秘色の医術師~旅する医術師、都を救う~


 「綾」

 しばらくして、兄の声がした。

 「大丈夫か?」

 「はい、兄上。おかえりなさいませ」

 窓のない部屋は、不安を煽る。それでも、気丈に答えた。

 「疫病は麻疹だ。わかっているようだね」

 「結膜炎と発疹が出ていましたから」

 里でも何度か見たことがあった。回数はそれほどないが、それでも知識として入っていた。

 「医術所でワクチンを作ってきた。打てるようになるまで3日はかかる」

 「わかりました」

 3日間、綾子が耐えればいい。日にちがはっきりわかっただけ、まだいいほうだ。

 「兄上、外のことをよろしくお願いします」

 「うん、わかった。すぐに麻疹の抗体がある人を調べるから」

 ワクチンが打てなくても、幼い頃にかかったことがあれば、抗体を持っている可能性がある。それを調べるには、血液を採る必要があるが、ここの医術師たちはそれを厭うことはないだろう。

 他の医術師たちはどうだろうか。たとえば、滝川がまとめる央ノ都医術所の医術師たち。医術師というのにろくな勉強もせずに菌を体内に入れることを嫌う人はいるのだろうか。

 綾子にとってそれは医術そのものを拒否するほど信じられないことだが、そういう人もいると、父は言っていた。

 医術は平等。父が繰り返し口にしていた言葉。尊い身分であっても、卑しい身分であっても、等しく医術を受ける権利がある。

 だから父は、里長(さとおさ)忖度(そんたく)することも、貧しい人々を拒むこともなく、ただ淡々と医術師として働いていた。

 そんな父の背中に憧れて医術師を目指したのだ。

 いろんな医術師がいる。彼らを受け入れることこそ、医術の始まり。そう言い聞かせた。



 部屋の隅で座ったまま、ぼんやり宙を見つめる。

 もう夜になっただろう。夕食は露子が持ってきてくれた。

 露子は幼い頃に父によって予防接種を受けていたため、抗体を持っている。それは兄や綾子も一緒。だから、最低3人は自由に動けるということ。

 他の診療所は、こうはいかないだろう。きっと大変だ。

 「綾子さん」

 その時、襖の外から声がした。

 「岩木様、ですか?」

 声と、その呼び方でわかった。

 「入っても?」

 「え? だ、ダメですよ?」

 「入ります」

 綾子の言葉なんて聞こえていないかのように、襖が開いた。

 綾子はとっさに着物の袖で口元を覆う。

 「出てください。危険です」

 これ以上ここの医術師を減らしてはいけない。これからのことが読めないから。

 しかし、岩木はすたすたと歩み寄ってきて。そして、綾子の手を取った。

 「手が冷えていますね」

 「なにを……?」

 「安心してください。弦太郎殿から、私は抗体があると言われました」

 「……そう、ですか」

 よかった。その言葉に、安心する。

 そして同時に、ちょっとだけ不満だった。もっと早く教えてくれればよかったのに。

 「隣、座っても?」

 「あ、はい」

 綾子が頷くと、彼は静かに隣に座った。

 「流行り病には悪さをする菌がいるというのは、知っていました」

 「はい」

 「ですが、その菌を弱毒化して体内に入れるというのは、知りませんでした」

 「そうですか」

 珍しく饒舌(じょうぜつ)だった。

 「珍しい医術です。腹を切るというのも、未だに信じられません」

 「……そうでしょうね」

 腹を切れば死ぬ。それが当たり前の世界に生きてきて、腹を切ることで助かる命もあるとは、そう簡単には思えないだろう。

 「でも、あなたや、弦太郎殿は、その医術を使って人を救っておられる。この事実に変わりはありません」

 「はい」

 「羨ましいと思います」

 「え?」

 羨ましい。この言葉の意味は、わからなかった。

 「羨ましい、ですか?」

 聞き返していた。

 「はい」

 彼は真っ直ぐな目で頷いた。

 「ここに来る前、自分は腐っていました」

 「くさる?」

 「医術所には裕福な家の者たちがたくさんいて。自分のような卑しい身分から医術師を目指しても、結局彼らにこき使われるだけだろうと思っていました」

 都の医術師界隈はそんなものなのか。患者を優先した医術はできないのだろうか。

 「でも、ここの医術は特殊で、誰も知らない。そして、確かに命を救うことができる。確実に」

 「そうですね」

 医術に絶対はない。しかし、都の医術師たちの知識よりもはるかに大きなものを、父は引き継いでくれた。

 「この医術を身につければ、彼らの上に立てる。そう思っていました」

 「医術を権力争いの道具にしないでください」

 「わかっています」

 ムッとした綾子に、彼は真面目に答える。

 「ここで勉強していて、思いました。人の命を救いたい、と。それは、医術師を目指すきっかけになった気持ちでした」

 久しぶりに感じた感情。それに戸惑ったのだろうか。それとも、懐かしさから受け入れられたのだろうか。

 「あなたのように、命を救える医術師に、なりたい」

 真っ直ぐな言葉だった。思わず顔を上げると、そこには、綾子を見つめる岩木の目があった。

 「兄の方が医術師としては腕もいいはずです」

 そう答えながら、その目は、真っ直ぐに岩木を見つめ返す。逸らせなかった。

 「それでも、自分が目指しているのは、あなたの医術です」

 「……!」

 何が彼にそう言わせているのか。綾子にはわからなかった。

 父から教わった年月は当然兄の方が長い。だから、兄の方が優秀で当たり前。いつか嫁にいく綾子は、兄の手伝いができればいい。そう思ってきた。

 しかし、彼の言葉は、そう言っているようには聞こえなくて。

 「……喋りすぎました」

 彼は口早にそう言った。

 「失礼します」

 「岩木様」

 慌てて立ち上がるその背中に、綾子は慌てて呼びかける。

 「なにか」

 彼が振り返る。しかし、何を言っていいかわからない。なぜ呼び止めたのだろう。

 「い、いえ……」

 綾子は首を振る。

 「おやすみなさい」

 そう告げて、岩木は出て行った。

 耳に残った声は、優しかった。


 「綾殿、よろしくお願いします!」

 「はい、こちらに寝かせてください」

 弟子たちが次から次に患者を運んでくる。その中を、綾子はさばいていく。

 予防接種を終えて、診療所内は自由に行き来できるようになったとはいえ、この部屋に立ち入るのは限られた人だけ。この場では、綾子と岩木のみと決められた。

 「いやぁ、忙しいですね」

 気休めにしかならないだろうけど、と口と鼻を布で覆いながら、伊藤は明るく笑って出て行く。

 「綾子さん、見てもらえますか」

 「はい」

 岩木に呼ばれ、綾子は隣に座った。点滴の針がきちんと刺さっていることを確認して、

 「大丈夫です。薬を入れてください」

 と答える。点滴の手順はもうすっかり覚えたようだ。

 その時、すぐそばでムクリと起き上がる患者を見つけた。

 「まだダメですよ。寝ていてください」
 「うるせぇ……っ。オレは……医術師になんか……っゲホッ!」

 綾子が慌てて駆け寄り手を伸ばすが、患者はその手を振り払う。

 「離せ……帰る……ゲホッ、ゴホッ!」

 じゃあ帰ればいい。なんて思いはぐっとこらえておく。この患者を野放しにすれば、疫病はまた広がっていくだけだ。

 「落ち着いてください」

 岩木がすっと患者の背中に手を添えた。

 「あと5日もすれば帰れます。今のまま帰っても、つらいだけですよ」

 「知るか! ゴホッゴホッ!」

 「家にお孫さんがいらっしゃるでしょう。お孫さんにうつしたら、命を落とすかもしれません。お孫さんのためと思って、治るまでいてください」

 「……っ」

 岩木の口からそれを聞くと、男性は諦めて横になった。

 「……ありがとうございます」

 「いえ。弦太郎殿の真似をしただけです」

 うってかわって、淡々とした様子。優しく患者を諭したかと思えば、いつものように淡々とした一面もある。おもしろい男だ。

 「み、みず……」

 患者の中から聞こえた声に、

 「すぐお持ちします」

 綾子はそう答えた。



 「綾殿!」

 伊藤がまた患者を運んできた。その腕に寝ていたのは、

 「お玉さん……」

 見知った顔だった。

 「……っ」

 里にいる時は、知った顔が病に倒れることなんて日常だった。医術師としてできることをするだけだと、綾子は気を引き締める。

 「そちらに寝かせてください。岩木様、補液の準備をお願いします」

 「はい」

 横になったお玉のそばに膝をつき、綾子は点滴の準備をする。

 「あ……綾姉様だぁ……」

 「お久しぶりです」

 「やっと、会えたぁ……」

 嬉しそうにほころぶ笑顔には、汗が浮かんでいて。赤い発疹が痛々しい。

 「また、助けてくれるの……?」

 「お玉さんが私の言葉を聞いてくださるなら」

 「ふふ……じゃあ、大丈夫かぁ……」

 いつもの元気はない。熱が出ているのだから、当然だ。

 火のように熱い腕に手を置き、針を刺す。そして、点滴とつないだ。

 「寝ていてくださいね」

 「はぁい」

 弱々しい返事を聞き、綾子はまた忙しく動き回る。

 この流行が収まったら、予防接種を広めてもらおう。体内に菌を入れるのだから抵抗がある人は多いだろうが、滝川に頼めばなんとかなるはず。予防接種をするだけで、発症を防げるのだから。

