、もちろん俺たちはいつも通りじゃない。
ただ俺も雅人も、いつも通りを演じようとしている。それだけだ。
◆
気まずさのせいか、いつもよりも勉強が進む。雅人もたぶんそうなのだろう。部屋に入ってから、ほとんど無言で俺たちは宿題を続けている。
俺が金城と文化祭で歌を披露することは、雅人にはまだ内緒だ。どうせ正式に申請を出した後、ステージ発表のプログラム一覧が発表されれば分かることだが、それまでは黙っておく。
それに曲も、当日まで雅人には言わないつもりだ。
まずは行動で。そしてその後、ちゃんと言葉で愛を示す。そう決めたから。
「なあ、雅人」
名前を呼んだだけで、びくっと雅人の肩が震えた。やっぱり、全然いつも通りなんかじゃない。
「どうしたの、裕ちゃん」
「これ教えて」
分からなかった問題をシャーペンで指す。うん、と雅人が頷いた。
◆
「起きて、裕ちゃん。新学期早々、遅刻なんてできないでしょ」
久しぶりに、俺の一日が雅人の声で始まった。いつも通り掛け布団をはぎとって、雅人が強引に俺を起こそうとする。
冬場に比べればこの季節は掛け布団への未練はない。そのまま再度眠ろうとしていると、今度は腕を引っ張って強引に起こされてしまった。
「もう、裕ちゃんは。夏休みの間に狂った生活リズム、まだ戻ってないんでしょ」
「……そりゃそうだろ。昨日まで夏休みだったんだから」
「まったく。夏休みが終わる少し前から、ちゃんと生活リズムは整えないと、っていつも言ってるのに」
俺が立ち上がると、雅人はすぐに俺の腕を離した。俺に全く触らなくなったわけじゃないけれど、以前より触れられることは減った。
雅人なりに気を遣っているのだ。そんなこと、俺は全く望んでいないけれど。
「すぐ着替えてね。俺、部屋の前で待ってるから」
前は俺が着替える時にわざわざ外へ出たりしなかった。なのに今日はそんなことを言って、部屋を出ていってしまう。
そもそも俺たちは男同士で、学校の更衣室だって一緒に使うというのに。
両手を頬で軽く叩き、なんとか意識を明瞭にする。もう少し眠っていたいけれど、そういうわけにもいかない。
「……あと、1ヶ月ちょっとか」
文化祭は10月3日、4日の2日間だ。ステージ発表は両日開催される予定で、日時を発表者が決めることはできない。
発表日時が決まるのは大体9月の中旬だと金城が言っていた。
夏休みの間、俺と金城は何度か一緒に練習した。会うたびに金城のギターは上達していたし、いつの間にか『二つの星』のアニメを全話視聴していた。
俺の歌が上達したかどうかは、正直なところ自分ではよく分からない。ただ、歌詞を一切見ずに最後まで歌えるようになったし、前より大きい声が出るようになったのは確かだ。
「裕ちゃん、まだ?」
もうすぐ! と慌てて返事をし、俺は急いで制服に着替えた。
◆
「今日が始業式だったのに、明後日からテストとかあり得なくね!?」
顔を合わせるなり、智哉が大声でそう主張した。完全に同意だ。夏休み気分が抜けきる前にテストをするなんて狡い。
「ていうか俺、宿題も終わってないし。裕樹は?」
「宿題はちゃんと終わった」
「マジ? 雅人のやつ、写してないよな?」
「理系とは内容が違うだろ」
「あ、それもそうか。じゃあ本当に自分でやったのか!? 裏切者め……!」
「なんだよそれ。俺、元々宿題はやってるから」
宿題は面倒くさいから嫌いだ。でも、怒られるのはもっと面倒くさい。それに結局提出しなければならないのだから、最初から期日を守る方が楽である。
「しかも俺、今回は絶対追試になるなって部活の奴らにもめちゃくちゃ言われてるんだよな」
「追試になったら、部活の時間が減るから?」
「そう! 文化祭前に追試はまずい」
どうしよう、と智哉が頭を抱えた。そんなに慌てるくらいなら、ちゃんと勉強をしておけばよかったのに。
まあ俺もあんまり人のことは言えないけど。
ていうか、追試になるのは俺も困る。金城と文化祭の練習をしなきゃいけないから。
夏休みは個別練習が中心だったけれど、今日からは違う。今後は二人での練習を中心にやっていく予定だ。
「俺も今回はテスト、頑張るわ」
「裕樹がそんなこと言うの珍しいな。一緒に赤点回避、目指そうぜ」
低い目標を掲げ合って、俺たちは拳を交わした。
「裕ちゃん!」
ホームルームが終わった瞬間、雅人が俺の教室に飛び込んできた。右手に持っているプリントはおそらく、先程配布された文化祭ステージ発表プログラムだろう。
