「では、この薬は青カビから作るのですか!?」
「はい。私も父に初めて教えてもらった時は驚きましたよ」
座敷から聞こえるにぎやかな声に、綾子は呆れの溜息をこぼす。そして、勢いよく襖を開けた。
「……何をしているのですか」
薬液が入った酒瓶を手に持っていた弦太郎に、その膝に座って楽しそうな露子。弟子5人は、筆と紙を手に弦太郎の話を聞いているらしい。
「時間があるから、薬について説明していたんだ」
「医術師が患者を待ってどうするのですか。患者を探すのが医術師でしょう。往診にでも行ってください。患者はそこら中にいますよ」
「いや、でも、綾。私たちの医術はかなり特殊だ。一度全て覚えてもらったほうが」
「百聞は一見に如かずといいます。実際に医術を行う場を見て、詳しい解説は往診ができない夜にすればいいのです。さ、早く外に」
「姉さまは厳しすぎます! みんな、早く行きましょう。姉さまがうるさくなります!」
一瞬で仲良くなった弟子たちを連れて、露子が出て行く。座敷には綾子と弦太郎だけになった。
「綾は行かないのか?」
「ここを留守にはできませんから」
「そうだね。じゃあ、留守を頼んだよ」
「いっていらっしゃいませ」
綾子はその場で頭を下げて兄を見送った。
弦太郎たちが周囲の民家を回ったことで、都の医術所から医術師が来ていると噂になった。
医術師と縁遠かった人たちが、ちょうどいい機会だから診てもらおうと、診療所に集う。
おかげで診療所は大盛況だった。
「やっぱり、都の人は経済的に余裕がある人が多そうですね」
「そうだろうね。健康状態もかなりいい」
機嫌のいい綾子に答えながら、弦太郎もホッとする。これでしばらくは、心配そうな妹を見ることはなさそうだ。
故郷では、栄養状態も悪く、医術師にかかるお金もないため体調が悪いのをギリギリまで我慢する人も珍しくはなかった。
少なくともここのように、近くに来ているならかかってみるか、なんて軽い気持ちで医術師にかかる人はいなかった。
それを考えると、本当にここは、医術への関わり方が違う。
「弦太郎殿、今日の治療で質問が」
「あぁ、はい。あちらに行きましょうか」
そこに、弟子が弦太郎を呼びにきた。部屋に残された綾子は、勘定を見ながらふっと微笑んだ。
この広い診療所といい、この数日の収入といい、父が診療所を営んでいた時よりも裕福になった気分だ。
勉強熱心な弟子もいて、最初は弟子である医術所の医術師目当てに来ていた患者からも信頼されて。これ以上の環境はない。
「姉さま、ニヤニヤして気持ち悪い」
「露……っ」
襖の隙間から覗いていた妹に、綾子はぎょっと勘定を閉じた。
「いいことがあったのですか?」
「そうですね。悪くはないことです」
「ふふ」
それを聞いて、露子はくすぐったそうに笑う。
「子どもはもう寝る時間ですよ。早く寝なさい」
「姉さまはまだ寝ないのですか?」
どうやら綾子と一緒に寝たいらしい。
「もう寝ますから」
薬を使わずに寝られるなら、それにこしたことはない。
「布団に入りなさい」
露子が嬉しそうに布団に入り込む。綾子もその隣に横になり、妹のお腹の辺りに手を置く。
父や母は、こうして綾子を寝かしつけてくれた。綾子はその真似をしているだけ。
父に同じように寝かしつけられた露子は、よく姉や兄にもねだった。
「姉さま」
「なんですか?」
「……なんでもないです。ふふ」
「早く寝なさい」
旅をしている時には、かなり我慢させていたと思う。
父の死から立ち直る時、露子はかなりわがままになった。その反動だったのかもしれない。
そして今、父が生きていた頃と同じように、明るく自由になった。
このまま落ち着くのか。それとも、また両親を恋しがることになるのか。
兄は時の流れに任せるつもりのようだし、綾子も無理をさせようとは思っていない。
