大きな大陸の片隅に位置する大神国。自然豊かな土地は、文明は未発達ながらもたくさんの人々が楽しく暮らす国だった。



 深い森の中。その山道を、3人の兄妹が歩く。

 大きな荷物を担いだ男性が急な斜面を登り、

 「(つゆ)、来られるか?」

 と下に手を差し出した。

 下にいた女性が子どもを抱え、子どもも男に手を伸ばす。子どもを上にあげた後、女も男の手を借りて斜面を登った。

 「(にい)さま、次の里はまだですか?」

 「もう少しあるかな。まだ歩けるか?」

 兄と呼ばれた男性が、少し遠くを見ながら答える。

 「足が痛いです……」

 「露も医術師(いじゅつし)の子でしょう。そのような泣き言をいってはいけません」

 女が着物の袖で妹の顔を拭った。

 「(とう)さまが医術師なのであって、露は医術師ではありません!」

 「では、露は医術師にはならないのですか?」

 姉からの当然の問いに、子どもは唇を尖らせると、

 「……(ねえ)さまは意地が悪すぎます」

 と答えた。

 「母様(かあさま)の遺伝かもしれませんね」

 「(かあ)さまはそんな方ではありません!」

 「露は知らないでしょう」

 旅路だというのに、いつもの姉妹喧嘩が始まってしまう。これを止めるのが、

 「こらこら、2人とも。こんなところでまで喧嘩なんかしなくても……」

 兄、弦太郎(げんたろう)の仕事だった。

 「兄上、先を急ぎましょう」

 「そんなに急ぐことはないよ」

 兄に止められて不満そうな長女綾子が、すたすたと進む。弦太郎と露子もその後を追った。

 しばらく進むと、

 「あ、兄さま! 茶屋が見えました! あそこでお休みしましょう!」

 末っ子露子(つゆこ)が、目を輝かせて先を指す。

 「そうだな。団子でも食べるか」

 「……もったいない」

 財布を握る綾子(あやこ)は、団子に使うお金がもったいないとぼやく。

 「そう言うなよ、綾」

 そんな妹の頭を、弦太郎が撫でた。

 「いらっしゃい」

 「お団子とお茶3つ!」

 「あいよー」

 さっきまでの疲労が嘘のように、露子は元気に、茶屋の女将に声をかけ、店先の椅子に座った。

 弦太郎と綾子が追い付いた時、ちょうどお茶とお団子が出てきた。

 「おや、珍しいねぇ。その子の親にしちゃ若いが、お前さんたち、いったいどういう関係だい?」

 隣の椅子に座っていた旅装束の男が声をかけてくる。

 「兄妹で医術師になるために旅をして回っているんです。世界は広いですからね」

 それに答えるのは弦太郎だけ。露子はお団子に夢中で、綾子はあまり積極的に喋る方ではないから。

 「ほぉ、お前さん、医術師かい。ちょいと俺も見てくれねぇか」

 「えぇ、いいですよ」

 「高いですよ」

 これには、すぐに綾子が反応して、兄の言葉を遮った。

 「ただ診るのにもお金がかかります。薬代、払えますか?」

 突き放すような冷たい言い方に、男性は憤慨して、

 「なんだい、こいつら! ちょっと見るくらいいいじゃねぇか!」

 と店を出て行ってしまった。

 「綾……」

 「兄上、薬にも銭がかかります。無駄遣いはおやめください」

 呆れる弦太郎に、綾子はさも当然のように言い返す。

 「姉さまは銭の鬼です」

 露子が団子の串をくわえながら言った。

 その時、茶屋に男の2人組が入ってくる。

 「ほら、着いたぞ。ここで少し休ませてもらおう」

 一人は怪我をしているのか、もう一人の男に腕をかつがれ、足を引きずっている。

 「すまんな。ちょいと店先を借りるぞ」

 「えぇ、えぇ、かまいませんよ。お連れさん、どうしたんで?」

 茶屋の主人が出てきて、心配そうに尋ねる。

 「さっきそこで足を滑らせたんだ。どうも挫いたらしい」

 「そりゃ大変だ。挫いただけだったら、温めるといいって聞く。何か持ってきますよ」

 「あぁ、助かる」

 店に駆けこんでいく主人に、

 「冷やす方がいいですよ」

 と弦太郎が声をかける。

 「あぁ、そうだ! あんた、医術師って」

 「冷たい水に足をつけていれば、じきに歩けるようになるかと」

 「失礼します」

 弦太郎が主人に答えている間に、綾子は椅子に座る男性の足元に身を屈め、足首に触れた。

 「骨は折れていません。確かに足を挫いただけのようです。露、薬草を」

 「はい、姉さま」

 露子が薬箱の中から必要な薬草を取り出し、すり鉢ですり潰して姉に持っていく。

 綾子はそれを躊躇いなく患部に塗り付け、布で丁寧に巻いた。

 「水で冷やすだけより、治りが早いと思います」

 「あ、ありがたい……。薬代はいくらだ?」

 「いくらなら払えますか?」

 「え?えっと……」

 怪我をしていない男が、慌てて懐を確認する。

 「すまん。これから旅にいくらかかるかわからんから、これくらいしか……」

 と銭を数枚取り出す。

 「では、それでここのお団子を1つ買って、妹にやってください」

 男が差し出した銭であれば、団子の10本くらいは買えるだろう。しかし綾子は、1つと言った。

 「え、それだけ?」

 当然男も驚く。

 「えぇ」

 もう興味がないのか、綾子は薬箱を片付けながら答える。

 男は戸惑いながら団子串を買い、露子に渡した。

 「ありがとうございます!」

 露子は笑顔で礼を言って、嬉しそうにかぶりつく。

 「妹たちが申し訳ない。お代は十分ですよ」

 弦太郎が丁寧に頭を下げた。

 「露、座って食べなさい。はしたないですよ」

 「ふぁーい」

 綾子に注意された露子が、とととっと椅子に駆け寄って座る。

 本当に困っている人がいれば、綾子は惜しみなく薬草を使い、喧嘩ばかりの姉妹が団結する。

 いつもそうであってほしいという弦太郎の願いは、なかなか叶わないものだった。



 日が暮れてくれてきて、その日は途中にあった簡易的な旅籠に泊まることにした。

 広い土間で大勢の旅人が雑魚寝をする旅籠では、満足に休むこともできないが、雨風をしのげるだけ十分だ。

 「姉さま……」

 「ここにいますよ」

 心細そうに姉を探してすり寄る妹に、綾子はそっと答えて頭を撫でる。

 生まれてすぐに母を亡くした露子にとって、姉は母親代わりとも言える存在。だからいまだに、眠い時に甘えるのは、兄ではなく姉だった。

 なんだかんだと仲のいい姉妹の様子を見ながら、弦太郎は背中を壁に預ける。

 隣に座った綾子も、兄の肩を借りてうつらうつらと船をこぎ始めた頃、

 「へへ……」

 周囲の男たちが、いやらしい目つきを向けてくる。

 妹が事件に巻き込まれてはいけない。睨みをきかせるため、弦太郎は休めそうにはない。それでもかまわなかった。

 『弦……。あなたは、強い子。どうか、妹たちを、守ってあげてね』

 弱った母が、家族が寝静まった夜に、心配で起きてきた弦太郎に言った。

 『弦太郎、頼んだぞ』

 老いた父が、最後に放った言葉。

 両親のこの言葉が、妹たちを守りながら旅をする弦太郎を支えていた。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「おい、これやっとけよ」

