「姉さま……」
輿から降りた露子が、不安そうにすり寄ってくる。
「大丈夫ですよ」
一応二度目の綾子が、妹を励ます。
「行こうか」
弦太郎が妹たちに笑顔を向け、一歩踏み出した。
数日前。診療所に届いたのは、公爵家からの招待状だった。綾子と兄、そして妹の3人で公爵家に来るように、と。
といっても、内容は予防接種の依頼。公爵家が呼んだ人々に注射をしてほしいらしい。
医術院を通してこなかったことに違和感を覚えたが、医術師は患者を断ることはできない。
弦太郎の判断で念のため医術院に話を通すと、杉田をはじめ数人の医術師が同行することになった。公爵家には医術院から話をしてくれるらしい。
3人だけで行くよりはその方がいいと、弦太郎はそれを受け入れた。
そして、ようやくその日。医術院の一行は先に公爵家に着くということで、一足遅れて到着した。
公爵家の綺麗に手入れが行き届いた庭を抜け、侍女に案内されて応接間に入る。
「楠本殿」
「遅くなりまして申し訳ございません」
そこで待っていた医術院の医術師たちと合流した。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
「いや。月見里公爵家が声をかけた他の貴族家の方々もいらっしゃるそうです。お2人だけでは大変でしたでしょうから」
「そうなんですか……。本当に助かります」
2人だけでも平気だと言えればいいのに。兄には言えないだろう。
「露子、準備をしますよ」
「はい」
緊張している妹を気遣い、落ち着くようにいつもの日常を作ってあげる。
道具箱を開くと、
「ほぉ……」
「いや、すごいですな」
他の医術師たちが集まってきた。
「注射器だけでもこの数が……」
「普段は診療所に置いていますが、どれくらい接種するかわかりませんでしたので、用意できるだけの注射器を持ってきました」
ずらりと並んだ注射器は、確かに壮観だ。それも、注射器を見慣れていない者ならなおさら。
「薬はその場で入れるのですよね。同じ注射器を使っては?」
「菌というのは、人の体にもいます。特に血液にはたくさんの菌がついています。同じ針を使うことで、人から人へ、血液中の悪い菌をうつしてしまう可能性があります」
予防接種には否定的と聞いていたが、不思議とそんな印象は受けない。全員が予防接種を否定していたというわけではないのか。
「露、任せます」
「あ、はい」
露子に任せ、綾子はその場を離れる。そして、杉田と話す兄の元へ向かった。
「兄上、これだけの人数がいれば、私は助手に回れます。露はここに残しましょうか」
「んー、私としては、綾に先頭にいてほしいんだけど」
「ここにいる者たちは、楠本殿の医術に関心を寄せている者たちにございます。よければ、綾子殿も含めて、楠本殿の医術を見せてやってくれませんか」
頑固そうな杉田がここまで言うのか。
「かしこまりました」
綾子は静かに引き受けた。
「綾、落ち着いてね」
「私は大丈夫です。露に言ってあげてください」
「そうだね。杉田先生、少し外します」
弦太郎が杉田には頭を下げて去っていく。残された綾子は、杉田を見た。
「医術院の方々は、予防接種には否定的だと聞いていました」
「まぁ、そういう者もいます」
杉田はためらわずに告げる。
「ここにはいないのですか?」
「楠本殿が招待されているのに、楠本殿をたてられない者など、この場にふさわしくありませんから」
なるほど、と思った。彼なりの信条で動いていたらしい。
「杉田先生は、予防接種を受け入れてくださっているのですか?」
「効果はあると思っています」
効果を信じてくれているなら、予防接種の必要性も理解してくれている。
「ただ、古きを重んじる者はどこに行ってもいます。古くから伝わる医術など、その最たる例でしょう」
「古くから伝わる医術ほど偉いと?」