 「綾子さん」

 岩木の声に、ハッと振り返った。

 「危篤(きとく)です」

 「……っ」

 隣町から運ばれてきた男性だった。

 「隣の部屋に運びましょう」

 岩木と協力して患者を隣に運ぶ。ここで病と闘う患者たちに、その病によって命を落とす人を見せたくなかったから。

 「岩木さん、こちらは任せてもいいですか?」

 「はい」

 岩木に看病を任せ、綾子は危険な状態の患者の手を握る。

 「……頑張って」

 そっとつぶやく。

 「あなたを待っている家族がいます。頑張ってください」

 どんなに治療を続けても、助けられない命もある。それはわかっていても、患者の生命力、運、神様、何にすがってでも、助けたかった。医術を信じて、頼ってくれたのだから。



 男性が息を引き取ったのは、翌日の夜のことだった。

 「お疲れ様でございました」

 姿勢を正し、三つ指をついて、丁寧に頭を下げる。

 助けられなかった。そんな悔しさは、表には出さないように。

 「兄上」

 部屋を出て、治療に当たる兄を呼ぶ。忙しそうに振り返った彼は、ふと動きを止めた。

 「……うん、わかった」

 何も言わずとも、伝わった。そう頷き、患者の目につかないように遺体を運び出す指示を出す。

 静かに運び出される遺体を、綾子は頭を下げて見送った。露子もその場で深々と頭を下げる。それを見て、弟子たちも倣った。

 この診療所ができて初めて、命を送り出した瞬間だった。



 悲しみにくれる暇はない。患者は次から次に運び込まれてくる。

 弦太郎が指示をしたのだろう。都の診療所の機能を止めないように、流行り病に対応する診療所は定めておく。綾子たちの診療所はそのひとつ。

 そのため、麻疹の患者は後を絶たない。たくさんの患者を見送った。元気に出て行った人も、何も言わずに出て行った人もいた。

 ひとつひとつの命と、丁寧に向き合った。

 そう言えるはずなのに。患者を見送った時の無力感は、やっぱり拭えない。

 おごりだと言われても、過信しすぎだと言われても、全ての命をすくいたかった。



 危篤となった患者を見守る部屋で、綾子は1人、対応に追われていた。

 「綾子さん」

 岩木に呼びかけられる。すぐに襖に駆け寄り、

 「はい」

 と答えた。

 「ひとり、いいですか」

 「……はい」

 またか。ここが最後の砦。この部屋から回復した患者だっている。そう信じて、襖を開ける。

 岩木が抱いていたのは、お玉だった。



 「はぁ……はぁ……」

 目を開けることも、喋ることもできずに、荒い呼吸だけを繰り返すお玉のそばに、綾子は座る。

 「頑張って」

 点滴をし、熱を下げるために冷水を入れた革袋で要所を冷やし、湯桶を置いて部屋の湿度を上げて。

 できることはやっている。これで回復する人としない人の差はわからない。

 「頑張ってください」

 特効薬というものはなく、ただ現れた症状を落ち着かせる対症療法で精いっぱい。

 そしてそれさえも尽きたこの部屋では、祈ることしかできないのだ。

 「頑張って……」

 「……ね、さま……?」

 綾子の願いが通じるように、小さな声が聞こえた。

 ハッと目を開けると、ゆっくり、わずかに、押し上げられた瞼から見えた、小さな光。

 「お玉さん」

 綾子は、お玉の手を取り、そう呼びかけた。

 「あ……ね、さま……」

 目が見えていないのだろう。目線は合わない。それでも、確かに手は握り返してくれる。

 「ここにいますよ」

 「……よか……っ、た……」

 「私がそばにいます。必ず、必ず助けます。だから頑張ってください」

 医術に絶対はない。それはわかっていても。お玉を元気づけるために、綾子はそう告げた。

 すると、お玉は安心したようにふっと微笑み。

 「……おか……さ……」

 次の瞬間、綾子の手から、お玉の手が滑り落ちた。

 「……お玉さん」

 もう綾子の呼びかけに答えることはない。

 「……っ」

 涙は出なかった。きゅっと口を結び。姿勢を正して、綺麗に頭を下げる。

 「……お疲れ様でございました」

 すっと立ち上がり、兄を呼びに部屋を出る。

 布団の横の畳に、小さなしみが1つ、浮き出ていた。



 「お玉! お玉ぁ!」

 迎えに来た家族に遺体を引き渡す。泣き叫びながら遺体を抱きしめる母親のそばで、父親は静かに頭を下げる。

 「あなたがいてくれて、よかった」

 その言葉は、綾子に向けられていた。

 「娘は安心していけたでしょうから」

 「……力及ばず、申し訳ございません」

 綾子はその場で頭を下げた。

 お玉を連れて家族が出て行くと、綾子は静かに振り返る。

 「う……っ、グス……っ」

 「露、泣き止みなさい」

 鼻をすする妹を、たしなめた。

 「泣いてはいけません」

 「姉さま……っ」

 涙の浮かんだ瞳で見上げる妹に、綾子は厳しい視線を向ける。

 「綾殿、よろしいのでは……? お玉さんとは面識があったわけですし……お露ちゃんはまだ幼いですし……」

 伊藤が露子を庇うが、綾子は首を振った。

 「露は医術師でしょう。医術師は患者様を安心させるのも仕事の内。涙を見せては、患者様が不安になります」

 「……はい……っ」

 露子はぎゅっと唇を噛んで涙をこらえる。

 「さ、患者様は他にもいますよ。仕事の続きです」

 綾子はそう告げて、持ち場へ戻っていった。

 その背中を、弦太郎が心配そうに見つめていた。



 それから数日後。空に浮かぶ白いすじを、綾子は黙って見上げていた。

 青空に、高く、高く昇っていく、白い煙。

 「綾子さん」

 岩木の声に、綾子はゆっくり振り返る。

 「終わりましたね」

 そして、そっと告げた。

 「そうですね」

 岩木が短く答える。

 「8人」

 再び空に目を移す。

 「この診療所で亡くなった方々の数です」

 ずっと、ずっとなくならない煙。

 ひとりひとりの顔、そしてその家族の顔を浮かべる。苦しそうな顔や、悲しそうな顔しか出てこない。

 しかし、その中でたったひとり。笑顔を知る人がいた。

 「泣いてもいいんですよ」

 岩木の声が優しかった。

 「泣きません」

 綾子ははっきり答える。

 「亡くなった患者様のことは、心に刻みます」

 もう二度と同じことを繰り返さないように。そう誓うことが、災害で命を落とした人々への敬意の表れだ。

 「予防接種を広めます」

 「はい」

 「父の話では、予防接種が広がれば、麻疹は怖い病気ではなくなるそうです」

 もっと早くそうしていれば。父が広めていれば。彼女は、生きていたかもしれない。

 医術にたらればないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