 バサッと投げられる着物たち。頭の上にのせられ、怒鳴りたいのをぐっとこらえる。

 「おい、いいのかよ」

 「いいだろ。新入りなんだし」

 「新入りったって……」

 ついこの前入ったばかり、とでも思っているのだろか。もうここに来て3ヶ月は経っている。

 「平民は洗濯も慣れてるだろ!」

 理由は、たったそれだけ。それだけでも、ここではいじめられる。

 彼はぐっと唇を噛んだ。

 こらえろ。いつか絶対にやり返してやる。彼らよりもずっとすごい医術師になって。彼らの上に立つ人間になってやる。

 そう言い聞かせた。



 旅をしながらいくつかの旅籠に寄って夜を過ごし、兄妹は大きな町に着いた。

 「兄さま、ここが央ノ都(おうのみやこ)ですか?」

 「そうだ。大きな町だろう?」

 「鉢ノ里とあまり変わらないように見えます」

 子どもの素直な意見に、弦太郎は目を見開き、そして笑う。

 「2人とも、新しい着物でも買おうか」

 「本当ですか!」

 「いりません」

 嬉しそうな露子の言葉に、綾子がわざと言葉をかぶせる。

 「でも、綾。ここは里とは違って、華やかな着物が多いだろう?……その着物は、少し目立つかなって」

 確かに汚れてはいる。しかしこれは旅装束。多少の汚れなど気にならない。

 ここは大神国の中では大都会で、華やかに着飾った都の娘たちの姿を見ると、妹たちがみすぼらしく見えてしまった。

 「どうせ汚れます。華やかで高価な着物など、無駄なだけです」

 「姉さまは、きっと嫁の貰い手がありませんね」

 「困りませんから」

 残念そうな露子が少し姉に強く当たるが、綾子は全く気にしていない。

 「じゃあ、(かんざし)(くし)なんかはどうかな」

 「必要ありません。無駄です。そんなものを買うくらいなら、薬を買います」

 頑なな姿勢に、弦太郎も呆れるしかなかった。

 そんな時、

 「人が倒れたぞ!」

 すぐ近くで、悲鳴に似た声がした。

 兄妹の視線がそちらに向く。周りの人間たちの視線も集まり、騒ぎの原因はすぐにわかった。

 倒れているのは女。苦しそうに胸を押さえ、呼吸がしづらそうに口をパクパクと動かしている。

 「ちょっといいか」

 そこへ、1人の男が駆け寄った。

 「あんた、医術師か?」

 「あぁ」

 女のそばにいた男は、それを聞いて安心したように頬を緩ませた。

 男は、さっそく胸に耳を当てる。

 「心臓か……?」

 そんな声が聞こえてきて、

 「……阿呆(あほう)だわ」

 綾子がぽつりと呟いた。

 「こら、綾」

 はっきりとした言葉に、弦太郎が窘める。

 「胸痛(きょうつう)呼吸困難(こきゅうこんなん)の訴えを、聴診(ちょうしん)だけで診断しようとしているのですよ。それも心臓から来るものと決めつけて……。阿呆以外のなにものでもありません」