そのためにも、都の医術師たちに技術を教え、医術道具を購入して、里に帰らなければいけない。
妹の静かな寝息を聞きながら、綾子もいつの間にか眠りについていた。
「弦太郎殿、今の患者は……」
日中の診察の時間。多くの患者が訪れる隙間でも、弟子たちはどん欲に知識を吸収しようとする。
綾子と露子は診察の手伝いをしながら、その様子を見ていた。
綾子もそれなりに医術の知識はあるが、勉強中の彼らの心情を考えると、女で年若い綾子よりは、若いが男である弦太郎に教わる方が、きっと抵抗も少ない。そう思って、あまり口出しはしなかった。
「道具の消毒をしてきます」
露子が使用済みの道具を持って出て行く。
「綾、次の方を呼んで」
「はい」
兄に言われ、綾子は襖を開けた。
「そちらのお子さんを抱っこされてる方、どうぞ」
「あ、はい」
初めて見る女性だった。おそらく、まだ診療所に来たことはない。
そして、心配そうな、不安そうな表情。体調が悪いのは、彼女が連れている息子か。
「よく来てくれましたね。座ってください」
弦太郎が穏やかな笑顔で出迎える。その周りにさらに5人もの男たちがいるのだから、まず警戒するだろう。
「具合が悪いのは君かな」
「うん」
弦太郎が視線を向けた男の子が、コクンと頷いた。
「お名前は?」
「史郎」
「史郎くん、どんな感じで具合が悪いか、説明できる?」
「えっと、お腹の中がもぞもぞして、吐きそうになるんだ」
子どもの語彙力では限界があるか。これだけではわからない。
「お母さんから見て、どういう状態ですか?」
「え、えぇ……。何日か前に、気持ち悪いって言い出して。前から時々あったんです。食べたものを吐く、みたいな感じで。何日か続いてすぐ治ったかと思ったら、また繰り返して。それで、ちょうど腕のいい医術師さんがいるってご近所さんに聞いて」
母親の説明も途切れ途切れでわかりやすい。しかし、仕方がない。
医術師が望む情報をその場で説明できる患者なんて、珍しいくらいだ。
弦太郎が上手に情報を引き出していく。その様子を、弟子たちは紙に記しながら聞いている。
「……うん」
ようやく弦太郎が診断を決めた。
「周期性嘔吐症という病気かもしれません。今日は点滴をして、様子を見ましょう。それで改善しなければ、またいらしてください。綾、頼むよ」
「はい。こちらへどうぞ」
病名を聞けば、どんな処置が必要かはわかる。
綾子はすぐに隣の部屋へ通し、
「横になってください。薬の準備をします」
「あ、あの、何を……」
「腕に針を刺して、体内に薬を流します」
鍼灸はこの国でも有名な治療法。だから針を刺すということに抵抗を示す患者は少ない。だから綾子はそのまま説明した。女性は息子を寝かせた。
「腕に針を刺します。少し痛いですが、動かないでくださいね」
「うん」
男の子はこくんとひとつ頷き、黙って針を受け入れる。
「この中の薬が少なくなったら教えてください」
「は、はい」
点滴につなぎ、そう言って、綾子は隣の部屋に戻った。
「鼻血ですね」
次の患者の診察が行われていた。
医療道具の消毒から戻ってきていた露子が、冷水に浸した布を弦太郎に渡し、弦太郎がそれで患者の鼻の付け根を抑える。
「こうしていたら止まると思います」
「ありがとうございます」
男性はそう言って出て行った。
「今のはどうして鼻の付け根を押さえたんですか? 鼻を直接閉じた方がいいのでは?」
次の患者を呼ぶまでの一瞬で、伊藤が口を開く。
「もちろんそれでも止まりますが、鼻の付け根にある血管を冷やすことで細くすることができるんです。そうやって止めた方が、早く止まります」
「なるほど……。では、冷やした布というのが鍵ですね」
「そうですね」
穏やかな午後だった。