そこには俺と金城の名前も書かれている。俺たちの発表は10月3日の木曜日、14時からに決まった。当日もちゃんと確認する時間がとれるし、悪くない時間だと思う。
「なに?」
「いいから、ちょっときて」
強引に腕を掴まれ、そのまま教室から引きずり出される。そして空き教室まで連れていかれた。
「これ、どういうことなの?」
予想通り、雅人は文化祭ステージ発表プログラムが書かれたプリントを俺の顔の前に突き出した。
俺と金城のところには、ちゃんとマーカーが引かれてある。
「パフォーマンス内容は歌とギターってなってるけど、裕ちゃんが歌うんだよね? 裕ちゃん、ギターなんて弾けないし」
「……そうだけど」
「なんで俺になにも教えてくれなかったの? いつの間に金城と仲良くなってたの?」
雅人が俺の両肩を掴む。あまりの力に顔を顰めると、ごめん、と手を離してくれた。
「でも……本当に、ちゃんと説明してよ、裕ちゃん」
俺は今まで、雅人に隠し事をしたことなんてない。親友だから全部言わなきゃ! なんて思っていたわけではなく、ついつい雅人になんでも話してしまうだけだ。
雅人はどんな話をしても、楽しそうに聞いてくれるから。
こいつ、めちゃくちゃ動揺してるな。
「説明って……金城に誘われたんだよ」
「なんで? いつ? 裕ちゃん、夏休みの間に金城と話したの?」
「そう」
雅人にまだ全てを話すつもりはないけれど、嘘もつきたくない。これ以上質問を重ねられたら、うっかり真実を口にしてしまう可能性もある。
「じゃあ、悪いけど俺行くわ。金城と練習の約束してるから」
「裕ちゃん!」
「本番、雅人もちゃんと見にこいよ」
悪いと思いつつ、そのまま空き教室を出ようとした。しかし雅人に再び腕を掴まれてしまったせいで動けない。
雅人と俺では握力の差が10以上ある。抵抗しても無駄だ。
「……裕ちゃん、答えてよ。なんで俺に何も言ってくれなかったの? 俺たち、親友なのに」
親友、と口にした瞬間、雅人の表情が少し曇った気がした。
「もしかして裕ちゃん、俺のこと嫌いになった?」
「違うって」
「じゃあ、なんで?」
「……サプライズだから」
これ以上はさすがに言えない。
「終わったら、ちゃんと全部説明する。だからとりあえず、発表が終わるまで待ってて」
俺の言葉に、雅人はゆっくりと頷いた。絶対に納得していないことは顔を見ればすぐに分かる。
「今日、練習してから帰るけど、雅人はどうする? 先に帰るか?」
「……裕ちゃんはどうしてほしいの」
「図書館ででも待っててくれ。終わったら迎えに行くから」
いつもの逆だ。なにか言われるかもしれないと思ったけれど、雅人はあっさり頷いて俺の腕を離した。
また後で、と手を振って空き教室を後にする。辛そうな顔の雅人を見るのが嫌だったから、振り返らずにそのまま音楽室へ向かった。
◆
「まあそうなりますよね。会長、隠し事とかされるの嫌いそうですし」
俺の話を聞いた金城が、大変でしたね、とねぎらってくれた。
「私も会長と顔を合わせるの怖くなりましたよ。っていうか既にこれです、ほら」
金城がうんざりした表情でスマホの画面を見せてきた。表示されているのはトークアプリで、雅人から30件以上ものメッセージが届いている。
「これ全部、どういうことなんだって質問ですよ。私からは言えませんって言ったのにこれですからね」
「……マジか」
「先輩にしつこく聞いて嫌われたくないけど、私相手にならそんな気は遣わなくていいからでしょう」
金城の言う通りかもしれない。俺のスマホには大量のメッセージなんて届いていないから。
「それにしても会長、馬鹿ですよね。私と一緒にステージ発表するだけでこんな風になるのに、先輩と友達に戻っちゃうなんて」
言葉は少しきついけれど、金城の表情は柔らかかった。
ギターを取り出して、よし、と両手を叩く。
「あんまり会長を待たせても悪いですし、練習始めちゃいましょう」
「ああ」
本番まで、もう半月ちょっとしかない。少しでもクオリティーを上げて、雅人を驚かせてやらないと。
◆
5回ほど実際に歌い終わったところで、音楽室の扉が控えめにノックされた。歌っている最中だったら気づけなかっただろう。
もしかしたら雅人かもしれない。曲を聞かれていたらどうしよう……そう思いながら扉を開けると、そこに立っていたのは佐々木だった。