 「麻疹にかかる人がいなくなれば、石碑を建てましょう。ここで命を落とした方を弔うために」

 「いいですね」

 終わった。しかし、終わっていない。時代は巡る。再び同じ事態に陥った時、今のように後悔しないように。人間は、勉強していくのだ。

 「綾」

 縁側から弦太郎が声をかける。

 「岩木さんも」

 弦太郎は笑顔だった。

 「少し休みなさい。しばらくゆっくり休めなかっただろう」

 「必要ありません」

 綾子はそう言って縁側から診療所に入る。

 「必要だよ。疲労は判断力の低下につながる」

 「ちゃんと休みました」

 大人しく言うことを聞かない頑固な妹に、弦太郎は呆れる。そこへ、元気な足音が聞こえた。

 「姉さま! 患者様から温泉の割引券をもらいました!」

 「治療費以外もらってはいけないと言っているでしょう。返してきなさい」

 たくさんの紙を手に嬉しそうな妹を、綾子が叱る。

 「イヤです! 兄さま、いいですよね?」

 「ご厚意だからね。ありがたくいただこうか」

 「ほら!」

 「……兄上、露を甘やかさないでください」

 妹から券を奪おうとする綾子と、その手から逃れる露子が、弦太郎の周りでひょいひょいと動き回る。

 「はいはい。仲良くね」

 弦太郎は妹2人をなだめ、

 「露、それは何枚ある?」

 と尋ねる。

 「みんなの分です!」

 露子が得意気に掲げた。その隙にと綾子が奪う。

 「あっ! 姉さまが取った!」

 「綾、いただきものだよ。大切にね」

 「大切にしないのは露でしょう。私が預かります」

 相変わらずじゃれあう姉妹に、弦太郎は笑った。

 「今からみんなで行こうか」

 「本当ですか!」

 嬉しそうな露子に、

 「では、私と露が残ります。診療所を留守にはできませんから」

 と綾子が告げる。

 「たまにはいいよ。ここ数日、働きっぱなしだったんだ。休息も大切だ。ね?」

 兄の言葉にも一理ある。

 「……わかりました」

 「やったぁ!」

 「準備して参ります」

 露子が嬉しそうに駆けだすそばで、綾子はふと振り返る。そこには、ずっと黙って立っていたらしい岩木が。

 「岩木様も行きますよね」

 「は……ま、まぁ、割引券があるのでしたら」

 「全員分ありますから。皆様も誘いましょう」

 「はい」

 彼も室内に入っていく。

 「帰りはそば屋にでも行こうか」

 「贅沢すぎます」

 「頑張ったご褒美だよ」

 なぜかいい気になっている兄に、綾子は呆れた。



 「どうぞ」

 綾子がお茶を出す。

 「ありがとうございます」

 滝川が礼を言った。綾子はそのまま兄の隣に座る。

 「それでは、楠本殿は、平民や農民にも予防接種が必要だと仰るのですか」

 「麻疹の流行を収めるのに一番有効なのが、予防接種です。抵抗がある人にはよく説明して、とにかく予防接種を広めることを優先するべきだと思います」

 落ち着いて説明する兄の言葉は、いつにもまして冷静で。兄もまた、綾子と同じく予防接種を重視しているらしいということがわかる。

 「父から予防接種を受けていた私や妹たちは、今回麻疹にかかりませんでした。そして、予防接種を受けた医術師たちにも、感染者は有意に少ないはずです」

 「それは、確かに……」

 滝川が低く唸るように答える。

 「し、しかし……。医術所で保管しているものにも限りがあります。これから作るにしても、かなり高価になるでしょう」

 弦太郎があらかじめ予防接種の重要性を説いていたため、抗体を保存してくれていたらしい。

 「貴族階級であれば説得して受け入れてもらえるかもしれませんが、農民ともなれば、それも……」

 確かに、いくら裕福な人が多い都とはいえ、貧しい人もいる。医術師にかかることさえためらう彼らは、貴重な銭を出してまで危険を冒そうとはしないだろう。

 「皇帝陛下に国庫からご支援いただけるようにお願いすることはできないのでしょうか」

 綾子の言葉に、滝川がハッと顔を上げた。

 「た、確かに……。いやしかし……」

 葛藤する滝川に、綾子はやや身を乗り出しながら

 「民が減ることに、皇帝陛下は胸を痛めておられるのではないのですか?」

 と聞く。

 「綾」

 が、すぐに兄にたしなめられた。

 「……申し訳ございません」

 一言告げて、再び姿勢を正す。

 「貴族以上には、医術院が関わってきます。医術所だけで決断できる問題では」

 「それでは、滝川先生の方から、医術院の方にご説明いただけませんか。もちろん必要であれば、私も同席させていただきます」

 渋る滝川に、弦太郎が穏やかな笑顔で告げる。

 「……わかりました。話をしてみましょう」

 ようやく滝川からその言葉を聞きだした。



 「綾、医術院と話し合うことになったら、綾が行くかい?」

 「え?」

 滝川が帰った後、兄がそんなことを言いだした。

 「相手はお貴族様だ。礼儀作法は綾の方が得意だろう?」

 「私は女です。医術師として認めたくないという方もいらっしゃるでしょう」

 兄の隣には立てない。兄の少し後ろで、その医術を手伝うことが、綾子の役目だ。

 「滝川先生が一緒にいてくださるし、必要なら診療所から誰か連れていけばいい」

 「兄上、お戯れはそれくらいになさいませ」

 「ふざけてなんかいないよ」

 兄の真っ直ぐな声に、綾子はハッと顔を上げた。兄の顔は、真面目だった。

 「綾子、任せてもいいかい?」

 ふざけているわけでも、妹を甘やかしているわけでもない。ただ、医術師としての綾子を信じているだけ。

 「……承りました」

 それなら、その気持ちに応えたい。

 「岩木様に同行をお願いしてもよろしいですか?」

 「もちろんいいよ」

 綾子の答えに、兄はにっこり笑った。

 「岩木さんと親しくしているみたいだね」

 「医術に対しての姿勢に好感を抱いているだけです」

 「そっか」

 綾子のツンと澄ました横顔に、弦太郎は柔らかく笑っただけだった。



 「そんなわけのわからない医術など、言語道断!」

 禿げ頭め、と心の中で毒づく。顔には出してないから問題ない。頭を下げているのだから、顔に出しても見えないのだが。

 「……と、言いたいところですが」

 医術院の責任者、杉田は、禿げあがった頭に手を当てる。

 「皇帝陛下は、珍しい医術を行う者に興味をお持ちのようです」

 「……!」

 その言葉に、綾子はハッとした。が、頭を上げてはいけない。

 「医術師に予防接種なるものを施し、治療に当たらせることで、医術師が倒れることを防ぐ。この医術所から広まった話の元は、あなた方ですか?」