「あくまでそういう考えの者もいるということです」
綾子たちにとって、父から教わる医術が当たり前だった。
しかし、この国で、央ノ都で、医術師を目指して勉強した者たちにとって、自分たちが学んだものが嘘であってはいけない。そういう思いもあるのだろう。
「よりよい医術を追い求める者こそ、医術師としてふさわしいと思います」
杉田ははっきりとそう言った。つまり、ここにいる医術師たちに未来を託したいということだ。
「綾子殿のように、医術師としての矜持を持ち、しっかりと行動にうつせる者に、大成してほしいものです」
たくさんの弟子を抱える杉田ならではの言葉に、綾子はふっと笑う。
「ご苦労なさると思いますよ」
やがて、一行は呼ばれた。
大広間にはたくさんの貴族たちが集まっていた。
「予防接種についてご説明いたします」
まず説明をするのは弦太郎。そばに杉田がいてくれるため、不信感をあらわにする貴族はいない。
効果や必要性の説明が終われば、順に接種が始まる。
「女の医術師もいますので、気になる方はこちらへお並びください」
医術院の医術師たちが丁寧に誘導してくれるおかげで、集まっていた貴族のご婦人たちを中心に、綾子の前に列ができる。
「露」
「はい、姉さま」
差し出した手に、注射器がのせられる。
几帳で囲われた場所に、男性は入らない。貴族女性への配慮がよくできていると思った。
「腕はいいの?」
貴族女性であってもあからさまにそう聞いてくる人はいたが、
「前線で治療にあたった経験はございます」
毅然とした態度でそう告げれば、問題はない。初めてのことに不安を覚えるのは、当たり前なのだから。
「少し痛みます」
説明はもう済ませている。あとは淡々と腕に注射していくだけ。
「子どもにも打った方がいいと聞いたのだけれど」
「はい、大丈夫ですよ」
次の女性はかわいらしい女の子を連れてきた。
「ただ痛みがあります。暴れると危険ですので、少し押さえさせていただきます」
「えぇ、わかったわ」
了承を取り、露子に指示を出す。
「わあああぁぁぁ……っ」
注射を終えて当然のように泣く子どもに、
「大丈夫なの? この子、普段はあんまり泣かないのよ」
と母親は不安そう。
「突然のことに驚いているだけなので。ご不安であれば、お部屋で少しお待ちください。何かあればすぐに対応いたします。半刻ほど待っても何も起きなければ、お帰りいただいて大丈夫です」
几帳から出す時に、
「少し待たれるそうです。よく見ていてください」
と外の医術師に言い渡す。これで十分だ。
全ての接種を終え、綾子は兄と妹とともに呼ばれた。
「よくやってくれましたね」
公爵夫人が明るい声で礼を述べる。
「貴重な経験をさせていただき、感謝申し上げます」
弦太郎は深々と頭を下げながらそれに答える。
「ふん。たかが医術師が」
その時、冷たい声がした。公爵夫人の隣に座る大男からだとわかる。
「あなた……」
「女子どもの分際で医術などに関わりよって。嫁の貰い手もないな」
公爵だ。厳しく冷たい声に、公爵夫人が弱くたしなめる。
「おそれながら」
兄の反論は期待できない。そこで、綾子が口を開いた。
「女子供でも、医術を極めることはできます。私たちの両親が、それを証明してくれました」
「ろくでもない親なのだろう。このようなじゃじゃ馬が育つのだからな」
ダメだ。相手は大貴族。ここで口喧嘩はできない。兄や妹に迷惑をかけてしまう。
でも。妹には聞かせたくない。女が医術師になってはいけない、家に入って家を守るなんてことは、未来ある妹には知ってほしくなかった。
「父は医術の知識と技術を、母は礼儀作法を教えてくれました。両親のおかげで生きているのだと思います」
「……ふん」
公爵は不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋を出て行った。
