旅をしながらいくつかの旅籠に寄って夜を過ごし、兄妹は大きな町に着いた。
「兄さま、ここが央ノ都ですか?」
「そうだ。大きな町だろう?」
「鉢ノ里とあまり変わらないように見えます」
子どもの素直な意見に、弦太郎は目を見開き、そして笑う。
「2人とも、新しい着物でも買おうか」
「本当ですか!」
「いりません」
嬉しそうな露子の言葉に、綾子がわざと言葉をかぶせる。
「でも、綾。ここは里とは違って、華やかな着物が多いだろう?……その着物は、少し目立つかなって」
確かに汚れてはいる。しかしこれは旅装束。多少の汚れなど気にならない。
ここは大神国の中では大都会で、華やかに着飾った都の娘たちの姿を見ると、妹たちがみすぼらしく見えてしまった。
「どうせ汚れます。華やかで高価な着物など、無駄なだけです」
「姉さまは、きっと嫁の貰い手がありませんね」
「困りませんから」
残念そうな露子が少し姉に強く当たるが、綾子は全く気にしていない。
「じゃあ、簪や櫛なんかはどうかな」
「必要ありません。無駄です。そんなものを買うくらいなら、薬を買います」
頑なな姿勢に、弦太郎も呆れるしかなかった。
そんな時、
「人が倒れたぞ!」
すぐ近くで、悲鳴に似た声がした。
兄妹の視線がそちらに向く。周りの人間たちの視線も集まり、騒ぎの原因はすぐにわかった。
倒れているのは女。苦しそうに胸を押さえ、呼吸がしづらそうに口をパクパクと動かしている。
「ちょっといいか」
そこへ、1人の男が駆け寄った。
「あんた、医術師か?」
「あぁ」
女のそばにいた男は、それを聞いて安心したように頬を緩ませた。
男は、さっそく胸に耳を当てる。
「心臓か……?」
そんな声が聞こえてきて、
「……阿呆だわ」
綾子がぽつりと呟いた。
「こら、綾」
はっきりとした言葉に、弦太郎が窘める。
「胸痛、呼吸困難の訴えを、聴診だけで診断しようとしているのですよ。それも心臓から来るものと決めつけて……。阿呆以外のなにものでもありません」
「それはそうだけど、まだ気づくかもしれないだろう?」
弦太郎も綾子も、患者には近づいてもいない。しかし、診察のやり方は、父からよく教えられている。
「兄さま、姉さま、行きますか?」
露子が薬箱を持ち上げた。
「いや、やめておこう。央ノ都の医術師がいるんだ。おそらく都の医術所の」
「では、わたしが」
兄が行かないとわかり、さっそく綾子が踏み出す。
「あ、こら」
露子も当然姉の後を追うため、これでは弦太郎が行かないわけにはいかないではないか。
「退いてください」
綾子は医術師だといった男を押しのけ、触診を始める。
「なんだ、お前は!」
「医術師です。触りますね」
患者にそう呼びかけ、胸に手を当てる。軽くトントンと胸の辺りをたたいてみる。
「姉さま、どうぞ」
父から譲り受けた聴診器を露子から受け取り、聴診もした。問診はできそうにない。あとは視診か。患者の様子をじっと観察して。そうしてようやく、病名がわかる。
「おい! 何をしてるんだ!」
「申し訳ございません。鉢ノ里診療所を開いている医術師でございます」
都の医術師と喧嘩はしたくない。医術は妹に任せ、弦太郎が医術師だという男に挨拶した。
「鉢ノ里だと?そんなところ、聞いたこともない!」
「なにぶん小さな里ですので、都の方がご存じないのも仕方ないと」
弦太郎がなんとかご機嫌を取る横で、姉妹はさっそく治療に当たっていた。
「消毒」
「はい、姉さま」
「針の用意を」
「致しております」
女性の胸に消毒用の酒をかけ、注射針を刺す。中の芯を抜くと、ぷすっと空気の音が聞こえた。
しばらくして、患者に呼吸が戻る。針を抜き、軽く止血をして、終わり。
「終わりました」
綾子がそう告げた瞬間、周囲から歓声が上がった。
「おぉ……!」
「何者だ、あの女……!」
「医術師とか言ってたぞ!」
「女の医術師だと? おもしろい!」