 「はい、仰る通りにございます」

 綾子は静かな声音で答えた。

 「私どもが父から教わった医術に従い、医術所の滝川先生にご協力いただきました」

 「……央ノ都医術所でも、医術院でもなく、ただの小さな診療所とは」

 「例年よりも有意に死者が少なく、後遺症を残した患者も少ないと聞いています。そこまでの成果が残せたのは、間違いなく滝川先生のご協力があってのことでございます」

 自分たちの力であってはいけない。あくまで医術所を通したものだと主張する。それは、ある種の責任逃れでもあった。

 兄は優秀だ。自分たちだけで動くことはなく、真っ先に滝川に協力を仰いだのだから。

 「綾子殿の仰る通り、今回の疫病は確かに死者が減りました。楠本殿にご助言いただいたように、患者を隔離し、抗体を持つ者にのみ治療にあたらせた。その結果と言えます」

 滝川が静かに言い添える。その言葉が嬉しかった。

 「わかりました。皇帝陛下に謁見できるよう取り計らってみましょう」

 「よろしくお願いいたします」

 綾子はさらに深く頭を下げた。



 医術院からの帰り道。綾子は岩木とともに歩いていた。

 「話がうまく進んでよかったですね」

 綾子の方から口を開く。

 「そうですね」

 彼は口数も少なく答えた。

 「兄上に相談しますが、謁見の時も私が行くことになると思います」

 「そうですか」

 「……一緒に、いきますか?」

 綾子は足を止める。わからない。わからないが、彼がそばにいてくれるといいと思った。

 今日だって、ろくなことは話していない。ほとんど綾子と滝川だけで話していた。

 それなのに、彼がいてくれると、落ち着いていられると思った。

 「……勉強させてもらえるなら」

 彼はそう答えた。

 「わかりました」

 綾子は頷いて、再び歩き出す。

 「兄上に相談してみます」

 それ以上2人の間に会話はなかった。しかし、その無言の時間が、不思議と嫌ではなかった。




 いつもよりも上等な着物。この日のために、わざわざ新調した。綾子たちが里から持ってきたものの中には、謁見に適したものがなかったから。

 「綺麗だよ、綾」

 着付けを終えた綾子に、弦太郎が目を細める。そして、綺麗にまとめた髪にかんざしを挿した。

 「兄上」

 「いいから。記念だ」

 高価な装飾のかんざし。いつの間に買ったのだろう。

 「姉さま!」

 「露、走ってはいけませんよ」

 「わぁ……っ、綺麗です! 姉さま、素敵!」

 「わかりましたから……。べたべた触らないで」

 はしゃぐ妹をなだめると、弟子たちも近づいてくる。

 「おぉ……」

 「綾殿は華やかな着物がよく似合いますね」

 「……ありがとうございます」

 褒められたことへのお礼を述べると、弟子たちの視線が動く。その視線を集めて、現れた人物。

 「岩木様」

 綾子と同じく、新調した立派な着物を着た岩木に、綾子が声をかける。なんとなく着心地が悪そうな彼に、綾子はニコリと微笑んだ。

 「大丈夫。私がいます」

 患者を安心させるように。そういう笑顔は得意だ。

 「医術師としてのあなたを信じています」

 綾子の言葉に、岩木は黙って頷いた。

 「綾、その言葉は、僕からも言わせてもらうよ」

 弦太郎が微笑む。

 「綾は医術師だ。父上の医術を広めるために、どうか力を貸してほしい」

 「はい」

 「岩木さん、綾を頼みます」

 「……はい」

 家族に見送られて、2人は診療所を出た。



 医術院の医術師、医術所の滝川とその従者、そして綾子と岩木。一行はそれぞれ駕籠で皇帝が住まう屋敷へ向かった。

 そこは、まさに宮殿という言葉にふさわしいたたずまいだった。

 「こちらへ」

 圧倒される綾子は、覚悟を決めて滝川の後を追う。

 怖い、という感情が、ないわけではなかった。しかし、これはこれ以上不必要な死者を出さないための策。医術師として、必要な仕事だ。

 診療所の何倍もの広さの座敷に通され、綾子はその隅に座って頭を下げる。しばらくして、カランという軽い鐘の音が響いた。これが皇帝の合図。

 まず、高価な絹の着物が畳を擦る音が耳に届いた。そして、香のかおり。その匂いに、どこか懐かしさを覚えた。

 「頭を上げよ」

 威厳の塊のような低い声。一度深く頭を下げ、そしてゆっくりと上げる。

 かなり遠い。しかし、息が詰まるような威圧感。

 「杉田、疫病の件で話と聞いたが」

 「はっ。陛下におかれましてはごきげん」

 「よい」

 典型文の挨拶を省略させる。これはよくあることなのか、医術院の杉田は動じることなく、

 「今回の疫病は、例年より死者が少ないことは、ご存知でしょうか」

 と続ける。

 「あぁ、そうだったな。なんでも、今までにはない医術のやり方をしたとか」

 「はい。その医術を先導したのが、都で医術所を開いているこの滝川という男です」

 「ほう。そちは都に来て短いのか?」

 皇帝から直々の言葉に、滝川は落ち着いて

 「私は都で生まれ育ちました。もう60年になります」

 と答える。

 「では、なぜ今まで何もしなかった?」

 空気を圧縮したような強い空気が流れる。

 「このような方法があると、私も知らなかったからにございます」

 「知らなかった、と?」

 「はい」

 少し離れているのに、滝川がふっと息を吐くのがわかる。

 「教えてくれたのは、最近都に入ったという、そこの医術師にございます」

 綾子は手をつき、軽く頭を下げた。

 「そちは?」

 「鉢ノ里という小さな里で療養所を開いております、楠本綾子と申します」

 「聞いたことのない名前だ。そちが医術師と?」

 「はい」

 「女なのに?」

 覚悟していた。性別で下に見られることなど、今まで何度となくあった。

 「おそれながら」

 綾子はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

 「医術は平等です。尊いお方から卑しい者まで、等しく医術を受ける権利がございます。それと同様に、男であっても女であっても、医術を学ぶ権利があるのです」

 負けたくない。そんな気持ちが、心の中に芽生えた。

 女だからという理由で、医術師であることを否定されたくない、と。

 「おもしろいな」

 皇帝が笑った。

 「それで? なぜそちが、都の医術師たちも知らない医術を知っておると?」

 「父から教わった秘伝の術があったからにございます」

 手はわずかに震えていた。しかし、声は震えなかった。しっかりと芯の通った、澄んだ声だった。

 「そちの父親はどこの者なのだ」

 「わかりません」

 「わからない?」

 「はい。父がどこで生まれ育ち、誰から医術を学んだのか、私は知りません」