 「それはそうだけど、まだ気づくかもしれないだろう?」

 弦太郎も綾子も、患者には近づいてもいない。しかし、診察のやり方は、父からよく教えられている。

 「兄さま、姉さま、行きますか?」

 露子が薬箱を持ち上げた。

 「いや、やめておこう。央ノ都の医術師がいるんだ。おそらく都の医術所の」

 「では、わたしが」

 兄が行かないとわかり、さっそく綾子が踏み出す。

 「あ、こら」

 露子も当然姉の後を追うため、これでは弦太郎が行かないわけにはいかないではないか。

 「退いてください」

 綾子は医術師だといった男を押しのけ、触診を始める。

 「なんだ、お前は!」

 「医術師です。触りますね」

 患者にそう呼びかけ、胸に手を当てる。軽くトントンと胸の辺りをたたいてみる。

 「姉さま、どうぞ」

 父から譲り受けた聴診器を露子から受け取り、聴診もした。問診はできそうにない。あとは視診か。患者の様子をじっと観察して。そうしてようやく、病名がわかる。

 「おい! 何をしてるんだ!」

 「申し訳ございません。鉢ノ里(はちのさと)診療所を開いている医術師でございます」

 都の医術師と喧嘩はしたくない。医術は妹に任せ、弦太郎が医術師だという男に挨拶した。

 「鉢ノ里だと?そんなところ、聞いたこともない!」

 「なにぶん小さな里ですので、都の方がご存じないのも仕方ないと」

 弦太郎がなんとかご機嫌を取る横で、姉妹はさっそく治療に当たっていた。

 「消毒」

 「はい、姉さま」

 「針の用意を」

 「致しております」

 女性の胸に消毒用の酒をかけ、注射針を刺す。中の芯を抜くと、ぷすっと空気の音が聞こえた。

 しばらくして、患者に呼吸が戻る。針を抜き、軽く止血をして、終わり。

 「終わりました」

 綾子がそう告げた瞬間、周囲から歓声が上がった。

 「おぉ……!」

 「何者だ、あの女……!」

 「医術師とか言ってたぞ!」

 「女の医術師だと? おもしろい!」

 騒ぎの中、綾子は女性を駕籠屋(かごや)に任せ、代金を払って自宅まで送るように伝えた。

 「騒ぎになったな」

 仕事を終えて戻ってきた綾子に、弦太郎がつぶやく。

 「申し訳ございません、兄上」

 その言葉の割に、全く申し訳なさそうな妹に、弦太郎は笑みを漏らした。

 人の命を救うのは当然。それができるだけの技術を持っているのだから。

 綾子は、そんな母からの教えを信じているだけだ。

 「お前さんたち、何者だ……」

 唖然としていた医術師の男が、ようやく口を開く。

 「ただの医術師ですよ。家に伝わる医術を行う者です」

 「い、家にだと? 今の医術は、都の医術学問所でも教わらなかったぞ!」

 「では、私どもの父は、他所で教わったのでしょう」

 驚きを隠せない彼を軽く流し、

 「それでは、失礼いたします」

 と歩き出す。綾子と露子も、黙って兄の後をついていった。

 「今日中に都を出た方がいいかな……」

 歩きながら、弦太郎は考える。自分たちの医術が珍しいことはわかる。父からも秘密にするように教えられている。だから、目立つことはしたくなかったのに。

 しかし妹が、いざ患者を目の前にして、何もせずに見放せるわけがないことも、弦太郎にはわかるのだ。

 「また歩くのですか!? ……姉さまが目立つことをなさるから……」

 「うるさいですよ、露。人の命を救って何が悪いのですか。……と、母様なら仰るはずです」

 「ハハハッ、その通りだな」

 また始まる姉妹の喧嘩に、弦太郎は笑った。

 「とにかく今日は、できるだけここから離れよう」

 「でも兄さま、父さまと母さまの故郷探しはどうするのですか? 都ではないのですか?」

 「それもただの予想。父上も母上も、何も教えてくださらなかった。ただ、これだけの医術の道具を作る職人なら、都にいるだろうと思っただけだ」

 「兄上は単純すぎます。腕のいい職人は都に集うなんて。わからないじゃありませんか」

 辛辣な妹の言葉にも、弦太郎は笑みを崩さない。そんな会話をしながら、兄妹は赤く染まる夕陽に向かって歩いた。



 薄暗い月明かりの下、弦太郎はまだ起きていた。

 「兄上?」

 衝立の奥から、薄い襦袢に着物を羽織っただけの綾子が出てくる。

 都の旅籠(はたご)は大きいもので、それなりに広い部屋を借りたため、気にすることはない。

 「寝られないか?」

 弦太郎の目に、心配そうな色が宿った。

 「目が覚めただけです。兄上は寝ないのですか?」

 綾子はいつものようにあっさり答え、兄の隣に座る。

 「もう少しな」

 そうつぶやいた弦太郎の手には、

 「父様の……」

 一冊の本が握られていた。それも、最後の頁が捲られて。

 「またそれを読んでおられるのですか? もう内容も覚えておられるでしょう」

 「それはそうだけどね……。この最後の一文が、どうしてもわからなくて」

 「父様のお考えは、母様にもわからないと仰っていました。まだお若い兄上に、全て理解することなど不可能です」

 「……厳しいな、綾は」

 父が最後に残した文章。それは、綾子も理解することはできなかった。

 「『この本に書かれた内容は、全て内密にすること』。なぜ父上は、こう書かれたのか……」

 「それは父様の家に伝わってきた秘伝の術であって、どんな事情があっても他に漏らしてはならない、ということでしょう?」

 まるで当然のように答える綾子に、弦太郎はさらに続ける。

 「なぜ内密にしなければいけないんだ? これを国中に知らせれば、救える命はぐんと増える。それに、都の医術師でさえも知らない内容だ。父上が都で医術師をしていれば……。なぜあんな小さな里だったのか。わからないことばかりだよ」

 長男として一番近いところで父の医術を学んだ彼だからこその疑問。

 「父様には父様のお考えがあるのです。それに理由など必要ありません」

 「……綾はそれで納得してるのか?」

 本来なら、綾子の性格上、一番につきとめたがるものなのに。

 「それが、父様と母様の教えですから」

 そう答えた綾子の胸には、今も忘れたことのない母の言葉がよみがえった。

 『綾、いいですか? 父様はとても遠い国から来られた方。父様のお言葉を全て理解しようとするなら、父様の故郷にまで行かなくてはいけません。ですから、どんなに不思議でも、それは医術には不要の不思議です。そんなことを考える暇があるなら、1人でも多くの人の命を救いたいと、母は思います』

 なんで、なんで、と繰り返す幼い綾子に、母はそう教えた。

 綾子にとって両親は全てであり、両親の言葉は何よりも大切なものだった。

 だから、どんなに些細な言葉でもしっかり覚えていて、妹に母の言葉として伝えてきたのだ。

 「そんなことより、兄上。いつ都を出るのですか? この宿にきて、もう5日になりますが」

 「確かにここは都だけど、都でも外れにある旅籠。ここで十分だと思ってるよ」

 「……兄上がそう決められたのなら、いいですが」

 都の郊外の宿屋に滞在し、もう5日が経っていた。

 両親の故郷を探し、父から受け継いだ医術道具を作る職人を探す。それが、この旅の目的。

 必要な道具が減っていく中、少しでも早く職人を見つけて、減ったものを補充しなければいけない。

 都にいるだろうと信じる兄は、遠く離れることができないのだろう。と、綾子は思っていた。

 「兄さま……? 姉さま……?」

 「露」

 「露、起きたのですか?」

 ほとんど開いていない瞼をごしごし擦りながら、衝立から出てきた露子は、綾子の隣にちょこんと座った。

 「……つゆも、おはなし……したい、です……」

 と言いながら、綾子の足に頭をのせ、すーっと寝息を立てる。

 「やれやれ……」

 弦太郎が笑いながら露子を抱き上げ、寝床に運んでいく。綾子もその後をついていった。

 「綾も早く寝なさい。眠れないのなら、眠り薬を作ってあげるから」

 「薬くらい自分で作れます」

 「遅くまで起きているのは身体に毒だと、母上も仰っていただろう?」

 「それは兄上も同じでございます。早くお休みになってください」

 綾子は、必ず反抗しないと気が済まないらしい。弦太郎は苦笑した。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 医術所の仲間と出歩いていた時。

