「綾殿、よろしいですか?」
「はい」
部屋で裁縫をしていた綾子に、外から声がかかる。
「こちらを教えていただきたいのですが」
「わかりました」
父の医学書は、弟子たちの間で順番に回されている。今日は伊藤の番らしい。
「ここは何と?」
父の外国語のような文字の読み方を教えてあげる。これくらいなら、綾子から教わってもいいらしい。
医術の専門的な知識と違って、これに医術の知識は必要ない、という認識なのだろう。
実際は父が使っていた専門用語がたくさん詰め込まれているのだが。綾子は字の読み方を教えてあげて、その詳しい意味は弦太郎が教える。
「あ、俊兄さま」
そこへ、露子が顔を出した。
「またお勉強?」
「そうだよ、お露ちゃん」
「じゃあ露も一緒にお勉強しよう」
最初は嫌がっていた弟子たちとも親しくなり、遊んでもらうこともあるため、すっかり打ち解けている。
「露は文字の読み書きを覚えるところからですよ」
「……俊兄さま、姉さまがいじわるする」
「あ、あはは……」
伊藤が困ったように笑いながら、
「お露ちゃんは、薬の知識は入っているのに、文字の読み書きは苦手なんだね」
とすり寄ってきた露子の頭を撫でる。
「だってつまんないんだもん」
それを心地よさそうに受け入れながら、露子は唇を尖らせた。
「そんなことないよ。文字が読めるというのも、医術には必要なんだ」
「もう! そんなの、兄さまや姉さまからずっと言われてるの! 俊兄さままで同じこと言わないで!」
「露、待ちなさい」
綾子が止めるのも聞かず、露子は不機嫌そうに去っていった。
また兄や弟子たちに慰めてもらうのだろう。
「すみません、伊藤様。いつになったら成長するのか」
「いえいえ、いいんですよ。あれがお露ちゃんのよさですから」
伊藤は楽しそうに笑った。
「綾殿は、貴族のご令嬢のような話し方をされますね」
「え?」
突然のことだった。
「それに、所作も綺麗で。どこかで教わったのですか?」
片田舎の里に、そんな貴族の礼儀作法を教わるところなんてない。
「……母が礼儀作法には厳しかったので。そのせいでしょう」
これは事実。話し方や言葉遣い、歩き方まで、厳しく言われていた。
母は美しい人だった。容姿からその言動にいたる全てが。だからそんな母に憧れて、綾子が「教えて」と言い出した。
「お母君は、貴族の礼儀作法に通じている方だったのですか?」
伊藤からの問いにハッとした。
「……わかりません。わたしたちが生まれた頃には、里の産婆をしていましたから」
母の出自も答えられない。というより、父と同じく、知らない、というのが正しい。
「綾殿もお露ちゃんも、名前に子がついていますよね」
「はい」
「この国の貴族の女性は、名前に子をつけるらしいですよ」
確かに、市井ではそれほどよくある名前ではなかった。母は「綾子」「露子」と呼んでいたが、それも家の中だけ。外では子を外して呼ばれていた。
その違和感の理由は、こんなところにあったのか。
「それに、弦太郎殿も。平民が太郎、次郎と名付けることはありますが、漢字一字をつけて太郎や次郎と名付けるのは、貴族に多いとされています」
確かに兄の名前も、母は場所によって「弦」と「弦太郎」と呼び分けていたと思う。
「きっとご両親は、貴族のようにおしとやかに育ってほしいと名付けられたんですね。綾殿は、ご両親の願いを体現していると思いますよ」
嬉しかった。しかし、同時にわからなかった。
どうして母は、貴族の世界に通じていたのだろう。
「弦太郎殿の煮付けは美味しいですね」
「本当に。医術の技術と関係あるのでしょうか」
「あはは、ありませんよ」
穏やかな昼下がり。兄妹と弟子5人が揃って、少し遅めの昼食を食べていた頃だった。
「でも思えば、料理は父の方が上手だったな」
「そうですね。父様は母様に、台所に立つなと仰っておいででした」
家事が苦手な母と、反対に得意だった父。やっぱりこの国には似合わない。
遠い異国だという父の出身地では、男性が家事をするのが一般的だったのだろうか。
「やっぱり医術の腕が……」
「こ、これから料理の勉強もします……」
冗談交じりにそんなことを言いだす弟子たちと笑いあう。
「岩木様」
箸が進んでいない弟子に、綾子が声をかける。
「お口にあいませんか?」
「……いや」
「あぁ、気にしないでください。こいつ、前から何考えてるかわからないやつで」
伊藤がそんなことを言いだした。
「……そうですか。食欲がないのは疲れもあるかと思いますので、疲れが取れる薬をお作りしようかと」
「いやいや、大丈夫ですよ」
なぜ伊藤が答えるのだろう。仲がいいのだろか。
口を開こうともしない彼が、綾子は不思議だった。
ドンドン
「先生! 先生!」
荒々しく扉を叩く音。
「患者でしょうか」
すぐに伊藤が出ていく。弦太郎と綾子も立ち上がり、弟子たちとともに玄関に出た。
「先生! たすけてください!」
男性が老婆を背中に抱えていた。老婆の顔色が悪い。
「寝かせてください」
すぐに弦太郎が畳の上をあける。青い唇。がくがくと震える手。意識もない。
綾子はパッと走り出していた。
「姉さま!」
一歩遅れて座敷から飛び出してきた露子に、
「手伝って」
と告げて連れていく。
「これを持って。先に行っていなさい」
「はい」
露子に消毒用の酒瓶を持たせて先に行かせ、綾子は必要な器具を選ぶ。
小刀に管、そして固定する道具も。着替える余裕はきっとない。手術着の割烹着は置いて、また玄関に走る。
「兄上」
「綾、気管切開だ」
「はい」
すぐに持ってきた小刀を渡した。真面目な顔の弦太郎が、指先で老婆の喉元を触りながら、そっと刃を入れる。
喉に刃を入れるというありえない治療法にもかかわらず、弟子たちは誰も驚かなかった。
これまでの実績と信頼関係のおかげか。
喉から窒息の原因を取り除き、管を入れる。それを紐でのど元に固定した。
「もう大丈夫」
「ほ、本当ですか!?」
「この管から呼吸していますし、じきに意識も戻るかと。明日には喉の傷も閉じられると思うので、今日はこのまま泊まっていってください。その方が夜の状況も見られていい」
「わ、わかりました」
男性は明らかに安堵した。
「この方は、あなたのお母さんですか?」
「あ、はい。そうです」
弦太郎の問いに、男性が答える。
「食事中に喉を詰まらせたようです。何を食べていたかわかりますか?」
「あ、あぁ……腹が減ったっていって、餅を……」
詰まらせたのは餅だったのか、と綾子は納得した。それは詰まるはずだ。
「喉の筋力が衰えた高齢の方には、餅は少し危ないですね。今日のように詰まらせることもあるので、できるだけ避けるか、食べる時は小さく切って焼いてください。高齢者が食べやすいものをまとめておくので、明日お渡ししますね」
「は、はぁ……」
男性はよくわかっていなそうにうなずいた。