いつもよりも上等な着物。この日のために、わざわざ新調した。綾子たちが里から持ってきたものの中には、謁見に適したものがなかったから。

 「綺麗だよ、綾」

 着付けを終えた綾子に、弦太郎が目を細める。そして、綺麗にまとめた髪にかんざしを挿した。

 「兄上」

 「いいから。記念だ」

 高価な装飾のかんざし。いつの間に買ったのだろう。

 「姉さま!」

 「露、走ってはいけませんよ」

 「わぁ……っ、綺麗です! 姉さま、素敵!」

 「わかりましたから……。べたべた触らないで」

 はしゃぐ妹をなだめると、弟子たちも近づいてくる。

 「おぉ……」

 「綾殿は華やかな着物がよく似合いますね」

 「……ありがとうございます」

 褒められたことへのお礼を述べると、弟子たちの視線が動く。その視線を集めて、現れた人物。

 「岩木様」

 綾子と同じく、新調した立派な着物を着た岩木に、綾子が声をかける。なんとなく着心地が悪そうな彼に、綾子はニコリと微笑んだ。

 「大丈夫。私がいます」

 患者を安心させるように。そういう笑顔は得意だ。

 「医術師としてのあなたを信じています」

 綾子の言葉に、岩木は黙って頷いた。

 「綾、その言葉は、僕からも言わせてもらうよ」

 弦太郎が微笑む。

 「綾は医術師だ。父上の医術を広めるために、どうか力を貸してほしい」

 「はい」

 「岩木さん、綾を頼みます」

 「……はい」

 家族に見送られて、2人は診療所を出た。



 医術院の医術師、医術所の滝川とその従者、そして綾子と岩木。一行はそれぞれ駕籠で皇帝が住まう屋敷へ向かった。

 そこは、まさに宮殿という言葉にふさわしいたたずまいだった。

 「こちらへ」

 圧倒される綾子は、覚悟を決めて滝川の後を追う。

 怖い、という感情が、ないわけではなかった。しかし、これはこれ以上不必要な死者を出さないための策。医術師として、必要な仕事だ。

 診療所の何倍もの広さの座敷に通され、綾子はその隅に座って頭を下げる。しばらくして、カランという軽い鐘の音が響いた。これが皇帝の合図。

 まず、高価な絹の着物が畳を擦る音が耳に届いた。そして、香のかおり。その匂いに、どこか懐かしさを覚えた。

 「頭を上げよ」

 威厳の塊のような低い声。一度深く頭を下げ、そしてゆっくりと上げる。

 かなり遠い。しかし、息が詰まるような威圧感。

 「杉田、疫病の件で話と聞いたが」

 「はっ。陛下におかれましてはごきげん」

 「よい」

 典型文の挨拶を省略させる。これはよくあることなのか、医術院の杉田は動じることなく、

 「今回の疫病は、例年より死者が少ないことは、ご存知でしょうか」

 と続ける。

 「あぁ、そうだったな。なんでも、今までにはない医術のやり方をしたとか」

 「はい。その医術を先導したのが、都で医術所を開いているこの滝川という男です」

 「ほう。そちは都に来て短いのか?」

 皇帝から直々の言葉に、滝川は落ち着いて

 「私は都で生まれ育ちました。もう60年になります」

 と答える。

 「では、なぜ今まで何もしなかった?」

 空気を圧縮したような強い空気が流れる。

 「このような方法があると、私も知らなかったからにございます」

 「知らなかった、と?」

 「はい」

 少し離れているのに、滝川がふっと息を吐くのがわかる。

 「教えてくれたのは、最近都に入ったという、そこの医術師にございます」

 綾子は手をつき、軽く頭を下げた。

 「そちは?」

 「鉢ノ里という小さな里で療養所を開いております、楠本綾子と申します」

 「聞いたことのない名前だ。そちが医術師と?」

 「はい」

 「女なのに?」

 覚悟していた。性別で下に見られることなど、今まで何度となくあった。

 「おそれながら」

 綾子はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

 「医術は平等です。尊いお方から卑しい者まで、等しく医術を受ける権利がございます。それと同様に、男であっても女であっても、医術を学ぶ権利があるのです」

 負けたくない。そんな気持ちが、心の中に芽生えた。

 女だからという理由で、医術師であることを否定されたくない、と。

 「おもしろいな」

 皇帝が笑った。

 「それで? なぜそちが、都の医術師たちも知らない医術を知っておると?」

 「父から教わった秘伝の術があったからにございます」

 手はわずかに震えていた。しかし、声は震えなかった。しっかりと芯の通った、澄んだ声だった。