 「人が倒れたぞ!」

 その声に、仲間はさっと反応した。すぐに駆け寄り、その場で診察を始める。

 「退いてください」

 そんな仲間を押しのけて、倒れた女性の隣に膝をつく女性。

 「なんだ、お前は!」

 「医術師です。触りますね」

 彼の仲間には冷たく、そして倒れた患者には優しく語りかける彼女に、彼は目を奪われていた。

 旅人らしい姿。着物が汚れることもいとわず、道端に膝をついて患者を診る女性。綺麗だと思った。

 「おい! 何をしてるんだ!」

 「申し訳ございません。鉢ノ里で診療所を開いている医術師でございます」

 彼女の関係者だろうか。男性が邪魔をしたことを謝罪する。

 「鉢ノ里だと? そんなところ、聞いたこともない!」

 「なにぶん小さな里ですので、都の方がご存じないのも仕方ないと」

 そんな会話なんて、頭の片隅にも入っていなかった。

 「消毒」

 「はい、姉さま」

 姉妹だろうか。

 「針の用意を」

 「致しております」

 見事な連携で、見たことのない医術を施していく。

 「終わりました」

 何が何かもわからないまま、一通りの処置を終えたらしい彼女がそう告げた。

 「おぉ……!」

 その瞬間、周囲から歓声があがる。

 「何者だ、あの女……!」

 「医術師とか言ってたぞ!」

 「女の医術師だと? おもしろい!」

 そんな騒ぎなど気にも留めず、彼女は駕籠屋を止め、患者を運ぶように告げた。

 「お前さんたち、何者だ……」

 彼の仲間が、唖然としながら問う。

 「ただの医術師ですよ。家に伝わる医術を行う者です」

 「い、家にだと? 今の医術は、都の医術学問所でも教わらなかったぞ!」

 「では、私どもの父は、他所で教わったのでしょう」

 男は堂々と答えた。それは、かっこよくて。

 「それでは、失礼いたします」

 その背中を黙って見送ることしかできなかった。




 「姉さま、黒砂糖(くろざとう)がもう少なくなっています。塩もそろそろ……」

 薬箱の整理をしていた露子が、材料が減っていることに気づく。それを聞いた綾子が、包帯となる白布をまとめていた手を止めた。

 妹のそばに行き、薬箱の中身を確認する。確かに、いくつかの薬の原料が少なくなっていた。

 「兄上、薬の買い出しに行ってまいります」

 なぜ頼ろうとしないのか。弦太郎は読んでいた本を閉じ、

 「一緒に行くよ。ここは都だ。女子供だけじゃ危ないからね」

 と答える。

 「兄上がいらっしゃったところで、何も変わらないと思いますが」

 容赦ない妹の言葉が飛んできた。



 「都の塩は高いのですね……」

 銭袋を眺めながら、綾子が落ち込む。

 「鉢の里には海があったからね」

 ほとんど銭が要らず、かなり安価で買えていた塩も、都では貴重な銭を使って高価で買わなければいけない。それだけで、綾子の機嫌が悪くなってしまう。

 「いいではありませんか、姉さま。その分塩を使う医術には、薬代を多くいただけばいいのです」

 「薬代を払えない人も多いのですよ。父様と母様は、薬代を払えない人への医術を基本としていました」

 その娘が、よくここまでの守銭奴となったものだ。

 「ここは都なんだ。鉢ノ里よりも、薬代を払える人は多いと思うよ」

 「そのようなお方に、旅の医術師が医術を行えるとでも?」

 綾子の言葉はもっともだ。早く策を講じなければと、弦太郎は思う。

 「しばらくは節約生活ですよ」

 「宿暮らしなのに、どこで節約するというのですか?姉さま」

 「都の宿は高いからね」

 露子の言う通り、旅籠では一泊二食付きの値段が基本。この5日間、隠れるようにほとんど宿から出なかった彼らには、節約するところもない。

 「兄上、しばらく都に滞在するおつもりなら、長屋を借りませんか?」

 「へぇ、意外だな。綾なら、銭が尽きる前に里に帰ろう、とか言い出すかと」

 「今のまま帰っても、父様のような医術を行うには限りがあります。職人を見つけて道具を作っていただかなければ」

 医術を何よりも大切にする、彼女らしい返答だ。確かに、職人を早く見つけるにこしたことはない。

 「そうだな。じゃあ、都で診療所でも開くか」

 「それでは、目立つのでは?」

 「そうですよ、兄さま。里の診療所で作って持ってきたお薬にも限りがあります。都で医術を行っては、里の診療所に置いてきた薬を作る道具を、一から揃えなければ」

 「……目立つことをするのは、いつも綾と露なんだけどね」

 兄妹が受け継いだ医術で、必ず必要となる特別な薬。特別な製法でしか作れず、作るためにはたくさんの道具を使う。それには時間もお金もかかってしまうのだ。

 姉妹に怒られた弦太郎は、不満そうにつぶやいた。

 「わぁ、あれ綺麗!」

 その時、露子がとある店に駆け寄っていった。店先に飾られたたくさんの風車(かざぐるま)が、くるくると回っている。

 「露、好きなのを買おうか」

 「本当ですか? 兄さま」

 嬉しそうな露子に、

 「……節約だと申し上げたばかりではありませんか」

 綾子は呆れたような声を出す。

 「そう言わずに。ほら、綾も好きなのを選んで」

 「わたしは、そんなもので遊ぶほど幼くありません」

 兄に子ども扱いされたことに唇を尖らせる綾子に、弦太郎は笑って隣を見た。

 「じゃあ、綾にはこっちかな」

 その手に握られた綺麗な(くし)に、綾子は一瞬目を輝かせるも、その値段を見てはっと視線を逸らす。やはり興味はあるらしい。たしかに高価だが、買えなくはないはずなのに。

 「そんなものを買うくらいなら、薬になるものを買います」

 「そう言うなよ、綾。ほら」

 露子に買うついでに、もう1つ風車を買い、弦太郎が綾子に渡した。

 綾子はそれを受け取り、ふっと息を吹きかける。カラカラと軽い音を立ててくるくる回る。その横顔は、どこか楽しそうだった。

 「兄上、覚えておられますか?」

 「何を?」

 風にあおられて回る風車を見ながら、兄妹は静かに言葉を交わす。

 「まだ幼い頃、旅の風車売りが里に来た時、父様に買っていただきました。確か、露が生まれて間もない頃だったと」

 「あぁ、そうだったね」

 父との思い出。医術を抜かせば、かなり少ない。

 「その時、父様がおっしゃっていました。父様の故郷には、これよりももっとずっと大きい風車があって、それが焚火(たきび)よりも明るいでんきというものを作り出すのだと」

 「一度見てみたいね。そんな大きなもの、どうやって回るんだろう」

 きっと人の息では回らないだろう、と弦太郎は付け足す。

 「わたしもそう思います。……露、あまり遠くに行ってはいけませんよ」

 「はーい!」

 風車を持って走り回っていた露子を呼び戻し、兄妹は宿に戻った。



 弦太郎は父の医学書に向き合っていた。

 綾子が言ったように、その内容はほとんど頭に入っている。しかし、読んでおいて損はない。それに飽きも来ないのだから。

 ふと顔を上げると、露子が薬箱を整理する横で、綾子がぼんやりしていた。

 その視線の先には、どうやら窓辺に置いてある風車があるようだ。

 疲れているのだろう。旅を始めてからひと月近く、ゆっくり休めていないのはわかっている。

 露子も幼いながら理解しているのか、姉に無理やり手伝わせることもしない。

 そのまま眠るならそれでいいと、弦太郎が再び医学書に視線を戻した時、

 「お客さん、ちょいといいですか?」

 襖の外から宿の女将の声がした。

 「お客さんに会いたいと仰る方が来ていますよ」

 「わざわざありがとうございます。通してください」

 鉢ノ里で生まれ育った兄妹に、都での知り合いはいない。宿に泊まる彼らを訪ねる人間もいないどころか、誰にも居場所を伝えていない。いったい誰が。

 「失礼します」

 襖が開いて、入ってきたのは複数の男たちだった。

 「あなた方は……?」

 全く見覚えのない人間たちに、弦太郎は驚きながら迎える。

 視界の隅で、露子が姉を揺すり起こすのが見えた。

 「私です! 覚えていませんか?」

 先頭にいた偉そうな初老の男の後ろから、見覚えのある男が飛び出してくる。

 「あぁ、あの時の」

 弦太郎は彼を見てようやく笑顔を見せた。

 都の道で倒れた患者を救った時に居合わせた医術師だった。

 「央ノ都医術所の医術師、伊藤(いとう)俊之助(しゅんのすけ)にございます」

 「伊藤様、お久しぶりでございます」

 弦太郎の視線が先頭の男に向くと、伊藤は慌てて紹介する。

 「このお方は、央ノ都医術所をまとめていらっしゃる、滝川(たきがわ)純庵(じゅんあん)先生です」

 「それは……ご高名な医術師とお見受けいたしますが、存じ上げず、申し訳ございません」

 医術所、しかも都の名をつけた医術所を任されているということは、相当腕のいい医術師に違いない。が、父の医術を知らない人間ならば、きっと医術道具を作る職人にも詳しくないだろう。