「ごめんなさいね。今日はよくやってくれました。また頼むわね」
公爵夫人もそう言い残し、慌てて夫の後を追った。
帰り道は3人で並んで歩く。静かだった。
「旅を思い出しますね」
口を開かない兄に、綾子の方から話しかけてみる。
「綾」
ようやく弦太郎が口を開く。
「……気づいていたね?」
「……」
兄の言いたいことはわかっていた。
「……申し訳ございません」
だから素直に謝った。
「謝ることじゃないよ。綾が悪いわけじゃない」
「でも、黙っていたことは叱るのでしょう?」
「それはね。綾だけ知っているなんて、ずるいじゃないか」
兄から「ずるい」なんて言葉が聞けるとは。
「母上、だろうね」
公爵夫人は母に似ていた。そして、綾子たち兄妹を呼び寄せた理由も、会ってみればわかる。
「どうしますか?」
「どうって?」
綾子の問いに、兄は穏やかに笑ってみせる。
「あちらが気づいているのかいないのか、こちらに知る術はない。何も変わらないだろう?」
「……そうですね」
気づいているのは、母の顔を覚えている、弦太郎と綾子だけ。
少し先で小石を蹴りながら歩く露子は、思いもしないだろう。母が貴族のお姫様で、自分たちも貴族の血を受け継いでいるかもしれない、なんて。
それでいい。露子にまでこんな苦い思いはさせたくない。母はもういないのだから。
「おかえりなさい!」
診療所では弟子たちが明るく出迎えてくれた。
「お疲れでしょう。夕飯できていますよ」
「ありがとうございます、牧野様」
料理の腕が医術の上達に通じているなどといって、みんなで争いながら準備してくれたのだろう。
「着替えてまいります」
綾子はそう告げて部屋に戻った。
その日の夜、縁側に出ていた綾子は、
「岩木様」
近づいてきた人物に目を向ける。
「まだ起きていらっしゃるのですか?」
「綾子さんもでしょう」
確かに、こんな時間まで、というほどの時間でもない。
「眠れないのですか?」
「いえ。ただ少し、星を見たくて」
そう言って、綾子は空を見上げる。
「星と話しているようですね」
「……そうかもしれません」
父と、母と、そして過去に亡くした患者たちと。聞きたいことはある。『医術師として上手くやれていますか?』と。
彼らが認めてくれる医術師になれているのか、医術師に見えているのか。そう聞きたかった。
特に今は、母と話したい。貴族の血を引く母が、なぜあんな田舎にいたのか。苦しい生活をしていたのか。
父は医術師で、母は産婆。不幸ではなかったが、決して裕福ではない暮らしだった。
『綾子、おいで』
目を閉じれば、優しい母の声が聞こえてきそうで。
今日は疲れていると思う。
「もう休みます。岩木様も、お酒はほどほどにして早くお休みください」
「そうします」
綾子はそっと部屋に入った。
「……兄上」
いつの間にか兄が部屋に入っていた。そして、露子は布団で穏やかに寝息を立てている。
「今日は興奮しているみたいだったからね。眠れないかなって薬を持ってきたんだ」
「必要ありません」
綾子はそう答えて布団のそばに座る。妹が冷えないように布団をかけてあげて。あどけない寝顔を見つめた。
「最近よく眠れているみたいだね」
「はい。特別何かあったわけでもないのに」
「眠れるのはいいことだ。じゃあ、早く休みなさい」
「兄上も」
綾子が布団に入るのを見て、兄がゆっくり立ち上がる。
「……ねえ、さ……?」
話し声が聞こえたのだろうか。露子が眠そうに目を擦る。
「大丈夫です。おやすみなさい」
「……ん……んー……」
綾子の方に寝返りをうち、着物の袖をきゅっと握る。そんな妹の頭を撫でて、綾子は隣に横になった。
「おやすみなさいませ、兄上」
「うん、おやすみ」
弦太郎は2人の妹の頭をそれぞれ撫でて、部屋から出て行く。
妹の温もりをそばで感じながら、綾子はそっと目を閉じた。
その日の夢は、家族5人で楽しくおしゃべりする様子だった。