 「そちの父親はどこの者なのだ」

 「わかりません」

 「わからない?」

 「はい。父がどこで生まれ育ち、誰から医術を学んだのか、私は知りません」

 真っ直ぐに、何のよどみもなく、綾子は言い放った。

 「それを親に聞かなかったのか」

 「医術には必要のない不思議でしたので」

 聞かなかったはずはない。しかし、なんでと繰り返す綾子に、母がそう言ったのだ。医術に不要の不思議の答えを、追い求める必要はないのだと。

 「なるほどな。確かにそちは医術師だからな」

 皇帝は楽しそうに笑った。

 「それで? 朕に用事があるのは、そちのようだが?」

 「はい」

 いよいよだ。

 「この流行り病の正体は、麻疹と呼ばれる病にございます」

 「……ほう」

 「麻疹とは、身体が火のように熱くなり、目の膜に炎症ができ、全身に赤いぶつぶつができます。今回の流行り病の患者に共通した症状です」

 「杉田、そうなのか?」

 皇帝が医術院の責任者に尋ねる。

 「確かに、この者の申す通りにございます」

 杉田はそう頷いた。

 「この病は、流行を防ぐことができます」

 「どうやって」

 「予防接種という方法がございます。あらかじめ体内に原因となる病の種を入れ、体の中で種と戦う準備をしておくのです」

 の瞼がぴくっと動いた。

 「体内に病の種を入れると、危険ではないのか?」

 「この時に使用する種は、かなり弱めています。少しの発熱や、針を刺した部分の痛みなどはありますが、麻疹にかかるよりずっと安全です」

 父に教わった言葉。兄と妹と一緒に学んだ言葉。その言葉に、嘘はきっとない。

 「針を刺して種を入れるのか」

 「はい。肌に直接針を刺して種を入れます」

 「……おそろしいことを言うのだな」

 皇帝の声に緊張の糸が張りつめる。警戒されていることはわかっていた。

 「おそろしいことなどありません。私は、ずっと幼い頃にその処置を受けました」

 「幼い子どもにもやるのか」

 「子どもの時に体に種の形を覚えさせることで、より強力な病気を防ぐことができますので」

 落ち着いていた。もう怖いという気持ちはなかった。

 「杉田、これはどうなんだ?」

 「わかりません。ただ、幼い頃から種を入れていたというこの者の兄妹は、前線に立って医術を行ったにも関わらず、疫病にかかってはおりません」

 滝川から報告を受けていた杉田が、事実を述べる。

 「それから、今回の疫病に関わった医術師の中で、滝川の指示を受けてあらかじめ弱った種を体内に入れていたものは、疫病にかからずに済みました」

 「……なるほどな」

 皇帝はうなった。

 「確かに、よぼうせっしゅとやらの効果はあるようだ」

 かなり皇帝の態度が崩れてきた。先ほどまでの威厳が薄れ、どこか気のいいおじさん感が否めない。

 「それで? そこの君は、私に何をしてほしいんだ?」

 「陛下」

 「いいじゃないか」

 たしなめる杉田を、皇帝は軽くあしらう。

 「そこのお嬢さんは、下手な演技よりこっちの方が落ち着くだろう?」

 これも皇帝の気遣い、ということにしておこう。この意図など、医術には関係ない。

 「皇帝陛下」

 その中で、綾子は真っ直ぐに皇帝を見た。

 「予防接種には莫大な資金が必要です。また、特殊な医術のため、拒む患者様も大勢いるでしょう。陛下のお力をお借りしたいと存じます」

 打ち合わせでは、杉田から言ってもらう予定だった。しかし、皇帝は綾子に聞いた。だから、綾子が答えた。ただそれだけのこと。

 「うん、いいよ」

 皇帝はあっさり答えた。

 「好きにすればいい」

 「陛下、もっとお考えに」

 「お前が持ってきた話だろう、杉田」

 皇帝をなだめる杉田は、逆に皇帝から笑みを向けられる。

 「医術のことはわからん。だが、杉田のことは信頼している。お前はこの医術が必要だと思ったから、そこのお嬢さんを私に紹介した。違うか?」

 「……仰る通りにございます」

 「それなら、私はお前を信じる。そして、我が国の医術師たちを信じる。疫病の度に人口が減って大臣たちにぐちぐち言われたくはないからな」

 すごい、と思った。これがこの国を統べる皇帝の言葉か。

 信頼するという言葉が、信じるという言葉が、ずっと重い。心にずしんと乗っかる。そして、それに応えたいと思わせる。

 「綾子といったか」

 「はい」

 皇帝に名前を呼ばれ、綾子は答える。

 「おもしろい女だ。やってみよ」

 「ありがたく存じます。皇帝陛下のお気持ちに報いることができるよう、最善を尽くします」

 綾子は頭を下げて引き受けた。