 「失礼ですが、あなたのお名前は?」

 偉そうに見えた滝川純庵は、人懐っこい笑顔で口を開いた。

 「これは失礼いたしました。鉢ノ里で胡ノ山(このやま)療養所(りょうようじょ)という診療所を開いております、弦と申します」

 「弦殿でございますか。このような形で突然お訪ねして、申し訳ない」

 本来は苗字付きの本名があるが、ここで本名を名乗るのは得策ではないと判断した。

 良家の人間しか持たない苗字を持っている理由を問われたところで、答えられないのだから。

 綾子と露子が黙ってお茶を準備し、綾子はさりげなく医学書を手に取る。

 「そちらは?」

 「妹のお綾とお露でございます。外に出しましょうか」

 「あぁ、いや。伊藤の話では、壱町で医術を行ったのは、そちらの女性と」

 「えぇ、お綾です」

 綾子は医学書を抱いたまま、少しだけお辞儀をし、滝川純庵を見つめた。

 「失礼ですが、何をお持ちになっているのですか?」

 綾子の警戒心を察してか、滝川純庵は丁寧に質問した。

 「……父から受け継いだ医学書にございます」

 綾子が警戒しながら真顔のまま答える。

 「見せていただいても?」

 「誰にも見せないように言われていますので」

 父の言葉を忠実に守る綾子は、当然それを拒否する。

 「お父君から?」

 「はい」

 「では、お父君とお話させてはいただけませんか?」

 「……それは……」

 これには綾子が口ごもる。

 「父は去年亡くなりました。高齢でしたので」

 弦太郎が助け舟を出した。すると、露子が俯いて姉にすり寄る。

 露子にとって、父は唯一の親だった。その死から立ち直るのに、かなりの時間がかかった。今もまだ十分ではないのだろう。

 「綾、医学書を滝川先生にお見せしなさい」

 「……!」

 綾子がぎょっと弦太郎を見た。

 「兄上……」

 「父上亡き今、私が主だ。主の私が良いというのだから、お見せしなさい」

 「……わかりました。どうぞ」

 そう言われては逆らえないと思ったのか、はたまた別の理由か。綾子は渋々医学書を差し出す。

 「随分新しいもののようですね。いつ書かれたものですか?」

 「それは、父が書いたものと聞いております。おそらく父が祖父から受け継いだものが別にあると思いますが、私どもが持っているのはそれだけでございます」

 弦太郎の説明を受けて、滝川はそれを開く。

 「これは……!」

 滝川が息を飲む。

 「なんと書いてあるのですか?」

 そう、父の字は独特だ。というよりも、まるでこの国の言葉ではない。

 読み方を教わった兄妹にだけ通じる暗号、といっても過言ではないほどに。

 「あぁ、申し訳ございません。父の字は少々特殊で。私は読めますのでお教えすることはできるのですが、それには時間がかかってしまいます。滝川先生に、そのようなお時間があられるようには……」

 「では、医術学問所で教えてはいただけませんか?」

 「なりません!」

 突然露子が声を上げた。

 「父さまがないしょと言われたのです! 兄さまであっても、父さまのお言葉に逆らってはいけません!」

 「露」

 父のことを思いだしたのだろう。泣きながら訴える露子の口を、綾子が手で塞ぐ。

 「申し訳ございません」

 「……この場で返事をというわけではありません。どうぞ話し合われてください」

 滝川は笑顔だった。

 「もし医術所に来ていただければ、近くに家をご用意いたしましょう。ささやかながら、お礼もさせていただきます」

 泣きじゃくる露子を綾子が抱きしめ、弦太郎は丁寧に彼らを見送った。



 「露」

 露は部屋の隅で膝を抱え、小さく丸くなってしまった。

 「露、落ち着いたかい?」

 「……申し訳ありません、兄さま、姉さま」

 「かまいません。私も露と同じ意見でございます」

 綾子の声が冷たい。弦太郎もそれを感じ取る。

 「父様の医学書をお見せしたことは、我慢いたします。読めなかったのですから」

 綾子は露の真っ赤に泣き腫らした目を冷やしてあげようと、濡れた手ぬぐいを持ってくる。

 「しかし、それを都の医術師に教えるとなれば、話は別でございます。父様がなぜ内密にと仰ったのかわかりませんが、何か理由があるはずです」

 「それはよくわかっている。でも、それを知る術はもうないだろう?」

 弦太郎が妹たちを説得しようと試みるが、

 「理由など必要ありません。あるのは。父様がないしょと仰った事実のみでございます」

 「知りたいと思わないのか?」

 「思いませんね」

 頑なになった綾子には通じない。

 「綾、露」

 弦太郎は妹たちを呼んだ。

 「父上の真意は、今の私たちにはわからない。それなら私は、この医術で、できるだけ多くの人の命を救いたいと思う。もしこの医術をどこで学んだのかと聞かれても、私は父から学んだと答えるし、父がどこで学んだのかは知らないと言えばいい。……事実、知らないのだから」

 「……何を、言われているのですか?」

 綾子が真意を探るように聞いてくる。

 「父上がないしょにしたかったのは、この医術ではなく、この医術の出所だと思うんだ。医術を内密にしたかったのなら、私たちには教えてくださらなかったはずだろう?」

 「それでは、医学書に書かれていたことの説明ができません」

 「父上のお考えなど、私たちが考えても無駄。そう言ったのは綾だろう?」

 確かに、自分たちが知っているのは医術の知識だけ。父のことなんて、ほとんど知らなかった。

 綾子はもう反論できなくなった。

 「姉さま、言い負かされてはいけません!」

 露子が目の上の布を投げ捨てた。

 「兄さまは、お口がお上手です。露には、難しいことはわかりません。でも、父さまが仰っていたことはわかります。ないしょ、と」

 「それでは露は、救える命は持てる知識と技の全てを使って救いなさい、という母上の教えは裏切るのか?」

 これには、露子もうっと小さくうめいた。

 「……そのお言葉は、露は母さまから聞いていません」

 それでも、なんとか反論する。

 「母上の代わりに、綾が何度も教えただろう?」

 「それでは、そのお言葉は母さまのお言葉ではなく、姉さまのお言葉です。露は父さまの方が好きです」

 「そんなことを言うと、綾が悲しむよ」

 苦笑する弦太郎に、露子は当然だと言い張る。父が亡くなってから、何かある度に姉に甘えているのに。

 「兄上、それくらいに」

 綾子が静かに止めた。

 「何も急ぐ必要はないのでしょう。露子も、頭を冷やせば考えが変わるかもしれませんし」

 「……そうだな。この話は、一度終わったことにしよう」

 綾子の意図を感じ取り、弦太郎は穏やかに頷いて受け入れた。



 「露」

 塞ぎこんだ小さな背中に、綾子が声をかける。

 弦太郎は外出中。この部屋には、姉妹だけになっていた。

 「露、こちらを見なさい」

 母を思わせる強い口調に、露子は渋々振り向く。

 「なぜ兄上が医術所に行かれることに反対するのですか?」

 「……父さまのお気持ちに反することになってしまいます」

 幼い人生の中で、偉大な父から教わったことを忠実に守る妹。その気持ちが、綾子もわからないわけではない。

 「わたしは、父様の跡を継ぎ、主になった兄上に反論することも父様の意に反していると思いますが」

 しかし綾子は、父だけでなく母の言葉も聞き、兄からの言葉も無視できない。

 「それは……。でも、姉さまも反論していたではありませんか」

 「そうですね。ですが、兄上の言葉を聞いて納得しました」

 「兄さまの……?」

 露子はそっと姉を見上げた。

 「父様が、なぜ医学書に内密とまで書かれたような医術を、私に教えてくださったのか。兄上の仰る通り、父様が本当にその医術をないしょにしたければ、私がいくらせがんでも教えてくださらなかったと思うのです」