「楠本殿」
滝川が歩み寄ってくる。
「滝川先生」
弦太郎がそれに答えて微笑みを向ける。
「楽しんでいますかな」
「はい、それはもう。皇帝陛下のおはからいで、このような貴重な経験をさせていただいているので」
ひとつきになるだろうか。宮殿から医術院を通して招待状が届けられた。
疫病の功労者である医術師たちを集めて、皇帝が宴を開いてくれるという。それも、他国の文化である立食式という珍しい形式での宴会だった。
当然一医術師である者たちに断る術なんてない。大勢の医術師たちが、強制参加させられている。
綾子たちの診療所も漏れず、今日は診療所を空けて全員で来ていた。この会には露子も招待されていたから。
「姉さま」
露子が嬉しそうに近づいてくる。伊藤たちと一緒に食事を取りに行っていたが、お菓子ばかりを持って戻ってきた。
「露、ご飯はどうしたのですか。全部おやつですよ」
「どれを食べてもいいって俊兄さまが言いました」
「……もう。今日だけですからね」
「やった!」
「落とさないように食べなさい」
立って食べるなんて行儀が悪いが、ここはそれが常識らしい。貴族の常識なんて知らないから合わせておく。
「綾も取ってきていいんだよ」
「大丈夫です」
綾子の手には、他国から輸入したという赤いお酒が。これがいい酸味と甘みがあっておいしい。
「俊兄さま、これ食べたら、また取りに行ってもいいんですか?」
「いくらでも食べていいんだよ」
「わぁ……!」
「露、はしたないですよ」
医術院や医術所、そして都の診療所から、たくさんの医術師たちが集まっている。滝川や杉田の紹介で、弦太郎はいろんな人に挨拶して回っている。忙しそうだ。
「伊藤様、露子の面倒を任せてしまって申し訳ございません」
「いやいや、大丈夫ですよ。弦太郎殿や綾殿はお忙しいでしょうから」
伊藤だって医術師だ。子どもの相手よりも、他の医術師と交流したいに違いない。
「私が見ていますから、伊藤様も自由になさってください」
「やだ。露は俊兄さまがいいです」
「露」
再びにらみ合う姉妹に、
「まぁまぁ」
と伊藤が間に入る。
「お露ちゃんはいい子ですし、さっきも知り合いに話しかけられた時に、そばで待っていてくれたんです。だから、大丈夫ですよ」
露子ひとりで歩き回ることはないのか。そうやって周りを見る力はつけさせている。医術にも不可欠だからだ。
「そういうことなら……。すみませんが、よろしくお願いいたします」
「はい、お任せください」
「露、いい子にしなさいね」
「はいっ」
伊藤にはよく懐いているせいか、露子は嬉しそうに返事をした。
「俊兄さま、これおいしいです!」
「よかったね、お露ちゃん」
露子のそばから離れず、兄の方を見てみる。また違う医術師が来ている。まるで有名人だ。
自分もそこに行きたかった。そんな思いが出てくる。兄の隣で、医術師の1人として紹介されたかった。そんな、子どものような主張。
しかし、ここは医術師たちだけではない。多くの貴族も集まる場。思うようにいかないのは仕方がない。
「中村伯爵様がいらっしゃいました!」
号令が聞こえ、襖から入ってくる人々。その中に桜子の姿を見つけた。挨拶に行った方がいいのだろうか。それとも、彼女の交友関係の方が優先か。
少し迷っていると、桜子がきょろきょろと周りを見て、綾子を見つけた瞬間嬉しそうに駆け寄ってきた。
「綾子!」
「お久しぶりです、お嬢様」
露子から離れ、彼女に挨拶をする。
「よかった。今日は綾子に会えると思って、楽しみにしていたの」
「光栄です」
「綾子がいるから、今日の宴は安心ね」
おどけてみせる桜子に、綾子は微笑む。顔色もいいし、体調もよさそうだ。
「体調はどうですか?」
「大丈夫よ。ねぇ、綾子。お友達にあなたのことを紹介したいの。いいかしら?」
「は、はい……」
こうして綾子も連れまわされることが決まった。