 真っ直ぐに、何のよどみもなく、綾子は言い放った。

 「それを親に聞かなかったのか」

 「医術には必要のない不思議でしたので」

 聞かなかったはずはない。しかし、なんでと繰り返す綾子に、母がそう言ったのだ。医術に不要の不思議の答えを、追い求める必要はないのだと。

 「なるほどな。確かにそちは医術師だからな」

 皇帝は楽しそうに笑った。

 「それで? 朕に用事があるのは、そちのようだが?」

 「はい」

 いよいよだ。

 「この流行り病の正体は、麻疹と呼ばれる病にございます」

 「……ほう」

 「麻疹とは、身体が火のように熱くなり、目の膜に炎症ができ、全身に赤いぶつぶつができます。今回の流行り病の患者に共通した症状です」

 「杉田、そうなのか?」

 皇帝が医術院の責任者に尋ねる。

 「確かに、この者の申す通りにございます」

 杉田はそう頷いた。

 「この病は、流行を防ぐことができます」

 「どうやって」

 「予防接種という方法がございます。あらかじめ体内に原因となる病の種を入れ、体の中で種と戦う準備をしておくのです」

 の瞼がぴくっと動いた。

 「体内に病の種を入れると、危険ではないのか?」

 「この時に使用する種は、かなり弱めています。少しの発熱や、針を刺した部分の痛みなどはありますが、麻疹にかかるよりずっと安全です」

 父に教わった言葉。兄と妹と一緒に学んだ言葉。その言葉に、嘘はきっとない。

 「針を刺して種を入れるのか」

 「はい。肌に直接針を刺して種を入れます」

 「……おそろしいことを言うのだな」

 皇帝の声に緊張の糸が張りつめる。警戒されていることはわかっていた。

 「おそろしいことなどありません。私は、ずっと幼い頃にその処置を受けました」

 「幼い子どもにもやるのか」

 「子どもの時に体に種の形を覚えさせることで、より強力な病気を防ぐことができますので」

 落ち着いていた。もう怖いという気持ちはなかった。

 「杉田、これはどうなんだ?」

 「わかりません。ただ、幼い頃から種を入れていたというこの者の兄妹は、前線に立って医術を行ったにも関わらず、疫病にかかってはおりません」

 滝川から報告を受けていた杉田が、事実を述べる。

 「それから、今回の疫病に関わった医術師の中で、滝川の指示を受けてあらかじめ弱った種を体内に入れていたものは、疫病にかからずに済みました」

 「……なるほどな」

 皇帝はうなった。

 「確かに、よぼうせっしゅとやらの効果はあるようだ」

 かなり皇帝の態度が崩れてきた。先ほどまでの威厳が薄れ、どこか気のいいおじさん感が否めない。

 「それで? そこの君は、私に何をしてほしいんだ?」

 「陛下」

 「いいじゃないか」

 たしなめる杉田を、皇帝は軽くあしらう。

 「そこのお嬢さんは、下手な演技よりこっちの方が落ち着くだろう?」

 これも皇帝の気遣い、ということにしておこう。この意図など、医術には関係ない。

 「皇帝陛下」

 その中で、綾子は真っ直ぐに皇帝を見た。

 「予防接種には莫大な資金が必要です。また、特殊な医術のため、拒む患者様も大勢いるでしょう。陛下のお力をお借りしたいと存じます」

 打ち合わせでは、杉田から言ってもらう予定だった。しかし、皇帝は綾子に聞いた。だから、綾子が答えた。ただそれだけのこと。

 「うん、いいよ」

 皇帝はあっさり答えた。

 「好きにすればいい」

 「陛下、もっとお考えに」

 「お前が持ってきた話だろう、杉田」

 皇帝をなだめる杉田は、逆に皇帝から笑みを向けられる。

 「医術のことはわからん。だが、杉田のことは信頼している。お前はこの医術が必要だと思ったから、そこのお嬢さんを私に紹介した。違うか?」

 「……仰る通りにございます」

 「それなら、私はお前を信じる。そして、我が国の医術師たちを信じる。疫病の度に人口が減って大臣たちにぐちぐち言われたくはないからな」

 すごい、と思った。これがこの国を統べる皇帝の言葉か。

 信頼するという言葉が、信じるという言葉が、ずっと重い。心にずしんと乗っかる。そして、それに応えたいと思わせる。

 「綾子といったか」

 「はい」

 皇帝に名前を呼ばれ、綾子は答える。

 「おもしろい女だ。やってみよ」

 「ありがたく存じます。皇帝陛下のお気持ちに報いることができるよう、最善を尽くします」

 綾子は頭を下げて引き受けた。



 「ただいま戻りました」

 「姉さま!」

 診療所に戻った瞬間、露子が飛び出してきた。

 「何事ですか」

 露子は慌てて姉に飛びつき、ぎゅっと抱きしめて見上げる。

 「……よかった」

 その目には涙が溜まっていた。

 少し遅れて、弦太郎と残っていた弟子たちも出てくる。

 「おかえり、綾」

 弦太郎は心配そうに、しかし次には笑顔になり、綾子を迎えた。

 「予防接種の普及を指示していただけるそうです」

 「おぉ……!」

 弟子たちの中から歓声があがる。

 「まずは医術師、そして貴族から予防接種を行うことになります」

 「……うん」

 兄の顔が、喜びに綻ぶ。

 「よくやったね」

 これで、これからこの病気で亡くなる人を減らせる。きっと兄も同じ気持ちなのだろう。

 「皇帝陛下が、この国の医術師を信じると仰っていました」

 次に綾子の口から出た言葉に、全員がしんと静まり返る。

 「私は、皇帝陛下のそのお言葉に、お気持ちに、応えたいと思います」

 「……そうだね」

 弦太郎が静かに息を吐く。

 「それが、僕たちにできることだ」

 「はい」

 綾子の真っ直ぐな返事に弦太郎は微笑み、その頭に手を添える。

 「お守りが役に立ったみたいでよかった」

 「え?」

 そして、綾子の頭にささったかんざしを抜く。

 「母上が大切にしていたものでね。今までは、僕が持っていたんだけど」

 「え、ずるいです!」

 露子が思わず声を出す。

 「綾子に託してよかった」

 このかんざしは、兄が、母との思い出とともに思いを妹に託したものだったのか。

 「あげるよ、綾。僕にはもう必要ない」

 弦太郎が差し出したかんざしを、綾子は両手で受け取る。

 「ずるい! 露もほしいです!」

 妹から伸びてくる手から避け、そのかんざしを優しく包み込んだ。

 「露ももう少し大きくなったらね」

 不満そうな露子を、弦太郎がなだめた。



 その日の夜、綾子は縁側で夜空を見上げていた。手にはあのかんざし。銀色が、月明かりにキラキラ輝く。

 母の形見だと言っていた。綾子も知らなかった。きっと早い段階で兄は母からこれを譲り受けていたのだろう。