 それを聞いた露子は、少しうつむき、

 「……父さまは、露にも、簡単なものを教えてくださいました」

 と呟いた。

 「ですから父様は、内密にと仰いながら、心のどこかでは、もっと広めたい、救える命を増やしたいと、お考えだったのではないかと」

 その言葉を聞いて、露子はいくらか納得したように、深く息をもらす。

 「しかし姉さま、露にも女の意地があります。一度口にしたことを取り消すなんて、できません」

 女の意地なんて言葉、いったいどこで覚えてくるのだろう。まだ幼いのに、と呆れながら。

 「つまらない見栄など捨てればいいものを」

 とぼやく。

 「わかりました。兄上には私から伝えておきます。兄上が何をなさっても、もう意見はないのですね?」

 「……ないと言えばウソになります。露には、やっぱり父さまの言葉が全てです。その父さまの言いつけを破るなんて……。父さまがお空でお怒りになっていたら……」

 危険なことをしない限り、父は子どもたちを叱らなかった。露子なんて、その記憶はほとんどないはずだ。それなのに、父から叱られることに怯えているらしい。

 「それなら心配いりませんよ。私に考えがあります」

 「姉さまに? なんですか?」

 「それは」

 綾子がそれに答えようとした時。廊下で荒々しい足音がした。

 直後、勢いよく襖が開く。

 「失礼します!」

 「……っ」

 綾子がさっと身構えて妹を庇う。

 「あ、あなたは……」

 入ってきたのは、あの伊藤という医術師だった。

 「綾殿! 急いで医術所までお越しください!」

 「お、落ち着いてください。まずはわけをお話に」

 「あ、あぁ……これは失礼」

 伊藤が肩を揺らすほど荒い呼吸を何度か繰り返し、露子が持ってきた水を飲み干す。

 「医術所に腹の痛みを訴える患者が来たのですが、あいにく滝川先生が不在にしておられて、今医術所にいる医術師では原因がわからないのです。それで、弦殿なら、と」

 「あいにく兄は留守にしております。いつ戻るかも」

 「あ、弦殿とは先ほどこちらに向かっている途中でお会いしました。それで、先に医術所に向かわれたのですが、綾殿と露殿に道具箱と薬箱を持ってくるように伝えてほしいと」

 「あぁ……。わかりました。すぐに参ります」

 なんとなく状況がわかった。

 綾子に目立つことをするなと叱っておきながら、兄だって自由にしているではないか、と少々不満はある。

 しかし今は、患者がいるその容態もわからない。急ぐにこしたことはないのだろう。

 「私が案内いたします。お荷物をお持ちいたしましょう」

 すぐ近くの道具箱に手を伸ばす伊藤に、綾子はハッとした。

 「触らないで!」

 「……っ!」

 思わず伊藤が手を止める。

 「……申し訳ございません。そちらは私たちの大切な商売道具。扱いが難しいものも入っておりますので……」

 慌てて釈明する。

 「あ、あぁ……これは申し訳ない」

 伊藤も驚きとともにそう謝罪した。

 「いいえ。こちらこそ、声を荒げてしまって申し訳ございません。伊藤様、こちらの薬箱をお持ちいただけますか?」

 「は、はい! もちろん!」

 「露、小さい道具箱を持ちなさい。参りますよ」

 「はい、姉さま」

 露子も荷物を持ち、急いで宿を出た。




 「弦殿!」

 伊藤が医術所に駆け込むと、白い布が床に敷かれ、寝台に寝かされた女性の患者がいた。

 「兄上、お待たせいたしました」

 「虫垂炎(ちゅうすいえん)だ。開腹(かいふく)して切除(せつじょ)する。支度を」

 患者の様子を見たまま、いつもの笑顔もなく、弦太郎が声だけで指示をする。

 「はい」

 綾子はそう返事をして、薬箱を手に取った。

 「姉さま、薬は露が準備いたします。姉さまはお着物を」

 「わかりました。頼みましたよ」

 まだ10歳。しかし、こういう場にはもう慣れている。

 妹に任せ、綾子と弦太郎は、露子が持ってきた荷物の中から白い割烹着を取り出す。

 着物を覆うように上から着て、頭に帽子、そして口と鼻を布で覆った。

 「あ、あの、我々も何か」

 「必要ありません。離れてごらんください」

 伊藤がおずおずと声をかけるが、綾子がばっさりと言い切る。

 「綾殿……」

 「邪魔です。下がってください」

 直球の言葉に、伊藤が慌てて引き下がった時、

 「兄さま、姉さま、支度が整いました」

 露子の声がした。

 弦太郎と綾子は、患者を挟むように両側に立ち、露子は兄の隣に置いた七輪(しちりん)で器具の煮沸(しゃふつ)消毒(しょうどく)をしながら、必要な薬を作る。

 見たことのない医術の現場に、伊藤をはじめとした医術所にいた医術師たちは、驚くことしかできなかった。

 「露」

 弦太郎が差し出した手に、露子が迷わず注射器を渡す。注射器で女性に麻酔薬を注入した。

 「あ、あの、何を……」

 戸惑いながら聞いてきた伊藤に、唯一手が空いていた綾子が答える。

 「……この女性は、虫垂というはらわたの一部に炎症を起こしています。今からお腹を切り開き、炎症部を摘出します」

 「腹を切る!?」

 伊藤がぎょっと驚いた声を出した。それに、綾子は少しムッとしたように返す。

 「それがわたしたちの医術です。信じられないという方は、そこで黙って見ていればいい。信じないという方は、外に出ていればよろしいのです。手術中は出入りなさらないでくださいね。場を清潔に保ちたいので」

 「我々が不潔だと言うのか!」

 伊藤の隣にいた医術師が声を上げる。

 「えぇ、不潔です。あなた方だけではありません。わたしも兄も、この患者も、人間は不潔なのです。詳しいことは後でお話します。手術中は口を開かないでください。唾液が飛べばもっと不潔ですから」

 「……っ!」

 一部の医術師たちの顔が真っ赤に染まる。

 「綾」

 率直すぎる物言いに、さすがに弦太郎が止めに入った。

 「……申し訳ございません」

 綾子が不満そうに謝罪する。

 「妹が無礼をいたしまして申し訳ございません。この医術には、集中力が必要です。物音や話し声は医術の質に関わりますので、この患者を助けるためと思って、しばらくお静かにお願いいたします」