「それでね、綾子は、本当に腕のいい医術師なのよ」
何度目だろう。綾子は笑顔を貼り付ける。いい加減表情筋がつりそうだ。
「医術師なんてすごいですわね」
「本当。私、絶対にできませんわ」
そして令嬢たちは、桜子に同調しながら、なんとなく綾子を貶す。桜子は気づいていないのだろうか。
「私は幼い頃から父に医術を教わっていましたので。皆さまの刺繍と同じ感覚ですわ」
「まぁ……っ」
ニコリと微笑んでみせれば、彼女たちはわずかに眉を寄せる。なんてばからしい世界だ。
「大変だ!」
そこへ、襖が勢いよく開いた。
「公爵様が刺された!」
ざわっとどよめく会場。医術師たちが慌てて出て行く。この場に医術師が集まっていてよかった。
「お嬢様、申し訳ございません。私も医術師ですので」
「そうよね。頑張って!」
桜子に励まされ、綾子もその場を後にした。
庭園の先に人だかりを見つけ、綾子はその中に入っていく。見つけたのは、倒れこむ月見里公爵と、その背中に刺さった懐刀だった。
「これは……」
「……うん」
多くの医術師が状況を見て判断していく。刺された場所が悪い。心臓、肺、肋骨が入り組む場所だ。どこまで達しているかによって、対応が違う。
多くの医術師が頭を抱えていた。
公爵が暴漢に襲われた。多くの医術師が集まる場。しかし、その誰も対応が思いつかない。
「楠本殿ならば」
その中で、杉田が弦太郎を呼んだ。
「残念ですが」
が、兄は断った。たった少し見ただけなのに。綾子がハッと駆け寄る。
懐刀はそれほど深くない。体の構造からみて、刺さっているのはおそらく脾臓。
「兄上」
やれる。綾子はそう思った。
「無理だ」
が、兄は首を振る。
「父様の医学書に書いてあった方法を使えば、公爵様を救える可能性があります」
「道具がない」
「医術の道具でしたら、お貸ししますよ。持ち込んでいるので」
医術所の滝川が言い添える。
「ですが……」
それでも兄は戸惑っていた。気持ちはわかる。やったことのない手術。それも大がかりだ。
「……うた、こ……」
公爵のかすれた声が聞こえた。
「……うたこ……きたのか……」
伸ばされた手を、綾子がしっかり握る。
「……わかりました」
綾子が口を開いた。
「兄上がやらないなら、私がやります」
「綾!」
綾子の言葉を、弦太郎は慌てて止める。そんな兄を、綾子は睨んだ。
「助けられる命が目の前にあるんです。医術師として最善を尽くすのは、当たり前でしょう」
真っ直ぐな目。命を救うことを当たり前としている。
「……わかった」
綾子の気持ちが伝わったように、弦太郎が頷いた。
「まずは場所を」
「杉田先生」
兄の言葉に、綾子がすぐに立ち上がる。
「皇帝陛下にお部屋をお借りできないか伺っていただけませんか」
「はい、もちろん」
杉田がそれを聞いて去っていく。
「道具を取ってこさせます」
滝川が弟子に指示を出す。
「あと、2人では足りない。せめてもう1人」
「岩木様」
そこで綾子が呼んだのは岩木だった。
「お手伝いをお願いできますか」
「はい」
彼はすぐに頷いた。
「部屋を手配できました」
杉田が戻ってくる。
「伊藤様、竹田様、患者様をお運びしてください。創部に触れないように、慎重に」
「は、はい!」
弟子たちに任せ、綾子は周囲を見る。それを見て、露子が駆け寄ってきた。
「露、やれますか?」
即座に尋ねる。
「はい」
露子もすぐに頷いた。
「では、参りましょう」
「あ、あの……」
そこに駆け寄ってきたのは公爵夫人だった。
「夫は……どうなるのかしら……」
不安だろう。高齢とはいえ、こんなことで命を落とすなんて、あってはならない。
「ご安心ください。必ず助けます」
「え、えぇ……。お願い……お願いしますね」
震える手を握り、綾子は勇気づけた。
「楠本殿、いったいどのような医術を?」
杉田が聞いてくる。