 銀なんて、いったいいくらするのだろう。母はどこでこれを手に入れたのだろう。田舎でこんなものを売る店は、そんなにないはずだ。

 その時、そばの障子が開く。

 「あにう」

 兄が入ってきたのかと振り返ると

 「岩木様……」

 そこに立っていたのは岩木だった。

 「まだ休まれないのですか?」

 「それは綾子さんも同じでは?」

 岩木はそう答えて、綾子の隣に座る。

 「……お酒の匂いがします。酔ってますか?」

 「少しだけ」

 「少しだけでこんな匂いはしません。……ほどほどにしないと、身体を壊しますよ」

 綾子の注意に、彼は酔っているのはふっと鼻で笑った。

 「何をしているんですか?」

 「星を数えるおまじないがあるんです」

 綾子はそれに答えて空を見上げる。輝く星々は、相変わらず空高くにあって。手が届きそうにない。

 「死んだ人は星になって、空から見ていてくれる。父からそう教わりました」

 「……疫病で亡くなった人も?」

 「はい。きっと」

 空を見上げる理由がまた増えた。語りかける人が、また増えただけ。

 「眠れない時は星を数えなさい、と言われました。それからずっと、眠れない時はこうやってます」

 空に手を伸ばし、指で星をなぞりながら、ひとつ、ふたつ、と数える。

 「それで眠くなりますか?」

 「……眠くなる前に、父か兄が眠り薬を持ってきます」

 思えば、星を数えて眠れたことなんて、それこそ数えるほどしかなかった気がする。ただ父と兄を待つための時間。そんな感じがした。

 「ハハハッ」

 小さな声が聞こえた。その声は、笑っていた。

 珍しい。不愛想な彼が笑うなんて。

 「……おもしろい話はしていませんが」

 「そうですか」

 彼はくくくっと喉を鳴らしながら笑う。

 「貴女は、医術の腕は確かで、否のない人だと思っていました」

 「……私も人間です。できないこともあります」

 「確かに」

 否定されなかったことに、なんとなく釈然としない感じを覚えながら、

 「随分酔っていらっしゃるようですね」

 と言ってみる。拗ねたような声になってしまった。

 「酔ってないと、夜に好いた女の部屋を訪ねるなんてこと、できませんよ」

 岩木が綾子を見た。その瞳に映る自分を見つめるように、じっと見つめ返す。

 「情けないですか?」

 「……いえ」

 どう答えればいいのだろう。こういう話は初めてだ。

 「では、俺を見てくれますか?」

 「え……」

 嘘や冗談ではない。それは、目を見ればわかる。ただ、答え方がわからない。

 「冗談です。おやすみなさい」

 彼は視線をそらして立ち上がる。

 「……おやすみなさいませ」

 綾子はそう答えるだけで精一杯だった。

 岩木が去った後、綾子は手元に視線を落とす。

 「母様」

 手の中のかんざしに語りかける。

 「今のは、どういうことでしょうか……」

 母がいたら、真っ先に相談したのに。

 初めて月の便りを受け取った時のような、居心地の悪さ。あの時は、どうしたのだったか。

 確か、父に相談したはず。病気かもしれないと不安だったから。父は黙って頭を撫でてくれた。今思い返せば、恥ずかしい出来事。

 この年になって、さすがにこの症状が病気ではないことは、もうわかっている。父代わりの兄に相談するまでもない。

 「……どうしたらいいの」

 かんざしを抱いた胸は、ドクンドクンと強く脈打っていた。



 「綾子」

 その日、綾子の姿は中村邸にあった。

 「わがままを受け入れてくださいまして、ありがとうございます」

 「いいえ。私も、綾子から説明を聞きたいと思っていたの」

 貴族たちの医術を担当するのは、主に医術院の医術師たち。だから、本来は杉田たちの担当だ。

 しかし、中村桜子だけは、綾子にやらせてほしいと頼んだ。彼女の病気は、予防接種の時にも注意が必要だったから。

 対処を教えて頼むこともできたのだが、麻疹が流行している時、中村邸には行けなかった。だから久しぶりの体調確認のためでもある。

 「まず、使う道具は、これです」

 「注射器ね」

 「はい」

 これは見慣れているのか、桜子はためらわずに受け入れる。

 「これに弱らせた菌という病の種を入れ、腕に注射して体内に入れます」

 「……病の種を入れるなんておそろしいわ。大丈夫なの?」

 その言葉には、わずかに不安そうな表情を見せた。

 「これ自体は問題ありません。お嬢様のご病気は、注射に対して不安を覚える場合もあるので、注意しておきたいと思ったまでにございます」

 「そう。綾子がそう言うなら大丈夫ね」

 絶大な信頼をおいてもらえるのはありがたい。

 「疫病をあらかじめ防ぐ効果がありますが、身体に針を刺すので痛いですし、熱が出たり刺した部分が赤く腫れたりします。あくまで任意ですので、拒むこともできます」

 「それくらいなら大丈夫。私、身体は丈夫なのよ。……って、病にかかった後ですもの。説得力ないかしら」

 「……そのようなことはございません」

 おどけたように肩をすくめる桜子に、綾子はふっと笑った。

 「綾子がそこまで言うなら、きっと大切なものなのでしょう? 私は大丈夫よ。打ってちょうだい」

 「ありがとうございます」

 桜子の了承を得て、綾子は注射の準備をする。

 「緊張するわね。痛くしないでちょうだいね」

 「注射は痛いものですよ」

 「まぁ……」

 ふふっと笑う桜子の表情を見て、大丈夫だと信じ、

 「チクっとします」

 針を腕に当てた。血管にそって寝かせ、ゆっくりと針を入れる。

 「……っ」

 桜子の息がきゅっと詰まるのを感じた。血管に入る感触を確認してから、

 「一度息を吐いてください。動かずに」

 「え、えぇ……」

 緊張状態はよくないと、そう告げる。桜子は言われた通りに息を吐く。

 「これから薬を入れます」

 「えぇ。わかったわ」

 注射したところと、桜子の表情。両方を見ながらゆっくり薬液を入れていく。

 「……ぅっ」

 桜子の表情が痛みに歪む。しかし、手を止めることはなかった。

 「はい、終わりました」

 針を抜くと、桜子は詰まっていた息をはぁっと吐いた。

 「……ふふ。思ったより痛くなかったわ」

 嘘だ。あんなにつらそうだったのに。

 「これなら、お友達にもおすすめできるわね」

 「すすめていただけるのですか?」

 綾子は注射器をそばに置いて問う。

 「大切なものなのでしょう? 少しも痛くなかったって言っておくわ」

 「ありがとうございます」

 貴族の間では、まだ不信感を訴える者が少なくない。医術院に任せているとはいえ、貴族が予防接種を受けなければ、流行り病の危機にさらされる人々の元に薬は行きわたらないのに。