 弦太郎の丁寧な言葉に、憤慨していた医術師たちもぐっと黙り込む。患者の命を救うためと言われて、それに従わない医術師はきっといないだろう。

 「兄上、麻酔が効いたようです」

 「兄さま、どうぞ」

 綾子の言葉の後、露子が小刀を兄に差し出す。

 普段の優しい、温和の表情の弦太郎が、すっと目を閉じた。

 「これより虫垂摘出手術を行う」

 次に目を開けた時、そこにいたのは、厳しい目つきの男だった。まるで何かに憑依されたかのように、人が変わった。

 「はい」

 それに対し、綾子と露子が同時に返事をする。

 白い布で覆われた患者の身体に、そっと小刀の刃が当てられる。すっと一本の筋が入り、そっとお腹が開かれる。

 物音1つない、緊迫した空気に、医術師たちも息を飲んでその場を見守った。

 弦太郎と綾子、そして露子の間に言葉はなく、手を出せば必要な器具を、手を進めていけば次の工程をと、見事な連携で医術を施していく。

 やがて、腹の中から肉片が取り出された。

 それを、布が敷かれた木の盆に載せ、露子が盆を持って一歩下がる。

 「つ、露殿、それは……」

 「お腹の痛みの原因です。あ、まだ近づかないでください。縫合の途中です」

 患者に近づこうとした医術師を、露子が止める。

 「ほ、ほうごう、とは?」

 「お腹の傷を縫い合わせているのです」

 「なんと……」

 都の医術師たちは、最後まで驚きの連続だった。

 「終わりました」

 弦太郎のホッとした声で、綾子も顔を上げた。

 「お疲れ様です、兄さま、姉さま」

 露子が笑顔を見せる横を通り過ぎて、医術師たちが一斉に患者に駆け寄る。

 「待ってください。手術痕に触れるなら、手の消毒を」

 「しょ、しょーどく?」

 「手を出してください」

 綾子が瓶を持って歩み寄る。それぞれ手を出した医術師たちの手に、その瓶の中身をかけた。

 「手を揉みあわせて、それをまんべんなく手に塗ってください。患者に着物の袖が触れたり髪が落ちたりしないように気をつけてください」

 「は、はぁ……」

 彼女の厳しい目に、医術師たちも頷いた。

 「拝見させていただきましたよ」

 「た、滝川先生……!」

 どこからともなく現れた滝川純庵に、一同はもれなく驚いた。

 「いろいろとお聞きしたいことがあるのですが」

 「私にお教えできることなら」

 弦太郎が笑顔で引き受ける。

 「お待ちください」

 それを綾子が止めた。

 血で汚れた割烹着を脱ぎ、露子に預けて、滝川の前に立つ。

 「滝川先生、先日の件でお話がございます」

 「何でしょう」

 首を傾げた滝川の前に、綾子はすっと膝をつく。

 「まず、父の医術をお教えすることはできません」

 「……なぜですか?」

 滝川が優しい声音で尋ねる。

 「この医術は誰にも教えてはならないという父の遺言を、私も妹も、無視することはできないのです。この世に生を受け、ここまで育ててもらった恩を、仇で返すことになってしまいますので」

 綾子も丁寧に答えた。

 「なるほど」

 滝川はそれ以上何も聞かずに受け入れる。

 「そして、滝川先生に1つお願いがございます」

 「お願いとは?」

 「私たちは、近く、都で診療所を開く予定にございます。しかし、都のことは何もわからず。そこで、滝川先生、医術師を何人か紹介してはいただけないでしょうか」

 「医術師を、ですか?」

 滝川の怪訝そうな顔に、綾子は冷静に答える。

 「はい。私たちはまだ都に来て間もなく、素晴らしい弟子をお持ちの医術師を、滝川先生の他には知りません。都のことを教えていただける方をご紹介いただきたいのです。どうかお力添え願いたく」

 膝をついたまま丁寧に頭を下げる綾子を、

 「綾!」

 弦太郎が止めた。

 「やめなさい。滝川先生、申し訳ございません。このお話は」

 「綾殿」

 弦太郎の言葉を遮って、滝川が綾子に声をかける。綾子はゆっくりと顔を上げた。

 「その医術師というのは、どのような者をお望みですか?」

 「わがままは申しません。ただ、あまりにも頭の良い方では困ります。兄や私の医術を目で見て盗まれては、私たちもどうしようもありませんので」

 「……!」

 その言葉で、綾子の言葉の意味を、全員が悟った。

 「先生、その話、私に行かせてください!」

 まず名乗り出たのは、伊藤だった。

 「私も!」

 「自分もお願いします!」

 それを皮切りに、どんどん手が挙がっていく。

 「綾殿、申し訳ないが、その返事は少し待っていただけませんか? よりよい者を厳選したいので」

 「もちろんです。いくらでも」

 これから兄妹でも話し合わなければならない。綾子の隣から、説明を求める視線が投げられているのだから。

 「診療所はどちらで開くおつもりですか?」

 「まだ決めておりません」

 「そうですか。それでは、そちらも私にお任せいただけませんか」

 「そう仰っていただけると、嬉しく思います」

 深々とお辞儀をする綾子を、弦太郎は驚きを隠せずに見つめた。



 「綾、本当にいいのか?」

 帰り道、3人は並んで歩きながら、弦太郎が口を開いた。

 「職人も見つかりそうにありませんし、しばらく都に留まるのでしょう。これ以上宿暮らしをしていては、職人に払う銭を使いきってしまいます。今まで使った分も稼がなくては」