騒ぎの中、綾子は女性を駕籠屋に任せ、代金を払って自宅まで送るように伝えた。
「騒ぎになったな」
仕事を終えて戻ってきた綾子に、弦太郎がつぶやく。
「申し訳ございません、兄上」
その言葉の割に、全く申し訳なさそうな妹に、弦太郎は笑みを漏らした。
人の命を救うのは当然。それができるだけの技術を持っているのだから。
綾子は、そんな母からの教えを信じているだけだ。
「お前さんたち、何者だ……」
唖然としていた医術師の男が、ようやく口を開く。
「ただの医術師ですよ。家に伝わる医術を行う者です」
「い、家にだと? 今の医術は、都の医術学問所でも教わらなかったぞ!」
「では、私どもの父は、他所で教わったのでしょう」
驚きを隠せない彼を軽く流し、
「それでは、失礼いたします」
と歩き出す。綾子と露子も、黙って兄の後をついていった。
「今日中に都を出た方がいいかな……」
歩きながら、弦太郎は考える。自分たちの医術が珍しいことはわかる。父からも秘密にするように教えられている。だから、目立つことはしたくなかったのに。
しかし妹が、いざ患者を目の前にして、何もせずに見放せるわけがないことも、弦太郎にはわかるのだ。
「また歩くのですか!? ……姉さまが目立つことをなさるから……」
「うるさいですよ、露。人の命を救って何が悪いのですか。……と、母様なら仰るはずです」
「ハハハッ、その通りだな」
また始まる姉妹の喧嘩に、弦太郎は笑った。
「とにかく今日は、できるだけここから離れよう」
「でも兄さま、父さまと母さまの故郷探しはどうするのですか? 都ではないのですか?」
「それもただの予想。父上も母上も、何も教えてくださらなかった。ただ、これだけの医術の道具を作る職人なら、都にいるだろうと思っただけだ」
「兄上は単純すぎます。腕のいい職人は都に集うなんて。わからないじゃありませんか」
辛辣な妹の言葉にも、弦太郎は笑みを崩さない。そんな会話をしながら、兄妹は赤く染まる夕陽に向かって歩いた。
薄暗い月明かりの下、弦太郎はまだ起きていた。
「兄上?」
衝立の奥から、薄い襦袢に着物を羽織っただけの綾子が出てくる。
都の旅籠は大きいもので、それなりに広い部屋を借りたため、気にすることはない。
「寝られないか?」
弦太郎の目に、心配そうな色が宿った。
「目が覚めただけです。兄上は寝ないのですか?」
綾子はいつものようにあっさり答え、兄の隣に座る。
「もう少しな」
そうつぶやいた弦太郎の手には、
「父様の……」
一冊の本が握られていた。それも、最後の頁が捲られて。
「またそれを読んでおられるのですか? もう内容も覚えておられるでしょう」
「それはそうだけどね……。この最後の一文が、どうしてもわからなくて」
「父様のお考えは、母様にもわからないと仰っていました。まだお若い兄上に、全て理解することなど不可能です」
「……厳しいな、綾は」
父が最後に残した文章。それは、綾子も理解することはできなかった。
「『この本に書かれた内容は、全て内密にすること』。なぜ父上は、こう書かれたのか……」
「それは父様の家に伝わってきた秘伝の術であって、どんな事情があっても他に漏らしてはならない、ということでしょう?」
まるで当然のように答える綾子に、弦太郎はさらに続ける。
「なぜ内密にしなければいけないんだ? これを国中に知らせれば、救える命はぐんと増える。それに、都の医術師でさえも知らない内容だ。父上が都で医術師をしていれば……。なぜあんな小さな里だったのか。わからないことばかりだよ」
長男として一番近いところで父の医術を学んだ彼だからこその疑問。
「父様には父様のお考えがあるのです。それに理由など必要ありません」
「……綾はそれで納得してるのか?」
本来なら、綾子の性格上、一番につきとめたがるものなのに。
「それが、父様と母様の教えですから」
そう答えた綾子の胸には、今も忘れたことのない母の言葉がよみがえった。