 そんな貴族たちの中で生きる桜子の言葉ひとつで、何か変わるかもしれない。今はそんな小さな希望にさえもすがる時期だ。

 「ねぇ、綾子。今日はかんざしをしているのね」

 「あ、はい。母の形見です」

 「見せてもらってもいいかしら」

 そう言われ、綾子は髪からかんざしを抜いて、桜子に渡した。

 「……繊細な細工だわ。きっと腕のいい職人が作ったのね」

 「高価な銀で作られているので使うか迷ったのですが、格式の高い場にはふさわしいかと」

 今日はただの往診の一環だが、貴族の家に出入りするのだからと選んだ。お守りの意味もあるのだから。

 「その通りよ。いったいどこでこれを……」

 「母のものを、最近まで兄が保管してくれていました。母がどこで求めたのかまではわかりません」

 「それもそうね。綾子のお母君は亡くなられているのだったかしら」

 「はい。10年前に」

 そう答えて、ハッとした。そうか、もう10年が経ったのか、と。

 「大切にしないとね。牡丹の花のかんざしなんて珍しいのだから」

 桜子は丁寧に返してくれた。

 「そうそう。綾子のおかげで社交界に参加できるようになったから、この前もお茶会に行ってきたのよ」

 明るい話題に変わり、綾子は話し相手になった。



 「姉さま、お夕飯ができました」

 露子が呼びにきた。

 「今日は淡路兄さまが手伝ってくださったのですよ」

 「よかったですね」

 包丁や火の扱いには慣れている。それにそばには弟子たちの誰かがついていてくれる。だから、料理を露子に任せることも多かった。

 「兄さま!」

 通りかかった部屋の襖を、露子が勢いよく開ける。

 「露、返事を待ってから開けなさい」

 まず妹に注意をし、

 「兄上、失礼いたします」

 綾子も兄の部屋を覗く。

 「もうそんな時間か」

 読書をしていた弦太郎が穏やかに笑った。

 「……また父様の医学書を?」

 兄の表情を見て、綾子は察した。少しだけ影の差した笑顔の時は、難しいことを考えている時だ。

 「全てを教わったわけではないからね。いつでも対処できるように、しっかり覚えておこうと」

 もう全部覚えているはずなのに。それでも兄が憂いる何かがあるのだろう。

 「兄さま、今日は兄さまが好きな魚の煮付けですよ。俊兄さまがお魚屋さんからお礼にいただいたそうです」

 「それは嬉しいね」

 露子なりに兄を元気づけようと明るく甘える。それを察して、弦太郎は露子の頭を撫でた。

 綾子は、そっと医学書に目を落とす。開かれていたのは、内臓を取り出す手術の項目。確かに難しい手術だ。父がしていた記憶もほとんどない。

 こんなことが、本当に可能なのだろか。そんな不安も、なくはなかった。しかし、頭を振ってそんな考えを払う。

 信じること。医術を。患者の力を。神を。そして、父を。それが、この医術には不可欠なのだから。




 「お大事になさってください」

 診療所から出て患者を見送る。

 「ありがとう!」

 報酬はもらっているが、この笑顔はお金よりも嬉しいものだ。

 「姉さま!」

 そこに、弦太郎と露子が帰ってくる。

 「おかえりなさいませ、兄上」

 「うん、ただいま。患者さんかい?」

 「今お帰りになられました」

 患者を見送っていたことを伝え、次は妹を見る。

 「姉さま、お薬の材料を買ってきました!」

 嬉しそうな笑顔。褒めてもらえると思っているらしい。

 「薬箱に片付けましょう。露、手伝ってくれますか?」

 「はい!」

 「先に入っていなさい」

 露子が元気に診療所の中へ入っていく。

 「兄上、医術所の方はどうですか?」

 「貴族への接種が思うように進まないらしくてね。医術院の方々も、予防接種には否定的だ。……父上はそういう意見も受け入れなければと言っていたけれど」

 最近の弦太郎は、毎日のように医術所や医術院、そして他の診療所を回っている。予防接種の必要性について直接説明するためだ。しかし、なかなか進んでいないらしい。

 「父様のは理想論です。都から流行り病を消せるかもしれないのに」

 「仕方がないよ」

 皇帝からの命令で、貴族や医術師が終わらなければ薬を次に回せない。ほとんど家から出ず、移動も駕籠や馬ばかりの貴族よりも、毎日たくさんの人と関わりながら働く商人や農民たちは、流行り病にかかる可能性がずっと高いのに。

 「団子を買ってきたんだ。患者さんもいないだろう? 休憩にしよう」

 「またそんな贅沢を……」

 綾子が呆れながらふと視線を逸らした時。遠くから仰々しい駕籠が見えた。

 「綾?」

 その視線を追って弦太郎も振り返る。

 「……貴族か。珍しいね」

 都とはいえ、ここは貴族たちが住む区画からは離れている。貴族がこの道を通るなんて珍しいことだった。

 揃ってその場にひれ伏す。すると、駕籠は診療所の前で止まった。

 「綾子!」

 駕籠から聞こえた声に、綾子がハッと顔を上げる。

 「お嬢様」

 「よかった。やっと会えたわ」

 嬉しそうな中村桜子が駕籠から出てくる。

 「なぜこちらに……」

 「綾子に会いにきたのよ。ねぇ、お土産があるの。少しお話しない?」

 「は、はい……」

 戸惑いながら、綾子は彼女を診療所内に招き入れる。

 「あら、そちらは……」

 「兄の弦太郎です」

 「あぁ、綾子の兄君ね。話には聞いているわ」

 「光栄です」

 弦太郎は言葉少なくそう答えただけで、近づこうとはしない。貴族の未婚女性が男性に近づくのは、あまりよしとされていないためだ。

 「ごゆっくりされてください」

 そして、座敷に綾子と桜子を残して出て行く。

 「素敵な方ね」

 男性に慣れていない桜子は、なぜかうっとりと頬を緩ませる。

 「もったいないお言葉にございます」

 綾子が答えると、桜子は

 「あぁ、そうだわ。これね」

 と何かを取り出す。

 「お茶会で出されたお菓子がおいしくて。さっき買ってきたの」

 綺麗なふろしきを広げ、木箱の中に入っていたお菓子は、真っ白な花の形をしていた。

 「すごい……」

 「そうでしょう? 綾子ならきっと気に入ると思ったわ」

 「立派なお菓子ですね」

 明らかに庶民には手が出せないお菓子だ。

 「失礼いたします」

 襖の外で露子の声がした。ゆっくりと襖が開き、露子が座っていた。

 「お茶をお持ちしました」

 珍しくいい子にしている。丁寧に頭を下げ、静かに入ってきて襖を閉めた。

 「あら、綾子の妹さん?」

 「はい。露子、ご挨拶なさい」

 「お初にお目にかかります。妹の露子にございます。姉がお世話になっております」

 綾子が教えた通りに挨拶できている。いつもはあんなに甘えん坊なのに、やる時にはちゃんとできるのだ、と驚いた。

 「ご丁寧にありがとう。よかったら、お菓子食べる?」

 「……!」

 それを聞いた瞬間、露子は嬉しそうに目を輝かせた。が、すぐに落ち着き、

 「高価なものはいただかないように言われております」

 と答える。

 「あら、いいじゃない。ねぇ、綾子?」

 「……はい。露、ありがたくお受けいたしましょう」

 「はいっ」

 一気に声が明るくなった。露子は丁寧にお茶を出し、綾子の隣に座る。懐紙に乗せたお菓子を両手で受け取り、うわぁ、と目を輝かせた。

 「ありがとうございます!」

 菓子楊枝を使って一口食べ、ぱっと顔を輝かせて姉を見る。一応作法には気をつけているが、まだ隠しきれていない。

 「よかったですね」

 その表情だけで察して、綾子がたしなめる。

 「露子はかわいいわね」

 その様子に、桜子は笑った。多少の礼儀の崩れは許してくれるだろう。

 「そうそう。綾子、あのかんざしのことだけど」

 「はい」

 綾子がこの前つけていた銀のぼたんのかんざしのことだろう。

 「あのかんざし、お母君のものだって言ったわよね?」

 「はい。母の形見だと聞いております」

 「実は……」

 桜子が言い辛そうに、それでもゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「ある公爵家の方が、すごく興味を持っていらっしゃったの。何もないと思うけど……」