「脾臓を摘出します」
それに対し、弦太郎は端的に答えた。
「脾臓は血管が多く通っている臓器なので止血はできませんよね。かといって、摘出となると」
やはり杉田もかなりの医学知識を持っている。人体で深い位置にある脾臓まで知っているとは。きっと、傷が脾臓にまで達していることも、察していたのだろう。
「脾臓の働きは、肝臓が補ってくれます。摘出しても人体に問題はありません」
「しかし、かなり高度な技術が必要になるのでは?」
その通りだ。人体の奥深くに位置する脾臓を探り当てるのも大変。
「やれます」
それには綾子が答えた。
「兄上は、父様の医学書を何度も読んでいらっしゃいました。想像できているはずです」
「想像だけですか?」
杉田の言いたいことはわかる。医術の世界は、想像だけでは上手くいかない。
「父の元で解剖にも立ち会ったことがあります。が、ここまで大がかりな手術は初めてです」
不安そうな兄に、綾子はさらに語気を強める。
「何もしなければ公爵様は死にます。しかし、手術をすれば救える可能性があります。わずかな可能性を信じて医術を行うことも必要かと」
「……確かに、綾子殿の言う通りですな」
これには杉田も納得した。
「麻酔が効きました」
露子が兄と姉を呼んだ。2人は患者を挟むように立ち、弦太郎が綾子を見る。
「失敗は許されないよ」
「わかっています」
「患者は大貴族だ。もし失敗すれば首が飛ぶかもしれない」
「大丈夫。失敗なんてありえません」
弱気な兄の言葉に、綾子は強く返していく。
「大貴族でも農民でも、患者は患者です。いつもと変わりありません」
「……そうだね」
患者に貴賤の身分は関係ない。その言葉に、ようやく兄が頷いた。
すっと瞼を閉じ、はぁっと深く息を吐きだす。そして、ゆっくり目を開けた時。
そこにはもう、弱々しい姿はなかった。
「脾臓摘出術を始めます」
手術の様子を、医術師たちは静かに見守った。その中で、弦太郎も、綾子も、落ち着いて手を動かした。
岩木の手も借りながら、3人で素早く処置を施していく。それは、まさに圧倒的だった。
多くの医術師が、呼吸も忘れてその様子を見守った。
「終わりました」
プツン、と糸を切る。その瞬間、綾子は張りつめていた息を吐いた。
綾子がそっと兄を見れば、兄の方も柔らかく微笑む。終わったのだ。
「お、終わった……?」
「結果は……?」
医術師たちがおそるおそる口にする。
「麻酔が切れたら目を覚ますと思います。経過を見る必要はありますが、この時点では成功です」
「おぉ……」
小さな歓声があがった。
「傷口を見てもいいですか?」
「消毒してください!」
露子がお酒の瓶を持つ。わっと医術師たちが集まった。
「兄上、お疲れさまでした」
綾子が兄に歩み寄る。
「綾のおかげだよ。綾がいなければ、この方は救えなかった」
「医術師として当然のことをしたまでです」
綾子の言葉に、弦太郎はふっと笑い、妹の頭を撫でる。
「兄さま、姉さま、お疲れさまでした」
露子が嬉しそうに駆け寄ってくる。兄妹は3人で微笑んだ。
「痛みはありませんか?」
「……ん」
公爵の答えに、弦太郎はニコリと微笑む。
「もう問題ありません」
弦太郎から道具を受け取り、綾子は丁寧に道具を片付けていく。
「よかった……」
そのそばで、公爵夫人がホッと息を吐く。
「楠本殿」
見守っていた杉田が、そっと歩み寄った。
「経過観察はもう必要ないかと。傷も膿んでいませんし、しっかり閉じています。その他の気になる症状も出ていません」
「そうですか」
本当なら、これくらいは医術院に任せるつもりだった。しかし、杉田の方から、この前代未聞の医術の後は見られないと言われ、弦太郎が経過観察を引き受けた。
「褒美をとらす」
「薬代だけで充分ですよ」
医術師として当たり前のことをしただけだ、と弦太郎が遠慮する。その顔を、公爵が意外そうに見ていた。
