「どうぞ」

 綾子がお茶を出す。

 「ありがとうございます」

 滝川が礼を言った。綾子はそのまま兄の隣に座る。

 「それでは、楠本殿は、平民や農民にも予防接種が必要だと仰るのですか」

 「麻疹の流行を収めるのに一番有効なのが、予防接種です。抵抗がある人にはよく説明して、とにかく予防接種を広めることを優先するべきだと思います」

 落ち着いて説明する兄の言葉は、いつにもまして冷静で。兄もまた、綾子と同じく予防接種を重視しているらしいということがわかる。

 「父から予防接種を受けていた私や妹たちは、今回麻疹にかかりませんでした。そして、予防接種を受けた医術師たちにも、感染者は有意に少ないはずです」

 「それは、確かに……」

 滝川が低く唸るように答える。

 「し、しかし……。医術所で保管しているものにも限りがあります。これから作るにしても、かなり高価になるでしょう」

 弦太郎があらかじめ予防接種の重要性を説いていたため、抗体を保存してくれていたらしい。

 「貴族階級であれば説得して受け入れてもらえるかもしれませんが、農民ともなれば、それも……」

 確かに、いくら裕福な人が多い都とはいえ、貧しい人もいる。医術師にかかることさえためらう彼らは、貴重な銭を出してまで危険を冒そうとはしないだろう。

 「皇帝陛下に国庫からご支援いただけるようにお願いすることはできないのでしょうか」

 綾子の言葉に、滝川がハッと顔を上げた。

 「た、確かに……。いやしかし……」

 葛藤する滝川に、綾子はやや身を乗り出しながら

 「民が減ることに、皇帝陛下は胸を痛めておられるのではないのですか?」

 と聞く。

 「綾」

 が、すぐに兄にたしなめられた。

 「……申し訳ございません」

 一言告げて、再び姿勢を正す。

 「貴族以上には、医術院が関わってきます。医術所だけで決断できる問題では」

 「それでは、滝川先生の方から、医術院の方にご説明いただけませんか。もちろん必要であれば、私も同席させていただきます」

 渋る滝川に、弦太郎が穏やかな笑顔で告げる。

 「……わかりました。話をしてみましょう」

 ようやく滝川からその言葉を聞きだした。



 「綾、医術院と話し合うことになったら、綾が行くかい?」

 「え?」

 滝川が帰った後、兄がそんなことを言いだした。

 「相手はお貴族様だ。礼儀作法は綾の方が得意だろう?」

 「私は女です。医術師として認めたくないという方もいらっしゃるでしょう」

 兄の隣には立てない。兄の少し後ろで、その医術を手伝うことが、綾子の役目だ。

 「滝川先生が一緒にいてくださるし、必要なら診療所から誰か連れていけばいい」

 「兄上、お戯れはそれくらいになさいませ」

 「ふざけてなんかいないよ」

 兄の真っ直ぐな声に、綾子はハッと顔を上げた。兄の顔は、真面目だった。

 「綾子、任せてもいいかい?」

 ふざけているわけでも、妹を甘やかしているわけでもない。ただ、医術師としての綾子を信じているだけ。

 「……承りました」

 それなら、その気持ちに応えたい。

 「岩木様に同行をお願いしてもよろしいですか?」

 「もちろんいいよ」

 綾子の答えに、兄はにっこり笑った。

 「岩木さんと親しくしているみたいだね」

 「医術に対しての姿勢に好感を抱いているだけです」

 「そっか」

 綾子のツンと澄ました横顔に、弦太郎は柔らかく笑っただけだった。



 「そんなわけのわからない医術など、言語道断!」

 禿げ頭め、と心の中で毒づく。顔には出してないから問題ない。頭を下げているのだから、顔に出しても見えないのだが。

 「……と、言いたいところですが」

 医術院の責任者、杉田は、禿げあがった頭に手を当てる。

 「皇帝陛下は、珍しい医術を行う者に興味をお持ちのようです」

 「……!」

 その言葉に、綾子はハッとした。が、頭を上げてはいけない。

 「医術師に予防接種なるものを施し、治療に当たらせることで、医術師が倒れることを防ぐ。この医術所から広まった話の元は、あなた方ですか?」

 「はい、仰る通りにございます」

 綾子は静かな声音で答えた。

 「私どもが父から教わった医術に従い、医術所の滝川先生にご協力いただきました」

 「……央ノ都医術所でも、医術院でもなく、ただの小さな診療所とは」

 「例年よりも有意に死者が少なく、後遺症を残した患者も少ないと聞いています。そこまでの成果が残せたのは、間違いなく滝川先生のご協力があってのことでございます」

 自分たちの力であってはいけない。あくまで医術所を通したものだと主張する。それは、ある種の責任逃れでもあった。

 兄は優秀だ。自分たちだけで動くことはなく、真っ先に滝川に協力を仰いだのだから。

 「綾子殿の仰る通り、今回の疫病は確かに死者が減りました。楠本殿にご助言いただいたように、患者を隔離し、抗体を持つ者にのみ治療にあたらせた。その結果と言えます」

 滝川が静かに言い添える。その言葉が嬉しかった。

 「わかりました。皇帝陛下に謁見できるよう取り計らってみましょう」

 「よろしくお願いいたします」

 綾子はさらに深く頭を下げた。



 医術院からの帰り道。綾子は岩木とともに歩いていた。

 「話がうまく進んでよかったですね」

 綾子の方から口を開く。

 「そうですね」

 彼は口数も少なく答えた。

 「兄上に相談しますが、謁見の時も私が行くことになると思います」

 「そうですか」

 「……一緒に、いきますか?」

 綾子は足を止める。わからない。わからないが、彼がそばにいてくれるといいと思った。

 今日だって、ろくなことは話していない。ほとんど綾子と滝川だけで話していた。

 それなのに、彼がいてくれると、落ち着いていられると思った。

 「……勉強させてもらえるなら」

 彼はそう答えた。

 「わかりました」

 綾子は頷いて、再び歩き出す。

 「兄上に相談してみます」

 それ以上2人の間に会話はなかった。しかし、その無言の時間が、不思議と嫌ではなかった。