 「公爵家のような方とは関わりがありません。きっと何かの間違いでしょう」

 「そう? それならいいのだけれど。念のため注意しておいてね」

 公爵家なんて、皇帝と同じく雲の上の存在。当然面識はない。

 心配そうな桜子を安心させるため頷いておいたが、それほど気にしてはいなかった。



 それから数日後のことだった。

 「綾」

 医術所から帰ってきた兄が、綾子の部屋に声をかける。すぐに襖を開け、

 「おかえりなさいませ、兄上。お早いですね」

 と声をかけた。

 「話があるんだ。いいかな」

 真面目な顔。何かあったのだろうか。

 「どうぞ」

 綾子は襖を開けて兄を招き入れた。



 医術所から帰ってきた兄が、神妙な面持ちで綾子の部屋を訪れた。

 綾子は首を傾げながら兄の前に座る。

 「医術所で滝川先生から聞いたんだけど」

 「はい」

 「……ある高貴なお方が、医術院を通じて、綾子に会いたいと言ってきたらしいんだ」

 おかしい。確かに桜子を通じて貴族につながりがあるとはいえ、高貴な人々と面識はそんなにない。

 「気になるのが、銀のかんざしをしている女の医術師、という指定だったらしいんだ」

 「……そうですか」

 なんとなく思い当たるのは、以前桜子が来た時に言っていた「公爵家」という言葉。

 「かしこまりました。医術院の杉田先生に文を書きます」

 まずは仲介してくれる杉田に連絡を取ってみなければ。

 「そうだね。でも、心配だな。変な依頼だ」

 「どんな方であれ、病に苦しんでいるのであれば患者様です。医術師が患者様を拒むことはできません」

 心配する兄に、綾子は大丈夫だと微笑んでみせた。

 「私も一緒にいこうか」

 「兄上は診療所をお願いします。貴族にお会いするのは初めてではありませんし、また女性であれば兄上は拒まれるかもしれませんから」

 「それはそうだけど……」

 それでも妹を心配する兄というのは止まらない。

 「あぁ、わかった。岩木さんに同行してもらおう。彼なら綾を守ってくれるだろう?」

 「それはかまいませんが、なぜ岩木様なのですか?」

 「……なんとなく?」

 兄の曖昧な言葉に首をかしげながら、それでも岩木ならと受け入れた。

 彼は綾子を見下すことがないし、医術師として認めてくれている。だから居心地は悪くない。

 それでも気になるのは、あの月が綺麗だった夜の日のこと。未だに忘れられずにいた。

 「とにかく、綾ひとりでは行かせられないよ。杉田先生が同行してくださるとはいえ、大貴族みたいだからね」

 「……かしこまりました。では、兄上のお好きなように」

 患者を診ることができるならなんだっていい。困っている人を助けることこそ、綾子が何よりもやりたいことなのだから。



 杉田に文を出して数日後。綾子は患者のもとに呼ばれることになった。

 医術院を訪れた綾子と岩木に、杉田は状況を説明してくれた。

 「月見里(やまなし)公爵閣下をご存知ですか?」

 「いいえ」

 会ったことも見たこともない。

 「公爵夫人が、銀のぼたんのかんざしをつけた女の医術師に会いたいと。予防接種も、できれば貴女から受けたいと仰せです」

 桜子から聞いたのだろう、というところまでは予想できる。

 しかし、そこでなぜ会いたいという話になったのか。ただ、女性の医術師が珍しくて興味を持っているだけか。

 「月見里公爵家は皇帝陛下にも近しい尊いお家です。くれぐれも粗相のないように」

 「承知いたしました」

 大きな病気でないならよかった。男性ばかりの医術師に不安を持っていたのかもしれない。

 そう思うことにして、綾子は準備をした。



 本来、庶民が立ち入ることなんてできない区画。そこに入るためには、駕籠ではなく輿に乗らなければいけない。

 公爵家から遣わされた輿に乗り、綾子は初めてその屋敷を訪れた。

 城、とでもいうのだろうか。皇帝が住まう宮殿にも負けない、豪華なお屋敷。そこが、目的地だった。

 大丈夫。心の中で言い聞かせる。

 医術師としてやれるだけのことをやればいい。そこで首を斬られるなら本望だ。せめて兄や妹に迷惑が掛からないようにしなければ。

 「こちらでお待ちください」

 侍女によって通された広い部屋は、豪華な調度品が並ぶ。権力を誇示するような部屋だと思った。

 「綾子先生」

 岩木の声に振り返る。ここにいる間、岩木は綾子をそう呼ぶと言っていた。

 「道具の準備をいたしますか」

 「……そうですね」

 まだ出すのはよくないだろうが、少し準備をするくらいならかまわないだろう。せめて取り出しやすいようにと、道具箱の中で道具を入れ替えておく。

 「公爵夫人がいらっしゃいます」

 ついにその時が来た。綾子はすぐにその場で頭を下げる。

 着物の衣擦れの音が聞こえる。音だけでもわかる、高価な着物だ。

 「杉田、よく来てくれましたね」

 聞こえてきた声は、凛と澄んでいて、静かだった。

 「公爵夫人にはお変わりなく」

 「よいのです。そちらをご紹介いただけますか」

 丁寧な人だ。そして、その声には、どこか焦りを感じる。

 「都で唯一の女の医術師にございます」

 「お初にお目にかかります。楠本綾子と申します」

 綾子がさらに深く頭を下げながら述べる。

 「……よく来てくれましたね」

 なぜだろう。懐かしいと感じた。どこかで会ったことなどあるはずもないのに。

 「杉田から聞きました。腕のいい医術師とか」

 「ありがたいお言葉にございます」

 否定はせず。しかし、鼻にもかけず。慎重に言葉を選ぶ。

 「予防接種を広めていると聞きました。どんなものかお聞きしてもいいかしら」

 「はい」

 頭を下げたまま、綾子は告げる。

 「多くの医術師の方々にご協力いただき、都の流行り病のひとつが麻疹という病であることをつきとめました。この病は、身体に菌という病の種を覚えさせておくことで防ぐことができます」

 落ち着いて、冷静に。やることはいつもと変わらない。

 「病にかかることを防ぐために、まずはお身体に弱らせた菌を入れます。これが、予防接種というものでございます」

 「……そう。わかったわ。病を防ぐためなら、必要なことね」

 「ご理解いただき、感謝申し上げます」

 綾子がそう告げると、

 「頭を上げてちょうだい」

 ようやくそう声がかかった。ゆっくり頭を上げる。その目に映ったのは。

 母だった。

 喉の奥に溢れる苦い汁を、ぐっと飲み込む。

 違う。母ではない。母に似ているだけだ。そう言い聞かせて。

 「針で入れると聞いています。打ってくれるかしら」

 「かしこまりました」

 道具箱を持ち、静かに近づく。響くのは、衣擦れの音だけ。

 「袖を捲り上げてください」

 男性に肌を見せるのはよしとされていない。公爵夫人の前に几帳が置かれる。

 傷ひとつない白い肌。高位な貴族だからだろう。この肌に針を入れるのは、少し緊張した。

 「少し痛みます」

 そう告げて、ゆっくり注射の針を入れる。

 「今から薬を入れます。もう少し強く痛みます」

 「……えぇ」

 急がず、慌てず。それでいて、苦痛を長引かせてもいけない。慎重に薬を入れ、ゆっくり針を抜いた。

 「少し押さえます」

 注射器をそばに置き、止血のため刺した部分を軽く抑えた。

 「思ったより痛くないのね」

 「そう思っていただけたら、嬉しく思います」

 あの動揺はもうなかった。医術に触れれば、一気に冷静になれた。

 「……本当に、銀のかんざしをしているのね」

 その声が、少しだけ明るくなった。

 「母の形見だと聞いております」

 「貴女のお母君のものなのね。どういう方か、聞いてもいいのかしら」

 「……はい」

 母に似た人。なぜ母のことを聞くのか、とは考えない。貴族の考えなんて、わからないからだ。

 「母は、優しい人でした。私や兄をいつも慈しんで育ててくれました。しかし、時には子どものように自由で。よく父が困っていたのを覚えています」

 母の姿を瞼の裏に浮かべながら、そっと言葉を紡ぐ。

 「そう。今もお元気で?」

 「10年前に亡くなりました。妹を産んで、身体を壊してしまって」

 「……そうなのね。辛いことを聞いてしまってごめんなさい」

 「もう昔のことですので」

 もう止血はできただろうと離れ、注射器を片付けて一歩下がる。

 「終わりました」

 「ありがとう」

 公爵夫人は穏やかな声で言ってくれた。

 「綾子、と言ったわね」

 「はい」

 答えた綾子の頬に、公爵夫人の手が伸びてくる。そのまなざしは、母のように優しくて。

 「またお願いしてもいいかしら」

 「光栄です。しかし、医術院の方々は私よりも優れた方ばかりです。私のような下賤なものには」

 「貴女がいいの」

 医術院の杉田の手前、断ろうとした。しかし、その言葉は遮られる。

 「ね? お願い」

 「……かしこまりました」

 女性の方が話しやすいのだろう。そういうことにしておく。

 綾子は恭しく頭を下げて引き受けた。