 いつものようにあっさりと言い放つ綾子に、弦太郎は困ったように微笑み、

 「……露は?」

 ともう1人の妹に尋ねる。

 「言ってしまったものを取り消すことはできないでしょう。いたしかたありません」

 露子も顔を向けたままそうつぶやいた。

 素直じゃない妹たちだと、弦太郎は笑った。





 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「楠本殿とお話しました」

 その日、仲間たちとともに医術所に集められた彼は、師匠である滝川の言葉を聞いていた。

 「弟子入りという形で、数人引き受けてくださると」

 「滝川先生! ぜひ私が!」

 まず真っ先に手を挙げたのは、隣にいた男。あの日、目の前で素晴らしい医術を目にした友人だった。

 「希望者を全員、というわけにはいきません。ここの運営が最重要ですからね」

 「……っ」

 それにはぐっと唸る。それはそうだ。

 「私が決めました。名前を呼びます」

 どうせ自分は選ばれない。綺麗な彼女の隣に立つことなんてできないのだ。

 「伊藤(いとう)俊之介(しゅんのすけ)くん」

 「はい!」

 すぐ隣の人物が嬉しそうに立つ。

 「竹田(たけだ)信一郎(しんいちろう)くん」

 「はい」

 かなり年長者からも選ばれるのか。

 「三井(みつい)はじめくん」

 「はいっ」

 真面目な人ばかりが選ばれている。彼をいじめていた人間は一人もいない。

 自分もそっち側に行きたかった。ただ純粋に医術を学べる環境に。

 「牧野(まきの)一真(いっしん)くん」

 最年少まで。そんな年齢でもいいなら。

 「岩木(いわき)淡路(あわじ)くん」

 「……っ」

 心臓が止まるかと思った。

 「岩木くん」

 「あ……、はい」

 ふらふらになりながら立ち上がる。まさか自分が選ばれるなんて。

 これでやっと医術に集中できる。彼はそう思った。


 兄妹の姿は、大きなお屋敷の前にあった。

 「大きい……ですね」

 「滝川先生が用意してくださった屋敷だよ」

 屋敷。その言葉にふさわしい、広い家。診療所と兼ねて、とのことだが、これは広すぎるのではないか。

 「長屋で十分でしたのに」

 ふるさとの家も、長屋ではなかったが、家族5人がつつましく暮らす小さな家だった。

 「ご厚意に甘えよう。診療所でもあるんだ。広いにこしたことはないからね」

 「すごい! 露、貴族のお姫様みたいです!」

 広々とした部屋で両手を広げてくるくると回る無邪気な妹に、

 「貴族のお姫様は、医術師にはなれませんよ」

 綾子はその横をすたすたと通り過ぎ、荷物の整理を始める。

 それに対し、露子はぷくっと頬を膨らませ、弦太郎はそんな妹の頭を撫でた。

 「お薬の製作所はどこにしますか?」

 荷解きをしながら露子が言う。

 「隣に蔵がありました。そこでいいでしょう」

 「また道具をそろえる必要があるね。最低限の家具もあるとはいえ、十分じゃないから」

 「医術の道具はともかく、家具は必要ありません。どこにそんなお金があるというのですか」

 兄妹の財布を握る綾子は、やっぱり厳しい。

 旅に必要な生活具はあるし、滝川はいくつかの家具を用意してくれた。新しく買う必要性は感じない。

 その時、ドンドンと、玄関の扉を荒々しく叩く音がした。

 「誰でしょう」

 まだ診療所として看板も出していない。患者が来ることなんてないのに。

 「出てくるよ」

 弦太郎が部屋を出て行く。が、露子はともかく、綾子はじっとしている性格ではない。

 「露、少し出てきます」

 「はーい」

 荷解きを妹に任せ、綾子も部屋を出た。

 玄関に通じる部屋に行き、少し兄を待ってみる。しかし、戻って来ない。

 「兄上、お客様ですか?」

 しかたなく玄関に出ていった。

 「綾殿、お久しぶりでございます!」

 伊藤を先頭にした、見覚えのある男たちだった。

 「これは伊藤様、本日はどういったご用件でしょう」

 「楠本殿に弟子入りに参りました」

 「あぁ……」

 滝川と話し合いをしていく中で、兄妹は本名を名乗った。そして、弦太郎に弟子入りするという形で、滝川の弟子の医術師たちを借りることになった。

 これは意外にも大人気のようで、技を覚えた者を下がらせて別の人間を送るということも考えたいと言われたのだが、それは綾子が断った。

 「兄上、お入りいただいては?」

 「そうだな。皆さん、どうぞ中へ。綾、お茶を淹れてくれるか」

 「はい」

 綾子が玄関から台所へ行く途中で露子に会う。

 「お客様ですか?」

 「兄上に弟子入りされる医術師の方々です。ご挨拶はあとにして、お茶の準備をしますよ」

 それを聞くと、露子はわかりやすく唇を尖らせた。

 「ご挨拶は、歓迎の証だって、父さまが仰っていました」

 「そうですよ」

 「だったら、露はご挨拶しません。歓迎していませんから」

 「そのような理屈はいりません」

 不満を垂れる妹をぴしゃりと諫め、お茶を準備して、露子と一緒に持っていく。

 「失礼いたします」

 座敷に入り、それぞれにお茶を出すと、

 「露、診療所を手伝ってくれる方たちだよ。ご挨拶できる?」

 と弦太郎が聞いてくる。

 「できません」

 「露」

 頑固な妹だ。

 「露、こちらに」

 拗ねてそっぽを向く露子を、綾子が呼びよせる。露子は姉の隣に座り、しがみつくように姉の着物の袖を握った。

 「申し訳ありません。この子はまだ子どもですので」

 綾子がそっと妹の頭を撫でながら、伊藤たちに軽く謝罪する。

 「いえいえ、とんでもない」

 彼らは微笑ましいと笑った。

 「弦太郎殿も台所に立たれるのですか?」

 夕方になり、ある程度の荷物の整理が終わると、兄妹は3人で台所に立った。それに医術師たちは驚く。

 「男女で役割を決めない。それが父の教えですから。綾や露も医術の場に立ちますし、家を回すのも手が空いている人がします」

 「父さまの医術を学ぶなら、これが基本ですよ! 皆さんも手伝ってください!」

 相変わらず彼らを認めない露子は、冷たく言い放つ。

 「露、押し付けてはいけないよ」

 「どうしてですか?父さまがいつもそう仰っていました」

 弦太郎になだめられた露子は、真っ直ぐな目で尋ねる。

 「父上のは、半分冗談みたいなものだから……」

 確かに父は、家事に積極的だった。そのせいもあって、弦太郎も家事をすることがある、というだけ。

 「露の言う通りです」

 綾子が鍋を見ながら静かに呟く。

 「しかし、今日は初日です。今日だけはかまいません。座敷でお待ちください」

 「姉さまは甘すぎます! いつも口うるさいのに」

 「父様の医術を学べるのは家族のみと言ったでしょう。彼らはまだ医術を学んでいません。本格的に勉強を始めるのは明日からですから」

 綾子も明日からは彼らに手伝わせる気らしい。この頑固な妹たちを止めることは、弦太郎でも難しい。

 「お露ちゃん、教えてくれる?」

 なんとなく空気を読んだらしい伊藤が、そばにいた露子の機嫌を取るように話しかける。

 一瞬嬉しそうに頬を綻ばせたくせに、

 「露はお露じゃありません。露子です」

 と顔をそむけた。

 「別に露でいいだろう。露子と呼んでいたのは母上だけだよ」

 「だめです。露を露と呼んでいいのは、父さまと母さまと、兄さまと姉さまだけです」

 変なところにこだわりがあるらしい。これくらいならいいかと、弦太郎も見逃すことにした。



 夜遅く。綾子は布団にもぐりこんできた妹を寝かしつけると、そっと布団を出て縁側に出た。

 襦袢(じゅばん)に着物を羽織っただけという薄着で、じっと空を見上げる。

 そんな妹に、弦太郎が歩み寄った。

 「綾」

 「どうされたのですか?」

 綾子は振り返ることなく、ただ兄の声に答える。

 「まだ寝ないのか?」

 「眠れないので、おまじないを」

 夜空をじっと見つめながら答える妹に、弦太郎は

 「いくつまで数えられた?」

 と聞いた。

 「今やっと100を越えました」

 綾子の答えに、弦太郎はふっと微笑む。

 「なるほど。それで、まだそのおまじないを続ける?」

 「……眠れなさそうなのでやめます」

 ようやく綾子が視線を逸らした。母に似た瑠璃色の瞳に、兄の姿が映る。

 「ちょうどよかった。薬を持ってきたんだ」

 「ありがとうございます」

 盆を手に持った兄に微笑み、綾子は縁側から室内へ入った。

 妹がそばに座ると、弦太郎は盆の上に置いていた注射器を持ち、妹の腕にそっと刺す。

 「痛くないか?」

 「痛いものですよ、注射は」

 薬が体内に入ると、綾子はそっと目を閉じる。

 「……ひと月ぶりですね」

 常用していた薬がなかったせいで、綾子はこのひと月、ほとんど眠れなかったのだろう。

 「旅の途中では使いたくないと言ったのは、綾だろう? しばらくは都に留まることになったんだ。今日はゆっくり休んで」

 妹の体を気遣った兄の言葉に、

 「そうします。兄上も、おやすみなさいませ」

 と綾子が答え、部屋に入っていった。その背中を、弦太郎は黙って見送った。