「こちらが薬代の一覧です」
綾子が公爵に紙を渡す。公爵はそれを静かに見ていた。
「たくさんの薬を使いましたので、少し高くなっていますが……」
そう言いながら、大貴族にしてはほんのちっぽけなはした金。綾子はもっとふっかけてもいいと訴えたが、父の教えを守ろうと言われれば何も言えなかった。
「明日、準備をしておく。取りに来なさい」
「承知いたしました」
この場で渡してくれてもいいのに。なぜ明日なのだろう、と綾子は不思議に思う。
「よかったら、美味しいお菓子も用意しておくわ。妹さんもいらっしゃるのよね。一緒につれてきたらどうかしら」
露子も、と公爵夫人が付け足す。ますますわからない。
しかし、大貴族のここまでの言葉を断る術を知らない。弦太郎と綾子は静かに引き受けた。
翌日、兄妹は3人そろって再び公爵邸を訪れた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「よく来たわね」
公爵夫人が嬉しそうに招き入れる。
「さ、お菓子を用意したの。好きなものを食べてちょうだいね」
大量に並べられたお菓子を前に、露子がごくっと唾液を飲む。それを、綾子がたしなめた。
「……驚かせてごめんなさいね」
固まる三兄妹に、公爵夫人が寂しそうに微笑む。
「あなたたちが、孫のように思えて……」
ハッとした。
「公爵夫人」
綾子は即座に呼びかける。
「あぁ、ごめんなさい。何でもないの」
公爵夫人は慌ててそう取り繕い、悲しそうに微笑む。
「……悲しいのですか?」
口を開いたのは、露子だった。
「悲しい時は泣いてもいいって母さまが言っていました。いっぱい泣いたらすっきりするって。……わたしは、姉さまから聞きましたけど」
「露」
綾子がそっと妹を止める。
「無礼な物言いをお許しください。妹はまだ幼いので」
「いいえ。……いいえ、大丈夫よ」
公爵夫人はそう笑い、膝を折って露子に手を伸ばす。
「お露さんというの?」
「露子です」
「いい名前ね」
「母さまが考えてくれたと聞きました。露が生まれた時、朝露が綺麗だったからって」
里の産婆は母だけ。だから、父の指示で弦太郎と綾子も出産を手伝った。一晩中かかって、ようやく産声が聞こえた時。外は明るかった。
『露……』
荒い呼吸の中、母は窓の外を見てそう呟いた。
「母は」
綾子が口を開いた。
「幸せだったと思います。父を愛していました。そして、私たちのことも愛してくれました」
「……そう」
その言葉に、公爵夫人が涙を浮かべる。
「笑顔で、送り出してやればよかった……っ」
この言葉は、きっと聞かなかったことにした方がいい。
「何をしておる」
そこに、公爵が杖をつきながら入ってくる。
「減っておらんな。腹が減っておらんのか」
手つかずの料理たちに、少しだけ不満そう。
「食べてもいいのですか?」
「露」
まっすぐな妹の言葉を、慌てて綾子が止める。
「食べたいなら食べればいい。お前たちのために準備させたものだ」
公爵の答えを聞いて、露子は姉を見る。いい?と確かめる視線だ。
「……お行儀よくなさい」
「はいっ」
綾子の言葉を聞いて、露子は嬉しそうに駆けだした。
「公爵様、ご体調はいかがでしょう」
弦太郎が穏やかに尋ねる。
「……ふん。何ともないわい。手足のひとつくらいは動かなくなると思ったがな」
「刺されたところが良かったのです。場所が悪ければ、歩けなくなる恐れもありました」
もし骨がやられていれば。そのそばの神経をやられていれば。きっと今のように元気に歩くことはできなかったに違いない。
「妹を褒めてやってくださいませ。妹がいなければ、私は手術をできませんでしたから」
「……!」
兄の言葉に、綾子はハッと兄を見る。彼は笑っていた。いつもの優しい笑顔で。
それを聞いた公爵が、杖をトンとつく。そして、綾子の頭に手を伸ばした。
「よくやった」