俺のクラスメートで、金城の想い人である。
「あ、茜ちゃん!?」
駆け寄ってきた金城が俺を押しのけ、佐々木の正面に立った。こんなに瞳を輝かせた金城は見たことがない。
「どうしたの?」
「これ、持ってきた。差し入れね」
佐々木がコンビニの袋を金城に渡すと、ありがとう! と金城が満面の笑みを浮かべた。
俺と話している時と比べると声もかなり高いし、あまりにも好意が分かりやすい。それでも気持ちが伝わってないのは、二人が女子同士だからだろうか。
「穂村の分も入ってるから」
佐々木がそう言った瞬間、金城に睨まれた。ありがとう、と軽く頭を下げて佐々木から距離をとる。
「優里亜のことよろしくね」
手を振って、佐々木はすぐに音楽室を出ていった。元々差し入れを持ってきてくれただけだったのだろう。
金城が受け取ったコンビニの袋を覗き込む。中には二人分のスポーツドリンクとポテトチップスが入っていた。
「休憩するか?」
「言っておきますけど、先輩は私のおまけで茜ちゃんから差し入れをもらえただけですからね」
「分かってるって。そんなに喋ったこともないし」
「それならいいんですけど!」
拗ねたように言いながら、金城がポテトチップスの袋を広げた。
「なあ、金城」
「なんです?」
「お前はなんで、佐々木のことが好きって気づいたんだ? 友情じゃないって確信したきっかけとかあるわけ?」
俺の質問に金城は目を丸くした。こんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。俺は今まで、金城に佐々木の話を聞かなかったから。
休憩がてら、なんとなく尋ねてみただけだ。金城はなにがきっかけで、自分の気持ちが恋だと気づいたのだろう。
「そうですね……」
軽く深呼吸をしてから、金城はゆっくりと話し始めた。
「私と茜ちゃんって年も違うし、すぐ仲良くなったわけじゃないんです。ただなんとなくですけど、漠然とした憧れみたいなものはずっとありました」
「憧れ?」
「はい。茜ちゃんは昔から大人っぽくて美人で、格好良くて。近所では有名な子だったんです」
佐々木は長身でスタイルがいい。ショートヘアの似合う中性的な顔立ちで、女子たちにきゃーきゃー騒がれているところはよく見かける。
でも、女子らしい見た目の金城が佐々木に憧れていたというのは意外だ。
「私って、昔から可愛かったんですよ」
「……は?」
「なんですかその顔。事実を言ってるだけなのに」
はあ、と溜息を吐いて金城が頬を膨らませた。確かに華やかで整った顔立ちをしているが、それにしたってかなりの自信家ぶりだ。
「小学校って私服登校じゃないですか? 私はリボンやレースのついた服ばかりを着ていて、ぶりっ子だってからかわれたりしてたんです。今思えば、可愛い私への妬みでしょうけど」
金城は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。でもたぶん、こんな顔ができるようになったのは最近のことなんだろう。
根拠はないけれど、そんな気がした。
「その時に、茜ちゃんが言ってくれたんです」
「なんて?」
「可愛いって」
はあ、と金城はわざとらしい溜息を吐いた。
「分かります。単純ですよね。可愛いって褒められて嬉しくなっちゃうなんて。でも私、すっごく嬉しくて。それからは周りの目よりも、いかに茜ちゃんに可愛いって言ってもらえるかを考えるようになったんです」
笑いながら金城が長い髪を耳にかける。ほのかに甘い匂いがしたのは、たぶん香水のせいだろう。
「茜ちゃんはどんな髪型が好きかな、とか。茜ちゃんはどんな服が好きかな、とか。私の頭の中は茜ちゃんでいっぱいになっていきました」
金城があまりにも幸せそうで、つい目を逸らしてしまう。だってこの笑顔は、絶対に俺に向けられたものじゃないから。
「分かってるんです。茜ちゃんが最初に私を褒めたのは、私を励ますためだってことくらい。でもその一言で、私の恋は始まったんです。だからですね、穂村先輩」
金城は俺をじっと見つめ、くすっと笑った。
「私は最初から一貫して、ずっと茜ちゃんに恋してるんです。私は茜ちゃんのこと、友達だなんて思ったことないんですよ」
馬鹿だな、俺。
同性同士だから、始まりは友情だったのだろうと決めつけてしまっていた。でもそうじゃない。金城は最初から佐々木に恋をしていたのだ。
雅人はいつ、俺に恋をしたのだろう?
