公爵が暴漢に襲われた。多くの医術師が集まる場。しかし、その誰も対応が思いつかない。

 「楠本殿ならば」

 その中で、杉田が弦太郎を呼んだ。

 「残念ですが」

 が、兄は断った。たった少し見ただけなのに。綾子がハッと駆け寄る。

 懐刀はそれほど深くない。体の構造からみて、刺さっているのはおそらく脾臓。

 「兄上」

 やれる。綾子はそう思った。

 「無理だ」

 が、兄は首を振る。

 「父様の医学書に書いてあった方法を使えば、公爵様を救える可能性があります」

 「道具がない」

 「医術の道具でしたら、お貸ししますよ。持ち込んでいるので」

 医術所の滝川が言い添える。

 「ですが……」

 それでも兄は戸惑っていた。気持ちはわかる。やったことのない手術。それも大がかりだ。

 「……うた、こ……」

 公爵のかすれた声が聞こえた。

 「……うたこ……きたのか……」

 伸ばされた手を、綾子がしっかり握る。

 「……わかりました」

 綾子が口を開いた。

 「兄上がやらないなら、私がやります」

 「綾!」

 綾子の言葉を、弦太郎は慌てて止める。そんな兄を、綾子は睨んだ。

 「助けられる命が目の前にあるんです。医術師として最善を尽くすのは、当たり前でしょう」

 真っ直ぐな目。命を救うことを当たり前としている。

 「……わかった」

 綾子の気持ちが伝わったように、弦太郎が頷いた。

 「まずは場所を」

 「杉田先生」

 兄の言葉に、綾子がすぐに立ち上がる。

 「皇帝陛下にお部屋をお借りできないか伺っていただけませんか」

 「はい、もちろん」

 杉田がそれを聞いて去っていく。

 「道具を取ってこさせます」

 滝川が弟子に指示を出す。

 「あと、2人では足りない。せめてもう1人」

 「岩木様」

 そこで綾子が呼んだのは岩木だった。

 「お手伝いをお願いできますか」

 「はい」

 彼はすぐに頷いた。

 「部屋を手配できました」

 杉田が戻ってくる。

 「伊藤様、竹田様、患者様をお運びしてください。創部に触れないように、慎重に」

 「は、はい!」

 弟子たちに任せ、綾子は周囲を見る。それを見て、露子が駆け寄ってきた。

 「露、やれますか?」

 即座に尋ねる。

 「はい」

 露子もすぐに頷いた。

 「では、参りましょう」

 「あ、あの……」

 そこに駆け寄ってきたのは公爵夫人だった。

 「夫は……どうなるのかしら……」

 不安だろう。高齢とはいえ、こんなことで命を落とすなんて、あってはならない。

 「ご安心ください。必ず助けます」

 「え、えぇ……。お願い……お願いしますね」

 震える手を握り、綾子は勇気づけた。



 「楠本殿、いったいどのような医術を?」

 杉田が聞いてくる。

 「脾臓(ひぞう)摘出(てきしゅつ)します」

 それに対し、弦太郎は端的に答えた。

 「脾臓は血管が多く通っている臓器なので止血はできませんよね。かといって、摘出となると」

 やはり杉田もかなりの医学知識を持っている。人体で深い位置にある脾臓まで知っているとは。きっと、傷が脾臓にまで達していることも、察していたのだろう。

 「脾臓の働きは、肝臓が補ってくれます。摘出しても人体に問題はありません」

 「しかし、かなり高度な技術が必要になるのでは?」

 その通りだ。人体の奥深くに位置する脾臓を探り当てるのも大変。

 「やれます」

 それには綾子が答えた。

 「兄上は、父様の医学書を何度も読んでいらっしゃいました。想像できているはずです」

 「想像だけですか?」

 杉田の言いたいことはわかる。医術の世界は、想像だけでは上手くいかない。

 「父の元で解剖にも立ち会ったことがあります。が、ここまで大がかりな手術は初めてです」

 不安そうな兄に、綾子はさらに語気を強める。

 「何もしなければ公爵様は死にます。しかし、手術をすれば救える可能性があります。わずかな可能性を信じて医術を行うことも必要かと」

 「……確かに、綾子殿の言う通りですな」

 これには杉田も納得した。

 「麻酔が効きました」

 露子が兄と姉を呼んだ。2人は患者を挟むように立ち、弦太郎が綾子を見る。

 「失敗は許されないよ」

 「わかっています」

 「患者は大貴族だ。もし失敗すれば首が飛ぶかもしれない」

 「大丈夫。失敗なんてありえません」

 弱気な兄の言葉に、綾子は強く返していく。

 「大貴族でも農民でも、患者は患者です。いつもと変わりありません」

 「……そうだね」

 患者に貴賤の身分は関係ない。その言葉に、ようやく兄が頷いた。

 すっと瞼を閉じ、はぁっと深く息を吐きだす。そして、ゆっくり目を開けた時。

 そこにはもう、弱々しい姿はなかった。

 「脾臓摘出術を始めます」



 手術の様子を、医術師たちは静かに見守った。その中で、弦太郎も、綾子も、落ち着いて手を動かした。

 岩木の手も借りながら、3人で素早く処置を施していく。それは、まさに圧倒的だった。

 多くの医術師が、呼吸も忘れてその様子を見守った。



 「終わりました」

 プツン、と糸を切る。その瞬間、綾子は張りつめていた息を吐いた。

 綾子がそっと兄を見れば、兄の方も柔らかく微笑む。終わったのだ。

 「お、終わった……?」

 「結果は……?」

 医術師たちがおそるおそる口にする。

 「麻酔が切れたら目を覚ますと思います。経過を見る必要はありますが、この時点では成功です」

 「おぉ……」

 小さな歓声があがった。

 「傷口を見てもいいですか?」

 「消毒してください!」

 露子がお酒の瓶を持つ。わっと医術師たちが集まった。

 「兄上、お疲れさまでした」

 綾子が兄に歩み寄る。

 「綾のおかげだよ。綾がいなければ、この方は救えなかった」

 「医術師として当然のことをしたまでです」

 綾子の言葉に、弦太郎はふっと笑い、妹の頭を撫でる。

 「兄さま、姉さま、お疲れさまでした」

 露子が嬉しそうに駆け寄ってくる。兄妹は3人で微笑んだ。