その手はゴツゴツとしていて、温かった。父のように硬く、そして母のように優しく。両親を思い出させる温もりに、綾子は涙腺が緩む。
「ありがとう、綾子」
公爵夫人が綾子の手を取る。
「あなたは立派な医術師ね」
その言葉が、じわりとにじんだ。
公爵家からの帰り道。
「公爵様が職人を探してくださるそうです。すぐ見つかるといいのですが」
「大丈夫だろう。同じ人じゃなくても、同じように作ってくれる人がいてくれればいいんだ」
公爵の力を使って探してくれるなら、きっと見つかるはず。
職人が見つかり、定期的に作ってくれる約束を取り付けた後。当初の予定通り里に帰るには、都で知り合いを作りすぎた。
「露、離れてはいけませんよ」
離れて歩いていた妹を呼び寄せる。
「兄上」
そして、隣を歩く兄に声をかける。
「私は、医術師を名乗ってもいいのでしょうか」
「え、違うのですか?」
露子が不思議そうに見上げた。そんな妹の頭に、綾子は手を置く。
「いいと思うよ」
弦太郎がそっとつぶやくように言った。
「綾は、教わった医術を信じて、行動に移せた。綾がいたから、公爵様の命を救えたんだ」
弦太郎は綾子の目を見ていた。
「綾は立派な医術師だよ」
何よりも求めていた言葉。
「露にとっては、姉さまはずっと医術師でした!」
「そうだね、露」
「はい!」
兄に同意されて、露子は得意げに口を開く。
「あとはお小言が減れば、いい医術師です!」
「うるさいですよ、露」
これには綾子がコツンと頭を叩いた。
「いたい! 姉さまが叩いた!」
「騒ぐほど強くはしていません」
「ほらほら、道の真ん中だよ」
三兄妹は仲良く歩いた。
その日、いつものように薬を持ってきた弦太郎は、熟睡する妹の寝顔を見て、ふっと笑った。
「綾殿、お手紙とお荷物が届いていますよ」
「すぐに行きます」
弟子に呼ばれ、綾子は部屋を出る。
「あ、姉さま!」
座敷にはみんな集まっていた。
「何の騒ぎですか?」
綾子が兄に尋ねる。
「公爵家からだよ。ほら」
兄に手紙を渡され、中身を見る。お礼と言いながら、高価な反物や装飾品、お菓子まで、様々なものを贈ってきたらしい。
「……またですか」
綾子は呆れながら、
「返事を書きます」
と告げる。
「うん、頼むよ。こっちは片付けておくね」
「姉さま、露も書きたいです!」
荷物の処理は兄に任せ、綾子は妹を連れて部屋に戻る。
「丁寧に書かなければいけませんよ」
「はーい」
文字の勉強があんなに嫌いだった露子も、公爵家への手紙は書きたいと言い張る。いい勉強になるからと好きにさせていた。
『暖かいお手紙をありがとう。旦那様もとてもお喜びで、お気に入りの文箱に入れていらっしゃったわ。よかったら、またお手紙をいただけないかしら』
丁寧に書かれた文字からは上品さが漂う。紙にもお香がつけられているのか、かすかにいい匂いがした。
「できました!」
露子が元気に声をあげる。
『おじいさま、おばあさま、おからだにきをつけて。またあそびにいきます』
簡単な文章。これでも露子からしたら頑張った方だ。
「これでいいですか?」
「はい!」
あとは綾子が丁寧な言葉で手紙と贈り物のお礼をさらさらと書けば終わり。この手紙のやりとりも、もう何度目だろう。
「露、これを飛脚の詰め所に届けてきなさい」
「はい! 俊兄さまと一緒に行ってきます!」
綾子から手紙を受け取り、露子が元気よく飛び出していく。
「寄り道せずに帰ってくるのですよ」
「俊兄さま!」
もう綾子の声なんて聞こえていないだろう。また伊藤におねだりして団子でも買ってくるのだろうか。
「綾子さん」
その時、部屋の外から耳になじんだ声がした。
「岩木様、どうなさいましたか?」
襖を開けた綾子の目に、真面目な岩木の顔が映る。いつも以上に強張っている気がする。どうしたのだろう。
「実は」
2人の間に、ざーっと風が流れた。