金城に聞けば、答えを知っているかもしれない。でもそれじゃ駄目だ。俺はちゃんと雅人の口から聞きたい。
「恋を知らない先輩に、一つ教えてあげます」
「なんだよ」
「恋って、すごく楽しいですよ」
からかうように笑い、金城は残っていたスポーツドリンクを一気飲みした。
「じゃあ、そろそろ練習再開しましょうか」
「ああ、そうだな」
◆
「ごめん。遅くなった」
「気にしなくていいよ。図書館、結構集中して勉強できるし」
雅人が荷物をまとめるのを待って、一緒に図書館を出た。いつもより校舎内が賑やかなのは、文化祭に向けて文化部の活動が活発だからだ。
ダンス部の智哉はもちろん、新聞部の渉も大忙しらしい。新聞部は文化祭での発表はないものの、文化祭後に文化祭特集号の新聞を発行する。それに向けて、いろんな部活を取材中だそうだ。
「……練習、上手くいった?」
「まあまあ」
「……そう」
こいつ、あからさまに元気ないな。
どうにかしてやりたいけど、本当のことはまだ話せない。
「なあ、雅人。今日どっか寄って帰るか? 雅人の行きたいとこ、付き合うけど」
「……裕ちゃんは優しいね」
「そんなこと、お前にしか言われたことないけどな」
立ち止まって、雅人の顔を覗き込む。雅人が黙ってしまったから、10、9、8……とカウントダウンを始めてみた。
「10秒以内に言わなかったら、俺が行くとこ決めるから。……5、6、4」
「待って!」
いきなりの大声に驚いたのは俺だけじゃない。雅人自身も目を丸くしていた。俺たちは無言のまましばらく見つめって、そして、同時に声を出して笑った。
こんなことで笑えるのも、雅人とだけだ。
「32に行きたい」
「32?」
「うん。期間限定のアイス、美味しそうだったから」
32は有名なアイスクリーム屋だ。学校の近くにはないけれど、家の最寄り駅から徒歩5分くらいのところにある。
「いいじゃん。まだ暑いし。期間限定って何味だっけ?」
「紫芋味」
「紫芋か。秋っぽいな。まだこんなに暑いのに」
正直、紫芋味にはあまり惹かれない。でも久しぶりに32には行きたい気がする。
雅人って昔から、期間限定が好きなんだよな。アイスでもフラペチーノでも、絶対期間限定のやつ頼むし。
「裕ちゃんはどうせいつもの味でしょ。クッキーアンドクリーム」
「……たぶん」
「俺の紫芋、一口分けてあげる」
「ありがと。期間限定のやつって、一口くらい食べてみたいんだよな」
だからといって美味しいかどうか分からないものを自分で買う気にはなれない。
そういう時、期間限定を頼む雅人がいると助かる。
「そう言って裕ちゃん、一口ちょうだいって毎回言うよね」
「あー、確かに言ってるわ、ほぼ毎回」
「ほぼじゃなくて絶対」
まったく、なんて言いながら、雅人が幸せそうに笑ってくれた。
「裕ちゃん起きて。朝だよ」
軽く身体を揺さぶってみても、裕ちゃんは目を開けない。元々寝起きがいいわけではないけれど、ここ最近はさらに酷い。
理由は明白だ。毎日金城とステージ発表の練習をして疲れているから。
「……裕ちゃん」
ちら、と時計を確認する。あと5分くらいなら眠っていても大丈夫だろう。ギリギリの登校になってしまうけれど、今は少しでも裕ちゃんを休ませてあげたい。
最近の裕ちゃん、勉強も頑張ってるんだよね。追試や補講で練習時間が減ると困るから、って。
夏休み明けの定期テストだけでなく、日々の授業で実施される小テストも、最近はいつも合格しているらしい。
元々裕ちゃんは頭がいいから、やる気さえ出せばできるのだ。
でもいつも裕ちゃんは面倒くさがって、滅多にやる気なんて出さない。仕方ないなあ、なんて言いながら裕ちゃんをなんとかやる気にさせるのが俺の役目だった。
勉強を自主的に頑張るようになったのはいいことだ。でも、どうしたって素直に喜べない。