『綾、いいですか? 父様はとても遠い国から来られた方。父様のお言葉を全て理解しようとするなら、父様の故郷にまで行かなくてはいけません。ですから、どんなに不思議でも、それは医術には不要の不思議です。そんなことを考える暇があるなら、1人でも多くの人の命を救いたいと、母は思います』
なんで、なんで、と繰り返す幼い綾子に、母はそう教えた。
綾子にとって両親は全てであり、両親の言葉は何よりも大切なものだった。
だから、どんなに些細な言葉でもしっかり覚えていて、妹に母の言葉として伝えてきたのだ。
「そんなことより、兄上。いつ都を出るのですか? この宿にきて、もう5日になりますが」
「確かにここは都だけど、都でも外れにある旅籠。ここで十分だと思ってるよ」
「……兄上がそう決められたのなら、いいですが」
都の郊外の宿屋に滞在し、もう5日が経っていた。
両親の故郷を探し、父から受け継いだ医術道具を作る職人を探す。それが、この旅の目的。
必要な道具が減っていく中、少しでも早く職人を見つけて、減ったものを補充しなければいけない。
都にいるだろうと信じる兄は、遠く離れることができないのだろう。と、綾子は思っていた。
「兄さま……? 姉さま……?」
「露」
「露、起きたのですか?」
ほとんど開いていない瞼をごしごし擦りながら、衝立から出てきた露子は、綾子の隣にちょこんと座った。
「……つゆも、おはなし……したい、です……」
と言いながら、綾子の足に頭をのせ、すーっと寝息を立てる。
「やれやれ……」
弦太郎が笑いながら露子を抱き上げ、寝床に運んでいく。綾子もその後をついていった。
「綾も早く寝なさい。眠れないのなら、眠り薬を作ってあげるから」
「薬くらい自分で作れます」
「遅くまで起きているのは身体に毒だと、母上も仰っていただろう?」
「それは兄上も同じでございます。早くお休みになってください」
綾子は、必ず反抗しないと気が済まないらしい。弦太郎は苦笑した。
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医術所の仲間と出歩いていた時。
「人が倒れたぞ!」
その声に、仲間はさっと反応した。すぐに駆け寄り、その場で診察を始める。
「退いてください」
そんな仲間を押しのけて、倒れた女性の隣に膝をつく女性。
「なんだ、お前は!」
「医術師です。触りますね」
彼の仲間には冷たく、そして倒れた患者には優しく語りかける彼女に、彼は目を奪われていた。
旅人らしい姿。着物が汚れることもいとわず、道端に膝をついて患者を診る女性。綺麗だと思った。
「おい! 何をしてるんだ!」
「申し訳ございません。鉢ノ里で診療所を開いている医術師でございます」
彼女の関係者だろうか。男性が邪魔をしたことを謝罪する。
「鉢ノ里だと? そんなところ、聞いたこともない!」
「なにぶん小さな里ですので、都の方がご存じないのも仕方ないと」
そんな会話なんて、頭の片隅にも入っていなかった。
「消毒」
「はい、姉さま」
姉妹だろうか。
「針の用意を」
「致しております」
見事な連携で、見たことのない医術を施していく。
「終わりました」
何が何かもわからないまま、一通りの処置を終えたらしい彼女がそう告げた。
「おぉ……!」
その瞬間、周囲から歓声があがる。
「何者だ、あの女……!」
「医術師とか言ってたぞ!」
「女の医術師だと? おもしろい!」
そんな騒ぎなど気にも留めず、彼女は駕籠屋を止め、患者を運ぶように告げた。
「お前さんたち、何者だ……」
彼の仲間が、唖然としながら問う。
「ただの医術師ですよ。家に伝わる医術を行う者です」
「い、家にだと? 今の医術は、都の医術学問所でも教わらなかったぞ!」
「では、私どもの父は、他所で教わったのでしょう」
男は堂々と答えた。それは、かっこよくて。
「それでは、失礼いたします」
その背中を黙って見送ることしかできなかった。