音を立てないように、そっと裕ちゃんに近づく。人差し指で軽く頬をつつくと、少しだけ顔をしかめられた。
裕ちゃんはまだ、金城とステージ発表をすることになった経緯を教えてくれない。金城もだ。
見かけるたびに二人の距離が縮まっている気がしていつもひやひやする。金城に好きな人がいることは分かっているのに。
俺たちが友達に戻って、そろそろ一ヶ月経つ。頑張ってはいるけれど、元に戻れたとは思えない。裕ちゃんだってそうだろう。
それに今だって、裕ちゃんに触れたくて仕方ない。
思い出だけで我慢できる。本気でそう思っていたのに、俺はずいぶんと欲が深い人間だったらしい。
裕ちゃんが俺に黙って金城とステージ発表をすることに決めた。その事実を知っただけで、暴れたくなるほど悔しかった。
この先裕ちゃんが俺以外の誰かを選んだら、俺は本当に気が狂ってしまうかもしれない。
「……雅人」
「裕ちゃん? ……寝言?」
相変わらず裕ちゃんは目を閉じて、気持ちよさそうに眠っている。こんな風に俺が悩んでいることなんて、裕ちゃんは分かってないのかな。
分かっていなくていい。困らせたいわけじゃないから。
そう思うのと同じくらい、この恋心を受け入れてほしいと望んでしまう。
裕ちゃんの優しさに縋ってでも、恋人のままでいればよかったのかな。
裕ちゃんが大好きだから、無理してほしくない。裕ちゃんには幸せになってほしい。でも、俺以外と幸せになんてならないでほしい。
「裕ちゃん」
両手でそっと、裕ちゃんの頬を包む。
「……起きてない、よね?」
鼓動がどんどん速くなっていく。駄目だと分かっているのに自分でもとめられない。
本当にごめん、裕ちゃん。
心の中で何度も謝りながら、裕ちゃんの唇にそっとキスをした。
◆
「どうした雅人。朝から顔色悪いぞ」
教室に到着するなり、渉がそう声をかけてきた。心配してくれるのはありがたいけれど、正直今は放っておいてほしい。
「ちょっと寝不足なだけ」
「そうか? 最近ずっと調子悪そうだし、ちゃんと寝ろよ」
「うん、そうするよ」
自分の席に座り、机に突っ伏す。
思い出すのは、今朝のことばかりだ。
眠っている裕ちゃんにキスをした。
越えちゃいけないはずのラインを、俺は越えてしまった。
本当に最低だ、俺。
時が経つごとに、どんどん罪悪感が増していく。だけどきっと時間を巻き戻せたとしても、俺は裕ちゃんにキスをするだろう。
文化祭で歌ったら、裕ちゃんは歌が上手いってことにみんなが気づくだろうな。
裕ちゃんのことを格好いい、って思う女子も増えるに違いない。もしかしたらその中に、裕ちゃんの未来の彼女がいるかもしれない。
彼女ができたら、裕ちゃんはその子に面倒を見てもらうようになるのかな。それとも彼女の前では、ちょっと格好つけたりするんだろうか。
見たい映画が公開された時、最初にその子を誘うのかもしれない。面白い本を買った時、最初にその子に貸してあげるのかもしれない。
無理だ。そんなの、絶対に受け入れられない。裕ちゃんの一番が俺じゃないなんて耐えられない。
本人が気づいていないだろうけれど、裕ちゃんは普通の人よりもパーソナルスペースが広い。でも、俺相手にだけは違う。
俺にだけ懐いてくれる裕ちゃんが可愛くて仕方なくて、どんどん裕ちゃんの世話を焼くようになった。
マイペースなのに、俺のペースには合わせようとしてくれる。いつだって裕ちゃんは、当たり前のように俺を特別扱いしてくれる。
だけどそれが恋じゃないことが、どうしようもなく切ない。
裕ちゃんへの恋心が消えたら楽になれるのだろうか。
でもそんなの、絶対に無理だとも分かっている。
こんなに大きな気持ちが消えるはずがないのだから。
「……どうしたらいいんだろ、俺」